八幡神社(塩)

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 埼玉県道11号熊谷小川秩父線の脇、塩集会所西側に鎮座する八幡神社(熊谷市塩142-1)。
「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、当初は八幡沢に鎮座しており、大永二年(1522)に本殿を再建し、慶長十三年(1608)に現在地に遷座。その後天明二年(1782)に本殿を再建し覆屋を新築した。八幡沢は現在地の南700m程の位置であるそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 大黒天。
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 末社殿。
 額等は無いので何神社が祀られているのかはわからなかったが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によれば大黒天、三峰神社二社、山王神社、八坂神社、大歯神社、稲荷神社二社、琴平神社、天之手長男神社、山之神社、天満社が祀られているようだ。
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弁天神社(須賀広)

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 大沼の中に浮ぶ弁天島に鎮座する弁天神社(熊谷市須賀広)。
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 対岸から鳥居。
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 大沼の北側に弁天橋が架かり、弁天島と繋がっている。
 駐車禁止の看板が設置されているが、道端には車が何台も並んでいた。ちなみに駐車場は大沼の南側にある。
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 鳥居。
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 弁天神社。
 大棟にはとぐろを巻いた蛇のレリーフが見える。
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『埼玉県指定文化財 嘉禄三年銘板石塔婆(復元品)
 この板石塔婆はその創建当所の姿を新たに復元したもので、原資料は日本最古の遺例です。復元には原資料の計測値を参考にし、高さ一六○cm・上幅六○cm・下幅六三cm・厚さ十二cmとしました。これは、当時の尺度で五三寸・二○寸・四寸に相当します。
 画像は阿弥陀三尊像を宝珠状の光背に彫凹めて中央に主尊を陽刻し、左右対称の位置に脇時を主尊同様陽刻しました。三尊像は、浄土信仰に基づく来迎像を表わします。主尊は頭光と身光を彫凹め、その中央蓮座上に結跏趺坐する阿弥陀如来をふくよかな半肉彫に仕上げ、両手は胸の位置で転法輪印の印相を結びます。
 両脇に並ぶ仏は、左手に合掌した勢至菩薩・右に蓮実を抱いた観音菩薩で如来と同様半肉彫です。両菩薩とも礼拝者に対面するように中心寄に体を傾け蓮座上に膝を屈めた来迎姿勢で立ます。光背は三尊とも独立した三光背式で、脇時の光背は正しく左右対称となっています。

 銘文は、陰刻で偈頌と紀年銘からなり次のような意味をもっています。
  諸教諸讃(もろもろの経典のたたえる仏は)
  多在弥陀(ほとんど阿弥陀如来のことです。)
  故以西方(ゆえに如来のおられる西方浄土を)
  而為一准(礼拝のめやすとするのです。)
 紀年銘は風化が進み、不鮮明ですが次のように判読できます。
          太歳 二十
  嘉禄三年 六月       (一二二七年 六月二十二日 亥歳)
          丁亥 二日

 嘉禄時代までの半世紀は、源氏平氏の戦いに始じまり畠山重忠を筆頭に武蔵武士の興亡がめまぐるしく、鎌倉幕府は源氏三代の将軍から北条氏の支配へ固められた激動の時期でした。兵乱や政情不安定による国内不安に加え、嘉禄前後は全国的な飢饉が度々起こりました。わずか十年程の間に「貞応・元仁・嘉禄・安貞・寛喜・貞永」と次々と元号が改められています。
 当時、江南町は武蔵国男衾郡に当たり畠山氏父祖以来の本拠地と考えられています。元久二年(一二○五)畠山重忠が謀殺され、畠山氏の一族郎党達はことごとく滅ぼされました。領地は重忠夫人の領地を除きすべて没収されましたが畠山の家名は残されました。一説に、嘉禄三年は重忠の二十三回忌に当ることから、畠山氏ゆかりの者達が重忠と一族の供養のためこの板石塔婆を建てたとする推測があります。しかし、なお多くの謎を秘めたままです。
 平成 二年 六月』
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 嘉禄三年銘板石塔婆のレプリカ。
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九頭龍権現(押切)

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 持田稲荷神社の西北330m程、墓地の端に鎮座する九頭龍権現(熊谷市押切)。
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 右側面には天保十己亥年二月吉日建之と刻まれているので、1839年のもの。
 ここから250m程も北上すれば荒川が流れている。洪水除けの祈願の為に建てられたものなのだろうか。
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 墓地の入口手前に鎮座する稲荷大明神。

持田稲荷神社(押切)

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 下押切公園の南側、下押切集会所の隣に鎮座する持田稲荷神社(熊谷市押切313-3)。
 ググってみると、押切村の名主の一つである持田家の祀る稲荷社であったが、明治四十三年(1910)の荒川の洪水によって流失し、現在地へと遷座したのだそうだ。
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 お狐さまと社殿。
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 参道右側には安永七戊戌年正月(1778)造立の庚申塔。左側には……なんだろうこれ。

稲荷神社(押切)

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 冨士嶽神社の南西80m程、公園端に鎮座する稲荷大明神(熊谷市押切)。
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 公園入口脇がこんもりと盛り上がっているので古墳かとも思ったのだが、違うようだ。
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 そして西へ100m程歩くと、道端に祠が建てられている(熊谷市押切)。
 何神社なのかは不明だが、小さな陶器の狐が並んでいるので、こちらも稲荷社なのかも知れない。

三峯神社(押切)

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 冨士嶽神社から東へ100m程歩くと、三峯様と書かれた額の掛かった鳥居が見えて来る(熊谷市押切)。
「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の八幡若宮八幡神社の頁には、上押切地内に結成されている講には手長講、榛名講、石尊講、三峰講があると書かれているので、こちらは三峰講で祀られている三峯社なのだろう。
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 二の鳥居。
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 三の鳥居と三峯社。
 不思議とこれより先に進む気になれなかったので、ここで礼拝。
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 東側の畑との境に鎮座する地蔵尊と水神宮、天神宮。

冨士嶽神社(押切)

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 八幡若宮八幡神社から東へ250m程歩いて行くと、御正吉見堰幹線用水路脇に冨士嶽神社(熊谷市押切700)が鎮座している。
 尤も、その左側の双体道祖神ばかりが知られていて、冨士嶽神社の方は忘れられがちであるようなのだが。
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 冨士嶽神社。
 右側に明治元戊辰年十二月十五日とあるので1869年に建てられたものとわかるのだが、左はちょっと読み取り難い。二品太畢勆斌仁親王のように見えたが、誰だよそれ。で、少し検索をかけてみたところ、有栖川宮熾仁親王が嘉永二年(1849)に大宰帥に任命され、慶応三年(1867)に二品に昇叙しているので、二品太宰帥熾仁親王と読むのが正解かな。
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 双体道祖神と聖観音。
 双体道祖神は全高76cm、全幅27.5cmで寛政十年八月十一日銘があるそうなのだが、聖観音についての記述はあまり見当たらない。
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『江南町指定文化財 寛政銘双体道祖神像
所 在 地  江南町大字押切七○○ 
所 有 者  押切区
指定年月日  平成九年一月二○日
 双体道祖神は野の石仏の中では異色で、白日下男女が愛情を表現するという双像に造られる。
 道祖神は日本古来の邪悪をさえぎる塞神と中国渡来の道祖神信仰との習合で道陸神(どうろくじん)やサイノカミと呼ばれ、村境や峠、辻、橋のたもとに立って外から入ってくる疫病や悪霊のたぐいを防ぎ、村人を守ってきた。
 押切の双体道祖神はドウロクジンサマと呼ばれており、足の神様としての信仰がみられ、足の病気になると大きなわらじをつくって奉納している。
 民俗の伝承という観点から見ても興味深く、町内唯一の資料として貴重である』


八幡若宮八幡神社(押切)

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 荒川に架かる押切橋南詰下に鎮座する八幡若宮八幡神社(熊谷市押切1056-1)。

『当社は、文政十年(1827)まで、現在地から北西一キロメートルのところの荒川河岸(現荒川河川内)に鎮座していた。「押切の四角の森」と呼ばれた社地は、樹齢数百年を経た老杉が林立していたことから、旅人が釜伏峠から眺めると、必ず目に止まったという。四角の森というのは、遠望した折の森の形を形容したものである。しかし、この森も、文化六年(1809)の水害で一部水没、更に、文政七年(1824)、次いで文政十年の洪水で流失した。本殿のみは、難を逃れて近くの用水の側(元八幡)に仮遷座していたが、文政十二年、当社をそのまま放置するのを憂えた村人は、祭祀を永続すべき地を現在地に定め、遷座した。
 創建は、水害で史料を失い明らかではないが、口碑に、当地を領した武将が戦勝を祈願し、その報賽で社殿を建立したと伝えている。
 社名は、長く「八幡社」であったが、明治初年廃寺となった本山派修験、御正山東陽寺若宮坊の境内にあった「若宮権現社」を明治五年に合祀して、「八幡若宮八幡神社」と改めた。若宮権現社は「風土記稿」によると、天平勝宝三年(751)の創建を伝える古社である。
 祀職は、当地累代の篠田和義家が務める。同家は、宝暦十年(1760)の四組木綿手繦(よくみゆうだすき)許状をはじめとする江戸期の神道裁許状を六点所蔵している』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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『八幡若宮八幡神社
 所在地 熊谷市押切
 村社八幡若宮八幡神社は、明治初年まで八幡宮と称したが、明治五年上押切御正山若宮坊東陽寺の氏神若宮八幡社の祭神仁徳天皇を移転合祀し、同時に現在の名称にされた。
 祭神は誉田別命、御神体は明治初年まで誉田別命の乗馬の像だったが、合祀の際これを徹し御幣とした。なお、大正四年、大嘗祭記念として鏡を御神体として奉斎した。末社には、主神の神明宮ほか一社がある。
 本社の創立年代は不詳である。当社は、文化六年(1809)、同七年文政十年(1827)と度々の大洪水で流失したため、用水堀のほとり(元八幡)に仮本殿をつくり、文政十二年に現在地に遷座した。
 新年祭は二月十九日、感謝祭は十二月一日、大祭は十月十五日で、大祭当日は「ササラ獅子舞」が奉納される。
 平成十一年十二月』
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 拝殿。
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 拝殿前の狛犬。
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 横から。
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 外側の狛犬。
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 神明社・稲荷社・戸隠社合殿。
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 神明大神宮。
 側面には「萬延元庚申年四月吉日」「武刕大里郡 世話人 上押切中 東陽寺持」と刻まれている。ちなみに万延元年は1860年。
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 社殿裏にはマムシ注意の貼り紙が。マムシの活動時期は四月から十月頃であるそうなので、今は注意した方が良い。

明道寺(川原明戸)

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 諏訪神社に隣接する浄土宗川原山善樹院明道寺(熊谷市川原明戸182)。
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 由緒書き。
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 本堂。
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 機織地蔵堂。
 その左の小祠は馬頭観世音。
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 機織地蔵。右手には杼を持っている。
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『明道寺墓地改修記念碑
 抑此の地は鎌倉時代の初期武蔵七党の私市党に属する川原太郎高直が居住した所と言い伝へられる。当寺は鴻巣の浄土宗檀林勝願寺の末寺で川原山善樹院と号す。草創は室町時代の応永の頃、開山行満上人に開基上田和泉守が帰依し創建した580年程の歴史を有し、諸精霊の眠る静寂なる楽土であった。
本年は浄土宗第二祖鎮西第三祖良忠知恩院源智三上人の750回御遠忌正当の年であり、当山も記念事業として祖恩報徳の為壇信徒の敬佛崇祖の念願により墓地改修整備事業を発願す、今度熊谷西部土地改良事業実施により農地659㎡を墓地用地転用旧墓地に併合2,100㎡に設定し末永く墓所の清掃美化に努め願わくば子孫繁栄、地区安穏の御加護を給わらん事を乞い誌を録し後世に伝へんとす。
  昭和六十二年十月二十五日』

諏訪神社(川原明戸)

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 明戸八幡神社の東600m程、浄土宗川河原山善樹院明道寺に隣接して鎮座する諏訪神社(熊谷市川原明戸177)。
 由緒を記した物としては合祀無償譲与記念碑があったのだが、読み取るのが難しい為いつものようにググル先生で検索してみると、こちらの諏訪神社は南東1.2km程に位置する上新田諏訪神社熊谷市上新田227)と対になる神社で、上新田を男諏訪と呼び狩猟の神と崇め、こちらを女諏訪と呼び機織の神と崇めているのだそうだ。とすると、こちらの御祭神は八坂刀売神であろうかと思ったのだが、どうやら建御名方命であるようだ。
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 鳥居。
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 狛犬。
 台座には「第61回伊勢神宮式年遷宮記念 皇太子殿下御成婚記念 平成5年10月15日 氏子一同」と刻まれている。
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 拝殿。
 鬼瓦には「川」の文字があるが、川原明戸の「川」なのだろうか。
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 正面の木鼻には龍の彫刻。向拝虹梁にも龍の彫刻有り。
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 天手長男神社。
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 額は二つ掛けられており、一つには「稲荷神社・八幡社・宇賀神社・天神社・御嶽神社」、もう一つには「頭殿神社」と書かれている。中には朱塗りの祠が納められ、小さな狐の置物も並んでいた。
 脇から裏手に回ると石祠があり、社名は記されていないが稲荷社であろうか。或いはこちらが頭殿神社なのか。
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 多宝塔かな、と思ったら御神燈と刻まれていた。

八幡神社(三ヶ尻)

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 熊谷市立三尻小学校の北隣に鎮座する三ヶ尻八幡神社(熊谷市三ケ尻2924)。
 一の鳥居は埼玉県道47号深谷東松山線に面して、熊谷市三尻公民館脇に建てられている。鳥居の傍に建てられた案内板は文字が薄れて読み難いが、主祭神は誉田別命、相殿に大日孁貴命と菅原道真公が祀られているとのこと。
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 二の鳥居。
 こちらの北側に八幡神社の駐車場と靖国社がある。虫除けスプレーをしていたので蚊に刺されることはなかったのだが、車の乗り降りの際に蚊が入って来るのが鬱陶しい。とても鬱陶しい。
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 三の鳥居。
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 位置を変えて。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には新社殿竣工記念 平成十二年四月吉日とある。
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 背中。
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 狛犬のそばには祓戸大神。
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 本殿。
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『再建之碑
 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は 第七十代後冷泉天皇の御宇天喜四年 鎮守府将軍源頼義
義家父子奥州出陣の砌 当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに遡る 寿
永二年 後の征夷大将軍源頼朝 当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若
宮御領として寄進されてより 当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤
く 更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである
寛永六年には時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し 八幡型大鳥居一基
と鷹絵額五枚を献上している 天保年間 三河田原藩家老華山渡邊登 故
あって当地に滞在し著した訪瓺録は 当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の
本殿の威容を記し 往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである
下って昭和二十年 郷社列格の栄に浴し 昭和六十三年 嘗て華山も紹介
した明和五年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された
 かくして氏子はもとより 近郷近在からの崇敬弥増し 神威は益々高ま
った 平成四年には 由緒深き本殿の尊厳を維持するべく 覆殿改築に着
手 工事は順調に進捗していた ところが同年十月二十日夜半 当然原因
不明の火災に遭い 完成を目前とした覆殿はもとより 本殿以下全ての社
殿を焼失するところとなった まさに青天の霹靂 関係者は茫然と自失す
るばかりであった しかし 一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結
集し 八幡神社御社殿復興準備委員会を結成 計画の立案にとりかかった
平成六年には 予て要望していた第六十一回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤
去古材譲与も聞き届けられるところとなり 約五十六石の檜材が平成六年
七月の佳日を卜し遥か伊勢路より搬送された また 本社鶴岡八幡宮には
物心両面に亙る支援を忝うし 社殿再建への気運はいやが上にも加速した
平成七年 八幡神社御社殿復興奉賛会を設立 伏して広く浄財を募ったと
ころ 赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り 遂に平成十年五月十
五日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった 幸いにも本社との御神縁
により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し 加えて地元建築業者
の協力を仰ぎつつ 本殿・拝殿・透塀の改築につき 懸案の境内整備事業
も完了した 時恰も皇紀二六六○年 御祭神応神天皇御降誕一八○○年の
佳年であった
 社殿完成により早一年 新緑目にしみる神域に思いを新たにし いささ
か慶事の経緯にふれその概略を石に刻し 併せて赤誠を捧げし各位の芳名
を後昆へ伝えんとする次第である
   平成十三年十二月吉日 八幡神社宮司 篠田宣久謹撰』
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『無償譲與記念
指令社第一一、一三○号
 埼玉縣大里郡三尻村大字三ヶ尻字八幡二九二四 八幡神社
 昭和二十六年三月十四日許可 坪数二四八三坪 立木共
  
指令社第三四六号
 仝縣仝郡仝村仝字社裏六七一 田中神社
 昭和二十三年十月二十日許可 坪数一一七坪 立木共

右神社境内及立木は国有財産法に依り曩に上地せしが今回大蔵大臣の指令に依り実地測量を了し無償譲與許可申請の処八幡神社境内より有償譲與百七拾五坪を除き右の通り許可を得たるは氏子一同の喜びにて永久に追憶記念せんと刻して之を江湖に傳ふ』

『新營■記           権田健長撰文
武之三尻邨有八幡大神祠是邨之生社也里人處事之正
長年間草創之来物換星移社頭頽壊宮司播磨常憂之今
茲里人周勝房豊長等五人相謀壇遺四面為■高貮尺許
衆亦舉奔貨而助其費不日成之條然改観神威益赫於是
播磨大喜曰吾望是矣願記此㓛鐫之于石以備不朽竟謀
之余故余記其概旦賦一詩以代銘其詩曰
  祠頭来謁起威風 東帯儼携箭與弓
  ■就千秋長不朽 㓛畱一片碣辭中
慶應二丙寅年孟夏        権田正賢書』
 ■は「石」偏に「巣」旁。Unicode:25558。
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 御嶽神社の前に建てられた鳥居。
 位置的には御嶽神社の鳥居とも、或いはその他の境内社全体の鳥居とも思えるが、どうなのだろう。
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 御嶽神社。
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 その傍らに三霊神と小御岳石尊大権現。
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 末社殿。
 左から「林 稲荷神社」「上野 愛宕神社」「古家 天神社」「馬場 諏訪神社」「馬場 天手長男神社」「森 坂下 林 久保 天手長男神社」「八幡 雷電神社」「上宿 八坂神社」「宮嶋 赤城神社」「中宿 八坂神社」「橋下 稲荷神社」「城下 八坂神社」が祀られている。
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 浅間神社と琴平神社。
 浅間神社に掛けられた額は、えーと……何宮って書いてあるんだろう? 浅間や仙元のようには見えないが。
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 冨士嶽大神と地神碑。
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 神武天皇遥拝所。
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 三尻村靖国社
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『八幡太郎義家公駒留の杉
 一○五六年奥州争乱(前九年の役)鎮定の砌 源義家公がこの杉に愛馬をつなぎ無事を祈願したといわれている』
 杉の根本に座する石祠は諏訪社と稲荷社。
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 裏参道の鳥居。

神明神社(妻沼小島)

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 小島公民館の隣に鎮座する神明神社(熊谷市妻沼小島2358)。
 社号標石は利根川の北を走る群馬・埼玉県道301号妻沼小島太田線に面して建てられている。小島公民館は道路から引っ込んだ位置にある為、301号線からはわかり難く、参道入口脇に建てられた熊谷市消防団小島分団の建物がいい目印になる。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 昭和三十六年(1961)三月造立の狛犬。
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『神明本社改造拝殿建築趣意書
村社神明社は天照大御神春日大神の御二柱を始め數社を合祀し奉りたる鎮守に
して該春日大神は元弘三年新田義貞公鎌倉北條氏討伐に際し脇屋義助當小島に
本陣を構へ祭りて以て戰勝を祈願したりと傳ふ爾来郷人の崇敬最も篤く神威四
方に赫赫たり明治四十二年本社拜殿等建築の工を起し略竣成したりしか翌年未曾
有の大洪水の為拜殿其他の設備は倒潰流失の惨害に罹りたり蓋し當所の地形其
前後に河川を控へ濁流奔騰の激甚中に在りしを以てなり然かも一人の死傷無く
又民家の流失するものなかりしは是偏へに神明社の御加護に依るものとして感
銘措く能はさる所郷人語つて曰く社殿の復興一日も忽諸にすへからすと然れと
も連年水禍の至れるあり區民の疲弊困憊甚しく再興の計畫容易に成らす神靈に
對し奉りて恐懼の極なりとせり現時社會の状勢は國體觀念の明微國民精神の作
興を緊急要務とするに至り之か實現を期するには敬神崇祖の根本觀念を培養す
るを以て最も捷徑なりとす是に於て社掌氏子一體となり本社改造並拝殿建築の
計畫を樹立して昭和十年四月工事に著手し年を閲すること三回今茲十五年四月
に至り甫めて其工を終へたり殿宇清明にして尊嚴神徳愈高く氏子の崇敬益深し
真に郷土の盛事にして國體の明微民心の作興に資する大なるものあるへきを信
す茲に聖圖を石に勒むに當り齋戒して敬仰の情を舒へ神威の餘徳を永く後昆に
傳へんとす乃ち誠恐誠惶して誌す
    紀元二千六百年聖戰第四年四月
                 衆議院議員石坂養平篆額撰並書』
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 祠の中には御神輿が収められている。
 神輿の屋根部分に「水」の文字があるので、もしかしたら水神社なのかも知れない。
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 末社。
 何神社なのかはわからないが、側面には安政六己未年の文字が見えるので1859年の造立。右奥の石碑には猿田彦大神と刻まれている。
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 以上で6月13日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。X30。

白髪神社(妻沼)

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 埼玉県道341号線脇に位置する瑞林寺の向かい側に、延喜式内白髪神社・高岡稲荷神社入口と刻まれた標石が建てられている。
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 標石からまっすぐ進むと突き当たりに白髪神社が見える。駐車場は無いので、車は大我井神社の駐車場に置いたまま徒歩で。
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 鳥居左側の注連柱に高岡稲荷神社、右側に式内白髪神社と刻まれている。
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 庚申塔。
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 拝殿。
 由緒書き等が見当たらないのでググってみると、こちらの御祭神は白髮大倭根子命(清寧天皇)で、配祀神に猿田彦命と天鈿女命、倉稲魂命。そして須佐男之命が合祀されているのだそうだ。また、式内白髪神社の論社とされているが、元々は高岡稲荷神社であり、そこに聖天宮から白髪神社を移し併祀したのではないかとする説もあるようだ。
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 末社。
 右側の石祠には水の文字が見えるので水神宮だろう。水天宮の可能性もあるが、水の下がネの一部のように見えるので水神宮じゃないかなぁ。
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 社殿裏の祠。
 中には小さな恵比寿神・大黒天尊像と陶製の小さなお狐さまが置かれているだけだった。

 以上で11月2日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA18-55mm WR。
 さて、なぜ平日に参拝していたかと言うと、実は先月末に右手の示指と中指を少々派手に怪我してしまい、現在休業中だからだったりする。しばらく写真は撮れそうにないなと思っていたのだが、なんとなくカメラを持ってみたら、あれ、薬指でレリーズできるぞと気付き、偶々妻沼に用があったのでそのついでに参拝もしてみたと言う訳で。
 しかし、示指と中指抜きでマウスを使うのは少々しんどいな。残りの指が攣りそう。

大我井神社(妻沼)

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 埼玉県道341号線と59号線が合流する聖天山前交差点の少し北側に大我井神社入口と記された標石があり、そこを東へ入って行くと大我井神社前に到着する。神社脇に駐車場有。
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『武州妻沼郷大我井神社
 大我井神社は遠く神皇第十二代景行天皇の御代日本武尊東征の折り、当地に軍糧豊作祈願に二柱の大神、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀った由緒深い社です。
 古くは聖天宮と合祀され、地域の人々から深い信仰を受けてきた明治維新の神仏分離令により、明治二年、古歌「紅葉ちる大我井の杜の夕たすき又目にかかる山のはもなし」(藤原光俊の歌・神社入口の碑)にも詠まれた現在の地「大我井の杜」に社殿を造営御遷座しました。その後、明治四十年勅令により、村社の指定を受け妻沼村の総鎮守となり、大我井の杜と共に、地域の人々に護持され親しまれています。
 なかでも摂社となる冨士浅間神社の「火祭り」は県内でも数少ない祭りで大我井神社とともに人々の家内安全や五穀豊穣を願う伝統行事として今日まで受け継がれています』

 ググってみると、こちらの神社には伊邪那岐命・伊邪那美命の他に大己貴命が配祀されており、他にも倉稲魂命、誉田別命、天照皇大神、速玉男命、事解男命、天穂日命、石凝姥命、菅原道真公が合祀されているのだそうだ。他にも式内社白髪神社や式内社楡山神社の論社ともされており、また古くは二柱神社と称していたそうだが、その辺りのことは案内板には記されていない。
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 神社入口脇の歌碑。
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 参道の左右に門守神。
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『福石由来坐碑
敬神尊王帝国大典亦我国民通社也故古今不乏
其事蹟盖福石玉垣造營其一事也謹接乏由来當
天明二年関東大洪水山霊流下巨石丂停字森下
地先人々感尊奇蹟祀神称福石神社爾来霊験不
浅廡民仰其徳故官下論告合祀村社大我井神社
是實明治四十二年十月也??然神付臣石徳在
神庭森下荒井氏子寄竊??神慮佛今上陛下行
給即位大禮展大掌大義哉其孝奉祝?不能??
諮畫福石玉垣造營以為永久不滅祈念????
可謂教神尊王兩行今竣工茲記其概要以傳??
云爾時大正四年星次乙卯十一月也』

 天明二年(1782)の洪水で流れてきた石を祀り、福石神社と称して崇めていたが明治四十二年(1909)十月に大我井神社に合祀した、かな。
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 唐門。
 門の柱には由来を記した板が打ち付けられており、それには次のように記されている。
『大我井神社唐門の由来
 当唐門は明和七年(1770)若宮八幡社の正門として建立された。明治四十二年十月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正二年十月村社の西門として移転したのであるが爾来四十有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して全く面目を一新した。
 時に昭和三十年十月吉晨なり』
 瓦には笹竜胆紋が見えるが、すると源氏所縁と言うことだろうか。元は若宮八幡社の門であったのだから、まぁ、おかしくはないな。
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 拝殿。
 右側に見える石碑は神社修理竣工記念碑。平成十一年四月に着工し、本殿、拝殿、幣殿、末社、瑞垣、中門、水舎、社務所の全てを改修。翌十二年十一月二十一日に竣工祭を奉斎して完工とある。
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 社殿。斜めから。
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 本殿、幣殿、瑞垣。
 鰹木には右三つ巴紋が見える。
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 富士塚。
 石段脇には角行霊神や身禄霊神、小御嶽大神、冨士浅間大神などが並び、塚頂にも冨士浅間大神。
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 西の鳥居。
 鳥居のそばには高尾山、伊奈利大神、冨士嶽、浅間大神、浅間大神、冨士嶽大神。右端には正面に「是より西 摩多利神道」、側面に「従是北 御社領」と記された標石がある。そう言えば、大我井神社から西に向かい、国道407号線を越えるとわりとすぐに摩多利神社があったっけ。
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 与謝蕪村の歌碑を中心に、妻沼町俳句連盟の歌碑が並んでいる。
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 庚申塔。

伊勢神宮(八ツ口)

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 今年の二月頭頃にもこちらの神社を探し、その時は見つけられなかったのだが、今回は見つけられた。前回の時もこの道は通った筈なのに、何故見つけられなかったのだろう…。違いはと言えば前回は北側から、今回は南側からこの道を通ったというくらいでしかないのだが、鳥居の向きの関係で見落としていたのかも知れない。
 鳥居と言えば、こちらの鳥居は神明鳥居ではなく明神鳥居だ。しかも島木の両端の反り増しが日月鳥居ほどではないがやや強め。伊勢神宮の鳥居としてはちょっと変わっているかも。
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 境内。
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 こちらの石祠が伊勢神宮。
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 祠の中に納められた木札には三峯神社と書かれているので、こちらは三峯神社なのだろう。
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 几号水準点基標No,39。
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 見ての通り駐車スペースは無いので、ここより少し南東にある日枝神社前の八ツ口集会所に駐車してそこから徒歩。

八坂神社(弥藤吾)

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 埼玉県道341号線沿いに国登録有形文化財旧坂田医院診療所があり、その南側の交差点脇に八坂神社が鎮座している。
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 こちらが八坂神社。祠の中には御神輿が納められている。
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 庚申塔と馬頭観音。
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 如意輪観音と地蔵菩薩。

八幡神社(妻沼)

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 男沼公民館から北上し、利根川沿いの堤防道を東へ走って行くと大里郡利根川水害予防組合第三号水防倉庫の少し先に八幡神社が鎮座している。
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 拝殿は無く、本殿の周りの瑞垣と覆い屋根がある。
 由緒等を記したものは見当たらないのでいつものようにググってみると、こちらの神社は源頼朝が那須に巡行する際に祀ったと伝えられているのだそうだ。
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 庚申塔と八幡宮湧泉記。
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 本殿。
 壁面には神功皇后の三韓征伐を描いた彫刻が施されている。
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 裏手には水神宮と若宮八幡宮。
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 西側から。
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 北側の堤防上から。


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 以上で4月2日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、FA43mm。K10Dに50-150mmII。G'z One Type-X。
 帰宅途中、足利のWonderGOOでPSP-3000を買って行こうかと思ったら、既に無くなっていた○刀乙 二日前には5台ほどあったのに…うぅ、やはり見かけた時に買っておかないといかんのね。

稲荷神社(男沼)

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 男沼分団第一部前から南西に向かって歩いて行くと右手側に風張集会所が見えて来るので、そこからもう少し西へ歩くと稲荷神社が鎮座している。
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 甲子塔と石祠。
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 遠景。

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 風張集会所前のお地蔵様や観音様。
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 態々歩いて来なくても、風張集会所に駐車スペースあったんじゃないか○刀乙


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飛田稲荷神社(男沼)

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 雷電神社から南下して県道276号線に出たら東へ走って行くとそのうち左手側に飛田稲荷神社が見えて来る。しかし駐車スペースは無いので少し西に戻って男沼公民館に駐車。
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『稲荷神社移転之碑
当社は元亀年間(1570-1573)祖先太郎兵衛氏神に祭祀せしを創めとし慶長九年(1604)伊奈備前守様並に天野彦右エ門様検地の際五畝歩除地とせられ後貞享元子年(1684)堀田筑前守検地六畝貮拾歩に改む明治初年又九畝拾六歩と改められ稲荷神社境内として上地官有となる明治四十年(1907)四月証拠品添付土地払下出願し許可せらる元地番百九番より百三十五番氏神に合祀移転せり』

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『飛田稲荷神社後記
抑 当社は右移転碑の通りなるも当?佳洲に至り神徳顕著なる当社を獨祭することなく一家一門と共に祀らんと祖父建傳翁に計りたるに翁も直に賛成せり依て協議の上中の宮床下石垣を修復し鳥居旗框を新調し花木を奉納し境内を整備し永く一家一同の親睦と繁栄を祈願し茲に碑を建て後世に傳へんとす』

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 拝殿。
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 本殿。
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 裏手に石祠二基。
 MAPPLEには稲荷神社ではなく天神社と記載されているので、三基の石祠のいずれかが天神社であるのだろうと思われる。

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 男沼公民館前の交差点脇に鎮座する石祠。道に背を向けているので道祖神ではなさそうだが、どなたが祀られているのだろう? こちらの畑の土地神様なのかな。
 余談だが、男沼公民館から北に向かうと鎮守神明宮が鎮座している。


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雷電神社(出来島)

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 稲荷神社東側の道をまっすぐ北上して行くと雷電神社前に到着。
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 由緒等は不明。
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 几号水準点。
 ググってみると、どうもこちらの神社は神社そのものよりも水準点の方が有名なようだ。

 ここから少し北東へ向かうと伊奈利神社があるが、そちらに参拝したのももう一年半程前になるのか。


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稲荷神社(間々田)

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 聖天堂から東へ向かい、能護寺の東側を南北に走る埼玉県道276号新堀尾島線に合流したら北へ。するとすぐに稲荷神社参道の標石が建てられているのでそこからまっすぐ進んで行くと稲荷神社前へ。
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 稲荷神社鳥居。
 左手側に間々田コミュニティセンターがあるので、そちらの前に駐車できる。
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 境内。
 なんか古墳っぽい感じだなと思ったら、やはり円墳であるようだ。ただし古墳でなく塚である可能性も残るとのこと。
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 狛犬。
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 鏡餅…じゃなくて、なんて言うんだコレ。
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 お狐様。
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 拝殿。
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『合祀碑
 詔曰祭祀神祇者皇囶大典政教基本也太政官宣曰神社者國
 家之宗祀也仲尼曰明郊社之禮禘襠之義者治天下國家夫是
 始視北掌乎是所以 皇天大祖之統治天下者之重祭祀為政
 教之基本也恭惟上古 列祖列聖之 天祖之神勅遵奉寳祚
 天壌共無窮祭政一致之謨訓統御寓内莫重祀與民與軍之三
 政是所以 天日嗣之 天皇天地共日月尊厳無窮也惟比伊
 奈利神社者鎮祀于埼玉縣武藏國大里郡男沼村大字間々田
 奉齋 天祖大日孁貴尊豐受姫命素戔鳴命也鎮座年月未詳
 豐受神者坐此地稲荷社又曰下之社 天祖神者鎮齋小字伊
 勢神明社或曰上之社進雄命祀小字天神坪稱八坂社間々田
 所載令義解和名鈔武藏國風土記稿大日本史國郡志幡羅郡
 長井莊而名地也蓋住古開創村落遥所奉齋伊勢囶内外之
 神宮歟有後花園天皇文安元年改造社殿棟札及慶長寛永年
 間撿地圖帳本社地免租地者可証古社也 皇政復古太政官
 遵奉禁神佛混淆之官令清潔社殿置神職焉 明治五年九月
 入間縣令河瀬秀治掯命列村社明治三十九年奉 勅令神明
 八坂両社合祀於本社移轉于事任諏訪羽黒天滿天神之四社
 境内末社請願于埼玉縣廰乃允許焉明治四十二年七月三十
 一日埼玉縣知事島田剛太郎殿奉 勅令列本社神饌幣帛料
 供進之社格是乃氏子衆諸至誠貫徹本社寄進金糓田畑設定
 神社財産尊 皇敬神重 皇囶國體之尊厳爲建國家無窮子
 孫悠久之基礎柱石也鳴呼忠誠也偉勲也哉乎
 明治四十三年三月九日』


 えーと、創建時期は不詳だが元々こちらに豊受姫命を祀る稲荷神社(または下之社)があり、進雄命(素盞鳴尊)を祀る小字天神の八坂神社と大日孁貴命を祀る小字伊勢の神明社(または上之社)、それから事任神社と羽黒神社、諏訪神社、天満天神社の境内末社が合祀されている、と。
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 神楽殿。
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 境内社。中には目つきの悪そうな石像が納められており、注連縄から垂らされた紙垂にはボールペンで小さく天神と書かれていたので、こちらは天神社なのかも知れない。
 左奥に見えるのは猿田彦大神。
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 倉庫かな?
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 武尊山大神、辨財天・水神宮、阿留摩耶天。
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 こちらも紙垂に天神の文字が。
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 境内社。
 左の縦長の社は天満宮。その右の長屋には神輿庫と湯殿神社・秋葉神社・八坂神社。右端の社は蚕影神社。
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 こちらの石祠はなんだろう?
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 墳丘の斜面に立ち並ぶなんたら霊神の数々。
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 神武天皇と豊斟渟尊・国常立尊・国狭槌尊。
 なんたら霊神が多いことから見て、この斜面は御嶽塚も兼ねているようだ。
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 末社群。
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 染殿大神と八方金神。
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 猿田彦大神と覚明霊神。


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薬師堂(永井太田)

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 埼玉県道45号本庄妻沼線の永井大田交差点より少し西へ向かうと45号線に背を向ける形で薬師堂が鎮座している。
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 門の棟木部分には下がり藤紋が付いているが、この辺りは藤原北家の流れを汲む斎藤氏の地でもあったから、その関係なのかな。
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 青面金剛に馬頭観音、如意輪観音などが並んでいる。
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 薬師堂。
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 ついでに先週機種変更したG'z One Type-Xでも撮ってみたり。意外とちゃんと写るのに驚いた。でも以前使っていたW41CAと違ってヒンジが二軸式ではなかったりサイドにレリーズボタンが無かったりするので構え難い。


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上之村神社(上之)

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 古宮神社から西へ向かうと、割とすぐに上之村神社の前に出る。
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『社前の堤(堤の由来)
 応永年中(1394-1428)成田郷の領主成田家時が従者と館の東にある森の小祠の前を芦毛の馬に乗って通った時、何に驚いたのか馬がハネ上がり家時は落馬してしまった。何んの神様の祟りかと、付近の老人に聞いてみると、この社は久伊豆神社と雷電権現で、この神様は芦毛の馬に乗ることから、神前を芦毛の馬に乗って通る者は必ず神罰を蒙る伝えがあり、そのためだったという。
 家時はこの神威に驚き乗馬の芦毛を神馬として奉納以来当社を崇敬し直接神前を通るは勿体ないと、この堤を築かせたという』

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 こちらがその堤だが、神様微妙に心が狭いな。
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 狛犬。
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『熊谷市指定文化財建造物 上之村神社鳥居
 指定年月日  平成九年十一月三日
 所 在 地  熊谷市大字上之十九番地
 この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
 平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(1664)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
 建造以来すでに三三○年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です』

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『熊谷市上之村神社社叢ふるさとの森
 昭和五十九年三月三十日指定
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えよう、この社叢が「ふるさとの森」に指定されました。
 この神社は、室町時代の応永年間(1394-1427)に創建され、久伊豆大明神、雷電権現を祭り、水乞い、雷除けの神として多くの人々に信仰されてきました。
 参道に並ぶ見事な松は、樹齢四○○年と言われ、その姿は、訪ねる人に守護神の威厳を伝えています。
 林相としては、主に、クロマツ、スギ、クスノキなどから構成されています』

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 富士塚。
 塚の頂には富士嶽神社が鎮座し、他に醫薬大神や道了山、高尾山、小御嶽神社、猿田彦大神、食行霊神・角行霊神などの名が見える。
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 末社。
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 神楽殿。
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 由緒碑。
『郷社上之村神社  祭神 事代主命
由緒 當社創立ノ年度詳カナラズ應永年中忍ノ城主成田左京亮家時神威ヲ
   崇メ社殿ヲ再建シ爾来奕葉崇敬シテ神田若干ヲ附ス其後天正十八年
   成田家忍退城ノ翌年東照公巡狩トシテ通路アリ社木森々トシテ生茂
   リ煩ル幽境ノ景況ヲ覧セラレテ時ノ侯人伊奈備前守ヲシテ神社ノ来
   由ヲ諮問セラル従テ翌慶長九年ニ及ンテ社領三十石境内数町諸役免
   許神供祭禮修造等不可懈怠ノ?朱印ヲ寄附セラレタリ明治六年郷村
   社々格選定ノ際當社ヲ以テ旧第十五区拾九ケ村ノ郷社ニ列セラル明
   治四十年四月二日神饌幣帛料供進指定神社トス

 摂社大雷神社   祭神 大雷神
由緒 従来雷電権現ト称シ上之村神社摂社タリ創立再建上之村神社ニ同ク
   シテ今古村民ハ両神社ヲ以テ鎮守ト並称シ且ツ近隣ノ信仰却テ本社
   ヲ壓ス王政革新ノ後明治二年今ノ社?ニ改リ同六年社格選定ノ際摂
   社故ノ如シ

祭日 例祭  七月廿何、廿八日両日
   新年際 三月十日
   新嘗祭 十一月廿七日
   月次祭 毎月廿八日』

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 拝殿。
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 拝殿の内側に掛けられた絵馬の一部。
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 上之村神社本殿と雷電神社の周囲は瑞垣に囲われており、正面には立派な門が取り付けられている。
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 大雷神社と上之村神社本殿を瑞垣越しに。
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 合祀殿。
 夷神社と荒神社、事任神社、天神社、住吉神社が祀られている。
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 神輿庫。
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 諏訪神社。
 御祭神は建御名方命と八坂刀売命。
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 こちらにも合祀殿があるようだが、何神社が祀られているのかは不明。
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 本殿裏にそれぞれちょこんと鎮座する末社。


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 以上で2月26日参拝分終了。
 使用機材はK-7に50-150mm II。K10DにDA15mmとDA21mm、FA31mm、DA70mm。
 先々週末から先週頭にかけてはPCの修理と環境の復元に時間を取られて神社参拝をしている余裕は無かったが、現在は大体復旧できている。しかし、以前よりも多少とは言えCPUのパワーも上がっている筈なのに、以前の環境より重くなっているような気がするのは何故なんだろう…。

古宮神社(池上)

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 伊豆三島神社前の愛染橋を渡って南西へ向かい、次は古宮神社へ。
 鳥居の前に車止めがあるが、右手側に池上集会所があるのでそちらに駐車できる。
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『古宮神社
 鎮座地 北緯 三十六度九分十秒
     東経 百三十九度二十五分二十六秒
     海抜 二十三・四米
 御祭神 石凝姥命 いしこりどめのみこと
     少彦名命 すくなひこなのみこと
     武甕槌命 たけみかづちのみこと
 由緒
  社傅に當社は紀伊國日前國懸神宮より石凝姥命を勧請し長寛二年
 (1164)はじめて社殿を造立す。當初岩倉社と稱し文安二年(1445)少
 彦名命武甕槌命を相殿に祀り拝殿を建立。江戸期に入り京都吉田家
 より古社の故を以て古宮神社の社號を賜はる。古来婦人守護子育守
 護の信仰あり。
 例祭
  八月二十八・九日神輿渡御及び獅子舞の奉納あり
 社寶
  古獅子頭 寛永五年(1628)在銘』

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 社務所改築記念碑。
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 二の鳥居。
 額には「古宮神社 岩倉大明神」と刻まれている。
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 参道左手側に神輿庫。
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 末社かな?
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 拝殿。
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 棟木には神紋が描かれている。両脇に波、その内側に左三つ巴紋。中央は横木瓜紋のようだが、なんでホームアイコンの中に入ってるんだろう。
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 狛犬。
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 塞神と石祠二基。
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 靖国社・愛宕社・天神社の三社が合祀されている。
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 稲荷神社。
 そばの石碑には富堅稲荷講五周年記念と記されていたので、富堅稲荷神社が正しい名前なのかな。
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 お狐様。
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 稲荷神社裏に並ぶ末社群その一。
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 その二。
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 こちらも稲荷社?
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 池上集会所入り口右手側に「東宮駐駕之處」と刻まれた石柱。


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伊豆三島神社(下川上)

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 伊弉諾神社前の道をまっすぐ東へ向かって行くと星宮公民館前に出るので、そこからもう少し東へ向かうと下川上自治会館の隣に伊豆三島神社と愛染堂が鎮座している。ちなみにこちら、正式な法人名は三島神社伊豆神社合殿社と言うのだそうだ。
 由緒等は不明。
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 不動明王と青面金剛。
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 愛染堂。
 創建は大同元年(806)で、洪水で星川に流れ着いた愛染明王の像を村人が引き上げてお堂を作り、そこに祀ったのが始まりであるのだそうだ。ちなみに、伊豆三島神社の前を流れている川が星川。
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『民俗資料 愛染堂愛染明王
 愛染明王は、寶乗院愛染堂の本尊として伝来したもので、像は一五四・五cmを計り、愛染明王??ては全国的に???い。染色業者による愛染信仰の本尊として、歴史??民俗的資料価値をもつものである』

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 愛染堂を裏から見ると…あらら。お堂の周囲にロープが張られていたのはこう言う訳か。
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 余談だが、星宮公民館があるので近くに星宮神社でもありはしないだろうかと思いググってみたのだが、この辺りの古い地名が星宮だったのね。残念。

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伊弉諾神社(上川上)

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 熊谷スポーツ文化公園の南に鎮座する伊弉諾神社。
 社号標石の前には石祠と庚申塔が並んでいる。石祠は文化十四年(1817)のもの。
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 観音祠。如意輪観音の石像と馬頭観世音と刻まれた石塔が納められている。
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 鳥居。
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 指定文化財を記した柱が立てられていたのだがろうが、今では根元が折れて傾いてしまっている。
『民俗資料 相撲絵馬(一枚)
 熊谷市指定文化財(昭和四十五年十一月指定)
 江戸時代、社殿修築のとき資金集めのため江戸本場所相撲の勧進相撲をこの境内で催した記念に奉納されたものです。

 絵 画  黒馬図
 熊谷市指定文化財(昭和三十一年十一月指定)
 江戸時代の狩野派の画風の大絵馬で、横一三九、五Cm、縦八十一、五Cmの大きさであり、力量ある素描力と構成力により生命の躍動が感じられるものです』

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 神橋と突き当たりに拝殿。
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 橋を渡るとすぐ右手側に稲荷社と石祠。
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 石祠には蛇の姿が浮き彫りにされているので厳島社かと思ったのだが、その下には天王の文字が。ただ、天王の前にも四文字くらいあるようなのだが、よく読み取れない為に何天王なのかが判らない。
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 遥拝所。
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 神輿庫。
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 琴平社。
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 竈社。
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 本殿裏に並ぶ石祠三基。
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 八幡社。
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 本殿。
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 ググってみた結果、伊弉諾尊・伊弉冉尊を御祭神とする熊野系の神社であると言う事は判ったのだが、創建年代や由緒などは不明のまま。

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熊野神社(大塚)

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 県道303号線を挟んで熊谷スポーツ文化公園の東側に大塚古墳があり、その墳頂に熊野神社が鎮座している。表参道から車で入って行くのは無理なので、一本東側の道から大塚古墳と隣接している曹洞宗龍昌寺圓通殿へ。
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 大塚古墳の墳頂に熊野神社。
 ググってみたところ、こちらの御祭神は熊野夫須美命・速玉男命・家都御子神。境内社に宇賀神社と豊蚕神社、塞神社、三峰社、榛名社、天神社の六社が存在するそうなのだが、どれがどれやら。そして神社の創建年代や由緒などは不明。
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『熊谷市指定文化財 大塚古墳
 指定年月日  昭和三十四年十一月三日
 所 在 地  熊谷市大字大塚
 大塚古墳は、古墳時代後期(七世紀前半)につくられた円墳で当地を支配していた豪族の墓であろうと推定されています。
 墳丘は、直径約五九m、高さ一・二mの基壇上に直径約三五m高さ四m以上の円丘がのった形です。全体で、五・二m以上の高さになると考えられます。
 現存する墳丘は、北西部分のみ残存していて、墳丘全体の約四分の一が残っている状態です。
 二度にわたる発掘調査により、埋葬施設は、奥室・前室をもつ複室構造の胴張型横穴式石室であることが確認されています。
 石室内から、鉄製小札・鉄鏃・金銅製鞘尻金具・勾玉のほか、金箔装漆塗木棺の破片が出土し、西側の基壇上からは、須恵器の甕が列をなして出土しました』

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 狛犬。
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 別アングルで。
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 石段途中に末社。
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 拝殿。
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 拝殿手前にも末社。
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 拝殿右手側にも末社。左奥の祠は三峯神社。
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 古墳南西から。
 左側の石燈籠そばの石には猿田彦大神の文字が彫られている。
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 二十三夜塔。
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 圓通殿前に石仏。


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中嶋明神(上中条)

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 上中条交差点から東へ向かい、県道303号線を南下して行くと青木堀の手前にある中島農村公園脇から東へ向かって行くと中嶋明神が鎮座している。
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 こちらの中嶋明神はMAPPLEには赤城神社と記されていたりするのだが、神幕に描かれている宝珠紋から見て、稲荷系であるのだろう。
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 天神宮。
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 社殿裏手の末社。もしかしたらこちらが赤城神社であるのかも知れない。
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日吉山王社(上中条)

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 八幡集会所から西へ歩いて行くと、熊谷厄除大師とも呼ばれる天台宗別格本山常光院があり、その境内に日吉山王社が鎮座している。山王鳥居の実物を見たのはこれで二箇所目だ。
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 日吉山王社と言う事は御祭神は大山咋神と大己貴神だろう。
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 隣には鐘楼。

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 天台宗龍智山常光院毘廬遮那寺山門。
 こちらの常光院は県指定史跡である中條氏の館跡でもあり、また同じく県指定史跡である天野彦右衛門忠重(初代忍城の城代)以後三代の墓もあるのだそうだ。
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『藤原鎌足十六代の子孫の判官常光公が長承元年(1132)武蔵の国司に任ぜられて下向し、この地に館を構えて中條の姓を用いた。その子有家の長男従四位下中條藤次家長は文武両道に秀で、鎌倉幕府の評定衆となり我が国最初の法律である貞永式目を定めた。建久三年(1192)二月祖父常光公の菩提を弔うためその館を寺とし龍智山びろじゃな寺常光院と名づけた。以来廿五の末寺を有し天台宗の大寺として十万石の格式で待遇された。
 昭和廿六年三月埼玉県は往時の境内地一万八千余坪のうち現在の境内地全域三千四百余坪を、史跡として指定し、文化財と永くして後世に伝えることにした』

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 延享二年常光院廿三世邦教上人書之古図。
 と言う事で1745年当時の常光院の見取り図が描かれているが、山王堂と記されているのが現在の日吉山王社だろう。そしてそこから左へ目を移すと千形社と記されているが、現在の地図を見るとそこに千形神社はない。何処かへ遷座したのか、或いは合祀されたのか。
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『厄除大師縁起
 当山にお祀りしてある厄除大師は永観三年(985)の正月三日に遷化されたので元三大師と申し上げます。
 大師は修行の結果、神通力を得られて多くの人々の苦難を救われ、今もなお角大師のお姿のお札が厄よけとして家々の門口に貼られます。
 この魔物のように見えるお姿は降魔の修法で自ら恐しい姿を示して厄病を降伏したときの姿といわれ、また、三十三身に変化してそれぞれの苦しみに応じた霊験をあらわし私達を救って下さいます。どこのお寺や神社にもある「おみくじ」を制定されたのも元三大師さまです。
 この霊験あらたかな大師は各地で祀られておりますが、当山では秘仏として今日まで公開しませんでしたが、皆さまの強い要望で一千年の御遠忌を期として御信心の方にご霊験をお分ちしていただくことにいたしました』

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 本堂。
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八幡神社(上中条)

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 三幸神社から北西に歩いて行くと、八幡集会所がある。なんとなくその名前にピンと来るものがあったので立ち寄ってみたら、やはり神社兼集会所になっているようだ。社号は記されていなかったが、名前から見て八幡神社だろう。
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 裏手には石祠が二つ並んでおり、左側の祠には天神宮と刻まれている。

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