小出神社(吉岡町陣場)

IMGS4857s_201608171054211f9.jpg
 陣場公会堂の南側に鎮座する小出神社(北群馬郡吉岡町陣場137)。

『小出神社
 陣場を通過する県道の中程、東側に「邨社小出神社入口」と刻まれた石柱が建てられてある。ここにあった四メートルに余る石灯篭は、数年前、境内巽の隅に移された。この石柱から約五〇メートル東進した所が、陣場の花火で知られた小出神社の境内である。天孫降臨に先だって武甕槌命と共に、中ツ国を平定した経津主命を祭神とし、武運の神としてあがめられてきた。
 人皇五十代桓武天皇延暦十八年(七九九)、皇子葛原親王御東征のみぎり、この地に御所を置き、陣所を建て、武運長久祈願の為、勧請されたといい伝えられている。祭典は春秋二回行われ、四月十五日の春祭りに奉納される太々神楽は、里神楽といわれた。
(中略)
 社務所から、小出神社西側に行った所に、道俟神と天王様を祭る。道俟神は、安政二歳次(一八五五)乙卯三月の建立で、陣場出身の石関黒山の書である。陣場の人たちは、これを六三除けの神として、線香を供えて祈願している。天王様は、七月十四日、十六日を農休み、中の十五日を祇園祭りとて祝っている。十四日の宵祭りに、氏子総出で境内掃除、紙花つくり、百八灯の張り替えをし、各家庭では、表道に面した所に灯篭を掲げ、あたりが一面明るくなる思いで、ゆかた着の老若男女が、三々五々参詣し、夜がふけるまで太鼓の音が響きわたり、お祭りの心をじっくりと味わうのであった。
 その奥に金比羅大権現を祭る。「安永六(一七七七)丁酉正月吉日建立」とあり、水難除けの神である。真中にしがみ石を台座としたのが天神宮で、建立は子供中である。後方に猿田彦大神が二基祭られ、飯島勘右衛門、同太兵衛の名が見える。
 奥の院の真後に、かしの御神木があり、年をとっていたので樹心は朽ちて、うろになり外皮だけでいたころ、この木に祈り釘が打ち込まれたことがある。今は、根っこだけ残されている。ここに奉安されてある神額は、大明神を刻まれているので、石鳥居中央の額であろう。このすぐ側の石宮は、屋根のひさしに宝珠の玉の図柄があり、中に白狐があるから稲荷様であろう。
 東側の雷神宮は安政三年歳次(一八五六)丙辰五月閏の建立で、落雷除けの願がこめられている。秋葉様は、安永二年(一七七三)癸巳五月、火伏せの神として祭ったものである。十二月十八日には、例祭を行ない、村内の安全を祈るのである。稚蚕霊神は、明治二十一年(一八八八)四月の建立で、四月十五日に祭りがある』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 こちらの神社は明治六年の神社調査の際、本来村社の資格を有するところを誤って無格社として届けられてしまったが大正十三年九月二十三日に社格の変更願を出し、昭和二年七月四日、内務大臣鈴木喜三郎の承認を得て無事村社として認められたと「吉岡村誌」に記されている。その際の願書や調書、意見書なども記載されているが、長いのでパス。
IMGS4870s_20160817091346c33.jpg
 鳥居の右の柱には「正徳三年癸巳仲冬建之」、左の柱には「天保十三壬寅季春繕焉」と刻まれている。1713年の冬に建立され、1842年の春に修繕されたということか。
IMGS4862s_20160817091346e5b.jpg
 拝殿。
IMGS4866s.jpg IMGS4864s_20160817091344b4e.jpg
 狛犬。
 台座には「昇格記念 昭和三年十月 氏子中」と刻まれている。村社昇格を記念して奉納されたもののようだ。
IMGS4879s_20160817100919434.jpg
 稚産霊神の石碑。
 この碑はぐんま絹遺産の第23-56号として登録されている。後ろに見える案内板には以下の文が記されている。
『陣場桑
 蠶養育手鑑の著者・馬場三太夫重久翁が栽培していた桑に、進取の精神に富んだ此の地の人達が改良を重ね、葉が柔らかく、稚蚕の給桑として理想的な陣場桑を完成させ、自用のほか、県から販売許可を受け明治から大正にかけて、近郷からの注文により毎年何万本も出荷していたという』
IMGS4884s_20160817100918052.jpg
 雷神宮と秋葉大権現。
IMGS4889s_20160817100918aa8.jpg
 本殿裏の石祠と神額。「吉岡村誌」によれば稲荷社と推測されている。
IMGS4892s.jpg
 猿田彦大神。
IMGS4898s_20160817100917566.jpg
 金比羅大権現と天神宮。
IMGS4902s.jpg
 天王宮と衜俟神。
 天王宮の側面には「天明八年戊申二月吉日」と刻まれているので1788年の造立。
IMGS4917s.jpg
 石関黒山の顕彰碑と水準点。
『石關黒山■士墓表
嗚呼是石關黒山■士之墓也處士以農家子自幼乃績學不
怠既長遊于江戸受業於太田錦城師之門又屢踵余質疑盖
将進求古人為己之學焉居數年河越候聞其名也辟為前橋
教授■士教人以孝友惇睦爲先藩之子弟久而化之駸駸馬
莫不嚮學勵行者矦嘉之賜以紋服人皆荣之而■士性譙虗
退託身亦善病懼教導之有缺大非矦家所以設學之意於是
一朝辭去頽然一室清約自甘而子弟之嚮慕之者猶昨云■
士諱光芳字子蘭又曰勝次郎石關其姓黒山其所自號也上
毛陣場里人父曰太郎八諱光一有二子長曰正暁次即處士
也■士以安政戊午二月十二日終于家享年五十九葬于里
中先塋之側配非爪氏先卒子男一女二皆夭葬之明月其門
人相與謀營建其碑以■士信余特䔍也具状来請墓上之文
余不可以辤遂掲其概略以表之
安政五秊歳次戊午冬十有一月
        江戸 海保元備撰并書 須藤永裕鐫』
 ■部分はユニコードではU2909Cの異体字。
 水準点には
『陣場の位置
 標高 197.5M
 北緯 36度25分50秒
 東経 139度0分12秒
  国土地理院調査
  平成24年11月調べ』
と書かれている。
IMGS4928s.jpg
『陣場の常夜塔
 陣場を南北に通る県道は、昔三国街道と呼称されていた。江戸時代となって城下町高崎が大きく発展すると共にこの道の交通量も次第に多くなり、重要な幹線交通路となった。
 陣場の常夜塔は県道に面し、神社入口となるところに文化五年十月(一八〇八)に建立された。神社の氏子達が通行人の利便のために建立したものである。越後方面の大名達の江戸への参勤交代の往来もあったし、人馬による旅人の通行も長い年月見続けてきたが、昭和三十年頃から急速に自動車交通時代となり、常夜塔が果たす役割も減少し、ついに神社境内に移転したのである。
 歴史的建造物としてのこの石灯籠は、静かな境内で自動車の排気ガス公害も受けず、人々の営む生活を見下ろしているのである。
 平成六年三月三十一日』
IMGS4935s_20160817105342af7.jpg IMGS4932s_20160817105409379.jpg
 三国街道に面して建てられた社号標石。その脇には里程標が建てられている。
『里程標
 高﨑市へ   三里二町
 前橋市へ   二里七町
 澁川町へ   二里
 朙和村役場へ 十八町
  大正七年十月 陣場青年會』
スポンサーサイト

三宮神社(吉岡町大久保)

IMGS4818s.jpg
 吉岡町の代表的な神社の一つである三宮神社(北群馬郡吉岡町大久保1)。
 鳥居の柱には「平成十八年三月吉日建立」と刻まれている。地図上ではこの鳥居の南西側すぐ傍に火防神社があり、ストリートビューでもそれを確認できるが、現在その建物は無くなっている。三宮神社境内に火防神社があるので、合祀され遷されたか、或いは新築準備中なのかも知れない。

『群馬縣管下上野國西群馬郡大久保村字宮 村社 三宮神社
祭神 日子穂々出見命、宇迦之御魂神、少毘古那命
   菅原道真公、豊玉毘賣命、須佐之男命
由緒 不詳
   明治四十一年三月二十六日許可、本社境内末社八坂社、及仝大字字十二無格社稲荷
  神社、並ニ字上町無格社菅原神社、仝境内末社一社及字下町無格社菅原神社、仝境内
  末社一社ヲ合併セリ
境内末社 四社
 猿田彦社  祭神 佐田彦大神
       由緒 不詳、明治十年五月本村字十二ヨリ移轉
 八坂社   祭神 須佐之男命
       由緒 不詳、同年同月同村字乙溝祭ヨリ移轉
          明治四十一年三月二十六日許可本社ヘ合併
 大山祇社  祭神 大山祇命
       由緒 不詳、同年同月同村字乙溝祭ヨリ移轉
 雷電社   祭神 大雷神
       由緒 不詳、同年同月同所ヨリ移轉』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
IMGS4834s_20160817081013c52.jpg
 二の鳥居。
IMGS4831s.jpg
『町指定重要文化財 三宮神社
 指定年月日 昭和63年2月22日
 所 在 地 吉岡町大字大久保字宮1番地の1
 当社は、天平勝宝2年(750)の勧請と伝えられ、また「神道集」(14世紀頃の天台系説話集)に「女体ハ里ヘ下給テ三宮渋河保ニ御座ス、本地ハ十一面也」とあり、伊香保神社の里宮とする説がある。
 総欅造り銅板葺の本殿は、嘉永元年(1848)の改築で明治以降その他の社殿も増改築された。
 御神体は一木彫りの十一面観音像で、像長90cm、右手は施無畏に作り、左手には宝瓶を持つ丸木彫りの地方的素朴なもので室町時代の作と推定されるが、江戸末期に塗り変えられて極彩色である。
 例祭には、獅子舞、太々神楽が奉納され、大祭には大久保の各町内から屋台(山車)が曳出されて賑う。
 昭和63年10月』
IMGS4751s.jpg
 拝殿。
IMGS4754s_201608170810105b4.jpg
 斜めから。
IMGS4776s_20160817082251057.jpg
 社殿西側から。
IMGS4801s_201608170823507ae.jpg IMGS4804s_20160817082350024.jpg
 狛犬。
 台座には「大正十年四月吉日」と刻まれている。
IMGS4839s.jpg
 神楽殿。
IMGS4790s_20160817083107020.jpg
『三宮神社由来記
吉岡村大字大久保字宮の地に鎮座する三宮神社は天平勝宝二年創祀の伝承をもつ古名社で彦火々出見命豊玉姫命少彦名命の三柱の神を奉斉している当社を三宮と称する所以は三柱の神を祭るためでなく上野国三之宮であったことによる九条家本延喜式神名帳には上野国三之宮は伊賀保大明神とあり当社はその里宮の中心であったと考えられる抑古代当地方の人々は榛名山を伊賀保山と称しその山頂を祖霊降臨の聖地と崇め麓に遥拝所をつくり里宮とした上野国神名帳には伊賀保神が五社記載されてありその中心の宮を正一位三宮伊賀保大明神と記している当地三宮神社は伊賀保神を祭る中心地であったため三宮の呼称が伝えられたのである近くに大古墳群の存在はそれを裏付ける当社を伊賀保神とする由縁はその祭神にもよるが本殿に安置される十一面観音像のあることがこれを証する南北朝時代の延文年中編と推定される神道集所収の上野国三宮伊賀保大明神の由来には伊賀保神は男体女体の二神あり男体は伊香保の湯を守護する薬師如来で女体は里に下り十一面観音になるとある当社は古来十一面観音像を御神体として奉安してきたのである慶應四年神仏分離令が発せられると全国各地で神社内の仏教関係遺品が破却された当地の先人は古来三宮神社の御神体として奉安してきた十一面観音像を秘仏として密かに遺し今日に伝えたのである昭和六十年秋の関越高速自動車道開通に伴い当社境内地の一部も道路編入の止むなきにいたりこの機会に氏子一同相計り社殿および境内の整備につとめ由緒ある当社の由来を後世に伝えんとし石碑に刻んだ次第である
   昭和六十一年九月吉祥日
      群馬県史編纂委員近藤義雄撰文
          三宮神社氏子一同建之』

『町指定重要無形文化財 溝祭三宮神社獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 天正年間(一五七三年頃)からあったと伝えられる獅子舞で、頭が毛獅子で作られているのが特色である。
 この獅子舞は稲荷流佐々良獅子と言い、毛獅子三頭で舞い、氏神三宮神社の祭典に奉納されてきたものである。又、日照り続きの時には雨乞い獅子として、船尾滝に登り雨乞い祈願をした事でも知られている。
 春秋の神社の祭には、笛の音で白足袋姿の前獅子・中獅子・後獅子が腰に太鼓を付けバチで打ちながらカンカチを交えて舞う。演目も「宮廻り」や「剣の舞」など十数種の舞がある。
 平成十七年三月』

『町指定重要無形文化財 三宮神社太々神楽三楽講
 指定日 平成二十三年十一月二十九日
 三宮神社は天平勝宝二(七五〇)年に創祀されたとの伝承を持つ古名社である。
 ここ三宮神社に伝わる太々神楽は、一時途絶えた期間もあったが、昭和二十二(一九四七)年に地元有志により復活された。それ以降永きにわたり継承される伝統芸能である。吉岡町に唯一伝承される貴重な神楽である。
 神楽の演目には、「戸開の舞」、「天浮橋の舞」など日本国の成り立ちに係わるものや、「蛭児の舞」、「天狐の舞」など農耕と深い関わりを持つ舞がある。その内容や舞う姿は、大変に見事で興味深いものである。
 神楽は、毎年四月の第一日曜日に開催される三宮神社春祭で、奉納されている。
 平成二十六年二月』
IMGS4771s.jpg
『竹内邦造翁壽碣銘
竹内邦造翁本姓小淵氏為同村小淵竹次郎第二子以萬延元年十二月十日生為竹内氏所養當是時竹内氏家道甚衰翁深慨之决挽回之志夙夜勤若勞役大勉先是天明中近郷下村有馬場重久者深究養蠶之術創火力飼育法有遺著翁讀其著述有所感以為興家益國莫之若更學一倉儀平薪火育法闔郷蠶家多效之淂益甚多且為収入得村會議員關係村治者數年令茲翁年六十門人反村民胥謀欲健寿碑以不朽翁名来乞余文余曰翁謙譲温厚而興家益國是可以傳也乃作之銘々曰
  駒寄之郷 踞郡中央 土肥家冨 桑麻茂良
  翁之勤勉 治産有常 及老汲々 家門益昌
 大正八年三月十二日  高橋諄信就撰并書』
IMGS4761s.jpg IMGS4765s_2016081708391719a.jpg
 火防神社と万葉歌碑。
 火防神社の中には神輿などが見えるので、元は神庫として使われていた所に火防神社を遷し祀っているのだろうか。

『万葉集のこの歌がうたわれた時代(一四〇〇年前)は、榛名の二ツ岳の噴火がくり返されて、榛名山は恐ろしい怒りの山で怒ツ穂(イカホ)と呼んで、神として恐れあがめ信仰の対象としていました。この里宮として三宮神社(イカホ神社)がおかれてました。この歌の伊香保風は榛名山からふき下す空つ風です。
 ここで行われた歌垣でうたわれた歌として祖先への敬愛の念をこめて石に刻みます。
 揮毫者の伊藤信吉氏は前橋市元総社町出身の詩人・評論家です』
IMGS4766s.jpg IMGS4787s.jpg
 末社群。
 四基並ぶ石祠の右端は大神宮。他は不明。「上野国神社明細帳」によれば末社は猿田彦社、八坂社、大山祇社、雷電社の四社の筈なのだが、うぅむ。本殿裏に猿田彦大神と刻まれた石塔があるから、こちらの石祠三基が残りのいずれかなのだろうか。

下八幡宮(吉岡町南下)

IMGS4676s_20160816185050c63.jpg
 下八幡公会堂の南隣に鎮座する下八幡宮(北群馬郡吉岡町南下847-3)。

『群馬縣管下上野國西群馬郡南下村字下八幡 村社 八幡宮
祭神 品陀和氣命
由緒 不詳
境内末社 二社
 神明宮  祭神 大日孁命
 秋葉社  祭神 火産霊命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『下八幡宮
場所 南下下八幡
祭神 応神天皇誉田別命、神功皇后
由緒 鎌倉時代、一二二五(嘉禄元)年足利義胤が桃井荘の地頭となるに及び、源氏の氏
  神である八幡宮をこの地に勧請したものと伝えられる。一説によると一六九六(元禄
  九)年九月十六日の創建とも伝えられ、一九一八(大正七)年九月十三日神饌幣帛料
  を供進する神社に指定された』
(「吉岡村誌」より抜粋)
IMGS4683s.jpg
 鳥居の柱には「正徳二年壬申十月吉日」と刻まれているので1712年の造立。
IMGS4692s_20160816185048d76.jpg
 拝殿。
IMGS4696s.jpg IMGS4699s.jpg
 狛犬。
 台座には「昭和五十一年九月吉日」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
IMGS4724s.jpg
 鞘殿。
IMGS4745s.jpg
 少し引いて。
IMGS4705s.jpg
 末社。
 左から猿田彦大神、不明、相満山大権現、不明。「上野国神社明細帳」には神明宮と秋葉社の二つがあると記されているので、この二つの石祠がいずれかなのだろう……と言いたいところだが、隣に設置された案内板には祭神不明と記されている。
IMGS4708s_201608161908093fd.jpg
『町指定重要文化財 下八幡宮の石祠
 指定日 平成十三年十月二十二日
 下八幡宮は、この地方の豪族桃井氏が南北朝時代に源氏の守り神として勧請したと思われる。本殿の西北裏に祀られるのがこの石祠で、祭神は不明である。
 石祠は高さ一〇二cm、棟幅八六cm、奥行九九cmで、棟の鬼面は向かって右が高さ一八cm、幅一〇cm、左が高さ一六cm、幅一二cmと鬼面の大きさでは県下屈指の作品と考えられる。
 銘に「寛永十弐乙亥十二月吉日」とあり、江戸時代前期の一六三五年の造立である。鬼面が風雨で荒れて能面の翁のような顔立ちである。
 平成十四年十月』
IMGS4718s.jpg IMGS4714s.jpg
 鬼面。
IMGS4732s_20160816192047ad7.jpg
 御嶽山大神・八海山大神・相満山大神。側面には「明治十六年歳在癸未十月良晨」と刻まれている。明治十六年は1883年。
 その左には「開闢普寛尊」。右には「三笠山刀利天 武尊山 意羅山 御山諸天神」。なぜか後ろに八幡宮の神額が落ちている。
IMGS4690s.jpg IMGS4687s.jpg
『町指定重要無形文化財 下八幡宮獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 下八幡の獅子舞の起源は、下八幡から野良犬(前橋市清野町)に獅子舞が伝えられたのが、慶長年間(一六〇〇年頃)と言われるので、室町時代まで遡ると思われる。又、獅子頭の塗り替えが安永六(一七七七)年に行われたとの記録もある。
 流派は、極めて少ない関白竜天流。頭は雄獅子が二本、雌獅子が一本の螺旋状の角を持つ。舞の列は、万燈持ち二名・山伏・棒使い二名・師匠・笛頭と並び、先獅子とカンカチ・雌獅子とオカメ・後獅子とヒョットコが続く。獅子の両側に十名程の笛を従える。
 演目は一番組・二番組・三番組に大別され、舞は十通りを越える。
 平成十七年三月』
IMGS4738s.jpg IMGS4742s_20160816185134fd7.jpg
 大けやき。

金剛寺(吉岡町南下)

IMGS4643s_201608161808025c2.jpg
 大藪八幡宮の西100m程に位置する金剛寺(北群馬郡吉岡町南下187)。
 金剛寺前の道は一部大きく波打っているので、車高の低い車は大藪八幡宮の行き帰りには車体の底を擦ないように注意。ごりっと言う音が聞こえて来るのは心臓に良くない。行きは大丈夫だったんだけどなー。
IMGS4648s.jpg
 石段の上り口に馬頭観音と地蔵尊。
IMGS4649s.jpg IMGS4634s_20160816180819517.jpg
 本堂。
IMGS4656s_20160816180939955.jpg IMGS4659s_20160816180910e0a.jpg
 宝篋印塔と如意輪観音、庚申塔、石祠。
IMGS4637s.jpg
『町指定史跡 金剛寺の宝篋印塔
 宝篋印陀羅尼経を納めた小塔を模して造られた石塔を宝篋印塔と言い、鎌倉期より供養塔として造立された。江戸期には墓塔として用いられることが多くなりその形は著しく変化した。
 宝篋印塔には関東型と関西型の二系統が有り、関東型は芝石の上に反花座を据え、その上に基礎、塔身、笠、相輪と順次積み重ねた形式である。
 吉岡町金剛寺の宝篋印塔は、関東型に属し反花座と相輪とが欠失している。基礎部の四面は共に輪郭を以て二つに区分し、上部は三重段形を成している。塔身部の四面は平面であって、円形中に「ア」「アー」「アン」アアク」の胎蔵界四佛の種字が陰刻されている。笠部は下方に二重の段形を有し、上部は四重の段形を成しているが第一段は隅飾突起に連結している。四段目上面の中央に掘られた穴は相輪一式下方の突起部を組み込み固定したものである。
 この宝篋印塔の基礎正面の「浄眼大禅定門應永十三年(一四〇八)十二月廿八日」等の刻字や、塔身部の正面刻字に付いては異論もあるが、欠損を免れた二つの隅飾突起を初め塔全体の形状が室町初期造立の形態を具えていて吉岡町石造物中屈指の逸品である。
 平成六年三月三十一日』

大藪八幡宮(吉岡町南下)

IMGS4672s_20160816164611f5d.jpg
 群馬県道25号高崎渋川線バイパス大藪交差点の北東300m程の位置に鎮座する大藪八幡宮(北群馬郡吉岡町南下)。

『群馬縣管下上野國西群馬郡南下村字大藪 村社 八幡神社
祭神 品陀和氣命
由緒 不詳
   昭和十八年五月十四日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 二社
 雷電社  祭神 大雷神
 久斯神社 祭神 久斯神』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
 久斯神社は旧疱瘡社であり、昭和十八年一月五日に許可を得て改称したようだ。

『上八幡宮
場所 南下城山、南中腹
祭神 応神天皇(誉田別命)、神功皇后
由緒 この神社は南下元八幡にあった。伝えによると一一八六(文治二)年三月源頼朝が
  六十六ヶ国の総追捕使となったとき、藤原八郎を桃井荘の地頭とし、八郎は桃井姓を
  名乗って南下元八幡の高台に住んだ。その後新田義重の子吉包が桃井氏の跡を襲い、
  桃井氏を名乗って元八幡に住み、その子孫尚義が源氏の氏神として祀ったものが、こ
  の神社のはじまりと伝えられる。明治元年元八幡から現在地に遷宮し、石祠を木造の
  神殿に造りかえた』
(「吉岡村誌」より抜粋)
IMGS4622s_20160816161630c25.jpg
 拝殿。
IMGS4670s_201608161658139f1.jpg
 斜めから。
IMGS4597s_2016081616173803b.jpg IMGS4595s.jpg
『町指定重要無形文化財 大藪獅子舞
 指定日 平成十五年五月二十二日
 大藪の獅子舞は、大永三(一五二三)年桃井播磨守が守刀とともに八幡神社に奉納したのが始まりといわれる。
 流派は、稲荷流佐々良獅子で、一人立ち三頭連れの舞である。頭は獅子でなく、枝角を二本つけた竜で、手甲・タツケ・白足袋・草履の衣装で、腰につけた太鼓を打ち鳴らして舞う。舞の振りは、「剣の舞」を始め三十通り、歌が二十一通り、通り笛が六通りあり、威勢のよさと、振りの多さは近隣にないものである。又、新井村や溝祭村の獅子舞も、大藪の人が教えたと言われている。
 平成十七年三月』
IMGS4603s_2016081616574207d.jpg IMGS4612s.jpg
 末社。左右は生洌大神と御嶽山。石祠三基は不明。
 生洌大神と言う名には聞き覚えが無いが、「吉岡村誌」によると、南下城山には鹿島大神、香取大神、生潤大神、堅牢地神、上八幡宮の計五社の旧無格社があるとのことで、生洌大神とはこの生潤大神のことだろうと思うのだが、詳細は記されていないのでよくわからない。
IMGS4619s.jpg
 末社。石祠二基と堅牢地大神。
 堅牢地大神は昭和十五年に紀元二千六百年記念として建立されたと「吉岡村誌」に記されているが、それ以外のことについては不明。
IMGS4626s.jpg
 左奥には金剛寺へ続く道が伸びている。

蚕神社(吉岡町北下)

IMGS4564s_20160816150146490.jpg
 北下北部公民館の北側に鎮座する蚕神社(北群馬郡吉岡町北下1071-2
『蚕神社の石碑 ぐんま絹遺産登録記念碑
 ぐんま絹遺産登録番号第23-55号
 平成二十四年二月六日
 蚕神社の石碑がぐんま絹遺産として登録された事を記念する
蚕神社のいわれ
 蚕神社という石神は馬場三太夫重久が生前屋敷内に板宮を建て蚕、蛾の老廃したのを集めて祭った名残であって現在の石碑の台石が当時の板宮の台石だといわれ、馬場一族ではこの蚕神社のお札を出して、参拝する養蚕家にわけていました。
 平成二十五年五月吉日』
IMGS4575s_201608161501454a4.jpg
 蚕神社と刻まれた石碑と石祠。
 石碑には「正徳二年壬辰十一月 三太夫重久建之」と刻まれている。正徳二年は1712年。馬場重久が「蚕養育手鑑」を出版したのもこの年である。
IMGS4576s.jpg
 石祠がいくつか並んでいるが、詳細は不明。
IMGS4582s.jpg
 三界万霊塔。
 葉に隠れて見え難いが、天明年間の造立。
IMGS4586s_20160816150143f16.jpg
 道祖神。
 右側の石仏は首から下が地中に埋まっているのか、或いは破損してそこしか残っていないのか。
IMGS4581s.jpg

諏訪神社(吉岡町北下)

IMGS4557s.jpg
 北下西南部住民センターの南に鎮座する諏訪神社(北群馬郡吉岡町北下505)。
『群馬縣管下上野國西群馬郡北下村字諏訪臺 村社 諏訪神社
祭神  建御名方神、品陀和氣命、櫛御氣野命
由緒  勧請年月不詳、末社ニ馬場社アリ、或云馬場美濃守ノ霊ヲ祭ルト、此説タゝ社名
   ニ因テ附會セルノミ、按スルニ上野國神名帳ニ従五位馬場明神ト見ヘタルハ此社ナ
   ランカ
    明治四十一年四月十三日許可、仝村字山下無格社八幡宮、及字千代開無格社熊野
   神社ヲ合併セリ
境内末社 六社
 八坂社  祭神 素盞嗚命
 稲荷社  祭神 倉稲魂命
 神明社  祭神 大日孁命
 秋葉社  祭神 火産霊命
 厳島社  祭神 市杵島姫命
 馬場社  祭神 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『祭神由緒書
諏訪台五〇五番地鎮座  村社 諏訪神社
一、祭神  建御名方命 品陀和氣命 櫛御気野命
一、由緒  建御名方命ハ父君大国主命、正妃ハ八坂刀売命、当国桃井城主房久 文禄
 慶長之頃勧請ト言ヒ伝フ。社殿創立ハ元亀天正之頃ト按ズ。元禄六年七月吉辰石鳥居
 建立。元文二年九月十一日京都神祇官領兼雄幣帛ヲ献ズ。天明六年冬十二月丙午良辰
 秋葉山勧請。天明七年丁未正月吉辰道祖神勧請文化五年戊辰正月吉辰高橋兵衛門清房
 金比羅宮勧請ス。文化六年六月吉辰厳島神社勧請総村中。文化六年己巳季夏良辰八坂
 神社建立総氏子中。稲荷神社勧請年月不詳。神明宮勧請年月不詳。馬場社元文五年七
 月吉祥日勧請。衣笠大神慶応三年卯四月吉日勧請ス。品陀和氣命ハ母ノ体中ニ有リテ
 朝鮮安定ス、国土平安息災延命ノ守神。櫛御気野命ハ素盞嗚命ナリ命ハ五穀豊盛之守
 神、弐社共明治天皇四十一年四月十弐日ニ当社ニ合併セリ。大正二年一月四日明治天
 皇勅令第九十六号ニ依リテ神饌幣帛料供進神社トシテ指定セラル』

『勧請年代は不詳なれども桃井城守播磨守直常従二位大納言四条隆俊を通じ京都神祇官より勧請すと伝ふ。其の始め当領主の祈願所たり。美濃守に至り再建す。城主は家中及び領内に命じ獅子舞を献ずるを例とせしが今なおこの例あり。境内に馬驫社あり当城主及び臣下の霊を祭りたりという。慶長九年社領除地となる。又当村は旗本六人の領地となり領主一人につき祭典料四百疋ずつ年々献ぜられ、次で北下村正一位諏訪大明神と称し奉る。天明元年神殿増築、明治六年北下村鎮守諏訪神社と改め十二年村社に列す。明治四十三年五月無格社同熊野神社、同八幡宮を合併し神殿を増築す。

 現在でも獅子舞用具一揃、破損こそすれ箱に収めて保有しているが笛を吹き舞を舞う人には制限があったのでこれを伝える者とて一人もない。境内社でも八坂社・衣笠神・稲荷社・道祖神のみがはっきりとわかるだけである。明治小学校南隣に鎮座する八幡宮もかつて諏訪神社に合祀され、大戦中北下から戦死者続出したことで一九四三(昭和一八)年戦争さ中、また元の地へ戻ったのであるが昔の八幡の森はことごとく変ぼうして石鳥居のみ堂々と立ち祠は暑い日の光を四方からあびている』
(「吉岡村誌」より抜粋)

 馬驫社と言うのが馬場社のことであるのなら、上野国神社明細帳では不詳とされる馬場社の御祭神は桃井城主とその臣下の霊となる。英霊殿のようなものだろうか。
 そして、明治小学校の南に八幡宮? そんなのあったかなと思いストリートビューで周辺を見てみたら……あった。あー、ここかぁ。次の蚕神社へ向かう際にこの前の道を通ってるのに、なぜ気付かなかったかなぁ○刀乙
 余談だが、「上野国神社明細帳」には北下東原に白山神社があると記されており、「吉岡村誌」には北下東原に八坂神社があると写真付きで記されている。どうやらこの八幡宮のある辺りが東原であるようなのだが、それらしいものは見当たらない。どこにあるのだろう?
IMGS4504s.jpg
 参道。
IMGS4517s_20160816130722436.jpg
 拝殿。
IMGS4545s_2016081613072283d.jpg IMGS4542s.jpg
 狛犬。
 台座には昭和五十一年九月吉日と刻まれたプレートが埋め込まれている。
IMGS4535s_20160816134507b57.jpg
 社殿北側から。
IMGS4519s_20160816134509344.jpg
 社殿北側の末社群。右奥は衣笠大明神。
IMGS4526s_20160816134508098.jpg
 社殿南側の末社群。
IMGS4510s.jpg
 道祖神。
 裏側には「天明七丁未春正月吉辰」と刻まれているので1787年の造立。
IMGS4551s_201608161345101d7.jpg
『顕彰碑
馬場三太夫重久翁顕彰碑       群馬縣知事竹腰俊蔵篆額
衆に先んじて事にあたり恩恵を千載に及ぼす業績を残すことは独り先覚の士のみがよくするところであるわれらが郷土の先輩馬場三太夫重久翁こそは実に時代の先覚者として輝かしい事績を残した人というべきである翁は甲陽の智将馬場美濃守信房の子孫で医を業としたが常に農民の福祉を念とし若年の頃より蚕の飼育について実験研究を重ねること三十余年ついに合理的な飼育方法を会得して蚕養育手鑑を著わし正徳二年江戸の書肆より出版して広く同志に頒布した時に翁は五十才であったこれは養蚕書中の古典としてわが國第二のものであり養蚕技術の進歩向上に役立ちしところ多く昭和九年今上陛下本縣に行幸のみぎりには天覧を賜わるの光栄に浴した翁はまた農事の改良に心を致し当時早くも後世の稲作品評会の方式をもつて稲穂の優劣等級づけを行いあるいは手鍬に改良を加え世にいう馬場鍬を考案して耕作に便ならしめるなどこの道の発展に寄与するところ多く享保二十年七十三才を以て世を去るまで郷党を措導して倦むことがなかったこれらの故を以て北下山下地先にある翁のささやかな墓碑は昭和二十七年吉岡村唯一の史跡として群馬縣の文化財保護顕彰規定にもとずく指定をうけたたまたま翁の偉業を景仰する北下地区民こぞって翁の顕彰会を結成し広く同志の賛同を得てここに顕彰の碑を建立しその功績を万世に傳えんとするに際し請われて建碑の由来を撰する次第である
 昭和三十三年文化の日          群馬縣蚕業試験場長日高八十七撰
                              森田精一書』
 ちなみに馬場重久の墓は、諏訪神社から東南へ350m程離れた水路縁にある。

久那度神(吉岡町北下)

IMGS4487s.jpg
 群馬県道25号高崎渋川線バイパス千代開交差点傍に鎮座する久那度神と衣笠大神、庚申塔(北群馬郡吉岡町北下)。
 左から衣笠大神、久那度神、庚申塔群だが、鎮座している場所を考えると境の神である久那度神が主なのかな。
カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード