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金山神社(新田金井町)

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 長明寺の隣に鎮座する金山神社(太田市新田金井町467)。
 鳥居の柱には「復員記念」「昭和二十六年四月三日建設」と刻まれており、脇の石燈籠には「奉納御寶前」「明和五戊子年金」「九月吉祥日惣」と刻まれている。金や惣の下は地中にある為、その下の文字は不明。昭和二十六年は1951年で明和五年は1768年。
群馬縣管下上野國新田郡金井村金山 村社 金山神社
祭  神 金山毘古神 金山比賣命
由  緒 不詳
境内末社 五社
 菅原社
  祭神 菅原道真公          由緒 不詳
 稲荷社
  祭神 倉稲魂命           由緒 不詳
 秋葉社
  祭神 火産霊命           由緒 不詳
 阿夫利社
  祭神 大雷命 大山祇命 高龗神   由緒 不詳
 淺間社
  祭神 木花開耶姫命         由緒 不詳
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

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 拝殿。
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 横から。
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 三基並んだ石祠の内、中央の石祠は金毘羅宮。左右の二基は不明。
 右の石祠二基の内、左の石祠の額には石尊らしき文字が見えるので石尊宮、右の石祠の額には浅の文字があるので浅間社だろう。
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 こちらの石祠二基は不明。
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 以上で3月23日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、FA28mm。
 21日、22日、24日と晴れていたのになんで23日だけ曇りでめっさ寒かったんだ……しかも帰宅後に晴れて来たし。天気予報では一日中晴れの筈だったんだけどなぁ。
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長明寺(新田金井町)

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 群馬県道69号沿いに位置する高野山真言宗医王山長明寺(太田市新田金井町465)。
 こちらの隣に鎮座する金山神社にお詣りするついでに立ち寄ってみた。
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 長明寺造営記念碑。
 面倒だから由緒の部分だけ書き出そう。
真言宗長明寺造営記念碑
(前略)
 惟うに当山は永禄三年重円和尚により大字金井の地に開山さ
れた高野山真言宗の密寺で、当初は医王山長福寺と称し以来四
百年余の長きにわたり法燈を護持してきた。古い記録によれば
この寺には本堂並びに薬師護摩堂があり、近隣の善男善女の信
奉深く地域社会の信仰の中心道場として栄えたが、明治十三年
不慮の火災により本堂伽藍全焼の災害を被ったと伝えられてい
る。併しながら本尊大日如来像は幸いにして焼失を免かれた。
そこで事態解決のため早速民家を買い求め仮本堂を建設して本
尊を安置し奉り、住職檀信徒一体となり護持してきたのである。
その後昭和二十八年、長福寺十八世旭井昌範和尚並びに現旭井
澄夫和尚の世代において、同じ金井地内の明源寺と合併し寺名
も長明寺と改められ今日に至っている。
(中略)
 平成五年五月吉日
        真言宗長明寺本堂建設委員会
              相談役 久保田武撰並書

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 薬師護摩堂。
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 前列左から二十二夜塔、二十二夜供養塔、地蔵菩薩、光明真言供養塔、二十三夜塔、青面金剛。後列に阿弥陀如来、馬頭観音、庚申塔。その後ろに馬頭観世音、宝篋印塔。
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 定印から見て阿弥陀如来だと思うのだけど、ちょっとはっきりしない。

勝神社(新田上江田町)

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 江田館跡の300m程北東、すぐる公園北側に鎮座する勝神社(太田市新田上江田町1070)。
 額には「勝神社 昭和五十六年二月」、台石には「平成八年二月移設」とある。
群馬縣管下上野國新田郡上江田村字北宿千七拾番 村社 勝神社
祭  神 長佐男命 火産霊命 木花咲屋姫命 大物主神 疱瘡神
     建御名方神 速須佐之男命 菅原道真公 宇迦之御魂神
由  緒 不詳
     明治四十年二月廿八日許可、仝大字無格社愛宕神社、仝境内末社浅間神
    社、無格社諏訪神社ヲ合併
     大正十一年四月二十八日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料
    供進神社トシテ指定セラル
     大正四年十二月十一日許可、本社境内神社稲荷神社、仝村字宿通無格社
    八坂神社ヲ合併セリ
境内末社 二社
 八幡宮
  祭神 誉田別尊   由緒 不詳
 産霊神社
  祭神 神皇産霊命  由緒 不詳
 稲荷神社 本社へ合併
  祭神 倉稲魂命   由緒 不詳
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

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 村社勝神社合併・新築落成記念碑と御成婚記念鉄塔建設特別寄附者芳名碑。
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 拝殿。
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 平成十年(1998)一月造立の狛犬。
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勝神社の由来
 享和二年壬戌(一八〇二年)三月吉日付の由来記によれば概ね次の通りである。
     記
伊予国(現在の愛媛県)の領主である勇将河野四郎通信は若い頃から豊後国(現在の大分県)の宇佐八幡宮を深く信仰し、たびたび参拝をしていたが老年になり遠い豊後国まで行くことができなくなったので居住地の近くにある勝山と云う所に宇佐八幡宮を祭り熱心に拝礼を重ねた。この四郎通信の誠心が神に通じ河野一族は繁栄を続け、やがてその勢力は四国を領有し瀬戸内海をも制圧し遠く中国地方の数か国まで掌中に入れた。
当地方を領有していた新田太郎義重公(八幡太郎源義家の孫)は宇佐八幡宮を懇望され当江田郷に宮を勧請する。勝山より移し奉る故に勝大明神と崇め奉る。
「右のような内容の由来書が当村千吉良家に保存されていたのを坂庭氏が見たのであるが由来書は現在行方不明である。この由来書が発見されない場合勝神社の由来が不明になる恐れがあるので、氏子のために記す。後日この由来書が出て来たら詳細に伝えてもらい度い」とある。
今度享和二年の由来記を再現しこれを後世万代に伝え当社、氏子各位の益々の繁栄隆盛を祈願するものである。
 昭和五十年十月吉日
天皇・皇后両陛下の御来訪を記念し茲に謹みて奉納す
  当所 加藤正二
  撰文 青木日出男
     利根郡昭和村住
  謹書 志深■■

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 斜めから。
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 柊稲荷神社と八坂神社。
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 末社群。
 中央の石塔は大山祇神かな? その左側の石祠は疱瘡神。
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 史跡巡りコース案内板の傍には猿田彦大神。

江田館跡(新田上江田町)

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 新田上江田町交差点から西へ400m程向かうと江田館跡(太田市新田上江田町924-1)がある。
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国指定史跡新田荘遺跡 江田館跡
所在地 群馬県太田市新田上江田町九二五番地
指 定 平成十二年十一月一日
 江田館跡は、反町館跡とともに太田市の中世平城の代表的な遺構で、地元で「堀之内」と呼ばれる本丸跡は、東と西の両面に「折」を持ち、東西約八十メートル、南北約百メートルの土塁と堀を巡らしています。
 虎口(出入口)は南西面と東面にあり、土橋となっています。外郭には、本丸の西と南を「カギ」型に囲んで「二の丸」があります。本丸から北東に向かって、「黒沢屋敷」、「毛呂屋敷」、「柿沼屋敷」と呼ばれる屋敷跡があり、土塁と堀の一部が残っています。
 江田館は、江田行義の館跡と伝えられています。行義は、新田義重の子・義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功をたてました。西国を転戦後、備後国(広島県)で農業を営み、以後足利氏の目をしのび、九代にわたり姓を「守下」に改めていましたが、十代目の大膳が、文禄年間(一五九三年頃)祖先のこの地に移転してきたと言われています。戦国時代には、反町館跡とともに金山城の出城として改修され、金山城主由良氏の四天王の一人、矢内四郎左衛門の居城となりました。天正年間には、小田原北条勢が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、金山城攻撃の拠点としました。その後、北条氏滅亡(天正十八‐一五九〇年)とともに廃城となりました。
 本丸中央の土塁の中には義貞様と言われる石宮があります。江田氏子孫が義貞、行義を合祀し、氏神としたもので、明治六年(一八七三)新田氏一族末裔達が太田金山山頂にこれを祀り、社殿を造営して新田神社としました。
 地域住民が、先祖の地として館跡の保存に協力してきたため、中世豪族の館跡として規模、構造ともに原形をよく残しています。
  平成二十四年六月

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 虎口と堀。
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 南東端の土塁上から。
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 東側の折れ部分の土塁と堀。
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 北側の土塁上に鎮座する石宮。こちらが「義貞様」だと思うのだが、
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 北西端の土塁上にも石宮がある。
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 案内板には本丸中央の土塁と書かれているのだから、やはり右側の石宮が「義貞様」だろう。とすると左のはなんだろうね。
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 西側の土塁と堀。
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 江田館復元図を見るとこの辺りは馬場の跡だろうか。

上江田庚申塔(新田上江田町)

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 新田上江田町交差点脇にある上江田庚申塔(太田市新田上江田町526-1)。
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新田町指定重要文化財 上江田「庚申塔」
  指 定 昭和五十五年十二月二十四日
  所在地 新田町大字上江田字庚申塚
 この庚申塔は、安山岩製で高さはおよそ一六五センチメートルです。笠部・塔身・連台からなり、塔身の正面に青面金剛像が浮き彫りされています。像はひとつの体に頭が三つ、手が六本あり、中の手二本は合掌しています。このような例は全国でもそれほど多くありません。
 左の上の手は蛇を、下の手は弓を握っています。また右の上の手は矛を、下の手は矢を握っています。像の左右には鶏が彫られ、像の下には三猿が彫られています。
 塔の台座には「□禄□年」と彫られています。「庚申」は、十干十二支の組み合わせの庚申の夜に行われていた民間信仰で、江戸時代に盛行しました。この信仰は、六十日に一日めぐってくる庚申の夜に体の中にいる三尸(三匹の虫)がその罪を上帝に告げるため、庚申塔をまつり寝ないで過ごすという信仰です。
  平成十六年二月二十七日
 案内板には「□禄□年」と記されているが、ほたるの里公園内の千五郎池案内板には元禄二年(1689)の庚申塔と記されている。
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 青面金剛塔の左には諏訪大神と庚申塔、右には庚申塔二基。
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 三百六十年祭記念碑と四百に十年祭記念碑。
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 千五郎池改修碑。千五郎池はほたるの里公園の中にある。
千五郎池改修碑  群馬縣知事從四位勲四等男爵大森佳一篆額
在昔上野佐位新田両郡地係一宮藩主加納侯之封者多矣侯使家宰本間應吉
代而治此應吉通稱千五郎佐位郡赤堀人夙患封内上江田東北地屬荒蕪天保
年間求源隣地矢太神鑿池大一百二十六方尺水湧清甘滾滾不盡引開満渠漑
通阡陌得新田三十七町不復見荒蕪之跡焉村民名曰千五郎池爾後村民但方
旱魃爲戹之時泩徃於用多量少或非無憾項者相議設購地擴域供用増量之計
有水源改修會援助選委員董工事昭和三年四月全成矣乃欲樹石勒功村長正
田盛作區長齋藤君之助兩君來徴予文是以予爲應吉嫡孫也故不辤而作之云
 昭和三年四月   貴族院議員本間千代吉撰  琴荘松邨不朽書
                          井上欽璋刻
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