天満宮(大古屋町)

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 国道50号佐野バイパス南側、秋山川の畔に鎮座する天満宮(佐野市大古屋町)。
 以前の鎮座地からは西北に100m程移動したことになる。去年移転工事中とのコメントを頂いていたのを思い出し、帰りがけに参詣。
 鳥居の柱や鈴緒の六角桐枠には「平成二十八年十一月吉日」と刻まれており、半年程前に新築されたばかりであるようだ。
 七年前の記録はこちら
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 拝殿正面。
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 産泰神社。
 こちらは以前と変わらず、そのまま移築されたようだ。
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 浅間宮。
 こちらも平成二十八年十一月に新築されている。
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 左奥から大正二年十二月二十五日建の天満宮仮宮建築記念碑、大正十年三月二十二日建の天満宮拝殿新築記念碑、平成二十八年十一月吉日建の新築記念碑。
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 地蔵菩薩、不動明王、十九夜塔、地蔵菩薩。
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IMGS8124s.jpg IMGS8128s_20170622221944040.jpg
 青面金剛。
 ストリートビューを見ると以前からこちらにあったことがわかるが、覆屋は天満宮移転時に合わせて新築されたのだろう。
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 以上で6月10日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは7,603歩。
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諏訪神社(町谷町)

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 佐野みかも台産業団地に囲まれた町谷町公民館の南隣に鎮座する諏訪神社(佐野市町谷町222
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『諏訪神社移築記念碑
 諏訪神社は、明治三十年(1897)に町谷町所有地に建築されたが、当該土地が山林開発(後に新都市開発整備事業用地として地域振興整備公団が買収)のため、昭和五十五年(1980)に諏訪溜池の辺りに借地して新築された。
 その後、平成十五年(2003)に地主山口芳孝様から町谷町が買い受け公民館を建築したこの土地に永く保存できることを願い移築したものである。
 平成十六年五月吉日』
 NAVITIMEを見ると、みかもクリーンセンターの北東にある池の畔に諏訪神社の名が見えるので、以前はそこに鎮座していたのだろう。
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 北側から。
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 諏訪神社の西南にある池の畔に建てられた……なんだろう。人が住んでいると言う感じではなかったし、すぐそばに町谷町公民館があるのだから集会所と言うわけでもないだろう。社務所…なのかなぁ。

田原八幡宮(新吉水町)

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 天満宮から南へ向かうと田原八幡宮があるのだが、なかなか見つけられず、周辺を随分とうろうろすることになってしまったが、結局どまんなかたぬまに車を置いて徒歩で探したら割りとあっさり見つけられた。しかも、見つけてみれば駐車場がしっかり有るじゃないか○刀乙
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 二の鳥居と東明寺古墳。
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『佐野市指定史跡 藤原秀郷公墳墓 1基
 昭和42年6月28日指定
 直径24m 高さ3m 円墳
 周囲の平坦面と切石を含めると、直径35.6m、高さ5mの墳墓となる。
 藤原秀郷公は、上野国(群馬県)赤岩に生まれた。天慶三年(940)二月、朝廷に背き乱を起こした平将門を、平貞盛と協力して討ちとった。その戦功により従四位下に叙せられ、武蔵(東京都・埼玉県)・下野(栃木県)の国守に任じられた。正歴二年(991)九月に没し、ここに葬られたと伝えられる。
 かつてこの近くに、秀郷が開基となり、大僧都知海法印が開山した大同山東明寺(元和三年(1617)に廃寺)があったことから、「東明寺古墳」ともいう』
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 古墳の北側に田原八幡宮。
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 狛犬。
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 本殿。
 八幡宮ではあるが、御祭神は藤原秀郷公。かつては墳頂に鎮座していたのが、こちらに下ろされたのだそうだ。

 以上で9月11日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA40mmとFA28mm、FA77mm、APO-LANTHAR 180mm。K10DにDA15mm。IXY Digital 400。

天満宮(新吉水町)

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 新吉水地区コミュニティセンターの西側に鎮座する天満宮。コミュニティセンター南側の田沼吉水駅前郵便局が良い目印になるだろうか。
 現在は境内の造成中のようで、コミュニティセンターと神社の間に駐車禁止と書かれたカラーコーンが置かれていたので、コミュニティセンターの駐車場を借りることにした。
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 改めて、鳥居。
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 拝殿。
 先ほどの小見町の天満宮からこちらまではとても近く、また今回は参拝しなかったが、下小見地区にも天満宮があるそうで、この比較的狭い地域に天満宮が三つもあると言うのは、藤原秀郷公が菅原道真公を深く崇敬していたことと関係があるのだろうか。
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 日露戦争従軍記念碑の左側の石祠は為朝神社。すると御祭神は鎮西八郎源為朝だろう。従軍記念碑右側の少しだけ立派そうな祠は詳細不明。
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 神武天皇遥拝所。
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 本殿左右から。
 塗り直されたばかりなのか、彫刻に施された色彩はかなり鮮やかだ。…うん? なにかおかしいな。天満宮なのに、なんで梅紋ではなく左三つ巴紋なんだ? あぁ、そうか、藤原秀郷公が使っていたのがこれだ。唐沢山神社の神紋も左三つ巴紋だったものな。とすると、こちらの神社はやはり秀郷公縁の神社と言うことになるのだろう。
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 本殿裏の彫刻。左右の彫刻は中国の故事を元にしたような感じだったが、こちらの雷神は随分と日本風だ。
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 全景。

天満宮(小見町)

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 神明神社から南下して行くと、どまんなかたぬまの西の交差点に至る手前左側に天満宮が鎮座している。
 ところで、赤見町の駒場交差点から吉水町の道の駅交差点までを繋ぐ道って何て呼んだらいいんだろう。
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 狛犬と拝殿。
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 こちらの狛犬は石塚町の熊野神社久保町の日枝神社の狛犬と似たような形をしている。
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『佐野市指定有形文化財 養蚕額 1面
 平成4年6月16日指定
 縦85cm 横165cm
 この額は、昭和三年(1928)十月、小見養蚕組合で、養蚕の振興を願って天満宮へ奉納したものである。桑切り、桑くれ、運搬、おこ上げ、繭かき等の養蚕作業に従事する男女十九人と、運搬する馬一頭が描かれている。
 画家は、当時の小見新宿に住んでいた郷土画家の清水秋塘で、後に出流原に移り住み、そこで没したといわれる。
 養蚕業の衰退した現在、当時の養蚕作業の様子を知ることができる資料として貴重である』

 養蚕業の発展を願うなら、蚕影神社や天白神社の方がいいんじゃないかと思うのだが、菅原道真公の所領が桑原であったとも言われているようなので、その辺りの繋がりなのかな。
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 養蚕額。
 保護の為にビニールで包まれており、円偏光フィルターを着けても反射を除去しきれない。
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 天満宮の社殿横に境内社。
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 床はコンクリートで固められており、祠の周囲には石造りの瑞垣が見える。
 また、祠には三五の桐や左三つ巴紋が見えるが、いったいこちらは何神社なのだろう。
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 末社。
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 小見町公民館の脇に稲荷神社。

神明神社(小見町)

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 榊神社から西へ向かい、小見原公民館を目印に進んで行くと、公民館北側の道端に神明神社が鎮座している。
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 由緒書きどころか額や社号標石も無いので、参拝した時は何神社なのか判らなかったが、帰宅後にググってみたら佐野市の公式ウェブサイトにこちらの神社の記述があったので、神明神社と判明。と言うことは、御祭神は天照大神であろう。
 しかし、創建時期や由緒などはやはり不明。
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 神社の脇に地蔵祠。
 道路に面して、ダイナミックな文字で青面金と彫られた石塔が建てられている。剛の文字は見えないが、青面金剛であるのは間違いないだろう。天明丁未年七月朔日とあるので、天明七年(1787)のものか。徳川家斉が第11代将軍に就任したり、田沼意次が失脚して松平定信が寛政の改革に着手した年だそうだが、そう考えると、しみじみと古い物なのだなぁと感じる。

榊神社(吉水町)

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 東明庵から南下して行くと、北関東自動車道の下を潜った少し先に慶安寺と榊神社への案内標識が有るので、それに従って進むと右手側に榊神社が見えて来る。
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 拝殿。
 撮影していた時には気付かなかったが、よく見てみると屋根の上に狛犬型の留蓋が設置されている。
 こちらも由緒書き等が見当たらなかったのでいつものようにググってみると、吉水駅前情報と言うブログにこちらの神社のことが記載されていた。それによると、こちらの御祭神は保食神、或いは豊受大神であり、古くは白鳥神社境内にあったが、現在地に遷座したとのこと。が、その白鳥神社がどこにあるのかは判らない。
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 本殿。
 背面には七福神の彫刻が施されている。
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 愛宕神社。
 右側の石祠は詳細不明。
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 扠首束には鬼の首のような木像が設置されている。
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 末社群。
 八つの祠が並んでいるが、いずれも不明。
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 神楽殿。
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『佐野市指定無形文化財 吉水榊神社太々神楽
 昭和53年12月12日指定
 この神楽は、赤見村大門(佐野市赤見町大門)に伝わる太々神楽を、昭和二年(1927)、吉水在住の有志数名が伝授を受け、これを吉水の鎮守である榊神社に奉楽し、氏子の五穀豊穣と家内安全を祈願したことに始まる。
 神社への奉楽は吉水敬神講の人たちにより、春祭(四月第四日曜)と秋の例祭(十月第四日曜)に行われる。神楽は、神々が舞う前に素面に白装束で御幣・鈴などを持ち、神楽殿周囲を清める舞に始まる。
 演目は、
  1.猿田彦之命の舞  2.岩戸開きの舞  3.事代主之命の舞
  4.八幡大神の舞   5.大王之命の舞  6.大国主之命の舞
  7.素佐能男之命の舞 8.経津主之命の舞 9.稲荷大明神の舞(白狐)
 10.住吉大神の舞  11.金山彦之命の舞 12.大山津美之命の舞
の十二座であるが、普通は時間の制約上、1.猿田彦之命の舞、2.岩戸開きの舞、3.事代主之命の舞を主とし、大胴・ツケ太鼓・笛に合せて勇壮に、厳粛に、或いはユーモラスに演じられる』

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 境内全景。

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 榊神社の前から鳥居をくぐらず、社号標石の右へと入って行くと、榊神社と慶安寺の間の細い参道に馬頭観世音の板碑。
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 青面金剛と地蔵菩薩。
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 庚申青面金剛尊と青麻山青麻大権現。
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 薬師堂。
 薬師堂から左に行けば榊神社境内、右に行けば慶安寺境内。

八坂神社(吉水町)

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 県道16号線を南下し、のぞみ動物病院前で南西へ入って行くと右手側に救世山東明庵が見えて来る。こちらは佐野坂東三十三ヶ所札所の十八番札所でもある。
 ちなみに山門の右側に見える赤い屋根が東明庵で、正面に見える建物は吉水上公民館。
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 こちらの御本尊は馬頭観世音菩薩。
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 佐野坂東観音巡礼開創供養塔。
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『佐野市指定有形文化財(考古資料) 石造佐野坂東観音巡礼開創供養塔 1基
 平成11年3月30日指定
 形状 笠付墓塔(中央に馬頭観音立像の浮き彫り)
 総高 162cm、幅 39cm、奥行き 24cm

 救世山東明庵は、元禄四年(1691)に本源雲谷が開いた寺院である。雲谷は、近隣の寺院等に呼びかけ、坂東三十三ヶ所の観音霊場になぞらえた「佐野坂東三十三所」を開創した人物である。雲谷は同行三十三人と、寺院に参籠しながら佐野坂東三十三所を巡り、元禄十一年(1698)八月十七日に巡り終えた。
 この供養塔は、それらのい事業を記念して建てられた供養塔である。庶民の観音信仰を知る上から貴重な資料である』
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 地蔵祠。
 左のぼこぼこした石は庚申塔であるようだ。
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 吉水上公民館に隣接して八坂神社が鎮座している。

大宮大黒天(田沼町)

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 栃木県道16号線沿いに有るセブンイレブン田沼町田沼店の南東に大宮大黒天が鎮座している。
 社号標石は美光宝飾店の向い側にあり、道了大薩埵と刻まれている。左側の標石は半ばほどで折れてしまっているが、大正六年十月吉日とある。
 鳥居脇のゴミ置き場くらいしか駐車スペースが無いと思っていたが、調べてみたら左側の広いスペースが駐車場であったらしい。てっきり私有地だとばかり思っていた。
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 鳥居の脇には庚申塔や甲子大黒天、冨士登山大雄山道了大薩埵参拝記念碑、支那事変記念碑が並んでいる。
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 左は織姫神社・三峰神社。右が大宮大黒天。
 大宮大黒天側には、小田原の大雄山最乗寺(道了尊)より分祀したと言われる天狗の団扇が祀られているのだそうだ。
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 本殿裏に末社が二つ。
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 三光星大神と刻まれている。
 天照大神(日)・月読尊(月)・素盞嗚尊(星)の三神なのかな。太平山神社では天照皇大御神(日)・豊受姫大神(月)・瓊瓊杵尊(星)としているし、天照大神(日)・月読尊(月)・天御中主尊(星)とする所もあるようなのでよく判らない。

稲荷神社八幡大神(石塚町)

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 熊野神社から西へ少し歩くと稲荷神社・八幡大神。
 初めは屋敷神かと思ったのだが、地図にも記載されているし、よく見ると敷地が分かれているので屋敷神ではないだろうと判断。また、熊野神社のエントリーに記載しようかとも思ったが、一応境外にあるので独立して記載することにする。

熊野神社(石塚町)

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 石塚神社から北上して行くと石塚小学校脇の交差点で三方向に分かれるので、右側の道へ入ってまっすぐ進んで行くと突き当たりに真言宗豊山派大悲山南方寺があり、その西側に隣接して熊野神社が鎮座している。
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『熊野神社本殿
 創建は不詳であるが、現在の本殿は天保十五年(1844)に改築されたものである。建築は大工棟梁野城大和藤原長久。彫刻は彫工内山山城藤原吉久によるもので、流破風作りで基部に風浪雲竜の彫刻を配し、壁面には古典に引例した天下泰平を祈念する場面の彫刻を回らせている貴重な建造物である』

 昭和61年12月6日に佐野市の有形文化財に指定されている。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 本殿。
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 本殿左側に末社。

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 南方寺。

石塚神社(石塚町)

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 下石塚交差点まで戻り、そのまま北上して行くとやがて右手側に石塚神社が見えて来る。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当らず、従って詳細不明。
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 拝殿左側に末社。
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人丸神社(小中町)

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 藤宮神社から南下し、県道237号線に合流する少し手前で東へ折れると人丸神社が鎮座している。
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 駐車場の端に八坂神社。
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『人丸神社縁起
一、所在地 佐野市小中町一○六二番地
一、御祭神 万葉の歌聖 柿本人麿公
一、御祭礼 一月初詣・元旦祭
         四月・十月 第二日曜日
         御神楽奉納(市指定無形民俗文化財)
一、宝物  柿本人麿公御神影・小堀鞆音画伯謹書
        湧泉地・神苑が記念物(名勝)
        神楽面(八面)=出目勝満作(市指定文化財)
  なお、御社には、須藤晏齋、小堀鞆音、同安雄の父子三代にわたって絵画が奉納されている
一、当地は義人田中正造翁、画聖小堀鞆音、同安雄、山口信治(正造翁と国会開設請願者)、篠崎ハル(ナイチンゲール受賞)篠崎敏治、源三兄弟の生誕の地として有名である
一、御社に参拝された文人は樋口清之(国学院大学名誉教授)、梅原猛ご夫妻(京都産業大学教授)、小堀桂一郎(鞆音=孫東京大学教授)、小林吉一(国学院栃木短大教授)
  芸能人は当地縁の京塚昌子、江戸家猫八、小猫父子等の各氏
一、初詣、七五三、学業成就(進学合格)、交通安全祈願は霊験灼(あらたか)である

 御祭神人麿公の詠れた歌
  下野の阿蘇野の原の朝あけに
     もやかけわたる、つづら草かな』
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 参道。
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『人丸神社神苑
 扇状の湧水をもとにして、人丸神社野神苑が成立している。四季折々の神社の情趣を生み、神社の境内には石鳥居(1691)や石灯籠(1688)があり、島には疫病除けの為朝神社と下流の水田の守護神斎川神社がある。

 人丸神社湧泉池
 田沼扇状地の末端に湧出した地下水が池となって、下方数百ヘクタールの水田をうるおす斎川の水源となっている。地質学上の湧水として貴重な自然現象である。

 絹本着色柿本人丸像
 田崎早雲筆の大和絵風人物画の代表的作品で、人丸神社の祭神柿本人丸を描いた掛軸である。
 もと葛生町の村樫正作氏の所蔵品であったのを、昭和四十年十月(1965)人丸神社に奉納したものである。

 神楽面(八面)
 宝永七年三月(1710)江戸講中より奉納されたものである。
 この中の一面の裏側に「出面勝満(花押)」と朱書のある。種別は、てんぐ、びやっこ、ひつこ、うずめ、ふとだま、ふつぬし、おきな、おうなの八面で、巧みに喜怒哀楽をとらえ、高度の造形性をもっている。作者は江戸時代中期に活躍した古本模倣面の名門である』
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 神楽殿。
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 狛犬。
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 社殿。
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 末社群。
 左側の石祠は三峯神社。そして長屋の左から日枝神社、伊津伎神社、稲荷神社、八坂神社、天満宮、神明宮、八幡宮、浅間神社、斎川神社。
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 中央の祠には名は記されていなかったが、左側に三笠山大神、右側に八海山大神が並んでいるので御嶽大神ではないかと思われる。また、八海山大神の隣には阿留摩耶大神・摩利支天。
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 本殿左側にも末社。
 左端はおそらく稲荷神社。その右は「稲荷大・八満大」の文字が残っている。その右に白山宮。右端は不明。
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 本殿の真裏にも祠があり、左側は判らないが、右側の祠の台座には齋川神社の文字がある。
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 本殿右側の島に為朝神社。
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 為朝神社の右側、湧泉池と用水路の間に末社。しかし何神社なのかは判らず。
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 湧泉池の中にも末社。
 こちらもどなたを祀っているのかは判らないが、よくある例として厳島神社ではないかと思われる。
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 四阿を挟んで南側の湧泉池と用水路の間にも末社。やはり判らず。
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藤宮神社(石塚町)

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 十二天塚古墳より東へ向かい、下石塚交差点から南下して行くと右手側に藤宮神社が道路に面して鎮座している。
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 由緒書き等は見当らず、ググってみても詳細は不明。
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 本殿。

蓮沼神社(赤見町)

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 佐野市運動公園の南側に十二天塚古墳があり、その墳頂に蓮沼神社が鎮座している。
 直径はおよそ38m、高さはおよそ7mの円墳であるそうだ。
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 古墳南側に蓮沼神社の鳥居。
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 石室が口を開いている。
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 蓮沼神社。
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 稲荷大明神と十二天尊。
 なぜ蓮沼神社と称するようになったのだろう?
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 北東側から。

沼鉾神社(赤見町)

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 赤見小学校の東側に沼鉾神社の社号標石が建てられており、その脇に石祠が鎮座しているがどなたが祀られているのかは不明。
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 狛犬の台座には由緒を記した石板が嵌め込まれている。
『神社の創立は、文武天皇二年(698)六月十五日勧請したと伝えられ、藤原秀郷公が元慶九年(946)に御本殿及び拝殿等を再建したといわれております。その後、正治二年(1200)に御本殿、拝殿を修理し、元和元年(1615)に御本殿の改築が行われております。享保年間に至り拝殿は、火災に会い消失しておりましたが、天保十一年(1831)正月十九日に新築されました。この度、御本殿、拝殿共老朽化甚しく、改修の必要にせまられ、氏子、崇敬者相計り、社殿の改修、社務所の新築をすることに決定し、社殿改修は、昭和五十八年(1983)七月二十五日仮遷宮並びに改修報告祭を執行、同年十二月二十五日修了、社務所の新築は昭和五十八年起工式を行ない、同五十九年三月二十九日工事を修了いたしました。追加工事として、水屋並びに神楽殿、末社の整備を行ない、ここに総べての工事を完了することができましたので一二○○年を記念し奉祝祭を執行いたしました』
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 東側の駐車場脇に立てられた看板を見ると、こちらの御祭神は伊邪那岐尊と伊邪那美尊。
 沼鉾神社の名前は天沼鉾からかな?
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 拝殿。
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 虹梁の上には四股を踏んだ力士のような木像。
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 二福神社。
 どなたが祀られているのか判らなかったが、プチ神楽殿さんの記事を見ると大己貴命(大黒天)と事代主命(恵比寿神)であるそうだ。
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 機織姫神社と末社群。
 末社は左から雷電神社、宇都宮神社、不明、稲荷神社。そしてその右側に大日光と刻まれた石塔。
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 機織姫神社本殿。
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 機織姫神社の左にも末社。
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 神楽殿。

 こちらには他にも金刀比羅神社と稲荷神社、諏訪神社、熊野神社、水神社、八幡神社、中門犬神社が祀られているそうなのだが、見落としていた○刀乙

八坂神社(赤見町)

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 愛宕神社鳥居前の交差点からまっすぐ西へ向かい、バス停前を南西に入って行くと八坂神社が鎮座している。
 実は二年前に青龍神社を参拝した時に、こちらの神社にも参拝するつもりだったのだが、その時は見つけられなかったので再び探してみたらあっさり見つかった。しかも前回断念した場所から、僅か130m程しか離れていなかった○刀乙
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 拝殿。
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 草に埋もれた末社。
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 境内に建てられた市の沢公民館の脇に如意輪観音と庚申塔。
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 全景。

 この後、旗川橋交差点の南西に位置する白山神社にも向かってみたのだが、神社前50m程先から車が入れない程に道が細くなり、しかも車を置けるスペースが微塵も無いために今回は参拝を断念。
 足利市内の神社では、おそらくこの白山神社が最東端に位置していると思われるので、可能ならば参拝しておきたいところだ。

愛宕神社(赤見町)

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 栃木県道175号山形寺岡線と県道237号赤見本町線の合流地点に愛宕神社の鳥居が建てられている。
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 が、困ったことに神社前まで繋がっている筈の道は封鎖されている為、ここから先に進むことができない。しかし、私有地と言うことでは仕方が無い。
 鳥居の方から上って行けないだろうかとも思ったのだが、うん、無理だ。途中で断念した。

賀茂別雷神社(多田町)

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 国道293号線に戻り、東へ車を向かわせると多田駅の北側に賀茂別雷神社が鎮座している。
 鳥居の右側に駐車場と社務所、左側に賀茂別雷神社会館があり、会館西側から回って行けば拝殿西側の駐車場まで車で上って行けるが、それも風情が無いのでこちらの駐車場に車を置いて参拝。
 こちらの神社には二年前に二回、山越町の加茂雷神社には一回参拝しており、なんとなくエントリーを立てる気にはならずにいたのだが、今回漸く御登場(笑)
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 駐車場から見上げると、どことなく山城址のような感じを受ける。
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 鳥居をくぐると参道右手側に石碑が建てられており、由緒が記されている。
『御大典奉祝記念
 当賀茂別雷神社は天智天皇八年九月(669)山城国上賀茂鎮座の加茂別雷神社の分祀として、菊沢山の中腹に社を建て雷神を奉斎した。雷神を祭ればこの地は富貴安静ならむ、との神宣に依りて、長雨に祈らば雨は止み、日照に祈らば慈雨があり、豊作の神として信仰高く、天慶八年四月(945)唐沢山城主俵藤太秀郷公は信仰に依って本社を再造立し、近郷の鎮守と尊信し祭資を奉納す。正徳五年二月(1715)御神徳に依り宗源宣旨によって正一位の神階を賜った。宝暦十一年(1761)現在の本殿を再建した。明治四十三年(1910)現在地に本殿を移転し拝殿幣殿を新築し遷宮式を行った。その後平成元年十一月(1989)田沼町誇れるもの百選に認定される。この度平成天皇御即位平成二年十一月の御大典を奉祝して拝殿前の傾斜した鳥居の修復及び同付近の崩壊した石垣の積み替えの外、石階段の手摺りを新設し、掲示板を設け、その他拝殿内と会館内の模様替えを、神社役員、区役員の協力により実施、滞りなく完了した。
 平成三年二月吉日 建之』

 こちらも京都の上賀茂神社から勧請されたものだが、およそ2キロ程南に位置する山越町の加茂雷神社よりも138年程古く、誰が建立したのかは書かれていない。
 ちなみに、菊沢山はここから2キロ奥であると境内に建てられた屋根葺替記念碑に記されていたが、地図を見ても菊沢山の名は記されていないのでどちらに2キロなのかは判らない。しかし、奥と言うのが山奥と言う意味であるならば、北西へ2キロなのかも知れない。
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 石段。
 二年前に来た時は草茫々で荒れた印象を受けたものだが、今では逆に気持ちの良さすら感じられる。
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 狛犬。かなり面白い形をしている。
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 角度を変えて。
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 神楽殿。
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 神楽殿裏にある謎の門。
 神楽殿と門の間の道を下りて行くとお堂らしき物と多くの石祠の並んだ一角があったが、どうも奥都城のようなのでそちらには行かなくてもいいだろう。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 こちらの神社は上賀茂から勧請されたとのことなので、御祭神は賀茂別雷命と言うことになるのだろう。
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 拝殿脇の祠。
 こちらにもどなたかが祀られているのだろうか。
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 宝蔵。
 旧宝蔵が建築から235年を経て傷みが激しくなったので、昭和四十九年(1974)に新築されたものであると記されている。旧宝蔵が建てられたのは元文五年(1740)と言うことなので、徳川吉宗の治世か。
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 境内社の鳥居。
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 覆い屋の前には大正九年(1920)七月に建てられた大守神社改築記念碑があったが、改築されたのは覆い屋なのか祠なのか、どちらだろう。
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 覆い屋の中には左から古峯神社二つ。
 古峯神社と言うことは、御祭神は日本武尊か。
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 稲荷神社と寒澤山神社。
 こちらの御祭神は不明。と言うか、寒澤山神社と言うのは初耳だ。
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 夕日森天満宮。
 朝日森天満宮と対になるような名前だが、太陽が東から昇って西に沈むことを考えると、朝日森天満宮より僅かとはいえ東に位置するこちらに夕日森天満宮があるのは皮肉なことだ。…いや、待てよ、朝日森天満宮が現在地に遷宮したのは慶長七年(1602)。それ以前は唐沢山にあったのだから、唐沢山から見ればこちらは西か。尤も、夕日森天満宮が慶長七年以前からあったのかどうかは判らないし、現在ではこちらの方が東にあると言うのは変わらないことなのだが。

『佐野市内には、旧犬伏町の字町谷道南に夕日長者の址があった。近くに湧水があって、これを長者の出水とも称していた。また旗川地区小野茂木の八坂神社周辺はかつて夕日森とよばれていたという。この地は朝日森の西側に当たっている。(中略)朝日森に天神が勧請され、古社となっている点は、朝日長者が語られる土地であったためであろう。つまり、朝日や夕日は、それぞれの土地を開発した長者の力を誇示するために語られたのであり、その屋敷址は、古い時代の開発のセンターと言ってもよかった地であるはずである。このことは朝日森が歴代藩主の崇敬を受け、昭和十四年に県社に列することになる遠因ともいえるのである』(「佐野市誌」より抜粋)
 こちらは夕日長者所縁の天満宮と言うことなのかな。でも犬伏地区や旗川地区とは大分離れているしなぁ。
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 太守神社。
 こちらの木札には太守、石碑には大守と記されているが、意味としては然程違いはない。ただ、「たいしゅ」と読むのか「おおもり」と読むのかは気になるところだが、浅間神社などの例もあるからそれ程気にしなくてもいいのかな。
 それよりも、こちらの御祭神が判らない。ググってみると滋賀県長浜市落合町にある大守神社の御祭神は足仲彦天皇(仲哀天皇の別名で、タラシナカツヒコノスメラミコトと読む)と大日孁貴命(天照大神の別名で、オオヒルメムチノミコトと読む)だそうだが、こちらもそうであると言う保証は無い。
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 浅間神社。
 祠の上の板に冨士嶽神社とあるが、木札には浅間神社と書かれている。また、この写真には写っていないが更に上には冨士嶽神社の拝殿建設に寄付した人達の名前がずらりと書かれており、古くは冨士嶽神社と称していたのかも知れない。
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 薬師神社と浅間神社を合祀した社。
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 階段を上らず、右に向かうと佐野坂東三十三札所の一つで第二十八番の天神山総持院観音堂がある。
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 観音堂。
『観音堂建設記
 佐野坂東三三札所の一つ
 第二八番多田天神山総持院の観音堂は、享保二年(1717)に宮の内に建立された。明治初年火災で焼失、蜜蔵院檀徒や一部信者に依り再建管理が継続され後に下多田区に移管現在に至る。観音堂の破損急甚修復不可能の為、時の神社役員等再建を志し昭和五四年(1979)より各方面に呼びかけてきたが未だその機熟さず再建は見送られていた。然し昭和五七年(1982)五月信者集い急遽再建へ始動、建設基金募集方法等、委員会で再三討議各町内委員日夜努力の末区外等を含め三六六万余円の尊い浄財を得た。又用材一部の伐木搬出や、十九夜堂の再建等は委員の奉仕により同時に建立した。落慶までの奉仕人員は四六、日延二八六人(実働七六六時間)を要した。仏具当附属の奉納もあって立派に落慶、聖観世音菩薩像の遷座安置を恙がなくめでたく終る。願わくは信者の後に続くことを祈念し、建設概況を記すものである。
 昭和五十七年十一月二十一日』

 賀茂別雷神社の境内にあるが、国道293号線を挟んで北東に位置する秀宝山玉林寺の管轄下にあるのだそうだ。
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 観音堂の右側に青面金剛。更に右奥には庚申塔があった。
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 観音堂左側に十九夜堂と馬頭観世音。
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 観音堂前から見下ろすと国道293号線が走り、その右手側に賀茂別雷神社の入口が見え、293号線の向こうに多田駅が見える。
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 賀茂別神社の拝殿左手側に機姫神社の石鳥居。大正十年四月に奉納されたものであるようだ。
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 機姫神社・産泰神社拝殿。
 機姫神社石鳥居奉納碑などが建てられているのだから機姫神社がメインだと思うのだが、むしろ産泰神社の額が中央に掛けられ、その左側に機姫神社の額が掛けられている。
 二年前に来た時には老朽化した社殿だったので、ここ二年ほどの間に建て替えられたのだろう。ところで、産泰神社の御祭神は木花開耶姫命として、機姫神社の御祭神はどなただろう? このテの神社は地域によって祀られている神様が違うので、神社の名前だけでは判らない。
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 …えっと、これが産泰神社?
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 機姫神社の石鳥居脇にも立派な祠があり、左三つ巴の神紋は確認できたのだが、何神社なのかは判らない。
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 その左側に八坂神社。
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 八坂神社と正体不明の祠の間の道を奥へ進むと、石段の脇に石祠が並んでいる。
 中央に琴平神社。その左に山神社。右端は青面金剛。琴平神社と青面金剛の間には「奉納白山」の文字が刻まれ破損した石塔。白山の下に大と続くようなので、白山大権現かと思われる。
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 琴平神社から左へ向かうと大宮神社。
 大宮神社も地域によって祀られている神様が違うので、こちらの御祭神も不明。
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 琴平神社前まで戻り、石段を見るとその脇に寒澤山神社参道石階段奉納連名碑がある。昭和八年(1933)十一月二十五日に建てられたもののようだ。
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 石段を上って行くと…なんだろう。貯水場のようにも思えるが、よく判らない。観音堂脇の石段からもこちらに上がって来ることができる。
 階段が付いているので石垣の上までは行けそうだが、本当にここ、山城なり砦なりでもあったんじゃなかろうか。
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 その前に南側を向いてみると、拝殿や本殿を見下ろすことができる。
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 石垣の上に上ってみると、休憩所らしきものがあり、その奥に細い道が続いているのが見える。
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 蜘蛛の巣があちらこちらに張られているので、篠で掃いながら上って行く。
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 五分ほどで到着。こちらが寒澤山神社になるのだろう。とすると、夕日森天満宮などと並んでいたのは里宮と言うことになるのかな。
 それにしても、寒澤山神社と言うことはこの山が寒澤山と言うことになるのだろうか。地図には記載されていないし、ググってみてもWristletさんの賀茂別雷神社の記事くらいしかHitしない。なんともよく判らない神社だ。

 以上で9月5日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA40mmとDA70mm、K10DにDA21mm。
 あと二~三箇所は参拝しようかとも思っていたのだが、お腹が空いたからこれで帰宅。
 今回は虫除けスプレーを買ってみたのだが、効果あるのかな、これ。確かにいつもよりは虫が少なかったかなとも思うけど、愛宕神社を参拝していた時は一匹だけやたらとまとわり付いてくるアブだかハチだか(調べてみたらヒラタアブのようだ)がいて鬱陶しかった。移動しても追いかけて来るんだものなぁ。直接スプレーを吹き付けてやったら漸く離れてくれたが、その攻防の際に自分の顔にまでスプレーがかかってしまったので痛み分けか(苦笑

岩倉神社(山越町)

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 下宮神社から北上して行くと役の溜と言う溜池があり、その西側の駐車場脇に岩倉神社が鎮座している。
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 左から不明、山神宮、莉権頭家綱霊社、岩倉宮、不明、お地蔵様。
 岩倉神社の御祭神は朝日森天満宮を建立した足利家綱公であるとのことだが、すると中央の祠が岩倉神社になるのだろうか。しかし莉権頭ってどんな役職なんだろう。ググって見ても権頭は出ても莉権頭は出て来ない。
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 でも莉にしか見えないよなぁ。
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『岩倉大権現祠の由来
 岩倉大権現は、藤原秀郷八代の孫×従四位上足利又太郎壹岐守藤原家綱を祭り××のように伝承されている。
 家綱は身長が三メートル、腰回りが××七メートルもある大巨人で、日本無双の大力を持ち文武の道に秀でた武将であった。父成行の後を次いで足利城主となってから、民部大輔という役に任ぜられ、よく忠勤に励んだので朝廷よりの信頼が厚くなり、一族の勢力は次第に広まってきた。ところが同格の者がねたみ、讒言したので、領地を没収され九州大宰府へ流されてしまった。配所にあること三年余り、天満宮に無実の罪が早く晴れて帰れるよう一心になって祈願したその甲斐があって満願の日に霊験が現れた。勅使が来て「無実の罪は晴れた、急いで同行せよ。都では今お前の力を必要としている」と申された。喜び勇んで都へ上った家綱を待っていたのは、朝鮮の使者が連れてきた三人の力士と相撲を取ることであった。使者からはこの相撲で日本側が負けたら、今後日本から朝鮮へ貢物を納めてもらいたいと申し入れられ、負ければ日本国末代までの恥、負けられない勝負である。勝負の場所は京都三條柳の馬場が選ばれた。公卿、諸大名など大勢の観衆の中を、新しく造られた土俵中央に出た家綱は、蛇慢、我慢、岩幕三人の朝鮮の力士を一緒に対手にして、大力に物をいわせて一瞬の間に打ち負かしてしまった。時は元永二年(1119)のことである。面目をほどこした家綱は、恩賞を受けて晴れて故郷足利へ帰り、廟を建てて天満宮を祭り、また保安二年(1121)三月二十二日には、佐野庄山越村明菊山の鎮守加茂別雷大明神に天満宮を合祀し熱心に崇拝した。家督を子俊綱に譲ってから佐野庄能忍地村(田沼町田沼総合グランドの辺り)に館建てて住み、天承元年(1131)十二月二十三日永眠された。御遺言により明菊山加茂別雷大明神の傍らの岩窟に葬り、廟を築き、岩倉大権現と称した。家綱は死後もこの地に在って、加茂別雷大明神の祭神と共に近在の守護とその発展を悲願としていたのである。付近一帯には、秋に雷電菊が美しい花を開き境内には金明水の池を称する水のかれることのない泉があって、ここから流れ出る水は山越以南の水田を潤していた。また、この水は酒造用としても珍重された。この地方では相撲興行がある時、岩倉大権現に参拝しないと負けると言われていて、力士の参拝者が多かったとも伝えられている。
 家綱は子が多く、俊綱、有綱、郷綱、成次、成実、高綱等は知勇の優れた武将となって、それぞれ各地で活躍した。
 大沢一族の祖は、家綱に仕えてよく忠節を尽くし、子孫は代々明菊山麓に住み祖先の遺志を継いで家綱の廟墓を守り、地域の開発と振興に貢献し反映してきた。
 十数年前から開発の波に乗った採石業のために、加茂別雷神社は移転のやむなきに至り岩倉大権現の石祠も参道などにあった石仏と共に下ろされ、大沢一族の手によって役の溜の西山麓に手厚く祭られている。
 昭和五十六年四月』

 ×と書いたのは文字が薄くて読み取れなかった部分。
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 石碑には「役の溜 ふれあい乃里」と彫られている。
 この地から湧き出る水が菊沢川の源流であり、地域住民から菊水と呼ばれていたそうであるが、すると此処こそが嘗ての白竜潭と言うことになるのだろうか。

下宮神社(山越町)

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 加茂別雷神社の西側の道を北上して行くと、山口製作所の西側に下宮神社が鎮座している。
 鳥居の額には下宮大神と記されているが、はてさて、御祭神はどなたなのだろう。船越町には上宮神社があったが、いささか遠いか。
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 鳥居の左側に明治卅七八年戦役記念碑、右側に烈士表。
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 参道の奥に石祠が見える。石祠は比較的新しく、その奥に朽ちた木造の祠だったものらしき物が見えたので、ここ最近取り替えられたばかりなのだろう。
 こちらが下宮神社の本殿になるのだろうが、どなたを祀っているのかはやはり判らず。
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 右奥に末社が三つ並んでいるが、右端がどうやら愛宕神社であるらしいこと以外は不明。

 左奥の方にも石燈籠や石祠らしきものが見えたので近付いてみたのだが、どうやら奥都城のようであるように思えたので引き返すことにした。

加茂別雷神社(山越町)

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 国道293号線を東へ走って行くと、山越交差点の手前に加茂別雷神社が鎮座している。
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『遥拝殿屋根改修記念碑
 当神社は大同二年(807)山城国上賀茂神社より胎蔵院杉本坊が基の御分霊を現在地より二粁奥の菊水山に勧請し、菊水源社雷大権現と称したのであります。天慶三年(940)唐沢山城主俵藤太秀郷公が崇敬特に篤い黄金製の菅原道真公像を当社に奉斎し、近郷十八箇村の総鎮守として霊験あらたかな由緒ある神社であります。明治維新後加茂別雷神社と称するようになりました。昭和九年(1934)に遥拝殿が新築され、今日まで多数の崇敬参拝者を見たのであります。
 昭和二十五年(1950)制定されました鉱業法により神社氏子、三好鉱業と合議の上御本殿を現在の地に移すことになりました。この遷座には多年の歳月と巨額の資金を要する至難の事業でありましたが、神明の加護を祈り当時の宮司八下田経雄、氏子総代川久保育松、秋沢幸太郎、津布久忠一郎各位を始め川久保工務店氏子各位の協力を得て昭和五十四年(1979)三月正遷座式を執行したのであります。
 この度氏子各位の総意によりその浄財を以って遥拝殿の屋根修復及び宝蔵庫新築事業を完成したのであります。今や加茂別雷神社の面目一新し、御神徳をいよいよ宣揚し草創以来の経緯を記し、山越の総氏神の歴史と文化を永く後世に伝えるため温かい御理解と御支援をいただいた各位に謹んで御礼申し上げる次第であります。
 昭和六十三年三月六日』
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 神楽殿かな。
 丁度逆光になってしまったので、二年前に撮影したもので代用。どうせ二年前と変わってはいない。
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 拝殿。
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『御祭神
  天兒屋根命
  別雷命
  菅原道真朝臣命
由緒
 当神社は人皇五十一代平城天皇の御宇大同二年五月五日山城国加茂皇大神の分霊を菊水山に勧請し、爾来雷大権と称せり。降而朱雀天皇天慶三年唐沢山城主田原藤太秀郷公平将門追討するに際し、本社に戦勝祈誓せしに速に将門誅に伏したり。因に公の子息藤原千常公に至り、秀郷公崇敬篤かりし菅公像神体を当社の相殿に斎き奉り、社領を奉納し近郷十八箇村の総鎮守としたり。
 境内に八重の紅色菊花群生し美観を呈する中に霊泉湧出し集りて霊池を成す。これ菊水川の源にして大旱と雖も涸れし事なく、流路は山腹を迂曲して水田に灌漑し五穀豊穣の守護神と称し、嘉永四年(1851)五月社号を菊水神社雷大権現と称せしが明治維新の際現今の如く改称せり。
 明治中葉神霊に報賽し永世太々講を起し講員分布二県二郡に亘るを知る後霊験灼なるを感得し分霊を斎り長く報賽の請願に合い、それに分霊して今日尚年々報賽し来るあり。
 祭典は五月五日六日の両日にして、当夜には菊水川の下流に当り無数の灯火波紋に映し更闌くるに漸く社頭に接するの趣あり。古諺之を竜灯と称し世人の尊敬厚く実に稀有の祭典なり』

 旱魃でも涸れることのない霊池と言うものが書かれているが、前述の愛宕神社の伝説に出て来る白竜潭が、日照りが続いても絶対に渇かず、毎日田圃に水を引いても無くならない不思議な池で、人々の暮らしを支えていたと伝えられている。その霊池が白竜潭であるのだろう。
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 本殿と幣殿。
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 末社。

愛宕神社 山宮(田沼町)

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 田沼総合運動場の横を抜け、北西へと車を進めると愛宕神社の鳥居の前まで到達できる。
 右手前には朱塗りの神明鳥居があり、末社が祀られている。
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 末社の一覧が記されている。
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 看板に記されているように、左奥から道祖神、三峯神社、猿田彦神、天満宮、辨財天、天満宮、鷲宮神社。
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 愛宕神社の鳥居。
 鳥居をくぐると石段が続いており、数えてみたら340段あった。
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 これも拝殿になるのかな。
 実は延々石段を上って来なくても、里宮南側の十字路から西回りで上って来れば、車でもここまで来られるようだ。
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 これを見ると、御祭神は屋船久々能智大神と屋船豊受姫大神、手置帆負大神、彦狭智大神のようだ。愛宕神社なのに軻遇突智命がいないのは珍しい気がする。
 そう言えば、佐野市立図書館のサイトに書かれていたのだが、鎌倉時代に唐沢山城主佐野成俊が白竜潭と言う池で白竜神に会い、白竜に民を守ってくれるように願うと白竜は自分を祀るように命じたので、成俊は愛宕山に社を建てて祀る事にしたと言う伝説が残っており、その愛宕山がここであるのだそうだ。しかし、ここには白竜らしき名前は無い。別に祠があるのだろうか。
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 本殿。
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 拝殿を東側から。
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 本殿裏手に石祠。左側に妙儀神社とあるのは判るが、右側は剥がれ落ちていて読み取ることができない。
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 拝殿の西側に回ると庚申塔が群れを成している。庚申塔群の奥にも進んでみたのだが、特に何も見当らなかった。白竜を祀った祠というのはどこにあるのだろう。

愛宕神社 里宮(田沼町)

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 国道293号線から田沼総合運動場へ向かって行くと、運動場の南側の道端に鎮座している。
 鳥居の額には愛宕とある(下半分は破損している)ので、北の山上にある愛宕神社の里宮なのだろう。
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 拝殿前には愛宕神社移改築記念碑が建てられており、昭和四十二年七月二十四日竣工と記されていた。

朝日森天満宮(天神町)

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 星宮神社北口から西へ50m程歩いて行くと、十字路北側に朝日森天満宮の一の鳥居がでんとそびえている。

続きを読む

星宮神社(大蔵町)

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 例幣使街道を東へ戻って行くと、味噌まんじゅう屋と佐野信用金庫の間から星宮神社の参道が北へと伸びている。
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 銅造鳥居と狛犬。
 狛犬の後ろに案内板が設置されている。
『銅造鳥居
 享保二十乙卯年(1735)三月金屋町総鋳物師棟梁大工職という刻名がある。
 天明鋳物の名匠たちが協力し、天明宿の総氏子が奉納した明神鳥居である。
 昭和三十三年(1958)に市の有形文化財に指定された。
 当神社は、節分祭が行われることで有名である。
 高さ 424cm、柱周囲 106.05cm』
『和算の額
 天和三年(1683)当地出身江戸住の村上庄兵衛吉重の奉納による和算の額である。長い間風雨にさらされ、さらに火災にあって判読は困難であるが、文面は別に記録されている』
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 鳥居の右側に境内社。
 左側が機殿神社で右側が高礼稲荷神社。小さな石祠も見えるが、よく判らない。
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 機殿神社と高礼稲荷神社の間にも石祠がみつしりと詰まっている。
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 石段脇の御神燈も金属製。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当らなかったが、栃木県神社庁のサイトに星宮神社の記述があった。それによると、創建時期は久安年中(1145~1150)で、延宝四年(1677)に逝去した領主井伊掃部頭直澄の遺金と近郷奉賀金三五○両をもって、天和三年(1683)に社殿を改築して現在に至っているそうだ。また、プチ神楽殿さんには星宮神社が天明宿の氏神として祀られる前は犬伏地区富岡にあり、これを慶長五年(1600)佐野修理大夫信吉が現在地に移転させたとの記述もある。旧社地は七ツ塚と呼ばれ、塚を北斗七星の形に配置してこの地を星宮妙見大菩薩を祀る地としているのだとか。
 主祭神は天津日高彦瓊々杵尊で、配祀神に磐裂神・根裂神。神仏判然令施行前までは虚空蔵菩薩も祀っていたそうだ。
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 本殿を横から。
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 本殿の右側に浅間神社。
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 本殿の裏を回って星宮雷電神社。
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 神楽殿。
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 神楽殿の脇に小さな…稲荷神社かな。
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 階段を下りると厳島神社。
 御神使の蛇も鋳物で造られているのかな。
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 階段から振り返って拝殿を見上げてみたり。
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 星宮神社北口。
 こちらが駐車場になっているようだが、今回は徒歩なのであまり関係無い。

 参拝した時には気付かなかったのだが、どうやら敷地の外に庚申宮があったらしい。また、境内社を線で繋ぐと北斗七星の形になるそうなのだが…なるか? 厳島神社が貪狼星(ドゥーベ)、雷電神社が巨門星(メラク)、浅間神社が禄存星(フェクダ)、星宮神社が文曲星(メグレズ)、機殿神社が廉貞星(アリオト)、高札稲荷神社が武曲星(ミザール)、庚申宮が破軍星(ベネトナシュ)と見れば、文曲星の位置がずれていることを除けば、まぁ、なるか。

熊野神社(大町)

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 例幣使街道を西へ向かい、大町交差点で北へ折れると大町公民館の隣に熊野神社が鎮座している。
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    『熊野神社由緒
     所在地  栃木県佐野市大町八四四番地(両毛線佐野駅より1.5キロ
     主祭神  伊弉那岐命、伊弉那美命
     神 紋  三ツ巴
     例 祭  四月九日(春) 十月九日(秋)
           神社は昔、寺子屋の発祥地に依り現在でも
          春祭には地元小学校入学児童の祈願祭有り
     殿 造  本殿流造り瓦葺き 間口一間 奥行一間一坪
           幣殿瓦葺 一・四坪
           拝殿瓦葺 五・○坪
     社務所  平屋造り瓦葺き 一○坪
     鳥 居  一基 神明造り花崗岩
     境内地  四八・九九坪 参道 岩船石
     宮 司  星宮々司 新村貴一
     氏 子  一七○戸 昭和四十七年前後
           崇敬者 五○○名
     由 緒 沿革慶長年間天明小屋町地区地割後田沼町より奉還せり
     (年号)慶長 (年代)一六一三年社』
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 拝殿。
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 本殿。
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 境内奥には出流天狗受難碑などの石碑が並ぶ中に「月山・湯殿山・羽黒山」と彫られた板碑もあった。

地久稲荷神社(万町)

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 孫太郎神社から南へ歩いて行くと、例幣使街道に出る手前に地久稲荷神社が鎮座している。
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 拝殿。
 こちらの由緒などは判らなかったので、例によってググってみると、二ヶ月ほど前のMSN産経ニュースにこちらの神社の記事が掲載されていた。なんでも、佐野市が「町会のお宝・自慢調査」とかを行った際に万町町会のお宝として選ばれたと言うことらしいのだが、それなら案内板などを設置してもっとアピールしてくれればいいのに。
 町会のお宝・自慢調査の内容は佐野市の広報誌で紹介されているそうなので、佐野市の公式サイトから広報誌のバックナンバーを探してみると、2010年6月15日号に掲載されていた。
『地久(ちきゅう)稲荷神社
 所在地:万町90番地
 文化三年(1,806)に作られ、日光例幣使街道絵図に記載されている稲荷様と思われます。
 天長地久を乞い願う守護神として地久稲荷と命名されました。3月19日に例祭、7月15日には子供が神輿を担いで練り歩く夏の祭りが開催されます。特に花柳界の信仰が深く、縁結びや子供達の健やかな成長を温かく見守る子育て稲荷として知られています。周囲には賑やかな往時を偲ぶように「江戸街道」「殿町通り」「芸者横道」などの地名が残っています』
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孫太郎神社(伊賀町)

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 佐野駅の北にある城山公園の東駐車場に車を置き、そこから佐野駅南口へ出たら西南へ歩いて行くと伊賀町公民館の隣に孫太郎神社が鎮座している。
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『伊賀町鎮守 孫太郎神社縁起
 通称「孫太郎様」として親しまれているこの神社は、今を去る千六十有余年の昔に創建されたと言われています。
 天慶の乱(938~940)に平将門を討った田原藤太秀郷により、天命の春日ノ岡(現在の城山公園)に建てられた寺の守護神として祀られました。しかし、寺も神社も保元・平治の乱(1,156~1,159)に兵火に遭い、荒廃してしまいました。その後、文永年間(1,262~1,272)に寺は俊海上人によって再興され、同じ時期に神社もまた修復されましたが、その再建に力を尽くしたのが孫太郎と称していた秀郷八代の子孫に当たる足利家綱でした。里人達は、それを大変に徳としまして、それから後神社の名を「孫太郎明神」と誰いうとなく呼びならわし、いよいよ崇敬の念を篤くしたとされています。
 尚、異説として鎌倉時代の武将・佐野孫太郎義綱が讒言にあって、領地をすべて没収されるという悲運に遭いましたが、稲荷社に自身の無実が晴れることを懸命に祈願したところ、その甲斐あって疑いが晴れ、無事に領地を取り戻すことが叶いました。その謝恩の念を込めてそれまで無名であった稲荷社を春日ノ岡に「孫太郎神社」としてお祀りしたのが由縁であるという故事も伝わっています。
 慶長七年(1,602)唐沢山城城主・佐野修理太夫信吉は春日ノ岡に新しく城を築くこととし、天命の街づくりに着手しました。このために従来あった寺は安蘇川(現在の秋山川)左岸に城下の防備を兼ねて移されました。この寺が厄除け大師で知られる春日岡山惣宗寺であります。しかし、稲荷社は新たな春日岡城の守護神としてそのまま鎮座されました。その往時、神徳のあらたかな社として参詣者は日々市をなすほどの賑わいを見せたと伝え残されています。
 やがて時移り大正六年(1,913)三月、関係者特に伊賀町有志の尽力により城山公園に鎮座する孫太郎神社を現孫太郎公園内に遷座し、町内鎮守の神として尊崇されて参りました。その後平成七年(1,995)十月駅南土地区画整理事業に伴い現在地に遷宮、今に至っております。また春日岡城、唐沢山城の守護神であるとして北向きに構える社であられることは、全国でも稀な存在として注目されています。
主祭神 豊受姫命
配神   宇賀魂神、猿田彦神、豊城入彦神』
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 末社。

 佐野駅構内の東に摩利支天神社があると聞いたのだが、佐野駅北口から南口へと通り抜ける間にはそれらしいものは見当らなかった。プラットホームまで降りないと駄目かな。

諏訪神社(高萩町)

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 赤城神社の北を走る県道270号線を東へ向かい、高萩町交差点を越えると左手側にかつはな亭が見えて来るので、その脇で左折、T字路で右折すれば諏訪神社の前に出る。神社の東側に駐車場あり。
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『諏訪神社 下野之国高萩鎮座
御祭神  
 主祭神  建御名方神
 妃 神  八坂刀売神
御神徳  
 五穀豊穣・心願成就・交通安全・開運長寿
合 祀
 厳島神社(市杵島姫命)
 日枝神社(大山祇命)
 八坂神社(須佐之男命)
 天満宮 (菅原道真公)
 このほか浅間神社(木花之佐久夜毘売命)が境内の一角に祀られている。

由緒沿革
 当社の創立は詳らかではないが、寛元二年(1,244)信州諏訪神社より分祀したことを古老の口碑は伝える。
 元禄四年(1,691)卯月八日には大破した拝殿を再建したことが棟札により分かり、明治七年(1,874)神武天皇相殿に奉祀する際にも再建が行われている。
 昭和十六年(1,941)年には紀元二千六百年記念事業として境内拡張、社殿移転が施工され、その記念碑が境内に建っている。
 なお、現在の社殿は昭和六十三年(1,988)に大改修したものである』
 神紋は丸に違い鎌。
 ところで、日枝神社の御祭神って大山祇命ではなく大山咋命だったと思うのだけど、こちらでは大山祇命を祀っているのか。
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 拝殿。
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 本殿裏面の彫刻。
 桴を振りかざす褌一丁のおっさんの周りに大きな槌と雲間から走る稲妻のようなものが彫られているが、これは雷神かな。槌があるから武甕槌命だったりして?
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 境内社。これが浅間神社かな。
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 日枝神社。
 その隣には仮殿とあるが、はて?
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 境内拡張・社殿移転竣工記念碑と神楽殿。
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 地租改正絵馬は栃木県内においては二件しか確認されておらず、その内の一件がこちらの神社に納められていると言うことのようだが、するともう一件は足利市梁田町の星宮神社のものと言うことになるのか。
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