久国神社(六本木二丁目)

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 赤坂氷川神社の200m程東、東京都道412号霞ヶ関渋谷線六本木二丁目交差点近くに鎮座する久国神社(港区六本木2-1-16)。
 乃木神社、赤坂氷川神社と人が多かったが、こちらは二人しか見かけなかった。嗚呼、なんか落ち着く……。
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 鳥居。
 柱には「奉 皇紀二千六百年紀念 海軍大將 山本英輔 謹書」「獻 昭和十五年五月 麻布區簟笥町 文明堂 宮崎甚左衛門」と刻まれている。
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 狛犬。
 鳥越神社や吉原神社の狛犬に似た雰囲気だが、こちらの方がシンプルな造形か。
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 後ろから。
 台座には「昭和十八年二月竣工」と刻まれている。
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 拝殿。
 東京都神社庁のサイトによると、御祭神は倉稲魂命。創建時期は不詳ながら、古くはもと千代田村紅葉(現皇居内)にあり、久国神社の名は太田道灌が粟田口久国の刀を寄進したことに由来するとのこと。
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 猿田彦神社。
 鳥居には「昭和三十七年七月吉日」と記されたプレートが埋め込まれている。

 以上で12月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA70mm。
 ウォーキングカウンターは20,850歩。
 この後は秋葉原で新刊を購入してから帰宅。
 この日修理に出したX30は一週間後の10日に送られて来たが、各設定は初期値に戻っていたので再設定しなければならないのがちと面倒。修理費用は23,760円に送料と代引き手数料を合わせた850円で計24,610円。ちょっと懐が痛いけど、新たに買うよりは安上がりではあるし、そもそもコンデジの現行機種でX30から買い換えたくなるようなものも無いからまあいいか、と自分に言い聞かせてみる。
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赤坂氷川神社(赤坂六丁目)

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 東京十社の一つに数えられる赤坂氷川神社(港区赤坂6-10-12)。公式サイト有り。
 乃木神社も参拝者が多かったが、こちらはそれよりも多かった。もう撮影しないで次に行っちゃおうかなとか思ったくらい。
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 氷川神社案内板。
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『東京都指定有形文化財(建造物) 氷川神社社殿
 所在地 港区赤坂六‐一〇‐一二
 指 定 昭和二七年一一月三日
 この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物
が一体となった、いわゆる権現造の形式です。
 江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱漆塗としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
平成二二年三月 建設』
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 二の鳥居。
 鳥居の両脇に狛犬があるのだが、撮るの忘れてた。
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 台石部分には彫刻が施され、
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 その下には几号水準点もあった。
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 楼門。
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 その左右に石燈籠。
『港区の文化財 氷川神社の石燈籠 四基
 門の内外に立つ二対四基の石燈籠です。門内の本殿前に立つ二基は、赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町(現在の元赤坂一~二丁目)の講中が、享保九年(一七二四)間四月に奉納したものです。氷川神社が徳川吉宗の産土神として信仰され、現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にありました。この燈籠はその時代のもので、遷座に際し移されたものと考えられます。
 門外の二基は、遷座の年に岡崎城主水野忠之が奉納したものです。水野忠之は吉宗が行った享保の改革の前半を主導した老中です。幕府財政の建て直しに尽力した人物で、吉宗との強いつながりをこの石燈籠からも伺うことができます。岡崎藩水野家は吉良邸討入後の赤穂浪士九人を三田の中屋敷に預かった家としても知られています。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』
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 石燈籠の傍に狛犬。
 台座には「延宝三乙年卯六月吉日」と刻まれているので1675年の造立。頭頂部の凹みは燭台のように使われていたのだろう。
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 拝殿。
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 境内西端の稲荷社。
 左の水盤には羽団扇紋が陽刻され、側面に「嘉永四辛戌秋」、右の水盤には「文化十癸酉年初秋造之」と刻まれている。が、嘉永四年は辛亥で、戌がつくのは嘉永三年庚戌なのだよね。そもそも干支に辛戌って無いし。ちなみに嘉永四年は1851年で文化十年は1813年である。
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 狛犬。
 台座には「文政八乙酉年六月吉日」と刻まれている。文政八年は1825年。
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 稲荷社の隣には祭器庫。
 公式サイトの境内案内図を見ると、この北側にも稲荷社があるようなのだが、あったかなぁ? まるで気付かなかった。
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 九神社。
 天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社の九社を合祀したものであるそうだ。
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『東京都指定史跡 浅野土佐守邸跡
 所在地 港区赤坂六の一〇・一九
     氷川神社他
 標 識 昭和一八年三月一六日
 指 定 昭和三〇年三月二八日
 元禄の頃、この地は備後国三次藩浅野家の下屋敷でした。三次藩は、寛永九年(一六三二)に安芸国広島藩から五万石を分知され立てられた支藩です。初代藩主は、安芸国広島藩二代藩主光晟の庶兄因幡守長治で、娘には、播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室となった阿久里(阿久理、阿久利とも)がいます。
 元禄一四年(一七〇一)三月一四日、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を切りつけた元禄赤穂事件が起きました。長矩は即日切腹を命じられ、領地没収の上、家は断絶となりました。そのため、長矩の正室阿久里は、出家し揺泉院と称し、生家である三次浅野家に引き取られました。以後、正徳四年(一七一四)に死去するまで、ここに幽居しました。この事件が起こった時、藩主が土佐守を称した三代藩主長澄であったことから、「浅野土佐守邸跡」として標識されました。
 三次浅野家はその後、四代藩主、五代藩主ともに早逝したため享保三年(一七一八)に断絶となり、遺領は広島藩へ還付されます。享保一五年(一七三〇)、現在の赤坂四丁目からこの地へ氷川神社が遷宮され、今日に至っています。
 平成二五年三月 建設』
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 氷川坂に面する東の鳥居。
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 狛犬。
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 東の二の鳥居と狛犬。
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 狛犬。
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 四合稲荷神社。
 鳥居の柱には「大正五年九月吉辰」と刻まれている。大正五年は1916年。
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『四合稲荷神社
 ※毎年四月十五日例大祭
・御祭神
 宇迦之御魂神─食物の神、殊に稲の神
・御縁起
 1 古呂故稲荷 (赤坂一ッ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
 2 地頭稲荷  (氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
 3 本氷川稲荷 (本氷川神社隣接、別当盛徳寺の境内に鎮座)
 4 玉川稲荷  (赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により
「四合(しあわせ)稲荷」と称えられる。
 大正十四年に、鈴降稲荷神社(赤坂一ッ木町に鎮座)及び、縁起稲荷
神社(赤坂丹後坂下に鎮座)二社を、また昭和九年に、明徳稲荷神社
(赤坂新町に鎮座)を、遷座合祀し、現在に至る。
 勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
・附記
 古呂故稲荷神社は、古呂故天神社境内、氷川旧社地(氷川御旅所)に祀られていた稲荷社であって、明治十七年、氷川旧社地を売却した際、現氷川神社境内へ遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 地頭稲荷神社は、享保年間、現氷川神社遷座以前より祀られていた稲荷社である。
 本氷川稲荷神社は、本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応三年に、現氷川神社の隣地へ遷座、今井の総鎮守として、住民から尊崇を受けていた)境内の稲荷社で、本氷川神社と共に明治十六年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された。
 玉川稲荷神社は、水道方玉川庄右衛門の邸内社だったとする説もあるが、御神体が玉川上水に流れ来た故に、玉川稲荷と称したものと推定される。明治二十一年、現氷川神社境内に遷座、のちに四合稲荷に合祀された』
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 拝殿とお狐さま。
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 西行稲荷神社。
 鳥居の柱には「文久二壬戌歳二月初午」と刻まれている。文久二年は1862年。
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『正一位 西行稲荷神社縁起
 文政(一八一六~一八三〇)年間、町方書上の赤坂田町四丁目より録写したところによれば、町内自身番屋敷地内に古来からあった祠堂で本社は六尺に七尺五寸、拝殿二間四方で前方に三尺に六尺の向拝がありました。
 勧請の由来は、年代不詳(享保年間ともいう)、田町五丁目に西行五兵衛と異名をもつ男あり、榎坂を通行中、甲冑を帯し弓箭を携え、狐の形をしている三寸程の鉄像をひろいとったが、稲荷の御神体らしいと云ふので、これを勧請し、五兵衛の異名を以って、西行稲荷と唱えられました。
 明治以後、町の発展に伴い、大正十年(一九二一)九月氷川神社境内に移し、別名「火伏の稲荷」ともいい、火災除の御神徳があると称されております。
平成七年九月吉日建之』
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 本殿とお狐さま。
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 西行稲荷社下の穴稲荷と布袋尊像と石祠。
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 太鼓橋。
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『苗村翁頌徳碑
赤坂氷川神社ハ享保年間ノ創建ニ係リ神徳無限結構雄大古来
江都ノ名祠タリ維新中興ニ當リ神領官ニ歸シ社頭癈頽シテ昔
時ノ如クナラズ然モ幾バクナラズシテ舊觀ニ復シ今日ノ盛ヲ
致ス是レ固ヨリ神慮ノ致ス所ナリト雖亦以テ産土民戸ノ奉賽
ニ依ルニアラズンバ焉ンゾ能ク斯ノ如クナルヲ得ンヤ特ニ氏
子總代苗村又右衛門翁ノ功沒スベカラザルモノアリ翁ノ家世
世刀劍ヲ鬻ギ翁ニ至ツテ典舗ヲ業トス拮据經營産ヲ積ミ富ヲ
重ネ聲望漸ク加ハル屢區會議員同議長東京府會議員同商工會
議所議員等ニ推サル常ニ當社ヲ景仰シ明治十三年當社氏子總
代トナリ率先資ヲ捐テ専ラ力ヲ神社基金ノ増額神域ノ擴張ニ
致ス任ニ在ルコト五十余年敬神ヲ以テ念トナシ終始渝ラズ神
域内外ノ施設一トシテ翁ノ力ニ依ラザルナシ大正六年東京府
神職會其勞ヲ旌シ客年五月全國神職會大會更ニ之レヲ表彰ス
榮譽大ナリト云フベシ翁齡既ニ八秩ヲ過グルモ尚矍鑠トシテ
壮者ノ如ク後生ヲ誘掖指導シテ倦マズ其精力ノ絶倫ニシテ氣
力ノ旺盛ナル眞ニ驚嘆ニ値スルモノアリ豈徳ヲ頌セズシテ可
ナランヤ嘗テ聞ク神ハ人ヲ俟ツテ徳ヲ尚ヘ人ハ神ニ倚ツテ慶
ヲ受クト神人合一ノ美徳焉ニ見ハル翁ノ如キソレ斯人乎余夙
ニ翁ノ聲名ヲ耳ニス今人ノ来リテ文ヲ嘱スルアリ遭テ辭セズ
乃チ梗慨ヲ叙スト云爾
昭和十二年九月』
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 苗村又右衛門翁像。
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 見下ろしてみたり。
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 包丁塚。
『趣意
そもこの地赤坂青山は、古くより包丁の冴えに世人をして味覺の境地におそばしむる店多しために、今日が日まで破れ損いし刃物は和洋を問わず數多なり、そを情あつき人々相つどい組合設立二十五周年を期に、この因りの地氷川の神域に「包丁塚」を建立、以ってとこしえに感謝の誠を捧げるなり』
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『港区の文化財 氷川神社の力石
「三十五貫」と切符があるこの力石は、神社境内の土中から発見されたものです。この力石にまつわる話は特に伝わっていません。力石は、腕力や体力を鍛えるために重い石を持ち上げて「力競べ」、あるいは「曲持ち」を行った際に使用した石で、江戸時代には、神社の祭礼などに奉納のため盛んに行われました。区内の力石は全部で十四点確認されていますが、ほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れたこの地にあり、興味深い例です。
平成七年三月二十七日 港区文化財総合目録登録』

乃木神社(赤坂八丁目)

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 大日本帝国陸軍大将乃木希典を祀る乃木神社(港区赤坂8-11-27)。公式サイト有り。
 鳥居の傍には東京メトロ千代田線乃木坂駅1番出入口がある。
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 狛犬。
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 境内案内図。
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 二の鳥居。
 この時は結婚式が行われていたり団体参拝客が二組あったりで結構な数の人が来ていたが、少し待っていればそれなりに数も減ってくる。普段の神社巡りではこんなに人を見ないのでちょっと落ち着かない気分。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 教育の碑。
『明治天皇御製
   教 育
 いさをある人を
   をしえの親にして
 おほしたてなむ
   やまとなでしこ

 明治四十年一月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります 乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして 大切な皇国の未来を担う子弟の教育に當らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています
 この碑は当時の御歌所所長 高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります』
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 ナンダモンダ(菊面石)。
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 さざれ石。
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 正松神社の鳥居と社号標石、案内板。
『境内摂社 正松神社
昭和三十八年一月二十二日鎮座
御祭神 玉木文之進正韞命
    吉田矩方松陰命
御鎮座の由来
 玉木文之進先生は 幕末維新に際し多くの偉人傑士を輩出した長州萩の学者であり 松下村塾の開祖であり 吉田松陰先生は 玉木先生の甥に當り その村塾を受継いで幾多の國士を養成せられた大教育者であり 國事に仆れた烈士であります 乃木将軍は松陰先生の弟弟子として玉木先生に薫陶せられ 又松陰先生を深く敬い 之が人格形成の基になったものと拝察致します 依て乃木神社戦災復興竣成を機に萩の松陰神社より二柱の御分霊を請受け 境内に鎮祭した縁の神社であります』
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 正松神社。
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 赤坂王子稲荷神社の鳥居と社号標石、案内板。
『境内末社 赤坂王子稲荷神社
昭和三十七年十二月二十二日鎮座
御祭神 宇迦之御魂神 宇気母智神
    和久産巣日神
御鎮座の由来
當神社は乃木将軍御夫妻又御両親崇敬特に篤く 月詣りまでせられた北区王子に鎮座の王子稲荷神社を乃木神社戦災復興竣成を機に勧請した縁の神社であります』
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 赤坂王子稲荷神社。
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『乃木神社之碑
中央乃木會理事陸軍大将従二位勲一等功二級一戸兵衛題額
大正元年九月十三日夜 明治天皇ノ靈轜宮城ヨリ青山練兵場内葬場殿ニ
遷御アラセラル此夜八時乃木大將夫妻赤坂區新坂町自邸ニ於テ自刃ス蓋
シ大將ハ 天皇ニ殉シ奉リ夫人ハ大將ニ殉セルナリ翌朝凶報傳ハルヤ中
外ヲ擧ケテ其忠烈貞節ニ感動セサルハ莫カリキ予時ニ東京市長ノ職ニ在
リ大將夫妻ノ忠誠ヲ不朽ニ傳ヘント欲シ有志ト謀リテ乃木會ヲ起シ大將
邸宅ヲ保存シ且地域ヲ擴メ城内ニ社殿ヲ造營シ大將夫妻ノ靈ヲ祀ルノ議
ヲ決ス事畏クモ 天聽ニ達シ内帑若干ヲ下シ賜フ東京市率先シテ資ヲ捐
シ三井岩崎鈴木古河住友安田藤田森村澁澤木戸等諸家及全國篤志者相競
ヒテ之ニ效フ大正十一年八月十日内務省技師大江新太郎氏ノ設計監督ノ
下ニ起工シ翌年十一月一日本殿工先ツ成リ鎮座祭ヲ行フ殘工事ハ資ノ集
マルニ隨ヒテ續行シ今ヤ豫定ノ工事大略竣工ス東京市カ隣地ニ經營セル
乃木公園亦完成シ繞ラスニ江戸城虎門枡形ノ巨石ヲ以テシ本社及乃木邸
ト共ニ市内ノ名跡トナル本社ハ参拜者日ニ踵ヲ接シ祭日ニハ殊ニ雜沓シ
神威年ト共ニ赫赫タルヲ覺ユ本會創立以來經營ノ責ニ任シタル關係ニ依
リ茲ニ概要ヲ録シテ後ニ垂ルト云爾
昭和六年五月
   中央乃木會長正三位勲一等法學博士男爵阪谷芳郎謹撰
                従六位勲六等林經明謹書』
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『乃木神社復興之記
昭和二十年五月二十五日大東亞戰争ノ厄ニ罹リ本殿ヲ始メ社殿焼失直チニ之カ復
興ヲ誓ヒ昭和二十三年一月十三日川島康資氏ノ一建立ニ依リ先ツ假本殿復興昭和
二十六年十月一日小林古径畫伯ヲ始メトスル四十一畫伯丹青ヲ奉獻セラレ又古田
寛悟氏始メ多クノ人ヨリ屋瓦ヲ奉納コレ等崇敬ノ至誠ニ基ツキ儀式殿ノ完成ヲ見
茲ニ甫メテ神前結婚式ヲ斎行セリ昭和二十九年五月一日鈴木一光氏ト古田寛悟氏
トノ盡力ニ依リ茶席忘筌完成昭和三十七年九月十三日乃木神社崇敬會長佐々木義
彦氏他諸氏ノ盡力ト建設ヲ請負ハレシ竹中藤右衛門氏ノ赤誠ノ結果本殿幣殿拝殿
等完成續イテ摂社正松神社末社赤坂王子稻荷神社ヲ勸請シテ昭和四十三年二月境
内ニ接續スル社有地ニ乃木會館ヲ設立シ以テ永年所期ノ目的ヲ完遂スルヲ得タリ
社殿及ヒ會館ノ建築設計ハ總テ工學博士大江宏氏ノ祭神崇敬ノ至誠ニ就レルモノ
ナリ
昭和五十三年六月
   乃木神社宮司 高山 貴 謹記
   責任役員江南 桑原通雄 謹筆』
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 旧乃木邸。
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『東京都港区指定文化財 有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
 旧乃木邸は、明治三十五年(一九〇二)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(一九一二)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は一六八㎡、木造平屋建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
 馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(一八八九)に建てられた。間口約十二・五m、奥行約四・五mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
 昭和六十二年十月二十八日』
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『乃木大将と辻占売少年像
 今に伝えられる「乃木大将と辻占売少年」の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時八歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。
 この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
 平成十三年九月』
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 乃木家祖霊舎。

 この後はX30を修理に出す為、東京ミッドタウン内のフジフイルム スクエアに行き二階のサービスセンターへ。受付の方がわりと美人な眼鏡さんだったので内心ひゃっほい。

鈴降稲荷神社(赤坂五丁目)

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 中峰マンションの入口脇に鎮座する鈴降稲荷神社(港区赤坂5-1-27)。
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『鈴降稲荷神社
 鈴降稲荷神社はもと四谷仲殿町にあり、伊賀町、中殿町一帯がその氏子であった。元禄八年この社地が御用地となったので赤坂一ツ木に替地を給され、ここに遷座奉安された。その折任命された別当は鈴降山神宮寺別当願性院と称え毎年正月四日徳川家の武運長久を祈願したお礼を将軍に献上のため登城するならわしがあった。明治十三年社殿類焼に遭い仮殿を建てて神鈴を奉安、更に明治二十五年内陣を土蔵造りとしたが大正十二年の震災で拝殿は大破、土蔵は崩壊したので大正十四年氷川神社境内稲荷社へ合祀された。今も一ツ木の横町は鈴降横町と称される所以である。
 往古からのいいつたえによると朱雀院天台の頃の創設なりとか。花園院正和年中、稲荷の神七歳の童女にのりうつり「我は鈴降宇賀三社の霊神なり、わが持つところの鈴は天降の鈴なり一たび拝する者には家門繁栄ならしめん」と信託あり、よって鈴降の神号とすと。
 又一説には天正十年織田信長本能寺の変に遭いし折、京阪にありし徳川家康急遽三河に帰らんとて、伊賀越えの際山中にて道に迷いし時、遥かに鈴の音が聞こえるので、その方向にたどりつくと観音堂あり堂主山名孝倫なる者がいて之を迎え厨子の中より三箇の鈴を取り出し家康に献じ、且つ付近の住民を集めて道案内と警護をしつつ伊賀の白子に出、舟にて海路浜松へ帰ることが出来たという。家康は、此の恩義を徳とし、江戸幕府を開くや、孝倫はじめその折の郷民を江戸に召して四谷に地を給し、これを伊賀同心組とした。
よって彼等は一宇の祠を建て、さきの鈴を神鈴として鈴降稲荷と号し伊賀組の鎮守としたという』

高山稲荷神社(高輪四丁目)

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 品川駅高輪口のすぐ西側、第一京浜に面して鎮座する高山稲荷神社(港区高輪4-10-23)。
『高山稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神(食物主宰産業神)
例祭日 九月十五日
高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御神霊を祭祀しております。
往時の文献によれば今から凡そ五百年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されております。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。
現在の社殿前方品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつゞき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されております。
                         (寛政年間の江戸名所絵図参照)
明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり境内からの眺望は目を見張るものがあったと思はれ明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられて居ります。     (毛利家所蔵文献参照)
大正十二年関東大震災後国道の拡張に伴い約十五米の境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約三十二米先の石畳道路に面しており南方へ向って石段を昇った)現在の方位に移りましたが歴史の流れと共に社殿の損傷も著しく昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し氏子一同の熱心な御協力により昭和六年九月吉日社殿の御造営を落成し現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として氏子町民の信望を集め毎年九月十五日を期し賑やかに大祭の行事を執行致しております。
昭和六十三年に至り約六十年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御協力・御奉納により改修の完成を見るに至った。
当神社は数百年来鎮守の神として氏子町民の守護神として信望を集め強いては全人類の平和と幸福を祈り国家の隆昌と子孫の繁栄に御加護下さる由緒ある神社です。
昭和六十三年九月吉日建之』
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 慶応元年(1865)造立の狛犬。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 港区指定有形民俗文化財の石燈籠。「おしゃもじさま」とも呼ばれているようだ。
 縁結びの神とされているそうだが、由来は不明とのこと。
 現在の品川税務署付近にあった石神社(別名を釈神社)がこちらに合祀された際に移転されたもので、元は切支丹燈籠であったのだそうだ。高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養する為に建てられたとも、また海中より出土したとも言われているとのこと。
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 以上で11月16日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA FISH-EYE 10-17mmとDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。Coolpix P7100。
 他にも何箇所か参詣するつもりだったのだけど、時間が足りなかった。

烏森神社(新橋二丁目)

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 新橋駅西側ビル街の中に鎮座する烏森神社。
 自分が参拝したのは5月3日だが、4・5・6日が例大祭(特に、これを書いている今は丁度祭りのメインイベントである大神輿渡御の最中か)なので、参道の入口に建てられた鳥居の前で地元の方々が相談をしていた。
 この鳥居は祭用に設置されたものかとも思ったが、どうやらそうでもないようだ。
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 参道の右手側には飲食店が立ち並び、左手側には社務所が建てられている。
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 烏森神社と言うと、やはりこの特徴的な鳥居。
 烏森神社は江戸の三森(日本橋の椙森稲荷、神田の柳森稲荷、新橋の烏森稲荷)とも呼ばれていたそうだが、椙森稲荷神社はまだ参拝していないなぁ。
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 鳥居の形も特徴的なら、拝殿の形も変わっている。
 …うーん、なんか、こう、どこかで見たような。ロボットの顔だったかアメコミキャラの顔だったか。
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『烏森神社縁起
 御祭神  倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
 平安時代天慶三年(約一千年前)に平将門が東国で叛乱を起こしたとき、征討将軍藤原秀郷が当社に戦勝を祈願したとも、このとき勧請したとも伝えられている。室町時代の享徳四年(約五百年前)には室町幕府の関東管領で古河公方と云われた足利成氏は、当社に戦勝を祈願した。その祈願状は今日も当社に宝物として伝えられている。
 江戸時代には稲荷信仰により祭礼も二月初午の日に執行せられ、稲荷祭としてその賑わいは江戸で一二を争うものであった。
 明治以後は五月四五六日を祭日とし、夏祭のはしりとしてその名をうたわれている。
 当社殿は、伸びゆく新橋の地にふさわしい近代建築美の中に、神社本来の伝統を加味し昭和四十六年十二月、氏子の熱意により竣工をみたものである』

 と刻まれているが、ググってみると
『藤原秀郷が武蔵国のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢の中に白狐が現れて、神烏の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、お告げ通りに烏が森に群がっていたので、そこに神社を建立したのが烏森稲荷の起こりである』
 と言うことのようだ。このあたりは箭弓稲荷神社の由緒や、坂上田村麻呂が物見山の悪竜を退治する際に神から矢を授けられたと言う話にも似ている。
 烏森の名の由来は、古くはこの辺りは江戸湾の砂浜で、「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていたこと、烏が多く集まって巣をかけていた為に後に「烏の森」とも呼ばれるようになったことなどのようで、神社創建の言い伝えとも合致するようだ。
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 狛犬。

 以上で5月3日参拝分終了。
 使用したのはK-7にDA15mmとDA21mm、DA40mm、DA70mm。ボディ一台だとレンズ交換が少々面倒だが、まぁ仕方がない。
 この辺りにも神社は多いので、その内にまた新橋周辺の神社巡りでもしてみたいな。

愛宕神社(愛宕一丁目)

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 桜田通りを渡り、東へ歩いて行くと愛宕神社がでんと鎮座ましましている。自分はトンネル脇の神社裏手階段から入って行ってしまったので、裏から入って表に出る形になってしまったけど。

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葺城稲荷神社(虎ノ門四丁目)

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 桜田通りを北へ歩き、神谷町交差点を越えたら左折。その先の交差点で北東へ向かうと神谷町郵便局の隣に葺城稲荷神社が鎮座している。
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 階段を上った先に鳥居。
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 拝殿。
 拝殿の扉には由緒を記したプリントが貼られており、それと同じものが脇の台に数枚置かれていたので一部頂いて来た。
『新説・葺城稲荷神社の由来
 当社は、江戸時代の元禄四(1691)年に葺手町(現・虎ノ門四丁目)の人たちによって発見された稲荷神社です。
 葺手町は、江戸時代の当初(1600年代前半)現在の内幸町にあり、江戸城及び街造りの屋根職人があつまった町でした。
 元禄四年七月に江戸城の拡張、江戸の整備の為、現在のこの地に代地替えを命じられ、移り住んだときに当社が発見されたのです。
 この事柄については、「江戸町方書上」に記載されています。「江戸町方書上」とは江戸時代・文政年間(1818~1830年)に徳川幕府が各町の名主に命じて町の由来、現状などを「地理御調書上」として提出させたものをまとめたものです。
 それによると当社は現在地よりもやや丘の上の方に位置し、松平右近将監の大名屋敷の外(松平大給家の預かり地)にあったそうです。
 葺手町の人たちが殿様にかけ合い当社を町の氏神として奉ることを許され、それ以後、町内の人々が管理・運営をすることになりました。

「江戸町方書上」葺手町より
 一 稲荷社 一箇所
 神体幣束 長さ 一尺七寸(五十七センチ)
 中宮 幅 三尺四寸(一メートル)
 横幅 二尺七寸(九十センチ)
 高さ 五尺四寸(一メートル八十センチ)
 本社 幅 九尺四方(三メートル)
 高さ 八尺(二メートル六十センチ)
 拝殿 表田舎間 一間三尺(ニメートル八十センチ)
 奥行 二間(三メートル六十センチ)
 高さ 八尺(二メートル六十センチ)
 坪数 三坪

 右稲荷の儀は、当時松平右近将監様お囲い外お預かり場のうち、御砂山中段当時の場所に前々より感情仕りこれあり候由にて、元禄四年町内当初へ引き移り候砌より、火防として毎年二月初午に祭礼執行仕り候。
 もっとも、城山稲荷と相唱え(後に葺城稲荷に改名)右本社・拝殿などの修復・新規とも町内持ちに御座候。委細の儀は書留などもなく候につき相分かり申さず候。

 明治五(1872)年城山町と巴町が新たに町として制定され、当社の氏子となりました。
 大正十二(1923)年九月一日の関東大震災では災厄を免れ当社は焼失せずに残りました。
 昭和三(1928)年十二月現在地に鎮座。
 昭和二十(1945)年五月二十五日の東京大空襲では港区一帯は壊滅的な被害を受けましたが、当社及び氏子の葺手町、城山町、巴町は焼失せずに災厄を免れました。
 不幸にも隣の神谷町、愛宕町、虎ノ門近辺は焼失を免れることはできませんでした。
 戦後は町の人々たちの憩いの場として、現在はオフィス街のオアシスとして存在し、人々の幸せと生活の安定を願いつつ見守っています。

祭神
主祭神 宇迦之御魂神(須佐之男神と大市比売の間に生れた女神)
 須佐之男神(天照大神の弟であり、八岐大蛇を倒した神)
 大市比売(流通の神)
副祭神 佐田彦大神
 大宮能売大神』

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 稲荷神社だけど狛犬。
 左側の狛犬は顔の大半が削り落ちているが、目の部分が残っているのがなんかグロい。右の狛犬はなぜか頭に凹みがある。狛犬ならば角が、獅子ならば擬宝珠が付いている筈なのだが、ふむ。そう言えば、閑馬町にある羽黒神社の狛犬も頭に凹みがあったか。
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 本殿。
 拝殿の扉には開けて参拝するよう書かれていたので、ガラリとな。
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 何故か砲弾。
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 石仏。

八幡神社(虎ノ門五丁目)

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 桜田通りを今度は北へ向かって行くと、麻布台一丁目交差点の北50m辺りの所に八幡神社の鳥居がでんと建っている。
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 二の鳥居。
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 こちらの狛犬はかなり面白そうな形をしているようなのだが、上を向いているのでいまいちよく判らない。これでも手を伸ばせるだけ伸ばして撮ったのだが、うーん、DA10-17mm Fisheye Zoomでもあれば良かったかな。
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 拝殿。
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『当八幡神社は源頼信が、氏神と仰ぐ京都男山岩清水八幡宮の神霊を勧請して、寛弘年間(西暦一○○四~一○一二年)に霞ヶ関の辺りに創建したのが始めとされ、太田道灌の江戸城築城に際し、現在地に遷されました。(以下略)』
 一応由緒書きらしきものもあるが、ググってみると創建などに関しては上記の通りだが、他にも徳川秀忠の正室である小督の方が関が原の合戦の戦勝を祈願し、その報賽として寛永十一年(1634年)に社殿を造営したとか、昭和二十年の大空襲により社殿を焼失したが二十八年(1953年)に再建されたことなどが判った。
 御祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・帯中日子命(仲哀天皇)。
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 社殿の北側に境内社。
 左側は人麿社。右側は稲荷社。人麿社と言うことは、御祭神は柿本人麻呂だろう。
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 稲荷社の隣に庚申社。

熊野神社(麻布台二丁目)

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 飯倉交差点に出たら、桜田通りを南へ向かうと100m程で熊野神社。
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 由緒書き等は見当たらないのでいつもの如くググってみると、こちらの御祭神は素盞嗚尊と伊弉諾尊、伊弉冉尊。他に塩釜神社と愛宕神社、稲荷神社×2を合祀しているそうだ。
 創建時期は養老年間(717~724年)と言われ、芝の海岸に勧請されたが、その後現在地に遷座。昭和二十年(1945年)東京大空襲により社殿等灰燼に帰したが、同二十七年(1952年)に再建されたとのこと。
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幸稲荷神社(芝公園三丁目)

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 東京タワー前を西へ向かい、三叉路で北へ折れたら道なりに歩いて行くと、光寶寺の北に幸稲荷神社が見えて来る。
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 向かって鳥居の右側に幸稲荷神社、左側に瘡護神社の社号標石が建てられている。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『幸稲荷神社御由緒
御鎮座 
 應永元年四月第百代後小松天皇の御代(一三九四年)昭和六十二年より五九三年以前徳川家康江戸に幕府を開く二○九年以前に御鎮座す。
御祭神 
 伊弉冉神  「縁結びの神」
 足仲彦命  「第十四代仲哀天皇、武の神」
 誉田別命  「第十五代應神天皇」
 息長足姫命 「仲哀天皇の皇后、神功皇后」
 倉稲魂神  「衣食住の神」
配祀御祭神
 熊野神社 國常立神 伊邪那岐神 旧芝公園四号地鎮座
 茅野天満宮 菅原道真公 旧芝公園十二号地鎮座
 松野天満宮  旧芝公園十六号地鎮座
 瘡護神社 豊宇迦比売神 旧芝公園十八号地鎮座
 稲荷神社 大氣都比売神 旧芝公園二十一号地金地院内鎮座
 三峯社 大山咋神
 右配祀神は明治三年太政官布告令神佛混交御禁止に依り芝山内に鎮座の神を当社に合祀御祭となる。
祭儀 
 例大祭  八月十四日・十五日
 春  祭  五月十七日・十八日
 初午祭  二月初午の日
御由緒 
 武蔵の国豊島郡岸之村(今の大門附近、芝公園)の鎮守として勧請す。
 昔の鎌倉街道に当り郭公の名所古跡の名高く屋敷中に大幟、大燈籠を掛け寺社奉行より大検使必ず出張す。
 寛永年間、明正天皇の御代徳川家光将軍の時御府内古跡十三社の一社に定められる。中御門天皇の御代正徳三年徳川家継将軍の時寺社奉行の森川出羽守より徳川家用地として上地の旨達せられ現在地に御遷座せらる。

付記
 当社勧請当時は岸之稲荷大明神と称し奉りしが氏子崇敬者中願望成就、商売繁昌、子孫繁栄、幸事多く有り歓喜のあまり幸哉として寛永元年甲申年より幸稲荷神社と改称し奉る。
境内末社 茅野天満宮 松野天満宮
御詞石 「影向石」「御福良石」当社境内地にある霊石にして慶長年間に増上寺第十二世大僧正観智國師当山拝領の節当社大明神、國師の夢枕に立ち荒廃せる社殿を建立し給わば山内の守護及び氏子崇敬者の繁栄守るべしと当社大明神此の石に腰打ち掛け給い御誓約有りと伝う。
 此の石に水を注ぎ祈願すれば熱病癒え亦小児の夜泣き忽ち泣き止むと云う』

 稲荷神社の筈なのに、倉稲魂命が御祭神の最後に置かれているのは何故だろう。むしろ八幡神社とでも言われた方がしっくり来るくらいでは。
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 茅野天満宮・松野天満宮。
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 御詞石影向石。

熊野神社(芝公園四丁目)

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 鹽釜神社から西へ向かい、芝郵便局前に出たらずっと南下して行くと、大本山増上寺の境内北端に熊野神社が鎮座している。
 増上寺の南側には芝東照宮と円山随身稲荷大明神社があるのだが、チェック漏れしていて気付かなかった○刀乙
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 手水舎。
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『三本足の烏[八咫烏]
「神々のお使い」
 日本書紀によると、神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい」とおさとしがありました。
 そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。
「日輪の中に三本足の烏」
 ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。
 烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。
 日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。
 また次代によっては「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。
 日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。
「シンボルマーク」
 天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。
 近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなわち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。
 私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。
 皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします』

 八咫烏と言えば、数年前にどこぞの隣国が起源を主張していたっけなぁ。
 まぁ、それはさておき、宮城谷昌光氏の小説などを読んでいると、古代中国に於いて「三」と言う数字が重要な意味を持つということはしばしば出て来ることで、老子にも「道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱く。冲気以って和を為す」と言う言葉があるそうだ。
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『熊野三所大権現宮 由来記
 増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。
 御神体は
  熊野本宮大社 家津御子大神
  熊野那智大社 大己貴命
  熊野速玉神社 伊弉諾尊
 以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年三月三日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は四月第三日曜日に定まる』
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鹽竈神社(新橋五丁目)

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 新橋五丁目に鎮座する鹽釜神社。
 鳥居前東側には塩釜公園があり、涼んでいる人もちらほらと。自分は公園側からは入っていないので気付かなかったが、公園入口に由緒を記したものがあったようだ。
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 …えーと、これも鳥居なのかな?
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 狛犬。
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 拝殿。
 ググってみると、元禄八年(1695年)に伊達綱村公が陸奥国一宮の鹽釜神社を汐留の上屋敷に勧請したのが創建であるそうだ。その後、安政三年(1856年)に伊達家上屋敷から現在地である仙台藩中屋敷に遷座、安政五年(1858年)に伊達慶邦公によって一般の人々にも参拝を許されるようになり、昭和五年(1930年)には伊達興宗伯が伊達家の所有する約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付して塩釜公園ができたとのこと。
 陸奥国一宮の鹽釜神社から勧請したと言うことは、御祭神は塩土老翁神と武甕槌命、経津主命だろうか。
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 境内社である稲荷神社の鳥居。
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 お狐様。
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 稲荷神社。
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 祠の後ろには大黒天と恵比寿神の石像。
 大己貴命と事代主命を合祀しているのだろうか。
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 神社南口の鳥居。ここを入ると最初の写真の鳥居前に繋がっており、参道右手側に手水舎もある。するとこちらが一の鳥居になるのだろうか?

日比谷神社(東新橋二丁目)

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 新橋駅を出たら第一京浜国道を南下して行くと、新橋五丁目交差点手前、第一京浜東側に日比谷神社が鎮座している。自分は日本テレビタワー前の道を歩いて行ったので、少し回り込むことになってしまったが。
 日比谷神社は昨年7月までは第一京浜から西へ100m程入った所に鎮座していたそうだが、現在はこちらに遷座されている。もっと早く動いていれば、新旧双方の日比谷神社に参拝できたのか。残念。
 残念と言えば、日本テレビタワーにごくせん神社なるものが鎮座していたそうで、そちらは昨年9月に撤去されてしまったそうだ。新橋経済新聞にそちらの記事があり、それを見ると2004年の12月27日建立、2008年3月30日に日比谷神社から分霊、2009年9月に撤去と言うことらしい。
 それはそれとして、こちらの鳥居は笠木が短すぎてバランスが悪いような感じがする。
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 拝殿。
 由緒を記した看板などは無いようだが、参拝のしおりが置かれていたので一部頂いて来た。そちらには御祭神や由緒が記されていたので書き写すと、御祭神は豊受大神を主祭神として、他に瀬織津比賣大神・速開都比賣大神・気吹戸主大神・速佐須良比賣大神の祓戸四柱大神。
『当日比谷神社は、古くから旧麹町区日比谷公園の大塚山という所に鎮座し、日比谷稲荷明神旅泊(さば)稲荷明神と称しておりました。慶長十一(一六○六)年、江戸城築城と共に日比谷御門の造営につき氏子と共に芝口に移動となりますが、町名は従来の日比谷のままでした。しかし、寛永七(一六三○)年、新橋に新しく芝口御門を造営することになり、日比谷町を芝口町と改称することになりましたが、神社の社号は変えずに現在に到ります。
 芝口の地に御鎮座して四百有余年となる古社であります。
 御霊験著しいことから崇敬者も多く、江戸幕府の時代には毎年一月六日に神札を捧持して登城する慣例があったといわれ、それ以外にも伊達、脇坂、中川、肥後、本堂、毛利、井上、片岡家の諸公から篤い崇敬を集めていたといわれます。
 明治五(一八七二)年に村社に列せられ、その後、関東大震災(大正十二年)の影響で昭和三年の都市計画区割整理の対象となり、愛宕下町二丁目に換地され、現在の新橋四丁目に日比谷神社の御社殿が造営されました。
 以降、新橋の鎮守様として広く崇敬を集め幾多の災厄に遭うも、その都度氏子崇敬者の方々の御厚意をもって再建して参りました。
 平成二十一年に、都市道路計画(環状二号線)の建設により、御社殿を東新橋二丁目に建造されました。現在では新橋四丁目町会・新橋五丁目町会・汐留町会・新橋二丁目町会・新橋駅前ビル自治会・東新橋一丁目町会及び汐留シオサイト地区の氏神様として変わらぬ崇敬を集めております』

『「鯖稲荷」と呼ばれた理由
 当社が日比谷公園の中にあった頃、全国の苦しんでいる旅人たちに神社の社務所を開放し、無病息災の祈願を受けさせたところ、霊験が殊更に著しくあらわれ、旅人や周囲の人々は「旅泊(さば)稲荷」と唱えました。
 新橋に遷った後に魚の鯖に変わるようになり、鯖稲荷と称してまいりました。
 特に昔、虫歯虫封じに苦しむ人が御祈祷をうけると霊験があるとされ、鯖を食べることを断ち祈誓をかけると治ったそうです。それ以降、治った人々は鯖を奉納するといわれてきました』
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 稲荷神社。
 祠の前には狛犬が控えているが、祠の脇にはお狐さまが控えている。
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 狛犬。
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