正一位稲荷大明神(東浦和五丁目)

IMGS4703s.jpg
 埼玉県道235号大間木蕨線と県道103号吉場安行東京線が合流する東浦和駅前交差点の南側に鎮座する正一位稲荷大明神(さいたま市緑区東浦和5-2-10)。
IMGS4709s_2017032421485140b.jpg
 「稲荷社天王様鳥居新築落成寄附金」芳名額が奉納されている。
IMGS4722s_20170324214850042.jpg
 末社。
 左の祠は名が記されていないので何神社なのかは不明。もしかしたら前述の芳名額に記されている天王宮がこちらであるのかも知れない。
 右側の小さな石塔は疱瘡神。
スポンサーサイト

大間木氷川神社(緑区東浦和五丁目)

IMGS4603s_20170324205505bcf.jpg
 JR武蔵野線東浦和駅の250m程北に鎮座する大間木氷川神社(さいたま市緑区東浦和5-20-2)。
IMGS4607s.jpg 
赤山街道
 所在地 浦和市大字大間木
 赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室。尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
 伊奈氏は、成和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
 三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
 現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。
 昭和五十八年三月

IMGS4614s_20170324205503048.jpg
 拝殿。
IMGS4633s_201703242055023b0.jpg
 少し斜めから。
IMGS4653s.jpg IMGS4650s_201703242055007c7.jpg
 狛犬。
DSCF8927s.jpg DSCF8926s.jpg 
浦和市指定有形文化財(建造物) 大間木氷川神社本殿 一棟
 指定年月日 昭和四十七年四月十九日
 この本殿は、「神社明細帳」には、寛文七年(一六六七)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成七年の修理の際、寛文七年二月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることができた。
 本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行二・五六メートル、梁間二・四五メートルの身舎に奥行一・九六メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁棰で、飛檐棰は先端に反り増しが見られる。
 平成五年七月、拝殿の火災で罹災し、大きく焼損したが、平成七・八年にかけて浦和の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。
 この本殿は、武蔵一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、極めて保存価値が高いと言える。
 平成八年十一月

氷川神社 御由緒
さいたま市緑区東浦和五-二〇-二
□ 御縁起(歴史)
 「風土記稿」大間木の項に、当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧・搗島等四か村の鎮守なり、搗島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王、疱瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許、智證大師の作と云、什物、笈一、亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云(以下略)」と記されている。
 往時別当であった三光院の末裔である仲田家には「風土記稿」にも挿絵の残る室町期の優れた漆工芸品である椿紋鎌倉堀笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧・修験者などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、「風土記稿」では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
 市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は「明細帳」によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
 なお、いつのころか稲荷社二社と石神井社を当社に合祀したという。
□ 御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)

IMGS4657s.jpg
 本殿。
 瑞垣でよく見えないが、さいたま市役所のサイトに掲載されている写真で全体を見ることができる。
IMGS4683s_20170324212503505.jpg IMGS4672s_20170324212502ac4.jpg
 末社群。
 本殿西側に大國主神・少彦那命、八幡皇大神、竈神、年神。
 本殿東側に菅原天神、宇賀神、疱瘡神、香取神・鹿嶋神。
IMGS4623s.jpg 
本殿復興の記
大間木氷川神社本殿は、武蔵一宮大宮氷川神社旧本殿を寛文七年(一六六七)に譲り受け建立したとされる優れた建築で、昭和四十七年に浦和市の文化財に指定された。以来、その保護につとめてきたが、平成五年七月七日、拝殿火災に際し焼損を受けた。しかし、復元可能との判断から、指定解除は免れ、浦和市、神社、氏子が力を合わせ不退転の決意で復興の道を歩むこととなり、平成七、八年度において浦和市の助成と指導を受け解体、復元の工事を進めた。
そして平成八年十一月二十六日見事に竣工、三百有余年前の姿がよみがえった。その際、寛文七年の棟札の発見もあり、文化財としての価値もさらに高まった。なお、本殿の保全と神域の威厳を保つため、引き続いて周辺の整備を行った。
ここに、この本殿が永遠に伝えられることを願い、その概要を記すものである。
大間木氷川神社再建委員会

IMGS4618s.jpg
 歌碑。
 この地域の方達が詠んだと思われる歌が五首刻まれている。
IMGS4698s_20170324213008d5f.jpg

健田神社跡地(結城)

IMGS4594s.jpg
 国道50号結城バイパス健田交差点の傍に位置する健田神社跡地(結城市結城)。
 延喜式内健田神社は現在は浦町の健田須賀神社に合祀されているが、明治三年まではこちらに鎮座していたのだろう。
 右奥には筑波山が見えており、結城筑波と呼ばれているのだそうだ。
IMGS4589s_201703232100257d4.jpg
 こちらも結城百選の一つ。
IMGS4587s_201703232100243bf.jpg
 延喜式内健田神社舊址の碑。
IMGS4572s.jpg

 以上で3月11日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは15,362歩。

雪光稲荷神社(結城)

IMGS4539s_201703232040068bd.jpg
 稲荷通りと国府町通りの交差する脇に鎮座する雪光稲荷神社(結城市結城562
 鳥居の柱には「平成二十三年十月吉日 氏子中」と刻まれている。
IMGS4545s_201703232040045c4.jpg
 拝殿。
IMGS4547s.jpg
『雪光稲荷神社由緒
御祭神 宇迦之御魂神(倉稲魂)
御由緒
正式の社名は稲荷神社。永正年間(一五〇四~一五二一)に稲作に蝗旱(害虫、日照り)の災いおこり近郷の農民驚嘆し孝顕寺住職に懇願する。稲荷大神を勧請、祈誓した甲斐あり収穫を得たり。
この明徳に感激し此の地に稲荷神社を創建したといわれる。明治までの神仏習合時、孝顕寺の境外仏として、いわゆる雪光稲荷と呼ばれ親しく祀られていた。その後神仏分離により無格社稲荷神社となり、戦後、神社本庁包括宗教法人稲荷神社となり、白銀町守り神の内、その一社として、町民十人に清掃輪番等を設け、手厚く崇敬されている。白銀町の町名に雪光稲荷に由来するものと思われる。
平成十七年春雪の暁、不審火により社殿焼失、その後町内氏子一丸となり茲に社殿を創建する。稲荷の大神は生命の根源を司る「いのち」の根の神として、商業、工業、農業の殖産興業神、人々の生活生命すべての守護神であり、広大無辺の御神徳を町内住民、忘れることなく子々孫々未来永劫に伝えるものである。
           撰文 稲荷神社 宮司 小貫隆嗣 謹撰』
IMGS4555s.jpg
 末社。
IMGS4564s_20170323204000b0e.jpg
 南側から。
IMGS4558s.jpg

健田須賀神社(結城)

IMGS4364s.jpg
 結城七社の内の一之宮とされる健田須賀神社(結城市結城195)。
 公式サイト有り。
 孝顕寺の次は雷稲荷神社の前にこちらにお参りするつもりだったのだが、丁度神前式をしていたので先に雷稲荷神社と釈迦堂にお参りしてからこちらへ。
IMGS4371s.jpg
『健田須賀神社
御祭神 武渟川別命 タケヌナカワワケノミコト
    須佐之男命 スサノオノミコト
健田須賀神社は明治三年(一八七〇)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられ我が国の最古公式記録集「延喜式」に勅撰され東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
須賀神社は牛頭天王ともいい、疫病を祓う神、須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により仁治三年(一二四二)に創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神として歴代の城主の崇敬篤く、七代直朝公が結城七社を定め、結城一〇八郷の総社として社地の寄進がありました。また当神社に伝わる古文書によると牛頭天王宮を中心とした中世都市結城の街を知る事ができます。結城家福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。
その後も連綿と市中氏子により結城の氏神、産土神として信仰され今日まで「心のふるさと」として祭祀され、夏季大祭は結城夏祭りとして、市中挙げての祭礼に大御輿が渡御され、氏子の健康、発展が祈願されます。厄除け、方位除け、健康を祈願する氏戸崇敬者は全国から訪れています。
御神徳
 家内安全 厄除 方位除 身体健全 交通安全 病気平癒 合格必勝
宝物
 結城家と当神社に係わる中世古文書(県指定文化財)
 獅子頭、木彫狛犬(市指定文化財)徳川歴代将軍朱印状
年間行事
 一月一日   歳旦祭  七月第三日曜日~第四日曜日 夏季大祭
 一月三日   元始祭
 二月三日   節分祭  七月三十一日  夏越祭
 二月十一日  紀元祭  十一月中    七五三成長祈願祭
 四月十五日 春季大祭  十一月十五日  例大祭(健田祭)
   (太々神楽奉納)  十二月三十一日 大祓式
 月次祭 毎月一日 十五日』
 そして当然結城百選の一つ。
IMGS4521s_201703231850048bb.jpg
 参道右手側に戦没者慰霊殿。
IMGS4513s.jpg
 二の鳥居。
IMGS4492s.jpg IMGS4497s_20170323185001d92.jpg
 狛犬。
IMGS4482s.jpg
 猿田彦大神。
IMGS4474s_20170323193652993.jpg
 拝殿。
DSCF8909s.jpg
『健田須賀神社
 健田須賀神社は、明治三(一八七〇)年に、健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
 健田神社は、古代より市内健田の地に建てられた延喜式内社で「日本書紀」において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
 須賀神社は、牛頭天王ともいい、疫病を払う神・須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により創建されたと伝えられ、歴代城主の崇敬篤く、七代直朝公が定めた結城七社では、中心的神社として社地等の寄進がありました。

県指定文化財
 健田須賀神社文書(古文書・室町時代)
 平成八年一月二五日指定
 この文書は、須賀神社に伝えられていたもので、鎌倉時代末から安土桃山時代まで、二巻・一九点あり、なかでも文和元(一三二五)年の「結城直光田地安堵状」は、旧結城郡内に現存する最古の文書です。また、文書の内容は、城下の商人の経済活動や結城氏の領地支配に関することまで含まれており、中世東国結城の神社や十人の様子を究明するうえで貴重な資料です。

市指定文化財
 狛犬 (彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五八センチメートル、吽形が高さ五四センチメートルで、江戸時代前期に奉納されたものと伝えられています。
 獅子頭(彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五四・四センチメートル、頭上に一本の角を有し、もう一方は高さ五〇センチメートルで、頭上に宝冠をいただいています。
平成一五年一一月』
IMGS4534s_20170323193652227.jpg
 神楽殿と県社昇格記念碑。
IMGS4453s.jpg
 十二社殿と甲子稲荷神社。
 十二社殿は左から香取神社、白峰神社、三峰神社、足尾神社、羽黒神社、大神宮、鷲神社、八幡神社、松尾神社、大桑神社、高椅神社、住吉神社。甲子稲荷神社には甲子大黒天と倉稲魂命が祀られている。
DSCF8895s.jpg
『十二社縁起
牛頭天王(浦町現須賀神社)住吉大明神(西の宮)
大桑大明神(小森村)高椅大明神(高橋村)
八幡宮(上簗村)大神宮(中河原村)鷲宮大明神(萱橋村)
この結城七社は結城家七代直朝が関城々主攻略の為北極星を中心にして回る北斗七星に願をかけ破軍星を求め七社に必勝を祈願した。その甲斐あって、関城を攻略し、康永二年(一三四三)七社制を定め篤く信仰し、社地の寄進、社殿の造営をおこなった。また同時にこの須賀神社に六社を合祀したともいわれている。
この七社をお参りすると願い事が叶えられると昔より
伝えられている。殊に七社から破軍星を求め、この破軍星を常に背負い勝負すると必勝が得られるという秘法である。
 他 香取神社(下総国一の宮)松尾神社(酒造の神)
   羽黒神社・三峯神社(火伏盗賊除の神)
   白峯神社(祭神 淳仁天皇・崇徳天皇)
   足尾神社(足腰の悪い方 健脚にご利益あり)
以上十二社を月ごとに十二か月参詣すると必ず霊験あり
 平成十二庚辰年十二月吉祥 撰文 宮司 小貫隆嗣
        社祠奉納 氏子総代  菊池孝一郎』
IMGS4459s.jpg
『須賀神社之由来
 結城朝光公が仁治三年(一二四二)六月十一日尾張ノ津島ヨリ祇園天王社(祭神・素戔嗚尊)ヲ結城本郷(結城市浦町)ニ遷座シテ祀ッタ「須賀神社」デ以後住民ノ氏神トシテ仰ギ・祇園祭ニ御神輿ノ渡御・阿吽ノ天狗ガ巡回スル神事ハ・全国ニモ珍シク・茲ニ俳句ト俳詩ヲ献詠』
IMGS4529s_20170323193649a92.jpg
 祭器具殿。
IMGS4450s_2017032319405844d.jpg
カレンダー
02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード