福徳神社(日本橋室町二丁目)

IMGS2356s.jpg
 福徳の森に鎮座する福徳神社(中央区日本橋室町2-4-14)。
 公式サイトに依ると、御祭神は倉稲魂命で、配祀神に天穂日命と大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津媛命。また太田道灌、徳川家康、弁財天を合祀しているとのこと。
IMGS2370s.jpg IMGS2363s.jpg
『福徳神社由緒
 当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
 その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った』
IMGS2364s_2017021022090267e.jpg
 拝殿。
 参拝者がひっきりなしに並んでおり、人気のある神社なのだろう。
IMGS2358s_20170210220901c5e.jpg
 西側の小広場にはガラスケースに納められた祠があるが、こちらはなんだろう?
IMGS2372s_2017021022090304f.jpg
 中央通りに面した参道入口。

 以上で2月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは16,707歩。
 この後はヨドバシAkibaでPENTAX KPのカタログを貰ってから帰宅。KPいいなぁ欲しいなぁとは思うものの、そう遠くないうちにK-3IIの後継機が出て来るだろうからそれまで様子見かな。
スポンサーサイト

薬祖神社(日本橋室町二丁目)

IMGS2346s.jpg
 福徳の森に鎮座する薬祖神社(中央区日本橋室町2-5-8)。
IMGS2349s_20170210214357855.jpg

IMGS2350s_201702102143566ed.jpg
『薬祖神社(ご由緒)
 御祭神
  大己貴命(おおなむじのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
 御利益
  無病健康・病気平癒

 わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
 日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています』

寳田惠比寿神社(日本橋本町三丁目)

IMGS2331s.jpg
 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅とJR総武本線新日本橋駅の中間辺りに鎮座する寳田惠比寿神社(中央区日本橋本町3-10-11)。
IMGS2321s.jpg IMGS2324s_20170210210839c51.jpg
 御祭神は事代主命、少彦名命、大國主命、大己貴命、素盞嗚命の五柱。また宇迦之御魂神を御祭神とする寳田稲荷神社も合祀されているようだ。

『宝田神社・恵比寿神御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」、二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
 昭和四十五年十月吉日」
IMGS2317s_2017021021085744d.jpg

IMGS2338s_20170210210856939.jpg
 寳田惠比寿神社前のえびす通りを西へ向かい昭和通りに出た所には寳田惠比寿神社への標石と馬込勘解由の碑が建てられている。

『馬込勘解由の碑(べったら市の由来)
 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。
 徳川家康公江戸出府四〇一年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである』

常盤稲荷神社(日本橋本町一丁目)

IMGS2301s_20170209220058b18.jpg
 小舟町交差点の北西80m程の位置に鎮座する常盤稲荷神社(中央区日本橋本町1-8-11)。
IMGS2308s.jpg

IMGS2312s_201702092201258c6.jpg IMGS2305s_20170209220124187.jpg
『常盤稲荷神社由緒
 鎮座地 東京都中央区日本橋本町一丁目八番地
 祭 神 倉稲魂命(稲荷大神)相殿 罔象女神

 当社は室町中期長禄元年(一四五七年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。
 宝暦(一七五一年~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
    名に高き蘆のなぎさの葭原に
         鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。
 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。
 この水神大神は、明治三十四年に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。
 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている』
IMGS2298s_20170209220140431.jpg

橘稲荷神社(日本橋人形町三丁目)

IMGS2278s_20170209213628fd6.jpg
 人形町駅A4出口の北側に鎮座する橘稲荷神社(中央区日本橋人形町3-8-6)。
IMGS2283s.jpg

IMGS2286s_20170209213626e39.jpg
『橘稲荷神社由来
 このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政六年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成二年八月吉日
     橘稲荷御造営奉賛委員会』
IMGS2290s_20170209213625612.jpg

IMGS2273s.jpg
カレンダー
01 | 2017/02 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 - - - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード