神明宮(玉村町下茂木)

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 法蓮寺の裏手に鎮座する神明宮
 二月に参拝した神明宮の元地がこちらであり、以前のエントリーではこちらの所在地がわからないと書いたのだが、驚くくらいにすぐ近くだった○刀乙
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 鳥居にも祠にも何も書かれていないので、先に神明宮と知っていなかったら、何神社かわからなくて悩んだかも。
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法蓮寺(玉村町下茂木)

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 御幣山古墳の南東に位置する天台宗妙日山光照院法蓮寺
 当初はこちらに立ち寄る予定は無かったのだが、偶々横を通りかかったら、寺の裏手に神明宮を発見したので駐車ついでに参詣。
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 布袋尊。
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 山門。
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 本堂。
 嘗てはこちらに金窪城主斎藤摂津守定盛の孫の屋敷があったのだそうだ。また、文和三年(1354)製の宝篋印塔もあったそうだが、それは現在は歴史資料館に展示されており、茂木郷の法華(日蓮)宗の信者三十五名の名が刻まれているのだそうだ。法華宗の法と日蓮の蓮で法蓮寺なのかな? 天台宗に改宗したと思われる時期は不明。
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 本堂裏の石祠。

御幣山古墳(玉村町角渕)

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 御幣山古墳(別名を軍配山古墳)を南から。
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『御幣山<軍配山>古墳
 所在地 玉村町大字角渕
 当古墳は、昭和五年(1930)二月に発掘された。出土品は墳丘上の碑文に記されているが、中国渡来の白銅製内行花文鏡二面をはじめ、勾玉管玉鉄鏃その他鉄器類がある。それらは東京上野の国立博物館に保存されている。中国渡来の内行花文鏡の出土は、当古墳の被葬者が、かなりの豪族であったことを推定させる。
 附近の烏川段丘上には相当数の古墳が存在していたが、それからの出土品には、本墳のようなすぐれたものがないことからすると、本墳の被葬者が、この附近近一帯の有力な支配者的存在であったと推定できる。
 古墳の形式は円墳、主体部の形式は不明。
 後藤守一氏は築造年代を碑文に示されているが、いずれにしても古墳時代初期に属するものであろう。
 一名軍配山と呼ぶが、それは天正十年(1582)神流川合戦の折、滝川一益が本古墳を本陣として軍配をふるって全軍を指揮したために名付けられたものと伝えられている。
 昭和五十一年四月』
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 ASITAカルタ。
 伊勢崎市と佐波郡の名所・旧跡等を選出してカルタにしたものだそうで、赤堀・境・伊勢崎・玉村・東の頭文字を並べてASITAカルタなのだとか。
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 墳丘南面には石祠が並んでおり、左から二つ目は疱瘡神、右端は蚕影山大神。
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 古墳碑。遠くには榛名山が見える。

『軍配山古墳碑
 當古墳は里俗御幣山又は軍配山と稱す。清和天皇関東に行幸あり勅使河原某の嚮導に依り當國那波郡茂木郷の長者の許に成らせ給い暫く行宮を營ませられて御滞留あり。御幣を此の山に奉りて神祇を祀らせ給いしより御幣山の名ありと謂う。又軍配山の名は瀧川一益擧兵に際し軍配を此の山に擧げしに因むという。名の起る所近古に在りと雖も山は上古期に属する大円墳にして、景行天皇の御時東山道十五國の都督を拜して中途穴咋邑に薨去ありし彦狭島王の陵墓なりと傳う。昭和五年二月發掘に遇い船載鏡硬玉勾玉等の副葬品出土し之に因りて當古墳が皇紀八百年代前後の築造に係るを想わしむ。上毛の地往々彦狭島王陵墓と傳うるものあり本古墳も即之に属すべきか。
 出土遺物が宮内省の買上を受くるや村民相謀り下?金を以て碑を建て事を永久に傳えんとし余が職を帝室博物館に奉するの故を以て文ら求めらる。不敏當らずと雖も村民の熟成に動かされて稚筆本墳の由来を記すと云。
 昭和十年二月
  訂正十年一帝室博物館監査官従六位勲六等 後藤守一』
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 墳頂に二基の石祠。
 右手前側の石祠には梅鉢紋があったので、天神宮かも知れない。奥の石祠は何神社なのか不明。側面には明治十六年八月一日と刻まれている。
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 古墳北側から。

浅間神社(玉村町箱石)

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 貫前神社の北にある養命寺前の道を東へ向かって歩いて行くと、大字箱石と大字小泉の境辺りに浅間神社が鎮座している。
 こちらの神社は明治三十九年(1906)に貫前神社に遷座されたものの、今尚こちらで祭祀されているとのこと。
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 祠の右側に石祠があり、その側面には富士浅間神社と刻まれていた。
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貫前神社(玉村町箱石)

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 小泉の飯玉神社から北西に向かい、貫前神社(佐波郡玉村町箱石373)へ。
 由緒書きが無いのでまたもや玉村八幡宮のサイトを参照すると、こちらの創建年代は不詳だが、富岡市の一之宮貫前神社から分霊を奉遷し祭祀したものであると言う。また、「上野国神名帳」に書かれた那波郡従五位布留明神がこちらの神社であるとされるそうだが、布留明神とは石上神宮のことだそうで、石上神宮も貫前神社もどちらも祭神は経津主命だから妥当なのだろう。
 明治六年(1873)に村社に列せられ、明治三十九年(1906)に字八反田鎮座の浅間神社、字稲荷裏鎮座の稲荷神社、字諏訪根鎮座の諏訪神社をこちらに移転し、境内社としたそうだ。
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 狛犬。
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 諏訪神社。
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 稲荷神社と末社三社。
 八坂神社と菅原神社が境内末社としてあるそうだが…一つ多いな。
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 浅間神社と末社。
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飯玉神社(玉村町小泉)

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 小泉公民館に隣接して鎮座する飯玉神社
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 こちらも那波氏の建立した飯玉神社九十九社の内の一社。
 玉村八幡宮サイトの記述によると、明治二十四年(1891)に小泉村字諏訪鎮座の諏訪神社とその境内末社である神明・琴平の二社を合祀。明治四十四年(1911)に下之宮の火雷神社へ合祀されたが、今尚現在地において祀られているとのこと。
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 末社群。
 どれがなにやらわからなかったが、八坂神社、菅原神社、諏訪神社、稲荷神社、小祝神社、八郎神社、火雷神社、琴平神社、阿夫利神社、八幡神社があるそうだ。

玉村八幡宮(玉村町下新田)

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 国道354号線に面して建てられた玉村八幡宮(玉村町下新田1)の一の鳥居。
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 随神門。
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 門の天井絵。絵には俳句が添えられている。
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 門をくぐって境内へ。
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 狛犬。
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 境内案内図。
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 駐車場の端に猿田彦大神。
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 境内側から随神門を見ると、こちらには放生楼の額が掛けられている。
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 参道左手側に三猿。
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 淡島神社と猿田彦神社。こちらでは人形神社と加恵瑠神社とも称されているようだ。
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 御神木の楠木。夫婦楠木とも呼ばれているようだ。
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 手水舎と由緒略記。
『玉村八幡宮由緒略記
鎮座地 群馬県佐波郡玉村町下新田一番地鎮座
祭神  誉田別命
    気長足比売命
    比命 ほか十五柱を合祀
由緒
  当社は、鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝公によって、玉村町
 角渕の地に創建奉斎された角渕八幡宮を元宮とする。口碑によれば、
 頼朝公が新田館より三原へ赴く途次この地に休息し、烏川の地形が鎌
 倉の由比ヶ浜に似ていたために上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡
 八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・
 白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。江戸時代の
 初めには、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発(天狗岩堰
 開削)に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長十五年(1610)
 無事竣工をみるに及び、神助への報賽と玉村鎮守のため角渕八幡宮本
 殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮で
 ある。慶安二年(1649)には幕府より朱印地三十石を寄進され、また
 歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このよ
 うに武門武将の崇敬を得たばかりではなく、正保三年(1646)の日光
 例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場として栄えるにつれ、道中安
 全や開運招福を願う一般庶民の崇敬も集めることとなり、以来「玉の
 里の八幡さま」として親しまれる。
  また、古来より特殊信仰として、いぬ・い年生れの守り神という戌
 亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところで
 ある。

本殿 三間社流造高欄銅板葺
   永正四年(1507)の造営にして慶長十五年の修造と伝えられ、
  室町様式と江戸初期様式を併せ持つ建造物として、明治四十一年
  に国指定特別保護建造物(現在、国指定重要文化財)に指定され
  た。その構造様式中、蟇股・海老虹梁・大瓶束・肘木・斗栱など、
  時代様式を現すものの中でも蟇股の形や彫刻の意匠は桃山時代を
  遡るものとして注目される。
   昭和十一年の文部省指導の解体修理に際し、従来の桧皮葺屋根
  を銅板葺に改めた。
幣殿 切妻流造
拝殿 入母屋流造

 両殿の内部板壁八面には各面に唐獅子が描かれ、邪気を祓う八神獣と
して神殿内の清浄を守護する。

例祭日 十月十六日
宝物  御神號掛軸(後西天皇御宸筆)
    呉朱印
    太刀(銘菊一文字)ほか』

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『力石
 表題として「玉遊」と刻されたこの力石は、重さ四十八貫(百八十キロ)。これを担ぎ上げた力自慢の名を刻し記念として石を神社に奉納したもので、江戸時代後期の弘化四年(1847)、武蔵国神奈川(現在の横浜)の徳次郎と同岩槻の長次郎の両名が、当地の世話人達の前で見事にこの石を担ぎ上げたと刻まれている。この事は玉村八幡宮の名が遠く神奈川の地まで聞こえていたことを示し、その信仰圏の広さを物語るものである』

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 神橋と中門。
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 横から。
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 拝殿正面から。
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 石燈籠の案内板。
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 拝殿斜めから。
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 社殿概要図。
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 竹内勇水句碑。
『町文化財 竹内勇水句碑
 啼きすてて 思いなげなる雉かな
 句意は、けんけんという雉子の短い鳴き声のさらりとしたようなさっぱりした心境を、この声に託したものであります。
 竹内勇水は、江戸時代中期より後期の俳人。享保十三年(1728)生まれ、下新田の人です。名は徳往(のりあき)、通称源右衛門、屋号を岸屋と云い代々宿役人でした。江戸時代の涼袋と交渉をもち子弟も多く那波俳壇を代表する俳人でした。また、書にも巧みで玉村八幡宮境内の芭蕉十六夜塚や自句の碑にも彼の筆跡が見られます。
 文化九年(1812)没、八十五才、墓は神楽寺東墓地にあります。
 平成八年十二月』

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 厳島神社。
『厳島神社の祭神は市杵島姫命で通称「絵馬かけ弁天」といい御利益は、「財運向上」「恋愛結実」「対人円満」「家内安全」の願いが叶うと言い老若男女の信仰があり”影参り”として目を閉じ心を鎮め、左廻り右廻りで、後ろに廻りながら霊力をいただき、精神上や生活上の御加護が得られるとされる。この弁天様に掛けられた絵馬には多方面よりお参りに来られた方たちの様々な願いがこめられています。また願いが叶えられてお礼参りに来られた人の絵馬も奉納されています』
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 神楽殿。
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 稲荷神社(宇迦之御魂命)、猿田彦大神、古峯神社(日本武尊)。
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 国魂神社。こちらでは戦没者の霊を祀っている。
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 五神社(熊野神社、春日神社、住吉神社、菅原神社、飯玉神社)、道祖神、稲荷神社、石尊大権現。サイトの方を見ると飯玉神社ではなく日枝神社と書かれているが、はて?
 蔵と五神社の間からは道が伸びており、神楽殿と国魂神社の間に繋がっている。
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 三峯神社、八坂神社、八坂神社、御神札納所。

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 玉村八幡宮の南に位置する称念寺の稲荷神社。


 以上で3月3日参拝分終了。
 箱石の貫前神社と小泉の飯玉神社にも行こうと思っていたのだが、時間が足りなかった。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。K10Dに50-150mm II。

稲荷神社(玉村町上新田)

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 国道354号線東国文化歴史街道沿いに鎮座する稲荷神社(玉村町上新田1590)。
 駐車場は無く、隣接する萬福寺の入口にも進入禁止の看板が設置されているので、玉村八幡宮の駐車場に置いて先にこちらを参拝。改めて地図を見直してみると、すぐ近くに上新田公民館があったのね○刀乙
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 お狐さま。
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 鳥居と拝殿。瓦には宝珠紋。
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『稲荷神社改築記念碑
 当神社は、稲荷大神として衆知される「宇迦之御魂命」を主祭神とし、また火防せの神の「火産霊命」八坂さまとも称される「素盞鳴命」天神さんの「菅原道真命」三柱を配祀神として奉祭する。創建の由緒は文化九年(1812)上新田区小柴地内より現在地に奉祭したのを起源とする。古来よりの慣例として二月十一日の例祭に際しては、古風の獅子舞が執行されている。伝えによれば、ある年これを執行しなかったところ氏子中に災害が相次いだために日を選んで祭事を復興し不浄を祓ったところ霊験の著しく、以来敬神の念も益々加わり。今日までも伝えられているという。しかし、社殿は奉祭時の建造のままで。老朽化が甚だしく倒壊の心配があるために、このたび氏子及び区民一同の協賛を得て拝殿の改築、並びに大鳥居の立替え、玉垣の整備を施行する運びとなった。
 時あたかも今年は「平成の御大典」という特別な年にあたり、平成天皇の御即位奉祝をも後世に伝えるものとする。
 平成二年十月吉日』

 んー、玉村八幡宮のサイトの方がより詳しく書かれているなぁ。
 岩鼻の代官が領内を見廻る際に度々馬が暴れる場所があるので、不思議に思い従者に付近を調べさせると小祠があることに気付き、これに参拝したところ馬が静かになったので、以来春秋二回の巡回の度に立ち寄り、篤く崇敬したと伝えられているのだそうだ。改築記念碑にも記されているように、文化九年に小柴から現在地に遷座したということなので、祠がいつからあったのかはわからないようだ。
 明治六年(1873)には村社に列せられ、同十年(1877)に字角町、三丁目、四丁目より八坂神社を移転して境内社とした後、同四十四年(1911)二月二十五日に境内社の八坂神社と菅原神社、そして字新田西の稲荷神社を合祀して今に至るとのこと。
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 改築記念碑の左、境内隅に庚申塔と道祖神、猿田彦大神。記念碑の右隣に末社。
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 疱瘡神、末社、道祖神。
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 社殿裏手にも末社。
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 秋葉神社。
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 末社二社。左側の祠の額には正一位と刻まれていた。

稲荷神社(玉村町上新田)

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 板井の諏訪神社からまっすぐ南下して行くと玉村歯科医院に突き当たるので、そこから少し南西に向かった処に稲荷神社が鎮座している。自分はそこから少し東に位置する新田住民センターに駐車したが、鳥居の前に駐車できたかも。
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 創建時期や由緒等は不明。御祭神は宇迦之御魂命。
 明治四十四年(1911)二月二十五日に例幣使街道沿いの稲荷神社へ合祀されたが、今尚こちらで祀られているとのこと。
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 庚申塔と道祖神。
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 馬頭観音。

富士塚(玉村町板井)

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 MAPPLEを見ると諏訪神社の南側に赤城神社の名が記載されているので歩いて行ってみたのだが…無いぞ? 代わりにあったのは赤城神社ではなく富士塚
 もしかしたら、昭和六十一年に諏訪神社に合祀された赤城神社の跡地がこちらなのかも知れない。
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 塚頂には木花咲耶姫命と石祠。
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 塚の西斜面に月夜見命、南斜面に大山祇命。
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 南側から。

諏訪神社(玉村町板井)

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 板井公民館の北西に向かうとゆるやかなカーブの脇に鎮座している諏訪神社(玉村町板井1021)。
 駐車場は無いので境内に駐車。
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 道祖神と双体道祖神。
 双体道祖神には宝暦六年十二月吉日とあるので1756年のもの。
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 狛犬。
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 拝殿。
 創建年代や由緒等は不明だが、昭和六十一年(1986)に玉村町大字板井字赤城辺鎮座の赤城神社を合祀したそうだ。
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 末社。
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 同じく末社。
 右側の石祠には十菊花紋らしき紋様が刻まれている。
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 境内西端に並ぶ末社群。
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 同じく境内西端に末社。
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 首無し地蔵。
 首の代わりに丸い石が載せられている。

八坂神社跡地(玉村町板井)

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 板井東部公民館(玉村町板井1119)敷地内に八坂神社が鎮座……していない。
 弘化三年(1846)に作られた牛頭天王像を祀る八坂神社(旧称 牛頭天王宮)がある筈と言うかあった筈なのだが、どこへ移転したのだろう。
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 御嶽大神を中心に三笠山大神、八海山大神、覚明霊神、一山霊神。そして八坂神社跡地と書かれた柱。
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 石祠二基は何神社なのか不明。八坂神社の境内末社として菅原神社と疱瘡神社があったようなので、もしかしたらそれかも。
 他には大己貴尊、天駟霊星、堅牢地神などと彫られた石塔が並んでいる。
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 青面金剛。
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 道祖神。

天満宮(玉村町福島)

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 利根川に架かる福島橋の南側、福島橋南交差点の南東に位置する天神古墳の墳頂に鎮座する天満宮。
 駐車場は無いので、やや北西側にある福島公民館(玉村町福島1286)に駐車。
 神社合祀令により明治四十三年(1910)三月三十一日に廃社とされるも、今尚こちらで祀られているという。創建時期や由緒は不明。
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 拝殿。
 正面左柱には昭憲皇太后御歌「日に三度 身をかへりみし いにしへの 人の心の まことならひてしがな」
 右柱には明治天皇御製「目に見えぬ 神にむかいて はじざるは 人の心の まことなりけり」
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 末社や道祖神、庚申塔、二十三夜塔など。
 右端の芭蕉句碑には「梅か香に のつと 日の出る 山路かな」と彫られている。
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 馬頭観音。
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 西側から。

諏訪神社(玉村町樋越)

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 上樋越公民館(玉村町樋越782)南側に鎮座する諏訪神社。
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 拝殿。
 由緒等は不明。
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 狛犬。
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 末社群と道祖神、庚申塔。
 どれがどれやらわからないが、稲荷神社と大麻彦神社、神明宮、月読神社があるそうだ。
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 稲荷神社かと思いきや、秋葉神社。
 側面には安政三丙辰年八月二十七日とあるので1856年のもの。
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 牛頭天王。
 側面に天保五午年五月吉日とあるので1834年のもの。
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稲荷神社(玉村町藤川)

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 県道40号藤岡大胡バイパス藤川交差点やや北側から斜めに入って行くと、藤川公園の南東側に稲荷神社(玉村町藤川115)が鎮座している。
 駐車場は無いが、神社裏手に僅かなスペースあり。
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 拝殿。
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 玉村町子弟重要無形民俗文化財 藤川稲荷神社・悪魔祓いと書かれているが、玉村町役場のサイトを見ると、この藤川稲荷神社と飯塚の飯玉神社のそれぞれの境内に祀られている八坂神社の祭りであるとのこと。祭り当日には獅子頭をかぶった子を中心に子供達が地域の各家を廻り、人々の頭を獅子頭で挟むことで悪魔を祓うと言い伝えられているのだそうだ。
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 末社。
 八坂神社、諏訪神社、秋葉神社、中宮様、稲荷神社の五社がある筈だが、石祠は三基しか見当たらなかった。

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 稲荷神社のすぐ北側に位置する忠霊塔。

飯玉神社(玉村町飯塚)

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 飯塚公民館の東側に鎮座する飯玉神社(玉村町飯塚376)。
 駐車場は無いが、鳥居前に数台くらいは置けるスペースあり。
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 境内に広がる大きな松の木。
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 拝殿。御祭神は保食命。
 応仁二年(1468)に那波顕宗が領民の安泰を願って堀口村の飯玉大明神の分霊を奉遷し、社殿を建てたのが始まりである。この辺りの飯玉神社は創建に関しては大体同じであるようだ。大正十四年(1925)六月二十五日にはここよりやや南、大字飯塚と大字藤川の境付近に鎮座していた大鷲神社を合祀し、現在に至るとのこと。
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 末社群。
 金毘羅宮や天神宮、熊野大権現、猿田彦大神、蚕影山、庚申塔などは確認できたが、他にも秋葉社と八坂社があるそうだ。
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 大黒天尊と双体道祖神。

尺司神社(玉村町樋越)

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 大字樋越と大字藤川の間を流れる藤川に架かる藤川橋の北西に鎮座する尺司神社
 駐車場は無いので、少し西へ向かった所にある中樋越公民館に駐車。
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 拝殿。
 御祭神は八衢彦命・八衢姫命。由緒等は不明。
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 裏手には道祖神や庚申塔、坐像石仏の他に石祠が七基。うち二基は天王宮で一基は諏訪宮。
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 ブロックに囲まれたこちらは古札納所かと思いきや、中には古峯神社が納められていた。

神明宮(玉村町樋越)

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 県道24号高崎伊勢崎線森下交差点の北西側に鎮座する神明宮(玉村町樋越412-4)。
 駐車場は無いので境内に駐車。
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 鳥居前の坂の右下に鎮座する石祠。
 厳島社だろうか。
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 参道と二の鳥居…ではなく四の鳥居。
 神社入口にあった鳥居は三の鳥居であるそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 本殿。
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『神明宮・春鍬祭の由来と行事
神明宮の創立と位置
 長寛年号(1163~1165)頃、玉村御厨の中心として祭られていたもので、樋越古神明砂町にできた神社であり、安元年間(1175~1177)足利忠綱により再興され寛保二年(1742)の台風に依り大洪水が出て約五○○メートル位南に流され、現在の神人村神明原に位置しております。
 現在の所在地名は、玉村町樋越四一二-四になります。

春鍬祭の動機
 樋越古神明砂町の神明宮跡地は、天明三年(1783)の浅間山大噴火による土砂等によってその跡地は原形もわからないほどになってしまいました。
 樋越の耕作者神明宮跡地の神田・十箇所(一反歩)を掘り起こし、整地をして水を引き入れ、水田として稲作をしました。
 その神田から収穫した稲穂を、樋越の耕作者が作頭となって毎年献上したことが、現在の春鍬祭例大祭の始まりと言われています。
 寛政十年(1798)から現在まで毎年実施されており、今年で二百有余年になる伝統文化であります。

神明宮の御由緒記
 樋越の古神明砂町は、当時那波郷里の一角に属した大社であり、神官が十数人居た。
 祭日が現在の二月十一日になったのは、明治六年(1873)に暦が太陽暦に変わった頃に定められたと言われています。

神明宮の氏神(祭神)と祭典について
「大日孁貴命(内宮)
 豊受姫命 (外宮)と致し、配祀神は十四社を祀る。
 伊勢大神宮の御分霊を奉祀せるものにして高倉天皇の御代、安元年間藤原秀郷の末裔、足利又太郎忠綱が之を再興し、鎮座地を樋越神人村八王塚にして年々二月十一、長田狭田の式、併せて、抜穂の式、として古神明砂町に神田一反歩を有していた水田より献上した」と伝えられている。
 又、秋祭も十一月二十三日と決められ、現在も新嘗例祭として続けられている。

神明宮の鳥居の配置について
 第一鳥居は、武州賀美郡勅使川村字天神にあります。
   現在は、丹生神社になっています。
 第二鳥居は、玉村町南玉に礎石があります。
 第三鳥居は、現在の神明宮参道入口にあります。

重要無形文化財指定への経緯
 春鍬祭は、その伝統と祭事の内容が高く評価されて、
 昭和四十六年四月玉村町より、重要無形文化財の指定を受ける。
 平成十二年三月群馬県より、重要無形文化財の指定を受ける。
 平成十四年二月国の文化庁より重要無形文化財の指定を受ける。

 この度、神明宮本殿改修にあたり、神明宮の歴史を記し記念とする。
 平成二十三年一月二十三日』

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 神楽殿。
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 境内東端に並ぶ十四基の石祠。
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 神社裏口と言うか北口の傍に鎮座する石祠。
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 境内西端にも石祠群。
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 少し離れてぽつんと鎮座する石祠。
 案内板には十四社を配祀と記されているが、数えてみると三十基の石祠がある。例によって玉村八幡宮のサイトを見てみると、
 愛宕神社   (火産霊命)
 一元神社   (日本磐余彦命)
 草奈岐神社  (日本武命)
 伊佐奈美神社 (伊弉冉命)
 冨士神社   (木花開耶姫命)
 熊野神社   (櫛御気野命)
 天津神社   (天御柱命)
 国津神社   (国御柱命)
 於保止志神社 (大歳御祖命)
 鴨神社    (天神玉命)
 御井神社   (津長井命)
 伊弉諾神社  (伊弉諾命)
 雷神社    (雷八柱命)
 田植神社   (積羽八重事代主命)
 倉稲鬼神社  (大宜津姫命)
 千依姫神社  (千依姫命)
 鏡神社    (天糠戸命)
 厳嶋神社   (市杵嶋姫命)
 風神社    (級長津彦命、級長戸辺命)
 国見神社   (大日別命)
 高天原神社  (万諸大命)
 清野井庭神社 (草野姫命)
 瀧原神社   (速秋津彦命)
 御縣神社   (天津彦根命)
 御舟神社   (中筒男命)
 荒祭神社   (瀬織津姫命)
 佐々津彦神社 (佐々津彦命)
 伊雜神社   (天鈴桙命)

の二十八社が境内社として記されている。それでも二社足りないのだけれど、明治四十一年二月六日に境内末社七社と村内の二十三社を合祀したと記されているので、それなら丁度三十社になる。

火雷神社(玉村町下之宮)

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 利根川西岸に鎮座する火雷神社(玉村町下之宮甲524)。
 神社西側に駐車スペース有り。
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 参道右側に石祠。
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 鳥居。
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 由緒書きと道標。
『火雷神社
 この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をかつってある。景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦一五年(796)官社となり、延喜の制では小社の列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大明神とかかれている。
 鎌倉時代の初め、建久二年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
 天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治五年(1872)郷社となった。
 現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。
 また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)──火雷神社に伝わる祭りで、貞観四年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦十月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面に注連縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、注連縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴も外した)であり、注連縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる』


 玉村町役場のサイトと玉村八幡宮のサイトでは微妙にの記述の違いがあるが、大筋では同じか。
 貞観四年十月から十一月にかけて天災や怪異が続き、人々の生活を脅かしたので、時の国司は神官に怪異の鎮圧を命じ、その際に武士那波八郎廣純が同行。神官が四方に注連縄を張り、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていたところ十七日目(亦は七日目)の夜に怪物が現われ神鏡を奪おうとしたので八郎はそれを捕らえて首を斬り、折れた角を川へ投じたところ、後にそこが渕となって角渕村(現玉村町角渕)となり、斬り落とした手を捨てた所が神の手村(現玉村町上之手)となった。人々が祟りを恐れてこれを祀ったのが都島(現埼玉県本庄市都島)の角折明神であり、その首を祀ったのが小島村の鬼頬明神(現本庄市小島の唐鈴神社)と伝えられる。村は平穏になり、五穀豊穣となったところから、土地の人々は麦を蒔く頃の御神事=麦蒔御神事と称え語り伝えてきたという。
 那波八郎は八郎神社(伊勢崎市福島町鎮座)に祀られていると記されていたが、そちらの御祭神の名は群馬八郎満胤であり、光仁天皇の御代(770~781)の人なので862年とは少々隔たりがある。しかも七人の兄によって殺された後に伊香保沼や赤城沼の龍神と親しくなり、大蛇と化して七人の兄とその一族郎党まで皆殺しにしたと伝えられているのでなにか違うだろう、これは。
 尤も、玉村八幡宮の記述によると那波廣純は嘉応年間(1169~71)に当郡を領し、元暦元年(1184)木曽次郎源義仲の党与として義仲と共に近江粟津の戦いで討ち死にし子孫も絶えたとあるので、これまた時代が合わない。那波八郎はこの怪物退治の功績により那波郡を賜り、治めることとなったそうなので、那波廣純の先祖にあたる人物なのだろうか。しかし那波氏は藤原秀郷の末裔であり、当初は下野に住していたが後に上野国那波郡に移り住んで名を那波太郎と称していたとも記されているので、天慶三年(940)に平将門を討伐した藤原秀郷の末裔が貞観四年(862)にここにいる筈が無い。もう訳が分からないよ。
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 水舎。
『記
当社は火雷神を主祭神とし配祀神として学問の神様である菅原道真命を御祭りしてあり、昔より多くの人々の信仰を集めている社であります。
この水盤は道真公が特に好んでいたと云われる梅の花の形を基礎として造られたものです。
鬼瓦にも梅花を配し道真公をしのんでいます。
享保十二年(1727に)造られたものであります。水屋は平成十二年三月改築を行い現在に至っています』

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 神橋…かな。下は埋まってるけど。
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 末社。
 何神社かはわからないが、台座に文政二歳己卯六月吉日とあるので1819年に建てられたようだ。
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 神楽殿と蚕霊神社。
 蚕霊神社は弘化二年(1845)正月に村民により常陸国豊浦(茨城県神栖町日川)から那波郡下之宮村字屋敷間に勧請されたが、明治四十一年(1908)七月十三日に合祀。御祭神は保食命。
 神楽殿の場所には江戸時代まで観音堂があり、十一面観音像が祀られていたそうだ。
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 拝殿。
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 本殿側から。
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『延喜式内上野十二社火雷神社略記
鎮座地 群馬県佐波郡玉村町大字下之宮五二四番地
社名  火雷神社
祭神  火雷神(主祭神)
配祀神 保食命   菅原道真命 那波八郎命
    火産霊命  大物主命  建御名方命
    誉田別命  素盞鳴命  高淤賀美命
    宇迦御魂命 大日孁貴命 少彦名命

由緒
 当社は第十代崇神天皇元年創立東国大都督御諸別王の尊信あり。
 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列させられ官幣に預る。村上天皇天暦二年(948)五月、三条天皇長和年中(1012~1016)又国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く広大な社殿を造営奉り四季の祭典を興し寶作無窮国家安泰を祈らる。後、現在に改む。新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
 後村上天皇康永二年(1343)神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり。明治五年(1872)七月郷社に列せさる。
 当社に古式神事あり。清和天皇貞観四年(862)より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行ふ。燈火を用いず微声を以って祝詞を奉す。
 翌十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入を厳禁。過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起すと云う。
 而して此の神事中は村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。古より傳へて那波の御神事と云う。

祭日
 四月三日  例祭(年一回大祭)
 十月十七日 小祭』


 崇神天皇元年は紀元前97年(崇神天皇は3世紀から4世紀初め頃の人とする説もある)。参道脇の由緒書きには景行天皇の御代(70~130)に創建と書かれているが、どちらにしてもかなり古い神社であることに違いは無い。
 玄松子の記憶というサイトの記述によると、「神名帳考證」という式内社を考証した書物にはこちらの御祭神は火産霊命と香々背男の名が記されているのだそうだ。香々背男と言えば、亦の名を天津甕星。経津主神や武甕槌命さえ退けたが、倭文神建葉槌命によって斃された星神だ。そしてこの火雷神社のほぼ真北1km程の位置には天羽槌雄命(建葉槌命)を祭神とする倭文神社が鎮座している。
 天香々背男を抑えられる神がすぐそばにあり、しかも上の略記には火産霊命の名はあっても天香々背男の名は無いなどと言うと、まるで隠されているかのようで、厨二心をくすぐられてニヤリとしてしまうではないか(苦笑)
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 拝殿左側にずらりと並ぶ末社群。
 神社名は記されていなかったが、
 貫前神社(経津主命)、伊加保神社(少彦名命)、加茂神社(加茂別雷神)、
 宇芸神社(宇賀御魂命)、倭文神社(建羽槌命)、甲波宿弥神社(瀬織津姫命)、
 榛名神社(埴山姫命)、小祝神社(少彦名命)、大国神社(大国主命)、
 美倭神社(大物主命)、赤城神社(大己貴命)
 兒持神社(木花咲耶姫命)、日枝神社(大山咋命)、琴平神社(大物主命)、
 稲荷神社(倉稲魂命)、大杉神社(舩玉命)、諏訪神社(建御名方命)、
 菅原神社(菅原道真公)、阿夫利神社(高游加美命)、丹生神社(垣山姫命)
 であるそうだ。
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 本殿裏の末社群。
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 火雷神社の裏手に高野山真言宗観音院東林寺。
 嘗て観音堂(現在は神楽殿)に祀られていた十一面観音像は現在はこちらに祀られているのだそうだ。
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 東林寺霊廟。
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 辯才天。

普門寺(玉村町南玉)

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  南玉公民館の東に隣接する天台宗普門寺(玉村町南玉933)。
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 切妻破風にはユーモラスな龍の姿が見える。
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 普門寺境内端に天満宮。
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 南玉公民館から西を望むと…榛名山かな、これ。

 Mapionを見ると、普門寺から南に下って行くと白田稲荷大明神と記載されているのだが、これ、どうやって行くんだろう? 側溝脇に位置しているようだが、柵があって入れないし、白田稲荷南側の民家の表札が白田さんなので、もしかしたら屋敷神か個人管理の神社だったりするのかも。

住吉神社(玉村町南玉)

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 新義真言宗金蔵寺の西隣に鎮座する住吉神社(玉村町南玉760)。尤も、鳥居が建てられているのはマーガレット幼稚園の隣だが。
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 鳥居の左隣に大黒天と道祖神。
 右隣には青面尊と庚申塔。そう言えば、今回神社巡りした中では青面金剛はあまり見かけなかったな。
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 拝殿。
 境内社に神明神社、八坂神社、菅原神社、稲荷神社、石神神社、疱瘡神社があると言うことなのだが…見かけた覚えが無い。どこにあったのだろう。
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 狛犬。
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『社殿改修記念碑
 南玉地区の鎮守さまとして親しまれている「住吉神社」の創建は不詳だが、往古の昔に村民が協議して社殿を建立し、摂津国(大阪府)の住吉大明神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)の御分霊を迎えたのが起源と伝えられている。爾来村民の篤き崇敬を受けて現在に至るも、社殿の老朽化は如何ともし難き状況となり、此度氏子・崇敬者の浄財をもとに、本殿一部の改修・拝殿の畳替え・社殿外壁等の改修が行なわれた。そしてこの工事の無事竣工を祝って行われた奉祝祭には「本殿御開帳」も執行され、改めてその歴史の深さを再認識することとなった。願わくは、創建以来の先人達の心を思い、南玉の鎮守社「住吉さま」が新旧住民融和の要とならんことを…。
 平成十一年十月吉日』

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 大田神に庚申塔。大田神(または太田神)は猿田彦命の御裔。
 境内の周囲はぐるりと庚申塔に囲まれており、境界線を成している。
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 住吉堰由来碑。

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 金蔵寺。
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 金蔵寺前の道を東へ向かうと民家の前に双体道祖神。

稲荷神社(玉村町上飯島)

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 とりせん玉村店(玉村町上飯島280)の南に鎮座する稲荷神社。
 駐車場は無いので、とりせんの駐車場をお借りした。それだけでは申し訳ないので、丁度昼時でもあったのでとりせんで昼食を確保。
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 拝殿。
 御祭神は倉稲魂命。
 創建時期等は不詳だが、旧社殿には享保七年(1722)の棟札があったそうなので、それよりは古いのだろう。現社殿は平成五年(1993)に改築されたものであるそうだ。
 神社合祀政策により明治四十一年(1908)一月十四日に廃社となったが、その後も当地にあって祀られ、現在に至っているとのこと。
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 社殿裏に道祖神と庚申塔。
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 末社群。
 菅原神社と琴平神社があるとのことだが、どれがそうなのだろう。

若王子神社(玉村町上之手)

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 玉村町立南小学校西側の田圃の中に玉村町第33号古墳があり、その墳頂に若王子神社が鎮座している。
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 ま新しい鳥居と石祠。2008年頃までは木造の祠があったようだが、2009年頃に新しくされて現在のものになったようだ。
 玉村八幡宮のサイトの記述によれば、こちらの御祭神は熊野久須毘命。創建時期等は不詳だが、熊野久須毘命は記紀に末子神と記述されていることから、若王子神社という社名が与えられたとのこと。
 明治四十一年(1908)一月三十一日に玉村八幡宮へ合祀されたが、現在でも尚この地に祀られている。
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 疱瘡神社、菅原神社、八坂神社。
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 上之手村霜害記念碑と石祠。
 何神社なのかはわからないが、碑文には大正五年(1916)五月九日に桑園が霜害を被り、飼育中の蚕児を悉く放棄してこの地に埋め記念碑を建てたと記されているので、蚕供養の為の蚕影神社であろうか。
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 古墳西側斜面に並ぶ庚申塔。
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 古墳南東側斜面より。

赤城神社(玉村町宇貫)

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 宇貫公民館から北へ歩いて行くと、大通りに面して赤城神社(玉村町宇貫585)が鎮座している。また、ここは玉村町No.225遺跡とも呼ばれているようだ。
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 鳥居の脇に道祖神。
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 拝殿。
 その左手前には石祠が一基と庚申塔。
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 拝殿の中には大己貴命を祭神とする赤城神社本殿があり、他に二つの木祠と布袋尊像がある。
 境内社には大杉神社と菅原神社、八幡宮、八坂神社があるそうなのだが、外の石祠と合わせても数が合わないな。

聖天山古墳(玉村町宇貫)

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 宇貫公民館(玉村町宇貫435-1)の北側に隣接するショウデンヤマ古墳。
 ググってみると厩橋どんぶり塚古墳と言うブログにこちらの記事があり、妻沼聖天を勧請したことから聖天山と称し、現在はショウデンヤマと呼ばれているのだそうだ。
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 立ち並ぶ庚申塔。
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 こちらが聖天様になるのだろうか。
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 観音様と石祠。

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 宇貫公民館前を北へ歩いて行くと、突き当りの丁字路脇に石祠が一基鎮座している。道祖神だろうか。
 側面には天保十亥年六月吉日とあるようなので、1840年のものだろう。

稲荷神社(玉村町角渕)

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 王子稲荷神社から北西に向かうと、株式会社ウシキランバー(玉村町角渕4632-1)の西側に玉村20号墳があり、その墳頂に稲荷神社が鎮座している。
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 由緒等は不詳。
 そう言えば、こちらの稲荷神社は玉村八幡宮のサイトにも書かれていなかったな。
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王子稲荷神社(玉村町角渕)

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 角渕八幡宮から東へ向かうと、玉村ゴルフ場西端に玉村19号墳があり、その墳頂に王子稲荷神社が鎮座している。
 駐車場は無いが、西側の十字路脇にコミュニティー消防センター(玉村町角渕4697)があるので、そちらの端っこに置かせてもらった。
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 創建時期や由緒等は不詳だが、祠の脇に改築記念碑が建てられており、昭和十六年(1941)二月十一日と記されている。
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 梨本宮守正王殿下観戦所。
 大正三年(1914)十月二十七日に建てられたようだ。
 梨本宮守正王は久邇宮朝彦親王の第四王子であるから、これが王子稲荷の名前の由来なのだろうか? それとも東京都北区の王子稲荷神社から勧請したものであるのだろうか。
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 東側から。

角渕八幡宮(玉村町角渕)

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 群馬県道40号線角渕交差点から東に入るとすぐに見えて来る角渕八幡宮(玉村町角渕2075)。
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『角渕八幡宮
 鎌倉時代の初め、建久四年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
 その後に建てられた社殿は、応永十八年(1411)に関東管領畠山満家、永正四年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
 後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長十五(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
 現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である』

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 拝殿。
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 大神宮。
 その隣には事勝神や猿田彦大神、庚申塔が並んでいる。
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 参道左手側、大神宮の裏に石祠二基。
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 拝殿脇の御神木(かな?)の根本に八坂神社。
 台座に文政十三庚寅六月吉日と刻まれているので1830年のもの。
 七月十四・十五日に近い土・日曜日には江戸時代から続く角渕祇園祭が行なわれているのだそうだ。
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 明治三十九年に建てられた忠魂碑。
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 奥までずらりと並ぶ庚申塔。
 中には水神や猿田彦大神、太田神、道祖神なども混ざっている。
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 拝殿と本殿。
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 石仏。
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 山車庫。
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『角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑
 当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
 八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
 現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
 玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
 平成二十三年十月吉日』

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 左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)。
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 石祠。
 後ろの石碑は昭和五十六年に建てられた顕彰碑。題字は第67代内閣総理大臣である福田赳夫氏の書であるそうだ。
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 倉庫かな? その手前にも石祠。
 横に立ち並ぶ石塔は事勝神や猿田彦大神、庚申塔など。

神明宮(玉村町下茂木)

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 滝川を渡ると、下茂木農業者研修所の東側に隣接して神明宮(玉村町下茂木244)が鎮座している。駐車スペースとしては農業者研修所の方がまだ広くて良いのだろうが、神明宮東側にも一台分くらいならかろうじてスペースがある。
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 社号標石右手側に道祖神と愛宕山権現。
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 庚申塔と猿田彦大神。
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 拝殿。
 こちらも由緒書きが無いので例によって玉村八幡宮のサイトを参照すると、御祭神は大日孁貴命と豊受姫命で、清和天皇の御陵と称される皇院塚の傍らに住していた左近衛府将監正六位上檜前公綱(ひのくまのきみつな)が、正和年間(1312~16)に伊勢両大神宮の御分霊を勧請して創建し、後に郷民の鎮守神となったが、大正三年(1914)四月二十八日に下茂木字神明から現在地に遷座して現在に至るとのこと。元地にも神明宮が祀られているとも記されているが、字神明がどの辺りになるのかわからない。元地はこちら
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 末社群。
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 末社と庚申塔。
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 こちらが皇院様であるのだそうだ。
 阿夫利神社と石神神社も祀られているそうなのだが、どれがそうだったのだろう。

八千矛神社(玉村町川井)

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 西八幡宮の一の鳥居から西へ歩いて行くと、八千矛神社(玉村町川井1092)が鎮座している。
 川井城の本郭の櫓台跡であるそうだ。
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 瓦には輪宝紋。
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 鳥居の額には「摩利支天宮」と浮き彫りにされている。

『川井城跡 八千矛神社
  玉村町大字川井字守理忍巡一一九二番地
 烏川対岸の金窪城主斉藤定盛の支城で、弟石見守基盛が在城し、北条麾下であったが天正十年(1582)神流川合戦で滝川一益に攻め落とされた。(堀の内の小字名が残る)
 箕輪城麾下の和田山城主時重の四代目清水内記邦正が定盛の長女を妻として此の地を譲り受けた。
 子孫代々城郭の楼台跡に摩利支天(陽炎の神格化した武神)を祀り、慶応四年(1868)神仏判然令で八千矛神社(祭神大己貴命)となったが、一般には摩利支天様として信仰されている。
 平成元年十一月』

『改築記念碑
 当社は、江戸時代末期の弘化年間(1844~47)に、烏川対岸の金窪城の支城であった川井城の城跡に「摩利支天」を祭って創建されたが、明治維新の神仏分離令に従って大己貴命を祭神とする「八千矛神社」と改称された。摩利支天は、古代インドの神で、敵から身を隠し障害を除いて利益を施す神として信仰されてきたが、我国では武運長久の神として武士の崇敬を集め、後世は勝負運の神・災難除けの神として庶民に信仰されるようになった。その開運守護神としての信仰は根強く、今なお「川井のまるしてん」として親しまれている。
 この霊験あらたかなる当社の神威をますます発揚すべく、年頭より老朽化した社殿の屋根瓦葺替え工事に執りかかり、此度予定通りに無事竣工を迎えた。これは工事関係者はもとより、氏子・崇敬者各位の一つ心の協力によるものであい、この喜びとともに後世に伝えるべき偉業として、ここに記念碑を残すものである。
 平成十二年 六月吉日』

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 羽衣と犬…?
 うっすらと文字の跡も見えるのだが、薄すぎて読み取れない。
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『箕輪没城以後和田山之地家従松本金左衛門吉勝譲 慶長十二丁未春 那波郡川井城移住也』
 慶長十二年と言うと1607年。松本金左衛門吉勝なる人物については不明だが、和田山城主の家臣であるようなので、箕輪城が廃城(慶長三年=1598年)になった後に移住して来たのだろう。
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 猿田彦大神。
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 社殿真裏に祠。
 こちらが本殿なのかな? 或いは旧本殿か。
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 秦氏神祭所と刻まれた石祠。
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