浅間神社(宮代町山崎)

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 宮代町立図書館の南150m程の位置に鎮座する浅間神社(南埼玉郡宮代町山崎744)。
浅間神社  ──宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
歴史

 当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三○坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十六年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
 当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。この石碑建立の年代は定かでないが、「山重島村同行」と刻まれていることから、富士講の先達であった地元の島村家が建立したものと思われる。この山重講が、いつごろから当地で活動していたかは不明であるが、境内に文化十一年(1814)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
 一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社が祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、「風土記稿」百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(1804-18)以降のことと思われる』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 二十三夜塔と小室仙元宮。「埼玉の神社」には小宝仙元宮と書かれているが、塚の上にある浅間社に対してこちらは下宮になるので、小室仙元宮なのではないかなぁ。
『浅間神社
 所在地 宮代町山崎七四四
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落を眼下に見る築山の頂上に祀られている。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
 富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(1843)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社(権現社)があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡でる山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。
 昭和六十二年三月』
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 赤松浅間池生類供養碑。
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 石段。
 右側に見える注連縄の付いた石碑が小御嶽再建同行中碑。
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 石段右側に小御岳石尊大権現。
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 石段を上ると塚の頂に浅間大菩薩。
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 以上で3月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA70mm。K10Dに50-150mm II。X30。
 この後は宮代町立図書館で資料を探してみたり、栗橋の井上酒店で全国鉄道むすめ2015限定グッズと純米吟醸みなみを買ったりしてから帰宅。
 帰宅後、宮代町立図書館のすぐ近くに稲荷神社が二社あったことに気付いて○刀乙
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重殿社(宮代町山崎)

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 東武動物公園の南東、山崎集会所の隣に鎮座する重殿社(南埼玉郡宮代町山崎243)。
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『重殿社
 重殿社は山崎地区の鎮守で、地元では「権現様」とも称されている。金山彦命を祭神としており、祭礼は毎年七月二十四日に行われている。また、拝殿に多数のぞうりが見られるが、足の病に対する信仰のため奉納されたものという。
 覆屋の中にある本殿は、小規模で簡素ではあるが町内でも数少ない江戸時代の「見世棚造り」と呼ばれる造りの建物である。「見世棚造り」とは神社建築の一種で、店の棚のような形をしているのでその名がある。
 境内には、明和二年(1765)二月に建てられた稲荷社の祠や、文政十二年(1829)十月に建立された高さ約二メートルほどの大きな二十三夜塔がある。二十三夜塔とは、二十三夜に講の人々が集まり飲食をともにして、月の出を待ち拝んだりして夜を過ごすという行司で、そうした行事の記念として建てられたものである。
 また、当社には明治八年に作られた市川節堂の筆による幟旗がある。市川節堂は、群馬県に生まれ、清地村(現杉戸町)に招かれて付近の子弟の教育にあたった。
 重殿社のある山崎地区では、旧石器時代約一万数千年前から人々が住んでいた事が近年の発掘調査によって明らかになっている。以降、縄文時代後期約三千五百年前の集落や古墳時代四世紀後半の鍛冶工房跡なども発掘されており、古い歴史と文化を持っていることが知られている。
 一方、重殿社の周辺は「山崎山」と呼ばれる雑木林が広がっており、平成十三年度にさいたま緑のトラスト保全第五号地として取得され、管理。保存されている。現在、雑木林にはイヌシデやクヌギ、コナラなどがあるが、以前は赤松も多く見られた。こうした雑木林の北側には、かつては笠原沼の堀上田が広がっており、現在その一部が残されている』
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 拝殿。
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 本殿。
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 拝殿西側から。
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 稲荷社。
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 二十三夜塔。

神明神社(宮代町山崎)

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 宿集会所の西100m程の位置に鎮座する神明神社(南埼玉郡宮代町山崎64)。
神明神社  ──宮代町山崎六四(百間村字山崎)
歴史

 当社は「郡村誌」百間村の項に「相伝ふ元和中(1615-24)松永弾正落来たりて本村に居住を定め」とあり、土地の口碑にも「落武者の松永源太左衛門一族と家来が京都から来てこの辺りに住み付いたことに始まる」という。
 当社は、この松永源太左衛門が祀ったと伝えられている。「風土記稿」百間村の項に「神明社 松永坊持」とあり、当社は往時、松永坊という黄檗宗の僧坊の管理するところであった。この坊も松永坊という名が示す通り、寛永年中(1624-44)に松永氏の墓守として建てたといわれるもので、松永坊と称するようになったのは元禄年中(1688-1704)のようである。明治初期には「松永庵」又は「寮」と呼ばれていたが、昭和四十年代初めに宿集会所として建て替えられた。この集会所の辺りは、今も「源太山」と呼ばれて、かつての源太左衛門の屋敷があったと伝えられている。なお、松永坊の本尊であった阿弥陀如来は、集会所になってからも一隅に安置されていたが、近年、青林寺に移された。
 昭和十五年には、皇紀二千六百年に際し、伊勢神宮参拝記念として参道の敷石が奉納された。また、同五十年には、木造の鳥居が老朽化したことから、コンクリート造りのものに再建され、併せて本殿の修理が行われ、現在に至っている。
信仰
 祭神は大日孁貴命である。古くから五穀豊穣・無病息災・商売繁盛の神として崇められている。氏子は、願いがかなうと、紅白の鈴縄に奉納者氏名を記して社頭の鈴に下げたり、お神酒を上げてその奉賽としている。
 祭りは七月二十六日の年一回で「神明様の祭礼」と呼ばれている。この日が祭日と定められたのは、ちょうど農閑期に当たっているためであるという。また、古くからこの祭りは必ず晴天になるといわれている。かつては早朝に幟が立てられていた。祭典は午後一時から宮司の奉仕により氏子全員の参集で執り行われる。神前には、お饌米・お神酒のほか、海の物・山の物が供えられる。当社には拝殿がないため、祭典後の直会は境内に筵を敷き、その上に座って酒宴を行うのが古くからの形であった。しかし、昭和四十年代初めに当社の一五○メートルほど東方にあった「松永庵」を建て替えて宿集会所と称するようになってからは、そちらを直会の会場として利用するようになった。
 当社が神明神社であることもあり、かつては氏子の間で伊勢講が盛んに行われていた。各自で年々収穫した米の一部を換金して積み立て、ある程度貯えができると、伊勢講を結成して伊勢神宮に参拝し、太々神楽を奉納していたが、昭和三十年の参宮を最後に途絶えてしまった』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 宿集会所脇の道端に不動明王と青面金剛。
 青面金剛は宝暦二壬申年(1752)の造立。

稲荷神社(宮代町逆井)

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 逆井集会所の裏に鎮座する稲荷神社(南埼玉郡宮代町逆井120)。
 こちらの神社については「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」に記述は見当たらず、Googleで検索をかけてみてもHitせず詳細は不明。
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 左の祠には不動明王の線刻碑が納められていたので、右の祠が稲荷神社なのだろう。
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 不動明王と二童子の描かれた線刻碑。
 稲荷神社の脇には青面金剛。
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 御嶽神社・浅間神社。
 鳥居脇の庚申塔は安政三丙辰年(1856)の造立。
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 御室木花開耶姫大神と小御嶽磐長姫命。
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 普寛霊神。
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保食神社(宮代町金原)

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 真言宗智山派金谷山遍照院の西側、金原集会所前に鎮座する保食神社(南埼玉郡宮代町金原43)。
稲荷社  ──宮代町金原四三(百間村字金谷原)
歴史

 百間村は大落古利根川の右岸に沿って位置する。「風土記稿」によれば、古くは太田庄百間領に属し、村の鎮守であった姫宮神社の応永二十一年(1414)の鰐口には「大田庄南方百間」とあり、足立郡鴻巣宿の農民が来て、切り開いた土地であるという。
 当社は、この百間村の金谷原に鎮座する。金谷原とは鋳物師に関係の深い地名で、この辺りに鍛冶屋がいたことから付いたという。ちなみに当社の南三○○メートルほどの所に鍛冶屋屋敷跡があり、当地では「川口の鋳物師の本家」であるといわれている。
 口碑によれば、江戸初期に金谷原の「七郎名主」と呼ばれた関根家では金山大神を鎮守としていた。村には上の上寺(宮崎坊か)と下に遍照院があった。当時村では上下の対抗意識が強く、名主の関根家は下に居を構えていた。安永年間(1772-81)以前に、名主が関根家から上の折原家に替わるや、上では金山社を鎮守として祀るのを嫌い、新たに京都の伏見より稲荷を勧請した。そこへ下の金山神社を合祀したという。また、社伝には「安永四年(1775)羽倉摂津守が山城国伏見稲荷より五穀豊穣を願い勧請した」とある。「風土記稿」に見える上の寺と思われる宮崎坊は稲荷山と号し、遍照院は金谷山と号し、稲荷社・金山社それぞれの別当であったことが推測される。
信仰
 当社の祭神は倉稲魂命であるが、社頭に掛かる明治十八年の社号額には「保食社」とあり、この保食神が祭神として意識された時期があったことをうかがわせる。本殿は慶応三年(1867)五月の再建で、内陣には全高二五センチメートルの白狐に乗った荼枳尼天像が納められている。
 当社の例祭は七月二十日で「稲荷神社の祭礼」と呼ばれ、作神である稲荷に五穀豊穣を祈り、宮司が祝詞を上げる。終了後直会があり、御札が配布される。また、主な行事の一つに二月の初午がある。祭典は宮司が祝詞を上げた後、社務所で直会が行われる。昭和三十年ごろまでは、当番により甘酒が三日前から四斗樽数本に仕込まれた。当日は当番が神社に詰め、この甘酒が村中の人々に振舞われた。
 また、子供の行事としてお籠りがあった。初午の前日は、「初午のカンゲン(勧化の訛か)」と言って小学一年生から六年生の三、四十名が全員で太鼓を鳴らしながら、各家を回り、「稲荷のカンゲンをもらいに来ました」と言ってお金やお菓子をもらった。其の晩、子供たちは拝殿に火鉢と銘々で布団を持ち込んで集まり、交替で一晩中太鼓を打ち鳴らして過ごした。朝になると、一度家へ帰ってから学校へ行ったという。なお、初午の日は、正月・御影供・当社の例祭・彼岸・お盆・お日待と共に村の休み日であった』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 拝殿。
 手前のお狐様は、何故かそっぽを向き合っている。
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 お狐様。台座には昭和二十年一月吉日と刻まれている。
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 本殿。
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 末社。
 左から金山大神、天満宮、雷電宮、金谷権現神社。「埼玉の神社」には金谷権現神社は金屋権現と書かれている。
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『保食社は安永四年九月本宮正官攝津守によって分社、現在の地に鎮座された氏神様です。約六百坪の境内には杉の大木が茂り百間杉と愛称されておりましたが大東亜戦争の供木になり放置されておりましたが幸い町当局の好意により公園と集会所が完成し社殿補修工事は氏子一同の協力によってなされたものであります。
 昭和四十九年七月二十日』
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三峰神社(宮代町中)

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 中集会所前の三叉路脇に鎮座する三峰神社(南埼玉郡宮代町中)。
 社名を記したものは見当たらないので何神社なのかわからなかったのだが、たまたま中集会所に人がいたので尋ねてみたら三峰神社であると教えて頂いた。「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」にこちらの記述は無いので、詳細は不明。

五社神社(宮代町東)

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 姫宮駅から西南に700m程、真言宗智山派百間山西光院光福寺のすぐ南側に鎮座する五社神社(南埼玉郡宮代町東90)。
五社神社  ──宮代町東九○(百間村字東)
歴史

 当地は、かつて百間村の中心地であったが、元禄八年(1695)に分村して東村となった。また、古くは大寺であった西光院があることから寺村と称したこともあった。
 創建については、元禄十二年(1699)に西光院住職宗彬法印と弟子の当社別当大蔵坊秀応が、荒廃した当社の改修の寄進を求めるために記した「勧進帳」(西光院蔵)には次のようなことが記されている。
 養老年中(717-724)かの行基が当地に来たところ、五人の老翁が現れ、「我々は仏法護持のため、様々な霊地に身を置いたが、中でも当地は天地に比べるもののない霊場である。我々は熊野三山の翁・近江日吉の主・白山の厳老である」と告げて姿を消した。行基はこの告げに従い、当地に西光院を建立し、境内に寺の鎮守として当社を創建した。その後当社は、百間領五千石の総社として厚く崇敬されたが、時を経ると人々の信仰心が衰え、社殿も著しく荒廃してしまった。この有様を憂えた宗彬法印らは、まず元禄八年に拝殿を増築し、次いで他の社殿の改修を発願して、広く寄進を求めたものである。
 口碑によると、この社殿の改修は、宗彬法印らの努力もあって、領民の寄進により無事行われたという。
 なお、本殿は五間社流造りで、桃山期から江戸初期のものとされ、県内では珍しい様式であり、昭和三十七年に県指定文化財となった。
信仰
 当社は「権現様」と称され、行基に神意を告げた五老翁を祀り、霊験あらたかな鎮守神として厚く崇敬されている。祭神は、天之忍穂耳命・天津日子根命・天之穂日命・活津日子根命・久須毘命の五柱で、五間社の本殿の各々の内陣には、金幣と神鏡及び神鏡形の厨子に納められた祭神の本地仏とされる阿弥陀如来・不動明王・千手観音・釈迦如来・毘沙門天の像が奉安されている。これらの仏像は、元禄十四年(1701)に村の有力者であった鈴木治左衛門・嶋村新右衛門・青井七右衛門・鈴木源左衛門・法印権大僧都宗彬の奉納によるものである。
 祭事は元旦・二月十四日の越年祭・七月十六日の祭礼・十月十九日のお日待の年四回である。越年祭は「女の年越し」とも称し、明治期までは男が節分に参拝するのに対し、女はこの日に参拝したという。祭典が終わると神職が拝殿から境内に向けて豆を撒き、続いて厄年の男女による「みかん投げ」が行われる。これも本来は豆を撒いていたが、昭和三十年ごろ氏子の厄年の人からみかんが奉納されたのが始まりで、年々奉納が増え「みかん投げ」と呼ばれるようになった。今ではこのみかんを食べると風邪を引かないといわれ、大勢が詰め掛ける。
 祭礼は厄病除けの祭りで、明治以来、本殿の鍵を預かる渡辺貢家が早朝に御扉を開けておく。氏子は銘々で参拝し赤飯や酒を奉納する。午後二時からは、総代・当番の参列で、神職により祭典が執行される』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)

 熊野三社、日枝社、白山社で、どうして祀られているのが五男神なのだろう。家都美御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、大山咋神、白山比咩神ではないのは何故なのだろうか。
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 獅子山。明治二十五年(1892)九月吉辰と刻まれている。
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 幟立石。安政五戊午年(1858)六月吉建と刻まれている。
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 大杉大明神と藤原大権現。藤原大権現は明和九壬辰年(1772)二月吉日の造立。
 右の祠は不明。「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」には境内の見取図も描かれているのだが、この祠は記されていない。
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 第六天。側面には寛延二己年(1749)九月吉日と刻まれている。
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『五社神社
 所在地 宮代町東九○
 五社神社は、以前、五社権現社もしくは五社宮とも言われ、熊野三社(熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社)、白山、山王の五社を等間隔に祀ったところからその名が起ったと言われている。祭神は、天之忍穂耳命他七柱である。
 創建年代については、別当である西光院が火災にあったため明らかでないが、現在の本殿は、桃山時代の文禄、慶長(1592~1614)の建築と推定されている。本殿は五間社流造りで、正面に向拝をつけ、蟇股に牡丹、竜、鳳凰、猿、虎などの彫刻が施されている。大正年間にカヤ葺きからトタン葺きに替えられ、昭和四十九年の解体修理のとき銅板葺きにされた。
 また、それぞれの社には、元禄十四年(1701)五月吉日の年号がある銅製の御神鏡がある。江戸の鏡師二橋伊豆守藤原吉重の作である。
 拝殿前には文政三年(1820)に建立された当地の俳人中野南枝の句碑があり、拝殿内の正面にも同時期の俳句絵馬が奉納されている。
 なお、本殿は、昭和三十七年三月県指定の文化財となっている。
 昭和六十二年三月』
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 拝殿。
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 狛犬。台座には明治十四年の文字が見える。
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 本殿。
 県指定有形文化財に指定されている。
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 末社。
 左から小御岳神社、浅間大神、三峯神社、天満宮、稲荷社。
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 拝殿北側に不動堂。
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 不動堂の東側に富士塚があり、頂には浅間社が鎮座している。また、台座には扶桑教の文字が見える。
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 境内北東端に宝篋印塔と青面金剛、庚申塔。

姫宮神社(宮代町姫宮)

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 姫宮駅の北西600m程の位置に鎮座する姫宮神社(南埼玉郡宮代町姫宮373)。
 宮代町の公式サイトを見ると、宮代町は昭和三十年に百間村と須賀村が合併してできた町であり、百間村の総鎮守である姫宮神社の「宮」と、須賀村の総鎮守である身代神社の「代」をとってその町名の由来とすると書かれている。
姫宮神社  ──宮代町姫宮三七三(百間村字姫宮)
歴史

 当社の境内やその周辺には、「姫宮神社古墳群」が存在し、その開発の古さを物語る。
 創建については、社伝には、桓武天皇の孫の宮目姫が下総国へ下向の途中、当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれているうちににわかの病で倒れて息絶えてしまった。後に、当地を訪れた慈覚大師円仁がこの話を聞いて、姫の霊を祀ったのが始めてであるという。
 「風土記稿」百間村の項によると延長五年(927)成立の「延喜式」神名帳に載る武蔵国埼玉郡「宮目神社」は、当社のことであるという。
 また、同書には「姫宮明神社 村の鎮守とす、中村宝性院持、神体は釣鏡三面にて、厨子の中に掛く、中央は釈迦の像、左右に文殊普賢の像を鋳出せり、社前に応永年中の鰐口を掛(以下略)」と記されている。この文中の鰐口は、別当であった宝性院(現宝生院)に所蔵されており、「敬白武州太田庄南方百間姫宮鰐口一口、旦那大夫五郎応永廿一年(1414)甲午三月日」の刻銘がある。この寺について、「風土記稿」中村の項には「宝性院 新義真言宗、東村西光院末、姫宮山と号す。(中略)本地堂、当寺は百間村姫宮社を預れるを以て彼本地仏釈迦・文殊・普賢の三像を安ずと云」と載せている。
信仰
 祭神は、多記理姫命・市杵島姫命・多記津姫命の三柱である。古くから、乳の出の悪い産婦が参拝すると良くなると信じられ、かつては神前にオサゴ(お饌米)を供え、代わりに既に上がっているオサゴを持ち帰って粥にして食べた。しかし、近年は、粉ミルクが市販され、医療が発達するなどして、この信仰は薄らいでしまっている。
 年間の祭事には、元旦祭、七月二十日の例祭及び二十日過ぎの日曜の夏祭りがある。また、末社の祭典には、稲荷神社の二月の初午祭、三峰神社の九月十九日のお焚き上げ祭がある。
 このうち例祭は、豊作祈願・氏子の安泰を祈願する祭りである。参列者は各地区の総代である。昭和三十年ごろまで、同郡内の庄和町榎の神楽連を頼み、神楽を奉納していた。直会は、かつては拝殿か神楽殿で催していたが、昭和五十年ごろからは境内に新築した姫宮集会所を会場としている。
 夏祭りは元来、例祭の翌日に、天狗の扮装をした者と、獅子頭を被った者二名が、姫宮地区を一軒ずつ回り、土足で家に上がり込んで、祓いを行う悪魔除けの行事であった。しかし、昭和六十年代から、新住民が中心となって夏祭りと称して神輿の渡御を始めたため、天狗と獅子も、この神輿と共に行列を組むことになり、現在では例祭から独立した形となっている』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 鳥居の前には青面金剛が並び、左は享保十七壬子年(1732)、右は文化四丁卯年(1807)の造立である。
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『姫宮神社
 所在地 宮代町字姫宮
 姫宮神社は旧百間領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長五年(927)成立の「延喜式」に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。
 当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳五年(1715)四月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久三年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。また、かつて所蔵していた応永二十年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。
 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治三十五年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より二メートル程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される』
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 拝殿。
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 狛犬。台座には天保十二辛丑年(1841)五月と刻まれている。
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 力石。
『力石は力試しに用いられた大きな石です。
 日本では鍛錬や娯楽として、江戸時代から明治時代までさかんに行われました。
 右側 正徳五年乙未年四月吉日 若衆七人
    奉納 力石 三十三貫目(約122kg・自然石)
 左側 正徳五年乙未年四月吉日 施主 鈴木市兵衛・同伊兵衛・同六兵衛
                   島村九助持之
    奉納 力石 四十三貫五百目(約163kg・自然石)
 二つの力石は1715年・七代将軍 徳川家継の時代に奉納されたものです』
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 賽銭箱には丸に鶴の丸紋が彫られている。
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 社殿斜めから。
 本殿の辺りは姫宮神社古墳群2号墳とされているのだそうだ。
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 本殿は幣殿と繋がり、覆屋に囲われている。
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 香取社・鹿島社。その右側に天神社。
 御祭神は経津主大神、武甕槌大神、菅原道真公。
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 地主社。
 御祭神は大地主神。
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 八幡社。
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 八幡社の周囲はやや高くなっており、姫宮神社古墳群1号墳とされている。また、先の2号墳と合せて一つの前方後円墳である可能性もあるとのこと。
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 三峯社。
 御祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神。
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 稲荷社。
 御祭神は宇迦之御魂大神。
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 神楽殿。

若宮八幡神社(宮代町中島)

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 東武動物公園駅から南東へ1.4km程、若宮集会所の南隣に鎮座する若宮八幡神社(南埼玉郡宮代町中島382)。
八幡神社  ──宮代町中島三八二(百間村字中島)
歴史

 鎮座地の中島は古利根川右岸に沿って位置する。「風土記稿」中島村の項によれば、開発は天正十八年(1590)に島村出羽宗明によって行われ、最初は道仏村と称していたが、元和五年(1619)の検地の歳、中島と改めたという。また、当村は初め百間村に属し、元禄八年(1695)に分村した。当社については「若宮八幡社東村西光院持」とある。
 口碑によれば、大阪夏の陣で豊臣方に就いて敗れ、落人となった高橋七郎兵衛が鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を頂いて当地で帰農し、その分霊を作神として屋敷内に祀った。その後、当地の人々からも作神として崇敬されるようになったことから宝永年間(1704-11)に東村の西光院を別当とし、当地の鎮守となったという。別当の西光院は、養老年間(717-724)に行基によって開基されたといわれる古刹で、京都醍醐三宝院の直末であった。
 神仏分離により当社は西光院の管理を離れ、明治六年六月に村社に列せられた。
 本殿内には「奉建立若宮八幡宮 宝暦六丙子年(1756)三月吉祥日 施主高橋七郎兵衛」銘の八幡大明神立像が奉安されている。また、拝殿内には「奉納八幡神社御祭礼天保六乙未年(1835)秋八月吉日武州百間領若宮村子供中」銘の幟旗が納められている。
信仰
 古くから作神として崇敬されてきた。祭事は七月二十日の祭礼、九月十五日のおびしゃの年二回である。
 祭礼は五穀豊穣と疫病除けを祈る祭りで、午前十一時を期して神職の奉仕により祭典を行い、祭典終了後、若宮集会所で直会となる。
 おびしゃは五穀豊穣を感謝する祭りで、現在は祭礼と同様に午前十一時から祭典を執り行い、終了後、若宮集会所で直会を行う。かつては早朝から男衆が幟を立て、午前十一時に神職の奉仕により祭典を執り行い、祭典終了後、宿で直会を行った。宿は大きな座敷をもつ家が順番に担当し、両隣の家が、前日から料理の準備を手伝った。当日は若い衆が荒縄で鶴亀をかたどった一対の縁起物を作って床の間に飾り、氏子の旦那衆は紋付袴姿で銘々の膳の前に座り、お神酒や「大盛り飯」と称するお椀に高さ二○センチメートルぐらいに盛った白飯を頂いた。この白飯には「稲魂様」が宿っているといわれ、全部平らげると一年間病気にかからないといわれた。また、鶴亀の縁起物を抱くと子孫が繁栄するといわれ、旦那衆ばかりでなく、新婚の若い衆にも抱かせたという。このように盛大に行われた宿の行事も昭和十二年に日中戦争が始まると、氏子の間から「戦争が始まったのだから、しばらく遠慮しよう」という声が上がり、全員で協議した結果、中止となった。
 昭和六年まで、八月中に氏子全員が神前で観音経を唱えたという』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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『若宮八幡神社
 所在地 宮代町字中島
 若宮八幡宮は、字中島の若宮地内に所在し、誉田別命を祀る。祭礼は、七月二○日と九月一五日の年二回である。
 言い伝えによると、今から四○○年ほどの昔(江戸時代の初め)高橋七郎兵衛という人によって鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を屋敷内に祀った。その後、農耕神として当所の人々からも信仰され、江戸時代の中ごろ当地の鎮守として祀ったのがその起こりといわれている。
 本殿は権現造で、本殿内に納められている箱には宝暦六年(1756)三月の銘が記されている。また、当社には祭礼に用いられる二対の幟旗がある。一つは天保六年(1835)八月のもので町内の川島で私塾を開いていた尾花善貞、もう一対は、慶応四年(1868)正月のもので、爪田ヶ谷村(現白岡町)の医師富沢永惇の筆になるものである。
 境内には、天神社、稲荷社が祀られ、また江戸時代の宝永四年(1707)から安政二年(1855)までの四基の庚申塔や力石などがある。
 なお、この神社の近くにある青蓮院は、本尊十一面観音像を祀る寺院で、明治時代から大正時代まで百間小学校の校舎の一部として使われていた。明治四三年六月には「若宮分校舎修繕記念句集」の俳額が奉納されている』
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 庚申塔と青面金剛。
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 拝殿。
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 稲荷社。
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 天神社。
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