芳林寺(岩槻区本町一丁目)

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 岩槻駅の200m程南側に位置する曹洞宗太平山芳林寺(さいたま市岩槻区本町1-7-10)。
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 山門。
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 台湾産っぽい獅子。
 台座には以下のことが刻まれている。
     三十三回忌
   勝徳院浄雲保善居士
   宝泉院二雲慈光大姉
    施主 勝田 修
         葉子
    平成五年十月吉日
     寒山寺性空書
 ググってみると寒山寺性空なる人は中国江蘇省蘇州市にある臨済宗寒山寺の住職であるようだが、そうするとこの獅子は台湾産ではなく蘇州から運ばれたものなのだろうか。
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 実は芳林寺に来るのはこの日二度目。
 一度目は八雲神社にお参りする前にこちらに立ち寄っていたのだが、門が閉じており入れなかったので、時間が早すぎたのかと思い一旦スルーしてこの日最後にもう一度来てみたのだが、やはり門が閉じられていて入れない。さてどうしたものかと思っていたら、脇の引戸から出て来る方々がいたので、あぁそっちかと。
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曹洞宗 太平山 芳林寺 由緒
 当寺は、釈迦如来を本尊とし、静岡県藤枝市にある龍池山洞雲寺の末寺にして、覚翁文等禅師(洞雲寺四世)を開山とする禅刹である。
 境内墓地から応永、享徳年号の墓石が発見されていることから、古くから当地に寺院が存したものと思料されるが、所伝によると、比企郡松山城に在った太田道灌公が延命地蔵尊を尊信し、松山城を築くにあたり堂宇を建てこれを祀り太平山地蔵堂と称したが、その後、文明十八年(一四八六年)七月二十六日道灌公が主君・扇ヶ谷上杉定正に謀殺されるや、その遺骨(遺髪とも云う)を堂側に埋葬して、香月院殿苑道灌大居士と諡したのであった。
 しかし、永正十七年(一五二〇年)八月火災に罹り烏有に帰したため、その後、曾孫・太田三楽斎資正公は居城であった太田道真公・道灌公父子が築城した岩槻城下の当地にこれを移し、再建全く成って大鐘を掛け宝殿が空にそびえたという。そして五十石を寄進され常住の資に充てられた。
 なお、道灌公の養子・太田資家公(岩槻城主)が、道灌公の遺髪や分骨をもらい受け、越生町の龍穏寺と岩槻の芳林寺に埋葬したとの言い伝えもある。
 資正公の正室であり、岩槻城主・太田氏資公の母公が生前に禅門に帰依して芳林妙春尼と号していたが、永禄十年(一五六七年)三月八日逝去するにおよび陽光院殿芳林妙春大姉と諡し、開基となしてその法号に因み、寺号を芳林寺と改めたのであった。
 また氏資公は北条氏康の娘(長称院)を妻に迎え、小田原北条氏に属していたが、永禄十年八月二十三日里見氏との上総三船山の合戦で、殿軍を努め討死したので、その亡骸を当寺に埋葬し太崇院殿昌安道也大居士と諡した。
 天正十八年(一五九〇年)徳川家康公関東入国に伴い、高力清長公が岩槻城主に封ぜられるや、当寺の荒廃しているのを嘆き大修理を加え復興した。
 そして、嫡男・高力正長公が慶長四年(一五九九年)三月二十二日卒したとき当寺に葬り、快林院殿全室道機大禅定門と諡したのである。この間いくばくもなくして火災に遭い堂宇悉く灰燼に帰したが、高力忠房公がこれを再び復興造営した。
 それ以来年月を歴てまたも文化八年(一八一一年)二月二十八日焼失し、現在の本堂は天保十二年(一八四一年)五月再建したものといわれる。
 明治四年(一八七一年)県庁が一時岩槻に置かれた際、一部仮庁舎として使用されたとも伝えられている。
 昭和五十三年十月
 平成二十年八月盂蘭盆再建

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 道標。
 北面に「京 三条大橋百四十二里」、東面に「白鶴城本丸半里」、南面に「江戸日本橋九里」と刻まれており、西面には何も刻まれていない。
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 本堂。
 手前の看板には「東日本大震災による芳林寺本堂復興補強工事」と書かれた完成予定図が設置されてる。
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埼玉県庁が最初に設置された芳林寺
 明治四年(一八七一年)十一月十四日、埼玉県・入間県の設置が太政官布告で令達された際、県庁の位置は埼玉県は岩槻とされ、ここ芳林寺に最初の県庁舎が設置されました。
 当時の岩槻は城下町として賑わっていましたが、岩槻で県庁の事務を執ったのはわずかの間、まもなく浦和に移転してしまいました。
 その当時の逸話が、北條清一氏の著書に記されています。
   「廃藩と剣客の悲哀」
岩槻町長秋葉保雄氏の話
 廃藩置県となって、「埼玉県庁を埼玉郡岩槻町に置く」ということになって、県庁の仮庁舎は岩槻町芳林寺内に置かれたものです。その頃は、南埼、北埼に分かれていなくて埼玉県埼玉郡と呼んでいた。岩槻藩は二万三千石大岡司膳正の城下町であった。
 明治四年、芳林寺に仮庁舎が置かれ、初代の県令(知事)は鹿児島県士族野村盛秀が任命され、大書記官が白根多助、大参事が吉田清秀という人だった。大岡藩からも平野正信児玉親廣などという人材が県吏に採用された。
 当時の話として、岩槻町は県庁を邪魔者扱いにして追っ払ったので、県庁が浦和に移されたように伝えられているが、これはとんでもない間違いで、事の真相はこうなんです。
 藩士で家老格の家柄──名前は憚るが剣道の達者な男があった。旧幕時代は剣道ができれば立派に家門が立っておったのであるが、廃藩置県の後は剣術では飯が食えない。この男が県庁へ仕官したい希望を抱いていたが、頭が出来ないので採用されない。それを遺恨に思って、芳林寺の仮庁舎へ長刀の落し差しかなんかで出かけて、さんざん嫌味を並べて毎日のように暴れたのですな。藩中で相当精力があったし、うるさく暴れるので、こんなうるさいところへ県庁は置かなくてもよいとついに移転となったものです。この男が嫌味を並べて暴れさえしなかったら、岩槻は県庁所在地として、今頃は県の首都で大いに発展していたろうと思うのです。そう思うと、この没常識漢の仕打ちがうらめしくも思われる。
『武州このごろ記』 北條清一著      日本公論社   昭和十年七月刊

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 白山堂と寶聚稲荷大明神。
 寶聚稲荷大明神の鳥居には表側に「志納金百三十万円也 賛京建設株式会社 代表取締役会長 勝田修」「賛京建設株式会社 代表取締役社長 勝田充彦」、裏側に「平成二十年八月吉祥日 當山三十二世 道龍裕幸叟代」と刻まれている。
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 白山堂の標石には金刀比羅大権現、白山大権現、三峯大権現と刻まれているので、この三神が合祀されているのだろう。
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 太田氏資公像と地蔵堂位牌堂。
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 弁天堂。
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 芳林妙春禅尼像。
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 太田道灌公鷹狩之像。
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 不動堂。
 朝に来た時は門が閉じていたので入れないと思っていたのだが、もしかしたらこちらも入れたのかも知れない。昼過ぎに再び来た時には、今度は門に布団が掛けられていたので入れなかった。変わった所で布団を干すものだなぁ。
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 太田道灌公騎馬武者像。
 案内板によると、東京都葛飾区柴又在住の彫刻家である冨田憲二氏と山本明良氏の両名によって作られたものであるのだそうだ。
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 以上で4月2日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,694歩。
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三峯神社(岩槻区本町四丁目)

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 埼玉県道324号蒲生岩槻線を挟んで日蓮宗大法山眞浄寺の向かい側に鎮座する三峯神社(さいたま市岩槻区本町4-9)。
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 靖国鳥居。
 柱には「御大典紀念」「昭和三年十一月吉日」と刻まれている。
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 拝殿のような覆屋のような。
 先の秋葉神社は覆屋の上に本殿の屋根が出ている覆っていない覆屋であったが、こちらは本殿の屋根に部分的に被せるようにして繋げている。こう言うのは何と呼ぶのだろう。
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 斜めから。
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 本殿。

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 三峯神社北西の交差点傍にて見かけた祠。
 ここにあったなにかが取り壊された後も祠だけが残されていると言った様子だが、なんだろうね。ストリートビューを見ると半年前もこんな感じではあるが。
 そしてマップを見ていたら近くに新町自治会館があることに気付き、結構こう言う所に小さい神社があったりするんだよなとか思いストリートビューを見てみたら、本当に神社があった……オーゥ○刀乙。ぐぬぬ、事前に気付いていればお参りして行けたのになぁ。まぁ、また後でこちらの方に行った時にでもお参りしてこようか。

学蔵寺(岩槻区本町四丁目)

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 日蓮宗恵光山学蔵寺(さいたま市岩槻区本町4-8)。
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 七面大明神。
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 稲荷大明神と浄行菩薩。
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 本堂。

秋葉神社(岩槻区仲町一丁目)

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 曹洞宗慈眼山千手院の東側に鎮座する秋葉神社(さいたま市岩槻区仲町1-1-12)。
 鳥居の柱には「大正拾壹年七月吉日」と刻まれている。
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 文政十三年(1830)九月十四日造立の石燈籠。
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秋葉神社 御由緒
 さいたま市岩槻区仲町一-一-一七
□ 御縁起(歴史)
 当社は江戸時代、秋葉社と称し、杉並町に鎮座され杉並町、各町等の秋葉講を主体に永井家家中等の助力に由り、正徳元年(一七一一)~享保十二年(一七二七)に遠江国周智郡犬居(現・静岡県浜松市春野町)の秋葉寺から火防鎮護の神、秋葉三尺坊大権現を祀り創建されました。
 秋葉信仰の発祥は永禄十二年(一五六八)頃、家康と信玄との関係悪化により上杉謙信と好を結ぶ過程で謙信配下、越後長岡の蔵王堂三尺坊院主周国を連れ帰った。信濃の戸隠宝光院出自で飯縄信仰を堅持していた周国は遠州秋葉山にて死後、飯縄権現が三尺坊として信仰の対象となりました。貞享二年(一六八五)四月十八日、貞享秋葉祭の村送りを機に東西に広く伝わり貞享二年十一月に幕府より新規祭礼の禁止令が出されましたが、全国に爆発的に広まり最盛時には秋葉社は二万七千社を数えたと言います。
 江戸時代は隣の千手院が別当を勤め祭礼等、管轄されていました。慶応四年(一八六八)三月十三日神仏判然令等の太政官布告により当社祭神秋葉三尺坊大権現は廃止され浄火の神・火産霊命(火之迦具土神)と水の神・河菜姫命の兄弟神に替えられ社名も秋葉神社となりました。昔の秋葉寺は明治六年廃寺とされ秋葉三尺坊大権現像は本寺の可睡斎へ移されました。廃寺となった秋葉寺は明治十三年十一月復興。また火之迦具土神を祭神とする神道の秋葉山本宮秋場神社が創建されました。
 当社本殿は、大正十四年改修により瓦葺から銅板葺に替えられました。
 秋葉町自治会氏子有志として隔年、可睡斎で法要、秋葉山本宮秋葉神社へ参拝して現在に至っています。
□ 御祭神(火防・火伏)
 ・火産霊命  ・河菜姫命
□ 御祭日
 ・元旦祭(正月元旦) ・初午祭(三月初午日)
 ・例 祭(四月十八日)・お面様(七月十八日)

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 狛犬……と言うか獅子。両方とも阿形だし。
 台座には「天保三壬辰年九月吉祥日」と刻まれている。天保三年は1832年。
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 別角度から。
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 本殿。
 覆屋の隙間から撮影をしていたら、こちらの管理をされている方が扉を開けて下さったので中に入って撮影。それでも16mmでは狭いので魚眼ズームを使用。ペンタックスから超広角ズーム出ないかなぁ……。
 この扉を開けて下さった方からは他にも色々な話を聞かせていただいたり、神社のリーフレットや火防神璽、江戸時代の秋葉社の位置を記した絵図のプリントなどもいただいたりと、とても親切にして下さり有難いことです。
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 本殿に施された彫刻の一部。
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 伏見稲荷社とお面様。
 こちらの二社は自治会の方々の手によって平成二十六年に建て替えられたものであり、お面様の屋根瓦は嘗て秋葉神社の屋根に使われていたものの中から破損していない使えるものだけを選んで流用したものだと教えていただいた。先に瓦の数が決まっているので、そこから計算して祠の大きさを決めて作られたのだそうだ。
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 大天狗の面が祀られているからお面様。
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水屋建設記念
秋葉神社の略縁起
御祭神 火之迦具土大神と申し上げ火を司り給う神様である
御神徳 私達の生活に一日もかかせない火を守護し幸せを与え又悪火を鎮め悪火から生
    ずるいろいろな災を祓い下さる火防の神である
祭礼日 毎年四月十八日
建 立 享保十二年四月十八日(今から二四八年前)
    貞享から享保の時代(一六八四年~一七三六年)は全国的に火災が多かったの
    で火防の神を建立するため、当時の杉並横町の人たちの合議により、代表者を
    秋葉山本宮(静岡県周智郡春日町)に代参させ、御神体をいただき現在地に建
    立し、守護者として地域の火防と幸せな生活を願ひ数々の変遷を経て、現在に
    至っている

    岩槻市観光協会指定
       昭和五十二年四月十八日
                  岩槻市教育委員長 田中寿徳書

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 手水舎。
 手水鉢は破損防止の為に透明な板で覆われている。
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 天神宮と稲荷大明神(寛延三年(1750))、天神様(安政六己未年(1859)六月)。少し離れて庚申塔(文化三丙寅(1806)四月)。

鶴姫神社(岩槻区真福寺)

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 岩槻消防署から450m程南下した所に鎮座する鶴姫神社(さいたま市岩槻区真福寺)。
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鶴姫神社
祭神 岩槻城主太田氏の娘鶴姫様
   縁結びの神 子孫繁栄の神 下の神

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稲荷堂(岩槻区本町二丁目)

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 真言宗智山派光岩山釈迦院弥勒密寺の境内に鎮座する稲荷堂(さいたま市岩槻区本町2-7-35)。
 弥勒密寺の公式サイトあり。
 本堂などにもお参りはしたのだが、うっかり本堂を撮影するのを忘れていた。

稲荷神社(岩槻区加倉四丁目)

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 曹洞宗加倉山洞雲寺へ至る道の脇に鎮座する稲荷神社(さいたま市岩槻区加倉4-18)。
 鳥居の貫に打ち付けられているプレートには「奉納 橋本正治 2007.6.1」と記されている。
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久伊豆神社(岩槻区加倉四丁目)

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 加倉連合自治会館の隣、国道122号線に北面して鎮座する久伊豆神社(さいたま市岩槻区加倉4-19-37)。
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久伊豆神社
久伊豆神社の御祭神は、国土開発・生成化育・子孫繁栄を掌る大己貴命(大国主命)です。
天文年間(一五三二~一五三三年)頃勘解田盛之という人が当地に来て田圃を拓き農人となりこの地に留まるようになったのがこの村の祖といわれています。元亀年間(一五七〇~一五七三年)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以って加倉村と改めました。その頃農人が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守「久伊豆神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました。
明治五年に村社となり、翌明治六年十一月十一日本殿の落成を見、同二十九年十一月に拝殿が再建されました。
正面の扁額に久伊豆神社・稲荷社・宗像社・籠神社・水神社と掲げられており、いくつもの神様が祀られていることが分かり、それぞれの神様がこの加倉地区・加倉の人々をお守りくださっております。久伊豆神社は加倉の鎮守様(氏神様)であります。
 御祭礼日 毎年十月十九日

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 上記の由緒書きには久伊豆神社には稲荷社と宗像社、籠神社、水神社が合祀されていると書かれているが、扁額に刻まれているのは籠神社ではなく龗神社である。神社合祀碑には八大龍王社とも記されているので、やはり龗神社の方が正しいのだろう。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 稲荷社。
 石燈籠には「寛政四壬子歳二月初午日 浄国寺三十一世泰譽代」と刻まれている。寛政四年は1792年。
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 何神社なのかわからなかったが、ググってみたら太子堂であるのだそうだ。
 奥に見える石碑は明治三十年(1897)六月に建てられた拝殿新設之記。
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 明治四十二年(1909)十二月に建てられた神社合祀碑。
 先の拝殿新設記念碑もそうだったが、崩し字が多くてわかりにくい。とりあえずわかる部分をまとめると、埼玉県武蔵国南埼玉郡柏崎村大字加倉の地に祀られていた無格社辨天社、八大龍王社、水神社、稲荷社は長い時を経て社殿が朽ち神地も荒れ、神の威光が衰えるのを憂えていた折に神社合祀の勅令が出されたので、明治四十年三月二十一日に村社久伊豆神社に合祀したというようなことが記されている。
 また、背面には以下の文も刻まれている。
  明治十六年十一月二十日本社遷宮式
  仝三十六年三月十六日手水屋上棟式
  仝四十一年十二月吉日敷石新設
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 鈴木源吉頌徳碑と青面金剛二基。
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 嘉永七年(1854)十一月奉納の力石。

琴平神社(岩槻区加倉一丁目)

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 国道122号と埼玉県道2号さいたま春日部線が合流する加倉(北)交差点の傍に鎮座する琴平神社(さいたま市岩槻区加倉1-33)。
 鳥居の柱には「平成二年六月吉日建之」と刻まれている。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 昭和四十五年二月に建てられた神社移転碑。碑には「金昆羅神社」とあるので、それよりも後に「琴平」と文字を改めたのだろうか。

八雲神社(岩槻区本町一丁目)

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 国道122号線を挟んで岩槻郷土資料館の向かい側に鎮座する八雲神社(さいたま市岩槻区本町1-15)。
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 鳥居前の瑞垣脇に設置された市宿通り観光マップ。
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 一部アップで。
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八雲神社由緒
当神社の創建と由緒は、当地に旧家勝田氏祖先の勝田佐渡守が永禄三年(一五六〇年)正月に市を開設した折に市の守護神として鎮座し市を開いたのが最初には必ず市場の祭文を読みいる習わしだったと伝えられています。
江戸時代は牛頭天王社と称され明治時代になると八雲神社と改称されました。天王様の名称で人々に親しまれております。祭神は素戔嗚尊で商の神火防の神として霊験あらたかです。神殿は昔、県道の中央に鎮座し神社から下に向って背中合せに市が立ち近郷近在からの人出で雑踏いたしました。現在の社殿は明治十七年(一八八四年)十一月二十八日に落成し明治二十一年(一八八八年)に現在地に移されました。境内地に現在緑の広場として子供や市民の皆さんから親しまれております。
 例大祭日 七月七日 七月十五日
    平成六年   八雲神社氏子中
           第一区自治会
           第二区自治会

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 拝殿。
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 獅子山。
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 狛犬をアップで。
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 扁額には市神社と記されている。
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 本殿。
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 本殿の彫刻の案内図。
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 力石。
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 神輿・四神収納庫と末社殿(猿田彦大神と鹿島大神)。収納庫の左脇には従軍記念碑。
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 享保十一年に奉納された手洗場石。

稲荷社(岩槻区本町三丁目)

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 埼玉りそな銀行岩槻支店の東側、駐車場の端に鎮座する稲荷社(さいたま市岩槻区本町3-12)。
 社名は記されていなかったが、宝珠紋らしきものがあるので稲荷社だろう、たぶん。

愛宕神社(岩槻区本町三丁目)

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 東武野田線第50号踏切の傍に鎮座する愛宕神社(さいたま市岩槻区本町3-21-25)。
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 参道。
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 岩槻城の土塁跡の上に愛宕神社。
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 狛犬。
 台座には「昭和六年十月再建」と刻まれている。
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愛宕神社
 所在地 岩槻市本町三-二十-二十五
 愛宕神社の祭神は迦具土命であり、境内には松尾神社(祭神 大山咋命・伊弉諾命・伊弉冉命・徳川家康)、稲荷神社(祭神 倉稲魂命)、天神社(祭神 菅原道真)がある。迦具土命は火防、盗難除、安産の神、子育の神として知られ、近年は、進学・就職の神として信仰を集めている。
 神社の創建は明らかではないが、江戸時代初期の「武州岩槻城図」に愛宕神社が記されている。いい伝えによると、長禄元年(一四五七)に太田資清(一説には道灌)が岩槻城を築くにあたり城郭として外堀と土塁(土居)を造った。するとその傍らに小さな祠一社があり、風雨に曝された小板に幽かに迦具土命と言う字が見えた。これは火防の神(愛宕大神)であるので土塁上に移し祠った。その日が現在の七月二十四日であるので、今でも祭礼日として祭典を行っている。
 昭和五十九年三月

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 拝殿。
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 記念碑と天満宮。
本殿境内修復 愛宕会館建設記念碑
 今から五百数十年前の長禄元年三月太田道灌公岩槻城を築き 次子資家公初代城主となるや 六年後の寛正三年に外敵防禦 防風 風致に意を用い 城と町を圍む堅固な土居と深き濠をつくり 土居に欅 杉 椎等大木となる数種の樹木を植えた
 いつの世か この土居の最高所に火難除けの神 迦具土命を祭神とする愛宕神社が創建された 時は新暦七月二十四日に当り この日を祭祀の日と定め毎年の祭りを行っている
 時移り 人代ってここに幾星霜 本殿 石段 境内 参道等著しく荒廃して見るに忍びず 氏子総代しばしば会合し その善後策を講じて修復に決し 集会所新設と併せて工事の速進に踏み切ったのである
 かくて建設委員会は九町自治会の氏子に諒解を得て準備に着手し 事業計画 資金調達に努め工事推進に鋭意協力し 遂に昭和四十九年二月見事完成を見るに至ったのである
 昭和四十九年七月吉日
  撰文並書 八十翁 原口扁舟

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 末社。
 稲荷社、芳名碑、稲荷大明神、合祀社。右端の祠の中には複数の神の名が記された板があり、それには水神、阿■大菩薩、弘法大師、穴森稲荷、猿田彦大神、鬼子母神、権七菩薩、妙件大神、辨天大神、諏訪大神とあるが、いずれも下に消滅と書かれている。
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岩槻城大構
  指定年月日  昭和四十九年九月二十六日
  指定の種別  記念物(史跡)
  所有(管理)者 岩槻市本町三丁目二一番二五号 愛宕神社
 戦国時代の末から江戸時代の岩槻城下町は、その周囲を土塁と堀が囲んでいた。この土塁と堀を大構(外構・惣構・土居)という。城下町側に土塁、その外側に堀が巡り、長さは約八kmに及んだという。
 この大構は、天正年間(一五八〇年代頃)、小田原の後北条氏が豊臣政権との緊張が高まる中、岩槻城外の町場を城郭と一体化するため、築いたものとされ、城の防御力の強化を図ったほか、城下の町場の保護にも大きな役割を果たした。
 廃城後は、次第にその姿を消し、現在は一部が残っているにすぎず、愛宕神社が鎮座するこの土塁は、大構の姿を今にとどめる貴重な遺構となっている。

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 こちらが松尾神社なのかなと思ったら、明治十六年十二月に奉納された扁額には三社祠と記されていた。松尾神社・稲荷神社・天神社の三社を合祀しているとも考えられるが、稲荷社と天満宮は別にあったしなぁ。
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庚申尊(岩槻区本町三丁目)

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 東武野田線岩槻駅の北東、国道122号線に面して鎮座する庚申尊(さいたま市岩槻区本町3-4)。
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 庚申堂に掛けられた扁額には庚申尊、堂の中に掛けられた扁額には猿田彦大神と書かれている。
 右側の祠には社名を示すものは見当たらなかったが、中を覗きこんだら三方の上に油揚げが置かれていたのでおそらく稲荷社なのだろう。
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中尾神社(緑区中尾)

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 埼玉県道1号を挟んでセブンイレブンさいたま中尾緑島店の東南に鎮座する中尾神社(さいたま市緑区中尾2506)。 
 鳥居の柱には「文政四辛巳年正月吉日建之」「坂東西國秩父百ヶ所 當所願主 會場与左衛門」と刻まれている。文政四年は1821年だから、196年前か。
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中尾神社
 さいたま市緑区中尾二五〇六
□ 御縁起(歴史)
 いにしえの武蔵野を思わせるような、閑静な雑木林の中に当社は鎮座している。この辺りは周囲よりも標高が少し高くなっており、遠望すると緑色の島がぽっかりと浮かんでいるように見えるため、緑島と呼ばれる。
 当社は、同じ緑島の地内にあり、延暦九年(七九〇)の創立と伝える本山派修験の古刹玉林院が支配していた模様で、『風土記稿』中尾村の項には玉林院の境内社の一つとして「鹿島明神社」と載せられている。創建の年代は明らかでないが、鹿島信仰が民衆の間に浸透した近世初頭には既に玉林院によって祀られていたものであろう。
 明治初年の神仏分離により玉林院の管理下から離れた当社は、鹿島社と称し、明治六年に村社となった。その後、明治四十一年に、同じ大字内の字駒形から無格社駒形神社と同境内社の第六天社・須賀社、字不動谷から無格社稲荷社と白山社、字駒前から無格社稲荷社と同境内社の第六天社、無格社稲荷社と同境内社の第六天社・八雲社の計一〇社を合祀し、社名を中尾神社と改めた。しかし、これらの合祀は、実際は書類上のことにとどまり、対象となった諸社は、現在も旧地に社殿が残っている。このほか明治三年に字緑島内の榛名神社を当社境内に移したとの記録があるが、これも実際は昭和二十年代になってから行われた。
□ 御祭神
 ・建御雷之男神・・・武運長久、厄除け
□ 御祭日
 ・元旦祭(一月一日) ・夏祭り(七月二十六日)
 ・秋祭り(十月九日)

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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 後ろから。
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 稲荷社。
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 その脇に■■■王と稲荷社。
 ■■■王はおそらく牛頭天王だろう。
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 左の石祠は稲荷社、右の石祠は白山大権現。
 稲荷社の側面には「稲荷社再建願主 當所 饗庭喜蔵 昭和九年三月吉日」と刻まれており、白山大権現の側面には「寛政十二庚申正月吉日」「武州足立郡木崎領 中尾村不動谷戸 金剛寺持」と刻まれている。世話人の名も刻まれてはいるのだが、少々読み取り難い。ちなみに昭和九年は1934年で寛政十二年は1800年。

 以上で3月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm。X30。
 ウォーキングカウンターは25,821歩。
 この後は浦和駅まで歩き、途中の八雲神社や榎戸稲荷はお参りしている時間的余裕が無かったので残念ながらスルー。新刊を購入するため大宮に立ち寄り、それから帰宅。

大谷口氷川神社(緑区大谷口)

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 埼玉県道1号さいたま川口線に面して鎮座する大谷口氷川神社(さいたま市南区大谷口2285)。
 鳥居の柱には「明治四十三年一月吉日建之」「大谷口 廣ヶ谷戸 氏子中」と刻まれている。
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氷川神社 御由緒
□ 御縁起(歴史)
 当社は大宮台地浦和支台の北端に祀られており、その北方の低地にはかつて湿地帯が広がっていた。
 『風土記稿』によれば、大谷口村は、中尾・広ヶ谷戸・道祖土・柳崎の四か村も含んで一村をなしていたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)にそれぞれ分村したという。当社はこの五か村の鎮守として崇敬され、慶安二年(一六四九)には朱印地一〇石を拝領していることから、分村以前から祀られていたことがわかる。本社である武蔵一宮氷川神社は、正保期(一六四四-四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼とした杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って湿地帯と望む高台の地に奉斎されたことは想像に難くない。
 『風土記稿』大谷口村の項には「氷川明神社 中尾・広ヶ谷戸・道祖土・柳崎四村の鎮守なり、御朱印十石は村内及び柳崎村にて賜れり末社三神社、天神社、別当安楽寺 天台宗、仙波中院の末、養寿山観明院と号す、本尊は弥陀を安ず」と記されている。安楽寺住職の末裔である野口吉明家所蔵の文書によれば、安楽寺は文久二年(一八六二)に無住となり、本山の学僧であった徳王房順盛を留守居とし、同四年(一八六四)に住職とした。順盛は神仏分離後、還俗して名を野口耀と改め、当社の祀職となり、当社は明治四年に村社に列した。
□ 御祭神・・・素戔嗚尊
□ 御祭日
 ・新年祭・・・一月六日 ・塞祭・・・五月十五日
 ・例 祭・・・八月一日 ・秋祭・・・十一月二十三日

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 拝殿と獅子山。
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 狛犬。
 右側の獅子は頭部が破損しており、なにか別のクリーチャーのような見た目になっている。
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 臀部側から。
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 本殿。
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 天満宮・古峯神社。
 鳥居の柱には「大正十一年二月」「伊勢参拝記念」と刻まれている。
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 左から無し、春日大神・天照大神・八幡大神、疱瘡神・天満宮・稲荷大神、石神井社、第六天。
 左端だけなにも無いのはどう言うことだろう?
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 雷電神社と十二所権現社。
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 社名が記されていない為、不明。
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 中を覗き込んでみてもやはりわからないが、左の祠には「氷川社」と書かれた額と「八紘一宇従軍記念」と書かれた額があるのが見え、右の祠の中に掛けられた絵馬には狐のようなものが描かれているのが見える。
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 春日大神・天照皇大神・豊受姫大神奉拝碑と境内地譲与記念碑。
氷川神社地沿革誌
當社ハ古來安樂寺別當ニヨリ齋祀サレテオリ 明治元辰年ノ十一月浦和県役所ニ復飾ヲ願出姓名モ野口主計耀ト稱シ 同二巳年ノ六月神祇官ヨリ少講義祠掌ノ御許状ヲ戴キ神明ニ奉仕ス同三庚午歳十一月十九日県庁ニ届出セシ 氷川神社明細書 ニヨレバ
社領元朱印地 高拾石七斗 此田畑藪山合反別 三町四反六畝拾四歩 伹除地及ニ境内地 五反弐畝参歩 ヲ有ス
明治五申歳大政官ノ達旨ニヨリ 境内地ノ内 参反四畝ニ拾六歩ヲ引裂キ 上地官林ニ編入サル 同九子歳地租改正法 被 仰出サレ殘餘ノ境内地 六百参拾九坪ノ土地ヲ上ニ奉ロ 以后官有地第一種地トシテ当社ニ貸付ラレタリ 明治丗三庚子歳六月一日当社ノ社掌野口耀氏子總代野口義平同順平同利兵衛連署ノ上上地林境内編入願乎提出ス 同四十丁未歳四月丗日(社掌死亡欠員)總代野口義作松本彦吉大熊長五郎連署ヲ以テ編入之義ニ付追願セシ処同四十一年三月二日付時ノ知事嶋田剛太郎閣下ノ名ヲ以テ 上地林境内編入ノ件實測面弐反五畝八歩ニ限リ聞届ラレ 大正ヲ経テ昭和ノ御代ニ及ビタリ 昭和二十乙酉歳八月十五日 大戰終了 同年十二月十七日國家神道廢止令ヲ受ケ 同廿一丙戌二月國家管理ノ基ヨリ全ク離ル同年二月二十日神社本廳所属ノ神社トシテ立 同年七月廿日 勅令第七十號ヲ以テ改正セラレタル宗教法人令附則第二項ニ該当スル神社ニテ右附則第三項ノ規定ニヨリ主管者宮司吉田栄一氏子總代峯岸伊平次松澤芳一國谷夛吉野口夘之助野口義盛星野岩次郎大熊清光栗原縫次等連署ヲ以テ登記所ニ法人登記ス
同廿三戊子歳四月一日國有境内地無償讓與方ニ關シ而
一本殿拜殿末社附属建物工作ノ敷地ニ供スル土地 六百参拾九坪
二宗教上ノ儀式又ハ行事ヲ行フ爲ノ必要ナル土地 八百九拾六坪六合参勺
宮司氏子總代野口富吉松本芳彦野口利八野口考治冨田問吉大熊喜作野口一郎星野亥四等連署ヲ以テ申請ス 同年十月廿日浦和市大谷口字向二二八五 二二八六ノ二
指令社第三〇五號 神社境内地千五百參拾五坪六合參勺 伹シ立木共東京財務局長湯地謹爾郎殿ノ名ヲ以テ讓與ノ許可書受納ス
明浄正直ノ瑞光照合ス 茲ニ氏子奉讃會員一同談合シ社殿屋根改修並各箇所之修繕ヲ行ヒ壽祝ノ誠ヲ表シテ永久ニ記念シ奉ル次第ナリ
 昭和廿四己丑歳十月二十日   明階二級宮司 吉田栄一 謹書

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 伊勢太々神楽之碑。
 背面には「明治十五年五月廿五日」と刻まれているので、1882年に建てられたもののようだ。
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熊野社権現神社(緑区東浦和二丁目)

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 明神社から西へ100m程、サミットストア東浦和店の脇に鎮座する熊野社権現社(さいたま市緑区東浦和2-51)。
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熊野社 御由緒
 さいたま市緑区東浦和二-五一-一
□ 御縁起(歴史)
 鎮座地の井沼方は、正保年間から元禄年間(一六八八-一七〇四)にかけて、柳崎村・中尾村と共に大谷口村から分村した。一部の沼地を除いて、村の大半が台地のため、用水の便が悪く、農業は天水に頼っていた。そのためにしばしば旱損に悩まされたという。
 口碑によれば当社の創建は、東京都北区の王子神社を勧請したものであるという。王子神社は元亨二年(一三二二)領主豊島氏が紀州熊野権現を勧請し、江戸期は将軍家の祈願所として知られた社である。その信仰は江戸と浦和宿を結ぶ中山道を通じてもたらされたものであろう。一方、親村である大谷口村にも熊野権現社が鎮座していることから、分村ぶ際して、その分霊を祀ったとも考えられる。隣村中尾村の熊野神社の別当玉林院が天文二十二年(一五五三)に聖護院から下足立伊勢熊野先達衆分檀那職を安堵されていたことも当社の創立を考える上で参考になろう。
 当社の鎮座地は、かつて村の西端に広がっていた沼地のほとりに当たり、境内は沼に向かって緩やかに傾斜していた。また、境内の一角からは清水が湧き出て、沼へ注いでいた。用水の確保に苦心していた村人らは、常に水をたたえる沼に神霊を感得し、天水の確保を祈念して当社を祀ったのであろう。沼は、いつのころからか水田として利用され、更に昭和六十年に実施された区画整理で埋め立てられた。
□ 御祭神
 ・家津御子神 ・速玉男神 ・熊野夫須美神
□ 御祭日
 ・初詣(一月一日) ・宮薙(七月十五日)

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 鳥居の柱には「平成十四年三月吉日建之」と刻まれている。
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明神社(緑区東浦和二丁目)

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 武蔵野線沿線に鎮座する明神社(さいたま市緑区東浦和2-48-2)。
 鳥居の柱には「昭和六十年四月吉日建之」と刻まれている。
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明神社 御由緒
 さいたま市緑区東浦和二-四八-二
□ 御縁起(歴史)
 平安中期の武将である平将門は相馬小次郎とも称した。下総を本拠として関東各地に勢力を伸張し、中央派遣の国司を次々に追放して一族を国司に任命し、自ら新皇と称して関東の自立を図った。『将門記』によると、将門は侠気に富む人物であり、皇胤の自覚をもちながら武芸によって身を立てようとしたつわものであったという。このような将門の行動は関東の民衆に大きな影響を与え、将門を英雄として仰ぐ気風は時とともに強まり、死後の霊魂説話や子孫説話も作られていった。
 当社は平将門公を祀り、その創建は将門にかかわる伝説に基づいている。ある時、将門の家来が戦に敗れて落ち延び、この地の国谷家にしばらくの間かくまわれた。このような縁で、後に、将門の末裔に当たる奥州相馬氏が祀った相馬の相馬小高神社(福島県南相馬市小高区鎮座)から分霊を当地に勧請したという。
 『明細帳』には「往古ハ神明社ト唱ヘシガ、イツノ頃カ明神社ト改称ス」と載せられている。明治初年には無格社とされた。
 昭和四十一年の武蔵野線開通に伴い、境内地に神明社と二社の稲荷社が移され、本殿も一〇メートルほど南東の現在地に引き移された。また、昭和六十年に鳥居を再建し、同六十二年には本殿を再建し、更に翌六十三年には境内の神明社と二社の稲荷社を再建、本殿の覆屋を新築した。
□ 御祭神
 ・平将門公・・・武運長久、除災厄除
□ 御祭日
 ・おびしゃ(三月初午) ・例祭(十月十五日)

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 青面金剛。

厳島神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁の傍に鎮座する厳島神社(さいたま市緑区下山口新田78)。
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 拝殿。
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大熊志水居士之碑
志水居士諱元吉字明道姓大熊氏號志水居士又號化陽庵武
藏國北足立郡大間木邨人父大熊五郎右衛門朝祝母大熊氏
名美喜子以文化四年生家世郷望族居士天資温良謹敏夙夜
勉作業及居士之世大起家産重義軽財好施與先鰥寡天保四
年癸巳及七年丙申歳荐饑輙發金穀救濟數千百人生平守儉
素痛斥奢侈凢遇有當費曾不恡情有餘暇則學文演武就稻垣
玄節翁學天経皇典及撃劍精力絶人學通和漢旁渉天文地理
兼善詩文及和歌以至俳諧圍棊之細皆莫不究其妙事親純孝
與兄弟友惟樂其志片言隻行無悖父母之意與人交信而敬赴
人緩急風雨疾病不爽晷刻小事如是况於大事乎故隣里郷黨
景慕如神天保十三年壬寅九月二十一日罹病而卒享年三十
有六卒之日吊者數千人無不哭泣者葬于本邨先塋之次如居
士之才之徳假令立於廟堂則為蒼生霖雨以澍天下矣嗟夫天
烏優其徳而嗇其壽乎哉配石關氏擧二男二女長曰正名克紹
先業不墜家聲頃者將鐫先考之遺徳於貞珉以之下山口里厳
島神祠傍以傳不朽作状索余銘之正名第三子駿二有才學幼
遊余之門義不可辤為之銘曰
高雅丰釆 嚝達器宇 勤儉興家 純孝事父 俛焉治生
欝中興祖 賑窮救饑 甘露膏雨 學通和漢 驗今考古
濟世之才 修文講部 草奔遺賢 郷里規矩 千載徳望
春風和照
明治二十一年十月 神道管長従六位平山省齋譔并書

稲荷神社(緑区下山口新田)

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 見沼代用水東縁に架かる山口橋の脇、下山口自治会館の隣に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区下山口新田18)。
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 拝殿。
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稲荷社 御由緒
 さいたま氏緑区下山口新田一八
□ 御縁起(歴史)
 当地は、江戸中期に開発された見沼新田の内の一つである。『風土記稿』下山口新田村の項に「女体権現御旅所跡 土人の話に此開発の以前、沼中に祭竹と号せるものを立て、三室女体の御旅所とせり、(以下略)」と載るように、まだ沼地であったころには、三室氷川女体神社が隔年の九月八日に行ったという御船祭の御旅所が置かれていた。それを示す祭竹や古銭・磁器片が発掘調査でも数多く発見されている。
 当地の開発は、享保十三年(一七二八)に江戸小田原町鯉屋藤左衛門が入り、六十年余りの難工事の末にようやく成し遂げられたものである。新田名はその功により鯉屋の姓である山口を当てたという。
 本殿内には稲荷大明神像のほかに、勧請の添簡も残されており、それには、寛政三年(一七九一)初春吉辰に関平八・沼口以兵衛両名をはじめとした氏子中の願いにより、京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受けた旨が記されている。当地が悪水の集まり易い土地であったため、その開発が難航を極めたことから、ようやく農作も安定し始めたと思われる同年に村の繁栄を願い奉斎したものであろう。
 当社は『風土記稿』に「稲荷社 鎮守なり、村民の持、地蔵堂」と載り、やがて明治六年に村社に列した。
□ 御祭神と御神徳
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初祈祷(一月第一日曜日) ・初午祭(三月第一日曜日)
 ・宮 薙(七月第二日曜日) ・秋大祭(十月十五日)

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 庚申塔と六地蔵。
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水神社(緑区大間木)

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 芝川に架かる八丁橋の脇、県道103号線に面して鎮座する水神社(さいたま市緑区大間木2395)。
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水神社
 水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保十七年(一七三二)六月の創建と伝わります。祭神は、水の神である罔象女命をお祀りしています。
 享保十六年、伊沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になりました。船は、代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主でした)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできました。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西の用水路沿いに五十九カ所あり、ここ八丁にも河岸場がありました。八丁河岸周辺には、河川輸送に携わる人たちが住んでおり、水神社は、そのような仕事につく人たちが、水難防止を祈願して祀ったものです。
 なお、本殿は大正十二年九月一日の大地震により全壊し、同十三年に再建されたものです。また、境内は国の史跡「見沼通船堀」の一部になっています。
 平成二十四年三月

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抑當通船堀者見沼代用水路開掘後享保十五年井澤惣弥兵衛爲永之所設
計也連絡東西代用水路興中悪水路築造閘門於上下各二ケ所宛翌十六年
竣工共得許圖自深谷至東京廻米之便當時此水路之通船権者高田茂右衛
鈴木文平両者之所有而両者被給通船屋敷予江戸神田花房町反武刕尾間
木村文政三年以後髙田氏之支配也隆而明治七年髙田貢平氏受通船堀反
附屬地之拂下于埼玉縣令后一切之権利移於見沼通船會社■後■岡村俊
太郎氏鈴木順太郎氏小嶋藤七氏之盡力大正二年船子之者受之拂下而又
守護神當水神社之鎮座敷地者鈴木順太郎氏外二十五名所有也偶遇大正
十二年九月一日之大震災也社殿全潰八町山口之倒潰家屋■及五十余戸
然救水難神威遂揺諸氏至得恊賛大正十三年起工令十四年落成四月三日
舉行御遷宮式茲記念運河閘門之遺蹟並水神社再建設碑以梗漑傳永久■
 昭和四年十月 髙槁佐平謹書 大工石塚于四郎
 ■の部分はちゃんと文字はあるのだが、読み取り難かった部分。
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 水神社本殿と末社。
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 通船堀大橋から見た水神社。
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古峯神社(緑区大間木)

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 稲荷神社から東へ60m程、八丁集会所(さいたま市緑区大間木1907)前に鎮座する不動堂と古峯神社……たぶん。
 右側の小さな祠の中には古峯神社の神璽が納められていたので、おそらく古峯神社であろう。後ろの建物には八丁集会所の看板がついているが、鰐口紐も垂れているので大聖不動尊の本堂と兼用になっているのだろう……と思っていたのだが、ググってみたらそちらは八丁観音堂で、この不動堂が大聖不動尊であるようだ。
 なお、観音堂兼集会所の方は丁度掃除中のようだったのでそちらはパス。

稲荷神社(緑区大間木)

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 附島氷川女体神社から東へ120m程、県道103号線脇に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区大間木1914)。
 門が閉められており、入って良いのかどうかわからなかったのでとりあえずここからだけで。
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稲荷社 御由緒
 さいたま市緑区大間木一九一四
□ 御縁起(歴史)
 八代将軍徳川吉宗の命により、見沼干拓のために紀州から呼び寄せられた伊沢弥惣兵衛為永は、この難事業を享保十二年(一七二七)に成し遂げた。この事業によって失われた見沼溜井に代わる用水として開削されたのが見沼代用水で、その竣工は享保十六年(一七三一)である。見沼代用水は、農業用水として利用されただけでなく、舟運にも利用され、陸上交通が発達する昭和初期まで、江戸(東京)と用水縁辺の村々との間の物資の輸送に重要な役割を果してきた。
 当社の鎮座する八丁は、この見沼通船の会所が設けられ、重要な荷揚げ場となっていた所で、船頭など舟運にかかわる人々も多く居住し、まさに見沼通船の基地であった。『明細帳』には、当社の由緒について「創立享保十六亥年九月其他不詳」と記されているが、この創立年から、当社は、見沼干拓による新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請した神社であると思われ、本殿には勧請の際に受けた神璽などを納めていたものらしき筥が残っている。
 また、境内には天保二年(一八三一)三月大吉日に氏子中が幟立を奉納していることや、天保六年(一八三五)二月初午に氏子の鈴木粂之助が手水鉢を奉納していることから、このころ境内の整備が図られたことが推測される。更に、拝殿内の額から、明治二十八年に参道の敷石や幟竿及び幟竿置場の奉納があったことがわかる。
□ 御祭神
 ・倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁盛
□ 御祭日
 ・歳旦祭 ・初午(二月初午)
 ・春禦(三月二十八日) ・お日待祭(十月十五日)

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 青面金剛。
 側面には「安永六丁酉九月吉日」と刻まれているが、この本体部分だけ色が違うのはどうしたことだろうか。継ぎ目は見えないのでここだけ造り直したということも無さそうなのだが、はて。

附島氷川女体神社(緑区大間木)

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 見沼通船堀公園の南側、県道103号線に面して鎮座する附島氷川女体神社(さいたま市緑区大間木1522)。
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 本殿と覆屋。
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 末社。何神社なのかは不明。
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氷川女体社 御由緒
さいたま市緑区大間木一五二二
□ 御縁起(歴史)
 かつて、東京湾が大宮台地の辺りまであったころ、当社の北側の崖の下は入り江であったと伝えられる。搗島という地名も、こうした太古の海の名残の一つで、江戸時代には一村であったが、規模が小さかったことから明治九年に大間木新田と共に大間木村に合併され、その一小字となった。
 この搗島の地に、氷川女体神社が祀られるようになったのは、恐らく三室村(現緑区宮本)に鎮座する氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連するものと思われる。見沼溜井の造成によって水没した三室村内の氷川女体神社の社領二〇石分の替地が、搗島村内に与えられたのは寛永六年(一六九二)以降のことであるから、当社の創建は、その時期よりやや降るころと推測される。
 『風土記稿』によれば、当社は江戸後期には「女体明神社」と呼ばれ、村民の持ちであったとされている。搗島は、元来は吉田一家(一族)の集落であったといわれ、今でも住民の三分の一は吉田姓であるが、その本家とされるのが吉田喜蔵家である。したがって、ここでいう「村民」とは、現在の吉田喜蔵家の先祖のことと思われる。なお、江戸時代の中ごろに同家の当主であった治郎左衛門は修験者で、明和年間(一七六四-七二)から安永二年(一七七三)にかけて東北から四国に至る諸国を巡礼しており、その納経帳が現存している。
□ 御祭神
 ・奇稲田姫命・・・五穀豊穣、縁結び、夫婦和合
□ 御祭日
 ・禦(五月十五日) ・村祈祷(七月十六日)

市指定有形文化財(建造物) 搗島氷川女体社本殿
 昭和五六年四月四日指定
 一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が六九・〇cm、奥行きが六一・〇cm、向拝の出が五一・〇cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首です。向拝柱は角柱の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁です。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「見世棚造り」となっています。木階はその前面につきます。軒は二重繁垂木で、屋根はこけら葺きとなっています。
 この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。
 平成十一年二月

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 本殿脇にも末社。やはり何神社なのかは不明。
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 本殿西側には附島集会所があり、その前の末社の中には「奉納大明神」と刻まれた石塔が納められているが、やはりこれだけでは何神社なのかはわからない。
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正一位稲荷大明神(緑区東浦和五丁目)

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 埼玉県道235号大間木蕨線と県道103号吉場安行東京線が合流する東浦和駅前交差点の南側に鎮座する正一位稲荷大明神(さいたま市緑区東浦和5-2-10)。
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 「稲荷社天王様鳥居新築落成寄附金」芳名額が奉納されている。
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 末社。
 左の祠は名が記されていないので何神社なのかは不明。もしかしたら前述の芳名額に記されている天王宮がこちらであるのかも知れない。
 右側の小さな石塔は疱瘡神。

大間木氷川神社(緑区東浦和五丁目)

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 JR武蔵野線東浦和駅の250m程北に鎮座する大間木氷川神社(さいたま市緑区東浦和5-20-2)。
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赤山街道
 所在地 浦和市大字大間木
 赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室。尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
 伊奈氏は、成和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
 三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
 現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。
 昭和五十八年三月

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 拝殿。
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 少し斜めから。
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 狛犬。
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浦和市指定有形文化財(建造物) 大間木氷川神社本殿 一棟
 指定年月日 昭和四十七年四月十九日
 この本殿は、「神社明細帳」には、寛文七年(一六六七)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成七年の修理の際、寛文七年二月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることができた。
 本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行二・五六メートル、梁間二・四五メートルの身舎に奥行一・九六メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁棰で、飛檐棰は先端に反り増しが見られる。
 平成五年七月、拝殿の火災で罹災し、大きく焼損したが、平成七・八年にかけて浦和の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。
 この本殿は、武蔵一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、極めて保存価値が高いと言える。
 平成八年十一月

氷川神社 御由緒
さいたま市緑区東浦和五-二〇-二
□ 御縁起(歴史)
 「風土記稿」大間木の項に、当社は「氷川社 当村及び大間木新田・大牧・搗島等四か村の鎮守なり、搗島村民の持、末社 第六天社、牛頭天王、疱瘡神、天神社、八幡社、荒神社、稲荷社、神明社、別当三光院本山派修験、中尾村玉林院配下なり、本尊不動を安ず、長一尺五寸許、智證大師の作と云、什物、笈一、亀井六郎奥州下向の時背負し物なりと云(以下略)」と記されている。
 往時別当であった三光院の末裔である仲田家には「風土記稿」にも挿絵の残る室町期の優れた漆工芸品である椿紋鎌倉堀笈(県指定文化財)が残されている。笈とは、行脚僧・修験者などが仏具・食物・衣類などを入れて背負う箱のことで、「風土記稿」では源義経の家来である亀井六郎重清にちなむものであるとしている。この真偽は定かではないが、亀井六郎の屋敷跡とされる所が三光院の本寺に当たる玉林院が所在した中尾村にあったと伝えられている。この笈を背負った三光院の先祖がこの地に土着して当社の祭祀を司るようになったものと思われ、当社の創建も室町期までさかのぼることが推測される。
 市指定文化財になっている一間流造りの当社本殿は「明細帳」によると、寛文七年(一六六七)三月に武蔵国一宮氷川神社が再建された際、旧本殿を買い受けたものである。
 なお、いつのころか稲荷社二社と石神井社を当社に合祀したという。
□ 御祭神と御神徳
 ・素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□ 御祭日
 ・初拝み(一月一日) ・例大祭(七月二十三日)

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 本殿。
 瑞垣でよく見えないが、さいたま市役所のサイトに掲載されている写真で全体を見ることができる。
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 末社群。
 本殿西側に大國主神・少彦那命、八幡皇大神、竈神、年神。
 本殿東側に菅原天神、宇賀神、疱瘡神、香取神・鹿嶋神。
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本殿復興の記
大間木氷川神社本殿は、武蔵一宮大宮氷川神社旧本殿を寛文七年(一六六七)に譲り受け建立したとされる優れた建築で、昭和四十七年に浦和市の文化財に指定された。以来、その保護につとめてきたが、平成五年七月七日、拝殿火災に際し焼損を受けた。しかし、復元可能との判断から、指定解除は免れ、浦和市、神社、氏子が力を合わせ不退転の決意で復興の道を歩むこととなり、平成七、八年度において浦和市の助成と指導を受け解体、復元の工事を進めた。
そして平成八年十一月二十六日見事に竣工、三百有余年前の姿がよみがえった。その際、寛文七年の棟札の発見もあり、文化財としての価値もさらに高まった。なお、本殿の保全と神域の威厳を保つため、引き続いて周辺の整備を行った。
ここに、この本殿が永遠に伝えられることを願い、その概要を記すものである。
大間木氷川神社再建委員会

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 歌碑。
 この地域の方達が詠んだと思われる歌が五首刻まれている。
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青面金剛(中央区大戸三丁目)

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 大戸氷川神社から80m程西の道端に鎮座する青面金剛(さいたま市中央区大戸6-1)。
 大戸公民館前には「庚申坂」と書かれた板が立てられていたが、この青面金剛に由来するものであるのだろうか。
 また、向い側の民家入口前には馬頭観音も鎮座しているのだが、個人宅の敷地内かどうかわからなかったからパス。
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 青面金剛の側面には「奉庚需供養之處」「文化八年四月吉辰」と刻まれている。文化八年は1811年。

 以上で7月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA20-40mm、DA10-17mm Fish Eye、50-150mm II。X30。
 ウォーキングカウンターは20,393歩。小まめに水分補給をしていたのだが、暑さの為に全て汗で出て行ってしまったようだ。帰りの電車内が涼しくて極楽だった。

大戸氷川神社(中央区大戸三丁目)

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 大戸公民館脇に鎮座する氷川神社(さいたま市中央区大戸3-14)。
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『経緯
平成参年壱月四日午前零時半頃、不審火により拝殿が全焼本殿並びに三峯神社が半焼する被害を蒙った。その後日増に再建を望む声が高まり地元有志及び、氏子総代が相図って再建を決定、再建委員会を組織し大戸全域に広く浄財を募った結果多くの協賛を得るに至った、平成四年七月弐拾六日起工以来工事も順調に推移、同五年五月拾五日めでたく竣工した。
よってこれを記念し、この碑を建立せるものである』
 由緒書きは見当たらなかったので詳細は不明。
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 狛犬。
 台座には「昭和二年二月十七日」と刻まれている。昭和二年は1927年。
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 拝殿。
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 本殿。
 瑞垣の 隙間 狭い。
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 八雲神社。
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 末社群。
 左から稲荷社、神明社。阿夫利神社、八幡社、天神社、稲荷神社、榛名神社、古峯神社。御嶽神社、三峯神社。
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 御嶽神社・三笠山神社・八海山神社。
 天照皇大神と伊勢参宮記念碑。
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 力石。

御嶽神社(中央区大戸三丁目)

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 お聖さまの北60m程、民家の入口脇に鎮座する御嶽神社(さいたま市中央区大戸3-1)。
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 大神宮と稲荷社。

お聖さま(中央区大戸一丁目)

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 埼玉県道57号の脇、道路側に背を向けて鎮座するお聖さま(さいたま市中央区大戸1-31)。
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 二の鳥居と祠。
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『民俗資料 大戸のお聖さま
 所在地 さいたま市大戸一丁目三一番
 時 代 江戸時代末期
 お聖さまの御身体は、男性の生殖器を形どった石棒です。高さ五六cm、胴部径二六cm。お聖さまは安産の神、出産に立会う神です。また、災を除去する呪力の源泉としても崇拝されました。あるいは良縁や子宝を得る願掛や下の病の治療を願ったりするむきもありました。願掛は絵馬をもってしました。願いが成就すると木製の男根を奉納する人もいました。
 周辺の地からは縄文時代の石棒、石剣、土偶などの呪術具が出土し、お聖さまの生まれた理由もこの土地がらにあります。現在の御身体は江戸時代末期のものと伝えられます。
 平成九年(一九九七)市指定文化財となる』
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 扉が中途半端に開いていたので、ちょっと失礼しますねと呟いて御神体に拝謁。
 撮影後には閉めておいたけど。
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 祠の中には他にも多数の金精様が。
 包茎の金精様って初めて見た気がする。

庚申塔(桜区西堀九丁目)

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 城北信用金庫西堀支店の西側に設置された庚申塔などの石造文化財(さいたま市桜区西堀9-26)。
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『日向鎌倉街道の石造文化財
 この前を通っている道は鎌倉街道と呼ばれてきた古道です。ここにある四基の石造塔は、右から馬頭観音(宝暦五年-一七五五)、庚申塔(宝暦七年)、庚申塔(文化十年-一八一三)そして二十三夜塔(嘉永二年-一八四九)です。農耕や運搬に使う馬の保護、庚申信仰、月待供養など当時の人々の様々な民間信仰を知ることができます。
 そしてもう一つ大切なことは、右側の一基以外は全て道標になっていることです。最初の場所から動いているものもありますが、石塔は旅人に道案内をする役目も持っていたのです。特に一番大きな石塔の背面には、よのい(与野)道、はやそ(早瀬)道、とうまん(道満)道、わらひ(蕨)道、江戸道というように、行先の地名が刻まれています。
 これらの石造塔は、この地域の歴史や文化を知る上で欠かせない大切なものであり、このたび、将来にわたって保存を図るために日向地区の多くの方々の浄財を募って整備が行われました。
 平成二十五年二月吉日』
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 青面金剛と馬頭観音。
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