菅原神社(近藤町)

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 国道354号線と国道122号線が交わる小桑原交差点の700m程南西、近藤地区集会所の隣に鎮座する菅原神社(館林市近藤町2-101)。
 鳥居の柱には「平成二十四年三月吉日建之」と刻まれている。
 そう言えば、くわばらと言えば菅原道真公だが、小桑原の地名はこの菅原神社に由来するのだろうか? ……いや、無いか。ここ小桑原町じゃなくて近藤町だし。小桑原村にあった菅原神社は富士原交差点傍の富士獄神社に合祀されているから、もしも関係があるとしたらそっちか。
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 本殿と狛犬。
 狛犬の台座には「平成七年十二月吉日」と刻まれている。
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 以上で6月23日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm。X-T100にXC15-45mm、XC50-230mmII、SMC PENTAX 50mm F1.4。X30。
 ウォーキングカウンターは18,322歩。
 茂林寺にも行こうかと思っていたのだが、X-T100のバッテリー残量が心許無かったので撤退。この日は一応X-T100のテスト撮影が主目的だったので。
 それにしても、X-T100にマウントアダプターを装着することでKマウントレンズも使えるようになったわけだが、こうなると今更ながらにAPO-LANTHAR 90mm F3.5 SLとAPO-LANTHAR 180mm F4 SLを手放したのが悔やまれる。もう八年前の話だけど。
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八幡宮(城町)

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 秋元神社のすぐ西側、向井千秋記念子ども科学館の東隣に鎮座する八幡宮(館林市城町1-3)。
 以前こちらにお詣りしてから約九年ぶりか。
館林市指定史跡 館林城本丸土塁及び八幡宮
 指定年月日 昭和六二年八月七日
 所   在 館林市城町一番地の三 他
 時   代 江戸時代
ここは「館林城」の中心、本丸があった場所です。
  八幡宮
 「八幡神」は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に「八幡宮」として勧進されています。
 この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として、館林城の「八幡郭」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたものです。
 明治になって、廃藩とともに、尾曳稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた、「上毛モスリン株式会社」によって現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎されました。

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 覆い屋。
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 本殿。
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 狛犬。
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 館林城本丸土塁跡。
館林市指定史跡 館林城本丸土塁及び八幡宮
 指定年月日 昭和六二年(一九八七)八月七日
 所   在 館林市城町一番地の三 他
 時   代 江戸時代
  館林城本丸土塁
 館林城は、館林・邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地を巧みに利用して造られた平城で、別名を尾曳城と言います。
 城の中心は、現在の文化会館敷地の三の丸から東に、現市役所敷地の二の丸・その東に本丸・南に南郭。本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を土塁と塀とで区画して造られていました。
 ここは本丸にあたり、この土塁は本丸の南側土塁の一部です。
 徳川綱吉が城主であった時代の絵図には、ここに三重の櫓(天守)が描かれており、二五万石の城主にふさわしい荘厳な城であったことが見て取れます。その後綱吉の子。徳松の夭折により、館林城は一時廃城となりますが、次の城主、松平(越智)家時代の、「館林城地目録」によれば、延享年間(江戸時代中期)の本丸は、東西約七五間(約一三六m)、南北約二五間(約四五m)の長方形の郭で、周囲を長さ約二二四間(約四〇七m)、高さ約二間(約三・六m)の土塁が囲んでおり、その上には瓦を載せた塀が走り、北東隅には天守閣にあたる二重の櫓があったと伝えられています。
 館林城に関わる遺構として、大変貴重なものです。

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 三重櫓跡。

秋元神社(尾曳町)

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 旧秋元別邸脇に鎮座する秋元神社(館林市尾曳町8-1)。
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八瀬秋元町とは・工藤三寿男先生はざわざわ談で語る 京都市左京区八瀬秋元町・八瀬近衛町を言う
 ここに秋元神社がある 大きくそびえる 比叡山が見える長い田んぼ道を通って行くと 大きな石段を三っ曲あがり山の山腹にたどりつくと 天満宮が祀られているさらに山深く 菅原道真が師のもとに通う途中に 休んだとされる石があります。この天満宮に向かって右隣に秋元喬知候を祀る秋元神社があります。 ◎秋元家四代 谷村城主 喬知候は江戸幕府の中枢にいらっせられ 天子の命を受け 宝永七年(1710)◎京都御所の火事の遭った皇居の造営の責任者として工事を監督していた時たまたま八瀬童子と比叡山との境を争っており なかなか解決できず 数年争いが 続いた 八瀬童子は この事を 喬知候に訴えた。喬知候はその訴状を江戸に持ち帰り 幕閣の会議に持ち出し両者の意見を審理 し。建武二年(1335)の 後醍醐天皇の許可書 通りに 無税として解決したとの事御■■。村人は大喜びで秋元神社を造り喬知候を祀ったとの事で御座いますさらに遡ると(1649)から(1714)五代将軍綱吉・六代家宣・七代家継仕え(1699)から(1714)まで老中だつた時代のお話でした。

岡谷繁実(おかのやしげざね)館林談から 工藤三寿男 書
何で京都の石が なんで館林市秋元別邸にあるか 秋元家四代川越城主 秋元喬知候は宝永七年(1710)幕府の中軸 老中として天皇の命令を お受け御所の火事の遭った皇居の造営の責任者として監督をしていた所たまたまその頃 八瀬童子と比叡山との境争いが続いておりました。なかなか解決できず。数年続いたこの事を 八瀬童子は 喬知候に訴えた。喬知候はその訴状を持って江戸に帰り 幕閣の会議に持ち出し両者の意見を審理した。ついに建武二年(1335)後醍醐天皇の許可状を根拠にしてこの地を八瀬村のものと認め その年貢や税を免税とする決定  後醍醐天皇の命令の道り とした 八瀬の村民たちは喬知候の後世に残したご恩を忘れる事無く 毎年欠かさず秋元神社で 赦免地まつりを行っております。その他に八瀬童子は恩義を忘れることなく後日 喬知公が 明治20年正五位 後で正三位を贈位されたのを祝い 京都の宝 石物を東京都駿河台の秋元本邸に贈られたとの事 時は過ぎ 江戸 駿河台の本邸で 外国奉行 栗本鋤雲と秋元興朝公の語りが 書かれている碑 冨春園の碑と京都の宝物が 秋元春朝様の手により 東京駿河台からここに 昭和5年 移すとあります。

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富春園

蔚堂主人號其園曰富春余謂
地無煙水蘆花之觀人非載笠
羊裘之徒然深慕子陵之髙風
至此也主人曰否僅培牡丹數
株以賞春色耳余於此乎爽然
丁亥季春 匏菴逸人鯤
     主人蔚堂書
        井龜泉鐫

蔚堂主人号其園曰富春
余 謂地無煙水蘆花之観
人非載笠羊裘之徒
然深慕子陵之高風至此也
主人曰否僅培牡丹数株以賞春色耳
余 於此乎爽然。
主人 秋元興朝 はその園を名付けて 富春と言った。
余が思うに この地に 水蒸気が水面から 立ち込めて ぼうぼと あしの穂がたなびいている感じはしない また人は笠をかぶり羊の革で 作った雨着を着ている様な 人はどこにも居ない。然れども 後漢の厳光に匹敵 する人柄を慕ってこの地に、来た人に対して 主人はこう云った牡丹数株を 養育て春の風情を 味わっているのみです 実に爽やかな気分になった。
子爵 秋元興朝を栗本鋤雲が訪ねて来た事を冨春園の碑に知らされております。
丁亥季春。明治20年春(1887)建立
工藤三寿男ざわざわ談より
ふるさとガイド別邸護る会 会長 荒井孫四郎

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 横から。
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 秋元春朝像。
秋元春朝投網の像
天文元年(一五三二)赤井照光により館林築城がなされ江戸時代には榊原氏・松平氏・徳川氏・太田氏・井上氏から秋元氏へと十家二十三代に及ぶ三百三十余年間親藩、譜代の城下町として栄えたところです。
弘化二年(一八四五)山形より秋元氏が来封し礼朝の時明治維新を迎えました。 興朝春朝 順朝へと続きますが、春朝は元来自然をこよなく愛した、粋人で村人からも親しまれたなかなかの好人物でした。この像は春朝が池に向かって投網し魚を獲るところで、建立は大正八年(一九一九)です。
  毛利教武作

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大正十一年頃の写真 別邸のお庭に小さな池がありました。
この像の主は 秋元家十三代当主 子爵 秋元春朝様で御座います

秋元家十代藩主志朝・十一代礼朝・十二代当主 興朝様となり十三代当主 春朝様の時代となるので御座います
毛利家と秋元家
春朝は東京高輪に子爵 毛利元秀の実弟として生まれ 学習院高等科卒業し明治三十四年 興朝様の養子となり 二女光子と結婚・明治三十七年海外留学を志し 四十一年バーミンガム大学卒業して帰国。逓信大臣秘書・鉄道大臣秘書官・英国皇太子接伴委員歴任 大正十四年 子爵議員補欠貴族院選挙に当選 昭和二十二年まで勤め 他に上毛電鉄相談役などなされ 晩年は郷土を愛し館林町に秋元文庫を寄付し 春朝好みの 和洋折衷の建物を造り 近所の住民と愉しく 接していたとの事 又 事務所の前に、秋元家 四代川越城主 秋元喬知候の働きで京都の比叡山と八瀬の境 争えを無事解決したお礼に戴いた 八瀬村の宝 京都の代表的 文化財のうずまさの灯篭・今では発掘が少ない。真黒石・秀吉の長子鶴松の智積院と 関係あると聞く ツクバイ・濡れ鷺の灯篭・秀吉→家康→秋元家に伝わったとされる みみずくのツクバイ等を お庭に小さな庭園を作り館林の観光地造りにと 春朝様が頑張って造った庭園は昔の影が薄れてばらばら 裸姿の春朝も今生きていたら如何思っていたか
◎別邸を護り佇む春朝が八瀬の宝の変わる姿を。
岡谷繁実・〔館林叢談〕より。工藤三寿男ざわざわ談より


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 九年前に撮影した時には秋元神社の前に石造物が二つあったのだが、現在は撤去されており見当たらない。
 左側の物がみみずくのツクバイなのだろうか。右の物は案内板に写真は載っているのだが説明が無いのでわからない。

水神宮(花山町)

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 つつじが岡公園の中に鎮座する水神宮(館林市花山町3278)。
 台石には「鞘堂再建立 嘉永三戌年 八月吉日」と刻まれている。嘉永三年は1850年。
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旧館林城主榊原家ゆかりのツツジ
 榊原家は、徳川四天王の一人榊原康政を藩祖とし、天正18年(1590)に館林城主として入封しました。以降、初代康政、二代康勝、三代忠次が約50年間館林を治め、この間、館林城の整備拡張などを行い城下町館林の基礎を築きました。特に榊原家はこの躑躅ヶ岡の発祥・伝説とも深く係わり、初代康政とお辻伝説、寛永4年(1627)三代忠次の花見塚からのツツジ移植の歴史が伝えられています。
 このツツジは平成6年(1994)榊原家第16代当主榊原政春氏より館林市に寄付されたもので、大正時代から東京の榊原家屋敷で大切に育てられてきたものです。

善導寺(楠町)

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 城沼の北岸に位置する浄土宗終南山見松院善導寺(館林市楠町3692)。
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終南山 見松院 善導寺
  所 在 地 群馬県館林市楠町三六九二番
  宗   派 浄土宗
  所依の経典 浄土三部経
由緒・来歴
【開創から明治まで】

 当寺は、第四十三代元明天皇 和銅元年(七〇八)行基菩薩によって開創された。
第八十二代後鳥羽天皇 建久四年(一一九三)三月 頓阿見性法師、行基菩薩の旧跡を偲び草庵を修建して終南山の鍾馗に擬え鎮守とし、浄業専修し、久しく住した。
 第九十一代後宇多天皇 建治二年(一二七六)十月 白旗流の祖、寂恵良暁上人により再興され、今日の基となる大伽藍となり一向専修の道場として、滋に初めて「終南山見性院善導寺」と呼称し、以後浄土宗に属する寺院となった。良暁上人以前は、単に「行基寺」とか「見性院」と呼ばれて来たという。
 以来、三百余年間、代々の領主(由良氏・長尾氏・赤井氏・北条氏等)当寺を令法久住の檀林として特に庇護し、山門に制札を掲げ軍兵等の狼藉を禁じたが、元亀・天正の頃、下克上による戦乱東西に広がるや、当寺も荒れるに任されるに至った。
 後陽成天皇 天正十八年(一五九〇)徳川家康公四天王の一人、榊原康政候館林十万石に赴任するや、広範囲に亘る地域開発に着手した。  時同じ頃、学徳兼備の高僧、幡随意上人は予てより行基菩薩 開榛の勝地・白旗流流祖建堂の再興を念願としていたが、康政候篤く上人に帰依し、当寺域を谷越の地に移し本堂を初め七堂伽藍並びに付属堂宇を整備し、上人を中興第一世と定め榊原家の香華寺とし百石を付与された。
 後水尾天皇 元和元年(一六一五)家康公は、旧姓松平の「松」に十八公の嘉誉在るに因んで関東に十八の檀林選定に当りその一に加えられ、これを機に当寺の院号「見性院」を現在の「見松院」に改められた。
 後光明天皇 正保元年(一六四四)榊原家三代忠次候館林在城二十八年、奥州白河への移封の折徳川三代将軍家光公より供田百石と諸役免除のご朱印を賜り、以来、各将軍時々の城主当寺を遇すること厚く、以後二百余年間、歴代住職法燈護持に尽力し檀林としての責務を果たし教化当地に普く及ぶに至った、然しながら幕末の動乱・幕藩体制の崩壊・廃佛毀釈等によりその影響大なるものがあり次第に衰微することとなった。
 明治維新を迎え漸く体制も整い近代国家への脱皮と共に社会秩序も平穏となり、大正・昭和時代へと変遷したが、この間当寺は常に地域社会への要望と共に歩み続けてきた。
【明治以降の歩み】
*明治二年(一八六九)  二月二十三日 明治天皇より勅願所の綸旨を下賜される。
*明治四十年(一九〇七) 寺域の一部に日清製粉を誘致。
*明治末 ~ 大正時代  東武鉄道の誘致、境内中央部に館林駅建設を有志と共に図
            り、当地域の経済・文化の発展の基となした。
 昭和に入り、西暦一九二九年(昭和四年)に始まる世界的規模による経済大恐慌、昭和十二年(一九三七)日中戦争、同十六年(一九四一)第二次世界大戦勃発、同二十年(一九四五)八月十五日終戦、同時に連合軍による国内進駐、連合国最高司令官総司令部(GHQと略称する)の設置、続いてGHQの指令により諸制度の改革が行われ、就中農地解放は広大な境内敷地・建物等、維持管理の為の基本的財源を失うこととなり、修理すら出来ぬありさまで茫茫として荒れるに任せる状態であった。 現住職(第七十七世英誉)昭和三十四年(一九五九)、先住忍誉上人よりその職を継承するや、再建の方途につき鋭意努力し当寺山門外に
在った不動・弁天両堂を山門内に移転・応急の修理を施し、長年通行の用に供し分断され、境内として使用し得ない境内地等の整理・本堂大屋根の修繕等を行い、残る境内地三千余坪に、保育園舎の改築・庫裡の改築等手掛け、一旦は旧地での再建に踏み切った。 然るに、昭和五十四年(一九七九)都市近代化を推進する館林市より「館林駅広並びに駅前通り線拡幅事業」化に向けての協力要請があり、当寺役員会は諸事熟慮の結果公共に立って旧地(館林駅前)より全面移転することを決議した。
 ここに「昭和大移転再建事業」は発足、昭和五十八年十一月当地において地鎮・着工式を挙行、平成二年秋、落慶遷座式を目標として本事業を推進し成満したものである。
 本移転再建に当たり特に留意したことは、境内建物・彫像・彫刻類について破損甚だしきものであっても何とか修復出来るものについては、先人の文化的遺産として後世に伝えるべく努力すること・彩色については四百年前の色調を忠実に再現する二点とした。
【事業の大要】
*当境内地の対象となった開発地全域に付き、土地改良を行った。
*本堂は鉄筋コンクリート造、屋根は銅板葺きとし内陣のみ旧内陣を修復して四百年前の形式を再現した。
*山門・不動堂・薬師堂・弁天堂・富士見門は、ほぼ旧来のとおり復元した。
*観音堂・鐘楼・庫裡・収蔵庫・閼伽門・竜井等は新築とした。
*勢至堂は旧境内庫裡のお内佛間と玄関唐破風を利用して新築した。
 平成元年五月吉日

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 本堂。
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本堂
〔堂宇〕
 様式 外壁鉄筋・内部木造・入母屋造銅板葺
 規模 間口十一間五尺・奥行十六間三尺
 時代 昭和六十三年(一九八八)再建
〔本尊〕
 名称 阿弥陀如来
 作者 安阿弥(あんなみ)作
〔阿弥陀如来の功徳〕
 本尊阿弥陀如来は、西方極楽浄土の教主。無量寿仏・無量光仏・無量清浄仏・盡十方無碍光如来とも称され、『無量寿經』には、その光明を讃える十二の別號を挙げる。
 梵名はアミターユス(無量寿)・アミターバ(無量光)と伝わり、西方浄土(極楽世界)にあって法を説き、「限りない命」と「限りない智慧」によって永遠に救いを与える仏。
 阿弥陀仏に関しては、浄土三部経(『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)を初め、法華・華厳・涅槃その他多くの大乗経典に説かれている。
 『無量寿経』所説によれば、「往昔、世自在王仏の時、一国王発心(覚りを得ようとする心を起こすこと)して法蔵比丘といい、仏道修行に着手せんとする時、「我この修行成就せばかならず微妙完備の国土(諸仏の国土の中で最も勝れた国土)を建設し、我が名を唱えて願生(極楽浄土に生まれるを願うこと)せん者は悉く往生せしむべし」と四十八の誓願を立て、兆載永劫(非常に長い期間)の修行の結果、今から十劫(非常に長い時間。一劫は四十里立法の磐石を天人が三年に一度天衣をもって一撫でし、石の摩滅する時間をいう)以前にその願行成就して阿弥陀仏となり、この世界から十万億土を去る西方に極楽を建立し、今も説法されておる御仏で南無阿弥陀佛と御名を唱え、願生する衆生あれば、これを擁護し、臨終に際しては観音・勢至両菩薩並びに他の菩薩衆を従え、自ら来迎して極楽世界に導かれる(引接摂取という)。

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 本堂脇に水琴窟。
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 本堂裏手に榊原康政の墓がある。
群馬県指定史跡 榊原康政の墓
 榊原康政は、天文17年(1548)三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生れ、幼名を亀、のちの小平太と名乗り、12歳の時徳川家康の家臣となりました。
 初陣は、永禄6年(1563)上野の合戦で、この時手柄をたて、家康から一字賜って康政と名乗り、以後姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手などの合戦を歴戦し、徳川幕府創立の功臣として、後に井伊直政・本多忠勝・酒井忠次とともに、徳川四天王の一人に数えられています。
 天正18年(1590)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。
 館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で、郷土館林の礎を築きました。
 ここにある墓は、初代康政をはじめ、榊原家関係者5基の墓石が並び墓所を構成しています。
 群馬県(上野国)特に館林藩成立前後の歴史や、大名墓の研究、大名と寺との結びつきなどを知る上で大変重要なものとして、昭和28年群馬県の史跡に指定されました。

 南直道の墓
生年 不詳
没年 慶長11年(1606)
 墓は高さ1m93cmの宝篋印塔。
 法名 腹誉道切禅定門。
 康政の側近で殉死者です。

 榊原康政の墓
生年 天文17年(1548)
没年 慶長11年(1606)
 墓は高さ5m46cmの宝篋印塔。
 法名 養林院殿上誉見向大禅定門。
 官位は従五位下式部大輔です。

大須賀忠政の墓
生年 天正9年(1581)
没年 慶長12年(1607)
 墓は高さ2m72cmの五輪塔。
 法名 華馨院殿泰誉叟安大居士。
 康政の長子で遠江国横須賀城主です。

榊原康勝の墓
生年 天正18年(1590)
没年 元和元年(1615)
 墓は高さ2m73cmの五輪塔。
 法名 心光院殿長誉了英大禅定門。
 榊原家二代を継ぎました。

花房氏の墓
生年 不詳
没年 承応2年(1635)
 墓の高さ4m37cmの宝篋印塔。
 法名 周光院殿葉誉青荷大姉。
 康政の側室、二代康勝の生母です。

 墓の解体復元に伴った発掘調査で、康政・康勝・花房氏の墓から火葬にした遺骨が確認されました。
 特に康勝の遺骨は伊万里焼の小壺に納められていました。

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 榊原康政の墓。
 左の小さな宝篋印塔は南直道の墓。
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 左から大須賀忠政の墓、榊原康勝の墓、花房氏の墓。
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不動堂
〔堂宇〕
 様式 木造銅板葺四柱方形造り
 規模 間口五間・奥行五間九寸
 時代 文化四年(西紀一八〇七)再建 貫誉上人代
〔本尊〕
 名称 願成出世生不動尊
 作者 行基菩薩 石像
〔事跡〕
 祐天上人(目黒祐天寺開山)の得益の事
 南了上人の得益並びに捨身往生の事
〔不動明王の功徳〕
 不動尊・無動尊・不動威怒明王・不動金剛明王・不動使者と別称し、梵名アチャラナータと云い、阿遮羅囊多と音写する。
 大日如来の化現の一つで、すべての悪魔や煩悩を折伏し衆生を救済する明王。悪魔を降伏させて行者を護り菩提を成就させ長寿を得させる。
〔結縁日〕
 毎月二十八日

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 開運殿と記された扁額が掛けられている。それにしても、魚眼ズーム持って行けば良かった……。
辨天堂
〔堂宇〕
 様式 木造銅板葺寄棟造平屋建
 規模 間口二間一尺四寸五分・奥行二間一尺四寸五分
 時代 文政四年(一八二一年)再建 禅誉上人代
〔本尊〕
 名称 西向き辨財天
 作者 行基菩薩 木造
〔辨財天の功徳〕
 辨財天は俗に言われる名称で、正しくは辯才天という。梵語サラスヴァティーが原語で、薩囉薩伐底などと音写し、訳して妙音天・妙音楽天・美音天などという。大辯才天・大辯才天女・大辯才天神・大辯才天王・大聖辯才天神・大辨天・大辨功徳天・辯才天・大辨才功徳天などと別称し、略して辯天という。聡明にして辯才あることから辯才天、美音をもって歌詠するから美音天・妙音天という。
 人をして、無碍辯才・福智・延寿・戦勝を得せしめ、天災地変を除き、財宝、名誉を与える徳ある女神である。
〔結縁日〕
 いつでも

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薬師堂
〔堂宇〕
 様式 木造銅板葺四柱方形造
 規模 間口一間・奥行一間
 時代 文政十二年(一八二九)建立 禅誉上人代
〔本尊〕
 名称 薬師如来
 作者 不詳
〔薬師如来の功徳〕
 本尊薬師如来は、詳しくは薬師瑠璃光如来といい、薬師仏・大医王仏・医王善逝・医王尊などともいう。梵名(バーイサジャグルヴァーイドゥールヤタターガタ)と云い佩殺紫野虞吠女也薩他蘗多と音写する。
 東方浄瑠璃世界の教主であり、この御仏はもと菩薩であった時、十二の大願をおこし衆生の病を救い無明の痼疾(過去の煩悩によって、久しく明ならんこと、病に喩えて言う)を治して、解脱へ導かんと誓われた御仏である。
 この仏を礼拝・供養すれば病気が平癒し、長命を得るといわれ飛鳥時代から信仰されている御仏である。
〔結縁日〕
 毎月八日

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松平乗壽(のりなが)候墓碑
館林藩四代の城主
大給(おぎゅう)松平家七代家乗の長子として、慶長五年(一六〇〇)正月十二日誕生、初め乗勝と称した。同十九年(一六一四)十四才にして父の遺領、美濃岩村城主となり、同十月に起きた大阪の役には、稲葉正成等と河内牧方に出陣し、軍功大であった。元和元年(一六一五)正月十五才にして従五位下に叙され、和泉守となる。
寛永十五年(一六三八)四月奏者番(将軍・大名等に事を取り次ぐ役職)となり、遠州浜松城主となり、三万六千石を拝領した。
正保元年(一六四四)二月館林六万石の城主となり、同年四月 後に四代将軍となる家綱公に勤侍し、同年十二月日光東照宮へ代参、同二年(一六四五)正月従四位下に叙される。
正保四年(一六四七)家綱公四代将軍となるや、老中職となり政務に励む。
承應三年(一六五四)病に倒れ、同年正月二十六日寂
享年五十五 法名は源高院殿忠蓮社深誉道徹居士と称する。

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 関山見生法師墓碑、圓光大師像。
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 聖観世音菩薩像と……何菩薩だろうこれ。
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 大師堂? ……いや、浄土宗だから法然堂なのかな。圓光大師(法然)像と随分違う感じだけど。境内案内図には名称が記されていないのでわからない。
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 富士見門と池の間辺りに善導稲荷社。
 案内板が設置されていないので詳細不明。
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 城沼に面して建てられた富士見門。
 石柱には「願成出世生不動尊」「祐天上人御修行地」と刻まれている。

 勢至堂や観音堂を見落としていた……○刀乙

善長寺(当郷町)

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 城沼の北岸に位置する曹洞宗巨法山善長寺(館林市当郷町1975)。
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 山門の左手側に石祠。
 明治三十一年(1898)四月一日造立であることはわかったのだが、何を祀っているのかは不明。
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 山門内側から。
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 本堂。
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 本堂の向かいにお辻・松女供養塔。
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お辻・松女供養碑
榊原康政(徳川四天王の一人館林城主)の愛妾お辻の方は寵愛を一身に集めていたがそれを嫉む他の妻妾の仕打ちに堪えられず、侍女お松を伴い城沼に身を投じて自殺したという伝説が残されています。康政はその死を悼んでお辻を弔うために沼の丘に植えられた一株のつつじが今日の県立つつじヶ岡公園の起りとも、いわれております。

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 その隣には、揚州石井土乃生墳……でいいのかな? 源氏輪に並び矢紋と剣片喰紋も刻まれている。よくわからないが石井子彭と言う江戸時代の儒学者が善長寺に葬られているそうなので、それに関係したものだろう。側面にも文が刻まれているのだが、黴やら苔やらで判読は難しい。
 右側の石塔は墓であるようなのだが文字が薄くなっていてわからない。
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 不動明王。
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 供養塔。
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 祥室院殿の墓。
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館林市指定史跡 館林城主榊原忠次の母 祥室院殿の墓および石燈籠
      一、指定年月日 昭和五〇年三月六日
      一、所 在 地 館林市当郷町一九七五番地 善長寺
      一、時   代 江戸時代
 この宝篋印塔は、高さが四メ-トル八九センチメートル程あり、宝珠下端より塔身にかけて「祖師西来意」、塔身に「瑞峰窓嘉元和九昭陽大淵歳南呂初九日」と刻まれている。
 「瑞峰窓嘉」は、館林城主榊原(松平)忠次の母の法名で、善長寺の過去帳には、これに院殿の号を付して「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」と記されている。
 年号中「昭陽」は十干の「癸」、「大淵」は十二支の「亥」、「南呂」は八月の意味であることから、年号は「元和九(一六二三)年八月九日」ということになる。
 「祥室院」は、下総国関宿(現千葉県東葛飾郡関宿町)城主松平因幡守康元の娘で、榊原康政の長子である遠江国横須賀(現静岡県小笠郡大須賀町)城主の大須賀忠政に嫁ぎ、忠次を生んだ。
 その後、夫、忠政が慶長一二(一六〇七)年に病没すると、徳川家康の命により、伊勢国長島(現三重県員弁郡長島町)城主菅沼定芳に再嫁したが、元和九(一六二三)年に近江国膳所(現滋賀県大津市)で病没した。
 忠次は、この時、榊原家の三代を継いで館林城主であったが、母の墓が遠くにあることをなげき、菅沼家に分骨を請い、善長寺に墓石を造立したという。
 墓域は、石壁で囲われ、墓前には二基の石燈籠が建てられているが、向かって左の石燈籠には、寛永十(一六三三)年の刻銘がある。
 平成八年度に解体修理を行った。

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 寿老人。
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 鐘楼堂。
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善長寺鐘楼堂建立の記
 当山は、大栄三年(一五二三)に大雲惟俊大和尚によって現在の地に開山されました。開基家は館林城主赤井孫七郎家範候でした。その後江戸時代になり、同じく館林城主榊原忠次候(後に松平忠次候)が、御生母、祥室院殿のご供養のために中興開基家となって、伽藍の整備を行われました。ちなみに、忠次候は後に館林城主より姫路城主に移封されております。
 創建当時の諸堂伽藍は、文政八年(一八二五)に火災に遭い、惜しくも全て焼失しましたが、図面に焼失前の伽藍配置が詳しく記録されており、それによって、開山当時の規模の壮大さをうかがい知ることができます。
 さらに第二次世界大戦末期、日本は極度の物資不足におちいり、当寺も含め多くのお寺の梵鐘が無念のうちに供出されていきました。
 平成十四年は、大本山永平寺御開山、永平道元禅師の七五〇回大遠忌の年に正当いたしました。この度の大遠忌の主題は「慕古心」です。意味するところは、道元禅師のお教えに戻りましょう、ということであります。お寺を昔の姿に戻すのも、この主題に添う報恩行と考えられます。ここに、寺檀一致協力して、檀信徒の浄財を募り、この鐘楼堂の再建が結実致しました。この梵鐘が尽未来際、私達の心の拠り処となりますことを、切に願うものです。
       平成十五年十一月三日
          曹洞宗善長寺鐘楼堂再建委員会 初代委員長 森田勘蔵
                同        二代委員長 泉澤 進
                同              委員一同
          巨法山善長寺住職             前山秀樹

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 休憩所かな。
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 十一面観音堂。
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 観世音菩薩。
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 魚魂碑。
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 馬頭観世音。
 犬と猫が脇侍のように控えている。なんでさと思ったが碑文を読んでああ成程と。
馬頭観世音菩薩 尊像建立記
 馬頭観音は六道の救世 畜生道を済度す 身色赤く 面相忿怒 是慈愛の極地なり 白馬頭を頂き 三面二臂 六臂 八臂 又四面八臂 破邪の輪宝を手にし 煩悩打摧 四魔降伏の大威神力を現わし給う
 茲に近在の 畜魂 馬頭観音碑 と共に その 尊像 を祀り 一切衆生の所願成就を祈念し奉る
 昭和五十四年四月吉祥日
  建立者自記

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 善長寺前の遊歩道にはカルタが点々と埋め込まれている。
 右の写真は「し」だから「城跡に 面影うつす 土橋門」。
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 辯才天。
 側面に造立年が刻まれているが、破損しており明治時代の……三十年代? あとは五月であることしかわからない。

御堂(傍示塚町)

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 矢場川の右岸に位置する御堂(館林市傍示塚町)。
 先週、導成渕の水神宮前で地元の方から聞いた話では、東に馬頭観音があると言うことだったのでこちらが馬頭観音堂なのだろうと思っていたのだが……
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 それらしい仏像は見当たらない。
 ここから300m程西に馬捨場の説明板があるので、その近くに馬頭観音が祀られていても不思議はないのだが、うーん?
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 馬捨場(館林市木戸町)。
 奥に見えるのがこの御堂。
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馬捨場
 昔のこと甲斐の武田信玄が木戸郷を攻めて来て、多くの部下と馬を失った、戦死者を埋葬した処を「信権墓地」と云い、馬を捨てた処を「馬捨場」と言った。
 この時、信玄は有名な足利学校を侵してはならないと指令を出している。木戸郷に足利学校や大日堂(ばん阿寺)があったのである。
 後世に至って農耕馬が死ぬところの馬捨場に丁重に埋葬したと云う。木戸郷の北東部に在る。
 ……おや? 木戸町の赤城神社南側の庚申塔説明板には「上杉憲実が木戸に在った足利学校や大日堂を足利に転出させてしまった」と書かれていたのだが、おかしいな。上杉憲実は1400年代の人物で武田信玄は1500年代の人物なのだから、上杉憲実が足利学校と鑁阿寺を木戸から足利に移していたのだとしたら武田信玄が木戸に攻め込んだ時には既にどちらも無い筈ではないか。まぁ元々眉唾物の話なので信用に値しないが、せめて辻褄くらい合わせろと。と言うか木戸郷って昔は足利荘の一部だったよね。
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 以上で1月20日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA70mm。X30。
 ウォーキングカウンターは6,692歩。走行距離は約49.3km。
 いつもなら50号バイパスに出て帰路に就くのだが、同じ道ばかり走るのも厭きたので遠回りにはなるが違う道を使ったら少し迷いそうになった。

湯殿山大権現(上早川田町)

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 上早川田町の雷電神社南側、県道223号寺岡館林線脇に鎮座する出羽三山塔(館林市上早川田町)。
 両側の石塔にも文字が刻まれているのだがよく読み取れない。
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太日稲神社(大島町)

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 曹洞宗奕葉山春昌寺の南に鎮座する太日稲神社(館林市大島町5192)。
 太日稲と書いて「おひな」と読むのだそうだ。
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 拝殿。
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 裏手から。
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大日稲神社
 当社は、明治四二年(一九〇九)四月三〇日「正儀内」地内に鎮座していた稲荷神社(倉稲魂命)・神明宮(大日孁尊)と、その末社八幡宮(誉田別命)・日向神社(豊玉彦命)の四社を合祀、神明宮の祭神大日孁尊(天照大御神)の「大」と、日向・稲荷両社名から一字ずつとり「大日稲神社」とし、社殿はこの年六月一三日竣工した。境内には八幡宮・浅間神社・小御嶽社などの末社がある。
 伝説によると、合併社のうち日向神社の祭神は磯ヶ原日向守正儀という殿様で、あるとき、どうしたわけか殿様夫婦が近くの底無沼に身を投じて死んだ。これを知った村人たちは殿様夫婦の不慮の死を嘆きかなしんだ末、沼のほとりに小さな社を建て日向守を祭り、日向神社と名付け、その沼を夫婦沼と呼んだ。
 のち大和国(奈良県)高市郡高取城主二万五千石を領し春昌寺に祖先の墓のある植村氏は、日向守の家来筋ともいうが確証がない。

群馬縣管下上野國邑樂郡北大島村字正義内 無格社 神明宮
 祭  神 大日孁貴命
 由  緒 不詳
 境内末社 八幡宮  祭神 譽田別命

群馬縣管下上野國邑樂郡北大島村字正義内 無格社 日向神社
 祭 神 豊玉彦命
 由 緒 不詳
 
群馬縣管下上野國邑樂郡北大島村字正義内 無格社 稲荷神社
 祭  神 倉稲魂命
 由  緒 不詳
 境内末社 厳島神社  祭神 市杵島姫命
      月夜見神社 祭神 月夜見神命
(『上野国神社明細帳』より抜粋)

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 末社。
 塚頂の石祠は浅間社。その脇の石塔は小御嶽神社・大天狗・小天狗。右端の赤い祠は八幡宮。その隣の石祠は額部分が破損しており何神社なのかわからない。

薬師堂(大島町)

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 細内集会所裏墓地東側の道を200m程北上した所にある薬師堂(館林市大島町)。
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 薬師堂の50m程南の道端に位置する青面金剛と石祠。
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 青面金剛アップで。
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不明(細内町)

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 細内集会所(館林市細内町782-1)と合体しているお堂……?
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 中を覗きこむと厨子が安置されているのが見えたが、なにを祀っているのかは不明。
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 細内集会所の隣に祠がある。
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 祠の裏手には塚があり、倒れてしまってはいるが石塔が置かれている。浅間神社だろうか。
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 祠の中には山の形をした石碑があり、祝詞の文字が見えるが本文はよく読み取れない。
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 筑波神社・今宮大■大神・香取大神宮・鹿嶋大神宮・息栖大神と刻まれた石塔や坂東秩父西国札所延命為二卋安……と刻まれた石塔、参明藤開山角行食行と刻まれた石塔、出羽三山塔などが並んでいる。
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 上毛十二社石塔。

浅間宮(細内町)

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 細内集会所南側の民家脇に鎮座する浅間宮(館林市細内町781)。
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 庚申塔と石祠、日露凱旋記念碑。
 石祠は小御嶽神社なのかな。
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 浅間宮の裏手、県道57号線に面して建てられた青面金剛。その脇には小さな馬頭観音も見える。

神明宮(千塚町)

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 大島県営住宅団地の南側に鎮座する神明宮(館林市千塚町526)。
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 「天照皇太神宮」と「天満宮」の額が掛けられている。
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 石燈籠。側面には「安政五戊午歳二月吉日」と刻まれているので1858年の造立。
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熊野神社(千塚町)

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 常榮寺の南側に鎮座する熊野神社(館林市千塚町)。
 熊野神社のすぐ南西に富士塚があるが、民家の敷地内なのでそちらはパス。
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 本殿。
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 祠の中には仏像が納められている。家都御子神の本地仏である阿弥陀如来だろうか。印相も来迎印のようだし。
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 後ろから。

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 熊野神社の北側、千塚集会所の隣に常榮寺(館林市千塚町119)。
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 本堂前左側に並ぶ十九夜塔と普門品供養塔、先祖供養塔、地蔵菩薩。右側に……なんだろう、釈迦如来かな?

御嶽神社(大島町)

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 十二社権現神社の150m程南西に鎮座する御嶽神社(館林市大島町)。
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 石祠。
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十二社権現神社(大島町)

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 神明宮の280m程南、寄居会館脇に鎮座する十二社権現神社(館林市大島町4737)。
 ここは館林城主赤井照光の家臣・片見師方の居城であった北大島城の跡地であるのだそうだ。
群馬縣管下上野國邑樂郡北大島村字寄居 無格社 十二社神社
 祭  神 上野十二社神
 由  緒 不詳
 境内末社 菅原神社  祭神 菅原道真公
      厳島神社  祭神 市杵島姫命
(『上野国神社明細帳』より抜粋)
 上野十二社と言うことは貫前神社(経津主神・比売大神)、赤城神社(大己貴命・豊城入彦命)、伊香保神社(大己貴命・少彦名命)、甲波宿禰神社(速秋津彦命・速秋津姫命)、大国神社(大国主命)、榛名神社(火産霊命・埴山姫命)小祝神社(少彦名命)、火雷神社(火雷命)、倭文神社(天羽槌雄命)、美和神社(大物主櫛甕玉命・素盞嗚命)、賀茂神社(賀茂別雷命)、宇芸神社(倉稲魂命)の十二社を祀っているのだろう。
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 鳥居内側から。
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 拝殿。
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 末社。
 『上野国神社明細帳』によれば末社は菅原神社と厳島神社の筈なのだが、右の石祠はどう見ても浅間神社だろう。傍に小御嶽磐長姫命石塔もあることだし。左の祠は不明。
 石祠の側面には「明治十九年戌二月廿六日」と刻まれている。
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 稲荷社。その隣は六地蔵塔だろうか。
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観音堂(大島町)

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 淨蓮院の200m程南東に位置する観音堂(館林市大島町1516)。
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 観音堂正面。
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 庚申塔や普門品供養塔、如意輪観音、青面金剛などが並んでいる。
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 青面金剛アップで。
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 中には地蔵菩薩らしき像がぽつんと一体のみ安置されていた。
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 観音堂西側から。
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 観音堂の向い側には三峯社の石祠と他一基があった。

水神宮(木戸町)

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 矢場川右岸、導成渕の脇に鎮座する水神宮(館林市木戸町)。
 120m南西に諏訪神社、95m南西に八幡宮と、水に縁のある神様が集中してるなここ。
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 石祠の右側面には「東講中 平成四年六月吉日」、左側面には「約三百三十年前矢場川堤防上に水神宮を祭り氏子一同尊崇した 河川改修により西方三十米の所より現在地に新築遷宮す 平成四年六月」と刻まれている。
 平成四年は1992年だから、そこから330年前とすると1662年なので創建は寛文二年頃、徳川第四代将軍家綱の時代か。
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 以上で1月13日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA31mm、FA77mm、K50mm F1.4。X30。
 ウォーキングカウンターは6,382歩。走行距離は約63.4km。

八幡宮(木戸町)

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 矢場川右岸、導成渕の南側に鎮座する八幡宮(館林市木戸町790)……たぶん。
 たぶんと書いたのは、前述の諏訪神社と同じ理由なので以下略。てっきり稲荷社だろうかと思っていたのだが違った。
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諏訪神社(木戸町)

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 矢場川右岸、導成渕の南側に鎮座する諏訪神社(館林市木戸町)……たぶん。
 たぶんと書いたのは、鳥居にも石祠にも社名が記されておらず、ここから160m程南西の道端に設置された「船橋」の案内板に「船橋から導成渕に向って左に諏訪神社、右に八幡宮があり」と記されていることから、おそらくこちらが諏訪神社なのだろうと思われるため。
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 石祠。
 側面には「昭和十二年一月廿四日再建」と刻まれている。
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船橋
 旧渡良瀬川第二次主流の「樽の口」から東にある名所導成渕に向って川が流れていた。左岸に鉾や槍、直刀等を製造した「鍛冶屋田」右岸に鍛冶屋部落のお陰で栄えた「柳町」があった。そこを通りぬけて行くと木戸宿発着所に至る、小島市蔵氏や井汲敏氏付近であった。此処にて上陸すると道標を兼ねた供養塔がある、左太田 右佐野行きの道案内が刻まれている。此処に砂や荷物が荷上げされたと云う。
 旧宅地は火山の噴火で水田と変った、堰番から四ヶ村用水が出来て、発着所附近に橋が竣工した、この橋の名前を「船橋」と言った。
 船橋から名所導成渕に向って左に諏訪神社右に八幡宮があり、大昔、義家、義国から来た処のように推察される。

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導成渕
 中世期頃のこと、山伏姿の修験道者が木戸に一向宗を伝導して「導成坊」と言った。高根本願寺跡附近から前原平五郎氏宅の東北に転居した。此処を地名「寺道」と呼んでいる。
 寺道には一向宗の越塚氏が住んで、在家に移り住んだ川島、時田、今泉、藤野、西田の名主役のような役を勤めていた、越塚氏は寺道から木戸郷の北東、現矢場川沿岸に転居し導成寺を開設した。越塚氏は第十代鑑相の時遊行上人と会津へ行って称名寺を開設した、従って導成寺は「時宗萬寿寺」と変った、現在の深諦寺の前身である。
 館林城主徳川綱吉公の時、木戸郷の西北に土手が築かれた、この導成寺附近の土手を称して「導成渕」と云った、井汲、小島、田野入家の北側の土手の総称である。
 天正年間に木戸は大水に見舞われた、赤城山麓の白沢村から木彫男の獅子頭一軀が導成渕に流れ着いた、万寿寺(深諦寺)の住職は更に二つの獅子頭を作り、獅子舞として伝導して今日に至っている、日干天続きに祈る「雨乞ひ獅子舞」は関東に誇り得る民族芸能である。

稲荷神社(田谷町)

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 渡良瀬川自転車道を目指して適当に北上していたら辿り着いた稲荷神社(館林市田谷町941)。
 この日巡る予定には無かったと言うかそもそも存在を知らなかった神社だが折角なのでお詣りして行こうと。
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 参道右手側の祠。稲荷社だろうか。
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 参道左手側の石祠。
 社名は記されていないので何神社なのかわからないが、近くに食行・角行霊神と小御嶽石尊大権現があるので、おそらく浅間神社なのだろう。
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 食行霊神・角行霊神と小御嶽石尊大権現・大天狗・小天狗。
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 拝殿。
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 本殿覆屋。
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 神社前から300m程西へ向かうと県道362号線に出て、そこから600m程北上すると県道57号線大島山王交差点に到着したので「ああ、ここなのか」と漸く現在地がどこなのかを把握。大体北に向かえばいいだろうと気分で走っていたので自分がどこにいるのかちょっとわからなくなっていたのだよね。こちらの神社に辿り着いたのは、或る意味お稲荷さまのお導きだったのかな(笑)

神明宮(大島町)

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 県道57号線傍に鎮座する神明宮(館林市大島町4563)。
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 鳥居。
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 鳥居の手前には小さな石祠があるが、何神社なのかは不明。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 境内。
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 たぶん富士塚。
 石祠の背面には「萬延元庚申年十一月吉日」と刻まれている。
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 左から水神宮、三峰神社、八坂神社。
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 筑波山神社。
 左の石塔は烏帽子岩食行身禄イ杓。
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 水神宮と首無し地蔵。
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 北側から。
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 堤防上から。

 以上で12月10日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、FA43mm、DA FISH-EYE 10-17mm、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは7,089歩。走行距離は約43km。
 今年の神社巡りはここまで。来年はどこへ行こうかな。行動範囲狭いけど。

馬頭観世音(大島町)

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 庚申社の80m程南の道端に建てられた馬頭観世音(館林市大島町2328)。
 「馬頭観世音  施主 小林徳次郎  馬名 金花号 昭和二十五年七月廿八日 二才  馬名 春駒号 昭和二十六年六月廿四日 三才」と刻まれている。

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 岡里区民館の80m程北、堤防法面に建てられた馬頭観世音(館林市大島町
 「馬頭観世音  昭和九年八月 関澤■司立之」と刻まれている。

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 神明宮の400m程北東、堤防法面に建てられた馬頭観世音(館林市大島町)。
 左の馬頭観音は明治三十年十二月、中央の馬頭観音は明治四十五年一月の造立。右の地蔵菩薩は不明。

庚申社(大島町)

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 岡里区民館の170m程北西に位置する庚申社(館林市大島町2331)。
 こちらの存在は知らなかったのだが、帰宅する為堤防上を走っていたら視界の端に鳥居が入って来たので立ち寄ってみることに。
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 青面金剛と大乗妙典日本廻國供養塔。
 如意輪観音が彫られているから十九夜塔かと思ったら違った。
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 堤防上から。
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 庚申社の200m程南の道端に猿田彦大神
 背面に「昭和四十二年十二月 櫻井■建之」と刻まれている。

不明(大島町)

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 岡里区民館(館林市大島町2278-1)の隣にある……なんだろうこれ。
 中には大きな幣束が一つと小さな幣束が三つあり、幣束を下げた縄も掛けられているので神社だろうかと思うのだが、銅鐘があったりすぐ南側が墓地だったりするので寺院なのかも、と言う気もする。
 大島神社の建営碑には岡里の稲荷神社を合祀したと記されていたし、ここが稲荷社と言う可能性もあるかなぁ?
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 銅鐘には「吉祥寺第七世法印弘誉 亍時天和第二歳龍集 壬戌六月吉祥日」「下野佐野金屋町住 鑄師 出井十郎兵衛 同左右■門」と刻まれている。天和二年は1682年。
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 岡里区民館の南側に十九夜塔と石塔、讀誦法華経一萬部供養塔が建てられている。
 十九夜塔の右側面には「明治廿四年十二月吉日上刕邑樂郡大嶋𦊆里」、讀誦法華経一萬部供養塔には「正徳六丙申年閏二月九日」と刻まれている。明治二十四年は1891年、正徳六年は1716年。
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 十九夜塔の左側面に刻まれた歌……かな?
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 十九夜塔の覆い屋に掛けられた絵馬。

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 岡里区民館の240m程南、県道57号線脇にある庚申塔
 「萬延元年庚申十月吉日」と刻まれているので1860年の造立。

石仏群(大島町)

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 上新田集会所脇に並ぶ石仏群(館林市大島町3753-2)。
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 何神社だろう?
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 地蔵菩薩や馬頭観音、青面金剛塔、庚申塔、念仏供養塔、十九夜塔などが並んでいる。
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大島神社(大島町)

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 大島町中央公園の東隣に鎮座する大島神社(館林市大島町3835)。
 鳥居の柱には「大正五年四月建之」と刻まれている。大正五年は1916年。
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 参道左手側に館林市の重要無形民俗文化財に指定されている大島岡里神代神楽の案内板が設置されている。
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館林市指定重要無形民俗文化財 大島岡里神代神楽(太々神楽)
一、指定年月日   昭和五六年(一九七八)二月六日
一、保存団体の名称 敬神講
一、保存団体の所在 館林市大島町
一、奉納神社    大島神社
 大島岡里神代神楽は「里神楽」と呼ばれる民間で行われる神楽に分類されます。
 五穀豊穣や無病息災を祈願して、大島神社へ奉納されています。
 この神楽は、江戸時代に下野国佐野の飯田(現在の栃木県佐野市飯田町)より伝えられたものといわれ、「戸ヶ崎流」と称し、初めは飯田地区近辺の神職によって奉納されていたが、明治初年、大島地区の村人に受け継がれ今日まで伝承されてきました。
 演目は、日本神話に題材を持つ七つの「式舞」と、滑稽な話を題材とした五つの「興舞」の一二座から成り立っており、「里神楽」として確立された形態を残し、比較的古風で格調高い形式を今に伝えています。
「式部」          「興舞」
  ① 幣舞式者(武者幣舞)   ① 金山(鍛冶屋・ひょっとこ)
  ② 翁(天の翁)       ② 恵比寿
  ③ 児屋根(天個屋根命)   ③ 大黒(大国)
  ④ 太玉           ④ 狐(稲荷)
  ⑤ 鈿女           ⑤ 山神(山の神)
  ⑥ 戸隠
  ⑦ 天狗
 今日では大島神社だけでなく、神楽の奉納が困難となった近隣の神社にも奉納されています。

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 拝殿。
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 狛犬。
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 赤城大神宮と記された額が掛けられている。
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 明治二十五年(1892)八月に奉納された絵馬。
 文字が薄れていて読み取り難いが、山や川、また多数の神社の名が記されている。
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 拝殿西側の壁にも絵馬が掛けられている。
 左側の絵馬は山や神社らしき建物が描かれており、上部には伊勢太々神楽と書かれている。明治十二年(1879)の三月或いは五月に奉納されたものであるようだ。
 右側の絵馬は五人の武将が描かれており、文字の殆どは消えかかっているが「天保七丙申歳九月吉日」はしっかりと読み取れる。天保七年は1836年なので181年前か。そりゃあ文字も消えるわって言うかむしろよく残っていたものだ。
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 本殿。
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大島神社建營碑
群馬縣邑樂郡大島村字上新田有一社曰赤城神社元鎮座於渡良瀬川堤外不詳其由
緒有事者祈則有験是以遠邇皆崇敬之延寶中遭祝融災社殿悉歸烏有衆庶爭投財造
營社殿寶永年間有洪水社殿流亡不留片影於是再募財造營焉現時所存社殿即是也
明治四十年二月神社合祀之令出也本村有志者鑑訓令之主㫖相謀乃講合祀之策明
治四十三年四月請官至六月得允合祀於本郷菅原神社寄居十二社神社岡里稲荷神
社觀音嚴島神社改称大島神社居民之崇敬益厚矣大正二年内務省改修渡良瀬川也
境内地爲官所購大正三年七月新相地於赤城前十一月得允移社殿改築焉大正四年
六月改築功全竣十月十五日行遷宮之盛儀大正五年二月氏子惣代村之有志者等首
唱普募財建花崗岩華表於境内以增神徳之愈髙頃者有志相謀勒石欲傳之不朽來乞
文余奉職于郷校不能辞以不文乃誌其梗概銘曰
     崇祖敬神   萬邦無比   闔邑斯民   禮神祇敦
     清楚社殿   功忽充矣   威徳逾髙   能安閭閻
   大正五年五月中浣
              群馬縣邑樂郡長從六位勲五等塙住篆額
              邑樂郡大島小學校長堀口捨次郎撰并書
                               石由刻
 群馬県邑楽郡大島村字上新田(現在の館林市大島町)に有る赤城神社は元は渡良瀬川の堤外に鎮座していたがその由緒は不詳。延宝年間(1673-81)火災により社殿悉く焼失し、その後再建されるも宝永年間(1704-11)洪水により流出。再び財を募り社殿を造営。神社合祀令により明治四十三年(1910)四月に合祀を申請、六月に許可を得て本郷の菅原神社、寄居の十二社神社、岡里の稲荷神社、観音の厳島神社を合祀して大島神社と改称。大正二年(1913)に内務省が渡良瀬川改修の為に境内地を購入し、大正三年十一月に許可を得て社殿を移し、大正四年六月に改築、十月十五日に遷宮の儀式を行ない大正五年二月に財を募り鳥居を建立。……かな?
 本郷の菅原神社と言うのは、こちらの前にお詣りした500m程西にある天満宮のことだろうか。だとすると合祀は書類上だけのものだったのか、或いは合祀した後に分離したものなのだろうか。
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 末社。
 左に小御嶽神社、右に烏帽子岩食行身禄イ彴があるのでおそらく浅間神社だろう。
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 日露戦役記念之碑と日清戦役凱旋記念碑、神楽殿改築記念碑。
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 神楽殿。
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 大島町中央公園内に位置する聖霊殿。
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聖霊殿
 本殿は、昭和二十二年五月(一九四七年)大島村平和愛好同士会によって創設され、西南の役(明治十年)から日清(明治二十七年)、日露(明治三十七年)、太平洋第二次大戦(昭和二十年)に至る幾多の従軍戦没者英霊九十三柱、並びに明治二十二年四月(一八八九年)大島村制施行以来、歴代村長及び現在に至るまでの先哲、自治功労者の栄誉をたたえて祭祀し世界平和と郷土の繁栄を、永遠に祈念し建立された。
  昭和六十年九月吉日
       大島聖霊殿奉賛会

天満宮(大島町)

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 本郷集会所脇に鎮座する天満宮(館林市大島町)。
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 本殿。
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 東側から。
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 左から摩利支天・阿普摩耶大権現(慶應三丁卯年(1867)十一月吉日)、弁才天(明治廿二年(1889)十一月再立)、不明(慶應三丁卯年十一月吉日)、南無青面金剛塔(享保十八癸丑歳(1733)十月大吉日)。
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 青面金剛塔には輪宝紋が陽刻され、台座には幣帛を担いだ二猿が彫られている。
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地蔵堂(大島町)

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 県道57号線大島山王交差点から70m程北に位置する地蔵堂(館林市大島町)。
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 地蔵尊。
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 十九夜塔。その隣には百万遍供養塔とよくわからない石柱。
 十九夜塔の側面には「嘉永二酉年八月吉日建之」と刻まれており、覆屋の柱には「昭和八酉年一月吉日」と刻まれている。嘉永二年は1849年で昭和八年は1933年。
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 庚申塔。
 南面には「庚申 南たてはやし」、西面には「西 あしかゝ 北 ■■■■さの」、北面には「寛政六甲■天二月」と刻まれているので道標も兼ねているのだろう。寛政六年は1794年。

深諦寺(木戸町)

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 県道8号足利館林線脇に位置する時宗常栄山松寿院深諦寺(館林市木戸町624)。
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 本堂。
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 由緒書き。
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 如意輪観音。
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 大乗妙典廻國供養塔、普門品供養塔、念仏供養尊。
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 六尺藤案内板。
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 歴代住職の墓。
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 以上で11月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm、FA50mm F1.4、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは9,623歩。走行距離は約60.5km。
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