橋戸稲荷神社(千住橋戸町)

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 隅田川の北岸、千住大橋のそばに鎮座する橋戸稲荷神社(千住橋戸町25-1)。
 数年前までは銅製の鳥居があったようだが、現在は鉄パイプでその代わりとしているようだ。
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『橋戸稲荷神社と伊豆長八の鏝絵
 登録 昭和五七年一二月
 当社は、昔この地の半農半漁の開拓民が、稲荷の神を勧請し延徳二年(1490)の創建という。もとは千住河原の景勝地に本殿のみが建立されていたと伝わる。
 江戸時代、千住が宿場になると、社の付近に、上流の飯能・秩父・川越方面から物資が陸揚げされ、この辺りは、継場として栄えた。
 文禄三年(1594)千住大橋がかけられると、人馬の往来が数多くなり、宿場を通る人々や、河川の小揚組などの信仰を集め今日に至った。
 文久三年(1863)本殿の前扉に、当時、鏝絵の名工として名高かった伊豆長八の創作で白狐が彫刻された。伊豆長八の作品として、数少ない貴重な遺作である。
 平成一六年三月』
 案内板には拝殿の扉に鏝絵があるとされているが、正しくは本殿の扉。拝殿の扉にあるのはレプリカで、本殿のものが公開されるのは二月三日と五月十五日日、そして九月の例祭日の三回であるのだそうだ。
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 岩の上で跳ねるお狐さまとその下に子狐。
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 拝殿。
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 向拝には狐の彫刻。
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 虹梁にも彫刻があるが、これは刀鍛冶だろうか。
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『橋戸稲荷神社縁起
 この社は延長四年(926)に創建された。千住では歴史の古い神社である。初めは千住の渡し場のほとりの小高い丘に小さな社が造られ、土地の開拓農民や荒川の上流から江戸に荷物を運ぶ船頭達の信仰を集めた。
 祭神 倉稲魂命 と稱し、本殿は延徳二年(1490)拝殿は文久二年(1862)に建立された。現在の本殿は土蔵造りで扉を開くと左右に伊豆長八作の雌雄二匹の狐と稲穂の漆喰の彫刻が見られる。

伊豆長八作 鏝絵
 足立区登録有形文化財となっている本殿は珍しい土蔵造りである。
 正面、観音開き左右の扉の内側には伊豆長八により鏝絵が画かれている。絵は夫婦の白狐で、向かって右扉に雄狐・左扉に雌狐が子狐を抱き、背後に稲穂が配されている。子狐を見る母狐の慈愛溢れる眼差し・優美な白狐の姿態など、名工長八の技量が遺憾なく発揮された名作である。
 土蔵造りの本殿も、鏝絵の図柄も、橋戸耕地の稲の豊作を祈願したものと思われ、絶えず水害に苦しんだ農民の願いが込められたものと考えられる。
 この鏝絵の作者長八は文化十二年(1815)伊豆松崎に生まれ、文政九年(1826)郷里で左官となり、さらに、天保九年(1838)江戸の左官源太郎のもとで技術を研いた。その修行の傍ら、狩野派の画法を学び、鏝絵の技法を生み出した。長鉢の鏝絵は、伊豆はもとより関東。東海の各地に見られたと言うが、震災・戦災で失われたものが多く、現存する作品は貴重である』
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 境内社。
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 境内社と橋戸稲荷神社縁起を記した石碑。
 石碑は今上陛下の御即位大典を記念して皇紀2650年(平成二年)九月十五日に建立されたもの。
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櫻神社(千住緑町一丁目)

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 千住大橋さくら公園の西隣に鎮座する櫻神社(千住緑町1-1)。
 鳥居前の門扉が閉じられていたので境内には入れず。早朝なので閉まっているのかと思ったのだが、ググってみると昼間でも閉まっているようだ。
 由緒等は不明だが、社殿の前にお狐さまが見えるので、稲荷系の神社であると思われる。
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 二の鳥居と本殿。
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柳原稲荷神社(柳原町二丁目)

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 北千住駅東口から650m程東南、牛田駅の北東380m程の位置に鎮座する柳原稲荷神社(足立区柳原2-38-1)。
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 境内。
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 二の鳥居。
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 社殿斜めから。
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『柳原稲荷神社
 当社の創建は詳らかではないが、「葛西詩」に「慶長四年(1599)の鎮守と云」とある。しかし、柳原村は、元禄年間(1596~1615)に葛飾郡小谷野柳原村より分村独立しているので、それ以降に村の鎮守として祀られたものであろう。江戸期にあっては理性院持ちであった。
 祭神は、宇迦之御魂神。明治十二年(1879)の東京府神社明細簿によると、本社殿、拝殿、境内二百三十五坪(官有地)とあり、境内社として、高木神社(産霊神)と日枝神社(大山咋神・東照宮)の二柱があり、氏子は三十五戸と記されている。
 高木神社は江戸期の第六天社で、神仏混淆を禁止された明治以降に改称した。また明治四十四年(1911)年に日枝神社は高木神社に合祀された。
 昭和八年(1933)、柳原富士講により浅間神社が勧請され、富士塚が築かれた。これは、昭和五十九年度区登録有形民俗文化財である。講中による七富士巡りなどが行なわれている。
 また、当社に奉納される柳原箕輪囃子は、江戸期より伝わる民俗芸能で、昭和五十七年度区登録無形民俗文化財である。
 平成二年十月』
 Wikipediaを見ると、慶長十一年(1606)に徳川家康公が当地を訪れ、ここに江戸城の鬼門除けとして創建させたとの言い伝えがあるようだ。また、天明六年(1786)洪水により流失したが、後、寛政六年(1794)に再建されたのだそうだ。
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 高木神社・日枝神社合祀社。
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 富士浅間神社鳥居。
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 富士浅間神社。
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 狛犬の他に猿の石像も見えるが、日枝神社絡みだろうか。

日ノ出神社(日ノ出町)

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 ここ最近はなんやかやと時間が取れなくて神社巡りできずにいたけれど、凡そ二ヶ月ぶりに神社さんぱーい。いやまぁ、地元のショップに目当てのグラフィックボードが置いてないから秋葉原に買いに行くついでにこちらの神社を巡ってみようかと思ったのだけど。うん、神社巡りに大体七時間、最後の神社から秋葉原まで徒歩で凡そ一時間、グラボ買うのに一時間かかっていないからどっちがついでなんだよって気がしないでもないけれど。因みにG'z GEARのウォーキングカウンターを見ると、この日の歩数は34,373歩。思った程には歩いてなかったようだ。
 それはさておき、こちらは北千住駅東口から500m程北東に鎮座する日ノ出神社(足立区日ノ出町37-9)。
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 社殿。
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『日ノ出神社の由来
 当社は稲荷大明神なる五穀をつかさどる倉稲魂命(素戔雄尊の御子)をお祀りしてあります。
 昔からこの辺一帯を弥五郎新田と称していたが、明治四十四年(1911)、荒川放水路の開設工事が起工されるに当り、その計画線内に在って、河底に水没する筈の稲荷神社を、時の弥五郎新田副戸長、大塚孫左氏が、村民の総意によって五反野の稲荷神社(現在足立区足立三丁目)に合祀し、後にこの分れの神社として現在の場所(日ノ出町)へ祀られたものであります。
 戦前迄は五反野稲荷の支社として祭事が行なわれて来たが、戦後は時の流れから神事など一時すたれていたものを、昭和二十八年(1953)に至り、総代新井竜祐氏等が相はかり、氏子一同の寄付金によって社殿の改修を行い、神輿も新調され、祭礼が行なわれました。
 これらを機に、五反野の親宮から分離独立致し、爾来元宮としての日ノ出神社と称する事になった次第であります。
 平成十五年三月』
 この五反野の稲荷神社と言うのは、五反野駅南東に鎮座する西之宮稲荷神社であるようだ。そちらはまだ参拝したことないけれど。

干潮金刀比羅宮(千住橋戸町)

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 東京都中央卸売市場足立市場の敷地内に鎮座する干潮金刀比羅宮(足立区千住橋戸町53)。
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『干潮金刀比羅宮
祭神 
  安徳天皇 (水天宮)
  大物主命 (金刀比羅宮)
  倉稲魂命 (稲荷神社)
由緒沿革
 四百七十余年の昔、延徳年間(1489~91)より浮島金毘羅宮として崇敬せられ、明治二十年(1887)官許を得て石神井の水天宮を遷座して、これを社名とする。
 昭和二十年(1945)足立市場の開設以来、市場の守護神と尊崇された。
 干潮稲荷神社を昭和四十一年(1966)六月合祀し、干潮金刀比羅宮と改稱する。
 昭和四十一年十月』
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 本殿。

 この後は国道4号線を挟んで西側に鎮座する橋戸稲荷神社に参詣するつもりだったのだが、K-5II体感&トークライブの時間が迫っていたので橋戸稲荷神社はパス。またこちらの方に行く機会があったら参詣しよう。

仲町氷川神社(千住仲町)

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 千住仲町公園の東側に鎮座する仲町氷川神社(足立区千住仲町48-2)。
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『仲町氷川神社
 仲町氷川神社は素戔鳴尊を祭神とし、社伝によれば元和二年(1616)遷座と伝えられる。「新編武蔵風土記」に、江戸時代後期には千住二から五丁目の鎮守社で、千住一丁目不動院が管理していたと記されている。この神社には、つぎのような文化財が伝えられている。

 関屋天満宮碑 関屋天満宮は、神社本殿左側に社殿がある境内社のひとつである。「新編武蔵風土記」に「天神社 小名関屋ニアリシ社ヲ移セリ。故ニ鳥居ニ関屋天満宮ト扁ス。神体菅公ノ像ヲ安ス」とある。関屋から移転した時代は不明である。文化四年(1807)建立のこの碑は、裏面に一啓斎路川の門人たちが造立したことが記され、路川書の和歌が刻まれている。両側面には、月ごとの梅の姿を詠んだ漢詩も刻まれているが、作者は不明である。昭和五十七年(1982)十二月に区登録有形文化財(歴史資料)となった。

 金銅装神輿 総高二二四・五cm、胴部幅六三・五cm、基部幅一一六cmの大型の神輿である。小壁に鳳凰、扉に神紋等を蒔絵で描き、要所を金銅金具で装飾し工芸的に優れている。昭和五十七年十二月に区登録有形文化財(工芸品)となった。

 弁天像供養庚申塔 境内の岩の祠の中に安置される。元禄二年(1689)重陽(旧暦九月)二十八日の日付を持ち、十名の造立者の名が刻まれている。庚申塔には珍しく、弁財天を主尊として陽刻している。その左右には雌雄の鶏、下部には三猿が表わされて。昭和五十八年十二月に区登録有形民俗文化財となった。

 四神文鏡(天保戊戌年在銘) 天保九年(1838)制作で、鏡背に青海波に秋津(蜻蛉)の和風文様が鋳出されている。附属する鏡立は、嘉永七年(1854=安政元年)に米穀問屋が寄進したことを記した墨書がある。昭和六十年十一月に区登録有形文化財(工芸品)となった。
 平成二十二年三月』
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 拝殿。
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 関屋天満宮鳥居。
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『関屋天満宮(足立区有形文化財 関屋天満宮碑)
 御祭神 菅原道真公
 由緒
 鎮座のはじめは、村上天皇の時代、天暦三年の二月(949)で御神体は菅公の自作百体彫刻の内の一体であると伝わり、元関屋の里に在って、関屋天神と申しました。
 新編武蔵風土記 文政十一年(1828)の編纂によれば、源頼朝が奥州平定後の防御の地として千住の地に関所を設けたことにより、関屋の地名が起きたといわれ、この地はその昔、名主庄左ェ門の所有地で、この辺すべて水田や茅野でしたが、度々の出水により、天明七年八月(1787)当社内に御遷宮されました。その跡の印として小祠を建て和歌の名所に「関屋の里」と詠まれたのはこの辺りと思われます。また塚の周囲の葦がみな片葉であった為に、片葉の天神ともいわれていました。
 古くから学業成就の神として里人に親しまれています。
 例祭日 四月二十五日』
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 鳥居の台座手前に置かれた、梅鉢紋を刻んだ……なんだろうコレ。
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 関屋天満宮と関屋天満宮碑。
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 江嶋神社と三峯神社・稲荷神社。
 江嶋神社の鳥居の額は石造で龍の彫刻が施された立派なものだった。
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 江嶋神社鳥居の台座前には波に三つ鱗紋の刻まれたよくわからんもの。厳島神社や江ノ島神社の神紋である対い波に三つ鱗紋とは少し違うようだ。
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『千寿弁財天
 祭神 市杵島比売命
 弁天様として古来より親しまれ音楽・弁舌・福徳・知恵・財宝をつかさどる女神として広く信仰を集めています。
 この弁天像は供養庚申塔として元禄二年(1689)に造塔されたもので右手に剣を握り左手に宝珠を持っています。
 塔の上部には日月、中ほどには二鶏、下部には三猿がそれぞれに刻まれています。
 弁才天を主尊とした庚申塔としては現在のところ東京では一基と云われています』
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 弁天像供養庚申塔。
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 アップで。
 そう言えば、これで図らずも千寿七福神を全て巡ってしまったのだな。

河原稲荷神社(千住河原町)

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 千住宮本町交差点のやや南に鎮座する河原稲荷神社(足立区千住河原町10)。
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『句碑
 誓いての 後のたのみや 夏木立

 揮毫は元掃部宿対嶋薬局のご隠居さんで、雅号は冨雪。
 やっちゃ場の問屋四十三軒の人々が檜樹を奉納した記念に建立した。どうして奉納したかは定かでなく、俳句の作者も不明である。
 どなたかご存知の方は当神社へお知らせ下さい』
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 梅鉢紋がついているので、おそらく天満宮だろう。
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 狛犬。
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『狛犬
 狛犬は高麗犬とも書くコマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。
 狛犬は石などで造り御殿や神社の前に据え置くもの、鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。
 一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。
 当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽の一対。口を開けている方が阿で雄という口を閉じているのが雌。
 何でも大きなものが好きな「やっちゃ場」の旦那衆が造りあげたものである。
 残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。
 浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。
 台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。
 皆様も是非浅草神社でご覧下さい』
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 千寿七福神・開運福禄寿。
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 拝殿。
 瑞垣の下に力石が並んでいる。
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 拝殿正面。
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 天水槽。
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『天水槽
 水槽は鋳鉄製で高さ八五cm直系九八cm上部の円周二八一cm下部の円周二六二・五cmでやや下へつぼまり上部に幅六cm厚さ六cmの縁取りがある。
 千住の青物問屋街は戦前「千住のヤッチャバ」と呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。
 嘉永三年(1850)の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。
 水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽二十九名、左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。
 御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する』
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 神楽殿。
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『金銅装神輿(千貫神輿)
 足立区登録文化財
 金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿である。屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついている。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られている。基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついている。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘がある。明治初期の作品だが江戸神輿の形式を受けつぎ細工や装飾も見事で美しい総高二三八・五センチ胴部高一二三・○センチと大きく通称千貫神輿と呼ばれているが実際の重量は四百五十貫でありこの大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのであろう。
 九月十四・十五日は千住の祭りである。稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっている。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿である』
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『神道厨子
 文化財登録名称「木造黒漆小型厨子二基」
 二基同じようだが彫物がそれぞれ違う。
 小さなお宮だけにその精巧さが何とも魅力的である。
 昭和四十年代に旧神輿倉の中に埃にまみれて発見された。
 祭礼の神輿が町内巡行の際行列に加わった道具の一つである。内部に御神酒を容れる二本の瓶子を納め二基を天秤棒の両端にさしこんで肩にかついで御旅所で信者に内容物を分けたのである。
 江戸後期の造形性がよく現れていて特に製作年代が明記してある点が資料としても重要である。
 中央に金銅扁額があり陰刻銘で表に「千住川原町」裏に「天保五甲午歳 細工人錺師宮清」とある』
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 国道4号線に面して建てられた西の鳥居。

伏見稲荷神社(千住河原町)

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 千住宮本町交差点から東京都道461号線を少し西へ向かうと、足立区立千寿小学校の南側に伏見稲荷神社(足立区千住河原町6)が鎮座している。
 左側には福徳子育地蔵尊と水子地蔵尊が並んでいるが、写真を撮っておくのを忘れた。
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 愛嬌のある顔立ちのお狐さま。
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 ユーモラスな顔立ちのお狐さま。
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 ニの鳥居と拝殿。

八幡神社(千住宮元町)

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 国道4号線千住警察署入口交差点のやや南側に鎮座する八幡神社(足立区千住宮元町3-8)。別名を白幡八幡宮。
 御祭神は誉田別命。仲町氷川神社の摂社として明治四十一年(1908)現在地に白旗八幡宮の社殿を建立。創建時期は不詳だが、奥州征伐に向かう源義家が渡裸川の渡し(現在の隅田川、千住大橋のやや上流)を渡る際に両岸に白旗を立て目印にしたことに因むと足立区観光協会のサイトに書かれていた。
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 拝殿。
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 千寿七福神・毘沙門天。

千住神社(千住宮元町)

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 足立区立千寿青葉中学校の南側に鎮座する千住神社(足立区千住宮元町24)。
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 社号標石の右側に「史蹟 八幡太郎源義家陣営の地」と刻まれた石柱が建てられている。
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『由緒
 祭神  須佐之男命 宇迦之御魂命
 例祭日 九月十五日
 創立  当神社は、千住に集落が形成され始めた、延長四年(926)土地鎮護と五穀豊穣を祈って、伏見稲荷より御分霊を勧請し、稲荷神社を創立した。永承六年(1501)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されている。
 弘安二年(1279)に武蔵国、一の宮氷川神社の御分霊を勧請し、氷川神社を創立した。この為に、鎌倉時代より江戸時代には、ここを二ッ森と言っており、旧考録には、代々の将軍が、鷹狩りを行ったという記事が、随所に記録されている。
 寛永年間(1624~45)に至って、千住が日光街道の第一宿となり、当神社は、その西方にある為に、西の森とも言われた。江戸時代までは、稲荷神社と氷川神社の二つの神社があったが、明治五年(1872)十一月十八日、両社は、村社と定められ、更に翌六年六月には、稲荷神社を氷川神社に合祀し、西森神社と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の郷社と定められ、更に大正四年(1915)十二月十五日以来、千住神社と改称した。
 昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された』
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『千住神社
 およそ一千年前、この地は千崎という丘陵で、原始的森林地帯であった。やがて開拓民がここに住みつき、延長四年(926)に稲荷の神を勧請し、石造の祠を建て、千崎稲荷神社として五穀の豊作を祈願していた。
 弘安二年(1279)氷川神社を勧請したので、二つの神社が原始林の中に並び、「二つ森」とも言われて住民の信仰を集めた。
 江戸の初期、日光街道が開通すると、千住は初宿となり、宿場の西方にある神社ゆえ、西の森と唱えられた。明治六年(1873)、千崎稲荷神社と氷川神社を合祀して、西森神社と号し大正四年(1915)に、千住神社と改称した。
 祭神は、須佐之男命と宇迦之御魂命の二神を祀り、明治七年に区内唯一の郷社に列せられた。当社殿は昭和二十年(1945)四月十三日の空襲で焼失したが、氏子の厚い信仰と熱誠により昭和三十三年九月、現在の社殿(権現造り・流れ造り・神明造りの三者混合)が完成した。
 昭和六十三年二月』
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 芭蕉句碑。
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『西森神社坐碑
虹森神社東京府下千住町第一街第二街鎮護神也街即往昔千寿里也延
長中里民創稲荷社于里西住弘安中又建氷川社于其側併称曰西宮又曰
二森明示六年 朝命以合両社改曰西森神社以為郷社於是有志者謀胥
更拓社地改築祠宇鑿井掲扁搆鐡柵置社務所崇敬之至矣孝千住本蕞尓
一邨落而自文禄架大橋呂遂慶長置掃部宿元和築掃部堤寛永改名千住
田野年闢市墨月稠今則人口之?至一萬四千餘終入東京版圖可謂盛矣
是雖時運使然豈亦出于神徳之所致歟宣哉衆之嘉舉遠踰前古矣乃與?
歌曰維神之宅于千住郷斯瞻伒?赫靈光
明治廿三年十一月』
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 二の鳥居。
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 三の鳥居。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 富士塚。頂には浅間神社。
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『富士塚
 戦国時代から江戸時代初期、開祖・角行により始まった富士山登山信仰・富士講は、関東を中心に広く信仰を集め、江戸末期には「江戸八百八講」と言われるほどでありました。
 当社でも、木花開耶姫命を勧請し、多くの講道者で賑わいました。現在でも富士山開きの七月一日のみ、登山参拝ができます。
 これは富士浅間神社の御祭神・木花開耶姫命が猛火の中で、皇太子をご安産なされたという故事に習い、火防・安産・産業の守護神として尊崇され、富士を御神体山とされております』
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 延命稲荷神社鳥居。
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 延命稲荷神社。
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 千寿七福神・願掛け回転恵比寿。
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 天満宮。
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 恵比寿神社鳥居。
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 狛犬。
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 三社が合祀されており、左から八幡神社(祭神 応神天皇)、恵比寿神社(千住神社の公式サイトには幸福神社との記載有り)、三峯神社(祭神 伊邪那岐命・倭建命)。
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 経王稲荷神社鳥居。
 幟には最上位経王稲荷大明神と書かれている。日蓮宗に縁があるのだろう。
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 狛犬。
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 経王稲荷神社。
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 神楽殿と納札所。

 こちらに来る前に虎斑稲荷神社(足立区千住寿町17-8)にも行ってみたのだが、現在は取り潰されて無くなっていた。調べてみると去年辺りに潰されたようだ。GoogleMapのストリートビューは2010年1月に撮影されたものなので、神社のあった頃の姿を見ることができる。

元宿堰稲荷神社(千住桜木一丁目)

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 東京都道461号墨堤通りの帝京科学大学入口交差点南側に鎮座する元宿堰稲荷神社(足立区千住桜木1丁目15-5)。
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 旧千住四本煙突守護社、と書かれた柱が立てられている。
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『この桜土手通り(墨堤通り)の誕生は明治十九年、三千本の苗木を植栽、後、桜の名勝となる。千住から江北につづく荒川堤の「五色桜」は米国、ワシントンに贈殖。明治の末、度重なる大洪水に、大正の初め荒川放水路の開削が始まり、名勝桜堤(熊谷堤)は分断、然し桜土手の五色桜は大正十三年特別天然記念物の指定。昭和にかけて盛花に至るも世情の変遷に地名のみを残して桜並木は跡絶えて久しい。近年ワシントンの桜は里帰り桜となり(元宿小)再びこの堤通りにまぼろしの桜を復活した。
 平成四年三月』
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 ずらりと並ぶ鳥居。
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 引き締まった表情のお狐さま。
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 拝殿。
 四本煙突(通称お化け煙突)で知られる東京電力千住火力発電所の守護神とされていたことから、こちらの神社にはお化け除けの御利益があるとされているのだそうだ。
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『元宿堰稲荷神社
 御祭神 宇迦之御魂命
     大国主大神
 当社は第百十六代桃園天皇の御代、宝暦四戌歳(1755)九代徳川家重将軍の時と伝うるのみにして其の年代を詳しくせずと云えども古来より当地に鎮座し郷民の信仰厚く年中の祭祀も継続し来りしが昭和二十年(1945)十一月に至って元宿神社飛地境内社に編入となりしが本地域に独立神社なく、住民一同はその心から奉斎する社と恋し再度昭和二十三年二月十三日桜木町総鎮守として設立となる。
 昭和二十七年七月十日宗教法人承認、同二十九年四月十日御社殿改築す。
 御祭事 節分祭 初午祭
     例 祭(四月十一日)
     秋 祭(九月十五日)
 昭和五十八年九月十五日』
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『由緒略記
 稲荷信仰は三峰(お山)と神杉の(験の杉)信仰を基に他の信仰と習合発展せり。副神の大国主命は、国土の開拓、産業の開発、特に医薬の法をもって諸民の延命長寿の増進に霊験を発揮、医薬の道の祖神なり。
 此の町に大正の末、日本最大の火力発電所が稼動、この施設の巨大な四本の煙突(おばけ)は下町千住の名物と広く知られ、総発電量七万五千キロ、大正から昭和三十九年まで激動の時代の基礎を形成。この地域の総鎮守社として、企業発展の守護神と、遠近の人々の厚い崇敬を受け近代文明最先端エネルギー産業を通し、ご神威、神力を万民の上に示され、歳月の過ぎ去る中のご事績は今に伝う。
 平成元年十二月吉日』
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『四本煙突 「足立の今昔」より
「どこかへでかけての帰り道、電車の窓から四本煙突が見えはじめると、なぜかわが土地に帰ってきたように、ほっとしたもんですよ……映画「煙突の見える場所」で有名になった、東京電力千住火力発電所の四本煙突は大正十五年一月米国から機械を買入れ発電を開始。当時の金額で千五百万円、ボイラー用として建設、発電量七万五千Kw、日本最大の火力発電所の象徴であった。鋼板製で内部は耐火煉瓦巻、高さ八三・八二メートル、内径頂部四・五七メートル、底部五・四四メートル、外径頂部四・八一メートル、底部八・四○メートル、重量、鋼板一六六トン煉瓦四五六トン、計六二二トン。煙突の位置は対角線の永さ一方は六二・二メートル、片方が一○・五メートルと極端に押しつぶした菱形に配置されていたため、見る場所によって、一本にも二本にも、さらに三本にも見えるところから「お化け煙突」と呼ばれるようになり、長いあいだ下町の人にとって四季折々の周辺の風景の変化の中に不思議な調和したたたずまいがあった」建設以来三十有余年にわたり天をつく巨大な名物施設が激動の昭和史に残した偉業は計り知れない。時は移り昭和三十九年千住の空から姿は消え、今一部分が元宿小学校に遊具として保存されている。
 平成四年五月一日』
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 拝殿左側に水神祠。
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 元宿堰稲荷神社の少し北、帝京科学大学入口交差点脇に鎮座する境外社。
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 弘法大師御作子育地蔵大菩薩道、と刻まれた標石。
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元宿神社(千住元町)

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 帝京科学大学千住キャンパス2号館と3号館に挟まれる位置に鎮座する元宿神社(足立区千住元町33-4)。
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『桜土手
 千住地内、東・関屋・仲・河原・宮元・緑・龍田・元・桜木の各町の町界を通る都道補助一一九号線は、元和二年(1616)石出掃部亮吉胤が築いた荒川水除堤(掃部堤)と熊谷堤と呼ばれた旧来の荒川堤である。この堤防に明治の中ごろ桜が植えられてより、大正末期まで桜土手の愛称をもって親しまれ、春らんまんの桜並木は多くの花見客を呼んだ。しかし、関東大震災後は衰微の一途を辿り、やがてその景観は見られなくなった。昭和六年(1931)一月一日千住町字名地番の整理に際し、千住本町の堤外西耕地を千住桜木町と名付けて盛時を記念した。
 いま、地元区民の熱望により、この地に桜並木を復原し、往時の風情を伝えるものである。
 昭和六十年三月』
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『元宿神社
 千住元町三三-四
 祭神 誉田別命(八幡神)宇迦之御魂命(稲荷神)
 この地は鎌倉時代既に集落ができていた古い土地で、奥州路もここを通っていたといわれ、江戸時代初期の日光道中開設とともに成立した「千住宿」に対し「元宿」と称していた。
 天正の頃、甲州から移ってきた人々によって、北部の川田耕地などが開墾され、その人々の守護神八幡神が鎮守としてここに祭られたという。明治末年、一時千住四丁目氷川神社に合祀されたが、昭和五年(1930)稲荷神を合祀して村社となり、再び元宿の鎮守となった。
 荒川放水路の開削により、祖先が苦心して開拓した耕地は河川敷となり、多くの人々は悲しくも故地を離れなければならなかった。それらを記した境内の「感旧碑」は足立区内の開拓の歴史の貴重な資料である。
 平成十七年三月』
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 鳥居。
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 石祠と石額。
 石額には八幡宮とあり、また覆い屋の柱にも八幡大菩薩と書かれているので、こちらの石祠が昔の本殿だったのかも。
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 感旧碑。
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『感旧碑(現代語訳)
 我が祖先、因幡守貞宗は、長享元年(1487)、武田氏に仕え、甲府に住んでいました。長男蔵人は大永六年(1526)、武州安達郡に移り、さらに陸羽街道「元宿」に転居しました。その子左ヱ門尉信義は、天正元年(1573)。この地を開墾し、多くの良田を得ました。翌二年八月、村の東南に八幡神祠、九月東北に稲荷新祠を建てました。
 この信義は戦にも才能を発揮し、徳川に仕え、幾度となく功績をあげ、天正・慶長の時には、功状を賜ること三度、今尚、当家に伝わっています。この地に移転当初は、一族二十四戸でした。しかし、元禄二年(1689)、そのうち二十戸が今の千住四丁目一帯に移り住み、僅か四戸しか残りませんでしたが、後に十四戸までになり、全戸代々農業を営んできました。
 天明七年(1787)の飢饉の時も、先祖代々の土地を固守して、この地を去ることなく、明治四十年~四十三年(1907~10)の大洪水の時は、家屋に浸水すること十余日、田圃もほとんどが被害にあい荒廃しましたが、それでも村から離れず死守して来ました。
 大正元年(1912)八月、内務省が荒川改修工事を行なうことになり、この村もその改修区域に入っていたので、先祖伝来の土地を十四戸分すべて国に提供し、その後一族は四散してしまいました。
 我が一族が、この地に移り住んで四百余年、私は貞宗の遠い子孫になりますので、今この地を去るにあたり愛慕の情を禁じ得ず、碑を八幡神社に建てその概要を記して末代に伝えたいと思います。
 大正五年次丙辰三月 貞宗遠孫 鈴木与吉建立
 平成十八年丙戌三月 元宿神社』
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 千寿七福神・ぼけ封じ寿老人。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 庚申塔、三峯神社、元宿神社縁起碑。
『元宿神社縁起
 夫れ当社の祭神は信州川中島八幡宮の分霊、甲斐武田氏の臣鈴木氏の帰農と共に天正元年(1573)当初に鎮座せらる。明治の末神社合祀令により氷川神社に合祀せられたるも住民の熱意は稲荷神社と合祀して昭和九年(1934)官許を得たり。大正八年(1919)拾月拾五日住民據金とし社地山林五畝十五歩を代金五百六拾圓を以って買戻し更に隣地を買収し又社格を昇して村社とせり。昭和の敗戦より社格は失せたり雖も住民の信仰は彌々高し。茲に縁起を誌し以って後世の資とす。
 昭和四十一年三月』
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氷川神社(千住大川町)

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 足立区立千寿双葉小学校の北側に鎮座する氷川神社(足立区千住大川町12-3)。
 御祭神は素盞鳴尊と倉稲魂命。創建時期は永仁年間(1293~98)であるのだそうだ。
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 旧千住新橋の標柱。
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『旧千住新橋の標柱
 この石柱は、旧千住新橋の親柱である。
 千住新橋は、明治四十四年(1911)から荒川放水路の大改修計画の一環として、大正九年(1920)より同十三年までの永い歳月と、一一九万円を費して完成したものである。橋の構造、規模は、長さ四五二・七メートル、幅七・二メートル、鋼板桁の近代橋であった。
 その後昭和三十二年(1957)に幅一七メートルに拡幅され、東北地方への玄関口として機能を果たしてきたが、堤防の嵩上げ、著しい橋桁の老朽化、さらに交通量の増大などで架け替えをすることになったのである。
 架け替えに当り永年親しんできた旧千住新橋の標柱を大川町東町会の要請により、氷川神社の協賛を得て記念のためこの地へ移したものである。
 昭和五十二年十二月』
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 千寿七福神・子福布袋尊。
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 拝殿。
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 紙すきの碑。
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『紙すき碑
 足立区は、江戸時代から、紙すき業が盛んであり、新編武蔵風土記稿にも、各村の項でそのことがのべられている。
 この歌碑は、天保十四年(1843)六月晦日、幕府の命により、地すき紙を献上した時の喜びの記念碑である。
 碑文の上部に、永(永続連、同業組合の印)の題字があり、「水無月のつこもりの日公より岳のすき立仰付られる時」という前書きが続く。歌は「すきかえしせさするわさは田をつくるひなの賎らにあにしかめやも」「天保十あまり四とせ癸卯四角斉丸勇」と刻まれている。
 紙すきが、稲作にも劣らない仕事であるという自讃の歌である。台座石に二十一軒の問屋名が記されている。
 荒川放水路開削のため、この碑は、大正六年(1917)に移転し、再建された。
 足立の紙すきを物語る貴重な資料である。
 平成六年三月』
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 富士塚。
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『千住川田浅間神社冨士塚
 冨士塚は文政七年(1824)築造。祭神 木花開耶姫命。現在地に移築される以前は、町の西北(元宿)川田耕地に、氷川社、稲荷社、浅間社が同じ境内に鎮座していた。
 明治四十四年(1911)荒川放水路開削工事開始に伴い、大正五年(1916)五月、現在地よりやややや西側に移築された。その後、東京都の水道幹線工事のため、昭和四十三年(1968)六月現在地に移築復元され今日に至っている。
 塚は、冨士山の溶岩を積み上げ、固めて築造され、高さ約三メートルである。
 山頂に、天保二年(1831)銘の石祠が安置されている。塔碑が多く、最古の碑は、文政七年(1824)のもので丸藤惣同行冨士三十三度大願成就とある。
 この講社は、高田(早稲田)の身禄同行の技講で、講名を、丸藤千住十三夜同行と呼ぶ。講中は、千住五丁目と、千住大川町全域に及び、かつては、対岸の埼玉県を含む広範囲な地域の農民中心の講社であった。
 毎年七月一日祭礼が行われる。
 平成六年三月』
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 富士塚麓から。
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 南の鳥居。

氷川神社(千住四丁目)

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 北千住駅の北側に鎮座する氷川神社(足立区千住4丁目31-2)。
 御祭神は素盞鳴尊で、元禄四年(1692)四月に創建されたのだそうだ。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 左隣に境内社。
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 石段左側に狛犬・阿。
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 石段右側に狛犬・吽。
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 三社が合祀されており、左から猿田彦大神、稲荷神社、高正天満宮が祀られている。
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 狛犬。
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 高正天満宮縁起碑。
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『高正天満宮縁起碑
 氷川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主高梨氏の系譜、高正天満宮の由来について詳しく述べている。
 千住四丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになった。
 昌房の孫、正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を高正天満宮と号することにしたという。
 正木氏は、昌房以来、代々寺子屋「群雀堂」の経営にあたり、二代目塾主、大助(正木櫟蔭)の代には大いに発展し、来塾するものが毎日百人ほどもいたという。
 元治元年(1864)に建立されたこの碑は、三代目正木建の撰文によるものであり、天満宮の由来はもとより、寺子屋開塾に至る経緯が伺われる貴重な資料である。
 平成二年一月、足立区有形文化財に登録された。
 平成七年三月』
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 正木櫟蔭事績碑。
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『正木櫟蔭事績碑
 宝暦元年(1751)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑である。
 父昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦十二年(1762)元旦に生まれた大助は幼いころから学問に秀で、十二歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、六十六歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。
 大助は天保十二年(1841)十二月、八十歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫が、その評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され、息子建には銀五錠の褒章が与えられたことも記されている。
 この事績碑は、塾主三代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永五年(1852)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。
 平成二年一月、足立区有形文化財に登録された。
 平成七年三月』
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千住本氷川神社(千住三丁目)

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 北千住駅の西側に鎮座する千住本氷川神社(足立区千住3丁目22)。
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 二の鳥居。
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 千住本氷川神社旧社殿。
 案内板の隣に「千寿七福神 招福大黒天」と書かれた木札が立てられているが、こちらの旧社殿に大黒天が祀られているのだろうか。
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『千住本氷川神社旧社殿
 千住本氷川神社は、徳治二年(1307)に千葉氏によって、牛田に千葉山西光院と共に、氷川神社として創建されたという。
 千住が宿場町として栄え始めた江戸時代の初期、現在地に地主の土地奉納によって分社が建てられた。その後、明治四十三年(1910)荒川放水路建設のため、牛田氷川神社を合祀し、さらに昭和四十五年(1970)に社殿を新築したため、旧社殿は末社として保存されている。
 旧社殿向拝は、千鳥破風、その前面が唐破風となり、二重の破風を形成し、頭貫や虹梁の部分には、龍や鳥類の彫刻が目立っている。本殿は方一間(1.8メートル)余りの木造で、切妻造りの平入り形式をなし、屋根は箱棟こけらぶきで、勾配が美しい曲線を呈している。軒周りは二重棰となり、組物も巧緻で処々に彫刻が施され、趣きのある社殿である。
 平成六年三月』
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 三精稲荷神社。
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 拝殿。
 御祭神は素盞鳴尊。
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 狛犬・阿。
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 狛犬・吽。
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 斜めから。
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 旧社殿と三精稲荷。
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