八阪浅間神社(寄居町今市)

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 兒泉神社の北150m程の道路際に鎮座する八阪浅間神社(大里郡寄居町今市)。
 中央の石祠には「浅間大菩薩」「明和六年巳丑歳六月再建立」と刻まれている。明和六年は1769年。
 左右にも石祠があるが、どちらが八坂神社なのだろう。そしてもう一基は何神社なのだろう。
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兒泉神社(寄居町今市)

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 天台宗寶珠山高蔵寺の西100m程、市野川の畔に鎮座する兒泉神社(大里郡寄居町今市690)。
『社伝によると、当社は、物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば、鎮座地は、初め明神台という地であったが、江戸期、別当を努める天台宗高蔵寺住職が、祭祀及び氏子の参拝の便を図り、寺の西一○○メートルほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については、現在、どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことから、この辺りにあったことが考えられる。
 当社には、児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政期(1804~30)に高蔵寺に移されている。現在、本殿には、白幣を奉安している。
 「明細帳」によると、明治四十年五月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。
(中略)
 明治四十年の合祀以前までは、地内の浅間山に鎮座する浅間神社の神体を半年ごとに麓の冬住神社に遷座するという興味深い祭りが行なわれていた。冬の間、浅間山は寒いので、浅間様が里の冬住神社に降りて来て、半年間宿り、夏になるとまた浅間山に戻るのだと語られていた。冬住という社名も、冬の間神が住み給うことに由来しているのだろう』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 参道脇には石燈籠が立ち並んでいる。
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 拝殿と狛犬。
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 斜めから。
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 末社殿。
 左から手長神社、冬住神社、天満神社、稲荷神社、浅間神社、天照大御神。
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 山神社。
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 神林取得記念碑。
 平仮名らしき部分がわかり難いので書き写すのは難しいが、要約すると、浅間神社旧境内の引裂上地林を大正六年(1917)十二月十四日に払い下げる手続きを行い農商務省より買受け、翌七年一月七日に兒泉神社の基本財産として登録したと記されている。
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 鳥居のそばから南を見ると、四津山が見える。
 ぴょこんと飛び出した妙な形の木があるが、それの少し右側に四津山神社が鎮座している。また、かつては四津山城という山城が建てられており、その城跡が残っている。

小被神社(寄居町富田)

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 出雲乃伊波比神社の南東300m程の位置に鎮座する小被神社(大里郡寄居町富田1508)。
 五年前は神社周辺が工事中だった為参拝できなかったが、今回は大丈夫。
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 二の鳥居。
 一の鳥居からは120m程の距離。以前は正中を直進するのは不敬であると言うことから、鳥居の前に石垣が築かれていたそうなのだが、現在はむしろ直進しろと言わんばかりの様子である。検索をかければその頃の写真などは見られるのだが、やはり実際に自分の目で見てみたかった。と言っても詮無きことではあるが。
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『小被神社 略誌
鎮座地 埼玉県大里郡寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神 主神 瓊々杵尊
    相殿 木花開耶姫命
    相殿 彦火火出見尊
由 緒 富田邑は、第二十七代安閑天皇の朝、千四百七十年前郡家郷富田鹿、塚越に居住
   せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
    延喜式内社 第六十代醍醐天皇延長五年平安中期に編纂された有名な書物に登録
   されて居ると云事。本年より数えて、一○八一年前。
    男衾郡総鎮守
    旧村社』

『当社は、「延喜式」神名帳に登載される男衾郡三座の一つで、古代から郡の惣鎮守として崇敬されている。
 社伝によると、古代当社を奉斎した氏族は、安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿で、これが郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したとある。富田鹿の事跡は、現在明らかではない。これについては。地内にある古墳時代後期の伊勢原古墳群の発掘調査の成果を待ちたい。
 また、この富田鹿のほかに古代当社に関与した氏族は、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏であると考えられる。この氏族の関連資料は「類聚三代格」と「続日本後紀」にある。これによると、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和八年(841)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(845)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者であった。おそらく壬生吉志福正は、男衾郡惣鎮守である当社に対し、大領としての政治的配慮から関与したものであろう。
 鎌倉期に入ると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けたといわれる。「武蔵七党系図」によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。ちなみに、この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地は、当社の旧鎮座地であった。
 鎮座地の移転については、「武州男衾郡上下富田村与赤浜村境論之事」に次のようにある。天正年間(1573~92)、荒川の洪水により右岸にあった赤浜村は疲弊した。このため、当時この辺りを領していた鉢形城主北条安房守の臣、大久保氏が、赤浜村民に対岸の富田村馬草場を耕作地として与えた。ところは、その後、赤浜村民が富田村の村境を越えて土地を領有してきたので、富田村民は、江戸初期、当社を村境に移転し、境界を明らかにしたという。
 「風土記稿」によると、別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺が務めた。
 明治期に入ると、神仏分離により不動寺は当社の祭祀から手を引くことになった。この時の「議定書」によると、明治二年、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となっている。
 「明細帳」によると、明治四十年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀した。現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろう。
(中略)
 当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたものである。このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてある』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 拝殿。
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 斜めから。
 裏に回ると、白いスプレーでなんと書かれているのかも定かでない文字が落書きされていた。
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 狛犬。
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 伊勢原神明神社。
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 左から中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮。
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 石祠二基と冨士浅間大神。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」に描かれた境内見取図には天照皇大神、山神、山神、富士浅間と記されているのだが、一基足りない。天照皇大神は神明社の方にまとめられたのだろうか。

稲荷神社(寄居町赤浜)

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 寄居上水道男衾配水場の西脇に鎮座する稲荷社(大里郡寄居町赤浜)。
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 稲荷社の石祠背面には「昭和六十一年十二月吉日再建  祭主 坂本紋次」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
 右側の小祠は不明。

柏田稲荷大明神(寄居町赤浜)

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 寄居上水道男衾配水場の東側に鎮座する柏田稲荷大明神(大里郡寄居町赤浜)。
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 石祠とお狐様。
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『御朱印柏田稲荷大明神について
 そもそも柏田稲荷大明神は文久二年(1862)、伏見稲荷大社の宮司様からご神体とともにその特許状(お墨付)をいただき、御朱印地の柏田に正一位以内大明神の祠を建立した。
 ところが、明治維新以後社会の変化につれて寺院は活力を失い、地域住民の意識や関心も薄れ、更に行政の無理解と無責任により無視され続けて今日に至った。寺院としても、そうして無為無策のまま放置していたのか。
 平成十八年、町営水道の新設に至り、壇信徒と地域住民の有志が協力して、柏田稲荷大明神復興のために東奔西走、全国各地に有名稲荷神社を訪ね、なかでも東松山市の箭弓稲荷神社、笠間市の笠間稲荷神社等、各社の宮司様から懇切なご教示を仰いで、その結果として京都伏見稲荷大社の宮司様に面会の栄を得、特許状の意味と価値の重みを改めて認識したのである。
 柏田稲荷大明神の平成鎮座に当たり、石沢区長会長、大久保町議、石渡県議の各位には一方ならぬ協力や助言をいただいたことに感謝の心を表したい。
 ここに五穀豊穣、万民豊楽、子孫繁栄、世界平和を祈願しつつ、壇信徒の皆さんや地域住民の方々からのご厚意に報いるものである。
 平成十八年五月吉日
      曹洞宗赤龍山昌国寺 二十一世住職 保坂達司 撰文』
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三嶋神社(寄居町赤浜)

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 塚田集落センターの隣に鎮座する三嶋神社(大里郡寄居町赤浜1973)。
『荒川右岸に位置する塚田の地は、「風土記稿」に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋神社応永二年(1395)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
 当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋神社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳三年(1392)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径一九・九センチメートル)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。

 大山祇命・木花開耶姫命・少彦名命の三柱を祀る当社は、氏子からは「女の神様なので、安産の御利益がある」と語られている。
 祭りは、元旦祭、二月の初午祭、三月二十七日の例祭、七月二十五日の八坂祭、十月十七日の秋祭りの七つである。
 例祭は、鰐口の「応永二年乙亥三月廿七日」銘からもわかるように、鰐口を作った日を祝う由緒ある祭りと伝えている。このため祭日を変更せずに現在に至っていると伝える。
(中略)
 かつて塚田千軒町と呼ばれて栄えた当地は、「風土記稿」に「三島社 小名塚田にあり、民戸十八軒の鎮守にて、其氏子のものの持とす」と記されるように、江戸期には既に小さな村落となっていた模様である。その時代は不明であるが、塚田の地は一度焼き払われたとの口碑があり、そのとき衰微したものであろうか。
(中略)
 氏子の間には、鰻を食べてはいけないとの禁忌がある。このため、土用の丑の日でも当地の人々は鰻を食べることは希であるという。また、古くはどこの田にも鰻が棲んでおり、氏子が農作業などの際にこれをつかまえると「神様のお使いだから」と言って、当社の境内の神池に放したものであった。
 このほかに、地内できゅうりを作ってはならないとの禁忌がある。しかし太平洋戦争中の食料不足からやむなく栽培することになり、当社で神職に禁忌の解除祈願を行ってもらい、以後、きゅうりが出来ると、その初物を神社に供えてから食べるようになっている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 虚空蔵菩薩を祀る地域では鰻を食べないと言う話はよく聞くが、三嶋神社でも神使は鰻だったかなと思いググってみたら、三嶋大神の本地仏は大通智勝仏であり、大通智勝仏は虚空蔵菩薩の威力を表す仏様であるそうなので、まぁそういう関連なのだろうね。
 きゅうりを作らないと言うのは八坂神社を祀る地域でたまに聞く話であるが、こちらの末社の一つにやはり八坂神社がある。
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 鳥居の手前右側に浅間神社。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 稲荷神社。
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 神明神社・琴平神社・八坂神社・天満天神社合殿。
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 県指定文化財である鰐口の案内板。
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 町指定天然記念物である藪椿の案内板。

矢弓神社(寄居町西古里)

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 坂上神社の南2.1km程、埼玉県道69号深谷嵐山線の脇に鎮座する矢弓神社(大里郡寄居町西古里124-3)。
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 大正十一年造立の鳥居。
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 拝殿と石燈籠。
 拝殿には色褪せた「男衾のみどころ」が貼られており、それによれば、こちらは日本武尊を祀る神社で、東国下向の際に立ち寄り休息された記念に宮柱を建てられたと伝えられているのだそうだ。名前は似ているが、東松山市の箭弓稲荷神社とは関係無いようだ。
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 肇国二千六百年聖地巡拜記念碑。

 以上で8月8日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA15mm、FA50mm、50-150mm II。X30。
 ふと月別アーカイブを見てみたら、2011年から2014年まで八月はまったく参詣していなかったことに気付き、どんだけぐーたらしてたのかと。

貴船神社(寄居町用土)

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 寄居町立用土小学校の東側に鎮座する貴船神社(大里郡寄居町用土2857)。
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 由緒書き。
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『伊勢神宮第62回式年遷宮記念 貴船神社「本殿の屋根瓦修理・旗竿の新調」事業記念碑
 むらの鎮守である貴舩神社の創建は 天平元年(巳年・西暦七二九年)三月とあり 「村社貴舩神社誌」では貞観年間(八五九年~八七七年)のこととある
 以来 千三百年に及ぶ歴史の中で代々の氏子・崇敬者は高龗神と闇龗神の二柱をお祭りしながら そのご加護を感謝してきた
 現在の社殿は定かではないが 江戸時代に建立されたものと思われる その後三~四百年程が経過し 大正・昭和の時に修理・修復をしてきた証が随所に見られる しかし長年の度重なる風雪に晒された事で 本殿の屋根瓦が著しく破損し 雨漏りや神事が中断されるという不都合や檜旗竿の破断が生じ修復不能のため 新調が急務になった
 この度 伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念の一環として貴舩神社「本殿の屋根瓦修理・旗竿の新調」事業を立ち上げた
 その結果多数の氏子・崇敬者の方々の敬神の心とご協力によって多大な温かい御浄財をお納め戴いたことにより 修理・新調事業を実施
 神明奉祀の誠を具現化できた
 平成二十六年四月二十日 目出度く完成報告会が厳かに催行された
 ここに「貴舩神社修理・新調記念碑」を建立し概要を記して後世に伝う
                 平成二十六年四月二十日
                    宮司 田村哲夫 撰文』
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 拝殿。
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 昭和十五年四月十九日造立の狛犬。
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 斜めから。
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 んー、なんだろう。神輿殿かな?
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 地神碑を中心にいろいろと。
 ところでこれ、地神碑と社日碑のどっちで呼ぶのが正しいんですかね。どっちでもいいのかも知れないけど。
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 庚申、仙元、天神の文字が見える。
 義勈(勇の異体字)と刻まれたきのこのような形のこれは……なんだろう。石燈籠だろうか。
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 青面金剛。
 元文二丁巳天四月二日と刻まれているので1737年の造立。
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 神楽殿。
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 方水庵梅布翁碑と刻まれているが、誰だかわからない。いやまぁ由緒書きに書いてあったけど。それよりも奥に見えるトトロのようなものに目を引かれる。

 以上で7月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmと50-150mm II。K-7にFA28mm。X30。
 さて帰ろうかと思い、シートの後ろに放り込んでおいたバッグを取り出そうと思ったら……無い。暑いからと何箇所かで窓を開けたまま駐車して撮影していたから、その間に置き引きされたようだ。バッグの中にはウェットティッシュとポケットティッシュ、単三電池、筆記具くらいしか入れてなかったので特に痛いと言うことはないのだが、それなりにショックではある。見え難い場所に置いておいたのに、よくまぁ見つけていくものだ。それほど車から離れるわけではないとしても、僅かでも目を離している時間があるようならしっかり閉めておくしかないね。

諏訪大神社(寄居町用土)

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 埼玉県道265号寄居岡部深谷線と県道175号小前田児玉線が交わる用土郵便局前交差点の北西160m程の位置に鎮座する諏訪大神社(大里郡寄居町用土1695)。
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 社号標石の脇に、町指定文化財である獅子舞の案内板。
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『諏訪神社建築記念碑
当神社は應和年間(961~964)武州用土諏訪山に建御名方神を祀る社として創建された
以来地域の守護神として広く尊崇を集めてきたが 慶長の頃神社を護持する氏子崇敬者により現在地に遷座された この間幾多の社会変動等困難な時局の中にあっても 敬神崇祖の念は変わることなく 祭りの厳修をはじめ獅子舞その他数々の神賑行事を斎行してきた 元文五年(1740)に神殿を 明治二十九年(1896)に拝殿をそれぞれ改築した その後長い歳月を経て社殿の破損が甚だしく 改築の機運が高まり 皇紀二千六百六十一年の吉き年をも記念して 氏子崇敬者多数の寄進により改築を実施 平成十三年(2001)九月十六日めでたく完成 竣工遷座祭が厳かに斎行された
ここに諏訪神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う
 平成十三年九月十六日
   宮司 黒澤圀臣 撰文』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 末社殿。
 左から手長神社、稲荷神社、稲荷神社の三社が祀られている。
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 神楽殿。

稲乃比売神社(寄居町鉢形)

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 波羅比門神社から北上し、県道294号坂本寄居線と合流する交差点で右折したら城南保育所前で左折、北上すると稲乃比売神社前に出るのだが、うっかり通り過ぎてしまったので保育所の先から回り込むことに。
 駐車場と呼べるものは無いが、駐車できるスペースはある。
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 拝殿。
 こちらも由緒書きの類は見当たらないのでGoogle先生頼り。御祭神は稲乃比売命と素盞嗚命、稲田姫命、大己貴命、少彦名命の五柱。古くは氷川神社と称していたが、明治になってから現在の名に改称したそうだ。すると、昔は素盞嗚尊が主祭神だったと言うことなのだろうか。稲乃比売命で検索をかけてもここと赤浜の三嶋神社くらいしか出て来ないので、この辺り特有の神様なのかも。
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 本殿。
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 こちらは社名が記されていなかったので、どなた方が祀られているのか判らなかった。

 すぐ西には鉢形城公園があり、城山稲荷神社と諏訪神社が祀られているのだが、城跡を見て回るのは時間がかかりそうなので、今回はパス。後で改めて参拝に行こうと思う。

波羅比門神社(寄居町西ノ入)

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 ゴルフ場の北側を回って折原駅前を抜け、道なりに南下して行くと右手側に波羅比門神社が見えて来る。
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 鳥居の額には三匹の青龍が絡み付いている。
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 鳥居をくぐると正面に波羅比門神社。右手側に八坂神社、左手側に稲荷神社が見える。
 こちらも御祭神は瀬織津姫命。保田原の波羅伊門神社は北に荒川、熊谷市中曽根の南市田神社は北に通殿川、熊谷市高本の高城神社は南に和田吉野川と通殿川が流れていたが、こちらは東から南にかけて深沢川が流れている。
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 スロープを上って八坂神社へ行こうとしたら、突然警報が鳴り出して吃驚だ。見れば、拝殿の角にセンサーが設置されており、このスロープを上ろうとすると警報が鳴り出すようだ。当然、下りも…。
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 警報は無視して八坂神社へ。
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 八坂神社の脇に石祠が鎮座していたが、どなたを祀っているのかは不明。
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 波羅比門神社の拝殿と本殿。右端に稲荷神社が見える。
 そして下りて行くと、ピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロピロ……。
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 稲荷神社。
 こちらにはセンサーは設置されていないようで、近寄っても警報は鳴らなかった。尤も、すぐ隣は民家の庭先だったりするのだけど。
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 撮影していたら、金色に光る目で見られているような気がしてビクっとしたのだが、よく見れば奥にいるお狐様の鼻が光っているだけだった。
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 稲荷神社側から波羅比門神社本殿。

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 波羅比門神社前の畑の中にでんと居座る巨石。なにか謂れがあるのだろうか。

平和神社(寄居町鉢形)

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 露梨子交差点から三ヶ山神社までの道を戻り、山口製作所前の十字路を西へ折れ、山側へ走って行くと途中からコンクリートで舗装された狭くて急な上り坂になるので少々不安になりつつもそのまま上り、貯水場(だったかな?)の脇を通り抜けると下り道の途中に平和神社が鎮座している。
 これ、絶対東から入って来るより北からの方が楽だ。勾配も緩いし、通りからの距離も短い。でも北から上って東へ下りるよりは、東から上って北へ下りる方がマシだろう。
 それはそれとして、こちらの神社はどの地図を見ても上の原神社と記載されているのだが、実際に来てみると、平和神社と書かれている。Google先生に訊いてみてもさっぱりだし、うーむ。
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 拝殿。
 壁面には「平和神社 昭和四十六年四月一日 拝殿新築寄付者」などと書かれた板が貼り付けられている。
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 拝殿内部。
 平和神社と書かれた扁額はあるが、それ以外にこれと言ってこちらの神社の詳細が判りそうな手懸りは見当たらない。
 名前から察するに、護国神社のようなものだろうか。しかし、そうであるなら忠魂碑なども見当たらないのが気にかかる。そう言えば、靖国鳥居ではなく鹿島鳥居だな、ここ。案外、武甕槌命や経津主命を祀っていたりするのかも。
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 拝殿左側に末社群。
 どなた方を祀っているのかは判らないが、猿の置物が混ざっているところを見ると、日枝神社辺りはあるのかも。

三ヶ山神社(寄居町三ヶ山)

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 路梨子交差点からずーっと南下して行くと、そのうち右手側にサイモクホームが見えて来るので、その先で右折すると三ヶ山児童館があり、その南側に三ヶ山神社の鳥居が建てられている。
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 緩やかな坂を上って行くと、すぐに三ヶ山神社。
 由緒を記したものは無く、祠にも手懸りらしきものは無し。Google先生もお手上げだ。鳥居の横でブルーシートにくるまれたものが怪しいが、ただの社号碑という可能性もある。
 山神様ってところかね。

壹岐天手長男神社(寄居町小園)

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 波羅伊門神社前を東武東上線に沿って東へ走り、上田古奇木館前を南へ入って行くと右手側に壹岐天手長男神社が鎮座している。ちなみに、この東武東上線沿いの道は一方通行のため、壹岐天手長男神社から波羅伊門神社に行くには一度南へ向かい、81号線→254号線→30号線と大きく回り込まなければならない。
 駐車スぺースは、写真右側の建物の脇にかろうじて一台分。こちらはMapionには小園區コミュニティセンターと記載されているが、何故か検索をかけても出ない。
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 拝殿。
 由緒を記したものは見当たらないので例によってGoogle先生に訊いてみると、こちらの御祭神は天忍穂耳尊と天手力男命、天鈿女命であり、こちらの神社の宮司さんの御先祖が壱岐国石田郡(長崎県壱岐郡郷ノ浦町)よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社より勧請したものと伝えられているとのことだった。また、「明暦元年(1655年)九月吉祥日、奉造立天手長男明神」と記された棟札もあるそうだ。
 社殿裏手に石田親壱翁碑と刻まれた石碑があり、宮司さんのことについて記されているようなのだが、周囲の木々により明暗差がありすぎて読み取れない。尤も、画像をいじればある程度は読み取れそうだが、ALL漢文なので気力が湧かない(苦笑
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 神楽殿。
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 左手側に並ぶ末社等々。
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 神武天皇遥拝所。
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 末社長屋。
 左から八幡神社、春日神社、津嶋神社、稲荷大明神、雷電神社、琴平神社。
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 達磨さんと石祠二つ。
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 市杵嶋姫命。
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 仙元大日神。
 ふむん? 木花開耶姫命と大日孁命を一緒に祀っているのかな?
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 本殿裏の御神木と、その根元に…なんだろう。何かの台座のようにも見えるが、よく判らない。

波羅伊門神社(寄居町保田原)

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 81号線をひたすら西へ進み、塩沢交差点で国道254号線に合流したら、更に西へ。露梨子(ロリ子、ではなくつゆなしと読むそうだ)交差点で埼玉県道30号飯能寄居線を北上したら鉢形郵便局先の交差点で右折、東武東上線の踏切を越えるとすぐ右側に浄恩寺があるので、その前を東へ進んで行くとやがて左手側に波羅伊門神社が見えて来る。
 駐車場は有り。
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 なぜか山門がある。
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 山門の中には仁王宜しく櫛磐間戸神と豐磐間戸神が。
 でも首が無かったり手足がちぎれていたりと、なかなかホラーなお姿に。
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 山門の裏に回ると、こちらには馬の像が納められているのだが、大きくてフレームに納めきれない。
 もっと広角域に強いコンパクト機も必要かなぁ。
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 山門を抜けると境内が一望できる。
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『波羅伊門神社神宝狐稲荷社改築記念碑
 波羅伊門神社は、文化十二年に建立されました。
 歳月の経過により老朽化著しく年々氏子間で改築か話し合われ機熟して早期改築のご賛同を得ました
 歴史的なこの大改築に巡り合わせた機縁を先人に感謝し併せて子孫長久の願いを籠めて本事業を計画し壱千六百万円の貴重な神社の財産を基に、氏子の皆様にご奉賛のご協力をご依頼申し上げ、百拾余名の皆々様の温かいご支援に依ってこの改築を成し遂げたのです。
 神宝狐稲荷社については、曽て大字保田原一二八杉山いと様がその土地を贈与により社有地として奉献された経緯があり孫に当たる大字保田原三七九杉山正徳様が改築奉献されました。
 茲に両事業の経過を略記すると共にご奉賛いただいた方々のぎ芳名を記し永久に後世に伝えようとするものです。
  平成十二年十月吉日』
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 拝殿。
 こちらの御祭神は祓戸四神の一柱である瀬織津姫命。瀬織津姫命は禍事や穢れを川から海に流す役目を受け持つ神である為、神社は川の近くに建てられることが多いようだ。
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 末社。
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 左は金毘羅宮。右は不明。
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 こちらが神宝狐稲荷社だろうと思うのだが、
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 梅宮社、と書いてあるように見える。
 或いは、祠の右下に見える極彩色の石祠が神宝狐稲荷社なのだろうか…いや、改築奉献されたと書かれているのだから、それはないか。
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 大黒天。
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 本殿裏に石祠が二つ。どなたを祀っているものかは判らないが、配置を見るとこちらも磐間戸神なのかなとか考えてしまう。
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 本殿裏手。地層が押し潰されたかのような、奇妙な形に盛り上がっており、奥には歌碑らしきものもある。
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 歌碑。
 なんと書かれているのかは判らない。
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 南米の巨石文明とかストーンヘンジを想起させられるが、これは一体なんだろう。意味もなく積み上げたと言うことはないだろうし。

出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

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 畠山重忠史跡公園から南下して県道81号熊谷寄居線に合流したらひたすら西へ。花園橋(南)交差点を越えるとしばらくして右手側に出雲乃伊波比神社が見えて来る。
 神社東側に赤浜集会所があり、そちらに車を停められそうなのだが、生憎柵が閉まっていて入ることができなかった。なので、神社よりやや西側に進んだ先の坂道の途中にあった待避所にやむなく駐車。
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 鳥居をくぐるとすぐ左手側に末社群。
 浅間大神、天照皇大神、榛名社が並び、長屋には左から蚕影大神、三峯大神、古峯大神、天満社、愛宕大神、白山神社、伊奈利社が納められている。
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 神楽殿。
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 拝殿。
 正面の壁に八幡神社八社拝礼と書かれた板が打ち付けられていて不思議に思ったのだが、いつもの如くGoogle先生にこちらの神社のことを伺ってみれば、こちらは武蔵国造物部氏の氏神を祀る神社であったが、源頼義が奥州征討の戦勝祈願を行ったとされることから八幡社として崇敬されるようになり、明治三十三年に本来の名前に改称したのだそうだ。
 御祭神は須佐之男命と三穗津姫命、天照大神、誉田別命、天児屋根命他とあるが、出雲乃伊波比神社という名前のわりに伊波比主神(経津主神)が祀られていないのが不思議だ。
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 妙見社。
『妙見社御由緒
 赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。
 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
 平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました』
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 両方とも八坂社。

 この後、ここよりやや南に鎮座する小被神社に行こうと車に戻ってからこの前を通りかかったら、集会所前の柵が開いていた○刀乙
 また、小被神社の周辺は現在工事中により駐車スペースが無かったのでやむなく今回はスルーすることにした。尤も、工事をしていなかったとしても駐車スペースは無さそうではあるのだが。
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