藤本観音山古墳(藤本町)

県道38号足利千代田線藤本町交差点の200m程西、田圃の中にでんと聳える藤本観音山古墳(足利市藤本町)。
十二年半前は古墳の南側に民家が二軒あったのだが、現在は無くなっている。

古墳南側の階段登り口。


国指定史跡 藤本観音山古墳
藤本観音山古墳は、かつて下野国と上野国との境をなしていた矢場川右岸の標高約三〇メートルの平地にあります。発掘調査は昭和五十九年度に第一次発掘調査が行われ、平成十五年度までに七次にわたり実施されました。その結果、藤本観音山古墳は、前方部を西に向け、主軸をほぼ東西方向にとり全長一一七.八メートルの前方後円墳であることが確認されました。周溝は幅が広く浅いことが特徴で、平面形は長方形を基調としながらも、縁辺部は不整形で、特に前方部南西側は極端に狭まります。古墳は、墳丘下の旧表土中から、四世紀初頭に浅間山の噴火により降下した浅間C軽石が検出されていることや、出土遺物などから、四世紀中頃の築造と推定されます、周溝が狭まる部分の外側には、南北約一〇〇メートル、東西約七〇メートルの範囲で、古墳と同時期の竪穴建物二十一軒と土坑三基などが確認されています。時期や立地条件などから古墳築造の際の飯場や古墳祭祀などの場と推定されます。
指定年月日
平成十八年七月二十八日
公益財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会
平成二十九年三月三十日
案内板も以前の物とは変わっている。以前は足利市指定史跡だったが平成十八年に国指定史跡になったためか。あれ、でも前回こちらに来たのは平成二十年だったからその時にはもう国指定史跡になっていたのか。藤本観音山古墳は、かつて下野国と上野国との境をなしていた矢場川右岸の標高約三〇メートルの平地にあります。発掘調査は昭和五十九年度に第一次発掘調査が行われ、平成十五年度までに七次にわたり実施されました。その結果、藤本観音山古墳は、前方部を西に向け、主軸をほぼ東西方向にとり全長一一七.八メートルの前方後円墳であることが確認されました。周溝は幅が広く浅いことが特徴で、平面形は長方形を基調としながらも、縁辺部は不整形で、特に前方部南西側は極端に狭まります。古墳は、墳丘下の旧表土中から、四世紀初頭に浅間山の噴火により降下した浅間C軽石が検出されていることや、出土遺物などから、四世紀中頃の築造と推定されます、周溝が狭まる部分の外側には、南北約一〇〇メートル、東西約七〇メートルの範囲で、古墳と同時期の竪穴建物二十一軒と土坑三基などが確認されています。時期や立地条件などから古墳築造の際の飯場や古墳祭祀などの場と推定されます。
指定年月日
平成十八年七月二十八日
公益財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会
平成二十九年三月三十日
ちなみに以前の案内文は以下の通り。
史跡 藤本観音山古墳
藤本観音山古墳は、足利市の南端地域を流れる矢場川の南岸台地上にある全長約一一六メートルの前方後円墳で、前方部を北西方向の平野部へ向けている。
指定範囲は総面積五六八八平方メートルで、後方丘の高さ約十メートル、前方丘の高さは四・五メートルで、周湟も前方部は狭い様相を示している。
昭和五十九・六十年度にかけて足利市教育委員会が調査主体となり範囲確認調査が行われた。この調査によって周湟も含めた全長は二一〇・五メートルに及ぶことが確認された。
後方丘の頂部には竪穴系の埋葬施設の所在が想定され茸石や古式土師器等も検出された。
この古墳の築造年代は四世紀代と考えられ、当地方における最大級の首長墳である。
(昭和三十九年七月二十五日 足利市指定)
平成二年十二月十五日
財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会
藤本観音山古墳は、足利市の南端地域を流れる矢場川の南岸台地上にある全長約一一六メートルの前方後円墳で、前方部を北西方向の平野部へ向けている。
指定範囲は総面積五六八八平方メートルで、後方丘の高さ約十メートル、前方丘の高さは四・五メートルで、周湟も前方部は狭い様相を示している。
昭和五十九・六十年度にかけて足利市教育委員会が調査主体となり範囲確認調査が行われた。この調査によって周湟も含めた全長は二一〇・五メートルに及ぶことが確認された。
後方丘の頂部には竪穴系の埋葬施設の所在が想定され茸石や古式土師器等も検出された。
この古墳の築造年代は四世紀代と考えられ、当地方における最大級の首長墳である。
(昭和三十九年七月二十五日 足利市指定)
平成二年十二月十五日
財団法人 足利市民文化財団
足利市教育委員会


空撮画像と出土遺物。


階段左手側に不動明王と五輪塔かなこれ。
不動明王の側面には「文政四巳年七月吉日」と刻まれているので1821年の造立。

階段を上った先には三基の石祠がある。

左の石祠には「小天狗」、中央の石祠には「石尊宮」、右の石祠には「大天狗」と刻まれているが、右の石祠だけ胴部が上下逆になっていた。


後円部墳頂。


ここにも「足利百名山」のプレートが。

古墳北西側から。
前方部は多少開けた部分はあるもののほぼ木と草に覆われており、祠などは無かった。
以上で4月10日参拝分終了。
使用機材はX-T100にXC15-45mm。
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