上志柄天満宮(羽附町)

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 群馬県道372号線花山入口交差点の東270m程の位置に鎮座する上志柄天満宮(館林市羽附町1784)。
 駐車スペースは無いので、240m程東にある上志柄集会所に駐車。
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 鳥居と社殿。
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『上志柄・天満宮由緒(森田勇氏所蔵文書より)
抑、上志柄天満宮は、元和元年(1615)今成丑之丞なる者、大阪の陣に徳川方として出陣する。母は息子の無事帰還の節は、天満宮一宇を建立すべしと、松原村に祭るを始めとする。
その後、上志柄・大袋地内に、鎮守の無きことを嘆き、松原村世話人に懇願したところ、社地は羽附分に願いたしとのことにて、相談の上延宝年間(1673~1680)大袋地内に祭るなり。
以来、幾多の変遷を経て、大正初期に富士嶽神社に合祀せられ、空宮になった堂宇は、損傷が甚だしい為、取り壊すことになる。
建築資材は普済寺に預け置かれたが、腐朽の虞れがあり、これを見兼ねた、当地森田幸助氏は尊崇の念厚く、自費を投じ屋敷内に天満宮を建立し、戦後間もなく富士嶽神社より再勧請せり。
実に上志柄天満宮の初めなり。
昭和六十年十月新築再建立する。
 神主 菅原道真公
 例祭 一月二十五日
    十月二十五日』
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 旧社殿。
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 天満宮の20m程北に富士塚らしきものがある。
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 天満宮の東側にあるアパートの駐車場端に立てかけられた猿田彦大神。根元がぽきっと逝ってしまっている。

 以上で2月7日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA15mm。X30。
 この後は市役所隣の図書館に行って館林の神社について調べてみたのだが、今回巡った場所に関しては記述が少なく、あまりわからなかった。また後で前橋の文書館に行って神社明細帳でも調べて来ようかな。
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子神社(赤生田町)

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 国道354号線赤生田交差点の南100m程の位置に鎮座する子神社(館林市赤生田町2215)。
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 狛犬。
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 狛犬二号。
 いや、こっちの方が古いからこっちが一号か?
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 拝殿正面。
 こちらの絵馬は一風変わっており、金の草鞋になっている。
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 向拝虹梁には鼠(子)の彫刻。
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 金の草鞋……かな。履くとダメージを受けそうな見た目だけど。
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 社殿斜めから。
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『子神社
通称(子ノ権現様)の由来記
一、鎮座地 群馬県館林市赤生田町二二一五番地
一、御祭神  大己貴命(大穴牟遅命)
一、祭 儀  例大祭    三月十五日
       祈年祭 春祭 二月下旬
       新嘗祭 秋祭 十一月下旬
一、鎮座由来 創建不詳。子神社は明治初年神仏分離後の名称で一般には「子ノ権現様」
      の名で知られている。現在の社殿は明治二年(一八六九)に改築をされたも
      の。伝説に依れば御祭神大己貴命は非常に旅好きの神様でそして大変な健脚
      の持主で鉄の草鞋をはいて旅をしたと言伝えられております。それにあやか
      ってか何百年も前から鍛冶屋で草鞋作り又手作りの草鞋にて祈願を致してお
      ります。大祭日には氏子を始め遠近の崇敬者諸々の信仰厚く門前境内は参拝
      者にて列をなします。花火奉納神楽余興等行われ数多くの露店も並び祭に華
      を添えております。足腰の神様として近郷近在にない御利益のある神様で関
      東各地より参拝祈願される者多く又大願成就御礼の額に収め奉納されており
      ます。
       御参拝方々の御健勝と御健脚を祈念申し上げます』
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 稲荷神社鳥居。
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 稲荷神社。
『稲荷大明神建立由来記
 現在の館林市赤生田町二二一五番地にある稲荷大明神祠は享保十六年(1731)に長谷川源兵衛殿が発願造立した記録がある。今から二百五十六年以前である。其の後の事は別記の通りである。
一、石燈篭石洗文字寛延二巳三月(1749)
  今より二百三十八年前中島小右衛門奉納
二、宝暦第四歳次甲戌(1754)赤生田内志柄氏子中奉再営稲荷大明神組内氏子各願圓満祈
 処二月初吉祥日別當養老山住尊宣
  今より二百三十二年前
三、山城國紀伊郡京都伏見稲荷大明神より分社
  当所中島小右衛門殿今より二百三十二年前
四、奉再建正一位稲荷大明神 惣氏子
  文久四年(1864) 今より百二十三年前
五、奉再建 昭和六十二年二月吉日(1987)』
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 十九夜堂。
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 如意輪観音と青面金剛。
 こちらの青面金剛は合掌、弓矢、日月のタイプ。貞享三丙寅年(1686)八月吉日とある。

八坂神社(羽附町)

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 羽附交差点の北東、本宿集会所の東隣に鎮座する八坂神社(館林市羽附町679)。
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 拝殿。
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 大日如来。
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 集会所の横にお堂らしき建物があるが、何を祀ったお堂なのかは不明。

大山祇神社(赤生田町)

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 国道354号線東国歴史文化街道と群馬県道362号山王赤生田線が交わる羽附交差点の南側に鎮座する大山祇神社(館林市赤生田町)。
 隣接する山田集会所前に一台分の駐車スペ-スあり。
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 拝殿。
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 地蔵尊と辨財天。
 地蔵尊は享保十六辛亥(1731)八月造立、文化六己巳(1809)八月再建と刻まれている。
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 末社と山田監物之碑。
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 西から。

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 県道362号線を挟んで南西に富士塚。
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 石祠の額には富士山の文字が、また左の石祠には枎桑教の文字が見える。
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 青面金剛と神武天皇。
 青面金剛が手にしているものはショケラ、弓、宝輪、三叉戟、矢、宝剣……の筈なのだが、三叉戟と言うよりも十字架のように見えるなコレ。側面には天明の文字が見えるが、その下はちょっと読み取り難い。
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 小御嶽神社。

大林稲荷神社(赤生田本町)

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 東洋水産関東工場の北300m程、大林集会所に隣接して鎮座する大林稲荷神社(館林市赤生田本町)。
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 お狐さま。
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 拝殿だけの写真を撮っておくのを忘れた○刀乙。

駒方神社(上赤生田町)

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 東洋水産関東工場の北西400m程の位置に鎮座する駒方神社(館林市上赤生田町3526)。
 御祭神は保食命。創建時期等の詳細は不明。
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 拝殿。
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 年中行事の貼紙。
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 狛犬。
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 稲荷神社と八坂神社、菅原神社。
 稲荷神社がなにやらすんごい状態に……。
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 富士塚かと思ったら石祠の額に御嶽山とあったので、こちらは御嶽塚なのだろう。
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 道を挟んで北側に鎮座する……なんだろ。碑には養蠺眞道弘大霊神とあったから、蚕影神社かどうかはわからないけど、蚕の神様なのかな。
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 養蠺眞道弘大霊神と天照皇大神。
 どちらにも「故神道唯一分教會長中教正山田極」の名が刻まれている。
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熊野神社(堀工町)

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 茂林寺公園の東、堀工会館に隣接して鎮座ずる熊野神社(館林市堀工町734)。
 御祭神は伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁命、倉稲魂命。慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられるとのこと。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 境内南東端に八坂神社。
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 末社。稲荷社だろうか。
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 庚申塔と二十三夜塔。

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 熊野神社の南150m程の位置に鎮座する祠。何神社なのかは不明。
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 その脇には明八幡宮。側面には大正七年(1918)三月吉日と刻まれている。

根本山神社(堀工町)

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 東武伊勢崎線茂林寺前駅と曹洞宗青龍山茂林寺の中間辺りに鎮座する根本山神社(館林市堀工町)。
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 ぐるぐる巻きの鎖が奉納されているけど、どんな意味があるんだろうコレ。
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日向義民地蔵(日向町)

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 国道122号線と県道148号線の交わる日向交差点のやや西側に鎮座する義民地蔵尊堂。
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『寛文元年(1661)徳川三代将軍家光の第四子である徳川綱吉が二五万石で館林城主になった。
 このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領まで及んだ。
 綱吉は、寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地をおこない、年貢の増収を計ったが、こうしたなか、延宝三年(1675)の冬、領内の台之郷、石原、富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収する事件がおこった。
 これに対し、山田郡台之郷村の小沼庄左衛門、森尻右馬允、栗原四郎兵衛、富田村の小沼久四郎、石原村の栗原三左衛門をはじめとする一八名の名主たちが代表となって、訴状を作成し、藩に申し立てを行ったが、役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。
 これによって、農民救済の願いはかなったが、当時ご法度であった直訴を行った首謀者として一八名は捕らえられ館林藩に引き渡され、延宝四年(1676)日向刑場において処刑された。
 その後、元禄一七年(宝永元年・1704)農民の犠牲となって処刑された一八名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の六十数か村の村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。以後「義民地蔵」と呼ばれている。
 ここは、日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民に係わり、特に年貢取り立ての状況を知る上で欠くことのできない遺跡である』
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 地蔵堂の裏、国道122号線に向いて八坂大神。
 この角度からでは見えないが、柱には「悔い改めよ 聖書」と書かれた金属板が打ち付けられており、仏教と神道とキリスト教がこの一画に集まっているかのようだ。

花山町御嶽神社

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 県道365号板倉籾谷館林線に出たら西へ向かい、花山町交差点先の信号で北へ折れると右手側に御嶽神社。駐車スペースなど全く無いので、車の来ない所で路肩駐車。急げー。
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 しかし、変わった所にあるものだ。
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 こちらが本殿になるのかな。

 これで12月27日参杯分終了。
 今回の使用機材はK-7にDA15mmとFA43mm、FA77mm、K10DにDA21mm。FA77mmは使うことは無さそうだけど、一応持って行っておこうかと放り込んでおいただけだったのだが、意外に出番が多かった。自分の影が写り込まないようにするのに、中望遠があると便利だな。
 さて、今年参拝した神社の数はここで216社目。結構参拝して歩いたものだなぁ。来年はどれくらい参拝できるだろう。

花山町富士嶽神社

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 362号線に戻ったら、アメニティショップイシイの脇の道を西へ走って行くと、やがて右手側に富士嶽神社が見えて来る。こちらは富士塚古墳と呼ばれる前方後円墳で、墳長は約65m、前方部の高さ約4m、後円部の高さは約9mほどになるそうだ。
 古墳の東側には富士山集会所があるので、そちらの前に駐車できる。
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 福寿嶋神社。
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 んー? 十七三夜なのか廿三夜なのか、判らん。
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 一際大きなこちらの木は御神木なのかな。
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 二の鳥居。
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 神楽殿。
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 境内社覆い屋と頌徳碑。
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 その中。何神社なんだろう?
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 石段の左右に石祠と食行身禄霊神。
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 拝殿。
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 拝殿内部。
 菅原神社と稲荷神社、大山祇神社が合祀されているようだ。
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 小御嶽石尊大権現と大天狗。
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 集会所側から見上げてみる。
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 聖如意輪観自在尊。文化元甲子年十月大吉祥日とあるので、1804年のものだ。

羽附旭町皇大神宮

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 木造の神明鳥居。額が外れて台石に立て掛けられている。
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 拝殿。
 左側へ抜けて行くと、先ほどの雷電神社がある。
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 狛犬。
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 雷電神社側から見た皇大神宮。

楠町雷電神社

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 362号線を南下して行くと、市営東部住宅団地の南西に新興白旗集会所があり、そこに隣接して雷電神社が建てられている。
 そしてここから振り返ると、すぐそこに羽附旭町の皇大神宮があったりする。その距離、ほんの数歩。

楠木神社

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 362号線を南下し、カワチ薬品館林東店の南側に位置する楠木神社へ。
 しかしこちらは駐車スペースはあるものの、駐車禁止の看板があるので、カワチ薬品のすぐ南にある首洗堰揚水機場脇のスペースに駐車。
 揚水機場の横に「古蹟 洗堰」と刻まれた石碑がひっそりと建てられている。よく見ると下の方にも文字が刻まれており、「延元二年七月二日楠木正成公の首級を洗ひたる所」とある。
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 と言うことで楠木神社へ。
 こちらの御祭神は前述の楠木正成公で、館林観光ガイドには『南北朝初期の延元2年(1336年)足利尊氏の軍勢に敗れ、楠木正成は自刃しました。言い伝えによると、遺臣らは主君の首を塩漬けにし、旅に出ました。たまたま館林を通りかかり、大樹の根元で休んだ後、いざ出発の段になって首が重たくなり、運ぶことができなくなりました。そこでこの地に葬り、小祠を建てたのが、楠木神社の始まりと言われています』と記載されている。
 が、延元二年は1337年で、正成公が討ち死にした湊川の戦いは延元元年(1336年)七月四日(旧暦で5月25日)。洗堰の碑文も考慮すると、ここまで一年近くも放浪していたことになるが…白骨化してるんじゃないか? そもそも、正成公の首級は京都六条河原に晒された後に尊氏公の配慮により親族の許へ送り届けられ、大阪府河内長野市の観心寺に葬られたそうだから、どう言う理由でこちらの神社の謂れが出来上がったのか不思議だ。
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 鳥居をくぐると、右手側に庚申塔と青面金剛。右側手前の石柱には「閑院宮春仁王殿下 御手植之楠」と刻まれている。
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 手水舎と楠。水盤には正成公の家紋である菊水紋のレリーフが施されている。

『クスノキ(クスノキ科)
 幹まわり二○メートル、高さ四○メートルにもなるもっとも寿命の長い樹木の一種である。樟脳をとる木としても有名。葉をもむと良い香りがする。
 このクスノキは樹齢百年を超える名木である。
  昭和五十七年度』

 楠は前述の閑院宮春仁王殿下が御手植えされたものかとも思ったが、昭和57年(1982年)の時点で樹齢百年以上となると、閑院宮春仁王殿下(1902-1988)は関係無いのかな? 
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『楠公記念楠 東郷平八郎』
 …何故に東郷平八郎? こちらの神社は古くは野木神社と呼んだそうだから、乃木希典ならまだ判らないでもないのだが。実際、乃木希典は下都賀郡野木町にある野木神社には何度か参拝しているそうだし。
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 小さな神橋を渡ると、その先に拝殿。
 賽銭箱にも菊水紋が描かれている。
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 ちらりと見える本殿と覆い屋。
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 鞘殿と瑞垣の間に朽ちた木が覆い屋付きで囲われている。
 御神木かとも思ったが、もしかしたらこちらが正成公の首級を埋めたとされる木なのかも。…にしては小さいか?
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 神樹坐碑と楠木神社坐碑。どちらにも由緒が記されているのだが、漢文いやーん。
 ざっと見る限りでは、六条河原に晒された首級は正成公のものではなく、宇佐美河内守正安の首級を以って正成公の首級とし、本物の正成公の首級は塩漬けにして橋本八郎正員ら七名の遺臣が持って甲斐へ逃げ、三浦越中守義勝に寄り、橋本正員は山本五郎国正と名を変え、他の六名も皆名を変えたが敵の追撃に遭い、山本と太田の二名は殉死。残った五名は微服を纏って敵の追跡を避け、北畠顕家を頼ろうとして陸奥へ向かう途中、この地を通りかかった時に炎熱焼くかの如き暑さに見舞われ、巨松の陰で午睡をとっていたところ霊夢を得、正成公曰くしばらく此の地に鎮座すべしとして樹下に首級を葬らせ、一祠を造営し、足利氏からの嫌疑を避ける為に楠から久須の二音を省いて乃木神社と号し、この巨松を神木と仰ぎ、五名は此の地に土着して五苗と呼ばれ、子々孫々奉仕することにしたとのこと。また、明治五年(1872年)の政府神社調査の際に神官が誤って祭神を草野姫命としてしまった為、木呂子退蔵などの有力者の力も借りて里人が上表し、二十年の歳月をかけて誤謬を正したとも。そして明治二十五年(1892年)九月三十日に楠木神社と改めたそうだ。
 明治五年と言えば、兵庫県神戸市に楠木正成公を祭神とする湊川神社が創建された年でもあるなぁ。湊川神社では正成公の他に配祀神として楠木正行卿と楠木正季卿、そして湊川の戦いにおいて楠木兄弟と共に自刃したとされる十六名の家臣(菊池武吉、江田高次、伊藤義知、箕浦朝房、岡田友治、矢尾正春、和田正隆、神宮寺正師、橋本正員、冨田正武、恵美正遠、河原正次、宇佐美正安、三石行隆、安西正光、南江正忠)が祀られているそうなのだが、鳥居巡礼というブログの記事によれば、五苗となった遺臣の名は伊藤義知と江田高次、岡田友治、冨田正武、三石行隆だそうで、それに橋本正員を加えると全員湊川で自刃した筈の人達ばかりだ。
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 末社群。左奥二つは稲荷大明神と八幡宮。右端のものは「奉造立野木御賽前」と彫られている。
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 諏訪神社。
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 十九夜塔とお地蔵様。その隣は中身空っぽ。古札納所のような感じだった。

四ッ谷町富士嶽神社

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 362号線を挟んで稲荷神社の東側に鎮座するのがこちらの富士嶽神社。
 石段左側に小御嶽磐長姫命。そして苔虫神&櫻大刀自神。
 石段右側に烏帽子岩 食行霊神。
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『富士嶽神社由緒
 祭神 木花佐久耶毘売命  外二柱
 当社創建の年月は詳らかではないが此の地に「明治二年(一八六九年)四ッ谷村中」と銘のある祠があった。この度、道路拡幅により敷地の一部提供に伴ない外溝を整備、石垣を復元して再建したものである。
 平成七年(一九九五年)八月
 四ッ谷町氏子一同』

四ッ谷町稲荷神社

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 JA東部カントリーエレベーター北側の農道を東へ向かい、県道362号山王赤生田線に合流したらすぐ北側に稲荷神社がある。
 社殿の裏側に車を置けそうなスペースがあったので、そちらに駐車。
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 道祖神。
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 こちらもお稲荷様かな?
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 たぶんお稲荷様。
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 拝殿内部。
 正一位稲荷大明神との額が掛けられている。

当郷町冨士岳神社

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 神明宮より100mほども北上すると、道端に冨士岳神社。
 石段左側は磐長姫命小御嶽山とあり、その左右に苔虫神、櫻大刀自神と刻まれている。
 石段右側は烏帽子岩 食行霊神。

当郷町神明宮

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 当郷神社の北東400m程の位置に鎮座する神明宮。
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 拝殿の右に小さな石祠が見えるが、どなたを祀ったものかは不明。

山王山古墳

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 松林寺の南、善長寺の西に位置する山王山古墳。駐車スペースは無いので市民体育館の駐車場に車を置いて歩いて行ったのだが、松林寺の駐車場を借りれば良かったかなぁ。
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『館林市指定史跡 山王山古墳
 一.指定年月日 昭和五二年八月三○日
 一.所在地   館林市当郷町一九七五の二
 一.時代    古墳時代

 城沼北岸の洪積台地上に築かれた前方後円墳である。
 現状で長さ四七メートル、後円部径三七メートル、高さ五メートルを測り、周囲には濠がめぐっていたことが昭和五十九年の調査で確認されている。
 埋葬施設は、横穴式石室と考えられているが未調査である。
 昭和一三年刊行の「上毛古墳綜覧」に記載された郷谷村一号墳がこれにあたり、全長一四二尺、後円部高さ一七尺の前方後円墳と記されている。
 また、同記録に出土品として「金環、刀十口」とあるが、その一部は隣の善長寺に保管されている。このほかにも周囲から埴輪片が採取されている。
 出土した埴輪欠などから六世紀後半から七世紀初頭(古墳時代後期)に築造されたものと考えられている。
 前方部と後円部の一部が削平されてはいるが、市内に現存する古墳のうちで、最も良く原型をとどめている。
 館林市の古代、特に古墳時代の社会環境を知るうえで貴重な遺跡である。
 館林市教育委員会』
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 木階段を上って行くと、墳頂に石祠が鎮座している。
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 山王山古墳と言うくらいだから、祀られているのは山王権現だろう。
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当郷神社

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 当郷町の郷谷公民館の南東、JA館林市郷谷支所の向かいに位置する当郷神社。
 Google先生にお伺いしてもまるで判らず。東郷平八郎でも祀っているのかとも思ったが、あちらは東郷神社だから字が違うか。城沼のほとりにあることから見て、おそらく厳島神社系統ではないかとも思うのだが、はてさて。

 2015年2月8日追記。
 こちらの御祭神は菅原道真公と八重事代主命で、正暦三年(992)三月の創建。明治三十九年(1906)に村社菅原神社と無格社長柄神社を合併して当郷神社と改称したとのこと。
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 朱塗りも鮮やかな両部鳥居。
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 拝殿。
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 祠の中には三峯神社の神璽が納められていたので、おそらく三峯神社だろう。
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 拝殿裏手脇に祠が一つずつ建てられていたが、中身は空っぽ。

尾曳稲荷神社

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 先月21日にこちらに来た時は骨董市が開かれていた為参拝はしなかったのだが、骨董市が開かれるのは毎月第三・第五の土曜日と言うことなので、今回はセーフ。
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 こちらの尾曳稲荷神社は本町二丁目の宵稲荷神社(初曳稲荷神社)や朝日町の夜明稲荷神社と同じ「狐の尾曳伝説」を謂れにもつ神社の一つだが、この辺りはかつての館林城内に当たるせいか、他の二社に比べてとても大きい。
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 参道脇には文化財の説明や神社の由緒を記した板が設置されている。
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 市指定重要文化財である館林城絵馬と明治戊辰戦争磐城進撃絵馬、明治戊辰戦争凱旋絵馬の説明板。
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『尾曳稲荷神社創建と由来
 祭神   倉稲魂命
 合祀祭神 誉田別命・素盞鳴命・倭建命
 第百五代後奈良天皇の御世第十二代足利義晴将軍の時天文元年(昭和五十一年から四百四十五年前)城主赤井照光は享禄元年正月舞木城主の許へ年賀の途中子供が孤児を捕え殺そうとしているのを救ってやった処その夜更一老翁が顕れて、子供の助かった礼をのべ照光の居城大袋よりも館林が要害堅固の土地であると説き明晩御案内申し上げようといいおわって姿を消した。翌晩果して老狐が顕れ尾を曳て先導し字侍辺に始まり字加法師に来て夜が明けた別れに臨み、もし築城完成の暁は永く当城の守護神に使えよう私は稲荷の神使新左衛門であると言い終り形を没した。照光はこれに依って築城しその名も尾曳城と号し城中に稲荷郭の一郭を設け社殿を造営し尾曳稲荷神社を奉祀した』
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 由緒を記した板の裏にはこちらの神社の祭日が書かれている。
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 市指定重要文化財の一つ、秋元康朝所用具足(卯花糸威金箔伊予札胴具足)の説明板。
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 二の鳥居になるのか、六の鳥居になるのか…?
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 お狐さま。その向こうに三の鳥居(七の鳥居?)
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 こちらにもお狐さま。
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 拝殿。
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 ずらりと立てられた幟で半ば隠されてしまっているお狐さま。
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 狛犬。
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 大小のお狐さま。
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 拝殿左へ回ると末社群。ロープ(注連縄?)が張られていて、ここより足を踏み入れるのは躊躇われる。
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 石段手前に猿田彦神。
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 全部お稲荷さまなのかな?
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 ライブビューは便利だな、と。
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 縮小しているので見えなくなってしまったが、木の幹に相合傘が刻まれている。ミユキとヒロシってのも、なんかベタだなぁ。
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 お狐さまがいっぱいいるので全部お稲荷さま? と思いきや宇賀神の名も見える。
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 ずらーり。
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 南無馬菩薩、とあるが、馬頭観音のことだろうか。それよりも左下の白いお狐さまが可愛らしい。
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 本殿裏にある、やっぱりお稲荷さま?
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 なぜかこんなところにお狐さま。
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 反対から。
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 本殿脇に並ぶ境内社三社。
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 本殿。
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 本殿の裏に弁財天の鳥居。
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 弁天様らしく、祠の周囲は水を湛えた堀になっている。
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『つつじの館林七福神めぐり
 市杵島比売命 花の尾曳弁財天
 七福神は福徳を授ける神と古来より信仰され、インド・中国・日本などの神々を組み併せた国際色豊かな福神です。
 弁財天(妙音楽天)は人の汚れを払い、雄弁と財宝を授け、子孫を恵み、又学問と技芸の神であり、琵琶はこの神の象徴である。
 その本源はインド神話の河川の神格化であり、瑞穂国日本では水を司る神として信仰された。河川は人間生活の基礎、白蛇はきれいな水と弁天様のシンボル「弁天様だ、殺すなと母はとめ」(古川柳)
 昔、境内と続いていた城沼はウルム氷期(約二万年前)台地を削った鶴生田川の浸食谷古くは、この沼の浮島に祀られ、昭和三年江島神社から勧請平成七年上屋新築神紋を授与された』
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 鳥居の左の社殿は神楽殿、かな?
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夜明稲荷神社

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 県道7号佐野行田線を朝日町交差点で西へ折れたらすぐ南へと折れ、そのまままっすぐ走ると夜明稲荷神社がある。神社の隣は南区民会館になっているのでその前に駐車。
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 鳥居の左前には観音堂。
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『夜明稲荷神社由来
 鎮座地 館林市朝日町
 祭神  倉稲魂命
 当社は天文元年(1532年)館林築城のさい城主赤井照光によって創建されたと伝えられ城の守護神として、また当地の産土神として尊崇されている。築城四年前の享禄元年(1528年)正月当地大袋というところに住んでいた照光は、近藤林で子ギツネの危難を救った。するとその親ギツネは報恩のため、天下にまたとない城地を案内することを約束、その年の七夕の宵約束に違わず親ギツネは姿をあらわし尾を引きながら縄張りを先導、たまたまこの地にきたとき引終ると「私の主人の稲荷神は、ながく城下にとどまり守護し給うお考えである。築城のうえは社殿をつくり給い」と、告げると姿を消した。そのときすでに夜明けであった。その後、入城した榊原康正は社殿を再建以後歴代城主は入封のつど参拝し、また年々蔵前五俵を奉納し神社の維持につとめた』
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 拝殿。
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 お狐さま。
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 お狐さまの隣に百度石。

下早川田町神明宮

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 天王神社から西へ600m程走って行くと、神明宮がある。駐車スペースは無いので、路上駐車を余儀なくされる。幹線道路からは外れているのがせめてもの幸いか。
 右に見える石碑は灌漑竣工記念碑。左側の大きな石碑はこちらの神社の由緒を記しているようなのだが、漢文なので脳味噌が拒否反応を(笑)
 とりあえずぱっと見た限りでは、寛政辛亥(寛政三年=1791年)五月に上毛邑楽郡渡瀬村下早川田神明宮を改築、後に湯殿社と川久保の日枝神社、押切の諏訪神社を合祀した、というところかな。
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 鳥居をくぐってすぐ右手側に冨士嶽神社と富士登山三十八度記念碑。左の小さな石祠は亀磐蓬莱八所龍王と刻まれているように見えるが、なんのことやら。
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 庚申塔とか道祖神とか。
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 どなたを祀ったものかは判らないが、こちらが湯殿神社なり日枝神社なり諏訪神社なりなのだろうか。…あれ、数足りないな。
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 御神燈と狛犬が並び、奥に拝殿。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 後ろから。

天王神社

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 県道7号佐野行田線に合流したら佐野方面へと北上し、下早川田町交差点の先で7号線を下りるとすぐ左手側に見えて来る。駐車場は無いが、すぐ先のトンネル脇にスペースがあるのでそちらに一時駐車。
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 拝殿なのか祭具殿なのか判らないが、中には御神輿が納められている。
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 こちらが天王神社なのかとも思ったのだが、額に彫られた文字は天王でも八坂でもなさそうだ。雷…にしてはバランスがおかしいし、なんと彫られているのだろう?
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 目の前はすぐ7号線。

足次町赤城神社

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 県道8号足利館林線から邑楽広域農道を東へ走って行くと足次西交差点手前に渡瀬公民館があるので、その脇の道を南へ入って行くと赤城神社前に出る。神社脇には鎮魂塔があり、その前に車を置くことができる。
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『赤城神社の由緒
 往古の渡良瀬川東岸に鎮座する当社は、建仁二年(1202年)新田義重が勢多三夜沢の赤城本営より勧請し、新田氏代々の守護神としたと伝えられる。以来天保年間に総村中による修築、明治六年(1873年)八ヶ村の郷社、同四十年同地内十二社の合祀、大正十年(1921年)社務所の創築等により社叢を深める。戦後途絶えた神楽も近年信仰の心が高まり、春秋の祭典には青年による囃も響き、赤城神社眷属のムカデ絵馬は、市文化財に指定され愈々内外の脚光を浴びる。ここに後々の弥栄を念して氏子総代相計り浄財を以ってこの碑を建立す』
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 鳥居。
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『館林市指定重要文化財
 ムカデと梅樹絵馬
 千匹ムカデ絵馬
 指定年月日 昭和五十四年七月三十日
 所在地   館林市足次町四九四 赤城神社
 時代    江戸時代

ムカデと梅樹絵馬
 上部屋根形の絵馬で、筆者は北尾重光です。
 中央に大きく雄渾な筆致でムカデを描き、右側に梅樹が上部に向かって枝を延ばしている様子を極彩色で描いています。
 左上部には「處願成就」、左中央に「天保十一歳庚子二月」その下に「館林 宮杉某」、右側に下に「紅翠□館林住人北尾重光筆」と墨書され、天保十一年(1840)二月宮杉某なる人が諸願成就を願って赤城神社に奉納したものと考えられます。
 ムカデは赤城の神の眷属といわれ、梅は子授けや安産祈願によく描かれたものといい、ムカデと赤城神社の係わりや、当時の人々の信仰の様子を知る上で貴重な資料です。

千匹ムカデ絵馬
 上部屋根形の絵馬で、筆者、制作年代とも不詳です。
 薄赤色に彩色した小さな数多くのムカデを前面に、その上部に青い松を描き、中央上部には「奉納」と墨書されています。
 この絵馬は、赤城神社の氏子が、ムカデの精霊にあやかって、諸祈願をし、赤城神社に奉納したものと考えられています。
 ムカデは赤城の神の眷属で、赤城神社の氏子はムカデを大切にするといわれ、庶民信仰の様子と赤城神社とムカデの係わりを示す資料として重要です。』

 梅が子授けや安産祈願によく描かれたと言うのは、梅=生め、って語呂合わせなのかね。
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 拝殿。
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 狛犬。この辺りはこの系統のデザインが多いのかな。
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 神楽殿…かな。
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 三峯神社。
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 山神宮。
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 拝殿左側には末社が五つ並んでおり、左手前から天満宮、厳島社、大神宮、西の稲荷、雷電神社。
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 奥の宮。と言うことは、赤城神社か。
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 左手前は東の稲荷、右奥は熊野神社。
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 左手前から出羽三山、不明、古峯神社。

本町一丁目稲荷神社

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 青梅天満宮の裏から北へ向かい、大塚医院前を通り過ぎた辺りにある稲荷神社。
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 かなり劣化してしまっており、特に右側はもはや狐だかなんだかよく判らない状態に。
 左側の台座には宝珠紋が彫刻されているが、右側のものはどうも宝珠とは違うようだ。
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青梅天満宮

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 館林駅入口交差点から北へ向かって歩いて行くと、左手側に青梅天満宮の標石と鳥居が見えて来る。
 こちらの神社は当然菅原道真公を祀ったものだが、道真公が左遷されたときに投げた四つの梅の実の一つがこの地へ飛び、青梅天満宮となったという言い伝えが残っているそうだ。しかし、京都から飛んで来るってどんだけだ。
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 何故か山門らしきものが。
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 大きな絵馬が掛けられているが、かなり劣化してしまっている。
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 参堂の両脇には狛犬が控え、奥に拝殿。
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 狛犬。
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 御神木…かな? なぜ梅でなく松なのかは判らないけど。
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 拝殿。手持ちHDR撮影はしんどい。
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 本殿。

本町二丁目出世稲荷神社

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 青梅天満宮に向かう途中で見かけた出世稲荷神社。
 民家に隣接していたので屋敷神かとも思ったが、どうやら違うようだ。

宵稲荷神社

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 清龍神社前の交差点を渡り、南へと歩いて行くとすぐ右手側に宵稲荷神社が見えて来る。こちらの神社はGoogleマップでもMAPPLEでも初引稲荷神社と記載されているが、群馬県神社庁のサイトには宵稲荷神社と記載されており、また神社の由緒書きにも宵稲荷神社(初曳稲荷)と書かれているので、宵稲荷神社とするのが正しいのだろう。でも一の鳥居の額には初引稲荷神社と刻まれているのだよね。
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 二の鳥居。中山鳥居かな。
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 参堂脇にはお狐さまが控え、突き当たりに拝殿。
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 子連れのお狐さま。対になるべき相手は壊れてしまったのか、撤去されていた。
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 こちらは一対揃っているが、先のお狐さまに比べて造形的にいまいち面白みが無い。
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 拝殿の扉上には由緒を記した額が掛けられている。
『宵稲荷神社(初曳稲荷)の由緒
 今から四百二十餘年前享禄年間大袋城主赤井照光近藤林で仔狐の難を救えるに大袋稲荷その厚志に感激し報恩の為神属たる老狐を案内者とし館林に築城せしめた傳説は人のよく知る所である。
 照光移城後守護神として此の稲荷勧請し尾曳夜明の両稲荷と共に本社を奉祀した本社は昔から宵稲荷一名初曳稲荷と称し老狐の尾を曳き初めた所から宵は夜明に對する宵でその時刻から名つけられたのである。
 而して此の社は慶長年間には城主榊原氏社殿を造営し其の後歴代の城主より祭祀料として年々蔵米五俵を献ぜられた廃藩後は附近の氏神として祀られ明治四十三年には青龍神社を合祀した。
 想えば創祀以来約四百餘年神威赫々郷土の繁栄と幸福を護り給えること誠に敬仰に堪えない依て茲にその由緒を叙して社運の益々隆昌ならんことをお祈りする次第である。
 昭和二十七年二月吉日』

清龍神社

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 竹生島神社より57号線に沿って西へ歩いて行くと、日本生命の隣に清龍神社がある。
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『青龍の井戸(青龍神社)
 この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681)に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
 当時は、徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下では、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでにない例を見ない隆盛を誇っていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
 この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も五代将軍になると10石の朱印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
 また、この井戸と善導寺(現在は楠町に移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日には、延命長寿の霊験あるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
 平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7メートル程、井戸の断面は、深さ約3メートルのところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。
 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。』

 地図にも額にも清龍神社と記されているが、青龍神社が本来の名称なのだろうか。青に水であるさんずいをつけたら清になる、とかそんな感じなのかな。
 ちなみに、竜の井は館林駅前のロータリーにあるそうだ。
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 本殿。
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 青龍の口から水が流れ出している。
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