乾徳稲荷神社(押上二丁目)

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 東京スカイツリーの北側、マンションや住宅などに囲まれた一角に鎮座する乾徳稲荷神社(墨田区押上2-17)。
 普段は柵が閉まっていて入れないようになっているそうなのだが、たまたま近くの飛木稲荷神社や牛島神社などで秋祭りが行われていた為か、通れるようになっていた。尤も、周りで笛やら太鼓やら神輿を担ぐ掛け声などが響く中にあって、ここだけは人気も無く忘れられたような感じであった。
 因みに当初の予定では飛木稲荷神社や牛島神社、三囲神社なども参拝するつもりだったのだが、祭りの最中だったので回避。
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 由緒等は不明。

 以上で9月14日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。Coolpix P7100。
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高木神社(押上二丁目)

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 天台宗海福山天王院正圓寺の西隣に鎮座する高木神社(墨田区押上2-37-9)。
 大鳥居のすぐ脇には神楽殿。
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 拝殿。
 応仁二年(1468)の創立と伝えられ、嘗ては第六天社と称し正圓寺が別当寺であったが、神仏判然令により高木神社と改称。御祭神は高皇産霊神。
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 狛犬。
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 小鳥居。
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 山玉向島講社碑。
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 案内板。

正一位稲荷神社(東向島四丁目)

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 国道6号線向島三丁目交差点の南東、向島ハイツの入口脇に鎮座する正一位稲荷神社(墨田区向島4-24)。
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 由緒等は不明。

秋葉神社(東向島四丁目)

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 国道6号線向島五丁目交差点そばに鎮座する秋葉神社(墨田区向島4-9-13)。
 祭りの準備中と言うか、待ち時間的な雰囲気だったのでささっと参拝と撮影を済ませることに。
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『秋葉神社御由緒
祭神 火産霊命 (千栄秋葉大権現)
   宇迦御魂命(千代世稲荷大明神)
 昔この地を五百崎の森と云い千代世稲荷大明神が祀られていた。草創は正応二年(1289)と伝える。江戸時代の初め善財という霊僧この森に庵を結び精修数年の後、秋葉大神の神影を彫みこれを社殿に納めて消え去った。元禄の初め修験者葉栄が神感を得てこの社に詣り祈願の利益をうけ、当時請地村の長百姓岩田與右衛門を通じ寺社奉行に願出で上州沼田城主本多正永の報賽にて、元禄十五年(1702)秋葉稲荷両社と稱して社殿を造営し又千葉山満願寺を興して別当となった。
 爾来鎮火の霊験・産業縁結びの神徳により諸大名はじめ士庶人の信仰を受け、享保二年(1717)に神祇管領より正一位の宗源宣旨を受けるに至った。明治元年(1868)神佛分離令の施行により、秋葉神社と稱し別当万願寺を廃した。大正十二年(1923)の震災に社殿倒壊し、昭和五年(1930)復興したが、昭和二十年戦災にかかり昭和四十一年氏子崇敬者の奉賽により現社殿を再建した。
 昭和六十一年十月十八日建之』
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 狛犬。
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 拝殿。
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『<墨田区登録文化財>石燈籠
 本殿に向かって一番近くにある石燈籠一対は、松平下位守吉里の室、源頼子が寛保元年(1741)奉献したものです。吉里は将軍綱吉の寵臣柳沢吉保の子です。
 この石燈籠の右横にある一基は、前橋城主酒井雅楽頭忠挙が宝永六年(1709)に奉献したもので、その手前にある一対の石燈籠は、関東郡代伊奈忠宥が宝暦八年(1718)に奉献しました。
 鳥居に近い石燈籠一対は、上州沼田城主で老中も勤めた伯耆守本多正永が宝永元年(1704)に奉献したものです。なお、この一対は<墨田区登録文化財>に登録されています。
 当社は安藤広重の「名所江戸百景」にも紅葉の名所として描かれ、「江戸名所図絵」には「秋葉大権現社、弘福寺より三丁あまり東の方請地村にあり、遠州秋葉権現を勧請し(略)境内林泉幽邃にして四時遊観の地なり」とも書かれています。一方鎮火の神として将軍家や諸大名の崇敬があつかったといいます。
 平成五年三月』
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 境内社。

睦稲荷神社(東向島二丁目)

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 曳船駅の北西、国道6号線東向島二丁目交差点のそばに鎮座する睦稲荷神社(墨田区東向島2-22)。
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 道端にちんまりと鎮座ましましている。
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『睦稲荷社由来
 当稲荷神社は大正十三年(1924)十一月寺島村の村民が相寄り建立しました。
 翌十四年四月五日官幣大社伏見宮の御分霊正一位稲荷大明神を勧請し以来当地の鎮守として尊崇してきました。
 昭和四十九年(1974)には五十年祭が執行されました。
 平成二十二年二月吉日』

白鬚神社(東向島三丁目)

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 墨堤通りと明治通りの交差する白鬚橋東詰交差点の南250m程の位置に鎮座する白鬚神社(墨田区東向島3-5-2)。
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 鳥居。
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『鷲津毅堂碑
 鷲津毅堂は幕末明治の漢学者です。文政八年(1825)尾張に生まれました。
 通称を毅堂または蘇洲と号し、父、祖父ともに大変に徳望篤い人物でした。
 二十歳のころ江戸に出て昌平黌に学び、嘉永六年(1853)久留米藩に仕え、次いで、尾張候の招きに応じ侍続となり、さらに教授に進み、毅堂自身も師弟とともに学問に励みました。時に王政復古となり、藩主徳川康勝の議定官に任ぜられ国論を一定し、覇王の思想を隣藩にまで広めました、明治元年(1868)朝廷より権弁事を任ぜられ、同二年大学少丞に転じます。そして権大書記五等判事、司法少記官、東京学士会々員に列するなど明治政府の要職を歴任しました。明治十五年(1882)司法権大書記官となりますが、同年十月五日、五十八歳で歿しました。
 なお、毅堂は永井荷風の母方の祖父にあたります。
 本碑の篆額は三条実美、撰文は三島毅、書は巌谷一六による碑です。
 平成十八年三月』
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『<墨田区登録文化財>「墨田三絶」の碑
 隅田川の風物を詠じた佐羽淡斎の詩碑で、大窪詩仏が筆をとったものです。「墨田三絶」の篆額は巻菱湖の筆になります。建立年に当たる壬午は、文政五年(1822)のことです。
 なお、絶とは五字または七字の四句で一体をなす漢詩のことで、三詩からなるので三絶と呼びます。
 この碑(草書)は三囲神社の「本松斎一得翁之碑」(隷書)、隅田川神社の「無琴道人墓銘」(楷書)の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち「詩仏三碑」として世に知られています。
  維舟渡口歩汀沙来飲祠前売酒家一
  道玻璃烟淡抹夕陽猶在半堤花
  不借朝南暮北風遊船如織日忽々沙鴎
  欲管繁華事閑唾落花流水中
  断磬聲中結夕陰堤彎岸繚寺門深
  鴎邊柳処元陳迹付与詩人吟至今
  上毛淡齋佐羽芳詩壬午冬日書詩佛老人大窪行
 平成十八年十二月』
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 神楽殿。
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 神楽殿の脇に墓碑。
『岩瀬鷗所の墓碑
 江戸時代末期の外交家。文政元年(1818)江戸に生まれました。名は忠震で、鷗所の号は隅田川の辺に住んだことに由来します。幕府の徒頭相楽貞夫の第三子で天保一一年(1840)、旗本岩瀬忠正の養子になりました。嘉永二年(1849)老中阿部正弘から目付に抜擢されました。鷗所は昌平坂学問所で漢学を学ぶにとどまらず蘭学も学び、当時、外国の事情認識においては鷗所が一番といわれました。幕府の鎖国政策を非難したほか、砲台を築き軍艦を造り、講武所と蕃所調所を設け海軍伝習を始めるのにも参画しました。後に将軍徳川家定の継嗣選定の問題で、新任の大老井伊直弼と対立したため、安政六年(1859)八月に官位を奪われ、蟄居を命ぜられました。
 その後向島に隠居し、もっぱら読書文芸にふける悠々自適の生活を送りましたが、文久元年(1861)七月一六日、四四歳で歿しました。
 平成十六年三月』
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 二の鳥居。
 拝殿の写真を撮っておくのをうっかり忘れていた○刀乙
 以前の社殿は関東大震災や太平洋戦争でも被災を免れていたそうだが、平成二年に左翼暴力集団の放火によって全焼し、平成四年に再建されたのだそうだ。
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 山玉向島講社碑。
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 案内板。
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『白鬚神社
祭神 猿田彦大神
   天照大御神 高皇産霊神
   神皇産霊神 大宮能売神
   豊由気大神 建御名方神
由緒 天暦五年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白鬚大明神の御分霊をここにまつったと、社伝の記録は伝えている。天正十九年(1592)には、時の将軍家より神領二石を寄進された。
 当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年(1815)に奉納したもので、その信仰のほどがしのばれる。明治四十年(1907)には氏子内の諏訪神社を合祀した』
 天正十九年(1592)と書かれているが、天正十九年で1592年になるのは十二月だけであるようなので、神領を寄進されたのはその頃と言うことになるのだろうか。因みに当時の将軍は室町十五代将軍足利義昭。
 社務所で頂いた由緒書きには近江国志賀郡境打颪(滋賀県高山市)琵琶湖畔に鎮座する白鬚神社からの分霊と、より詳しく書かれている。
 例大祭は六月初頭に行われ、墨東地区で最初の夏祭りになるのだそうだ。神輿は嘉永元年(1848)に造られた物で、三年に一度氏子内を巡幸するとのこと。また五月五日には嘗て一帯が農村地帯であった頃の習慣を伝える「ぼんでん祭」が行われ、氏子世話人が作った御幣を隅田川に立てて五穀豊穣と水害防止を祈念するのだそうだ。
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 文化十二乙亥年二月造立の狛犬。
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 三峯社・水神社と諏訪社。
 諏訪社の中には右から「至哉盛徳遏惡揚善 諏訪大明神 順天保命降福不滅」と言う文字と衣冠姿の男神らしきものが線刻された碑が納められている。らしきもの、と書いたのは諏訪大神と記された木札が前に置かれていてよく見えなかったから。天満宮などなら菅原道真公の姿を刻んだものを見るのは珍しくもないが、諏訪神社で諏訪大明神と思われる姿が刻まれているものを見たのは初めてだ。
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 白鬚神社の南、子育地蔵尊のそばに設置された案内板。

隅田川神社(堤通二丁目)

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 墨堤通りに面した一の鳥居。ここから二の鳥居までは約140m程。
 台石のそばには「船霊社・水神社」と刻まれた石碑も置かれている。
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 東白鬚公園を抜けると二の鳥居。
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 その手前には隅田宿跡の案内板が設置されている。
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『水神の森跡
 住所 墨田区堤通二丁目十七番隅田川神社
 荒川の下流、鐘ヶ淵を越え大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。人々からは水神の森とも浮洲の森とも呼ばれ親しまれていました。
 昔、ここから入江が始まり、海となっていたことから「江の口」、すなわち「江戸」の語源になったともいわれています。
 水神の森は、「江戸名所図会」にも描写されているとおり、川岸にあった水神社(隅田川神社)の鎮守の森でした。川を下ってきた人々には隅田川の入口の森として、川をさかのぼる人々にとっては鐘ヶ淵の難所が近いことを知らせる森として、格好の目印となっていました。
 その後、震災・戦災にも焼失を免れた森は戦後の開発で失われてしまい、隅田川神社自体も百メートルほど移されて現在地に鎮座しました。
 平成十九年三月』
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 三の鳥居。
 左側には神楽殿があるのだが、駐車場に空きがあるにも関わらず参道に乗り入れた形で停められていた乗用車が邪魔だった。
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 拝殿。
 神社の由緒書きは見当たらなかったのでGoogle先生に訊いてみたところ、こちらの御祭神は速秋津日子神と速秋津比売神、鳥之石楠船神、大楫木戸姫神の四柱。他に水波之賣神と御井鳴雷神を配祀神としているそうだ。
 速秋津日子神と速秋津比売神は水戸神(港神)であり河口の神。鳥之石楠船神は天鳥船命とも言い、船の神でありまた運輸・交通の神でもある。で、大楫木戸姫神なのだが……はて? 大楫とか木戸とかの文字が入っていることを考えると船や水門に関係した神なのかな。或いは速秋津比売神が祓戸四神の一柱である速開都比売であることを考えると、速開都比売が呑み込んだ穢れを海へと放つ気吹戸主の別名……と言うのは考えすぎかな。
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 こちらの守護獣は狛犬ではなく亀となっている。
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 三財稲荷神社と若宮八幡神社。
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 左奥の祠は不明。その隣に亀石。右側の末社殿には粟島社、金神社、天神社。
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 亀石。拝殿前の狛亀(?)の先代さんなのかな。
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 西の鳥居。

下稲荷神社(墨田二丁目)

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 墨田区立梅若小学校の北西に鎮座する下稲荷神社(墨田区墨田2-3-8)。
 詳細は不明。古くは真言宗智山派隅田山吉祥院多聞寺持ちであったが、現在は隅田川神社の境外末社であるようだ。御祭神は宇迦之御魂命。
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 拝殿。
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 享保九甲辰年(1724)十一月造立の青面金剛。

宝守稲荷神社(墨田一丁目)

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 駐車場脇に鎮座する宝守稲荷神社(墨田区墨田1-16)。
 鳥居の隙間から狸の置物が見える。狸のある稲荷神社と言うと柳森神社を思い出すが、特に関係は無いだろう。
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 笠間稲荷神社から勧請したものであるようだ。
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願満稲荷神社(墨田三丁目)

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 向島警察署墨田三丁目交番の脇から北東に向かって行くと、日蓮宗啓運閣教会の脇に願満稲荷神社(墨田区墨田3-6-14)が鎮座している。
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 狭い。
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隅田稲荷神社(墨田五丁目)

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 鐘ヶ淵駅の南東400m程の位置に鎮座する隅田稲荷神社(墨田区墨田4-38-13)。
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 参道左手側に神楽殿。
 狛犬の手前にも建物があったが、おそらく神輿庫か祭具殿だろう。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 お狐さま。
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『隅田稲荷神社由緒
一、東京都向島區隅田町四丁目貮百九十貮番地鎮座 村社 隅田稲荷神社
一、祭神 宇迦能魂神 例祭六月十五日
當社ノ創祀ハ葛西誌及新篇武蔵風土記稿等ニ依リテ天文年間ト相定セラル 天文年間伊豆
ノ堀越公方政知亡ビ其ノ臣江川善左ヱ門雅門郎黨ト此ノ地ニ逃レ信■厚キ京都伏見稲荷大
神ヲ勧請シテ氏神ト祀リ尓來土地開ケ南葛飾郡善左ヱ門村ノ起源ヲナス
後慶長年間社殿ノ改築アリ又文政十三年庚寅正月社殿ヲ改築シ尚重ネテ関東總鎮守神曰妻
戀稲荷神社ノ神官齋部宿彌守儁ガ仲取持チテ京都伏見稲荷神社ノ神璽ヲ乞請ケ氏子ノ人等
御田地ヲ奉納シ境内ヲ整備ス 此ノ神璽奉齋ノ路次美濃ノ國ニテ山賊ニ逢ヒシ時八僧現レ
危難を救ヒシ奇蹟アリシヨリ八僧稲荷神社ト稱ヘタル事鳥居ノ額ニ依リテ知ルベシ
此ノ御神徳ヲ稱ヘ災難除ノ信仰深シ 又郷人ハ隅田稲荷神社ト稱ヘ奉ル 當社ハ實ニ南葛
飾郡善左ヱ門村三百六十六番地ニ鎮座セラレ大正二年太務省起業荒川改修工事敷地ニ該當
シ現地ニ移轉シタルモノニシテ松楠等周圍丈余ノ巨木アリシ事新篇武蔵風土記稿ニ見ユ
昭和七年十二月二十七日村社ニ昇格 昭和十年九月公爵一條實孝公 靖國神社宮司賀茂百
樹公ヨリ御神號ノ額ノ揮毫ヲ乞ヒ受ク 昭和十八年四月御社殿改築ノ工ヲ起シ仝年十月竣
工仝年十月八日御遷座祭執行 尚當社蒟蒻護符授與ノ神事は元禄年間ヨリ始マル
              昭和十八年十月八日   社司勲八等津久井安太郎謹書』
 ■の部分は「イ刀」。仰の異体字だろうか。
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 左から八幡神社、白鬚神社、皇産霊神社。
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 南の鳥居。

稲荷神社(墨田五丁目)

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 香取神社前の道を南下して行くと、不意に西側に見えて来る稲荷神社(墨田区墨田5-10)……だよね? 地図には記載されていないし、額なども見当たらないけれど、お狐さまがあったり宝珠紋があったりするのだから、稲荷神社と見て間違いないだろう。他には丸に三つ柏紋も付いていたけど、これはこの家紋を使う人が建立した、と言うことなのかな。

香取神社(墨田五丁目)

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 真言宗智山派隅田山吉祥院多聞寺の南隣に鎮座する香取神社(墨田区墨田5-31-14)。
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 香取神社と稲荷神社。
 詳細は不明だが、Google先生に訊いてみると、どうやら隅田川神社の境外末社であり、また神輿庫でもあるようだ。

初音森神社(千歳二丁目)

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 TMビルの南側、西光寺の東隣に初音森神社が鎮座している。
 この時は丁度伐採作業をしていたので邪魔にならないように参拝&撮影。
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『初音森神社
 鎌倉中期に建立された神社で、江戸初期までは馬喰町初音ノ森(現在の中央区日本橋馬喰町)の鎮守でした。明暦の大火後に郡代屋敷を建設するため、この地に移されました。
 三百年以上、氏子がお参りやお祭りのために隅田川を渡って来ていました。
 昭和二十三年(1948)に、この本社とは別に、東日本橋に社が建てられました。日本一の繊維問屋街にあるため、商売繁盛の神様として信仰されていますが、長い間の習慣で、今でも本社に多くの氏子が参詣にきます』


 ところでここに描かれた地図、よく見ると初音森神社と西光寺に隣接した部分に八幡宮御旅所と書かれているのだが、現在この場所に八幡宮はない。御旅所だから、取り壊されてそれきりになっているのかな。
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 社号標石には寳録稲荷神社とあるが……あれ? 初音森神社は?
 ググってみると、どうやら初音森神社の社殿は東日本橋にあるもう一つの初音森神社の方に移されているのだそうで、こちらには境内社が残されているだけのようだ。でも本社はこちら、と。…本社なのに社殿が無いと言うのは珍しい気がするなぁ。
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 阿像のみ残った狛犬。文化九年(1812)のものであるそうだ。
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『富福稲荷神社
 當神社は舊称日本橋區通塩町の鎮守也。同町は昭和九年町名変更に依り横山町と改稱せらる。
 依て関係淺からざる當初音森神社に合祀奉る』

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 難波稲荷大明神…の、台座だけ。

稲荷神社(千歳二丁目)

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 江島杉山神社の南東に位置するTMビルの角に鎮座する祠。結び抱き稲紋があるので稲荷神社だろう。
 由緒はおろか神社の名前すら判らないのは残念だ。

江島杉山神社(千歳一丁目)

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 首都高速7号小松川線下を流れる竪川に架けられた、一之橋手前に鎮座する江島杉山神社西の鳥居。
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『江島杉山神社
 鍼術の神様・杉山和一(1610-94)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。
 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この和一の名声を聞いた綱吉は、和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました』

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 二の鳥居と拝殿。
 案内板には弁財天と杉山和一検校が祀られているとしか書かれていなかったが、公式サイトを見ると市杵島比売命と杉山和一検校の他に倉稲魂命と大国主命もお祀りされている。元々は相模から勧請した江島神社だったが、それに境内社として祭祀されてきた杉山神社を合祀したから江島杉山神社なのか、なるほど。
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 賽銭箱には波を模った円の中に三つ葉葵の御神紋。徳川家と弁天様に縁があると言うことがよく判る紋だ。
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 杉山検校頌徳碑。
 大正十三年二月十一日に正五位が追贈されたのを記念して建てられたもので、碑文が点字で記されている。
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『杉山和一と総禄屋敷跡
 所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を総括していた総禄屋敷の跡です。
 杉山和一は慶長十年(1610)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校を師事しましたが、後に京都のの鍼師入江豊明に弟子入りしました。
 厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(1670)、検校に任じられました。
 さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋隣の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(1693)六月のことでした。
 一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
 平成十八年八月』

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 神橋。
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 弁天池と弁天窟。
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『岩屋重修記
當社は相州江之島江島神社の御分社にして元禄六年六月十八日五代将軍徳川綱吉公の台命にて總検校杉山和一大人創建せり。御本社に於ける信仰の根源は御霊窟なる奥宮にあり當社亦之に模して岩屋を築き寛政五年十月修理し安政大正両大震災にも被害なく昭和に至れり。然るに同二十年三月戦災の劫火には天井の石に亀裂を生じ遂に壊れ落つ。茲に於て旧牀を損せず鉄筋コンクリートにて保強し山を高く植樹を選びて風致を増し古蹟を復元す。又池は堅川より隅田川に通じ江之島の海邊に連りてゆかり深く魚鱗閃きしが今は川水汚染してその面影なく是亦昔に返さんと改修せり。依ってその由來を傳うべく之を撰す。
 昭和三十九甲辰年十一月十八日』

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 岩屋に入ると正面突き当りに杉山和一検校像。
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 杉山検校像の右側に宗像三神像。
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『宗像三姉妹像
 右、多紀理毘売命
 中、市寸嶋比売命
 左、多岐都比売命
 弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。
 本来宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから、民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福・学問・音楽・弁舌等に霊験あり。又土地の鎮主とし地主神として祀られている』

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 岩屋の奥には宇賀神が祀られている。
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『宇賀御魂神(倉稲魂命)は弁才天である。
 この功徳は五穀豊穣ばかりでなく如意宝珠の力によって希うことはことごとく叶い又福を得ることとなり、あわせて弁才天本来の能力である音楽・学問・除災までの力を授けてくださるという。即ち人の希いとしての万能の神として認めたのであるから、広く信仰されたのは当然である。
 又、宇賀御魂神は、梵語のウガヤであい、ウガヤは白蛇を意味するから弁才天が蛇に縁があるのと共通し、弁才天を龍女とみる説からも蛇で表現される。
〝人頭蛇身〟はまさに宇賀神を表す』

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 杉多稲荷神社。
 位置としては丁度岩屋の真上辺りになるのかな。
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 相方さんのいない狛犬。
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 杉多稲荷社の隣に即明庵。
 即明庵の由来を記した石碑は杉山検校頌徳碑のそばに置かれている。
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 力石。
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 南の鳥居と神輿庫。
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梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
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