名草厳島神社

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 小さな川に沿って走る道を進んで行くと、やがて朱塗りの大鳥居が見えて来る。鳥居前には売店や駐車場があるので、そちらに車を置くことができる。こちらに来るのは二年ぶりくらいだろうか。
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 大鳥居の左側にも鳥居があり、その脇に石碑らしき物がある。
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 日光神社基本財産造・・・? よく判らないが、とりあえず日光神社があるようだ。
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 草茫々の階段を上ると、わりとすぐに木造の祠がある。幣束が一つしか無いのが気になるが、こちらが日光神社なのだろう。
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 大鳥居から歩いて程無く左側に標識が。ここから左に歩いて行けば行道山浄因寺まで8.3km、まっすぐ進めば巨石群まで0.2km。たかが200m、されど200m。運動不足の身にはその200mですら結構しんどいのだ。
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 巨石群の案内板があるが、巨石群自体はまだまだ先。
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 弁慶の割り石。
 はてさて、どこから弁慶の名前が出て来たのやら。
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『足利七福神 弁財天 名草弁天
 名草弁天は、弘仁年間(810-824年)空海上人(後の弘法大師)が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりと伝えられている。白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た大師は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し、前に祠を建てられたという。元禄六年(1693年)金蔵院住職が、領地検分の家老に、弁財天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石上に石宮を建立したのが本宮である。明治の神仏分離令により厳島神社となった。天然記念物名草の巨石に鎮座し、多くの参拝者が訪れる』
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 二の鳥居。
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 御供石。
『胎内くぐり
 このお供石の下に洞穴があります。この洞穴をくぐり抜ける事を胎内くぐりと言います。そして胎内くぐりを致しますと、子供の無い方は子宝にめぐまれ、妊娠している方は、お産がたいへん軽くすむと言われております。どうぞお参りの後で胎内くぐりをして下さい』
 お参りの後で胎内くぐりをして下さい、と。だが断る。先にくぐる。
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 狭いヨー。
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 大きな石の上に厳島社。
 身を屈めながら胎内くぐりを抜けると、左の石灯篭の辺りに出て来る。
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 拝殿右側の石の上にも石祠が見える。
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 拝殿前から御供石の上へ橋が架けられている。距離は短いが高さはあるのでなかなかスリリング。
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 御供石から更に奥へ。
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 巨石群に到着。
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『名草の厳島神社境内からその奥にかけての一帯に花崗岩の巨大奇岩礫が並んでいます。
 花崗岩は非常に大きな固まりであったが、節理(割れやすい石)に沿って風化し、水に洗われてついにいくつかの大きい石の累積となって残りました。
 名草の巨石群は粗粒の花崗岩特有の風化状態を示す代表的なものとして昭和十四年に国の天然記念物に指定されました』
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 大きな石が並び、その上に鎮座しているのが名草弁天の本宮。
 滑り落ちそうにも見えるが、そんなことも無いのだろう。
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 さぁ、帰ろう。

名草阿夫利神社

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 218号名草小俣線を名草上町方面へと北上して行くと、やがて右手側に名草巨石群の看板が見えて来るのでそこを右折。するとすぐ右側にあるのがこの阿夫利神社。石尊山からは少々離れているが、そちらとは関係無く、単に山の神様としてお祀りしているだけなのかも。それにしては、随分と変な所にあるが。
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 『奉納阿夫利神社 旹明治廿八乙未年八月吉日』
 とあるが、明治二十八年と言うと1895年。日清戦争の最中だ。
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 幣束はさほど汚れてもおらず、意外と新しそうだ。今でもきちんとお祀りされているということだろう。

金蔵院

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 名草中町にある名龍山金蔵院観音寺。
 かつて名草厳島神社にあった弁才天像がこちらに安置されていると聞いていたので、以前からこちらには興味を持っていたのだが、文化財一斉公開で五大明王像も公開されているということなので、これは良い機会と思って行ってみた。・・・が、山門前で渡された資料を見ると、弁才天像は10月24日から12月13日まで足利市立美術館に出展されていて、現在はこちらに無い模様○刀乙
 また、資料によるとこの山門は長屋門と呼ばれる形式の門で、江戸時代に建立されたとのこと。その後昭和十一年(1936)に屋根を瓦葺、土間をコンクリートに改修し、昭和四十一年(1966)に西へ5m曳き屋され、平成十七年(2005)に瓦の葺き替えと外板の張替えを行ったとのこと。
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 山門前には八坂神社。
 石祠の額には牛頭天王とあるが、こちらは末社だろうか?
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 山門をくぐってすぐ右手側に五輪塔や庚申塔、六地蔵、日限地蔵などが並んでいる。五輪塔と庚申塔はどちらも市の重要文化財に指定されている。
『足利市重要文化財(考古資料)
 南宗氏の五輪塔 一基
 空・風輪が一石で火輪は比較的小形で軒反りがつよく、水輪は上下から圧し、すこしつぶれたような形状に四仏の種字を刻み、地輪には左記の銘を陰刻します。
  永興寺殿法名性雨
  永和元年十二月二十三日
 この塔は、 南宗氏(宗継の直孫)の墓塔であり保存もよく、反花座の上に建てた五輪塔で永和元年(1375)銘を有する優品である。
  昭和五十八年二月二十三日 指定』
『足利市重要文化財(民俗文化財)
 金蔵院の庚申塔 二基
 江戸時代
 左側の塔は、光背型の塔で中央に青面金剛像が邪魅を踏まえ立ち、邪魅の下には雲を配して下から像を支えるが如く三猿が並び彫刻が重厚である。塔には次の紀年銘がある。「奉造立庚申供養二世安楽 宝永四(一、七○七年)丁亥九月吉日」
 右側の塔は、笠塔婆形の塔で笠の前面は唐破風になっており、三つの花式の懸魚がついている。塔は角柱で上部が僅かに丸味を呈する。塔身の前面に日月、青面金剛、邪魅、童子二体、三猿、夜叉四体が刻されている。塔には次の紀年銘がある。「千元禄第十(一、六九七年)丁戌天十月吉祥日」
  昭和五十八年二月二十三日 指定』

 ちなみに南宗継とは高氏の一族で、足利尊氏に仕えて侍所頭人、三河国守護、備中国守護などの職につき、高師直亡き後は尊氏の執事として活躍した人物であるという。また、名草で生姜作りを始めた人物でもあるらしい。が、宗氏についてはこれと言った事跡は無いようだ。
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 本堂。
 資料によると、金蔵院はおよそ600年前の永享元年(1429年)に真言宗醍醐寺の俊海法印によって開山され、境内は南遠江守宗継の居館跡であるという。また、江戸時代は南宝寺・宝珠院・金剛院・実相院・不動院・能満寺・千蔵院・成就院・神宮寺を末寺とする中本寺であり、名草弁才天の別当寺でもあったそうだ。明治に入ってからは神仏判然令により名草弁才天は支配下より離れ、明治二十八年(1895年)には真言宗醍醐寺末から真言宗豊山派長谷寺末に変わったとも書かれている。
 御本尊は聖観世音菩薩であるとのこと。
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 本堂に入ってすぐ正面。奥には観音様が。
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 入って左側の窓には仏像の写真が貼られていた。
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 左は金剛夜叉明王像。17世紀前半の作と思われ、像高は40.6cm。
 右は大威徳明王像。こちらも17世紀前半の作と思われ、像高は34cm。
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 こちらは中央に不動明王像。左右に制多迦童子像と矜羯羅童子像。
 両童子は江戸時代のもので、像高は14cm。不動明王だけは江戸時代以前の作であるらしい。像高は23.5cmで、岩座も含めた総高は56cm。不動明王と言うと座っているイメージがあるが、こちらは立像。
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 左は降三世明王像。17世紀前半の作と見られ、像高は40.7cm。
 右は軍荼利明王像。こちらも17世紀前半の作と見られ、像高は40.5cm。
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 その他の展示物。板碑。縦46cm、横19.5cm。
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 如来像。像高16.5cm、総高22.7cm。逆光になって如来像が真っ黒に。レフ板の代わりになるような物を用意しておけば良かったか○刀乙
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 地蔵菩薩像。江戸時代の作、像高20.2cm、総高31.1cm。
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 不動明王像。江戸時代末期の作、像高は22.8cm、総高41.9cm。
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 十一面観音菩薩像。江戸時代末期の作、像高は23.9cm、総高43.5cm。これまた逆光で(以下略)
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 誕生仏像。幕末から近代にかけての作、像高12.6cm、総高16.4cm。幼稚園の頃に花祭りで仏様に甘茶をかけたような記憶がちらほらと。
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 地蔵菩薩像。江戸時代末期の作、像高30.5cm、総高40.7cm。左の輪はチャクラムかと思ったら、軸が破損して取り付けられなくなった光背だった。
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 毘沙門天像。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。像高26cm。
 太田甚左衛門尉藤原秀次の作った唯一の仏像で、貴重なものであることから、こちらは市指定文化財に登録されているそうだ。
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 半鐘。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。口径30.7cm、鐘身38cm。戦争中に供出されたが、昭和三十九年(1964年)に戻って来たとのこと。
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 西本堂。
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 西本堂内にも仏像が並んでいる。
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 左上は勝軍地蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高37.5cm、総高74cm。
 左下は興教大師像。こちらも江戸時代のもので、像高は21cm。
 右上は虚空蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高53.7cm。
 右下は弘法大師像。江戸時代のもので、像高22.3cm。
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 左から十一面観音像、大日如来像、薬師如来像。いずれも江戸時代のもので、十一面観音像が像高40.2cm、総高57cm、薬師如来像が像高20.4cm、総高57cm。大日如来はプレートを撮影するのを忘れていたので、像高・総高とも判らない。
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 左は地蔵菩薩像。像高27cm、総高51cm。右は弁才天像。像高20cm。どちらも江戸時代の作。
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 西本堂裏に地蔵菩薩像。
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 弁才天堂。
『江戸中期、元禄六年(1693年)、時の領主本庄因幡守が、家老猪俣・丸山両名を領地検分のために名草に派遣した折、弁才天の別当を勤めていた当院第十三世範宜が、弁才天宮の再建を願い出て、金三両を下付され、石宮を建立しました。これが国指定天然記念物「お船石」の上に現存する弁才天の本宮です。
 その後、正徳三年(1713年)弁才天大祭の年、当院と名草中町南宝寺が願主となり、新たに弁才天の尊像を造立し、別当寺であ当院にお祀りし、祭典の際には、入山の拝殿まで運び、祭礼を行っていました。この尊像は、現在も当院の弁才天堂(昭和四十七年建立、第二十五代教詮代)にお祀りされています。また入山の拝殿も、享保十二年(1727年)に、当院第十三世範宜が願主となり建立(昭和四十年に改築)しています。
 明治維新(1868年)の神仏分離により、入山弁才天は厳島神社となり当院の支配を離れました。
 平成元年、名草入山の厳島神社は、新たに弁才天像を造立しました。』
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『足利市重要文化財(工芸品)
 金蔵院梵鐘 一口
 銅造 総高一メートル二十一センチ 江戸時代
 乳の間に金剛界、撞座に胎蔵界の五仏の種子、池の間の四面に金剛頂経の一説である百字の梵字を陽刻し、一面に鐘銘を記す。これは真言宗の教義を巧みに折り込んだ構図である。また駒の爪には寄進者名等を陰刻する。
 享保十年(1725)、法印範宜の代、五十名余の浄財を得て佐野天明の治工太田甚左衛門尉によって作られたものである。形姿、作技ともよく、銘も貴重で、江戸時代梵鐘の名品である。太平洋戦争中も供出を免れ、いまも鐘楼にかかる。保存状態も良好である。
  昭和五十八年二月二十三日 指定』

 境内案内図によれば本堂の西側に鎧地蔵尊石宮があるのだが、こちらの鎧地蔵尊(勝軍地蔵)像も現在足利市立美術館にて展示とのこと。

緑町配水場水道山記念館

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 足利市の文化財一斉公開に伴い、こちらも公開されていたので立ち寄ってみた。緑町配水場は普段は閉鎖されて立入禁止になっている上に、他の文化財公開が21日〜23日の三日間であるのに対して22日だけと極めて短い期間なので、なかなかレアな感じだ。そう言えば、ハリストス正教会の文化財公開も今日一日のみだったっけ。
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 元は事務室だったが、現在はたまに会議室として使われるか、或いはドラマの撮影に使われることがあるくらいだそうだ。今週末にも撮影があると案内してくれた方が言っていたが、はて、なんの撮影なのだろう。
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 大きな改修などはできない為、廊下の電燈一つにしてもふさわしい物を探さなければならないので大変だ、とのこと。
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 こちらの部屋は、昭和九年に昭和天皇が巡幸された折にお使いになられた部屋なのだそうだ。
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 敷地は広く、散歩するには丁度良い感じなだけに、普段は閉鎖されているのが少し惜しいかも。
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 案内係の方に、配水場裏の神社について訊いてみたのだが、そちらについては存在すら知らないようだった。

足利ハリストス正教会

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 神社ではないけれど、キリスト教の神も日本に入れば八百万の神々の一柱…とか言うとキリスト教徒から怒られるのかなぁ。英語圏では日本の神々はKamiであってGodではないそうだし。
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『足利ハリストス正教会は、キリスト教の中で最古の歴史をもつ正教(東方正教会)の教会である。東方正教会は初代教会からの伝統、祈祷、教義を忠実に継承し、発祥地エルサレムを含む中近東、バルカン半島地域、スラブ諸国を中心に全世界で二億四千万人程の信徒を擁する。日本には、ロシアの修道士聖ニコライによって1861年に初めて伝えられた。
 足利における正教の信仰は、明治11年に始まる。現聖堂は昭和58年に成聖され、同年の「足利市建築文化賞」を受賞。「イリナ山下りん」作になる11枚の聖像画は、市の重要文化財に指定されている。
 ※ハリストス=キリストのギリシャ語発音』
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『足利市重要文化財(絵画)
 聖画像  十一枚
 足利ハリストス正教会は、山下りんの描くイコン(聖画像)によって飾られている。安政四年笠間に生まれた山下りんは明治十年、工部美術学校に入学、やがてペテルブルグにイコン修行のため留学し、帰国後もイコンの製作を続けた。イコンは「聖三位一体」図の大作を中心にすべてビザンチン様式のなかに西欧風を加味した美しい画面となっている。
 昭和五十八年十二月二十一日 指定』
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 聖堂の中に入ると啓蒙所となっており、手前に並ぶ三つのイコン(聖像画)は左からテオトコス(生神女)マリア」、主の升天、イイスス・ハリストス。
 その奥に至聖所があり、イコノスタシス(聖障)によって区切られている。聖三位一体図は至聖所に飾られているのだが、そこに入ることを許されているのは聖職者とその補助者だけである為、拝観はできなかった。なお、女性は聖職者であっても入ることは許されていないそうだ。
 イコノスタシスにもイコンが飾られているが、左から神使首ガウリイル(大天使ガブリエル)、神の母マリアと幼子のイイスス、機密制定の晩餐(最後の晩餐)、審判者イイスス・ハリストス、神使首ミハイル(大天使ミカエル)。
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 イコノスタシスの中央は天門と呼ばれ、天国の門を象っているのだそうだ。
 左上:福音記者イオアン(ヨハネ)  右上:福音記者マトフェイ(マタイ)
 中段:生神女福音(受胎告知)
 左下:福音記者ルカ          右下:福音記者マルコ
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 聖ゲオルギウスと聖ニコラオス。
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 その他の壁に掛けられたイコン。
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