福徳神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する福徳神社(中央区日本橋室町2-4-14)。
 公式サイトに依ると、御祭神は倉稲魂命で、配祀神に天穂日命と大己貴命、少彦名命、事代主命、三穂津媛命。また太田道灌、徳川家康、弁財天を合祀しているとのこと。
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『福徳神社由緒
 当社伝来の稲荷森塚碑文によれば、九世紀後半、当地は福徳村と呼ばれ、穀物、食物を司る稲荷神が鎮守の森に懐かれて鎮座していた。福徳村の稲荷は往古より源義家、太田道灌ら武将の尊崇を受け、ことに最初の江戸城を築いた道灌との縁は深く、彼の神霊は当社に合祀されている。徳川家康は天正十八年江戸入部直後に当社を参詣、二代将軍秀忠も慶長十九年に参詣し「福徳とはめでたい神号だ」と称賛し、また当時の福徳稲荷の椚の皮付き鳥居(黒木鳥居)から春の若芽が生えているのを見て「芽吹稲荷」の名を与えた。秀忠は江戸城内の弁財天を合祀し、社地を三百三十坪と公定するなど当社を篤く尊崇した事跡が伝わっている。
 その後、江戸の町の発展と度重なる火災や社家の事情などにより境内地をほとんど失い、一時は消滅の危機に瀕した。それでも氏子有志が福徳神社の祭祀を継承してきた結果、平成二十六年秋、日本橋地域諸氏の尽力により往時の姿を彷彿とさせる境内・社殿が再興されるに至った』
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 拝殿。
 参拝者がひっきりなしに並んでおり、人気のある神社なのだろう。
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 西側の小広場にはガラスケースに納められた祠があるが、こちらはなんだろう?
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 中央通りに面した参道入口。

 以上で2月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは16,707歩。
 この後はヨドバシAkibaでPENTAX KPのカタログを貰ってから帰宅。KPいいなぁ欲しいなぁとは思うものの、そう遠くないうちにK-3IIの後継機が出て来るだろうからそれまで様子見かな。
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薬祖神社(日本橋室町二丁目)

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 福徳の森に鎮座する薬祖神社(中央区日本橋室町2-5-8)。
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『薬祖神社(ご由緒)
 御祭神
  大己貴命(おおなむじのみこと)
  少彦名命(すくなひこなのみこと)
 御利益
  無病健康・病気平癒

 わが国で医薬の祖神と言われているのは、大己貴命(おおなむじのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で、共に国土経営に尽力され、薬の術や医道、酒造諸々を教えたと「古事記」や「日本書紀」「風土記」等に述べられています。
大己貴命は須佐之男神(すさのおのみこと)の子孫で、大国主命と同じ神様です。神話や童謡でも親しまれ、特に「因幡の白兎」の神話は有名です。(いなば:現在の鳥取県)
 少彦名命は神産巣日神(かみむすびのかみ)の御子で蛾(が)の皮の着物に豆の実のさやの舟に乗っていたという大変小さな神であったようです。
 日本橋本町の薬業界では、昔からこの二柱を祭神とする水戸の大洗磯前(いそさき)神社、酒列磯前(さかつらいそさき)神社や東京上野の五條天神社に参詣して崇敬の念を表 してきました。明治四十一年(1908年)からは、東京薬種貿易商同業組合(現公益社団法人東京薬事協会)が、東京上野の五條天神社から薬祖神(やくそしん)の御霊を迎え大祭を執行し、昭和四年(1929年)には事務所建物の屋上に薬祖神社(初代社殿)が造営され、昭和五十八年には昭和薬貿ビル屋上に第二代目の社殿が造営されました。さらに平成二十八年(2016年)九月に現在地に第三代目の薬祖神社が遷座し今日に至っています』

寳田惠比寿神社(日本橋本町三丁目)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅とJR総武本線新日本橋駅の中間辺りに鎮座する寳田惠比寿神社(中央区日本橋本町3-10-11)。
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 御祭神は事代主命、少彦名命、大國主命、大己貴命、素盞嗚命の五柱。また宇迦之御魂神を御祭神とする寳田稲荷神社も合祀されているようだ。

『宝田神社・恵比寿神御縁起と大伝馬町の由来
 宝田神社は慶長十一年の昔三百六十余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内楓山附近)ましたので馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申上げ住民を引率してこの地に集団移轉したのであります。馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢、駿河、遠江、美濃、尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商賣発祥の地として大変賑ったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄の守護神として崇教者は広く関東一円に及び毎年十月十九日「べったら市」、二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
 昭和四十五年十月吉日」
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 寳田惠比寿神社前のえびす通りを西へ向かい昭和通りに出た所には寳田惠比寿神社への標石と馬込勘解由の碑が建てられている。

『馬込勘解由の碑(べったら市の由来)
 徳川家康による江戸城築城のおり、寶田村が城の拡張により移転のやむなきに至った。譜代の家臣である馬込勘解由が寶田村の鎮守の御本尊を奉安して住民と共に現在地に移転した。
 この大業を成し遂げた功により、勘解由は江戸の筆頭名主となり年間役料は、二百十両の最高であった。後に三伝馬取締役に出世し、徳川家繁栄を祈願された恵比壽神を授けられ、寶田神社に安置して江戸の平穏を祈願した。
 御神体は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられ、以来商業の守り神として十月二十日の恵比壽講の前夜に市が開かれるようになった。
 恵比壽講に使う鯛や神棚などと共に江戸名物の浅漬大根が売られ、売り子が大根に付いた糀を若い女性の着物に近づけ「ほら。べったら、べったら、買わないで通ると着物にくっ付くよ。」と戯れたことからべったら市の名がついた。
 徳川家康公江戸出府四〇一年を壽き、ここに馬込勘解由の功績を讃え碑を建立するものである』

常盤稲荷神社(日本橋本町一丁目)

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 小舟町交差点の北西80m程の位置に鎮座する常盤稲荷神社(中央区日本橋本町1-8-11)。
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『常盤稲荷神社由緒
 鎮座地 東京都中央区日本橋本町一丁目八番地
 祭 神 倉稲魂命(稲荷大神)相殿 罔象女神

 当社は室町中期長禄元年(一四五七年)に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大神の御分霊をいただき、常盤稲荷と名づけ、同城の守護神として勧請された。後に、徳川家康公開府により、江戸城廓拡張工事が行われ現在の常盤橋(もともと大橋と称されていたが、当社がこの地に移ってより社名をもって常盤橋に改称された)辺りに社地が移された。
 宝暦(一七五一年~)の頃まで、社殿に掲げられていた太田道灌の額面に
    名に高き蘆のなぎさの葭原に
         鎮めまします常盤の神
の歌が記されていたと伝えられる。
 その後更に、長浜町の日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀り鎮座された。
 当時は、大市場交易神と称され盛大な水神祭が行われ、神田祭・三大王祭と共に、大江戸の名物行事でもあった。
 この水神大神は、明治三十四年に神田神社境内に遷され水神社と改称し、築地市場の守護神として祀られ今日に至っている。
 合祀されている末社産千代稲荷神社のご祭神は倉稲魂命・三穂津比売命二柱の大神が祀られている。古来より安産の守護神として厚い信仰があり参詣者が極めて多かったと伝えられる。そのお礼参りに桜の若木が奉納される習わしがあり、当時は魚市場中桜花爛漫の景観であったといわれている』
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橘稲荷神社(日本橋人形町三丁目)

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 人形町駅A4出口の北側に鎮座する橘稲荷神社(中央区日本橋人形町3-8-6)。
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『橘稲荷神社由来
 このあたり江戸期には新和泉町といわれたが、将軍家御典医・岡本玄冶の邸があったことから、一帯を玄冶店と俗称した。
 当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに玄冶に賜って当地へ移された。
 稲荷名の橘は岡本家の姓に因んだとされる。
 安政六年の尾張屋清七板古地図では、現在地よりやや北側に記されている。
 数百年に亘り、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来た。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれている。
 大正以降、運よく震災・戦災を免れて来たが、老朽化の為このほど地元町民多数の浄財により再建された。
 平成二年八月吉日
     橘稲荷御造営奉賛委員会』
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松島神社(日本橋人形町二丁目)

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 中央人形町二郵便局の隣、松島ビル一階に鎮座する松島神社(中央区日本橋人形町2-15-2)。
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 本殿。
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『松島神社由緒
 江戸時代の国学者賀茂馬淵翁が元文二年(一七三七)十一月十四日より松島稲荷社に寄宿され、当社に於いて神の道を説かれたと「賀茂馬淵翁伝新資料 九十一頁」に記されているが、社記類は大震災と戦災によってすべて灰燼に帰してしまっているので、創立年月日は詳らかではないが、口伝によると鎌倉時代の元享(一三二一)以前と推定される。
 昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。
 正中元年(一三二四)三月二日夜刻三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、霊験自在円満の感応あり其の奇得を遠近の諸人が信仰し、これにより正一位稲荷大明神の位記を奉られる。
 天正十三年(一五八五)二月十三日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
  (神社本庁「神社明細帳」)
 正徳三年(一七一三)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時付近を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められそのまま住居を構え、町の中心に位置した松島稲荷にそれぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が十四柱と多い。
 明治七年四月二日松島稲荷神社の名称を以て村社に列格される。
 大正五年六月十日松島神社と改称。
 昭和八年二月一日都市計画法の実施に伴い蛎殻町四丁目に改称せられ為に松島町は消滅する。

御祭神
 稲荷大神・伊邪那岐神・伊邪那美神・日前大神(天照大神)・北野大神(菅原道真公)・手置帆負神・彦狭知神・淡島大神・八幡大神・猿田彦神・琴平大神・天日鷲神(大鳥大神)・大宮能売神(おかめさま)・大国主神(だいこくさま)』
(「松島神社由緒」リーフレットより抜粋)

末廣神社(中央区日本橋人形町二丁目)

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 末廣神社(中央区日本橋人形町2-25-20)。
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『末廣神社
一、祭 神 宇賀之美多摩命
一、例大祭 五月
一、氏 子 人形町二丁目浪花会
      人形町二丁目二之部町会
一、沿革
 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和三年から明暦三年まで)その地主神産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていました。
 社号の起源は、延宝三年社殿修復のさい年経た中啓(扇)が発見されたので氏子の人たちが悦び祝って末廣の二字を冠したものです』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 「は組」碑。
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 なんだろうこれ。

笠間稲荷神社東京別社(日本橋浜町二丁目)

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 久松警察署の向かい側に鎮座する笠間稲荷神社東京別社(中央区日本橋浜町2-11-6)。
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 拝殿。
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 金座通りに面して建てられた北の鳥居。
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富沢稲荷神社(日本橋富沢町)

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 三光稲荷神社の北東120m程の位置に鎮座する富沢稲荷神社(中央区日本橋富沢町7-18)。
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 拝殿。
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 初姫稲荷神社。

三光稲荷神社(日本橋堀留町二丁目)

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 サンクス日本橋堀留町店の西20m程の位置に鎮座する三光稲荷神社(中央区日本橋堀留町2-1-13)。
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 鳥居と狛犬。
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『三光稲荷神社 御由来
祭神 三光稲荷大神
   田所稲荷大明神
  大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。

創建
 中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者 関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記載があるところから、それ以前と推測される。

拝殿
 右上の額「日本橋區長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤氏の揮毫である。

江戸時代
 近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座、市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。

 古くから娘、子供、芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立、奉納された』
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 拝殿。
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 獅子頭。
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 由緒書きは30円であるとのことなので、30円入れて一枚頂いて来た。
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 招き猫が多数あるが、そんなにも猫探しの祈願に来る人が多いのだろうか。
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出世稲荷神社(日本橋堀留町一丁目)

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 パレドール日本橋と言うマンション脇の狭隘なスペースに鎮座する出世稲荷神社(中央区日本橋堀留町1-6-11)。
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 拝殿。
 岩代稲荷神社と出世稲荷神社の額が掛けられている。
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 拝殿内部。
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 「は組」と大きく刻まれた水盤。
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 「は組 木遣り塚 奉納 中西良之助 昭和五十七年九月吉日」
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 やきとり屋の壁に設置された由緒書き。
『出世稲荷の由来
 江戸時代は当稲荷屋敷地は新材木町十六、十七、十八番地稲荷です。其の昔徳川家康入城天正八年(一五九〇)頃此の附近は芝原宿という村落でした。杉の森林の多い所です。江戸城拡張以来江戸町割当地慶長九年(一六〇四)頃材木置場が多い所から新材木町と町名が出来た由。尚元和三年(一六一七)親爺と呼ばれた北条家浪人庄司甚右衛他数名の仮家敷内に有り京都伏見稲荷より祭神を戴き守護神として祭りし後当地世話人一同が現在迄守護致して居ります。
 当社は明暦三年(一六五七)江戸大火振袖火事、安政(一八五四)大地震、明治六年(一八七三)大火、関東大震災大正十二年(一九二三)近くは昭和の太平洋戦争まで本尊災禍を免れました。関東大震災のとき社殿焼失致し現在掘畄町一丁目十番地椙森神社の拝殿取毀し材料(杉の木)削り直し昭和六年(一八七四)に落成し現在まで数多くの信仰者があります。
 江戸時代初代市川団十郎が日参し名をあげた由。尚当地より出世致した商店、芸能関係各個人等数多く出て祈ります。初午毎年三月岩代稲荷と合同で掘畄町一丁目町会応援にて執行致します。
 応長見聞集寛永図経、先祖の言い伝えとの事。
  昭和五十六年五月吉日(一九八一)
          出世稲荷世話人一同』

椙森神社(日本橋堀留町一丁目)

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 東京商品取引所の南側に鎮座する椙森神社(中央区日本橋堀留町1-10-2)。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『椙森神社
 所在地 中央区日本橋堀留町一‐一〇‐二
 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。
 境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
 平成八年三月』
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 御祭神は五社稲荷大神(倉稲魂命、素盞嗚尊、神大市比売命、大己貴命、四大神)。そして恵比寿神を配祀しているとのこと。
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 富塚。
『当椙森神社は、遠く一千年の昔、未だ江戸が武蔵野の原と言はれた時代の創建です。
 江戸時代には、江戸三森の一つであり、又江戸商人の発祥の地としても栄えて来ましたが、神社が街の中心にあるため、江戸三富の一つにも数えられる程数多くの富籤が興行された事が記録に、残されています。
 この富籤興行は、江戸庶民の楽しみの一つであり、庶民の泣き笑いが今に思い浮かべることができます。
 この富塚は庶民の心の祈念として大正九年に建立されましたが、関東大震災に依って、倒壊してしまいました。その後、富塚の話を知った氏子の人々は有志を募って、昭和二十八年十一月に再建されたのがこの富塚です。
 この富塚は、他に類を見ないと言はれ、日本で唯一の物です。今日では、宝くじの元祖としれ多くの人々が、心中祈願をしている様です』
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 神楽殿。
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 東の鳥居。
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池洲神社(日本橋堀留町二丁目)

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 大伝馬町二之部町会会館の脇に鎮座する池洲神社(中央区日本橋堀留町2-4)。
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『池洲神社ノ歴史
 昔時 喜久井大納言ガ池ノ洲ニ一宇ヲ建立サレテ以來天保二年改築セラレタル社殿モ關東大震災ニテ焼失シ大正十四年社殿ヲ建設其後補修セシモ昭和廿年二月戰災ヲ蒙リ全部烏有ニ歸セリ
 昭和廿四年五月同志相集ヒ由緒アル神社ノ保存ヲ志シ再建奉賛會ヲ組織シ浄財ノ寄捨ニヨリ神域一圓ノ新築ニ事ヲ施行シ同年十月竣工ス
 昭和廿四年十月吉日建

 昭和三十一年四月有志相寄り戰災に依る社務所の再建を計り敬神の誠を盡さんとす
 瀧富太郎氏の篤志と町会員一同の寄進とに依り茲に神殿の改修並に社務所の新築を施行し昭和三十二年十月竣工す
 昭和三十二年十月吉日
  大傳馬町二丁目
    町会長美濃部五三郎
    施工 株式会社林組』
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千代田神社(小伝馬町)

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 東京メトロ日比谷線小伝馬町駅の北側に鎮座する千代田神社(中央区日本橋小伝馬町9-1)。
 小伝馬町二の部町会会館と合体している為か、なんともけったいな外観である。
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『千代田神社由来
 千代田神社は 長禄年間神靈に依り 太田持資道灌が御靈を千代田の御城に祭り鎮守とす 徳川綱吉の時太田の旧臣長野亦四郎氏詞を奉じて小傳馬町に遷座す 是後奉仕せる社人窮困して他に社地を譲る 時に屢々異變あり 神慮なりと畏れ天明年間旧地に建立し現在に至る 大正十二年九月震災にて焼失す 昭和二年區劃整理に依り 當所に替地を得て安鎮す然るに昭和二十年二月戰禍にて再度焼失す 漸時再建せしも今度諸人の力を致し浄財を受け更に新殿を造立せり茲に沿革を記す
 昭和三十三年十一月吉日
     大傳馬町二丁目町會』
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竹森神社(小伝馬町)

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 龍閑児童遊園の隣に鎮座する竹森神社(中央区日本橋小伝馬町19-4)。
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『小伝馬町三丁目の守護神である「竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹薮にちなんで竹森神社としたといわれている。
神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
  江戸七森
 「椙 森」すぎのもり  堀留
 「烏 森」からすもり  新橋
 「初音森」はつねのもり 馬喰町
 「柳 森」       柳原土手
 「あずまの森」     向島
 「笹 森」ささのもり  谷中
 「竹 森」       小伝馬町』
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於咲浪除稲荷神社(佃一丁目)

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 佃堀を挟んで森稲荷神社の東側に鎮座する於咲浪除稲荷神社(中央区佃1-8-4)。
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 左が浪除稲荷神社で右が於咲稲荷神社。
 鳥居にかかる白いぼんやりとしたものはレンズに付いた水滴のせい。
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 さし石と刻まれた力石。瑞垣の脇にもう一つあるのだけれど、撮影するのを忘れていた。
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 向かい側に佃天台地蔵尊への入口があるそうなのだが、見落としていた…○刀乙

 以上で5月11日参拝分終了。他にも何箇所か巡ろうかとも思っていたのだが、GRのイベント開始時間が迫っていたのと雨でかったるくなっていたので残りはパス。実のところGRの方も行くの止めようかななんて考えもちらりとよぎってみたり。同日に原宿でオリンパスPENのイベントも行われていたけど、最近のオリンパス機にはあまり魅力を感じないのでそちらはどーでもいいやと。
 使用機材はK-5IIsにDA18-55mmWR。Coolpix P7100。

住吉神社(佃一丁目)

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 佃堀の傍らに鎮座する住吉神社(中央区佃1-1-14)。その一の鳥居は隅田川に面して建てられている。
 住吉小橋の奥に見える櫓は石川島燈台。
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 参道側から。
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 二の鳥居。
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『佃島由来
 天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣された時、田蓑島(現代の大阪市西淀川区佃町)の漁夫等が漁船によって神崎川の渡船を勤めたので田蓑神社にも参拝され、その時田蓑村の名称を佃と改められた。すわなち漁業の傍ら田も作れという意であった。天正十八年(1590)家康公が関東へ下降された時、佃村の漁夫三十余名が従えられ、田蓑神社の神主平岡正大夫の弟權大夫好次という者が、住吉大神の分霊神を奉戴して同行して安藤対馬守、石川大隅守等の邸内に一時安置していたが、寛永年間に鉄砲洲の向の三角洲(百間四方)を幕府より賜わり、築島工事を起して正保二年(1645)それが完成したので本国の村名を取って佃島と称えることになった。その一部を社地と定め社殿を造営した。正保三年六月二十九日と記録されている』
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 手水舎。
 その右奥に二宮尊徳像があり、左奥に入って行くと鰹塚がある。
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『住吉神社の水盤舎・陶製扁額
 所在地 中央区佃1-1-14
 住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪府)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(1646)に現在地に創建された佃島の鎮守です。
 当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。
 水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治二年(1869)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄間は、明治二年再建時のものを使ったと推定されています。欄間の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十二年(1841)白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。
 正面鳥居の上にある扁額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(1882)六月に製作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。
 水盤舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。
 平成九年三月』
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 狛犬。
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 拝殿。
 こちらの神社は篤く崇敬されているようで、拝殿脇で雨宿りしている間にも次々と、覚えている限りでも十は下らぬ数の参拝者がやって来ていた。
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『住吉神社略縁起
御祭神 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三神)
    息長足姫命(神宮皇后) 東照御親命(徳川家康)
例祭  八月六日

「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ井でし住之江の神」と卜部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。
 神宮皇后三韓征伐の際、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遙拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。
 遥か後、天正年間に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。
 天正十八年(1590)家康公は関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権利大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年間に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島工事を起こし、正保二年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月二十九日、住吉三神、神宮皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。
 佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神として信仰されています』
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 龍神社。
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『龍神社
 祭神 龍姫大神(豊玉姫神)
    於迦美大神・竜王弁財天
 文政五年(1822)住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊玉姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で煮る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易く、ある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託がありました、これを受けて天保九年(1838)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・商売繁盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持つ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々がこの日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期間中の三月下旬頃行われます』
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 末社。
 社名を示すものは見当たらないが、公式サイトを見ると古河神社の名があるので、こちらがそれであると思われる。
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 左は船魂神社、右は疫神社と疱瘡神社。
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 入船稲荷神社。
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 青銅燈籠。その奥に見えるのは五世川柳水谷緑亭句碑。
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 神楽殿。
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 石塔と鰹塚。
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『鰹塚
 鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。
 神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(701)「養老律令」(710)に海産物調賦に、堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁(煮詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。
 東京鰹節類卸商業協同組合は、鰹の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和二十八年(1953)五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合員九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。
 塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。
 表面の揮毫は、日展審査委員で組合員・鰹節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです』
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 佃小橋から見た佃堀。看板左奥の建物が住吉神社。
『此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798)、徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい』
 三年に一度の渡御祭の際に掘り起こされ、それ以外の三年間は川底に埋められているのだそうだ。Youtubeに掘り出しや埋設の状況を撮影した映像がUpされていたりするのだが、大変な労力がかけられているのだなぁ。
 亦その祭りの時だけ建てられる黒木鳥居もあるそうなのだが、当然今は建てられていない。ちなみに前回の渡御祭は去年だったので、しばらくは見られそうにない。

森稲荷神社(佃一丁目)

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 東京メトロ有楽町線月島駅の北側、佃堀の傍に鎮座する森稲荷神社(中央区佃1-4)。
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『森稲荷神社の由来
 正保元年(1644)江戸隅田川に埋立として出来た鉄砲州干潟百間四方を徳川家光に招れ摂津国西成郡佃村から東上した漁民が慶安二年(1649)江戸城内評定所に於いて拝領し島の名を佃島として居住することになった森孫右衛門一族の推挙により孫右衛門の実弟九左衛門の娘の妙を嫁とした佃忠兵衛則之が佃島の初代名主を勤めることになった。
 佃島の発展と住民の安泰を祈願するために森家の敷地内(現在地)に稲荷神社を造り信仰したことが継承され現在に至るも住民の信仰が厚く毎年二月初午祭を執り行っている』

三五稲荷神社(勝どき一丁目)

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 勝鬨橋の南側、東京都道304号晴海通りの傍らにデニーズ勝どき店があるので、その脇を東へ入って行くとプラザ勝どきの一隅に三五稲荷神社(中央区勝どき1-1)が鎮座している。
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 本殿。
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 お狐さま。
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『三五稲荷神社由来
 当稲荷神社は、明治三十七年(1904)三月五日に、京都伏見稲荷神社の分神として創建されたものであります。以来、勝どき河岸倉庫地区の守護神として、当地に鎮座されて居ります。
 祭神は倉稲魂命であります。「倉稲」は食物の意味で五穀を司り、農作物を護る神といわれています。初期の倉庫業においては、米穀を主とする農作物が主要な貨物であった為、稲荷神社を祭り、倉庫の守護を祈るということが、ごく自然な発想で行なわれたようであります。
 毎年三月五日と当社創立記念日には、日頃の御加護に感謝し、社業の発展と、地域の平安を祈願して、三五稲荷祭を執り行って居ります。
 平成三年十月十九日』

 三五稲荷とは変わった名だなと思ったら、三月五日の創建だから三五稲荷なのか。
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波除稲荷神社(築地六丁目)

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 水神社から南東に向かって歩くと、すぐに波除稲荷神社中央区築地6-20-37)の前に出る。

『江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
 明暦の大火(1657)の後に四代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事の困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
 或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を造りお祀りして、皆で盛大なお祭りをしました。するとそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治二年(1659)の事です。
 人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に「波除」の尊称を奉り、雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼「つきじ獅子祭」の始まりです』
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 拝殿。
 18mm(135換算約27.5mm)では狭いなーと思いつつも、雨が降って来ているのでレンズ交換をする気になれず、そのままで。
『衣食住・殖産産業・商業の守り神である「倉稲魂命」をお祀りし、波除様と尊称されます。
 現在の社殿は昭和十二年(1937)に出来たもので、御祭神の繋がりが有る伊勢の神宮(外宮)と同じ唯一神明造で造られており、国産の檜が使用され、戦前では東日本で最後に御造営された神社の御社殿です』
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『獅子頭一対(中央区民文化財)
 木造、金梨地塗り。嘉永元年(1848)三月、南本郷町の島屋藤次郎が発起人となって製作されました。不思議とその後の天災や戦災にも修理中であったり助け出されたりと無事で、昭和二年(1927)に世話人より、もと南小田原町一丁目の獅子の付属品であった眼球と獅子毛と共に神社に奉納されました』
 ちなみに手前ではなく後ろの獅子頭がそれ。
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 獅子殿。
『江戸時代、厄除・災難除の象徴として多くの参詣者を集め又当神社祭礼「つきじ獅子祭」の名称の元をもなした「厄除天井大獅子」は江戸末期に焼失以来その復興を待たれておりましたが、平成二年に神社の御鎮座三百三十年を記念し、樹齢約三千年の黒檜の原木を用いて高さ2.4m、幅3.3m、重さ1t。往時に勝るとも劣らぬ、名実共に日本一の厄除天井大獅子として、加賀鶴来の現代の名工・知田清雲氏とその工房の手により再興され、神楽殿を基礎より全面改築された獅子殿に納められました』
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 摂社の弁財天社。
『江戸時代の御本社の御創建に時を同じくお祀りされた縁の有る事から摂社として大切にお祀りされています。また水にご縁のある御祭神に因み手水の施設を組み込んだ造りになっております。
 中に納められております「お歯黒獅子」は江戸時代に東都名物で在りました雌の大獅子を祭礼で担ぐ様に高さ一尺の台座を含め高さ2.2m、両耳幅2.5m、総重量700kg、総漆塗り一木造りで、木彫・加賀獅子頭の名工の流れをくむ現代屈指の彫刻師・知田清雲氏とそれを支えた熟達の加賀の職人達の技により、紅色の肌地にお歯黒を施し金箔押しの巻き毛で腰高の姿に平成十四年再興され、この雌を表す頭の宝珠の中に弁財天・市杵島姫命の御神像が収められております。
 学芸の才能と豊かな財をなす福徳の神「市杵島姫命」をお祀り、この御祭神を俗に弁財天と称することから弁財天社と呼ばれます』
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 お歯黒獅子と厄除天井大獅子。
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 玉子塚と末社殿。
 天照大神、大国主命、少彦名命、天日鷲命の四柱が祀られている。
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 すし塚と海老塚。
『すし塚の由来
"すし"日本の風土に育ち日本の誰れもがこよなく愛し自慢している食べ物それが"すし"永い永い伝統の中にある"すし"しかしその歴史の蔭にいくたの魚介が身を提してくれたであろうか
世人の味覚をたのしませそしてまたわたし達のたつきの基になってくれたさかなたちそれらあまた魚介の霊を慰めとわに鎮まれかしと祈り而して永遠の食物としてのすしを表徴するためこゝゆかりの地にすし塚を建てたゆえんである。
 昭和四十七年十一月一日』
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 鮟鱇塚と活魚塚。
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 蛤石とおきつね様。

魚河岸水神社(築地五丁目)

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 築地中央卸売市場内に鎮座する魚河岸水神社(中央区築地5-2-1)。
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『魚河岸水神社遙拝所由来
「水神社」の歴史は古く、天正十八年(1590)徳川家康公の江戸入府とともに移住してきた日本橋魚市場の開祖・森孫右衛門ら摂津国の佃村・大和田村の漁師たちが、大漁・海上安全と子孫繁栄を祈願して「弥都波能売命」を祀った「大市場交易神」がその始まりといわれています。
 明治三十四年(1901)には神田明神の境内に「水神社」本殿が建立され、日本橋魚市場は関東大震災以後に築地に移転し、現在地に遙拝所が建立されました。
 以来、築地魚市場の守護神として「水神さま」とお呼びし、魚河岸会の人々の篤い崇敬によって大切に守られています。
 この場所は、江戸時代は松平定信公庭園跡で、明治維新後は海軍用地となり、境内にある「旗山」の碑は、日本海軍発祥の地のゆかりを記す貴重な史跡です。
 尚、毎年二月には神田明神境内の水神社本殿、御参拝が行なわれています。また遙拝所でも一・五・九月の年三回神事が執り行われています』
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 旗山碑には以下の文が刻まれている。
『此處ハ往昔徳川幕府ノ時松平定信ノ別業浴恩園内勝地タル賜山ノ一部ニ属ス明治二年海軍廰衙ヲ此地ニ置ク五年本省設立後海軍卿旗ヲ此丘陵ニ樹ツ世人呼ンテ旗山ト称ス此地ヤ實ニ海軍経營ノ根基ヲ為セリ蓋シ其發祥ノ地ト謂ツヘシ尓來春風秋雨幾星霜省廰轉移シ僅ニ一二ノ衙門ヲ畄ムルノミ地形漸ク変リ旧時ノ情景亦尋ヌルニ由ナカラントス乃チ旗山ノ地點ヲ相シテ一碑ヲ建テ以テ記念ト爲スト云爾
 昭和十二年一月五日
 海軍大臣 永野修身』
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 水神社。
 神紋は…波巴紋かな、これは。
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 狛犬。

福田稲荷神社(日本橋本町四丁目)

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 昭和通り沿いに位置する本町交番のやや北西に鎮座する福田稲荷神社(中央区日本橋本町4-5-13)。
 鳥居の笠木部分が社殿と合体している。
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『福田稲荷神社の由来
 昔、現在の神田明神のお山から南へなだらかな山裾が続き、そのすぐ向こうは海でありました。その山裾一円を武蔵国豊島郡福田村と呼んで居りました。福田村は神田山をきり崩して平らな土地を作り、土着の人々は米作りを致して居りました。今に残る福田町、豊島町は当時の名残りでございます。
 和銅年間(708~715)と申しますと平城京が造られたり、和同開珎として名高い武州足尾銅山の銅を献じて我が国初の貨幣が鋳られたのもこの頃で、凡そ千三百年程前のことであります。古事記に依りますと、和銅二年に始めて京都稲荷山に伏見稲荷大明神が勧請致されました。それから二年後和銅四年(711)に伏見より分社して福田村に鎮座したのがそもそも福田稲荷神社の縁起であります。
 稲荷神社には御承知の通り、伏見系と豊川系とございます。伏見は神道、豊川は仏道でございますので、福田神社は純然たる伏見系に属する神道でございます。当時、福田村付近の人々は五穀豊穣の守護神として崇敬し、この社を中心にして日夜平和な生活が続いたものと存じます。
 現在に至り日本橋、神田の人々が永く平和を保つことの出来ますのも偏に霊験あらたかなる福田稲荷の御守護の賜物と存じます。
 平成十八年十月二十四日』

家内喜稲荷神社(日本橋室町四丁目)

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 中央通り室町四丁目交差点西側すぐそばに鎮座する家内喜稲荷神社(日本橋室町4-2-12)。
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 詳細は不明。

白旗稲荷神社(日本橋本石町四丁目)

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 常盤小学校の北側に鎮座する白旗稲荷神社(中央区日本橋本石町4-5-16)。
 門扉が閉められていた為境内には入れなかったが、その門扉には笹竜胆紋と抱き稲紋がある。白旗の名から源氏所縁の神社だろうとは思っていたが、竜胆紋もあるならほぼ間違いないだろう。
 由緒書き等が見当たらないのでググってみると、縁起等は不詳ながら、源義家が社頭に白旗を立てたとする言い伝えが残っているようだ。御祭神は宇迦之御魂神。
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 拝殿。

初音森神社(東日本橋二丁目)

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 両国郵便局の隣に建てられた初音森ビル、その前に鳥居が建てられており、階段を上って行くと初音森神社があるのだが、鳥居脇の稲荷社は末社かな?
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 昭和三十六年の総武線快速工事の際に両国郵便局横の緑地帯の土中から発掘されたと言う浅草御門の門柱。
 ちなみに浅草御門とは江戸城の北東に位置し、奥州街道口を守る要衝として浅草橋の北側に設置されていた門のこと。また、この木は浅草御門の門柱として使用されていた時で既に樹齢五百年を数えていたとされているそうだ。
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『初音森神社由緒
当神社は元弘年間(1330年頃)に創祠され、豊受比売命(宇迦之御魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と稱え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文二○年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦三年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺)も関東郡代屋敷用地となり、現在本社のある墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮。今日に及ぶ。昭和二三年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和四八年一二月神殿及び儀式殿を近代建築とした』

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 階段を上ると奥に鳥居と拝所。
 右側は儀式殿であるようだ。
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『名井三日月の井戸由緒
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し初音の馬場に勢揃いし木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月と命名したと伝えられている。明暦三年(1657)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区に遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり、古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。
 此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿が紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により仝二十年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和三年の区割整理迄保存され、むらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている』

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 平成十五年十月に、敬宮愛子内親王殿下御誕生を奉祝して納められた名馬 三日月の像。

金刀比羅宮(日本橋中洲)

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 清洲橋通りを南下し、首都高速6号向島線下をくぐると交差点脇に金刀比羅宮が鎮座している。
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『記念碑
 中洲は江戸時代隅田川の浮洲なりしを明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が祀られ産業振興の神として広く崇められたり。しかし惜しくも大正十二年関東大震災の為に烏有に帰し再建の機運に至らざりし所、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり同志相諮り此の地を卜して四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に建立し奉る。
 昭和二十九年十二月吉日』

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 祠。
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 狛犬。
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 慈愛地蔵尊。
 こちらのお地蔵様の説明は無かったので、どういった由来があるのかは不明。

大廣神社(日本橋浜町三丁目)

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 水天宮は人が多そうなのでスルーして、日本橋浜町郵便局の北東に位置する大廣神社へ。
 近くには松島神社に元徳稲荷神社、浜町神社があったのだが、事前チェックの際に気付かず、参拝コースから漏れていた○刀乙
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 社号標石兼合祀記念碑。
 大橋稲荷神社と末廣稲荷神社を合祀して、昭和四十二年十月に大廣神社と改称したようだ。が、背面には昭和二十七年五月吉日再建とも刻まれている。
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 二の鳥居と祠。
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 お狐さま。

茶ノ木神社(日本橋人形町一丁目)

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 水天宮前交差点よりやや北西に位置する茶ノ木神社。
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『茶ノ木神社(布袋尊)
「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和六○年布袋尊を御遷座合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている』

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 お狐さま。

銀杏八幡宮(日本橋蛎殻町一丁目)

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 新大橋通りの蛎殻町交差点傍に鎮座する銀杏八幡宮と銀杏稲荷神社。
 こちらも由緒書きが無いのでググってみると、旧福井藩常盤橋松平氏の屋敷神として祀られ、松平氏は無論のこと家臣らの崇敬もきわめて篤く、武運長久・家運繁栄を祈願されその霊験あらたかであったが明治維新を迎え、松平家の領地に居住する蛎殻町民の熱心な信仰から、いつとなくこの地の鎮守産土神となったのだと言う。また、八幡宮を祀る神社は中央区ではこちらが唯一の存在であるとのことなのだが…鐵砲洲稲荷神社に八幡宮あったよなぁ、摂社だけど。
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 八幡宮正面。
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 八幡宮と稲荷社。
 鳥居から見れば正面に稲荷社があり、八幡宮があるのは参道脇の上に境内の端と言う不思議な配置。どうやら稲荷社の方が八幡宮より古いそうなので、もしかしたら古くは稲荷社が本宮で八幡宮が摂社だった…? いやいや、関東大震災後に再建されたのだから、そうとは限らないか。
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 前列のお狐さま。
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 後列のお狐さま。

小網神社(日本橋小網町)

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 住生日本橋小網町ビルの西側に鎮座する小網神社。
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『小網神社
 所在地 中央区日本橋小網町16-23
 社伝によれば、当社は小網山万福時を別当時として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
 境内には、昭和四年(1929)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟札の造営に関係する史料とともに中央区民文化財に登録されている。
 平成三年四月』

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『武蔵国古社 小網神社の概要
由緒
 当神社は、伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466)今より約五五○年ほど前に、商売繁盛、疫病鎮静の神として鎮座した。
 初めは、小網山稲荷院万福寿寺を別当寺とした稲荷神社であった。その後昭和初期までは、小網稲荷神社と号し、江戸時代から稲荷堀稲荷(とうかんぼりいなり)とも称されていた。その後太田道灌は、当社への崇敬篤く、時折参拝し、社地を奉じ、社殿を造営したといわれる。社名も公の命名によると伝えられる。
 さて、戦時下では、当社の「強運厄除守」を奉戴した者の多くが、戦地より無事帰還したことから、都内は勿論、各地より強運厄除の御神徳を戴き、自らの運を強め、豊かで明るい生活を求める参拝者で賑わう。
主な御祭神と御神徳
 倉稲魂命(稲荷大神) 商売繁盛・招福開運・強運厄除
 市杵島姫命(辨財天) 商売繁盛・招福開運・学芸成就
 福禄寿          商売繁盛・招福開運・延命長寿』

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 銭洗いの水。
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 狛犬。
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 拝殿。

 山王日枝神社から小網神社に向かう途中、証券取引所前を通るのだが、東京証券取引所の傍北西側に兜神社があったのね。チェック漏れしていたわ…○刀乙
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