大国神社(境下淵名)

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 県道292号線と国道17号線の交差する大国神社東交差点のの西に鎮座する大国神社(伊勢崎市境下淵名2827)。
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 二の鳥居と三の鳥居。
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『上野国式内十二社大国神社縁起
 境町大字下渕名字明神鎮座
 祭神   大国主命
  配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、
      眞砥野媛命、筋瓊入媛命
  外三柱 罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命、旧八坂神社祭神

 延喜式神名帳に上野国大国神社あり。上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。縁記に曰く人皇第十一代垂仁天皇の九年(紀元前20年)庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず、天皇深く之を憂い給い諸国の神明に奉幣せられ、東国には百済車臨遣わされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る。之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗うを見たので問うた。叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である、汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である、願くは国家の為に大難を救助し給えと翁唯々と答う言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし。須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。因って此の郷を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり、天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け、大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云う。仝年十五年(紀元前14年)丙午の年九月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に、古より当社を五護宮又は五后宮とも書き、第五姫大明神とも称した。此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内・大須賀左内・生形権真人・石井田右内の四人があり、松宮内の子孫世々当社の祀宮として明治に至ったと伝えられて居る。後、称徳天皇の神護景雲元年(767)従五位上佐位采女勅を奉して上毛に下り、社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年(1804)甲子現在の社殿を改築し、明治七年(1874)熊谷縣管下北方十六区佐位那波両郡四十二ヶ村の郷社に列し、仝四十二年(1909)二月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。世界大戦後は祭典を止められ神社の財産も開放となったが、由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目をうふて古にかえりつゝある境内は貮千四百七十六坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山、遠くは常陸の筑葉山と相対し、遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹渺として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳二年(1490)庚戌四月十六日、本願法名清本秀行刻とせる石浄手鉢一基あり、元御手洗の社前より移したものという。

 祭日 大祭 秋祭・十月最後の日曜日
    中祭 春祭・四月三日
    小祭 夏祭・境町ふれあい祭の日
    大祭には古来獅子舞の神業を演じ奉納する習あり
 平成九年十月吉日』
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『伊勢崎市指定重要無形文化財 下淵名の獅子舞
 平成十八年六月十五日指定
 下淵名大国神社の獅子舞は勇壮活発、かつ格調高い舞と評され、平佐々良・畏まり・橋がかり・雌獅子隠しの四種類が伝承されています。
 流派は火挟流と言われ、栃木県の文挟村(現日光市)に起り、足尾を通り、銅街道沿いに下淵名に伝えられたものと考えられています。一人が一匹の獅子に扮し、法眼・雌獅子・雄獅子の三人一組が連れ舞います。かつて、夕方から盛んに獅子舞を披露したことから、この獅子舞を夕がかりと呼ぶことがあります。
 毎年十月最終の日曜日の大祭には、村回りを行なった後神社に奉納されます。村回りでは所々でシャギリを上演し、神社に奉納する際には祭礼棒が先陣を清めます。
 道具の収納箱には正徳元年(1711)と書かれていることから、この頃には諸道具類が整備されていたことが推測でき、獅子舞の起源はこれを遡るものと考えられます。
 平成二十四年三月』
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 社務所。
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 拝殿。
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 手水舎と浅間神社。
『浅間神社は、どのような経緯で遷宮し鎮座されたか明らかでないが、古老の話によると無資格神社は、一村一社に合併せよとの、時の政府の命令によって御手洗神社が明治四十年に大国神社に合併されたため無神の社になったので、木華開耶姫命を祭神として遷宮し浅間神社と称することになったという。その時期は不詳であるが推測するに無資格神社の一村一社神社合併の政府命令が解除されるか或いは効力を失うか、いずれかの後のことであろう。
 この社の建造の時期は安土桃山時代といわれ、大破流造り和様式で、地之間五尺、向拝三尺五寸、本殿四尺五寸、屋根は瓦葺きで、建物の一部に室町風の遺構があるという。当境内最古の建造物である。
 この建物の屋根は瓦葺きであるが傷みが随所に見られるので昭和六十二年(1987)に拝殿屋根の葺き替え工事に引き続き原形を損なうことのないよう留意し修復された。
 平成元年二月吉日』
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『境町指定重要文化財 大国神社の石幢
 昭和四十二年二月十日指定
 村の人たちが「御手洗の石燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畦で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は二・三八メートルもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。
 竿部には摩滅がひどく定かではないが、次の碑文が読みとれる。
  本願主法名 清本秀行
  延徳二年庚戌四月十六日
 願主の清本秀行なる人物については全く不明である。また火袋に日月と梵字があったと考えられる』
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 浅間神社の裏に庚申塔と冨士嶽神社、秋葉神社。
 庚申塔は左が寛政十戊午年(1798)十一月吉日のもので右が安永八龍集己亥(1779)仲冬穀且のもの。冨士嶽神社は大正七年(1918)二月or三月三日。
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 八坂神社。
 神社合祀令により明治四十年(1907)三月二十五日に大国神社に合併されたとのこと。
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 天満宮。
 昭和五十七年(1982)七月に社殿を建設し遷宮鎮座したと書かれているが、詳細は不明。
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 疱瘡神社。
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 弥都波能女神と金神。
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 西宮神社。
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 少彦名神社と猿田彦大神。
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 八幡神社と摩利支天宮。
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 大国主命と牛頭天王宮。
「郷社 奈神 大國主命 明治三十三年三月吉日設立之」と記されているが、奈神ってなんだろう。祭神のことかな?
 牛頭天王宮は天和元辛酉年と刻まれているので1681年のもの。
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 多賀神社と地神神社。
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 諏訪神社、住吉神社、稲荷神社。
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 八坂神社。
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 境内北端に古墳と刻まれた石柱。側面には昭和十五年(1940)十月建設とある。
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 県道292号線に面した北の鳥居。
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雷電神社(境伊与久)

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 県道2号線流通団地入口交差点から南下して行くと雷電神社(伊勢崎市境伊与久3581)前に到着。途中に十三宝塚遺跡があった筈なのだが、全く気付かずにスルー。
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『境町指定史跡 雷電神社古墳
 昭和五十二年三月十一日指定
 雷電神社古墳は伊与久地区の北方に位置し粕川と早川の支流である中掘に挟まれた低台地上に築造された古墳であり、本古墳北側には十三宝塚遺跡が広がる。「上毛古墳綜覧」によれば、本古墳の周辺には多数の古墳があったとされるが、現在では殆ど消滅している。従って伊与久地区の古墳を知る上で貴重な古墳である。
 本古墳の形態は主軸を東西にとり、前方部を東に向ける全長約五十メートル程の前方後円墳と考えられる。現在ではくびれ部なども明確でない程に削平・変形されてしまっているが、西側には後円部の名残がわずかに認められる。遺骸を葬った主体部は南に開口する両袖型横穴式石室であり、現在の神社本殿の真下あたりと考えられる。現在では補修が著しいが、比較的旧状をとどめているのは玄室部で、長さ四・七メートル、奥壁下幅一・三五メートル、中央部幅二・一二メートル、入口幅一・一五メートルとやや胴部の張った形である。この石室を構成する石材は榛名山系の二ツ岳が噴火した際に噴出したとされる安山岩の一種であり、その加工技術・石材の積み方は精巧である。
 明治年間に発掘されたとされるが、遺物は殆ど残っておらず、石室の形態、石材の加工技術などから七世紀後半の築造と考えられる』
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 参道左手側に神楽殿。
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 社務所前が駐車場になっている。
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『雷電神社
一、鎮座地 佐波郡境町大字伊与久三、五八一番地(現伊勢崎市境伊与久3581)
二、祭神  主祭神 大雷命      
      配祀神 高於加美命 火産霊命
          罔象女命  建御名方命
          大日孁命  保食命
          倉稲魂命  菅原道真命
          誉田別命  櫛御気野命
          最上命   大物主命
          素盞鳴命  日本武命
三、由緒
 当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年(1871)には村社に列せられ、同四十年(1907)には境内諸末社を合祀して今日に至る。
四、祭日
  一月二十五日……新年祭
  二月二十五日……祈年祭
  三月二十五日……例大祭
  七月二十五日……夏祭り
  十月二十五日……秋季例祭
五、境内神社
  衣笠神社 八幡神社
  秋葉神社 飯福神社
  神明神社 熊野神社
  琴平神社 阿夫利神社
  八坂神社 水神社
  三峯神社 天神社
  疱瘡神社 諏訪神社
六、境内地 約一、一一九坪

【御開帳】
 六十年に一度行われる大祭で、以前は四十年に一度、御神体を親しく信者に拝観させる祭事である。大祭は正月と四月に行なうが、御開帳は正月二十五日より数日間行なうのを例とした。この日に備えて、各地区総出で趣向を凝らした飾りものを準備する。ちなみに大正十五年(1926)一月二十五日から二月三日までの十日間執行された御開帳では、飾りものを納めた小屋の間口十間(約18.2m)、奥行七間(約12.7m)、高さ五丈五尺(約16.7m)の巨大な竜虎が人の目を奪ったと伝えられている。最近の御開帳は、昭和六十一年(1986)正月に執行されている。
【雷除け信仰】
 天正元年(1573)正月二十五日の午の刻(正午)、雷鳴の激しく天地も揺らぐかと思う折から、境内の神木に落雷があった。その破裂した神木の中央から一条の光を発していたので、村民がひどく狼狽恐怖し、村の修験者須田峯ノ坊がこれを窺うと一寸八分(約5.45cm)の黄金像が現れた。この像は、地頭五十久弾正の守り神として祭られ、神徳弘く悪疫災難を救済し、殊に雷鳴を恐怖する者がこの神を信じれば恐怖の念が無くなるといわれた。また、これ以来は境内の老杉の樹皮をはぎ取り、雷除けの護符とする風が生じたという。この信仰に関連して、夕立除けの信仰に基づいた太々講という講組織が現在もある。果たしていつごろから始まったのかは定かでは無いが、遠くは埼玉県朝霞市や群馬県利根郡にも構員がおり、各地で三人講・五人講と称し、三月二十五日の例大祭の日には今でも多数の構員が参詣する。当日は専用の受け付けが設けられ、記名を済ませた順に御神札や御守を受けていかれる。この講とは別に、時世を反映してか、十年程前から電力関係者やゴルフ場関係の人々が参拝し、雷除けの祈祷を受けていかれるようになった』
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 六の鳥居。
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 狛犬。
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 階段上から。
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 階段を上りきるとその両脇にも狛犬。
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 拝殿。
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 神輿殿。古墳石室への入口も兼ねている。
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 石室入口の上に御神輿が宙吊りになっている。
 よく見ると御守りが四つほど落ちているのだが、どういうことだろう?
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 英霊殿。
 右の石祠は社名が記されていなかったが、横木瓜紋が刻まれていた。
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 末社群。
 三十三基の祠と一基の石塔が並んでいる。確認できたのは地神、蚕影山、熊野宮、金毘羅、秋葉山、天王宮だけ。
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 本殿裏の末社。
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 本殿裏から。
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 本殿裏から下りて行くと、南側に鳥居。
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 鳥居のそばに石祠。右は稲荷神社。
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 南側にもう一基の鳥居。こちらは拝殿前に繋がっている。
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八幡宮(曲沢町)

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 県道293号線と国道50号線の交差する曲沢交差点から南東へ向かって行くと、早川の東岸に八幡宮が鎮座している。
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 右から二つ目の一際大きな石祠が八幡宮。
 八幡宮の一つ左は天王宮、その左は秋葉社。他は不明。

西野神社(西野町)

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 県道352号笠懸赤堀今井線と大正用水に囲まれた丘陵の頂に鎮座する西野神社(伊勢崎市西野町390)。この辺りは西野諏訪神社丘古墳群となっており、西野神社の境内に大塚古墳、西野神社の西側に西野愛宕様古墳があるのだそうだ。
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 参道左手側に石祠が二基。
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 その向い側に道祖神。
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 参道はおよそ100m程の長さ。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社殿左側に合祀記念碑。
『明治四十年二月有神社合同之令則信徒相議以翌四十一年六月併祀村社諏訪神社與無格社愛宕諏訪及其末社八坂稲荷之五社改稱西野神社
 大正二年十月十七日建設』

 明治四十一年(1908)に村社諏訪神社と無格社愛宕神社・無格社諏訪神社、その境内末社八坂神社・稲荷神社を合祀して西野神社に改称したとあるが、創建時期や由緒等は不明。この無格社愛宕神社は元は愛宕様古墳にあったものなのだろうか。
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 社殿右側に末社。
 中央二つは額部に秋葉山と象頭山とあるので秋葉社と琴平社だろう。両端の二つは不明。
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 社殿脇の岩。石室の一部なのだろうか。
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 北東から。

二本松稲荷神社(間野谷町)

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 秋葉神社の北東、畑の中に鎮座する二本松稲荷神社
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 お狐さま。
 台座には「昭和二十七年二月初午 大正用水完成記念」と刻まれている。
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 二つ並んだ石祠はどちらも側面に昭和二十六年二月初午、台座と額に二本松稲荷大明神と刻まれている。左右の二本の松が名前の由来であろうか。ググってみると伊勢崎市間野谷町二本松に二本松稲荷遺跡というものがあるようだが、それってやはりここのことなのかな。
 詳細は不明。
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 左は稲荷社。右は不明。
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 東の入口から。
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 西から。

秋葉神社(国定町一丁目)

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 県道291号線の両毛線第三桐生街道踏切脇に鎮座する秋葉神社
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 拝殿の真裏にある、こちらが本殿なのかな。
 側面には安永六年四月吉日とあるので1777年の造立であるようだ。しかし由緒等は不明。
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 西から。
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 南から。

赤城神社(国定町二丁目)

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 県道294号線の両毛線踏み切りそばに鎮座する赤城神社(伊勢崎市国定町2-1528)。
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 二の鳥居。
 額束に天満宮の文字が残っている。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『国定赤城神社移築遷座75周年奉祝事業 社殿改修工事竣工記念碑
 当社の創建は不詳ながら、文治二年(1186)源頼朝の家臣で上野守護の安達藤九郎が、国土開拓の神である大己貴命と豊城入彦命の御神徳を尊び、再建したと伝えられている。
 永禄年間(1558~70)には国定越中守により改修が加えられ、天正十八年(1590)の北条氏滅亡後は、国定村の鎮守神として村人達に信仰されてきた。享保年間には前橋城主の酒井雅楽頭の奉幣を受け、以後毎年幣帛を納め祭事を行い、明治を迎える。明治四十二年(1909)には村内各所に鎮座する菅原神社・稲荷神社・富士神社ほか境内末社十八社を統合し、学問の神として有名な菅原道真命・厄除開運の神である素盞鳴命ほか十六柱の神々が合祀され、改めて郷土の総鎮守社として崇敬されるところとなった。
 現在の社殿は、昭和四年(1929)に国定字古屋敷より現在地(旧菅原神社鎮座地)に移転改築されたものだが、老朽化甚だしく建物全体の傾斜や腐食破損個所が顕著になったため、総代一同と協議の上「移築遷座七十五周年記念事業」として改修工事を執行することとなり、平成十五年(2003)より奉賛活動が開始された結果、伊勢崎市合併の年、平成十七年十月に無事竣工を迎えた。これもひとえに、先人達が心のより所として守り伝えてきた国定の鎮守様を後世に残そうと願う、氏子。崇敬者のまことが結集した賜物である。このうえは、郷土の発展と奉賛者各位の安寧のため、大神等のご神威が益々昂揚されることを願い、記念碑に刻する。
 平成十八年四月十日』

『旧東村指定重要無形文化財 赤城神社獅子舞
 国定の赤城神社は、社伝によれば南北朝時代の創建とされ、かつてはここより数百メートル程南西のところにありましたが、昭和四年に現在地に移転しました。
 この神社に伝わる獅子舞は遠く戦国時代より行われていたものであり、下野国(現在の栃木県)方面より伝来したものです。
 舞の様式は日挟流神懸かり一人立ち三人連れ(牝獅子一、雄獅子二)というもので、関東地方で一般に舞われているものとほぼ同じですが、雄獅子のうち片方は鳳凰元と言って角が一本の大変めずらしいものです。
 笛は六穴の真笛他数名で演奏され、唄い方も二名以上で唄われます。歌は「立唄」「鳥居誉」等三十種類以上あり、中には国定領の由来を入れたものもあります。
 舞い手は腰太鼓を打ち、「五穀豊穣」「厄病災難除け」「雨乞い」等を祈願しながら次の九種類の舞を舞います。
 一.札ざさら       二.守友(もりとも)
 三.宮子(みやこ)    四.日挟(ひばさみ)
 五.庭舞         六.注連(しめ)がかり
 七.笹がかり       八.鳥居(とりえ)
 九.牝獅子かくし
 平成四年九月』
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 拝殿左側に境内社。
 大棟には丸に隅立四つ目紋があるが、はて、何神社なのだろう。
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 拝殿右側にも境内社。
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 本殿裏に末社群。
 確認できたのは青麻三光宮、稲荷宮、寓藝神社、賀茂神社、山神宮、榛名神社、赤城神社。それから天照皇大神・宇迦之御魂神・大名牟遅神・少毘古那神・埴山毘賣神・猿田古那大神・天宇受賣神と刻まれた石塔。
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 そして何故か青トトロと白トトロがいる。
 ちなみに自分は「となりのトトロ」を見たことは無かったりする。

鹿嶋宮(田部井町一丁目)

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 田部井上転作促進集落センターの東に隣接する鹿嶋宮(伊勢崎市田部井町1-1126)。地図を見ると鹿嶋神社と記載されているが、神社庁の方では鹿嶋宮となっているので、そちらに合わせておこう。
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 猿田彦大神と石祠。石祠の側面には寛政四壬子年三月吉日とあるので1792年のもの。
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 狛犬。
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 拝殿。
 石燈籠には天明六丙午年霜月吉日とあるので1786年のもの。
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 拝殿の瓦や天水桶には羽団扇紋。鹿嶋宮なら三巴紋だと思うのだが、何故だろう?
 ググってみると、こちらの神社は文治二年(1186)に上野国の守護となった安藤籐九郎盛長が常陸国の鹿島神宮から勧請して創建し、その後、田部井氏が後を継いで守護したが、江戸時代には岩松氏が守護したとのこと。岩松氏の家紋は大中黒だし、田部井氏は木瓜紋であると言う。安藤氏は藤紋か。愛宕神社や阿夫利神社などなら羽団扇紋は納得なのだがなぁ。
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 出羽三山と石塔、石祠など。
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 三体が一緒になった石仏。
 不動明王ではなさそうだから、三尊と言うと薬師三尊や釈迦三尊かなぁ。でも中央の仏様は智拳印を結んでいるようにも見えるので大日如来なのかも。
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 社殿裏に末社群。

白狐稲荷神社(田部井町二丁目)

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 浄土宗白狐山浄行院西福寺(伊勢崎市田部井町2-1167)の脇に鎮座する白狐稲荷神社。
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『正一位白狐稲荷大明神社殿新築記念
 社伝に依れば明治五年(1872)日本国太政官府より正一位を贈位されたこの白狐稲荷神社は平安末期、岩松四郎経氏この田部井郷を領有するに至ってからの発祥と考えられているが詳らかではない。岩松四郎経氏の子泰經、孫泰寛共に崇敬厚く重邦、泰兼と継がれ元屋敷地内観音山で殷賑を極めた。又同所に西福寺、観音堂、白狐稲荷神社と並び祭られしため部民の敬神崇祖の念一層たかめられ鎌倉・吉野時代と送り、其の後、室町・戦国時代は新田・由良氏の庇護の下に辛うじて存し近世に至り徳川幕府の旗本、平松氏が此の地に入部するにあたり崇敬殊に厚く社殿を修築し幣帛を奉り繁栄を復した。尚戦国期に浄行院西福寺開山にあたり故あって白狐山を冠した。其の后寛文九年(1669)霜月、西福寺、観音堂と共に現在地に移転され三百年余を経て現在に至れり。昭和の初期観音堂老朽のため之を廃し西福寺へ合祀せられ、白狐稲荷神社は明治四十三年(1910)四月二十八日許可を得て鹿島宮へ合祀せらる。當社は永代天下泰平、五穀成願、御地頭所、御武運長久、村内安全の祈願。幣帛は初午。郷例にて円明院、祭事を勤め行えり。古老の伝承に依れば社殿に面する参道は巾八米あり。西福寺、円明院前を通り鹿島宮通りまで約百五十米の距離にあり。祭日は参道の両側に屋台が透間なく並び近郷近在の善男善女の参拝者で賑盛を極めたと云う。爾来、文化・文政・万延に至る間、御地頭所よりの幣帛もありしが徳川幕府の崩壊、明治新政府の樹立、平岩氏の所領返還と打続く変遷に依り地方財政の緊迫を加え辛うじて年々祭事を行いつつも社殿は老廃衰勢を辿り今日に至れり。然るに今世紀に至り愛惜の情もだし難く祭神の恩沢を祈念し境内を整備、社殿を新築することを約し完成せり。依って茲に記念として建碑する。
 昭和五十一年十一月吉日』
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 拝殿。

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 西福寺山門。
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 本堂。

愛宕大権現(田部井町三丁目)

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 あずま総合運動公園の北東、向原会議所(伊勢崎市田部井町3-1974)の横に鎮座する愛宕大権現。
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 由緒書きはあるにはあるのだが、半分以上が消えていて判読できない。残った部分から読み取ってみても、どうもこちらの神社の由緒と言うよりは愛宕権現の説明が書かれているように思える。
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 末社。
 左から浅間宮、雷電宮、天王宮。
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 如意輪観音と山神。

忠治神社(東町)

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 県道299号線沿いに位置する赤国忠心流柔術空手道一撃塾の隣(と言うか敷地内?)に鎮座する忠治神社
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 詳細は不明だが、まだ新しい神社のようだ。
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蓮神社(豊城町)

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 県道68号線豊城町交差点から北上して行くと、権現山々頂付近に蓮神社(伊勢崎市豊城町1988)が鎮座している。
 斜めから撮っているのは、駐車厳禁と書かれた看板の前に一台の車が停められていたから。権現山北側に回れば北の鳥居から社務所前まで上がれるのでそちらに駐車するか、ここから東に50mと離れていない所に豊城区民会館があるのだから、そちらに置けばいいのになぁ。
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 参道右側に並ぶ三基の石祠。右端は山王大権現の文字有り。
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 二の鳥居と三の鳥居。
 三の鳥居の額には熊野宮とあり、柱には文化一年崴仲秋十五日とある。文化元年なら1804年かな。
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 四の鳥居。
 こちらは額に天神宮、柱に寶暦六丙子年とあるので1756年の造立。
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 五の鳥居。額には雷電宮。
 左に見える祠の中にはビニール袋に入った三峯神社講社代参帳が置かれていたので、三峯神社だろうと思われる。
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 拝殿正面。
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 斜め。
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 狛犬。
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 社務所脇の石燈籠。胴部に金毘羅の文字が見える。
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『蓮神社社殿改築記念碑
 蓮神社が鎮座する権現山は古くから崇神天皇の皇子豊城入彦命の墓という言い伝えがあり、これが豊城町の名の基になっている。
 蓮神社の歴史は、鎌倉時代末一三二一年元亨元年辛酉、若一王子大権現を熊野権現の臣下、天台宗の修験者と考えられる尾組の中将兼房によって勧請されたことに始まる。
 また山頂にある市重要文化財の多宝塔は南北朝期のものと推定され、熊野信仰の普及を目的に修験者が供養塔として建立したものか、熊野権現を勧請した時期とほぼ同時代であることから、当時熊野信仰の霊場として、地域の信仰を集めていたものと思われる。権現山という名称もこれに由来している。
 その後の盛衰は詳らかではないが、江戸時代一六八八年貞享五年、領主渡辺孫三郎富義により本殿が建立された。同時に若一王子大権現の本地仏である大日如来像が御神体として奉納され、若一王子社として再興された。その後永く近郷近在の信仰を集めて繁栄した。
 明治時代に入り神仏分離が行われ、明治七年熊野神社と改称され、同時に櫛御気野命、豊城入彦命が祭神として奉祀された。その後明治四二年旧八寸村の各社七社を合祀して蓮神社となり、現在に至っている。
 社殿は江戸時代以来茅葺きであったものを、大正一二年瓦葺きとし、元の社殿を神楽殿として使用してきた。以来七十有余年、いたる所破損が著しく、諸氏相諮り改築奉賛会を結成し、関係各位の熱意と氏子及び縁りある各位の浄財と工事関係者の優れた匠技により社殿が荘厳に竣工した。ここに篤志者各位の芳名を刻み、後世にその徳を永く伝えんとこの石碑を建立する。
 平成十年四月十五日』
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 社殿の右側に回ると境内社。
 左は諏訪神社、右は天満宮。
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 その傍に石祠と石碑。
 石祠は何神社なのか不明だが、側面に嘉永二己酉年十一月廿七日と刻まれているので1849年のもの。
『熊野神社産誌
 當権現山は世俗の傳説によれば往昔豊城入彦命の墳墓なりと稱し、若一王子大権現を祭り奉る。稍々信すべきものありと雖證據充分ならず、明治七年熊野神社と改祀さられ八寸村鏓鎮守たり。
 當山は舊地頭渡邊氏と關する所夛し段別参町八段歩あり。明治六年内壹町壱段八畝拾貮歩は割て上地官林となる。明治三十二年國有林野賣拂規則発布に依り氏子一同協議の上、全山拂下?願の處内壹町壹段八畝拾貮歩は境内上地の縁故を以て當社に拂下許可を得たるも外貮町五段壹畝拾九歩は競賣の止を得なるに會し、其結果其氏の所有に歸せしを明治三十六年一月中其内壹町参段九畝拾壹歩を買い受け合計貮町五段七畝貮拾参歩を當社の所有となすことを得たり。因て松苗千本椹百本を氏子一同にて、外松苗五百本は川田勇作の寄附にて植付を行い、爾後鋭意繁殖に勉め此収益を以て永く當社の祭祀及營繕の料に供せんとす。之れ一は其昔命が東國を經營し給えるの功恩に報し、一は將來氏子が敬神の誠意を墜さざるの資となすを得んが聊顛末を記して後に傳うと云爾
 時明治三十七年十月日
 殖蓮村村長川田勇作篆額並撰文 蓮耕古郡泰榮謹書』

 ?とした部分は「山」の下に「々」が付いた形だが、何と読むのだろう。
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 末社群。
 金毘羅宮(文化四丁卯年(1807)四月吉日)と浅間神社(天保十五年(1844)辰十二月吉日)は確認できたが、他は不明。
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 社殿左側にも末社群。
 確認できたのは正一位稲荷大明神と二十三夜塔のみ。
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 岩の上にも末社。
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『伊勢崎市指定重要文化財 権現山遺跡
 昭和四十一年四月十二日 指定
 八寸権現山は赤城山斜面に形成された独立丘(流れ山)で、直径約二○○メートル、周辺部との比高は約二○メートルあります。
 昭和二十五年、丘陵部の南面が市営住宅建設のために切り崩され、この時に相沢忠洋氏によって崖面の三地点から約四万年前の石器(敲打器)が採集され、権現山石器文化と称される文化層が確認されました。また、丘陵の中腹から麓にかけて直径二○メートル前後の円墳が三○基程築かれて権現山古墳群を形成しています。この中の四基は昭和四十五年に発掘調査が実施され、主体部である横穴式石室が確認されました。古墳は出土遺物などから六世紀頃の築造と考えられています。
 平成二年三月十五日』
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 蓮神社々殿の裏手、権現山々頂に宝塔。
『伊勢崎市指定重要文化財 八寸権現山の宝塔
 昭和四十八年三月五日 指定
 宝塔は元来木造の建造物ですが、特に中世には石造供養塔として多く制作され、地方色も見られますが、ほぼ全国的な分布を示しています。形態は相輪を乗せた四辺形の屋蓋の下に首部(くびれ)をもつ円形の塔身を据えたもので、屋蓋の軒の具合や胴部のふくらみなどによる時代差が見られます。
 この宝塔は古くから権現山の頂上に所在するもので、粕川流域に多く分布する赤城塔と呼ばれ、総高は二二二センチメートル、形態は相輪・屋蓋・塔身・基礎から成っています。無銘ですが、軒の反り具合や胴部の輪郭などに古さが認められ、全体の特徴から南北朝時代(一四世紀後半)の造立と考えられます。
 平成二年六月二十二日』
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 山頂側から見る社殿。
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 権現山の南面。標石には蓮神社躑躅園入口とある。
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 南の鳥居。
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 北の鳥居。
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 北の鳥居のそばに埴輪出土の石碑。
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『埴輪翳類出土之碑
 権現山の山林中には、今からおおよそ千四百年前ころの古墳時代に築造された、大小百二十基に及ぶ古墳が散在し群集墳を形成していた。その多くは平にされて現在は住宅地帯となっているが、権現山の北山麓の一帯百五十余坪の山林中に、なお数基に及ぶ古墳が認められ、土地の古老の記憶の中だけに原型を保っている。この土地の開墾は昭和初年から始められ、同四年三月ころまでに完了をみるに至った。この間最も多く埴輪類の出土したのは、昭和三年の極寒の時期で公式の記録では、昭和十年の全県下一斉調査によって、同十三年に刊行された上毛古墳綜覧によると次のとおりであった。
  大字八寸字権現山北二三五一番地出土品 金環 馬埴輪
その後昭和十一年から同十二年三月にかけて、最終の整地作業を実施した際に、墳丘の中腹より伊勢崎市唯一の埴輪翳の出土をみたのである。翳は高貴な方の背後からさしかける屏障具の一種であり、形は団扇に長柄をつけたもので、奈良の高松塚古墳の壁画にも見られる。昭和五十八年に発刊された東京国立博物館図版目録古墳遺物篇所載によると、同博物館に保管されている埴輪類は左記のとおりである。
  大字八寸字権現下二三五番地 埴輪翳壱 埴輪靫貮 埴輪盾参 朝顔形円筒埴輪壱
この発掘作業の途次に人骨片をはじめ、勾玉、管玉、金環、直刀の土塊など、副葬品も数多く出土している。なお同山頂には今も十四世紀ころの造立と推定される壷型の宝塔があって、往時は附近住民が宗教心を培うよりどころとした遺蹟でもあった。さて本地域は算学塾を開いて居た建碑者の曽祖父である齋藤三次郎が、明治末年ころ既に開墾に着手し、父清助は当該土地の保全にあたり、建碑者はこれを継承した。ここに発掘以来六十有余年を経たいま、翳類出土品目、遺蹟の位置ならびに発見の由来を後世に伝えんためと、併せて被葬者の供養を念じこの碑を建立するものである。
 平成元年十一月三日』
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 権現山東面にL型古墳。
 石室の構造がL字状になっているのだそうだ。
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 東の鳥居のそばに大日供養塔(天明六丙午年(1786)十一月吉日)と道標。

神明宮(上諏訪町)

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 県道68号線上諏訪町交差点から少し南下した所に鎮座する神明宮
 すぐ西側に上諏訪町会館があるので、道端に駐車せずにすむのはありがたい。
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 側面には文化八未念九月吉日と刻まれているので、1811年に造立されたものであるようだ。

宮前稲荷神社(宮前町)

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 宮前町の赤城神社の南東、宮前会館の駐車場脇に鎮座する宮前稲荷神社
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 やたらと頬骨の張ったお狐さま。
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英霊殿(華蔵寺町)

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 華蔵寺の西側、華蔵寺公園内に英霊殿…が、ある筈。
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 二の鳥居と狛犬。
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 しかし、その先には関川勝三郎氏の胸像があるのみで英霊殿と思われるものは見当たらない。
 まだその先にも上に続く道があるので上って行くと、
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 展望台になっており、やはり英霊殿は見当たらない。そして何故か二つに割られたクワガタムシの付いた滑り台がある。
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 西を目を向ければ、華蔵寺公園遊園地の観覧車が見える。

熊野宮(華蔵寺町)

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 県道103号線を挟んで華蔵寺の東側に御嶽山古墳(別名を稲荷山古墳)があり、その墳頂に熊野宮が鎮座している。
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 墳頂。
 真正面には御嶽蔵王大権現が鎮座ましまし、熊野宮はその二つ右側の石祠。他にも厳戸大権現や阿留摩耶天狗、武尊大権現、日野大権現、意波羅山大権現、摩利支天、大江大権現、大田神、大神宮などがあった。稲荷山古墳の名を持つのなら稲荷神社もありそうなのだが、そちらは見当たらなかった。
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 熊野宮。
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 古墳斜面に清瀧神社、八大龍王、水神宮。
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天王宮(寿町)

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 伊勢崎寿町郵便局(伊勢崎市寿町150-2)の東側に鎮座する天王宮
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 天王宮。
 右下の石祠は雷電社。
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 フェンス際には如意輪観音や馬頭観音が並んでおり、道路際には大黒天。
 フェンスの向こう側は伊勢崎市第四保育所。

赤石稲荷大明神(曲輪町)

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 同聚院から少し西へ歩いて行くと、道端に赤石稲荷大明神が鎮座している。
 先週参拝した三光町の赤石稲荷神社とも程近く、なんらかの関係があるのかとも思うが、詳細は不明。稲垣氏や酒井氏の陣屋がこの辺りにあったそうだから、その守護神だった可能性もある……かな?
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同聚院(曲輪町)

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 伊勢崎駅の南西に位置する曹洞宗同聚院(伊勢崎市曲輪町14-5)。
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『伊勢崎市指定重要文化財 同聚院の武家門
 昭和四十一年四月十二日 指定
 武家門は同聚院の総門ですが、一般の寺院に見られる山門とはその構造が異なっています。この特徴は瓦葺きの切妻造りで、本柱四本に控柱四本を設けたいわば四脚門ですが、本柱の位置が屋根の棟の線よりも前にずれていて薬医門の形式をとっています。また、本柱が四本であることから正面は三間一戸となっていますが、向かって右側は板張りとなっていて、左側だけに潜戸を設けています。
「伊勢崎風土記」によれば「今の寺院は古昔の廓内にして寺門は即ち城門なり」(原漢文)とあり、元は稲垣長茂の屋敷門であったと推定され、寛文元年(1661)に本堂が建て替えられる以前の遺構と考えられます。
 昭和六十三年十二月十日』
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 同聚院は平治元年(1159)に領主である三浦之介義明が赤石左衛門の菩提を弔う為に開創したとのこと。江戸時代には伊勢崎藩主稲垣氏に庇護され、伊勢崎市指定重要文化財の武家門は稲垣氏が移封された後に取り壊された陣屋から移築されたものであるのだそうだ。
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『伊勢崎市指定重要文化財 文明の石幢
 昭和四十八年三月五日 指定
 石幢は宝珠・請花・屋蓋・龕・中台・竿・基礎からなる石造物ですが、この石幢は頂部の宝珠と請花を欠いています。総高は一五四センチメートルを測る安山岩製で、平面形が円形を示す竿部以外はすべて六角形となっています。なお、彫刻として龕部の六面にはそれぞれに幡・数珠・如意・香炉・錫杖を携え、一体は合掌する地蔵菩薩像が半肉彫りで表現されています。さらに、各面には聖江・妙薫・妬子・千代・妙秀・又?の願主と考えられる六人の女性名が刻され、竿部には文明十二年庚子十月十六日と紀年銘が刻されていることから、この石幢は文明十二年(1480)の造立であることがわかります。
 平成二年六月二十二日』
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 標石には成田山とあるので、不動堂なのかな。
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 お堂の横に不動明王。左右は制多迦童子と矜羯羅童子だろう。

伊勢崎神社(本町)

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 伊勢崎郵便局の南東に鎮座する伊勢崎神社(伊勢崎市本町21-1)。
 実は先週もこちらには来ていたのだが、丁度何かの撮影をしている一団(おそらく初宮参り)がいたので参拝せずに退却したのだが、伊勢崎神社のサイトを見ると撮影スタジオも備えているようなので、それだったのかも。
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『伊勢崎神社御由緒
 順徳天皇の御代 健保元年(1213)三浦介義澄の創立したものと伝えられます。代々の赤石城主の崇敬厚く、明治に至って氏子持ちとなりました。大正十五年、旧称の飯福神社が、稲荷神社を始め町内数社を合祀して、正式に伊勢崎神社と改称されました。社殿は本殿・幣殿・拝殿からなり、本殿は嘉永元年(1848)の創建であり、彫刻の緻密にして壮麗な事は氏子の誇りであります。

御祭神 保食命(宇氣母智命)
配祀神 大日霊神  素盞鳴命  誉田別命 大物主命
    菅原道真命 建御名方命 火産霊命 大雷命
    經津主命  市杵島姫命 表筒男命 武甕槌命
    倉稲魂命  大山祇命  埴安姫命 大己貴命
    速秋津姫命 天羽槌男命 火雷命  少彦名命
    罔象女命  菊理姫命  別雷命  武内宿禰命
    八衢比古命 櫛御氣野命 速佐須良姫命』

 伊勢崎神社のサイトを見ると、元徳元年(1329)に新田義貞によって現在地に遷され、社殿を修理して八坂神・稲荷神・菅原神の三神を合祀。現在の社殿は嘉永元年(1848)に造られたものであるとのこと。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 拝殿正面に掛けられた木製のプロペラ。戦時中に中島飛行機(現富士重工業)の社員が奉納したものであるのだそうだ。
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 拝殿前の狛犬。
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 神楽殿。
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 稲荷社の隣に芭蕉句碑と銅製の御神燈。その下に末社群。
 芭蕉句碑には「よく見れば薺花咲く垣根哉」の句が彫られている。
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 お狐さま。
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 南の鳥居。
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 拝殿南側の木の根元にも末社。
 伊勢崎神社のサイトを見ると、境内社は稲荷社(祭神・倉稲魂命)と福徳社(祭神・大己貴命)があると言うことなのだが、まさかこれが福徳社と言うことはないよなぁ…?
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 本殿裏に西の鳥居。

若宮稲荷神社(境伊与久)

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 粕川を挟んで東武伊勢崎線剛志駅の北約400m程の位置に鎮座する若宮稲荷神社
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 覆屋に囲われた本殿。
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 裏手には倒れた大黒天。
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三ツ木神社(境三ツ木)

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 真言宗豊山派自在山真福寺(伊勢崎市境三ツ木313-1)の境内に鎮座する三ツ木神社。稲荷大明神の幟があるので稲荷神を祀っているのだろう。
 由緒等は不明だが、真福寺周辺は嘗ての三ツ木城跡地であるそうなので、城の守護神だったのだろうか? 塚の上に造立された石燈籠の側面には宝暦十一辛巳年九月吉日の文字が刻まれていたので、1761年には既にこちらにあったのだろう。三ツ木城の築城されたと思われる年代は1560年頃(永禄年間)であるそうなので、或いはこちらの稲荷神社もそれくらいの時期なのかも。ただ、この塚は土塁の一部が残ったものであるそうなので、最初からここに鎮座していたのではなく、後にこちらに移されたものであると見るべきか。
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 本殿と覆屋。
 右の石祠は何神社なのか不明。
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 庚申塔と末社。
 どちらも何神社なのかわからないが、右の石祠の側面には天明五年乙巳十一月十八日の文字が刻まれているので1785年のもの。
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 辨財天。
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 真福寺。
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『伊勢崎佐波観音霊場めぐり 第二十九番 永寿山真福寺新義、聖観音
 天正年中三ッ木城主根岸肥後守繁道其姉永寿尼の冥福を祈る為、建立する所なり、永寿尼は生涯寡婦にして能く家政を治める。老年に及び三木城の側に庵室を結び念仏三昧に其の日を送りしが遂に此處に終る。
 永寿尼は草庵に歿すると真福尼と称し、この草庵を真福寺とした。
   ひとふたつ みつぎの里に来てみれば
       花のうてなに 紫の雲』

赤城神社(宮前町)

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 粕川に架かる天増寺橋の東に鎮座する赤城神社(伊勢崎市宮前町1582)。
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 狛犬。
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 参道の中央に駒留石。右側の「佐位大社 殖木鎮座 従四位上 郡玉明神」と彫られた石柱の側面には由緒が刻まれている。
『当殖木宮の創建は古く安閑天皇の御代(五三五年頃)に勅使佐位に至り殖木縣に宮殿を造立し給うと縁起書に記されている。按ずるに当時佐位郡一帯を支配していた檜前部君一族により、氏神赤木社として建立されたものであろう。殖木縣は東山道佐位驛として古代の交通の要衝として、またまつりごとの中心地であった。七世紀末頃建立された上植木廃寺も一族の氏寺であったと思われる。元慶(八八○年)の頃佐位郡の大社として従四位上郡玉明神の神位を贈位せられた。檜前部の人々の末裔と思われる秦・藤原・平・清原氏らによって社は護られて来たが数世紀に亘る世の変遷とともに三浦・上杉・長尾氏らの修復・再建を重ねて来た。特に天正十五年(一五八七年)上杉勢の兵火に罹り社殿悉く灰燼と帰しその時先の宣命状も焼失せり。その後慶長十三年(一六○八年)伊勢崎藩主稲垣公により再建され三夜沢赤城神社より井下氏を廟令として招聘、正徳元年(一七一一年)九月正一位の神極位を授けられその宣旨は現存するところである。昭和十五年八月殖蓮村長以下神社総代一同当社の昇格を申請せしも時恰も日中戦争に続いて太平洋戦争に突入。終戦を迎えそのままになりたりしを茲に郷土の繁栄を願い石に刻み永くその栄誉を後世に伝えんとす。
 昭和五十九甲子年五月吉日』
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 参道左側に由緒を刻んだ石碑。
『殖木宮赤城神社御由緒
御祭神 磐筒男命
    大己貴命(大国主命)
 縁起書に曰く安閑天皇の御宇(531~35)、或る夜、天皇に二柱神見え奉り奏して曰く、吾れ是の毛の上ツ國の磐筒男磐筒女の大神也。天に在りて相生の神也。今、國に魂を分ちて毛の上ツ國に鎮座して男神は赤城山に座し女神は兒持山に座す。是の如く鎮座するは他國よりは吾國、他人よりは吾人にして、動じず絶えず、君を守り鎮め、神徳に明らけく、天下の陰陽の道を守り、万代に易らず、殊に吾が鎮座する毛の上ツ國は五穀に桑多く在り養蝅に美し國なり。天皇必ず吾が二柱神を祭りて開國の地なり。
 天皇則ち勅使を毛の上ツ國に遣し二柱大神を祭る。女神を兒持山に祭り、男神を赤城山に祭る。大道を以て内殿とし、三夜沢を以て前殿と為す。勅使、佐位の殖木の縣の地に至り宮殿を造立して赤城山の磐筒男命のみを祭る。是れ陰陽の大道也。豊御食炊屋姫(推古)天皇の御宇に殖木の社記を永く末代に之を伝う。伝に曰く鎮守府将軍源の賴信公、上野守と為り兒持山及び赤城山に三所の大明神を造殿す。殖木の宮は殖木氏之を造立、近地七郷(佐位郡)の総鎮守たり。長元六癸酉年(1033)春、源賴信の臣渡部源次、殖木の柵御社を修復、流鏑馬を奉納し神慮を慰む。是の時神礎を流鏑馬の石と定む。康平年中(1058~64)鎌倉権五郎景政遠征功なりて修理を加う。其の後、壘主上木平九郎代々祭行す。久寿(1154~55)、平治(1159)の比(頃)赤石城主三浦之介義明社殿を再建、日向原岸城大明神と奉称す。建保年中(1213~18)三浦之介義澄武運祈願の折之を修理す。殖木三所の明神にニ祠る。
 弘長四年(1264)鎌倉将軍宗尊親王の時、渕名の荘園領主藤原是員諸願成就の為、仝年二月境内に観音堂を建立。本地佛千手観世音菩薩、三月、十一面観音を祠り、流鏑馬の神事を催行。元弘、建武の乱に殖木氏戦陣に斃れ後絶える。観応二年(1351)十一月、貞治五年(1366)二月、秦氏、世上の安穏を祈願、多宝塔を建立。其の年十一月上杉民部大夫社殿を再建。近郷十九ヶ村の惣鎮守と定め、毎年九月十八、十九日流鏑馬の神事を行う。大永年中(1521~27)、赤石左衛門尉社殿を修復。元亀年中(1570~73)、由良家の臣、林伊賀守之を修理。然るに天正十五年(1587)上杉勢の兵火に悉く焼失。慶長十三年(1608)伊勢崎藩主稲垣平右ェ門之を再建。三夜沢より、井下氏を招き廟令と為し、本宮祭神五体左相殿、祭神五体右相殿、祭神五体三祠を含合、殖木三所大明神と奉称。元禄年中(1688~1704)、江戸、長尾四郎左ェ門、赤城山木城大明神の神号額を奉納。正徳元年(1711)、正一位の神極位を授けられ、赤城大明神と再号。其の後、上木長尾氏等の修復を重ねて、明治六年(1873)、村社、赤城神社となる。明治三十五年(1902)社殿を改築、明治四十一年(1908)下植木村内無格社を境内社として祭祠す。平成四年(1992)七月修復工事を施行す。

 宮殿の造立にあたって、山の一番美しく見える処が撰ばれた。水の流れて来る方向に神の存在を信じ、真夏の水田の水の熱さに生命の根源を肌で感じ取っていた。水稲耕作が入って来て、すでに九百年近く経っていた。経済力が増大し、政権が誕生して二百年が経過していた。まさに瑞穂の国の所以である。やしろは赤木ノ社と名づけられた。
 安閑天皇は継体天皇の第一皇子で、弟皇子が宣化天皇、第三皇子が欽明天皇である。百済の聖明王が日本の朝廷に仏像や経論を送ってきて佛教の信仰を勧めたのは欽明天皇十三年壬申の年(552)ともいう。これは仏教公伝の年であって、それよりも、ずっと以前から仏教徒は渡来人として渡ってきているはずである。
 安閑天皇を(勾大兄尊)宣化天皇を(桧隈高田尊)と申された。安閑、宣化天皇の部の民、桧前部一族は大陸からの新しい文化を持った人達で、特に養蚕、織物に指導的な立場で佐位郡一帯に住し、先住の人達と融合同化していった。正倉院御物用の袋の布に、佐位郡佐位郷桧前部黒麻呂の墨書銘がある。天平感宝元年(749)聖武天皇から孝謙天皇の御代になった年で、このことは(続日本紀)称徳天皇(孝謙重祚)の項にしるされている。(庸布一段)庸(糸や布で納める税)として貢進したもの。聖徳太子はこれよりさき六○三年に冠位十二階を定め、六○四年に憲法十七条を作成し、六○七年に改めて正式な遣隋使が送られた。その後八三八年(承和五年)まで、遣唐使が十三回も派遣された。目的は国際情報の入手と、文化の導入であった。
 保元、平治(1156、1159)の乱をきっかけに公家政権から鎌倉武家政権へと移行した。従来の価値基準が通用しなくなった。新しい鎌倉仏教は古代仏教の救いの条件を否定し、ひたすら、称名念仏を唱えることにより衆生は、すべて極楽に往生できる、と救いの対象を衆生に及ぼした。
 武家政権も徳川時代を最後に明治の維新の維新を迎え、政治的、社会的混乱を圣(経)て、明治新政府が誕生し、新しい心のよりどころが出現した。日清、日露の役により国威を宣揚、世界の列強に伍した。明治の価値基準の結果であった。
 昭和二十年八月十五日第二次世界大戦の終焉とともに再び価値基準が逆転し、主権在民いわゆる、民主主義国家として、高度文化国家の建設を標榜して今日に及ぶ。
 平成四年十一月吉日』
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 拝殿正面。
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 斜め。
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 側面。
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 殖木宮古碑殿。
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『群馬県指定重要文化財 下植木赤城神社石造美術群 
 昭和三十五年三月二十三日 指定
 古碑殿内にある中央の宝塔二基と、左側の石幢一基が指定物件で、右側の宝塔には観応二年(1531)、左側の宝塔には貞治五年(1366)、いちばん左側の石幢には延徳二年(1490)のそれぞれ刻銘があり、造立は南北朝時代から室町時代初期のものです。形態はさまざまですが、基礎部の刻銘などにより、法華信仰がうかがえ、北方の天増寺にある「天増寺宝塔」(県指定重要文化財)とともに、当時、この地方に法華経に伴う信仰が広がっていたことがわかります。特に、貞治の宝塔の基礎部には「奉造立殖木宮石塔事」として願文とともに、織物と関係の深い秦姓の四人の名を刻んでいることなどが特徴です。
 平成三年八月九日』
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 延徳二年銘石幢と貞治五年銘多宝塔、観応二年銘宝塔。
 他に五輪塔十四基・宝篋印塔一基と書かれた看板もあったが、それらは文化財指定はされていないようだ。
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 古碑殿の裏に富士浅間大神と御嶽神社・八海山神社・三笠山神社。
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 境内際の三方には境内末社がずらりと並んでいる。
西
 豊木入日子命
 磐筒之男神
 素戔鳴尊
 木花之佐久夜毘売命
 神明宮  (祭神 大日孁尊)
 大物主命

 摩利支尊天(安永三甲午九月十二日)
 天之御中主大神
 飯玉神社 (祭神 保食命)
 愛宕神社 (祭神 伊弉冉尊・埴山姫命・天熊人命・稚産霊神・豊宇気毘売神)
 諏訪神社 (祭神 建御名方神)
 秋葉神社 (祭神 火之迦具土神)
 八坂神社 (祭神 素戔鳴尊・櫛稲田媛命とその御子神
          多紀理比売命 ・市杵島比売命・多岐都比売命
          天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命
          活津日子根命・熊野久須毘命)
 八幡宮  (祭神 比咩大神・誉田別命・息長帯比売命)
 榛名神社 (祭神 埴山毘売神・火産霊神)
 少名毘古那神社(祭神 少名毘古那神)
 金刀比羅宮(祭神 大物主命・崇徳天皇)
 大山祇神社(祭神 大山津見神)

 天満宮  (祭神 菅原道真公)
 鹿島神宮 (祭神 建御雷之男神)
 蚕影神社 (祭神 大気津比売之神・桧前部之黒麻呂公)
 上気野之君
 雷電神社 (祭神 大雷之神)
 猿田彦神社(祭神 猿田彦大神)
 稲荷大社 (祭神 宇迦之御魂大神・猿田彦大神・大宮能売大神)
 江ノ島弁財天(祭神 多紀理比売命・市寸島比売命・田寸津比売命)
 厳島神社 (祭神 田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)
 品陀和氣命
 疱瘡神社 (祭神 桃太郎・鎮西八郎為朝)

 以上で4月21日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、FA50mm。COOLPIX P7100。

五郎神社(太田町)

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 伊勢崎地方合同庁舎の北東に鎮座する五郎神社(伊勢崎市太田町623)。
 社号標石の脇には庚申塔。
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 拝殿。
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『五郎神社の祭神 鎌倉権五郎景政公
 広瀬川が昔利根川の本流だった頃、上流から一本の朱塗りの矢が流れてきた。村人が拾って家に持ち帰ったところ、その夜夢枕に、風おれ烏帽子に狩衣の、片目の武士が立って、自分は鎌倉権五郎である。お前の拾った矢は自分の仮の姿である。その矢を大切に祭るようにと言うと片目の武士は姿を消した。

合祀されている神社及び祭神
 八坂神社  素盞鳴尊
 三峯神社  日本武ノ命
 八幡神社  誉田別命
 秋葉神社  火産ノ命
 阿夫利神社 高龗命
 菅原神社  菅原道真公』
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『五郎神社神殿完成記念碑
 旧太田村鎮守五郎神社延宝九年(1681)旧領主酒井侯祭神の勇武を追尊し社殿を創建祭祀を行う。
 明治四十二年(1909)太田本郷八幡宮三ツ家秋葉神社合祀三百有余年の歴史を経て社殿も共に変遷を遂げる。昭和二十年(1945)八月十五日第二次大戦終戦日未明の伊勢崎空襲により社殿及び境内の明治十年(1877)開校の正心学校旧校舎共に焼失す。爾来仮社殿にて祭祀を行う。平成七年(1995)八月が被災五十年を迎えるに当り神殿新築と境内整備の議起り平成六年十月社殿建設委員会を発足新築計画を樹て氏子各位及び関係者の奉賛を得て目出度く神殿新築境内の諸整備が完成し誠に慶賀にたえません。こゝにこの事業に関係した皆様に深甚なる官舎を捧げ地域並びに卯氏子の繁栄と神威の悠久を祈り碑を建立し経緯を誌す。
 平成九年四月吉日』
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 末社。
 社号は記されていなかったが、左の石祠の側面には「文政五壬午年」、その右の石祠の側面には「千時寶暦十一年辛巳正月吉日」と刻まれているので、それぞれ1822年と1761年のものだ。また、丸に二つ立鼓紋もついていたが、これはどこの御神紋なのだろう。
 右奥の石祠には特にこれと言って記されたものは無し。
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古峯神社(三光町)

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 永久橋東岸から南へ歩いて行くと古峯神社が鎮座している。
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 狛犬。
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 拝殿。
 古峯神社と言うことは、御祭神は日本武尊だろう。
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 甲子大黒天。
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『遷宮記念碑
 當古峯神社は栃木縣都賀郡古峯ヶ原鎮座本社より創めて當區五二一番地へ勧請し更に五一三番地へ遷宮せらる。
 建碑に依れば當神社は文化二乙巳十二月吉旦又同境内の甲子大黒天は文化紀元甲子仲冬。
 偶今秋本縣下に於て擧行せらるゝ陸軍特別大演習にあたり縣道路改修工事起り社殿の縣道路内に在るの故を以て移轉の止むなきにいたり緊急役員會議を開き協議の結果同區七七番地の地域を適所と認め満場一致是を可決し昭和九年六月十八日吉辰をとし嚴に遷宮祭式を執行す。
 昭和九年六月十八日
 鎮座地 群馬縣佐波郡伊勢崎町河岸町七十七番地』

 文化二乙巳と記されているが、文化二年は乙丑で1805年、弘化二年なら乙巳だが1845年になる。はてさて、どちらだろう。甲子大黒天の文化元年は甲子で合っているから、文化二年の方だと思うけど。

赤石稲荷神社(三光町)

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 永久橋東岸から広瀬側沿いに北へ歩いて行くと、右手側に赤石稲荷神社が見えて来る。
 徒歩以外の場合は相川考古館前を西へ入って行くのがわかり易いか。
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 石段を上った先に祠が見える。
 こちらは金蔵院古墳(別名を赤石山古墳または伊勢崎町第1号古墳)と呼ばれる径25m、高さ2.7mの円墳であるそうだ。
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 祠。
 永禄四年(1561)に由良成繁が赤石城を攻め落とし、伊勢宮を勧請したことにより伊勢前、転じて伊勢崎と言う地名になったと言われているが、それ以前は赤石と言う地名だったので、こちらの神社はその頃からあったものなのだろうか。
 ここから北へ向かって行くと曲輪町の同聚院近くにも赤石稲荷大明神があるのだが、そちらは帰宅後に地図を見ていて気付いたので、今回は参詣していない。いずれそちらにも行ってみよう。そう言えば、桐生市の比呂佐和神社にも赤石稲荷神社があったっけ。
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 祠の脇に石祠。
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 永久橋から。

伊勢崎河岸の石燈籠(三光町)

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 永久橋の東側にぽつんと鎮座する石燈籠
 西側の面に大杉大明神、東側の面に住吉大明神の名が刻まれている。
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『伊勢崎市指定重要文化財 伊勢崎河岸の石灯籠
 昭和四十二年二月十五日 指定
 江戸時代には現在の広瀬川の永久橋東岸橋詰のあたりが舟着場になっており、喜兵衛河岸、孫右衛門河岸と呼ばれていました。
 この石灯籠は文政二年(1819)に、世話人大嶋儀右衛門・村田利兵衛、願主武孫右衛門・瀬川太兵衛により河岸に建てられたものです。灯籠の竿の部分に「大杉大明神・住吉大明神」と刻み込まれているように、航路の安全を願って献じたご神灯で、同時に夜間や悪天候の際の航路標識として、現在の灯台の役目を果たしていました。
 基礎部には寄進した荷主や舟主たちの名前が刻まれており、市の産業史・交通史上の貴重な資料です。
 平成七年十一月一日』

秋葉神社(若葉町)

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 永久橋西交差点の北東、若葉町南公民館のそばに鎮座する秋葉神社
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 台座には川久保町とあるが、それは若葉町の旧称。古くは川窪、明治九年(1876)に川久保町、明治二十二年(1889)に伊勢崎町、そして昭和四十二年(1967)に現在の若葉町になったのだそうだ。
 創建時期は不明だが、台座に川久保町の名が彫られていることを見ると、明治九年~二十二年の間なのかな。だが、それ以前からあって、その期間に祠を作り直したと言う可能性もあるか。
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『記念碑
當町秋葉神社は元貮百四拾八番地に在。大正十四年八月十日遠江國秋葉山本社に吾等参拝の結果発起?なり。幸い諸君の賛同を得て同年十一月十三日茲に遷宮式を擧行す』

駒井稲荷神社(連取町)

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 JA佐波伊勢崎福祉総合センター前の交差点脇に鎮座する駒井稲荷神社
 駒井稲荷と言う名前から見て、この辺り一帯の領主であった駒井氏となにか所縁があったりするのだろうか。と言っても、連取町は駒井氏の代官である森村氏が統治していたわけだし、また代官屋敷もここから北西、連取町交差点の辺りにあるので屋敷の守護神とかでもなさそうだ。
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 祠の彫刻なのだが、なんだろうこれ。
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「駒井稲荷の社殿と棟梁たち
 明和八年(1771)下里見村 山?兵蔵」
 と書かれているが、これは社殿が明和八年に下里見村(現在は高崎市の一部)の大工によって建てられたと言う事だろうか。
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 庚申塔と末社。

飯玉神社(連取町)

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 JA佐波伊勢崎福祉総合センター前の交差点から北東に向かって行くと、連取元町会議所の隣に飯玉神社(伊勢崎市連取町1826)が鎮座している。と言うか社務所が会議所も兼ねている。
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 狛犬。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当たらないのでググってみると、こちらの神社は大字連取村下組にあって、元応元年(1319)に村の信徒九苗の者達によって勧請されたと旧宮郷村々史に記されているのだそうだ。とすると、那波氏の建立した飯玉神社九十九社よりも古いことになるのか。
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 末社や庚申塔。
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