諏訪神社(上仁手)

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 長沼八幡宮から南下して行くと、利根川の堤防手前に諏訪神社(本庄市上仁手212)が鎮座している。
 駐車場は無いので、少し東に向かった所にある上仁手公会堂に駐車。
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 戸隠神社。
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 拝殿。
 由緒等は不明だが、諏訪神社なのだから御祭神は建御名方命だろう。
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 狛犬。
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 末社。
 左側の石祠は稲荷宮。石燈籠の側面には享和元辛酉歳吉祥日とあるので、1801年のものだ。
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一之神社(田中)

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 田中市営住宅団地東側に位置する真言宗智山派蓮臺山醫王寺(本庄市田中209)の入口脇に鎮座する一之神社(本庄市田中134)と稲荷神社。
 医王寺の北側に駐車場。
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 拝殿。
 瓦に三つ葉葵の紋があるように見えるのだが、徳川家に所縁のある神社なのだろうか。ググってみても御祭神、由緒等は不明。
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 一之神社の隣に稲荷神社。
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 稲荷神社鞘殿。
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 壁際に並ぶ境内社群。右端の石祠は戸隠神社のようだ。
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 石の上に鎮座する石祠。
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 庚申塔と道祖神。
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 石祠が二基並んでおり、左側は箱根神社であるようだ。
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 一之神社社殿脇に石祠と地神碑。
 石祠の額には「市長」と彫られていたが、市長神社と言うのは聞いた覚えが無い。手長とか岩長ならわかるのだが、しかしどうみても市長。うむぅ。
 側面には安政三丙辰年二月吉日とあるので1856年のもの。また、地神碑には天保六乙未年二月吉祥日とあるので1835年のもの。
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 一之神社の向い側には御嶽塚。
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 不動明王。
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 庚申塔。
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 医王寺。
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 弘法大師像。

 以上で2月18日参拝分終了。
 金鑚神社や御嶽教普寛霊場、久々宇の稲荷神社なども巡るつもりだったのだが、時間が無くて今回はスルー。あまりの風の冷たさに、智方神社のあたりでもう帰りたくもなったが、なんとか予定の大半はクリアできたからまぁいいや。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、FA31mm、FA77mm。K10Dに50-150mm II。

八坂神社(本庄三丁目)

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 城山稲荷神社から少し東へ歩くと八坂神社(本庄市本庄3丁目7-11)。
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 鳥居。
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『八坂神社
 所在地 本庄市本庄三‐七
 八坂神社の祭神は、健速須佐之男命である。社伝によると創立は、弘治二年(1556)で、城下町の疫病除けの社として本庄宮内少輔実忠が勧請したと伝えられている。現在の本殿は、明暦二年(1656)再興されたものである。
 この神社の祭礼は毎年七月十四日、十五日に行われ、この両日台町の氏子の人々によって獅子舞が奉納されている。この獅子舞は、寛文三年(1663)榛沢郡元榛沢(現岡部町)で開かれていた六斎市を本庄宿に移した折に、天王祭(市神祭)のとき、台町有志によって始められたと伝えられている。歌人三、笛四、裃着用ほか手古舞姿で拍子木二、金棒引二、舞い三(法眼一、雌獅子一、老獅子一)で演舞されている。昔より旱魃時に当社の獅子舞を奉納すると必ず霊験あらたかに雨が降ると伝えられ、雨乞獅子といわれている。
 なお、この獅子舞は、昭和三十五年本庄市指定の無形文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 ほんじょうかるたの「や」
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『八坂神社
祭神 健速須佐之男命  例祭 七月十四日、十五日
由緒 
 弘治二年(1556)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社で児玉郡並びに本庄市内に於いても八坂神社は当神社が唯一の社です。社殿は昭和四十八年に再建したものである。

本庄市無形文化財八坂神社獅子舞の由来
 寛文三年(1663.)の時代に本庄宿に絹糸市場開設の折八坂神社氏子有志が舞いや唄を習い伝え八坂神社に奉納したのが始まりで爾来今日に及んで居る。
 この獅子は龍頭と云い寛文三年に沼和田の雷電社の社木を以って作製したものでその龍頭の顎下に年号の彫刻がある。
 この獅子舞、唄は頗る古雅なもので疫病や雨乞に霊験あらたかにて雨乞獅子の名もあり戦火の中にも毎年休む事なく奉納され現在に至って居る。
 獅子は法眼・女獅子・老獅子と呼び舞人は身を清め八坂神社宮司のお祓いを受け御幣を腰に差して舞う。

 伝統ある獅子舞(橋渡り)の数十年来の再現奉納を記念し之を建立。
 昭和五十一年七月十五日竣工』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 雷電宮。
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 扁額には「燿龍殿」と書かれているが、なにこれ? 獅子舞の龍頭が納められているのだろうか。

城山稲荷神社(本庄三丁目)

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 本庄市役所の東側に鎮座する城山稲荷神社(本庄市本庄三丁目5)。
 入口左側に駐車場。
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『本庄城跡
 所在地 本庄市本庄三‐五
 本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。
 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
 元禄十三年(1700)の城跡検地表には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。
 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 ほんじょうかるたの「け」
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『城山稲荷神社創建四百五十年記念碑
 城山稲荷神社が当地に鎮座されて四百五十年を迎える。
 今を去る弘治二年(1556)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端、字天神林に城を築き、守護神として稲荷神社を勧請した。本庄城の築城を機に本城村も誕生した。
 天正十八年(1590)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事無く開城した。
 新たに本庄領一万石の城主となった小笠原信嶺は、天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。
 その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。
 また、町が全国有数の繭の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍盛の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊り、サーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。
 現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治四五年(1912)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。
 平成十八年(2006)、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建四百五十年を祝して、ここに石製大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。
 平成十八年四月吉日』
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 社殿の周囲を一望。左側の建物は神楽殿。
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 お狐さま。
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『城山稲荷神社
 所在地 本庄市本庄三‐五
 城山稲荷神社の祭神は、宇加之御魂神である。
 当社は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠が、本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したといわれている。天正十八年(1590)小笠原氏が社殿を再興し、慶長三年九月(1598)上州赤城山麓より松樹百本を取り寄せて社内に植え、深く尊崇したと言われる。現在の社殿は天保十五年(1844)六月再建したものである。
 社殿近くにあるケヤキは、本庄城築城のおり献木されたと伝えられる。現在、目通り周囲六・三五メートル、高さ約三十メートルで県指定の天然記念物となっている。
 また、境内に祀られている八幡神社は、応永年間(1394~1428)村民が勧請したのを、慶長十年(1605)小笠原家の家老脇屋金座衛門が信仰して社殿を再興したものであるといわれており、その後、明治四十一年この地に移転された。
 昭和六十一年三月』

 八幡神社ってどこにあったっけかなぁ。見覚えないなぁ…。
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『埼玉県指定天然記念物 城山稲荷神社のケヤキ
 昭和四十四年三月三十一日指定
 このケヤキは目通り六・三メートル、根回り十三・三メートル、枝張りは三十メートル四方にも及び、姿態もみごとな樹木で、この一本で神社の森をつくっているくらいである。
 樹齢およそ四百年と推定される、ケヤキは戦時中特別なものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである、弘治二年(1556)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている』
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 旧社殿鬼瓦。
 天保十五年(1844)造営、平成十一年(1999)解体。
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 社殿。
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 琴平神社と天手長男神社。
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 磐座かな?

戸谷八稲荷神社(中央一丁目)

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 北原愛宕山古墳の東側、と言うか愛宕神社の裏に鎮座する稲荷神社
 鳥居の額には正一位稲荷大明神としか刻まれていないが、Mapionには戸谷八稲荷と記載されている。
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 こちらの神社は承応元年(1652)の創建であるようだ。
 裏面には「平成十七年春三月 中興十四代戸谷八郎左衛門尉藤原博之 通称 戸谷全克 妻 澄子」とある。ここの南側、県道392号線に面して戸谷八商店があり、そちらの代表取締役の方であるようだ。戸谷八稲荷と言う名前から察するに、こちらのお稲荷様はそちらの守り神であるのかも知れない。
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 参道右側には手水舎らしきものもあるが、水盤はそれより手前にずれているし、なにより大木の切り跡がある。御神木の跡なのだろうか。
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 祠の石段にはやたらとにこやかな顔つきのお狐さま。
 瓦には三宝珠紋の他に釘抜紋も見える。釘抜紋は小笠原氏の家紋でもあるようなので、こちらの神社は小笠原氏とも所縁があるのだろう。

愛宕神社(中央一丁目)

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 北原愛宕山古墳の墳頂に鎮座する愛宕神社(本庄市中央1丁目5)。
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 石段左側に聳える御神木の欅は、本庄市指定文化財に登録されているそうだ。
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 庚申塔。
 右の庚申塔の側面には「萬延元庚申歳十二月建立 文久辛酉元歳十月再建」とあるが、万延元年は1860年で文久元年は1861年。僅か一年で壊れるようなことがあったのだろうか。
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『愛宕神社
 所在地 本庄市中央一‐五
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正十九年(1591)本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根本から南北二樹に分れている。南樹は目通り周囲三・七メートル、枝張り東西約二十メートル、北樹は目通り周囲四メートル、枝張り東西約二十メートル、一本で社叢を形成している、このケヤキは、昭和四十三年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』

 小笠原信嶺が本庄に赴任したのは天正十八年頃なので、こちらの愛宕神社が勧請されたのはそれから程無くということになるのだろう。
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 狛犬と祠。
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 南側から。

阿夫利天神社(中央三丁目)

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 本庄西中学校の東側に鎮座する阿夫利天神社(本庄市中央3丁目4)。
 本庄西中学校北側の若泉第二公園入口車止めの前に駐車したのだが、西中学校東側から普寛霊場の脇を通って境内まで入れたかも知れない。
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 石段左側に並ぶ庚申塔。
 中央の庚申塔の台座には宝暦十庚辰歳正月中とあるので1760年のもの。
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 右側に見える赤い屋根の建物は神楽殿。その脇から公園へと石段が続いている。
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『阿夫利天神社
 所在地 本庄市中央三‐四
 阿夫利天神社の祭神は大山祇命、大雷命、高龗神、菅原道真、天手長男命の五神である。
 社伝によると、寿永年間(1182~85)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。
 その後、天明三年(1783)七月の大旱魃の時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。
 寛政三年(1791)に社殿を再建、大正二年(1913)に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。
 昭和六十年三月』
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 ほんじょうかるた碑の「ち」
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 拝殿。
 賽銭箱には梅鉢紋と羽団扇紋のレリーフが施されている。
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 南西から。
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 社務所。
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 阿夫利天神社と社務所の間を少し西へ向かうと出世稲荷神社。
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 素焼きの狐がずらり。

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 若泉第一公園東口に設置された案内板。
『子育ての像建立の由来
本庄市が管理する若泉公園の北端を流れる旧元小山川を清流にもどすべく埼玉県本庄土木事務所が環境整備の河川維持工事を行うに当り、たまたま株式会社堀越組が工事請負施行したところ、二月二十四日夕刻、川底の泥中より一体の石造りの佛像が出現せり、これ佛縁によるものと地元関係者と協議し、環境浄化と、すこやかな子供の育成を願って、当公園内に建立せるものなち。
 昭和五十五年五月五日』
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 子育ての像。
 碑文は上記の案内板のものと同じ。
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 若泉第一公園西口そばに不動明王と二童子。

二柱神社(下野堂一丁目)

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 ケーズデンキ本庄店の南側に鎮座する二柱神社(本庄市下野堂1丁目21-2)。
 駐車場は無い。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 由緒等を記した案内板などは見当たらなかったが、Wikipediaの塩原勘解由の項目にこちらの神社のことが記されている。
 それによると、塩原勘解由信重は天正元年(1573)に武田信玄が没すると信玄の正室である三条陽雲院に子弟を率いて随従し、武蔵国児玉郡の本庄台地末端の杉山村に移り住み、そこに四門造りの堂宇を建てて信玄から賜った聖天像を安置した。以後この地の人々はこれを四門堂聖天と称し、やがて堂宇の周囲一帯は四門堂と呼ばれたが、正保二年(1645)頃にこの地区は四門堂から下野堂と改称して杉山村から分かれ、四門堂聖天宮は下野堂村と杉山村の鎮守となった。明治に入ると神仏判然令により四門堂聖天宮は伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀る二柱神社と改称したとのこと。また、児玉郡上里町金久保にある陽雲寺には三条陽雲院の墓があるそうだ。
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 二股の違い大根紋が聖天宮であった名残か。
 余談ではあるが、本庄氏も替紋として大根紋を使用していたそうだ。
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 左から蚕影大神、八坂神社、天満天神宮、稲荷大明神、御手長宮。
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 遙拝所。
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 塞の神。
 碑文が長々と記されているが、中央上部に大きく記されている久那斗神・八衢彦神・八衢姫神の名はわかるものの、所々薄くなっていたり草書だったりで殆ど読み取れない。
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 若宮八幡宮と塩原勘解由信重の墓。
『追遠碑
丈慎終追遠即民徳歸厚矣是古之教人法也蓋我開蕀祖者小笠原
長清末孫而世居甲斐有故更氏鹽原仕武田家信玄當爭覇一族皆
在文武職就中勘解由信重歴仕信玄勝頼屢有功晩爲上州長根組
部将劃策中遭於宗家瓦解竟不果噫時哉既来子當地偃武帰農開
拓土地耕芸躬努諸族相頼一致協力斯業漸成焉時領主小笠原信
嶺待勘解由以同族禮故聾望自隆焉慶長十八年五月十六日卒爾
後襲其遺業者滋加殆作村相矣今也村民相謀建碑而奉祀事以致
追遠之虔素是亶非闔村故而巳所以使隣里郷黨馴致醇厚之風也
仍作銘々曰 兵農出一 偃武躬耕 創業遺徳 諸族共榮
 信玄十三世裔武田正樹篆額』

『奉献敷地二十一平米 当所塩原範之殿
 若宮八幡宮 勘解由墓追追碑は寛延年中(1748~1750)より塩原総本家の屋敷西南隅に祭られていたが今時区画整理事業により遷座し奉る。
 平成二年十一月』
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 庚申塔群。右から二番目は大山祇命。

諏訪神社(小島四丁目)

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 諏訪大明神古墳の頂に鎮座する諏訪神社(小島4丁目4-14)。
 唐鈴神社から近いので歩いて来たが、駐車場は無いので徒歩で正解だったようだ。
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 御手長大明神。
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 両部鳥居。
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 石段。
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 拝殿。
 由緒等は不明だが、諏訪神社なら御祭神は建御名方命だろう。
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 拝殿左手側に稲荷社。
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 拝殿前に五重石塔。
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 北西から。
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 西から遠景。

唐鈴神社(小島五丁目)

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 本庄市小島交差点南東脇に鎮座する唐鈴神社(本庄市小島5丁目4-4)。
 社殿自体は本庄市小島交差点のすぐ脇にあるのだが、そこから参道が南へ200m程延びている。駐車場は無いので東隣にある長松寺の駐車場に置かせてもらう。
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 参道入口右側に、僅かに残った稲荷の文字。
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 右側の石柱は鳥居跡のようだ。嘗てはこれが二の鳥居だったのだろうか。
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 二の鳥居。
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 首と手足を失い、胴体だけが残ったお狐さま。
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『唐鈴神社
 所在地 本庄市小島五‐四
 唐鈴神社の祭神は、大国主命・素盞鳴尊・倉稲魂命である。
 社伝によれば、遣唐使として唐国に渡った大伴宿根古麿が、天平勝宝年間(749~757)に帰国の折、唐国の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴を授けられた。
 その後、古麿は武蔵野国武州小島郷皇坂(現在の長松寺境内)に館を築く。その子古佐美、さらにその子良麿三代がこの地に住んだ。この時、良麿は五穀豊穣のため秘蔵の唐鈴と、出雲国氷川の杵築大社(現出雲大社)を分霊し二柱を祀り社を創立した、後に、良麿は帰京を任ぜられたが、その際に神宝の盗難を恐れ石函に入れ、社の下に埋めた。
 そして幾歳月がすぎ、戦乱の世に社も破壊された。これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に五つの金鈴があったと言う。石函には、大伴宿根古麿が玄宗皇帝から賜った唐鈴であることが記されていたと伝えられる。これが唐鈴神社の由来である。
 なお、社殿裏の交差点一帯は、小島本伝遺跡で、古墳時代の住居跡が発掘されている。また、西方には、県選定重要遺跡の旭・小島古墳群があり、その中の八幡山古墳など数基は、本庄市の文化財にも指定されている。
 昭和六十一年三月』

 こちらも玉村町の火雷神社に残る伝承とは違っているようだが、玉村八幡宮のサイトを見ると、こちらは長松寺の境内に唐鈴明神社の名で鎮座すると新編武蔵風土記稿に書かれ、古くは鬼頬(きつらき)明神と称されていたが、金鈴が掘り出され、それが御神体とされた後に現在の社号である唐鈴神社に改称されたとある。鬼の首を祀ったとされる伝説自体はこちらにもあったようだ。
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 地神碑。
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 拝殿。
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 拝殿手前左手側に天王宮。
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 国常立神・国狭槌神・豊斟渟神。これも御嶽塚になるのかな。
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 社殿裏手にずらりと並ぶ末社群。
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 交差点上に架かる歩道橋から。

長松寺(小島五丁目)

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 国道17号線本庄市小島交差点そばに鎮座する唐鈴神社の東側に位置する長松寺(本庄市小島5丁目4-12)。
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『長松寺
 所在地 本庄市小島五‐四‐十二
 長松寺は弘法大師空海を宗祖とする真言宗の寺で、唐鈴山薬師院と称し、本尊は十一面観世音菩薩で、開山は佑海法印である。
 佑海法印は正保四年(1647)入寂したと伝えられることから、創建年代は江戸時代初期と思われる。
 なお、本堂の西側、および北側の山林の中に土塁、空堀が残っている。これは館址の遺構で、武蔵武士の一つ丹党の一族小島氏の居館址と伝えられている。
 昔は、この周辺に百余基の古墳があったので、旭・小島古墳群と命名され、県選定の重要遺跡になっている。
 昭和六十一年三月』
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 本堂。
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 鐘楼。

智方神社(小島)

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 国道17号線万年寺交差点の北側に鎮座する智方神社(本庄市小島179)。
 駐車場は無いので路肩に置くしかない。
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 狛犬と御神木の欅。
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『智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられさらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の杜「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。
 平成六年五月吉日』
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 拝殿。
 新築記念碑によれば御祭神は天児屋根命と藤原修理大夫千方と言うことになるのだろうが、藤原秀郷の子は五男までしかいないようなので、はて? と思い更にググってみると、尊卑分脈という書物には秀郷の五男である藤原千常の実弟と書かれているが、千方は千常の養子となったので系図上は秀郷の孫ということになってしまうのだとか。まぁ、いたならいいや。
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『御嶽山遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝を行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の頃に盛んに信仰された。創建は定かではないが、ここ本庄、萬年寺の地においても、木曽御嶽山へ登拝できぬ人々の遙拝所として御嶽神社が奉斎され、毎年三月二十七日には氏子のみなが集り参拝するのを恒例としてきた。
 しかし、平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林一三九の一番地の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社の境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。
 平成二年九月吉日』
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 御嶽塚。
 塚頂には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が祀られ、その右に不動明王。
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 末社。
 何神社なのかは不明。
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 末社。
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 末社。

稲荷神社(新井)

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 角折神社から北上して行くと西側に株式会社境野鉄工が見えて来るが、その南側に稲荷神社(本庄市新井2)が鎮座している。
 神社左側に駐車スペース充分にあり。
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 由緒等は不明。
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 社殿裏に並ぶ境内社。
 天照皇大神・春日大神・八幡大神、蔵王大権現、大江神社、御嶽山神社、八海山神社、天野御中主神などの名が見える。
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 祠の中には二基の石祠が納められている。左側は不動明王、右はさっぱりわからない。

角折神社(都島)

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 県道351号線本庄旭小前交差点から道なりに北上して行くと、旭公民館西側に角折神社(本庄市都島235)が鎮座している。入口右脇には庚申塔と道祖神。
 このまま境内に入ろうとすると、出る時に難儀するので旭公民館に駐車。
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 参道右手側に両部鳥居があるが、これは八郎神社の鳥居。
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 その横に案内板。
『角折神社
 所在地 本庄市都島二三五
 角折神社の由来は、清和天皇の貞観年間(859~877)京都から公卿某が東国に下向した折に、勅使河原(現上里町内)に至りさらに上州那波郡茂木郷に移ったところ、この地に魔鬼が現われ民衆を苦しめているのを見て、魔鬼の角を折って退治したと伝えられる。以来、都島の里人はこの剛勇の公卿を崇拝して角折明神と称し、後世に伝えるため神祠を建てて祀ったと伝えられている。
 社殿は享保年間(1716~1736)の建築で、徳川時代には正観寺がその別当職であった。
 なお、境内には、九頭竜神社と八郎神社も祀られている。
 九頭竜神社は、昔、正観寺の北側にあったが、後にこの地に神殿を移したものである。この都島の辺は利根川と烏川が合流し、水域の移り変わりが激しい所で、たびたび洪水にみまわれたが、当社に瀬引の祈願をしたところ川の流れが北に変り洪水がなくなったという伝説がある。
 八郎神社は疱瘡除けの神として、鎮西八郎を祀ったものである。明治時代には近隣町村からの参詣者が多く、同社の「鎮西八郎子孫」の御札を住居の入口に貼っておけば疱瘡の疫病神が舞い込まないと言われている。
 昭和六十一年三月』

 創建時期や魔物退治と言う部分は同じだが、玉村町の火雷神社に残る伝承とは少し違うようだ。あちらでは魔物を退治したのは那波八郎だが、こちらでは名もはっきりとしない公卿であり、また、こちらに祀られている八郎も那波八郎ではなく鎮西八郎こと源為朝だ。ただ、魔物や竜、八郎などというキーワードは大蛇と化して生贄を要求した那波八郎(群馬八郎)を連想させる。
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 案内板の隣に石祠。
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 こちらが角折神社の鳥居。
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 鳥居をくぐるとすぐ左手側に九頭竜神社。
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 角折神社拝殿。
 御祭神は角折神。
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 左手側に廻ると境内社が数社並んでいる。
 何神社なのかはわからないが、梅鉢紋らしきもののついた石祠があったので、それは天神社であるように思われる。
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 角折神社と八郎神社の間に石祠が二基。
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 東側から。
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 遠景。

日枝神社(山王堂)

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 利根川の堤防南側に鎮座する日枝神社(本庄市山王堂228-1)。
 駐車場があるかどうかわからなかったので、大した距離でもないこともあり沼和田センターに車を置いたまま歩いて来たのだが、日枝神社裏にある墓地の脇なら置けないこともなさそうだ。
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『日枝神社
 所在地 本庄市山王堂二二八‐一
 日枝神社の祭神は、大山咋命で、慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられる。
 その後、元禄十五年(1702)に京都吉田家より正一位大明神の神号を授けられている。
 社殿は利根川南岸、堤防に接し、明治四十三年(1910)の大洪水で本殿を破壊され拝殿を流失したが、同四十五年に再建された。
 社殿の横にあるケヤキの大樹は、神社創建当時に植えられたものと思われ、樹齢四百年以上と推定される。目通り周囲五・一メートル、高さ二十六メートルで、先の大洪水でも残り、樹勢は今なお旺盛である。昭和五十一年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 二の鳥居と狛犬。
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 石祠。
 何神社なのかは不明。
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 拝殿。
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 大杉神社。
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 その脇に並ぶ石祠と庚申塔。
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 こちらにも。
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 水準点。
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 本庄市指定天然記念物の欅。
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 その隣に石祠と庚申塔。
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 社殿裏手にもぐるりと並ぶ庚申塔。
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 稲荷神社。
 平成十四年(2002)一月に改修されたようだ。
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 末社群。
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飯玉神社(沼和田)

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 本庄市立旭小学校前を走る県道351号線を少し東へ向かうと飯玉神社(本庄市沼和田926)が鎮座している。
 鳥居のそばには沼和田センターがあるので、そちらに駐車。
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 二の鳥居と狛犬。
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 拝殿。
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『飯玉神社由来記 
当社創立は未詳なれども往古室町時代には上野国那波郡那波城主の崇敬ありし社にして神徳遠近に輝きしと云う。
祭神は倉稲魂命を祀る。五穀の祖神なり。?社地は村の東方字飯玉の地にありしを天正十八年に今の地に遷す。旧境内には周囲参拾餘尺の欅の老樹ありしが明治二十年十月二?日焼失せり。建物は本殿幣殿拝殿社務所等の施設を完???明治四十二年に無格社雷電神社稲荷神社八幡神社諏訪神社を境内社に移転し大正十年二月二日神饌幣帛料寄進社となる。神域の樹木欝蒼として神威赫々たり。茲に由来を調査して?記し?世に伝うと云爾』
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 遙拝所と境内社二社。
 左側は額が掛けられているも文字が消えてしまっている為わからないが、上記の雷電・稲荷・八幡・諏訪のうち諏訪神社以外は他にあったので、こちらは諏訪神社ではないかと思われる。なお、右側は雷電神社。
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 その裏側に石祠が二基。
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 富士塚。
 冨士浅間大神の手前に小御嶽大神。
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 赤い石祠は三峯神社。その左奥の石祠は不明。
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 中央の石には左の石祠が天手長男神社、右が菜種八幡神社と刻まれている。
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 稲荷神社。
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 社殿斜めから。
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 沼和田センターの向い側に並ぶ庚申塔群。

地神碑(堀田)

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 堀田交差点から南東に向かって行くと堀田集落センターがあり、その敷地の端に地神碑が建てられている。
 今まで見たものは天照皇大神、大己貴命、倉稲魂命、埴安媛命、少彦名命の名が刻まれていたが、こちらの地神碑では倉稲魂命の名が無く、代わりに保食姫命とある。どちらも稲荷神とされる神だから、いいのかな。
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諏訪神社(堀田)

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 埼玉県道45号線堀田交差点の脇に鎮座する諏訪神社。
 こちらも詳細不明。
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 拝殿と鞘殿。
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 境内端に末社。やはり詳細不明。
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 その隣に庚申塔、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音。
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 拝殿脇の末社。
 瓦に梅鉢紋があるので天神社であると思われる。
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稲荷神社(堀田)

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 諏訪神社のすぐ西側に鎮座する稲荷神社。
 民家の庭と繋がっていると言うか敷地内にあるようにしか見えないので屋敷神かとも思ったのだが、地図にも記載されているし道路側を向いてもいるのでおそらく屋敷神ではないのだろうと判断して参拝。
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 末社。

諏訪神社(堀田)

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 小山川に架かる滝岡橋の北に鎮座する諏訪神社。
 ググってみても詳細不明。
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 拝殿。
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 拝殿右手側に二十二夜塔と廾三夜供養塔。廾三夜とあるけど、これ廿三夜が正しいのかな?
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 その隣に石祠が一基。
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 御神木の根元付近に神宮遙拝所。
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 末社。
 中には菅原道真朝臣・倉稲魂命・素盞鳴尊・火之迦具土神と書かれた板が納められている。
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 西の鳥居。


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瀧瀬神社(滝瀬)

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 横瀬神社の西を南北に走る埼玉県道259号新野岡部停車場線を南下し、滝瀬交差点で西へ折れるとすぐに天台宗滝瀬山正法院立岩寺が見えて来るので、その立岩寺の一本西側の道を北に入って行くと瀧瀬神社が鎮座している。
 かつてこの周辺は安保二郎実光の孫である光直を祖とする瀧瀬氏の居館であったのだそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。神紋は左三つ巴紋。
 御祭神や由緒等を記した物は見当たらなかったが、ググってみた結果、滝瀬主水正光直ととその子三郎兵衛尉経氏によって嘉禎二年(1236)に創建され、同氏の遠祖である宣化天皇を祀っているとのこと。が、瀧瀬氏が宣化天皇の裔であると言うのは仮冒であるとも言われているそうな。先程の横瀬氏の祖が新田貞氏と言うのも仮冒であると言われているそうだし、まぁ、箔付けなんだろうなぁ。そう言えば徳川家康も…。
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 社殿横に天満宮。
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 瀧瀬神社神楽殿跡。
 側面には平成二十一年八月吉日とある。
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 末社。
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 正面に天照大神と刻まれており、左回りに倉稲魂命、少彦名命、大己貴命、埴安媛命の名が刻まれている。安政三年(1856)のもののようだ。
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 神宮山陵遙拝所。


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