神明神社(川二丁目)

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 上尾市民体育館の北東およそ300m程、川神明会館の傍に鎮座する神明神社(上尾市川2-3-2)。
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『神明神社 上尾市川二‐三‐二
 祭神・・・大日霊貴命(天照大御神)
 「風土記稿」によれば、当地はもと今泉・壱丁目の各村と共に大谷村と称していたという。寛永二年(一六二五)九月に「河村」一五〇石が旗本柴田筑後守にあてがわれていうことから、江戸初期には既に一村となっていたことがわかる。
 当社の創建については伝わっていないが、隣村の向山の鎮守である神明社ではその縁起の中に、宝永五年(一七〇八)上総国から柴田氏陣屋跡に降った真鍮の御幣を祀った旨が記されており、当社の創建とのかかわりをうかがわせる。
 当社は、元来は現在の境内から南西におよそ一五〇〇メートルの所に祀られていた。その辺りは村の中でも低地で、一度大雨ともなれば、一面水浸しとなってしまい、氏子の悩みの種であった。そこで、昭和四十七年に現在の地に移転し、社殿・鳥居・社務所を新築することとなった。
 今の境内は、もともとは江戸期における当社の別当十福寺の跡地で、この寺は神明山地蔵院と号し、今泉村の浄土宗十連寺の末寺であった。大正九年に火災で全焼し、その後は本寺の十連寺に合併され、境内も同寺の所有となっていた。
 氏子たちは、この土地を十連寺から買収して、当社を移転し、悲願を達成したのである。この経緯を後世に伝えるため「神明神社造営記念碑」を建立した。なお、当社の旧境内地は市に売却し、現在は市民体育館の敷地の一部となっている。
 当地には「川の大じめ」と呼ばれる魔除けの行事がある。毎年五月十五日に大きな注連縄を作り、西方の村境まで運び常設の柱に下げ、村の悪霊災難除けとして祀る行事で、上尾市指定民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」、「厳島社」、そして「庚申塔(青面金剛)」を祀る』

 川の大じめの注連縄は西松屋上尾西店の傍にある。神明神社から西南に200mと離れていない場所であるが、この時は場所を知らず、帰宅後に調べてから知ったので、撮影はできていない。大じめの概要については上尾市教育委員会のサイトに記されている。 
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 拝殿。
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 社名は記されていないが、右三つ巴紋があるのでおそらくこちらは愛宕社だろう。
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 とすると、こちらが厳島社だろうか。
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 青面金剛。

 以上で4月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA35mm Macro、FA77mm。X30。
 川神明神社から西南に約1.3km、今泉氷川神社からなら南西約800m程の場所、壱丁目北交差点の傍に愛宕神社があるのだが……うん、まぁ、見落としていた○刀乙 最近うっかりが多いなぁ。
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稲荷神社(向山一丁目)

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 神明神社の南西200m程、もみじ公園の隣に鎮座する稲荷神社(上尾市向山1-21-1)。
 こちらには案内板が設置されていないので、詳細不明。
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 本殿……は、この中かな。
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 北側から。
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 愛宕大権現と琴平社。
 愛宕大権現の石祠の側面には寛延元辰九月吉祥日と刻まれているので、1748年の造立。

神明神社(向山三丁目)

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 上尾市立鴨川小学校の西200m程の位地に鎮座する神明神社(上尾市向山3-2-6)。
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『神明神社 上尾市向山三‐二‐六
 祭神・・・大日霎貴命(天照大御神)
 当社は、旧中山道から西に約一キロメートル離れて鎮座している。
 創建については、当村の庄屋の書き記した草稿を基に、正徳元年(一七一一)に竜谷山知足院(桶川市下日出谷)の密乗沙門盛典が著した「向山神明御縁起」に詳述されている。
 それによると、元禄八年(一六九五)地頭の暴政に困窮していた村民は、地内の祈願所の金蔵院から伊勢神宮を遥拝し、神明の加護を祈願したところ、元禄十一年(一六九八)に地頭の陣屋は召し上げとなった。村民は神恩に感謝し、下賜された旧陣屋御用地の一角に社を建立し、金蔵院に申し入れて、天照大御神を勧請した。
 その後、宝永五年(一七〇八)四月六日の夕刻に雷鳴と共に真鍮の幣束が当地へ飛来し、当社の前の畑に突き刺さった。
 幣束には「貞享三年丙寅(一六八六)廻啓蟄吉祥日江戸堀江町三町目河村多兵衛」の銘があり、その銘に従って尋ねたところ、上総国市原郡牛久村(現千葉県市原市牛久)の神明社に奉納されていたもので、その後、神託があり、当社に飛来したものであることがわかったため、河村多兵衛により奉納された白木の厨子に入れ、本殿に納められた。この幣束は現在も本殿内に納められ、御神体として崇められている。
 別当の金蔵院は、神仏分離後、廃寺となり、当社は明治六年四月に村社に列した。創建当初から数々の霊験を示した当社は「大神宮様」と呼ばれて篤い崇敬を集めている。
 祭礼は正月の歳旦祭、四月六日の例大祭、九月一日の風鎮祭、十月十四日のお日待ちの年四回である。境内社に「春日社」「稲荷社」「八幡社」「石尊社」「白山社」「三峯社」「榛名社」「天王社」を祀る。
 平成二十年(二〇〇八)、幣束飛来三百年を記念して内陣を新調し、飛来した幣束を納め祀っている』
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 拝殿。
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 本殿。
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 力石。
『この力石は、向山地蔵堂近くの路傍にあった。近年土地区画整理が進み墓地整理が施行されるにより、本来の地、神明神社境内へ移動して保存する
 平成12年7月吉日』
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 祇園牛頭天王。
 側面には寛延元戊辰九月吉祥日と刻まれているので、1748年の造立。
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 右側の石祠は文化四卯年(1807)八月造立の榛名社。左側の石祠は何神社なのかはわからないが、文化六巳年(1809)三月の造立。
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 末社群。
 左から春日大明神(文化元子九月吉日)、稲荷大明神(文化二丑二月吉日)、八幡大菩薩(文化元子九月吉日)、石尊大権現(平成五年七月吉日再建)、月山社(文化二丑二月吉日)、不動明王(享和三癸亥年)、三峯社。
 石祠の側面には「願主 了心」とあるのは、当時の金蔵院の住職であろうか。
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 不動明王の台座には三峯山や牛頭天王の文字が刻まれており、崩れてしまってはいるが他にもいくつかの名が刻まれていた痕跡が見える。
 享和三年ということは1803年なので、これらの末社とほぼ同時期に造られたようだ。
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 馬頭観音と青面金剛。
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 馬頭観音は享和元辛酉年(1801)、青面金剛は宝暦三癸酉年(1753)十一月の造立。

天神社(西宮下一丁目)

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 埼玉県道51号川越上尾線の脇、西宮下歩道橋傍に鎮座する天神社(上尾市西宮下1-225)。
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 鳥居の横には案内板が立てられているが、非常に読み難くなっている。
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 境内。
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『天神社 上尾市西宮下一‐二二五
 祭神・・・菅原道真朝臣
 「風土記稿」によれば、宮下の地名は、江戸期まで当村を含む五か村の鎮守であった谷津村の氷川神社が、もと当村に鎮座していたことによるという。ただし、この氷川神社が谷津村に移転した理由については明らかではない。
 当社は旧宮下村の中央にある高台に鎮座している。古老によれば、かつて、この高台には梅や松が生い茂り、木々の枝に子供たちが書き初めの作品を下げたり、花の季節には、大勢の人々が花見に訪れるなど、地元の人々の憩いの場所であった。また、高台の北端からは清水が湧き出し、小川となって、西に三〇〇メートルほど離れた鴨川に注いでいた。この清水は、当地の人々に農業用水や生活用水として用いられたという。
 当社は明治六年四月に村社に列した。昭和十六年に太平洋戦争が始まると、高台の東半分が軍需工場建設のため買収され、多くの木々が伐採された。そのため高台の景観は一変し、北端から湧き出していた清水も枯渇してしまったという。
 その後、県道川越上尾線建設に際して境内地の南半分が切り通しとなり、残された北側に社殿を新築し、境内社なども移転して昭和三十九年に遷座祭を執り行った。
 祭神の菅原道真公は学問の神として崇敬され、親しみを込めて「天神さま」と呼ばれている。
 年間の祭典は正月の歳旦祭、二月の祈念祭、七月の祇園祭、八月の縁日、十月のお日待ちの五回である。
 境内に「稲荷社」「雷電社」「八雲社」「金比羅社」「浅間社」を祀る』
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 左の祠は金比羅社。右は八雲社・雷電社・稲荷社。
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 記念碑。その横には半鐘の付いた火の見櫓。
『埼玉縣武藏國北足立郡大谷村大字西宮下鎮守天神社は徃昔よ里境内三段一歩所有せり然尓明治九年土地改正により其内一段九畝十七歩到裂上地となり國有林尓編入せられたりしか明治四十一年四月九日縁故特賣法令尓據り氏子一同協議の上曩尓國有林尓編入せられたる一段九畝十七歩拂下を出願し金一百二十四圓六十八銭の代償尓て拂下の許可を得たり茲尓於て明治三十一年三月氏子一同にて吉澤金五郎より金九圓尓て買受たる境外地十八歩を併て奉献し以て永也社有地と為し其紀念登志て建碑する毛の也
 大正六丁巳年一月廿五日』
 変体仮名が使われていて少し読み難いが、里=り、尓=に、登=と、志=し、毛=も、である。普通にり、に、と、し、を使っている部分もあるので、どういう基準で使い分けていたのだろうか。
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「明治十五年六月一日許可ヲ得テ創立後自然的破壊セシヲ以テ大正二年六月一日再建ス
  建設主 西宮下 岡田藤五郎」
と刻まれているのだが、なんだろうこれ。案内板には浅間社の名前が記されているのに祠が見当たらないことを考えると、こちらが浅間社なのかもしれない。もしかしたら裏側に回れば浅間社の名が刻まれていたりするのだろうか。うっかりしていたなぁ。
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 辨財天、如意輪観音、青面金剛。
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 不動堂。
 その前に辨財天と如意輪観音。道路に面して青面金剛。

稲荷神社(今泉)

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 氷川神社の北西250m程、交差点脇に鎮座する稲荷神社(上尾市今泉365)。
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 道祖神。
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氷川神社(今泉)

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 今泉公民館の隣に鎮座する氷川神社(上尾市今泉148)。
 鳥居の柱には昭和五十一年六月吉日建立と刻まれている。
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『氷川神社
 所在地 上尾市今泉一四八
 埼玉県大宮市にある氷川神社を本社とする同一名の神社分布として「氷川祭祀圏」があり、その多くは元荒川から多摩川地域に分布している。埼玉県一六二社、東京都五九社、茨城・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一の計二二八社がある。氷川神社の祭神は素盞嗚命・稲田姫命・大己貴命の三神である。いずれも出雲系の神で、古代武蔵の出雲系の首長が祀ったためといわれている。
 今泉の氷川神社は緩やかな鴨川低地の右岸台地上に位置し、祭神は素盞嗚命である。本殿は一間社流造で、境内には末社が八坐祀られている。今泉の氷川神社について、「新編武蔵風土記稿」では「村の鎮守にして、本地正観音を安置でり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守(中略)古は西福寺といへる別当あり(中略)この別当廃してより後村内修験、本行院の持」とある。明治のころまで、ここにあった「本行院」と称する金子家が氷川神社を守っていたという。
 毎年四月二日の祭礼には神楽を奉納し、五穀豊穣を祈っている。
 昭和六十二年三月』
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 二の鳥居。
 柱には昭和十一年九月吉日と刻まれている。
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 拝殿。
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『氷川神社 上尾市今泉一四八
 祭神・・・素戔嗚尊
 今泉の地名は、当社の南方二〇〇メートルほどの所にあった湧水に由来する。この湧水は古くからこの辺り一帯の耕地を潤していた。古くは、当地は川村・向山村・壱丁目村と一村で大谷村と称したという。永禄八年(一五六五)六月二十一日の太田道誉書状写(史籍雑纂)に「今泉分」とあるのが当社の初見となる。
 当社は『風土記稿』今泉村の項に「氷川社 村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守なりしが、其後川村及び当村のみの鎮守とす、西は西福寺といへる別当あり、是も今は廃絶せり、貞治年中(一三六二‐六八)の起立にして、古跡とのみ伝ふれど、さして證とすべきことなし、この別当廃してより後、村内修験、本行院の持、末社、愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社」と載せる。その創建については、もと当村を含む三か村の鎮守であった可能性が高く、また別当であった西福寺の開基年代から推して、中世にまでさかのぼるであろう。この西福寺の跡地は当社の東南五〇〇メートルほどの所であると伝える。また、後の別当本行院の跡地は当社の北東二五〇メートルほどの所で、金子隆治家がその裔である。
 明治政府の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。昭和五十一年には、本殿の屋根を草葺きから銅板葺きに替え、その折覆屋を新築した。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、十月のお日待ちの年四回であるが、九月には別宮の琴平神社で例祭が行われている。
 境内社に「八雲社」「三峯社」「稲荷社」「疱瘡社」「山王社」「神明社」「駒形荒脛日皇社」を祀る』
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 斜めから。
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 八雲神社。
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 三峯神社。
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 左の石祠の側面には「太郎坊」「今泉村氏子中 寛延四年辛未十一月吉日」と刻まれている。寛延四年は十月二十七日に宝暦へと改元しているので、十一月の時点では宝暦元年になっている筈だが、まぁ先に日付を入れてしまったのだろうと考えればそうおかしくもないか。ちなみに寛延四年は1751年である。太郎坊と言う事は、上の案内板に記されている愛宕社がこちらになるのだろうか。
 中央の石祠に側面には「日皇子 荒脛大明神 駒形大明神」「明和二乙酉天六月吉祥日  氏子 今泉村 川村  別当 本行院」と刻まれている。明和二年は1765年。
 右の石祠の側面には「願主 誠誉囜從」「安永元壬辰十二月吉日」と刻まれている。安永元年は1772年。社名はわからないが、神明社か山王社のどちらかになるのだろう。
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 左の小祠は不明。右は疱瘡神社と稲荷神社。
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氷川神社(浅間台二丁目)

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 JR高崎線北上尾駅西口から南西およそ700m程の位置に鎮座する氷川神社(上尾市浅間台2-27)。
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 拝殿。
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 浅間台氷川神社年中行事。
 大山祭の燈籠行事は上尾市登録無形民俗文化財になっているそうで、上尾市教育委員会のサイトにその概要が記されている。
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『氷川神社竣工記念碑
抑々当神社は素戔嗚尊を祭神とし通称元氷川(此地の北方約七〇〇米)の地に鎮座なし古くから近郷の崇敬をあつめ古老の言によればその氏子も沖ノ上を始め、中妻、井戸木、町谷の地域に及んでいたと伝えられる。
其の後
 明治三十七年 本殿、鳥居を移設、拝殿を造営、池を作り此の地に遷座
 大正八年   春彼岸火災により本殿及び拝殿を焼失
 大正十年   石宮を建立
 昭和三十八年 石宮に雨屋を設け、拝殿を新築
然るに昭和四十七年都市計画による浅間台土地区画整理事業の完成を契機として人口の急増と都市化現象著しき折、当神社の境内雑然とし社殿の狭小を憂うる声強く茲に協議の結果別記三十四名所有の共有地の一部を売却し、その資金により神域を整備し拝殿の新築、本殿、水屋、鳥居の改築及び石垣の築造を計りこの完成を見る。広大なる神徳を敬仰し住民の安全息災を請願う先人の祈願を継承しこの事績を後世に残す為茲に記念の碑を建つ。
昭和五十一年十一月』
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熊野神社(小泉)

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 八合神社の150m程東南に鎮座する熊野神社(上尾市小泉)。
 鳥居の柱には平成十五年三月吉日と刻まれている。
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 稲荷社。
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八合神社(小泉)

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 小泉集会所の北隣に鎮座する八合神社(上尾市小泉443)。
 撮影をしている間にも何人もの人がお参りしており、篤く信仰されている事がわかる。
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『八合神社 上尾市小泉四四三
 祭神・・・素戔嗚尊、大雷命、菅原道真朝臣
 当社は、古来「氷川社」と称し、『明細帳』には「往古ハ字宮山ニ鎮座アリシカ慶応三丁卯(一八六七)十一月移転ス、其際当国一ノ宮氷川社ヲ分祭勧請ス」とある。これに見える旧地の字宮山は、現在地の南西五〇〇メートルほどの「宮山」あるいは「元氷川」と呼ばれた所で、三井団地の敷地内に当たり、元は一帯が山林であった。
 慶応三年(一八六七)十一月に現在地に遷座移転し、明治六年(一八七三)に村社に列せられた。
 その後、明治四十年に大石村の内の小泉・中分・井戸木・中妻・沖之上(浅間台)・弁財・小敷谷・領家の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、社名を「八合神社」と号して成立した。合祀の中心に小泉の氷川社が選ばれた理由としては、小泉が八大字の中央に位置していたことや、小泉に大石村の役場が置かれていたことが挙げられる。また、社名については、八大字の各社の総代が協議して決したとの話が伝えられている。現在、境内にある幟立ては、合祀の際に小敷谷から移されたものである。
 小泉の地は寛文年間(一六六一‐七三)に藤波村から分村したといわれ、藤波村の鎮守が天神氷川八幡合社であることから、このうちの「氷川社」を分村の前後に勧請したものと考えられる。その後現在地に遷座するにあたり、正式に武蔵一宮の大宮氷川神社から分霊を請うたのである。
 鎮座地は「氷川山」と呼ばれ、氏子区内でも一番の高台にある。その社叢は”鎮守の杜”と呼ぶにふさわしい景観をなし、社地を含む一帯は上尾市指定保存樹林として保護されている。また、昭和六十一年には「八合神社と周辺林」が『二十一世紀に残したい埼玉の自然一〇〇選』の一つに選定された』
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 拝殿。
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 末社とか。
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 狛犬。
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 本殿。
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第六天神社(須ケ谷二丁目)

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 須ヶ谷集落センターの隣に鎮座する第六天神社(上尾市須ケ谷二丁目)。
 鳥居の柱には大正十三甲子年(1924)五月と刻まれている。鳥居のそばには由緒らしきものを刻んだ石碑が建てられているが、所々崩し字になっていたり薄くなっていたりして読み取り難い。
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 拝殿。
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 天狗の面が掛けられている。
 上尾市教育委員会のサイトを見ると、こちらの神社で行われる大山灯籠行事が無形民俗文化財として市に登録されており、この天狗面もその縁なのであろう。拝殿の大棟や水盤にも羽団扇紋がついているし。
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 拝殿脇には末社が二つ並んでいるが、何神社なのかはわからない。

山王社(上)

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 箕の木公民館前に鎮座する山王社(上尾市上)。
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「陰陽の機を司どる山王社 箕の木の氏の守利なり」
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 小さな猿の石像が並んでいる。
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 隣には浅間神社。
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 浅間神社の前には正徳元辛卯年(1711)に奉納された力石。
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 山王社の裏には石のテーブルと椅子が設置されている。
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 元禄十五壬午年(1702)十月造立の青面金剛。

富士浅間神社(戸崎)

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 大宮花の丘農林公苑の東側、花の丘通りに面して鎮座する富士浅間神社(上尾市戸崎)。

『富士浅間神社ノ由来
一、古文書ニヨレバ遠ク長元々年西暦一〇二八年長澤若狭守平朝臣信勝ハ譜代ノ家来秋山
 源六森田弥七榎本武助ト共ニ戸崎村ニ移リ開拓富士浅間神社ヲ祀リ社家ノ役ヲ勤メ百姓
 トナル御神体ハ駿河ノ富士浅間神社ノ分身ト言伝ウ 祭神木花開耶姫命安産子育ノ神ト
 崇敬
二、文政五年編纂新武蔵風土記稿足立十八ニハ名主又兵衛ガ先祖兵庫ノ勧請スル処ニヨリ
 富士浅間神社ハ又兵衛持トナル
三、検地
  建久二年諸国御改ノ節戸崎村ハ富士浅間神社々領トシテ免除
  延文元年並天承十三年 諸国御改ノ節戸崎村一五〇石ノ内 富士浅間神社々領持高五
 〇石二斗免除
  元禄七年細検地ニヨリ戸崎村二七〇石ニ改メラレル
四、改修
  大正二年一月十九日精神異常者ノ放火ニヨリ焼失直ニ改修
五、改築
  昭和六十三年五月改築末社下浅間神社本殿を富士浅間神社ノ本殿トナシ下浅間神社ヲ
 合祀ス 水屋ノ改築 鳥居、石段、末社ノ補修
   昭和六十三年七月一日』
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『上尾市指定有形民俗文化財 戸崎の浅間塚
 長沢家(大字戸崎231-2)
 浅間塚は富士塚ともいわれ、江戸時代後期から江戸を中心とした地域で造られるようになった。これは当時流行した富士浅間信仰によるもので、富士山参拝が難しい女性や子供でも簡単に参拝ができるよう、富士山を模した塚を造り浅間社を祀ったものである。特に埼玉県東部や群馬県東南部、栃木県南部の一部地方の富士塚では「初山」行事が行われる。この行事は、富士山の山開きの日である七月一日に合わせ、生まれて初めてこの日を迎える子供を連れて参拝し、健やかな成長を祈願するものである。
 戸崎の浅間塚は「浅間様」と呼ばれており、高さ4.8m、直径25mの円墳状の塚で、市内最大級の浅間塚である。築造年代は19世紀前半と考えられる。この塚と塚上にある浅間神社は、戸崎村を開拓したとされる長沢家が所有しており、毎年七月に行われる初山行事は、長沢家とその直接の分家など5軒で執り行っている』
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 牛頭天王。
 側面には明和七寅六月吉日と刻まれているので、1770年の造立。
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 鳥居をくぐって見上げて見ると、社殿が横を向いている。
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 なので、正面側へ。
 案内板に描かれた見取図によると、左側の小祠はおもり様と呼ばれているようだが、こちらがかつての下社であるのだろうか。
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 拝殿。
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 手水鉢。
 三面に渡って由緒らしき漢文がびっしりと刻まれているが、部分的に何と書かれているのか判らない文字があったり、柱で隠されていたりするので全てを読み取るのは難しい。
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 空の祠。
 案内板に記載されていないと言うことは、特に何かを祀っている訳でもないのだろうか。

御嶽神社(戸崎)

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 大鷲神社から150m程南下して行くと、道の傍らに御嶽神社(上尾市戸崎)が鎮座している。
 鳥居の柱には平成十六年六月一日建立と刻まれている。2004年だから十二年前か。
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 拝殿。
 中には御嶽大神・三笠大神・八海大神と刻まれた大きな石塔と小さな石祠が納められている。
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 左の石塔は役行者・普覚行者・一心行者。右は猿田彦大神。
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 庚申塔と青面金剛。
 庚申塔は延宝七己未年(1679)三月五日の造立。中央の青面金剛は元禄十一戊寅年(1698)四月廿八日、右の青面金剛は享保六辛丑年(1721)二月吉日の造立。

大鷲神社(戸崎)

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 氷川神社の100m程南東に鎮座する大鷲神社(上尾市戸崎)。
 鳥居の柱には大正十三年三月建之と刻まれているので、1924年の建立。
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 参道。
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 社殿。
 大鷲神社と言う事は、御祭神は日本武尊であろうか。

氷川神社(戸崎)

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 中新井稲荷神社の東480m程、埼玉県立中央高等技術専門校の西側に鎮座する氷川神社(上尾市戸崎983)。
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 参道と拝殿。
 左右の小祠は門守神的なものだろうか。
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 本殿。
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 左は弁財天宮。側面に天明七未十二月吉日と刻まれているので、1787年の造立。
 右は二つに折れた板碑らしきものが置かれているが、よくわからない。刻まれている梵字はキリークのように見えるので、もしかしたら阿弥陀如来なのかも。
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 馬頭観世音。

稲荷神社(中新井)

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 大宮花の丘農林公苑の北、天台宗西光寺の隣に鎮座する稲荷神社(上尾市中新井65)。
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『稲荷神社御由緒
上尾市中新井65
御縁起(歴史)
 「風土記稿」によると、神仏分離以前の当社は西光寺の境内社として祀られていた。西光寺は天台宗の寺院で、もと西方に寺家山の地にあったが、秀恵という僧が現在地に移して中興したと伝えられる。当社の創建は西光寺の中興以後のことと思われるが、明らかではない。ちなみに、同じ西光寺の境内社であった「牛頭天王」の石祠には「寛政己酉年(1789)六月吉祥日」「中新井村氏子中」と刻まれている。
 元来、当社の本殿は一二〇センチメートル四方に丸太を柱として掘立て、茅で屋根を葺いた形の建物で、氏子は毎年「屋根改い」といってこの屋根の茅を葺き改めるのを例としてきた。太平洋戦争後、社の建物の痛みが激しくなってきたため、小学校で奉安殿として使われていた建物を譲り受け、これを境内に移築して神体を納めた。ところが、間もなく村内に悪い病気が流行し、近くの納屋では夜な夜な狐の鳴き声がするようになった。氏子一同は、これを「稲荷様の祟り」として、神体を元の社殿に戻したところ、病気も治まり、狐の鳴き声もしなくなった。
 その後、小学校から移築した社殿は拝殿とし、本殿は従来通り毎年茅を集めて「屋根改い」を行ってきたが、近年は茅材の収集困難に加え、屋根替えの後継者不足が深刻な状況になってきた。そこで、臨時集会を開いて氏子一同で協議した結果、従来の本殿を廃し、平成三年二月に切妻造平入り瓦葺きの新しい本殿を建立した。
御祭神と御神徳
 倉稲魂命・・・五穀豊穣、商売繁昌
御祭日
 初祭り(一月一日) 初午(三月初午) お日待(十月十五日)』
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『中新井稲荷神社今昔のあらまし
 当字稲荷神社は正一位宇賀弥稲荷大明神と称す京都伏見稲荷の社霊を勧請し祭祀が始まる創立は江戸時代初期と推定されているが詳ではない作神として崇め毎年地区の安寧と五穀豊穣祈願を三月初午の前日茅葺社の屋根改えをして夜宮を翌日初午祭を三十数戸が二組に分かれて一升飯と云う高盛講の行事を大切に守り今日迄存続させお祝いをして来たのであるが都市化の波と多忙な生活環境及茅材収集作業の困難さと屋根改え労作に挺身する後継者難の今日及び将来を憂慮し臨時総会を開いて協議した結果近代的な社を建設し公民館一堂に会して夜宮をお祝いする運びとなった事を記す
 落慶平成三年二月十日』
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 本殿。
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 お狐さま。
 台座には明治廿戌年一月吉祥日と刻まれているのだが、明治二十年は戌ではなく亥の筈では? ちなみに明治二十年は1887年。戌の場合は明治十九年となり1886年。
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 牛頭天王。
 寛政元年六月の造立。
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正一位稲荷神社(堤崎)

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 堤崎交差点の東側、住宅区域の中に鎮座する正一位稲荷神社(上尾市堤崎)。
 詳細は不明。

愛宕神社(堤崎)

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 国道17号バイパス上尾道路堤崎交差点のそば、堤崎自治会館の隣に鎮座する愛宕神社(上尾市堤崎329)。
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 狛犬。
 台座には大正十年七月と刻まれているので、1921年の造立。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『愛宕神社
上尾市堤崎329
祭神・・・軻遇突智命、倉稲魂命
 堤崎村は天正の末徳川氏の有となり、代官が所轄した。寛永二年(1625)安部備中守の領地となっている。
 当社は、社伝によると、元禄十年(1697)のころ、村内に悪病が流行した折、これを鎮めるために創祀したものであるという。また、「風土記稿」堤崎村の項には、当社は地蔵院の境内社として載り、「愛宕社 勝軍地蔵を安ず、是は加州大聖寺の禅苗和尚と云が刻める所なり、此僧は近来の人なればことに彫刻にたくみなりといへり」とある。
 地蔵院は、宝珠山と号した曹洞宗の寺院で、開山と伝わる一線斎は明暦三年(1657)四月に示寂している。神仏分離に伴い、明治五年(1872)に廃寺となり、現在、堤崎自治会館前に建つ地蔵堂(「本尊様」と呼ぶ)の中に、地蔵尊座像が、閻魔大王・大日如来像と共に納められている。
 また、当社の神楽殿に掛かる消防の半鐘として使用されている鐘には「武州足立郡堤崎村 本山永昌現住百川朝叟代 宝珠山地蔵院什物 世話人安藤善右衛門 天保十二辛丑年(1841)十一月吉祥日」と刻まれており、往時を偲ばせる。
 当社は、明治初年に稲荷社三社、熊野社を合祀し、同六年四月に村社となった。昭和三十六年(1961)、旧来の社殿の傷みが著しかったため、氏子全員の協力により本殿・拝殿を新築した。
 祭礼は一月の歳旦祭、三月の初午祭、七月の八雲神社例祭(祇園祭)、同二十四日の例大祭、十月のお日待ちの年五回である。
 境内社として「疱瘡社」「八雲社」を祀っている』
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 上尾市指定無形民俗文化財である祭囃子の案内板。
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 八雲社と疱瘡社。
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 地蔵堂。
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 上尾市指定有形民俗文化財である車地蔵。
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 車地蔵案内板。
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 車地蔵。
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 元禄五壬申年(1692)十一月造立の庚申塔と元禄八乙亥年(1695)十一月造立の青面金剛。右の祠の中には厨子に入った不動明王座像が納められている。

八雲神社(大谷本郷)

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 上尾市立大谷小学校の北側に鎮座する八雲神社(上尾市大谷本郷)。
 こちらの詳細は不明。
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 末社。
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 幟竿枠の側面に貼られた紙には「この熊野社は大谷本郷地区住民の大切な由緒ある鎮守様です」と書かれているのだが、あれ? 熊野社? 八雲神社じゃないのか、ここ。もしかしたら八雲神社と熊野神社が合祀されているのかも。

白雲神社(大谷本郷)

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 埼玉県道165号大谷本郷さいたま線の脇、大谷本郷自治会館横に鎮座する白雲神社(上尾市大谷本郷)。
 由緒書きは見当たらず、ググってみても情報無し。京都の白雲神社と同じであれば御祭神は市杵島姫命になるのだが、どうなのだろう。
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 観音堂。
 左の碑には「大谷小学校開校跡地」と刻まれており、昭和六十三年(1988)十一月六日に建てられたものである。
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 青面金剛。
 左の石燈籠には「奉納観世音」「安政五戊午七月十九日」と刻まれているので1858年の造立。
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 元禄二己巳天十月吉日とあるので1689年の造立。

熊野神社(日の出三丁目)

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 国道17号線日の出交差点の東、日の出公民館脇に鎮座する熊野神社(上尾市日の出3-4-31)。
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 本殿。
 大棟に卍が見えるが、これがこちらの御神紋なのだろうか。
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 社号標石の前に大日如来。
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「大日如來弥陀一躰  寛文四年
 一間者号変定成佛辰 四月十日
             敬白」
 蓮座には賢明圓海法師と刻まれている。寛文四年と言うことは1664年、江戸時代初期の造立か。

 以上で5月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA20-40mm、DA70mm。

春日神社(柏座二丁目)

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 上尾駅西口から市民体育館通りを西へ向かうと、上尾市立富士見小学校東側の交差点そばに春日神社(上尾市柏座2-14)が鎮座している。
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『春日神社
 上尾市柏座二-一四-二
 祭神・・・天児屋根命、素戔嗚尊、大山祇命、建御名方命
 創建は、戦国末期、忍城主成田下総守の家人であった曾我兵庫助祐昌が当地に住していたことから、主君成田氏の氏神として祀っていた行田市谷郷の春日神社を勧請したものであると考えられている。
 「風土記稿」柏座村の項には、村の北方の丘にあった曾我氏の居館跡について、歌舞伎で知られる曾我十郎・五郎兄弟に付会して伝承された様子を載せている。
 また、同書には「芝宮明神社 村の鎮守なり、日乗院の持、末社神明社」「春日社 当村および春日、谷津村の鎮守なり、持前に同じ、末社諏訪社」と二社が見え、当社は江戸期に柏座及び春日、谷津村の鎮守であったことがわかる。ちなみに、春日、谷津村はもと柏座村の内にあり、元禄期ごろに分村したとの経緯がある。
 別当の日乗院は、真言宗の寺院で、西光山長福寺と号する。かつては一○石の朱印地を有し、元暦二年(1185)道法上人の草創、あるいは永正元年(1504)弘尊の開基とも伝えられる。
 明治初年、当社は村社となり、同四十年(1907)八月、芝宮社と合祀した。更に翌四十一年三月、谷津の鎮守氷川社を合祀したのを機に、柏座のほぼ中央に当たる芝宮社の旧境内へ鎮座地を移した。この時、氏子が春日社の旧社殿を神輿のように担いで運んだという。春日社の跡地は今も「宝前前」という地名が残る。
 昭和十八年(1943)に現本殿を造営し、同四十六年(1971)には、拝殿及び幣殿を新築した。
 境内社に「稲荷社」、「八雲社」、「第六天社」、「神明社」、「諏訪社」を祀る』
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『春日神社
 所在地 上尾市柏座二丁目
 春日神社は、明治四十一年(1908)五月に、上尾町のうち柏座、谷津、春日谷津にあった芝宮社、春日社、氷川社の三社が合祀されたもので祭神は天児屋根命、素盞嗚命、大山祇命、建御名方命である。本殿は昭和十八年に、拝殿と幣殿は同四十六年に造営した。
 「新編武蔵風土記稿」の柏座の項には「芝宮明神社、村の鎮守なり」とあり、谷津村の氷川社の項に「当社は谷津、宮下、別所、向山、本郷等の鎮守なり」と記されている。
 また、明治九年(1876)刊の「武蔵国郡村誌」によると氷川社は、谷津村の中の「宮下村飛地」内にあったという。なお、宮下村の村名については、「新編武蔵風土記稿」に「いま谷津村にて司れる氷川社、もと当村の持にして近村の総鎮守なれば、その宮ありしをもって名とせりという」と記されている。
 昭和六十二年三月』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社。
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 延享元甲子年(1744)十月造立の青面金剛庚申塔と正徳二壬辰(1712)十月造立の青面金剛。
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 青面金剛の右には石仮面……じゃなくて、なんだろうこれ。石祠の側面には太歳神と大将軍の名が刻まれているから、八将神を祀っているのかな。下の方には「遷宮導師當村 日乗院現住法印光■ 別當當寺現住」の文字も見える。

胡桃下稲荷神社(柏座一丁目)

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 上尾駅東口から少し北に向かった所に鎮座している胡桃下稲荷神社(上尾市柏座1丁目)。
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『胡桃下稲荷御由緒
 御祭神 宇迦之御魂神(殖産の神)
 当神社の御本社常陸国(現在の茨城県)笠間に鎮座致します笠間稲荷神社を本社と致します商業農業等の繁栄を司る御神を御祠りする御本社の古来からの別名胡桃下稲荷(紋三郎稲荷)で御座居ます。
 御本社の御由緒、社伝には第三十六代孝徳天皇の御代 白雉年間(650-54)に御創建せられ寛保三年(1743)には時の城主井上正賢氏が御社殿を整備、代々の祈願所と定め以後日本全国の武将、農、商人の多くの崇敬を受け日本三大稲荷とし尊崇せられて居ます。
 この社は明治時代の始め頃、此の地に住まいした新井亀次郎翁若かりし頃遠くにその御名を伝え聞き勧請を受け徒歩して御祭神を御運びし 御祠りすべき場所を此の地と定め自身此の土地を差し出しその後地域の尊崇の同志七人と共にその御社殿建設に奔走、多勢の御賛同を戴き寄進を頂戴し 御本殿、神楽殿、その他付帯施設を整備、現在に至って地域の尊崇を集めて居ります。
 現在の御社殿は当時の御本殿の一部の御神体を御祠した部分です』
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 本殿。
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 お狐さま。

氷川鍬神社(宮本町一丁目)

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 上尾駅東口のそば、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線に面して鎮座する氷川鍬神社(上尾市宮本町1-14)。
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 神明鳥居。
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『氷川鍬神社縁起
 氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永九年(1632)の御創立と伝えられます。
 御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道實公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であります。
 稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道實公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
 氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。
 氷川鍬神社の名稱になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった』

 上尾市教育委員会のサイトを見ると、三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざし踊り歩きながら上尾宿に現われたが童子たちは何処かに消え失せ、残された鍬を林宮内が祀ったのが鍬神社の始まりであり、万治(1658-60)の頃の事と伝えられると記されている。
 ところで主祭神の豊鍬入姫命は崇神天皇の娘であり豊城入彦命の妹姫だが、天照大神を祀るために笠縫邑や篠幡宮、伊勢飯野などを放浪し斎王の祖となった人物であるそうだ。が、なにゆえその豊鍬入姫命がこちらの御祭神になっているのだろう。どこからともなく現われ去って行った童子らと、放浪する姫はイメージ的に似通った部分があるのは確かだとは思うが。
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 神楽殿。
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 拝殿。
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 本殿裏から。
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 浅間大神。
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『上尾市指定史跡 上尾郷ニ賢堂跡
 上尾市宮本町一-一四 氷川鍬神社 
 昭和三十四年一月一日指定
「ニ賢堂」(通称「じけんどう」)は、天明八年(1788)、学僧の雲室上人が上尾宿(現在の氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎の名称です。雲室が、当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、わが国の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人の賢人を祀る意味から、「ニ賢堂」と名付けたものです。
 雲室は、信濃国飯山(長野県飯山市)出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも交流がありました。雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その弟子に当る上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
 聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っていました。雲室は、四年ほどで上尾を去りますが、その後山崎碩茂が引き継いでいます。塾は、文政九年(1826)に碩茂が亡くなった後も続けられたといわれています。
 現在も氷川鍬神社に残る、林大学頭信敬筆の「二賢堂」の扁額、そして境内の「上尾郷ニ賢堂碑記」、「雲室上人生祠碑頌」とあわせて三件が、上尾郷ニ賢堂跡を物語っています。
 平成十一年六月十八日 上尾教育委員会』
IMGS9261s.jpg(クリックで1200x1800)
『上尾郷二賢堂碑記
    林皝撰 市河三亥書 松平定常題額
浮屠鴻漸頗通儒術甞游上尾郷與里人山﨑碩茂謀創建義學
以教郷子弟廼又就菅公祠以文公朱子並祀焉名曰二賢堂吾
正良君為書其匾而春秋祭祀之典一皆取正於市河子靜實係
天明八年事也属者介子靜之子孔陽請曰并祀之舉今己■三
紀而講學日以滋盛願賜一言以記之余乃為之言曰自學之不
講而為士者皆汲汲乎功利之競名譽之求而仁義遜讓之風幾
乎泯焉然其間名賢碩儒往往崛起使斯道賴以明於天下在我
則贈相國菅公乃其人而在彼則文公朱子繼往開来之功固不
待賛也蓋其東西相望先後同揆徳澤之所覃被遐壤絶郷莫不
顒然向風於戯盛矣■詩曰高山仰止景行行止使郷之子弟敬
瞻二公之在是祠也必将竦然興起相與勸勉晨夕講磨以従事
乎此則去功利而就仁義謝名譽而尚遜讓在家則孝悌之行興
居郷則長幼之禮成其風聲氣習之所曁雖委巷細民亦将視傚
而知勸畏威而寡罪安知一郷之俗不靡然而變乎抑鴻漸非有
斯道之責者碩茂亦力田自給之民乃能慨然留意於此自非志
尚超乎流輩者盖不能也故予樂為之記以諗其郷人使益脩而
勿廢云
文政五年歳次壬午冬十一月朔 山﨑碩茂等建』
IMGS9265s.jpg(クリックで1200x1800)
『雲室上人生祠碑頌
雲室上人名鴻漸字元儀信之飯山人也寶暦三年癸酉三月五日誕于
一向門徒光蓮寺是則武田信豐之子正善所創而上人其第十一生上
人欲以剛堅之質徧窮諸典也年十七出于江都學于宇子迪翁之門三
年翁没矣退而以為吾   邦天正以来伊洛之流日滋盛行則昇平
之化不得■關乎斯也然則今之讀書者誰不従事於斯其或非之者可
謂妨化之民耳遂游于林祭酒正良公之塾云天明八年游于上尾令郷
生山﨑碩茂為同學而後與碩茂及郷人林豐峰友老石應白石素碩山
口其道細井義跖井上常章美濃部美貫小松木奴小川呉来山﨑既年
林篤小川士慎山﨑興清水清英清水直正高橋茂之僧壽海大﨑八及
山﨑守禮等謀建義學以教子弟事見於去年所建二賢堂碑記當寛政
中住於江都西窪光明寺改名了軌字公範過年七旬託教肆乎法嗣證
存遂隠居焉去年壬午再游于上尾而大喜此郷益興於學矣於是郷人
謀報其徳為建生祠而請余為之頌夫上人余父執而又喜其崇儒術之
徳及於物故不辭其需乃為頌曰
祁祁郷子向斈無貳上人之篤永錫爾類
文政癸未四月望 江都 和氣行蔵撰并書及篆額
  昭和四十五年庚戌四月上浣 光苑市川芳雄疏募
              石工  大塚 裕康』

 碑文はもしかしたら読み取り間違えている部分があるかも知れないけど、大方は間違っていない筈。
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 聖徳太子像碑。

愛宕神社(愛宕一丁目)

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 上尾運動公園の西、埼玉県道51号川越上尾線と県道164号鴻巣桶川さいたま線の交わる上尾陸橋交差点から少し北へ向かうと愛宕神社(上尾市愛宕1-18)が鎮座している。
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 社殿。
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『愛宕神社御由緒
 当所の愛宕神社はその昔、現在の上尾運動公園北門の西方二、三○○米先(現在の愛宕二丁目)の所に本殿があって、周辺一面はうっそうとした広い愛宕山で、その南側が甚兵衛山、北側に山王山で日の詰神社の山林もあったと古老の言伝えにあります。明治初年に神仏分離令の発布があり、その後分離、廃合、合祀などが行われ、愛宕神社も合祀されることになりましたが、下町町民(当時の戸数、五~六十軒)がこれを拒み、旧原市新道、南角の所を借り受け、ここに一時お祀りしました。
 その後、明治四十二年(1909)七月二十日に現在のこの所に再び神社をお遷しして明治四十二年七月二十四日に大祭を行い、その日から下町を愛宕町と改名することになりました。
 昔、愛宕神社の本社が鎮座せられたのは、今から一二五○数年前、和気清麿公が勅を奉じて王城の火災防火、開運勝利、諸病厄除等、鎮護祈願の神として、山城と丹波の国境旭ヶ峯の頂上(今は京都市)にお祀りしたのが始まりであると言伝えられております。
 ご神体は勝軍地蔵菩薩様で、本殿に伊邪那美命、外二十柱の神様をお祀りしてあります。現在全国に愛宕神社は八百余分社があり、その内本県に三十数社(神社庁調べ)あります。
これ等の分社はおおかた大同元年(806)および仁寿三年(853)頃全国にわたり、とりわけ関東・武蔵の国に非常に火災と悪病が流行した時に当地にも分社鎮座がおこなわれたと考えられます。当社は古くから火防、諸病厄除、無病息災、開運等にご利益があると言われ参拝者が絶えません。
 例大祭 七月二十四日』
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 愛宕神社新築記念碑。
 「明治四十四年辛亥二月建 温故堂敬書」とあるので1911年に建てられたのだとわかる。二ツ宮氷川神社の案内板に、明治四十二年に氷川女体社と鍬神社が合祀すると、女体社の空宮が愛宕神社の本殿として譲られたと書かれていたので、その愛宕神社とはこちらのことだろうと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
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 猿田彦大神。
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 享保七壬寅年(1722)二月造立の青面金剛だが、額には猿田彦大神と刻まれている。
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 側面にも陽刻が施されている。

牛頭天王社(上尾下)

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 金剛庚申から少し南下すると陣屋公民館(上尾市上尾下910)があり、その脇に石祠が鎮座している。
 かつて丸山沼(原市沼)を挟んで東に伊奈氏の陣屋、西に西尾氏の陣屋があったとのことなのだが、伊奈氏陣屋跡におど神社と思われる頭殿権現社があるのなら、西尾氏陣屋跡にめど神社の手懸りがあるのではないかと思い西尾氏陣屋跡である陣屋公民館に足を運んでみたのだが……うん、まぁ、祠はあった。でも、牛頭天王って刻まれてるんだよなぁ、これ。そもそも沼からここまでわりと離れているし、めど神社とは関係無さそうだ。
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 側面には文政五午(1822)六月吉日と刻まれている。西尾吉次が徳川家康から原市に五千石の所領を賜わったのは天正十八年(1590)のことであるそうだから、こちらの牛頭天王が屋敷の守り神として祀られていたと言うわけでもなさそうだ。
 牛頭天王と言うことは祇園系だろうから、現在では八坂社か八雲社になるのだろうか。同じ素盞嗚尊を祀ってはいても氷川社はまた系統が違うそうだし。とは言え、原市氷川神社も古くは牛頭天王を祀っていたのだから、信仰の系統とかはあまり考えなくてもいいのかな。わからないから、とりあえず牛頭天王社ということにしておこう。
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金剛庚申(上尾下)

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 県立武道館の東、芝川に架かる新橋を渡って少し歩くと庚申坂下の四つ角脇に青面金剛(上尾市上尾下989-1)。
 水盤には文化元甲子(1804)十一月、鳥居の柱には平成十四年(2002)十一月と刻まれている。
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氷川神社(平塚)

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 平塚公園の北端に鎮座する氷川神社(上尾市平塚1514)。
 由緒書きには境内地の一部が平塚公園となっていると書かれているので、公園の中に神社があると言うのは正しくないのかも知れないが、面積的には圧倒的に公園部分の方が広い。参道北側、つまり向かって左側に車用参道があり、突き当たりに駐車場。
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 社殿。
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 横から。
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『氷川神社 御由緒
 上尾市平塚一五一四
御縁起(歴史)
 当社は雑木林に覆われた広い境内地を有し、現在その一部は平塚公園となって市民の憩いの場として親しまれている。
 創立は、社伝によると、承応年間(1652-55)のことであるという。平塚村は弘化二年(1845)の「下平塚村記録之書出し覚写」(神田家文書)によると、承応二年に上・中・下三村に分かれたとあることから、分村と相前後して祀られたとみている。
 「風土記稿」中平塚村の項には「氷川社 上中下平塚村の鎮守なり末社稲荷社 疱瘡神社 旗神社 別当 宝寿院」と載り、当社は、分村して以降も中平塚村一村のみの鎮守ではなく、三村の総鎮守として信仰されていたことがわかる。
 また、天明二年(1782)の宗源祝詞があり、神祇管領家卜部良延から「正一位氷川大明神」の社号額の揮毫を受けた旨が記されている。現在鳥居に掛かる社号額がこの時のものであろう。別当の宝寿院については、真言宗の寺院で、当社の本殿のすぐ北側にあったが、明治六年(1873)に廃寺となった。
 明治六年四月に当社は村社となった。同四十年、大字中平塚にあった石神社など八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀した。しかし、上下平塚の両社の合祀は書類上のもので、実際には現在も元のまま祀り続けられている。

御祭神と御神徳
 素戔嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

御祭日
 禦(三月二十七日) 例祭(四月四日) 天王様(七月十四日)』
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 末社。
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 浅間大神。
 明治二十七年甲午(1894)四月建立。鳥居は平成三年(1991)七月の建立。
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 神楽殿。
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 不動明王。
 右に「法印権大僧都長恵 不生位」、」左に「正徳三癸巳年(1713)正月十三日」と刻まれている。
 横の無縫塔には「元禄九丙子天(1696) 爲大阿闍梨尊■■■ 九月十一日」。

氷川神社(菅谷四丁目)

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 菅谷四丁目の氷川神社(上尾市菅谷4-25)。
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 拝殿。
 詳細は不明だが、水盤には享保拾四己酉天(1729)三月、石燈籠には安永六丁酉(1777)九月と刻まれているので、江戸中期には既にあったことになるのだろう。
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 末社。社名らしきものはうっすらと見えるのだが、なんと刻まれているのかはわからない。他には卍と宝永二乙酉天(1705)四月十日の文字が刻まれている。

 ここから少し南に下ると八雲社があるのだが、見落としていた○刀乙

氷川神社(二ツ宮)

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 三井住友金属鉱山伸銅の北西、ひかわ幼稚園の隣に鎮座する氷川神社(上尾市二ツ宮865)。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『氷川神社 御由緒
御縁起(歴史)
 上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(1570-92)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郡あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。
 その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、「風土記稿」上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道をへだてならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字二ツ宮の由来ともなった。
 明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年(1873)に村社に列した。しかし、明治四十二年(1909)に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。
 当社の「明細帳」によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。

御祭神と御神徳
 素戔嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

御祭日
 元旦祭(一月一日) ふせぎ(三月十五日) 春の例祭(四月十五日)
 天王祭(七月七日-十五日に近い日曜)   灯籠建て(七月二十七日)
 二百十日(九月一日)秋の例祭(十月十五日)新嘗祭(十二月二十三日)』
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『上尾市指定有形文化財 氷川神社本殿彫刻
 上尾市二ツ宮(旧上尾村)八六六
 昭和三十五年五月一日指定
 この氷川神社は旧上尾村字二ツ宮に所在する。この小字名の起こりは、氷川神社に男体社と女体社の二つの宮があったことによる。かつては上尾の名をもつ三つの宿村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守であった。明治四一、二年の神社合祀の時、女体社は上尾宿の鍬社を合祀し(このため氷川鍬神社と称されるようになった)、現在は男体社が本殿として残っている(合祀したあとの女体社のあき宮は、後に愛宕神社の本殿として譲られた)。
 現在の氷川神社の本殿には四面にすぐれた彫刻がなされている。図がらは中国の故事を現わしたもので、最近の修理によって整ったものとなった。軒下の組子(枓栱)の間にも彫刻が施され、本殿を支える下部の肘木はすべて透かし彫りされりっぱである。製作の時期・作者は不詳である。
 昭和五十九年十月十五日』
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『氷川神社
 主神      素戔嗚尊
         稲田姫命
         大國主命
 合祀ノ神
  天神社    菅原道真朝臣命
  神明社    天照皇大神
  山王社    大山咋神
  稲荷社    保食神
  古峰神社   日本武尊
  金毘羅大観之 大物主命
  牛頭天王社  牛頭天王
 攝社
  豊稔社    豊受大神 大年神 御年神』
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 本殿。
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 本殿北面の彫刻。
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『王方平と麻姑
 彫刻は、老松に満開の桜を配し、下段に老翁の王方平が、仙果を持った玉女(仙人の次女)と如意を持った童仙を連れて立っている構図です。上段には、若々しい美女の麻姑が、珊瑚の壷を持つ童仙と玉女を従えて現われた姿が彫られています。麻姑の背面には、宮殿風の建物がありますが、この建物が蔡経の家です。
 仙界の逸材といわれる王方平は、五匹の竜にひかせた羽車に乗り、多くの人々を従えて、蔡経の家に着くと、王方平は麻姑の許へ使者を遣わせました。やがて、十八、九に見える若くて美しい麻姑が、多くの侍女とともに到着しました。麻姑が持ってきた御馳走を金の大皿に盛って、酒席が開かれました。この日、蔡経は、人を救い病を治すことのできる法を伝授されました。宴が終ると、王方平と麻姑は、乗り物を命じ、行列の支度ができると昇天したといわれています』
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 本殿西面の彫刻案内。
『黄鶴仙人(左側の彫刻)
 彫刻は、善根を積む業績が認められた黄鶴仙人が、仙界の帝王の宮殿に伺候し、黄帝より仙薬の秘伝を書いた巻物を伝授されて、鶴に乗って下界に下ろうとする構図です。
 黄鶴仙人とは費長房のことです。費長房の仙術の師は壺公です。壺公は、町に出ては薬を売り、その収入を困っている人々に施していました。費長房は、壺公が凡人でないことを知り、無償で壺公に尽くしました。壺公は、費長房の誠実さを認めて仙術を伝授して、地上で病を治し諸々の災難を消すことに専念するように申し渡したといわれています。

 応夫人(右側の彫刻)
 彫刻は、堂々たる応夫人と竜です。応夫人は、和楽器を扱う人々の祖神として崇拝されることがありますが、この本殿では、応夫人の琴によって祭神をなぐさめたいという願いがこめられているのでしょう。
 応夫人は、仙界の女王といわれる西王母の侍女で、一絃の琴の名手といわれ、白竜に乗って飛行した仙人です。応夫人の彫刻は彫工の間で人気があったとみえ、県内の社寺にも点在しています』
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 本殿東面の彫刻案内。
『精衛公主(左側の彫刻)
 彫刻は、頭に鳥の宝冠を載せたあでやかな精衛公主と、仙人の輿車に乗った気品のある仙界の女王といわれる西王母との対面の光景です。
 精衛公主は、神農民(古い時代の仙人)の娘で、容姿端麗にして絶世の美女でした。ある日、散る花を見て無常を感じ、天に向かって嘆いたところ、西王母が仙人の輿車に乗って多くの侍女とともに姿を現わし、「精衛公主よ、里心を断ち切り、仙宮に来なさい」と告げて姿を隠したといわれています。

 嫦娥公主(右側の彫刻)
 彫刻は、老松に雲を配し、渓流沿いに牡丹を彫り、その上に薬籠を持った玉女(仙人の侍女)と符を持つ童仙とともに、嫦娥公主が昇天しようとしている構図です。
 嫦娥公主は、亭主が西王母(仙界の女王)から授かって隠し持っていた不老不死の仙薬を密かに盗みだしては服用し、いつの間にか仙人となり、そのまま月の世界へ飛んで月宮殿の女王となった、幸運の美女といわれています』
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 豊稔神社。
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 狛犬。
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 左から牛頭天王(天明八申稔(1788)六月)、金毘羅大権現(文化七庚午年(1810)正月)、古峯神社・水神・明神(昭和三十年(1955)一月十九日)、稲荷社。
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 左から山王社、神明社、天神社。
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 甘藷先生頌徳碑。
 甘藷先生と言えば青木昆陽のことだろうと思うが、何故ここに?

 以上で5月17日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとFA43mm。Coolpix P7100。
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