両国稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 両国橋西交差点の北側、日本橋CETビルとNビル、ヴェルドミール柳橋の間と言うとてもわかり難い場所に鎮座する両国稲荷神社(中央区東日本橋2-28)。
 何年か前には鳥居や案内板もあったそうなのだが、現在はどちらも無くなっている。
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 以上で4月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは17,841歩。
 今回は4月22日の神社巡りで見落としていた所を主として巡って歩いたのだけど、見落としすぎだろう自分○刀乙
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矢之庫稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 薬研堀不動院の西側に鎮座する矢之庫稲荷神社(中央区東日本橋2-6)。
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 ググってみたところ、現在の社殿は平成二十三年(2011)十月に新築されたものであるそうだ。
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縁起
 今日隣接する東日本橋一丁目あたりが谷野と呼ばれていた頃 正保二年(一六四五)幕府が米蔵を建て谷野蔵矢之倉と称されていました その庭中に御蔵の鎮神として三社を合殿した三社稲荷神社をまつりました三社は中央に「谷野蔵稲荷」左に「福富稲荷」右には「新左衛門稲荷」からなりたっておりましたが五十年程経て元禄十一年(一六九八)に御蔵を鉄砲洲に移転すると共に三社稲荷を一緒に移されました 御蔵の後地に居住する人達がその名を惜しんで そこに三社稲荷を残し今も尚東日本橋一丁目に「矢の倉三社稲荷」として祭られております後年明治六年(一八七三)に「新左衛門稲荷」が昭和七年(一九三二)には「福富稲荷」が当町にある「初音森神社」に遷座合祀されたと伝えられ残る「谷野蔵稲荷」は幾多の変遷場所を変え現存地にその社を構えるに至りました その名称に使われている文字もいつの頃から「矢の庫稲荷」と特に「庫」の文字を強調した呼称に改められました祭神は「三社稲荷神社」と同様「宇賀魂命」と考えられ御神躰は勿論現存しないわけですが翁の形で手に鎌と稲穂を持つと伝えられております
 昭和五十三年 二月
        矢の倉稲荷世話人

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 「信為本 昭和三十年秋吉日 黒川武雄謹書」と刻まれた石碑。
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 矢之庫稲荷神社からぐるっと東側に回り込むと薬研堀不動院(中央区日本橋2-6-8)。
 その脇には聖徳太子が祀られている。

久松稲荷神社(日本橋久松町)

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 久松町会館の入口脇に鎮座する久松稲荷神社(中央区日本橋久松町6-6)。
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 お狐様。
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 首だけになってしまっているが、先代だろうか。
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明治座稲荷神社(日本橋浜町二丁目)

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 浜町センタービルの脇に鎮座する明治座稲荷神社(中央区日本橋浜町2-31-1)。
 額には「正一位笠間出世稲荷大明神」と刻まれており、正しい社名は笠間稲荷神社明治座分社であるそうなのだが、長いせいか明治座稲荷神社と呼ばれる方が多いようだ。
 由緒書きは見当たらないが、ここから200m程西北に鎮座する笠間稲荷神社東京別社からの分社である。明治座内に祀られたのがいつなのかはわからないが、明治座の創建は明治六年(1873)であり、また笠間稲荷神社東京別社が現在地に遷座して来たのも明治六年十二月なので、それ以前と言うことはないだろう。
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 お狐様。
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元徳稲荷神社・綱敷天満神社

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 清洲橋通りと新大橋通りが交わる浜町中ノ橋交差点の北西、日本橋浜町パークホームズの脇に鎮座する元徳稲荷神社・綱敷天満神社(中央区日本橋浜町2-3-5)。
 神田祭間近と言う時期が悪かったのか、飾り付けで鳥居が見えない。いや、逆に考えよう。この時期だけのレアなのだと。……また後で機会があれば参拝して来よう。
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元徳稲荷神社と綱敷天満神社の由来記
江戸時代上期千五百石を領した川村徳エ門が伊勢神宮の外宮、豊受大神宮より分け御霊を受け、小石川の自分の屋敷内に祀った、後に屋敷替えとなり今の墨田区立川三丁目の三ツ目通り三ノ橋の袂に遷宮して一般市民の参拝が出来るように開放しました。豊受大神宮は瑞穂の神として国魂の神になって居たので庶民が豊作をもたらす神として祀る場合は稲荷神社の神名で祀るようになったようです。
川村徳エ門が再度屋敷替えをした跡に民家が建ち、この町を「元徳エ門町」といい、稲荷神社は元徳稲荷神社と名づけられました。
細川公という大名屋敷が今の浜町二丁目西部町会(以前は元徳町会と呼ばれていた)内にあり、細川公が懇請して元徳稲荷神社の分け御霊を受けて祀ったのが、元徳稲荷神社の由来であります。
元徳稲荷神社に、同じ町内に祀ってあった学問の神である天神様(綱敷天満神社)を合社いたしました。
進学の神、産業、商売繁昌、火伏せの神としてのご利益も伝えられています。

神紋は稲荷神社の抱き稲紋と天神様の梅鉢紋を組み合わせた抱き稲に梅鉢です。

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 由緒書きの前にスタンプが置かれているが、御朱印と言うか参拝記念スタンプなのかなこれ。御朱印集めはしていないから確認しなかったけど。

八大龍王社元宮(日本橋箱崎町)

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 八大龍王社から東へ130m程、箱四町会防災器具置場の隣に位置する八大龍王社元宮(中央区日本橋箱崎町44-8)。
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 磐座かな? 右上の方に八大龍王元宮と刻まれている。
 その左側に波切不動明王、右側に千人塚無縁之霊と刻まれた石塔が建てられている。あれ、水神様はどこだ?
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茶ノ木神社(日本橋人形町一丁目)

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 水天宮前交差点のやや北西に鎮座する茶ノ木神社(中央区日本橋人形町1-12-11)。
 こちらの神社を参拝するのも六年ぶり。
 由緒書きは前回参照
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明星稲荷神社(日本橋小網町)

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 日本橋川に架かる茅場橋の北東、日本橋小網町町会会館前に鎮座する明星稲荷神社(中央区日本橋小網町4-9)。
 鳥居の柱には紀元弐千六百の文字が見えるので、昭和十五年(1940)に建立されたものだろう。
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 由緒書きが無いのでググってみたら中央区の町会・自治会ネットと言うサイトにこちらの由緒が記載されていた。
 それによると、明星稲荷神社は当初江戸城内に祀られていたが徳川家康公入府の際、地頭職にあった小網町の浜口家に下げ渡され浜口家の屋敷神として祀られるようになったが、大正十二年の関東大震災の後仮殿が建立され、昭和八年に復興。その後戦災により焼失したが昭和四十三年に再建されたとのこと。また瑞垣の脇に設置された銅板製の神社新築御奉納芳名碑には平成二十五年四月吉日と記されているので、現在の社殿等は四年前に新築されたばかりであるようだ。
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純子稲荷神社(日本橋茅場町三丁目)

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 亀島川に架かる新亀島橋の西側、日本橋消防団地域活動センターの隣に鎮座する純子稲荷神社(中央区日本橋茅場町3-13-6)。
 神社の名前から東方なんちゃらの純狐と言うキャラが脳裏に浮かんだがまぁ何の関係も無いのでそれはおいといて。と言うかググったら「じゅんこいなり」ではなく「すみこいなり」と読むらしいですしここ。
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純子稲荷神社御由緒
本   社   東京都中央区日本橋茅場町三丁目
御 鎮 座   元和二年十一月二十日
再建立御鎮座  昭和四十八年四月二十日
神   璽   伏見稲荷大社
御 神 名   純子大神
御 祭 神   豊受大神
         宇迦之御魂大神
         佐田彦大神
         大宮能売大神
         田中大神
         四之大神
御 神 徳   精神、生命、生活、生業、生産
御 神 威   心身健全、家内安全、五穀豊穣
        商売繁昌、福徳円満、芸能成就
        往来安全
御 祭 日   二月初午の日
        四月、十一月御鎮座の日
         元文二年十一月二十日
           (一七三十七年)

 元和二年(1616)なのか元文二年(1737)なのか、どっちだろう。
 ちなみに鳥居には「奉納 昭和四十八年二月吉日 濱田金太郎 神林清作」と記された金属板が取り付けられているので、神社再建の完成前に既に奉納されていたようだ。
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鳥居稲荷神社(日本橋兜町)

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 首都高速都心環状線に架かる新場橋の90m程南東に鎮座する鳥居稲荷神社(中央区日本橋兜町20-2)。
 こちらに参拝するのはおよそ六年ぶりか。
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 草が茂っていて由緒書きの三分の一くらいが見えなかったので、由緒書きは前回参照
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於満稲荷神社(日本橋三丁目)

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 八重洲大飯店と酒席いづみやの間の僅かなスペースに鎮座する於満稲荷神社(中央区日本橋3-3-3)。
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於満稲荷神社縁起
此の神社の於満とは、徳川家康公の奥御前で養珠院様(於満の方 一五八〇~一六五三)といわれています。養珠院様は二人の男児に恵まれました。徳川御三家紀州家の開祖となった徳川頼宣公と、水戸家の開祖徳川頼房公の御生母です。また八代将軍吉宗公や徳川光圀公(水戸光圀公)も子孫に当たります。一六五七年の「明暦の大火」で江戸城をはじめ、このあたりも記録とともに消失しました。その後復興し、寛文(一六六一~七三)の記録に、この於満稲荷神社が記されています。 言い伝えでは、此の地に幕府のご休憩所があり、信心深い養珠院様御一行が神仏寄進のために日本橋界隈に物資調達にお立寄り、商業に多大な貢献をした養珠院様ゆかりの地として、商人達によって神社が建てられたとされています。 またそれから百年あまり後の寛延(一七四八~五一)には於満稲荷ゆかりの「於満すし」が江戸中の名物となり、この地の賑わいが記されています。
以来約三百五十年間、この稲荷神社は関東大震災など数々の試練を乗り越え、この地の商売繁盛五穀豊穣の稲荷神社として崇められ信仰され続けています。

平成十七年、中央区により「養珠院通り」となった通り名の由来にもなりました。
平成十七年七月吉日
 於満稲荷神社世話人一同

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 都内には敷地の狭い神社が多数あるが、こちらは輪をかけて狭い。
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 現代の地図と江戸時代の地図が並んで設置されている。ただ、この左側の地図の赤印が付いている所は実際の場所より北に1ブロックずれているような気がするのだが、もしかしたら江戸時代にあった場所が現在ではその位置に当たると言うことなのだろうか? わからんけど。
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川上稲荷神社(東日本橋二丁目)

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 両国橋西交差点の南側のビルの間に鎮座する川上稲荷神社(中央区東日本橋2-25-5)。
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川上稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神
由緒 寛永五辰年七月鎮座創建と傳ふ 古来川上稲荷神社と稱す 旧幕府の乗舩場に在りしが明治二年四月 乗舩場も新開の街となるに及び 神域を此の地に移して遷祠す 明治六年一月 神田明神の附社となる 昭和二十年戰禍により烏有に歸せるを以て 近隣町民有志等相據り整域社殿瑞籬等を再建せしものなり
祭日 四月十七日
昭和二十七年七月竣成

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 手水鉢の上にも由緒書きが設置されているが、内容は上記のものとほぼ同じ。

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 5月3日追記。

清正公寺(日本橋浜町二丁目)

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 日本橋浜町公園の端に位置する日蓮宗六条門流肥後本妙寺別院清正公寺(中央区日本橋浜町2-59-2)。
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 本堂。
 由緒書きが見当たらないのでググってみると、熊本藩第十代藩主細川斉護が文久元年(1861)に肥後本妙寺から加藤清正公の分霊を勧請して当地にあった下屋敷に創建。その後明治維新の際に加藤神社と称したが明治九年に閉社、明治十八年に仏式に戻し浜町清正公堂と改称。同時に経営管理を熊本県の日蓮宗肥後本妙寺に委託したとのこと。
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 横から。
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 清正公寺の近くには「浜町高虎」と言う染物屋があった。
 加藤清正と共に築城の名人と言われた藤堂高虎を思い出す屋号だが、それとはまるで関係無く、初代の高橋虎雄氏に由来するのだそうだ。

濱町神社(日本橋浜町三丁目)

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 トルナーレ日本橋浜町脇に鎮座する濱町神社(中央区日本橋浜町3-3-3)。
 御祭神は倉稲魂命。
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 拝殿。
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 陶栄神社。
陶栄神社
御祭神  埴安大神(はにやすのおおかみ)
     加藤四郎左衛門景正命
     加藤民吉命
社 殿  住吉造り(模略)
     総釉彩陶器製(常滑秘色焼)
台 座  平安期、鎌倉期、江戸初期の古窯より発掘の陶欠を以って飾る。
作 者  愛知県常滑市 秘色焼 柴山 三郎
            製 作 柴山東一郎
            設計者 池田 利一
落 成  昭和四十四年四月二十七日(再建)

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濱町神社 再建記念碑
維時 安政丁巳歳島津家徳川幕府よりこの附近一
円の地渡しを受く因て一堂を建立し土地發展のた
め大いに寄與す爾來島津稻荷として人々の崇敬篤
かりき偶々関東大震災の危に遇ひ神殿を鉄筋とし
て再建す此の時無格社浜町稻荷神社と改稱超えて
大東亞戰争の戰火に依り不幸再度焼失故に昭和二
十七年発起人有志多数の協賛を得町内各位の浄財
喜捨に依り神社を再建し永楽土地株式會社より敷
地の寄贈を得名稱を浜町神社と改む茲に小碑を建
立して各位の協力を感謝し社歴と共に永く後世に
傳えんとす
昭和二十八年三月十五日
     浜町神社再建発起人總代
           高須常三郎

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於芳神社(永代二丁目)

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 越中島橋の北側、住宅地域の中に鎮座する於芳神社(江東区永代2-22-4)。
 ググってみてもこちらの由緒等はわからなかったが、この社名はどのような理由でつけられたものなのだろう。女性名っぽい感じだけど、この神社の創祀に関係する人物なのだろうか。「およし」ではなく「おほう」と読むようなので、まったく関係無い理由かも知れないけど。
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兜神社(日本橋兜町)

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 江戸橋ジャンクションの下、日証館の西隣に鎮座する兜神社(中央区日本橋兜町1-12)。
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 鳥居の柱には「昭和二年六月八日建之」と刻まれており、石燈籠には「証券百年記念 昭和五十三年四月一日 兜神社世話人一同」と刻まれている。
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兜神社の由来
一、御社号   兜神社
二、鎮座地   中央区日本橋兜町一番十二号
三、御創立   明治十一年五月(一八七八年)
四、御祭神   主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命である。
        合祀の神は右に大国主命 左に事代主命をまつる
五、御例祭   毎年四月一日
六、御由緒   明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設
       けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守と
       して兜神社を造営した。
        御社殿に奉安してある「倉稲魂命」御神号は時の太政大臣三條實美公
       の揮毫になるものである。
        当社は御鎮斎後一度換地が行なわれたが昭和二年(一九二七年)再度
       換地を行ない兜橋々畔の現在地約六十二坪(約二〇五平方米)を卜して
       同年六月御遷座を行ない鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
        昭和四十四年(一九六九年)五月高速道路の建設に伴ない御影石造り
       の鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(一九七一年)三月現在の
       鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
        屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。
七、兜岩の由来 境内に安置してある「兜岩」についてはその昔前九年の役(一〇五〇
       年代)のころ源義家が東征のみぎりこの岩に兜を懸けて戦勝を祈願した
       ことに由来すると伝えられ兜町という町名はこの「兜岩」に因んで付け
       られたといわれている。
 昭和四十六年六月

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 兜石。

大榮稲荷神社(新川一丁目)

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 日本橋川の畔、湊橋と霊岸橋の間に鎮座する大榮稲荷神社(中央区新川1-2-14)。
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 水盤の側面には「維時昭和四十三年四月吉祥日 第一區十番組組頭 納主 山口重次郎」と刻まれている。

永久稲荷神社(中央区日本橋箱崎町)

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 箱崎ジャンクションの傍、首都高速6号向島線の下に鎮座する永久稲荷神社(中央区日本橋箱崎町22-11)。
 御祭神は倉稲魂命と猿田彦神であるのだそうだ。
 地図で先に確認していなかったらここが神社であるとは気付かずに通り過ぎていただろう。なお、後でググって知ったのだが、左奥に見える電柱脇の柵の先に末社が祀られているのだそうだ。まったく気付かなかったよ○刀乙
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 鳥居の柱と思われる石柱には「明治四十二年五月吉辰 神社主任 田中荷徳」と刻まれている。

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 5月3日追記。
 永久稲荷裏手のお稲荷様。

八大龍王社(中央区日本橋箱崎町)

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 久松警察署箱崎交番から70m程北東に向かった所に鎮座する八大龍王社(中央区日本橋箱崎町41)。
 こちらは大星教会と言う宗教法人の神社であるようだ。
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 社殿右側の立看板には「八大龍王神 東都龍神 隅田川龍王神 四海海神 三猫大明神」と祭神の名が記され、その下には「天下泰平 諸難消滅 萬福即生 航空安全 商売繁栄」と御神徳が記されている。
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四海海神様 八大龍王様 隅田川龍王様 御祭祀の縁起
昭和二十年二月大東亜戦争の末期、八大龍王御神霊大星教会の本義とする眞運妙法蓮華經のお題目に御感應御降臨ありたるを開祖宇津木先生御感得ありて、因縁に依り來る可き空襲の災害より箱崎町並に佃島石川島を救わせ給ふ御託宣あり。大星教会御本尊大極明王星大世尊様の御神意に基き、中州橋橋畔並に佃島に供養塔を建立し祈願す。
同年三月九日夜半より生じたる空襲に依る下町一帶の大災害は基より八月十五日終戰に至る迄日毎夜毎の空襲に依り全都廢虚と化せし中に在り乍ら前記の御託宣の地域は勿論その周辺を含め完全に被害より救われ数多の人命と多額の財を御守護賜りたる大いなる御神徳に対し有志相寄り土州橋際に一社を建立し昭和二十三年八月十日開祖先生鎮座式を修せられ、爾來風水害その他一切の災難除の御守護神として奉載す
昭和三十六年三月八日 宗教法人大星教会
        信徒總代 須合鎌司 謹書

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 箱崎五社稲荷大明神、金比羅大権現、大聖歓喜天。

 この時は知らなかったのだが、ここから130m程東に元宮があるのだそうで、いつもながら事前調査不足だなぁ○刀乙

水天宮(日本橋蛎殻町二丁目)

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 新大橋通り脇に鎮座する水天宮(中央区日本橋蛎殻町2-4-1)。公式サイト有り。
 階段の途中には豊磐間戸神と奇磐間戸神もあり、この建物はさながら巨大な随神門と言ったところか。
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御由緒
御祭神 天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)
    安徳天皇 第八十一代
    建礼門院 高倉天皇の中宮 安徳天皇の母君 御名 徳子
    二位ノ尼 平清盛の妻 御名 時子 安徳天皇の祖母 建礼門院の母
当社は文政元年(一八一八)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主第九代・有馬頼徳公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邸内に祀ったことに創まります。
壇之浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊を、ささやかな祠をたててお祀りしたのが、水天宮の創めです。
江戸時代の当社は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられます。ただし毎月五日の縁日に限り、殿様の特別な計らいによって藩邸が解放され、参拝が許されました。
その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。その当時の当社の賑わいを表す流行り言葉に、「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が接収され、有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日に現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。
現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年に境内地全面免震構造の建物として完成致しました。
平成二十八年四月五日

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 逞しい狛犬。
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 拝殿。
 以前の社殿の方が面白い形で好みなのだが、地震対策的には新社殿の形の方が良いということなのかな。うむぅ、五年くらい前にお参りしておけば良かったか。
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宝生辨財天
祭礼日 五月第二巳ノ日
御祭神 市杵島姫大神
久留米藩第九代藩主有馬頼徳公が加賀藩第十一代藩主前田斉広公と宝生流能楽の技を競われた際辨財天に願をかけ、見事に勝利を収めた
それ以来、宝生辨財天と敬われ芸事をはじめ学業・金運のご利益が名高いと現在に至るまで篤く信仰されている
毎月五日と巳の日には御社殿の扉が開き宝生辨財天のご神像を拝観できる

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 子宝いぬ。
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 安産子育河童。
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 平成二十五年三月から二十八年四月まで仮社殿のあった場所は、現在はこのようになっていた。

身延別院(日本橋小伝馬町)

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 大安楽寺の西隣に位置する日蓮宗身延別院(中央区日本橋小伝馬町3-2)。
 公式サイト有り。
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 光明稲荷大明神と浄行菩薩。
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 鰻供養塔と油かけ大黒天。
油かけ大黒天由来
 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の石像に間違って油をかけて以来商売が大繁盛せりと。同しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、偶々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山八十六世法王)に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。
 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って来たれり 長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。
 日蓮大聖人弘安二年の『大黒天神御書』に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば寂光の都を出でて慈雲三千(世界)をおほい、福徳を恒沙の刹土に満て、慈悲を塵数の世界に布く。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を成ずるが故に、凡そ尊高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、珂雲の玉体を秘して塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華名者福不可量、所願不虚亦於現世得其福報。
  弘安二年四月十日                      日蓮 花押
 祭日 甲子の日 殊に年の始めと終りの甲子を大切にして参詣すべし。開運、安産、商売繁昌、福徳円満ならしむ

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大安楽寺(日本橋小伝馬町)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅エレベーター出口を出るとすぐ目の前、十思公園南側に位置する高野山真言宗新高野山大安楽寺(中央区日本橋小伝馬町3-5/a>)。
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準別格本山 江戸第五番札所 新高野山大安楽寺縁起
宗旨 宗祖弘法大師を仰ぐ高野山真言宗に所属
教義 凡聖不二 即身成仏を以て立教開宗の根本教義とする。
縁起 抑も此の地伝馬町は 江戸時代 徳川幕府の牢獄の所在せし
   所なり。当山開基山科俊海大僧正 明治初年 高野山より
   錫を六本木の五大山不動院に留め 化を十万に布く、時 偶々
   此の地伝馬町牢 処刑場跡に燐火の燃ゆるを見 大悲禁ずる能
   はず 幾万余の知られざる無告の霊 鬼哭愁々として寄辺なき
   を弔ひ、又安政の大獄で知られる吉田松陰等 当地で処刑され
   た勤王の志士の霊を慰め 又一つには 牢跡を以て浄地となし
   一宇を建立。高野山より弘法大師を勧請し本尊となす。又処刑
   場跡には延命地蔵菩薩を建立し 堂塔 伽藍を整備(現十思公
   園を含む) これを当山の濫觴とす、爾来 尊崇の信仰を聚め
   都心に輪喚の美を競うも 大正十二年の大震火災にかゝり 昭
   和四年今日の規模となり 現在に及ぶ。昭和廿九年都史蹟指定
本尊 弘法大師     廿一日  不動明王   廿八日 護莩供
   十一面観音菩薩  十八日  弁財天    巳の日
   延命地蔵菩薩   四の日  大黒天    子の日
   大日如来     一 日  稲荷大明神  午の日
   維時 昭和五十一年四月吉祥   題 第四世中山弘之

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 四国八十八所霊場、インドの四大聖地、中国陝西省西安市の青龍寺、ネパールのルンビニ村、中国福建省寧徳市の赤岸鎮、陝西省西安市の大興善寺、甘粛省敦煌市の莫高窟……の砂がこの下に納められているのだそうだ。
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 延命地蔵尊。
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 辨財天の神使と宝安稲荷大明神。
化石、神居古潭、白蛇
辨財天使神
北海道、石狩川神居古潭峡の石
古来アイヌの酋長のシンボルとされ「撫で石として厄除、息災、招福の石として」信仰された。
化石の白蛇は己が辨財天の使であることから築地和田久より寄贈された。

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 江戸八臂辨財天。
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 境内側には百度石、外側には江戸伝馬町処刑場跡と刻まれている。

福田稲荷神社(日本橋本町四丁目)

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 両社稲荷神社から90m程東に鎮座する福田稲荷神社(中央区日本橋本町4-5-13)。
 こちらには五年程前にもお参りしており、今回は別にいいかなと思っていたのだが、両社稲荷神社の由緒書きを読むとなんとなくこの二社はセットでお参りした方がいいかなと言う気がしたので立ち寄ってみることに。
 こちらの由緒書きは前回参照で。
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 五年くらいではそう変化は無いが、右側の建物が少しだけ変わっていた。

両社稲荷神社(日本橋本町四丁目)

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 JR総武本線新日本橋駅6番出口から150m程北、永井ビルの脇に鎮座する両社稲荷神社(中央区日本橋本町4-4)。
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両社稲荷神社 由緒書
 両社稲荷神社の縁起は定かではありませんが、京都伏見稲荷大社の流れを汲み正一位の神階を授けられ、江戸時代初期より福田稲荷神社と共に当地「日本橋本町」界隈の商人、町人の「家内安全、商売繁盛」の守り神として、深い崇敬を集めている稲荷神社でございます。
 平成五年、御社の老朽化が進んだため改築することとなり、これを機に両社稲荷神社奉賛会は設立され、以来、尚一層のご神徳を奉斎してまいりました。
 平成二十五年十二月、隣接するビル建替工事のため御社を一旦取り壊すこととなり、再建まで御霊は江戸総鎮守・神田神社(神田明神)にお移りいただき、その間、例大祭は神田明神にて斎行いたしました。
 平成二十八年十一月、奉賛会員はじめ広く当地崇敬者から寄進を募り、新たな御社の造営が行われました。御宮は従前同様の束立向拝宮、鳥居は朱塗りの明神鳥居といたしました。
 平成二十九年三月、遷座祭を斎行し、御霊を再び神田明神から当地にお迎えし、現在に至っております。
       平成二十九年三月吉日 両社神社奉賛会

 旧社殿は平成二十五年(2013)十二月に取り壊されたと書かれているが、ググると平成二十六年(2014)三月末頃に撮影された動画がYouTubeにUPされているのだが、はて? 取り壊しが決まったのが平成二十五年十二月で、実際に取り壊されたのは平成二十六年四月以後と言うことなのだろうか。
 ストリートビューを見ると、旧社殿は現在地から5m程西側にあったようだ。
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福徳神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する福徳神社(中央区日本橋室町2-4-14)。
 公式サイトに依ると、御祭神は倉稲魂命で、配祀神に天穂日命と大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津媛命。また太田道灌、徳川家康、弁財天を合祀しているとのこと。
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『福徳神社由緒
 当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
 その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った』
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 拝殿。
 参拝者がひっきりなしに並んでおり、人気のある神社なのだろう。
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 西側の小広場にはガラスケースに納められた祠があるが、こちらはなんだろう?
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 中央通りに面した参道入口。

 以上で2月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは16,707歩。
 この後はヨドバシAkibaでPENTAX KPのカタログを貰ってから帰宅。KPいいなぁ欲しいなぁとは思うものの、そう遠くないうちにK-3IIの後継機が出て来るだろうからそれまで様子見かな。

薬祖神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する薬祖神社(中央区日本橋室町2-5-8)。
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『薬祖神社(ご由緒)
 御祭神
  大己貴命(おおなむじのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
 御利益
  無病健康・病気平癒

 わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
 日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています』

寳田惠比寿神社(日本橋本町三丁目)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅とJR総武本線新日本橋駅の中間辺りに鎮座する寳田惠比寿神社(中央区日本橋本町3-10-11)。
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 御祭神は事代主命、少彦名命、大國主命、大己貴命、素盞嗚命の五柱。また宇迦之御魂神を御祭神とする寳田稲荷神社も合祀されているようだ。

『宝田神社・恵比寿神御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」、二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
 昭和四十五年十月吉日」
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 寳田惠比寿神社前のえびす通りを西へ向かい昭和通りに出た所には寳田惠比寿神社への標石と馬込勘解由の碑が建てられている。

『馬込勘解由の碑(べったら市の由来)
 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。
 徳川家康公江戸出府四〇一年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである』

常盤稲荷神社(日本橋本町一丁目)

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 小舟町交差点の北西80m程の位置に鎮座する常盤稲荷神社(中央区日本橋本町1-8-11)。
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『常盤稲荷神社由緒
 鎮座地 東京都中央区日本橋本町一丁目八番地
 祭 神 倉稲魂命(稲荷大神)相殿 罔象女神

 当社は室町中期長禄元年(一四五七年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。
 宝暦(一七五一年~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
    名に高き蘆のなぎさの葭原に
         鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。
 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。
 この水神大神は、明治三十四年に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。
 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている』
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橘稲荷神社(日本橋人形町三丁目)

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 人形町駅A4出口の北側に鎮座する橘稲荷神社(中央区日本橋人形町3-8-6)。
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『橘稲荷神社由来
 このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政六年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成二年八月吉日
     橘稲荷御造営奉賛委員会』
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