飯玉神社(上大類町)

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 上大類団地の東側に鎮座する飯玉神社(高崎市上大類町1239)。
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『飯玉神社由来記
 当社は上大類村の西北部に在り氏子約百戸神域は南北約二百米、東西約二十米、参道は長く往時はその両側に杉の大木が林立し昼尚暗き鎮守の森として親しまれていた。春秋の宵祭りには大小百余の灯籠の列が夜空に聳える杉の木立に映えて壮観であった。大東亜戦後昭和二十七年社殿の改修工事費に充てるため神域の南半部を伐採整地し周囲に数十本の桜を植樹した。現在ここは神苑となり町民のスポーツと憩いの場となり春の花見の頃は桜花爛漫とても見事である。
 当社の祭神は宇気母智神(農耕の神)と菅原道真公(学問の神)の二柱で勧請の時は詳でない。明治三十九年十二月二十八日村社に昇格、明治四十年十月八日当時村内各所にあった諏訪社二社稲荷社二社天神社の無格五社を合祀した。この社には長さ五七糎、径六・八糎程で両端に相称形に切込みのある暗灰色をした緑泥片岩の石棒が社宝として安置されている。
 社殿は天正十二年庚申九月奉建創祀され、その後享保七年壬寅龍記九月十九日再建され、更らに嘉永年間にも建替えられている。近年では昭和二十七年に至り、建替後百四十数年の風雪にたえ破損甚しく大改修の必要に迫られ、氏子を始め村出身者の寄進と神域の杉用材により同年秋に造営されたのが現存の社殿である。その後平成四年秋拝殿の一部の改修、および玉垣工事が行われ現在に至っている』
 龍記ってなんだろう。龍集ならわかるのだが。
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 境内入口の脇に地蔵尊、道祖神、双体道祖神。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 左奥は湯殿三山供養塔と八幡宮。右の赤い祠は……なんだろう? 稲荷社だろうと思うのだが、天狗の面が落ちているのが気になる。
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 左端は御嶽山大神。右から二つ目の石塔は子大権現。他の石祠四基は不明。
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 鹽竈三座。
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 庚申塔群。

 以上で2月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、K50mm F1.4。IXY Digital 400。
 ウォーキングカウンターは15,534歩。
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三島神社(石原町)

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 三島塚古墳の墳頂に鎮座する三島神社(高崎市石原町)。
 「新編高崎市史 資料編14 寺社」にこちらの記述があるのだが、コピーをとるのを忘れていた○刀乙
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 鳥居。
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 石段から見上げる三島神社。
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 拝殿。
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 境内社。
 右から二つ目の石塔には諏訪神社と刻まれているが、他の石祠二基は不明。
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 北辰鎮宅霊符尊神。
 前橋市二之宮町に霊符尊神社があったが、この辺りではあまり見かけることのない神様だ。尤も、ここから4.5km程北西にある黄檗宗少林山達磨寺は北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を本尊としているそうなので、或いはそちらから分祀したものであるのかも知れない。
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『高崎市指定史跡 三島塚古墳
 烏川右岸(西岸)の低い段丘上にあって、小坂山の北東に位置しています。
 幅十四メートルもある幅の広い、深い周堀をめぐらした直径五十八メートル、高さ五・五メートルもある大きな円墳で、二段に築かれ、規模に対して頂上が広く、高さの比較的低い、特色のある墳丘です。表面には葺石がほどこされ、埴輪も配列されています。
 「上毛古墳綜覧」によると、石棺が出土したことがあり、明治二十七年に発掘されて、鏡や刀、勾玉などが出たよしですが、その所在は不明です。五世紀後半の築造と推定されています。
 昭和十年の県下一斉古墳調査の時に、この周囲から観音山丘陵の東斜面にかけての石原、寺尾地区で、七十六基の古墳が確認されましたが、これらの中心となる首長の古墳と考えられます。
 古くから彦狭島王の墓との伝えがあり、頂上には三島神社が祀られています。古墳の呼び名は、これから名付けたものでしょう』

 ちなみに、佐波郡玉村町の御幣山古墳にも彦狭島王の墓であるとの言い伝えがある。

聖石神社(片岡町二丁目)

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 片岡地域安全センターの隣、高崎市道観音通り線に面して鎮座する聖石神社(高崎市片岡町2-12)。
 由緒書きは設置されておらず、また「上野国神社明細帳」や「新編高崎市史」にも記述が見当たらない為詳細は不明。社号標石には火防守護とあるので、秋葉社や愛宕社、三峯社のいずれかの系統なのだろうか。
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 唐破風部分の紋は……うむぅ、なんだろこれ。菊に柏を掛け合わせたような感じにも見えるがよくわからない。
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 道祖神。
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 石原歩道橋の上から。
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小祝神社(石原町)

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 天台宗常倍山南光院石昌寺の西隣に鎮座する小祝神社(高崎市石原町1247)。

『群馬縣管下上野國片岡郡石原村字西半田 郷社 小祝神社
祭神 少彦名神
    伊弉冊命 速玉男命 事解男命 大日靈命 素盞嗚命 五十猛命
    建御名方命 宇氣母智神 倉稲魂命 大国主神 大名持命 誉田別命
    大山祇命 八衢彦神 八衢姫命 久那止命 菊理姫命 市杵島姫命
    軻遇突智命 菅原道真公 藤原家隆卿
由緒 延喜式ニ上野國片岡郡小祝神社ト見ヘ、三代實録ニ授上野国正五位下小祝神社ト見
  ヘタリ、又上野國神名帳ニ従一位ト記載セル是ナリ、正徳年中別当石昌寺四世住職亮
  珍領主間部越前守ニ乞テ新ニ神殿ヲ造営シ享保二年ニ落成セリ、目今ノ本社是ナリ、
  小祝神社トシ古来ヨリ祭リ来リシ如シ、今社傍ノ田地ニ小祝名所ノ号アリ、是往古ノ
  神田ナルベシ
   明治四十一年八月十五日許可、本社境内末社厳島社、大字石原村字青水名所無格社
  常槃木神社、大字乗附村字峠山無格社熊野神社、仝社境内末社菅原社、稲荷社、八坂
  社、石神社、仝村字大黒無格社大國神社、仝境内末社菅原社、八幡宮、琴平宮、大山
  祇社、仝村字諏訪平無格社諏訪神社、仝境内末社八坂社、八幡宮、琴平宮、稲荷社、
  仝村字大平無格社大山祇神社、仝社境内末社八坂社、白山社、仝村字天神山無格社菅
  原社、仝社境内末社厳島社、秋葉社、仝村宮尾根無格社家隆神社、仝社境内末社厳島
  社、大字寺尾村字戸羽無格社神明宮、仝社境内末社菅原社、大山祇社、八坂社、秋葉
  社、仝村字舘臺無格社諏訪神社、仝社境内末社神明宮、八坂社、秋葉社、稲荷社、仝
  村字下無格社石神社、仝社境内末社秋葉社、八坂社ヲ合祀シタリ』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居。
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 社号標石と案内板。
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 由緒書きの下には芭蕉句碑がある。

『小祝神社
 小祝神社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として崇敬篤い社である。
 神社の創建は不詳であるが、元慶四年(八八〇)に正五位が贈られ、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に上野十二社の第七社に加えられており、その時からでも千年以上たっている。
 祭神は、「少彦名命」で医薬及び穀霊神であるところからこの土地の豪族が、悪疫退散・五穀豊穣を祈願して建立したものと思われる。現在の社殿は江戸時代の正徳年間、高崎城主、間部越前守詮房により造営されたものである。
 四月と十月の祭典には、神楽が奉納され多数の参詣者で賑わう。
 境内には、
 「しばらくは 花の上なる月夜かな」
の芭蕉句碑がある』

『高崎市指定重要文化財
 小祝神社本殿 附 享保元年棟札・享保二年奉納額・享保四年寄進銘
 小祝神社は「延喜式神名帳」に記載された小社で上野国一二社(式内社)の一つである。主祭神は少彦名命である。
 現在の小祝神社社殿は拝殿・幣殿と本殿が一体となっている。しかし、拝殿と幣殿は後から建てられたものであり、本殿は建設当初は単独で建っていた。
 間部家文書と奉納額により、正徳三年(一七一三)に建て替えの企画が始まり、享保二年(一七一七)に上棟したことが明らかである。また、棟札と彫刻パネルの墨書より、享保元年に起工し、享保五年には竣工していたと推定できる。棟札によれば大工棟梁は大塚彦平、木挽は高橋嘉助であり、共に高崎町住である。
 当本殿は、三間社入母屋造、側面三間で向拝三間を付ける。屋根は銅板葺(当初は檜皮葺または杮葺)とし、軒は二軒繁垂木とする。向拝は海老虹梁で繋ぎ、手鋏を付ける。大床を正側背面の四方に廻し、脇障子を立てる。内部は前方二間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣に厨子を安置する。
 背面の一部とはいえ、建造当初から壁面に彫刻パネルを嵌め込む例として現時点では県内最古である。当本殿は高崎市における文化財指定の神社本殿建築として最古であり、また、彫刻パネルを嵌め込む建物の年代判定の指標となる建物として貴重である。
 所在地 高崎市石原町一二四七
 指 定 平成一四年二月二〇日』
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 小祝神社甚句。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 唐破風に施されたこの彫刻は黄安だろうか。
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 拝殿斜めから。
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 本殿斜め後ろから。
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 本殿北面の彫刻。
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 本殿西面と東面の壁画。
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 前列左から猿田彦大神、地神、庚申塔、日本廻國塔、巳待塔。
 後列は猿田彦大神と石祠二基。
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 神楽殿。
 右下の小さな石碑は村上鬼城句碑。「新米を 食うて養ふ 和魂可南」

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 石昌寺入口。
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『常倍山南光院 石昌寺
 宗派は天台宗、本尊は阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩、不動尊があります。
 寛永年間(一六二四~一六四三)に松月道青庵主の開基と言われますが、由緒は不詳です。古来、石昌庵と称した寺名は、本寺である昌楽寺(現前橋市総社)から「昌」の字と、所在地石原村の「石」の字を合わせたと思われます。
 江戸時代は、神仏習合で隣接する小祝神社の別当(管轄)を務める寺でした。正徳二年(一七一二)に、住職亮珍が荒廃した小祝神社の再建を時の高崎藩主間部詮房に願い出ました。由緒ある小祝大明神であることが考慮され、藩有林に繁茂していた松の木の使用と、石材の採取許可を受けることが出来、享保二年(一七一七)落成しました。
 境内には秀全和尚建立の地蔵塔のほか地蔵塔数基や阿弥陀塔があり、南東角に建つ薬師堂は眼病に良いとされています』

天満宮(石原町)

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 東半田公民館脇に鎮座する天満宮(高崎市石原町1360-1)。
 右側の祠は城峯社。左側には庚申塔や如意輪観音など。
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 道路に面して道祖神も置かれている。
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三仏堂(片岡町三丁目)

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 護国神社の東に鎮座する三仏堂(高崎市片岡町三丁目)。
 手前に伊津奈大権現への案内板が見えるが、そちらにはここから西へ120m程歩いて行くと到着する。またこの案内板の脇に伊津奈大権現の由緒書きが設置されている。
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 三仏堂。
 「弎佛堂」と書かれた額が掛けられている。
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『三仏堂の沿革
この地に昔から厄除地蔵尊が祀ってありました。このたびの解体により群馬県片岡村の福島吉平氏の貴重な記録が発見され明治二十九年に再建されたことが判りました。往時大人相撲も盛大に行われ近郷近在より大勢の参観者で賑わい落合厄除奉納相撲としてその名を轟かせておりました。その後昭和の初期当時落合在住の小野幸太郎氏の協力により改修され今日に及んでおりました。現在では毎年八月二十三日に町内児童公園で行なわれている念仏会と子供相撲が厄除祭祀として引き継がれております。
平成五年七月従来の公民館を解体して住民会館を建設することになり用地狭小のため敷地内に鎮座の薬師堂と石仏を解体して地蔵堂の領内に移転す、釈迦如来、薬師如来、地蔵菩薩の三尊を祀り名称を「三仏堂」と改め、三体を一堂に合祀いたしました。又庚申塔ほか由緒ある石仏も三仏堂の領内に安置いたしました。
ここに伝統ある遺産を合祀する堂宇建立にあたり歴史の一端を偲びつつ郷土の文化財産保存と住民祈願のお堂として末永く敬愛されることを念願いたします。
  平成五年十二月吉日』
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 庚申塔、如意輪観音、美善大明神、地蔵尊、如意輪観音。
 美善大明神は上部が破損しているため美善で正しいのかどうかわからないが、見える範囲ではそのように読める。
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駒形宮(石原町)

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 真言宗智山派大覚寺の北110m程、三叉路脇に鎮座する駒形宮(高崎市石原町2003)。
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 拝殿。
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 末社群。
 左端は三峰神社であるようだが、他の石祠二基は不明。

白山神社(石原町)

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 高崎市上ノ山交流館傍の道端に鎮座する白山神社(高崎市石原町)。
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 外からでは何神社なのかわからないが、中に「白山神社 菊理姫命」と書かれた紙が額縁に入れられているのでこちらが白山神社であるとわかる。
 「上野国神社明細帳」や「新編高崎市史」にはこちらの神社の記述は見当たらず、詳細は不明。
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伊津奈大権現(片岡町三丁目)

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 護国神社の南側に鎮座する伊津奈大権現(高崎市片岡町三丁目)。
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『優秀賞
片岡町三丁目町内会殿、貴町内の伊津奈大権現は町の由緒を正し、町を美しくする一所一勝運動の名所として特に優れているので、ここに優秀証を贈ります。
 昭和六十年二月十四日
           社団法人高崎観光協会
           会長 沼賀健次』
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 拝殿。
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 西側から。
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『伊津奈大権現
 当神社は八王子市にある霊山として名高い高尾山薬王院(飯縄大権現が本尊)から勧請した五穀豊穣の神様です。後に商売繁盛、病気平癒、火防の神様となり、多くの人々から信仰され今日に至っています。
 不動明王の化身である飯縄大権現は、慈悲深く衆生を救済する霊神であり、諸々の障害と民衆への悪魔を救ってくれる霊神でもあります。
 昭和五十四年頃町内の有志が高尾山片岡講を作り、新しく御神体を祀り、高尾山の大僧正により開眼供養が行われ、現在の社殿に安置しました。平成十年に御神体を修復し、高尾山の大僧正を招いて落慶法要を営み、開眼供養をしてお堂を新築しました。以来、毎年高尾山への参詣を行ない、町内の年中行事として毎年十月八日を当たり日として盛大にお祭りしています』

護国神社(乗附町)

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 群馬県神社庁の南側に鎮座する護国神社(高崎市乗附町2000)。
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『群馬縣護國神社
御鎮座  昭和十六年十一月十九日
御祭神  群馬県の殉国英霊(四萬七千余柱)
例 祭  十月十六日(第一日)
      十月十七日(第二日)
主要建物
 本殿・祝詞殿・拝殿・翼廊
 斎館・社務所・参集殿
 神楽殿・宝物遺品館
 祖霊殿(納骨堂)
境 内  二〇三五八坪』
 詳細は公式サイトで。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『碑文
日清日露の両戦争をはじめとし幾度かの戦争を経て太平洋戦争の終結まで約半世紀の年月が流れた
この間郷土群馬の若者は高崎部隊をはじめ全国各地の部隊に所属し北や南の遠い異国の地にまた国内の各地に生命を捧げ愛国の真心をもって戦争遂行に尽したのである
しかし祖国日本の安泰と繁栄を信じながら前途有為な先輩戦友が惜しくも戦没されたことに思いをよせるとき誠に残念の極みといわなければならない
一方銃後にあって困苦欠乏に堪えて食糧ならびに軍需物資の増産と輸送及び戦地への慰問品発送など献身的に尽された方々の労苦は極めて多大であった
太平洋戦争終結から四十五年平和でしかも世界各国の注目する大国としての繁栄は戦没者をはじめ国内にあって銃後を守られた方々そして終戦直後の困難をきりぬけ復興に尽された人々の犠牲と努力の上にうちたてられたことを思いここに深く感謝の誠を捧げるものである
激動の昭和時代も終り平成の時代となった今戦争は悲惨の極みであることを痛感し平和の礎となられた英霊をはじめ多くの方々の慰霊とその功績を顕彰すると共に永遠の平和を祈念するものである
ここに同志相はかって群馬県護国神社の社頭にこれを建てる
  平成二年十月三十日』
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『日本は昭和の一時期 米英及び重慶支那と大東亜戦争を戦った 自国の安全と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった 戦は優勢に推移し南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した この時 一機一艇で一艦に体当たりする歴史に例のない必死の戦法が採られた 貧しく誇り高い民族の苦渋の選択だった 二十才前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その勇姿を此処に置く 敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ 命に代えて何を守ろうとしたか この像に問い続けて欲しい』
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 祖霊殿。
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大黒天(乗附町)

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 乗附第一公民館の脇に並ぶ小祠群(高崎市乗附町1464)。
 中央に大黒天があるので、とりあえずエントリー名は大黒天で。
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 淡嶋大明神、二十二夜待供養塔、大黒天。
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 石祠二基。
 何神社であるのかは不明だが、左の石祠には六つ輪宝紋がついているので山岳系の神社ではないだろうか。
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峰薬師(乗附町)

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 乗附第一公民館前に鎮座する峰薬師(高崎市乗附町)。
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 薬師堂。
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 薬師如来のようには見えないが、はて?
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 辨財天。

家隆神社(乗附町)

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 民家のそばにひっそりと鎮座する家隆神社(高崎市乗附町)。
 先月参詣した下佐野町の定家神社は鎌倉時代の歌人である藤原定家を祭神とする神社であったが、こちらの祭神は藤原定家と同時代の歌人である藤原家隆。高崎新聞と言うサイトを見ると、歌の橋で定家と家隆が歌を詠みあったとの言い伝えがあるそうなのだが、どのような理由からそう言った話が発生したのだろう?

『群馬縣管下上野國片岡郡乗附村字宮尾根 無格社 家隆神社
祭神 藤原家隆卿
由緒 勧請年月不詳、家隆卿ハ壬生中納言光隆卿ノ二子ニシテ哥名世ニ高シ、位従二位ニ
  至リ官民部卿ヲ経テ、嘉禎三年四月年八十シテ薨セラル、當地ニ祭レルハ何ノ謂ヲ不
  知ト雖モ隣郡甘楽郡高尾村ノ碑ニ仁治四年云々壬生忠家同安文等之名アルヲ思ヘハ、
  此辺ニ住メル同氏ノ人々創立セシモノナルベシ
境内末社 一社
 厳島社
  祭神 市杵島姫命 
  由緒 不詳、明治十年七月中村内字三本木ヨリ當社境内ヘ移轉ス』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 拝殿。
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 拝殿内。
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 上野国神社明細帳には境内社として厳島社の名が記されているが、それらしきものは見当たらない。相殿になっているのだろうか。

飯玉神社(飯塚町)

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 飯塚町第一公民館脇に鎮座する飯玉神社(高崎市飯塚町544)。
 鳥居の台座には「鳥居建替 昭和四十八年七月一日竣工」、玉垣には「昭和九年十一月 特別大演習記念」、社号標石には「昭和四十六年四月吉日」、石燈籠には「文化二乙丑八月吉日」と刻まれている。
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 拝殿。
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『飯玉神社由来
 祭神 宇気母知神
 例祭 十月十九日
 この社は慶長六年(一六〇一)僧勝山全最によって開基創建された飯玉山最勝院長泉寺の屋敷稲荷として建立され、後に享保十三年七世春芳大秀和尚の時、飯塚村の産土の神飯玉神社となった。当時は茅ふき屋根のお宮であったが万延元年(一八六〇)焼失してしまった。
 文久元年(一八六一)飯塚村の総鎮守として復興再建することとなり氏子の奉賛金及び用材の献木により越後の宮大工政五郎という名工の作であるが幕末乱争の時代で思いに任せず完成迄に十有余年を要し明治初年に完工した。社殿の形態彫刻の美は近郷稀に見る立派なもので郷土の貴重な文化財として他に誇り得るものである。市の一所一勝運動に認定されたことに当りここに記す。
 昭和六十三年二月吉日』
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 斜めと横から。
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 力石。
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 末社群。

(2017年2月26日追記)
 上野国神社明細帳によると、八坂社(祭神 素盞嗚命)、菅原社(祭神 菅原道真公)、大山祇社(祭神 大山祇命)、榛名社(祭神 素盞嗚命)、赤城社(祭神 豊城入彦命)、諏訪社(祭神 建御名方命)、白山社(祭神 菊理姫命)の七社が祀られているようだ。
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 左から秋葉三尺坊、御嶽山座王大権現、富士浅間大菩薩、猿田彦大神、黒髪山。
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 なんだろうこれ。道祖神かな?
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 飯玉神社の北側に並ぶ天王宮。
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『飯塚の天王様
 ここに並んだ四基の天王様は、飯塚町の各所にあったものを、交通事情などから昭和四十五年に移設したものです。
 天王様は八坂神社のことで、祭神である牛頭天王を祀る石宮が二百年を超える歴史を刻んでいます。悪疫退散の民間信仰として広まり、七月二十七日・二十八日に天王祭りが行われていましたが、現在は二十七日に行灯を飾り花火を配る子供の祭りとして、引き継がれています。
 石宮は左奥から西方、南方、北方、東方の順に並び、西方には「文化四年(一八〇七)卯六月」、南方には「天王宮」の文字と「享和三癸亥年(一八〇三)六月吉日」、北方の基壇部には「長野山鳳凰霊、常黙庵智覚、未六月吉日」などの文字が刻まれています。西方の石宮には、魔除けを祈願して塗ったベンガラの赤色が一部に残っています』
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 弁財天と……んー? 神輿のように見えるが、中には小さなお狐さまが置かれているので稲荷社なのだろうか。
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 以上で1月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA35mm Macro、DA70mm。X30。
 ウォーキングカウンターは幾つだったっけかな。確か7,000歩ちょいくらいだったような覚えが。

琴平神社(新後閑町)

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 城南大橋の東側に鎮座する琴平神社(高崎市新後閑町270)。
 参道の右手側には高野山真言宗飯玉山荘厳寺、左手側には地蔵菩薩を祀る真如堂がある。飯玉山の山号は琴平神社境内に鎮座する飯玉神社に由来するものだろうか。
 ちなみに社号標石はここから北東220m程の位置にあり、鳥居の台座跡も残っているのがストリートビューで確認できる。そう言えば鳥居が無いんだな、この神社。
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 随神門。
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 豊磐間戸神と奇磐間戸神。
 豊磐間戸神は豊石窓神、或いは矢大神、矢大臣などとも呼ばれ、奇磐間戸神は櫛石窓神、或いは左大神、左大臣などとも呼ばれる。どちらがどうだったか忘れることもしばしばあるが。
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 表から見ると随神門だが、内側から見ると仁王門になっていると言う珍しい門である。
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 金剛力士像。
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 神楽殿。
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 天満宮。
 賽銭箱には「大蔵大臣 福田赳夫」の名が記されている。
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 拝殿。
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『琴平神社
 古来、お稲荷様が祀られていたこの地に、高崎藩士寺田宗有が一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝えられる。宗有は、文政八年(一八二五)没したと言うから文化年間のことと思われる。
 「多中のこんぴらさま」として毎月一〇日の縁日は参詣者で賑わい、正月には達磨市がたつ』
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 石段前には小天狗と大天狗。
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 大天狗の裏には溶岩で造られた洞窟があり、その中に和田稲荷大明神が祀られている。
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 石段左側には御嶽神社があり、その周囲に三笠山大神、八海山大神、中央不動明王なども見える。
 その下には琴平神社の石額も置かれているが、右側の額は何故か琴の字が鏡文字になっている。
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 こちらの石祠は社名が記されていないので、何神社なのかわからない。
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 石祠が四基並んでいるが、おそらく稲荷社なのだろう。
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 狛犬。
 随神に仁王に天狗に狛犬と、随分と守護者の多いことだ。
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 拝殿前から見る境内。
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 社殿横と斜めから。
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 本殿裏の奉拝所。
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 社殿北面の壁に取り付けられた天狗面と南面の壁に取り付けられた天狗面。
 北面の方は嘴や鼻が切り落とされており、まるでハイエロファントグリーンやオルメカの巨石人頭像のようになってしまっている。
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 拝殿脇に大黒天社。
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 絵馬殿。
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 絵馬。
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 飯玉神社。
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 狛犬。
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 拝殿内には本殿の他に大黒天と恵比寿神、そして金精様らしきものが見える。
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 飯玉神社の裏手に弁財天。
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 飯玉神社の左手側に猿田彦大神。その後ろに並ぶ六基の石塔も全て猿田彦大神。
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常世神社(上佐野町)

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 定家神社の250m程北に鎮座する常世神社(高崎市上佐野町496)。
 地図で見た時は「とこよ」と読むのかと思い、黄泉関係の言い伝えのある神社だろうかと中二心を期待させていたのだが、いざ来て見たら架空の人物である佐野源左衛門常世を祀る「つねよ」神社であった。佐野源左衛門常世は「いざ鎌倉」の言葉で有名な話の人ですネ。
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 拝殿。
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 本殿。
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『謡曲「鉢木」と常世神社
 一族の不正のために領地を横領され、窮迫の生活をしていた武人佐野源左衛門常世が、大雪の日に宿を頼んだ修行者(実は鎌倉幕府の執権北条時頼)のために、秘蔵の盆栽”鉢の木”を焚いてもてなしたのが縁で、表彰されたという謡曲「鉢木」の物語は有名で、戦前は学校の教材になっていました。
 これは出家して、最明寺と名乗った時頼の廻国伝説に基づいてつくられたものであるが、常世神社は、常世が佐野の領地を横領せられてのち、住み着いた所といわれる「常世屋敷」で、墓は別に栃木県佐野市葛生町の願成寺境内にあります』
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 拝殿前には「鉢木」のワンシーンを描いた絵が設置されている。扉を開けて自由にご覧下さいとのことなので開けて見てみる。
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 扉の内側に貼られた上佐野町の伝承と歌碑の説明書き。
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 歌碑。
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 拝殿の脇には「實践躬行」と刻まれた石があるが、なにこれ。
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 ここから少し北西に向かうと佐野橋の近くに靖国鳥居があるが、神社ではなく奥都城であるようなのでパス。

太天神天満宮(上佐野町)

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 市営住宅上佐野団地の傍に鎮座する太天神天満宮(高崎市上佐野町3)。
 定家神社から常世神社に向かうつもりが、何故か太天神天満宮に着いていた。
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『太天神天満宮(天神様)
 神社の由緒は不詳ですが、佐野源左衛門常世が父の境遇と似ていることから菅原道真の霊を祀ったと伝えられています。常世は鎌倉時代の御家人で、雪の日に執権北条時頼を秘蔵の盆栽を燃やしてもてなした能「鉢木」の登場人物として知られます。
 明治後期に国が推進した神社統合により、当社は下佐野町の定家神社に合併されました。ところが、上佐野の人々にとって由緒ある神社であり合併後も毎年祀りを続けていました。昭和二十五年に遷宮され、春三月二十五日、秋十月十九日に例祭が行なわれています。
 境内裏に他の場所にあったと思われる馬頭観世音の石塔があります。文政三年庚辰(一八二〇)に建立され、台座正面に「右 やまな ふぢおか ちゝ婦 上佐野上組」と刻まれています。この辺りは鎌倉街道が通っていたと言われ、秩父巡礼の道しるべであったと思われます』
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 拝殿。
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 本殿。
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 左から馬頭観世音、御嶽山座王大権現、石祠、如意輪観音、眞河大権現。
 馬頭観音に隠れて見えないが、庚申供養塔もある。

薬師堂(上佐野町)

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 太天神天満宮の南50m程の位置に鎮座する薬師堂(高崎市上佐野町7)。
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定家神社(下佐野町)

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 放光神社の100m程西側に鎮座する定家神社(高崎市下佐野町873)。
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 鳥居の脇に道祖神。
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 拝殿。
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 中を覗き込むと天井絵ならぬ天井歌? が並んでいる。
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『高崎市指定重要文化財 定家神社社宝(縁起一巻ほか)
 定家神社は、鎌倉時代初期に活躍した歌人藤原定家(一一六二~一二四一)を祭神とする。定家は「新古今和歌集」「新勅撰和歌集」の二つの勅撰集の撰者を務めるなど、当時を代表する歌人である。一般に「ていか」と呼ばれることが多い。
 定家神社に伝わる社宝のうち以下の四点が高崎市の重要文化財として指定されている。
一、定家大明神縁起一巻
 定家大明神の由来を記したもので、筆者は冷泉為茂。奥書に元禄七年(一六九四)の年号がある。為茂は藤原定家の子孫にあたる。
一、伝藤原定家筆「在原業平歌集」一冊
 八丁の鳥子紙に在原業平の和歌四七首が書写されており、藤原定家の筆と伝えられている。在原業平(八二五~八八〇)は平安初期の歌人。六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公とされる。
一、宮部義正独詠短冊一巻
 宮部義正により詠まれた和歌が記された短冊三一枚を巻物一巻に装丁してあるもので、各短冊には義正の記名がある。宮部義正は享保一四年(一七二九)に高崎藩の名家に生まれ、藩の要職を歴任した。歌道を冷泉為村に学び、三藻と号した。寛政四年(一七九二)没。なお、女流歌人として有名な万女は義正の妻である。
一、源武邨奉納和歌一首
 源武邨は坂上(井上)武之のことであるという。坂上武之は高崎藩士で。烏涯または柳窩主人と号した。和歌・漢詩にすぐれ、漢詩集に「山野春光」がある。天明四年(一七八四)に八三歳で没した。
 所 在 地 高崎市下佐野町(定家神社)
 指定年月日 昭和六三年二月一七日』
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 斜めから。
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 本殿。
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 古峯神社。
 石祠の背面には「明治百年記念 昭和四十三年十一月二十三日」と刻まれている。後ろの石塔にも文字が彫られているのだが殆ど読めない。小さく眠柳とも刻まれており、歌碑であるようにも思える。
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 仁王堂、万葉歌碑、石祠。
 歌碑には「佐埜山に 打つや斧音の 遠かども 寝もとか児ろが 面に見えつる」と刻まれている。石祠は何神社なのか不明だが、背面に「昭和三十五年七月十五日建納」と刻まれている。
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 何を祀っているものなのかはわからないが、「明暦三年霜月吉日」と刻まれているので1657年の造立であるのだろう。
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 稲荷社なのか大師堂なのか東郷神社なのかさっぱりわからない。そして三基の石祠もやはり不明。

放光神社(下佐野町)

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 下佐野第一公民館脇に鎮座する放光神社(高崎市下佐野町845)。
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 「史蹟 放光寺・放光明神址」と刻まれた石碑。
 でもここ放光寺跡じゃないそうです、ええ。
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 支那事変・大東亞戦 戦歿者墓石建立記念碑。

諏訪神社(高関町)

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 江木団地の南側に鎮座する諏訪神社(高崎市高関町185-1)。
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 諏訪神社石宮。
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 末社群。
 いずれも何神社なのかは不明だが、右から二つ目の石祠に陽刻されたこれは一猿、だろうか。
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 少し下がった所にも石祠があるが、何神社なのかは不明。
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 以上で12月17日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm、DA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,103歩。

黒髪山神社(江木町)

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 群馬県道27号線北側、すみれ幼稚園の隣に鎮座する黒髪山神社(高崎市江木町1109-1)。
 名前から察するに、榛東村にある黒髪山神社からの分霊であろうか。
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 こちらは黒髪山古墳と呼ばれる円墳であるのだそうだ。
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 黒髪山神社。
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 末社。何神社なのかは不明。
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 おそらくは地蔵堂と大日堂。
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 庚申の文字がびっしりと刻まれた百庚申塔。
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江木神社(江木町)

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 江木町北公民館の隣に鎮座する江木神社(高崎市江木町1174)。江木神社と公民館の間に高野山真言宗雀宮山真楽寺がある。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 狛犬。
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『一、御祭神 少彦名ノ命
   御相殿 譽田別命
       大山守命
 一、境内神社
   名称    祭神
   菅原社  菅原道眞公
   諏訪社  建御名方神
   八坂社  素盞嗚尊
   猿田彦社 猿田彦命
 一、由緒
 勧請年月不詳上野國神社明細帳に從五位上日置(ヘキ)明神ト記せるは當社なるべし 村老曰く本社もとは雀の宮と号し少彦名命を祭れりしを字若宮より八幡宮を合併して新に江木神社と稱す 此説に因りて考ふるに若宮なりし八幡宮は譽田別命はもとよりなれども主としてその皇子大山守命を祭れるなるべし 姓氏録に曰日置朝臣は大山守命の後也と見たり 尚按ずるに江木ヒ言へる
 村号は社号日置より轉せし語なりや相殿に坐すは明治十年九月二十三日合祭せり

 右は昭和九年十月十九日村社江木神社の標札を建つる示しより高崎神社並に当神社々掌高井東一氏の調書に因るものなり
 昭和六十年十一月吉日』
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 猿田彦社。
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 鳥居奥の石塔は秋葉大神。
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 末社群。
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 道祖神。
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『江木神社の由来について
 武田信玄の弟順良が天正十年(一五八二)三月十一日現在地に村社を造営、村営村社雀神社とし鎮座四百十二年の年月流れり。
 明治十年八幡宮を合祭し江木神社と神名、現在百拾年の年月氏子加護載くなり。
 平成六年六月吉日』
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『経過碑 群馬県告示第三五号
昭和二年四月一日ヨリ群馬郡塚澤村ヲ廃シ其ノ区域ヲ 高崎市ニ編入スルニ付 関係アル市村会ノ意見ヲ徴シ 県参事会ノ議決ヲ経テ高崎市有ノ財産(一切ノ権利義務)ハ之ヲ変更セス 依然高崎市属セシメ 塚澤村所有ノ財産(一切ノ権利義務) 之ヲ句括シテ 高崎市ニ帰属セシム
  七周年記念
   平成九年三月吉日 春』
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 社殿再建記念碑。
 裏面には「昭和三十一年三月十九日」と刻まれている。

諏訪神社(江木町)

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 雀宮神社の200m程南、長野堰用水路に架かる行人橋の傍に鎮座する諏訪神社(高崎市江木町419)。
 ググってみたところ、こちらの神社は永禄年間(1558~70)に真田昌幸により創祀され、昭和二十九年に石宮を建立して諏訪大社から御神体を勧請したものであるとのこと。
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 境内。
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 狛犬。
 顔面部が破損していたり目と口元が赤く塗られていたりでどうにもクリーチャーっぽい感じに。
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 諏訪神社石宮。
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 えーと、神輿庫だったかなこれ。その隣には行人之霊と刻まれた供養塔らしきものとお地蔵様がある。
(2017年2月26日追記)
 村人ではなく行人だった。「新編高崎市史資料編14 社寺」によると、地中に入り即身成仏した行人(修行者)を供養しているものであるそうだ。

雀宮神社(芝塚町)

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 群馬県道27号高崎駒形線と県道12号前橋高崎線が交わる芝塚町交差点の南東、芝塚町公民館に隣接して鎮座する雀宮神社(高崎市芝塚町1963)。
 向拝柱には「祭神 少彦命」「祭神 天神様」と書かれた木札が打ちつけられている。
 ここから600m程東に鎮座する江木神社は古くは雀の宮と称し少彦名命を祀る神社であることから、こちらの神社は江木神社からの分霊なのだろうと推測。図書館で調べている時間が無かったので合っているかどうかはわからないが。
 鳥居の柱には「平成十二年十月吉日建之」と書かれている。
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 神社裏手に並ぶ石造物群。
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『芝塚に伝わる石造物について
1 祠(向かって左)
  祠の起源は諸説あって、一つに菅原道真の乳母が道真の没後自宅に祠を建てて祀った
 と伝えられる。ここの祠は造立年代は不明だが江戸時代後期だろうと推定される。
2 宝篋印塔(左から二番目)
  この塔を礼拝供養すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれ変わ
 るとの信仰から作られた。
  原型では下から反花座・基礎・塔身・笠・相輪の五つの部分からなるが、ここに残さ
 れているのは塔身・笠のみである。
  塔身に寛政四子年(一七九二)十一月吉日下飯塚村芝塚女人神と刻まれている。
3 五輪塔(左から三番目)
  仏教の宇宙観の地・水・火・風・空の元素をもとに構成されて、下から地輪・水輪・
 火輪・風輪・空輪で成り立っている。
  造立年代不明。
4 板碑(左から四番目)
 追善供養や逆修のために建てられる石製の塔婆の一種で、ここの物は一部欠け落ちてい
 るが残っている部分から判断すると巾四〇〇高さ一〇〇〇位の物だったと思われる。
 完全な形であれば高崎市の文化財になったかもしれない。
  上部に二線の切込みがあり、梵字の深い薬研彫でその文字は阿弥陀如来を意味してい
 る。造立年は不明だが鎌倉又は南北朝時代の作と確実に思われる。
5 石彫り仏像(左から五番目)
  阿弥陀如来像と思われるが、造立年は不明。
6 双体道祖神(一番右にあった)
  双体の物は珍しく旧市内には発見されていない程の物なのでマニアによる盗難にあっ
 てしまったか。
  平成二十三年三月に盗難届は提出してあるが芝塚の宝の紛失は残念。
  造立年代は明和年間頃(江戸時代中期)と思われる』

浅間神社(山田町)

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 高崎市文化会館の東南に鎮座する浅間神社(高崎市山田町44)。
 ググってみたところ、高崎城内に祀られていた富士浅間神社からの分霊であるとも、或いは高崎城内の富士浅間神社を移設したものだとも伝えられているのだそうだ。
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 周囲をパイロンと連結バーで囲われているので工事中なのかと思ったのだが、ストリートビューを見ると二年程前もこの様であるので、特に工事をしていると言うわけでもないようだ。

高崎神社(赤坂町)

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 群馬県道29号あら町下室田線堰代町交差点傍に鎮座する高崎神社(高崎市赤坂町94)。
 公式サイト有り。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 高崎市指定重要文化財である鰐口の案内板。
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 美保大國神社。
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 大国主神と事代主神。
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『美保大國神社由来記
御祭神 事代主神(えびす様)
      本社 旧国幣中社美保神社
         島根県八束郡美保関町美保関
    大國主神(だいこく様)
      本社 旧官幣大社出雲大社
         島根県簸川郡大社町宮内
 高崎美保大國神社の創祀は、昭和初期にさかのぼります。昭和二年に始まる世界的大不況のなかに我が国の経済は疲弊し、商工業は不振をきわめ、倒産が相次ぎました。その際、高崎の商工業者の間に美保神社の御祭神事代主神の御分霊を迎えて、商工業の信仰をはかりたいという計画が立てられ、当時の高崎市長及び商工業者の努力に依り、昭和四年九月二十二日美保神社の御分霊をいただき、既にお祭りしていた大國主神と共に、奉斉式を行ったのが当神社の始まりであります。以来毎年十一月十九日、二十日の両日を(近年は十一月第四土曜日、日曜日に変更)大祭日と定め、氏子、崇敬者をはじめ参拝者の家内安全、商売繁昌、五穀豊穣、交通安全、良縁結び等を祈願し、今日の隆盛をみるに至っております。特に当神社の恵比寿講祭は有名で、その賑わいは関東全域に広く知れ渡っております。
 恵比寿様、大國様の二神は福徳円満な神様で、農業商工業をはじめ、あらゆる生業及び学芸向上、交通安全をお守りくださる福神様として、最も敬い親しまれている御神徳の高い神様であります。
 昔からどこの家庭でも神棚を造り、恵比寿、大國様をお祭りしてきました。先祖以来のこの麗しい風習は必ずや子々孫々に至るまで受け継がれていくことでしょう。毎月一日、十五日の月参り、正月三ヶ日、十一月の例大祭には霊験あらたかな美保大國神社に御参拝、御神徳をお受けなされますよう御すすめ申し上げます』
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 五社稲荷大神。
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 大正四年一月造立の花崗石鳥居碑。
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 道祖神祠。

得利稲荷神社(赤坂町)

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 曹洞宗赤坂山長松寺の北側に鎮座する得利稲荷神社(高崎市赤坂町105-1)。
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 入口脇の柱には得利稲荷眞心講と刻まれている。

神明宮(並榎町)

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 並榎町神明会館脇に鎮座する神明宮(高崎市並榎町364)。
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『神明宮由緒
 明治十二年に制定された上野國神社明細帳には、
村社 神明宮
一、祭神 天照皇大神
一、由緒 勧進年月不詳、上野國神社明細帳

 從四位下、榎本於神と、載たるは当社なり、
 按ずるに社号は、並榎の村号より興るか、
 尚、近地高崎町に榎本明神々社あるも、亦一の
 因由とすべし、    今、神明社と称するは
 何年度より斯なるを知らず。
         という記述がなされています。

このように、神明宮となる以前は榎本於神明神であり、「榎本」は並榎に関連する名前であり、「於神」とは水の神を指す呼び名です。
それが、中世以降の神明信仰の高まりによっていつの頃からか、神明宮となりました。
上野國神社明細帳「永仁六年(一二九八)總社神社蔵」に旧名が記録されているということは、当社は平安時代には既に存在し、この地が古墳だったことを考え合わせると、その起源は相当古いものと考えられます。
明治四十三年、神明宮は高崎神社に合祀され、一時期社はなくなりましたが、その後町民の強い願いにより、昭和四年に再建されました。
「お神明様」と慕われ、毎年四月二・三日に執り行われる春の例祭には、「明應三年(一四九四)に始まったとされる」獅子舞が奉納され、神明宮は町内の人々にとって、心のよりどころであります。
 平成二十一年六月吉日』
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『神明宮
 当社は、「上野国神名帳」に従四位下、榎本於明神とあるのが、いつの頃からか、神明信仰(天照大神を主祭神とする伊勢神宮内宮が総本社)に変ったと思われます。
 明治四十三年(一九一〇)、神明宮は高崎神社に合祀され、一時期社はなくなりましたが、その後町民の強い願いにより、昭和四年に再建されました。「お神明様」と慕われ、毎年四月二・三日に執り行われる春の例祭には、明応三年に始まったとされる獅子舞が奉納されます。
舞のときに四股を踏むように地面を踏みつける動きは並榎独特のものと伝えられ、高崎市の重要民俗文化財に指定されています。
 境内には、村上鬼城の揮毫による並榎橋の親柱のうち、二本が狛犬の台座として残されています』
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 狛犬の台座には「なみえはし」の文字が見える。
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 拝殿。
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 本殿。
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『大雨に獅子をふりこむ祭可南 鬼城
 O-ame ni shishi o furi-komu matsuri kana kijo
高崎市並榎町には、後世に残したい文物がいろいろあります。なかでも伝統的郷土芸能として、並榎獅子舞と、村上鬼城の事績はぜひ語り伝えたいものです。
上州・高崎をこよなく愛し、上毛三山や遠望する浅間山の四季を写し、小動物・植物を慈しみの心をもって写生し、数多くの名句を吟じました。
「心耳の俳人」として先師を顕彰し、永久に残す句碑を並榎町住民の総意と賛同者の基金によって、神明宮の境内に建立しました』
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 社名を示すものは見当たらないが、二猿が陽刻されているので庚申関係の祠であると思われる。また隣の小さな石塔には猿田彦大神と刻まれている。
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 二猿。
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 御嶽山座王大権現。
 背面には「慶應二年丙寅十二月吉辰」と刻まれている。
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 境内端の……稲荷社かな。
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 道祖神。

城峯神社(住吉町)

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 長野堰用水路新井堰傍に鎮座する城峯神社と庚申塔(高崎市住吉町13)。
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『住吉町の庚申
 庚申塔には正徳元年辛卯十一月吉日(一七一一)の年号と、梵字の下には「奉造立庚申塔供養攸」とあって、裏面にはこの庚申塔を建てた六名の名前がある。基部には青面金剛の神使である、見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が彫ってあり、庚申待の夜はこのような謹慎態度をとるように示している。
 庚申の信仰は中国の道教の教えからきたもので、人の体の中にいる三尸の虫が庚申の夜、人が眠っている間に天に昇って天帝にその人の罪を告げるという。
 庚申信仰が盛んになり、庚申塔は江戸時代に盛んに建てられ、いつ頃ここに祀られたか、はっきりしないが、この庚申塔は香華が絶えない。
 お祭りは毎年五月五日で、この日には火伏の神といわれる城峰神社の祭典も行われる。毎年町内の当番が神社に参籠して御札を請けてくる』
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 左端が城峯神社。あとは猿田彦大神と庚申塔。
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 城峯神社と言うことは、御祭神は大山祇命ですかね。
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 稲荷社。
 後ろの石碑には「昭和八年五月 庚申塔敷地改築 昭和十六年五月 御手洗所及鳥居新築記念」と刻まれている。
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 新井堰案内板。
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