芳林寺(岩槻区本町一丁目)

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 岩槻駅の200m程南側に位置する曹洞宗太平山芳林寺(さいたま市岩槻区本町1-7-10)。
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 山門。
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 台湾産っぽい獅子。
 台座には以下のことが刻まれている。
     三十三回忌
   勝徳院浄雲保善居士
   宝泉院二雲慈光大姉
    施主 勝田 修
         葉子
    平成五年十月吉日
     寒山寺性空書
 ググってみると寒山寺性空なる人は中国江蘇省蘇州市にある臨済宗寒山寺の住職であるようだが、そうするとこの獅子は台湾産ではなく蘇州から運ばれたものなのだろうか。
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 実は芳林寺に来るのはこの日二度目。
 一度目は八雲神社にお参りする前にこちらに立ち寄っていたのだが、門が閉じており入れなかったので、時間が早すぎたのかと思い一旦スルーしてこの日最後にもう一度来てみたのだが、やはり門が閉じられていて入れない。さてどうしたものかと思っていたら、脇の引戸から出て来る方々がいたので、あぁそっちかと。
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曹洞宗 太平山 芳林寺 由緒
 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(一四八六年)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正十七年(一五二〇年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(一五六七年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(一五九〇年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(一五九九年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を歴てまたも文化八年(一八一一年)二月二十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(一八四一年)五月再建したものといわれる。
 明治四年(一八七一年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
 昭和五十三年十月
 平成二十年八月盂蘭盆再建

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 道標。
 北面に「京 三条大橋百四十二里」、東面に「白鶴城本丸半里」、南面に「江戸日本橋九里」と刻まれており、西面には何も刻まれていない。
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 本堂。
 手前の看板には「東日本大震災による芳林寺本堂復興補強工事」と書かれた完成予定図が設置されてる。
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埼玉県庁が最初に設置された芳林寺
 明治四年(一八七一年)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
 当時の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
 その当時の逸話が、北條清一氏の著書に記されています。
   「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
 廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
 明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信児玉親廣などという人材が県吏に採用された。
 当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いにして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
 藩士で家老格の家柄──名前は憚るが剣道の達者な男があった。旧幕時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県の後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当精力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
『武州このごろ記』 北條清一著      日本公論社   昭和十年七月刊

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 白山堂と寶聚稲荷大明神。
 寶聚稲荷大明神の鳥居には表側に「志納金百三十万円也 賛京建設株式会社 代表取締役会長 勝田修」「賛京建設株式会社 代表取締役社長 勝田充彦」、裏側に「平成二十年八月吉祥日 當山三十二世 道龍裕幸叟代」と刻まれている。
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 白山堂の標石には金刀比羅大権現、白山大権現、三峯大権現と刻まれているので、この三神が合祀されているのだろう。
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 太田氏資公像と地蔵堂位牌堂。
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 弁天堂。
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 芳林妙春禅尼像。
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 太田道灌公鷹狩之像。
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 不動堂。
 朝に来た時は門が閉じていたので入れないと思っていたのだが、もしかしたらこちらも入れたのかも知れない。昼過ぎに再び来た時には、今度は門に布団が掛けられていたので入れなかった。変わった所で布団を干すものだなぁ。
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 太田道灌公騎馬武者像。
 案内板によると、東京都葛飾区柴又在住の彫刻家である冨田憲二氏と山本明良氏の両名によって作られたものであるのだそうだ。
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 以上で4月2日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,694歩。
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三峯神社(岩槻区本町四丁目)

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 埼玉県道324号蒲生岩槻線を挟んで日蓮宗大法山眞浄寺の向かい側に鎮座する三峯神社(さいたま市岩槻区本町4-9)。
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 靖国鳥居。
 柱には「御大典紀念」「昭和三年十一月吉日」と刻まれている。
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 拝殿のような覆屋のような。
 先の秋葉神社は覆屋の上に本殿の屋根が出ている覆っていない覆屋であったが、こちらは本殿の屋根に部分的に被せるようにして繋げている。こう言うのは何と呼ぶのだろう。
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 斜めから。
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 本殿。

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 三峯神社北西の交差点傍にて見かけた祠。
 ここにあったなにかが取り壊された後も祠だけが残されていると言った様子だが、なんだろうね。ストリートビューを見ると半年前もこんな感じではあるが。
 そしてマップを見ていたら近くに新町自治会館があることに気付き、結構こう言う所に小さい神社があったりするんだよなとか思いストリートビューを見てみたら、本当に神社があった……オーゥ○刀乙。ぐぬぬ、事前に気付いていればお参りして行けたのになぁ。まぁ、また後でこちらの方に行った時にでもお参りしてこようか。

学蔵寺(岩槻区本町四丁目)

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 日蓮宗恵光山学蔵寺(さいたま市岩槻区本町4-8)。
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 七面大明神。
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 稲荷大明神と浄行菩薩。
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 本堂。

秋葉神社(岩槻区仲町一丁目)

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 曹洞宗慈眼山千手院の東側に鎮座する秋葉神社(さいたま市岩槻区仲町1-1-12)。
 鳥居の柱には「大正拾壹年七月吉日」と刻まれている。
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 文政十三年(1830)九月十四日造立の石燈籠。
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秋葉神社 御由緒
 さいたま市岩槻区仲町一-一-一七
□ 御縁起(歴史)
 当社は江戸時代、秋葉社と称し、杉並町に鎮座され杉並町、各町等の秋葉講を主体に永井家家中等の助力に由り、正徳元年(一七一一)~享保十二年(一七二七)に遠江国周智郡犬居(現・静岡県浜松市春野町)の秋葉寺から火防鎮護の神、秋葉三尺坊大権現を祀り創建されました。
 秋葉信仰の発祥は永禄十二年(一五六八)頃、家康と信玄との関係悪化により上杉謙信と好を結ぶ過程で謙信配下、越後長岡の蔵王堂三尺坊院主周国を連れ帰った。信濃の戸隠宝光院出自で飯縄信仰を堅持していた周国は遠州秋葉山にて死後、飯縄権現が三尺坊として信仰の対象となりました。貞享二年(一六八五)四月十八日、貞享秋葉祭の村送りを機に東西に広く伝わり貞享二年十一月に幕府より新規祭礼の禁止令が出されましたが、全国に爆発的に広まり最盛時には秋葉社は二万七千社を数えたと言います。
 江戸時代は隣の千手院が別当を勤め祭礼等、管轄されていました。慶応四年(一八六八)三月十三日神仏判然令等の太政官布告により当社祭神秋葉三尺坊大権現は廃止され浄火の神・火産霊命(火之迦具土神)と水の神・河菜姫命の兄弟神に替えられ社名も秋葉神社となりました。昔の秋葉寺は明治六年廃寺とされ秋葉三尺坊大権現像は本寺の可睡斎へ移されました。廃寺となった秋葉寺は明治十三年十一月復興。また火之迦具土神を祭神とする神道の秋葉山本宮秋場神社が創建されました。
 当社本殿は、大正十四年改修により瓦葺から銅板葺に替えられました。
 秋葉町自治会氏子有志として隔年、可睡斎で法要、秋葉山本宮秋葉神社へ参拝して現在に至っています。
□ 御祭神(火防・火伏)
 ・火産霊命  ・河菜姫命
□ 御祭日
 ・元旦祭(正月元旦) ・初午祭(三月初午日)
 ・例 祭(四月十八日)・お面様(七月十八日)

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 狛犬……と言うか獅子。両方とも阿形だし。
 台座には「天保三壬辰年九月吉祥日」と刻まれている。天保三年は1832年。
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 別角度から。
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 本殿。
 覆屋の隙間から撮影をしていたら、こちらの管理をされている方が扉を開けて下さったので中に入って撮影。それでも16mmでは狭いので魚眼ズームを使用。ペンタックスから超広角ズーム出ないかなぁ……。
 この扉を開けて下さった方からは他にも色々な話を聞かせていただいたり、神社のリーフレットや火防神璽、江戸時代の秋葉社の位置を記した絵図のプリントなどもいただいたりと、とても親切にして下さり有難いことです。
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 本殿に施された彫刻の一部。
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 伏見稲荷社とお面様。
 こちらの二社は自治会の方々の手によって平成二十六年に建て替えられたものであり、お面様の屋根瓦は嘗て秋葉神社の屋根に使われていたものの中から破損していない使えるものだけを選んで流用したものだと教えていただいた。先に瓦の数が決まっているので、そこから計算して祠の大きさを決めて作られたのだそうだ。
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 大天狗の面が祀られているからお面様。
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水屋建設記念
秋葉神社の略縁起
御祭神 火之迦具土大神と申し上げ火を司り給う神様である
御神徳 私達の生活に一日もかかせない火を守護し幸せを与え又悪火を鎮め悪火から生
    ずるいろいろな災を祓い下さる火防の神である
祭礼日 毎年四月十八日
建 立 享保十二年四月十八日(今から二四八年前)
    貞享から享保の時代(一六八四年~一七三六年)は全国的に火災が多かったの
    で火防の神を建立するため、当時の杉並横町の人たちの合議により、代表者を
    秋葉山本宮(静岡県周智郡春日町)に代参させ、御神体をいただき現在地に建
    立し、守護者として地域の火防と幸せな生活を願ひ数々の変遷を経て、現在に
    至っている

    岩槻市観光協会指定
       昭和五十二年四月十八日
                  岩槻市教育委員長 田中寿徳書

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 手水舎。
 手水鉢は破損防止の為に透明な板で覆われている。
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 天神宮と稲荷大明神(寛延三年(1750))、天神様(安政六己未年(1859)六月)。少し離れて庚申塔(文化三丙寅(1806)四月)。

鶴姫神社(岩槻区真福寺)

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 岩槻消防署から450m程南下した所に鎮座する鶴姫神社(さいたま市岩槻区真福寺)。
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鶴姫神社
祭神 岩槻城主太田氏の娘鶴姫様
   縁結びの神 子孫繁栄の神 下の神

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