館林城土橋門跡(城町)

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 館林市文化会館北側に位置する館林城土橋門跡(館林市城町4-32)。
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 善長寺前の遊歩道にも同じカルタが埋め込まれていた。
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館林市指定史跡 館林城跡
 一、指定 昭和四八年四月一日 館林市指定史跡
 一、所在 館林市城町甲二三‐一他
 一、時代 戦国時代~江戸時代

 館林城は、「城沼」を自然の要害とした平城で、別名を「尾曳城」という。
 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と塀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は、現在まで発見されていない。
 現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明三年(一四七一)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
 天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が十万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
 城の建物の大半は明治七年(一八七四)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており三の丸には土橋門が復元されている。
 土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
 この土橋門は、昭和五七年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により三基の門の基礎と二基の井戸が発見されている。また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
 特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。

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 土橋門内側。
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 井戸跡。
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 土橋門跡の110m程東に館林城千貫門跡の石碑が建てられている(館林市城町1-1)。
 千貫門は館林城の牙城部 三の丸の北面中央に位置し 城の正門である大手門と同様 城内にある重要な門の一つであった その形態は渡櫓門で 三の丸北面部の土橋門(通用口)に対して武士の正門とされていた
 千貫門の内側には 城内を敵に見透かされぬように築かれた鉤の手状の蔀土居が絵図等により確認されている また その名は三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来するといわれるが 当時の面影は失われ 現在は隣接する土橋門周辺の土塁等にその姿をとどめるにすぎない
 碑面のレリーフは 館林を代表する芸術家藤牧義夫(一九一一~一九三五?)の作品「三岳画集」に所収されているものであり 尾曳稲荷神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる
 此所に碑を建設し 城下町館林を後世に伝えるとともに 文化の発展に寄与するものである
 昭和五十九年三月三十一日
         館林市教育委員会

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館林城出土墓石群(尾曳町)

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 つつじが岡第二公園の敷地内、旧秋元別邸の南側に位置する館林城出土墓石群(館林市尾曳町8)。
 ぽつぽつと雨が降り始めて来たので帰ろうかどうかと躊躇ったが、少しくらいの雨ならこの辺りは木が遮ってくれるので、じゃあ撮りながらもう少し様子を見ようかと。
 GPS情報を取得していなかったので正確な位置はわからないが、大体この辺だった筈。まぁ案内表示が設置されているので迷うことは無いだろうけど。
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館林市重要文化財 館林城出土墓石群
一、指定年月日 平成九年二月二四日指定
一、所 在 地 館林市尾曳町乙 四番地の一
一、時   代 中世
これらの墓石群は、館林城本丸や三の丸土塁から別々に出土した五輪塔や宝篋印塔などの墓石を組み合わせ、昭和四八年(一九七三)に墓域として整備したものです。
特に五輪塔は、その形から中世につくられたものと考えられています。
これらの墓石は、近世の館林城の土塁や石垣を修築するにあたって、石材として集められ利用されたと考えられています。
墓石の中には、中世の館林・邑楽地域の領主であった佐貫氏一族と思われる「沙弥道慶」の名や、中世の年号が読めたものがあったと言われていますが、風化が激しいため現在では判読できません。
中世の館林市域の石造物について考える上で欠かせない文化財です。

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 ずらりと並ぶ五輪塔。
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 如意輪観音。

道標「これより石と舟とみち」(荒井一丁目)

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 埼玉県道57号線高尾氷川神社入口交差点の傍にある道標(北本市荒井一丁目)。
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市指定歴史資料 道標「これより石と舟とみち」
 昭和五十三年三月十五日指定
 この道標は、享保十二年(一七二七)に、馬室(鴻巣市)から石戸宿へ通じる、鎌倉街道と伝えられる道沿いに建立されたものである。
  (銘文)
   正 面 西 たかお舟とみち
       北 かうのすミち
   裏 面 高尾村
       享保十二未天四月吉日
       新井平兵衛
   左側面 左川越道
   右側面 これより石と舟とミち
 ここでいう「石と舟と」とは「石戸河岸」のことである。
 荒川は、江戸時代から大正時代頃までの長い間、舟運が栄えていたが、この道標は、その河岸の存在を示す貴重な資料である。
 現在、実物は北本市教育委員会で保管している。
  平成六年三月

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伝鎌倉街道
 鎌倉幕府の成立とともに整備された鎌倉街道は鎌倉と関東諸国・信濃・陸奥とを結んだ歴史の道として知られています。かつての鎌倉街道には、上道・中道・下道の幹線とそこから派生する大小の枝道が発達していました。
 北本市内の西部には、古くから鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。
 この街道は中道から枝分かれして荒川沿岸を北上し、群馬県へと通じる上野道と考えられており、支道としての役割を果たしていたようです。
 街道沿いには中世の城館跡や寺院等の文化財が数多く存在し、歴史的に重要な街道であったことがうかがえます。
 この街道のルートは、上尾市の平方から桶川市の川田谷をへて、市内では庚塚(芭蕉句碑)─石戸宿─須賀神社・氷川神社─道標「これより石と舟とミち」─鉄砲宿を結んでいたと伝えられています。
 平成二十九年十二月


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 高尾氷川神社入口交差点の東側に鎮座する祠(北本市石戸三丁目)。
 北原集会所から道標へ向かう途中に遠くから撮影しただけなので何神社なのかは不明だが、たぶん稲荷社だろう。

馬室埴輪窯跡(原馬室)

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 馬室キャンプ体験広場の端に位置する馬室埴輪窯跡(鴻巣市原馬室2914)。
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埼玉県指定史跡 馬室埴輪窯跡
 時代 古墳時代後期
 古墳に埴輪を立て並べる風習は、古墳文化の中心地であった関西地方で生まれ、4~6世紀の約300年間にわたって北海道を除く全国各地で盛んに行われました。
 埴輪には、円筒形、人物形、動物形、家形などたくさんの種類がありますが、その焼き方には大きく二つの方法があります。一つは、地面に浅い穴を掘って焚き火のように焼く野焼きで、日本では縄文土器が出現して以来の伝統的な技法です。もう一つは、馬室窯跡のように台地の斜面などを利用し、本格的なのぼり窯で焼く方法です。後者は5世紀の中頃に、朝鮮半島からわが国に伝わった新しい技術で、それが埴輪生産に導入されたものです。この窯を使って焼く方法は、一度に多量の良質な埴輪を焼くにはとても有効で、6世紀台に入ると関東地方でも広く普及しました。
 馬室埴輪窯跡は、昭和7年に初めて正式な発掘調査が行われ、古墳時代の埴輪生産の様子を知る上でとても貴重であることから、昭和9年に県指定史跡に指定されています。
 現在までに、保存地区周辺には10基以上の埴輪窯跡が確認され、台地上には埴輪工人(製作者)たちの集落も発見されています。このことから、工人集団のくらしを知る上でも大変重要な遺跡です。
 ここで生産された埴輪は、箕田古墳群をはじめとして、荒川流域の古墳へ運ばれていたものと考えられていますが、埴輪を焼いていた期間は5世紀後半~6世紀末までの約120年間であったものと思われます。
 平成4年3月

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伝源経基館跡(大間)

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 城山ふるさとの森の中に残る、源経基の館跡と伝えられる史跡(鴻巣市大間942)。
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埼玉県指定史跡 伝源経基館跡
 昭和十六年三月三十一日指定
 源経基は清和天皇の皇子貞純親王の子で、親王の第六子にあたることから六孫王と称した。弓馬の道に長じ、武勇をもって知られた。源姓を賜って源朝臣を称したが、武蔵介となって関東に下り、この地に館を構えたと伝えられている。
 城山とも浅間山とも呼ばれるこの館跡は、現在は大部分が山林となっている。館の主要部分は、東西約九五メートル、南北約八五メートルの方形で、西側の低湿地に面する部分を除く三方に土塁と堀が良好な状態で残っている。堀の幅は、東辺で約一〇メートル、堀底から土塁頂部まで約三メートルである。土塁が築かれていない西辺は、郭内の地表面と低湿地との高低差が約四・五メートルあり、低湿地に向かう斜面の法面の傾斜を急にすることで防備したのであろう。
 昭和六十二年に鴻巣市教育委員会によって北西部分が発掘調査され、断面の形が箱薬研となる堀が二四メートルにわたって検出された。堀は西方に向かうにしたがって底の深さを増しながら低湿地に続いており、西辺部に土塁がなくても館は防御に十分な高さがあったことが明らかになった。また、堀はもともと空彫であったと思われ、ローム層を掘り抜いて下の砂層に達するまで掘り込まれている。堀からは中世の陶磁器片が出土したのみで、館の正確な建築年代は明らかにできなかった。
 武蔵介経基の名は『将門記』や『貞信公記』等に載っており、この行状は広く知られている。また、源氏の一門でもっとも栄えたのは、この源経基を祖とする清和源氏で、頼光・義家・義朝・頼朝等はこの系統である。
 経基が武蔵介としてこの地に赴任したのは天慶元年(九八三)で、同時に興世王も武蔵権守として赴任している。赴任早々にこの二人と足立郡司武蔵武芝との間で騒乱が起こり、平将門が調停に介入している。この事件は、その後起こった平将門の乱の契機となった。また、この頃には土着武士及び郡司たちの実力が中央政府の力の及ばぬ程に強大になっていたことを示すものでもあった。
 平将門の乱は、天慶三年(九四〇)に藤原秀郷・平貞盛らの奮戦によって平定された。この乱の後に経基は武蔵守となり、その子の満仲も武蔵権守に任ぜられている。この二代の間に清和源氏は武蔵国へ勢力を浸透させたが、経基の時代の勢力は坂東八平氏や嵯峨源氏などに遠く及ばなかった。伝えられるとおりこの館跡が経基のものだったならば、当時の清和源氏の勢力の実態をこの規模が反映しているといえよう(埼玉県史参照)。
 平成二十四年二月

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 西側入口には保護地区指定標識が設置されている。
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 移動中に少し立ち寄ってみただけなので、主郭部のみで周囲の堀や土塁などは見て回ってはいない。
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 小高くなっている部分の頂には石碑が建てられている。
 薬師堂に向かう前に一度立ち寄っていたのだが、その時は石碑の前で体操をしているおばさんがいたので一旦後回しにして、大野神社にお詣りした後に再度立ち寄ってみたらさすがに誰もいなかった。
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 六孫王経基城址碑。
 背面には以下の文が刻まれている。
箕田郷大間村
本村城山ハ幕府儒官林大學頭ノ采地也天保度里正耕八ニ因リ村民ニ給ス明治十二秊福島耕助ニ承継シテ作次郎ノ有ニ歸ス
大正四年八月

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 遺跡基準点。

千塚の判官塚(千塚町)

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 熊野神社の南西、十字路傍にある判官塚(館林市千塚町)。
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館林市指定史跡 千塚の判官塚
一、指定年月日 昭和六十二年八月七日
一、所 在 地 館林市千塚一七三番地
一、時   代 中世・近世
 千塚の判官塚は高さ一メートル、大きさ六×一一メートル程の小さな塚である。
 塚上には、一本の松が植えられ、「判官塚」の石塔と四基の庚申塔、四基の馬頭観音が建っている。
 中近世、館林から下野国藤岡・佐野に通じる古街道がこの地を通っていたちいわれ、聖護院門跡であった道興准后の紀行文『廻国雑記』の文明十九年(一四八七)の記述に「ちづか(千塚)」とあり、千塚が街道の要衝にあったことがわかる。また、榊原氏が館林藩主であった頃に古街道にそって造られた一里塚と考えられている。
 伝説では、源義九郎判官経が兄頼朝に追われ奥州へ落ちる時に休んだ所と伝えられ、「判官塚」「判官松」という名前が起こったといわれている。
 千塚の地名も、この塚の所在から起こったものと考えられる。
 中近世の交通や信仰を示す遺跡である。

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 判官塚と刻まれた石柱の隣に並ぶ庚申塔と青面金剛。
 左側の青面金剛は木が覆い被さっていてよく見えない。
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 馬頭観音。
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 北西から。

頼母子横穴墓群(板倉町海老瀬)

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 板倉町立東小学校の北東に位置する頼母子横穴墓群(邑楽郡板倉町海老瀬)。
板倉町指定史跡 頼母子横穴墓群
 (『上毛古墳綜覧』海老瀬村第一号墳)
     昭和五十年四月二十五日 指定
 この横穴墓群は、砂岩層をくりぬいて築いたお墓です。
 昭和二年および五十九年に確認され、現在5基を数えます。
 昭和五十九年に確認された横穴墓は、この横穴墓群の西北西二十mの所にあり、現在市澤国雄氏邸宅庭内に保存されています。横穴墓内は床面に直径一~八cm程度の河原石(榛名山二ツ岳産出の浮石質角閃石安山岩)が何層にも敷き詰められていました。この石材は利根川流域の古墳(横穴式石室)に使用されている特徴的な石です。玄室と呼ばれる遺体を安置する部屋の大きさは室長二m、高さ〇・八七m、幅〇・七五mを測ります。
 横穴墓は、県内で四例確認されており、そのうち一例は本町離山に認められます。
 構築時期は七世紀後半と考えられます。
 平成十年三月
 板倉町教育委員会

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 柵がある為近付けるのはここまで。
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舞木城址(千代田町舞木)

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 公園内に残る舞木城址(邑楽郡千代田町舞木51-43)。
 藤原秀郷公生誕の地と刻まれた石碑が建てられているが、何故こんな所に? 幼少期は山城国(京都府)近郊に住んでいたと言う説や近江(滋賀県)出身説などはあるが正確な出生地は不明だったと思ったが。
 石碑の背面には碑文がびっしりと刻まれているが、いまいち見辛い部分があるので書き写すのはパス。
舞木城址
 所在地 千代田町大字舞木 五一
 舞木城は、面積およそ三ヘクタール、周囲に土居と溝渠をめぐらせた平城で、藤原秀郷が承平年中(九三一~九三七)に築城したと伝えられ、その後享禄年間(一五二八~一五三一)まで秀郷の子孫が居城していたという。
 また館林盛衰記には、享禄の頃赤井照光が大袋城(現在の館林市羽附)から舞木城へ年始の道すがら子狐を助け、その狐の導きによって館林城(尾曳城)を築いたと記され、舞木と館林とのつながりを浮き彫りにしている。
 この地は明治四十二年に小学校の敷地となり、昭和四十四年には、小学校の移転により「たわら住宅団地」が造成され現在に至っている。
 平成五年三月
   千代田町教育委員会

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 舞木城址西側の道端に鎮座する祠。
 以前赤岩八幡神社のエントリーで舞木交差点の近くに地図に記載の無い稲荷社があるようだと書いたが、たぶんこちらがそれなのではないだろうか。社名が記されていないので正確なところはわからないけれど。
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 11月13日追記。
 『上野国神社明細帳』に「群馬縣上野國邑樂郡舞木村字城下 無格社 稲荷神社」と言う項目があり、それには「勧請年月不詳、当社稲荷神社ハ舞木宮内亟ノ城址ニ鎮座アリシ故ニ、此社ヲ今城下稲荷神社ト云フ、尚溝渠存スル也」と記されている。おそらくはこの祠のことだろう。

鶉古城跡(邑楽町鶉新田)

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 多々良沼公園の中に残る鶉古城跡(邑楽郡邑楽町鶉新田6-1)。
鶉古城跡
 鶉新田字小城にある、多々良沼に突出した「荒間崎」と呼ばれた半島部に築かれた城である。城名については葵下坂といわれた幕府御用鍛冶康継二代の弟が、この地に住み脇差に「鶉古城打」という銘を残しているところから江戸初期、すでにこの名称が使われていたものであろう。
 城跡西南端に当たる入口の道路付近から、半島部を横断するように北に向って直線にのびる、高さ三メートル、長さ二五〇メートルほどの土塁と、その西側に沿って空堀がある。
 元弘三年(一三三三)五月、北条高時が鎌倉に滅ぼされたとき、その弟の僧慧性・荒間朝春らはともに逃れて来て、ここに築城。応永年間(一三九四~四二八)には多々良四郎忠致の居城となり、ならに戦国時代を迎えると、館林城主の重臣で下野国小曽根郷八形(足利市高松町)城主小曽根政義は小田原北条氏の来攻に備え、兼帯で当城を守備した。しかし、天正一八年(一五九〇)館林落城に伴い廃城となり鶉古城二五〇余年の歴史を閉じた。今はわずかに残る塁濠と、先端浮島に安置してある南北朝期と推定される墓石の一部が、辺りの風景とともに往時の繁栄を物語る。
 昭和六十一年三月

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 小さな石祠があるが、何神社なのかは不明。
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館林城鐘(西本町)

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 時宗館林山應聲寺前に残る館林城鐘(館林市西本町2)。
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群馬県指定重要文化財 館林城鐘
一、指定年月日  昭和二八年八月二五日
一、所 在 地  館林市本町二番五〇号 応声寺
一、時   代  江戸時代
 この鐘は、寛文一三年(一六七三)、館林城主徳川綱吉が城内をはじめ城下町へ時を知らせるために下野天命(現栃木県佐野市)の鋳物師長谷川次郎左衛門藤原勝重に鋳造させた城鐘です。
 鐘の大きさは、口径七五cm、胴の高さ一〇六・五cm、龍頭を含め一三八・五cm、肉厚七・七cm、重さは五四〇kgを測り、駒の爪や撞木座、上部のツバ、下帯の文様などに江戸時代の巨鐘の特徴を示しています。
 乳の配列は五乳五列。池の間には鐘名の痕が残っています。この銘文は、綱吉を継いで館林城主となった綱吉の子徳松丸が、天和三年(一六八三)に死去し、館林城が一時廃城となった際、城鐘は不要となったことから、当時、時報係をつとめていた縁故で応声寺に下げ渡され、その時の条件としてつぶされ判読不可能となったと言われていますが、その後の研究、調査で次のようであったと解読されています。
 鐘之為器也、文武兼用、其声之伝、遐邇亮彰、上下聞達、在八音之始而万物由是以動、故内而懸於殿堂以置左右、外而携於軍旅以成進退、然則城楼不可無鐘、可以発晨昏之省、可以戒衛護之務矣、上州館林城者、為関左之重鎮、方今命鳧師、改鋳旧鐘、既脱鑢鞴、新架楼頭、令僕作銘、貴慮之加不可辞焉、銘日
  上毛野国 館林城楼 九乳改旧 六時点籌 動而鯨吼
  静則雷収 分弁昼夜 抹過春秋 花移長楽 楓添楚遊
  晨曦杲杲 暮雲悠悠 近聴先覚 遠響焉廋 有出有入
  或去或留 隊士馬進 戍卒衣摳 思武以激 謹直不休
  彫弓盧矢 画戟英矛 各守班別 共為好仇 兵備無文
  文徳可修 太平固本 方鎮相攸 簨虞高掛 鎮勲貽謀
   寛文十三年癸丑秋九月吉辰
         弘文院学士 林 恕謹記
               (参考 館林市歴史編)
 現在、鐘には幅〇・二mm、長さ四〇cmほどの亀裂が入っていますが、この亀裂は、銘文をつぶす時に生じたものと言われ、その後、嘉永元年(一八四八)の火災などを経て広がったものと伝えられています。
「城下町館林」に欠くことのできない館林城関係の文化財です。

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 「歴代に 時の音告げた 城の鐘」
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 応声寺。
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明治天皇岩瀬星ノ宮御野立所(長方)

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 国道50号岩瀬バイパスと県道148号線が合流する長方交差点の西150m程、県道216号線脇に位置する史跡明治天皇岩瀬星ノ宮御野立所(桜川市長方)。
 標石の側面には「史迹名勝天然記念物保存法ニ依リ史迹トシテ昭和十一年三月文部大臣指定」と刻まれている。
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星の宮公園 憩の広場
名勝桜川をへだて霊峰筑波加波の連山を眺められ歴史的に由緒あるこの星の宮の台地を町民一般の憩の広場として永く保存する為にこの碑を建立する
 左奥に見えるのは大正三年十二月に建てられた忠魂碑。
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 明治天皇駐蹕之地。
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 六地蔵。

二宮尊徳顕彰碑(青木)

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 JR水戸線羽田街道踏切の傍に位置する二宮尊徳顕彰碑(桜川市青木)。
 青木神社から国道50号へ向かう途中に鳥居が見えたので立ち寄ってみたら、神社ではなく顕彰碑だった。隣に石祠がいくつかあるけれど。
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 案内板。
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報徳先生碑
報徳先生姓二宮名尊徳相模足柄郡栖山村人也先生以報天地功徳為教其所至則闢荒蕪救民窮故人稱曰報徳先生先生至青木村立枚窮之方修㾱堰闢荒田以化窮致富村民至今稱先生之徳不忘也當其時青木村幕府士川副氏之采邑也村西北有川曰櫻川川底細砂如灰木石不支築堰引水洪水必壊随修随壊遂㾱不修以故茅筏填田民怠村貧村民之父老与川副氏謀懇請先生設之方計諭民勤苦以斬茅闢蕪先生又堀東山採石且促民以聚木石於両岸先架川作茅屋民竊笑曰築堰何用架屋為及屋成先生使民上屋断其繫繩民皆危疑莫敢應之先生忿曰我断之繩断茅屋一震而陥先生立屋上曰汝等何危之哉乃命投木石急填屋上然後就屋上以築堰堰開大小二門通排水之利其後數遇洪水堰不複壊或詰先生以築堰作屋之由先生曰川底細砂非木石所能支獨茅屋可防雨漏豈有不支砂之理哉是吾築堰所以沈茅屋也始先生興此役多具酒餅嗜餅者供餅嗜酒者飲酒唯禁過飲以不使至㾱役弱者不課役怠者退之力不堪者以半日休且雇錢数倍於半日是故役夫忘勞云自㾱堰既復田間穿渠通水灌漑充足隣村髙森亦頼其餘水於是田産滋殖戸口倍息民貴勤業節儉向風俗淳厚皆先生之徳澤也先生以天明七年七月廿三日生父曰利右衛門年十六喪父母養在伯父家一日慨然曰天下可救者貧民也有暇則掴草鞋換錢以惠貧氓辞伯父至小田原為藩重臣服部氏奴其家兒通學毎僕従之傍聴以得通四書又誦佛經益悟救窮之義後先生應服部氏之託理其家政為小田原藩主所聞任先生以治支封宇津氏邑政天保十一年幕府擢為吏受印旛沼開拓之命不果用而去嘉永七年屬日光奉行當神邑九十村荒蕪開拓之任授居于今市驛官舎安政三年十月廿日罹病不起享年七十有一明治十年先生孫尊親創興復社十三年中村藩主相馬充胤上奏報徳記尋   朝廷贈先生以從四位且給典復社金一万五千圓充其用資先生應聘任救窮典復之計者甚多曰小田原藩曰烏山藩曰谷田部藩曰下舘藩曰中村藩其事詳於報徳記中嗚呼先生之勤儉墾闢之事跡不獨牧民者収効誠足以傳後代亦使村民能守先生之教而不變則将田土之膄者益膄風俗之美者益美矣頃者村民謀建碑以表其徳來徴余文余亦聞先生之徳不忍以不文辞之夙所欽仰乃喜而為書
   明治三十年一月     正三位子爵押小路實潔尤書      草野為刻字

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 石祠四基。
 左端は牛頭天王。他は不明。
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 出征軍馬碑と二十三夜供養塔。
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 庚申塔と聖徳太子。右奥には殉国之碑。

玉日姫の墓(結城)

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 結城城跡公園の西北に位置する玉日姫の墓(結城市結城)。
 玉日宮とは聞き覚えの無い名前の神社だなと思い立ち寄ってみたら、神社ではなくお墓だった。そう言えば結城駅前の観光案内板に、玉日姫の墓と言うのが城跡公園の近くに書いてあったな。そうかあれここか。などと思い出し、神社じゃないけど折角来たのだからと見て行くことに。
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 この宝篋印塔が玉日姫の墓であるそうだ。
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史跡 玉日姫の墓
 結城城の北に、玉日という地名が今も伝わります。この地名は、ここに眠ると伝わる玉日姫にちなんだものです。
 墓所に建つ碑は、浄土真宗の篤学の高僧・島地黙雷により綴られ、次のようなことが記されています。
 玉日姫は、関白・九條兼実の七女として誕生し、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の妻となりますが、越後に流された聖人が、赦されて関東に向かったとの知らせを聞いて、侍女の白河の局を伴ない関東に下りました。
 玉日姫は、この地方一帯で布教を続ける聖人を助け、自らも剃髪します。やがて、聖人が京に戻ることになる際も、その教えを広めんがために結城に留まり、ここに草庵を結び生涯を送ったということです。
 現存する、石の玉垣に囲まれた宝篋印塔は、近世になってから、江戸の講中(玉日講)により再建されたものです

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能荘厳院尼公之碑
能莊嚴院惠信襌尼碑     従三位九條道實公篆額
襌尼法諱惠信諡能莊嚴院始名玉日關白九條兼實公第七女也建仁三年
爲眞宗開祖鸞師配承元元年宗祖遷謫時畱在京都後假稱兵部太輔三善
為教女與侍女白川局等東下追随共助道化當此時結城朝光深歸宗祖執
師資禮是以宗祖歸洛後猶住結城落飾改名専任遺教扶護蓋關東法苗被
襌尼培養居多云建長六年九月二十九日歿享年六十九歳先于宗祖遷化
八年也遺訓懇切使人感泣所以後世景慕益加焉今茲遠近門侶協同建碑
以擬報恩請銘於余余乃爲銘曰
 法本一理 機有利鈍 攝化無量 方便千萬 夙爲韋堤 怨恨臨刅
 今成玉女 綢繆相勸 眞俗扶翼 宗基由建 何周引導 共乘悲願
  明治四十一年歳次戊申九月 龍谷勸學島地黙雷譔竝書
                         宮田九靍刀
 九条兼実の娘である恵信禅尼(玉日姫)が兵部太輔三善為教の娘と称して東へ下ってきたとあるが、ググってみると恵信禅尼は九条兼実の娘ではなく越後国の豪族である三善為教の娘であることが大正十年(1921)に判明しているそうで、この碑が建てられた明治四十一年(1908)の時点では九条兼実の娘であると思われていたのだろう。
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 ここも結城百選の一つである。

峯崎遺跡(鹿窪)

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 鹿窪運動公園の北東端に位置する峯崎遺跡(結城市鹿窪1)。
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峯崎遺跡
 峯崎遺跡は、縄文・古墳・奈良・平安時代にかけて、大字鹿窪字峯崎一帯に営まれた遺跡です。鹿窪総合運動公園の拡張などにより、一九九〇~九三・九六・九七年度にかけて、六次にわたる発掘調査が行われ、竪穴式住居跡一五〇軒以上、鍛冶工房跡一軒、掘立柱建物跡四九棟などの建物跡が見つかったほか、「公人」や「寺」という文字の書かれた墨書土器や奈良三彩、さらには、皇朝十二銭(長年大宝)や螺髪(仏像の頭髪)なども出土しました。
 本遺跡には、奈良時代から平安時代前半にかけての建物跡が多く、この時期の竪穴式住居跡は一四〇軒を超え、奈良時代の八世紀前半と平安時代の九世紀後半の二つの時期を中心に数多く建てられていました。また、掘立柱建物跡は四九棟見つかりましたが、これらは倉庫として使われたものと考えられ、数多く建てられていることから、本遺跡が一般的な集落ではなく、古代の役所である郡衙や、主要な街道沿いにおかれた駅家など、何らかの公的な施設であったと考えられます。また、同時期の遺跡として、本遺跡の北側約二〇〇メートルのところには、竪穴式住居跡三二軒が見つかった油内遺跡や、約三〇〇軒の竪穴式住居跡のほか、二体の小型銅造仏や四枚の皇朝十二銭が出土じた下り松遺跡がありますが、これらは、本遺跡を中心として関連したものであり、本市の歴史を紐解くうえでも、重要な遺跡群であることが判りました。
 復元された第六八号竪穴式住居跡は、九世紀中頃に建てられたもので、大きさが五・六×六・一五メートルで、北側にはカマドが造られています。

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峯崎遺跡の掘立柱建物群跡
 峯崎遺跡からは四九棟の掘立柱建物跡が見つかっています。これらは、食料や特産物などを保管した高床式の倉庫と考えられますが、一般的な集落では数棟の倉庫しか建てられていないため、数多くの倉庫を必要としたことは、本遺跡が、郡衙や駅家などの公的な施設であることを物語っています。
 これらの掘立柱建物は、奈良時代の八世紀中頃から平安時代の一〇世紀前半までに建てられており、もっとも整備されていた九世紀代には、建物がL字型に配置されていたことが判りました。また、建物の柱間が判るものでは、三間×二間が二七棟と最も多く、七・二×四・八メートルが標準的な大きさでした。そのほか二間×二間が五棟、四間×二間および三間×一間が各一棟で、ほとんどが側柱式ですが、総柱式も二棟建てられました。
 ここに建てられた休憩所は、高床式ではありませんが、四間×二間の側柱式の掘立柱建物をイメージしたもので、当時は、このような建物が十数棟建ち並んでいました。

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保戸塚古墳(鹿窪)

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 鹿窪香取神社の明神鳥居から170m程南東に位置する保戸塚古墳(結城市鹿窪851)。
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 結城市指定文化財(史跡)であることを記した案内板。
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 墳頂には石祠が一基鎮座しているが、何神社であるのかは不明。
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 石祠の側面には「天保三年壬申九月吉日  願主  赤萩市之丞 同 真平 宮田五兵エ」「宮田源兵エ 小林清八 山嵜徳右エ門」、前面に「鹿窪村中」と刻まれている。
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 古墳前からも結城筑波が見える。
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横室古墳公園(富士見町横室)

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 十二山の西側に位置する横室古墳公園(前橋市富士見町横室)。
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『陣場・庄司原古墳群
 陣場・庄司原古墳群は富士見村大字横室字陣場・上庄司原・下庄司原地区にあり法華沢川右岸の台地上に位置していました。この地区一帯は富士見村でも有数の遺跡包蔵地で、平成元年度県営ほ場整備事業富士見地区に伴って発掘調査が行われました。(陣場・庄司原古墳群)
 古墳公園が作られた上庄司原1号古墳周辺も縄文時代前期と平安時代の集落跡で、遺跡名を上庄司原東遺跡と言います。
 発掘調査を行った古墳は7基で、墳丘の形状はすべて円墳です。墳丘の規模は直径20m前後が5基、10m前後が2基です。ほとんどの古墳の墳丘の回りに葺石が積まれ、その外側に周堀が掘られていました。石室の前には墓前祭を行ったと思われる、前庭という施設が設けられているものも多くありました。
 石室はすべて両袖型横穴式石室ですが、石室の構築方法や石材の加工方法・材質などには様々なものがあります。多くは赤城山の山石(輝石安山岩)をほとんど加工せずに積み上げただけの、自然石乱石積石室ですが、入口などの一部に切り石を用いているものもあります。さらに、榛名山二ツ岳から噴出された(6世紀)転石(角閃石安山岩)を用いた削り石積石室や截石切組積石室もあり、この古墳群の中で古墳時代後期から終末期の石室の変遷がたどれる貴重な古墳群です。
 遺物はほとんどの古墳が盗掘されていましたが、武器類(大刀・小刀・鉄鏃)、馬具、飾類(耳環・ガラス小玉・帯金具)、土器類(須恵器の𤭯・高坏・平瓶・甕、土師器の高坏・坏)などが出土しています。
 古墳群の作られた時期は6世紀後半から7世紀後半にかけての間と思われます。
 横室古墳公園は現地保存した上庄司原1号古墳のまわりに上庄司原2号古墳と上庄司原4号古墳の石室を移築し、あわせて保存整備を行ったものです』
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 上庄司原1号古墳。
 今の時期は草に埋もれてしまうので、冬場の方が形がはっきりわかるようだ。
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『上庄司原1号古墳
 上庄司原1号古墳は、陣場・庄司原古墳群の中で最も残存状況のよかった古墳であり、現在地にそのまま保存し、墳丘の復元などの若干の整備を行ったものです。
 古墳は、法華沢川に望む台地の崖端に築かれた、径約14m(テラス状の基壇を含めると約24m)の円墳で、その周辺には一部分を除いて周堀が巡っています。墳丘の周囲には葺石が積まれています。
 石室は、赤城山の山石(輝石安山岩)を用いた自然石乱石積みの両袖型横穴式石室で、旧地表面を掘り込んで作られています。石室の前面には、墓道状の前庭が設けられており、墓前祭が行われたと思われます。
 玄室の中からは耳環や大刀、鉄鏃、馬具等が出土し、人骨、歯も残っていました。(複数の遺体が埋葬されていたと思われます。)前庭とその周辺からは、須恵器の𤭯、甕、土師器の坏等が出土しています。
 整備は、後世の耕作などによって崩されていた墳丘に若干の盛土を行い、盗掘などによって抜き取られていた玄室と羨道部の天井石を補っただけで、多の部分はほとんど調査した時のままです。なお、周堀の部分には砂利を敷いて範囲を示しています。
 平成4年3月 富士見村教育委員会』
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『上庄司原4号古墳
 ここから約400m南西にあった古墳の石室を移築し、若干の石材等を補って復元整備を行ったものです。
 墳丘の形状は円墳で直径約16m、北側から西側にかけて周堀が巡っていました。
 石室は上庄司原2号古墳と同じ榛名山給源の角閃石安山岩を用いたもので、形状は他の古墳と同様に両袖型横穴式石室ですが、石材の加工方法・石室の構築方法は、截石切組積という当時の最高技術を用いて造られた石室です。
 石材には加工を行うときや、石室を構築するときの目安とした「朱線」が残っているものがあります。また、石材の中には内面に「水磨き」を施しているものもあり、これらの石材を「間知積み」しています。
 石材の内面形状は基本的に方形ですが、意識的に凹凸の部分を作って石材を組ませています。
 石室はすでに盗掘されていましたが、鉄製の鞘金具と銅製の帯金具(巡方・丸鞆)が出土しました。このうち、銅製の帯金具は截石切組積石室としては群馬県内で初めて出土したものです。
 截石切組積石室の古墳はこれまでわずか約30基が知られているに過ぎませんが、上庄司原4号古墳の石室は、前橋市の宝塔山古墳や吉岡町にある南下A・E号古墳の石室などとともに、その中でももっとも秀麗な部類に属しています。

 上庄司原2号古墳
 上庄司原1号古墳の西側に隣接していた古墳の石室を移築して調査時点の出土状態に復元したものです。
 墳丘の形状は円墳で、直径約20m、南側の一部分を除いて周堀が巡っていました。
 石室は、榛名山二ツ岳噴出(6世紀)の角閃石安山岩の転石を用いた削り石積み両袖型横穴式石室です。玄室は間仕切りによって奥室と前室に区切られ、奥室の床面のほうが一段高く造作されていました。
 石室は構築後間もなく左壁から崩壊したと思われ、遺物がほとんど盗掘されずに残っていました。
 遺物は、奥室から直刀・小刀が、前室から須恵器の子持ち𤭯・平瓶・長頸瓶・高坏・土師器の高坏・ガラス小玉・耳環・馬具(轡・鉸具)・鉄鏃が出土しました。また、羨道部から土師器の小型甕、石室の前から須恵器の甕が出土しています。
 須恵器の子持ち𤭯は、東日本では出土例が数少なく、大変珍しく貴重な遺物です。また、中小の古墳では、遺物が盗掘されずに残っていることも少ないため、埋葬当時の副葬品の内容がわかる貴重な古墳です。
 平成4年3月 富士見村教育委員会』
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 上庄司原2号古墳。
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 上庄司原4号古墳。
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 十二山々頂の赤城神社が見える。
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 十二山々頂から見た横室古墳公園。
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女渕城跡(粕川町女渕)

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 御霊神社の北側に位置する女渕城跡(前橋市粕川町女渕1221)。
『前橋市指定史跡 女渕城跡  THE RUINS OF ONA-BUCHI CASTLE
指定年月日 昭和49年5月1日
所 在 地 前橋市粕川町女渕1221番地1他
 城の要害に広く水濠を用い、東西約200m、南北約450mの広い地域を占める。北から北曲輪、本丸、御霊曲輪(三の丸)、竜光寺曲輪とつづき、全面岸高の河川が自然の周濠となっている。本丸は水濠に囲まれ、東北虎口は土橋で帯曲輪に、西南虎口は土橋で二の丸に、西北虎口が北曲輪にそれぞれ通じる。尚に西曲輪への架橋も考えられる。西曲輪は貯水池を隔てて別に深濠をめぐらし、さらにその西から南へかけて広い地域を囲む外堀、やや離れて西方にも外掘がある。
 伝説口碑に、高野辺家成、南渕秋郷の名があり、足利直義、荒井図書允、沼田平八郎等の名と共にこの城は古文書戦記に登場する城である。戦国時代の平城として貴重な遺構である。
 This castle was built from the 14th to 15th century. It appears in the archives and commentaries on war from that period.』
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 本丸跡は畑になっている。
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 縄張図。
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 女渕城址公園見取図。
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『女渕城跡 前橋市指定史跡
 女渕城は戦国時代に赤城山南麓にあった城の一つ、要害に広く水濠を用いた平城である。
 女渕城は、いつ、だれが城を築いたか詳しくわかっていないが、戦国時代から歴史上に出てくる。赤城山南麓地方の他の城と同じように、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、小田原の北条氏などの戦国大名の侵攻を受け、城主の変遷が多かった。
 城跡は東西二〇〇メートル、南北四五〇メートルの広い地域を占めている。主要部は南北三二〇メートル、最大幅九〇メートルの水濠の東側にあり、低い土居と堀をめぐらして、北から北曲輪、本丸、二ノ丸、三ノ丸(御霊曲輪)、竜光寺曲輪が並んでいる。北曲輪と本丸の東に帯曲輪がある。
 本丸は東西四〇メートル、南北三〇メートルあり、広くて深い水濠で囲まれている。本丸に接する帯曲輪、北曲輪、二ノ丸にはそれぞれ土橋で通じている。西曲輪は本丸の西側の広い水濠をへだててあり、堀をめぐらしている。その先に外濠があった。城の東側は河川が自然の水濠となっていた。
 天正十八年(一五九〇)小田原の北条方の城だったので、豊臣秀吉方の軍勢に攻められ、小田原城落城と同じく、落城し廃城となった』
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 十の字沼。
 釣り禁止の看板があるにもかかわらず釣竿を垂らしている人がいたが、撮影のポイントを変える為にそちらに近付いたら立ち去って行った。禁止行為を行っている自覚はあったのだろうなぁ。
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 本丸橋。
 左奥に御霊神社が見える。
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 西宿沼。
 奥に見える白い橋は曲輪橋。
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 西曲輪跡には門があり、その前にも女渕城跡の標石が建てられているが、橋の手前に立てられた看板を見るに、この先は民家になっているようだ。

上泉郷蔵(上泉町)

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 上泉町自治会館(前橋市上泉町1168-1)の北隣に位置する上泉郷蔵
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『群馬県指定史跡 上泉郷蔵附上泉古文書
 指定年月日 昭和二十六年六月十九日
 所在地   前橋市上泉町1168-1
 所有者   前橋市上泉町自治会
 この郷蔵は、天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を貯えることを目的として江戸時代の寛政八(1796)年に、前橋藩の貯穀令により建てられた土蔵である。
 上野国内の郷蔵は、明治以降他の目的に利用され、本来の姿を失うものが多かったが、上泉郷蔵は本来の目的を貫き、明治四十二(1909)年まで使われていた。この間の郷蔵維持関係古文書が保存されており、その経過を知ることができる。
 創建後修理が度々行われたが、永年の風雨のため老朽化が進み、倒壊の恐れがでてきたため、上泉町では、平成三年から群馬県、前橋市の補助と地域住民及び関係者の協賛により、全面解体修理を行った。
 平成五年十一月吉日』
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『剣聖 上泉伊勢守 生誕五百年記念碑
 剣聖と呼ばれる上泉伊勢守秀綱(後に上泉武蔵守信綱)は、永正五年(1508)に大胡城の支城である上泉城で生まれました。
 平成二十年(2008)生誕五百年を記念して、剣聖上泉伊勢守之像を建立しました。この立ち姿は、新陰流の基本である「無形の位」という代表的な構えで、手には袋竹刀を持っています。
 骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
 幼少のころから剣の修行を重ね、松本備前守や愛洲移香斎ほかに剣の指導を受け、新陰流を創始しました。
 現在の竹刀の原型となった袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
 上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、箕輪城主長野業正とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、「上野国一本槍」と呼ばれました。
 京にのぼり、将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を受けました。
 また、正親町天皇の御前で天覧演舞を行い、従五位下から従四位下へ昇叙され、天皇御愛用の御前机を拝領しました。
 さらに、公卿の山科言継卿との親しい交友も知られています。
 柳生宗厳(後に柳生石舟斎)や宝蔵院胤栄や丸目蔵人佐ほか大勢の弟子に剣を指導して、新陰流は全国に広まりました。
 そして、一国一人とした新陰流の後継者には柳生宗厳を選び新陰流のすべてを印可相伝しました。
 こうして新陰流は、柳生家により受け継がれています。
 上泉伊勢守の精神は「活人剣」であり、人を生かす精神として徳川三百年の礎を築き、明治・大正・昭和の時代を経て脈々と伝わり、そしてこれからも末永く、広く人々の生活や仕事など多方面に活かされていくことを願ってやみません。
 平成二十年五月十日』
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 上泉伊勢守の像。
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 上泉城跡案内板。

高崎城址(高松町)

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 群馬音楽センター東隣に位置する高崎城址(高崎市高松町)。
『高崎城東門の由来
 高崎城十六の城門中、本丸門(萑門)刎橋門、東門は平屋根であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1844)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏より譲り受け復元移築し、昭和五十五年(1980)二月、市に寄贈したものである』
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 高崎城の図。
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『高崎城乾櫓の由来
 この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。
 高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄八年(1695)より以前から存在したことが明らかである。多分、安藤重長が城主であった寛永(1624~45)の頃の建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
 幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和四十九年(1974)で以来二年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方三○○mの地点に当る。
 屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。
 高崎城には石垣はほとんどなかった。この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に一m足らずの高石台があったに過ぎない』

 ちなみに安藤重長が高崎城主だったのは元和五年(1619)~明暦三年(1657)の間。
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 しゃちほこ。
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『群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓
 高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(十二尺=約3.64m)、桁行三間(十八尺=約5.46m)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二カ所ずつあけている。ところが、明治六(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(十五連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一カ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
 高崎城の築城は、慶長三(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和五(1619)年に安藤重信が入部して、元禄八(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(1716~36)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、十七世紀末の建築と推定されている。
 その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和五十四年(1979)この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。
 指定年月日 昭和四十九年九月六日』
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 西側から。
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 飛龍の松。
『飛龍松之記
明治二十六年秋於高崎近郊有近衛師團小機動演習之舉
天皇陛下親臨閲之後行觀兵式於此地于時十月二十二日也於是植一松樹以標駐驛之跡傳之永遠號曰飛龍松
 歩兵第十五聨隊長
  河野通好撰併書』
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 歩兵第十五連隊址碑。
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『高崎城記
 高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
 十三世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、十六世紀の末期天正十八年、小田原の北條氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
 慶長三年、井伊直政が箕輪城十二万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴って、要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。
 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞かた第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
 明治六年、東京鎮台高崎分営が置かれ。旧城内は兵営となった。ついで明治十七年歩兵第十五聨隊が創設され、以来昭和廿年八月太平洋戦争の終結まで、高崎は六十余年間、軍部の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第三十八部隊となり、歩兵第百十五聨隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に五万。兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。
 昭和二十年八月十五日、戦い終り、平和はよみがえった。われらは永遠に戦争放棄の民として更正し、城内は市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、市民生活の中枢となった。
 ここに明治百周年を迎え高崎城回顧の記を録する。
 昭和四十三年十月二十三日』
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 音楽センター側にコントラバス型の公衆電話ボックス。
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 高崎城址公園南端に設置された案内板。以前はこの辺りに富士浅間神社があったようだが、現在は残っていない。
『高崎市指定史跡 高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)
 箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長三年(1598)のことであった。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松カ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。白菴は、諸木には栄枯があることを説き「成功高大」の意味から高崎と名づけるように進言し、これが採用された。「高崎」の地名はこうして誕生したといわれる(川野辺寛「高崎志」)。
 この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたといわれており、坪数五万一六一三坪にも及ぶ広大な城郭となった(土屋老平「更正高崎旧事記」)。築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。
 明治四年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払い下げとなった。さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整地された。このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。
 所在地   高崎市高松町5-8ほか
 指定年月日 昭和五七年二月一七日』

 以上で6月14日分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。Coolpix P7100。
 翌15日は高崎城址の東側にあるclub FLEEZで行なわれたangelaのライブを堪能して来たのでありますよ。やっぱりライブはええなぁ。腕振り過ぎて月曜日は筋肉痛になってたけど(笑)

毘沙門山古墳(中里)

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 JAおやま西部共乾センター(小山市中里528-1)のすぐ南側に位置する毘沙門山古墳(小山市中里)。
 この前の道を西へ1km程向かうと中里神社がある。
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『栃木県指定 史跡 毘沙門山古墳
 所有者 増山徹
 昭和32年8月27日指定
 この古墳は帆立貝式の前方後円墳で、墳丘は南東に面している。前方部と後円部の南側から南西部の裾部が削平されているが他の部分は原形をほぼ保っている。古墳の正確な規模は不明であるが、周湟確認調査によると推定全長41.2m、後円部径34m、高さ5.18mで周湟幅は約1.2mである。この時の調査で周湟内から壺形、甕形、高杯形の土師器や円筒埴輪片が出土しており、これらの出土遺物から築造時期は5世紀後半と考えられる』
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『小山市の南西部、巴波川と与良川との間に広がる中里・鏡の地区には、方約1キロメートルの範囲にかつては5基の前方後円墳と7基の円墳が、5世紀末から6世紀に造営され群在し、寒川古墳群とよばれた。
 いずれも標高20メートル程の沖積地に立地している為、農耕適地として開墾や圃場整備が進められる
中でつぎつぎと削平され、現在は県指定史跡毘沙門山古墳(全長41メートルの前方後円墳)を残すだけとなっている。
 5世紀代にはすでにこの地域を握った首長層が居住し、この勢力は後期古墳にも持続したと考えられる、この旺盛な力があればこそ大化の改新の後、この地を中心に「寒川郡」が下野国の一部として成立したことが理解されています』
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 東側から。
 墳頂に祠があるのが見えるが、何を祀っているのかは不明。毘沙門山古墳と言うくらいなのだから、毘沙門天なのかな。

大黒石(岩舟町小野寺)

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 栃木県道75号線を挟んで天台宗小野寺山大慈寺入口の向かい側に位置する大黒石。
 先月来た時にこんなのあったかなーと思ったが、村檜神社の一の鳥居を撮影した写真をよく見たら確かに写っていたので、ただ気付かなかっただけのようだ。
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 案内板。

 以上で7月20日参拝分終了。こちらの大黒石の前に、以前村檜神社を参拝した時に見落としていた東の鳥居と末社を撮影。と言うか、今回こちらに来たのはそれが目的で、大黒石はついで。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、FA50mm、DA70mm。Coolpix P7100。

小野小町の墓(岩舟町小野寺)

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 村檜神社前から東を向くと、「史跡 小野小町の墓」(下都賀郡岩舟町小野寺中妻)と書かれた看板が立てられているのが目に入る。栗橋にある静御前の墓でもそうだったが、こう言うものは胡散臭いと思いつつも浪漫を感じてしまう。
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 平成二十年(2008)に修復整備されたもので、それ以前は木の根元に墓石と案内標柱があるだけのものであったようだ。
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 墓石の後ろに如意輪観音と聖観音。聖観音には元禄十五壬午天七月十六日と刻まれているので1702年の造立。
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 石碑。
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 大慈寺薬師堂前に設置された案内板。
『小野小町と大慈寺
 平安時代に生きた六歌仙の一人小野小町が、大慈寺御本尊の薬師如来に病気平癒の祈願をしたと伝えられています。
 最初、小町が病気治しの祈願をしたが治らず、和歌のやりとりをした後ようやく回復し、それ以降ここに住み着きました。
 小町の最期は、諏訪が岳の北東に位置する断崖絶壁に登り、眼前に薬師如来の浄瑠璃浄土の世界を見て、そこに身を投げました。(「身投げ堂」藤坂ロックガーデンの場所)
 村人はその小野小町の遺体を、大慈寺の薬師如来堂の真東、村檜神社前という村内の重要な場所に丁重に葬りました。(東百メートル)
 大慈寺は小野氏と関係があり、小野寺とも呼ばれること、大慈寺で修行した慈覚大師円仁と同じ遣唐船に、小野篁が乗船していたことなどから、小町は小野寺に本当にいたのかもしれません。
 小野小町の黒髪がやがて小野寺のイグサとなり、そのイグサを用いた畳の家では、かならず子宝に恵まれると言われました。
 大慈寺では、小町ゆかりの子授け(女性の恋愛)守りもお分けしております』
 ちなみに藤坂ロックガーデンは2013年5月12日、つまり先月から入山禁止になっている。
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 薬師堂脇に小町の碑。

 以上で6月8日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、DA70mm。K-7に50-150mm II。

御母堂宇(岩舟町上岡)

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 鹿島神社のすぐ南側、実相院跡地に建てられた御母堂宇(下都賀郡岩舟町上岡69)。こちらは岩舟町指定の史跡になっている。
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 慈覚大師円仁の母公の墓。
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将門霊神古墳(大平町下皆川)

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 中山南東麓に位置する将門霊神古墳。
 案内板が出ているのでわかりやすいが、民家の間を抜けて行くので畑を踏んだりしないように注意。
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 石段の上に将門霊神古墳の説明書きが見える。
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 右側の金網が付いている所が古墳の羨道入口。左側の道を進んで行くと突き当たりに山神社が鎮座している。
 携帯のGPS情報によれば、現在地は36°20′54.42″N, 139°41′58.23″ E
『大平町指定文化財 史跡
 下皆川将門霊神古墳
 当古墳は町指定の古墳の中でももっとも古いものと推定されるもので、古墳時代中期初頭の構築と考えられる。
 片袖型石積、古墳、石積はアーチ型。石質は珪岩及び磯山の安山岩が主体となっている。石室の軸は南東南─北西北である。羨道の長さは、下皆川マガキ第一号古墳に次いで第二位である。なお当古墳は平将門の墓地であるという伝説がある。
 発掘は昭和三年三月二十一日、出土遺物のうち直刀、三鈴杏葉、木心壺鐙、轡も町指定考古資料となっている』
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『将門靈神
是處古墳之趾也昭和三年三月二十一日偶ニ發掘人齒及
人骨數片直刀三振武具及馬具數十點栃木縣史蹟??天
然記念物調査全?舊丸山源八氏踏査而日刀???數百
年前物墳者?貴人處也』

静御前の墓(栗橋中央一丁目)

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 栗橋駅東口から90m程北に歩くと静御前の墓(久喜市栗橋中央1-2)がある。
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 案内板。
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 静女之墳。
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 旧墓石を納めた石厨子。
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 義経招魂碑と静女所生御曹子供養塔。
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 静御前七百五十年祭慶讃記念塔と静女塚碑。
『静女冢碑 皇大后宮大夫兼内蔵頭従三位勲二等子爵杉孫七郎題額
栗橋停車場東百歩有古冢傳為舞妓静女墓曰静女己遁鎌倉聞廷尉在陸
奥従一婢間關東下至此聞廷尉遭害一働遂絶邑人憐之請高柳寺僧暗経
以葬高柳寺後移中田改稱光了蔵靜女錦段舞衣傳為 後鳥羽法皇禱雨
神泉苑時所賜冢有老杉樹樹大蔽半蔭數十弓安政年間僵邑豪柳沼氏恐
其歸煙滅樹柵表域建一碑使余撰文静女以歌舞事人者而千載之下史氏
張大其事詩歌之圖畫之童幼婦女稱道如昨日者豈非其添離顛沛不敢變
従一之義之故欤夫廷尉率大軍而猛将健卒奮躍争先恐或不及一旦蒙冤
罪境起敵之其従亡者僅二十數名而己而静女就逮望所天於芳山寄所懐
於連環視?如歸以右府之威無如之何彼長槍大馬自許百夫英而反覆×
極唯利之視間静女之風獨無所赧然乎冝稱道至今日也歳之丁亥余客×
沼氏過光了寺觀錦段舞衣想其艶粧唱離別曲使右府夫妻變色慨然人×
国厯敘逸事係以銘銘曰
 蹯雪芳山 涕涙滂沱 寄懐連環 心曲亂麻 此埋如玉
 往事逝波 芊綿芳草 風雨落花 英雄氣盡 如虞号何
明治廿年龍集丁亥夏五月
       内閣書記官正五位勛五等巖谷修書
                     下田喜成刻字』
 異体字が多くて現代文字では何になるのかわからない部分があったり読み取り間違いをしている部分もあるかもしれない。×は碑が破損している部分。

 こちらのやや北東に一言神社があるのだが、うっかり見落としていた○刀乙 後で行こう。と言うか翌週の20日(つまりこれを書いている日から見て昨日)参詣して来た。

穴薬師古墳(五霞町川妻)

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 川妻地区の田圃の中に位置する穴薬師古墳(猿島郡五霞町川妻249-3)。
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『茨城県指定史跡 穴薬師古墳
指定年月日  昭和四十六年三月二十九日
所 在 地  五霞村大字川妻二四九番地
管 理 者  藤沼喜兵衛(現在は藤沼喜義氏)
 この古墳は、直系三十メートル、高さ四メートルを測る円墳であって、主体部は羡道、前室、玄室の三室からなる横穴式石室である。
 石室の構築にあたって、下段に人頭大の丸い自然石を並置して基礎をつくり、その上に各面を整形した磚状を呈する軽石を積みあげて側壁とし、奥壁には五輪の塔を思わせる板状の石をあてるなど、すべてに特異な構造を示している。この種の古墳は古墳時代後期の造営を思考されるが、関東地方には例がなく学術上貴重な存在である。
 なお、この古墳については、江戸時代赤松宗旦の「利根川図志」に川妻の隠里膳椀伝説として紹介されている』

 隠里膳椀伝説とは、村人が古墳に向かって何人か分の膳椀を貸してくれるように頼むと、翌朝には古墳の前に揃えて置かれてあったと言うもの。
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 石室入口。
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 北側から。
 ちなみにこの撮影地点のすぐそばに薬師堂があるのだが、暑さと渇きで色々面倒になっていた為、撮影はしていない。
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 穴薬師古墳前から東を向くと、向い合うような形で雷電宮が見える。
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 薬師堂の北側、県道268号線脇に青面金剛が鎮座しており、その横に穴薬師古墳入口と書かれた看板が設置されている。
 平成三年(1991)十月に道路拡張工事の為に移転させられたとのこと。
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 にやけ顔の青面金剛は珍しい気がする。
 側面には文政八乙酉年(1825)九月吉日と刻まれているので二百年近く経っている筈だが、随分と綺麗だなこれ。

B29墜落地点(邑楽町秋妻)

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 県道152号線脇に位置するカンダコーポレーション邑楽営業所北側の十字路から400m程西へ向かって行くと、B29爆撃機墜落地点と書かれた案内板が立てられている。ちなみに場所はここ
 この農道の左手側にSlicks Chicks号(機体番号224784)が、右手側にDeaner Boy号(機体番号224815)が墜落したのだそうだ。
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 案内板。
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 地図拡大。

 以上で6月30日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA35mm Macro、DA70mm。COOLPIX P7100。

篠塚伊賀守公御廟(邑楽町篠塚)

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 浄土宗霊松山正定院大信寺(邑楽郡邑楽町篠塚3999-2)の西、県道152号線脇に位置する篠塚伊賀守公御廟。
 GPS記録をしておかなかったのでうろ覚えだが、この辺りだったかな。
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 境内。
 石燈籠が賽銭箱を兼ねているのだが、なんか妙な気分だ。
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 案内板。
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 篠塚伊賀守一族供養十三佛塔。
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『碇石
 篠塚伊賀守重廣公が一人でかついだと伝えられる波崎にある石と同型の物。
 長さ 2m45cm 重さ 400kg』
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 宝篋印塔前には不動明王。
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 宝篋印塔。
 左側の石祠は側面に山神と刻まれている。

 ……長柄神社からここまでの間に、篠塚伊賀守居館跡に残る八幡宮があるのだが、うっかり忘れてしまっていた○刀乙 折を見て参拝してこよう。

片岡城跡(邑楽町中野)

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 東武小泉線篠塚駅の北東に位置する片岡城跡
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『片岡城跡
 この地を中心に、北は大根村、南は寺中・諏訪原までの一帯を、古くは上野国邑楽郡佐貫庄片岡村と呼びました。
 平安時代の末、坂東平氏国繁が入部し、片岡氏を名乗りました。二代経繁は、平清盛に仕えていましたが、文治元年(1185)、平家が滅亡すると、土佐(高知県)に渡って黒岩城主となりました。その後、経繁は建久五年(1194)に、故国の片岡から妻子を呼び寄せました。しかし、長男経俊と次男経政は亡き母の供養のため方岡村に残り、三男経氏と二人の女の子が土佐へ渡りました。経氏は父の家督を継いで、土佐片岡氏の二代となり、子孫が繁栄しました。文永二年(1265)、新田一族の大島景継が中野に入部して中野城主となりました。この城下町づくりをした時、ほとんどの片岡の住民は、元宿へ移住させられました。
 元弘元年(1331)、疎石(夢窓国師)は久保山(中野字久保林)に慶湫寺を創建しました。その後三年間、疎石はこの寺に居たといわれています。その間、片岡氏が疎石をよく援助したので、疎石が上洛してからも弟子を下向させて寺を継がせました。その後、慶湫寺は寛永元年(1624)、中野間ノ田に移転再興して永明寺となりました。
 戦国時代以降の片岡氏については、明らかではありません。現在、南北に延びる土塁が往時をしのばせてくれます。
 蛭沼に残る片岡夢の跡
 平成九年九月』

力丸城跡(力丸町)

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 力丸町会議所裏手に残る力丸城跡。
 関係無いけど、力丸と言うと声優の力丸 乃りこさんを思い出してしまう。
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『貞治五年(1366)那波日向守宗広により築城。後に箕輪城主長野信濃守の管する処となる。北西約百米の本丸跡(約千五百坪)は城屋敷と呼ばれていた。
 因みに、この石碑は歴史ある下川渕村役場の正門一対の別されにして片しは役場跡地に。
 この由縁の誇りをもって、古城の外濠跡に之を建てる。
 平成十二年(2000)十月吉日』
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