石塚稲荷神社(柳橋一丁目)

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 東京文具販売健保会館脇に鎮座する石塚稲荷神社(台東区柳橋1-1-15)。
 鳥居の額には「火伏神 石塚稲荷神社」と刻まれているので、火災除けの神様なのだろう。玉垣には柳橋藝妓組合と柳橋料亭組合に属する店の名が朱字で刻まれている。
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 お狐様。
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 二葉と刻まれた石碑のようなものがあるが、はて、なんだろう。二葉の名は玉垣石にも刻まれていたが、他は無くこれだけと言うのもよくわからない。
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 以上で4月22日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 この後は秋葉原のとらのあなでMISLIARの新譜を予約してから帰宅。
 ウォーキングカウンターは22,610歩。
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千代田稲荷神社(台東一丁目)

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 秋葉原駅昭和通り口から400m程北東に鎮座する千代田稲荷神社(台東区台東1-13 )。
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『千代田稲荷縁起
 千代田稲荷祭神は宇賀御魂神と申し、その昔、長禄元年(一四五七)太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を城内に遷座し守護神としたのがはじまりである。その後、徳川家康が慶長八年(一六〇三)入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当り、渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。以後徳川家代々の崇敬あつく、江戸幕末の文久元年(一八六一)には公武合体の犠牲となって徳川家茂に降嫁した皇女和宮が、中山道を東下する宮の行列を守護した功により、石の大鳥居と桜樹一本を寄進したといわれる。これを契機に千代田稲荷が俄かに殷賑をきわめ庶民の参詣が絶えなかったことが「武江年表」に記されている。
 折柄、江戸は物情騒然として物価高騰し、世相は暗く、猿若町三座の顔見世狂言もとりやめになったため、千代田稲荷分社を勧請して、一陽来復と繁昌を祈願するに至った。江戸下町における唯一の分社である。その後、明治二十五年、最後まで猿若町に留まっていた市村座が下谷二長町に移転、二十七年近代建築に再建され、千代田稲荷も座の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、昭和七年市村座の焼失時に奇しくも類焼をまぬがれたため、千代田会有志により現在地に再建され今日に至った。
 昭和五十六年五月』
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 境内めっさ狭い。まさか初っ端から魚眼レンズの出番が来るとは。
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 二の鳥居と本殿。
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 参道左手側からお狐さまが見てる。
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七倉稲荷神社(池之端二丁目)

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 東京メトロ千代田線根津駅不忍池方面口から200m程南に鎮座する七倉稲荷神社(台東区池之端2-5-47)。
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『七倉稲荷神社
祭神 倉稲魂命
神徳 商売繁盛・厄災消除
祭儀 例大祭  九月二十日
   朔旦祭  毎月一日
   大 祓  六月二十九日・十二月二十九日
由緒 当神社は古く江戸幕府の米蔵のあった浅草蔵前に鎮座七つの倉の守護神として崇め
  られこれが社号の由来となっている。
   その頃の社伝によれば阿部豊後守が当社に祈願、その加護により隅田川馬上渡河の
  功を奏したと伝えられ霊験顕たかな社として江戸町民の信仰篤かった。
   明治維新後蔵前より七軒町十八番地に遷り更に明治九年八月現在の地に遷座した。
  現社殿は平成元年七月の御造営である』
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「平成元年七月」と刻まれている。

八二神社(根岸二丁目)

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 元三島神社の200m程北西、ホテル街の中に鎮座する八二神社(台東区根岸2-13-1)。
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『八二神社由来記
 当社は明治五年四月(元加賀百万石藩主)前田公が当地に移住せられこの地を根岸の里と称し屋敷内に社殿を築造して、
  八坂大神
  稲荷大神
  菅原大神
この三神を守護神として祭り三神社と称しております。毎年祭典を挙行して住民の安全と幸福を祈願せられたのであります。
 大正十三年前田公は屋敷を開放し土地を住民に分譲すると同時に三神社を八二神社と改称し神社の守護を住民になさしめ毎年二月十一日を例祭日と定めたものであります。
 現在の社殿は昭和六年九月に竣工したものであります。関東大震災並びに大東亜戦争等にも少しの被害を受けなかったことは三神社の守護によるものと信じられ益々信仰を篤くするものであります。
 昭和四十一年七月二十二日』
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 狛犬。
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 尾久橋通りに出る手前の壁に貼られた正岡子規の俳句。

元三島神社(根岸一丁目)

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 JR鶯谷駅の北側に鎮座する元三島神社(台東区根岸1-7-11)。
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 鳥居。
 柱には「創建七百年記念」「昭和六十年五月吉日建之」と刻まれている。
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『元三島神社御縁起
 当社はご祭神に大山祇命・伊佐那岐命を頂き和足彦命・身島姫命・上津姫命・下津姫命を配祀申すものである。
 例大祭はご祭神勧請の時にちなみ五月十四日十五日とする。(但し現在交通事情により五月第二土曜、日曜とする)
 元三島神社はそもそも第六十二代円融天皇の御代に日本總鎮守の称号を賜り、明治においては國幣大社に列せられ、四国唯一の大社、大山祇神社をご本社に頂くものである。
 当社の由来はご本社大山祇神社のご分霊によるものであり、その源を弘安四年の役に発する。
 すなわち弘安四年(1281)、勇将河野通有、三島水軍を率いて大山祇神社に必勝の祈を捧げて神恩加護を仰ぎ武功赫々として帰国したところ夢の中に神のお告げを得て大山祇明神武蔵国勧請の発願を時に上野山中にあった河野氏の館にご分霊を鎮座申したことに始まったと伝わる。後、室町の代を通じ社運の隆盛いよいよ募り江戸の代に入っては徳川家より社領拝領預かるが慶安三年(1650)三代将軍家光の時金杉村に移転ついで宝永六年(1709)社地幕府御用地となるに及び代替地に浅草小揚町を賜って再び遷座の運びとなる。
 しかるに、代々金杉村に住む氏子住民から氏神様の地元遊離は誠に不都合と赤誠こもる訴えが起こり金杉根岸の村民相寄り協議の末、金杉根岸の地の熊野神社と合祀を図りこえを元三島神社と称し今日に至る。旧社殿は明治四年の再建であるが昭和二十年、戦火で消失以後昭和二十二年造営するも老朽著しく、よって昭和五十一年四月新たに造営落成したもんである』
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 元三島神社御造営記念碑。
 記されている内容は鳥居脇の案内板と大体同じ。
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 狛犬。
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 二の鳥居。
 柱には「昭和五拾一年四月一日」と刻まれている。
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 拝殿。
 拝殿前はあまり広くないので28mmではつらひ。
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「MOTO MISHIMA SHRINE
 This is Shitaya Seven deities of Good Fortune and is dedicated to Ju-rojin who is a God of longevity.」
 下谷七福神であり長寿の神である寿老人が祀られています、と。
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 鶯谷食堂の脇、言問通りに面して社号標石が建てられている。

太郎稲荷神社(入谷二丁目)

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 東京メトロ日比谷線入谷駅から東へ400m程、台東区立大正幼稚園の南東に鎮座する太郎稲荷神社(台東区入谷2-19-2)。
 ここから南西1.5km程の位置に鎮座する東上野の西町太郎稲荷神社は柳川藩主立花家江戸上屋敷の守護神であったが、こちらの太郎稲荷神社は立花家江戸下屋敷の守護神として祀られていた神社であるそうだ。
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 二の鳥居。
 柱には「平成六年五月吉日」と書かれている。
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 覆い屋の内側には十数枚もの記念写真が掛けられている。
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 本殿とお狐さま。
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箭弓稲荷神社(上野一丁目)

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 東京都道452号神田白山線湯島中坂下交差点の東側、豊昇堂美術店と上野ファーストシティホテルに挟まれる位置に鎮座する箭弓稲荷神社(台東区上野1-14-1)。
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『箭弓稲荷神社御縁起
御祭神
 宇迦御魂神
御由緒 
 鎮座の年月、由緒は不詳ですが往古より石川主殿頭成之の屋敷内に鎮座して徳川家光公より銀杏の木を拝領し後「銀杏稲荷」と云われていました。
 明治の初期廃藩置県により此の地は民家に移り神社は放置されましたがその後故松山治郎吉氏が武州松山箭弓稲荷神社より御分社を受けお祀りするに至りました。
 大正十二年九月関東大震災により神社御神木(幹廻り九尺五寸、高さ十四間)は類焼しましたのでその一部を以って御神体を彫刻し残りの木を資材として現社殿を御造営致しました。
 昭和五十四年五月再建五十周年を記念して修復され現在に至っております。
 当神社は特に火伏せと商売繁昌の神として古来より有名です。
大祭 毎年 五月二十二日
祭日 毎月   二十二日』
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 お狐様。
 台座には「正派富士松社中」とあり、「吾妻路家元宮古太夫」を始めとして十数名を越える名が刻まれている。
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 割拝殿になるんですかね、これ。
 拝殿前に階段があり、上は社務所か何かになっているのだろうと思われるので、単に少ない境内地に詰め込めるようにした結果なのだろうけれど。
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 拝殿。
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 破風には狐の姿が見える。
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 以上で10月31日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm、DA70mm。X30。
 この後は秋葉原まで歩き、やはり新刊を購入してから帰宅。ウォーキングカウンターは19,272歩。

八幡神社(台東四丁目)

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 御徒町公園の端に鎮座する八幡神社(台東区台東4-13)。
 由緒書き等は見当たらないのでググってみると、こちらは伊予国大洲藩の藩主である加藤家の上屋敷跡であり、大洲八幡神社から勧請したものであると言う。
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 社殿の壁面には彫刻が施されているが、残念ながら背面の彫刻は見られなかった。
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秋葉神社(台東四丁目)

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 台東区立平成小学校の東側に鎮座する秋葉神社(台東区台東4-21-23)。
 こちらに参詣するのは2010年10月以来だから、五年ぶりか。前回は工事中だったのでお参りできなかったが、流石に今回は大丈夫。
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『佐竹秋葉神社由来
 正一位秋葉山中宮秋葉神社の御祭神は、火之迦具土命と申上げ火除けの守り神で御神徳は特に火の幸を恵み、悪火を鎮め、火防開運の神並びに火災消除、家内安全、厄除開運、商売繁盛、の霊験灼たかにして全国より信仰されている。
 町内に鎮座まします秋葉神社は二十八万石を有する東北地方屈指の大名で秋田藩十二代藩主佐竹右太夫義尭公、上屋敷の守護神にてこの地にあった広大な屋敷跡である。
 明治維新の大変動期に秋田藩も財政難となり国に上屋敷を上納その時に新政府によりこの地の住居表示が決まり、竹町十二番地一号より二十四号地迄と制定され現在もその儘使用されている佐竹町会の号地区分はその時出来たものである。秋葉神社は明治二十二年四月秋葉ケ原より勧請遷座し昭和五年四月町会先人有志の方々により現在地に社殿を造営したもので当町会では火伏せの神として崇め毎年十一月第二日曜日に大祭を行っている。世に名高い「秋葉の火祭り」は本宮秋葉神社で毎年十二月十五、十六、の両日盛大に行われ火災消除の大祈祷が古式豊かに荘厳の内に執り行われている。
 平成十年十一月祥日』
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 昭和五年五月造立の狛犬。
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西町太郎稲荷神社(東上野一丁目)

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 下谷神社の南西300m程の位置に鎮座する西町太郎稲荷神社(台東区東上野1-23-2)。
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『太郎稲荷の由来
当町は、江戸時代の万治年間、九州筑後柳川藩十一万九千六百石の太守立花左近将監が江戸上屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されて来ております。現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め初午祭などが盛大に行われております。
 昭和五十九年三月十一日 初午祭』

下谷神社(松が谷三丁目)

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 東京メトロ銀座線稲荷町駅の南西、東京都道463号線浅草通りに北面して鎮座する下谷神社(台東区東上野3-29-8)。
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 二の鳥居。
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『下谷神社
 台東区東上野三丁目二十九番八号
 天平二年(730)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(1627)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)、しかし土地が狭く、延宝八年(1680)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。
 本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代にには開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。
 「下谷神社」と改称したのは明治五年(1872)である。関東大震災の後、昭和三年(1928)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
 平成十六年三月』

 下谷神社の公式サイトによると、御祭神は大歳神と日本武尊である。
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 旧町名由来案内板。
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 神門。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 末社である隆栄稲荷神社の鳥居。
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 二~四の鳥居。
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 お狐様。
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 向かい側には力石と狐塚。
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 塚に寄って。
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 聖龍華……あとはなんだろう。院かな?
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 西の鳥居と神楽殿。
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 南の鳥居。

矢先稲荷神社(松が谷二丁目)

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 合羽橋交差点の南西150m程の位置に鎮座する矢先稲荷神社(台東区松が谷2-14-1)。
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 拝殿。
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『当たり矢の矢先稲荷神社
御由緒
 当社は寛永十九年(1642)十一月二十三日に三代将軍家光が、当地に浅草三十三間堂を建立した際、その堂の鎮守として稲荷神を祭ったのに始まると伝えられています。
 浅草三十三間堂射術稽古場の的先に奉納されたために、その社名も矢先稲荷神社と称されました。
御祭神
 倉稲魂命 福禄寿
御神徳
 五穀豊穣・長寿・商売繁昌・開運・所願成就・縁結び
御神宝
 神殿の天井絵・馬術絵百体
 (神武天皇から昭和に至るまでの馬乗りの絵百体/海老名駿堂画伯作)』
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 神職さんに声をかけてから拝殿に上がり、天井絵を拝観。
 ちなみに天井絵の撮影は許可されているが、本殿などの撮影は禁止となっている。
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『矢先稲荷神社 天井絵馬解説
作成年・・・昭和三十九年(昭和三十五年 作画開始)
作 者・・・海老根駿堂先生(明治三十八年~平成元年)
 寛永十九年(1642)当地に三十三間堂が建立され、京都三十三間堂に倣い、弓術の練成である「通し矢」が盛んに行われておりました。
(当地三十三間堂は一六九八年の大火に依り焼失。その後深川にて再建)
 矢場の的先に堂の守護として、稲荷大明神が祀られた事から「矢先」稲荷神社と命名されたと言われております。
 昭和三十五年、現社殿が完成した折り、弓術と縁の深い馬術の絵馬を社殿の格天井に揮毛したいとの氏子崇敬者達の強い思いから、斯界の権威 海老根駿堂先生の協力を得て、神代より昭和に至る馬乗絵を奉納する事になりました。
 海老根駿堂先生に依る作画は約五年の歳月に亘り、完成された百枚の馬乗絵は社殿に一層の荘厳さと威容を整えていただきました』
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 狛犬。
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『浅草三十三間堂跡
 台東区松が谷二丁目十四番一号
「文政町方書上」によると、寛永十九年(1642)十一月二十三二日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。
 堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。
 元禄十一年(1698)九月八日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。
 矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
 平成七年三月』

日枝神社(西浅草三丁目)

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 感應稲荷神社の西250m程の位置に鎮座する日枝神社(台東区西浅草3-8-1)。
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 拝殿。
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 拝殿から鳥居を見下ろしてみる。
 鳥居の柱に昭和三十一年五月十七日の文字が刻まれているのが見える。
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鷲神社(千束三丁目)

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 吉原神社の西130m程、東京都道462号蔵前三ノ輪線に西面して鎮座する鷲神社(台東区千束3-18-7)。
 11月5日、17日、29日が酉の市とあってか、色々と作業中。先週と言うか24日の内に来ておけば良かったかな。
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 一の鳥居。柱には昭和五年拾月吉日とある。昭和五年は1930年。
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 二の鳥居。柱には天保十己亥年九月吉日と刻まれている。天保十年は1839年。
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 二つめの叉木をくぐると、
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 拝殿。
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 なでおかめ。
 来歴などは公式サイトに記されている。
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 神楽殿兼授与所と瑞鷲渡殿。
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『鷲神社の御由緒
御祭神 天日鷲命・日本武尊
 鷲神社は江戸時代以前より此の地にまつられ、鷲大明神社と号し、福運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられております。鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商賣繁昌にあらたかな神として古くから崇敬されております。そのお姿は、鷲の背に乗る衣冠束帯のお姿で「鷲大明神・おとりさま」とも云われ、江戸の数々の火災、関東大震災、第二次大戦の戰禍にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。
 その発祥は、景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戰勝を祈願し、志を遂げての歸途、社前の松に武具の「熊手」をかけて戰勝を祝い、お礼参りされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」即ち「酉の市」の起源発祥です。

「酉の市」は江戸時代は「酉の祭」と云われ、人と神が和楽する祭りを意味しております。「市」は「齋く」という意味で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。
 このように「市」は"清浄な神様"を表しております。又、錦絵等に画かれて熊手にも神社で使われる「四手」や神様を祭る場所を示す注連縄がつけられております。この事からも「酉の市」が神社の祭りであり、神様と善男善女の人々が共に和み楽しむ祭りなのです』
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吉原辨財天(千束三丁目)

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 吉原神社の120m程南に鎮座する吉原辨財天(台東区千束3-22-3)。
 こちらは吉原神社に合祀されている吉原辨財天の本宮であり、飛び境内地となっている。
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 弁天宮。
 向かい側に弁天池があるのだが、撮るのを忘れていた。小さい。
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 新吉原女子保険組合と刻まれた台座の上に小さな石祠……かな? なんだろうこれ。
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 宇賀辨財天、辨財天、阿弥陀如来の像が安置されている。
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 琵琶を奏でる辨財天と、小さな白衣観音像。
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 宇賀辨財天と阿弥陀如来。
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 弁天池の脇に不動明王。
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 鳥居の向かい側には関東大震災殃死者追悼記念碑。
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 塚の頂には白衣観音像。
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『花吉原名残碑
 台東区千束三丁目二十二番 吉原弁財天
 吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和三年(1617)葺屋町東隣(現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめは葭原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。
 明暦三年(1657)の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年八月浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。
 新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「売春防止法」の成立によって廃止された。
 その名残を記す当碑は、昭和三十五年地域有志によって建てられたもので、碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳研究科の山路閑古による。
 昭和四十一年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの町名が残っていた。
 平成十七年三月』
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『二神出世この方 男女相聞の道開け 日本国は常世の春となれり 中の頃江戸の初世に庄司甚右衛門といへる人あり 府内に一廓の遊所を開き 名づけて元吉原といふ 明暦三年故ありて廓この地に移り 名も新吉原と改む 爾来年を共に繁榮しやがて江戸文化の淵叢となれり 名妓妍を競ひ万客粹を争ひ 世俗いふ吉原を知らざるものは人に非ずと 開基以来火災を蒙ること十数度 震災又戦禍を受くるとも微動だもせざりし北国の堅城も 昭和三十三年四月一日売春防止法の完全施行を期として 僅か一夜にして消滅し了んぬ 人為の天工を亡ぼす何ぞ甚しきや 二万七百余坪の旧地悉く分散して 辛くも瓢池一半を殘すのみ 有志等この池畔に一基の碑を建つるは 麗人吉原が悲しき墓標の營みなりけりと云爾
 昭和三十五年五月二十日
         白面青客 山路閑古 撰並書』
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『新吉原花園池(弁天池)跡
 台東区千束三丁目二二番
 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦三年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋め立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和三三年までの三○○年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。
 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れている。
 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正一二年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、四九○人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に立つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正一五年に造立されたものである。昭和三四年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。
 平成十年三月』
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 通路に沿って、千手観音や大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来、虚空蔵菩薩、勢至菩薩、観世音菩薩、薬師如来、普賢菩薩、不動明王などが並んでいる。

吉原神社(千束三丁目)

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 台東区立台東病院の東側、仲之町通りに面して鎮座する吉原神社(台東区千束3-20-2)。
 東京都神社庁による吉原神社の頁を見ると、吉原大門の手前に祀られていた玄徳稲荷社に、吉原遊郭の四隅に祀られていた榎本稲荷社・明石稲荷社・開運稲荷社・九郎助稲荷社の四社を明治五年に合祀して吉原神社と称したが関東大震災により焼失。その後昭和九年に現在地に新社殿を造営し、その際に吉原弁財天も合祀したと記されている。御祭神は倉稲魂命と市杵島姫命。
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 狛犬。
 鳥越神社の狛犬と似ている。稲荷神社系なのに狐ではなく狛犬なのね、ここ。そう言えば玉姫稲荷神社も狛犬だったか。
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『逢初桜
「逢初め」とは、恋焦がれている人に初めて会うおいう意味があり、二百年前に吉原神社(旧吉徳稲荷神社と称す)の御神木として崇信されていたが、明治四十四年の大火にて焼失し、忘れられて現在に至る。
今、うれしくも百年ぶりに吉原神社御神木として復活することが出来ました。浅草防犯健全協力会の甚大なる努力と奉納に深く感謝します。
 平成二十五年一月吉日』
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 拝殿。
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 境内社。
『お穴様
此処の地中には神社の土地をお守りする神様がおられます。
心をこめてお詣りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしております』
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 龍燈鬼と天燈鬼。
 昔はこれらが石燈籠として使われていたのだろうか。

感應稲荷神社(西浅草三丁目)

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 浅草寺の西、東京都道462号蔵前三ノ輪線に東面して鎮座する感應稲荷神社(台東区西浅草3-16-13)。
 「台東区の神社と祭り」の記述によると、創建年代は不詳ながら古くから柴崎村に鎮座していたと言い、天正十九年(1591)に本銀町に遷座し、この頃より感應稲荷と呼ばれるようになったとのこと。その後文禄元年(1592)と明暦三年(1657)にも移転したが、ついには元地に戻って来たのだそうだ。
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 鳥居をくぐってすぐ右手側に末社。何神社なのかは不明。
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 拝殿。
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 お狐様。
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 以上で10月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA70mm。X30。
 この後は秋葉原まで歩き、新刊を購入してから帰宅。ウォーキングカウンターは22,523歩。

箭弓稲荷神社(浅草三丁目)

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 浅草寺の北西、言問通りから少し北に入った所に鎮座する箭弓稲荷神社(台東区浅草3-19-4)。
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 「台東区の神社と祭り」にはこちらの神社の記述が無く、東松山市の箭弓稲荷神社からの分霊と推測されるものの詳細は不明。

待乳山聖天(浅草七丁目)

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 今戸神社の南200m程の位置に鎮座する、待乳山聖天こと聖観音宗待乳山本龍院(台東区浅草7-4-1)。
 公式サイトはこちら
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 池波正太郎生誕地碑。
 ちなみに自分は「仕掛人・藤枝梅安」シリーズしか読んだことが無い。
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『待乳山聖天
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東部随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
  哀れとは夕越えて行く人も見よ
        待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根。巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
 平成十一年三月』

『トーキー渡来記
リー・デ・フオーレスト博士は明治六年米國アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる、大正十二年更にトーキーを発明、紐育市に於て上映世人を驚かせたり。大正十三年故高峰讓吉博士令息エヴエン氏來朝の際、余親しくその詳細を聴きて将來に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰國、大正十四年七月九日宮中に於て天皇皇后兩陛下の天覧に供し各宮殿下の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が國に招來されたる之を以て初めとす。以來余、我國におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフオーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正十五年大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我國におけるトーキー製作の濫觴なり。爾来トーキーは日進月歩、昭和三年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。
今やトーキー我國に渡來してより三十年を閲するもフオーレスト博士の発明形式は依然として世界各國に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我國テレビジヨンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和二十三年、フオーレスト博士は極東軍総司令官マツカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビジヨンの創設を慫慂したり。余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジヨンの創設に意あり、フオーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジヨンの実現に努力し遂に昭和二十七年テレビジヨン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌二十八年八月三十日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフオーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジヨンの普及もまた瞠目に値す。フオーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟を卜して碑を建てトーキー渡来の由來とテレビジヨン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和三十一年五月吉日  建碑者 皆川芳造』
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 庚申塔と青面金剛と聖観世音菩薩。
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 参道。
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 腰壁には大根と巾着のレリーフが施されている。
 そして左上で観音様がみてる。
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『出世観音像
 昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1,600年頃)の作と鑑定された。学業・芸道に志す者の尊信をあつめている』
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『歓喜地蔵尊
 数度の火災に遭い、その尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている』
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『築地塀
 江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(45.5m)
 広重の錦絵にも描かれている』
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 神楽殿。
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 狛犬。
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 本堂。
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『銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が制作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、とくに区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成十九年三月』
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 稲荷尊。
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『糸塚
 十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
 この糸塚は元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
 十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
 昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記』
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『戸田茂睡歌碑
 茂睡は元禄の頃(1688~1704)活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた。江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された』
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『天狗坂
 昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
    天狗坂 夕木枯の
       おもいでに
           久保田万太郎』
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 天狗坂の階段は通行禁止になっているので、回り込むとここ、東の通用門側に繋がっている。
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 狛犬。
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 浪曲双輪塔。
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 浪曲双輪塔のそばにも狛犬。

今戸神社(今戸一丁目)

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 都立浅草高等学校の東側に鎮座する今戸神社(台東区今戸1-5-22)。
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『今戸神社
御祭神 應神天皇
    伊弉諾尊・伊弉冉尊
    福禄寿
 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の岩清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡八幡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。
諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。
 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました』
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 狛犬……金網でよく見えぬ。
 今戸神社公式サイトの記述によると、こちらは宝暦二年(1752)に今戸焼の職人によって寄進され、その後、文政五年(1822)に再興されたとのこと。また台東区有形文化財に指定されているそうだ。
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 千成瓢箪の如く、ずらりと掛けられた円い絵馬。
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 狛犬二号。
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 拝殿正面。
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 招き猫と福禄寿。
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 社殿斜めから。
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 なで猫。
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『今戸焼
 台東区今戸一丁目五番二十二号 今戸神社
 今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦二年(1752)に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。
 今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間(1573~91)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である「江戸名所図会」には瓦作りの挿絵がみられ、「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。
 近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。
 関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。
 平成十三年三月』
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 授与所。

浅間神社(浅草五丁目)

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 浅草警察署の斜め向かいに鎮座する浅間神社(台東区浅草5-3-2)。
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『浅間神社(浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)
 台東区浅草五丁目三番二号
 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、「浅草寺志」所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートル程の高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。
 祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
 平成十二年三月』
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 拝殿。
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袖摺稲荷神社(浅草五丁目)

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 合力稲荷神社の北西160m程、紙洗橋交差点そばに鎮座する袖摺稲荷神社(台東区浅草5-48-9)。
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『袖摺稲荷神社
御祭神
 素盞嗚尊 稲蒼魂命
縁起
 今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀が乏しくならないよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九郎(後の北条早雲)が小田原に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多くの奇瑞が顕れたといいます。このことから開運稲荷と尊称されました。
 小田原城落城に至り、この稲荷に信心あつい小西半右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉りました。
 のちに奇瑞あらたなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにして諸穀の豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖摺里稲荷」が神号となり、「袖摺稲荷」と変化しました。
 平成二十年』
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 お狐様。

合力稲荷神社(浅草六丁目)

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 熱田神社の南西200m程、浅草馬三町会事務所隣に鎮座する合力稲荷神社(台東区浅草6-42-8)。
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『合力稲荷神社
御祭神 保食命
御社殿 神明造
御創建 永禄年間(1558~70)
縁 起 当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斎す有り御祭神は生活の基をな
   す食を司る神として御神威を発揚され約四百数十年郷民の尊崇を集めている』
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『三ノ宮卯之助の力石
 三ノ宮卯之助(1807~1854) 埼玉県越谷市出身
 江戸一番の見世物興行の力持ちで各地の神社や寺院で勧進興行をした。又江戸方の代表として大阪方の代表を破り日本一にもなった
 力石は持ち上げて力自慢を競う為の石で各地で卯之助の名を刻んだ石が発見されている
 当社には【足持石】と刻んである為、他に類を見ない足で持ち上げた石であろうと推測される』
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 本殿。
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 「当社奉仕以來秋葉徳右衛門満二十年」記念碑。
 背面には大正十二年四月建之と刻まれている。
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熱田神社(今戸二丁目)

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 東浅草一丁目交差点の北東に鎮座する熱田神社(台東区今戸2-13-6)。
 「台東区の神社と祭り」によると、当社は元亀二年(1571)六月の創建と伝えられるが、「御府内寺社帳」には元鳥越と同年なりと記されているとのこと。その後正保二年(1645)に幕府御用地とされた為、替地となった豊島郡三谷村に遷座。
 御祭神は日本武尊と橘姫命。
 境内社として厳島神社と稲荷神社、疫神、麻疹神、霊神を祀るとあり、厳島神社と稲荷神社は元々当地で祀られていたが、熱田神社が移転して来た際に合祀されたのだそうだ。厳島神社の祭神は素盞嗚尊、田霧姫命、湍津姫命、市杵島姫命。稲荷神社の御祭神は大物主命と豊受姫命であるとのこと。しかしググってみると、末社は弁財天社、八幡社、青木稲荷社、庚申金毘羅合殿、天満宮疱瘡神福寿稲荷合殿、霊神社であるそうだ。んー、そんなに末社あったかなぁ?
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 拝殿。
 賽銭箱には八雲紋が刻まれている。
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 狛犬。
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 池の畔にあり、神紋は波に三つ鱗紋となれば、こちらは厳島神社であろう。
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 豊川出世稲荷神社。
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 その脇には小さな鳥居が建てられている。
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 溶岩に開いた小さな穴の前にお狐様。
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弁財天(清川一丁目)

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 清川分室通りに面して建つ真言宗金智山宝蔵院妙音寺の境内に鎮座する弁財天(台東区清川1-3-5)。

玉姫稲荷神社(清川二丁目)

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 寶珠稲荷神社の東100m程の位置に鎮座する玉姫稲荷神社(台東区清川2-13-20)。

『玉姫稲荷神社社歴
創 建   天平宝字四庚子年(760)
祭 神   宇迦之御魂命
勧 請   創建の時、京都伏見稲荷神社の御分霊を祀る
社号の由来 正慶二年(1333)新田義貞鎌倉の北条高時を追討の際当社に参拝し、戦勝を祈
     願せし時、稲荷大神の像を瑠璃の宝塔に納めせしより玉秘(たまひめ)の名起る
列 格   明治五年十一月十七日の村社に列格せられる
氏 子   日本堤二丁目西町会・東清南町会・浅草東清南町会・清南町会
      東浅草二丁目中町会・日本堤一丁目中央町会・日本堤二丁目東町会
大祭日   六月の第一土曜・日曜
縁 日   毎月一日、十日、二十日
末 社   八神殿には、白山・金刀比羅・八幡・松尾・八坂・天祖・春日・王子の八神
     を祀る
初宮詣   男児は三十一日に、女児は三十三日目に氏神に詣ず』
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 拝殿。
IMGS4034s.jpgIMGS4033s_20151025203023d0e.jpg
 狛犬。
 台座には昭和十五年十一月と刻まれている。
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 拝殿前に小さな祠があるが、これはなんだろう。
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 矢吹丈と白木葉子の立て看板。
 ちばてつやか梶原一騎のどちらかが当地の出身だったのかな? と思ったら、あしたのジョーの舞台が泪橋だからということらしい。なるほど、ここから300m程北西にある、吉野通りと明治通りの交わる交差点の名前が泪橋交差点だ。
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 摂社である口入稲荷神社の鳥居。
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『口入稲荷神社の由来
 抑も当社は江戸新吉原に高田屋と云う口入宿(現在の職業安定所)の庭内に年久しく鎮座してありましたが安永年間(1772~81)の頃、此の高田屋の主人が或夜夢に口入稲荷大明神が現れまして吾を玉姫稲荷神社の境内に遷し祭れば参詣する信徒の人々に尚一層利益を授け、又、諸々の願い事を速に叶えさせるとのお告げに依りまして、其の年の十一月二十日に此の玉姫稲荷神社境内に御遷座致したので御座います』
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 扁額には口入稲荷神社の名が刻まれ、八代目松本幸四郎謹書とある。
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 宝珠型燭台には口入稲荷狐人形がずらりと並んでいる。
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 左の石祠は不明。右は若宮八幡大明神・水神宮。
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 こちらの石祠も不明。

 さて、玉姫稲荷神社の拝殿脇に末社である八神殿があるそうなのだが、うっかり見落としてしまったようだ。

寶珠稲荷神社(清川二丁目)

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 東京都道464号言問橋南千住線東浅草二丁目交差点北側に鎮座する寶珠稲荷神社(台東区清川2-15-1)。
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『寶珠稲荷神社社歴
一、祭神 倉稲魂命
  浅草寺志によると、文化十癸酉年頃(1813)の當神社の御神躰は「大日命」とあります
 が、明治維新政府の神仏分離政策によって、現祭神に合祀されたものと拝察されます。
  奥の院には京都伏見稲荷大社より當祭神の御使として勧請した「白狐稲荷」をお祀り
 しております。
  京都伏見稲荷大社の稲荷山に「寶珠稲荷大善神」の石神を御祀りいたしております。
一、例祭 初午祭 二月十一日執行
一、功徳 火伏、商売繁昌
一、祭禮 町が浅草神社(三社)の氏子であるので、三社祭禮と同時に行っております。
一、宮司 浅草神社(三社)宮司が兼務しております。
一、由緒 旧社格 無格社、明治六年 列格
     昭和二十一年 六月 終戦後GHQの要請により「神社の社歴」を申請。
     昭和二十八年十二月 宗教法人成立、登記
     昭和四十一年 七月 神社本庁の承認を得て、「寶珠稲荷神社」と社名を変更
一、起源 當神社の起立に付ては、明確な資料がなく、その創建年代を確立することは不
    可能でありますが、古文書によると、戦国時代の開幕を嚆矢された戦國大名北條
    早雲の五代目小田原城主後北條氏直が、室町時代末期、天正十七己丑年(1589)九
    月、浅草寺門前町の「浅草町」に於て、初めて「観音市」を開かれ、その市を取
    り締まる為めに、町に後北條氏の虎朱印の「禁制」が出されました。
     その當時、浅草町に寶珠稲荷神社が鎮座し、町民が守護して居ったのでありま
    す。其後、神社は町と共に、数回移動し、浅草智楽院(伝法院前身)の内、駒形
    廣小路小あけ衆屋敷跡に在った時、その土地が幕府の用地となり萬治元戊戌年
    (1658)に本所亀戸村に替地を給されました。又その地にあった本所御旗本衆御扶
    持持人衆が屋敷替になった為め、附近に殆ど居住しているものがなくなり、又場
    末でもあり、町民が渡世が出来なくなったので、天和二壬戍年(1682)十月に名主
    と町民が奉行所に替地請願の「訴訟状」を提出し、町は山谷町と小塚原町の中間
    の現在地(旧浅草町全域)に替地を給されました。
     神社は町とは別に奉行所よりの特別の指示により、浅草寺除地(現在地)間口
    九尺、奥行二十間の土地を賜はったのであります。
     明治三十五年八月十日、隣接地の氏子より土地八十一坪六合を売買によって所
    有権を取得しました。
     大正十二年九月関東大震災には、境内地の各社殿及種々様々多数の樹木を全焼
    いたしましたが、「御神霊」は社守によって無事守護され、仝年十二月南千住大
    西由蔵氏の絶大なる御篤信によって「拝殿」が新規造営寄進され、「御神霊」を
    奉安いたしました。
     昭和二、三年頃當地区に、特別都市計画に基く、区画整理が施行され、地積は
    大幅に減じられましたが、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和二戍
    年十月奉行所よりの特別指示で賜った大半の土地が現在も氏子の絶大なる協力に
    よって引続き維持されております。
     昭和二十年三月大東亜戦争末期の東京大空襲の際、神社の灼なる御神徳の御加
    護と氏子の必死の消火活動により、境内地の全建物は消失の難を免れたのであり
    ます。總代、氏子、崇敬者の絶大なる御協賛により、左記の事業を行う。
     土地 六十二坪三合六勺 (区画整理後五十六坪二合九勺と大幅に減じられま
    したが、昭和四十四年五月 台東区より土地六坪七勺を減額譲渡にて購入、併し
    たものであります)
     昭和四十五年 十月 旧社務所に会館を増設し寶珠会館と總称す。
     昭和五十一年十一月 拝殿屋根大改修及境内地周囲の御影石の玉垣及参道両側
    に御影石の旗立新設。
 昭和五十四年二月』
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 拝殿。
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 お狐様。
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出世稲荷神社(花川戸)

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 東京メトロ銀座線浅草駅から出るとすぐ目の前にそびえるEKIMISEの屋上、浅草ハレテラスの一隅に鎮座する出世稲荷神社(東京都台東区花川戸1-4-1)。
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『正一位出世稲荷大明神縁起
 当神社、正一位出世稲荷大明神は、古く京都伏見稲荷大社よりご分霊を勧請し、長らく当敷地内の一祠にお祀りしてありましたが昭和六年十一月、浅草駅ビル開業に際し、改めて屋上に奉安申し上げ、お客様並びに当ビルの守護神として、あがめ敬ってまいりました。

 ご祭神は、
宇迦之御魂大神(商売繁昌・衣食住司の徳)
大己貴神   (縁結び・金銀財宝・文化向上の徳)
大田之神   (道引・悪魔退散・地鎮の徳)
大宮能女神  (和合・手習い・学問の徳)
保食之神   (出世向上の徳)
の五神で、これを世に五成(いなり)大明神と申します。

 私達は出世稲荷大明神のご神徳により、その恩顧を蒙らぬ日は一日もなく、商売繁昌・家内安全・交通安全・学業成就・芸能向上など諸願の霊験があらたかで、あまねく信仰をあつめております。
 ちなみに当ビルでは、大祭を五月十三日と定め、盛大なお祭りをとり行っております。
 東武鉄道株式会社』
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 お狐さま。
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 社殿。
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 ハレテラスの反対側には時計台。
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 EKIMISE外観。

 以上で7月11日参拝分終了。
 この日は元々神社巡りの予定は無く、友人に誘われてハレテラスのエキビアで真昼間から飲みまくりの予定だったのだが、偶々そこに稲荷神社が鎮座ましましていたのでじゃあお参りして行こうと。
 使用機材はFUJIFILM X30。

小野照崎神社(下谷二丁目)

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 東京メトロ日比谷線入谷駅西側に鎮座する小野照崎神社(台東区下谷2-13-14)。
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 西の鳥居。
 左側の小さな鳥居は末社稲荷神社の鳥居。
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 拝殿。
 主祭神に小野篁命、配祀神に菅原道真命を祀っている。
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 狛犬。
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『小野照崎神社
台東区下谷二丁目十三番地十四号
 小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
 現在の社殿は慶応二年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
 例大祭は五月十九日で、三年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
 平成十一年三月』
 また、拝殿前に置かれたリーフレットには次のように記されている。
『当社は今から凡そ千百餘年前の仁寿二年に上野照崎の地に創建されました。御祭神小野篁命が御東下の際、照崎の地に御遺跡を留められ、篁命が御逝去されると地元の人々が篁命を渇仰して、上野殿(諌議亭)と尊称し、地名を採り小野照崎大明神と祀り尊崇したのであります。その後上野寛永寺の建立に際し、坂本村の長左衛門稲荷神社の境内(現在の鎮座地)に遷祀されました。回向院より御配神である菅原道眞命御手刻の尊像を遷祀し、江戸二十五社天神の一つとして尊崇されました』
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 浅間神社と富士塚。御祭神は木花開耶姫命・大山祇命・磐長姫命・天津彦火瓊々岐命。
 以前は門の脇に石猿が控えていたそうなのだが、現在その姿は見当たらない。
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 門の左脇に浅間神社。
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『下谷坂本の富士塚
 この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の"富士山建設之誌碑"によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大阪屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
 平成六年三月』
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 稲荷神社・織姫神社。
『稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神
 織姫神社 御祭神 栲幡千々姫命
 稲荷神社は長左衛門稲荷と称し小野照崎神社遷座前より当地の地主神として尊祀されてきた古い社であります。昭和二九年に織物組合庭内に奉齋されていた織姫神社を合祀しました』
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 お狐さま。
 以前は一対揃っていたのだが、今はこちらのみ。
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 庚申塚。
 力石も三つ並んで置かれている。それはそれとして、小野照崎神社の境内には猫が多い。
『御祭神 猿田彦命
 日本三大庚申の一つとして、現在十一基の塔が祀られており、最古のものは正保二年(1647)の作であり、青面金剛の塔は大阪四天王寺と同作の霊像と云われ、聖徳太子作と伝えられています。』
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 不動明王と……智拳印だから大日如来かな? その後ろに三猿や青面金剛。
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 御嶽神社・三峰神社・琴平神社。
『御嶽神社 御祭神 国常立命・国狭槌命・豊斟命
 三峰神社 御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
 琴平神社 御祭神 素戔雄命
 当地の御嶽信者に依り古く創建された御嶽神社に、江戸末期に琴平神社が、又、大正九年に三峰神社も合祀された。現在御嶽神社は大神講社・三峰神社は入谷講社に依り祭典が執行されている』
 …琴平神社の祭神が素戔雄命? なんで?
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 狛犬……いや、台座に入谷講社とあるので三峰神社の方だろうから、これは狼か。
 これまた対になる相方の姿は無し。台座は残っているのだけどね。
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 南の鳥居。
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 狛犬。
 阿形の方はなんとなく神聖モテモテ王国のファーザーを思い出す。

 以上で10月27日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA18-55mm WR。Coolopix P7100。やっぱりK-5IIsにDA18-55mm WRでは力不足なので、この焦点域のズームレンズが欲しくなる。SIGMAの17-50mm F2.8がかなり安くなって来ているのだけど、HA DA 20-40mm F2.8-4 ED Limited DC WRの噂も出て来ているので、そちらの方がとても気になる。

石稲荷神社(根岸四丁目)

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 台東区立金曽木小学校の西隣に鎮座する石稲荷神社(台東区根岸4-16-17)。
『(宗)稲荷神社 趣意書
 日頃、私たちの崇敬しております下根岸の【石稲荷神社】は、遠く東山天皇の貞享四年(1687)にこの地に創建され、以来三百有余年、数々の歴史を経て今日に至ったものと、伝えられています。
 当地の産土の神様(倉稲魂命)で農家の豊作、子供の夜泣き、疫病、火難などあらゆる災難除けとして霊験あらたかとの言い伝えに、信心する土地の人も多く火難除けの新年の初辰水揚げ式の儀、また二月の初午祭などの行事も現代に至るまで延々と引き継がれています。
 現在の拝殿は、江戸時代に焼失し、その後、文久元年(1861)に再建されましたが、年代を経て、破損もはなはだしく、昭和四十二年(1967)現在のコンクリート建築造りに、崇敬者の皆様のご協力により以前の様式のままに建て替えられました。
 今日までの永い年月をお守り出来ましたのは歴代の講元をはじめ役員、崇敬者の皆様のご尽力があればこそ出来えたことと思い、感慨深いものがあります。
 このような由緒ある【石稲荷神社を地元の鎮守の杜】として、子々孫々へと、継いでいきたく、皆様方のご援助ご尽力を切にお願い申し上げます。
 地元・地域の皆様方のますますの発展の基となりますことを祈念いたし、趣意書を以てお願い申し上げます。
 平成二十四年二月吉日』
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『石稲荷神社
通称石稲荷神社と称し、遠く東山天皇の貞享四年(1687)丁卯二月吉祥日、豊島郡金杉村大塚(下根岸)に創建、御祭神は倉稲魂命であります。石稲荷は子供の夜泣きに霊験ありと、また出世稲荷・厄難消除として崇敬篤く、神威輝々として遠近より参詣多く神徳宏大であります。今を去る徳川十一代将軍家斎時代に下根岸に画室雨華庵を結び、雄頸採筆に一代を風靡した姫路城主の二男酒井抱一が、文化十年(1813)二月初午に奉納された墨痕淋漓幾十春秋を経た旗幟が宝物として蔵している』
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 拝殿。
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