大谷神社(成島町)

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 東武小泉線成島駅の400m程東に鎮座する大谷神社(館林市成島町371)。
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 鳥居の根巻部分には狛犬の姿が彫られている。
 柱には「天保五年甲午歳二月吉日」と刻まれているので1834年の造立。
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 二の鳥居。
 「皇紀二千六百年 伊勢参宮記念」と刻まれているので昭和十五年(1940)の造立。
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 参道脇の狛犬。
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 拝殿前の狛犬。
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 拝殿。
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大谷休泊翁合祀記念碑
上毛の地は美しい山水の天恵と偉人の恩沢に浴し隆々栄えて在り、室町時代は天文の頃、大谷休泊翁は渡良瀬川より取水し明和村大輪に至る上休泊堀を、又多々良沼より江黒に流れる下休泊堀を掘削し、水田を拓きて其の配水面積実に一千余町歩に及び、灌水滔々として幾百年今なおその恩恵に浴す、翁は又館野ケ原の荒野を拓き軽鬆の地に松苗を植林す、されど旱魃による枯死木の多きを憂い清浄の地へ草祠を営み山神を祭り植林の完成を祈願す、此れ大谷神社の創建なりという。以来苦節二十年を要し五百八十六町歩に亘る造林を達成し、水源涵養、防風、薪炭林として民生に寄与し、八州に冠たる農耕改良植林の大業をなす、英知を以て天恵を増進し而して東毛を沃野と化す、正に農地改良の始祖として斯界に盛運を授け給へり、
      偉なるかな 其の広遠なる業績、 敬なるかな 其の崇高なる神徳、
郷党等しくその恩徳を崇拝し敬仰おく能はざる所なり、今や「水と緑豊かな郷土造り」、の機運本邦に高からんとする時、氏子一千参百余の総意により大谷休泊翁を大谷神社に合祀し永世敬神の誠を盡さんとす、願はくは悠遠に郷土を守護し賜はらんことを、
 昭和六十一年四月吉日  題字 群馬県知事   清水一郎書
                館林市議会議長 熊倉正一郎撰文
                大谷神社総代表 曽根彦之書

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   合 祀 紀 念 碑     群馬縣知事正五位勲四等神山閏次篆額
夫レ敬神ハ皇國民ノ特徴ニシテ忠孝ハ大和民族ノ獨特ナリ宜ナル哉我カ國 上ハ宗■ヨリ下鎮守ニ至ルマニ國トシ村トシ将タ字トシテ神社ノ建立之レ無キハ莫シ我カ成嶌村内大谷原ニ鎮座セル大山祇神社ハ祭神大山祇命ニシテ永禄二年九月今ヲ距ル凡三百五十餘年ノ昔大谷休伯翁大谷原ニ植林ヲ経營スルニ方リ松苗ヲ隣郡太田金山ヨリ移植セシニ樹半枯死セリ足ニ於テ翁原野中央ノ地ニ草祠ヲ結ヒ以テ山林ノ守護神ト為シ更ニ又稺松數十萼株ヲ栽培繁茂セシメタリト而シテ維新前ニ在テハ館林代々ノ城主ヨリ毎歳祭資料トシテ松材若干本ヲ下賜セラルゝノ例アリ爾来時移リ星易リ明治五年社格ヲ村社ニ列ス之レ本社因起ノ梗概ナリ又小蓋耕地諏訪神社休伯耕地山神社赤土耕地山神社愛宕稲荷神社等祭祀ノ典禮今日ニ亘レリ明治三十八年敕令ヲ以テ社寺ノ合併合祀ヲ發布セラレタリ是ニ於テ乎篤志者令旨ニ鑑ミ氏子ト謀リ村内ノ神社ヲ合祀セント中央便宜ノ地ヲ相シ民有地千三百餘坪ヲ購フテ社地ト為セシハ明治四十年三月ナリ尋テ又社名ヲ大谷神社ト改稱スルノ官ノ認可ヲ得シハ四十一年六月ナリ今茲朙治四十二年一月一日ノ吉辰ヲ以テ社殿建築ノ工ヲ起シ同年三月五日上棟式ヲ舉ク又時ヲ同クシテ社務所ヲ境内ニ造設ス越テ同年十一月十日ヲトシ五社靈璽ノ合祀遷宮式ヲ舉行シ茲ニ創メテ大谷神社ト敬虔スル一大村社ハ出現セリ矣嗚呼此ノ村ニシテ而シテ此ノ舉アリ顯然タル神靈村民ノ幸福ヲ増進ス可シ灼然タル神徳闔村ノ安寧ヲ擁護ス可シ又村民ハ頼テ以テ道ヲ践ミ業ヲ勵ミ大ハ即國家ノ盛運ト繁榮トヲ祈リ小ハ即子孫ノ長久ヲ禱ラン頃日氏子相謀テ合社建設紀念碑ヲ社側ニ樹テ以テ不朽ニ傳ヘ後世子孫ヲシテ長ヘニ皇國ノ特質タル敬神ト忠孝トノ美徳ヲ發揮セシメント有志某々等来テ余ニ文ヲ乞■余固ヨリ不文敕テ中ラスト雖深ク其ノ意ヲ好シ辭セスシテ而シテ之ヲ録ス
  明治四十二年十一月              館林 吉田必於撰
                         仝  岡戸畊瑩書
 永禄二年(1559)九月に大谷休泊が山林の守護神として大山祇命を祀る祠を建てたのが創まりで、大山祇神社として長く信仰されて来たが明治五年(1872)に村社に列格、四十一年(1908)に大谷神社に改称。四十二年に社殿の建立と五社の合祀遷宮式とあるが、これは諏訪神社と山神社、山神社、愛宕神社、稲荷神社の五社と言うことだろうか。上の大谷休泊翁合祀記念碑を見ると昭和六十一年(1986)に大谷休泊も御祭神の一柱として合祀されているので、現在の御祭神は
 主祭神 大山祇命
 配祀神 建御名方命、軻遇突智命、倉稲魂命、大谷休泊
と言うことになるのだろうか。
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 末社。
 中に掛けられた奉名板には富士の文字が見えたので、おそらく富士嶽神社だろう。
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 上部が剥がれてしまっているが、小御嶽神社だろう。下部には磐長姫命と日本健命の名が刻まれている。
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 大黒天。
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 末社。
 神社名を記したものは見当たらなかったので何神社なのかは不明。
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竹生島神社分宮(富士原町)

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 国道122号線富士原交差点西南に鎮座する竹生島神社分宮(館林市富士原町1109-2)。
 名前から見て本町三丁目にある竹生島神社からの分社かと思っていたが、由緒書きを見るとまるで違った。
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当社御祭神と弁財天由緒
 当社は古より滋賀県の琵琶湖の北に浮かぶ神の斉く島日本三大弁財天本社竹生島神社の直系分社として御遷宮され、当地に御鎮座されています。
 全国各地に竹生島神社の名称のお宮は数多く御鎮座されていますが当神社は唯一の直系分宮です。
市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと) 別名 弁天様
宇賀之御魂命(うがのみたまのみこと)  別名 龍神様
浅井姫命  (あざいひめのみこと)   別名 竹生島地主神

竹生島神社の起源
 総国風土記によると雄略天皇三年(約一五〇〇年前)に御祭礼が執り行われた記録がありその後天智天皇が志賀の宮を御創造になった折この竹生島に市杵島姫命(弁財天)をお祀りになりました。又別の縁起によると聖武天皇が奈良に都を始められた神亀元年甲子三月十五日天照大神様の御神託により都の守護神として当竹生島に市杵島姫命(弁財天)を御祀りになり、天平三年には天皇自ら竹生島にご参拝されました。

弁財天様は万能の功徳を授ける女神
 弁財天は今日七福神の中の唯一の女神として知られているが、大弁功徳天、妙音天、美音天、などとも諭旨され略して弁天、この神への人の気楽さで弁天さま、弁天さんと呼び習わすが弁財天様の現世功徳とは人々に弁舌の才を与え、福智を授け、延命と財宝をもたらし天災地異を除く神法として信仰を集める神で特に富貴、名誉、食物、勇気、子孫繁栄を恵む、学芸音楽の守護、土地の豊饒を招来する農業神として信奉される、人々の熱心な崇敬によりその功徳の包容力を益々高められきわめて特別な神格を持っている大神様です。
 神は人の敬いによって神威を高め 人は神の徳によって運に添う
 竹生島神社本宮の由来は書かれているが、この分宮の沿革などは記されていないのでよくわからない。
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 拝殿。
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 北の鳥居。
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清龍神社(本町二丁目)

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 群馬県道57号線脇に鎮座する清龍神社(館林市本町2-11)。
 以前に一度参拝しているので立ち寄る予定は無かったのだが、折角通りがかったのだからとお詣りしてみた。前回は2009年11月だったから、大体八年ぶりか。
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 本殿。
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 下の方が埋もれているが、出ている範囲内では「奉寄  清瀧大権  天和三年  願主 冨田  別當 福壽」の文字が見える。
 この井戸は館林駅前の竜の井と繋がっていたとの言い伝えがあると案内板に記されているが、まだ竜の井を見に行ったことなかったな。そのうちに行って来よう。
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 この後は富士原町の富士嶽神社へ向う予定だったのだが、行ってみたら鳥居の周辺でスマホを見ながら下を向いている集団がいたのでパスして次の神社へ。そう言えば西本町の愛宕神社でも参拝し終えた頃に鳥居の所で同じようにスマホを見ている集団がいたっけ。なんだったんだろうあれ。ポケモンGoとかかな? まぁまた後で行って来よう。見落としていた神社もあることだし。

金山神社(本町二丁目)

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 連雀子育観音の200m程南、民家前に鎮座する金山神社(館林市本町2-16
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連雀子育観音(本町一丁目)

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 かごめふれあい館の裏に位置する連雀子育観音堂(館林市本町1-3)。
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連雀子育て観音の由来
 天正年間(一五七三‐九二)の中ごろ館林地方を領していた小田原の北条氏より絶えて久しかった「六斎市」の復興が許されると、市場守護とその幸福をもたらすため市神(牛頭天王)がまつられた。当時は近郊近在より自家製の穀類・野菜をはじめ日用生活雑貨などを連雀(連尺・連策)とよばれる運搬用具で背負い市場である路傍に運び商品を並べて客を待った。
 これを連雀商人といい、その商人の集まった所を連雀町といった。ここは館林城大手門に接し頗る賑わいを極めた商人の町として発展した。今の「かごめ通り商店街」である。後に市神も他町内へ遷座、そのとき市神境内にあった観音は元気なそして利発な子に育つ霊験あらたかであるという由緒から、住民こぞっての希望で据え置かれ、ますます多くの人々から信仰されてきた。弘化年間井上河内守から秋元但馬守への引継書にもこの名が見え、当時から著名の観音だった。
(川島推知 記)

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不明(本町一丁目)

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 本町二丁目交差点の80m程西、サンライズ小室脇に鎮座する祠(館林市本町1-1-1)。
 社名を記したものが無いので何神社なのか不明。

野木神社・冨士嶽神社(仲町)

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 本紺屋町会館脇に鎮座する野木神社・冨士嶽神社(館林市仲町5-46)。
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 冨士嶽神社と野木神社の名が並んで刻まれている。多分社号標石。
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 額などの社名を記したものが無いのでどの祠が何神社なのかわからない・・・・・・と思いググってみたところ「塾長の徒然草」と言うブログにこちらの神社の記述があり、左端の祠が野木神社であり、祠の側面に額が掛けられているようだ。確かに一枚目の写真を見直してみれば側面に張り出している部分がある。全然気付かなかった○刀乙
 野木神社の御祭神は鹿屋野比売神であるとのこと。
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太神宮(仲町)

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 館林合同庁舎の170m程南に鎮座する太神宮(館林市仲町7-3)。
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 小さいながらも神明造になっている本殿。
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愛宕神社(西本町)

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 応声寺参道入口から170m程北上すると西本町南会館脇に愛宕神社(館林市西本町9)が鎮座している。
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 町名の由来を記したプレートの埋め込まれた石柱。
 現在は西本町だが、昔は木挽町と言う町名だったのだろう。
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 拝殿。
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 斜めから。
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合祀記念之碑
        貴族院議員正四位子爵秋元春朝篆額
抑愛宕神社ハ館林最古ノ神社ニシテ其由緒ヲ尋ヌルニ今ヲ距ル千二百年前文武天皇四
庚子年ノ創立タ■其後文永年間鎌倉執権最明寺時頼社殿ヲ造営ス元亀元年武田信玄ノ
祈願所ト定メラル後館林城主赤井照康ノ時ニ及ヒテ館林總鎮守ト定ム爾来北條長尾諸
氏及ヒ榊原康政ヨリ秋元但馬守ニ至ル世々ノ城主崇敬厚ク或ハ社殿ヲ修復シ又ハ祭祀
ヲ舉行セラレタリ天明元年聖護院一品親王宮菊章ノ幔幕ヲ納メラル明治維新ニ際シ神
佛混淆ノ禁令ヲ發セラレ随テ鎮守ノ尊稱ヲ廢シ遂ニ無格社ニ属ス境内ニ老杉數株アリ
蓊欝トシテ天ニ聳ユ會々是ヲ採伐シテ私利ヲ計ラントスルノ徒アリ巧ニ神職ヲ誑カシ
既ニ金ニ換ヘントス幸ニ特志家荒井清二正田文右衛門石島與平治ノ三氏首唱トナリ四
十五名ノ有志ト謀リ金ヲ醵シテ之ヲ購ヒ以テ事無キヲ得タリ明治十六年社殿頗ル朽廢
ヲ極メ又見ルニ忍ヒサルヲ以テ荒井石島両氏率先シテ大ニ修繕ヲ加フ現今ノ社殿即是
ナリ三十九年神社合祀ノ令ヲ發セラル時ニ本社ハ郷社長良神社ニ合祀シ巨樹ヲ金ニ換
ヘントスルノ議盛ニ起レリ此時ニ當リ荒井清三郎痛ク之ヲ惜ミ時ノ神職中島豊及ヒ氏
子等ト苦心焦慮専ラ是カ存續ニ力メタルヲ以テ茲ニ塚場町有志ト相謀リ本社ヲ存シ且
稲荷八幡秋葉ノ三社ヲ合祀スルノ議熟シ官亦之ヲ諒トシテ直ニ認可セラレタリ嗚呼靈
験顯著ノ神靈モ時勢ノ變遷推移■共ニ殆ント衰頽堙滅ニ歸セントス幸ニ敬神篤志家ノ
アルヲ以テ其血食ヲ存シ喬木蔚乎ヲ全ウスルヲ得タリ況ンヤ三柱ノ合祀ニ於テヲヤ是
レ氏子ノ永ク忘ル可カラサル所ナリ頃日氏子相謀リ碑ヲ建テ之ヲ不朽ニ傳ヘシトシ文
ヲ余ニ需ム余其ノ意ヲ嘉シ此ニ其梗概ヲ誌スト云爾
   大正八年六月                  吉田安宅 撰
                           寺島錬二 書
 創立が文武天皇四年庚子と言うと西暦700年か。大宝律令の制定される前年だ。その後文永年間になって北条時頼により社殿が造営されたとあるが、文永は1264~72年。北条時頼は弘長三年(1263)に没しているので無理じゃないのかな。時頼存命中ならば文永以前となるし、文永年間の執権となると北条政村か時宗だが、はてさて。
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 拝殿の裏手に回ると館林町第1号古墳の頂に本殿がある。
 石段右手側には猿田彦大神と三猿。
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 本殿。
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 石段脇の祠は三峰神社。
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 群馬県指定重要文化財である青石地蔵板碑。
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群馬県指定重要文化財 青石地蔵板碑
  指定年月日 昭和四八年八月二一日
  員   数 一基
  所   在 館林市西本町甲二四四〇 愛宕神社
  時   代 鎌倉時代
 板碑とは、供養などのために建てられた塔婆のことで、板状であることからこう呼ばれています。関東地方では、埼玉県秩父地方に産出する緑泥片岩を利用することが多く、この石は色が青く見えることから、「青石」と呼ばれてます。
 この板碑は頂部が欠けていますが、現状で高さ二〇二センチメートル、重さ八〇〇キログラム以上もある大きなもので、上半分には、地蔵尊の像が、下半分に「右志者為過去慈父出離 生死往生極楽成仏得道 文永十癸酉二月□日 十三ヶ歳十二孝子 敬白」の文字が刻まれており、文永一〇年(一二七三)二月に一二人の子供たちが亡き父の一三回忌に造立したものであることがわかります。
 画像板碑としては、群馬県内でも有数のもので、工芸・文化史上において貴重であるとともに、数少ない中世の文字資料でもあります。

白山神社(栄町)

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 館林駅の北西350m程、正田醤油館林工場脇に鎮座する白山神社(館林市栄町14)。
 左の御堂には如意輪観音と地蔵尊が納められている。と言うことは十九夜堂だろうか。
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 昭和十年四月に建てられた改築記念碑。由緒等は刻まれていなかった。
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 三基並んだ石祠。左のものは石燈籠に石祠の屋根部分を乗せただけのようにも見えるけど、うん、まぁ。
 中央の石祠は白山宮で寛文・・・・・・何年だろう。よく見えない。右奥の石祠は八幡大菩薩・稲荷大明神で宝暦六子年(1756)二月の造立。
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 青面金剛。
 左は享保九甲辰年(1724)、中央は正徳五乙未年(1715)九月、右は享保五子天(1720)十月の造立。
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 文化七庚午年(1810)六月造立の普門品供養塔と享保十七壬子年(1732)十月十五日造立の歸命辨財天。

山神社(近藤町)

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 近藤開拓地区集会所の脇に鎮座する山神社(館林市近藤町)。
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 脇に建てられた山神社遷宮本殿建立御寄進碑には昭和六十二年十月二十五日と刻まれてはいるものの、由緒等は不明。
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 御神燈には「奉納御廣前 文政八乙酉年 正月吉祥日」と刻まれているので1825年の造立。とすると、こちらの山神社の創建はそれ以前と言うことになるだろうか。

上志柄天満宮(羽附町)

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 群馬県道372号線花山入口交差点の東270m程の位置に鎮座する上志柄天満宮(館林市羽附町1784)。
 駐車スペースは無いので、240m程東にある上志柄集会所に駐車。
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 鳥居と社殿。
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『上志柄・天満宮由緒(森田勇氏所蔵文書より)
抑、上志柄天満宮は、元和元年(1615)今成丑之丞なる者、大阪の陣に徳川方として出陣する。母は息子の無事帰還の節は、天満宮一宇を建立すべしと、松原村に祭るを始めとする。
その後、上志柄・大袋地内に、鎮守の無きことを嘆き、松原村世話人に懇願したところ、社地は羽附分に願いたしとのことにて、相談の上延宝年間(1673~1680)大袋地内に祭るなり。
以来、幾多の変遷を経て、大正初期に富士嶽神社に合祀せられ、空宮になった堂宇は、損傷が甚だしい為、取り壊すことになる。
建築資材は普済寺に預け置かれたが、腐朽の虞れがあり、これを見兼ねた、当地森田幸助氏は尊崇の念厚く、自費を投じ屋敷内に天満宮を建立し、戦後間もなく富士嶽神社より再勧請せり。
実に上志柄天満宮の初めなり。
昭和六十年十月新築再建立する。
 神主 菅原道真公
 例祭 一月二十五日
    十月二十五日』
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 旧社殿。
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 天満宮の20m程北に富士塚らしきものがある。
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 天満宮の東側にあるアパートの駐車場端に立てかけられた猿田彦大神。根元がぽきっと逝ってしまっている。

 以上で2月7日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA15mm。X30。
 この後は市役所隣の図書館に行って館林の神社について調べてみたのだが、今回巡った場所に関しては記述が少なく、あまりわからなかった。また後で前橋の文書館に行って神社明細帳でも調べて来ようかな。

子神社(赤生田町)

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 国道354号線赤生田交差点の南100m程の位置に鎮座する子神社(館林市赤生田町2215)。
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 狛犬。
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 狛犬二号。
 いや、こっちの方が古いからこっちが一号か?
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 拝殿正面。
 こちらの絵馬は一風変わっており、金の草鞋になっている。
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 向拝虹梁には鼠(子)の彫刻。
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 金の草鞋……かな。履くとダメージを受けそうな見た目だけど。
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 社殿斜めから。
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『子神社
通称(子ノ権現様)の由来記
一、鎮座地 群馬県館林市赤生田町二二一五番地
一、御祭神  大己貴命(大穴牟遅命)
一、祭 儀  例大祭    三月十五日
       祈年祭 春祭 二月下旬
       新嘗祭 秋祭 十一月下旬
一、鎮座由来 創建不詳。子神社は明治初年神仏分離後の名称で一般には「子ノ権現様」
      の名で知られている。現在の社殿は明治二年(一八六九)に改築をされたも
      の。伝説に依れば御祭神大己貴命は非常に旅好きの神様でそして大変な健脚
      の持主で鉄の草鞋をはいて旅をしたと言伝えられております。それにあやか
      ってか何百年も前から鍛冶屋で草鞋作り又手作りの草鞋にて祈願を致してお
      ります。大祭日には氏子を始め遠近の崇敬者諸々の信仰厚く門前境内は参拝
      者にて列をなします。花火奉納神楽余興等行われ数多くの露店も並び祭に華
      を添えております。足腰の神様として近郷近在にない御利益のある神様で関
      東各地より参拝祈願される者多く又大願成就御礼の額に収め奉納されており
      ます。
       御参拝方々の御健勝と御健脚を祈念申し上げます』
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 稲荷神社鳥居。
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 稲荷神社。
『稲荷大明神建立由来記
 現在の館林市赤生田町二二一五番地にある稲荷大明神祠は享保十六年(1731)に長谷川源兵衛殿が発願造立した記録がある。今から二百五十六年以前である。其の後の事は別記の通りである。
一、石燈篭石洗文字寛延二巳三月(1749)
  今より二百三十八年前中島小右衛門奉納
二、宝暦第四歳次甲戌(1754)赤生田内志柄氏子中奉再営稲荷大明神組内氏子各願圓満祈
 処二月初吉祥日別當養老山住尊宣
  今より二百三十二年前
三、山城國紀伊郡京都伏見稲荷大明神より分社
  当所中島小右衛門殿今より二百三十二年前
四、奉再建正一位稲荷大明神 惣氏子
  文久四年(1864) 今より百二十三年前
五、奉再建 昭和六十二年二月吉日(1987)』
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 十九夜堂。
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 如意輪観音と青面金剛。
 こちらの青面金剛は合掌、弓矢、日月のタイプ。貞享三丙寅年(1686)八月吉日とある。

八坂神社(羽附町)

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 羽附交差点の北東、本宿集会所の東隣に鎮座する八坂神社(館林市羽附町679)。
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 拝殿。
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 大日如来。
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 集会所の横にお堂らしき建物があるが、何を祀ったお堂なのかは不明。

大山祇神社(赤生田町)

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 国道354号線東国歴史文化街道と群馬県道362号山王赤生田線が交わる羽附交差点の南側に鎮座する大山祇神社(館林市赤生田町)。
 隣接する山田集会所前に一台分の駐車スペ-スあり。
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 拝殿。
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 地蔵尊と辨財天。
 地蔵尊は享保十六辛亥(1731)八月造立、文化六己巳(1809)八月再建と刻まれている。
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 末社と山田監物之碑。
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 西から。

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 県道362号線を挟んで南西に富士塚。
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 石祠の額には富士山の文字が、また左の石祠には枎桑教の文字が見える。
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 青面金剛と神武天皇。
 青面金剛が手にしているものはショケラ、弓、宝輪、三叉戟、矢、宝剣……の筈なのだが、三叉戟と言うよりも十字架のように見えるなコレ。側面には天明の文字が見えるが、その下はちょっと読み取り難い。
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 小御嶽神社。

大林稲荷神社(赤生田本町)

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 東洋水産関東工場の北300m程、大林集会所に隣接して鎮座する大林稲荷神社(館林市赤生田本町)。
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 お狐さま。
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 拝殿だけの写真を撮っておくのを忘れた○刀乙。

駒方神社(上赤生田町)

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 東洋水産関東工場の北西400m程の位置に鎮座する駒方神社(館林市上赤生田町3526)。
 御祭神は保食命。創建時期等の詳細は不明。
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 拝殿。
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 年中行事の貼紙。
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 狛犬。
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 稲荷神社と八坂神社、菅原神社。
 稲荷神社がなにやらすんごい状態に……。
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 富士塚かと思ったら石祠の額に御嶽山とあったので、こちらは御嶽塚なのだろう。
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 道を挟んで北側に鎮座する……なんだろ。碑には養蠺眞道弘大霊神とあったから、蚕影神社かどうかはわからないけど、蚕の神様なのかな。
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 養蠺眞道弘大霊神と天照皇大神。
 どちらにも「故神道唯一分教會長中教正山田極」の名が刻まれている。
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熊野神社(堀工町)

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 茂林寺公園の東、堀工会館に隣接して鎮座ずる熊野神社(館林市堀工町734)。
 御祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁命、倉稲魂命。慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられるとのこと。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 境内南東端に八坂神社。
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 末社。稲荷社だろうか。
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 庚申塔と二十三夜塔。

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 熊野神社の南150m程の位置に鎮座する祠。何神社なのかは不明。
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 その脇には明八幡宮。側面には大正七年(1918)三月吉日と刻まれている。

根本山神社(堀工町)

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 東武伊勢崎線茂林寺前駅と曹洞宗青龍山茂林寺の中間辺りに鎮座する根本山神社(館林市堀工町)。
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 ぐるぐる巻きの鎖が奉納されているけど、どんな意味があるんだろうコレ。
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日向義民地蔵(日向町)

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 国道122号線と県道148号線の交わる日向交差点のやや西側に鎮座する義民地蔵尊堂。
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『寛文元年(1661)徳川三代将軍家光の第四子である徳川綱吉が二五万石で館林城主になった。
 このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領まで及んだ。
 綱吉は、寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地をおこない、年貢の増収を計ったが、こうしたなか、延宝三年(1675)の冬、領内の台之郷、石原、富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収する事件がおこった。
 これに対し、山田郡台之郷村の小沼庄左衛門、森尻右馬允、栗原四郎兵衛、富田村の小沼久四郎、石原村の栗原三左衛門をはじめとする一八名の名主たちが代表となって、訴状を作成し、藩に申し立てを行ったが、役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。
 これによって、農民救済の願いはかなったが、当時ご法度であった直訴を行った首謀者として一八名は捕らえられ館林藩に引き渡され、延宝四年(1676)日向刑場において処刑された。
 その後、元禄一七年(宝永元年・1704)農民の犠牲となって処刑された一八名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の六十数か村の村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。以後「義民地蔵」と呼ばれている。
 ここは、日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民に係わり、特に年貢取り立ての状況を知る上で欠くことのできない遺跡である』
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 地蔵堂の裏、国道122号線に向いて八坂大神。
 この角度からでは見えないが、柱には「悔い改めよ 聖書」と書かれた金属板が打ち付けられており、仏教と神道とキリスト教がこの一画に集まっているかのようだ。

花山町御嶽神社

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 県道365号板倉籾谷館林線に出たら西へ向かい、花山町交差点先の信号で北へ折れると右手側に御嶽神社。駐車スペースなど全く無いので、車の来ない所で路肩駐車。急げー。
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 しかし、変わった所にあるものだ。
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 こちらが本殿になるのかな。

 これで12月27日参杯分終了。
 今回の使用機材はK-7にDA15mmとFA43mm、FA77mm、K10DにDA21mm。FA77mmは使うことは無さそうだけど、一応持って行っておこうかと放り込んでおいただけだったのだが、意外に出番が多かった。自分の影が写り込まないようにするのに、中望遠があると便利だな。
 さて、今年参拝した神社の数はここで216社目。結構参拝して歩いたものだなぁ。来年はどれくらい参拝できるだろう。

花山町富士嶽神社

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 362号線に戻ったら、アメニティショップイシイの脇の道を西へ走って行くと、やがて右手側に富士嶽神社が見えて来る。こちらは富士塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、墳長は約65m、前方部の高さ約4m、後円部の高さは約9mほどになるそうだ。
 古墳の東側には富士山集会所があるので、そちらの前に駐車できる。
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 福寿嶋神社。
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 んー? 十七三夜なのか廿三夜なのか、判らん。
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 一際大きなこちらの木は御神木なのかな。
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 二の鳥居。
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 神楽殿。
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 境内社覆い屋と頌徳碑。
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 その中。何神社なんだろう?
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 石段の左右に石祠と食行身禄霊神。
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 拝殿。
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 拝殿内部。
 菅原神社と稲荷神社、大山祇神社が合祀されているようだ。
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 小御嶽石尊大権現と大天狗。
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 集会所側から見上げてみる。
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 聖如意輪観自在尊。文化元甲子年十月大吉祥日とあるので、1804年のものだ。

羽附旭町皇大神宮

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 木造の神明鳥居。額が外れて台石に立て掛けられている。
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 拝殿。
 左側へ抜けて行くと、先ほどの雷電神社がある。
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 狛犬。
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 雷電神社側から見た皇大神宮。

楠町雷電神社

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 362号線を南下して行くと、市営東部住宅団地の南西に新興白旗集会所があり、そこに隣接して雷電神社が建てられている。
 そしてここから振り返ると、すぐそこに羽附旭町の皇大神宮があったりする。その距離、ほんの数歩。

楠木神社

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 362号線を南下し、カワチ薬品館林東店の南側に位置する楠木神社へ。
 しかしこちらは駐車スペースはあるものの、駐車禁止の看板があるので、カワチ薬品のすぐ南にある首洗堰揚水機場脇のスペースに駐車。
 揚水機場の横に「古蹟 洗堰」と刻まれた石碑がひっそりと建てられている。よく見ると下の方にも文字が刻まれており、「延元二年七月二日楠木正成公の首級を洗ひたる所」とある。
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 と言うことで楠木神社へ。
 こちらの御祭神は前述の楠木正成公で、館林観光ガイドには『南北朝初期の延元2年(1336年)足利尊氏の軍勢に敗れ、楠木正成は自刃しました。言い伝えによると、遺臣らは主君の首を塩漬けにし、旅に出ました。たまたま館林を通りかかり、大樹の根元で休んだ後、いざ出発の段になって首が重たくなり、運ぶことができなくなりました。そこでこの地に葬り、小祠を建てたのが、楠木神社の始まりと言われています』と記載されている。
 が、延元二年は1337年で、正成公が討ち死にした湊川の戦いは延元元年(1336年)七月四日(旧暦で5月25日)。洗堰の碑文も考慮すると、ここまで一年近くも放浪していたことになるが…白骨化してるんじゃないか? そもそも、正成公の首級は京都六条河原に晒された後に尊氏公の配慮により親族の許へ送り届けられ、大阪府河内長野市の観心寺に葬られたそうだから、どう言う理由でこちらの神社の謂れが出来上がったのか不思議だ。
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 鳥居をくぐると、右手側に庚申塔と青面金剛。右側手前の石柱には「閑院宮春仁王殿下 御手植之楠」と刻まれている。
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 手水舎と楠。水盤には正成公の家紋である菊水紋のレリーフが施されている。

『クスノキ(クスノキ科)
 幹まわり二○メートル、高さ四○メートルにもなるもっとも寿命の長い樹木の一種である。樟脳をとる木としても有名。葉をもむと良い香りがする。
 このクスノキは樹齢百年を超える名木である。
  昭和五十七年度』

 楠は前述の閑院宮春仁王殿下が御手植えされたものかとも思ったが、昭和57年(1982年)の時点で樹齢百年以上となると、閑院宮春仁王殿下(1902-1988)は関係無いのかな? 
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『楠公記念楠 東郷平八郎』
 …何故に東郷平八郎? こちらの神社は古くは野木神社と呼んだそうだから、乃木希典ならまだ判らないでもないのだが。実際、乃木希典は下都賀郡野木町にある野木神社には何度か参拝しているそうだし。
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 小さな神橋を渡ると、その先に拝殿。
 賽銭箱にも菊水紋が描かれている。
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 ちらりと見える本殿と覆い屋。
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 鞘殿と瑞垣の間に朽ちた木が覆い屋付きで囲われている。
 御神木かとも思ったが、もしかしたらこちらが正成公の首級を埋めたとされる木なのかも。…にしては小さいか?
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 神樹坐碑と楠木神社坐碑。どちらにも由緒が記されているのだが、漢文いやーん。
 ざっと見る限りでは、六条河原に晒された首級は正成公のものではなく、宇佐美河内守正安の首級を以って正成公の首級とし、本物の正成公の首級は塩漬けにして橋本八郎正員ら七名の遺臣が持って甲斐へ逃げ、三浦越中守義勝に寄り、橋本正員は山本五郎国正と名を変え、他の六名も皆名を変えたが敵の追撃に遭い、山本と太田の二名は殉死。残った五名は微服を纏って敵の追跡を避け、北畠顕家を頼ろうとして陸奥へ向かう途中、この地を通りかかった時に炎熱焼くかの如き暑さに見舞われ、巨松の陰で午睡をとっていたところ霊夢を得、正成公曰くしばらく此の地に鎮座すべしとして樹下に首級を葬らせ、一祠を造営し、足利氏からの嫌疑を避ける為に楠から久須の二音を省いて乃木神社と号し、この巨松を神木と仰ぎ、五名は此の地に土着して五苗と呼ばれ、子々孫々奉仕することにしたとのこと。また、明治五年(1872年)の政府神社調査の際に神官が誤って祭神を草野姫命としてしまった為、木呂子退蔵などの有力者の力も借りて里人が上表し、二十年の歳月をかけて誤謬を正したとも。そして明治二十五年(1892年)九月三十日に楠木神社と改めたそうだ。
 明治五年と言えば、兵庫県神戸市に楠木正成公を祭神とする湊川神社が創建された年でもあるなぁ。湊川神社では正成公の他に配祀神として楠木正行卿と楠木正季卿、そして湊川の戦いにおいて楠木兄弟と共に自刃したとされる十六名の家臣(菊池武吉、江田高次、伊藤義知、箕浦朝房、岡田友治、矢尾正春、和田正隆、神宮寺正師、橋本正員、冨田正武、恵美正遠、河原正次、宇佐美正安、三石行隆、安西正光、南江正忠)が祀られているそうなのだが、鳥居巡礼というブログの記事によれば、五苗となった遺臣の名は伊藤義知と江田高次、岡田友治、冨田正武、三石行隆だそうで、それに橋本正員を加えると全員湊川で自刃した筈の人達ばかりだ。
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 末社群。左奥二つは稲荷大明神と八幡宮。右端のものは「奉造立野木御賽前」と彫られている。
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 諏訪神社。
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 十九夜塔とお地蔵様。その隣は中身空っぽ。古札納所のような感じだった。

四ッ谷町富士嶽神社

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 362号線を挟んで稲荷神社の東側に鎮座するのがこちらの富士嶽神社。
 石段左側に小御嶽磐長姫命。そして苔虫神&櫻大刀自神。
 石段右側に烏帽子岩 食行霊神。
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『富士嶽神社由緒
 祭神 木花佐久耶毘売命  外二柱
 当社創建の年月は詳らかではないが此の地に「明治二年(一八六九年)四ッ谷村中」と銘のある祠があった。この度、道路拡幅により敷地の一部提供に伴ない外溝を整備、石垣を復元して再建したものである。
 平成七年(一九九五年)八月
 四ッ谷町氏子一同』

四ッ谷町稲荷神社

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 JA東部カントリーエレベーター北側の農道を東へ向かい、県道362号山王赤生田線に合流したらすぐ北側に稲荷神社がある。
 社殿の裏側に車を置けそうなスペースがあったので、そちらに駐車。
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 道祖神。
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 こちらもお稲荷様かな?
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 たぶんお稲荷様。
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 拝殿内部。
 正一位稲荷大明神との額が掛けられている。

当郷町冨士岳神社

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 神明宮より100mほども北上すると、道端に冨士岳神社。
 石段左側は磐長姫命小御嶽山とあり、その左右に苔虫神、櫻大刀自神と刻まれている。
 石段右側は烏帽子岩 食行霊神。

当郷町神明宮

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 当郷神社の北東400m程の位置に鎮座する神明宮。
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 拝殿の右に小さな石祠が見えるが、どなたを祀ったものかは不明。

山王山古墳

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 松林寺の南、善長寺の西に位置する山王山古墳。駐車スペースは無いので市民体育館の駐車場に車を置いて歩いて行ったのだが、松林寺の駐車場を借りれば良かったかなぁ。
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『館林市指定史跡 山王山古墳
 一.指定年月日 昭和五二年八月三○日
 一.所在地   館林市当郷町一九七五の二
 一.時代    古墳時代

 城沼北岸の洪積台地上に築かれた前方後円墳である。
 現状で長さ四七メートル、後円部径三七メートル、高さ五メートルを測り、周囲には濠がめぐっていたことが昭和五十九年の調査で確認されている。
 埋葬施設は、横穴式石室と考えられているが未調査である。
 昭和一三年刊行の「上毛古墳綜覧」に記載された郷谷村一号墳がこれにあたり、全長一四二尺、後円部高さ一七尺の前方後円墳と記されている。
 また、同記録に出土品として「金環、刀十口」とあるが、その一部は隣の善長寺に保管されている。このほかにも周囲から埴輪片が採取されている。
 出土した埴輪欠などから六世紀後半から七世紀初頭(古墳時代後期)に築造されたものと考えられている。
 前方部と後円部の一部が削平されてはいるが、市内に現存する古墳のうちで、最も良く原型をとどめている。
 館林市の古代、特に古墳時代の社会環境を知るうえで貴重な遺跡である。
 館林市教育委員会』
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 木階段を上って行くと、墳頂に石祠が鎮座している。
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 山王山古墳と言うくらいだから、祀られているのは山王権現だろう。
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