長良神社(大泉町寄木戸)

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 およそ六年半ぶりに参拝した寄木戸の長良神社(邑楽郡大泉町寄木戸1099)。
 前回はこちら
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 道祖神。
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 拝殿。
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 開田記念碑と石祠。
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 左手前に万延元年(1860)の猿田彦神。中央奥の石祠は木花開耶姫命と刻まれているので浅間社だろう。他は不明。
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 本殿裏に末社殿。
 菅原神社、八坂神社、厳島神社、諏訪神社、鷲宮神社、春日神社、疱疫神社、大山祇神社の八社が祀られているのは前回記した通り。
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 日枝神社。
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源中稲荷神社(大泉町寄木戸)

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 寄木戸長良神社から南西に400m程、庚申堂の北西330m程にある円墳の頂に鎮座する源中稲荷神社(邑楽郡大泉町寄木戸397)。
『源中稲荷神社
鎮座地 大泉町大字寄木戸字稲荷林三九七番地
 寄木戸南部の坂本稔康の西に、古くから信仰をあつめている稲荷神社がある。古墳状の塚のいただきに宅相よろしく鎮座している状は、境内の森と調和して、祠こそ小さいが霊験を感じさせる。その昔、この辺に白狐が住んでいて、信者に御利益を授けたという。
 神社南の参道は旧の古海より尾島に通ずる街道で、稲荷様近くは花見街道といって、北側には桜並木が南側には松並木が植えられて桜の名所でもあった。この道を境に南が植松、北が稲荷林と今に名が残る。
 社元の話では、古くは三尺四方の祠だったが、明治二十五年、伏見稲荷より源中稲荷の称号をもらって分祀した社だという。村人はその年に、村中で九尺四方の神社を建ててお祝いし、その後、毎年旧二午の日には多くの信者が四方から参拝にくる様になり、社頭がにぎわったという。
 明治二十五年(1892)より昭和四十七年(1972)まで村中でお祭りしたが、現在は坂本稔康の私祭社である。
 この塚の周りから、正和二年(1313)の板碑が二つ出ているので、創立年代は詳らかでないが正和二年前後と思われる』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 畑の中を通る参道。
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 鳥居三基。
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 円墳の東斜面に設けられた石段を上った先に社殿。
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 大泉町誌に掲載されている写真を見ると、社殿前に石燈籠は無く、二基の鳥居が建てられている。大泉町誌の発行は昭和五十二年(1977)なので、その後に鳥居が移動されたりしたのだろう。
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 末社…かな? いずれも陶器や素焼きの狐が大量に納められている。
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庚申堂(大泉町寄木戸)

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 寄木戸長良神社から南西に350m程、源中稲荷神社の南東330m程に位置する庚申堂(邑楽郡大泉町寄木戸433)。
 こちらのお堂は寄木戸長良神社の北200m程に位置する曹洞宗天徳山宝寿院に属する仏堂であるそうで、宝寿院のサイトに詳しく記されている。
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『寄木戸庚申堂縁起
 この庚申堂は、明治三十一(1898)年に建立されたもので、狭いながらも徹夜のためのお堂を備え、全国的にもめずらしい存在です。
 この庚申堂に祀られている青面金剛尊(通称庚申さま)は、江戸時代の享保三(1718)年造立の立派な石像で大変貴重なものです。
 また、ここの庚申さまは、昔から願をかけるとイボが取れるご利益があることでも知られています』
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 安永五丙申年(1776)九月の庚申塔。
 隣のプランターには砂が入っており、この砂で患部を擦ると疣が治ると伝えられているのだそうだ。
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 青面金剛尊。 
 「享保三戊戌年 十月吉祥日 下寄木戸村」の文字が見えるので1718年の造立。
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 お堂西側から。

白山神社(大泉町吉田)

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 休泊川のそば、吉田西公民館の隣に鎮座する白山神社(邑楽郡大泉町吉田1838-1)。
『白山神社
鎮座地 大泉町大字吉田字西原一八三八番地
祭 神 菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命
由 緒 明治十年神社取調表には由緒不詳とあり、もと無格社である。
    昭和二十八年宗教法人法による宗教法人となる。
祭 日 四月十五日、十月十九日
末 社 八坂社、二柱社(摩利支天社)』
(「大泉町誌」より抜粋)
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『大泉町指定重要無形文化財 吉田西里神楽
所 在 地 大泉町大字吉田地内
保 持 者 吉田西神楽保存会
指定年月日 昭和五十九年十月十二日
 この里神楽は、伝えによると江戸末期から明治初期ごろに始められたと云われ、出雲流神楽に演劇性の高い江戸神楽や神話的要素を混入した東毛地方に分布する神楽の系統に入るものとされている。
 特に、会話を交える特徴を有し、古くから春秋の祭りには上演され、庶民の楽しみとされていた。
 演目には、三番叟、岩戸開き、にんば(種まき)、えびすさま、刀鍛冶屋、ひょっとこおかめ、狐つりの七つがある』
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 拝殿。
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 左は摩利支天社、右は八坂社。
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 裏手に回ると壊れた祠がいくつか転がっていた。

雷電神社(大泉町北小泉四丁目)

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 国道354号線大泉邑楽バイパスと群馬県道313号太田大泉線が交わる交差点のやや南西に鎮座する雷電神社(邑楽郡大泉町北小泉4-17)。
『雷電神社
鎮座地 大泉町大字上小泉字間之原一六八一番地
祭 神 別雷神
由 緒 慶応年間の地図に、西原雷の社里人これを祭るとあり、明治十年神社明細取調書には由緒不詳、社地は官有地で三六三坪とある。明治四十年、内務省の神社合併令により、その神霊は小泉神社へ合祀し、社地は共有地となったが、その後西原中の氏子により、旧社地へ再び雷電神社としてまつられた。
 昭和三十年に杉山久太郎に聞いた話では、大昔洪水があって、雷電様のお宮が板倉まで流され、板倉へまつられたという言い伝えがある。だから西原の雷電様は板倉の雷電神社より古いし、霊験あらたかなんだよと聞いたことがある。その真偽はともかく、祭日には上小泉・竜舞地区よりの参拝者でにぎわう。
祭 日 五月一日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 大泉邑楽バイパスに面した入口は狭く、見落とし易い。自動車では駐車スペースの確保に困るだろう。今回はそれを見越して自転車で移動していたから問題無かったのだけど。しかし自転車は長時間乗っていると尻が痛くなって困るω

小泉大神宮(大泉町西小泉三丁目)

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 浅間神社から北西に670m程、松原幼稚園前の駐車場脇に鎮座する小泉大神宮(邑楽郡大泉町西小泉3-5)。
『小泉大神宮
鎮座地 大泉町大字下小泉字松原二一二一番地
祭 神 大日孁命、豊受大神
由 緒 明治の神社明細帳には由緒不詳とあるが、往昔より明治四年まで天照山正善院がこれを管理し奉仕した。神仏分離令により神明宮をなのる。明治十年一月富士之越の無格社浅間神社の境内へ移転し、境内跡地は共有地にした。当時移転した社殿は間口三尺、奥行四尺と記録されている。その後の神社合祀令により、その神霊は小泉神社本殿に祀られている。なお、旧境内地へ松原中の氏子により社殿が再建され、小泉大神宮と改称し、松原の守護神として再びまつられた。
祭 日 春祭四月十日、秋祭十月十五日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 瑞垣の内側に打ち付けられたプレートには小泉大神宮新神殿完成記念とあり、平成二十三年十月十六日に完成したものであるようだ。

浅間神社(大泉町富士二丁目)

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 休泊川に架かる鹿島橋のすぐ南側に鎮座する浅間神社(邑楽郡大泉町富士2-23)。
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『浅間神社のいわれ
鎮座地 大泉町字下小泉富士之越一七七七番地
祭 神 木花咲耶姫命
由 緒 承平元年(931)六月一日(今の七月一日)、この地方一帯に雪が降ったと伝えられる。これは浅間明神の怒りにふれたというので、佐貫荘の荘官であった佐貫弾正良綱は、鹿島に浅間明神を祀った。浅間様は富士山の信仰であり、御本社は富士山本宮浅間神社である。しかし、富士山は周辺の国々から望まれるので、駿河国一宮としてまつられ、そのほか、関東・中部地方などにも浅間神社がある。この富士浅間明神にちなんで、富士之越の地名がつけられたと思われる。
 富士の霊峰は雄大荘厳、神秘静寂、揺るぎなく美しい国土の象徴ともなっている。日本各地の山々には、それぞれの国の神様をお祭りしている例が多くあるが。富士山はその筆頭であろう。
 御祭神は木花咲耶姫命といい、大山祇神という山の神の御子神で、天孫瓊瓊杵尊の后神である。木の花(桜)の咲くように美しい神様が、秀麗な富士山の神様であることは、人々の信仰をよくあらわしている。
 浅間は古くアサマと呼んだ。アサマは、山中の湧水の起源をたたえた名称だということである。古事記には、木花咲耶姫命が火をかけた産屋の中で、お産をしたと書き伝えられている。このため、安産の神として、子育の神として、今に至るまで人々の信仰を広くあつめている。六月一日は初山といって、近郷近在の人が赤ん坊をつれ、初山をして子どもの健康を祈願する。
 明治維新以前には、上下総祈願所小泉山成就院が兼務して、奉幣祈祷などを行った。
 平成十年一月吉日』
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 昭和四年六月十六日造立の狛犬。
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 馬頭観音。
 安永四年未天九月吉日と刻まれているので1775年の造立。
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 拝殿。
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西宮神社(大泉町中央二丁目)

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 休泊川の東、中部公民館脇に鎮座する西宮神社(邑楽郡大泉町中央2-21)。
『西宮神社
鎮座地 大泉町上小泉字上丁二三七七番地
祭 神 蛭子命
由 緒 昭和二十三年(1948)小泉町商工会の総意により、当町に西宮神社を創建することとなる。本殿は昭和十七年(1942)、中島飛行機製作所の産業報国会館の一隅に建設された神殿を、当時の商工会長久保田与一郎が富士重工からもらいうけて現在地へ移転した。
 御分霊は小泉神社あてで送られ、吉日を選んで、小泉神社から西宮神社まで遷座式を挙行した。夜間撮影した記念写真が、紙屋商店に現存する。写真には御分霊を守護して宮司井上東一・久保田意一郎・大塚嘉吉・内田伝次郎などの神職のほか、会長・役員多数がお供で続いている。
 その後、久保田宮司のとき拝殿が建設され、以後、西宮大神の御神徳と大泉町商工会の運営の妙をえて、恵比須祭は年々そのにぎわいをましている。
祭 日 十一月十九日、二十日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 宝暦十庚辰(1760)十一月造立の庚申塔。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 横から。
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勢光寺(大泉町東小泉三丁目)

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 厳島神社の西350m程に位置する浄土宗勢光寺(邑楽郡大泉町東小泉3-10-5)。
 こちらにお参りする予定は無かったのだが、先の厳島神社と縁が深いようなので、ついでに立ち寄ってみることに。
 上の写真の左端に見えるプレートには、ここが大泉町立北小学校発祥の地であると記されている。
『明治五年、学校制度が定められたのに伴い、翌明治六年一二月一五日には石打、篠塚、藤川、秋妻、下小泉、上小泉の六ヶ村結社により創設された「求道館」が、久保田茂平、白石貞衛らの尽力により下小泉村の勢光寺に開校された。これが現在の「大泉町立北小学校」の前身である。
 明治七年以降、各寺院等を仮校舎とする分校が設置された後、勢光寺からの流れをくむ求道学校との統合がはかられ、明治一二年一月には常光寺を仮校舎とする「小泉学校」となった。明治二二年一一月二三日、現在の城之内の地に校舎を新築し「小泉尋常小学校」となり、明治四三年には高等科を併置して「小泉尋常高等小学校」となった。
 昭和一六年に「小泉町国民学校」となり、昭和三二年には大川村と小泉町の町村合併に伴い大泉町が誕生し「大泉町立小泉小学校」と改名した。
 現在の校名「大泉町立北小学校」となったのは、翌年の昭和三三年のことである』
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 山門の下で見上げてみると天井絵が。
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 正面に本堂。
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 こちらの線刻碑は聖徳太子かな。
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 普門品供養塔に青面金剛、庚申塔など。
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 勢光寺の境内端に建てられたこの祠はなんだろう?
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 祠の前の長椅子には「病の治る椅子」とあるが、どんな曰くがあるのやら。

厳島神社(大泉町東小泉二丁目)

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 東部小泉線東小泉駅の西280m程の位置に鎮座する厳島神社(大泉町東小泉2-13)。
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『厳島神社由緒
 当社は古く弁天堂と呼びました。本尊の弁天尊は弘法大師作で、天正七年(1579)に勢光寺を開いた観誉了海上人が堂内に安置し、三代敬誉了信が寛永六年(1629)に横根原の現在地に竹堂を建てて勢光寺から弁天尊を移しました。
 六代廓誉住把の弟子、方誉休心が弁天堂のかたわらに竹庵を結び、初代の庵主となりました。その後、代々の庵主が弁天堂を守って来ましたが明治維新の神仏分離令により勢光寺から分かれて、弁天尊を御神体とする厳島神社になりました。明治四十一年(1908)に村社菅原神社に合併し、ついで同四十五年には上・下小泉村社合併により現在の小泉神社に管轄されました。しかし、地元の人々はこぞって氏子となり、従来通り、弁天様を福徳・智慧・財宝の神として信仰し、毎年五月第二日曜日に例祭を行っています。(細谷清吉記)
 昭和六十一年五月』
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 本殿。
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『弁天さまのいわれ
 天正七年に普照山勢光寺を開いた観誉了海上人が、弘法大師御作の弁天尊像を得て堂内に安置。
 三代住持敬誉了信は寛永六年横根原の現在地に竹堂を造って弁天尊像を移す。
 元禄四年、六代廓誉住把の弟子方誉休心は竹堂のかたわらに竹庵を結び、初代弁天堂庵主となる。
 九代巍誉諦心は弁天尊像の前立を造る。
 弁天堂庵主は、七代剃誉好善法子が文化八年七月二十七日に寂すまでつづく。
 以上は文政三年三月勢光寺より御本山へ提出した「普照山并末寺庵の創建起立書」による。
 明治元年神仏分離令により弁天堂は、厳島神社となる。社殿は六坪。別殿が八坪。境内二百九十六坪に山林など千坪。
 明治四十一年、下小泉村社の菅原神社に合併、ついで四十五年、上小泉の長良神社と菅原神社の合祀により小泉神社となる。
 地元の横根宿・久保宿の氏子たちは引きつづき福徳・知恵・音楽の大吉神として、毎年旧四月の巳の日に祭礼をつづける。
 戦後の農地解放、昭和三十一年の社日神社改築、四十五年の社日会館建設資金として売却、境内三十坪を残すのみとなる。
 弁天尊の本像は何時しかなくなり、人々は空しくおまいりすることとなったので、弁天尊像建立の運びとなった。
 平成十七年三月吉日』
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 弁天尊像。
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 道祖神。

笠置神社(明和町上江黒)

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 群馬県道304号今泉館林線脇、株式会社ジコーテック前に鎮座する笠置神社(明和町上江黒339)。
 加須市や古河市などに行く際によくこの前を通り気になっていたのだが、今回ようやく参拝。駐車スペースは無いので、北西の交差点脇にある退避エリアに駐車してささっとな。
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 額には笠置大明神と記されている。
 明和村誌にこちらの神社の記述は見当たらなかったので詳細は不明だが、岐阜県にある笠置神社は伊弉諾尊、伊弉冉尊、天児屋根命、火産霊神、水分神、誉田別命を御祭神としているそうなので、こちらもそうなのだろうか。

 2月23日追記。
 上野国神社明細帳によれば、こちらの御祭神は経津主命となっている。邑楽郡江黒村字笠置にあるので笠置神社と言う名になっているようだ。また、明治四十一年一月二十九日に下江黒の長良神社に合祀されたとのこと。

愛宕神社(明和町斗合田)

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 帰宅途中、そう言えば薬王寺の境内に愛宕神社があるんだったっけなー、通り道だし寄ってみるかと思い、愛宕神社へ。
 正面奥にあるのは斗合田集落センター(邑楽郡明和町斗合田132)。本堂が見当たらないなと思っていたのだが、駅探の地図を見ると、集落センターの隣にある建物が薬王寺であったようだ。それの前に駐車していたのに、全然気付かなかったわー。
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 馬頭観音や十九夜供養塔、地蔵菩薩、青面金剛、庚申塔などが並んでいる。
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 愛宕神社。
 塚の部分は古墳であるのだそうだ。
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 本殿。
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 愛宕神社古墳の向かい側にも祠があるのだが、何神社なのかは不明。
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 大日如来祠と薬師瑠璃光如来祠。
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 集落センター西側の十字路脇に鎮座する祠。
 何神社なのかはわからないが、畑の隅にあるので稲荷社かな。

 以上で11月3日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mm、DA21mm、FA28mm、DA40mm、50-150mm II。Coolpix P7100。

四祀開神社(邑楽町藤川)

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 邑楽町立高島小学校のやや北に鎮座する四祀開神社(邑楽郡邑楽町藤川352)。
 こちらに参拝するのもまた四年ぶりか。
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 拝殿。
 大棟に見える四星紋が神紋なのかな、と思いきや
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 剣四星紋が正しい神紋のようだ。拝殿正面の四星紋は、剣部分が外れてしまったからなのだろう。
 剣四星紋を用いている神社は寒川神社であるようだが、するとこちらの神社は寒川神社からの分霊を祀っているのだろうか。しかし、ならばなぜ寒川神社ではなく四祀開神社という珍しい社名になっているのだろう。寒川神社の御祭神である寒川比古命・寒川比女命は関東地方を開拓した神であるそうなので、四方を祀り開拓すると言う意であろうか? ただ、八方除の守護神であるそうなので、ならば四ではなく八になりそうな気がしないでもない。まぁ、まったく関係無いのかも知れないけどねー。
 また、よく見ると拝殿は鰹木が三本で千木は外削ぎ、本殿は鰹木が四本で千木は内削ぎとなっているので、拝殿は外宮扱いになっているのかも知れない。神奈川県の寒川神社ではなく、千葉県の寒川神社は御祭神が天照大神・寒川比古命・寒川比売命の三柱であるそうなので、そちらからの分霊と考えれば、この造りは納得できるかな。いや、しかし千葉の方は剣四星紋ではなく月星紋のようだから、違うかなー。そもそも千葉であれ神奈川であれ、寒川神社からの分霊なのかどうかもわからないし。

 7月7日追記。
 こちらの御祭神は大日孁命・豊受姫命・木花開耶姫命・彦火々出見命の四柱を主祭神とし、他に誉田別命、速玉之男命、事解之男命、伊邪那岐命、大物主命、市杵島姫命、素盞鳴尊、菅原道真公、倉稲魂命、金山彦命、日本武尊、八衢彦命、八衢姫命、事代主命、豊城入彦命、大山祇命、伊弉冉命、菊理姫命、高龗神の十九柱を祀っている。
 下野国御厨の郷社皇太神宮(足利市福富町の御厨神社)より両社の分霊を招き、更に木花開耶姫命と彦火々出見命を合祀して四祀開神社と称す。後に猪開と改め、明治五年十二月に村社となるが、同十一年には四祀開と復称している。明治十年八月に字豊原の十社を移転し、同四十三年に同村の無格社七社を合祀。
 境内末社は浅間神社、琴平宮、厳島神社、八坂神社、菅原神社、稲荷神社、妙義神社、三峯神社、道神社、三島神社の十社。
 以上は邑楽町誌下巻より抜粋。
 四柱の神を祀っているから四祀開なのかー、そうかー……うおぉ、上の推測欠片も合ってねえぇぇぇぇ○刀乙 寒川神社とか全く関係ないじゃん。剣四星紋どこから来たんだよ。…あ、でも拝殿が外宮になってるってのは当ってたのか。ところで四祀はわかったとして、開ってなに?
 足利市福富町の御厨神社は康平五年(1062)頃の創建と伝えられているようだが、こちらの創建時期は不明。当初は字村東にあったとも記載されているが、いつごろこちら(藤川字村西)に移転したのかも不明。
 邑楽町誌には境内社は十社と書かれているが、数えてみると十三(富士塚も含めると十五)社ある。邑楽町誌の書かれた後にまた増えたのだろうか。
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 末社群。
 左側の三連石祠は琴平神社・厳島神社・八坂神社。他は不明。
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 末社群其の二。
 前列右端は九頭龍神社。前列中央は社名は記されていなかったが、側面の彫刻が梅の木のようにも見えるので、もしかしたら天満宮なのかも。他は不明。
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 富士塚。
 塚頂には富士浅間神社。
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 そしてその石祠の足元に浅間神社。

富士浅間神社(邑楽町中野)

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 県道152号線際に鎮座する富士浅間神社。
 ここはGPSで記録しておいたのだけど……ズレてるなぁ。確かこの辺りだったような気がする。
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 浅間神社。
 台座には扶桑山と刻まれている。
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 参明藤開山と小御嶽石尊大権現。

長柄神社(邑楽町篠塚)

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 因起稲荷神社から少し西へ向かうと長柄神社(邑楽郡邑楽町篠塚2905-1)が鎮座している。
 以前こちらに参拝したのは2008年4月5日だから、およそ四年ぶり。
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 参道の両脇には紫陽花が咲き誇っている。
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 拝殿。
 7月7日追記。
 邑楽町誌下巻によると、御祭神は事代主命・藤原長良公・大日孁命・市杵島姫命・大山祇命・木花開耶姫命・番能邇々芸命・日本武尊・大己貴命・蛭子命・品陀和気尊・素盞鳴命・大国主命・火産霊命・天水分命・底筒男命・倉稲魂命・大宮能売命・大田命・八衢彦命・八衢姫命・久那斗命・品田真若王・豊城入彦命の二十五柱。
 境内末社は若宮八幡宮、沼矛社、松尾社、琴平社、熊野社、諏訪社、菅原社の七社。
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 拝殿内部。
 こちらも天井絵があったんだなぁ。
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 拝殿幣殿屋根葺替記念碑。
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『当社は出雲神話の八重事代主神を祭神とする上野国神名帳邑楽郡一ノ宮の「正一位長柄明神」です。
 事代主神の子孫が大和国葛上郡吐田郷長柄(奈良県御所市長柄)に移り住み、氏神として式内長柄明神を祭りました、その一族の長柄氏が千四百年前、利根川北岸の邑楽郡西南部に長柄郷を開発して、氏神の長柄明神を祭ったのがこの長柄神社です。
 長柄氏は郡司として邑楽郡を支配していましたが、平安時代になって藤原小黒麻呂流の佐貫赤岩氏が支配勢力となります。そして藤原長良を祭神とする長良神社が各地に祭られると、当社も長良公を合祀し、近郷の首社として崇敬されます。元弘三年(1333)五月、新田義貞の挙兵に応じて、鎌倉を攻め落とした豪勇篠塚伊賀守重広が出陣にあたり、武運を祈願したといわれます。
 江戸時代、二町三反五畝の広大な神域に古木大樹がうっそうと繁り、彫刻の粋をこらした壮麗な社殿が造営され、明治五年(1872)十一月、石打・藤川・秋妻・上小泉・下小泉・吉田・篠塚、以上七ヶ村の郷社に列せられました。
 その森厳なたたずまいは終戦によって失われ今は樹齢四百年の江戸彼岸桜の名木が昔をしのばせています。
 平成十四壬午年四月吉日』
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 どうやら本殿の改装作業中であるらしく、危険防止の為にここより先には行っていない。そのうちにまた来て見よう。

因起稲荷神社(邑楽町篠塚)

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 先程の天満宮から南下して行くと、西側に因起稲荷神社が鎮座している。
 一の鳥居は昭和六十一年(1986)二月、二の鳥居は昭和六十二年、三の鳥居は昭和六十三年二月と一年おきに増えている。また、三の鳥居から先は隣家の庭先になっているので、参拝するのは少し躊躇した。
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 社殿。
 稲荷神社だが、こちらは右三つ巴紋が神紋なのだろうか。或いは合祀されている神があるのか。
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 台座には狛犬の親子のレリーフが施されている。
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 お狐様。

天満宮(邑楽町篠塚)

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 篠塚南交差点から県道361号線を西へ向かって行くと、十字路の脇に天満宮が鎮座している。

富士浅間神社(邑楽町篠塚)

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 篠塚南交差点脇に鎮座する富士浅間神社
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 文字のあった部分が崩れて補修したのだろうけど、なんと言うか、手書き感が凄い。

篠塚稲荷神社(邑楽町篠塚)

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 県道152号線坪谷交差点のやや北側に鎮座する篠塚稲荷神社
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『籠宮稲荷神社
 南北朝時代の正平二年(1347)新田義貞一族の武将細谷右馬助秀国はこの地に居住するにあたり丹後国与謝郡府中にある籠神社(伊勢神宮・豊受大神の本宮)から分霊を祭って鎮守とし、翌三年には籠宮山観音院泉福寺を建立して戦乱に散った一族家人の冥福を祈りました。以来籠宮神社と泉福寺は坪谷、水立、大黒中の教化と信仰の中心となり、江戸時代の安永二年(1773)正月には京都から伏見稲荷を泉福寺へ勧請して農民生活の守護神と仰ぎにぎやかな祭礼が行なわれて来ました。明治維新の神佛分離令によって稲荷神社は泉福寺から離れて西隣の籠宮神社に移され社屋は青年集会所となりました。昭和十三年(1938)に現在の社殿を新築して社号を稲荷神社とし奥殿に籠宮大明神と稲荷大明神を安置奉祭しました。
 昭和四十一年(1966)二月十一日泉福寺は焼失しましたが神社は難をのがれ寺跡には現在の集会所が建設され古来変りなく坪谷、水立、大黒中の人々のふれ合いの場となり伝統的文化と信仰が受け継がれています。
 平成十四年二月』

 とすると、御祭神は天火明命と宇迦之御魂神になるのかな。それとも籠神社から分霊したのは豊受媛命なのだろうか。
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 お狐様。昭和三十一年(1956)四月造立。
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 拝殿。

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 稲荷神社の前に御嶽塚。こちらは神道大成教に縁があるようだ。
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 青面金剛。
 宝永四丁亥年霜月十二日とあるので1707年のもの。
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 石段の両脇に石祠があるが、どなたを祀っているのもかは不明。
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 塚頂に御嶽神社。

秋葉神社(邑楽町篠塚)

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 水立交差点のやや南西に鎮座する秋葉神社
 右側の建物は地蔵祠。
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 拝殿内部。

大國神社(邑楽町篠塚)

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 県道361号線水立交差点の北東、第23区公民館の敷地内に鎮座する大國神社(邑楽郡邑楽町篠塚1352-3)。
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『遷座記念碑
 本社は元禄十六年(1703)十一月、此の地を大黒新田開発した十六人によって造立奉祭された大黒天石像を発祥とします。
 明治十二年(1879)、信徒総代小林竹次郎の時、大国神社と改め大国主命を祭神としました。
 平成六年(1994)三月、町道幹線六号線拡幅のため旧社地篠塚大黒一三四七-一番地から現在地篠塚大黒一三五二-三番地に旧社地から十九夜月待塔と庚申塔を遷座しました。
 発祥以来、地区の幸福と発展を祈願し鎮守の神として永年にわたり神徳されてきました』
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 十九夜念仏供養塔(寛政九丁巳歳(1797)二月)と馬頭観音塔。
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 青面金剛。
 元禄…六天(1693)、かな?

諏訪神社(邑楽町中野)

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 浅間神社から南西に下って行くと、ケイ・エス産業の向い側、民家に続く道の入り口にひっそりと諏訪神社が鎮座している。
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 木祠の中には公家のような像が納められているが、なんだろう? こちらが天満宮などであれば菅原道真公像だと思うところだが、しかし諏訪神社だからなぁ……。

浅間神社(邑楽町中野)

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 東武小泉線篠塚駅と本中野駅の中間辺りに位置する前原浅間神社古墳の墳頂に鎮座する浅間神社
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『前原浅間神社由緒
 前原浅間神社は新田義貞の忠臣中野藤内左衛門景春ゆかりの神社です。
 中野氏のおこりは文永二年(1265)新田一族の大島次郎景継が佐貫庄中野郷に塁を築き、中野氏を称したのに始まります。景継は中野城を整備するとともに、新田大島の八幡山から八幡宮を勧請して鎮守とし片岡(前原、蛭沼、篠塚北部、藤川東部)の住民を移して元宿とし、箱田(光善寺)から移住させて上宿、下宿とするなど郭づくりと城下集落の形成を進めました。
 また景継には男子が生れなかったので、駿河国富士山本宮浅間大神に祈願をおこしましたところ、弘安十年満願の日に男子が出生しました。そこで景継は二人の家臣を富士山に登らせ、中野城の西南に当る前原にその分霊を祀りました。これが前原浅間神社です。
 中野景継の嫡男として生れた景春は、新田方の武将として活躍し、延元三年(1338)新田義貞が燈明寺畷において戦死すると、景継も殉死しました。景春五十二歳、老練知略の武将でした。
 平成三年八月』

 ……うん? 景継が殉死? 前後の文脈的には景春だと思うけど、そもそも中野景継の没年がわからないので書き間違いなのかどうかはっきりしないな。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 彦穂瓊々藝命と烏帽子岩 食行身禄*1。
 瓊々杵尊は浅間神社の祭神である木花開耶姫命の夫神であるのだから、祀られていても不思議ではないのだが、しかし実際に浅間神社の境内に祀られているのはなかなか見ることが無い。
 また、*1は人偏に杓で、「くう」と読むのだそうだ。何の異体字になるのか見当も付かない。
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 麓**神社。
 **の部分ははっきりしないけど、浅間のように見える。とすると麓浅間神社かな。

荒神神社(邑楽町中野)

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 阿夫利神社から少し東へ向かうと、県道152号線の脇に蛭沼薬師堂があり、その境内に荒神神社(邑楽郡邑楽町中野580)が鎮座している。
 余談だが、地図で鳥居マークが付いている建物は荒神神社ではなく、その隣にある第11区公民館。
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 左から金刀比羅宮、尾鑿大権現(天保七丙申(1836)歳正月)、厳島神社(昭和四年(1929)十月再建)。
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 蛭沼薬師堂。
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『蛭沼薬師堂の由来
 蛭沼薬師の始まりは定かでないが、昭和三十七年(1962)古い堂宇の屋根替をした際「天明五年改築」という棟札が発見されているから創始は江戸時代初期或いはその以前と推定される。天明三年(1783)の歴史的惨禍をもたらした浅間大噴火の二年後のことであるから当地方も降灰の被害が甚大で飢饉に苦しんでいたと思われるが、この時に村人が薬師堂を改築していることはその信仰の深さを物語るものである。
 薬師如来は薬師瑠璃光如来とも称し、人々のあらゆる病苦を救い、殊に眼病を治癒する効験のある仏であるから人々の深い信仰を集めたものである。
 尚この堂宇は時宗遊行上人巡国の砌り御小休所としたところで、参集した善男善女は上人がお手ずから「南無阿弥陀仏」の名号を授けられ暫し法悦の境にあった盛儀は今に人々の語り草となっている。尚高僧祐天上人も当薬師堂に在居されたと古老は伝えている。かような由緒ある薬師堂も荒廃するに至ったので、村人の間に再建の気が盛んに起り心を一にし力を協せ新堂宇の建設に着工し、ここにめでたく竣工をみることが出来たのはまことに当代の盛事と云うべきである。
 昭和五十七年七月十八日』
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 五輪塔・宝篋印塔。
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 お地蔵様。
 取れてしまった首が、供養と刻まれた石の上に置かれているのはちょっとホラーだ。

阿夫利神社(邑楽町中野)

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 東武小泉線篠塚駅の北側に鎮座する阿夫利神社
 古墳かな、とも思ったのだが、古墳系サイトを見ても出てこないので違うのだろう。
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 塚頂に大山阿夫利神社。
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 不動明王。
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青面金剛(邑楽町中野)

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 県道152号線蛭沼交差点の東側、佐野建材前の三叉路脇に鎮座する青面金剛
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 何年のものなのかは不明。

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 こちらは梅宮神社の北側にある十三坊塚北口庚申塔。宝永七庚寅年九月とあるので1710年のもの。
 GPS記録をしておくのを忘れてしまったが、確かこの辺りだったはず。
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『町指定重要文化財 十三坊塚北口庚申塔
 この青面金剛の像塔は江戸時代初期、各地に庚申塔が建て始められた頃の数少ないものの一つですが、庚申塔の本尊としては最も多いものです。
 この像塔は彫りも深く、文字や形もはっきりしているので、その特徴がよく表れています。
 十三坊塚では庚申講のことを「寄せ戸」と言いました。寄せ戸は、とれどき(収納期)の終わる旧暦十月十六日に行ないました。
 当日、講中の人達は宿になった家へ朝からご馳走づくりの材料を持ち寄ります。そして夕方までにご馳走をつくり終え、座敷の正面に庚申様(青面金剛の掛軸)を飾り、お灯明やお神酒、搗きたての餅それにご馳走を供えます。講中一同も着座して礼拝し五穀豊穣を感謝し無病息災を祈ります。その後は飲んで食べ歌って踊ってあそび、夜を徹して四方山ばなしに花を咲かせました。
 こうした人の体内にいるという三尸の虫が天帝にその人の罪過を告げに行くのを防ぐ虫封じをしたのでしょう。
 一九九三年三月』

白山神社(邑楽町中野)

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 中野小学校と本中野駅の中間辺り、小川酒店の南側に鎮座する白山神社
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 本殿。
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 末社群。
 確認できたのは青面金剛と金毘羅大権現×2。
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 青面金剛塔。天明元丑天五月吉日とあるので1781年か。
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 寶登山神社。

豊穂稲荷神社(邑楽町中野)

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 邑楽町立中野小学校北側の交差点脇に鎮座する豊穂稲荷神社

神光寺(邑楽町中野)

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 梅宮神社のすぐ南側に位置する浄土宗広学山等照院神光寺(邑楽郡邑楽町中野3015)。
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『中野城跡
 所在 邑楽町大字中野字元宿地内
 中野城は鎌倉中期の文永二年(1265)新田義重の子孫、中野景継によって築城され以後同氏の居城となった。景継の子藤内左衛門が延元三年(1338)越前国(福井県)藤島において、主君新田義貞とともに戦死したため、築城後七三年にして廃城となった。
 戦国時代の永禄年間(1558~70)小泉城主富岡氏配下の宝田和泉守は、中野氏の故城を修築本拠としたが、天正一八年(1590)廃城となった。遺構は寺院境内地を含めて、東西一一○メートル、南北一四○メートルに及ぶといわれ、わずかに南面に塁濠跡を確認でき、その規模から中世の館跡とも考えられる。
 昭和五十九年三月』
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 榧の木。
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『県指定天然記念物 神光寺の大カヤ
 指定 昭和五十四年十月二日
 文永二年(1265)、新田氏の一族である大島時継の次男景継が、この地に中野館を構築した。その中野館の名残がこの大カヤであるといわれる。
 中野館は戦国時代、中野城に改修されたが、天正十八年(1590)、豊臣秀吉の関東平定によって廃城となった。
 江戸時代に入って寛永二年(1625)、前原にあった中野山善正寺を中野城の本丸跡に移したのが現在の神光寺である。
 このカヤは推定樹齢約七五○年、樹高二十一メートル、根周り十五メートル、目通り五・六メートル、枝張り東西二十メートル、南北二十三メートルあり、地上六メートルのところで二十枝に分かれている。
 永い歴史の風雪に耐えた樹容は壮観であり、邑楽地方における代表的な巨木であるだけでなく県下においても有数な巨木に数えられる。
 平成五年十月』
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 本堂。
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 十三重石塔と摩尼車。
 十三重石塔のプレートを見ると、神光寺は中野藤内左衛門景春公による開基であり、景春公は越前足羽に於て延元三年(1338)寅の七月七日、大将新田義貞公と共に討死。行年五十一歳。また「千鈞の弩は鼷鼠のために機を発せず」が遺訓であったとのこと。
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 丁度境内の掃除をされている方がいたので尋ねてみたら、嘗ては太子堂であり大工さん達が尊崇していたが、現在は物置になっているのだそうだ。

梅宮神社(邑楽町中野)

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 邑楽町第六区公民館の裏に鎮座する梅宮神社
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 右側が梅宮神社で、左側は神明宮。
 梅宮神社と言うことは、酒造の神様なのかな。
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 奉納誌。
 これを見ると、創建は寛延二年(1749)以前ということになるだろうか。神明宮がこちらに移転して来たのは大正八年(1919)……かな?
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 富士嶽神社と宝登山神社。
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