武州御嶽神社(上十条五丁目)

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 環七通り上十条第2歩道橋脇に鎮座する武州御嶽神社(北区上十条5-8-3)。
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 狛犬。
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 祠の中には大口真神の御符が納められているのが見えた。
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『記念碑
御嶽神社ハ今ヨリ二百餘年前現東京府西多摩郡三田村ニ 大名持神 少彦名神 ヲ奉祀シタル御嶽神社ノ分祠ニシテ武藏國内ノ農民ハ家内安全五穀豐穣ノ守護神トシテ崇拜ス殊ニ當地ノ農民ハ崇敬ノ念篤ク分社當時ヨリノ講社ヲ經續シ毎年代參ヲシテ參詣シツゝアリ古來ノ社祠ハ現王子第三國民學校ノ門前ニ在リ偶々東京府第七號環状線新設ニ當リ移祠ノ止ムナキニ至レリ是ニ於テ各町關係者協議ノ上換地下附申請ニ努メ新ニ該敷地下附及ビ社殿竝ニ樹木補償料交付トナレリ依テ古昔遷宮當初ヨリ深キ信仰關係アル地元傳來ノ舊西町住人二十四名ハ工事完成ノ爲ノ建築費ノ一部ヲ奉納シ且ツ設計及ビ工事一切ノ責ニ當リ百八十餘人ノ勤勞ヲ奉仕シ以テ竣工ヲ告ゲ昭和十六年七月三日遷宮式ヲ擧行シタルモノナリ茲ニ移祠新築完成ヲ記念シ其ノ由來ノ梗概ヲ石ニ刻シ之ヲ後昆ニ遺ス
 昭和十六年七月三日』

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 国威宣揚碑。
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 以上で1月21日参拝分終了。
 この後はDA16-85mmを点検してもらう為に新宿センタービル内のリコーイメージングスクエア新宿へ。DA16-85mmを買った時からズームリングを回すと特定の位置で何かを弾くような音がするのが気にはなっていたものの、特に写りなどに影響が無いのでそのまま使っていたのだが、やはりどうにも音が気になるので点検に出したら修理送りへと相成りまして、二月の頭頃には送られて来るとのこと。
 この日の使用機材はK-5IIsにDA16-85mmとDA20-40mm。X30。
 ウォーキングカウンターは21,743歩。
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日枝神社(十条仲原二丁目)

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 八雲神社の200m程西、環七通り傍に鎮座する日枝神社(北区十条仲原2-6-5)。
 鳥居の柱には「明治廿一年子四月新築」と刻まれているので1888年の造立。
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『日枝神社
 この神社は、古い記録によれば、元禄二年(一六八九年)に創建されたとされ、祭神は大山咋神です。
 かつて、山王塚と呼ばれたこんもりした草地の上の小さいお宮は、字割子沢の何軒かの農家に囲まれ、静かに祀られていました。

 十条仲原庚申
 この庚申塔の主尊は、青面金剛です。
 青面金剛は、人間の体内にひそむ「三戸」という悪い虫のたたりを防ぎ、病魔を退散させると信じられ、人びとは庚申の夜は一睡もしないで祈ったといいます。
 この石塔は、刻文によれば、延宝四年(一六六七年)武州豊島郡十条村の人たちによって建てられています。
 以来、この土地の人びとは、永くこの庚申様を信仰し、守られて生活してきました。
 昭和の初めごろまで続いたという庚申講は、昭和五十一年、塔の造立三百年に因んで再び結成され、先祖の人びとの心を継いでお祀りをしているのです』
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 日枝神社と青面金剛。
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冨士神社(中十条二丁目)

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 北区立荒川小学校の西側に鎮座する冨士神社(北区中十条2-14-18)。
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 石階段脇の狛犬。
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 小御岳神社。
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 冨士神社石宮。
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『北区指定有形民俗文化財 十条冨士塚
 北区中十条二‐一四‐一八
 十条冨士塚は、十条地域の人々が、江戸時代以来、冨士信仰にもとづく祭儀を行って来た場です。
 現在も、これを信仰対象として毎月六月三十日・七月一日に十条冨士神社伊藤元講が、大祭を主催し、参詣者は、頂上の石祠を参拝するに先だち線香を焚きますが、これは富士講の信仰習俗の特徴のひとつです。
 塚には、伊藤元講などの建てた石造物が、三十数基あります。銘文によれば遅くとも、天保十一年(一八四〇)十月には冨士塚として利用されていたと推定されます。
 これらのうち、鳥居や頂上の石祠など十六基は明治十四年(一八八一)に造立されています。この年は、冨士講中興の祖といわれた食行身禄、本名伊藤伊兵衛の百五十回忌に当りました、石造物の中に「冨士山遥拝所再建記念碑」もあるので、この年、伊藤元講を中心に、塚の整備が行われ、その記念に建てたのが、これらと思われます。
 形状は、古墳と推定される塚に、実際の富士山を模すように溶岩を配し、半円球の塚の頂上を平坦に削って、富士山の神体の分霊を祀る石祠を置き、中腹にも、富士山の五合目近くの小御岳神社の石祠を置いています。また、石段の左右には登山路の跡も残されており、人々が登頂して富士山を遥拝し、講の祭儀を行うために造られたことが知られます。
 平成四年三月』
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八雲神社(中十条三丁目)

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 東京都道460号中十条赤羽線と東京都道318号環状七号線が交わる馬坂交差点の脇に鎮座する八雲神社(北区中十条3-33-12)。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『八雲神社略由緒記
 八雲神社は近世には、真言宗智山派無量山龍谷院西音寺持ちであった。江戸時代、文化文政期編纂の「新編武蔵風土記稿」に「牛頭天王社 西音寺持」とある。その後、王子神社の末社として旧宿町(中十条二、三、四丁目辺り)の村持ちの神社となったが、現在は「八雲講」組織の管理運営により祭礼が執り行われている。太平洋戦争以前は環状七号線の真ん中辺りにあったが、昭和十六。七年頃現在の地に遷座となる。社地提供の高木家が代々講元を務める。
 八雲神社は、牛頭天王・須佐之男尊を祭神とする祇園信仰の神社で、総本社は京都の八坂神社である。社名は、須佐之男尊が詠んだ歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」に因む。江戸時代までは牛頭天王社と称していたが、明治期の神仏分離令により現社名となる。この地でも昭和十四年以前は、テンノウサマ(天王様)として庶民の崇敬を集めていた。牛頭天王とは、日本の神仏習合における神様であり、元々はインドの祇園精舎の守護神であると言われている。疫病除け、病気平癒、また内緒で賽銭をあげると縁が結ばれるい縁結びの御利益あり。昔は諸願成就の丑三つ詣りが盛んに行われていた。北区岩淵町にも日光御成道第一の宿場、岩淵宿鎮守社の八雲神社がある』
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若宮八幡神社(中十条四丁目)

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 八幡山児童公園の上に鎮座する若宮八幡神社(北区中十条4-15)。
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 恵比寿と大黒天。
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『若宮八幡神社
一、御祭神 誉田別命(応神天皇)
一、御神格 文武の神
 ここは八幡山と呼ばれております。古老からの聞き伝えに依りますと、この八幡神社は享保年間(一七一六~一七三六)に鎌倉の鶴が岡八幡宮から分祀して、創建したとのことです。(現存の記録は明治十八年六月が最古のものです。)それで「若宮八幡神社」と言います。以来地元の有志が代々お祀りをして参りましたが、平成八年に新たに「八幡山の会」と云う組織に改め、この神社を「心のふるさと」として、その周辺を含めて、護持、整備を行っております』
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『清水坂
 十条の台地から稲付の低地に下る岩槻街道(旧日光御成道)の坂である。昔はけわしく長い坂道だったので十条の長坂などとも呼ばれた。切り通しの崖からはたえず清水が湧き出ていたので、清水坂の名が付けられた。現在は崖が削りとられて、その跡に児童公遊園が設けられているが、そこは貝塚遺跡でもあった』

香取神社(赤羽西二丁目)

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 日蓮宗稲付山法真寺の東に鎮座する香取神社(北区赤羽西2-22-7)前の石段。
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 石段を上ると両脇に狛犬。
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 台座には「嘉永三庚戌歳九月吉日」と刻まれているので1850年の造立。
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 鳥居。昭和二十八年九月造立。
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 狛犬。
 台座には「嘉永五壬子年二月吉祥日」と刻まれているので1852年の造立。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『北区台帳登載文化財(有形文化財 建造物) 香取神社本殿
 北区赤羽西二‐二十二‐七 香取神社境内
 香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は杮葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約一〇尺、奥行約八・三尺の社殿が建てられています。
 香取神社は、経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。「新編武蔵風土記稿」には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳(「武蔵田園簿」)に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺(赤羽西二丁目)の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎(津藩初代藩主)が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年(一六二七)に落成したことが知られています。
 平成二十四年三月』
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『稲付村の力石
 北区赤羽西二‐二二‐七 香取神社境内
 ここにある七つの石は、その一つに「さし石」と刻まれている力石です。
 江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。
 七つある力石のうち、五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目(約七十一キログラム)、重いものでは五十五貫目(約二百六キログラム)もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治三十九年(一九〇六)五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治四十年(一九〇七)六月十三日に五十一歳で亡くなりましt。力石は小川家に保管されていましたが、昭和四十年(一九六五)頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。
 力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占に用いられ、後には、若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往時の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。
 平成八年三月』
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 神楽殿。
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 正一位伏見稲荷神社。
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 お狐さま。
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 末社殿。
 榛名神社、古峰神社、御嶽神社、大山阿夫利神社の四社が祀られている。
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 富士登山記念碑と関西中国九州巡覧記念碑、そして鳥居の残骸。
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青面金剛

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 真正寺坂の入口に鎮座する青面金剛(北区赤羽西2-19)。
『真正寺坂
 岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に登る坂です。坂の北側(赤羽西二‐一四‐六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(一七六九)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです』

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 オーケーストア十条店の南側、東京都道318号環状七号線傍に鎮座する青面金剛(北区十条仲原2-15)。

道観山稲荷社(赤羽西二丁目)

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 真言宗智山派妙覚山蓮華寺普門院の山門脇に鎮座する道観山稲荷社(北区赤羽西2-14-20)。
 扁額には「陀枳尼天」と書かれているが、鳥居の柱には「道観山稲荷講 講元 講員一同」「建立平成十七年二月吉日」と書かれている。
 こちらもお参りする予定は無かったと言うか存在自体知らなかったのだが、面白い形の山門があるなと思い近寄ってみたら傍に稲荷社があったのでお参りすることに。
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 普門院の山門。
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 なんだかわからないのでググってみたら、共同墓地であるのだそうだ。
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『東京都北区指定無形民俗文化財 稲付の餅搗唄
北区赤羽西二‐一四‐二〇 道観山稲荷社地内
 江戸時代、ここは稲付村と称されていましたが、この先右側の社地でうたわれる餅搗唄は、住民が昔から餅を搗くときにうたった作業唄で、現在は、毎年二月の初午祭のときに道観山稲荷講の人達によってうたい継がれています。
 餅は正月を祝って鏡餅として神棚にそなえるとともに、これを雑煮にして食べたり、祝い事や保存食に使うためにも搗かれました。稲付の地域では、餅を搗く際に、臼にまわりに何人もの若者が集まり、唄をうたいながら小さい杵を次々と振りおろして餅を練ったり搗いたりします。餅を練るときにうたったのが稲付千本杵餅練唄、餅を搗くときにうたったのが稲付千本餅搗唄です。唄は、大正十二年(一九二三)九月の関東大震災の前後まではズシ(=辻子)と呼ばれる小地域共同体の若衆がモヤイ(=催合)と呼ばれる相互扶助的な慣行によって家々をまわり、一晩かけて餅搗の手伝いをするときにうたわれました。しかし、米屋が餅の注文をとるようになると餅を搗く機会が次第に失われ、モヤイによる餅搗唄も姿を消していきました。
 昭和四十年前後、赤羽西二丁目町会の役員が稲荷講の役員を兼ねていたのが契機となって、静勝寺の参道下から清水小学校までの街道沿いを氏子地域とする道観山稲荷講の人々が初午祭に際して餅搗唄を伝承するようになり、今日に至っています。
 平成八年三月』

静勝寺(赤羽西一丁目)

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 稲付城跡に位置する曹洞宗静勝寺(北区赤羽西1-21-17)。
 石段脇の標石には「都旧跡 稲付城跡」と刻まれている。
 当初こちらにお参りする予定は無かったのだが、鳥居が見えたので立ち寄ってみた。
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 石段の脇には稲荷社が鎮座している。
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『東京都指定文化財(旧跡) 稲付城跡
 北区赤羽西一‐二一‐一七
 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(一九八七)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(一五五八~一五六九)末頃から天正十年(一五八二)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(一六八七)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城は孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(一六五五)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
 平成十三年三月』
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 出土した遺構。
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 参道。
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 道灌堂。
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『東京都北区指定有形文化財(歴史資料) 木造太田道灌坐像
 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である七月二十六日にちなんで毎月二十六日に開扉されます。道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる享保二十年(一七三五)七月に建立され、厨子は三百五十回忌にあたる天保六年(一八三五)七月に製作されました。
 太田道灌(一四三二~一四八六)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて三十余度にも及ぶ合戦に参加したといわれますが、長禄元年(一四五七)四月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明十年(一四七八)二月頃から同十八年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は四四・五センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄八年(一六九五)静勝寺第六世の風全恵薫によって造立され、以後、六回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和六十二年(一九八七)四月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから二百年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(一九八九)一月に北区の指定有形文化財に指定されました。
 平成八年三月』
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 静勝寺本堂。
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 本堂前の狛犬。
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 辯天堂。
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 南山門。
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『東京都指定旧跡 稲付城跡
所在地 北区赤羽西一‐二一‐一七 静勝寺
指 定 昭和三六年一月三一日
 稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高二一m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。文化・文政期の地誌「新編武蔵風土記稿」にも「堀蹟」として登場します。
 現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。北面と東西面は崖面で、南側は台地が続き平坦な地形になっています。周辺からは、発掘調査によって幅約一二m、深さ約六mの空堀の跡等が検出され、その際に一六世紀前半頃の遺物が出土しました。
 静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木像坐像が所蔵されています。寺伝によれば、城はこの道灌による築造とされています。今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性もあったと考えられます。
 平成二五年三月 建設』

 後で知ったのだが、静勝寺の西側に亀ヶ池辨財天があるようだ。先に知っていればそちらにもお参りできたのだが、そもそも静勝寺自体予定外だったのだから仕方が無いか。まぁまた機会があればその時にでも。

赤羽八幡神社(赤羽台四丁目)

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 JR赤羽駅の北側、東北・上越新幹線と埼京線の上に鎮座する赤羽八幡神社(北区赤羽台4-1-6)。
 公式サイト有り。
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 一の鳥居。昭和二年四月造立。
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 参道脇には日露戦役記念碑が二基と石坂碑が一基建てられている。
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 二の鳥居。昭和六年五月造立。
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 拝殿。
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 本殿。
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 由緒書き。長いので書き写す気にならない。
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 末社殿の鳥居。
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 狛犬。
 台座には「昭和六十三年一月移築」と刻まれている。以前はこの二基が八幡神社拝殿前に並んでいたようだ。
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 末社殿には大国主神社、疱瘡神社、稲荷神社、住吉神社、大山神社、阿夫利神社、御嶽神社、北野神社の八社が祀られている。
 周りには兎と大黒天と狐と牛が並んでおり、なんとも賑やかなことだ。
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 古峯神社。
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 因幡の白兎と大国主。
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 お狐さま。
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 なで牛。
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 神楽殿。
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 天祖神社・春日神社合殿と稲荷神社。
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 赤羽招魂社。
 隣に並ぶ倉庫は山車庫だろうか。
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 社務所下に並ぶ石祠。大塚稲荷大明神や笠間稲荷神社の名が記された札も見える。
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 社務所。
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 裏参道と鳥居。
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 境内側から。

稲荷神社(赤羽西一丁目)

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 猿田彦神社の東側、大坂の途中に鎮座する稲荷神社(北区赤羽西1-41-5)。
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 詳細は不明。
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 坂の上から。
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『大坂
 この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます』

 この標柱の左側に小さな不動祠と稲荷社があるのだが、それらを囲う壁に赤羽幼稚園と書かれている。とすると、このお不動様とお稲荷様は幼稚園の守護神であるのだろうか。

赤羽台猿田彦神社(赤羽台一丁目)

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 JR赤羽駅の西側、赤羽台団地の中に鎮座する猿田彦神社(北区赤羽台1-4)。
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 案内板があるが、大きく書かれている部分は猿田彦神と道祖神、庚申信仰の説明。
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 こちらの神社について書かれている部分を拡大。
『ここに祀られている庚申塔・道祖神は、旧赤羽台東小の北にあるうつり坂を登ったところにありましたが、大正八年旧陸軍被服廠が赤羽に移転したとき、旧板橋街道の坂道のうつり坂は本廠通用門の坂となり、関係者以外通行できなくなりました。そこでこの坂を登った所に祠を造り、江戸時代から明治中期頃までに造られた板橋街道沿の近場の石物を集めて祀ったようです。
 昭和三七年、赤羽台団地造成の時、現在地に再移築されました。

  この大連縄は2003年12月から福島県会津本郷町の赤塚さん一家のおばあちゃんを中心に家族全員で力を込めて編れた力作です。
 毎年新しい連縄を飾っていましたが、小祠にはもったいないため1~2年毎に取り換えようと考えています。

 屋根瓦修復は平成16年11月(2004年)浄財と160名の方のご寄進により完成しました』
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 青面金剛。
 案内板によると、左の青面金剛は享保五年(1720)十一月の造立で、右の青面金剛は享保七年(1722)十一月の造立。
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 頭部が狐っぽくも見える青面金剛。
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 表面には「猿田彦大神講中 当所廿七人」と刻まれており、案内板によると嘉永四年(1851)の造立である。
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 上を見ると神棚があり、豊受大神の神璽が納められている。
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 以前は狛犬があったのだろうかと思ったが、案内板を見ると庚申塔の台石であると書かれている。台石に刻まれた菱形の渦巻き(雷紋)は柴又帝釈天題経寺の寺紋であるのだそうだ。
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 香取神宮の榊と書かれた札が立てられているが、この榊はここから900m程南にある香取神社から移植したものなのだろうか。
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 祠の裏手に倉庫。
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