鷲神社(外城)

IMGS9656s.jpg
 小山総合公園の北東、鷲城跡に鎮座する鷲神社(小山市外城272)。
DSCN9847s.jpg
『史跡 鷲城跡
 康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏十代の義政は、三次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
 この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局破れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
 鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。
 平成三年三月十二日 国指定』
IMGS9662s.jpg
 参道入口脇に並ぶ祠二つ。
IMGS9670s.jpg
 参道は長く、200m程はあろうか。
IMGS9674s.jpg
 拝殿。
『主祭神 大己貴命
 天慶年間(938~47)の創立。藤原秀郷が東国下向の折、武蔵国鷲宮明神に将門討伐を祈願し、その後、下野に下向し、下野国小山に鷲宮明神を勧請したのが、当社の創建であると伝えられている。その後、近郷近在の人々より子児の風邪・百日咳を治すなど、病気平癒の御神徳から信仰され、例祭日には卵の授与と奉納があって、殊に賑わっている。明治五年村社となる』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 栃木県神社誌には上のように記されているが、ググってみると武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、それにちなんで鷲城と名付けたともあるので、早くとも小山義政が父氏政の後を継ぎ下野守護職となった文和四年(1335。南朝の元号では正平十年)以降。応安五年(1372。南朝の元号で文中元年)頃の築城であろうと書かれているところもあったので、こちらの鷲神社の創立もそのあたりになるのではないだろうか。
 ちなみに武蔵国太田荘は藤原秀郷の後裔である太田氏の本拠地で、小山氏はその太田氏から派生した一族であることから、鷲宮神社との縁があったのだろう。
IMGS9719s.jpg
 斜めから。
IMGS9715s.jpgIMGS9716s.jpg
 狛犬。
IMGS9704s.jpg
 境内社建立記念碑。
 これを見ると、熊野神社と八幡宮、愛宕神社、水神社、雷電神社、三峯神社、耳治神社の計七社が祀られているようだ。ところで耳治神社と言う名は初めて目にしたのだが、どなたを祀っているのだろう?
IMGS9707s.jpg
 末社。
IMGS9742s.jpg
 鷲神社から土塁側へ向かうと、こちらにも末社。
 横矢と書かれた看板があるので、この辺りから矢を射掛けていたのだろうか。
IMGS9734s.jpg
 虎口と書かれた看板を横目に歩いて行くと、堀跡を経て小山総合公園へ続いている。
IMGS9736s.jpg
 堀跡。この先はまた土塁。

 以上で10月12日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm。Coolpix P7100。
スポンサーサイト

稲荷神社(石ノ上)

IMGS9627s.jpg
 国道50号岩舟小山バイパスに架かるすがた橋歩道橋の南250m程の位置に鎮座する稲荷神社(小山市石ノ上598)。
『主祭神 稲倉魂命
 創立年月日不詳。江戸時代に鎮座したものと思われる。御祭神は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全の御神徳をもつ。境内に、雷電神社がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9648s.jpg
 拝殿横から。
IMGS9638s.jpg
 雷電神社。
IMGS9653s.jpg
 神輿庫。
IMGS9651s.jpg
 庚申塔と青面金剛。

水神社(塩沢)

IMGS9617s.jpg
 間中稲荷神社の北330m程の位置に鎮座する水神社(小山市塩沢960)。
 駐車場は無いが、80m程北東に塩沢集落センターがあるので、そちらに駐車。
IMGS9616s.jpg
 拝殿。
『主祭神 水速玉命
 創立年月日不詳だが、江戸期と思われる。御祭神は、五穀豊穣および水防の御神徳をもつ。鳥居は杉材の両部鳥居である』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9614s.jpg
 南側から。
 左側の小屋は神輿庫。
IMGS9620s.jpg
 塩沢集落センター脇に鎮座する薬師堂。
 南宮山と書かれた額が掛けられている。南宮大社は金山彦命を主祭神とするが、明治以前はその境内に薬師堂があったそうなので、そちらから勧請したものなのかも知れない。

稲荷神社(間中)

IMGS9556s.jpg
 間中集落センターの東隣に鎮座する稲荷神社(小山市間中1369)。
IMGS9602s.jpg
 二の鳥居。
IMGS9572s.jpg
 拝殿。
『主祭神 稲倉魂命
 創立年月日不詳。宝永五(1708)年一二月一三日、京都神祇官より正一位稲荷大明神の贈位状を賜わる。明治初年、稲荷神社と改め、同五(1872)年郷社、同一○(1877)年村社となる。明治四○(1907)年、愛宕神社と浅間神社を合祀した。本殿は、正徳五(1715)年の完成で、木鼻に唐獅子、家の丸彫などの装飾が施された貴重なものである』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9595s.jpgIMGS9597s.jpg
 狛犬。
IMGS9585s.jpg
 拝殿斜めから。
IMGS9562s.jpg
『間中稲荷神社本殿
 一間流造の本殿で、屋根はこけら葺き、身舎の正面と側面に高欄付きの縁をまわして背後に脇障子を立て、前面に向拝を設ける。近世の本殿としては最も一般的な造りであり、その特徴となる装飾彫刻に関しても、木鼻に唐獅子や象の丸彫、脇障子や蟇股に透し彫、胴羽目や縁下小壁に素朴な浮彫が施され、いずれも彩色されている。県内各地の本殿がより精巧な彫刻で覆い尽くされるようになるのは江戸時代中期以降のことであり、この本殿はその直前の状態を示している。
 本殿の完成は正徳五年(1715)、大工は旧真弓村の人見又兵衛であったことが、現存する棟札によって知られる。この他、銅板の高欄擬宝珠にも「正徳四年」の刻銘が残されている。
 小規模ながら神社建築の装飾が彫刻化していく過程を知りうる好例であり、市内に現存する最も古い本殿の一つでもある。
 指定年月日 平成五年十二月一日
 所 在 地 小山市間中一三六九番地』
DSCN9838s.jpg
 本殿南面の彫刻。
DSCN9843s.jpg
 本殿東面(背面)の彫刻。
DSCN9842s.jpg
 本殿北面の彫刻。
IMGS9591s.jpg
 愛宕神社鳥居。
IMGS9593s.jpg
 愛宕神社。
DSCN9825s.jpg
 左の石祠二基はどちらも天神社。その右に浅間神社。それから天満宮・八龍神社・大杉神社・湯殿山神社・須賀神社・神明宮の末社殿。その奥には日露戦役軍馬徴発記念碑と石祠。

浅間神社(網戸)

IMGS9494s.jpg
 藤塚古墳頂に鎮座する……否、鎮座していた浅間神社(小山市網戸2729)。
 毘沙門山古墳前の案内板には消滅した古墳として田辺遺跡古墳(藤塚古墳)の名が記されていたが、それがここ。墳丘は残っているが、前方後円墳であるのかどうかは見た感じではわからない。
 駐車場は無いので、200m程南西にある藤塚公民館前に駐車。
IMGS9530s.jpg
 靖国鳥居と狛犬。
IMGS9511s.jpgIMGS9512s.jpg
 狛犬。
 頭部の破損が激しい。
IMGS9507s.jpgIMGS9508s.jpg
 上から見るとすさまじい抉れっぷり。
IMGS9539s.jpg
 それ以外の場所はきれいに残っているのにねぇ。
IMGS9532s.jpg
 そして鳥居をくぐると、社殿が……無い!
IMGS9533s.jpg
 端の方には崩れた石などが置かれているから、なんらかの理由で倒壊してしまったのだろう。やはり東日本大震災の影響だろうか。
 隣の神殿改築之碑には「大平山ノ東思川ノ西呼子ノ池ニ臨ミテ鎮座マシマス網戸淺間大神ハ古ヨリ其ノ名高ク靈験殊ニ顯著ニシテ廣ク万衆ヲ救ヒ給ヒ境内ノ靈泉ハ洽ク病症ヲ治シ今ニ及ンデ神威赫々タリ(以下略)」などとは記されているが、由緒等は記されていないので創建時期などは不明。また、栃木県神社誌にもこちらの神社の記述は無い。
IMGS9534s.jpgIMGS9540s.jpg
 小御岳石尊大権現と青面金剛。

白山神社(網戸)

IMGS9462s.jpg
 網戸中坪集会所の南側に鎮座する白山神社(小山市網戸)。

愛宕神社(網戸)

IMGS9458s.jpg
 栃木県道173号萩島白鳥線と県道160号和泉間々田線が交差する網戸大橋西交差点の南、追切公民館脇に鎮座する愛宕神社(小山市網戸)。
 手前の赤い祠は観音堂。
DSCN9811s.jpg
 八坂神社御祭礼と書かれた火袋が置かれているが、八坂神社が合祀されているのだろうか。
DSCN9813s.jpg
『愛宕神社由緒
 本社の祭神、火産霊神をいつ創祀したか■■■不詳であるがかつて当社は、東流する思川■■■にあって、西に氏子の屋並を睥睨し、これ■■■して鎮座していたが、大正五年四月、現地■■■した。
 そもそも愛宕神社はその性格としては「火の神」であるが、これはまた村境にあって、村落を守る社でもあった。
 佛教伝来後、神道と佛教とが習合し、仏(本地)が衆生を救うために、権に神の姿となって現われた(垂迹)とする考えが広まった。これによって、愛宕神社の本地仏は勝軍地蔵とされ、愛宕権現とも称されるようになった。
 この習合は、愛宕神社と地蔵尊が元来境界や大地に関係していると云う相似性によるものであるが、更に勝軍を冠するに到ったのは境の神、塞の神を塞地と呼ぶところからの転訛であるという。
 しかもこの勝軍という名によって中世武人の大なる崇敬の的ともなったのである。
 さて当愛宕神社は村境に鎮り良民の安寧を守って幾星霜、明治三十九年四月十日社殿は一新され遷宮にもよく耐えたが、この度老朽化を嘆く氏子一同の総意は、ここに新築の美を更に■わった。
 古来、当社の例祭は、十月二十四日である。
 昭和六十二年丁卯十月吉日』

 火袋の位置がもう少しずれていれば全文読み取れたのだけどなぁ。

網戸神社(網戸)

IMGS9386s.jpg
 曹洞宗長慶寺の東に鎮座する網戸神社(小山市網戸2025)。ちなみに「あみど」ではなく「あじと」と読む。
IMGS9387s.jpg
『網戸城跡
 網戸城は思川と巴波川を自然の砦とする面積約十・八ヘクタールの平城でした。
 築城は鎌倉時代(1185~1333)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒河尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。
 網戸氏は代々の城主を継承しましたが、南北朝(1336~92)の争乱で、重朝が奥州で討死にし、子の村重は結城合戦(1440~4)で敗れ、会津の葦名氏の家臣となり遂に廃城となりました。
 城址は大字網戸字追切・折本の両字にわたり、西城・中城・外城・御古座・陣屋、その他御城沼・しらじ沼と称する城囲堀などの地名が残っています。城址には網戸神社・旧網戸小学校跡・称念寺(寒河尼と朝村の墓所)があります』
IMGS9393s.jpg
『網戸神社由緒
 当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか未だ明らかではないが社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(806)十月二十八日である。
 醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが詳らかではない。
 天慶二年(939)、藤原秀郷卿は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。
 源頼朝も、文治三年(1187)、小山政光の妻、寒河尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。
 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。
 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政、文政にかけて社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。
 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。
 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。
 大正三年(1914)五月二十日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地千古の社より、旧城内に遷宮した。
 この年の八月十九日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高場の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等を共に境内神社とした。
 神事は、陰暦二月十五日(湯立)、六月十五日(八坂神社の祇園祭)、九月十三日(十三夜)及び陽暦十一月二十七日(八郷廻りの御出)、十二月二十三日(稲荷神社の冬至祭)である。
 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。
  天地のつきることなく緑なす
   このふるさとの神をしそおもう
 昭和五十九年甲子秋』

 栃木県神社誌には皇宮神社ではなく星宮神社と記載されているが、はて、どちらが正しいのだろう。皇と星は文字の形が似ているから、どちらかが読み間違えているのだろうと思うが、この辺りには星宮神社が少なくないので皇宮神社より星宮神社の方が有り得るように思える。しかし本殿脇の境内社には皇宮神社の名が記されているので、やはり皇宮神社なのかなぁ。小山市には橿原神社があるから、御祭神を同じく神日本磐余彦命とする皇宮神社があってもおかしくはないけれど。
IMGS9449s.jpg
 拝殿。
IMGS9447s.jpgIMGS9446s.jpg
 狛犬。
IMGS9400s.jpgIMGS9401s.jpg
 狛犬。
IMGS9433s.jpgIMGS9436s.jpg
 狛犬。
IMGS9408s.jpg
 北向天満宮。
IMGS9406s.jpg
 左側の石祠は不明、天満宮。
 覆屋の中の石祠は左から三峯神社、千形神社、水神社、熊野神社。
IMGS9412s.jpg
 稲荷神社鳥居。
IMGS9413s.jpg
 稲荷神社。
IMGS9431s.jpgIMGS9429s.jpg
 八坂神社と奥瀬神社・皇宮神社。
IMGS9443s.jpg
 冨士浅間大神。

琴平神社(間々田)

IMGS9357s.jpg
 龍昌寺の南東、国道4号線小山バイパス脇に鎮座する琴平神社(小山市間々田1137)。
『主祭神 大物主命
 創立年月不詳。合社した浅間神社社殿に大同二(807)年鋳造の鰐口があったが、神仏分離により神鈴に掛け換えたとあえう。当社の西の思川は乙女河岸に続く川端で、荷上げするのにするのに適していたし、間々田宿の南にあたり、ここに当社を祀り、河川交通の安全を願ったのではないかと伝えられている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9360s.jpgIMGS9361s.jpg
 狛犬。
IMGS9366s.jpg
 三峯神社。
IMGS9373s.jpg
 4号線側から。
IMGS9377s.jpg
 歩道橋上から。

寝起不動尊(間々田)

IMGS9332s.jpg
 曹洞宗天恵山龍昌寺の境内に鎮座する寝起不動尊(小山市間々田1320)。
DSCN9767s.jpg
DSCN9765s.jpg
『寝起不動尊縁起
 当山の寝起不動明王は、むかし水戸場内龍江院に祀られてありましたが、元亀(1570~72)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に立たれた。然し和尚は老弱であり日毎に衰弱がひどく、当地に辿りつくと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには「この地こそ我が済度化縁の地なり、人々の秒難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と和尚は寝起され、思わず尊像をお拝すると疲労と病が一時に消えて杖も使わずに立ち上がれたという。そこで人々は寝起不動尊と呼んで、万難消滅、万福生来を祈願してお堂を建てて尊像をお祀りしたといわれる。それ以後三十三年を一期として御開帳祈願が行われている。現在のお堂は延享二年(1745)に建てられたものです』
 前回の御開帳は2007年9月29,30日だったそうで、とすると次の御開帳は2040年か。まだまだ先だねぇ。栃木県曹洞宗青年会公式サイトにその時の様子の記事があり、そちらから寝起不動尊の御姿を見ることができる。
DSCN9782s.jpg
 不動堂の南面破風の虹梁に黒鬼、北面に赤鬼の面が付いている。
IMGS9346s.jpg
 山門。
IMGS9349s.jpg
 内側から。
IMGS9344s.jpg
 鐘楼と宝篋印塔。
IMGS9338s.jpgIMGS9339s.jpg
 不動尊立像と十九夜塔。
 十九夜塔には几号(「不」のマーク)が付いており、以前は几号水準点を兼ねていたのだろう。
IMGS9341s.jpg
 青面金剛。
DSCN9781s.jpg
 龍昌寺本堂。
IMGS9335s.jpg
 中央右側の石柱には「大猷院殿贈正一位大相國公尊儀 徳川三代将軍家光公 霊棺御一泊之碑」と刻まれている。
DSCN9777s.jpg
『徳川三代将軍家光公(大猷院)は、慶安四年(1651)四月二十日示寂、上野寛永寺より同年四月二十四日、御霊棺奉行酒井讃岐守源忠勝以下数百名の行列により、御尊骸を日光山へ送葬途中四月二十六日等山に一夜御宿棺、四月二十八日日光山へ御到着になる。是故に御朱印七石を賜る』
DSCN9788s.jpg
 境内。

乙女不動尊(乙女一丁目)

IMGS9289s.jpg
 乙女かわらの里公園の北隣、真言宗豊山派御瀧山明王院泉龍寺境内に鎮座する乙女不動尊(小山市乙女1-25)。
IMGS9295s.jpg
 参道。
IMGS9318s.jpg
 不動堂。
 こちらの御本尊である不動明王像は秘仏であり、二十五年に一度御開帳されるとのことで、次回は2026年の予定であるそうだ。
IMGS9305s.jpgIMGS9302s.jpg
 何故かいる狛犬。
IMGS9310s.jpg
『乙女不動尊再建記念碑
 正徳四年(1714)泉龍寺中興の祖、淳元大和尚により不動堂は建立され近郷近在に多くの信仰を集めておりました。
 大聖不動明王(伝説によれば、日光中善寺湖中より発見されたと伝えられ、又は正慶二年(1333)の作か、南北朝時代北朝の年号)をおまつりしておりました由緒ある不動堂は平成七年(1995)八月十日落雷による火災にあいました。
 幸いにも住職により御本尊不動明王は無事搬出され、建物の貴重な文化的遺産である彫刻及び柱等は消失を免れることができました。
 再建に当たっては建設委員会を結成し、泉龍寺総代、世話人が当たり、町内会の協力を得ました。
 建築費の財源については、火災保険金及び壇信徒の浄財を勧募して充当致しました。
 建築は檀家の山中建築が請負、宮大工の生井建設と共同で施工され近郷にない立派な不動堂を再建することが出来ました』
DSCN9761s.jpg
 水掛不動尊。
DSCN9759s.jpg
『北関東三十六不動尊霊場第十三番札所
通称水掛け乙女不動尊
御水行場不動池に本尊秘宝大聖不動明王の御分身像を遷座し、旧跡文化の発祥地不動塚の岩清水の霊泉にて、水掛け不動尊のご身体を清めれば、家内安全・厄除災難・無病息災・ボケ防止一切の病苦を除去して招福を授かる功徳の霊験さり。只だ一心に念誦じ来れ必らず無明暗黒の中より大光明を発揮して心願成就す』
IMGS9330s.jpg
 西側から。
 ぐぬぬ、ハレ切りしてもゴーストが…・・・。
IMGS9320s.jpg
 泉龍寺本堂。
 泉龍寺の由緒などは公式サイトやWikipediaに書かれているのでそちらを参照。
IMGS9327s.jpg
 本堂の裏手に回ると雷電神社が鎮座している。
 こちらについては泉龍寺のサイトにも何も書かれていないのでググってみると、泉龍寺が移転して来る以前、当地には古墳があり、その墳頂に祀られていたのがこちらの雷電神社であるのだそうだ。
 しかし雷電神社があるのに落雷による火災をうけてしまうとは、なんとも皮肉な話だ。

愛宕神社(生良)

IMGS9276s.jpg
 先月参拝した水神社の北東に位置する田圃の中に鎮座する愛宕神社(小山市生良)。
 こちらは栃木県神社誌に記述が無く、詳細不明。
IMGS9263s.jpg
 鳥居。
IMGS9271s.jpg
 拝殿。
IMGS9270s.jpg
 末社。

IMGS9282s.jpg
 愛宕神社南西の道路脇に鎮座する青面金剛と庚申塔。
 青面金剛は延宝八年(1680)霜月、庚申塔は万延元庚申年(1860)十一月の造立。庚申塔は下部に「左 はさまだ 向 へや 右 あじと」と刻まれている。道標でもあったようだ。

神明宮(下生井)

IMGS9230s.jpg
 旧思川の北側、栃木県道174号南小林松原線の脇に位置する小谷城址に鎮座する神明宮(小山市下生井小谷1188)。
 駐車スペースはあると言えばあるが、狭い。なのでここから150m程北東に位置する、先月参拝した神明社前に駐車して、そこから徒歩で。
IMGS9238s.jpg
『小谷城址 小山市下生井
種 別   平城(館)
所在地   小山市下生井小谷一一八八
立地・形状 平地・楕円形
      東西四町五○間
      南北三町二○間
築城年代  十二世紀末(平安時代末期~鎌倉時代初期)

 小谷城は小山市の西南端標高十六メートルに位置し、西の赤麻草原、旧巴波川や旧思川を天然の塞とし、堀・土塁をめぐらした平城でした。西北面に、円形の緩やかな流れを持った高さ約三メートル、幅約一○メートルの土塁は整地後消滅し、郭内は田畑となっています。
 築城者は小谷三郎俊景で、後に小山政光が城主となり、居住したと伝えられています。南北朝時代(1336~92)には、小山一族網戸村重が生井八郎と称し、小山の支城の役割を担っていましたが、結城合戦(1440~41)に破れ、奥州に逃れました。
 その後、小山秀綱が再興し、大橋左京亮を城代としましたが、天正十八年(1590)小山城落城とともに廃城となりました』
IMGS9239s.jpg
 神明宮の社号標石の裏面には「小山秀綱公 小谷城 再興の砌 御祭神として伊勢皇大神宮より 勧請奉りました 神明宮である」と刻まれている。
IMGS9254s.jpg

中里神社(中里)

IMGS9209s.jpg
 栃木県道174号南小林松原線と栃木県道160号和泉間々田線が合流する中里交差点の北西、小山市立寒川小学校の南隣に鎮座する中里神社(小山市中里868)。
 三年前の参拝記録はこちら。先月28日にこちらにも参拝するつもりだったのだけど、小学校で運動会だかなんだかわからないけど何かやっていたようで、そのせいか境内にまで駐車されていたのでその時はパスしていた。
IMGS9205s.jpg
 案内板。三年前には設置されていなかったなコレ。
『中里神社 小山市中里
 主祭神は菟道稚郎子命で、野木神社(野木町野渡)を総社とし、旧寒川郡七郷巡りの神社の一つです。「明神様」と呼ばれ、親しまれています。
 本殿は一間社流れ造りで、ケヤキ材を素木のまま用い、屋根は板葺きです。
 向拝の正面に千鳥破風と軒唐破風が設けてあります。
 とくに、本社の特徴は装飾彫刻です。《壁面》には、昇り龍・下り龍・浦島太郎・養老の滝、魚採りの透かし彫・柱上部《木鼻》には唐獅子・獏の丸彫りが施されています。製作年代は嘉永二年(1849)で、作者は磯部儀兵衛隆信(栃木市大平町冨田)と伝えられ、昭和五十五年(1980)市の有形文化財に指定されました』

『天暦一○(956)年一一月子の日、菟道稚郎子命を勧請したという。明治四四(1911)年一月二六日、同所字雷電無格社雷電神社・同所字下番場無格社愛宕神社を合祀、許可。野木神社の御神霊が氏子地域を巡回した七郷巡りの一社である。本殿は嘉永二(1849)年の造営で、小山市指定有形文化財である』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9223s.jpg
 社殿。

白山神社(上泉)

IMGS9186s.jpg
 西に永野川が流れ、北に国道50号岩舟小山バイパスが通る、堀ノ内集会所の西隣に鎮座する白山神社(小山市上泉792-2)。
 以前参拝した時は鳥居は赤かったのだが、この三年半の間に塗り直されたようだ。ちなみに前回はこちら
『主祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
 創立は不詳である。当社は、上泉八四六に鎮座していたが、県営永野川改修工事のための用地となって、昭和八年(1933)四月一○日、同所八一六に遷徒した。しかし、その後また河川改修用地となり、昭和一七年(1942)七月、現在地に移した』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9190s.jpg
 本殿。
IMGS9197s.jpg
 稲荷神社。

 以上で9月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。K10DにFA50mm。Coolpix P7100。

宇治神社(小袋)

IMGS9165s.jpg
 獅子神社の少し西に鎮座する宇治神社(小山市小袋1059)。
 前回はこちら
IMGS9184s.jpg
『主祭神 菟道稚郎子命
 創立年月日不詳。野木神社の七郷巡りの一社である。建仁年間(1201~03)に始まったといわれる七郷巡りから推察し、同じ七郷巡りの鏡神社・中里神社・河原田神社・古御門神社が天暦一○~一一(956~57)年に創立されていることを考えれば、同時期ではないかと推察される。明治四○(1907)年五月三日熊野神社・愛宕神社・稲荷神社合祀許可』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9177s.jpgIMGS9180s.jpg
 昭和三年(1928)造立の狛犬。
IMGS9174s.jpg
 神輿庫。

獅子神社(井岡)

IMGS9151s.jpg
 井岡集落センター西側に隣接して鎮座する獅子神社(小山市井岡448)。
 前回はこちら
IMGS9154s.jpg
『主祭神 菟道稚郎子命
 創立年月日不詳。明治四一年(1908)一月二一日、星宮神社・愛宕神社・獅子神社を合祀の上、石尊神社の社名を獅子神社と改称した。野木神社の御神霊が氏子地域を巡回する七郷巡りの一社であり、戦前まで行なわれていたが、その後は行なわれていない。御神体の鏡は、四神四獣鏡で、小山市の文化財にしていされている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9156s.jpg
 末社。
IMGS9161s.jpg
 不動堂。

鏡神社(鏡)

IMGS9118s.jpg
 巴波川に架かる新泉橋の東側、ヤマザキショップのそばに鎮座する鏡神社(小山市鏡1045)。
 前回はこちら
IMGS9146s.jpg
 青面金剛。
IMGS9123s.jpg
 二の鳥居。
IMGS9129s.jpg
 鏡神社。瓦には「丸に隅立て四つ目紋」が付いている。
『主祭神 菟道稚郎子命
 天暦一○(956)年一一月子日の勧請。古来、石凝姥命の作である鏡を納めてある社で、のちに菟道稚郎子命を合祀し、日鏡明神といった。神社の南に鏡が池という池があって、この地の水を汲み出すと必ず雨が降ると信じられている。日照りが続くと、村人は総出で池の水を汲み出し降雨を祈った。小山七郷の一つである』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9144s.jpg
 雷電神社とその左右にも境内社。
IMGS9131s.jpg
『御祭神 素盞嗚尊
 御神体 竜神
 当社ハ建久二年二月下郷地方ノ豊作ヤ除災ノ守護神トシテ藤原秀郷公ニヨリ勧請建立サレタト伝イラレ部落東南六○○米ノ大木ノ繁ル広イ境内ニ祀ラレ人々ニ崇拝サレ以後政令ニヨリ慶応二年建立ノ石ノ鳥居御仮屋ト共ニ明治四十五年六月境内社トシテ鏡ケ池オ前ニシテ祀ラレ以後老杭ノタメ当所日高盛雄氏夫妻ニヨリ平成十四年午七月吉日新築奉納サレマシタ』
 前回参拝した時はこれが鏡神社の由緒かと思ったのだが、どうやらこれは雷電神社の方であるようだ。建久二年(1191)は天慶二年(939)の間違いかなー。そうじゃないと藤原秀郷と繋がらないし。
IMGS9133s.jpg
 瓦に太陽と波が彫られているが、何神社なのだろう。イメージ的には住吉神社とか八幡神社あたりなのだが。
IMGS9125s.jpg

白山神社(押切)

IMGS9111s.jpg
 星宮神社の北東に鎮座する白山神社(小山市押切)。
 駐車場が無いのは前回でわかっているので、押切集会所に車を置いたまま徒歩で。
IMGS9116s.jpg

星宮神社(押切)

IMGS9080s.jpg
 永野川の堤防北側、押切集会所裏に鎮座する星宮神社(小山市押切87)。前回はこちら
IMGS9088s.jpg
 拝殿。
『主祭神 香々背男命
 創立は不詳だが、元文三(1738)年四月六日、京都神祇官より正一位星宮大明神の称号を賜わる。明治初年、星宮神社と改め、同一○年村社に列せられた。河川改修のため、神社南の敷地が買収され、それに伴う入金で平成一一年一四年に神社鳥居・石垣・拝殿内の大修理などが行なわれた。境内には虚空蔵様が祀られている建物もある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9097s.jpgIMGS9098s.jpg
 狛犬。
IMGS9083s.jpg
 末社。
 左の石祠は■麻神社と刻まれている。一文字目が読み取り難いが、おそらく青麻神社だろう。青麻神社ならば祭神は天照大神・月読尊・天之御中主神であり、明治以前は大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩であったのだから、星宮神社の境内にあるのも納得できる。尤も、この石祠の背面には「大正十五年旧三月廿一日」と刻まれているので神仏分離後のものであるようだ。ちなみに大正十五年は1926年。
IMGS9091s.jpg
 末社殿。
 HDR誇張モードなどで撮る時は考えて撮らないとなんだか気持ちの悪い画になるなぁ。いっそCASIOのHDRアートくらいふっきれた絵作りにしてしまえばそれはそれで面白いのだが。ちなみに上の拝殿や下の虚空蔵菩薩堂などもHDR誇張で撮っている。
IMGS9093s.jpg
 虚空蔵菩薩堂。
IMGS9106s.jpgIMGS9108s.jpg
 末社。

胸形神社(寒川)

IMGS9070s.jpg
 巴波川決壊口祈念公園の北に鎮座する胸形神社(小山市寒川1730)。
 こちらもまた三年半ぶりの参拝。前回はこちら
IMGS9056s.jpg
『主祭神  田心姫命  市杵島姫命  多岐津比売命
 配 神  菅原道真公 菟道稚郎子命
 創立は不詳だが、延喜式神名帳に寒川郡二座阿房神社・胸形神社とあり、式内小社に列し、寒川郡の惣社となったが、中世以降衰微した。仁孝天皇の弘化元(1844)年九月、社殿が再建され、近郷三八ヶ村の総鎮守と崇められ、明治五年、郷社に列せられた。明治一四年(1881)九月、本殿を改造し、同四五年(1912)一月一二日、神饌幣帛料供進社になった。大正一二年(1923)、拝殿は火災に遭い、大正一三年再建され、現在に至っている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
 んー、境内にある再建記念碑には「再建八月剏工越十四年十月竣成」とあるから、大正十三年八月に着工、越えて大正十四年十月竣工ってことかな。
IMGS9061s.jpg
『胸形神社 小山市寒川一三七○番地
 当社は創建古く、九州の宗像大社より当地に勧請されたものといわれ、延喜式(927年制定)内の一社で格式の高い神社といわれています。祭神は田心姫命・市杵島姫命・多岐津姫命の三女神です。
 当社は古くから寒川郡の総社として住民の尊崇あつく、かつては神田も多く、社殿も宏荘でしたが、中世以降は衰微しました。風水害の被害も多く、その後再建され、弘化元年・明治一四年・大正一三年・昭和一六年と改築修復を重ね現在に至っています。
 合社されている天満宮の年初の縁日は「初天神」と称し、毎年一月の第四土曜日に華やかな祭りの行事があります。「花桶かつぎ」と称し、神輿の先導者として着飾った七歳の稚児が造花で飾った花桶をかつぎ奉仕するもので、多数の見物人に囲まれて村内をねり歩きます。(昭和四八年小山市指定民俗文化財)』
 この案内板は前回の時には設置されていなかったなぁ。しかし境内に設置されている案内板が所在地を間違っているのはどうしたものか。ここ寒川1370じゃなくて1730なのよね。
IMGS9066s.jpg
 巴波川堤防側から。

沖宮神社(迫間田)

IMGS9032s.jpg
 古御門神社から少し南東に向かうと沖宮神社(小山市迫間田555)が鎮座している。
 地図には沖神社と記されているが、栃木県神社誌には沖宮神社と記載されているので、こちらが正式な名称なのかも。そしてこれまたおよそ三年半ぶり。前回はこちら
IMGS9046s.jpg
『主祭神 天経津主命
 神亀元(724)年九月一九日、鎮座。寒川の胸形神社とも関係があり、境内には通称弁天様と呼ばれている厳島神社(市杵島姫命)が祀られている。地名を「沖」ということから九州の宗像神社の形態をまねて、奥の宮というとする伝承がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9038s.jpg
 厳島神社。

古御門神社(迫間田)

IMGS9025s.jpg
 栃木県道174号南小林松原線を挟んで巴波川決壊口祈念公園の東側に鎮座する古御門神社(小山市迫間田78)。
 こちらに参拝するのはおよそ三年半ぶりか。前回はこちら
IMGS9007s.jpg
 拝殿。
『主祭神 菟道稚郎子命
 天暦一一(957)年一一月子の日創立。鎌倉時代、野木神社の神領であった迫間田・寒川・中里・鏡・井岡・小袋・下河原田は、野木神社を親神として菟道稚郎子命を奉斎していた。建仁年間(1201~04)の創始という七郷巡りは、親神である野木神社の神が年に一度、娘神達の住む七郷を巡るものとする伝承がある。当社は末娘であり、オイデとオカエリの両方立ち寄るという』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS9021s.jpg
 斜めから。
IMGS9019s.jpg
 後ろから。
IMGS9014s.jpg
 不動堂と庚申塔。

八幡宮(下生井)

IMGS8908s.jpg
 下生井の八幡宮(小山市下生井581)。
 栃木県神社誌には妙見八幡という名前も記されており、妙見社との合祀社なのかとも思ったが、単にこちらの小字名が妙見だからであるようだ。
IMGS8913s.jpg
 参道。
『主祭神 誉田別命
 藤原秀郷が平将門を討つにあたり、山城国男山八幡宮へ祈願し、鎮定の功をなしたため、天慶四(941)年三月一五日に勧請した。その後、徳川幕府から社領二石の朱印、五反一三歩の除地を賜わった。明治四一年村社となり神饌幣帛料を供進された。八月一日に神幸祭が行なわれる。文政一一(1828)年奉納の力石がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS8919s.jpgIMGS8921s.jpg
 狛犬。
IMGS8952s.jpg
 拝殿。
IMGS8944s.jpg
 神輿庫と末社。
IMGS8951s.jpg
 末社。
DSCN9729s.jpg

神明社(上生井)

IMGS8849s.jpg
 上生井郵便局の南東300m程の位置に鎮座する神明社(小山市上生井1202)。
IMGS8857s.jpg
 恵比寿神像が置かれているが、何神社なのかは不明。
 台座には「別當大乗院建立施主想村中享保十六辛亥九月」と刻まれているので1731年の造立だとわかる。大乗院はすでに無く、現在の上生井公民館がその跡地であるようだ。
IMGS8880s.jpgIMGS8873s.jpg
 狛犬。
IMGS8888s.jpg
 稲荷神社。
 その左には金毘羅山大権現。側面に享和三癸亥年十一月と刻まれているので1803年の造立。
IMGS8897s.jpg
 拝殿。
『主祭神 大日孁貴命
 大同元(806)年一一月一五日、伊勢国より天照皇大神(大日孁貴命)を遷座したと伝えられる。その後の詳細は不明だが、正保年間(1644~48)に海老沼織部が住民にはかり、再び祠殿を造り、旧慣に復したといわれている。例祭は氏子四組の当番組が、準備から祭典・直会まで一切を行なう。通称、日の出祭りという』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 ぐぬぬぅ、すぐ近くに小谷城跡があり、そちらにも神社があったとは……。このエントリーを書きながら地図を見ていて気付いたわ○刀乙

愛宕神社(下生井)

IMGS8804s.jpg
 小山市立下生井小学校の西に鎮座する愛宕神社(小山市下生井1320)。
IMGS8807s.jpg
 拝殿。
『主祭神 軻遇突智命
 天慶四(941)年三月二四日、軻遇突智命を祀ると伝えるが、詳細不明。現在、氏子総代を中心として常に清浄が保たれている。近年、地域氏子の老人会、子供会にも祭礼への参加を促し、神社を中心にさまざまな行事を行っている。境内末社に津島神社(建速須佐之男命)・厳島神社(市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命)を祀る』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS8814s.jpgIMGS8816s.jpg
 末社と狛犬。
IMGS8818s.jpgIMGS8821s.jpg
 狛犬。
 台座には天保六年乙未(1835)三月と刻まれている。
IMGS8843s.jpg
 こちらが津島神社かな。
IMGS8833s.jpg
 厳島神社の鳥居。
IMGS8840s.jpg
 厳島神社左側の石祠には「■■生秋徳辨天」と刻まれている。
 厳島神社は大正六年(1917)三月、辨財天は昭和三年(1923)十一月一日。また鳥居は昭和四十二年(1967)十一月の建立。
IMGS8845s.jpg
 北側から。
DSCN9719s.jpg
 ふと空を見たら、気球が二つ飛んでいた。

白鳥八幡宮(白鳥)

IMGS8762s.jpg
 白鳥集落センター西隣に鎮座する白鳥八幡宮(小山市白鳥1274)。
IMGS8765s.jpg
『白鳥八幡宮古式祭礼(無形民俗文化財)
 毎年旧暦一月十一日に行われる古式豊かな祭礼で、地区の六つの組が一年交代でその執行に当っている。また県内でも数少ない頭屋制の名残りがうかがえる祭りでもある。
 祭りは、近くを流れる巴波川の通称アカップチでの深夜の若水汲みから始まる。その水で赤飯を炊き、神への供物とする。その後、日の出を合図に、供物を持った行列が、祭りの当番組の宿(頭屋)から八幡宮へ向けて出発するので「日の出祭り」とも呼ばれている。
 行列では、組の代表が神へ供える三つの膳をささげ持つが、このうちの一の膳、二の膳には赤飯と豆腐・鮒二匹、三の膳には甘酒と清酒が各一升と決まれられている。
 一行が神社に到着し、神事が行われた後、鳥居につるされた鬼の面を的に、ウツギの木で作った弓矢を用いて射弓(鬼面射弓)が行われる。これは鬼、すなわち悪霊を年の初めにあらかじめ神前で追い払うことによって、その年の悪霊の村への侵入をはばもうとする行事であるといわれている。
 指定年月日 昭和四十八年八月三十日
 所在地   小山市大字白鳥一二七四
 保存団体  白鳥八幡宮古式祭礼保存会』
IMGS8768s.jpg
 参道右手側に末社。何神社なのかは不明。
IMGS8772s.jpg
 拝殿。
『主祭神 誉田別命
 天文三(1534)年一月一一日創立。山城国男山八幡宮から勧請した。一説には、藤岡町部屋の八幡様の神像を村人達が巴波川に流したのを、アゲ(カ)ップチから引き上げて祀ったとも伝える。例祭を日の出祭りといい、氏子を六つの祭組に分け、当屋を中心に宵祭り・若水取り・三献の儀・練行列・鬼面射弓の神事・頭屋引き継ぎ式などの儀を行なう』(「栃木県神社誌」より抜粋)
IMGS8797s.jpg
『白鳥八幡宮と日の出祭り
 白鳥の八幡宮は部屋村と白鳥村の境を流れる巴波川その川に千五百三十四年寒い冬の深夜ホカイに入った御神体が流れついたそうです。当時、この神社のお祭りは三月の春祭、十月十五日の例祭、そして十一月二十三日の秋祭り、旧暦六月には神輿祭りがありました。
 八幡宮のお祭りでは、小山市の無形文化財に指定されている「日の出祭り」が特に有名で白鳥の誇れる伝統的なお祀りです。今からおよそ四百五十年前の十六世紀中頃から行われていたと言われている、古式ゆかしいお祭りです。
 その後、お祭りは毎年旧暦の一月十一日、今の暦では二月二十日頃に行われます。御神体を川岸から上げ神社に祭ったと言われている祭礼の当日の丑の刻(午前二時頃)ちょうちんと真新しい手桶を持って旧巴波川のアゲップチと呼ばれている場所に若水を汲みに行くのである。この若水を用いて男たちが赤飯を炊き神様にお供えしたといわれています。白鳥祭り組(祭り組は六組あります)の一の膳の祭主頭屋、二の膳(六年目に頭屋宿主になる人)三の膳(十二年目に頭屋宿主になる人)をささげもった人がウツギで作った弓で、大きな鬼面の的に矢を射ります。
 氏子総代三人祭り組一の膳、二の膳、三の膳の三人、白鳥区長及び協議員七人が清酒、甘酒、赤飯、キンピラゴボウ、エビ大根、ネギヌタ、いも汁を神様にお供えして一年の豊作と白鳥の皆様の健康をお祈り申し上げます』
IMGP4030s.jpgIMGP4032s.jpg
 狛犬。
IMGS8775s.jpg
 末社殿。
IMGS8784s.jpgIMGS8781s.jpg
 青面金剛。

正観世音堂(乙女)

IMGS8725s.jpg
 水神宮のすぐ北側、下川岸公民館脇に鎮座する正観世音堂(小山市乙女字下川岸)。
IMGS8754s.jpg
『一 御堂幕  一 御内陣幕  一 打敷  一 鏧布圑
抑も當観世音菩薩は今を距る四百二十余年の昔御奈良天皇御宇の工匠原佛子の作にかゝると稱し元友沼川岸に安置せられ靈験著く諸人の崇敬頗る厚かりしが大正二年思川改修の為大悲閣を當間々田下川岸に奉遷のことありしより茲に廿一周年を迎へたり依りて記念奉献品の事を発願し當所念佛講員一同昭和八年十二月より同九年四月に至る迄晴雨を論ぜず風雪を厭はず一心に托鉢を行ひ十方篤志の喜捨を仰ぎ茲に上記品目の奉献を行ひ併せて今月今日を以て記念の法會を執行し所願の成就するを得た
乃ち事の由を記して十方有縁善男善女と共に観世音菩薩の靈徳を賛仰し奉り子々孫々に至る迄永く勝益に浴せんことを祷り発願者一同に代り謹みて啓白す
昭和九年四月廿三日 下野國野木村満願寺第丗八世住職中原俊盛謹識』
 後奈良天皇の御世は大永六年(1526)~弘治三年(1557)だから、観世音菩薩像が造られたのは戦国時代か。
IMGS8728s.jpg
 斜めから。
IMGS8729s.jpg
 左から馬頭観音、青面金剛、十九夜念仏供養塔。
 馬頭観音は文化…何年だ? 干支が巳か酉なので、六年(1809)か十年(1813)。青面金剛は延宝八年庚申拾月とあるので1680年。十九夜塔は安永七戊戌年十月十九日とあるので1778年。
IMGS8739s.jpg
 青面金剛。
 宝永…何年だろう?
IMGS8740s.jpgIMGS8741s.jpg
 二十三夜塔。と言うことは上の石仏は勢至菩薩か。
IMGS8743s.jpgIMGS8745s.jpg
 十九夜塔。なので上の仏様は如意輪観音……って、ちょっと待て。なんだこれは。
 なぜ如意輪観音が刀を持っているのかとか、頭のぐにゃぐにゃっとしたものはなにかとか、スペインはボルハ市にある教会の例のあの壁画を思い出してしまったとかまぁ色々あるけど、なんだろうねコレ。
 側面には明治十七年甲申二月と刻まれているので1884年に造られたものであるようだが、こういうタイプの如意輪観音を見たのは初めてだ。キリシタン禁教令は明治六年に解かれているから、隠れ切支丹ということでもないだろうしなぁ。

 以上で9月21日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、50-150mm II。Coolpix P7100。

水神宮(乙女)

IMGS8708s.jpg
 御嶽神社の北東80m程、下川岸公民館のすぐ南側に鎮座する水神宮(小山市乙女字下川岸)。
 台輪鳥居の柱には二○一二年一月建立と刻まれている。
IMGS8721s.jpg
 拝殿。
 左奥は末社なのか神輿庫なのか。その間の石祠は浅間神社。「大日如来 光明真言 阿弥陀如来 弘法大師 大願成就」と刻まれた石碑や小御嶽磐長姫大神なども見える。
 それにしてもこの辺り一帯には水神宮だの大杉神社だの網戸神社だのとやたら水神が多いのだが、そんなに洪水が多かったのだろうかと思いググってみたら……あぁ、江戸時代になるまでは氾濫原だったのね。余談だけど、思川の名前の由来が面白いなぁ。胸形神社の主祭神である田心媛命にちなみ田心川と書かれたのが、いつしか思川となったと伝えられているとのことだが、田心媛の田と心が合体して思になったのか。

御嶽神社(乙女)

IMGS8705s.jpg
 小山市消防団第十分団三部前に鎮座する御嶽神社(小山市乙女字下川岸)。
『寺内萬吉翁謝恩碑
抑も我が日本は國常立尊初めて國土を開らき給ひしより天神七代地神五代を経て人皇神武天皇に至り爾来皇統連綿として二千五百八十餘年渝ることなく富士の高嶺のいや高く大瀛の水洋々八洲を環り常盤に堅磐に苔むすまても榮え行くこそ目出度き極みなれされは敬神尊祖の精神は千早振る神代の時より培かはれし處▲して世界に誇るへき我が國民性なり寺内萬吉翁は誠によく此國民性を發輝せる人なり翁は文久元年六月三日を以て下都賀郡野木村友沼河岸に生る考榮助妣志■翁は實に其長男▼り幼にして頴悟十三歳に至るまて漢學を修行し博覧強記にして往々世人を巻舌せしめたりき十五六歳の頃に至りて両眼眊み視力次第に衰ふ一兩年を經て一層甚だし茲に於て翁は平常持する處の信仰心を振ひ起し神の靈験に依り自己の悩みを脱せんと欲し上都賀郡永野村御嶽山に上りて修行すること數年常人のよく成し能はさる七瀬の川▲水垢離を執り更らに木曽御嶽の本山に至り殉教的忍苦奮闘をなしたる結果遂に靈験を得て御嶽行者となる歸来翁は友進講を開らき祖先の遺産を守りつつ東奔西走能く其靈験を説き孜々●して社會を教導す地方の信徒本縣を初め茨城埼玉群馬の諸縣に及び一千餘人に達すと昭和三年十一月官は翁▲中司典を授く翁斯道に身を奉してより實に五十年其世を善化せしめ民を救濟せるの功績は誠に偉大なりと云ふへし恰も好し今秋聖上陛下御即位の大禮を擧げさせらるるに當り謹んでこれを記念し奉ると共に信徒一同は翁の為めに謝恩碑を建立せんとし文を余に嘱す即ち翁か経歴を記して後卋に傳ふと云爾
昭和三年十一月十日』
 記号部分はなんと読むのかわからない部分。
 ▲は「ふ」のようにも「子」のようにも「み」の左半分だけのようにも見えるのだが、それでは文として繋がらない。「に」なら繋がるのだが、きちんとした文字で「に」と記されている部分は他にもあるのでどうにもわからない。
 ■は「胞」のようにも「肜」のようにも見えるが、ここだけ妙に崩した感じの字になっているのが不可解。
 ▼は▲と似ているようにも見えるが、むしろ「ろ」の左右に「丶」が付いているような感じだ。
 ●は妙に崩れた「そ」のようにも見えるが、文の流れとしては「と」なんだろうなぁ。でもきちんとした文字で記されている「と」もあるしなぁ。
IMGS8696s.jpg
 末社。
 石祠は不明。右の石碑には「蛙息圴御主神 大正五年五月吉日」と刻まれているのだが、蛙息圴御主神ってなによ?
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード