健田神社跡地(結城)

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 国道50号結城バイパス健田交差点の傍に位置する健田神社跡地(結城市結城)。
 延喜式内健田神社は現在は浦町の健田須賀神社に合祀されているが、明治三年まではこちらに鎮座していたのだろう。
 右奥には筑波山が見えており、結城筑波と呼ばれているのだそうだ。
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 こちらも結城百選の一つ。
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 延喜式内健田神社舊址の碑。
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 以上で3月11日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは15,362歩。
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雪光稲荷神社(結城)

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 稲荷通りと国府町通りの交差する脇に鎮座する雪光稲荷神社(結城市結城562
 鳥居の柱には「平成二十三年十月吉日 氏子中」と刻まれている。
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 拝殿。
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『雪光稲荷神社由緒
御祭神 宇迦之御魂神(倉稲魂)
御由緒
正式の社名は稲荷神社。永正年間(一五〇四~一五二一)に稲作に蝗旱(害虫、日照り)の災いおこり近郷の農民驚嘆し孝顕寺住職に懇願する。稲荷大神を勧請、祈誓した甲斐あり収穫を得たり。
この明徳に感激し此の地に稲荷神社を創建したといわれる。明治までの神仏習合時、孝顕寺の境外仏として、いわゆる雪光稲荷と呼ばれ親しく祀られていた。その後神仏分離により無格社稲荷神社となり、戦後、神社本庁包括宗教法人稲荷神社となり、白銀町守り神の内、その一社として、町民十人に清掃輪番等を設け、手厚く崇敬されている。白銀町の町名に雪光稲荷に由来するものと思われる。
平成十七年春雪の暁、不審火により社殿焼失、その後町内氏子一丸となり茲に社殿を創建する。稲荷の大神は生命の根源を司る「いのち」の根の神として、商業、工業、農業の殖産興業神、人々の生活生命すべての守護神であり、広大無辺の御神徳を町内住民、忘れることなく子々孫々未来永劫に伝えるものである。
           撰文 稲荷神社 宮司 小貫隆嗣 謹撰』
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 末社。
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 南側から。
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健田須賀神社(結城)

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 結城七社の内の一之宮とされる健田須賀神社(結城市結城195)。
 公式サイト有り。
 孝顕寺の次は雷稲荷神社の前にこちらにお参りするつもりだったのだが、丁度神前式をしていたので先に雷稲荷神社と釈迦堂にお参りしてからこちらへ。
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『健田須賀神社
御祭神 武渟川別命 タケヌナカワワケノミコト
    須佐之男命 スサノオノミコト
健田須賀神社は明治三年(一八七〇)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられ我が国の最古公式記録集「延喜式」に勅撰され東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
須賀神社は牛頭天王ともいい、疫病を祓う神、須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により仁治三年(一二四二)に創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神として歴代の城主の崇敬篤く、七代直朝公が結城七社を定め、結城一〇八郷の総社として社地の寄進がありました。また当神社に伝わる古文書によると牛頭天王宮を中心とした中世都市結城の街を知る事ができます。結城家福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。
その後も連綿と市中氏子により結城の氏神、産土神として信仰され今日まで「心のふるさと」として祭祀され、夏季大祭は結城夏祭りとして、市中挙げての祭礼に大御輿が渡御され、氏子の健康、発展が祈願されます。厄除け、方位除け、健康を祈願する氏戸崇敬者は全国から訪れています。
御神徳
 家内安全 厄除 方位除 身体健全 交通安全 病気平癒 合格必勝
宝物
 結城家と当神社に係わる中世古文書(県指定文化財)
 獅子頭、木彫狛犬(市指定文化財)徳川歴代将軍朱印状
年間行事
 一月一日   歳旦祭  七月第三日曜日~第四日曜日 夏季大祭
 一月三日   元始祭
 二月三日   節分祭  七月三十一日  夏越祭
 二月十一日  紀元祭  十一月中    七五三成長祈願祭
 四月十五日 春季大祭  十一月十五日  例大祭(健田祭)
   (太々神楽奉納)  十二月三十一日 大祓式
 月次祭 毎月一日 十五日』
 そして当然結城百選の一つ。
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 参道右手側に戦没者慰霊殿。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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 拝殿。
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『健田須賀神社
 健田須賀神社は、明治三(一八七〇)年に、健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
 健田神社は、古代より市内健田の地に建てられた延喜式内社で「日本書紀」において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
 須賀神社は、牛頭天王ともいい、疫病を払う神・須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により創建されたと伝えられ、歴代城主の崇敬篤く、七代直朝公が定めた結城七社では、中心的神社として社地等の寄進がありました。

県指定文化財
 健田須賀神社文書(古文書・室町時代)
 平成八年一月二五日指定
 この文書は、須賀神社に伝えられていたもので、鎌倉時代末から安土桃山時代まで、二巻・一九点あり、なかでも文和元(一三二五)年の「結城直光田地安堵状」は、旧結城郡内に現存する最古の文書です。また、文書の内容は、城下の商人の経済活動や結城氏の領地支配に関することまで含まれており、中世東国結城の神社や十人の様子を究明するうえで貴重な資料です。

市指定文化財
 狛犬 (彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五八センチメートル、吽形が高さ五四センチメートルで、江戸時代前期に奉納されたものと伝えられています。
 獅子頭(彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五四・四センチメートル、頭上に一本の角を有し、もう一方は高さ五〇センチメートルで、頭上に宝冠をいただいています。
平成一五年一一月』
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 神楽殿と県社昇格記念碑。
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 十二社殿と甲子稲荷神社。
 十二社殿は左から香取神社、白峰神社、三峰神社、足尾神社、羽黒神社、大神宮、鷲神社、八幡神社、松尾神社、大桑神社、高椅神社、住吉神社。甲子稲荷神社には甲子大黒天と倉稲魂命が祀られている。
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『十二社縁起
牛頭天王(浦町現須賀神社)住吉大明神(西の宮)
大桑大明神(小森村)高椅大明神(高橋村)
八幡宮(上簗村)大神宮(中河原村)鷲宮大明神(萱橋村)
この結城七社は結城家七代直朝が関城々主攻略の為北極星を中心にして回る北斗七星に願をかけ破軍星を求め七社に必勝を祈願した。その甲斐あって、関城を攻略し、康永二年(一三四三)七社制を定め篤く信仰し、社地の寄進、社殿の造営をおこなった。また同時にこの須賀神社に六社を合祀したともいわれている。
この七社をお参りすると願い事が叶えられると昔より
伝えられている。殊に七社から破軍星を求め、この破軍星を常に背負い勝負すると必勝が得られるという秘法である。
 他 香取神社(下総国一の宮)松尾神社(酒造の神)
   羽黒神社・三峯神社(火伏盗賊除の神)
   白峯神社(祭神 淳仁天皇・崇徳天皇)
   足尾神社(足腰の悪い方 健脚にご利益あり)
以上十二社を月ごとに十二か月参詣すると必ず霊験あり
 平成十二庚辰年十二月吉祥 撰文 宮司 小貫隆嗣
        社祠奉納 氏子総代  菊池孝一郎』
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『須賀神社之由来
 結城朝光公が仁治三年(一二四二)六月十一日尾張ノ津島ヨリ祇園天王社(祭神・素戔嗚尊)ヲ結城本郷(結城市浦町)ニ遷座シテ祀ッタ「須賀神社」デ以後住民ノ氏神トシテ仰ギ・祇園祭ニ御神輿ノ渡御・阿吽ノ天狗ガ巡回スル神事ハ・全国ニモ珍シク・茲ニ俳句ト俳詩ヲ献詠』
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 祭器具殿。
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釈迦堂(結城)

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 新義真言宗慶福山結城院満福寺釈迦堂(結城市結城312)。
 参道左手側には雷稲荷神社。
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『釈迦堂
 慶福山結城院満福寺釈迦堂という新義真言宗の寺院です。
 十世紀に創建され、十五世紀の永享年間に、久保田村字慶福に中興、間もなく結城城内の西館に移り慶長年間に今の地に移されたと伝わります。
 当寺に伝わる文化財のうち「銅造・虚空蔵菩薩像」「絹本・不動明王像」が市指定を受けています。
 天空のように、広大無量の智恵と功徳を人々に分け与え、諸願を叶えてくれるという虚空蔵菩薩像は、結城家十六代政勝の念持仏と伝わります。
 不動明王像は、足元に二童子を従え、罷索を持つ左手を腰に、右手の利剣を肩に、身を乗り出し、今にも走りだしそうな姿に描かれています。
 また、境内入口の碑(市指定)は、増田遷晁が建立したもので、表に芭蕉の句「八九間 空で雨ふる柳かな」、裏には遷晁が師と仰ぐ人物が、一堂に会し交遊するという、彼の夢が描かれています。
 彼は、谷文晁の流れを汲み、各地を歴訪、日本画を学び、明治二十年六十五歳で永眠しました』

 こちらも結城百選の一つ。
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 市指定文化財である「増田遷晁の文人碑」。
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 本堂。

雷稲荷神社(結城)

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 新義真言宗満福寺釈迦堂の参道南側、茨城県道264号線に面して鎮座する雷稲荷神社(結城市結城306)。
 鳥居の柱には「皇紀二千六百年」「五ケ町實業青年團」と刻まれている。皇紀二千六百年と言うと、昭和十五年(1940)か。
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 こちらも結城百選の一つで、「宮造りの素晴らしい雷さん」の名で登録されている。
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 由緒書きが設置されていないので詳しいことはわからないが、結城百選のサイトには「渇水時には雷神社に雨乞いをした」と言うことが記されているので、元来は雷神社で後から稲荷社を合祀したものなのだろうか。
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 北側から。
 切目縁などは大きく破損しており、大分傷んで来ているようだ。
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 昭和九年三月に奉納された絵馬が掛けられている。

孝顕寺(結城)

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 曹洞宗天女山永正禅林泰陽院孝顕寺(結城市結城461)。
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『孝顕寺
 孝顕寺は、天女山永正禅林泰陽院孝顕寺と称する曹洞宗の寺院です。永正十二(一五一五)年、結城城西側の玉岡の地に、結城家十五代政朝によって、独峰曇聚を開山として建立され、当初は永正寺と称しました。その後、十七代晴朝が弁天島(立町)の地を寄進し、十八代秀康(徳川家康の二男)によって現在の孝顕寺が建立され、政朝の法名が「永正寺殿宗明孝顕大居士」であることから孝顕寺と改称されました。
 また、元禄十三(一七〇〇)年に結城藩主となった水野氏も、本寺を菩提寺とし、境内には幕末の藩主、水野勝知の墓があります。
 なお、境内の西側には、秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されています。

県指定文化財
 紙本着色武者肖像画(結城政朝肖像画)
   絵画・安土桃山時代・昭和三十二年一月十五日指定
 紙本着色結城政朝夫人肖像画
   絵画・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
 紙本着色結城晴朝肖像画
   絵画・江戸時代・昭和三十二年六月二日指定
 結城御朱印掘
   史跡・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
市指定文化財
 孝顕寺三門
   建造物・江戸時代・昭和五十二年三月四日指定
平成二十二年三月』

 こちらもまた結城百選の一つ。結城百選のサイトの解説に依ると福井県にも曹洞宗天女山孝顕寺があるそうだが、さすがに気楽に行ける距離ではないなぁ。
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 泰陽稲荷社。
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『当寺は永正年間 結城家十五代政朝公創建永正寺 慶長年間■■■秀康公移転改行孝顕寺■■■■年間徳川家康公生母■■■■の生家水野氏移封な■■■■その菩提寺となる
三百年來伽藍守護の三稲荷社■■■で永正稲荷を西町へ 雪光稲荷を白銀町へ 初穂料田土地付で差上ぐ このたび境内の泰陽稲荷社を復元建築御真体として笠間稲荷■改新御分霊を奉祀す 当寺内に千年白狐の秘宝 雪光 と名付くる宝珠之玉あるに依りて稲荷大明神を祀り鎮守とす 神徳は五穀豊穣万民富楽家業清栄商売繁昌 身体健全災難消滅 心願成就諸縁如意吉祥ならんことを授くる者也
泰陽院 永正禅林 天女山 孝顕寺
昭和五十七年十月吉日 三十七世室 えつ子 建之
  大工 出山 指首兄弟 鳥居並掲示板寄進』
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 本堂。
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『げだつじぞう(おさとり地蔵尊)
延宝五年(一六七七)代官所武士添野家子息の夭折(早世)を惜しみ佛心を起し解心恵脱禅定門を供養し広く世の愛児の寿命延長を祷り後世に伝う
 昭和六十一年 初春
  発願主 寺族 松浦喜代子
 堂宇建立寄進者
  大工 北南茂呂 指首茂男
          指首 功』
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 昭和十七年十一月十五日に建てられた、結城藩家老小場兵馬自刃之處の碑。
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 御朱印堀。
 こちらは県指定文化財の史跡であり、また結城百選の一つでもある。

一言薬師堂(結城)

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 孝顕寺の参道入口から120m程南に位置する一言薬師堂(結城市結城492-3)。
 御堂の脇の石柱には「薬師堂 天女山飛地境内」と刻まれているので、こちらは孝顕寺の境外仏堂なのだろう。
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 こちらも結城百選の一つ。
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市杵島神社(結城)

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 曹洞宗孝顕寺の西側に鎮座する市杵島神社(結城市結城483-1)。
 こちらも結城百選の一つ。鳥居の柱には「昭和六十一年十一月吉日」と刻まれているが、神社の創建は天正十九年(1591)であるとのこと。
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 拝殿。
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 なんだろう? 神庫かな。
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 左から先亡精霊供養塔、庚申供養塔、如意輪観音、如意輪観音。右端は「奉献上辯才天御寶」と刻まれた石柱。石燈籠だったものの一部だろうか。
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永正稲荷神社(結城)

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 西町児童会館の隣に鎮座する永正稲荷神社(結城市結城1647)。
 孝顕寺の境内に鎮座する泰陽稲荷社の由緒書きを見ると、かつてはこの永正稲荷も孝顕寺の境内に祀られていたようだ。
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 拝殿。
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 本殿。
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 南側から。
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 十九夜観音堂。

神明神社(結城)

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 浅間神社の裏手に鎮座する神明神社(結城市結城138)。
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 拝殿。
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 裏から。
 末社等は見当たらない。
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 神明神社の40m程西に位置する地蔵堂

毘沙門天(結城)

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 茨城県道264号線木町交差点脇に鎮座する毘沙門天(結城市結城1632-2)。
 こちらは真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の境外仏堂であり、本尊の「毘沙門天立像」は結城市の文化財(彫刻)に指定されている。
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 門前の追分道標石燈籠も結城市の文化財(工芸品)に指定されており、また結城百選の一つにも選ばれている。
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 本堂。
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 石仏や庚申塔。

浅間神社(結城)

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 木町交差点のそば、茨城県道264号線に北面して鎮座する浅間神社(結城市結城50)。
 鳥居の柱には「昭和八年四月吉日」と刻まれている。
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 一見変わった形の燈籠かとも思ったが、末社なんでしょうかね? 背面には「平成十年十一月吉日 島田建設(株)」と刻まれている。
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『浅間神社
御祭神 木花開耶姫命
由緒、沿革
創建は詳らかでないが霊峰富士山は大和民族の心のよりどころとして古来より信仰され、江戸時代頃行者、先達等の影響によって富士講が組織され次第に神社の形体が整ったものと思われる。この地より富士山を拝し、富士山の御神体を模し富士塚を形成し、富士浅間神社を祀り、遥拝所(社殿)を造営して、火難消除、安産、機織りの守護神として崇められた。また大町の守護神として今日まで信仰を集め、今回町内挙げて奉賛会を組織して、大改修工事を着工し、無事竣工の秋を見、未来永劫その御神徳を忘れることなく子々孫々に伝えるものである。
 平成十戊寅年十一月吉日
     撰文 浅間神社宮司小貫隆嗣』
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 拝殿。
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 中には三基の石祠が納められている。
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愛宕神社(結城)

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 真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の東隣に鎮座する愛宕神社(結城市結城1395)。
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 拝殿。
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 ちょっと斜め。
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 本殿。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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精譱會員富澤冏碑
君氏富澤通稱宗伯常陸小塙人世業醫
寓結城丙戌年都鄙惡疫流行勢甚猛結
城傍有村曰小田林患者兩三官命君療
之君則百方盡術忽為所自感病而死實
明治十九年八月九日也嗚呼毉之臨病
猶兵之臨敵兵之沮撓無以制■醫而恇
怯何能奏效若君之死可謂不忝毉道者
也於是官特賜金若干充祭資惠遺族我
等亦以為同會員不堪哀悼相謀立碑記
其由以傳不朽云爾 根本信撰文并書
           宮田九鶴鐫
 ■部分は文字の形自体ははっきりしているのだが、現代の文字で当てはまるものがわからない。
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 歌碑。表面の文字は崩し字の為よくわからないが、裏面の碑文はしっかりしているので読み取れる。
關町大人名彛儀字叔威號雙阜一號茶六稱玄尺
常陸國真壁郡黒子邨人家世業醫大人常陸下館
藩儒醫大隝玄瑜門生也使男玄丈継箕裘焉明治
紀元之冬十二月卜居于下野國都賀郡福良邨纔
三年同四年春三月徒于結城町施醫術殆二十年
兵大人為人簡雅慕蕉翁遺風花晨月夕吟咏未甞
置又學千居士茶道業餘焚香煮泉愛書畫玩骨董
以爲樂也今茲建小碑于結城印遊寓鴻爪訣別東
西好友歸故郷草廬對筑波孱顔谷神保壽亦豈非
有煙霞未了因哉
  明治廿三年秋十月 男關町玄丈謹誌
             宮田九鶴鐫

住吉神社(結城)

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 結城市役所の西側に鎮座する住吉神社(茨城県結城市結城1411)。
 鳥居の額には「住吉社 高イ竒社」とある。こちらの住吉神社には高椅神社が合祀されているので、イ竒は椅の異体字なんでしょうかね。
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 こちらも結城百選の一つ。
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『住吉神社由来記
西の宮鎮守住吉神社の創建は建武(十四世紀)の頃とされるが、詳らかではない。
大阪市住吉区にある住吉大社を全国の総本社とする。

御祭神
 底筒男命 中筒男命 表筒男命
配祀
 髙椅神社

この三神は記紀神代巻によると伊弉諾命が筑紫の日向の橘の小戸の檍原で祓除けをされたときに生まれた神とされ、神功皇后三韓平定の際に神威を輝かし、凱旋の後今の地(大坂市住吉区)に創建された。此の縁起により当神社も創建されたものと思われる。
中世武士団は武運長久、一門繁栄、城下万民豊楽を祈願するために氏神を祭祀し手厚く守護した。結城家においても結城領内の既存の神社、もしくは新たに神社を建立し特に遇した。
十四世紀半ば南北朝時代、東国武士においても両統に分かれ激しく対立、北朝方結城家七代直朝の代、南朝方関城々主を討つため北斗七星に必勝を祈願、其の甲斐あって関城を攻略し、康永二年(一三四三)五月十日に結城七社を定めた。当住吉神社も七社の内に数えられた。これは七社(北斗七星)の中に破軍星を求め、祈願すれば、必勝を得るという秘法である。後に士庶ともに崇敬され、結城家からも崇敬篤く十八代秀康より祀田九石を賜ったといわれ、福井移封の後も名代を立て結城七社を巡拝された。また、神仏習合著しく別当神宮寺を置いた。(現大神宮)
文政五年(一八二二)三月社殿火災により焼失し、結城藩命を以って天保元年(一八三〇)に再建竣工した。江戸時代後期の神社建築の様式を伝えるのが現在の拝殿である。髙椅神社の配祀の年代、事由については解っていない。
爾来幾星霜、広大な御神徳、夢寐にも忘れることなく、西の宮町内の守り神として、町内氏子一丸となり境内神池の整備、社殿御屋根の修復、玉垣修復等を行い今日に至り、また御神徳を後世に伝えるものである。

例祭日
 春季例祭
 四月二十九日(昭和の日)太々御神楽奉奏
 秋季例祭
 十一月二十三日(勤労感謝の日)
結城七社
 ①牛頭天王(健田須賀神社)②住吉大明神(西の宮)③大桑大明神(小森)
 ④髙椅大明神(髙椅)⑤八幡宮(上簗)⑥大神宮(中河原)⑦鷲宮大明神(萱橋)
 以上七社を巡拝すると霊験があると昔より言われている。

 平成十九年一月吉日
                       撰文 宮司 小貫隆嗣』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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 池の隣には境内社。
 社名を記したものは見当たらないが、結城百選の説明を見ると「境内には酒造りの神である松尾神社があり」と記されているので、こちらの神社は松尾神社なのだろう。
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『宮田愼齋之碑
愼齋宮田君碑          判事 正七位 藤田九萬撰
君名秀堅字子浩宮田氏愼齋其號世仕結城藩父秀方爲下邑成東宰有治蹟君其第
二子少好學入藩黌受經於櫻川小晦明治戊辰 王師東下結城侯水野勝知在江戸
為徳川氏本藩義徒奉公叔勝寛勤 王勝知率徳川氏逋臣來襲藩城城陥而復者二
當是時物議沸騰闔藩洶洶老臣以下或不知所爲而君方弱冠堅執大義勖勵同志水
野氏社得不屋者君與有力焉事定論功以餘子別賜俸禄擢少參事既而 朝廷廢藩
君起應印旛縣辟拜權大屬尋陞大属堂警察印旛県癈仕千葉縣遷二等警部官制革
爲五等警部兼五等屬松戸警察署長十一年六月以疾罷明年三月一日歿於家年三
十四葬大谷瀬坊大勝寺先塋之次配興津氏無子以兄秀俊子貫一嗣君為吏竭力於
職不避艱險時方 朝政革新百度更張如地方警察實属創始君當其局執新法而馭
舊民緩急有序寛猛得宜余元老院議官柴原君和為縣令甚信任之行徳村民數百人
結黨将詰縣廳有所要請縣令遣君往諭之民恃衆弗聽君挺身當其衝曰汝竟不悟先
斫吾頭辭氣凛然衆即引去及其在松戸尤盡心民事民至余思之夙喪父事母阪本氏
奉養備至一日在署聞其疾輙桂容而去侍輿浴函嶺熱海温泉留數月怡愉盡歡疾痊
乃還益君之孝順出乎天性移而事上推而及民一以至誠櫻川小晦與人書曰愼齋不
為詭激之行又無赫赫之功■徳以感物人亦親愛之誠爲知言君既歿後五年其共廣
田斌永尾敬一長房利順等与乎兼縣大書記官岩佐君謀建石於結城住吉祠頭請議
官柴原君題額而属文於予予曽與君同僚誼不徳辤乃序而銘之詩曰
何以居官  勤謹果毅  何以蒞民
鐫銘貞珉  以詔百代
明治十七年歳次甲申三月
         元老院議官從四位勲三等柴原 和篆額
         千葉縣大書記官從六位勲六等岩佐為春書』
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 「歩く道」案内板。
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 公衆トイレ前のオブジェ。
 その周囲には出土品を写したプレートが埋め込まれている。
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 住吉神社北側の道端に鎮座する地蔵堂

安穏寺(結城)

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 曹洞宗結城山大寂院安穏寺(結城市結城1725)。
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 こちらも結城百選の一つ。
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『安穏寺
 安穏寺は、結城山大寂院安穏寺と称する曹洞宗の寺院です。
奈良時代に、祚蓮律師という高名な僧侶によって律宗の寺として創建されたと言われています。室町時代になり、応安四(一二七一)年、結城家八代直光が、源翁和尚を招いて開基として、禅宗の寺として改めて創建されました。
 源翁和尚は、那須で人々や鳥獣に害を与えていた殺生石を二つに割り、中にいた悪霊を成仏させた人物として知られ、このことから石を砕いたりする槌のことを「げんのう」と呼ぶようになったと言われています。今でも当寺には、源翁和尚愛用の数珠と払子が伝えれられているほか、市内玉岡町には「源翁和尚の墓」(市指定史跡)が残されています。
 安穏寺は、結城家やその重臣である多賀谷氏から厚く保護を受けていましたが、なかでも結城家十六代政勝は自分の菩提所とし、「安穏寺殿大雲藤長居士」という位牌をつくったほか、十七代晴朝は、当寺において自身の吉凶を占っていました。
 なお、境内にある山門は、和様を基本としながら禅宗様が取り入れられており、赤門の名で親しまれています。

県指定文化財
 数珠 工芸品・室町時代・昭和三十二年一月二十五日指定
 払子 工芸品・室町時代・昭和三十二年一月二十五日指定
市指定文化財
 源翁禅師頂相
  絵画・室町時代・昭和五十一年四月一日指定
 安穏寺山門
  建造物・江戸時代・平成二十一年十一月三十日指定
平成二十二年三月』
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 結城市指定文化財の山門。
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 本堂。
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『安穏寺境内墓地特別整備事業
曹洞宗 結城山 大寂院 安穏寺(鍛冶町一七二五番地)
 春は花 夏ほととぎす 秋は月
      冬雪さえてすずしかりけり   道元禅師
 境内地、約六千三百平方メートル。本堂、朱塗二層楼の山門、通称「赤門」。櫻、梅、椿等の樹々が季節の移ろい、心の安らぎを添える。
 江戸時代、五三 石。南隣接の神社は別当であった。

 森鴎外とも親交のあった三十四世代、山林開墾、土地改良事業を進めるも、第二次大戦後の農地解放令により十三町歩(約十三万平方メートル)の土地を解放す。
 昭和三十年後半、市政の北部開発により、境内地続きの山林が御朱印町住宅の一部となり、子供の遊び場終了。三十五世寺族、若き住職共々、再び苦渋の選択を享受。
 昭和四十年代より六十年代にかけ、役員、檀家各位の尽力により、歴代住職墓地改修、墓参用水道工事、客院庫院建設、また、永年教職員にあった三十六世住職、寺族により、休憩所、資料展示室、茶室、トイレ改修、更に書院、寺務室を増設す。

 平成元年、(一九八九)御朱印堀、龍神堀、竹林、杉木立に囲まれた寺も、時代の流れ、周囲の環境の変化により「結城山」が盆地となり、高台となった四方からの流水、平成九年の大台風による大塀倒壊、墓石の危険等緊急を要する事が次々と起こり、当初の予想よりはるか多額の大事業となる。史跡「源翁和尚の墓」も然り。

 三十六世、十歳にして、三十五世の遷化にあい、戦中戦後の激動の中、寺族共々ひたすら守り続けた法灯。
 積みにし法務の中、病に倒れ、多くの方々に惜しまれつ、青春の思い出多き用賀にて遷化す。
 早朝より集いし方々の、暖かい出迎えを受け、心にかけし 古き赤門をくぐる。平成十五年の春なり。
 青く澄んだ四月の空、ますます悲し。

 万緑して静かなり朱の仁王門 秀夫(三十六世)

 三十六世遺族、志を継ぐ。心にかけし日より、二十余年の歳月を経、今ここに碑を建立す。合掌
      平成二十一年四月七日  林広忌
            三十六世 寺族 記』
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 詩碑。

秋葉龍神両社(結城)

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 曹洞宗安穏寺の南側に鎮座する秋葉龍神両社(茨城県結城市結城1709)。
 社号標石の側面には「昭和七年四月 氏子中」、鳥居の柱には「平成五年十二月吉日」「鍛冶町氏子中」と刻まれている。
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 拝殿。
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 額には「正一位穐葉大権現」とある。
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 斜めから。
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 青面金剛と庚申塔。

神明神社(結城)

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 結城七社の内の六之宮にあたる神明神社(結城市結城1858)。
 最初の結城七社には含まれていなかったが、小山市中河原の神明宮や小山市梁の八幡宮などが結城の地内から外れたことにより結城七社から除外され、新たに加わった神社の一つがこちらである。
 社号標石の裏には「昭和十六年十一月建」、鳥居には「平成十一年十一月吉日」と刻まれている。
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 こちらも結城百選の一つ。
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 拝殿。
 嘗ては案内板に由緒等が記されていたのだろうが、今では殆どの文字が消えてしまっている。
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 観音菩薩と十九夜塔、地蔵尊など。
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稲荷大明神(結城)

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 結城七社六之宮神明神社の北西100m程の位置に鎮座する稲荷大明神(結城市結城1793-18)。
 この鳥居の笠木は左右で太さが違うが、なんらかの意味があるのだろうか。
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 拝殿。
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御嶽神社(結城)

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 茨城県道35号線脇、小山市との境に鎮座する木曽御嶽本教巴講本祠御嶽神社(結城市結城1873)。
 鳥居の柱には「昭和三十八年四月吉日建之」と刻まれている。
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 狛犬。
 台座には「平成11年9月吉日」と刻まれている。
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 拝殿。
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 西側から。

愛宕神社(結城)

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 茨城県道35号線端の電柱脇に立てられた愛宕神社(結城市結城)。
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蛭子神社(結城)

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 大輪寺から北西に150m程の位置に鎮座する蛭子神社(結城市結城1174)。
 鳥居の柱には「大正七年十二月吉祥」と刻まれている。
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 こちらもまた結城百選の一つ。
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 拝殿。
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 庚申塔と末社。
 扁額からは文字が消えてしまっており、何神社なのかわからない。

 以上で3月4日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,802歩。

大輪寺(結城)

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 真言宗豊山派如意山観音院大輪寺(結城市結城1139)。
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『大輪寺
 如意山観音院大輪寺と称し、真言宗豊山派の寺院です。
 もとは、常陸国河内郡に在り、大輪坊と称しましたが、鎌倉時代の安貞元年(一二二七年)現在地に移され、開基を元観として大輪寺と改称されたと伝えられます。
 結城家初代朝光より寺領を給わり、以来結城家の祈願所となり、末寺二十二ヶ寺を擁する有力寺院でした。
 当時に伝わる文化財のうち「大黒天像(彫刻)」及び「経典(大日経など十三巻)」と、これを収める「根来塗経管(経を入れる箱)」が市指定となっています。
 また、当時の境外仏堂の人手観音の本尊、聖観音立像も市指定を受けています。
 この地方一帯の人々に、「人手の観音さん」と親しまれ、春のご縁日には桜の名所でもあり沢山の善男善女でにぎわいます』
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 本堂。
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 こちらも結城百選の一つ。
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 位牌堂。
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 大黒天。
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地蔵堂(結城)

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 紬の里結城パークゴルフ場の北側、道路端に鎮座する地蔵堂(結城市結城2874)。

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 紬の里結城パークゴルフ場の隣に鎮座する神社(結城市結城2877)……なのだが、社名を記したものが見当たらず、またググってみても出て来ないし結城市誌にも記述が見当たらないので何神社なのかは不明。
 古墳っぽい感じにも見えるが、古墳サイトを検索しても記述は見当たらないので違うのだろう。
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 ……ゴルフ場の職員さんに訊けば判ったのかも知れないかなぁ?

慈眼院結城家御廟(結城)

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 松月院の西側、大谷瀬町集会所脇に位置する慈眼院結城家御廟(結城市結城2709)。
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 左の塚の上に二十基の五輪塔があり、右の祠は八尺堂。
 そしてこちらも結城百選の一つ。
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『史跡 慈眼院結城家御廟
 かつてこの地は、小塙・乗国寺末の福聚山慈眼院という曹洞宗寺院の境内で、結城市歴代の御廟としてふさわしいものでした。
 戦国時代の結城家十六代政勝は、鎌倉時代からの名門結城家の将来を託した嫡子・明朝に先立たれ、世の無常を感じてか、出家し、自ら大雲藤長と名乗り有髪の僧となり、一五五三年(天文二二)慈眼院を創建しました。
 御廟は、周囲に堀を構え、塚状に土を盛り、土塁を廻らし、床面には大谷石を敷き詰め、さらに塚全体に玉石を並べるなど、排水に細心の注意が施されています。
 その中に前壇を設け、初代・朝光から十六代・政勝に加えて明朝、さらに、妙仙ほか無銘の二基を含めて、二十基の花崗岩製の五輪塔が図のように並んでいます。
 御廟成立の時期については、次のような説があります。
(一) 政勝が隠居後、各所にあった先祖の墓を移して、惣御廟を築造した。
(二) 十八代秀康が、越前に転封するにあたり、結城家に関わる諸寺院を越前に移転す
   るに際し、各寺院等の歴代の墓を移して、御廟を築造した。
(三)秀康の転封後、この地方を治めた代官(伊奈備前守忠次)が、領民懐柔策の一環と
  して、結城氏歴代の御廟を築造した』
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 ぐるりと並ぶ五輪塔。
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 八尺堂。
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 扁額には「慈眼院八尺堂観音」と書かれている。ぽぽぽとか言い出したりはしない筈。
 扇形の扁額には御詠歌が刻まれているが、崩し字はわかり難いなぁ。「罪とがの 雲ははれ●●八尺堂 ながめはここに 朝日かがやく」かな? ●●の部分はなんだろね。
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 大谷瀬町集会所の裏には八尺堂朝日観音旧所在地の碑。

松月院(結城)

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 田川右岸に位置する曹洞宗窪田山松月院(結城市結城2716)。
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 こちらもまた結城百選の一つ。
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 本堂。
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『松月院の由緒
窪田山松月院と称し、曹洞宗に属する禅寺である。本尊は釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛である。
開基は結城家十七代晴朝公である。御簾中の松月院殿慈室妙永大姉の菩提を弔うために、見龍山乗國寺四世信及前豚大和尚に請して、戦国時代に開山創建した。
松月院の寺号は、松月院殿の御戒名が謂われである。
天正十三年(一五八五)御簾中が逝去されたので、晴朝公は御簾中の菩提のため、寺領十石を寄進した。
慶長六年(一六〇一)十八代秀康公は、越前の國(福井県)六十七万石に国替えとなり、晴朝公はこれに従い越前の國に移り、鎌倉時代から四百三十年続いた関東の覇者、結城家の時代が終わった。
晴朝公は遠い国から故郷を想い、焼香料等を本寺の見龍山乗國寺に納め、結城家祖先と松月院殿の供養を依頼している。
徳川時代になると、幕府より歴代将軍の名をもって、窪田山松月院に対し十石の朱印寺領が与えられた。
窪田山松月院は、本寺の見龍山乗國寺と共に古来から結城家と密接な関係にあり、由緒正しい禅寺である。
 平成三年(一九九一)当院二十一世臥雲仙舟大和尚の発願により檀信徒が協力し庫裏客殿を建立、山内整備を進めた。
  (参考文献=乗國寺文書)』

道了大薩埵(結城)

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 小塙街道を挟んで乗国寺の西側、鉄砲宿児童館と一体化した道了大薩埵堂(結城市結城3063)。
 乗国寺の境外仏堂だろうか?
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 石碑には金剛水と刻まれているが、なんでしょねこれ。
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 新築記念碑。
『道了大薩埵奥の院並に拝殿老朽せし為町内一同協力新築しこゝに此れを記す
 (芳名部分につき略)
 昭和五十年六月一日竣工』
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乗国寺(結城)

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 曹洞宗見龍山覚心院乗国寺(結城市結城3073)。
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 参道右手側に六角堂が見えるが、これは隣接する建設高等職業訓練校の敷地内にある。
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 結城市指定文化財である総門。
 右側の石碑の裏面には以下の文が刻まれている。
『乗国寺門派の広がり(末並曽孫末六十三ヶ寺抜粋)
            山川城主山川家菩提寺  長徳院
            市妻城主多賀谷家菩提寺 多宝院
 結城家菩提寺 乗国寺 下館城主水谷家菩提寺  定林寺
            久下田城主水谷家菩提寺 芳全寺
            結城家(大雲)御廟   慈眼院

結城家菩提寺としての乗国寺
 見龍山覚心院乗国寺はもと福厳寺と言い、結城合戦で命を落とした持朝公の菩提を弔うため開創され、その後氏広公・政勝公・晴朝公の格別の帰依を受ける。
 氏広公は洪水にあった福厳寺を現在地に伽藍を移転し乗国寺と改称する。政勝公は結城家代々の墓所を改葬し乗国寺の末寺とする。晴朝公は貞廣公及び直光公の供養を任せるとともに、高野山と乗国寺に結城家過去帳を進上した。又、乗国寺八世芳嫩和尚は基光公の菩提寺廣智寺の中興開山となる。因って、乗国寺は結城家と共に結城家菩提寺として発展した。
  平成二十七年四月吉日
                   谷田部正躬
                   松月龍穏』
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『総門(四脚門・市指定文化財)
 延宝七年(千六百七十九)八月、十二世月堂薫明の創建。禅宗様の総﨔造り切妻造り瓦葺き。
 「見龍山」の額は月堂薫明の揮毫である。』
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『乗国寺
 見龍山覚心院乗国寺と称し、宝徳元年(一四四九年)結城家十三代成朝公が結城合戦で戦死した十二代持朝公の菩提をとむらうために松庵宗栄を招いて建立したと伝えられています。
 創建当時は現在の場所とはちがい、鬼怒川・田川に挟まれた常陸、下野、下総の三国にまたがり建てられていたことから三国山の号を有していました。
 一四七九年に大洪水により寺地が流出したため現在の地に移建され、「見龍山乗国寺」と改称され今日に至っています。
 結城家とは密接な関係に在り、千四百石の寺領を有した時期もありました。
 当時に伝わる文化財には、建造物として「三門〈楼門〉」、「四脚門」等があり、いずれも市指定文化財になっています』
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『見龍山
 寛文一三癸丑(一六七三)年二月二日夜、松平直矩公(二世)は、播州(播磨国)姫路鎮守軍八頭・正一位伊佐大明神の霊夢によって、一知見龍の触文を蒙られました。家士の日向東右衛門によると、易に云うところの吉夢であり、直矩公(二世)は、同(一六七三)年六月一八日に、右の御触文を御馬標に餝付けるよう命ぜられ、是から代々の御標になりました。
 また、明矩公(四世)は、御指物に白麻に墨で見龍の二字を直に書き写されて用いられ、具足の胸にも付けておいでになります。見龍は、乗国寺の山号です。
 「結城御代記」より』
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 こちらも結城百選の一つ。
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 参道に並ぶ五百羅漢の一部。
 向い側には六地蔵がある。
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『山門(楼門・市指定文化財)
 赤門として親しまれている。正徳三年(千七百十三)十四世巌照印叢の創建。木造銅板葺き、入母屋造り、屋根の両端に蕨手形が付けられている。明治三十五年の大暴風雨で崩壊。大正十三年九月、上層はそのまま組み立て、下層はコンクリート造りに改築した』
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 本堂。
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 狛犬。
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『江湖権輿道場
 曹洞宗の法幡建立の起こりは、高祖大師(道元禅師)が宇治の興聖寺で雨安居を結ばれた時にあるが、最も隆盛を極めたのは、文明十一年後土御門帝から関東の僧録(僧官の任免)を司った下総結城 乗国寺開山松庵宗栄禅師が常に三千指の大衆を会下に集め「江湖最初之道場」なる扁額を掲ぐるに至って其の頂点に達した。僧録は、慶長十九年まで百三十六年間続き安居僧を掛塔せしめ江湖会がここに始まり隆盛を極めたのである。
 「洞上公論」より
◆法幡・・・説法の道場の標識
◆江湖会・・天下の禅僧が集まり修行すること
◆安居・・・一定の期間を定めて住し、坐禅修行すること
◆掛塔・・・衣鉢袋を僧堂(道場)に掛けること、転じて僧堂に止まり安居すること』

『本堂
 現在の本堂は文久元年(千八百六十)二十七世道隆宗穏が﨔は当山の木を使い大雄山最乗寺(南足柄市)から杉松の巨木を運んで最乗寺の本堂と同様に建立したと伝えられ、道了大権現の火盗除けの御利益あらたかである。大正八年三十四世耐中惠忍は茅葺きを瓦に変え、平成十二年、開創五百五十年を記念して屋根の葺き替え改修をしている』
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 五百羅漢に囲まれる仏陀。
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 六角堂と一葉観音菩薩。
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 大悲閣。
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『三国観音由来
 絹川村小森出身の斎藤茂一郎翁が満州開拓のおり、西蔵の国にありし此の観世音菩薩に誓願し所願成就を悦び、また、平常に孝養怠らぬ翁は御母の長命を祈り米寿を祝い荘厳極まれる御堂を建て、観世音菩薩をはるばる西蔵の国より当山にお迎え申し安置す。(一九三一・昭和六年七月十五日)
 時に当山三十四世耐中恵忍和尚が三国観音と号される爾来、「三国観音さん」と呼ばれ老若男女誓願し所願成就を悦ぶ人多い。
 観音妙智力能救世間若の大慈悲心に包まれ御姿に接し息災延命・家内安穏・安産子育・交通安全等を所願成就祈願しあらたかな霊験を信仰し慕う人の数多し。
 堂内の「大悲閣」額は時の内閣総理大臣若槻禮次郎氏の揮毫当山安置六十年を記念し之を建てる。
 平成四年五月吉日 曹洞宗 見龍山 乗国寺』
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 烏枢澁摩明王堂。と言うかトイレ。
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 鐘楼。
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『見龍山乗国寺の由緒
 乗国寺は「見龍山覚心院乗国寺」といい、曹洞宗に属する禅寺で、結城家の菩提所として開創された。
 戦国争乱の室町時代、「結城合戦」で結城家十一代氏朝公、十二代持朝公父子は戦いに敗れ自らの命を絶った。嘉吉元年(1441)の四月十六日のことである。
 乗国寺はもと福厳寺という。結城合戦の時すでに福厳寺はあった。「福厳寺口」と呼ばれる結城城の東の出入口にある寺で、この辺りで大きな合戦があったといわれる。宝徳元年(1449)開山に松庵宗榮禅師が招かれ、持朝公の菩提を弔う寺となる。
 持朝公は開基となり、法名「福厳寺殿天英聖勇大禅定門」の御位牌が安置されたのである。
 寺は三国山福厳寺となる。
 三国山とは常陸・下総・下野の三国の事で、その境界の上に建立されたことを示すために山号としたといわれる。
『乗国寺起立』によれば、福厳寺は鬼怒川と田川に挟まれた処にあり、度々洪水があった。
 文明十一年(1479)の洪水では伽藍を失い、ただちに結城家十四代氏広公は現在地の上小塙に移転して、見龍山覚心院乗国寺と改称し再興されたという。
 氏広公の法名「乗国寺殿日峯宗光大禅定門」は乗国寺を保護してきた中興開基としての証しである。
 以後、十六代政勝公、十七代晴朝公の格別の帰依を受け、結城家の位牌所としての乗国寺は確立していった。
 また、徳川家康の次男秀康が結城家の養子となった縁かた、徳川幕府より格別の計らいがあり、乗国寺には御朱印六十一石六斗八升の寺領を賜っている。
 当山の鎮守は健田神社であった。
 結城本郷の地にあり、結城の総鎮守として多くの人々から信仰を受け、特に江戸時代衰廃した宮殿を再建し、宝暦十三年(1763)から明治三年(1870)の神仏分離までの間、別当職を乗国寺が務め管轄していた。
 その後、健田神社は移転統合され、結城市浦町に健田須賀神社として創建されている。
 近年、様々な表情をしている五百羅漢を境内のあちこちに見る事ができる。
 これは現住臥雲仙舟(鈴木)の下、信仰厚い檀信徒たちがそれぞれ発願して寄進したものである。
 また乗国寺では本堂の後ろに坐禅堂を建立した。
 念願であった坐禅修行のできる寺として漸く実現したものである。坐禅をしたい人のためには、正式な参禅指導を行っている』
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 見龍山乗國寺年表と曹洞宗乗國寺関係本末図。
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貴布禰神社(結城)

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 曹洞宗見龍山覚心院乗国寺の200m程東に鎮座する貴布禰神社(結城市結城3119)。
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 こちらの神社も結城百選に選出されている。
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 拝殿前の石燈籠は結城市指定文化財であり、左の石燈籠は元禄十二己卯年(1699)、右の石燈籠は延享元甲子年(1744)の造立。
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『貴布禰神社
一、祭神 高龗命
  境内社 稲荷神社(倉稲魂命)
一、由緒
 社伝に康元元年(一二五六年)結城大蔵少輔朝広が創建した。宝永七年(一七〇一年)宗源宣旨により正一位を奉授された。明治十五年四月十五日に村社となった。大正元年十二月当町内無格社天神社(菅原道真)を合祀した。昭和二十七年八月二十一日宗教法人に改組された。
 昭和六十年四月一日』
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 拝殿斜めから。
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 横から。
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 本殿。
 こちらの本殿彫刻も結城市の文化財に指定されている。
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 本殿西面の彫刻と東面の彫刻。
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 北面の彫刻。
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 結城市指定文化財の宝篋印塔。
 左の祠は大師祠。後ろには地蔵尊や如意輪観音、馬頭観音、その他供養塔などが並んでいる。
 宝篋印塔には以下の文が刻まれている。
(東面)經曰若有有情
    能於此塔一香
    一華禮拜供羪
    八十億劫生死
    重罪一時消滅
(南面)生免災殃死生
    佛家又曰所得
    功徳説不可盡
    奉納寶篋印陀羅尼
(西面)願以此功徳
    普及於一切
    我等與衆生
    皆共成佛道
(北面)上求菩提
    下化衆生
    寛政四壬子歳
    四月大善根月
     生國小森村
      願主 観印徳■■■
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 天満宮と稲荷神社。
 稲荷社参道脇に六つのコンクリート製の土台らしきものがあるが、並びから見てお狐様か、或いは拝殿のようなものが以前は設置されてたのだろうか?
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 馬頭尊と石祠。

観音堂(結城)

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 大杉殿の30m程南東に鎮座する観音堂(結城市結城)。
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 庚申塔と如意輪観音など。
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大杉殿(結城)

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 乗国寺の南西、小塙街道に面して鎮座する大杉殿(結城市結城3157)。
 鳥居の柱には「昭和五十九年七月吉日」「上下小塙氏子中」と刻まれている。
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『大杉神社(安斉寮 大杉明神)
一、祭神
   (大國主命)
  倭大物主櫛甕玉命
一、由緒 元禄三年真言宗満蔵院所有地の除地(安斉寮)に創立
一、茨城県稲敷郡桜川村阿波大杉神社より分祀す
一、出雲國造神賀詞(古事記)の中に治めて倭大物主櫛甕玉命の御名が出てくる奈良県桜
 井三輪の三輪山(みわの神奈備)即大神神社に鎮祀されている』
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 天狗面。
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