厳島神社(長左ヱ門新田)

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 東仁連川に架かる弁天橋の西、長左ヱ門農村集落センター脇に鎮座する厳島神社(古河市長左ヱ門新田69)。
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 厳島神社だけあって、社殿の周囲は堀に囲まれている。
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 斜めから。
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『厳島神社造営記念
旧村社にして厳島姫命の合併社なり。大正四年(1915)十一月十九日合併許可により伊讃那美命(白山神社)猿田彦命(日枝神社)菅原道真公(天満宮)を合祀す。長左ヱ門新田は享保年間飯沼開拓に当り同十年(1725)下野国間中村福田長左ヱ門開拓創立の地にして遂に一新田を創り長左ヱ門と命名し旧石高七百三十余石を支配し二十五戸の農家を養い同人の氏神なり。同十三年(1728)十二月筧播見守の検見あり。長左ヱ門名儀として記載されしにより同十三年までに創立されしこと明白なり。
境内十五アールにして周辺風光明媚。東方に紫峯を望み北方遥かに日光山を仰ぐ一望十里の美田南北に展け東仁連川悠々として裾を縫う。当地は始め徳川幕府直轄に地に属し明治維新に至り廃藩置県の結果若森、印幡、千葉の諸県に属し明治二十二年(1889)八俣村に編入。昭和三十年(1955)二月十一日町村合併の結果三和村となり同四十四年(1969)一月一日町制を施行し三和町となる。茲に氏子一同浄財を據出し当社を新たに造営し永遠に後世に伝えんとせるは敬神崇祖の念の発露にして快挙なり。因に当社は安産、学問、交通安全の守神として地方にきこえ霊験あらたなり。よって参詣祈願者後を断たざるは宜なる哉
 例祭 一月十五日 十一月十五日、十六日
昭和五十五年盛夏』
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 末社。
 左端は祠の中にお狐さまが見えたのでおそらく稲荷社だろう。右の石祠三基は右端の天満宮のみ社名が刻まれており、残りの二基は不明だが、造営記念碑には天満宮の他に白山神社と日枝神社の名が記されているのでそれだと思われる。
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 以上で1月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmと50-150mm II。*ist DSにFA43mm。Coolpix P7100。
 ひさびさに引っ張り出した*ist DSは相変わらず電子ダイヤルがお莫迦になったままで、少々イラっとする。気に入っているカメラなので長く使いたくもあるが、ペンタックスのサイトを見ると修理可能製品一覧の中に名前が見当たらないのよね。エアダスターなどで一時的には回復するとの話も聞くが、基盤がイカレていた場合はお手上げかなー。
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香取神社(恩名)

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 恩名下坪田園都市センターの隣に鎮座する香取神社(古河市恩名2365)。
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 拝殿正面。
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 斜めから。
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 本殿。
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 末社。
 左は何神社なのか分からないが、こちらの香取神社では七月に祇園祭が斎行されるそうなので、もしかしたら八坂神社なのかも。右の石祠は十二天神社と雷電宮。
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 葛飾坂東第三十四番札所、養性寺十一面観音堂。
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 君御前之祠と普門品供養塔、地蔵尊。
 君御前之祠の側面には『昭和四十九年旧九月二十九日 下山ヨリ御遷宮』と刻まれている。ちなみに君御前とは平将門の奥方のことで、将門の伯父である平良兼の配下によって子供らと共に殺害されている。この祠は君御前らを哀れんだ村人たちによって祀られたものであるのだそうだ。
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 神社の由緒等は不明。

雀神社(宮前町)

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 古河市の代表的な神社の一つである雀神社(古河市宮前町4-52)。
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 二の鳥居と狛犬。
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『本獅子像は慶應三年(1867)六月篠崎源六が願主となり奉納したものであるが此の度本殿の移轉に際し台座の破損を發見したので氏子総代と孫源六が協議の上資材を折半し一番組の労力奉仕に依り修理再建したものである。
 昭和二十九年(1954)十二月九日』
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 拝殿。
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 元禄十四辛巳天(1701)十二月造立の狛犬。
 こちらも胸部に施主名や奉献日などが刻まれている。
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 尻。
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『雀神社の祭神は、大己貴命・少彦名命・事代主命の三神であるが、その創立は明らかでない。伝承によれば、貞観年間(859~876)に出雲大社から勧請したものだという。その社名については、鎮宮が転化して雀宮になったという。その後、康正元年(1455)足利成氏が古河公方となってから、初代成氏はもとより代々の公方の崇敬が高く、また、徳川将軍家、並びに累代古河藩主の崇敬もあつく、御朱印地十五石を賜った。したがって、社殿の造営修理なども累代の藩主が行ない、現在の社殿は、慶長十年(1605)松平丹波守康長の造営したものである』

『厩町にあり、かつて猿島郡で唯一の郷社であった。俗にお雀さまといわれ、祭神は大己貴命で少彦名命と事代主命が配祀されている。創立年は不詳であるが、社伝では崇神天皇の御世豊城入彦命が東国鎮護のため勧請し、鎮社(しづめのやしろ)といい、後、訛って雀宮となったという。また別の伝承では、貞観年間(859~877)に出雲大社の分霊を祀ったともいう。
 古河公方初代足利成氏は、康正元年(1455)古河に移座すると、雀神社を信仰したといわれ、長禄元年(1457)参拝して奉幣し「天下泰平国土安穏」を祈り、この八文字を祭礼の際、万灯に書くことを許したとも伝えられている。また、祭礼中は旅人の仮宮前通行を禁止し、東裏に迂回する祭礼道を設け、維新まで諸大名の参勤交代もこれに従ったという。本殿は流造銅板葺、祭礼は一月一日が元旦祭、二月が節分祭、四月八日が春祭り、八月一日が例祭、十一月十八日が秋祭りである。
 毎年春祭りには磐戸神楽が神楽殿でおこなわれ、また、夏の祭礼には旧悪戸新田に伝わっていた獅子舞も奉納される。獅子舞はササラといい、悪疫退散の意味をもって行われている。
 秋祭りには粢(しとぎ)といわれるもち米の粉をねって俵形につくる。その器に大根を包丁でそぎ、酢と醤油で味をつけて作ったなますを盛りつけ、祭りの前夜、神前に供える。なお、この料理はすべて宮司がおこなうことになっている。
 境内社としては、三峰神社、第六天宮、香取神社、松尾神社、楯縫神社がある。とくに松尾神社は酒造家が、楯縫神社は手工業者が信仰してきた。また、この雀神社の境内には縁結びの笹があり、この笹を男女で一緒に結び、神前に祈願をこめれば二人の仲が結ばれるという言い伝えがある』(「古河市史」より抜粋)
 崇神天皇の在位期間は紀元前97年~紀元前29年と言われているが、古事記の記述では没年が258年か或いは318年とされることから三世紀から四世紀頃であると思われる。また豊城入彦命が東国へ向かったのは崇神天皇48年のことであると言う。
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 神楽殿。
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 神輿庫と神庫…かな。
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 左から松尾社、第六天宮、楯縫社。
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 左は稲荷神社・八幡神社・榛名山神社。右は不明。
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 三峯神社。
『本講ハ文政年間ノ創立ニ係リ初メ御船手講ト稱シ專ラ舩戸及ビ其ノ附近ノ講員ヲ以テ組織シツゝアリシモ時勢ノ推移ニ鑒ミ改稱ノ必要ヲ認メ大正五年三峯山古河文政講ト改メ創始ノ紀念ヲ保有シ益講ノ隆昌ヲ圖リツゝアリシガ星霜ヲ歴ルノ久シキ遥拝所クル石宮ノ漸ク破損セルヲ以テ曩ニ改築ノ議ヲ起シタルニ偶三峯本社ニ叅詣ノ砌リ社務所ニ懇望シタル結果御神木ヲ授與セラルゝノ好機ニ際會シ本年陽春ノ季ヨリ之ガ造營ニ着手シ今日竣工ノ式ヲ舉ゲ遷宮シ奉ルニ至ル是實ニ神徳加護ノ賜ニシテ講員一同ノ深ク感銘スル所以ナリ茲ニ本講ノ由来ト社殿造營ノ記ヲ録シ永久ニ傳フト云爾
 昭和七年十月十四日』
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 三峯神社々殿。
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 万葉古河渡の歌碑。
 加須市向古河の鷲神社にも古河渡の歌碑があったなぁ。
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 歌碑案内板。

 以上で12月7日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA35mm Macro、DA70mm、K50mm F1.4。Coolpix P7100。

下宮八幡宮(宮前町)

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 雀神社の北東に鎮座する下宮八幡宮(古河市宮前町6-8)。
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『下宮八幡宮・牛頭天王社・稲荷神社
ご祭神 譽田別命(下宮八幡宮)
    素盞嗚尊(牛頭天王)
    倉稲魂命(稲荷神社)
ご創建とご奉遷
 当三社は天文年間(1532~54)旧栃木県谷中村字下宮(戸数二百有余、人口一千二百有余)の守護神として鶴岡八幡宮(鎌倉市)、津島神社(津島市)より勧請し創建されました。
 明治十四年(1881)の頃より始った足尾銅山の発展と共に、銅山の鉱毒渡良瀬川に流入し、河川の汎濫、堤防の破壊、作物等の被害甚しく、谷中村は全不能の地と化しました。同三十八年(1905)県庁は谷中村を買収、この間本県選出代議士田中正造翁は帝国議会へ鉱毒の被害、谷中村復活に質問書を提出、同三十四年(1901)十二月に意を決し本事件に関して直訴を決行しました。同四十三年(1910)河川改修により氏子各地に移住、更に同四十五年堤外も買収され四百有余年の歴史を有する氏子は悲惨しました。
 現在の社殿は明治十一年(1878)の改築で、大正二年(1913)現在地にご奉遷、爾来年序を経て修覆、平成五年(1993)七月改築落成したものです』
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 鳥居の左脇に力石。
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 鳥居をくぐって左手側に津島牛頭天王社。
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 狛犬。
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 向い側には稲荷神社。
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 平成十一年(1999)十二月造立のお狐様。
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 拝殿。
 右奥の赤い建物は神輿庫か神庫だろうか。
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 享保九甲辰年(1724)九月造立の狛犬。
 胸部に文字が彫られているものを見たのは初めてかも。
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 狛犬。
 台座には皇紀二千六百年記念とあるので、昭和十五年(1940)の造立になるのかな。
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『篆額 文學博士 藤懸静也書
元谷中村ハ栃木縣ニ属シ下宮惠下野内野ノ三大字ニ別レ延長三里
余ノ大堤防ニ圍マレ戸数三百八十二人口二千二百有余西南ハ渡良
瀨川北ハ赤麻沼北東ハ巴波思川ニ添ヒ堤内一千有余町歩堤外二百
有余町歩我下宮ハ戸数二百有余戸人口一千二百有余土地肥沃ニシ
穀類豊穣濕地ニハ葮菅ヲ生ジ魚族亦豊富ナリ然ルニ古河家經營ノ
足尾銅山鑛毒ノ渡良瀨川ニ流入スルコト明治十四年ノ頃ヨリ始マ
リ銅山ノ發展ト共ニ次第ニ甚シク且ツ山林濫伐ノ結果頻年河川ノ
汎濫ヲ來シ屢々堤防ヲ破壞シ堤内外ニ於ケル作物及ビ草木ノ被害
年ト共ニ激甚ヲ加ヘ全不毛ノ地ト化シ了ラントス此ニ於テ仝三十
八年縣廳ハ谷中村ヲ買収シテ潴水地トナシ既ニ本縣選出代議士田
中正造翁ハ仝二十四年第二帝國議會ヘ質問書ノ提出ヲ始メトナシ
鑛毒ノ被害且ツ谷中村復活ニ身ヲ堵シ之ニ當リ終ニ仝三十四年十
二月ニ至リ意ヲ決シテ鑛毒事件ニ關シテ直訴ヲモ決行スルニ至レ
リ更ニ仝四十五年内務省ノ各河川改修トナリ堤外モ買収セラルゝ
ニ至レリ四百五十有余年ノ歴史ヲ有セル住民ハ各地ニ移轉シ大正
二年我等祖先以来崇敬措カザル八幡宮牛頭天王稲荷ノ三社ヲ奉ジ
此ノ地ヲトシテ遷座ス仍テ有志相諮リテ此ノ碑ヲ建ツ爾云
    皇紀二千六百一年  八幡神社々掌 鏡川計次撰文并書』

『篆額 元衆議院議員 佐藤注之助謹書
抑當八幡宮ハ今ヲ距ル四百十餘年ノ天文中守護神トシテ相州鎌倉ヨ
リ勧請シ村民ノ崇敬極メテ厚カリシガ明治以前本村名主某宅火災ニ
罹リ記録焼失シテ由緒詳ナラズ明治四十三年渡良瀬川改修ニ因リ氏
子古河町ニ移住ノ際現地ニ奉遷ス現社殿ハ明治十一年ノ改築ニカゝ
ルト云フ尚社地并所属地等ニ関シテハ明治十七年地籍改正以降全ク
不明トナリ為ニ無資格トナリ今日ニ至ル一同深ク之ヲ憂ヘ社格ノ獲
得ニ奔走セシモ終戰直後全國ノ神社ハ一齊ニ社格ヲ返上シ其要ヲ認
メズ昭和二十年八月十五日突然陛下ニハ聯合國ノポツダム宣言ニ則
リ終戰ノ詔勅ヲ下シ給ヘ其御趣旨ニ曰ク能ク忍苦ニ耐ヘ少ナキヲ分
チト詔ヘリ同二十一年一月憲法起草ノ令ヲ下シ給ヘ依テ政府ハ朝野
ノ識者數名ヲ以テ編纂シ仝十月議會ヲ通過シ仝十一月三日明治節ヲ
トシ憲法發布ノ式典ヲ擧行セラル茲ニ全ク非軍國的並ニ遠永平和ノ
基礎ハ確立セリ然ルニ國民道儀ノ頽廃其極ニ達シ吾等深ク之レヲ憂
ヘ基金ヲ募リ一同毎朝一善一仕ヲ神明ニ誓ヘ廣ク教化ニ努メ祖國再
建ノ速カナラン事ヲ希ワト爾云
   昭和二十一年十一月吉日建    針谷源三撰文并書』
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 末社。
 左から大黒天、大杉大明神、金毘羅大権現、根本山神、大杉大明神、■勝神・麻勝神・降■神、不明。■の部分は日と一と寸もしくは丁が縦に合体しているような文字で、旱のようにも見えるが、よくわからない。
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 下宮八幡宮の西隣、古河職員宿舎東門脇に建てられた「史蹟 古河藩野渡御蔵趾」碑。
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 古河藩野渡御蔵跡案内板。
 こちらの案内板は古河職員宿舎の西門側、雀神社の脇に設置されている。

八坂神社(宮前町)

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 下都賀郡野木町野渡との境附近、雀神社の北およそ300m程の位置に鎮座する八坂神社(古河市宮前町)。
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 宝暦五乙亥年(1755)九月造立の青面金剛塔。
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 八坂神社。
 その左には白山権現。左端の小祠は空っぽ。
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本成寺(横山町三丁目)

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 古河市立古河第五小学校の東側に位置する日蓮宗長久山妙光院本成寺(古河市横山町3-10-43)。
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 山門。
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 本堂。
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 立正大師日蓮像。
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 瘡守薬王稲荷大明神。
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 瘡守稲荷社の隣に鬼子母神堂。
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『当山の鬼子母神堂は慶長十二年(1607)下野国友沼(現在の野木町友沼)にある真言宗報恩寺檀徒大高新右ェ門氏が大病に罹り鬼子母神に祈願したところ忽にして病気平癒した為その砌改宗し當寺の檀中となり鬼子母神を勧請し當堂を建立されました現在友沼地区に大高家十三軒の檀中がそれであり其の後寛政三年(1791)第十五卋日耐上人の代に再建され今日に至りましたが永年の風雪の為御堂の荒廃破損が甚しい為日蓮聖人第七百遠忌の報恩事業の一つとして日哲発願し屋根瓦の葺替竝に間知石積の工事を施し御堂の内外の大改修を完成致しました
 昭和五十二年十一月吉日
 長久山本成寺第丗二卋僧正 泰省院日哲』

 境内には他に三十番神堂があるそうなのだが、はて、どこにあったのだろう。見落としていた。

西光寺(本町一丁目)

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 古河駅西口そば、大聖院から少し北に向かった所に位置する浄土宗稱名山西光寺(古河市本町1-2-28)。
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 参道左手側、駐車場脇に鎮座する飛梅天満宮
 創建時期などは不詳だが、寛文八年(1668)九月二十五日に西光寺二十三世空阿上人が願主となって再建したとの棟札が残っているのだそうだ。
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 山門。
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 木鼻。
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 本堂。
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 古河大仏。
『古河大佛
「古河大佛」造立の発願主は当山第二拾五世廣阿良義上人である。十方の道俗男女七百余名に勧進し、造功たちまち成就したという。時に、第百拾二代霊元天皇(江戸時代、第四代将軍、徳川家綱公)の延宝七年(1679)八月十五日のことであった。それから二百六十五年後昭和十九年(1944年、当山第四拾世実譽成孝上人代)四月二十三日に、大東亜戦争下に於て、銅鉄回収に応じ、最期の供養を受けて赤だすきで出陣された。それから三十五年後の昭和五十四年(1979年、当山第四拾一世行譽秀雄代)八月二十五日に、現在の大仏様が再興され、開眼法要が行われた。再興の発願主は当山檀徒近江弘氏(昭和六十三年七月二十六日寂七十四才)である。実に、当山第二拾五世廣阿良義上人による造立以来、へだたること当に三百年の年のことであった。
 この「古河大佛」は浄土宗の御本尊仏である阿弥陀如来である。この「古河大佛」にお参りし、お念仏を申すことにより、西方極楽浄土に往生することができる、過去から現在までの一切の罪障が消える、現在から未来にかけての一切の諸仏諸菩薩に護念して頂けるという御利益がある。
 手を合わせて、十回、”南無阿弥陀仏”と申してお参り下さい。合掌。
  神力演大光 普照無際土
  消除三苦冥 廣済衆厄難  十念
 平成五年八月仏歓喜日
     稱名山千手院専修院西光寺』

大聖院(本町二丁目)

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 古河駅西口のそば、古河第二小学校の北側に位置する曹洞宗玉龍山大聖院(古河市本町2-4-18)。
 至徳二年(1385)足利氏が坂間村に建立し、宗祖道元禅師より七世の法孫である大潮宗賀禅師が開山、永昌寺と号した。その後古河公方足利義氏の母である高林院が元亀元年(1570)十月三日に卒去した兄北条氏康の菩提の為に古河城中に移し、氏康の法号である大聖院を採り寺号を大聖院と改めた。その後故有って寺は破壊されたが古河公方足利晴氏によって旧来に倍する大伽藍として再建され、寺号も永昌寺と改めた。天和二年(1682)古河城主奥平美作守により坂間村より現在地に移され、寺号も玉龍山大聖院と改められた。また万延元年(1860)の火災により焼失したが明治三十八年(1905)に再建されている。
 ……と、このようなことが入口脇の石碑に記されていたのだが、いくつか突っ込みどころが。例えば大潮宗賀は大永八年(1528)に亡くなっているのだが、至徳二年(1385)に当寺を開山していたのだとしたら死去時には160歳くらいになっていたことになってしまう。Wikipediaを見ると大永三年(1523)に第二代古河公方足利政氏が大朝宗賀を迎えて開山したと記されているので、そちらの方が納得できる。次に、北条氏康が死去したのは元亀元年ではなく元亀二年。また足利義氏の母は高林院ではなく芳春院。高林院は北条氏康の娘で吉良氏朝の妻。次に、足利晴氏によって再建とあるが、足利晴氏は永禄三年(1560)に死去しているので無理。次に、奥平美作守が天和二年(1682)に寺を移したとあるが、奥平美作守忠昌は寛文八年(1668)に死去しているのでこれも無理。とは言え奥平家で古河城主になったのは奥平忠昌だけなので、ここに書かれた奥平美作守が奥平忠昌なのは確かだろう。Wikipediaには1620年頃とあるので、これならおかしくはない。
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 本堂。
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 道元禅師像。
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 大日如来種子板碑。
『古河市指定文化財・歴史資料 大日如来種子板碑
 昭和五十八年四月一日指定
 古河市本町二丁目四番一八号
 板碑とは主に鎌倉時代から室町時代にかけて、死者の追善供養や生前に自己の死後の冥福を祈るために造られた板状の石塔婆である。関東では主に埼玉県秩父地方かた産出する緑泥片岩が用いられた。
 この板碑も緑泥片岩製で、胎蔵界大日如来をあらわす種子(アーンク)を刻み、「孝子敬白」との銘がある。これにより親への供養塔であることがわかる。
 造立年は不明であるが、八センチもの厚みの石材を用い、側面を平らに加工している点など鎌倉時代の板碑の形態的特徴を有しており、鎌倉時代の造立と推測される。
 平成二十年一月』
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 境内と言うか駐車場脇に鎮座する山王宮
『南新町の大聖院境内に山王宮がある。火災で古文書などの記録は失われているが、古河では一番古い社といわれていて、昔、雀神社が出社する時には必ず、山王宮に立ち寄り社前で挨拶をしたという。祭神は山王大権現で、現在は地蔵・弁天が合祀されている。神仏混淆の名残である。山王宮を信仰することは、災難除けと健康祈願が目的であった。祭礼は毎月十五日におこなっていた。山王宮は五霞村(猿島郡)の東昌寺から勧請されたものである』(「古河市史」より抜粋)
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 辨財天像。
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 絡みついた蛇の彫刻が施された常夜燈。
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 大聖院の入口脇に鎮座する不動堂
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 不動明王及びその他。

 この後は八幡神社を参詣するつもりだったのだが、境内で提灯竿もみ祭りの準備をしていたのでパス。去年は丁度大掃除をしていて参拝できなかったが、まさか今回も都合の悪いことになるとは。

天満社(仁連)

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 ミニストップ古河仁連店の東側、十間通りのすぐ南に鎮座する天満社(古河市仁連882-7)。
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 二の鳥居。
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 三の鳥居。
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 四の鳥居。
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 五の鳥居。
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 平成四年(1992)十月造立の狛犬。
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 不動明王かな。
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 平成十八年(2006)十一月造立の狛犬。
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 大正十辛酉年(1921)九月二十五日造立の狛犬。石工は境町の秋元喜三郎とある。
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 拝殿。
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『仁連天満社改築祈念之碑
 あくまで天高く豊穣に恵まれ、地平らかにして天成るこのとき、氏子をはじめとする多くの崇敬者の信心と協和によって仁連天満社がここに堂々と改築をみた。永年の風雪に耐えながらも老朽化著しい社殿を拝すに忍びず、改築の英断から四年半の年月を要しての丹精込めた事業であり慶賀の至りである。
 本社は古く、学問の神である菅原道真公を祭神とし、弘安年間(1280年頃)に創建されている。永享年間(1430年頃)には兵火により宝物共々焼失したが寛永年間(1630年頃)に再建され、同十七年(1640)には時の大将軍徳川家光から圭田三石を賜わるとともに、その命により祭典も行われるようになった。元禄年間(1700年頃)には仁連村の町昇格謝意により奉納相撲も行われるようになり近年まで続いた。
 また本社は、享保六年(1721)六月、神祇官領吉田氏伝宣により神階正一位に、明治六年(1873)四月一日、当時の幸島村村社に列格、同四十一年(1908)には、同地内無格社であった、厳島・八幡・浅間・鷲・大杉・神明・香取・八坂の各社を、大正二年(1913)には同雷電神社を合併・合祀している。昭和二十七年(1952)十一月には宗教法人の認可も受け、連綿たる歴史と由緒を誇る天満社である。
 この度の改築にあたっては、崇高なるご神徳とともに、約六百戸氏子の終始揺るぎ無い一致団結した努力、限り無い天満社への思いが、そのまま結晶となって事業の成功へと導いたものである。
 本碑は、仁連天満社の改築事業記念とともに、当地のますますの平安と繁栄を祈りつつ建立するものである。

 鎮座地 猿島郡三和町大字仁連八七九番地
 祭 神 菅原道真公
 配 祀 市杵島姫命 誉田別命 木花開耶姫命
     少彦名命 大杉社 天照皇大神
     経津主神 須佐男命 別雷命
 例祭日 十月二十五日(大祭)
 氏 子 約六百戸
 平成四年十月吉日』
 ちなみに猿島郡三和町が古河市と合併したのは平成十七年(2005)九月。
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 合祀社。
 左から雷電神社、大杉神社、辨天神社、浅間神社、香取神社、鷲神社、八幡神社、八坂神社、神明神社の九社が合祀されている。辨天神社は改築記念碑にある厳島神社のことだろう。
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 こちらで奉納相撲が行われていたのだろうか。
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 東の鳥居。
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 東の鳥居。
 昇陽之門と呼ばれているようだ。また境内北側には玄武門と刻まれた出入口があるが、そちらには鳥居は建てられていない。

二十三夜尊(東山田)

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 茨城県道56号つくば古河線と茨城県道125号中里坂東線が合流する東山田交差点の北西に位置する公園内に鎮座する二十三夜尊(古河市東山田)。
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『二十三夜尊改築記念碑
 二十三夜尊は、祭神月読の尊にましまし神代中傑出したる大神にして功績すこぶる多く無病息災五穀豊穣は勿論、農工商ありとあらゆる業を営む者は、この開運の御守護の御神徳を蒙るといわれ、その昔毎月二十三日夜半月が出ずるを待ち丹心祈願神恩に報いると伝えられこれ即ち三夜講の起源なり。
 年一回は必ず神前に参拝し子孫の繁栄と立身出世を願はるべきものなり。依って県道古河宗道線拡幅工事に際しこの地に移転改築し後世への碑とする。
 大祭日 毎年十一月二十三日
   平成元年十一月二十三日建立』
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 横から。
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 祠裏に並ぶ地蔵尊。後列には馬頭観音や如意輪観音なども混ざっている。

雷電神社(雷電町)

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 古河図書館の北東、県道294号東野田古河線に面して鎮座する雷電神社(古河市雷電町7-35)。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『雷電神社縁起
 当社の創建は詳らかではない。
 然し、今を去る三百五十一年前(寛永十(1633)年)当時の古河城主、土井大炊頭利勝公、築城の際に、城外鬼門に当る所に鎮座し、雷電除けの祈祷をしていたこの社を、城の鬼門除けとして祀った。又、この附近に、雷電組屋敷を置き、その組屋敷の人と、近隣の人々の信仰心により、社殿と祭典行事の維持がなされてきた。
 旧來は、古河城下の修験が別当として管理していたが、明治以降は、近隣の町内がこれにあたり、現在は、雷電神社奉賛会が組織され氏子一同がうけついできている。
 祭神 別雷神
 平成五年二月三日』
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 雷電稲荷神社。
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 祠。
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 馬頭観音、青面金剛、庚申塔など。
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 正徳四甲午年(1714)造立の青面金剛。
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 以上で11月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。Coolpix P7100。
 Lightroom5体験版の試用期間が過ぎたので、今度はPhotoshop Elements12の体験版をダウンロードして使用。RAW現像からレタッチ、ブログ用へのリサイズなどの流れとしてはLightroomの方がスムーズで楽なのだけど、PDCU4でRAW現像してElementsでレタッチ、リサイズの方が自分好みの画像にはなるなぁと言う感じ。Lightroomの方はなんか違和感がある。やはりElementsの方を買おうかな。でもLightroom5のUpright機能めっさ便利だしなぁ。ところでDigital Camera Utility5ってダウンロードできないんですかね。K-3買わないと駄目なのかな。

浅間神社(三杉町一丁目)

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 国道125号線と国道4号線、茨城県道294号東野田古河線が合流する三杉町交差点そばに鎮座する浅間神社(古河市三杉町1-1-29)。
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 拝殿。
 その手前には三杉稲荷神社と小御嶽神社が鎮座している。
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 三杉冨士講之碑。
 仙元神社・小御嶽神社・北口浅間神社の名が刻まれている。
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 浅間神社建設完成記念碑と氏子由来之碑。
『浅間神社建設完成記念碑
我々の氏神浅間神社は火難病難除けの神として幾千の信者を守護 今日に
及ぶものなり 其の間九十年世は移り 人は変りてかく世の感あれども崇
神の念は劣らず 傳来の祭事等万端怠らず常に境内の清掃 社殿 社堂の
修理 鳥居等の建換等に努め名実共に敬神の実を発揚せり 然れども社堂
土囲 鳥居等の老化甚だしき様相を呈するに至れり たまたま町内自治会
役員総会に計り町内の物心両面も勘案の結果絶好の機会と断定 昭和四十
四年五月神社建換を満場一致で可決し即刻建設委員会を結成 委員一丸と
なり建設準備に邁進せり 果たせる哉 三杉町民傳統の団結心は燃え上り
絶大なる協力の基 初期の目標八十万を遥かに突破せる資金の寄進を得尚
これを傳え聞きし町内関係の有力者よりも多額の寄附申し入れを得たるに
依り 総額壱百四拾数萬円の浄財を確保せり 因って執行部は工事一切町
内業者委託の委員意見を尊重して業者との工事契約を締結 業者の協力を
得て建設事業の総てを完了せり
時恰も一九七○年二月三杉町三百四十戸の住民一同建設成就を喜び盛大な
る祝賀をなすと共に寄附者の芳名を石に録して其の徳を後世に傳えるもの
なり 願わくば其の威徳を益々発揮して三杉町を永遠に護り給え
 昭和四十五年二月吉日』

『氏子由来之碑
傳ヘ言フ文化年間加藤重兵衛氏埼玉縣川辺村大字榮ノ地ヨリ當地
ニ移住シ一家ヲ興シテヨリ相前後シテ野澤權次郎高橋重内ノ兩氏
モ亦移住シ來リテ三家鼎立シ一部落ヲ爲スニ至レリ當時野澤氏庭
内ニ老杉三株アリシニ因ミ字名ヲ三本杉ト称スルニ至レリ明治十
四五年頃ニ至リテ戸数モ十戸ヲ算スルニ及ビテ小部落ノ態裁ヲ整
ヘリ仍テ浅間神社ノ分靈ヲ高橋氏庭内ニ奉安シテ字内ノ氏神ト爲
シ爾來例年祭祀尊崇怠ラズ今日ニ及ベリ昭和十年一月世ノ進化ニ
伴ヒ字名ヲ三杉町ト改稱シテ往年ノ三老杉ノ名残リ今尚留ム偶々
當町出身ノ野本定次郎氏紀元二千六百年ヲ記念ニ神社ノ敷地購入
資金ニト金壹仟圓也ノ寄進アリシヲ幸ヒ當時築井秀雄氏ノ所有宅
地タル三杉町二七○二番地所在ノ百四十四坪ヲ譲渡買受ケ昭和十
五年十一月二十五日此豦ニ神社ヲ遷座シ奉リテ盛大ナル遷座式ヲ
擧行セリ然シテ築井秀雄氏ハ敬神ノ誠意ヨリ金五拾圓也ナリト且
ツ又此擧シ傳ヘ聞ケル永瀬喜代次ニ於テモ金壹百圓也等ノ寄進ア
リテ當町草分ケノ祖先加藤氏開拓以來約百四十年ニシテ甫メテ獨
立神社ノ嚴乎トシテ鎭座スルヲ仰ギ奉ルコトヲ得ルニ至リタルモ
ノナリ夫レ人ハ神ノ加護ヲ蒙リ其福徳ヲ圓満ニシ神ハ人ノ崇敬ヲ
受ケ給ハリテ益其威光ヲ輝シ給フ仍テ三杉町ノ由來並ニ三氏敬神
ノ誠ヲ永ク傳フベク三十五戸町民欣然トシテ石ニ録スト爾云フ』

 明治14年から15年(1881~82)頃、高橋氏の庭内に浅間神社の分霊を祀り字内の氏神としたのが始まりで、その後昭和15年(1939)年11月25日に当地に遷座、更に昭和45年(1970)2月に建替えをした、と。

雷電神社(西牛谷)

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 国道125号線のそばに鎮座する雷電神社(古河市西牛谷1182-2)。
 八龍神社とは距離も近く、しかし去年参拝しようとした時に見つけられずにいたのだが、今回はちゃんと到達できた。
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 参道。
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 上の方が破損していてよくわからないが、■國神社と■力神社の名が刻まれている。亦明治廿九年正月ともあるので1896年のもののようだ。
 ■國神社の方は円のような部分も見えるから、靖國神社なのかな。■力神社はなんだろう。手力神社だろうか。

三峯神社(旭町一丁目)

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 国道125号線旭町交差点の南西、旭自治会館の隣に鎮座する三峯神社(古河市旭町1-13-11)。
 古河市史にこちらの記述は見当たらなかったのでググってみると、秩父の三峯神社からの分霊であるようだ。と言うことは御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊になるのだろう。
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 拝殿。
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 十九夜塔と青面金剛、如意輪観音。
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 青面金剛と如意輪観音。
 如意輪観音は寛政十二庚申年(1800)十一月の造立。

頼政神社(錦町)

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 旧古河城最北端の土塁上に鎮座する頼政神社(古河市錦町9-5)。
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『古河市指定有形文化財・歴史資料
 頼政神社 手水鉢 一基・灯籠 二対・狛犬 一対
 昭和五十二年四月四日指定
 古河市錦町九番五号
 元禄九年(1696)、古河城主松平信輝は、城内の立崎郭に先祖源頼政の墳墓(廟所)があることを知り、その社殿を修築してこれをまつった。その時、信輝の弟で高崎城主であった松平輝貞が大灯籠一対を寄進し、家臣たちが手水鉢一基・灯籠一対を奉納した。
 とくに輝貞寄進の大灯籠は、寄進者は判明しないものの、狛犬一対とともに江戸時代前期のすぐれた作風を今日に伝える石造遺品として注目される。
 なお、頼政神社は大正元年(1912)に河川改修のため、立崎から現在地に移された。
 平成十九年一月』

 上記の他に、古河藩第五代藩主土井利益によって延宝五年(1677)に城内守護の神として創建されたとする説もあるのだそうだ。
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 一の鳥居。
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 古河城下復原図。
 この図で見ると、現在頼政神社がある場所は御作事役所と書かれた所になるので、昔はもっと南に鎮座していたのだと言うことがわかる。
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 二の鳥居。
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 境内社。
 頼政神社には境内社として八幡宮と大鳥神社があるそうなので、こちらがそのどちらかなのかな。その右脇には稲荷社。
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 拝殿。
 拝殿左の祠には白馬の像が納められていたので、神馬庫かな。左端は水神宮。
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 狛犬。
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 横から。

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 水神宮(古河市錦町9-4)。
 中には木祠が三つ並んでいる。
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『移轉合併之記
水神社は古昔より船渡町の鎮守にして始堤外字外野に在り町民の崇敬厚かりしも明治四十五年中渡良瀬川改修起工の爲境内及び船渡町の過半其河幅内に入り崇敬者諸方に轉住す以是將來維持の便宜を稽い頼政神社の境内に移轉合併して社殿の修理を完成し特に金五拾圓を醵出して之を基本財産中に獻納し以て永遠祭祀の途を確立せり茲に顛末を勤して不朽に傳うと言爾
大正三年十月』
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 坂を下りて行くと、鳥居。
 額には水神宮の他に舩魂大明神と大杉大明神の名が浮き彫りにされている。
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 なんだろう? 扉が三つあるので三柱の神が祀られているように思えるが、名を記したものが無いのでわからない。水神宮・舩魂神社・大杉神社なら数は合うけど、でもそれは頼政神社の隣にあるしなぁ。
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「史蹟 古河藩作事役所址」の標石。

 以上で12月23日参拝分終了。そして今年の更新も終了。時間が足らなくて雀神社などは巡れなかったが、それはまた来年かな。
 使用機材はK-7にDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、FA50mm F1.4。Coolpix P7100。

鎮火稲荷神社(大手町)

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 東片町自治会々館前に鎮座する鎮火稲荷神社(古河市大手町4)。
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 本殿。
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「史跡 古河藩盈科堂及教武所趾」と彫られた標石。ここには藩校である盈科堂と武道の稽古場があったそうだ。
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 鎮火稲荷神社から少し南へ下ると稲荷神社(古河市錦町1)があるのだが、見た感じ民家の庭先を抜けて行かなければならないようなので、位置のチェックだけして参拝はパス。

正定寺(大手町)

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 福寿稲荷神社の西隣に位置する浄土宗證誠山宝地院正定寺(古河市大手町7-1)。
 顧り阿弥陀の台座には利勝寶地院正定寺と記されている。正式な山号は證誠山だが、別名で利勝山とも呼ばれているそうだ。これはこちらの寺院が寛永十年(1633)に土井利勝によって開基されたことによるものだろうか。
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 赤門。
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『茨城県指定文化財 絵画・絹本着色 土井利勝肖像画
 昭和三十九年七月三十一日指定
 土井利勝(1573-1644)は寛永十年(1633)下総佐倉城主から古河城主となった土井家の祖であります。
 寛永十五年(1638)から正保元年(1644)まで江戸幕府の大老職にあり家康秀忠家光に仕えて幕府の基礎を築いた幕閣の一人であります。古河地方の開発にも貢献する所が大きかった古河城主の一人であります。
 當寺正定寺蔵の「土井利勝肖像」画は絹本着色の画像で江戸時代の作で作者は不詳であります。
 昭和四十三年一月五日』
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 本堂。
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 法然上人像と土井利勝公像。
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 鐘楼。
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『念仏塚(南無阿弥陀仏の塔)
 1645年、古河城主利勝公の供養のためと「時の鐘」としてその子、利隆らにより鐘つき堂建立。
 1754年、住職八世快誉上人の時代に町民奉仕三千人、五年の歳月により、新たに一丈五尺の土盛り。念仏を称えながら土を突き固めたので念仏塚という。
 2010年、浄土宗宗祖法然上人八○○年遠忌記念に檀信徒浄財により鐘つき堂の再建』
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 稲荷堂。
 身替不動尊と三河稲荷(享和三年(1803)二月)、唐津稲荷(安永七年(1778)正月)が納められている。
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 侍従樅碑と弁天堂。
 弁天堂には、春日局が徳川家光より拝領し、養子である堀田正俊が譲り受けたと伝えられる開運辨財天像が納められているのだそうだ。堂内に貼られたポスターには1682年とも書かれているので、弁天堂が建てられ、辨財天像が奉納されたのがその年(天和二年)であるとしたら、堀田正俊が暗殺される二年前ということになるか。
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『侍従樅碑(土井利勝公御代記)
 土井家初代利勝公(1573-1644・行年七十二才)
 徳川家康居城の浜松城で誕生。家康の御子と刻まれている。(4行目下段)
 1633年、古河城主(16万117石)となる。
 1638年、江戸幕府初代大老となる。
「侍従」は役職名。「樅」は利勝公逝去し、別邸内に衣冠を埋め、そこに大樅の木があるのが理由。この石碑は土井家十四代利与建立。昭和八年、正定寺に移築』
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 弁天堂内。
 七福神像と白蛇像、鬼面などが置かれている。そう言えば、来年は巳年だっけなぁ。
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 古河七福神の一つである辨財天と水神。
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『とき門について
 黒門わき潜戸を家臣の土岐なる者、緊急のため、乗馬のまま乗り入れて、無事、勤めをはたした。臨機応変な働きに土井公より褒美に名馬を賜った。石碑の左面に馬名が刻まれている。以後、巷では「とき門」と呼ばれ、時に応じて敏なり、として立身出世門と称された。
 子孫が先祖の栄誉を忘れないように、馬頭観世音を奉納した。(1830年代)』
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『古河市指定文化財・建造物 旧土井家江戸下屋敷表門(正定寺黒門)
昭和四十三年四月一日指定
古河市大手町七番一号
 この門はもと東京の本郷にあった旧古河藩主土井家の下屋敷の表門であったが、昭和八年(1933)に土井家の菩提寺である当正定寺に移築。寄進されたものである。
 江戸時代の大名屋敷に多く用いられた薬医門と呼ばれる型式で、両側に袖塀がつき、向かって左側に潜戸がある。また、屋根瓦には、土井家の家紋である「水車」があしらわれている。
 平成二十年一月』
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 黒門。

福寿稲荷神社(中央町一丁目)

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 浄土宗大蓮山潮雲院隆岩寺と浄土宗證誠山宝地院正定寺に挟まれた位置に鎮座する福寿稲荷神社(古河市中央町1-7)。
 明治八年(1875)頃までは隆岩寺の守護神とされていたそうだ。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 お狐さま。
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 古河七福神の一つ、寿老人。
 後ろの狐は、嘗てあった玉垣の一部。
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 社殿西側から。
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 境内社。
 台座に昭和三十九年(1964)一月吉日の文字はあったが、何神社なのかは不明。額には祈願交通安全と書かれているので、とりあえず交通安全神社と呼んでおこう(笑)
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 大国神社と淡島神社。
 淡島神社脇の案内板は文字が殆ど流れ落ちていて判読不能。
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 稲荷神社と土公神。
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 厳島神社。
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 西の鳥居。

 ※2013/12/02追記
『田町にあり、祭神は豊宇気毘売命である。社伝では、天正年間(1573~92)の創建で、古河城主小笠原秀政の信仰が厚く、祈願所としたことにはじまるという。また、明治八年(1875)ごろまでは隆岩寺の守護神でもあった。本殿は南向き流造銅板葺一・五坪である。
 祭礼は初午祭と九月十九日の例祭である。福寿稲荷は、福の神としての信仰も厚いが、盗難除けとしても近在から多くの人たちの参拝を受けてきた。また。ここにはお稲荷様の枕があり、その枕を借りると夜泣きする赤ん坊が泣かなくなるという信仰がある。枕一つを借りた場合、二つにして返すことになっている。以前は福寿講もあったが現在はなくなった。
 境内社としては、淡島神社(少彦名命)、大国神社(大国主命)、厳島神社(奥津姫命)などがあり、それぞれ稲荷神社を参拝に来た人たちの信仰を受けている』(「古河市史」より抜粋)

瘡守稲荷神社(横山町一丁目)

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 天満宮から北へ向かって行くと、ドミニカ餃子の向かい側に瘡守稲荷神社(古河市横山町1-10-7)が鎮座している。
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『臼井家守護社笠森稲荷記録
初代梅蔵   栃木より現臼井屋敷に移り住む
二代目久兵衛 安政初午屋敷の一画に守護社としてこれを建立
三代目熊蔵  (襲名)久兵衛を名乗りこの社を守護す
四代目爲次郎 先代を見習いこの社を守護す
五代目秋次  明治三十七年十二月一日主七十九才
       現存酒類の販売を主とし繁栄しこの守護社笠森稲荷を改造修復をす
 昭和五十七年六月』

天満宮(横山町一丁目)

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 紺屋町会議所隣に鎮座する天満宮(古河市横山町1-6)。
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 狛犬。
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 拝殿。

 ※2013/12/02追記
『明治五年(1872)まで、薬王山地福院という真言宗の寺があり、そこが天満宮の別当をつとめていた。一説によると、その地福院の六代住職の宥伝が創建したといわれる。また、土井家の家臣の日暮七郎左衛門の屋敷にまつられていたものが屋敷替えのとき残ったともいわれている。したがって日暮天神ともいわれ、同家には天神の画像もあったが、それも神社に奉納されたという。天満宮の扁額は安永八年(1779)に市川泰溜が書いたものである』(「古河市史」より抜粋)

神宮寺(横山町一丁目)

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 真言宗豊山派真龍山心城院神宮寺(古河市横山町1-1-11)。
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 参道右手側に……なんだろう。賽銭箱には包み抱き稲紋と二つ穂変わり抱き稲紋が混ざったような稲紋がついていたから、稲荷社なのかな。
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 狛犬。
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『神宮寺の由来
寺 名  真龍山 心城院 神宮寺
宗 派  真言宗豊山派
総本山  奈良県桜井市初瀬の長谷寺
本 尊  不動明王
安置佛  十一面観世音菩薩(茨城県指定有形文化財)
     地蔵菩薩、歓喜天
 此の寺は室町時代、後花園天皇の御代、即ち文安三年(1446)五月、良宥上人の開基でもと鎌倉にあり、関東公方足利成氏の帰依が深かった。成氏が関東管領の上杉憲忠と争い、これを謀殺した為、幕府の追討を受け、康正元年(1455)古河城に移り、古河公方と称したが、この時、成氏の守り本尊である十一面観音菩薩像を良宥上人が守護して、共に古河に移り、古河城中の観音寺曲輪を賜り、一宇を建立して心城院と号した。後ち成氏の命により、此の十一面観音菩薩を雀明神の本地佛とし心城院を以って別当祈願所とし、公より法施として寺領七石を賜った。その後元和六年(1620)城主奥平美作守忠昌が、城増築の為、町割りをした際、現在地に移り、真龍山心城院神宮寺と号した。これは、鎌倉神宮寺の旧名によるものである。慶安元年(1648)八月徳川三代将軍家光公より当時十二世住職俊賀の代、改めて朱印七石を賜る。貞享五年(1688)一月三日類火に遭い寺宝、縁起等を焼失した。元禄四年(1691)再建され、大正七年(1918)大修繕し、現在に至る。
 十一面観音菩薩像(茨城県指定有形文化財)は古河の総鎮守、雀神社の本地佛として、永く同神社境内の観音堂に安置されてあったが、明治二年(1869)また神宮寺に移された。
 平成二十二年十一月』
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 本堂。
 大棟には輪違い紋と五三桐紋が付いている。
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『茨城県指定有形文化財・彫刻 木造十一面観音坐像
 昭和六十三年一月二十五日指定
 古河市横山町一丁目一番一一号
 神宮寺の名に「神宮」という神社の意味があるのは、かつて古河の総鎮守である雀神社を監督する立場の寺であったことからきている。そして、当寺本尊の不動明王とは別にあるこの観音は、雀神社を子にたとえれば、その親にあたるものとして、もとは雀神社境内の観音堂にまつられていたが、明治時代初年の神仏分離政策によりこの神宮寺にもどされてきたものである。
 この像は両足を組んだ像高四七センチの坐像で、腕は二本、左手に蓮の花をさした水瓶を持ち、頭上の天冠台の上に九面、頂上に一面の化仏が乗り、本面とあわせて十一面の観音となっているが、ほかに失われた化仏のあった形跡がある。桧の寄木造で、眼は水晶、全体に彩色がほどこされている。
 寺伝によると、古河公方足利成氏の保護を受けた良宥が鎌倉から古河に移したもので、平安時代の定朝の作であるというが、作風からすると室町時代中期以前の作の見本といえるような彫刻であるという。紀年銘がないのが惜しまれる。
 平成二十年一月』

諏訪八幡神社(本町一丁目)

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 古河駅の西側に鎮座する諏訪八幡神社(古河市本町1-3-49)。
 諏訪八幡の名は、かつては古河城諏訪郭(現歴史博物館)にあったことからで、諏訪神社と合祀していると言うわけではないようだ。
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 参道左手側に招福八幡水、右手側に水屋。
『この水磐石は古河城主松平伊豆守信輝公の老臣松井五郎右衛門尉興紹ほか家来十六名により宝永七年(1710)に八幡宮に寄進されたものである。
 ふるさと創生事業町内憩いの広場造成のおり水屋を再建する
 平成八年三月吉日』
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『当社は初代古河城主足利成氏公が相模国鶴岡八幡宮より勧請して康正元年(1455)城内諏訪の地の艮の隅に祀り鎮守とせり
 足利時代滅び徳川時代に移り 寛永十年(1633)城主たりし土井利勝公は城内に諏訪郭を構営し而うして古河城の鬼門除けを名目として当社と大楽院を寛永十三年(1636)新町に移して小祠を旧地に残せり
 然る所新町に移り一度火災に遭いて神社荒廃しあれども 元禄年間に松平伊豆守源公信輝古河城主たるとき老臣松井五郎右衛門興紹が諏訪郭に住して其地の小祠と新町八幡宮の廃社同然の祭神とは同社なるを知り 元禄九年(1696)改て丹心至誠をこめて霊宮を造営して騎馬の御祭神を奉納す
 其の后 宝永六年(1709)迄の間に 再び祝融の炎に罹り縁起宝物及び興紹の奉納目録等烏有に帰せるも興紹奉納する処の御祭神は火を免かれて現在に到る
 明治三十七年(1904)鳥居並社殿の修復成りて茨城県より公認神社の社格を獲たり
 昭和三十七年(1962)五月吉日 町内氏子崇敬者により社殿改築並に石鳥居を奉納して奉遷式を挙行す
 茲に當八幡宮の来歴を記し永遠に後世に伝云爾
 昭和三十七年五月吉日』
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 拝殿。
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 古河七福神の一つ、布袋。

竹駒稲荷神社(本町一丁目)

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 古河駅の北西に鎮座する竹駒稲荷神社(古河市本町1-4-11)。名前から見て、宮城県岩沼市の竹駒神社から勧請したものなのかな。
 この鳥居は昭和七年(1932)十月建立のもの。
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 お狐さま。
 台座には「明治三十八年第十月新調 石工 木村伊之助」と刻まれている。1905年だ。
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 二の鳥居。
 こちらは昭和四十六年(1971)六月の建立。
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 拝殿。
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 斜めから。

 ※2013/12/02追記
『鍛冶町にあり、祭神は宇賀之魂命であるが、当所は隣接している宝輪寺の守護神であったと伝えられる。
 祭礼としては二月の初午、三月十五日の春祭り、九月二十二日の例祭、十一月二十二日の秋祭りなどがある。なお、境内社としては春日神社と金山神社がある』(「古河市史」より抜粋)

小蓋宮稲荷神社(東三丁目)

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 古河簡易裁判所の西側に鎮座する小蓋宮稲荷神社(古河市東3-4)。
 当神社の御神体は京都伏見稲荷大社の御神体と同じです。と書かれているので、御祭神は宇迦之御魂神なのだろう。
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『小蓋宮稲荷神社再建にあたりて
 古河市市政四十周年記念の年に、多くの方々のご賛同、ご協力によりまして、ここ雷電一丁目に小蓋宮稲荷神を再建することができました。四季折々に訪れるみなさまの心のよりどころとなることを祈念いたします。
 平成二年十一月吉日』
 創建時期等は不明。
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 古河市指定天然記念物の大欅。
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『古河市指定文化財・天然記念物 小蓋宮の大欅(こぶたのみやのおおけやき)
 昭和四十九年五月二十三日指定
 古河市東三丁目二三七番地
 かつて畑作中心の古河の農家にとって、春から夏にかけての雹による被害は、恐るべきことであった。小蓋宮は畑にふたをして雹害から農作物を守る神として信仰された。昔はこの辺りは畑の中心地であり、そこに社が祀られ欅が植えられたのである。
 この大欅は、目通り周囲約七・三メートル、高さ約三一・二メートル、樹齢は六○○年と推定されるが、樹勢は旺盛で、四方に枝張りがよく樹形も美しい。今は周囲がすっかり市街地となったが、その中心部にある老樹として貴重なものとなっている。
 平成十九年一月』

香取神社(東本町一丁目)

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 古河駅の東側に鎮座する香取神社(古河市東本町1-5)。
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 拝殿。

秋葉神社(本町二丁目)

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 古河市立古河第二小学校の北側、古河駅西口のそばに鎮座する秋葉神社(古河市本町2-2-14)。
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『由緒並遷宮記念碑
當社は弘化二年(1845)皇紀二千五百年武州北足立郡指扇なる秋葉神社より勧請し嘗ては駿州三尺坊大權現をも合殿として尊信し來りしが明治年間に至り現地に社殿を移し明治二十三年(1890)町内守護神として尊崇し昭和四年(1929)五月吉日社殿の新築成り神威愈々輝き為に町内安穏を致し殊に明治二十七八年(1894-95)の日清戰役を始とし外征うある毎に其全勝と出征者の武運長久とを祈願し只管其加護の厚きに感激し尊信歳と共に厚きを致せり乃ち有志相圖り奉賛會を設立し境域の擴張整備基本財産の蓄積保管に努め昭和十八年(1943)十一月二十七日に埼玉縣々社秋葉神社より改めて神璽を奉齋し奉り同年十二月七日に尊嚴なる遷宮式典を執行し神威彌々高く神徳益々洽きを致せり仍而有志相諮って此碑を建つと爾云
昭和十九年五月建』
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 本殿。
 秋葉神社だから大棟中央の羽団扇紋はわかるとして、その両脇にあるうねうねっとした紋はなんだろう?
 後ろに見える建物には七軒町秋葉神社社務所自治会会議所と書かれた看板が掛かってるので、この辺りは古くは七軒町と言う地名だったのかな。
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 裏手に回ると、苔生した石祠と狛犬。旧本殿なのかな。狛犬の台座には昭和四年四月の文字有り。
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 古河七福神の一つ、毘沙門天。
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 稲荷神社。

蛭子神社(中央町三丁目)

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 古河市立古河第一小学校の東側に鎮座する蛭子神社(古河市中央町3-9-1)。
 古河市観光協会のサイトでは蛭子神社、Googleマップでは西宮大神、こちらに置かれていたパンフレットでは恵比寿神社……どれが正しい名前なんだ、この神社。
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『大工町恵比寿神社
 当、恵比寿神社はえびす大神(蛭子大神)を祭祀する神社です。
 えびす様とは右肩に釣竿、左小脇に鯛を抱えて座した福徳円満なエビス顔のお姿で描かれ、開運、商売繁盛、漁業の神様としてよく知られておりますが、一般的には、えびす様はイザナギノミコトの第三子、蛭子尊がえびす様になったと言われています。えびす様が蛭子神であるとする説は、記紀神話〔古事記、日本書紀〕で蛭子をエビスと訓じているからと云われています。
 恵比寿神社の総本社は兵庫県西宮市の西宮神社で、当社はその御分霊として認証されております。本殿正面には「西宮大神」の献額があります。
 当社の御由緒を尋ねますと、大工町の氏神として、現在地より少し南の地、当町五千七百五十番地に勧請したのがはじまりです。碑文によれば、社殿の造営は文化十一年(1814)であります。古くより霊験顕著をもって知られ、民衆の崇敬を集めておりましたが、幕末の風雪百年を経て社殿も大破し明治四十五年(1912)三月、総代、氏子、世話人相謀り広く寄付金を募集して、現在の土地を購入し、社殿を修復して遷座したものであります。境内の本殿左に建つ[神社移転之記]の碑銘を見れば、関東一円の奉賛者の芳名が刻まれており、当時の人々の篤き信仰心と当社に対する深い崇敬の念がしのばれます。来る平成二十六年は当社の鎮座造営二百年の記念すべき年を迎えます。本年三月十一日の東日本大震災では正面の石灯籠も破損いたしましたが、皆様のご協力をお願いして、修復し、次世代へ祈りこめて二百年祭をとり行う所存でございます』
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 古河七福神の一つ、恵比寿。

神明宮(本町二丁目)

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 古河市立古河第二小学校の西側に鎮座する神明宮(古河市本町2-12-37)。
 こちらの前に、ここから少し南にある八幡宮にも行ってみたのだが、地域の方々による正月に向けた大掃除の最中だったので邪魔にならないようにパス。帰りがけにもう一度寄ってみたのだが、入口にチェーンが張られていたのでやはりパス。
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 本殿。
 嘗ては正蔵院の境内社であったのだが後に町内管理になり、亦明治十年(1877)境内に古河小学校分校が設立された為、現在地に移転したとのこと。猶、正蔵院は廃仏毀釈により消滅し、本町一丁目にある尊勝院に吸収されたそうだ。
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 古河七福神の一つ、大黒天。
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三神町稲荷神社(中央町三丁目)

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 古河歴史博物館の東側、三神町自治会会議所(古河市中央町3-7)の裏に鎮座する三神町稲荷神社。尤も、会議所は拝殿も兼ねているようだけど。
 拝殿の扉には古河七福神の朱印は神社北側の塚田製茶店側に置かれていると書かれた紙が貼られているが、七福神巡りはしていないので、まぁ別にいいか。
 ちなみに三神町の名前の由来は諏訪郭の八幡神社大工町の蛭子神社、そしてこちらの稲荷神社からであるのだそうだ。
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 古河城の鬼門除けとして創建され、明治になってから町内で管理されるようになったとのこと。古河城の築城は1180年代頃とされているようだが、こちらの創建時期がいつ頃なのかは不明。
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 神社入口。
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 その脇に福禄寿。

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 稲荷神社から東へ向かって行くと、県道261号線との合流点脇に古河城御茶屋口門址がある。
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 案内板。
 上の図面で赤○の付いている所が三神町稲荷神社。

子ノ神社(長谷町)

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 長谷町自治会館真裏に鎮座すると言うか自治会館が社務所や拝殿も兼ねている子ノ神社(古河市長谷町2-14)。
 こちらに着いた時は丁度境内の掃除が終わり、地域の方々が引上げて行くところだった。
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 狛犬。
 こちらの狛犬は古河市内で最も古いものだと、残っていた方が教えてくれた。
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 元禄十六稔癸未五月十八日と刻まれているが、台座などではなく狛犬本体に刻まれているのは初めて見たような気がする。ちなみに元禄十六年は1703年。
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 本殿。

 ※2013/12/02追記
『子の権現は、通称ゴンゲン様と呼ばれ、御神体は秩父の三峰神社から勧請している。現在は長谷町の鎮守になっているが、以前は長谷町在住の士族三十五人の共同所有であった。その後、士族の離散や戦後の固定資産税納入のこともあって、昭和四十一年(1966)から現在のように町内の鎮守になった。
 一般に脚気・神経痛に利益があるといわれ、県内はもちろんのこと、栃木県や埼玉県からも願掛けに来る者もある。願がかなうとお礼参りとして、草鞋やブリキの模造品を奉納した。また、希望者には、氏子が奉納した草鞋を売り、それを神社の維持費に当てた。このほか、伊勢参拝をする者は、長旅の安全を祈ってから出かけるものもあった』(「古河市史」より抜粋)
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