亀嶋神社(東神田一丁目)

IMGS1969s.jpg
 都立一橋高校の南東に鎮座する亀嶋神社(千代田区東神田1-14)。
 鳥居の脇には平成五年十月に建てられた鳥居建立者芳名碑があるが、由緒等を記したものは見当たらない。
DSCF8677S.jpg
 本殿。
 稲荷系の神社であるようだ。たぶん。
IMGS1963S_2017020522044512b.jpg
 時間貸し駐車場の裏手にあるため、ぱっと見にはわかり難い。
IMGS1975S.jpg
スポンサーサイト

清水扇稲荷神社(東神田二丁目)

IMGS1954s_20170205214743e0c.jpg
 美倉橋南交差点の120m程東に鎮座する清水扇稲荷神社(千代田区東神田2-9)。
IMGS1957s_20170205214742927.jpg
 実にシンプルな境内。
IMGS1962s.jpg

草分稲荷神社(神田佐久間町三丁目)

IMGS1949s_20170205213034268.jpg
 金綱稲荷神社から120m程南下すると、佐久間公園の端に草分稲荷神社(千代田区神田佐久間町3-21)が鎮座している。
IMGS1945s_2017020521303264a.jpg
 本殿とお狐さま。
IMGS1947s_20170205213033953.jpg
『草分稲荷社大神由来
 この社は元、板倉主計頭邸内に祭られていましたが、明治維新の後、武家屋敷が取りはらわれて町家と変り祠のみが残っていました。
 廃れゆく稲荷を惜しんだ町内の有志が蓄財を出し合い保存と祭社の策を講じていたもので昭和三十六年佐久間公園東北隅に遷座されました。
 現在も佐久間町三丁目町会を中心に連合町会にてお祭りを行っています。
  御祭神 宇迦之御魂命』
IMGS1941s_20170205213031c81.jpg

IMGS1951s.jpg

金綱稲荷神社(神田和泉町)

IMGS1909s.jpg
 和泉公園と日本通運の間に鎮座する金綱稲荷神社(千代田区神田和泉町2-3)。
 こちらにお参りするのは九年ぶりか。結構変ったなと言う印象だったが、見直してみたら全然変っていなかった。前回は夜明け前のほぼ真っ暗な状態だったせいで、周囲のことなどがあまり記憶に残っていなかったのだろう。
IMGS1921s.jpg IMGS1922s.jpg
 お狐さま。
IMGS1912s.jpg
 本殿。
IMGS1930s_20170205210309519.jpg
『金綱稲荷大神由来
 ここに鎮座まします神様は、お位では正一位の極位格式本大斉祀式の最高「金綱稲荷大神」と申される神様でおわします。
 この神様の親神様は、伏見稲荷大神であらせられまして、五穀豊穣を守る農耕の神、衣食住の神と仰いで崇敬され、更に商売繁盛の神、産業護の神、道中を守護する神と信じられ、今日的には生活守護の神、交通安全の神と崇め奉られているのであります。然して、金綱稲荷大神様が、この地和泉町に外まつりとして奉祀されるに至りました経緯は、遠く三七九年の昔に遡及することになりますが、それを要約いたしますと、日本通運の先祖に当る飛脚問屋京屋弥兵衛という方が、徳川幕府から免許をうけて、大阪(浪花)、京都(京)、東京(江戸)間の運送事業を開始することになりましたものの、当時の世相は未だ物情騒然として治まらず、人様から頼まれた大切な信書や金銭それに貨物などを、安全正確に送り届けるにはどうすればよいか、ということについて苦慮されたのであります。そのとき、京屋弥兵ヱの脳裏をかすめ閃めいたのは、伏見稲荷大神様が、中世のころ、熊野信仰がさかんになるにつれ、熊野参詣の道中を守護された道中安全の神様であらせられることを想起し、これは伏見の親神様にお縋りし、ご助力を祈願するに如かずとし、京屋は常日頃から伏見稲荷大社に参拝、同神様を信仰していたものの、これでは信心が足りないとして、同神社から大神様の"みたま"を勧請し、日夜自店にあって修行されたのであります。ところが或る夜の夢枕に王冠白衣のご神霊が立ち給い「汝の篤信のためで、汝に黄金の綱を授けるものなり、ゆめゆめ疑ごうことなかれ」とのご託宣がありましたので、恐懼再拝、感激極まりなく、早速自店で奉祀している神様に「金綱」の名前をつけ、これが金綱稲荷大神と称えるようになった由来であり、前にも増して信仰に励んだのであります、尓来、金綱様のお導きにより、京屋の飛脚は、道中における山賊や護摩の灰からの人災は皆無となりましたが、これは"厄除け""交通安全"につながり、従って無事故は信用を倍化し、顧客が増えれば"商売繁昌"につながるとして店栄えるに栄え、なおかつ誠心誠意、人間性的な事業経営は信仰に繋がるものとして、これを「業即信仰」と称え、これを金言として子孫に伝え、子孫またこれを実践躬行しましたので、京屋飛脚問屋は明治四年陸運元会社に吸収統合されるまでの二七一年もの長い間、連綿と続いた老舗となったのであります。続いて統合の結果金綱稲荷神社の祭主は時代の変遷に伴い、京屋から陸運元会社、内國通運、国際通運、日本通運と移り変りましたが、その祀り方におきまして、内まつりから現在の外まつりと変ったのであります、その理由は定かではないが、推測するに、大正初期の内國通運神田支店(現在の秋葉原支店)は、聖なるところに畄まれるという観点からと、地域社会一般の人が参拝するに過した地点をということで、現在の場所を選ばれたと思うのであります。その結果は、毎年の初午祭には盛大な祭典が行われ、地元町家一般の参拝は日に月に激増し、神田一帯の信仰を集めるようになりましたが、これもご利益を授け給う灼かな神様であることが理解されたからであります。その灼かさにあやかりたく、日本通運では新造船に「金綱丸」と命名し、航海の安全を祈ったところこの金綱丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、全く以って奇跡といわれているのであります。また、外まつりとなられた金綱稲荷大神は地域住民社会一般の方々に対しましても、人によって差別をつけられることなく祈願によってご利益を授けて下さるものでありまして、あの大正十二年九月一日の大震災のとき、猛火は殆ど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、俄かに神田川沿いの屋上に霊狐が現われ、頻りに炎上する火焔に立向い、それを追い拂う所作をされていましたがその神々しいお姿を、自分はこの目でまざまざと見上げたものだとは、当時穀商の鈴木四郎氏という方の話として、今に残っている逸話でありますが、これは神様は平等にご利益を垂れ給う好い一例であるのであります。このように、金綱稲荷大神様にまつわる話は、枚挙に遑ありませんが、要するにこの神様は、ご利益を祈願して成就せざることなしとの灼かな神様であらせられますので、この神様を礼拝され、広大なご神恩を鑽仰されますこと祈念する次第であります。恐惶謹言
  昭和五十五年二月三日 初午に当り
             日通金綱稲荷奉賛会』

 由緒書き設置されたんだなと思っていたが、前回の写真を見直してみたらこの由緒書きも写っていた。あの時は全然気付いていなかったんだなぁ。
IMGS1931s.jpg

日枝神社(永田町二丁目)

IMGS8422s_20161205191950e55.jpg
 国会議事堂の西側、星ヶ岡城二の郭跡に鎮座する日枝神社(千代田区永田町2-10-5)。
 公式サイト有り。五年前に参拝した日本橋茅場町の山王日枝神社はこちらの摂社・御旅所である。
IMGS8430s_20161205191949d9b.jpg
 石段。
IMGS8432s.jpg
 随神門。
IMGS8481s_20161205191947b32.jpg
 内側から。
 こちら側の随神は猿の姿をしている。写真に大きく収めたいところではあったがガラスが反射して駄目だった。55ΦのC-PLフィルター買おうかなぁ。
IMGS8486s.jpg
 拝殿。
IMGS8479s_201612051946250be.jpg IMGS8475s.jpg
 御神使の猿。
IMGS8441s_201612051948192ea.jpg
 末社。
 左側に山王稲荷神社、右側に八坂神社・猿田彦神社。
IMGS8459s_2016120519562817f.jpg IMGS8455s.jpg
 狛犬。
IMGS8452s.jpg IMGS8453s.jpg
 アップで。
IMGS8446s_20161205194759718.jpg
『千代田区指定有形民俗文化財 狛犬
 指定 平成十二年四月
 日枝神社の境内社、山王稲荷神社の本殿と、八坂神社・猿田彦神社両社を合祀した本殿の前に、一対の石製狛犬があります。幅五五cmほど、高さは七〇cmほど、台座部分を含めても大人の背くらいの高さです。
 像の台座には「奉献」「文政三庚辰年六月吉日」「南伝馬町三町目」「家主中」などと陰刻の銘文があり、向かって右側の像には「植草重左衛門」ほか一〇名と「地形方抱三右衛門」「石工 新川勘兵衛」などの名前が、また同様に向かって左側の像には「亀田左兵衛」ほか一一名の名前が見られます。この他に左側の像の中段台石外側の側面には「明治三十四年九月 自神田神社境内移之 南伝馬町三ヶ町」などと年代の異なる銘文も刻まれています。
 以上のことから、この狛犬はもともと文政三年(一八二〇)に、当時神田神社境内に鎮座していた南伝馬町天王社に奉納されたものであることがわかります。しかしその後、明治一八年(一八八五)二月一三日未明に神田神社周辺で起きた火災により天王社本殿その他が焼失した後、南伝馬町の氏子たちは新たに日枝神社境内に鎮守として祇園社を勧請しました。その時点では、おそらくこの狛犬は未だ神田神社境内に現存していたのであり、一六年後の明治三四年(一九〇一)に石製燈籠などその他の南伝馬町天王社に由来する旧来の石造物とともに日枝神社境内に移転、再設置されたと思われます。
 この狛犬は、千代田区内に現存する狛犬としては、すでに文化財指定した二例【平河天満宮狛犬=享和元年(一八〇一)、再建嘉永五年(一八五二)】【築土神社狛犬=安永九年(一七八〇)】と同様、江戸時代の銘文をもつものであり、区内においては貴重な文化財です。そして、江戸時代から明治時代にかけての人々の信仰の一端、特に日枝神社及びその境内社である八坂神社と神社周辺の人々や南伝馬町の人々との関わりを、私たちに語りかけてくれているのです。
 平成十三年三月』
IMGS8466s_20161205195627c63.jpg
 稲荷社の裏手にも祠があるのが見えるが、こちらは柵で遮られた立入禁止区域内にある為何神社であるのかは不明。
IMGS8462s_20161205200552a84.jpg
 こういう所があると城跡なんだなと実感できるが、現在は補修作業中のようだ。まあどのみち立入禁止区域内なので近寄って見ることはできないのだけど。
IMGS8573s_2016120520160210b.jpg
 西の鳥居。
IMGS8564s_20161205201559e41.jpg
『山王さま 日枝神社(江戸山王 元官幣大社)
 御祭神 大山咋神
 相殿神 國常立神・伊弉冉神・足仲彦神
 御祭神・大山咋神は須佐之男神の御孫神、稲・穀物の神、大年神の御子で山末之大主神(山頂を支配する偉大な神)鳴鏑(鏑矢)に成りませる神とも申し上げます。
 大山咋神は、近江国(滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まり、平安京を守護し給う大神として、山王・日吉・日枝の社は全国に三千数百社に及びます。
 江戸山王の始原は鎌倉の初期平家の一門・秩父重継が江戸貫主を名乗り、その館に山王社を勧請し、文明十年(一四七八)太田道灌が城内に、更に天正年間徳川家康が入府に際し城内の鎮め・将軍家産土神と崇め、四代家綱・万治二年(一六五九)当地に移遷されました。
 江戸時代の山王まつりは日本三大祭の一つに数えられ、時の将軍が自ら奉迎せられ「天下祭」「御用祭」とも称され広く世に知られ江戸市民に親しまれました。
 現在も隔年に執り行われる六月の山王まつり「神幸祭」は氏子各町内を巡幸し、古式ゆかしく盛大に行われています。
 明治維新東京奠都により江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城の鎮護・国土の平穏・万民の和楽を祈願し官幣の大社に列せられました。
 昭和二十年五月・戦災の国宝御社殿は、昭和三十三年六月氏子崇敬者の赤誠溢るる奉賛により復興され、その後宝物殿・山車庫・社務所・赤坂口山王大鳥居・西参道・稲荷参道等相次ぎ復興整備されました。
 氏子区域は都心の七十二ヶ町に及び、生業の隆昌・子孫家門の繁栄を守護し、御神徳は広大無辺であります』
IMGS8533s_20161205201601323.jpg IMGS8535s_2016120520160029e.jpg
 狛犬。
IMGS8515s.jpg
 稲荷参道側から見た山王鳥居。
IMGS8523s_201612052031388b2.jpg
 稲荷参道にずらりと並ぶ鳥居。
IMGS8505s.jpg
 この鳥居をくぐると山王稲荷神社、八坂神社・猿田彦神社合社前に出る。
IMGS8409s.jpg
 境内案内図。
IMGS8411s.jpg
 南神門。
IMGS8547s.jpg
 南の鳥居は現在改修作業中である為見ることができなかった。

亀住稲荷神社(外神田五丁目)

DSCF5732s.jpg
 中央通り上野三丁目交差点の南東100m程の位置に鎮座する亀住稲荷神社(千代田区外神田5-4-7)。
 小倉藩主小笠原氏の中屋敷に祀られていたのだそうだ。
DSCF5741s.jpgDSCF5738s.jpg
 お狐さま。
DSCF5745s.jpg

 以上で12月26日参拝分終了。
 使用機材はFUJIFILM X30。
 この後は秋葉原へ向かい、新刊と新作ゲームを購入してから帰宅。ウォーキングカウンターは18,532歩。

花房神社(外神田四丁目)

IMGS5706s.jpg
 秋葉原UDXの北西に鎮座する花房神社(千代田区外神田4-4-5)。
 三年半前の時はよく見えなかったけれど、最近では神社西側の建物が取り壊された為にこうして正面から見えるようになっている。
 と言っても勝手に近寄るわけにはいかないので、トリミングをして擬似的に望遠撮影。
IMGS5702s.jpg

 今日は友人の買い物に付き合って秋葉原まで出ただけなので、エントリーはこちらだけ。

東京大神宮(富士見二丁目)

DSCN8444s.jpg
 飯田橋駅東口から南東へ歩いて行くと、東京大神宮(千代田区富士見2-4-1)が鎮座している。
DSCN8448s.jpg
『東京大神宮
御祭神
 天照皇大神 豊受大神
 天御中主神 高御産巣日神 神産巣日神(造化の三神)
 倭比賣命(天照皇大神の御杖代 第十一代垂仁天皇皇女)
御鎮座
 明治十三年四月十七日
御由緒
 明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遙拝殿として明治十三年(1880)に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後の昭和三年(1928)に現在地に移ってからは飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。
「東京のお伊勢さま」と称えられ親しまれているのは伊勢両宮(内宮外宮)のご祭神である天照皇大神と豊受大神のご分霊を奉斎していることによります。
 また日本で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから近年縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています』
DSCN8450s.jpg
 拝殿。
 こちらはいつも混んでいると言う話を聞いていたが、流石に朝八時前では殆ど参拝者の姿を見かけない。
DSCN8457s.jpg
 飯富稲荷神社。
DSCN8454s.jpg
『飯富稲荷神社
 明治初年日比谷大神宮御鎮座に際しその境内に奉斎され、昭和三年十月にこの地に奉遷、今日に至っております。
 衣食住と商売繁昌の守護神「稲荷大神」と土地の守護神「大地主大神」を祀っています。
 主な祭典として毎年二月の午の日に初午祭が、八月十五日には夏の大祭が斎行されます。
 また不世出の名優と謳われた九代目市川団十郎丈が篤い信仰を寄せていたことから芸能の神様としても崇敬されております』

 東京大神宮のやや南東に白菊稲荷神社があったのだが、見落としていた……○刀乙

繁栄於玉稲荷神社(岩本町二丁目)

IMGK5319s.jpg
 岩本町一丁目交差点と岩本町三丁目交差点の中間辺り、ミニストップ岩本町二丁目店のやや北側にある新井商店脇を西へ入ると繁栄於玉稲荷神社(千代田区岩本町2-5-13)が鎮座している。
 こちらは以前友人から借りて読んだ「金魚屋古書店」第7巻に集録されている第49話「神の町(後編)」にも登場しており、いつか参拝しようと思っていた。
 由緒書きは…まあそれらしいものはあるが神社のことについては書かれていないのでググってみると、長禄元年(1457)の太田道灌公をはじめ、寛正元年(1461)には室町幕府第八代将軍足利義政公、文禄四年(1595)には伊達政宗公などが参詣し、多くの崇敬を集めていたが安政二年(1855)十月二日の安政江戸地震により焼失し、明治四年(1871)に分社のあった葛飾区新小岩於玉稲荷神社へ本社を遷座したとのことだが、こちらがいつ再建されたのかは不明。
IMGK5330s.jpg
『お玉が池跡
 この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初、桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事から、お玉が池と呼ばれるようになったといいます。
 近くのお玉が池児童公園にも、この界隈の説明板があります』
IMGK5339s.jpg

IMGK5338s.jpg
 繁栄於玉稲荷神社から少し西へ歩くとお玉が池児童遊園がある。
 こちらのお玉ヶ池跡地は昭和三十一年一月に東京都の史蹟に指定されたのだそうだ。
IMGK5333s_20120205191706.jpg
『お玉が池界隈
 江戸時代後期から幕末にかけて、神田のお玉が池と呼ばれた辺りは、儒学者・漢学者等が数多く居住して、江戸の学問の中心地の一つをなしていました。しかし、お玉が池と呼ばれた範囲がどの辺りまでか、あるいは文化人がどこに居を構えたか、ということはほとんど分かっていません。
 現在、左の図にもあるようにこの界隈には、お玉が池とそこで暮らした人々を偲ぶ数多くの記念碑が建てられています』

IMGK5342s.jpg
 岩本町三丁目交差点手前に設置された千代田区町名由来板。
『神田松枝町
 この界隈は、昭和四十年代のはじめまで神田松枝町と呼ばれていた。松枝……松が繁っていた土地、というわけではなく、江戸城の大奥にいた「松ヶ枝」という老女中の名に由来する、という説がある。よほど有能な人だったのか、彼女に屋敷地としてこの一帯の土地が与えられ、宝永二年(1705)ころから町の呼び名になったという。
 旧松枝町あたりを中心にして、江戸のころまで、「お玉が池」という広大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、地畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人柄も品形も同じ様なる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名が付いたという。現在、そのゆかりの「お玉稲荷」がマンションの狭間にぽつんと残っている。
 景勝地・お玉が池の周辺には、江戸の文人や学者が多く暮らしていた。その一人である伊東玄朴ら蘭方医たちが尽力して、安政五年(1858)、種痘館(のちに幕府直轄の種痘所となる)を設立する。このお玉が池種痘所が、いまの東大医学部の出発点、なのだという。種痘所跡を記す碑が、町内の交差点と少し南方の加島ビル(一階は反物問屋)の所にある。
 周辺をじっくり散策してみたところ、ほかにも「お玉」の面影を残す”物件”を見つけた。「お玉湯」という銭湯。ビル一階の銭湯だが、湯につかると往時のお玉が池の風景が想い浮かんできそうである。それともう一つ、種痘所跡の石碑の真ん前にあるウナギ料理屋の看板に「あ玉が池」なるメニューを発見した。入って味わってみたところ、これは「お玉」にひっかけて、ウナギの頭を唐揚げにした珍味。店先には先の「江戸名所図会」に描かれた「お玉が池」の絵が飾られ、その名を付けたミニチュアの池まで設けられている。ちなみにこの店は弘化二年(1845)創業の老舗さが、店を始めた当時、すでにお玉が池は埋め立てられていたそうだ』
 お玉湯は先程の金山神社から東へ20m程も歩くと看板が出ているので見つけるのは簡単。

 以上で2月4日参拝分終了。風は無く陽射しがあるので、薄く汗をかくくらいに暖かい日だった。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。

金山神社(岩本町二丁目)

IMGK5306s.jpg
 昭和通り紺屋町交差点のやや北東に鎮座する金山神社(千代田区岩本町2-1-5)。
IMGK5303s_20120205190050.jpg
『金山神社御由緒
祭神  金山彦命・金山姫命
祭典日 一月八日  新年祭
    五月八日  春祭
    十二月八日 例大祭(鞴祭)
 古典によれば、二柱の御祭神は伊勢に鎮座される天照大神の御兄姉神にあたらせられ、古来採鉱、冶金、鋳造、鍛冶等、広く金属関係一切を司られる祖神と仰がれ給い御神徳は洵に広大無辺にして、剣の神感からは破魔除災の神として、亦金宝の霊感を以って厚く金運招福の神と崇敬されてきた大神様にあらせられます。
 我が金属業界の遠い祖先等は、この高き御神徳を敬仰して、総本営にまします岐阜県不破郡鎮座の元国幣大社南宮大社より御分霊を奉遷して、各地に金山神社を創建奉祀して来た処、東京金物同業組合に於いても昭和年代の初頭より御分霊を組合事務所に方斎して厚く崇敬の誠を捧げて来ました。併し第二次大戦の災禍に遇って祭祀中絶の止むなき仕儀と成りましたが、崇敬心聊かも変ること無く平和の世を迎えるに及んで、直ちに業界挙げて神社創建の計画を興し、広く奉賛会を結成して由かり深いこの地を鎮座地に選び定め、昭和二十七年秋十月新たに総本宮より御分霊を奉迎して仮殿に奉安申し、社殿造営工事は着々と進められ、二ヵ年に及ぶ歳月をかけて目出度く本殿以下現社殿の諸工事を竣工致しました。昭和二十九年十一月八日、由緒深い鞴祭の吉日を卜して御鎮座奉祝の大祭を盛大に斎行なし、以来宗教法人の神社として年々の祭儀を厳粛に奉祀して今日に至りました。
 茲に御鎮座三十周年の意義深き年を迎えるに当り帝都中枢の地に重鎮される金山神社の御神徳愈々御栄えまし、敬い奉る業界の末永き和協共栄をひたすら祈念して、謹みて御由緒記を建立いたす次第であります。
 昭和五十七年十一月八日』

IMGK5308s.jpg
 拝殿。
 IMGK5316s_20120205190049.jpg

一八稲荷神社(神田多町二丁目)

IMGK5261s_20120205162108.jpg
 千代田小学校の東に鎮座する一八稲荷神社(千代田区神田多町2-5)。
 Web地図には記載されていなかったので、佐竹稲荷神社脇の町名由来板を見なければ気付かなかっただろう。
IMGK5259s.jpg
『一八稲荷神社由来
一八稲荷神社の御魂は伏見稲荷神社の御霊の御分霊で、徳川時代の初め頃この地に移されたと伝えられております。
当稲荷神社は戦前まで新銀稲荷と呼ばれておりました。特に防火盗難除けの御神徳が高く、先の太平洋戦争で東京中が火の海と化した時も、この神社のおかげで地元多町は焼失を免れました。
戦後は近隣有志の方々のご協力に依り、木造の御社からコンクリート造りの御社殿として再建し、現在に至っております。
古くから稲荷信仰は人々の長寿、商売繁盛などの御神徳があらたかで、一八稲荷神社のお加護をいただいている私達も、それぞれ繁栄の生活を営むに至っております。
多くの方々が御参詣下さることを御祈念申し上げます』

IMGK5264s_20120205162106.jpg

佐竹稲荷神社(内神田三丁目)

IMGK5241s_20120205160602.jpg
 神田西口商店街の中に鎮座する佐竹稲荷神社(千代田区内神田3-10)。
IMGK5244s_20120205160601.jpg
『佐竹稲荷神社の記
 当佐竹稲荷神社は、此の地に江戸屋敷を構えた佐竹家(秋田二十万石)が藩邸の鬼門除けのため、寛永十二年(1635)邸内の一隅に稲荷の神を勧請、建立したのに始まり、其の後天和二年(1682)の大火により一面焼土となり藩邸は下谷に移ったが、稲荷神社は再建され、佐竹家の家紋「扇に日の丸」を社紋とし火防の守護神として江戸市民の信仰を受けてきた。
 明治にいたり神社制度が確立されるや、無格社となり其の祭祀は神田明神の神職が兼務し、其の護持は地元有志に委ねられた。時移り大正十二年の関東大震災に惜しくも灰燼に帰し、社有地は区画整理のため現在地に移され社殿の再建をみたが、昭和二十年の空襲により再び焼失の厄にあった。戦後の混乱期をへて復興の曙光をみる。昭和二十六年に仮宮が造営され、昭和二十七年には宗教法人により登記され、昭和三十年地元有志の奉賛により、総檜一間社霊屋造りの本殿が竣工し今日に至った』

IMGK5252s.jpg
『千代田区町名由来板
 旭町は、寛永年間(1624~1644)の江戸図によると、能楽師幸若太夫と、出羽秋田藩の藩主佐竹義宣の屋敷地でした。
 その後、天和二年(1682)暮れの大火により、焼け野原となった佐竹藩邸は翌年、下谷三味線掘に移りました。跡地は、新開地とあわせて町人町となり、永富町二~四丁目、新革屋町代地、元乗物町代地の一部となりました。明治二年(1869)、これらの地域は「旭町」と改名されました。
 旭町は佐竹家の紋から付けられた名前であるということですが、佐竹の紋について調べてみると次のようなことが書かれています。文治五年(1189)、源頼朝は藤原泰衡を討伐するため奥州平泉へ向かいました。そのとき常陸国佐竹郷の武士だった佐竹秀義は、宇都宮で頼朝の軍に合流し御家人となりました。秀義の旗が自分と同じ無紋の白旗であるのを見とがめた頼朝は、識別のために満月が描かれた自身の扇を与えて、旗の上に付けさせました。それが佐竹家の「五本骨の扇に月」の紋の由来になったといわれています。
 明治二年、このあたりが、慶長九年(1604)から数えて七十数年にわたり、佐竹藩の江戸上屋敷だったという縁で、当時の役人が佐竹家の家紋から町名を考えたのですが、月を日輪と間違えて「旭」という町名が発想されたようです。
 昭和四十一年(1966)に住居表示が実施されると、内神田二丁目と三丁目の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています』

御宿稲荷神社(内神田一丁目)

IMGK5238s_20120205154321.jpg
 東京都道405号線鎌倉橋交差点の北西、カサハラビルと太陽ビルの間に鎮座する御宿稲荷神社(千代田区内神田1-6-8)。
IMGK5212s_20120205154320.jpg
『御宿稲荷神社縁起
 神田区三河町一丁目鎮座御宿稲荷神社は天正の昔、徳川家康公関東移封の際、武蔵国神田村の郷士の家に投宿せらる。其の庭中に宇迦能御魂の神祠あり。後幕府より公の足跡を止められし紀念として社地の寄進有ければ茲に広く世に御宿稲荷の大神と崇め奉れり。尚徳川氏江戸城に入城せられて後、此地に三河国より臣下の永住する者年と共に増加し遂に三河町と称するに至れり、大神には爾来衆庶の崇敬歳月に加わり神徳灼として輝き又今回崇敬の人々相議り時代の推移と共に事跡の散逸せんことを考慮し神殿の改修と共に其縁起をと乞わる儘に謹みて一言記し奉りぬ。
 昭和八年五月十五日』

IMGK5230s_20120205154321.jpg
 拝殿。
IMGK5234s_20120205154320.jpgIMGK5232s_20120205154319.jpg
 お狐さま。

妙法衛護稲荷神社(神田神保町三丁目)

IMGK5187s.jpg
 靖国通り専大前交差点から南下すると、帝国書院ビルと住友不動産一ツ橋ビルの間に妙法衛護稲荷神社(千代田区神田神保町3-29)が鎮座している。
IMGK5193s.jpgIMGK5196s.jpg
 お狐さま。
IMGK5201s.jpg
 拝殿。
 由緒等は不明。社名からして仏教色が濃いように感じられるが、法華宗所縁の神社なのだろうか。左右に並ぶ幟には妙法衛護稲荷神社の他に三崎神社ともある。

太田姫稲荷神社(神田駿河台一丁目)

IMGK5150s.jpg
 三井住友海上火災保険株式会社駿河台ビルの西側に鎮座する太田姫稲荷神社(千代田区神田駿河台1-2)。以前こちらに参拝したのは2008年の1月だから、4年ぶりだ。
 前回と同じような構図だが、まぁ仕方が無い。
IMGK5153s.jpg
 拝殿正面。
IMGK5179s.jpg
 斜めから。
IMGK5168s.jpg
『太田姫稲荷神社縁起
古社名    一口(いもあらい)稲荷神社
御祭神    宇迦之御魂神
       菅原道真公
       徳川家康公
末社金山神社 金山彦命・金山姫命
鎮座地    千代田区神田駿河台一丁目二番地
氏子区域   千代田区神田駿河台一、二、三、四丁目
       千代田区神田錦町一丁目、小川町二丁目
 太田姫稲荷神社は、我国の数多い神社の中でも、極めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。
 神社に伝わる古絵巻と、「駿河台文化史」(昭和十年神田史跡研究会)によると当神社の縁起は九世紀の伝説に始まります。
 百人一首の名歌で知られる参議小野篁(802-852)は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。彼は遣唐副使にまで選ばれましたが、上司の横車に対立して讒言され隠岐に流されたことは有名な出来事です。
 絵巻物の伝承によると、承和六年(839)初め、篁が伯耆国(ほうきのくに=鳥取県)名和港を出港してまもなく、海上にわかに六、七丈の大波が荒狂い、雷鳴激しく轟き、今にも海底に引き込まれそうになりました。篁は衣冠を正して船の舳先に座り、普門品(ふもんぼん=観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現われて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼び返されるであろう。しかし疱瘡(ほうそう=天然痘=当時しばしば大流行し多くの死者が出たがその治療法が無い為非常に恐れられていた)を患れべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常に祀れば、この病にかかることは無いであろう」と告げ終わると八重の汐路をかき分けてかき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼び返されました。彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、後に山城国(今の京都府)の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
 江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなく、かの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰って来たが、この日からさしもに重かった病もぬぐうように癒えた。資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立した。その後道灌資長はこの社を敬拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。今から約五四三年前第百三代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
 慶長八年(1603)八月徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長十一年(1606)江戸城大改築を行ない城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂とも云う)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書き尽くすことはできない。と古絵巻は伝えています。
 慶応二年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し
 明治五年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。
 例祭日は毎年四月十八日と定められ、後に五月十五日と改む。
 大正十二年(1923)関東大震災で類焼。御神体のみ無事に湯島天神に避難する。
 大正十四年(1925)仮社殿が落成し御神体を奉安す。
 昭和三年(1928)氏子各位の寄進により、本社殿、神楽殿、御水舎、神輿庫、社務所、鳥居等新築さる。
 昭和六年(1931)御茶ノ水駅、両国駅間の総武線建設のため社地の大半を収用され、鉄道省より換地として、現在の地を神社敷地に指定、一切の建築物をそのまま移転して今日に至る』

 翁なのに太田姫命。……何……だと……?
 淡路坂の案内板は神田郵便局前交差点そばに設置されており、相生坂、大坂、一口坂などの別名があり、鈴木淡路守屋敷が坂名・町名の由来になったと記されている。
IMGK5175s_20120205144442.jpg
 太鼓とお狐さま。
IMGK5177s_20120205144441.jpg
IMGK5178s.jpg
 境内端の地面に置かれた狛犬。
IMGK5169s.jpg
 手水舎。
 魚の口から水が出てくるのはあまり見かけないなぁ。
IMGK5155s_20120205150321.jpg
 拝殿左手から奥へ進むと金山神社。
IMGK5160s.jpg
『太田姫神社併祇 金山様由来
御祭神 金山彦命・金山姫命
 本神社の「金山様」は江戸時代、幕府の金貨・銀貨を作る役所「金座」「銀座」の霊験あらたかなる守り神として崇敬され居りたり。
「新撰東京名所図会」に以下の如く記載あり。
 金山神社。太田姫神社の境内にあり即ち本殿の傍らに接する宮なり。金山彦命及び金山姫命を祀る。その由来を尋ぬるに、徳川幕府金座の守護神として勧請あり、因て毎年十一月十一日例祭の費用を始め修復等尽く幕府より支弁せられたるなり。慶応三年十二月大火の時、社殿焼失したりしも、維新後に至りて旧金座の有志者相議りて再興したるなり。その後大正十二年関東大震災に再び社殿焼失し、その際救出された神鏡一面が再建された太田姫神社に祀られたり。これ安永の世に金座奉行より奉納せられたる神鏡なり。
 金座、銀座と言えるは徳川幕府の金銀貨鋳造所の書にて、金座奉行これを差配す。
 本来金属の守護神にして、特に金座の神なる故に金銀財宝を呼ぶと伝え、金運招福、火防に御利益あり、又、良縁招来、縁結び、夫婦円満に霊顕あらたかなりと信仰せられたり』

IMGK5164s.jpg
 金山神社の手前に太田道灌公供養碑。
『太田道灌公供養碑
 御命日 旧暦七月二十六日
 当、太田姫稲荷神社と須田町二丁目の柳森神社は共に其の創立に於いて太田道灌公所縁の神社なり。
 奇しき縁にて此の両社の宮司を務める柳原義雄氏、道灌公の遺徳を仰ぎ御霊を慰め奉るべく此の碑を建立す。
 諸人、江戸東京文化の祖、太田道灌公の御霊を祇り、遺徳を仰ぐべし』

IMGK5183s.jpg
 御神木。

幸徳稲荷神社(神田小川町二丁目)

IMGK5146s.jpg
 日本経済広告社(千代田区神田小川町2-10)の東側、と言うか目の前に鎮座している幸徳稲荷神社。
IMGK5145s.jpg
 階段の上り口に由緒書き。
『幸徳稲荷神社の由来
 当稲荷神社は旧幕時代山城の国淀の城主(現在京都府伏見区淀町──十万二千石)稲葉但後之守(三代将軍徳川家光の乳人、春日の局の後裔)の江戸小川丁中屋敷内に祀られてあったもので、当時は鍛冶屋稲荷と称し代々五穀豊穣武運長久を祈願された由緒ある社と伝えられています。
 明治維新後はこの地に商家町民移り住み、町の名も小川町一番地となり町内の守護神として伏見稲荷神社より霊を勧進し、近隣氏子有志によって新しく社殿を建立、毎年五月十四日・十五日の両日修祓式を行い、神楽を奏し、祭典を施行して参りました。
 昭和二十一年(1946)小川町北部町会が解散され、現在の四つの町会に分離した時、古老、総代は神社の廃絶を吝み相計り幸徳稲荷神社奉信会を結成(氏子五百世帯)町会相互の連絡、親睦と一層崇敬を深めつつ、現在に至って居ります。
 特に大東亜戦にも社殿は戦災をまぬがれ、戦后の町の復興再建に或は町会発足の基となって、私達を勇気づけ、励まして今日に至って居ります。
 此度宗教法人となりましたのを機会に、社殿並に社務所を新築し子孫の守り神として存続するものであります。
 昭和四十三年四月二十五日』

IMGK5143s_20120205142412.jpg
 水盤。
IMGK5140s.jpg
 鳥居。
IMGK5142s.jpg
 正面から。

松尾神社(神田多町二丁目)

IMGK5106s.jpg
 アース製薬株式会社東京支店(千代田区神田司町2-12-1)の東側に鎮座する松尾神社。
IMGK5113s_20120205132323.jpg
 鳥居も賽銭箱も共に銅製。
 賽銭箱の正面には神田市場の文字と共に稲紋が施されているので稲荷系かと思いきや、どうやらそうとばかりも限らないようだ。と言うのも、こちらの神社は京都の松尾大社(御祭神は大山咋神)から勧請したと伝えられているものの、松尾大社側にはこちらに分霊した記録が無く、前述の賽銭箱などもあって由緒や御祭神がはっきりしないのだそうだ。
 松尾大社は秦氏が造営し、明治になるまで秦氏が神職を務めていたそうだが、伏見稲荷神社もまた秦氏によって創建された神社だから、どちらも秦氏の氏神ではあるな。まぁそこらへんはこちらとは関係無いだろうが。
 賽銭箱の神田市場の文字でふと思い出したが、出世稲荷神社の由緒書きに多町青果市場納入便船の稲荷丸と言う名が記されていたが、出世稲荷神社も元は青果商人が建立したものだそうだし、この辺りに食糧の市場があったのなら稲荷神が祀られていたところで不思議は無い。
IMGK5112s.jpg
 本殿。

 ところで延壽稲荷神社から松尾神社に行く途中、靖国通りに架けられた歩道橋を渡るのだが、その近くに豊潤稲荷神社と言う神社があったらしい。すぐ横を通っていたのに気付かないとは……○刀乙

延壽稲荷神社(神田須田町一丁目)

IMGK5105s.jpg
 出世稲荷神社から少し西へ歩くと、神田須田町スクエアビル(千代田区神田須田町1-1)と友泉淡路町ビル(千代田区神田淡路町1-4-1)の間に鎮座する延壽稲荷神社。
IMGK5103s.jpg
 本殿前にお狐さま。
IMGK5098s.jpg
 少し引いて。
IMGK5131s.jpg
 神田須田町スクエアビルの北側に位置するかんだ連雀(千代田区神田淡路町2-8-1)の角に設置された千代田町町名由来板。
『連雀町・佐柄木町
 神田川に架かる筋違橋は、中山道に通じており、行き交う人馬も多く、江戸時代の初め頃より筋違御門が設けられていました。門の内側、後に八ツ小路と呼ばれた地に、連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負子)をつくる職人が多く住んでいたことから「連尺町」の名前が付けられました。連尺町はやがて連雀町の字があてられ、広く用いられるようになりました。
 明暦三年(1657)の大火「振袖火事」の後、連雀町は延焼防止の火除地として土地を召し上げられ、筋違橋の南方へ移転させられました。現在の三鷹市上連雀・下連雀の地名はこの故事に由来します。
 一方、安政三年(1856)の地図には、この界隈に土井能登守、青山下野守などの上屋敷がありました。明治維新後、これらの武家地は連雀町と佐柄木町に編入され、連雀町から遷座された出世稲荷神社は土井家屋敷内にあった延寿稲荷神社とともに町内の鎮守となりました。
 明治四十五年(1912)、甲武鉄道(のちの中央線)万世橋駅が、現在の交通博物館の地(江戸時代の八ツ小路)に開業します。駅前広場には明治の軍人広瀬中佐の銅像がそびえ、多くの市電の発着地として、東京でも屈指の交通の要衝として栄えました。また、寄席の白梅亭をはじめ、旭楼など二十軒もの旅館が立ち並び、樋口一葉がその著「別れ霜」において、「神田連雀町とかや、友囀りの喧しきならで、客足しげき……」と、その賑わいを記しています。
 大正十二年(1923)の関東大震災後、区画整理がなされ、連雀町、佐柄木町は、須田町一丁目と淡路町に改称されました。
 平成16年11月』


 延壽稲荷神社には由来などを記したものが無かったが、これを見ると元は土井能登守上屋敷の守り神だったようだ。
 なお、交通博物館は平成18年(2006)5月14日に閉館し、2012年2月現在では神田万世橋ビルを建設中。

出世稲荷神社(神田須田町一丁目)

IMGK5095s.jpg
 靖国通り須田町交差点の北西、神田須田町プレイスの西側に鎮座する出世稲荷神社。
IMGK5091s_20120205123207.jpg
 境内。
IMGK5081s.jpgIMGK5082s.jpg
 お狐さま。
IMGK5090s_20120205123205.jpg
『出世稲荷神社 由来
鎮座地 神田須田町一丁目十一番地
    旧連雀町十八番地
祭神  倉稲魂命
由緒
 山城国稲荷山の分魂・柳森神社摂社にして連雀街創立の頃より町内鎮守神と祭祀す。青果商う者、出世奉賽の為に建立すとも云う。其後延亨年間(1744~1747)火災の折、柳森神社に合掌祭祀し例年二月上の午日、町内に迎え祭典執行居りしも明治七年(1874)五月町内地続き武家地新開成るに及び連雀町十八番地に信者奉願造営遷座せるものなり。明治八年東京府境内見捨地とす。
 大正十二年(1923)五月社殿改築の議起り、柳森神社へ神璽を遷し、九月竣工の運びなりしも、九月一日突如起りし関東大震災の為、新宮・町家共に灰燼に帰す。幸いにも神璽は柳森神璽と共に偶然にも神田川いなり河岸に繋留ありし稲荷丸という船(多町青果市場納入便船)に遷奉し猛火を潜り河口を脱出難を避けた。
 現社殿は昭和三年(1928)遷座建立せしものにて、年々九月十五日町内及び信者一統相寄り柳森神社柳原宮司のもと祭祀司る。
 其後町内戦火にも免れ、火災・災厄一つとしてなく遠地よりの参拝も多く、火防・商売繁栄・学位行成就の神として多大の崇敬を集めている』

アート大黒天(神田佐久間河岸)

IMGK7474s_20110721212632.jpg
 清洲橋通りと昭和通りの中間辺りに位置する柴田ビル前に大黒天。
 どうやらアート七福神と言うものの一つのようだ。神社仏閣のカテゴリーに入れて良いものかどうか少し悩んだが、ま、いいか。アート七福神の一つには神田明神の恵比寿神も含まれているみたいだし。
IMGK7469s_20110721212632.jpg

 以上で7月16日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA10-17mm Fish-Eye、DA15mm、DA35mm Macro、FA50mm、FA77mm。
 この日歩いた歩数は大体3万歩ちょい。…なんだ、30箇所以上参拝した割には大して歩いてないな。

石敢當(神田神保町二丁目)

IMG_9115s.jpg
 友人が六一書房で資料漁りをしている間、暇なので周辺をうろついていたら、六一書房そばの十字路脇にある明治屋の角に石敢當と刻まれた石があることに気づいたので一枚ぱしゃりとな。
 聞き覚えの無い言葉なのでググってみたら、中国発祥の魔除けだそうだ。道祖神のようなものなのだろう。日本では沖縄や鹿児島でよく見られるが、それ以外の場所では珍しいものであるらしい。また、昨年五月には足利市県町において江戸時代につくられたと思われる石敢當が確認されたそうだが、知らなかったなぁ。
 しかし、石敢當は丁字路や三叉路の突き当たりに設けられるものなのだそうで、十字路の角にあるこちらの石敢當はどこからか移されて来たものなのだろうか。


大きな地図で見る

花房神社(外神田四丁目)

IMGK5232s.jpg
 秋葉原UDXで行われたPENTAX K-5のお披露目会を楽しんだ後は、タイムズタワー西側のビルの隙間に鎮座する花房神社に参拝…
IMGK5230s_20101005213502.jpg
 と思いきや、路地に張られた細いロープには「この先私有地」と書かれたプレートが下がり、風でくるくる回っていた。
 うぅむ、花房神社は地図にも載っているし、ググれば参拝記も結構出て来るので個人所有では無いと思うのだが、しかし態々ロープまで張られていると、これより先に歩を進めるのは躊躇してしまう。
 ほんの数歩の距離だと言うのに進めないのは、なんと言うか、もにょる。

柳森神社(夜)

071231ya

 まぁ、そのまんま。夜に撮った柳森神社。
071231ya

071231ya

071231ya

071231ya071231ya

071231ya

071231ya

柳森神社

080101ya

 神田川を挟んでワシントンホテルの裏手にあるのが柳森神社。面白いことに、路面よりも低い位置にある。多くの神社は階段を上ってゆくものだが、ここは逆に階段を下ってゆくことになる。
080101ya

 例によってGoogle先生に訊いてみると、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして建立し、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来するとのことなのだが、なぜか狛犬ではなく狸が・・・。しかも阿吽像にすらなっていない。これらはおたぬき様と呼ばれているらしいので、狛犬の代わりとして立っている、と言うわけでもないのだろうか。つかなんで稲荷なのに狸なのさ? まぁ、拝殿の前にはお狐様が狛犬よろしく並んでいるわけだが。
080101ya080101ya

080101ya

 三つ葉葵の紋の入った提灯が下げられていたりしたので、もしや徳川家ゆかりの神社なのかと思ったら、五代将軍綱吉の母である桂昌院が福寿神として祀られているらしい。なるほど、境内で一際大きな鳥居が福寿神社の鳥居であったのか。柳森神社には明治二年に合祀されたそうなので、柳森神社自体は徳川家とゆかりがあるわけではないのか。
080101ya

 大きな鳥居の割には、祠そのものは小さい。社の脇の看板には由来が書かれており、それを読むと、他を抜いて玉の輿に乗った桂昌院の幸運にあやかろうとしてお狸様を崇拝したとある。つまり、他抜き=たぬきということなのだそうだ。それで稲荷神社の境内でありながら狸がいるわけだ、なるほど。
 祠の前には狸の阿吽像があるが、すると、鳥居の脇にいたのは・・・?
080101ya

 鳥居の左側に見えているのが柳森神社の拝殿で、鳥居は福寿神社の鳥居・・・なんか紛らわしいな。
080101ya080101ya

080101ya080101ya

 境内には他にも金刀比羅宮、水神厳島神社・江島大明神、秋葉神社、明徳稲荷神社などがある。富士浅間神社と幸稲荷神社もあるはずなのだが、それらしき祠は見当たらなかった。合祀されたとのことなので、本殿に一緒に祀られているのだろうか。
080101ya

講武稲荷

080101ko K10D+DA18-55mm F3.5-5.6AL

 秋葉原の石丸電気本店裏、道一本を挟んでリビナヤマギワ前にあるのがこの講武稲荷神社。中央通りに比べると人通りの少ない割合静かなエリアだが、やはり電気街の中に唐突に朱塗りの鳥居が現れると少なからず驚いてしまう。まぁ、単に自分が田舎者なだけかも知れんが。
071231ko080101ko

 左は夜、右は朝に撮影。
080101ko080101ko

 このシャッターっていつ開くんだろう? 祭礼日とかかな。
080101ko

 階段の脇にはお狐様。鳥居脇の銅板には縁起由来が書かれているが、ここのお稲荷様は火消しと花街の繁盛の神様なのだそうな。
080101ko

 この神社も相当有名らしく、Google先生に訊くとかなりのサイトがHitするので由来とかを調べるのが楽だ。うちは写真をテキトーに並べてるだけで資料性は皆無だからねー。

太田姫稲荷

071231hi K10D+DA18-55mm F3.5-5.6AL
071231hi

 聖橋脇の地図看板を見ていたら、太田姫稲荷神社と書いてあったので行ってみた。地図上では結構大きい神社であるように思えたのだが、行って見るとそれほど大きくもない、と言うか小さい。参拝していたのも自分だけだったし。
 ただ、この神社はわりと有名であるらしく、例によってGoogle先生に訊いてみると、先二つのエントリーの神社とは違って結構な数がHitする。でも朝になってから再び行っても、やはり人気は無い。
080101hi K10D+FA28mm F2.8AL
080101hi

080101hi

080101hi

 しかし、お稲荷様にも色々あるんだなぁ。

金綱稲荷

080101ki Powershot G7

 深夜徘徊中にたまたま通りかかったお稲荷様。神田和泉町にあるが、ぶっちゃけ秋葉原駅昭和通り口から目と鼻の先もいいとこ。
080101ki080101ki

 真っ暗だったのでフラッシュを焚いているが、それでもさすがに手持ちで1秒ともなると軽くブレてくる。K10Dにもフラッシュ内蔵してたなーと気付いたのは後になってから。

 それはともかく、どんなお稲荷様なのかは知らないので、家に帰って来てからGoogle先生にお伺いしてみたところ、こういう由来であるらしい。
 地図を見てみると神田にも神社は多そうだし、後で神田巡りでもしてみようかな。
カレンダー
02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード