八坂神社(小川町上横田)

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 上横田会館脇に鎮座する八坂神社(比企郡小川町上横田1212)。
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 以上で10月18日参拝分終了。
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雲龍寺(小川町靭負)

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 熊野神社の南隣に曹洞宗竹沢山雲龍寺(比企郡小川町靭負637)。

『雲龍寺は、竹沢山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代には、大塚村大梅寺の末であった。本尊は釈迦牟尼仏で、寺宝として釈迦八相の図が伝えられている。
 寺伝によれば、雲龍寺は、嘉元二年(1304)に、後深草天皇に仕えていた竹沢左近将監が、この地に草庵を設けて開創したものであるという。また、口碑によれば、雲龍寺は天正十八年(1590)に大火によって焼失し、その後長い間村内に寺のない状態が続いていたが、享保四年(1719)に再興されたという。これを雲龍寺の中興とし、中興開山の邦秀は「新編武蔵風土記稿」によれば享保七年(1722)の没となっている。ちなみに、この中興開山の邦秀という僧は、本山である大梅寺の三世である。
 なお、靭負は、この地を本拠とした武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が館を置いたところであり、雲龍寺の裏山に祀られている熊野神社の境内には竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる五輪塔があり、社殿の背後にはその館跡とされる平場がある。この熊野神社は、神仏分離まで雲龍寺持ちであった』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 薬師堂。

熊野神社(小川町靭負)

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 東武東上線東武竹沢駅の東300m程、曹洞宗竹沢山雲龍寺の裏に鎮座する熊野神社(比企郡小川町靭負343)。
 雲龍寺の標石があるけど、こちらは熊野神社の参道入口。そして左手側には雲龍寺の駐車場。

『竹沢郷一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
 靭負の鎮守として祀られてきた当社の南側には、神仏分離まで別当であった雲竜寺がある。寺伝によれば、同寺は、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(1303~06)にこの地に草庵を設けたことに始まるとされる曹洞宗の古刹である。当社の創建の年代は明らかではないが、この寺伝から推察して鎌倉時代のことといわれている。ちなみに、靭負(ゆげい)とは、宮城の警護に当たる官人のことで、一族の中からは、江戸時代に靭負として出世した人物も出ているという。
 昭和三十八年、境内の大杉が町から天然記念物の指定を受けた。この杉は、樹高三三メートル、目通り三・四メートルという大きなものである。昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 靭負は官職名としては「ゆげい」と読むが、地名や人名の場合は「ゆきえ」と読む。
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 一の鳥居。
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『郷土史案内 平成二十三年(2011)記述
 この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています』
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 拝殿内部と本殿。
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 大山神社、天満宮。
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 竹沢二郎行高を供養する為のものと伝えられる五輪塔。
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 町指定天然記念物の大杉。

白鳥神社(小川町勝呂)

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 兜川の源流の一つである西浦川の畔に鎮座する白鳥神社(比企郡小川町勝呂316-2)。

『当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。
 当社の創祀伝説は、この鉱脈とかかわりが深い。
 村内の谷津(現在の字神出)で夜ごと光るものがあり、村人は恐れおののき近付く者もいなかった。ある時、当地を通りかかった一人の落武者がその話を耳にし、光の発する場所を掘り起こしてみると、十一面観音像が現れた。ときあたかも上空を二羽の白鳥が舞い、掘り終わると同時に白鳥は向かい側の山の中腹に舞い下りた。武士と村人らはこの白鳥を神の使いと崇め、白鳥のとまった場所に十一面観音を安置した。以来、白鳥大明神として祀られるようになった。その創祀は暦応三年(1340)とも明徳年間(1390~94)とも伝えられている。更に「郡村誌」には「天文三年壬辰(1534)二月勧請す」と記されている。祭神は「明細帳」に「日本武尊」とある。
 十一面観音像が掘り出された光の発する場所とは鉱脈を示すと考えられる。おそらく発光伝説は、別当であった西福寺の法印により、日本武尊の霊が白鳥と化して飛び去ったとする白鳥伝説と結び付けて語られたものであろう。西福寺は当社
東側にあった天台宗の寺院で、明治六年に廃寺となった。「風土記稿」に当社は「白鳥神社 村の鎮守なり、本地仏十一面観音を安ず」とある』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社務所兼炊事場。
 社務所・拝殿修復建設記念碑によれば、平成五年(1993)に拝殿の修復と社務所兼炊事場の建設が行われたのだそうだ。
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 境内無償譲渡並外宇改築記念碑の前を通って本殿へ。
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 鳥居。
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 本殿及び末社等の覆屋。
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 左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿。
 その後ろには天手長男神社、国枝神社、疱瘡神社、琴平神社、白山神社、稲荷神社、天満社の七社が並んでいる。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の見取図を見ると、国枝・疱瘡・白山の三社は無く、代わりに淡島神社が記されている。この本は23年前の発行なので、その間に入れ替わりがあったのだろうか。
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 三峯神社。
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慈恩禅寺(小川町木部)

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 臨済宗妙心寺派華谷山慈恩禅寺(比企郡小川町木部218)。
 車用の参道は狭く急斜面だが、本堂脇には三~四台分程の駐車スペースがある。

『慈恩寺は、花谷山(「華谷山」と記しているものもある)と号し、臨済宗妙心寺派に属する寺院である。江戸時代には、甘粕村(現寄居町)泉福寺の末であった。本尊は阿弥陀如来であるが、「新編武蔵風土記稿」は「本尊十一面観音を安ず」と記している。これは同書の編者の誤記であろうか。境内周辺は、かつては田畑の広がるのどかな農業地域であったが、近年開発が進み、現代的な住宅地へと大きく変貌しつつあるところで、慈恩寺とその裏山を取り囲むように宅地化が進んでいる。
 開山は、面宗大和尚で、長寛元年(1163)十月十二日の没と伝えられる。その後、十一世の竹巌貞和和尚の代に中興がなされ、このころ泉福寺の末寺になったという。ちなみに、「旧竹沢村誌」によれば中興を行った竹巌貞和は在住七二年ののち、貞享二十年二月二十日に行年九四歳で没したとされている』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 ちなみに貞享は1684年から1688年までの五年間。
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 本堂。
 左奥に向かうと墓地になっている。
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 本堂脇には石祠と板碑。
 左の板碑には建武元年甲戌十一月日と刻まれているので、1334年の造立。
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 本堂前から南を見ると、石尊山と官ノ倉山が見える。
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 本堂の東側に奥へと続く小道がある。
 今回慈恩禅寺にお参りしたのは、この奥にあると言う北向不動尊が目当てだったりする。「小川町の歴史 別編 民俗編」には木部と笠原の北向不動尊に関する記述があり、小川町内にはいくつか北向不動尊があるが、最も著名なものが木部の不動尊であると言う。しかし具体的にどこにあるのか書かれていないのでグーグル先生に尋ねてみたところ、小川町マップの19号に「木部の慈恩寺の奥にある」との記述を見つけたので、では行ってみようと。
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 道は細いが歩き難いと言う事も無い。
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 小さな橋があり、ここで下り道は終了。ここまで二分程。
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 左を向くと木の間に紐が張られているので、こちらかと思って行ってみると、すぐに行き止まり。石を積み上げた壁が金属の柵で補強されており、登れそうな所も無いので反対側へ。
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 こちらは開けているが、足を踏み入れようとするとずぶずぶと沈んで行く。あ、これ駄目だと思い、引き返すことに。

 小川町マップに載っている写真のような道は無いし、さてどうしたものかと思い、近所の方に尋ねてみたら、お不動様なんて知らないとの答えが。あっれぇ~?
 仕方が無いので調べ直そう。

津島神社(小川町木部)

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 天王池の畔に鎮座する津島神社(比企郡小川町木部)。
 前回、石尊山には登ったから天王池方面に向かう必要は無いので帰宅などと書いたが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の三光神社の項を読んでいたら、天王池の傍らに津島神社があると記されていた○刀乙 くぅ、わざわざ二度手間を……。

『地内には天王池と呼ばれる貯水池がある。この池は昭和二年に石川岩五郎が私財を投げうって造ったもので、以後地内の水利は向上した。それ以前は干ばつに雨乞いは欠かせない行事で、群馬県の榛名神社からお水をもらい、地内の沼に撒いて降雨を祈ったものであった。
 天王池の傍らに祀られている津島神社は天王様と呼ばれて信仰を集めている。氏子は「天王様は女の神様なので祭りは静かに行うのだ」と言い伝えており、七月十五日(近年は七月第二日曜日)の祭りには神賑わいなどを行わないのが習わしである』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 牛頭天王にしても素盞嗚尊にしても、女性神ではないのだが、はて? 稲作の為に天王池を造成したそうであるから、こちらの御祭神は奇稲田姫命だったりするのだろうか。
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 津島神社の傍らから見る天王池。
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 四阿の近くには天王池建設碑が建てられており、その裏面には以下の文が刻まれている。
『この地方の稲作は天水により豊作が左右された。
 大正十五年石川岩五郎、吉田弘、清水清作氏等を始め受益者同志相計り約四千平方米の敷地に豊作の願いをこめ溜池を造成することを決定した。総工費金壱万弐千円(当時玄米六十瓩拾円参拾銭)をもって昭和二年一月着工。人夫八千二百八十七人により同年六月この天王池を完成し約七千立方米の貯水により安定した稲作が期せられた。
 当時の行程は全部人力でありその労苦は筆舌に尽し難く、こうした先人の功績を讃え碑を建立し後世に残すものである。
 昭和六十一年九月吉日』
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 奥に見えるのは官ノ倉山。
 自分は登らなかったが、津島神社を撮影している間に数人が登って行くのを見かけた。

三光神社(小川町木部)

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 東武東上線東武竹沢駅の南西1.6km程の位置に鎮座する三光神社(比企郡小川町木部458)。
 駐車場は無いが、東側の道端に退避エリアがあるのでそちらに駐めることにした。
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『三光神社
 所在地 比企郡小川町大字木部
 三光神社は、建久年間(1190~)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
 江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
 古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
 昭和五十九年三月』

『社伝によると、当社の創建は児玉党の竹沢氏の子孫により行われたという。竹沢氏は大字靱負を本拠とした中世の豪族で、正平十三年(1358)に竹沢右京亮が足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られている。
 一方、同じく妙見社(現身形神社)を鎮守とする東秩父村安戸には「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されている。この伝えは、妙見信仰の系譜を物語るものとして重要である。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれ、秩父神社の分社を郡境の交通の要所七か所に祀り、攘災の守り神とした。そのうちの一社が東秩父村安戸の妙見社である。当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くない。
 「風土記稿」には「妙見社 村の鎮守なり、村持」とある。

 当社は神仏分離により三光神社に改称した。その社号は「明細帳」に見える大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱の祭神にちなんでいる。しかし今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い。
(中略)
 末社に手長男神社・聖天社・稲荷神社がある。手長男社は、天保八年(1837)に神主相馬播磨藤原知祇により勧請された。火防の神といわれ、十二月十日の祭事に配られる神札を家の台所に貼る。聖天社は、氏子の根岸銀蔵家(既に絶家)の氏神であったと伝え、当社の春祭り(四月第一日曜日)に合わせて祭事を行っている。稲荷社は当社の例祭に合わせて祭りを行っている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 元が妙見社であるなら、神仏判然令後は天之御中主神を御祭神としていても良さそうな気がするのだが、どういった理由で大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱になったのだろう。まぁ、身形神社の御祭神は多紀理毘売命・市杵島姫命・湍津姫命のいわゆる宗像三女神だそうだから更にわからないのだけど。
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 狛犬。
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 御神木の杉。
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『三光神社の大スギ
 平成8年4月19日 町指定天然記念物
 三光神社は、一般に「妙見様」として知られていますが、元来は妙見社と称し、明治維新の神仏分離によって三光神社と改称されました。東秩父村の安戸に鎮座する身方神社も、神仏分離までは妙見社と称しており、同社には、「妙見様は三姉妹で、長女は木部の三光神社、次女は安戸の身方神社、三女は秩父神社である」との伝えがあります。
 神社本殿を囲む社叢の中でひときわ目立つ大スギは、目通り4.6m、樹高35.1mを測り、御神木として、地元の信仰を集め愛護されています。
 スギは比較的湿潤な土地を生育の好適地とし、神社の社叢は小さな沢に接する山裾にあることから、スギの生育に適した立地であるといえます。また、本殿左後方のスギ林の中にスダジイ・アラカシの高木が各一本ずつあります』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社殿。
 稲荷神社・手長男神社・聖天社が祀られている。右端に石祠が一基あるが、何神社なのかは不明。

 神社前の道を南下し、天王池方面に向かうと官ノ倉山の入口へと到達するが、石尊山へは既に登っているので敢えて行く必要は無く、故に今回はここで終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm、50-150mm II。X30。

吉野神社(小川町木呂子)

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 木呂子区民センターの400m程南西に鎮座する吉野神社(比企郡小川町木呂子303)。

『竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤家が氏神としてそれを祀ってきた。「風土記稿」に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(「明細帳」では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(1844)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(1855)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。

 当社の主祭神は、学問の神様として広く知られている菅原道真公で、十月十五日にはその祭りである秋例祭が行われる。
 天手長男神社の祭神は、櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神として御利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称を「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がその祭神といわれる。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂の人々からも崇敬され、四月二十三日に行われる例祭では養蚕倍盛が祈願される。太平洋戦争後、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は、養蚕に限らず諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が一月十七日、稲荷神社の例祭(初午祭)が三月初午日、八王子神社の例祭が祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に併せて行われている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 寄居町小園の天手長男神社は天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命が御祭神の筈だが、なぜそちらからの分霊を祀った神社の御祭神が櫛明玉命になるのだろうか。
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 拝殿。
 額には「光被六合」と彫られ、その下には橘紋が彫られている。
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 斜めから。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図には社殿の隣に天手長男神社と梅之宮神社が記されているが、そのようなものは見当たらない。覆屋の中に一緒に納められているのだろうか。

 吉野神社の南西にある丘陵部(ここ)に祠があったのだが、あれはなんだろう?
 この後は白鳥神社へ向かったのだが、こちらは祭りの最中であったようで、これまた撤退して次の神社へ。

熊野神社(小川町笠原)

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 ハイキングコース入口前の休憩所に車を置いたまま、すぐ北側に鎮座する熊野神社(比企郡小川町笠原333)へ。すぐ北側と言っても、一旦東へ100m程向かってから回り込むことになるのだが。

『笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(1592~96)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祀った社であるという。
 江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(1842)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
 なお、かつては熊野神社では女人禁止とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 御祭神は伊弉冉命・速玉男命・事解男命の三柱神と倉稲魂命であり、創建以来、桜井一族の氏神として祀られてきたとのこと。
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 参拝したのは十日だが、その翌日の十一日が例祭であったようだ。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には秋祭りは十月十九日と書かれていたが、多少の変動はあるのだろう。
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 天神社。
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 石段の脇にはよくわからないけど板碑のようなもの、と思ったら社号標であるそうだ。
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 石段。
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 石段の途中右手側に行者社。
 当熊野神社の創建にかかわった行者を祀ったものであるそうだ。
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 石段を上った先にはまた石段。ほんの数段だが。
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 拝殿を斜めから。
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 末社。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図を見ると山王・稲荷と書かれているのだが、祠は一つしか見当たらない。相殿にされたのか、或いは左の石柱が山王社で右の祠が稲荷社なのだろうか。
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 御嶽社。
 翌日が例祭の為、境内は掃き清められているのであまり歩き回るのもアレかなと思い、少し離れたところから。

 この後は靭負の熊野神社へ向かったのだが、そちらは秋祭りの準備の真っ最中だったので、また後にしようと思い撤退。次の神社へ。

阿夫利神社(小川町笠原)

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 北向不動尊を後にし、石尊山へ。
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 ここまで来れば石尊山の頂上は目前なのだが、ここからがきつくなり始める。官ノ倉山は外秩父七峰の中でも初心者向けと言うか一番低い山なのだが、普段山歩きなんてしていない身にはこの程度でも少々きつい。いや、ここまでは楽なんだけど。
 ちなみにこの辺り……の筈。
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 鎖場。
 この日一番危なかった場所。少々歩き難いものの、登りはまあいい。問題は下りだ。二回ほど滑りそうになったが、鎖を掴んでいなかったらやばかったかも。慣れた人なら大したことないのだろうけど。
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 山頂に到着。この辺り
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 中央の石祠は阿夫利神社。左の石祠は何神社なのか不明だが、背面には「昭和五十年一月吉日建 納主 小川コンクリート 笠原昭夫」と刻まれている。
『奉修行武蔵國神ノ倉石尊山入峯天下泰平如意祈攸
 平成二十五年四月吉祥日 
 熊野修験那智山青岸渡寺』
 と書かれた木札が二枚、阿夫利神社の脇に立て掛けられている。

『山の神様(笠原)
 笠原の山の神様は、官ノ倉山の上にあり、「石尊様」とも呼んでいる。祭日は、旧暦の六月二十八日(現在はその近くの日曜日)で、笠原の人々が二人ずつ組になって毎日夕方灯籠に灯明を上げに行った。全戸がこれを済ませると、その年の行事は終わりとなる。
 この行事に先立って、神職からオシメ・ヘイソク・ボンゼンを作ってもらい、当番が灯籠を飾り付ける。こうした行事は大山講の名残のように思われるが、現在話を聴いた限りでは、笠原では講を作って代参を大山に送るようなことはなかったという。代参を送っていたとしても、昭和以前にことと思われる』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 左手前が官ノ倉山。
 このまま官ノ倉山まで行き、そちらから石尊山を撮影しようかとも思ったのだが、少し歩いたらすぐに急斜面になったのでなんとなく面倒臭くなってそのまま引き返し、スタート地点まで戻ることにした。
 降りながら、明日は筋肉痛かもなぁなどと思っていたら、やっぱりなった○刀乙~~

北向不動尊(小川町笠原)

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 笠原熊野神社のすぐ南側にある休憩所に車を駐め、ハイキンゴコース入口へ。と言っても別にハイキングが目的ではなく、石尊山々頂に鎮座する阿夫利神社とその途中にある北向不動尊が今回の目的。
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 巳待供養塔・二十二夜供養塔・庚申塔の前を通り、
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 ハイキングコース入口へ。
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 この辺りはとても歩き易い。
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 三十六童子供養塔。
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 北向不動尊。
 位置はこの辺り……の筈。携帯電話でGPS情報を二回取っておいたのだが、片方は2km程ずれていたのでこちらの位置情報も正確ではないかも知れないが、大体この辺りで合っている筈。
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『北向不動と三十六童子
 所在地 比企郡小川町大字笠原
 北向不動は笠原の里を、見おろすように北向きに建っている。
 祀られている不動明王は、五大明王の一つで密教の中心的仏像であり、大日如来が悪魔を降伏させるために化身したものである。特に修験道の本尊として山伏とともに広まり、庶民の信仰の中に浸透した。
 また、三十六童子については次のような伝説が残っている。
 昔、笠原の里は、水利も悪く不自由な土地であったそうであり、土地の庄屋は里人から年貢を取り立てず、庄屋持ちの不動様の山の財産で立て替えていた。ところがとうとう年貢が納められなくなり、村から逃げ出そうとし村を去るにあたって何か記念を残したいと思い、居住していた三十六戸の戸数を童子にみたて、三十六童子を建立したそうである。
 不動様、三十六童子、雨乞いが行われたといわれる不動の滝などがあるこの地は、里人にとって信仰のよりどころであったことがうかがえる。
 昭和五十九年三月』
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 石段の左右に建てられた石塔には制吒迦童子と矜迦羅童子の名が刻まれている。
 石段は傾斜が強く、石の張り出しも小さいので手摺を掴んで行かないと危険だ。特に下りは怖いヨ。
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 西を向いた不動尊。その脇の石塔には法守護童子・計子儞童子・智慧幢童子・召請光童子・利車毘童子などの名が見える。
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 台座には女人講中の文字が刻まれている。こちらは女性が拝む為のお不動様であるのだろうか。
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 石段を上り切ると、北向不動尊の前に金剛護童子・普香王童子・虚空護童子・波利迦童子・虚空蔵童子の名を刻んだ石塔が並んでいる。
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 北向不動尊。
 北を向いている仏尊は一際霊験が強いと言われることから、より強い加護を求めて北向不動尊を建てたものと思われると「小川町の歴史 別編 民俗編」に記されている。
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 祠の脇にもお不動様。
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 不動の瀧。
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 不動尊線刻碑。

駒形神社(小川町原川)

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 諏訪神社の北西100m程の位置に鎮座する駒形神社(比企郡小川町原川74)。

『当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(1644~1704)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
 これより先、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、「明細帳」には慶長四年(1599)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのだろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五○センチメートルほどの円柱状の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものといわれ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔に当たる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 参道と社号標石。
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 拝殿。
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 参宮記念参道改修之碑と改築記念碑。その間に「袂石」があるのだが、木に隠されてしまって見え難い。
『夫レ敬神崇祖ハ往年ヨリ美風トシテ世々傳フル處
 ナリ茲ニ氏子有志相圖リ伊勢皇太神宮参拝ニ同志
 ヲ募リ昭和十三年四月参宮團ヲ組織尓来団員醵出
 貯金ヲ励行セリ折リシモ事変ハ廣大ノ一途ニ有リ
 其ノ貯蓄ニ且ツハ増産ニ挺身協力遂ニ兩々ノ蓄積
 相俟ツテ軈テ其ノ機至リ昭和十九年二月八日出廢
 同十日太々神樂ヲ奏セリ此ニ於テ参道ノ改修ヲ行
 ヒ神徳ノ無邊ヲ記念センカ為メ石ニ識ス』
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 袂石。
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 末社。
 左の石碑には仙元大神宮と刻まれている。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図には末社として仙元と稲荷の名が記されているが、残り三社の名は無い。四基の石祠は全て稲荷社なのだろうか。
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 地蔵堂。
 その隣には如意輪観音や庚申塔、無縫塔などが並んでいる。

諏訪神社(小川町笠原)

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 小川町駅から竹沢辺りまでは国道254号線と東武東上線、八高線が並走しており、それを東西に貫く笠原踏切から西へ向かって行くとやがて正面に駒形神社の鳥居が見えて来るが、その手前で南西に折れると諏訪会館の隣に諏訪神社(比企郡小川町笠原229-4)が鎮座している。
 鳥居は昭和十五年十二月の建立。

『当社は、創祀年代を慶長年間(1596~1615)と伝えられている。信州諏訪から落ち延びて来た武者、小笠原内膳が当地に住み着き、守護神として奉持して来た建御名方命の神体を祀ったことに由来するという。もともと笠原氏は、古代の名族の一つで、全国の各地に進出して活躍した一族であったが、その中心地が信州であり、諏訪大社の神官家の中にも笠原一族が活躍していたことが明らかにされている。したがって、この時の武者が、その流れを汲むものであることは十分に推定できよう。更には、当社の社紋が諏訪大社と同一の「穀(かじ)」であるのもそのことを証する。また、「風土記稿」に「諏訪社 村の鎮守なり、村民持」とあるのは、小笠原氏の末裔が奉祀していたことをうかがわせるものであろう。
 明治四年に村社となり、同四十五年四月、陣家の愛宕神社、栃本の神明社の二社を合祀した。
 なお、当社はかつて寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称され、近郷に聞こえた名高い神社の一つであった。

 「白蛇は神の使いである」と当地の氏子たちは信じている。古来白蛇は、水神として崇められ、氏子の間では雨乞いが行われ、五穀豊穣が祈願されている。したがって当社では、白蛇がとりわけ大切にされ、粗相があってはならないと、蛇をついばむ鶏は飼わないという習いがあり、今なお守られ続けている。
 当社の祭典は、元旦祭、二月二十五日の祈年祭、十月五日の例大祭である。
(中略)
 当地では、笠原家や桜井家などをはじめとして、正月に門松を飾らないという習いがある。代わりに、家の中の土間に一本の松を立てて正月を祝うのである。これは一説に笠原一族が元は落武者なので、追手の発見を恐れたことに由来するといわれている。しかし、もう一説には、当地が元来製鉄業に関連があり、製鉄に大切な松炭の原木を伐らないことに起因するともいわれる。
 また笠原家では、氏神として宅地内にもお諏訪さまを祀っているが、道路の拡張工事のために社を移したところ、土台から青石塔婆とみられる板碑が出てきている。一般に青石塔婆の造立は中世に始まり中世に終わったとされる。当家が土地に定着した時代の古さをうかがわせるものといえよう』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 この辺りは古くは竹沢村と称していたが、正保から元禄年間(1644~1704)の頃に六つの村に分かれ、当地の地名である笠原は小笠原内膳の姓に因んでいるのだそうだ。
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 社号標石と二の鳥居。
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 拝殿と狛犬。
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 普通は神社名を記した額が掛けられているものだが、こちらでは鏡が掛けられている。なにか謂われがあるのだろうか。
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 斜めから。
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 神日本磐余彦尊、大国主命、弥勒大菩薩。
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 天満天神宮、三峯神社、愛宕神社、天手長男神社。
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 末社殿の脇には注連縄を巻かれた石があるが、これはなんだろう?

諏訪神社奉祀遺跡(小川町奈良梨)

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 天台宗多宝山普賢寺の西に位置する諏訪神社奉祀遺跡(比企郡小川町奈良梨)。
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『諏訪神社奉祀跡
 天正18年(1590)の後北条氏の滅亡後、徳川家康は関東の支配体制の整備に着手しました。その中で家臣団の知行割が行われ、奈良梨は諏訪頼水の領地となりました。諏訪氏は奈良梨に入り、ここに旧領の諏訪(長野県)から諏訪社を勧請しました。この地は今でも「天王原」と呼ばれています。
 諏訪社の跡地とされるこの場所には小さな石宮が建てられています。現在でも毎年10月の八和田神社の祭礼では、この地に神輿が渡御します。この祭りには、長い竹の先に取り付けた鎌を「カマカツギ」と呼ばれる子どもたちが持ち歩くという、この地域には見られない特徴があります。諏訪大社をはじめ永野県内の祭りでは「薙鎌」という特殊な鎌が使用されており、諏訪氏がもたらした祭礼の伝統がこの地に生き続けているのかもしれません。
 昭和36年9月1日 県指定旧跡』
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 石祠の背面には「昭和拾年■月■■日 根岸耕作」と刻まれている。
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 埼玉県道296号菅谷寄居線から入り、正面に見えて来る奈良梨二区集落センターで左に向かって行くと、墓地の先に諏訪神社奉祀遺跡。

 以上で10月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA77mm。X30。
 この後は10月3日封切りの「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza」を見て、さらに11日にはもう一度見に行ったりなんかしてみたり。
 来場者特典のミニ色紙は毎週変わるのだが、その週毎に三種類、それが四週で計十二種類あり、しかもランダム封入なのでさすがに揃える気力も無く、一週目はコンゴウ・ヒエイを引けるといいなと思っていたらそれが来て、二週目はイ401クルーを引けるといいなと思っていたらそれが来た。うん、なんだか微妙に運がいいぞ。

稲荷神社(小川町大塚)

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 晴雲酒造の駐車場脇に鎮座する稲荷神社(比企郡小川町大塚183)。
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 お狐様。
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 社殿。
 額には宝珠紋が描かれている。
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 裏から。
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稲荷神社(小川町大塚)

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 栃本観音堂の南西、晴雲酒造の裏手に鎮座する稲荷神社(比企郡小川町大塚177)。
 額に「正一位稲荷大明神」と書かれているので稲荷神社だとわかるが、詳細は不明。

白山神社(小川町増尾)

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 小川消防団第二分団第一部の北側に鎮座する白山神社(比企郡小川町増尾32)。隣には曹洞宗増尾山長昌寺(比企郡小川町増尾26)。
 鳥居は昭和四十六年十月の建立。

『増尾の白山神社は、穴八幡古墳などのある八幡台の麓に鎮座しており、増尾の鎮守として信仰されてきた。境内には推定樹齢四○○年という樫の大樹があり、特に信仰や神木としての伝えはないが、昭和五十七年ごろから注連縄を張るようになった。
 社伝によれば、白山神社は大梅寺の開山である円了禅師が勧請した社で、加賀国(現石川県)の白山権現を禅家擁護の霊神として建治二年(1276)二月に遷座し、大梅寺の末寺で神社に隣接する増尾山長昌寺が神社の管理を行ってきたという。「新編武蔵風土記稿」には「今も大梅寺にて社務を司どれり」とあるが、白山神社は大梅寺と関わりの深い神社であることから、形式上は本山である大梅寺の管理下に置かれていたものと推測される。
 神仏分離によって、白山神社は明治三年に長昌寺と分離され、同四年に村社となった。氏子からは「白山様」の通称で親しまれており、所願成就の御利益があるという。また、境内にある八坂神社は、元は白山神社と合殿であったが、昭和五十四年に社殿を新たに造営して別に祀るようになったもので、健康を祈願する参詣者が多い』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

『祭神の菊理媛命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱神を総称して白山権現という。本社は石川県の白山比咩神社で、平安期に天台密僧を中心とする修験により有力寺社勢力に成長していたが、鎌倉末期に神主方と寺家型との祭神論争があり、双方の主張を併せて現在にみる祭神構成が採用された。
 末社は八坂神社と天神社であるが、氏子の記憶によれば、元は本殿の覆屋内に三つの社殿が並んで鎮座していたという。その内の八坂神社は昭和五十四年に、当社の西側に新たに社殿が建立されて移ったが、天神社のお宮の方は本殿から移された後、忘れられてしまった』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 左の石碑は文字が薄くなっており、殆ど読み取れない。
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 狛犬。
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 町指定天然記念物の大樫。
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 拝殿。左には八坂神社。
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 庚申塔と道祖神。
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 勢至堂。

『長昌寺は、猿尾山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代は、大塚村大梅寺の末寺であった。本尊は阿弥陀如来で、境内にある仏堂には行基の作という阿弥陀如来像が安置されている。
 正中年間(1324~26)の創立で、開山は暾嶺邦秀和尚と伝えられているが寂年など詳細は不明である。境内は、本山である大梅寺の開山円了が勧請したと伝えられる白山神社があり、神仏分離が行われる前は、長昌寺が大梅寺に成り代わって白山神社の社務を行っていたと思われる。増尾公会堂ができる前は、白山神社の祭典後の直会は長昌寺で行っていたのも、その名残といえよう。
 長昌寺の境内にある仏堂は「新編武蔵風土記稿」に「阿弥陀堂」と記されているが、現在は勢至堂もしくは「三夜様」と呼ばれている。天保十四年(1843)奉納の灯籠の台座に「献勢至弥陀薬師三尊」とあるため、元来は阿弥陀三尊像を祀っていたと思われるが、薬師如来像は失われている。この勢至菩薩は、商売繁昌などの御利益があるとして広く信仰されており、十月二十三日の縁日にはかつては深谷や行田などからも商人が参詣に訪れたものであったという』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 成田山不動明王。

栄広庵(小川町増尾)

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 槻川の支流である兜川の畔に位置する栄広庵(比企郡小川町増尾)。

『増尾の槻川の畔にあり、「せんじん坊」(千尋坊、仙尋坊、千人坊などと漢字表記は定かでない)の通称で知られているこの庵は、文治二年(1186)に大夫坊覚明という僧が東国巡錫の折、当地に至り、大塚の中城に設けた草庵に始まるといわれる。その後、享保年間(1716~36)に至り、中城の庵が朽ちたため、栄広という僧がこれを増尾に移して再建したことから栄広庵と呼ばれるようになったと伝えられる。
 特別な信仰はないが、天台宗の仙覚という僧が比企郡摩師宇郷において「万葉集註釈」を完成させたといわれる場所は、この栄広庵であったとの伝承がある。
 現在の建物は、酒井要五郎という人物が昭和九年三月に建立したもので、腰越にある自性院の境外地として管理されている』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 馬頭尊や大乗妙典日本廻国供養塔などが並んでいる。
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熊野神社(小川町腰越)

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 真言宗智山派医王山自性院西照寺の裏に聳える北山の中腹に鎮座する熊野神社(比企郡小川町腰越2353)。
 鳥居の右には「默翁先生碑」が建てられているが、熊野神社には特に関係無いようだ。

『腰越で一・二区で祀る熊野神社は、通称を「おくまん様」といい、神仏分離までは熊野大権現と称していた。祭神は伊弉冉命・速玉男命・事解男命の三柱で、社殿は氏子区域を一望できる北山の中腹にある。伝えによれば、熊野神社は安永七年(1778)十二月の創立であるという。また、「新編武蔵風土記稿」に「熊野社 自性院持」と記されているように、山麓にある自性院の管理下にあった。
 特別な信仰はないが、腰越一・二区の鎮守として信仰が厚い。山麓から社殿の前まで一直線に伸びる長い石段は、神社前庭拡張工事として昭和九年から同十一年まで三年をかけて建設されたものであるが、この工事に際し、当時の氏子一三五世帯は進んで各々三日間の勤労奉仕を行った。これも、氏子の信仰の厚さを示す一例である。
 境内には、いくつかの末社があるが、中でも北山稲荷は、開運や商売繁昌に御利益があることで知られている。この社については、「おくまん様が祀られたのと同じころ、どこからか稲荷様の分霊を受けてきて祀ったもの」と伝えられており、とりわけ小川の町場の料理屋や芸者たちによって厚く信仰されてきた』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 狛犬。
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 緩やかで歩き易い参道石段。
 手前には「峯岸四朗翁顕彰之碑」や忠魂碑もある。峯岸四朗なる人物は信仰心が篤く、熊野神社氏子総代と自性院檀徒総代を務め、参道石段改修事業の中心として尽力したのだそうだ。
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 二の鳥居。
 ここから石段の角度が強くなるが、それほどきついわけでもない。
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 北山稲荷神社の鳥居。
 草茫々な為、こちらから上るのは断念。上で繋がっているから無理する必要も無いし。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 本殿。
 神幕には八咫烏が描かれている。
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 八坂神社。
 元は田端家の氏神であった社を昭和十年(1935)に当境内に移したもので、七月十五日近くの日曜日には祭りが行なわれるのだそうだ。
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 八坂神社の前から西に参道が伸びており、大黒天と天満宮の石祠が見える。
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 振り返ってみる。
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 大黒天と天満宮。
 どちらも側面に昭和十二年一月二日と刻まれている。
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 更に参道を西へ。山頂へ続くと思われる分岐もあったが、スルーで。
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 北山開運稲荷神社。
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 本殿。
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 稲荷神社前から少し降りてみるが、やはりすぐに草茫々になってしまう。
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 更に参道を西へ向かうと観音堂。
 御堂の前はすぐに斜面になっており、うっかりすると滑り落ちてしまいそうだが、しかし道らしきものもあるので、麓の自性院まで歩いて行けるのかもしれない。
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 御堂の中には聖観世音菩薩座像。
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 自性院本堂。
『自性院(腰越323)
 自性院は、医王院西照寺と号し、真言宗智山派に属する寺院である。江戸時代は児玉郡栗崎村(元本庄市)宥勝寺の末であった。境内は、北山と呼ばれる山の麓にあり、この山の中腹に祀られている熊野神社は江戸時代には自性院の持ちであった。
 寺伝によれば開山は栄性阿闍梨で、栄性は永享十年(1438)四月に寺を開き、文明元年(1469)三月に没している。院号の自性院の「性」の文字は、おそらくは開山の栄性の名にちなんだものであろう。
 その後、十四世の快栄法印の代に中興がなされ、この時新たに客殿などが建立された。快栄は貞享五年(1688)に没しており、また十三世の宗栄は万治元年(1658)に没していることから、自性院の中興はその間の三○年ほどのうちに行われたものではないかと思われる。
 なお、本尊は医王院の山号にふさわしく病気平癒の御利益があるとして信仰の厚い薬師如来である。この薬師如来は宝暦八年(1758)に宮殿と共に造立されたもので、寺伝に「願主増尾村右岸是空近村勧化助力ニ而成就仕候」と記されている』

大梅寺(小川町大塚)

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 大塚八幡神社の300m程東に位置する曹洞宗拈華山大梅寺(比企郡小川町大塚470)。
 山門には「拈芲山 龍穏承天書」と書かれた扁額が掛けられている。

『大梅寺
 所在地 比企郡小川町大字大塚
 大梅寺は、勧進録によれば仁治三年(1242)に、土地の豪族猿尾氏が都幾川村の霊山院の栄朝禅師を招請し、創建したと伝えられている。
 鎌倉幕府滅亡のおり、将軍守邦親王が当地に下向し病没したので、大梅寺の円了長老が引導し葬ったという言伝えが残っている。
 永禄四年(1561)の兵火で寺院が焼失したが、寛永の頃(1624~1644)に、越生町の龍穏寺第十六世鶴峰聚孫大和尚が中興され、この時より曹洞宗となる。その後、更に焼失し天明五年(1785)に、再建され現在に及んでいる。
 本堂前の記念碑の裏手にある二連塔婆が、暦応四年(1341)に建てられたものであり、貴重なものである。
 また記念碑の左手には、江戸時代の俳人太魯の墓がある。
 昭和五十九年三月』

『大梅寺は、拈華山と号し、当初は天台宗に所属していたと思われるが、鶴峰聚孫和尚による中興の後は曹洞宗に改め、入間郡龍ヶ谷村(元越生町)龍穏寺の末寺となった。本尊は釈迦牟尼仏(拈華釈迦)である。この、大梅寺の由緒については、次の二つの説がある。
 一つは、仁治三年(1242)に栄朝禅師が開いたという説である。栄朝禅師は、臨済宗を起こした栄西禅師の弟子で、比叡山で修行したのち中国に渡り、その後都幾川村の慈光寺の住職となった高僧である。栄朝は、慈光寺の禅の道場として霊山院を開いたことで知られるが、さらに承久三年(1221)には群馬県尾島町世良田の長楽寺も開いている。伝えによれば、仁治三年に当時この辺りを領していた豪族の猿尾氏が霊山院初祖の栄朝禅師に依頼して創建したのが大梅寺であるといい、大梅寺の山号が霊山院と同じ「拈華山」であるのは、こうした経緯によるものと考えられている。
 この説は寺伝によるものであるが、寺伝はさらに、鎌倉幕府の滅亡により、最後の将軍であった守邦親王が難を避けてこの地に逃れ来て、慈光寺や上古寺の東王寺に仮寓したのち、猿尾氏の援助によって梅岑寺に移って再挙を謀ったものの、病を得て亡くなり、大梅寺の住職円了によって手厚く葬られたという話も伝えている。
 一方、「新編武蔵風土記稿」には、別の説が紹介されている。それによれば、大梅寺は、後深草天皇の第三皇子の梅皇子が、正元元年(1259)に故あって当所へ下向し、建治二年(1276)に開基したもので、梅皇子は永仁三年(1295)九月十九日に没したのを当寺が葬り、大梅寺殿二品親王賀慶法師と諡したと伝えられている。ちなみに、この伝について「新編武蔵風土記稿」の編者は、「おぼつかなき説なれど、姑く伝のままで記せり」と記している。
 いずれにせよ、戦国時代には戦乱のために寺は衰微し、永禄四年(1561)にはわずかに山門を残して焼失してしまったという。それを中興したのが鶴峰聚孫で、聚孫が寛永三年(1626)に没していることから、中興の時期は江戸時代初期である。さらに、中興二世の鉄州太牛の時には将軍家から五石の寺領が安堵された。
 また、大梅寺は、重要美術品の双式板碑が境内にあることで知られている。暦応四年(1341)に建立されたこの板碑は、夫婦の供養塔であるが、誰を供養したものかは不明である』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 参道。
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 如意輪観音と青面金剛。
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 本堂。
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 観音菩薩と二連板石塔婆。
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『大梅寺二連板石塔婆
 一枚の石材に板碑二基分を彫り出した双式板碑(二連板石塔婆)は、埼玉県に一二基確認されており、そのうち八基が小川町に所在しています。一般的に頂部は水平に成形されますが、この板碑は二つの山形になっているのが特徴で、こうした形態は県内に二基しか確認しか確認されていません。
 中央に暦応四年(1341)の銘があり、それぞれ本尊の阿弥陀如来種子(キリーク)、蓮台の下に、光明真言の凡字(サンスクリット文字。オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マガボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウンと読む)が四行ずつ刻まれています。真言と唱えると一切の罪業が除かれると説かれることから、追善供養の際によく唱えられました。この板碑も、逆修(生前に死後の冥福のために行う供養)や追善供養のために造立されたと考えられます。
 なお、裏面は文政六年(1823)の三界万霊塔(全ての霊を供養するための塔)に転用されています。
 昭和五十三年三月十七日 町指定』

飯田神社(小川町飯田)

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 小川町立西中学校の北西、琴平山の頂に鎮座する飯田神社(比企郡小川町飯田681)。
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 ストリートビューでは駐車場の確認はできなかったので大塚八幡神社に置いたまま歩いて来たのだが、神社入口の前には数台分の駐車場がある。ここに到るまでの道幅は車一台分しかないが、途中で少し広くなっている所もあるので、鉢合わせして立ち往生と言う心配も無い。まぁ、そもそも車はまったく見かけなかったけど。
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 石段を少し上ると鳥居の跡。そばの木の根元には笠木も置かれていた。
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『飯田神社磴道築造記
吾琴平山也者秩父山脈之東端而飯田層巒之一也所其崇祀
為高龗命大物主命菅原道真公如創立年紀雖不可得知其神
徳蕩々其威靈赫々是以四方信仰之徒朝夕不絶迹雖然其參
道險峻紆曲固不易登降也氏子一同患之謀磴道之築造久矣
本年一月募集其資則奮獻進者頗多立得二千餘金直起工造
九階百五十餘級之磴道併修理本社及拜殿課役亦一千餘人
此地又風色絶竒眦望最佳頗以富於烟霞更設神苑植櫻移楓
将以添雪月風花之艶芙仰供降神之降臨俯充賽者之清賞矣
今也磴道告竣工則勒其顛末於石以垂不朽
            石川巖撰并書 曽根多志三鐫』
 九階百五十余と記されているが、小さい段差も含めると石段の数は168段だったかな。それを含めないと160段前後くらいか。
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 拝殿。
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 平成十四年十月造立の狛犬。
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『飯田神社本殿改築記念碑
 この飯田の集落には字中島に永禄五年勧請と伝えられる鎮守の貴布祢神社を始め、字打越に天正三年勧請と伝えられる天神社、字日附田で現在地の琴平神社に大正元年十二月十四日政府の合祀政策により上記三社を合祀し、飯田の集落が一望できるこの琴平山を鎮座地として選定し同時に社号を村社飯田神社と改称したといわれる。
 また境内社は、明治二十七年に地内各所から貴布祢神社境内に集められていた石船神社、津島神社、天手長男神社、稲荷神社、日枝神社の五社が大正元年の合祀の際移転され末社として祀られ、さらに本殿の裏山に二つの祠に祀られている一つは火光天という火防せの神で、もう一つの神は定かでない。
 火光天については、昔から十月の秋祭りの宵の晩に氏子の家から集めた粗朶薪を焚く火祭りが行われている。昭和の中頃一時中止されたがその後間もなく地区内に大火が発生したため復活したといわれる。
 当社はもともと現在地に琴平神社があったことや、三社のうち琴平神社が開運招福の神様として有名であることから通称こんぴら様と呼ばれて毎月十日に行われる月並祭には、開運や商売繁盛のご利益にあやかろうと遠近より参詣者が訪れる。
 合祀以来八十余年の歳月を風雪に耐えてきた本殿も老朽が著しく氏子の中から改築の声があがっていた。昭和六十二年にプリムローズカントリークラブが当地域にゴルフ場開發を計画することになり、同社と飯田区ゴルフ場対策委員会の協定により飯田神社本殿の改築工事が行なわれる運びとなり改築工事は平成四年十月着工され翌五年三月三十一日に落成した。同年四月十一日春季大祭にあわせて遷座祭を挙行し、清水宮司を祭司とし多ぜいの神官を始め建築関係者、近隣の崇敬者、氏子を招いて盛大に行われた。改築にあたりプリムローズカントリークラブを始め多ぜいの崇敬者から多額の浄財を神納いただいたので、諸祭具を新調したほか諸行事を行うことができた。ここに関係者各位に感謝の意を表し神社の由来並びに改築経過を記念碑に刻して後世に伝える。
 平成五年四月十一日
           宗教法人飯田神社 氏子一同
           飯田神社総代表 影山倉造撰並書』

 氏子区域を一望できるとの理由から琴平山頂を社地に選んだとのことだが、周囲を見回してみても生い茂る木々しか見えないので見晴らしが良いとは言い難い。昔はもっと木が少なかったのだろうか。
 貴布禰神社は嘗ては現在の集落農業センターの場所に祀られていたと「小川町の歴史 別編 民俗編」に記されているが、それはここから460m程北東にある飯田集落センターのことだろうか。また、末社の石船神社は明治二十七年まで長福寺の裏山に祀られており、麓にある直径一メートル程の湧水池で御神体の石船を用いた雨乞いがしばしば行われていたのだそうだ。
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 神楽殿。
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 左から日枝神社、稲荷神社・石船神社・天手長男神社、津島神社。右の石碑は昭和十四年秋建立の蠶桑之碑。左奥は納札所。
 日枝神社の覆屋の中には「奉祝再建日枝神社 平成五年四月十日 棟梁 嵐山町大字古里 吉場健一」と書かれた棟札が掛けられている。
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 狛犬。先代様だろうか。
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 火光天。
 左の火光天碑の背面には「醫王山法印宥譽代 願主 當所 柴崎甚五郎」、中央の火光天碑の背面には「納主 影山倉造 平成九丁丑年七月吉日建之 揮毫 岩田紅洋 石匠 関根石材」、右の石祠の側面には「嘉永元星舍戊申六月吉祥日 醫王山法印宥譽代」と刻まれている。ちなみに嘉永元年は1848年で平成九年は1997年。
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 西中学校の北側の道端に建てられた標柱。御神紋は左三つ巴紋であるようだ。
 ストリートビューを見ていて今更ながらに気付いたのだが、ここから180m程北にある小祠はなんだろう? 「小川町の歴史 別編 民俗編」には飯田の芝崎家の裏山にお杓子様と呼ばれる小祠があると記されているが、それだろうか。ちなみに風邪引きに効く御利益があるのだそうだ。
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 標柱から130m程西北の道端に鎮座する青面金剛と猿田彦大神x2(このへん)。

穴八幡古墳(小川町増尾)

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 八幡神社の100m程南に位置する穴八幡古墳(比企郡小川町増尾63-1他)。
 史跡のカテゴリーに入れようかとも思ったけど、八幡社が祀られているので神社カテゴリーで。
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『県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字大塚と増尾の間に位置する八幡台地のほぼ頂部に立地する穴八幡古墳は、埼玉県内でも最大級の規模を持つ方墳です。首長を治めた横穴式石室は南に開口し、内部には下里産出と考えられる大きな緑泥石片岩を利用しています。また、この位置が小川の盆地を一望にみわたせることなどから、この古墳の被葬者はこの盆地を治めた有力人物であったのかも知れません。
 新編武蔵風土記稿によれば、この古墳は寛文(1661~1673年)の頃、切りくずして陸田にしようとしたところ、石室が現れたので中止したことが記されています。なお、文政十二(1829)年、島田氏が八幡神社を勧請したので穴八幡と呼ばれるようになり、遠く江戸吉原のおいらん衆が奉納した提灯や手ぬぐいが残っていました。
 平成十年三月』

『穴八幡古墳は、大塚郷に属していたが、貞治二年(1363)には郷界移動により増尾郷に属するようになった。宝暦八年(1758)に増尾村の島田重右衛門後家が梅岑寺に管理を任せ、その後、島田家が氏神を重ねて祀った。島田一家の氏神では困るということで氏子が明治五年七月に提訴したが、結局、島田一家の社として認められ、氏子は大塚八幡社のみの氏子として落着する』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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『埼玉県指定史跡 穴八幡古墳
 小川町大字増尾字岩穴六三‐一外
 昭和三四年三月二○日指定
 平成三年三月一五日追加指定
 当古墳は、巨大な横穴石室を備える古墳として、昭和三四年に埼玉県指定史跡に指定されました。古墳の形は、当時円墳と考えられていましたが、昭和六三年の発掘調査や測量調査により、周囲に二重の周堀を備えた方墳であることが確認されました。
 古墳は、墳丘の高さ約五・六m、一辺の長さ三二mを測り、周囲の堀は内堀が幅五・七m、外堀が三・七~四・七m、外堀の一辺の長さ六一・四mを測る、県内最大級の方墳です。
 石室は、緑泥片岩などの大きな一枚石を組合せ、内部は奥室と前室から構成され、全長八・二mを測ります。
 当古墳の造られた時期は、埴輪が出土しないことや前庭部から出土した須恵器から古墳時代終末期、七世紀後半と考えられ、小川盆地の古代文化を考えるうえで非常に貴重な存在です。
 平成五年三月二五日』
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 石室開口部。
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 斜めから。
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 古墳全体図。
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 石室内部。奥に八幡社が鎮座している。
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 産泰神社。
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 石祠二基。
 何神社なのかは不明だが、左の石祠の裏面には「昭和■八年十月吉日 島田■之助」、右の石祠の裏面には「昭和四十七年一月吉日 嶋田宇之助」と刻まれている。

八幡神社(小川町大塚)

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 小川町営八幡台グラウンドの南側に鎮座する八幡神社(比企郡小川町大塚427)。
 一の鳥居は八幡神社から350m程東に建てられており、ここから北へ向かうと大梅寺、東へ向かうと仙覚律師遺跡や小川町立図書館がある。ちなみに八幡台グラウンドは古くは八幡神社の馬場であったのだそうだ。
 社号標石の裏面には「紀元二千六百年四月 氏子中 昭和四十九年三月再建」、鳥居の柱には「紀元二千六百年記念」「昭和拾五年四月建 氏子中」と刻まれている。それと、よく見るとこちらの社号標石に刻まれた「幡」もノの部分が彫られていない。とすると、角山八幡神社の社号標石もわざと異体字にしたのだろう。
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『八幡神社
 所在地 比企郡小川町大字大塚
 八幡神社は、元弘三年(1333)に、創建されたと伝えられている。
 鎌倉幕府の滅亡に際し、将軍であった守邦親王は、慈光寺山麓の古寺の里に亡命し土豪猿尾氏に迎えられ、この梅香岡に仮寓したという言伝えがある。
 守邦親王が鎮守神明社の境内に勧請したのが、八幡神社のはじまりであるといわれている。
 慶安二年(1649)、三代将軍家光より社領十石二十斗を賜って以来歴代将軍から、御朱印を受けていたと伝えられている。
 守邦親王が生前、小字的場で馬術を練習した故事にならって境内でかつて流鏑馬や馬くらべが行われていた。
 八幡神社の大欅は、町の天然記念物に指定されている名木で、この木が下から水を吸い上げるため、この地の井戸はどんな日照りでも水が枯れることがないと言われている。
 昭和五十九年三月』

『増尾・角山・飯田・大塚の四か村と笠原の一部の地域は、中世の麻師宇郷に相当するといわれている。大塚の八幡神社は、この四か村の中央に位置する台地上に鎮座しており、古来、広範囲の人々の崇敬を受けてきた故を以て、戦前は町内で唯一郷社に列していた。
 境内のある台地は、かつて日本武尊が東征の折りに布陣したところといわれ、それにちなんで古くから神明社が祀られていた。その後、文治三年(1187)に源頼朝が山王社(現日枝神社)を、さらに元亨三年(1323)にこの地に隠遁していた鎌倉幕府最後の将軍となった守邦親王が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を境内に勧請し、その結果、八幡社が主体となって祀られるようになったと伝えられる。
 しかし、社蔵の「応永文書」に、文永のころ(1264~75)に八幡宮の方が村の鎮守になったため、本社であった神明社は摂社となった旨の記載があることから考えると、元亨三年以前から何らかの形で八幡社が祀られていたことがうかがえる。麻師宇郷を領していた豪族の猿尾氏は源義経の臣であったため、源氏の氏神である八幡社を自らの所領に祀っていたことは想像に難くない。
 また、社伝によれば、守邦親王は鎌倉幕府の滅亡後、一旦京都に上ったのちに源氏と縁の深い都幾川村の慈光寺を頼ってこの地に逃れ、猿尾氏に迎えられてからは梅皇子と名乗って再挙を図ったが志を遂げられないまま没したので、その霊を自ら勧請した鶴ヶ丘八幡宮に配祀したという。「新編武蔵風土記稿」に「梅皇子の霊を祀る」と記されているのは、そのことを言ったものと思われる。
 このほかにも、八幡神社の行事や信仰には守邦親王にちなむものが多い。例大祭は親王の命日である九月十九日を祭日とし、生前に親王が的場で馬術の練習に励んでいたことから流鏑馬が行われていた。また、この日授与する矢除守は、守邦親王の父である久明親王が将軍となって鎌倉に下向した際に母君から授かったお守りに倣ったものであるという。なお、神職の片岡家は、守邦親王の子孫とされ、江戸時代には梅香山梅岑寺と号する本山派修験の寺であった。
 矢除守や、流鏑馬の神馬に陪従して無病息災を願う子育矢(陪従矢)によって、八幡神社は子育ての神として信仰が厚いが、「子」が「蚕」に通じることから、養蚕が盛んなころには養蚕の神としても信仰され、比企郡下はもとより入間・大里・児玉・秩父の各郡や群馬県に多くの崇敬者があった。また、同社は縁結びの神としても信仰されている。それは、かつて境内の芭蕉句碑の脇には、愛染椿と呼ばれる椿の大木があり、その葉を取って白紙に包み、拝殿前の石段で潰して葉が藍色に染まると相思の人と結ばれるとされてきたためである。この椿は枯死したが、現在は二代目が植樹されている』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

『守邦親王は、実際には元弘三年(1333)五月二十二日の幕府滅亡の日に将軍職を退任し、出家したが、その年の八月十六日に三十三歳の若さで鎌倉で薨じている。したがって、伝承とは異なるのであるが、しかし、そのような伝承を生むような背景があったのではないかと考えられる。参考までに他の所伝を引いてみたい。
 当社別当の梅岑寺の系図には「建武元年(1334)梅麿誕生 於此増尾郷建立一社而勧請鶴岡八幡宮為氏神于時九月十九日也即大塚村八幡宮是也」と記され、梅麿が誕生したのを機に九月十九日に氏神である鶴岡八幡宮を勧請したとの異伝が残っている。また、梅皇子は貞治二年(1363)に薨じて「清浄院二品親王嘉慶法師」という法号を奉られ、割注に「奉葬八幡宮正面」と、皇子を当社前方の穴八幡古墳に葬ったことを記している。
 「風土記稿」八幡社の項には、「当社は建治二年(1276)〔或は建武元年と云、大梅寺の伝に梅皇子永仁三年(1295)薨ずと見ゆれば、建治ならざること明けし、〕後深草院第三の皇子、梅皇子の霊を祀れり、(中略)一説に梅皇子は守邦親王の庶子なりしといずれもうけ難き説なり」と、親王の薨年はもちろん、梅皇子を親王とすることにも疑問を呈している。そして大梅寺の項には「相伝ふ当寺は建治二年後深草院第三皇子、梅皇子の建立し玉ふ所なり、彼皇子は正元元年(1259)故有て当所へ下向し、永仁三年九月十九日薨じ玉ひしを、当寺に葬りて大梅寺殿二品親王賀慶法師と諡し奉るといと覚つかなき説なれど、姑く伝のままを記せり」と、こちらも疑いつつ所伝をしるしたとしている。
 梅皇子が奉葬されたとする穴八幡古墳が、地名の由来である大塚のことで、七世紀初頭から中葉にかけての築造であるが、鎌倉から室町にかけて重葬が行われており、骨壷が納められていた。石槨入口の左側石面に「建治四年戊寅二月彼岸日」と年紀が刻まれているから建治初年に葬られた有力者がいたことになる。また、梅皇子を守邦親王の庶子とする説から推して親王の御子を当地の源氏系の人々が擁護し、それがこうした貴種流離譚と結び付いたことも考えられる』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 二の鳥居。
 こちらは明治四十四年十二月の建立。一の鳥居よりも二十九年程古い。
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 参道右手側、ブルーシートを掛けられているこれは、おそらく土俵だろう。奉納相撲などが行われているのだろうか。
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 参道。
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 水盤には「元文四己未九月吉日」と刻まれているので、1739年のもの。
 その奥には昭和六十二年(1987)四月建立の向拝・境内社・社務所新築記念碑と、昭和二年(1927)十月建立の社務所・競馬場建設碑がある。
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 神楽殿。
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 拝殿。
 石燈籠には「安永六年丁酉之春三月吉日」「梅岑寺勝清」と刻まれているので1777年の造立。
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『御社名 八幡神社(旧郷社八幡宮)
 御祭神 誉田別命・保食命・大山咋命
     天照皇大神・豊受大神
 境内社
  産泰神社(伊弉諾命・伊弉冉命)
  天手長男神社(天手長男命)
  琴平神社(大物主命)
  秋葉神社(軻遇突智命・河菜姫命)
  寅稲荷神社(倉稲魂命)
  天神社(菅原道真)
  疱瘡神社(少名彦名命)
  大山祇神社(大山祇命)
  高良神社(武内宿弥命)
  高龗神社(高龗命)
  稲荷神社(豊宇気姫命)
  新羅神社(奥津甲斐弁羅命)
  愛宕神社(火産霊命)
 御祭事
  元旦祭  一月一日
  春 祭  三月十日
  例大祭  十月十九日
  七五三詣 十一月十五日
  秋 祭  十一月二十三日
  他小祭』
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 狛犬一号。
 台座には「大正四年三月吉日建」「東京市日本橋室町壹丁目 納主 山本徳治郎」「世話人 大塚常次郎 氏子惣代一同 石工 曽根多志三」「社掌 片岡勝明」と刻まれている。大正四年は1915年。山本徳治郎の名は大塚の八坂神社の鳥居にも刻まれていたが、信仰心の篤い人だったのだろう。
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 鳩。
 八幡神の神使は鳩だから不思議はないが、しかし、なかなか見かけるものでもない。
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 狛犬二号。
 台座には「明治廿二年一月」「願主 関根喜兵衛 當所」「熊谷石原 石誠」と刻まれている。明治二十二年は1889年。こちらの方が古いわけだから、むしろこちらが一号か。
 右は狛犬と言うより人面犬と言った感じだが、先代の狛犬から移し替えたものなのだろうか。
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 別角度から。
 顔面の接合部がはっきりわかる。
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 斜めから。
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 引きで。
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 疱瘡神社・寅稲荷神社、天満宮、秋葉神社・天手長男神社・琴平神社。
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 産泰神社。
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 高良神社、高龗神社、新羅神社・稲荷神社。
 後ろに見えるのは納札所。
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 石祠。
 何神社なのかはわからないが、大山祇神社か愛宕神社のどちらかだろうか。
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 境内の端に庚申塔。

八幡神社(小川町角山)

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 小川町駅の北西600m程の位置に鎮座する八幡神社(比企郡小川町角山277)。
 社号標石は「幡」の旁が一部彫られておらず、偶々通りかかった地元の方が、「ノが無いんですよー」と笑っていた。ちなみにノの無い幡は異体字なので、彫り忘れでは無い可能性もある。

『角山の八幡神社は、元弘三年(1333)に勧請され、元は峰山に祀られていたが、兵火にかかって社殿を焼失したため、明暦二年(1656)に現在の境内に移転したという。峰山の元地には、石祠があり、しばらく前までは字峰山の人々が祭りを行っていた。
 この八幡神社は、「五社八幡宮」とも呼ばれるが、それは、明暦二年に現在の境内に移転した際、角山の草分けである粟生田・岩田・新井・杉田・根岸の五軒の各氏神である八幡・天神・諏訪・稲荷・聖天の五社を統合して角山全体の鎮守として祀ることになったためで、現在の境内は元来は新井家の諏訪社があった場所である。五社の中でも八幡社が中心になった理由は、この社を氏神とする粟生田氏が、角山第一の土豪であり、移転当時は角山坊と号して修験者としても活動を行っていたことにあると思われる。
 なお、八幡神社は武術の神として信仰が厚く、昭和二十七年ごろまでは例大祭に流鏑馬が行われていた』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社殿後ろから。
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 手長社・八坂社合殿。
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 八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命。
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 菅原道真公。
 裏面には「明治二十三年一月建之 岩田宗長」と刻まれている。

半僧坊大権現(小川町大塚)

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 小川町立図書館の西北200m程、仙覚律師遺跡内に鎮座する半僧坊大権現(比企郡小川町大塚351)。
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 権現堂前には四十六体の羅漢が並んでいる。数えてないけど。
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 海の守護神との文字が見える。四十六体の羅漢は全て違う形をしていて面白いが、なにぶん蚊が多くて長居したくなかった為、殆ど撮影していない。虫除けスプレーをかけておいたのだがなぁ。
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 石段右側一番下の羅漢が持つ標石に半僧坊大権現と刻まれている。
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 仙覚律師遺跡は中城跡とも呼ばれ、鎌倉時代は猿尾太郎種直、室町時代初期には斎藤六左衛門重範の居城であったと伝えられているのだそうだ。そして半僧坊大権現が鎮座するこの場所は櫓台であったと推定されているのだとか。
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 権現堂脇から土塁の下を見ると、堀を挟んで二重土塁がぐるりと巡っている。
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 堀跡。右側の土塁を越えると郭内。
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『仙覚律師遺跡
 所在地 比企郡小川町大字大塚
 仙覚は、鎌倉時代の僧侶(天台宗)で、建仁三年(1203)常陸国(茨城県)に生まれたが、没年は不明である。
 万葉学者としてしられる仙覚は、万葉集解読に半生を捧げた人で、彼の著作した「万葉集註釈」は、以後の万葉集研究の基礎をなしたといわれている。この奥書には「武蔵邦比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されており、当地に仮宿し、まとめたものと推定されている。
 この地域は、付近をとりまく土塁、空堀跡、櫓の跡から、中世の土豪、猿尾(ましお)氏の居城で中城跡といわれている。
 なお、この記念碑は、昭和三年に仙覚律師遺跡保存会により建てられたものである。
 昭和五十九年三月』

 ここから600m程南西にある栄広庵は、文治二年(1186)に大夫坊覚明という僧が中城に設けた庵が始まりだが、享保年間(1716~36)には朽ちてしまった為、栄広という僧がこれを増尾に移して再建したものであり、仙覚が「万葉集註釈」を完成させたといわれる場所こそがこの庵であったとの伝承があると「小川町の歴史 別編 民俗編」に記されている。
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 権現堂の東、春日会館脇に聖徳太子碑。
『移転記念碑
 大東亜戦争が終わり、日本国には正常な衣食住が失われ特に人の心のすさみかたはひどく、たとえようがありませんでした。
 時の日本政府の要人は、国民の心をなごませるには、どのようにしたらよいかと心を痛めており、それには子供の心を和やかにするのが一番だと気付きました。
 そして、国内一町村に、一ヶ所は子供遊園地を設置するということになり、小川町においても町としてどのようにすべきかが区長会議にこのことが提案されました。
 その席で緑町区長田口一男氏より申込があり、現地調査が行われましたが、二百坪を確保するためには「聖徳太子碑」を移転することが必要になり、移転するにあたり、碑の設置責任者である職工組合に相談され代表者の頭山口五郎丸、海野金重で検討された後、組合全員の承諾をもって決定されました。
 陣屋台に移転するために、八幡神社総代大塚董氏、片岡松三氏の許可を得るとともに、運搬にあたっては、車輌通交のため大塚精市氏の私道を広げ多大な協力を得ることとなりました。
また、移転にかかわる費用については、区長田口一男氏が緑町有志と談合す全額支出する運となり、この地に立派に建立されました。
 大黒天のお宮を富田裕夫棟梁が優雅に製作しました』
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 御嶽神社。
 石祠の額の部分には神紋があり、背面には「大正十二年八月建 祭主 浅見稲■」と刻まれている。
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 隣のこれはなんだろう。不動明王……には見えないから、摩利支天かな。摩利支天も形が様々でよくわからないけど。

 以上で9月19日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA77mm。X30。
 この後は白山神社と八幡神社、穴八幡古墳に向かうつもりだったのだが、ちょっと時間が足りなくなりそうだったので今回はここまで。次の土曜(つまり今日)に行けば良いかと思っていたら、天気予報では土日が雨とのこと。それじゃあと9時過ぎまで寝ていたら、雨が降るどころか次第に晴れ間が見えて来る始末orz 来週晴れたら行こう。

八坂神社(小川町大塚)

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 国道254号線脇、大関町会館に隣接して鎮座する八坂神社(比企郡小川町大塚94)。
 玉垣の親柱正面に八坂神社、側面に稲荷神社と刻まれており、扁額にも八坂神社稲荷神社合殿とある。
 鳥居の柱には「大正三年六月吉日建之」「東京日本橋區室町一丁目 山本徳治郎」と刻まれている。大正三年は1914年。

『大塚の八坂神社は、秩父街道の宿場の一角を成していた大関町の町中にある。そのため周囲に商店や民家が建て込む狭い立地を有効に使った独特な境内配置がなされている。現在の社殿は、社務所と共に平成三年四月に竣工したもので、独特な造りである。
 この八坂神社は、境内にある頌徳碑によれば、元は「梅皇山牛頭天王」と称し、天保八年(1837)に疫病の流行によって多くの人が亡くなった時、住民がこの牛頭天王に祈願したところ、霊験著しく病魔が退散したので、大関町の大塚佐右衛門という人が率先して私有地を提供し、町衆と共に社殿を建設の上、梅皇山から牛頭天王を遷祠したことに始まるという。以来、疫病除けの神として信仰厚く、この社を祀っているおかげで大関町では現在に至るまで二度と疫病が流行することはなかった。
 また、社殿内には、伏見稲荷の分霊と伝えられる稲荷神社が併せ祀られており、地元の商家の人々から商売繁昌の神として信仰されている。このほか、かつて境内には七夕神社が祀ってあったが、老朽化が進んだため、平成三年の再建時に八坂神社に合祀された』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 梅皇山とはどこだろうとググってみたら、梅岑寺の山号であるようだ。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、当八坂神社は延宝七年(1679)九月と嘉永二年(1849)六月、明治元年(1868)九月の三回再建されたと記されている。上記の平成三年(1991)を加えると四回か。それはさておき、延宝の時は蓮蔵院、嘉永の時は梅岑寺、明治の時は大教院が別当を務めていたとのことであり、蓮蔵院と梅岑寺は同じ寺であるのだそうだ。とすると、梅皇山蓮蔵院梅岑寺と言う寺の境内に祀られていた牛頭天王をこちらに遷祠したと言うことになるのだろうか。しかし、普通は山号ではなく寺院名で書きそうなものだから、梅皇山と言う山があったと考えるべきかな。鎌倉幕府九代将軍である守邦親王が当地に逃れ落ち、猿尾氏に迎えられて梅香岡に仮寓したとの言い伝えもあるようだし。その辺りは調べてないのでよくわからない。ちなみに現在梅岑寺は存在しないが、本山派修験男衾郡板井村長命寺の末寺であり、ここから800m程西に位置する八幡神社の別当でもあったのだそうだ。
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『頌徳碑
此處の八阪神社は去る天保八年吾地悪疫流行し死する者その数を知らず凶氣月を経て上ず
郷人哀痛して梅皇山牛頭天王に此悪疫退散を祈願す霊験いちぢるしく病魔たちまち滅して
患を免かる茲に於て吾町の大塚佐右衛門氏率先私有地を提供し衆とともに社殿を建設し梅
皇山より遷祠以て神徳に奉謝す盍し郷民一般の信念なりき其後明治の間小川村も町に発展
するにつれて吾大関町も益々増家繁榮するに到るや旧道の曲折狭隘を感じ當時の有志等道
路の改修を大塚氏に謀るや氏また進んで其幹部となり私財を投じて盡力大いに務む而して
曩きに納たる本社境内地は當時村社々掌片岡鼎氏の假所有名なりしを大塚佐右衛門の子恭
次郎氏と社掌の孫片岡二郎氏より贈與を得て昭和五年四月十九日付を以て登記完了せり是
まことに大塚佐右衛門氏の敬神感念と燃えるが如き愛郷心の事蹟にして本社の歴史なり盍
しこの徳行を不朽にせむ爲に刻して以て碑を建る者なり
 昭和六年四月』
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 左は大黒天。右は文久三年癸亥(1863)六月に建てられた天王社の頌徳碑。文字は大分薄くなっており、読み取り難い。

栃本観音堂(小川町大塚)

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 小川図書館の西側、緑会館脇に鎮座する栃本観音堂(比企郡小川町大塚212)…と言うか不動堂。

『大塚の緑町は、古くは小川宿栃本といい、その地内に祀られている観音堂は、正徳二年(1712)に記された縁起によれば、奈良時代に行基が秩父に向かう途中でこの地に立ち寄って観音像を刻み、小庵に安置したことに始まるという。その後、平安時代には坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、承和年間(834~48)には吉志福正が堂を修復したとされる。鎌倉時代には地元の豪族の猿尾氏や斎藤氏に庇護されて栄えたが、戦国時代に大梅寺と同様に焼き討ちにあって焼失したものの、江戸時代に入ると慈光寺に詣でる途中にこの地に立ち寄った徳川家康の命によって再建されたと伝える。しかし、元禄年間の初め、雷火によって再度焼失し、その後再建されたものが現在の堂である。
 さらに、慶応三年(1867)になると、観音堂の近くに地元の成田不動尊の講中である立身講の人々が千葉県の成田山から不動尊を勧請して祀るようになった。これが「緑町成田不動尊」の始まりで、その後年を追うごとにこの不動尊の信仰が盛んになり、節分には町内の名士を年男に招いて盛大に豆撒きが行われるようになった。また、大正の初期には十二月六日に酉の市も立つようになった。こうした経緯によって、現在のように境内の中央の堂には不動尊が祀られるようになり、観音像は脇の小堂に祀られるようになった』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 由緒書き。
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 滑り台の上から。
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 こちらが観音堂なのだろうか。
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 閻魔堂。
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 堂内には閻魔王像以外にもいくつかの仏像が見える。

上小川神社(小川町小川)

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 小川警察署前から西へ70m程、国道254号線に面して鎮座する上小川神社(比企郡小川町小川68)。

『上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この社号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移ってきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(1392~1428)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 拝殿。
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 幣殿と本殿。
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 三峯神社。
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 左は八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命。右は澤泉舎喜古碑とあるが、なんだろうこれ。

八宮神社(小川町小川)

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 国道254号線と埼玉県道11号熊谷小川秩父線が交差する小川小学校(東)交差点の東北400m程の位置に鎮座する八宮神社(比企郡小川町小川990-1)。

『創建については、「風土記稿」に「勧請の年暦は詳ならざれど、元和三年(1617)再建の棟札あれば、それより前の鎮座なりしことしらる」とあるのが、最も詳しい記録である。ただし、この記事に見える「元和三年再建の棟札」は現存していない。また、当社は、元来は地内北部の日向山(愛染山とも称す)に鎮座していたが、享保二年(1717)に現社地に遷座したと伝えられる。日向山とは、現在日赤病院がある辺りで、旧社地とされる場所は山林になっており、往時の面影は全く残っていない。この遷座の理由は明らかではないが天保四年(1833)に建立された現在の社殿は、日光東照宮全棟の工事を担当した棟梁頭平内大膳守正清の七代目に当たる林兵庫正尊を大棟梁に、上州花輪の彫工石原常八主信を彫物棟梁にして再建された立派で大きなものであることから考えると、境内の拡張が目的であったものかと思われる。ちなみに、当社の本殿は、昭和五十三年に町から有形文化財の指定を受けており、棟札も残っている。
 近世の別当は、本山派修験の休蔵院が務めた。休蔵院は、幸手不動院の配下で、愛染山と号し、法印墓地の墓碑銘によれば初代の権大僧都長秀法印は延宝二年(1674)に没している。神仏分離後も院主が復飾して千島姓を名乗り、神職として祭祀を継承し、秀儀・秀巳・宮治・幹茂・三郎と務め、一時絶えた後、縁者の荻野孝一郎が神職を継ぎ、現在に至っている。
 当社の祭神は、「五男三女神の八柱の神」と伝えられ、一般に"八宮"の名は八柱の神を祀ることを意味すると説かれる。しかし、「五男三女神」の具体的な神名については諸説あり、「明細帳」では「天照大御神御子神五柱・月読尊御子神三柱命」、「風土記稿」では「国狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煑尊・砂土煑尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・惶根尊」、「比企郡神社誌」では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。また、当社の本地仏は愛染明王で、現在も内陣に安置されている像高三三センチメートルのの愛染明王座像については「風土記稿」にも「今本地愛染を置り」との記述がある。内陣には、この座像と共に貞享元年(1684)銘の棟札も納められており、その表側には「本地金剛界大日如来」裏側には「奉灌頂愛染明王天長地久国土安全攸(脩)」の文字が見える。
 八宮神社は、現在、小川町に四社、嵐山町に四社、滑川町に一社と、比企郡に限って存在し、しかもほぼ鎌倉街道上道に沿って集中的に分布している。また、八宮神社の分布している地域の東側には淡洲神社、南側には黒石神社がいずれも集中的に分布しており、この付近は神社の奉斎とその祭祀圏の関係について極めて興味のある地域である。しかし、これらの神社の分布の持つ意味は未だに解明されておらず、八宮神社の分布についても、郷土史家の大塚仲太郎が昭和五年に神社の分布は「和名抄」所載の郷名と関係があり淡洲神社の分布地は醎瀬郷、八宮神社の分布地は多笛郷に比定されるという説を、昭和十三年には八宮神社の分布は奈良梨から下小川に居住する千野氏や諏訪氏といった一族と関係があるという説を「埼玉史談」に発表している程度であり、この二説もまだ定説とは言い難い。
 「八宮」の文字は、現在どの神社でも「やみや」と読んでいるが、「風土記稿」にはすべて「ヤキウ」と振り仮名を付しているところから、元来は「やきゅう」と読んでいたことが推定される。このことは、福島東雄の「武蔵志」で、当社の社名が「八弓明神社」となっていることからも裏付けられ、寄居町鷹巣の矢弓神社や東松山市の箭弓稲荷神社との関連も考えられる。なお、「八宮」を「やみや」と読むようになった時期は明治維新後と推定されるが、読みを変更した理由は定かではない。このように、八宮神社の祭祀については不明な点が多くあり、その解明は今後の研究に期したいところである。
(中略)
 境内にある青麻大神社は、古くは「青麻三光宮」と称し、少毘古那命を祀る社である。同社は、足の神様として信仰されており、足が痛む時祈願し、治ると御礼に草鞋を一足奉納する習いがある。
(中略)
 当社の末社になっている諏訪神社は元来千野一家(一族)が氏神として祀っていた社であった。また、千野家には他にも一家で祀る稲荷神社があり、平素は「祈願すると失せ物がよく出て来る」と言われて信仰され、毎年初午には団子を供えて祭りを行っている。しかし、大塚仲太郎が推定した当社との関係については伝えられていない』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 由緒書き。
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 参道右側に芭蕉句碑。
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『芭蕉の句碑
    八宮神社境内、往時、椎の大木あり
    小川町大字小川九九一番地
    先堂能む椎の木も安里夏木立
                 者世越
        出典 猿蓑
        年代 元禄三年(一六九○)
        年齢 四十七歳
碑陰
       丁未之仲夏立之
          (弘化四年・一八四七)
句の大意
     奥の細道などの長旅で辛苦をなめた
    末に、しばしの安住を求めて、この幻
    住庵に入ってみると、傍らの夏木立の
    中にひときわ高い椎の木もあり、当分
    身を寄せるに足り、まことに頼もしく、
    まずはほっとする心持である。
   平成三年三月』
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 拝殿。
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 狛犬。
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『埼玉県指定有形文化財・建造物 八宮神社社殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿です。本殿は棟札によると天保四年(1833)に建てられました。大棟梁は林兵庫正尊、彫物棟梁は石原常八主信で、妻沼歓喜院聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引いています。埼玉県内に特徴的な精巧な彫刻をもつ寺社の中でも、年代を特定できる好例として貴重な建造物です』
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 本殿西面。
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IMGS2696s.jpgIMGS2697s.jpg
 中段が「三顧の礼」のシーンであるのはわかるが、下段の童子はなんだろう。なにかゲームのようなものをしているようにも見えるけど。
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 本殿北面。
IMGS2701s.jpgIMGS2702s_2015092320061852a.jpg
 これまた「三顧の礼」のシーン。西面には諸葛亮と諸葛均、北面には張飛・関羽・劉備の彫刻が施されている。そして下段は棒馬で遊ぶ童子達。
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 これらもなにかのワンシーンなのかな。わからん。
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 本殿東面。
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 こちらの面は「三顧の礼」と繋がってはいないようだが、はて、なんだろう。下段は亀で遊ぶ童子。
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 諏訪神社。
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 御嶽神社。
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 青麻三光宮。
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『埼玉県指定有形文化財・建造物 青麻三光宮本殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社境内に末社として建つ青麻三光宮本殿は、棟札によると天保十三年(1842)に八宮神社本殿と同じく林兵庫正尊を棟梁として建てられました。八宮神社に比べ規模は小さいですが、本殿全体に施された彫刻は見劣りしません』
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 八宮神社の拝殿と青麻三光宮の間に建つ鳥居。
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 額はあるのだが、文字は消えてしまっていてわからない。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」に記された境内見取図を見ると、先ほどの鳥居の先には大黒天があり、現在は見取図よりも境内が広くなっている為見取図に記された位置に大黒天は無いが、平成大改修の内容を記した案内板には平成十二年八月五日に大黒天社殿を移築したとあるので、こちらは大黒天であると思われる。
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 神池に神橋が架けられ、その先に祠が二つ並んでいる。
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 池があるのでてっきり厳島神社だろうと思っていたら、案内板に「平成九年十二月一日 天神社・稲荷社の社殿奉献」と記されているので、稲荷社と天神社なのだろう。
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 改修整備事業案内板。

 さて、これで八宮神社九社全てを巡ったわけだが、どうにもよくわからない神社だ。
 小川町下里の八宮神社を総本社として、小川町は小川、中爪、能増。嵐山町は越畑、志賀、杉山、廣野。滑川町は和泉。しかし下里の本社からの分霊は越畑・志賀・杉山・廣野・下小川・中爪・能増と記されているので、和泉の八宮神社は下里からの分霊には含まれず、ではどこから来たものなのかと言うとそれを記したものがないのでわからない。そして八和田神社の石碑には下横田の八宮神社を合祀したと記されており、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には、風土記稿には志賀村に八宮神社が二社あると記されているとある。これらについては資料が無い為わからない。
 そして、下里の八宮神社の御祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神であるのに、そこからの分霊を勧請した先では同じ神を祀っているところが一社もないと言うのはどういった訳だろう。
下里  高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神
小川  五男三女神あるいは国狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煑尊・砂土煑尊・大戸道尊・
    大戸辺尊・面足尊・惶根尊
中爪  素盞嗚尊
能増  当地を治めた豪族と日本武尊
越畑  「明細帳」では応神天皇、「比企郡神社誌」では素盞嗚尊
志賀  下照姫命
杉山  建速須佐之男命・大己貴命・稲田比賣命
廣野  建速須佐之雄命・大己貴命・稲田姫命
和泉  素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命
 ほぼ半数が素盞嗚尊を主神としているのはどういう訳だろう。そして八柱の神を祀っているのは下里と小川のみで、他の八宮神社の主祭神の数は八柱に届いていない。小川八宮神社の南西2km程には八王子神社と氷川神社があり、更にそこから南西3km程に氷川神社が二社ある。八王子神社の御祭神は五男三女神であり、氷川神社の御祭神は素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命の三柱神である。御祭神だけを見れば、むしろこれらの方が近いのではないかとさえ思えてくる。
 本当に、よくわからん神社だなぁ。

八宮神社(小川町下里)

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 槻川に架かる柳町橋の南西に鎮座する八宮神社(比企郡小川町下里911)。

『下里の鎮守である八宮神社の由緒は、「神社明細帳」に「往古ハ村ノ東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(868)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏に祀ってある祠は、口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていた。
 文書等の記録を欠くため、創建の年代や、現在地への遷座の時期などは不明であるが、口碑に「八宮神社の現在の境内地には、元は大きな寺があったという。そこに八宮神社を遷宮したと聞いている」との伝えがあることから、遷座には境内を拡張することや、鎮守の社を村の中央部へ移そうとの意図があったものと推察される。江戸時代には、正理山宝寿院という真言宗の寺院が別当として祭祀を行っていたが、神仏分離によって廃寺になった。明治四十一年十二月に愛宕神社、天神社を合祀した』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 こちらの御祭神は、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神である。
 筒の部分は「止」冠の下に「冉」と書かれているが、異体字の検索を掛けても出てこない。墨江三神は住吉三神のことなので、まあ筒なのだろうなと。
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 参道は涼やかで、とても気持ちが良い。八宮神社の大半を巡って来たが、ここだけ格が違うと言うか最も清浄な雰囲気を感じたのは、ここが総本社であるとの意識があるからと言うばかりではないだろう。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 日露戦争の戦勝記念に奉納されたものだろう。
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 狛犬。
 台座には「住宅建築記念 昭和六年十一月吉日 當所 田中伊助 社掌 梅沢亮之助」と刻まれている。昭和六年は1931年。
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 本殿裏には分霊した七社の神璽を納めた祠が設置されている。
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 稲荷社と天神社。
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 三峰社と八坂社。
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 一の鳥居の脇に設置された梅沢亮之助翁の像と頌徳碑。
 大正七年から昭和十八年まで25年間社掌を務めていた人物のようだ。
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