柏木神社(神谷三丁目)

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 赤羽稲荷大神から450m程南西に鎮座する柏木神社(北区神谷3-55-5)。
 鳥居の柱には「平成十六年十月吉日建之」と刻まれている。
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 拝殿。
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柏木神社の由緒
 柏木神社は、元亨年間(西暦一三二一年)に神谷三丁目の新川に面した地に、伊邪那美命(女神)を御祭神とする神谷町の総鎮守神の社殿として建立された。
 安産の神様として崇められると共に、新川を上り下りする舟の水路の安全を祈る「交通安全」の神様としても有名であった。
 その昔は社域は広大で、神楽殿もあり、多くの樹木の聳える荘厳な森に囲まれていたが大東亜戦争が激化するに伴い、境内は軍需工場に接収され、昭和十八年十二月現在地に遷宮された。
 昭和五十四年八月神谷町内外の氏子有志の奉賛により、現在の社殿が建立され、今日に至っている。
  昭和五十六年九月 吉日

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 狛犬。
 台座には「嘉永四辛亥年九月」と刻まれている。嘉永四年は1851年。
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 狛犬二号。
 あれ、こっち何年だったっけ。撮っておくの忘れた。
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 石祠と石額、石塔。
 石祠はうっすらと氷川らしき文字が見えるので氷川神社なのかも。石塔は表面が摩滅していてさっぱりわからない。
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 稲荷社。
 鳥居の柱には「明治百年祭記念」と刻まれている。明治百年と言うことは昭和四十三年(1968)か。
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 石祠の表面に「稲荷大神」、側面には「享保三戊戌十二月十七日 右志者村中施主」「奉供養庚申講中 武州神谷村■ 所願成就」と刻まれている。享保三年は1718年。
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 出羽三山塔。
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 南の鳥居。
 柱には「平成十六年十月吉日建之」と刻まれている。
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赤羽稲荷大神(神谷三丁目)

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 イオン赤羽北本通り店の南西端に鎮座する赤羽稲荷大神(北区神谷3-12-1)。
 水盤には「昭和五十七年十二月」と刻まれていたが、案内板等は設置されていないため詳細は不明。
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子育地蔵尊(志茂四丁目)

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 庚申堂から190m程南下するとヘアーサロン・チカダの脇に子育地蔵尊(北区志茂4-43-2)がある。
 志茂熊野神社の境内社である阿夫利神社は元は橋戸の子育地蔵裏手に祀られていたと阿夫利神社の案内板に記されているので、古くはこの辺りにあったのだろう。
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橋戸の子育地蔵尊
 志茂四‐四三地先
 御堂には四体の石像が安置されており、「子育地蔵尊」は、向かって右から二番目の石像をさす場合と、この四体全体をさす場合とがあります。
(向かって右側から)
  地蔵菩薩石像 元文三年(一七三八)に地元の人々が造立したものです。
  地蔵菩薩石像 元禄十三年(一七〇〇)に地元の人々が庚申塔として造立したもの
        です。
  大霊権現石像 元禄十四年(一七〇一)に修行者が庚申塔として造立したものです。
  地蔵菩薩石像 銘はありません。

 現在、地蔵尊を安置している西蓮寺境外仏堂は志茂銀座商店会が管理しています。志茂銀座商店会の道は中世から続く往還です。現在の志茂は、江戸時代には下村と呼ばれていましたが、これは岩渕本宿の川下の村の意味といわれています。現在の志茂の文字は小字志茂の文字をとったものです。
 それぞれの石像が造立された経緯は不明ですが、下村の人々が村の安全を願って地蔵尊を造立し、いつの頃からか、母親を中心に子育地蔵と呼ばれるようになったものと思われます。御堂の前でお婆さんたちが集まり念仏を行うこともありました。現在は、十月二十四日を縁日として供養が行われています。子育地蔵尊は、地域の人々に守られ、今日に伝えられています。
  平成二十五年三月

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 案内板によれば左から地蔵菩薩、大霊権現、地蔵菩薩、地蔵菩薩であるが、大霊権現とは不動明王のことなのだろうか。その足元には三猿も見える。
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庚申堂(志茂四丁目)

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 志茂熊野神社入口から180m程南下した所に位置する庚申堂(北区志茂4-30)。
 90m程東に真言宗智山派帰命山西蓮寺があり、西蓮寺には熊野神社の御神体であった熊野三社権現像が安置されているそうなのだが、そちらには行っていない。
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熊野神社(志茂四丁目)

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 隅田川の南岸に鎮座する熊野神社(北区志茂4-19-1)。
 撮影をしている間にも次から次へとお詣りに来る人達がおり、地元の人々の信仰の篤さが感じられた。
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 境内に入ると参道右手側に白酒祭の案内板が設置されている。
東京都北区指定無形民俗文化財 熊野神社の白酒祭(オビシャ行事)
 北区志茂四‐一九‐一 熊野神社境内
 熊野神社は、鎌倉時代末期の正和元年(一三一二)八月、下村の西蓮寺住僧であった淳慶が紀州の熊野三社権現の分霊を招き迎えて創建したと伝えられています。以来、同社は今日まで村の鎮守として志茂地区の神事・祭礼の中心をなしてきました。境内には、享和四年(一八〇四)正月建立の石鳥居、欄干の擬宝珠に文政五年(一八二二)の年紀がみられる阿夫利社や嘉永二年(一八四九)三月建立の冨士講村上派の供養塔などがあります。
 毎年二月七日に同社では白酒祭と呼ばれる行事が行われます。この行事は元来正月七日の年占いの神事である歩射(オビシャ)の後に饗宴として催されていたものです。祭では墨で丸く描いた円の中に鬼という字を書いて拵えた的を用意し、これを総代ら射手が弓矢で射抜きます。かつては歩射に使用した矢は魔除けになるといわれ、籤に当たった者が持ち帰れました。歩射が終了すると、主催者が参拝者に白酒(今は甘酒)と切餅を振舞います。この祭の名前の由来ともなった白酒は、元々は祭にあわせてズシと呼ばれる村落内組織が持ち回りで荒川の水を汲んで仕込んだと伝えられています。
 関東では千葉県・埼玉県の川沿いに多く見られるオビシャ行事ですが、都内で伝承されている事例はきわめて少なく、志茂地区の風俗習慣を理解する上で大変貴重な文化財です。
  平成十五年一月

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 鳥居の柱には「享和四甲子年正月吉祥日」と刻まれているので1804年の造立。
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 参道左手側には御神木である梛の木。
神木梛の木
 梛の木は遠く中国の海南島や台湾等に自生するが太古黒潮ラインに乗り本邦南紀四国九州等の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です 梛の木は、伊豆半島が北限であると伝えられ当神社の梛の故郷伊豆山神社には「此の木他国に稀なり」記して有り東京の北辺当神社で育つとは と感激して居ります(地球温暖化の為か)

 梛の木は古代より神社の境内に植えられて居り 奈良の春日神社には 平安朝九〇〇年頃の巨木有り 伊豆山神社には今を去る一千四〇〇年余年の昔 山岳信仰の道開きとも仰がれる役の行者(小角)が
   神木梛の樹上に大神の御影を拝してなぎの葉は
   千代に三千代を重ねつつ夫婦妹背の道はかはらず
と歌われた誌が有ります

 鎌倉の尼将軍と名をはせた北條政子が若き日に 伊豆山に配流されていた源頼朝と梛の木の下で愛を誓って結ばれたロマンが良縁結ばれる縁結びの神木とされています
 後に一一九二年 源頼朝 鎌倉に幕府を開く

 他にも梛の木の文献が数多く有りますが 当熊野神社の本宮紀州熊野那智の大社周辺にも梛の木有り新宮の熊野速玉大社には平重盛が植えたといわれる樹齢一〇〇〇年の梛の巨木有り
 千古の昔より信仰厚く 当神社にも「縁結び」の神々が坐します
 梛の木との関わり深く 神木として大切に生育したいと思います
 平成十三年十一月

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 参道。
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 拝殿。
 左側に梛野原稲荷神社、右側に阿夫利神社が並んでいる。
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 狛犬。
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 獅子山。
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狛犬修復石碑
 狛犬の瑕疵が著しい現状のなかで氏子総代会では神社の守護神でもある狛犬の修復を図るべくとの越えもあり二〇〇〇年行事の一環として実施しました
 参拝の際、狛犬にふれることにより私達も守護して下さるとの言い伝えもありその御加護を承りたいと存じます
  平成十一年九月吉日
       熊野神社  宮司 朝日辰夫

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 梛野原稲荷神社。
 額には「奉納 梛野稲荷大神 昭和九年一月一日 富田梅吉」と記されている。
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熊野神社
  御祭神 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
      伊邪那美神(いざなみのかみ)
      事解之男神(ことさかのおのかみ)
  御神徳 氏子繁栄 学業成就 災難除
      家運隆盛 交通安全 厄除開運
由緒
 当社の創建については明らかではありませんが、別当寺である西蓮寺の鐘銘に「正和壬子年八月先師淳慶阿闍梨従紀州奉勧請熊野三社権現為当郷鎮守」とした旨が彫られています。当時の西蓮寺住職淳慶阿闍梨(じゅんけいあじゃり)が紀州(和歌山県及び三重県の一部)より熊野三社権現を勧請して正和元年(一三一二年)八月に下村(現在の志茂)の鎮守としたと記されています。
 毎年二月七日には全国でも珍しい白酒祭りが行われます。なお、現在の社殿は明治百年記念事業として、昭和四十三年に改築竣工したものです。

末社
 阿夫利神社  御祭神 大山津見神 (おおやまつみのかみ)
 浅間神社   御祭神 木花之佐久夜毘賣神 (このはなのさくやびめのかみ)
 大六天神社  御祭神 於母陀流神 (おもだるのかみ)
 十二社神社  御祭神 速玉之男神 (はやたまのおのかみ)

 御社殿右の末社には、四社が祀られています。この社殿は旧熊野神社の御本殿です。これら四社は「講」として、村人が本来御本社に参詣するところ、当時の交通手段では多くの方が出向く事は容易ではなく、有志の方が御本社より勧請し鎮守と一体にして氏子の信仰を仰いで今日まできています。
 なかでも阿夫利神社祭(五月七日)は五色の紙で御幣を切る事数十本これを奉納し、式典後参拝の方に家内安全 繁栄を願い差し上げて居ります。

梛野原稲荷神社(なぎのはら)
  御祭神 宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)
  御神徳 五穀豊穣 災難除 商売繁盛
 荒川放水路は明治・大正時代まで、東京都・埼玉県一帯が大雨により度々洪水に見舞われ、住民は毎年悲惨な思いをして来た過程で建設されました。
 梛木野原とは荒川の対岸にあって、下村の飛地として放水路の出来るまで水田、畑として作物を生産していました。その地に当社は当時まで鎮座し、五穀豊穣と家内繁栄を願い村人の信仰を仰いでいましたが、放水路の建設により現在の地に移築されました。

志茂 水神宮
 御祭神  水波の売神 (みずはのめのかみ)
 御神徳  水の恵み 水難予防 五穀豊穣
 穀物の豊作と洪水災害除け、農村の水の恵みを祈願されてきています。当社は後世まで水の有難さを求め、現在数少ない水神祭を引き継ぎ行っています。

御祭儀
 熊野神社
   例大祭   九月第一土曜日、日曜日
   元旦祭   一月一日
   白酒祭   二月七日
   祈年祭   二月二十一日
   大祓    六月二十九日
   七五三祭  十一月 日曜日(特定日及び祝日)
   新嘗祭   十一月二十九日
   かまじめ  十二月二十二日及び二十三日
   大祓    十二月二十六日
   お焚き上げ 十二月二十七日~三十一日
  阿夫利神社祭  五月五日
  梛野原稲荷神社 六月十三日
  水神宮祭    六月二十五日

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 水神宮。
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 阿夫利神社。
 手前には大正九年(1920)十月造立の大山阿夫利神社と嘉永二己酉年(1849)三月吉日造立の仙元大菩薩畫行霊社。
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北区台帳登録文化財(有形文化財 建築物) 阿夫利神社社殿(熊野神社旧本殿)
  建築年代 文政五年(一八二二)
  北区志茂四‐十九‐一 熊野神社境内
 今では阿夫利神社として多くの人が参拝に訪れるこの社殿は、元は熊野神社の本殿として使われていたものです。熊野神社は、正和元年(一三一二)に和歌山の熊野からこの地に熊野三社権現を勧請したことが創建と伝わっています。昭和四十三年(一九六八)に熊野神社の社殿が建て替えられる際に、本殿の社をここに移したもので、現在、この社殿には阿夫利神社の他、浅間神社・大六天神社・十二社神社が併せて祀られています。
 社殿の建築材には年輪の詰んだ良質の檜と欅とが用いられ、蟇股や木鼻など、部材の各所の彫刻には江戸時代後期の様式の特徴もみられます。高欄の擬宝珠金物に「文政五年壬午歳五月」の印刻も確認できることから、成熟した規矩術に則って建立された近世社寺建築であることがわかります。
 阿夫利神社の由来は定かではありませんが、元は橋戸の子育地蔵の裏手(現志茂三・四丁目の境)に祀られていたものが、昭和に入り熊野神社境内に移されたものです。かつてこの辺りでは、毎年五月七日に旧下村の若い衆が集まって万垢離あるいは祈祷垢離などとよばれる行事を執行していました。数百本もの御幣を挿した竹柱(ボンデンまたはボンゼンと呼ばれました)を作り、これを担いで「阿夫利権現六根清浄」と唱えながら荒川で水垢離した後、村内を練り歩き、氏子に挿してある御幣を配りました。
 平成二十四年三月

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社殿改築記念碑
 熊野神社旧社殿の創建については、詳かでないが、参道鳥居の建設が享和四年(百六十余年前)と記されてあることから、社殿の建設は、それ以前と推定されます。
 尓来、一部の改修は施されたでしょうが、最近その老朽甚だしく祭典執行にも不便を感じ、これが改築の声高まってまいりました。
 よって、志茂町各町会長及び総代会に於て再三具体案を作製しましたが、資材其の他の高騰により、施工困難との意見多く遺憾ながら見送りの已むなきに至りました。
 然し、年を経るに從い、社殿の荒廃見るに忍びず、昨年改築の議再燃し、相談の結果、此の際、社有地を売却し、それに有志の奉納金を併せて改築することに決定いたし、昭和四十二年三月一日、改築奉賛会を結成し、各町会より委員を選出、各業務を分担して準備を進め、設計は佐藤文二氏に委嘱、建築は入札の結果磯前建業株式会社と決定、本年一月二十九日厳かに地鎮祭を執行、二月起工、六月二日上棟式を挙げ九月二十八日所期の目的を達成竣工式を挙行いたしました。
 これ一重に関係者一同協力一致の賜と心から感謝に堪えません。
 茲に、事業遂行の大略を記し、氏子各位と喜びを倶にし、地域発展のため、神霊の加護のもと弥栄を祈る次第であります。
   昭和四十三年九月二十八日
     熊野神社宮司       朝日辰夫
     熊野神社社殿改築奉賛会長 大柴菊一

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八雲神社(岩淵町)

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 隅田川の南岸に鎮座する八雲神社(北区岩淵町22-21)。
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八雲神社
 岩淵町二二‐二一
 八雲神社は、岩槻街道の東裏、荒川堤防の南側近くに鎮座します。この神社は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした。祭神には須佐之男尊が祀られています。創建年代は不詳ですが、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「牛頭天王社 宿ノ鎮守トス、正光寺持、」とあり、これが「テンノウサマ」として親しまれていたことがわかります。また、神仏分離以前には正光寺が別当寺でした。明治六年七月に村社に定められ、それ以来、赤羽八幡神社の兼務社となっています。
 境内には、本殿、幣殿・拝殿、神楽殿、末社水神社が配置されています。水神社は舟運業者の信仰を集めた神社です。祠の右側には「寛政十二庚申正月吉日」の年紀が刻まれています。また、勝海舟が荒川で足止めされたときに書いたとされる大幟旗も所蔵します。
 現在、本祭は、末社水神社の祭礼とともに隔年ごとの六月第一土曜・日曜に行われています。このとき、氏子たちによって神輿が巡幸されます。
 参道の端に「岩淵町 町名存続之碑」があります。昭和三十七年五月に「住居表示に関する法律」が公布されると、北区も住居表示の変更を進めました。由緒ある岩淵町の名を守るため、岩淵町一丁目の住民は町名存続運動を展開しました。この石碑は、そのときの記憶を未来へと刻むものです。
 平成十九年十月

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 二の鳥居。
 柱には「大正十四年六月」と刻まれている。
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 狛犬。
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 狛犬の台座に刻まれた銘文。
明治三十三年岩淵本宿有力者相謀設靑年會■來閲年方二十■■也由是大正■年十一月七日開祝賀會而衆相議造獅子石像献鎮守八雲神社以爲紀念■■而記奉献由来■■
 大正十年十月二十一日
  岩渕本宿 紀念會

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 拝殿。
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 大幟修復記念碑。
勝海舟安房守の筆になる八雲神社大幟の修復について
 明治憲法は明治二十二年二月に発布され、ほぼ時を同うして町村制が施行された。
 ここに始めてわが国に民主的な政治と行政の制度が芽ばえたのであった。
 そこで旧岩渕本宿の先人は、この大典発布によって封建制度から開放されたことを祝福し、これを記念して守護神である八雲神社に大幟を奉献したものであろう。
 しかし、この大幟奉献の計画が岩渕本宿の先人誰れびとによって発起されたかは証明する資料もないので今日に至っても定かではない。
 思うにその時代にしては日本一とも思はれるジャンボウサイズの幟を奉献した事実は、われわれの先人たちはよほど気宇の大きい、かつ、経済的にも豊かな環境にあった人びとだったと推察せきる。またそれよりむしろこの人だちの協和の精神がいかに旺んであったかが創造できてまことにほほえましい限りでもある。
 さて、どうして勝安房守に筆をとらせたかと言うことであるが、その真実はどう研究してもはっきりしない。おそらく幕臣に身をおきながら明治革命に心血をそそぎ、しかも江戸城あけわたしの西郷との交渉で江戸八百余町の住民を戦災から救った俊傑として先人の脳裡に深くきざみこまれていたためだったと考えられる。
 ただ僅かに、先代からの「言い伝え」として残ってゐるのは、当時の海舟の居所赤坂にたずねて、岩渕の者だが是非にと頼んだこと、海舟が一つ返事で引受けてくれたこと、先人が墨をすりに通ったこと、海舟がミゴボウキを握って立ちはだかって書かれたこと、そして愈々書きあがってののち先人が御禮のしるしとして鯉魚を持参したこと、玄関に立ってゐた海舟がどこでとれた鯉魚かと問はれたこと、先人が地元の荒川でとれたと答えたこと、海舟は急に不気嫌にになって奥へ消えてしまったこと等々である。
 考えてみると海舟は維新前後、江戸や京阪を際々往復していたのでそのころ懇意にしてゐた東海道の岩渕の人たちと錯覚していたのではなかったろうか──と先人はこのことを後日の物語りとして伝えている。
 ことの由来はともかくとして勝海舟の真筆になる大幟は世にまれな貴重な文化財ともいうべきであろう。
 我々氏子はここにこの大幟を八雲神社に奉献した先人の遺志を学び、これを後世に残すことは将来児孫のためにも大きな意義があることだと信じている。
 以上の趣旨で大幟の修復を発起してまづ氏子中に勝海舟遺墨保存委員会を組織した。そして文部省文化庁の指導のもとに、氏子総代や氏子多数の方々の熱烈な奉仕によってここに修復が完了したわけである。
  昭和四十九年十二月

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 末社殿。
 市杵島神社、御嶽神社、稲荷神社、大六天神社、白山神社の五社が祀られている。
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 水神社。
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大國神社(岩淵町)

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 岩淵かっぱひろばより少し西側の道を北へ入って行くと突き当たりに大國神社(北区岩淵町25)。
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 大國神社の37m程南にも小祠がある。社名を記したものが見当たらないが、おそらく稲荷社(北区岩淵町25-3)。
 左の写真の奥に見えるのが大國神社。

 Google Mapにはこの小祠と大國神社の中間辺りに稲荷神社の表示がされているが、そんなものは無い。たぶんこの祠がずれて表示されているのではないかと言う気がするが、しかし表示される写真は周囲を含めてこの祠とはまるで違う。

辻稲荷大明神(岩淵町)

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 赤羽岩淵駅から岩渕橋へと抜ける道の途中に鎮座する辻稲荷大明神(北区岩淵町16)。
 門が閉じている為、境内には入れない。
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 社号標石。
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 靖国鳥居。
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穀蔵稲荷神社(赤羽北一丁目)

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 赤羽北児童遊園の南側に鎮座する穀蔵稲荷神社(北区赤羽北1-6-2)。
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郷蔵跡と稲荷社
 赤羽北一‐六 稲荷社地内
 江戸時代、ここには袋村の郷蔵がありました。郷蔵は年貢米の保管や凶作に備えて穀物を保管しておくための倉庫です。
 嘉永三年(一八五〇)八月の村絵図によれば、敷地内には蔵と建物の背後に杉の立木が描かれています。この絵図に関する古文書によれば、これは火事を防ぐための火除の立木であると書かれています。また、このときの村明細帳によれば、郷蔵は「籾稗貯穀囲蔵」と呼ばれ、籾八斗三升一合と稗三十六石八斗五升が貯えられ、このほかに稗四十四石の積立計画が領主の命によって実施されていました。これによって、ここは年貢米の保管というよりは、どちらかというと災害や飢饉の際に、村の人々が飢餓から自分達を守る備荒貯穀を目的とした郷蔵だったことがわかります。
 現在、ここには大正七年(一九一八)三月に建立された石造の鳥居と一対の狐像があり、「ゴクライナリ」とよばれる稲荷社の社地となっています。「ゴクライナリ」という名称は、郷蔵の「ゴウ」の「ウ」が詰まって発音されたり、あるいは、「御蔵」ともいう郷蔵の「御」を「オ」といわずに「ゴ」と言った結果とも考えられます。稲荷社は「守倉」稲荷と称されていた時期もあり、また、現在は、「穀蔵」稲荷と称されていますが、これらも「ゴクラ」と読まれており、かつては、ここが郷蔵であったことを示唆しています。
 平成七年三月
 穀蔵はコクゾウではなくゴクラと読むのか。てっきり虚空蔵菩薩も祀られていたのかと思っていたのだがまるで関係無かった。
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 お狐さま。
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 石像物群。
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小袋庚申堂の石造物群
 北区赤羽北一‐六 稲荷社地内
 この地域は、袋村と称され、村内は「大袋」と「小袋」の辻子と呼ばれる二つの地域からなっていました。ここは、小袋という辻子だったので、庚申堂も小袋庚申堂と呼ばれるようになりました。庚申堂には、稲荷社の社殿より遠いほうから順に、次のような石造物が安置されています。

  弘法大師供養塔
  阿弥陀三尊種子庚申待供養塔  元禄十五年十一月(一七〇三)
  阿弥陀三尊種子千日念仏供養塔 寛文八年二月(一六六八)
  庚申待供養青面金剛立像    宝永元年九月(一七〇四)

 ここには、庚申信仰についての石造物が二基あります。これらは、人の体のなかに住む三尸という虫が、干支でいう庚申の日の夜に、体内からぬけ出して天帝に悪事を告げ、人の命を縮めてしまうというので、虫が体内から出ないようにと一か所に集まって夜を徹して供養を行った記念に、袋村庚申講中の人々によって建てられたものです。
 弘法大師の供養塔は、真言宗を開いた空海の遠忌を記念して建てられましたが、一部が破損していて造立年代や造立者は詳らかではありません。
 千日念仏の供養塔は、時間や回数をきめて千日間、南無阿弥陀仏という名号を唱えれば浄土に往生できるという信仰儀礼の記念に建立された塔です。袋村を中心とする十六か村の名主や結衆によって建立されていますが、このような複数の村の人々によって建てられた供養塔はあまり例がなく、貴重な文化財といえます。
 これらは昔、現在の赤羽北児童遊園入口付近の路傍にありましたが、昭和三十年代の前半、現在地に移されました。
 平成七年三月

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稲荷の坂
 この坂道は、赤羽北一‐三・四地先から赤羽台四丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂ともよばれるようになりました。

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武州御嶽神社(上十条五丁目)

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 環七通り上十条第2歩道橋脇に鎮座する武州御嶽神社(北区上十条5-8-3)。
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 狛犬。
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 祠の中には大口真神の御符が納められているのが見えた。
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『記念碑
御嶽神社ハ今ヨリ二百餘年前現東京府西多摩郡三田村ニ 大名持神 少彦名神 ヲ奉祀シタル御嶽神社ノ分祠ニシテ武藏國内ノ農民ハ家内安全五穀豐穣ノ守護神トシテ崇拜ス殊ニ當地ノ農民ハ崇敬ノ念篤ク分社當時ヨリノ講社ヲ經續シ毎年代參ヲシテ參詣シツゝアリ古來ノ社祠ハ現王子第三國民學校ノ門前ニ在リ偶々東京府第七號環状線新設ニ當リ移祠ノ止ムナキニ至レリ是ニ於テ各町關係者協議ノ上換地下附申請ニ努メ新ニ該敷地下附及ビ社殿竝ニ樹木補償料交付トナレリ依テ古昔遷宮當初ヨリ深キ信仰關係アル地元傳來ノ舊西町住人二十四名ハ工事完成ノ爲ノ建築費ノ一部ヲ奉納シ且ツ設計及ビ工事一切ノ責ニ當リ百八十餘人ノ勤勞ヲ奉仕シ以テ竣工ヲ告ゲ昭和十六年七月三日遷宮式ヲ擧行シタルモノナリ茲ニ移祠新築完成ヲ記念シ其ノ由來ノ梗概ヲ石ニ刻シ之ヲ後昆ニ遺ス
 昭和十六年七月三日』

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 国威宣揚碑。
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 以上で1月21日参拝分終了。
 この後はDA16-85mmを点検してもらう為に新宿センタービル内のリコーイメージングスクエア新宿へ。DA16-85mmを買った時からズームリングを回すと特定の位置で何かを弾くような音がするのが気にはなっていたものの、特に写りなどに影響が無いのでそのまま使っていたのだが、やはりどうにも音が気になるので点検に出したら修理送りへと相成りまして、二月の頭頃には送られて来るとのこと。
 この日の使用機材はK-5IIsにDA16-85mmとDA20-40mm。X30。
 ウォーキングカウンターは21,743歩。

日枝神社(十条仲原二丁目)

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 八雲神社の200m程西、環七通り傍に鎮座する日枝神社(北区十条仲原2-6-5)。
 鳥居の柱には「明治廿一年子四月新築」と刻まれているので1888年の造立。
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『日枝神社
 この神社は、古い記録によれば、元禄二年(一六八九年)に創建されたとされ、祭神は大山咋神です。
 かつて、山王塚と呼ばれたこんもりした草地の上の小さいお宮は、字割子沢の何軒かの農家に囲まれ、静かに祀られていました。

 十条仲原庚申
 この庚申塔の主尊は、青面金剛です。
 青面金剛は、人間の体内にひそむ「三戸」という悪い虫のたたりを防ぎ、病魔を退散させると信じられ、人びとは庚申の夜は一睡もしないで祈ったといいます。
 この石塔は、刻文によれば、延宝四年(一六六七年)武州豊島郡十条村の人たちによって建てられています。
 以来、この土地の人びとは、永くこの庚申様を信仰し、守られて生活してきました。
 昭和の初めごろまで続いたという庚申講は、昭和五十一年、塔の造立三百年に因んで再び結成され、先祖の人びとの心を継いでお祀りをしているのです』
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 日枝神社と青面金剛。
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冨士神社(中十条二丁目)

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 北区立荒川小学校の西側に鎮座する冨士神社(北区中十条2-14-18)。
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 石階段脇の狛犬。
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 小御岳神社。
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 冨士神社石宮。
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『北区指定有形民俗文化財 十条冨士塚
 北区中十条二‐一四‐一八
 十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎月六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四〇)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました、石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
 平成四年三月』
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八雲神社(中十条三丁目)

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 東京都道460号中十条赤羽線と東京都道318号環状七号線が交わる馬坂交差点の脇に鎮座する八雲神社(北区中十条3-33-12)。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『八雲神社略由緒記
 八雲神社は近世には、真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の「新編武蔵風土記稿」に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社の末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和十六。七年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。
 八雲神社は、牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は、須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが、明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも昭和十四年以前は、テンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは、日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病除け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれるい縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある』
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若宮八幡神社(中十条四丁目)

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 八幡山児童公園の上に鎮座する若宮八幡神社(北区中十条4-15)。
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 恵比寿と大黒天。
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『若宮八幡神社
一、御祭神 誉田別命(応神天皇)
一、御神格 文武の神
 ここは八幡山と呼ばれております。古老からの聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(一七一六~一七三六)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して、創建したとのことです。(現存の記録は明治十八年六月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来地元の有志が代々お祀りをして参りましたが、平成八年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」として、その周辺を含めて、護持、整備を行っております』
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『清水坂
 十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった』

香取神社(赤羽西二丁目)

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 日蓮宗稲付山法真寺の東に鎮座する香取神社(北区赤羽西2-22-7)前の石段。
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 石段を上ると両脇に狛犬。
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 台座には「嘉永三庚戌歳九月吉日」と刻まれているので1850年の造立。
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 鳥居。昭和二十八年九月造立。
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 狛犬。
 台座には「嘉永五壬子年二月吉祥日」と刻まれているので1852年の造立。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物) 香取神社本殿
 北区赤羽西二‐二十二‐七 香取神社境内
 香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約一〇尺、奥行約八・三尺の社殿が建てられています。
 香取神社は、経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(一六二七)に落成したことが知られています。
 平成二十四年三月』
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『稲付村の力石
 北区赤羽西二‐二二‐七 香取神社境内
 ここにある七つの石は、その一つに「さし石」と刻まれている力石です。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。
 七つある力石のうち、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目(約七十一キログラム)、重いものでは五十五貫目(約二百六キログラム)もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治三十九年(一九〇六)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治四十年(一九〇七)六月十三日に五十一歳で亡くなりましt。力石は小川家に保管されていましたが、昭和四十年(一九六五)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占に用いられ、後には、若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
 平成八年三月』
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 神楽殿。
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 正一位伏見稲荷神社。
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 お狐さま。
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 末社殿。
 榛名神社、古峰神社、御嶽神社、大山阿夫利神社の四社が祀られている。
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 富士登山記念碑と関西中国九州巡覧記念碑、そして鳥居の残骸。
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青面金剛

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 真正寺坂の入口に鎮座する青面金剛(北区赤羽西2-19)。
『真正寺坂
 岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に登る坂です。坂の北側(赤羽西二‐一四‐六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(一七六九)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです』

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 オーケーストア十条店の南側、東京都道318号環状七号線傍に鎮座する青面金剛(北区十条仲原2-15)。

道観山稲荷社(赤羽西二丁目)

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 真言宗智山派妙覚山蓮華寺普門院の山門脇に鎮座する道観山稲荷社(北区赤羽西2-14-20)。
 扁額には「陀枳尼天」と書かれているが、鳥居の柱には「道観山稲荷講 講元 講員一同」「建立平成十七年二月吉日」と書かれている。
 こちらもお参りする予定は無かったと言うか存在自体知らなかったのだが、面白い形の山門があるなと思い近寄ってみたら傍に稲荷社があったのでお参りすることに。
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 普門院の山門。
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 なんだかわからないのでググってみたら、共同墓地であるのだそうだ。
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『東京都北区指定無形民俗文化財 稲付の餅搗唄
北区赤羽西二‐一四‐二〇 道観山稲荷社地内
 江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
 昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
 平成八年三月』

静勝寺(赤羽西一丁目)

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 稲付城跡に位置する曹洞宗静勝寺(北区赤羽西1-21-17)。
 石段脇の標石には「都旧跡 稲付城跡」と刻まれている。
 当初こちらにお参りする予定は無かったのだが、鳥居が見えたので立ち寄ってみた。
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 石段の脇には稲荷社が鎮座している。
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『東京都指定文化財(旧跡) 稲付城跡
 北区赤羽西一‐二一‐一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(一五五八~一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
 平成十三年三月』
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 出土した遺構。
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 参道。
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 道灌堂。
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『東京都北区指定有形文化財(歴史資料) 木造太田道灌坐像
 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
 太田道灌(一四三二~一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四・五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。
 平成八年三月』
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 静勝寺本堂。
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 本堂前の狛犬。
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 辯天堂。
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 南山門。
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『東京都指定旧跡 稲付城跡
所在地 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
指 定 昭和三六年一月三一日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高二一m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡等が検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木像坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性もあったと考えられます。
 平成二五年三月 建設』

 後で知ったのだが、静勝寺の西側に亀ヶ池辨財天があるようだ。先に知っていればそちらにもお参りできたのだが、そもそも静勝寺自体予定外だったのだから仕方が無いか。まぁまた機会があればその時にでも。

赤羽八幡神社(赤羽台四丁目)

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 JR赤羽駅の北側、東北・上越新幹線と埼京線の上に鎮座する赤羽八幡神社(北区赤羽台4-1-6)。
 公式サイト有り。
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 一の鳥居。昭和二年四月造立。
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 参道脇には日露戦役記念碑が二基と石坂碑が一基建てられている。
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 二の鳥居。昭和六年五月造立。
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 拝殿。
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 本殿。
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 由緒書き。長いので書き写す気にならない。
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 末社殿の鳥居。
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 狛犬。
 台座には「昭和六十三年一月移築」と刻まれている。以前はこの二基が八幡神社拝殿前に並んでいたようだ。
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 末社殿には大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社の八社が祀られている。
 周りには兎と大黒天と狐と牛が並んでおり、なんとも賑やかなことだ。
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 古峯神社。
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 因幡の白兎と大国主。
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 お狐さま。
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 なで牛。
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 神楽殿。
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 天祖神社・春日神社合殿と稲荷神社。
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 赤羽招魂社。
 隣に並ぶ倉庫は山車庫だろうか。
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 社務所下に並ぶ石祠。大塚稲荷大明神や笠間稲荷神社の名が記された札も見える。
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 社務所。
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 裏参道と鳥居。
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 境内側から。

稲荷神社(赤羽西一丁目)

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 猿田彦神社の東側、大坂の途中に鎮座する稲荷神社(北区赤羽西1-41-5)。
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 詳細は不明。
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 坂の上から。
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『大坂
 この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます』

 この標柱の左側に小さな不動祠と稲荷社があるのだが、それらを囲う壁に赤羽幼稚園と書かれている。とすると、このお不動様とお稲荷様は幼稚園の守護神であるのだろうか。

赤羽台猿田彦神社(赤羽台一丁目)

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 JR赤羽駅の西側、赤羽台団地の中に鎮座する猿田彦神社(北区赤羽台1-4)。
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 案内板があるが、大きく書かれている部分は猿田彦神と道祖神、庚申信仰の説明。
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 こちらの神社について書かれている部分を拡大。
『ここに祀られている庚申塔・道祖神は、旧赤羽台東小の北にあるうつり坂を登ったところにありましたが、大正八年旧陸軍被服廠が赤羽に移転したとき、旧板橋街道の坂道のうつり坂は本廠通用門の坂となり、関係者以外通行できなくなりました。そこでこの坂を登った所に祠を造り、江戸時代から明治中期頃までに造られた板橋街道沿の近場の石物を集めて祀ったようです。
 昭和三七年、赤羽台団地造成の時、現在地に再移築されました。

  この大連縄は2003年12月から福島県会津本郷町の赤塚さん一家のおばあちゃんを中心に家族全員で力を込めて編れた力作です。
 毎年新しい連縄を飾っていましたが、小祠にはもったいないため1~2年毎に取り換えようと考えています。

 屋根瓦修復は平成16年11月(2004年)浄財と160名の方のご寄進により完成しました』
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 青面金剛。
 案内板によると、左の青面金剛は享保五年(1720)十一月の造立で、右の青面金剛は享保七年(1722)十一月の造立。
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 頭部が狐っぽくも見える青面金剛。
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 表面には「猿田彦大神講中 当所廿七人」と刻まれており、案内板によると嘉永四年(1851)の造立である。
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 上を見ると神棚があり、豊受大神の神璽が納められている。
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 以前は狛犬があったのだろうかと思ったが、案内板を見ると庚申塔の台石であると書かれている。台石に刻まれた菱形の渦巻き(雷紋)は柴又帝釈天題経寺の寺紋であるのだそうだ。
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 香取神宮の榊と書かれた札が立てられているが、この榊はここから900m程南にある香取神社から移植したものなのだろうか。
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 祠の裏手に倉庫。
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