新宿熊野神社(西新宿二丁目)

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 新宿中央公園北西端に鎮座する新宿十二社熊野神社(新宿区西新宿2-11-2)。
 公式サイトあり。
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 鳥居。
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 鳥居右手側に十二社の碑が建てられている。
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 拝殿。
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 文化元甲子年(1804)九月造立の狛犬。
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 拝殿前には七人役者図絵馬と式三番奉納額の案内板が設置されているが、これらは社殿内にあるため拝観はできない。
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 太田南畝の水鉢。
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 弁天社。
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 大鳥神社。
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 狛犬。
 股下がくり抜かれておらず、「享保十二年丁未九月吉日」と刻まれている。享保十二年は1727年。
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 斜め上から。
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 角筈胡桃下稲荷社。
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 大鳥神社と稲荷社の間に能勢嘉門賛碑。
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 延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑。
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 読誦碑の向かい側に清水長雄氏胸像。
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 東神門。
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 境内案内図。
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 神楽殿の脇に島川玄丈人壽兆碑。
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 西の鳥居。

 以上で10月7日参拝分終了。
 この後は新宿ニコンサロンで開催されていた望月茂写真展「神と仏の風景」を見に行き、それから帰宅。まぁこの写真展が主目的で、そのついでに周辺の神社巡りをしたのだけれど。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは21,875歩。久しぶりに歩いたせいかちょっと筋肉痛が出た。
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厳島神社(中落合三丁目)

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 住宅街の中にちんまりと鎮座する厳島神社(新宿区中落合3-18-1)。
 詳細は不明。
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東山藤稲荷神社(下落合二丁目)

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 新宿区立おとめ山公園の脇に鎮座する東山藤稲荷神社(新宿区下落合2-10-5)。

『由緒
 当社は、かつて此の地方を統治された、清和天皇の皇孫源経基という御方が、今より約一千百年前、醍醐天皇の御世、延長五年(927)初午の日に京都稲荷山より勧請御遷宮申し上げた御社であり、「藤稲荷神社」「富士稲荷神社」とも申し上げております。
 当社は源経基を始め、源家一族の守神として大変厚く信仰されました。その由縁は、当時平将門が謀逆を企てた折、当東山稲荷の大神様よりその旨御神託あり、経基は早速忍者を走らせ調査した処御神託の通りだったため、帝の許しを頂き、これを平定致しました。この功により、帝より源姓を賜った経基は、以来東山稲荷神社を源氏の氏神様として一族で崇敬することとしたと伝えられております。
 やがて時代の流れと共に、武家のみならず庶民の信仰も厚くなり、「知恵と勇気」を御授け下さる福徳の神様として、その信仰者は農商業、芸能方面と広く江戸市中関東一円に増えていったとのことです。

御祭神
 宇迦之御魂大神、大宮能売大神、佐田彦大神』
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 お狐さま。
 台座には文化十五年戊寅二月初午と刻まれているので1818年の造立……の筈だが、随分と新しいように見える。再建されたものなのだろうか。
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 寛延四辛未年(1751)九月吉日造立の地蔵菩薩。手前には壊れたお狐さまの姿が。
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 拝殿。
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 おとめ山公園の案内図に弁天池とあるので、厳島神社でもあるだろうかと思ったのだが、見当たらなかった。池の中には草木の茂った小島があるが、もし小祠があったとしても遮られてわからないだろう。

氷川神社(下落合二丁目)

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 西武新宿線下落合駅の北東、新目白通り傍に鎮座する氷川神社(新宿区下落合2-7-12)。
 公式サイト有り
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 拝殿。
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 狛犬。
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 末社殿。
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『新宿下落合 氷川神社 新宿区下落合二丁目七番十二号
御由緒
 当社の創建は今より二千四百年前、第五代孝昭天皇の御代とも、又更に上古とも云われ詳らかではありませんが、蛍の名所として有名だった落合の郷、神田川の守り神として古くから信仰されてきました。豊島区高田氷川神社と夫婦の社と云い伝えられ、江戸期の文献には将軍家の御狩場「御留山」の山裾に広い境内を有していた様子が描かれています。
 太平洋戦争末期に戦火に包まれるという憂き目に遭うものの、復興を遂げ昭和二十六年現在の御社殿が再建されました。
御祭神
 素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命

 境内社(相殿)三峰社 伊弉諾神 伊弉冉神
        天祖社 天照大御神
        稲荷社 宇迦之御魂神 佐田彦神 大宮能売神
        諏訪社 建御名方神 八坂刀賣神
        浅間社 木花咲耶姫神
 兼務社 東山藤稲荷神社(新宿区下落合二丁目十番五号)』
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 新目白通りに面して建てられている南鳥居。

皆中稲荷神社(百人町一丁目)

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 JR山手線新大久保駅のすぐ西側に鎮座する皆中稲荷神社(新宿区百人町1-11-16)。
 鳥居の柱には昭和三十四年九月建之と刻まれている。
 こちらに参拝するのは二年ぶり。前回は正月三が日の内だった為に参拝者が多く、撮影をするのは躊躇われたのだが、今回は一月も下旬となればほぼいないだろうと……思ったよりいるな。
 公式サイト有り
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 明治天皇の詠まれた和歌を刻んだ歌碑。
「まがねしく 道のひらけて つつじ見に ゆく人おほし 大久保の里」
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 お狐さま。
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 拝殿前の鳥居。
 こちらの柱には平成二十五年五月と刻まれている。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『新宿区登録無形民俗文化財 江戸幕府鉄砲組百人隊行列(出陣の儀)
 所 在 地 新宿区百人町一丁目十一番十六号
 指定年月日 平成十四年二月一日
 皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。
 当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を構えた鉄砲隊が、数ケ所で古式にのっとり試射を行う。
 鉄砲組は四組あり(百人町に住んだのは二十五騎組、別称久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣には護衛をした。
 皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。
 平成十五年三月』
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 末社。左から御嶽神社、開運稲荷大神、三峯神社、辨財天社。
 公式サイトには大鳥神社と厄除稲荷神社の名も記されているのだが、どこにあったのだろう。見落としたかな?

 以上で1月23日参拝分終了。使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA35mm Macro、50-150mm II。X30。
 この後は秋葉原で新刊を購入したりヨドバシAkibaでカメラをいじったりしてから帰宅。ウォーキングカウンターは25,651歩。

鎧神社(北新宿三丁目)

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 東京都中央卸売市場淀橋市場の南西、中央緩行線鎧ガード下を抜けた先に鎮座する鎧神社(新宿区北新宿3-16-18)。
 鳥居の柱には平成八年九月吉日を刻まれている。
 公式サイト有り
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『鎧神社縁起
新宿区北新宿三丁目十六番十八号
祭神
 日本武尊 大己貴命 少彦名命 平将門公
縁起・氏子他
 当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武尊御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶三年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子他は北新宿全域と西新宿一部』
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 拝殿。
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 どっしりとした狛犬。
 台座には昭和十一年九月吉日と刻まれている。
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 西の鳥居。
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 狛犬。
 台座には天保七年丙申五月と刻まれているので、1836年の造立。
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 末社稲荷神社・三峯神社・子の権現社。
 と言うことなのだが、あっれぇ? 祠は二つしか無いぞ。どちらかが相殿になっているのかな。
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 お狐さま。
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 摂社天神社。
 鎧神社のサイトによれば、こちらの天神社は成子天神社の元宮であることから元天神とも呼ばれているのだそうだ。成子天神社はここからほぼ真南に1km程の距離にある。
 鳥居の柱には平成十三年五月吉日と書かれている。
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 社殿。
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『新宿区指定有形民俗文化財 狛犬型庚申塔
 所 在 地 新宿区北新宿三丁目十六番十八号
 指定年月日 昭和六十年十月四日
 素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天十一月(1721)の紀年銘が記されている。
 向って右側が阿形像(雄)、左側が吽形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
 狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
 平成四年八月』
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 狛犬の形をした庚申塔。
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諏訪神社(高田馬場一丁目)

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 東京メトロ副都心線西早稲田駅の西、諏訪通りに面して鎮座する諏訪神社(新宿区高田馬場1-12-6)。
 公式サイト有
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『東京市淀橋區諏訪町鎮座 諏訪神社
祭 神 武御名方神
    大國主神
    事代主神
大 祭 二月二十七日  祈年祭
    九月二十七日  例大祭
    十一月二十七日 新嘗祭
中 祭 一月二十七日  五月二十七日
小 祭 毎月二十七日  月次祭
恒例祭 六月三十日 十二月三十一日  大祓式
由 緒 鎮座ノ儀ハ弘仁年中從三位左大辨小野篁朝臣
    祭祀ト言承和年中眞雅僧正再營ト言永承年中
    源頼義父子奥羽征伐ノ時祈願有テ凱陣ノ節武
    器ヲ納ム人皇八十二代後鳥羽院御宇文治五年
    春源二位賴朝郷奥州發向ノ時祈願有テ凱陣ノ
    後社殿造營ス應仁三年春太田持資再營ト言寛
    永年中將軍家光公再營ス明和年中將軍家治公
    鷹狩ノ節御成有之當社ノ神ヲ御城庭ヘ遷座ノ
    上意ニ付紅葉山吹上兩御庭ヘ遷祭ス天保十二
    年松平出羽守ノ依賴ニ因テ赤坂邸内ヘ遷祭ス
    射的砲術天覽トシテ明治天皇御幸ノ節當社ヘ
    神酒鴨ヲ被献明治四十年當社修繕ノ際近衛各
    聯隊ヨリ金品ヲ寄附セラル同年五月幣帛供進
    神社ニ列セラル』
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 二の鳥居。
 柱には大正四年十一月と刻まれている。
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 狛犬。
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 狛犬二号。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 御嶽神社。
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『新宿区登録有形民俗文化財 塞神三柱の塔
 所 在 地 新宿区高田馬場一丁目十二番六号
 指定年月日 平成五年三月五日
 天和二年(1682)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪神社上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。
また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
 塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。
 諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重である。
 平成六年六月』
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 塞神三柱の塔と庚申塔。
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 稲荷神社。
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 神輿庫。
『校倉造 神輿庫
 校倉とは奈良時代に神社佛閣が宝蔵として盛んに作った純日本的高床式の倉庫です。
 現存する有名なものに正倉院があり、二月堂、手向山八幡、唐招提寺などの校倉も現存しています。
 然しこれらの校倉はすべて木造で、これをコンクリートで、作ることは、技術的にも、様式的にもむずかしく、知る限りではまだ一棟も完全なものがありません。
 当社では今回数少ない専門的技術人を得て、ここにコンクリートによる完全な校倉造りの大神輿の倉庫を建造しました。
 大変珍しく、貴重な建物ですから大切に保存して下さい。
 昭和五十二年六月二十五日』
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 神楽殿。
 左奥に見える建物は各氏子地域の神輿庫だろうか。
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『明治天皇射的砲術天覧所阯
 明治十五年、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、当社境内よりその射撃演習を御覧になられました。その折、畏くも天皇より神酒、鴨を賜り、氏子の歓喜、感激は大変なものでした。その後、御社殿の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえられる各宮殿下には、皆当社の社務所に御休憩遊ばされました。
只今拝殿に掲げている神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和十八年には当天覧所阯は東京都より行幸史跡に指定されました』

『諏訪の靈泉
 この水は昔から諏訪神社の境内よりこんこんと湧き出ている靈泉です。
 現在は動力で汲み上げていますがお諏訪様は龍神様(水神)としての古い信仰があり、特に眼病に故があり、又諸病にもごりやくがあると言い伝えられています。だいじにお使い下さい。
 猶少年犯罪を誘発するので、水鉢に投銭しないで下さい。お氣持ちは本殿賽銭箱へ』
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『聖蹟
 明治天皇射的砲術天覽所趾
 明治十五年十一月九日近衛射的場開場式ニ臨御同十五年十一月二十九日射的砲術ヲ天覽アラセラレタ所ナリ
 昭和十八年十二月』
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月見岡八幡神社(上落合一丁目)

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 落合中央公園の西側に鎮座する月見岡八幡神社(新宿区上落合1-26-19)。
 スライドゲートが閉じていたのでどうしたものかと思っていたら、ちょうど出て来られる方がいたので参拝は可能かと尋ねてみたところ、可能であるとのことなのでゲートを開いて境内へ。ちなみに参拝中にも何人かの方々が出入りしていたが、皆出入りする度にゲートを開け閉めしていた。開けっ放しにしないのは境内に保育園が併設されているからなのだろうか。
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 狛犬。
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『由緒
豊臣氏の公簿に古跡神社と記載さる当社の創建極めて古く是の地が余戸の郷と言はれし以前旧境内の樹間に湧く溢れ井を錦に染めし月光の華麗さに里人が月の美霊(ミタマ)と崇め敬ひしに創まる神地にして後世三社に座す八幡大神を合祀し奉るに及むで月見岡八幡神社と改稱し今日に至りし■のや

三社斎神 品陀和氣乃命
     息長帯比賣命
     大雀乃命
旧斎神  月讀命 美井乃神 杉井乃神
祭日   五月中    午前十時  末社祭
     九月第一日旺    午前九時  例大祭
     一月一日      午前十時  元旦祭
     二月三日・閏年四日 午后三時半 節分祭』
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『新宿区指定有形民俗文化財 月見岡八幡神社の庚申塔
 所 在 地 新宿区上落合一丁目二十六番十九号
 指定年月日 昭和六十年八月二日 
 正保四年(1647)に造立された区内最古の庚申塔である。宝篋印塔形で、高さ一八四・五センチ、石質は安山岩である。
 塔身部の四面にはそれぞれ金剛界四仏の種子が、また基礎部の四面には造塔銘が刻まれている。

新宿区登録有形文化財 絵画 谷文晁の絵
 登録年月日 昭和六十年八月二日
 月見岡八幡神社旧社殿の格天井に描かれていた板絵三十数枚のうちの一枚で、縦四三・六センチ、横四二センチの方形の板に描かれた円形(径三五・二センチ)の絵で、春の野の早蕨が彩色により描かれている。作者は江戸後期の画家谷文晁(1763~1840)と伝えられる。なお、この一枚は、取外されていたため戦災をまぬがれた。

新宿区登録有形文化財 工芸品 月見岡八幡神社の鰐口
 登録年月日 昭和六十年八月二日
 天明五年(1785)上落合村氏子により奉納されたもので、江戸時代の典型的な銅製の鰐口(社寺の礼拝所にかけ縄等で打ち鳴らす法楽器)である。直径三五センチ、短径三十センチ、厚さ十一・三センチ、左右中央に幅六・四センチの目が出ている。
 明治以後紛失していたが、昭和初年に北海道で地方巡業の芝居一座が使用しているのが発見され、再度奉納されたものである。
 平成六年六月』
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 拝殿。
 左手前には神楽殿。
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 天祖神社。
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 天祖神社の左隣に北野神社。
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 天祖神社の右隣に道祖神社・足王神社。
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 狛犬。
 台座には享保六辛丑八月吉日と刻まれているので、1721年の造立。
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 笑福稲荷神社の鳥居と浅間神社。
 浅間神社の隣に新宿区指定有形民俗文化財の庚申塔がある。
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 笑福稲荷神社。
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 お狐さま。
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 浅間神社の裏に富士塚。塚の頂には小さな祠も見える。
 柵が閉まっていたので入れないのだと思っていたが、ググってみるとどうやらそうでもなかったようだ。
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 庚申塔の隣に天狗らしき石像。

天祖神社(高田馬場四丁目)

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 セブンイレブン高田馬場店の北側に鎮座する天祖神社(新宿区高田馬場4-33)。
 鳥居の柱には昭和三年十一月吉日と刻まれている。
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 狛犬。
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 拝殿。

鐵砲稲荷神社(高田馬場四丁目)

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 シチズンプラザの南側に鎮座する鐵砲稲荷神社(新宿区高田馬場4-29)。
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 平成九年十一月造立のお狐さま。
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清水川稲荷神社(高田馬場三丁目)

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 高田馬場駅早稲田口の北側、さかえ通り入口のそばにひっそりと鎮座する清水川稲荷神社(新宿区高田馬場3-1-1)。
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 ぱっと見で神社とは気付かないが、扉の上に「清水川稲荷神社」と記された額が埋め込まれている。
 この辺りは古くは「字 清水川」と言う地名で呼ばれ、また神田川の支流として清水川と言う短い川が流れていたのだそうだ。とすると、こちらの神社はこの地域の守り神として祀られていたのであろうか。
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夫婦木神社(大久保二丁目)

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 新大久保駅の北東に鎮座する夫婦木神社(新宿区大久保2-27-18)。
 ググってみても創建時期や由緒などは不明だが、御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊の二柱であるとのこと。
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 掲示板には今月の言葉として「色即是空 空即是色」と書かれていたが、何故神社の掲示板に科学だの仏教だのが書かれているのだろう。そして来月になるとまた違う言葉が書かれているのだろうなぁ。
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 正面の階段を上るとすぐ左側に拝殿があるが、他に参拝者がいたので撮影はせず。
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 末社。
 左奥から大久保弁財天社、出世稲荷神社、御嶽神社。

 この後は皆中稲荷神社にも参拝して来たのだが、参拝者が列を成していたのでのんびり撮影している余裕はなく、またそのうちにでも改めて参拝することにしよう。
 以上で1月3日参拝分終了。使用機材はK-5IIsにHD DA20-40mmとDA FISH-EYE 10-17mm。
 帰り掛けに秋葉原に寄り、Asrielの新譜とログ・ホライズンの7巻を購入してから帰宅。G'z One Type-Xのウォーキングカウンターを見ると、この日は凡そ24,000歩。大して歩いてないな。

抜弁天厳嶋神社(余丁町)

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 抜弁天交差点脇に鎮座する厳嶋神社(新宿区余丁町8-5)の南の鳥居。
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『厳嶋神社・抜弁天
一、由来
 白河天皇の御代、応徳三年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後三年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳嶋神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)

二、江戸時代
 参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。
 江戸時代の地誌、大久保絵図(安政四年=1857)には、別当二尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
 徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に二万五千坪の犬小屋が設けられていた』
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 鳥居と社殿。
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 堀では鯉も泳いでいる。
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 北の鳥居。

 以上で3月9日参拝分終了。
 この後はフォーカシングスクリーンML-60やアイカップMⅡを購入したりペンタックスフォーラムに行って来たり、秋葉原でAsrielのインディーズ盤を3枚程購入してから帰宅。
 使用機材はK-5ⅡsにDA15mmとDA21mm、DA70mm。K-7にDA40mm。Coolpix P7100。

金辨財天(河田町)

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 東京女子医大病院の南側に鎮座する金辨財天(新宿区河田町8)。
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 本殿。
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 拝殿の扉脇に控える神使の蛇。

出世稲荷神社(余丁町)

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 警視庁第八機動隊庁舎の南東に鎮座する出世稲荷神社(新宿区余丁町12-18)。
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 拝殿。
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『御祭神 倉稲魂命
 お稲荷様と一般にいわれ福徳開運十種の徳をそなえた衣食住の守護神であります。

 御由緒
 長禄元年(1457)江戸城主太田道灌によって当地に御鎮座されたものであります。
 元禄年中(1688~1704)には徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院の信仰篤くしばしな角力も興行され特に賑わいました。
 明治六年(1873)それまで栗津稲荷あるいは朝日稲荷と呼ばれていたものを出世稲荷神社と改めました。
 昔から農工商の神様として崇敬され特に当社は武士の信仰も篤く商売繁昌家内全隆除災特に火災を守る神様として霊験あらたかであります。

 御祭典
 月例祭 毎月十七日
 大 祭 十月十七日
 初午祭 二月初めの午の日』
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八兵衛稲荷神社(若松町)

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 若松町交差点の西側に鎮座する八兵衛稲荷神社(新宿区若松町31)。
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 拝殿。
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『正一位八兵衛稲荷神社の由来
 今を去る約二百六十年前、徳川中期の頃、当地に町人八兵衛と云う人が居りました。ある日自分の過失から火事を出してしまいました。八兵衛は近隣に迷惑をかけた事を悔い毎日毎夜町内を「火の用心」「火の用心」と廻って歩きました。
 それからというものこの若松町には大きな火事がほとんどなくなりました。
 八兵衛の死後町内有志が稲荷神社を建て八兵衛をまつったのです。
 この事を伝え聞いた時の町奉行は将軍家に奏上し正一位を贈り八兵衛をたたえたのです。永々貯めた財宝を火事で灰にするよりも八兵衛の今も昔も変らない心を意とされ、この社に御参詣下さり尚一層の火の用心をどうぞ』

宝禄稲荷神社(原町三丁目)

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 大久保通り原町三丁目交差点東側に鎮座する宝禄稲荷神社(新宿区原町3-19)。
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 拝殿。
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 明治十九年(1886)七月造立のお狐様。
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『宝禄稲荷昔話
 昔々この地にたいそうくじ運の強い百姓がおったそうじゃ。じゃがこの男初めからくじ運が強かった訳では無く、いつも富くじではせっかく貯めた小銭をつぎ込んでは、すっからかんになってしまいおっかあに怒られて頭があがらんかったそうじゃ。
 そんなある日、よせばいいのにおっかあがせっせと夜なべをして貯めた小銭を見つけ、早速江戸の街に富くじを買いに意気揚々と山を下って行ったそうじゃ。
「こいつを元手に一発当てておっかあやガキ達に腹一杯の飯を食わしてやりたいのう」
 じゃが案の定帰りはけつの毛まで抜かれスッテンテンになって山道を重い足取りで帰って来たそうじゃ。
 その当時、今の牛込の深い谷を越えて山道を登ってくるとちょうど登り詰めたこのあたりに小さなほこらがあったそうじゃ。
 百姓は、ほこらの前で一休みしながら何と言ってごまかすか思案にくれていたそうじゃ。
 財布の中には、外れた富くじが捨てられずに入っていたので、これをおっかあに見つかったら半殺しの目に遭うと思い、ほこらの前に外れくじを置くと自分の運の無さをなげき、いつかおっかあに楽をさせてあげたいと願ったそうじゃ。
 それから何ヶ月かして、小銭の出来た百姓は、また懲りずに夢をいだいて富くじを買いに山を下って行ったそうじゃ。
 じゃが今度は、何か違っておった。
 百姓は、一番くじを当ておった。
 それから何をやってもつきまくり、一家は、たいそう幸せになったそうじゃ。
 百姓は、ほこらにお礼を言い、ここに立派な社を建てたのじゃった。
 その話を聞きお参りした人達が、誰言うと無くこの社を宝禄稲荷と呼び、百姓の運が自分にも授かるようにと外れくじを置いて拝んだそうじゃ。今ではこの宝禄稲荷は、金銀融通、一陽来復で有名な穴八幡宮の末社になり、沢山の方々が運が開けるように外れくじを置いてお参りしていくそうじゃ…!』

 読んでいる時に市原悦子と常田富士男の声で脳内再生されるのは何故なんじゃろうなぁ…。
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中守稲荷神社(市谷薬王寺町)

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 外苑東通り市谷薬王寺町交差点の北東に鎮座する中守稲荷神社(新宿区市谷薬王寺町74)。
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桝箕稲荷神社(坂町)

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 防衛省本省の南に鎮座する桝箕稲荷神社(新宿区坂町22)。
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 拝殿。
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 お狐様。
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『桝箕稲荷神社の由来
 主祭神 宇迦能御魂大神  合殿神 猿田彦命大宮

 桝箕稲荷神社は宇迦能御魂大神(別名・倉稲魂大神)と猿田彦命大神を奉斎し、古来より人々の信仰を集め今日に至っております。町内の守護神として三百有余年の昔、元和年間(1615~1624)からこの地に鎮座ましまして以来町内の繁昌と共に栄え、古来より町内の人々の信仰は特に厚く長い歳月町内挙ってご奉仕申し上げ今日に至っております。
 御祭神宇迦能御魂大神は食物を司り給う保食の神様で、伊勢の外宮豊受大神宮と御同体であります。
 稲荷大神の御神徳は農村におきましては、五穀豊穣の守り神として、又町方におきましては家内安全・商売繁昌・無病息災の守護神として崇拝されておりました。

 猿田彦命大宮は天孫降臨の道案内をされた神様で地鎮・建築・方除・みちがきの神として尊崇されて大宮売命は神人の間を執り持ち給い、和平をはかり給い家内円満等を司り給う神様として奉斎されています。

 当社は昔、真須美稲荷と言われ明るく澄み渡り暗きを照らすと言い伝えられ五穀を司る神社であり江戸時代当社の周囲は御手洗組の屋敷が有り幕府よりこの場所が御賜米の配分など行われ、いつの頃か桝箕の文字を用いられるようになったと伝えられ

 昔の社殿は惜しくも戦災によって焼失致しましたが、戦後氏子・町内各位の献身的なご協力と御奉納によりまして昭和二十三年(1948)十一月に仮社殿が造営され、昭和二十五年に仮社務所ができました。尚昭和二十九年に仮社務所を増築し、昭和三十四年五月に御社殿が立派に完成し、昭和三十六年六月には社務所の改築と神楽殿が完成しました。
 町の守護神として古来より人々の信仰を集め今日桝箕稲荷神社崇敬保存会によって運営管理されております。

祭事
 正五九祭 正月 五月 九月 各第二日曜日に執り行われています』

市谷亀岡八幡宮(市谷八幡町)

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 防衛省本省の東に鎮座する市谷亀岡八幡宮(新宿区市谷八幡町15)。
 公式サイトもあるので、詳しいことはそちらに。
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 狛犬。
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 後ろから。
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 銅鳥居。
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『新宿区指定有形文化財 建造物 市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居
 所在地   新宿区市谷八幡町十五番地
 指定年月日 昭和六十二年一月三十日
 文化元年(1804)十二月建立の銅製明神型鳥居で、高さ四・六メートル、台石○・五五メートル、柱には、初願者・当八幡宮別当第七世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他七名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者四四二名の名前や職業が陰刻されている。
「八幡宮」の額は、播磨姫路十五万石の酒井家十一代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。
 区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。

新宿区登録有形文化財 工芸品 市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇
 指定年月日 昭和六十二年一月三十日
 御府内備考続編之七目録(神社部・市谷八幡宮)には「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあり、左に軍配団扇の図が記してある。当八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。
 木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面には黒紫色で漆を塗って仕上げてあるが、文様、文字はない。
 制作年代は未詳であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており、貴重である』
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 金刀比羅宮。
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 狛犬。
 台座には亍時安政五戊午年仲秋再建之と刻まれているので、1858年に再建されたものであるようだ。
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 拝殿。
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 力石。
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『新宿区指定有形民俗文化財 市谷亀ヶ岡八幡宮の力石
 所在地   新宿区市谷八幡町十五番地
 指定年月日 平成五年三月五日
 力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。
 市谷亀ヶ岡八幡宮の力石は、合計七個が保存されている。
 卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持上げた者の名が刻まれており、うち三個には奉納された年も刻まれている。
 年代のわかるものでは、寛政六年(1794)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。
 数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知る上で貴重な民俗資料である』
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 出世稲荷神社。
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 龍の絡みついた三鈷柄剣などが彫られた石碑。
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 上には龍の絡みついた三鈷柄剣。下には宗近、正宗、義弘と書かれた三人の男性の姿が彫られている。名刀工として知られる三条宗近、岡崎正宗、郷義弘のことだろう。
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 摂社茶ノ木稲荷神社。
『弘法大師開山 茶ノ木稲荷神社
 市谷亀岡八幡宮の現在の境内地は、今を去る事千二百年前に弘法大師が開山し稲嶺山(いなりやま)と申しました。市谷亀岡八幡宮は江戸の所期に遷座するまでは、この茶ノ木稲荷神社が約七百年に渡りこの山の本社だったのです。
【眼病平癒伝説】
 御祭神は、古来病気平癒に特別の信仰があります。古くから伝わるところによれば、昔この山に稲荷大神の御神使の白狐が居ましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を飲まない習俗がありました。特に眼病の人は一七日、或いは三七日二十一日間茶をたって願えば霊験があらたかであったと言われており、その他様々な願いが成就したということです。
【御神威】
 遠く四方に輝き、江戸時代には参詣者は常に絶えることなく、全国の稲荷番付には前頭筆頭に位置し毎春初午の祭はもとより、毎月々の御祭日には、神楽の奉奏、演藝の奉納等も行われ縁日も立ち賑わいを極めました。今日インターネットの普及により再び全国からお守りやご祈祷の依頼が増えています。
〈ご祭礼〉
 初午祭(節分後の最初の午の日)
 五月十一日
 九月十一日
 慈眼正観眼病平癒祭(十月)』
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 お狐様。

築土神社(市谷船河原町)

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 外堀通りから逢坂への上り口に鎮座する築土神社(市谷船河原町9)。
 こちらの神社は千代田区九段にある築土神社の飛地摂社であり、平将門公を祀っているのだそうだ。詳しいことは築土神社の公式サイト内船河原町築土神社の項に記されているので、そちらで。
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『史跡 掘兼の井
 所在地 新宿区市谷船河原町九番地
 掘兼の井とは、「堀かねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。堀兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の堀兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた、息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという』

 こちらの築土神社脇の坂は逢坂と言い、「昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという」と書かれた標柱が立てられていた。

繁栄稲荷神社(岩戸町)

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 地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅A3出口の西北に鎮座する繁栄稲荷神社(新宿区岩戸町)。
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 お狐様。

秋葉神社(矢来町)

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 地下鉄東西線神楽坂駅矢来口から南下して行くと、矢来ハイツの隣に秋葉神社(新宿区矢来町)が鎮座している。
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 狛犬。
 台座には明治四年辛未五月と刻まれているので、1871年のものだろう。
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 正雪地蔵尊。
 由比正雪となにか関係あるのかな? と思ってググってみたら、かつてはここは由比正雪の屋敷の一部であり、そこから掘り出されたのがこのお地蔵様なのだと言うことだったが、由比正雪の屋敷があったのは天神町であったそうなので、ちょっとずれてるかなー。
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 拝殿。

赤城神社(赤城元町)

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 地下鉄東西線神楽坂駅の北東に鎮座する赤城神社(新宿区赤城元町1-10)。
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 鳥居の足元にあかぎカフェのメニューが置かれている。赤城神社に隣接するパークコート神楽坂の中にあるイタリアンカフェのようだが、神社とカフェの組み合わせはあまり見ないよーな。
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『赤城神社
お祀りしている神様
 磐筒雄命
 赤城姫命

 後伏見帝の正安二年(1300)九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十餘年を経て寛政元年(1789)太田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年(1683)幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる』
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 境内。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には平成貳拾貳年九月吉日と刻まれているので、2010年に作られたばかりのようだ。
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 蛍雪天神社。
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『蛍雪天神 本宮
御祭神 菅原道真公
 古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。
 御祭神は「学問の神様」菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治九年(1876)三月當境内に御遷座。
 その後、戦災により焼失したものを、平成十七年(2005)十月現在横寺町にある旺文社の御寄進により「蛍雪天神」として復興しました。
 社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。
「蛍雪」とは中国の故事で、苦労して勉学に励むことを意味します。全国の受験生の皆さん、蛍雪天神はそんな皆さんを応援しています』
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 赤城出世稲荷神社、八耳神社、葵神社の三社が合祀されている。
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『赤城出世稲荷神社
御祭神 宇迦御霊命/保食命
 創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷りする以前(弘治元年 1555年)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運の御利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。
 また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄の御神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで五月五日の例祭日には御神楽が奉納されていました。

八耳神社
御祭神 上宮之厩戸豊聰八耳命(別称・・聖徳太子)
 戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事がある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と三回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。
 合殿に大国主大神、丹生大神を祀ります。

葵神社
御祭神 徳川初代将軍徳川家康公
 牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年(1868)神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川家初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への信仰の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます』
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 お狐様。

筑土八幡神社(筑土八幡町)

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 大久保通り筑土八幡町交差点のそばに鎮座する筑土八幡神社(新宿区筑土八幡町2-1)。
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『筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨天皇の御世(809~823)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現れて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。
 その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(1469~1486)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年(1945)の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年(1963)氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
御祭神
 応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
大祭
 九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神で大宮売命・天鈿女命ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治四十年(1907)に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年(1962)に再建したものである』
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 石鳥居。
『新宿区登録有形文化財 建造物 石造鳥居
所在地   新宿区筑土八幡町2-1
指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型鳥居で、享保十一年(1726)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七○センチ、柱径三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸下館藩主黒田豊前守直邦により奉納されたことがわかる』
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 田村虎蔵顕彰碑。
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 百度石と庚申塔。
『新宿区指定有形民俗文化財 庚申塔
指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(1664)に奉納された舟形(光背型)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折ってるのに対し、左側の雌猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である』
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 宮比神社。
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 神輿殿。
『神輿について
 右側の黒い漆塗りの神輿は、延宝六年(1678)に、当時の氏子崇敬者が御神徳に報謝して制作したもので、戦前から昭和昭和四十八年(1973)までの渡御に用いられました。
 左側の白木の神輿は、鉄製の飾り綱、支え棒のついた重厚で堅牢な造りで、慶應二年(1866)に制作されたものです。昭和五十二年(1977)に修理されて、その後の渡御に用いられています』
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には文化七庚午年八月吉祥日の文字が刻まれているので1810年の造立と思われる。

津の守弁財天(荒木町)

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 と言うことで荒木町奥の細道を進んで行くと、階段を下りた先に津の守弁財天。
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『策の池(むちのいけ)
 江戸時代の古書「紫の一本」によれば、徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ、「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました。
 天和三年(1683)美濃国高須藩々主摂津守がこの付近を拝領し上屋敷としましたので庶民から遠のきましたが、約百九十年後の明治五年(1872)、時の政府による廃藩置県の発令でこの池が開放され明治七年荒木町として住民の町になりました。人々は藩主の名を慕い「津の守」と呼び今なお愛称されています。現在では湧き水は減って池も埋まり、この滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しています。
 古来池のほとりにあった弁天祠を昭和三十一年崇敬者によって現在地に遷座再建し「津之守弁財天」の御神明で町民の守り神として御加護を受けています。
 平成十七年乙酉卯月』

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 社殿。
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金丸稲荷神社(荒木町)

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 津之守坂入口交差点そばにあるみずほ銀行脇から車力門通りに入って行くと、突き当たりにあるとんかつ屋鈴新の隣に金丸稲荷神社が鎮座している。
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 鳥居。
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 社殿。
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『金丸稲荷神社由来
 この金丸稲荷神社は御祭神に宇迦能御魂大神を奉斎し、この町の守護神として尊崇され今日に至る。
 天和三年西暦一六八三年、美濃国高須藩主松平摂津守この地一帯を拝領上屋敷とされし折り、藩主の守護神として金丸稲荷社を建立奉斎せられしよりと云う。この地を俗称攝津の守と云うは松平摂津守の上屋敷跡なるに起因する。
 明治五年七月の政令によりこの荒木町が誕生し、町の発展は勿論津の守三業地も次第に繁栄し気品高き芸妓と三業の名と共に金丸稲荷大神は荒木町々民の暮しの中に鎮座せられ、爾来百有余年を経るに至る。
 大神は和合・繁栄・財宝・出世・安全・又火伏せの神として崇められ、古くは度重なる江戸の大火にも尚大正十二年の関東大震災にもその災禍を免れたりと伝えらる。
 昭和二十年五月二十四日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土と化し去ったが、町民には一人の死者もなかった事はこれ偏に大神の霊験あらたかなる由と推察される。
 昭和二十七年十一月に現在位置の隣接場所に遷座奉斎したるも、昭和五十年四月吉日敷地整理のため神社は町内有志及び三業組合又崇敬者の寄進によって再び遷座再興されたものである。
 御社殿の奉建に当り茲に無事息災を念じ朝夕に御社を仰ぎ神を敬う心を通じて町内の安穏にして幸福なる生活を築き町の繁栄を計り、茲にこの輝かしい偉業を後世に伝うるものである。
 昭和五十三年三月二十五日之建』

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 お狐さま。
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 鳥居の向い側の壁に貼られていた荒木町の名前の由来。
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 鳥居脇に立てられた案内板。
 地図には記載されていなかったが、この狭い路地を進んで行くと弁財天が祀られているようだ。

須賀神社(須賀町)

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 陽運寺より少し東に向かうとすぐに須賀神社。
 そしてこちらは二の鳥居。どうやらうっかり一の鳥居を見落としてしまったらしい○刀乙
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『御祭神
 主祭神 建速須佐之男命・宇迦能御魂大神
 相殿   櫛稲田姫命
 右(御子)五男神 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命
 左(御子)三女神 多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命
 相殿  大鳥神社
   御祭神 日本武命・天日鷲大神・大鳥連祖大神
 相殿  大国主神
 摂社  天白稲荷神社
   主祭神 倉稲魂大命
 相殿 天照大御神・応神天皇・神功皇后・大山祇神・別雷神
     天之水分神・国之水分神・高龗神・火之迦具土神・大宮賣神
     大年神・御年神・菅原道真公・疱瘡神・天之児屋根命
     猿田彦神・大物主神

由緒
 須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は古来より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年に江戸城外堀普請のため当地に移されたものである。
須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永二十年、神田明神内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった、通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た、明治元年に須賀神社と改称され、明治五年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。
戦災前の御社殿は文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をかけ、文政十一年十二月に竣功、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した、然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。

宝物
 戦前は多くの社宝があったが戦災により殆どが焼失した、その中で幸いにも御内陣の金庫に納められていた三十六歌仙のみが辛うじて焼失を免れ、今日新宿区の指定有形文化財絵画に指定されている。
 画は四谷南蘋と称された高芙蓉の高弟大岡雲峰(当時七十三歳、天宝七年の作)書は千々逎舍と号し、正三位中納言で公家の千種有功郷の書である』

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 階段下から。
 抱き稲紋と左三つ巴紋を組み合わせた独特の神紋が面白い。
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 駐車場脇に鎮座する祠。
 名を記したものが無いのでなんなのか判らない。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 拝殿内部。三十六歌仙の絵が掛けられている。
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 拝殿右手側に回ると祖霊社。
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 祖霊社の裏、社務所へ向かう道の脇に大京神社で見かけたものとそっくりな狛犬なんだかなんなんだか。
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 火の見梯子と半鐘。台座には「く組」とある。
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 拝殿に隣接したと言うか殆ど一体化している大国主神。
『由来
官弊大社日本最古の神社であります出雲大社及びその他全国至る所に奉祀されています大国主の命は、大国(神道)と大黒(仏教)と相通ずることから七福神の中にも奉られるに至っていますが大国主命は須佐之男命(須賀大神)の御子であり、幼少の頃は諸兄にいじめられていましたが、常に良く忍耐して道を守られ、後に出雲に国家開発の大業を成され、山陰、山陽、北陸、東山の一部を平定されたと伝えられています。又良く部下民衆を愛され、その身分を隠さんがために頭巾をかぶり、暮夜財物を入れた袋を背負って、貧民に施しを行われ、その人々の喜ぶ様子を見て、自分もまたニコニコされるのが常であったとも云われています。今日の大黒様の袋と頭巾とニコニコ顔はその時のお姿を写したものと伝えられています。又その后であります須勢理姫命は貞節で良夫であります大国主命に仕えられ、命も又良く后の言を入れて、夫婦相和し、家庭円満であったことから、鏡とし縁結びの神様として今日も広く尊崇されています。後に大義名分によって折角経営された国土も惜しげもなく、今の皇室に献じられ(国譲り)、隠退されてからは少彦名命と力を合せ教育宗教、療病の法等を研究され、又民衆の生活、商法開拓の祖とも称せられ、畜類の治病気、禁厭の法まで創建されたと云われ、人々は爾来今日に至るまでその恩沢を蒙っているのであります。
どうか厚い御信仰の上、前の俵を手でおなでになって、御参拝戴き大神の深いご加護とご恩恵に浴されより良き幸福な日々を送られますようご祈念申し上げます』

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 神楽殿。
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 飯塚正兵衛翁像。…で、誰?
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 慰霊碑。
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『須賀神社について
 四谷の産土神で、祭神は建速須佐之男命と宇迦能御魂大神の二柱です。
 かつては、牛頭天王社と稲荷社の二つの神社であったもので江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治に入り須賀神社と改められました。
 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
 一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院が、寛永十一年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。
 もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺(須賀町八番地)境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連飾りの奉仕に来ていたため、寛永十一年に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。
 牛頭天王社のほうは、寛永十八年(1641)に、神田明神内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祀を建て祀ったものだそうです。
 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永二十一年(1644)寺社奉行に願い出て、同年六月十八日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。
 以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています』

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 天白稲荷神社。
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 磐の中に祀られた小さな祠。
 こちらは一体なんなのかしらん?
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 狛犬。
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 笠木が無いけど、これも鳥居なのかな?

陽運寺(左門町)

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 於岩稲荷田宮神社よりやや南東に位置する日蓮宗長照山陽運寺。幟には於岩稲荷霊神の文字が書かれている。
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 左奥に見える陰陽勾玉巴の描かれた赤い幟が於岩稲荷田宮神社。手前右側の幟が陽運寺。
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 山門をくぐって正面奥に見えるのは外宮福禄寿稲荷。
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 お狐さま。
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 本堂。
 こちらには日蓮上人像と鬼子母神像、弁財天像、大黒天像、そして於岩像が安置されているのだそうだ。
 陽運寺は昭和の初め頃に建立されたが、本堂は宝暦七年(1757)に造られた薬師堂を移築したものであるそうで、とすると、於岩さま縁の寺院と言うことではなく、於岩さまをお祀りしている寺院と言うことか。
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 狛犬。
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 外宮於岩稲荷。
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 お岩さま縁の井戸、と書かれているが、陽運寺のサイトを見るとちょっとあやふやかも。
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 水かけ福寿菩薩と百度石。
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 大橋地附福寿龍神、と刻まれているけど…シャチホコにしか見えん。それとも、たまたま置いてあるだけで関係無いのだろうか。
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 心願成就の石。奥に日蓮大菩薩。
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 由来を記した看板。

於岩稲荷田宮神社(左門町)

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 左門町交差点を越えて、真言宗豊山派金剛山蓮華院顕性寺前の路地を北へ入って行くと左手側に於岩稲荷田宮神社が見えて来る。その手前右側に於岩稲荷霊神と書かれた幟も出ているが、そちらはまた別で、こちらの於岩稲荷田宮神社とは関係無いのだそうだ。
 御祭神は豊受比売大神と田宮於岩命。
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『都旧跡 田宮稲荷神社跡
 所在 新宿区左門町十七番地
 指定 昭和六年十二月二日
 文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政文化を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な四代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文政十二年十一月二十七日歿)も化政時代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政十年(1827)十月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治五年ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和二十七年再びここに移転したものである。
 昭和四十三年三月一日 建設』

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 正面から。
 拝殿前に由緒を記したプリントがあったので一枚頂いて来た。それによると、元々は徳川家の御家人である田宮又左衛門の娘である於岩とその夫である田宮伊右衛門は仲睦まじく暮らしていたが、俸給は少なく家計は常に火の車であった。商家に奉公に出たり屋敷神の稲荷神を深く信仰していたおかげもあって蓄えも増え、田宮家は豊かになったがそれが噂になり、近隣の人々もあやかろうとその屋敷神を信仰するようになった。田宮家では屋敷神の傍らに小さな祠を造ってそれを於岩稲荷と名付けて家中の者達も信仰するようになったが、評判は段々と高くなり、当初は断っていた一般参詣も、次々と来る人々の願いを断れず、それらの人達にも参拝を認めるようになったと云う。それは於岩稲荷、大巌稲荷、四谷稲荷、左門町稲荷などの名で呼ばれ、家内安全・無病息災・商売繁盛・開運・災難除けの神として多くの信仰を集めたと伝えられる。
 於岩が歿して二百年の後、鶴屋南北は二百年経っても人々に人気のある於岩を題材にした脚本を書けば大当たりするに違いないと考えたが、良き妻として知られる於岩のままでは面白くない。そこで江戸で評判になっていた数々の事件をネタとして絡め、於岩を怨霊としたが、四谷を舞台としてはあからさま過ぎるので題を「東海道四谷怪談」として於岩稲荷とは無関係であるとした。
 この東海道四谷怪談は鶴屋南北の読み通りに大当たりし、あまりの人気の過熱ぶりに幕府も当惑し、四谷塩町の名主である茂八郎に命じて町内の出来事などを纏め提出させたのが前述の文政町方書上である。
 東海道四谷怪談は大当たりはしたものの、凝った仕掛けに複雑な道具、暗い照明などが原因で事故や怪我が多く、扱っているのが怪談と言うこともあっていつしかそれらが祟りによるものと噂されるようになり、こうしてお岩さんの祟りが出来上がった。
 当時、東海道四谷怪談を手掛けては天下一と言われた市川左團次から、四谷まで参拝に行くのは大変なので新富座などの芝居小屋の近くに移転して欲しいとの要望を受け、明治十二年(1879)の火災で社殿が焼失したのを機に隅田川の畔にあった田宮家の敷地内に遷座した。それが現在の中央区新川にある於岩稲荷神社だが、そちらも昭和二十年(1945)の戦災で焼失。戦後、四谷と新川の於岩稲荷が共に再建されて現在では二つの於岩稲荷神社が存在していると云うことだ。

 寛永十三年(1636) 田宮岩 歿。
 享保二年  (1717) 於岩稲荷社となる。
 文政八年  (1825) 東海道四谷怪談が上演される。
 文政十年  (1827) 文政町方書上に於岩稲荷神社来由が付される。
 明治五年頃(1872) 於岩稲荷宮田神社と改称。
 明治十二年(1879) 中央区新川に同神社が建立される。
 昭和六年  (1931) 四谷左門町の於岩稲荷宮田神社地が東京都史跡に指定される。

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 お狐さま。
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 拝殿。
 神幕に描かれた神紋は陰陽勾玉巴。田宮家の家紋なのだそうだ。
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 境内社。
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