
名草中町にある名龍山金蔵院観音寺。
かつて名草厳島神社にあった弁才天像がこちらに安置されていると聞いていたので、以前からこちらには興味を持っていたのだが、文化財一斉公開で五大明王像も公開されているということなので、これは良い機会と思って行ってみた。・・・が、山門前で渡された資料を見ると、弁才天像は10月24日から12月13日まで足利市立美術館に出展されていて、現在はこちらに無い模様○刀乙
また、資料によるとこの山門は長屋門と呼ばれる形式の門で、江戸時代に建立されたとのこと。その後昭和十一年(1936)に屋根を瓦葺、土間をコンクリートに改修し、昭和四十一年(1966)に西へ5m曳き屋され、平成十七年(2005)に瓦の葺き替えと外板の張替えを行ったとのこと。


山門前には八坂神社。
石祠の額には牛頭天王とあるが、こちらは末社だろうか?

山門をくぐってすぐ右手側に五輪塔や庚申塔、六地蔵、日限地蔵などが並んでいる。五輪塔と庚申塔はどちらも市の重要文化財に指定されている。
『足利市重要文化財(考古資料)
南宗氏の五輪塔 一基
空・風輪が一石で火輪は比較的小形で軒反りがつよく、水輪は上下から圧し、すこしつぶれたような形状に四仏の種字を刻み、地輪には左記の銘を陰刻します。
永興寺殿法名性雨
永和元年十二月二十三日
この塔は、 南宗氏(宗継の直孫)の墓塔であり保存もよく、反花座の上に建てた五輪塔で永和元年(1375)銘を有する優品である。
昭和五十八年二月二十三日 指定』
『足利市重要文化財(民俗文化財)
金蔵院の庚申塔 二基
江戸時代
左側の塔は、光背型の塔で中央に青面金剛像が邪魅を踏まえ立ち、邪魅の下には雲を配して下から像を支えるが如く三猿が並び彫刻が重厚である。塔には次の紀年銘がある。「奉造立庚申供養二世安楽 宝永四(一、七○七年)丁亥九月吉日」
右側の塔は、笠塔婆形の塔で笠の前面は唐破風になっており、三つの花式の懸魚がついている。塔は角柱で上部が僅かに丸味を呈する。塔身の前面に日月、青面金剛、邪魅、童子二体、三猿、夜叉四体が刻されている。塔には次の紀年銘がある。「千元禄第十(一、六九七年)丁戌天十月吉祥日」
昭和五十八年二月二十三日 指定』
ちなみに南宗継とは高氏の一族で、足利尊氏に仕えて侍所頭人、三河国守護、備中国守護などの職につき、高師直亡き後は尊氏の執事として活躍した人物であるという。また、名草で生姜作りを始めた人物でもあるらしい。が、宗氏についてはこれと言った事跡は無いようだ。

本堂。
資料によると、金蔵院はおよそ600年前の永享元年(1429年)に真言宗醍醐寺の俊海法印によって開山され、境内は南遠江守宗継の居館跡であるという。また、江戸時代は南宝寺・宝珠院・金剛院・実相院・不動院・能満寺・千蔵院・成就院・神宮寺を末寺とする中本寺であり、名草弁才天の別当寺でもあったそうだ。明治に入ってからは神仏判然令により名草弁才天は支配下より離れ、明治二十八年(1895年)には真言宗醍醐寺末から真言宗豊山派長谷寺末に変わったとも書かれている。
御本尊は聖観世音菩薩であるとのこと。

本堂に入ってすぐ正面。奥には観音様が。

入って左側の窓には仏像の写真が貼られていた。



左は金剛夜叉明王像。17世紀前半の作と思われ、像高は40.6cm。
右は大威徳明王像。こちらも17世紀前半の作と思われ、像高は34cm。


こちらは中央に不動明王像。左右に制多迦童子像と矜羯羅童子像。
両童子は江戸時代のもので、像高は14cm。不動明王だけは江戸時代以前の作であるらしい。像高は23.5cmで、岩座も含めた総高は56cm。不動明王と言うと座っているイメージがあるが、こちらは立像。



左は降三世明王像。17世紀前半の作と見られ、像高は40.7cm。
右は軍荼利明王像。こちらも17世紀前半の作と見られ、像高は40.5cm。

その他の展示物。板碑。縦46cm、横19.5cm。

如来像。像高16.5cm、総高22.7cm。逆光になって如来像が真っ黒に。レフ板の代わりになるような物を用意しておけば良かったか○刀乙

地蔵菩薩像。江戸時代の作、像高20.2cm、総高31.1cm。

不動明王像。江戸時代末期の作、像高は22.8cm、総高41.9cm。

十一面観音菩薩像。江戸時代末期の作、像高は23.9cm、総高43.5cm。これまた逆光で(以下略)

誕生仏像。幕末から近代にかけての作、像高12.6cm、総高16.4cm。幼稚園の頃に花祭りで仏様に甘茶をかけたような記憶がちらほらと。

地蔵菩薩像。江戸時代末期の作、像高30.5cm、総高40.7cm。左の輪はチャクラムかと思ったら、軸が破損して取り付けられなくなった光背だった。

毘沙門天像。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。像高26cm。
太田甚左衛門尉藤原秀次の作った唯一の仏像で、貴重なものであることから、こちらは市指定文化財に登録されているそうだ。

半鐘。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。口径30.7cm、鐘身38cm。戦争中に供出されたが、昭和三十九年(1964年)に戻って来たとのこと。

西本堂。

西本堂内にも仏像が並んでいる。


左上は勝軍地蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高37.5cm、総高74cm。
左下は興教大師像。こちらも江戸時代のもので、像高は21cm。
右上は虚空蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高53.7cm。
右下は弘法大師像。江戸時代のもので、像高22.3cm。

左から十一面観音像、大日如来像、薬師如来像。いずれも江戸時代のもので、十一面観音像が像高40.2cm、総高57cm、薬師如来像が像高20.4cm、総高57cm。大日如来はプレートを撮影するのを忘れていたので、像高・総高とも判らない。

左は地蔵菩薩像。像高27cm、総高51cm。右は弁才天像。像高20cm。どちらも江戸時代の作。

西本堂裏に地蔵菩薩像。

弁才天堂。
『江戸中期、元禄六年(1693年)、時の領主本庄因幡守が、家老猪俣・丸山両名を領地検分のために名草に派遣した折、弁才天の別当を勤めていた当院第十三世範宜が、弁才天宮の再建を願い出て、金三両を下付され、石宮を建立しました。これが国指定天然記念物「お船石」の上に現存する弁才天の本宮です。
その後、正徳三年(1713年)弁才天大祭の年、当院と名草中町南宝寺が願主となり、新たに弁才天の尊像を造立し、別当寺であ当院にお祀りし、祭典の際には、入山の拝殿まで運び、祭礼を行っていました。この尊像は、現在も当院の弁才天堂(昭和四十七年建立、第二十五代教詮代)にお祀りされています。また入山の拝殿も、享保十二年(1727年)に、当院第十三世範宜が願主となり建立(昭和四十年に改築)しています。
明治維新(1868年)の神仏分離により、入山弁才天は厳島神社となり当院の支配を離れました。
平成元年、名草入山の厳島神社は、新たに弁才天像を造立しました。』

『足利市重要文化財(工芸品)
金蔵院梵鐘 一口
銅造 総高一メートル二十一センチ 江戸時代
乳の間に金剛界、撞座に胎蔵界の五仏の種子、池の間の四面に金剛頂経の一説である百字の梵字を陽刻し、一面に鐘銘を記す。これは真言宗の教義を巧みに折り込んだ構図である。また駒の爪には寄進者名等を陰刻する。
享保十年(1725)、法印範宜の代、五十名余の浄財を得て佐野天明の治工太田甚左衛門尉によって作られたものである。形姿、作技ともよく、銘も貴重で、江戸時代梵鐘の名品である。太平洋戦争中も供出を免れ、いまも鐘楼にかかる。保存状態も良好である。
昭和五十八年二月二十三日 指定』
境内案内図によれば本堂の西側に鎧地蔵尊石宮があるのだが、こちらの鎧地蔵尊(勝軍地蔵)像も現在足利市立美術館にて展示とのこと。