団地稲荷神社(下豊岡町)

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 豊岡団地公民館脇に鎮座する団地稲荷神社(高崎市下豊岡町1280-28)。
 天照皇大神宮を参拝した後は群馬八幡駅から信越本線で高崎駅まで戻ろうかとも思ったのだが、やはり折角来たのだからと踵を返して団地稲荷神社へ。さすがにもうお祓い行事は終わっていたので人の姿は見えなかった。
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 左手前の石碑には「果之山 正一位稲荷大明神」と刻まれている。
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稲荷神社
 この稲荷は、昔から「ハケノ山稲荷」「原の稲荷」などの通称があります。いつ、どんな理由で建てられたか不明ですが、常夜燈(残欠竿石)には文政八酉年(一八二六)三月、願主青木源兵衛と刻まれています。「果之山」の碑は昭和三十八年(一九六三)建立、裏面に十四名が連記されています。
 「ハケ(端気)」と「果」は同義で崖の端を意味します。この辺りが、烏川と碓氷川により形成された河岸段丘の、秋間台地から若田・八幡台地を経て続く豊岡台地の東端で、この先は崖となり豊岡地区の最も低地になります。その地形から「ハケ」などと呼ばれて来たようです。
 昭和三十四年(一九五九)に豊岡団地が造成されましたので、鳥居には「団地稲荷大明神」の掲額が掲げられています。お祓い行事が、年に一度、八幡神社神主のもと行なわれています。


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 団地稲荷の80m程南にある三角地に鎮座する石祠
 文字らしきものが刻まれているのだが、よくわからない。
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 以上で9月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは25,121歩。
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天照皇大神宮(藤塚町)

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 浅間神社から450m程西に鎮座する天照皇大神宮(高崎市藤塚町)。
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天照皇大御宮・洪水祈念之碑・射水神
・天照皇大御宮
 全国に存在する天照大明神を祀る社で、建立年月などは不明です。祭は十月十四日に行なわれています。
・洪水祈念之碑
 明治四十三年(一九一〇)、大洪水のため藤塚町は壊滅状態に陥りました。家屋流失十八軒。半壊家屋五十数軒、浸水家屋十軒、溺死者二名、行方不明十名を数えました。疫病の発生を恐れ歩兵十五連隊が派遣され、近隣の人々の協力により復旧が為されました。皇族からの見舞金、国からの援助により復村したことを後世に伝えるため建立されました。
・射水神
 大正九年(一九二〇)、赤岩下が地滑りをして碓氷川を塞ぎ、人家や田畑に大きな被害を与えました。村民は堤防を造り、同十一年に村を守ることを願いこの碑が建てられました。

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 秋葉神社と射水神。
 石祠の前面には「正一位秋葉大権現」「明和元甲申年五月吉日」と刻まれている。明和元年は1764年。
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洪水記念之碑
洪水記念碑 陸軍歩兵大佐從五位勲三等功四級 古木秀太郎 篆額
明治四十三年八月十日暴風雨碓氷川大漲襄涯流橋其藤塚村地低平而家居近
岸是以打鐘報警近村相助堙塞是朂風愈暴雨愈急水量激増髙於平日既十五尺
矣濁浪沛然決潰堤防滔々横溢邨中浸家屋決田園人皆周章或攀梁或乘屋荷擔
奔走號哭之聲終夜不息村衙急開小學校為救拯之處供給衾食至翌十一日拂暁
水勢漸減衆心初降其間家屋流失者一十八毀壊者二半壊者五十有一浸水者十
而溺死者二生死不明者一既而水全退來閲之土礫滿家泥砂填井未可遽歸住也
於此老溺猶各把鋤鍬浚渫搬除鄰郷壮丁亦援之歩兵第十五聯隊特派兵員焉最
恐疾疫侵染鋭意盡力恢復後殆三十日而初得安其堵矣慘怛其状達
上聞九月六日侍從日根野要吉郎伴本縣知事神山潤次来傳
聖旨且賜 皇族諸殿下賑恤金村民感泣貯蓄以貽後昆本縣廳亦給與救害米穀
其二十日内務大臣平田東助来檢之然後田園修拓堤防再築越明年得全復儁觀
焉後數年邨人胥議勅禍害所及於貞石欲使後世子孫觀以不遣所儆誠也銘曰
  天何所怒 起斯風烈 吹雨巻雲 陵谷泪没 濁滾滔々 家流田決
  下民何辜 遷此杭臲 飽暖逸居 人情偸安 肉食紈袴 昔人譏孱
  心傲體懈 爲堪艱難 天烖地變 時㕥儆人 人能懲毖 勞苦儉勤
  寒暑無厭 饗義移仁 驕怠若兆 請觀斯文
 大正七年歳次戊午暮春月中浣    東谷隠士 田邨理 撰并書

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 境内側から見た鳥居。
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 天照皇大神宮から90m程東に石祠があったのだが、何神社なのかは不明。

浅間神社(藤塚町)

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 国道18号に面して鎮座する浅間神社(高崎市藤塚町)。
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浅間神社富士山
 中山道の一里塚の向い側に建つこの神社は、富士山を神格化した富士山信仰の神社で、静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間神社が総本山の末社です。
 浅間さまは、坂上田村麻呂が勧請したと伝えられることから、田村麻呂伝説が多い東国のこの地でも信仰されて来たのではないかと思われます。祭神は木花咲夜姫で、祭礼日は七月十四日です。
 旅人たちが休憩する場所となっていた中山道二十八番目の一里塚が、八幡村と豊岡村の村境に位置していました。そのため、村人らが分担して清掃を行ない、一里塚を大切にすることに役立っていたと思われます。
 当社は八幡村分の藤塚が祀り、南側の八坂神社は豊岡村分の下藤塚が祀るのが慣例になっていました。

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 天神社と庚申塔。
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金ヶ崎不動尊(上豊岡町)

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 上豊岡町交差点の200m程東に位置する金ヶ崎不動尊(高崎市上豊岡町)。
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金ヶ崎不動尊
 この堂は、豊岡の茶屋本陣(東へ約300m)の飯野家が所有する広大な土地の鬼門(北東の方位)に当る、乗附村金ヶ崎に方位除けとして祀ったものですが、明治四十三年の大水害で流されてしまいました。そこで、飯野家所有の現在地に建てられました。本尊は木彫りで漆喰仕上げの不動様で、背の後に今もって鮮やかな色の大火焔があります。
 お堂は、昭和天皇即位の頃に建て替えられたときは、顔を洗うことにも使っていた清流が中山道沿いに流れていたので、北向きで中山道に面していました。昭和三十三年に改築の時に南向きに変えました。地元の人々によって、三月と九月の二十七日の夕方から二十八日まで縁日としてお祭りが行なわれています。不動明王は怒りの姿で悪魔を恐れさせ、悪魔から守護してくれると信仰されています。この不動様のおかげで、この地区には火災がないといわれています。

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 庚申塔と道祖神。
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 上豊岡町交差点傍の馬頭観世音(高崎市上豊岡町)。
 右側の石で囲われているのは水準点。

神明社(中豊岡町)

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 若宮八幡宮北口から150m程西へ向かうと道路に面して神明社(高崎市中豊岡町)が鎮座している。
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 詳細は不明。

若宮八幡宮(下豊岡町)

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 豊岡公民館の北東に鎮座する若宮八幡宮(高崎市下豊岡町甲1428)。
 こちらの鳥居は北を向いており、柱には「昭和七年七月吉日建之」と刻まれている。
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 随神門。
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 こちらの随神は弓矢を持っていないが、手の形から見て以前は持っていたのだろう。
 新後閑町の琴平神社では鬚のある随神が右、無い方が左に配置されていてこちらとは逆だが、特に決まりとかは無いのだろうか。
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若宮八幡宮御由緒
 高崎市下豊岡町字若宮甲一四二八
祭神 大鷦鷯命(大雀命)
   諡名 仁徳天皇
 当社は平安末期、永承六年(一〇五一年)源頼義・義家父子が建立したと伝えられている。即ち、前九年の役が勃発するや、頼義、義家勅命を奉じ奥州の安倍氏の反乱を鎮圧する途次、この豊岡の地に仮陣屋を設けて暫く逗留、軍勢を集めると共に、戦勝を祈願するために当社を建立、乱収り帰還の折りに再び当社に寄り戦勝を報告、額を奉納したという
 以来、武将、兵士、一般大衆の尊崇厚く、鎌倉時代には里見太郎義俊の三男豊岡三郎という者、此の地におり当社を崇敬した。
 寛文二年(一六六二年)、幕府代官諸星惣左エ門政明らが中心となり、社殿を大修築し、盛大な祭典を挙行した。
 江戸末期には江戸の火消し新門辰五郎、明治期には乃木大将の参拝などあり、常時参拝者が絶えなかった。
 境内には義家の腰掛石、社宝として市重要文化財蕨手太刀がある。
 なお当地区には「土用寒村」「十八日村」などの伝説、古跡が多い。
  境内地 八〇六坪二合
  祭典日 三月十五日 春季例祭
      七月三十日 夏祭(みそぎ大祓い)
      七月十五日 秋季例祭
   その他、七五三祭、二年参り、初詣もにぎやかである。
 昭和五十四年七月二十九日

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 朱塗りの鳥居。
 こちらは東を向いている。
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 拝殿。
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 斜め後ろから。
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 末社群。
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城峯神社(下豊岡町)

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 豊岡20号古墳の頂に鎮座する城峯神社(高崎市下豊岡町)。
 姫宮観音堂の次は豊岡団地公民館脇の団地稲荷にお詣りするつもりだったのだが、丁度年に一度の御祓い行事の日に当ってしまっており、さてどうしようかと思っていた時、たまたまそこにおられた方と話をしたら、公民館の北西にある公園の北側に古墳があり、その上に神社が祀られていると教えて頂いたので団地稲荷は後回しにしてまずはこちらの神社へ。
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 小さな鳥居だが額にはしっかり「城峯神社」と陽刻されている。
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姫宮観音堂(下豊岡町)

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 姫宮公園内に位置する姫宮観音堂(高崎市下豊岡町)。
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 観音堂の北側は墓地になっている。
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姫宮観音の由来
姫宮観音は元禄年間(一六八八~一七〇四)に私の父祖である梁瀬孫平により碓氷郡鼻高村黄檗宗達磨寺の末寺として開山された寺院でありました。開山僧は不詳、酒井雅楽頭の寄付によるものであったとの記録が残っています。
その後の変遷は詳らかではありませんが、正徳元年(一七一一年)には、当時の観音堂の庵主大蟲が、寺号を名乗ることを許され、観音寺となっています。
さらに、明治八年(一八五七年)頃には、臨済宗姫宮観音と呼ばれる寺であったとのことです。
爾来、姫宮観音は子育ての観音様として梁瀬家にて大切にお守りして参りました。
この度、この土地を高崎市に寄付するにあたり、御堂を建立して姫宮観音を安座し、当地の皆様の幾久しいご平安をお祈りするものであります。
 平成四年十一月吉日
          梁瀬次郎 記

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 観音堂左手側に秩父供養墖。
 天明丁未七秊講中と刻まれているので1787年のもの。
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八坂神社(下豊岡町)

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 旧中山道と国道406号線の分岐点付近に鎮座する八坂神社(高崎市下豊岡町40-3)。
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 八坂神社石宮。
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高崎市指定重要文化財 下豊岡の道しるべ
 所 在 地 高崎市下豊岡町四〇‐三番地先
 指定年月日 平成十年二月二十七日
 烏川を渡って中山道を西へ進み、この地より右に折れる道は信濃国(長野県)へ通じるいわゆる信州街道で、古くは「信州みち」と呼ばれていた。また、草津温泉へと通じる道でもあることから「草津みち」とも呼ばれていた。
 現在八坂神社のあるこの場所が、かつて信州みちが通っていた場所であり、二つの道しるべがあった。そのうちの一つ「下豊岡の道しるべ」は、高さ一九八cm、幅三四cm、厚さ三六cmの大きさで、安山岩でつくられた尖塔角柱の道しるべである。碑面の文字から草津温泉をはじめとする温泉地への案内を主な目的として作られたものとも思われる。なお、左側面のみ文字の彫り方が異なっているが、道しるべが建てられた後に彫られたためであろう。つくられた時期は江戸時代末期と推定される。
 もう一つは、国道四〇六号線と旧中山道との分岐点に移されている小さな自然石の道しるべで、これには「右はるなみち、くさつみち」と刻まれている。
 「下豊岡の道しるべ」は、本来は中山道と信州みちとの分岐点であるこの場所にあった。明治時代に現在の国道四〇六号線ができた際に、一旦は今「自然石の道しるべ」がある場所に二つとも移された。さらに昭和三十四年頃の国道四〇六号線の拡幅に伴い、県道(旧国道十八号線)との分岐点にこの道しるべのみ移されていた。高崎市の文化財にするにあたって、本来の所在地であるこの地に戻したものである。

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 「下豊岡の道標」。
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 分かれ道に置かれた「自然石の道標」。
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 八坂神社側から。
 交通標識の左下に見えるのが「自然石の道標」。

石神社(下豊岡町)

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 君が代橋西交差点の北西、国道406号線に面して鎮座する石神社(高崎市下豊岡町281-1)。
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下豊岡の石神社
 古代の人々は、大自然の力に対しその偉大さに恐怖心さえ抱き、これを鎮めるために神として仰ぎました。この神社は、石を神として崇拝することから起った石神信仰の一つです。
 石神社は音で読むと「しゃくじん」であり、これが訛って「しゃくじ」となり、ここ豊岡の小字「尺地」の由来と言われます。(他に、碓氷峠から中山道の里程を、尺縄を使って測っていたところ、尺縄がこの地でボロボロにすり切れてしまったので、それを万日堂で拝んでもらい、石神社に祀ったことから「尺地」との説もあります)
 境内に、安永元年(一七七二)と刻まれた石宮や、明和九年(一七六四)の道祖神があります。昔は社殿にシャモジを寄進して家内安全を祈願しました。神仏習合の江戸時代には不動寺の境内にありました。

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 道祖神。
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 末社。
 何神社なのかは不明。

萬日堂(下豊岡町)

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 君が代橋西交差点の北東、下豊岡第二公民館脇に位置する萬日堂(高崎市下豊岡町832-1)。
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下豊岡町三一四番地所在の万日堂墓地は 国道用地として建設省からの要請に依り協議の結果 移転する事に決り 江戸時代に立てられたという木造瓦葺平屋建二十五坪の万日堂は取り崩し本尊様のみかへり阿弥陀像を移転安置し 新しく当地に建立する
 昭和五十六年三月三十日

高崎市指定重要文化財 みかえり阿弥陀像
指定 昭和四十八年一月三十一日
所在 下豊岡町八三三の一
   万日堂本尊として安置
 顔は左横向きやや下方を見ている。このために寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もあり、江戸時代のある時期には涅槃像として信仰されていたようである。
 みかえりの阿弥陀は日本全国でもわかっているものは五体に過ぎず、今まで関東では全くみられず、なぜ万日堂に伝来するのか興味深いものがある。
 傍の鳥酔句碑の句も本尊を涅槃像と思ったものであろう。
 像 高 八三センチ
 肩 幅 二一センチ
 足部幅 一七センチ
 寄木桧作り 両手欠落
 室町時代末期と推定
  高崎市教育委員会
  万  日  堂
昭和五十六年七月八日 建設

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阿弥陀伝説
 万日堂に安置されている本尊仏をみかえり阿弥陀という。この万日堂は国道十八号(旧中山道)沿い南側にあったのを、昭和五十六年道路拡幅のために北側のここに移した。
 昔、永観律師が不断念仏を思い立ち、本尊をめぐって行道念仏中つい眠くなって立ちどまっていたところ、本尊が、「永観遅いぞ」と、うしろをふり向いて声をかけられたという。
 みかえり阿弥陀尊はその故事によってつくられた。京都禅林寺にあるものは国の重要文化財になっている。ここのはそれらより時代は下るが、それでも室町時代と推定される。関東では唯一のみかえり阿弥陀であろう。
 この像を明治時代盗み出して売り払おうとした男があったが、君が代橋を渡る途中急死してしまい仏像は事なきを得た。
 大正時代もう一度盗まれたが、こも男も君が代橋上で大雷雨に遭い、男は感電死したが、仏像は無事だったという。

  鳥酔句碑
句 おもしろひ ゆめみる かほや 涅槃像
               露柱庵鳥酔居士
 碑陰 安永四年乙未春 椿山田忠書
    高崎駅 四卉庵連
 鳥酔白井信興(一七〇一‐一七六九)は江戸時代の俳人。上総(千葉県)の田舎で旗本知行所の郷代官をしていたが家督を弟に譲り江戸に出て俳壇一方の雄となった。その影響は上総、上野に特に著しく、明治六年四月四日、江戸に没するや、数名の高弟、その遺志を分け合い、一は子持山下の双林寺門前に「鳥酔翁家」を作り、一は下豊岡万日堂に涅槃句塚を建てた。
 前者は昭和二十四年県指定史跡となった。鳥酔は沼田、白井、高崎等にはしばしば滞留し、羽鳥麦舟・一紅夫妻、平花庵雨什らが指導を受けた。句碑は雨什らの四卉庵連が鳥酔の七回忌に修法建立したものである。
 案内板には「おもしろひ ゆめみる かほや 涅槃像  露柱庵鳥酔居士」と書かれているが、実際に碑に刻まれているのは「於もしろひ ゆめみる かほや 涅槃像  露柱堂鳥酔居士」である。まあ些細なことだが。
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紋平稲荷大明神(並榎町)

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 国道354号線並榎町西交差点から160m程南下した場所に鎮座する紋平稲荷大明神(高崎市並榎町463-26)。
 玉垣には「安永九年七月得官位 昭和六年十月建設之」と刻まれている。安永九年は1780年で昭和六年は1931年。
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 祠の中には白いお狐さまが一対納められているのが見えた。
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六社稲荷大明神(常磐町)

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 常磐町町民会館北側の公園端に鎮座する六社稲荷大明神(高崎市常盤町)。
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 名前から察するに、稲荷社を六社合祀した神社なのだろうか?
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恵徳寺(赤坂町)

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 高崎神社の北西に位置する曹洞宗恵徳寺(高崎市赤坂町77)。
曹洞宗 惠徳禅寺
由緒
 天正年間(一五七三~一五九二)井伊直政公が伯母である惠徳院宗貞尼菩提の為、箕輪日向峰に一宇を創立し松隆山恵惠徳院と號した
 慶長三年(一五九八)直政公和田城入城の折に此の寺を城北榎森に移し松隆山東向院惠徳寺と改めた当時寺領二拾石五斗の御朱印地であった。後の城主酒井家次公の時慶長九年(一六〇四)~元和二年(一六〇六)の間に現在地「赤坂」に移る
開山
 群馬郡箕郷町瀧澤寺第四世勅特賜大光普照襌師龍山永潭大和尚に依り開山。この禅師は箕輪在住の頃より直政公の信任厚く在る時「和田の名稱を松崎と変えたいが」の問に「松は枯れる事があるが髙さには限りがないその意をとって髙崎はいかゞか」と進言した処直政公大いに喜び「髙崎」と命名したと云う
本尊
 釋迦牟尼佛を安置し奉る
平成元年五月五日
    惠徳廿九世 大峰辰雄

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 本堂。
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 十一面観音堂。
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十一面観世音(四萬八千日)
 観音巡礼が盛んだった江戸時代から、恵徳寺の観音様も札所の一つでした。この観音堂には三体の観音像が安置されています。後立観音に運慶作と伝えられる聖観音、そして前立観音には行基作の秘仏とされる千手観音と十一面観音です。この十一面観音様は、昔は中山道高崎宿西出入り口のお堂に安置されていましたが、一九〇八年に恵徳寺の観音堂に移りました。大縁日の八月十日は年に一度の御開帳で、この日に参詣すると四萬八千日参詣したのと同じ功徳があるとされています。東京上野浅草寺の四萬六千日よりも二千日多いことで知られていました。また、夜祭は明け方まで大賑わいであった事が安永九年(一七八〇)の「閭里歳時記」に記されています。近所の子供達がこの観音像を人形にみたてて遊んでいたところ、これを注意したりすると却ってその人に災難が降りかかったといわれます。

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 観音堂を横から。
 左奥に見えるのは美保大國神社。


九蔵稲荷社(九蔵町)

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 日蓮宗正法寺の境内に鎮座する九蔵稲荷社(高崎市九蔵町48)。
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九蔵稲荷
 この地に住む北爪九蔵が、反町・梶山・須藤と共に高崎の地侍として、慶長二十年(一六一五)高崎藩主酒井家次に従い大阪夏の陣に出陣、大阪城を陥落させることに手柄を挙げました。この功績により九蔵は家臣として召抱えられこの地を賜りました。知行百石から始まり四百五十石まで加増され、江戸留守居役にまで昇進したという記録が酒井家に残っています。
 九蔵の功績から、この町は九蔵町と呼ばれるようになり、後に、九蔵を祀って稲荷社を建立。昭和十年に正法寺境内に移されました。
 九蔵町は大正時代から昭和にかけて火事が多く、“九蔵町の火事横丁”と呼ばれたこともあり、昭和三十一年に、火難除けの神として信仰される浅間神を勧請し、合祀されました。毎年十一月十五日、町内住民による例大祭が行われています。

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 正法寺。
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 北側から見た正法寺と九蔵稲荷社。

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 正法寺の北東に建てられた一里塚跡の案内板。
一里塚跡
 井伊直政は中世の中山道を取り込む形で高崎城下を築きました。慶長九年(一六〇四)江戸幕府が、日本橋を基点として東海道や中山道に一里塚の設置を始め、江戸から中山道二十七里の一里塚がここに置かれました。二十六里は江戸方面の佐野柏沢に、京方面の上豊岡に二十八番目が設けられ、上豊岡は県内で唯一残存しています。
 一里塚が設置され始めた慶長九年に、高崎城主となった酒井家次は同十一年に中山道の道筋を変えました。それまでは赤坂から本町を通り東に直進し、大雲寺の角を南に曲がり通町方面に進んでいましたが、これを本町三丁目で田町・連雀町方面へと曲げ、城下の中心を通す付け替えを行ないました。このことに因り往来は新しい中仙道を利用し、この地にあった一里塚は、稲荷の小祠が面影を微かに残すのみとなりました。

大雲寺(九蔵町)

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 曹洞宗大雲寺(高崎市九蔵町81)。
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 本堂。
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 山門供養塔と薬師如来、その他色々。
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 薬師如来の側面には「禁葷酒」と刻まれ、山門供養塔の側面には銘文がびっしりと刻まれている。
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 鬼瓦。
 埋め込まれたプレートには「本堂修復事業記念 平成十五年三月吉日 二十五世住職 仁科清信」と記されているので、修復前の本堂に使われていた鬼瓦と留蓋瓦なのだろう。
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 大雲寺入口から南を向くと御嶽山神社の看板が見えるのだが、入口が閉められている為参拝できず。去年の十二月に来た時もやはり閉まっており、早朝故だろうかとも思ったのだが午後になっても閉まっていたのでずっと閉まったままなのだろう。

稲荷社(高砂町)

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 大雲寺北東の道端に鎮座する稲荷社(高崎市高砂町)。
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 鳥居には鈴が掛けられている。
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 石祠の左側に庚申塔、右側に道祖神。祠には何神社なのか記されてはいないが、案内板によると稲荷社であるようだ。
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庚申塔と道祖神
 高崎城下を囲む遠構えには七つの出入口がありました。古来、「駅(伝馬宿の前の呼び方)に七口あればその地は賑わう」という故事と京の都にならったものです。城下の北東に設けられたのが前橋口で、ここを出た一帯は江木新田と呼ばれました。明治時代になると、この地に新しい道が造られた結果、通称“高砂町五本辻”が出来ました。
 街道口や街角にお稲荷さんなどが祀られますが、この祠もその一種と思われます。右に建つ道祖神には文化十三年(一八一六)の銘があり、左の庚申塔は、裏側に「万延元年龍舎庚申仲冬吉日造 江木新田中」と刻まれ、一八六〇年に高砂町の前身の人々が建立したことを著しています。いずれも、ここより東に伸びていた大類里道(JRの踏切方面)にあったものが、お稲荷さんの隣へ移されたと言われます。

薬師如来(高砂町)

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 セイワ食品入口傍に位置する薬師如来祠(高崎市高砂町294)。
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 石祠には「寛永仁乚刄年七月十日 敬白」と刻まれているように見えるが、乚刄ではなく乙丑なんだろうな。なお寛永二年は1625年。
 横には大黒天と恵比寿神の像があり、祠の前には三体の石仏があるが……なんだろうこれ。石祠の中の石仏は薬師如来なのだろうとは思うのだが、智拳印を結んでいるようにも見えるしお地蔵様のようにも見える。
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薬師如来
 江戸時代にこの辺りは、江木新田と呼ばれ高崎城下の北東に位置し、高崎城からみて鬼門にあたるので、鬼門除けとして薬師如来が祀られていました、薬師様は人々の災難から救ってくれる仏様として信仰されます。ところが、徳川家康の霊を東照大権現として、江戸並びに徳川を護るため日光山に祀ったことから、神仏習合において権現の本地仏である薬師如来を鬼門に祀る風習となり、ここもそれにならったと思われます。
 明治になり大雲寺境内に移されましたが、末広町で長野堰から分れ薬師堰と呼ばれる小川の端に再度安置されました。先の大戦終戦直後の混乱期に町内に不幸が続いたので、薬師様をもう一度勧請し直して、町内の無病息災を祈願するために、正法寺の住職に依頼し、鬼門除薬師から厄除薬師に勧請し直したと伝えられます。

飯玉神社(上大類町)

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 上大類団地の東側に鎮座する飯玉神社(高崎市上大類町1239)。
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『飯玉神社由来記
 当社は上大類村の西北部に在り氏子約百戸神域は南北約二百米、東西約二十米、参道は長く往時はその両側に杉の大木が林立し昼尚暗き鎮守の森として親しまれていた。春秋の宵祭りには大小百余の灯籠の列が夜空に聳える杉の木立に映えて壮観であった。大東亜戦後昭和二十七年社殿の改修工事費に充てるため神域の南半部を伐採整地し周囲に数十本の桜を植樹した。現在ここは神苑となり町民のスポーツと憩いの場となり春の花見の頃は桜花爛漫とても見事である。
 当社の祭神は宇気母智神(農耕の神)と菅原道真公(学問の神)の二柱で勧請の時は詳でない。明治三十九年十二月二十八日村社に昇格、明治四十年十月八日当時村内各所にあった諏訪社二社稲荷社二社天神社の無格五社を合祀した。この社には長さ五七糎、径六・八糎程で両端に相称形に切込みのある暗灰色をした緑泥片岩の石棒が社宝として安置されている。
 社殿は天正十二年庚申九月奉建創祀され、その後享保七年壬寅龍記九月十九日再建され、更らに嘉永年間にも建替えられている。近年では昭和二十七年に至り、建替後百四十数年の風雪にたえ破損甚しく大改修の必要に迫られ、氏子を始め村出身者の寄進と神域の杉用材により同年秋に造営されたのが現存の社殿である。その後平成四年秋拝殿の一部の改修、および玉垣工事が行われ現在に至っている』
 龍記ってなんだろう。龍集ならわかるのだが。
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 境内入口の脇に地蔵尊、道祖神、双体道祖神。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 左奥は湯殿三山供養塔と八幡宮。右の赤い祠は……なんだろう? 稲荷社だろうと思うのだが、天狗の面が落ちているのが気になる。
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 左端は御嶽山大神。右から二つ目の石塔は子大権現。他の石祠四基は不明。
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 鹽竈三座。
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 庚申塔群。

 以上で2月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、K50mm F1.4。IXY Digital 400。
 ウォーキングカウンターは15,534歩。

三島神社(石原町)

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 三島塚古墳の墳頂に鎮座する三島神社(高崎市石原町)。
 「新編高崎市史 資料編14 寺社」にこちらの記述があるのだが、コピーをとるのを忘れていた○刀乙
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 鳥居。
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 石段から見上げる三島神社。
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 拝殿。
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 境内社。
 右から二つ目の石塔には諏訪神社と刻まれているが、他の石祠二基は不明。
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 北辰鎮宅霊符尊神。
 前橋市二之宮町に霊符尊神社があったが、この辺りではあまり見かけることのない神様だ。尤も、ここから4.5km程北西にある黄檗宗少林山達磨寺は北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を本尊としているそうなので、或いはそちらから分祀したものであるのかも知れない。
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『高崎市指定史跡 三島塚古墳
 烏川右岸(西岸)の低い段丘上にあって、小坂山の北東に位置しています。
 幅十四メートルもある幅の広い、深い周堀をめぐらした直径五十八メートル、高さ五・五メートルもある大きな円墳で、二段に築かれ、規模に対して頂上が広く、高さの比較的低い、特色のある墳丘です。表面には葺石がほどこされ、埴輪も配列されています。
 「上毛古墳綜覧」によると、石棺が出土したことがあり、明治二十七年に発掘されて、鏡や刀、勾玉などが出たよしですが、その所在は不明です。五世紀後半の築造と推定されています。
 昭和十年の県下一斉古墳調査の時に、この周囲から観音山丘陵の東斜面にかけての石原、寺尾地区で、七十六基の古墳が確認されましたが、これらの中心となる首長の古墳と考えられます。
 古くから彦狭島王の墓との伝えがあり、頂上には三島神社が祀られています。古墳の呼び名は、これから名付けたものでしょう』

 ちなみに、佐波郡玉村町の御幣山古墳にも彦狭島王の墓であるとの言い伝えがある。

聖石神社(片岡町二丁目)

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 片岡地域安全センターの隣、高崎市道観音通り線に面して鎮座する聖石神社(高崎市片岡町2-12)。
 由緒書きは設置されておらず、また「上野国神社明細帳」や「新編高崎市史」にも記述が見当たらない為詳細は不明。社号標石には火防守護とあるので、秋葉社や愛宕社、三峯社のいずれかの系統なのだろうか。
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 唐破風部分の紋は……うむぅ、なんだろこれ。菊に柏を掛け合わせたような感じにも見えるがよくわからない。
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 道祖神。
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 石原歩道橋の上から。
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小祝神社(石原町)

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 天台宗常倍山南光院石昌寺の西隣に鎮座する小祝神社(高崎市石原町1247)。

『群馬縣管下上野國片岡郡石原村字西半田 郷社 小祝神社
祭神 少彦名神
    伊弉冊命 速玉男命 事解男命 大日靈命 素盞嗚命 五十猛命
    建御名方命 宇氣母智神 倉稲魂命 大国主神 大名持命 誉田別命
    大山祇命 八衢彦神 八衢姫命 久那止命 菊理姫命 市杵島姫命
    軻遇突智命 菅原道真公 藤原家隆卿
由緒 延喜式ニ上野國片岡郡小祝神社ト見ヘ、三代實録ニ授上野国正五位下小祝神社ト見
  ヘタリ、又上野國神名帳ニ従一位ト記載セル是ナリ、正徳年中別当石昌寺四世住職亮
  珍領主間部越前守ニ乞テ新ニ神殿ヲ造営シ享保二年ニ落成セリ、目今ノ本社是ナリ、
  小祝神社トシ古来ヨリ祭リ来リシ如シ、今社傍ノ田地ニ小祝名所ノ号アリ、是往古ノ
  神田ナルベシ
   明治四十一年八月十五日許可、本社境内末社厳島社、大字石原村字青水名所無格社
  常槃木神社、大字乗附村字峠山無格社熊野神社、仝社境内末社菅原社、稲荷社、八坂
  社、石神社、仝村字大黒無格社大國神社、仝境内末社菅原社、八幡宮、琴平宮、大山
  祇社、仝村字諏訪平無格社諏訪神社、仝境内末社八坂社、八幡宮、琴平宮、稲荷社、
  仝村字大平無格社大山祇神社、仝社境内末社八坂社、白山社、仝村字天神山無格社菅
  原社、仝社境内末社厳島社、秋葉社、仝村宮尾根無格社家隆神社、仝社境内末社厳島
  社、大字寺尾村字戸羽無格社神明宮、仝社境内末社菅原社、大山祇社、八坂社、秋葉
  社、仝村字舘臺無格社諏訪神社、仝社境内末社神明宮、八坂社、秋葉社、稲荷社、仝
  村字下無格社石神社、仝社境内末社秋葉社、八坂社ヲ合祀シタリ』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居。
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 社号標石と案内板。
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 由緒書きの下には芭蕉句碑がある。

『小祝神社
 小祝神社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として崇敬篤い社である。
 神社の創建は不詳であるが、元慶四年(八八〇)に正五位が贈られ、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に上野十二社の第七社に加えられており、その時からでも千年以上たっている。
 祭神は、「少彦名命」で医薬及び穀霊神であるところからこの土地の豪族が、悪疫退散・五穀豊穣を祈願して建立したものと思われる。現在の社殿は江戸時代の正徳年間、高崎城主、間部越前守詮房により造営されたものである。
 四月と十月の祭典には、神楽が奉納され多数の参詣者で賑わう。
 境内には、
 「しばらくは 花の上なる月夜かな」
の芭蕉句碑がある』

『高崎市指定重要文化財
 小祝神社本殿 附 享保元年棟札・享保二年奉納額・享保四年寄進銘
 小祝神社は「延喜式神名帳」に記載された小社で上野国一二社(式内社)の一つである。主祭神は少彦名命である。
 現在の小祝神社社殿は拝殿・幣殿と本殿が一体となっている。しかし、拝殿と幣殿は後から建てられたものであり、本殿は建設当初は単独で建っていた。
 間部家文書と奉納額により、正徳三年(一七一三)に建て替えの企画が始まり、享保二年(一七一七)に上棟したことが明らかである。また、棟札と彫刻パネルの墨書より、享保元年に起工し、享保五年には竣工していたと推定できる。棟札によれば大工棟梁は大塚彦平、木挽は高橋嘉助であり、共に高崎町住である。
 当本殿は、三間社入母屋造、側面三間で向拝三間を付ける。屋根は銅板葺(当初は檜皮葺または杮葺)とし、軒は二軒繁垂木とする。向拝は海老虹梁で繋ぎ、手鋏を付ける。大床を正側背面の四方に廻し、脇障子を立てる。内部は前方二間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣に厨子を安置する。
 背面の一部とはいえ、建造当初から壁面に彫刻パネルを嵌め込む例として現時点では県内最古である。当本殿は高崎市における文化財指定の神社本殿建築として最古であり、また、彫刻パネルを嵌め込む建物の年代判定の指標となる建物として貴重である。
 所在地 高崎市石原町一二四七
 指 定 平成一四年二月二〇日』
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 小祝神社甚句。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 唐破風に施されたこの彫刻は黄安だろうか。
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 拝殿斜めから。
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 本殿斜め後ろから。
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 本殿北面の彫刻。
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 本殿西面と東面の壁画。
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 前列左から猿田彦大神、地神、庚申塔、日本廻國塔、巳待塔。
 後列は猿田彦大神と石祠二基。
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 神楽殿。
 右下の小さな石碑は村上鬼城句碑。「新米を 食うて養ふ 和魂可南」

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 石昌寺入口。
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『常倍山南光院 石昌寺
 宗派は天台宗、本尊は阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩、不動尊があります。
 寛永年間(一六二四~一六四三)に松月道青庵主の開基と言われますが、由緒は不詳です。古来、石昌庵と称した寺名は、本寺である昌楽寺(現前橋市総社)から「昌」の字と、所在地石原村の「石」の字を合わせたと思われます。
 江戸時代は、神仏習合で隣接する小祝神社の別当(管轄)を務める寺でした。正徳二年(一七一二)に、住職亮珍が荒廃した小祝神社の再建を時の高崎藩主間部詮房に願い出ました。由緒ある小祝大明神であることが考慮され、藩有林に繁茂していた松の木の使用と、石材の採取許可を受けることが出来、享保二年(一七一七)落成しました。
 境内には秀全和尚建立の地蔵塔のほか地蔵塔数基や阿弥陀塔があり、南東角に建つ薬師堂は眼病に良いとされています』

天満宮(石原町)

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 東半田公民館脇に鎮座する天満宮(高崎市石原町1360-1)。
 右側の祠は城峯社。左側には庚申塔や如意輪観音など。
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 道路に面して道祖神も置かれている。
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三仏堂(片岡町三丁目)

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 護国神社の東に鎮座する三仏堂(高崎市片岡町三丁目)。
 手前に伊津奈大権現への案内板が見えるが、そちらにはここから西へ120m程歩いて行くと到着する。またこの案内板の脇に伊津奈大権現の由緒書きが設置されている。
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 三仏堂。
 「弎佛堂」と書かれた額が掛けられている。
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『三仏堂の沿革
この地に昔から厄除地蔵尊が祀ってありました。このたびの解体により群馬県片岡村の福島吉平氏の貴重な記録が発見され明治二十九年に再建されたことが判りました。往時大人相撲も盛大に行われ近郷近在より大勢の参観者で賑わい落合厄除奉納相撲としてその名を轟かせておりました。その後昭和の初期当時落合在住の小野幸太郎氏の協力により改修され今日に及んでおりました。現在では毎年八月二十三日に町内児童公園で行なわれている念仏会と子供相撲が厄除祭祀として引き継がれております。
平成五年七月従来の公民館を解体して住民会館を建設することになり用地狭小のため敷地内に鎮座の薬師堂と石仏を解体して地蔵堂の領内に移転す、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩の三尊を祀り名称を「三仏堂」と改め、三体を一堂に合祀いたしました。又庚申塔ほか由緒ある石仏も三仏堂の領内に安置いたしました。
ここに伝統ある遺産を合祀する堂宇建立にあたり歴史の一端を偲びつつ郷土の文化財産保存と住民祈願のお堂として末永く敬愛されることを念願いたします。
  平成五年十二月吉日』
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 庚申塔、如意輪観音、美善大明神、地蔵尊、如意輪観音。
 美善大明神は上部が破損しているため美善で正しいのかどうかわからないが、見える範囲ではそのように読める。
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駒形宮(石原町)

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 真言宗智山派大覚寺の北110m程、三叉路脇に鎮座する駒形宮(高崎市石原町2003)。
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 拝殿。
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 末社群。
 左端は三峰神社であるようだが、他の石祠二基は不明。

白山神社(石原町)

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 高崎市上ノ山交流館傍の道端に鎮座する白山神社(高崎市石原町)。
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 外からでは何神社なのかわからないが、中に「白山神社 菊理姫命」と書かれた紙が額縁に入れられているのでこちらが白山神社であるとわかる。
 「上野国神社明細帳」や「新編高崎市史」にはこちらの神社の記述は見当たらず、詳細は不明。
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伊津奈大権現(片岡町三丁目)

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 護国神社の南側に鎮座する伊津奈大権現(高崎市片岡町三丁目)。
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『優秀賞
片岡町三丁目町内会殿、貴町内の伊津奈大権現は町の由緒を正し、町を美しくする一所一勝運動の名所として特に優れているので、ここに優秀証を贈ります。
 昭和六十年二月十四日
           社団法人高崎観光協会
           会長 沼賀健次』
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 拝殿。
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 西側から。
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『伊津奈大権現
 当神社は八王子市にある霊山として名高い高尾山薬王院(飯縄大権現が本尊)から勧請した五穀豊穣の神様です。後に商売繁盛、病気平癒、火防の神様となり、多くの人々から信仰され今日に至っています。
 不動明王の化身である飯縄大権現は、慈悲深く衆生を救済する霊神であり、諸々の障害と民衆への悪魔を救ってくれる霊神でもあります。
 昭和五十四年頃町内の有志が高尾山片岡講を作り、新しく御神体を祀り、高尾山の大僧正により開眼供養が行われ、現在の社殿に安置しました。平成十年に御神体を修復し、高尾山の大僧正を招いて落慶法要を営み、開眼供養をしてお堂を新築しました。以来、毎年高尾山への参詣を行ない、町内の年中行事として毎年十月八日を当たり日として盛大にお祭りしています』

護国神社(乗附町)

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 群馬県神社庁の南側に鎮座する護国神社(高崎市乗附町2000)。
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『群馬縣護國神社
御鎮座  昭和十六年十一月十九日
御祭神  群馬県の殉国英霊(四萬七千余柱)
例 祭  十月十六日(第一日)
      十月十七日(第二日)
主要建物
 本殿・祝詞殿・拝殿・翼廊
 斎館・社務所・参集殿
 神楽殿・宝物遺品館
 祖霊殿(納骨堂)
境 内  二〇三五八坪』
 詳細は公式サイトで。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『碑文
日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に生命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽したのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに思いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び戦地への慰問品発送など献身的に尽された方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から四十五年平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽された人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思いここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
  平成二年十月三十日』
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『日本は昭和の一時期 米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った 自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった 戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した この時 一機一艇で一艦に体当たりする歴史に例のない必死の戦法が採られた 貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった 二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その勇姿を此処に置く 敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ 命に代えて何を守ろうとしたか この像に問い続けて欲しい』
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 祖霊殿。
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大黒天(乗附町)

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 乗附第一公民館の脇に並ぶ小祠群(高崎市乗附町1464)。
 中央に大黒天があるので、とりあえずエントリー名は大黒天で。
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 淡嶋大明神、二十二夜待供養塔、大黒天。
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 石祠二基。
 何神社であるのかは不明だが、左の石祠には六つ輪宝紋がついているので山岳系の神社ではないだろうか。
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峰薬師(乗附町)

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 乗附第一公民館前に鎮座する峰薬師(高崎市乗附町)。
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 薬師堂。
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 薬師如来のようには見えないが、はて?
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 辨財天。
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