聰敏神社(結城)

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 城跡公園の西側に鎮座する聰敏神社(結城市結城1484)。
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 鳥居の柱には「文政二己卯歳六月吉祥日」「奉獻 上總御領分邨=百姓共」と刻まれている。文政二年は1819年。
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 拝殿。
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 東側から。
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聰敏神社由来記
 聰敏神社は旧結城藩水野家初代水野日向守勝成公(一五六四~一六五一)を祭神として祀る所である
 勝成公は徳川幕府誕生の時期に於て親藩 譜代切っての勇将として関ヶ原の役 大阪冬の陣 同夏の陣 島原の乱に参戦してそれぞれ大功あり 特に夏の陣にあっては主要なる攻め口であった大和口の主将として采配を振い 本多忠政 伊達政宗らと相率い 大阪方の城主後藤基次 薄田隼人らを破り徳川方の勝利を決定的たらしめた その功により大和郡山六万石に封ぜられ その後 備後福山(現広島県福山市)十万石に封ぜられた
 さらに寛永十五年(一六三八)には七十五歳の高齢をもって島原の乱に出陣 水野軍一番槍の功を挙げ 島原の乱を平定した しかし 島原の乱平定以後は平和の時世となるを達観し 治山治水の事に専念し 領主としてひたすら領国経営に精進し今日の福山の基礎を揺ぎなきものとした なかでも水道事業は江戸神田上水と共に日本最古のものと稱せられる それ故をもって武将としての勝成よりも裃姿の銅像が福山市に設置され市民に尊敬されている由縁である
 勝成公は当時としては稀に見る長寿であり慶安四年(一六五一)行年八十八歳で他界 生前の業績を偲び聰敏大明神と稱せられた
 その後水野家は累代福山に在卋したが元禄年間五代勝岑二歳にして逝去 後嗣無きにより一時水野家廃絶の運命となったが 勝成公の戦功と公が家康の母(伝通院)方の従兄弟であった縁故に依り元禄十一年下総結城に一万八千石をもって再封された その後伝統連綿 明治を経て二百九十余年今日に到った
 文化十三年結城聰敏神社は福山聰敏神社より分霊勧請せられた
 なお結城城址たるや古来臥牛城の稱あり 古くは鎌倉時代結城朝光公の本拠たりしが 結城家福井移封の後は多年交配に帰した その間は天領として伊奈代官の治むる所であった
 水野家再封の後は城館を建設したるも明治維新期における戊辰の役で燒亡したと云う
 ここに聰敏神社の由来記に併せて臥牛城の今昔を回顧するものである
  平成二年十一月二十三日
              鈴置一郎 謹識
              光岡三省 謹書
 裏面。
聰敏神社建立・改修記
 この聰敏神社は 文化十三年 当時の結城藩十二代城主水野勝愛公が 初代勝成公の遺徳を慕び 今の広島県 福山市の 聰敏神社より勧請(神佛の来臨を請い 分霊を移し祀ること)し建立された
        左 水野日向守源勝成公
宗源 聰敏明神
        右 水野美作守源勝種公
右■奉勧請     備後國福山
神靈者神祇管領   聰敏明神 神主道師
長上卜部之家傳受如件 池田上総介  藤原宗イ竒
 文化十三年丙子三月廿五日   (一八一六年)
●神社建立
  文政元年六月起工 文政三年三月二十九日完工
  鳥居建立     文政二年六月
  御門燈建立    文政十年五月
●戊辰戦争            (一八六八年)
 旧結城藩水野家居城臥牛城は戦火により燒亡せしも神社は残された
●神社合併            (一九〇八年)
  白峯神社
  稲荷神社
  八幡神社  以上の四神社が聰敏神社に合併された
  十二天神神      村社聰敏神社ヘ合併ノ件聞届
 明治四十一年十二月十二日 茨城県知事  坂 仲輔
●神殿大修繕工事         (一九〇九年)
 明治四十二年五月起工  十月十七日    落成
 募金戸数 二三二戸   募金額八百七十八円五十銭
●社殿修築及附帯工事       (一九七二年)
 昭和四十七年六月起工 十一月二十四日   竣工
 募金戸数 一八七戸   募金額壱百四十三万円五千円
●神社大改修工事         (一九九〇年)
 平成二年一月起工   十一月二十三日   竣工
 募金戸数 二六六戸   募金額千百二十二万円六千円
 社殿屋根瓦葺き替え 由来記。鳥居額。建具類新調
 御門燈建立及修復 水屋修復 外柵製作

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篆刻師三卋號士人
無量壽庵三木常正作詩書

 偲水野勝成公
鞆浦巖頭偲注賢
勝成公悉利天然
巍然天守名城譽
三萬頃田遺徳傳

福山城主・水野勝成公・マコトニ名君ナリ・連戰連勝・敗ヲ知ラザル勇将ナリ・三萬ノ頃田=三萬町歩(三万ヘクタール)開拓シ今尚傳ウ・福山ヲ尋ネ聰敏本社ニ詣デ賢忠寺ニ於テ勝成公ノ法要ニ参列墓前ニ結城ノ櫻ヲ植樹・鞆浦ニ泊シ注古ヲ偲ンデ作詩ス・古稀記念ニ建碑(吟詠詩集日本之四季ヨリ)
 裏面。
 結城城址ニ過年水野勝邦公ヲ御迎エシテ聰敏神社ニ詣デ舊臣ト本町氏子総出デ御本丸ノ櫻ノ花ヲ賞シ和氣靄々樂シク時ヲ過ゴシタ折リニ城址之櫻花ノ詩ヲ作ル

 賞城址之櫻花
訪花無酒興難伸
有酒看花歌啓唇
紅雪放香葩亂舞
吟詩樂酒讃花人

 水野城主ハ往時・桐ノ植樹ヲ成シ領民ノ福祉ヲ計ッタノデ今日デモ福山市ニ次グ桐製品ノ産地トナル・尚・水野城主ハ結城政勝公ノ遺風ヲ継ギ・御朱印堀内ノ地子税ヲ免除シテ・城下町ノ繁榮ヲ計リ明治維新ニ至ル 献上品ハ饂飩ト牛蒡也
 私ノ著書・吟詠詩集・日本之四季・還暦記念ニ出版・茲ニ古稀ヲ迎エ江戸時代ヲ偲ブ・日本詩人連盟会員三木常正謹書
   昭和五十八年十一月二十三日建之
         紺屋町中村石材店吉雄刻


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 城跡公園入口。
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結城市指定史跡 結城城跡
 結城城は治承年間(一一七七~一一八〇)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
 その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正十九年(一五九一年)徳川家康の二男秀康を十七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(一六〇一年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
 結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄十三年(一七〇〇年)水野勝長(一八〇〇〇石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
 結城の名を不朽にしたのは永享十二年(一四四〇年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家十一代氏朝(一四〇二~一四四一年)は、持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて兵を挙げた。
 幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費し、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。
  結城市教育委員会
          平成四年四月四日 建立

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 こちらも結城百選の一つ。
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 与謝蕪村句碑。
 「ゆく春やむらさきさむる筑波山」
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 水野家顕彰碑。
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 公園の中にぽつんと建てられた鳥居。柱には「昭和五年三月」「結城町有志」と刻まれている。
 鳥居の奥に見える石を祀っているのかと思ったが、石には結城ライオンズクラブの25周年と40周年の記念樹と刻まれており、どう見ても御神体のようには見えない。なんなんだろう、この鳥居。

 以上で3月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、FA28mm、FA43mm。X30。
 ウォーキングカウンターは18,787歩。
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羽黒熊野神社(大谷瀬)

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 大谷瀬児童会館の裏に鎮座する羽黒熊野神社(結城市大谷瀬512)。
 社殿改築記念碑の裏面には以下の碑文が刻まれている。
羽黒神社祭神倉稲魂命    応永九年桐ヶ瀬基光に依り創建 
熊野神社祭神家都美御子大神 同年代に創建された口傳なるも創建不詳
      素戔嗚尊    弘化戊申年に再建
明治四十三年神社統合令により両社合併
昭和二十七年八月二十二日宗教法人設立
 応永九年は1402年で室町幕府第四代将軍足利義持の時代。弘化戊申年は1848年(弘化五年)で江戸幕府第十二代将軍徳川家慶の時代。
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 大祖参神。
 なんだろうそれと思いググってみると、扶桑教の奉ずる三柱の神で、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神のことであるそうだ。つまり造化三神なのね。
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 大谷瀬児童会館。

香取神社(結城)

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 国道50号結城バイパス小森北交差点北東の畑の中に鎮座する香取神社(結城市結城4151)。
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 石碑や末社などは見当たらない。
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こもり観音堂(小森)

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 大桑神社の東隣に位置するこもり観音堂(結城市小森)。
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 地名が小森だから小森観音堂なのだろうと思うのだが、ひらがなで書かれていると子守観音堂であるかのようにも思える。
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 撮影時には気付かなかったのだが、この下段部分の謎ポーズをとるオッサンはなんなのだろう。
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 左奥から大日如来堂、薬師如来堂、地蔵菩薩。
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 如意輪観音、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音。

諏訪神社(久保田)

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 慶福公民館の80m程北東に鎮座する諏訪神社(結城市久保田)。
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 本殿覆屋。
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 五首の歌が書かれた板がある。
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 石祠と庚申塔。
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大桑神社(小森)

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 茨城県道15号脇に鎮座する大桑神社(結城市小森1)。
 社号標石の裏には「大正十一年一月建之」、鳥居の柱には「昭和四十八年四月吉日建之」と刻まれている。
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 こちらも結城百選の一つ。
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結城市指定文化財
 有形文化財〈建造物〉大桑神社本殿(平成四年三月三十一日指定)
 天然記念物     大桑神社の欅(昭和五十一年二月五日指定)
 流造、銅板葺、三面を彫刻で荘厳化した本殿は、千七百二十二年(享保七)に建てられ、当初は桧皮葺で、数回の葺きかえの後、千八百四十八年(嘉永元年)に銅板葺になったことが、棟札により確認されています。
 彫刻は、東西二面が中国の故事(東・虎渓三笑、西・光子甕割)、北面は日本神話(天の岩戸)を題材にしています。また、棟札には建造にあたった小森村の彫物大工や番匠、この地方の棟梁の名等が記されています。
 大桑神社の成立については、古代、東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が、養蚕・農業の神、稚産霊尊を祭神
として、北方の大水河原に創建、この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり、その後、洪水により流失、千四百七十九年(文明十一)今の地に移ったと伝わります。
 そして、南北朝時代には、結城家七代直朝が、関城攻略に際し、戦勝を祈願した結城七社の一つに数えられています。
 小森という地名は、阿波斎部の伝えた養蚕を守り、養蚕・織物が盛んであったことから、いつとはなしに、この辺りは「蚕守(こもり)」と称され、中世結城氏の時代には合戦に備えてこの地に兵を篭らせたことから、「篭(こもり)」と称されたことに由来すると伝わります。
 また境内の欅群は、大きいものは、目通り直径一・七メートル根まわり八メートルを超え、樹齢三百五十年以上と推定される、市内でも最大級の欅で、天然記念物に指定されています。

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 拝殿。
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 斜めから。
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 丸っこい狛犬。
 台座には「大正十四年六月吉日」と刻まれている。
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 少し角度を変えると、あらそんなに太くは見えないな。
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大桑神社の由來
火の神軻遇突智と土の神埴山姫とにより誕生の稚産霊の神は頭の上に蚕と桑が生じ臍の中には五穀が生えて農蚕業の神として尊崇さる 時元明天皇の和銅年代に現在の大水川原に創建 文明十一年と享保八年の大洪水のため社殿流出し延享二年現在地に再建す
天富命の命を受けた阿波の斉部なる者この地を通り大桑の木が茂りその部落の人の欲するまま蚕を与え養蚕の仕方を教え稚産霊尊を祀り部落を大桑郷と名付く 中世の結城家時代には不意の合戦に備える時の鐘あり軍兵交替に社に篭り篭と称され養蚕盛んとなり蚕守に転訛し現在の小森の称となる
結城七社の一に数えられ明治時代迠別当寺大桑山恵勝寺浄福院が在り
享保六年浄福院沙門元映誌に依る
昭和四十八年十一月十五日 孝顕英文書
 小森の名の変遷が鳥居脇の案内板の記述とは少し順序が違っているが、まぁ時代と共に当てる字が変わっているということでは概ね一緒か。
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 本殿。
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 本殿東側には大きな石が置かれている。
 蚕種石……ではないな。なんだろう。
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 天満天神宮。
 右側の石碑は凱旋記念之碑。
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小林儀八問壽臧碑
   正三位松田正久篆額
小林儀八君資性任侠重義輕財趨人之急如渇是
以信義顯郷黨頑強之徒亦拱手服従敦厚成風矣
君下總國結城郡絹川村小森人天保八年十二月
三十日生父久四郎母小林氏家世務稼穡冨冠閭
里君不好農耕注意商事兼業漕運見時察變處辨
不錯機冝得竒利不爲少人皆稱其敏慧凢有築校
修道架橋之事則率先出資且利衆益人之舉大小
莫不與之者初當自由民權説起籍於自由黨奔走
誘導大喚起人心毎見黨員窮者扶助補給以成其
志揮其囊資亳無所顧焉若君真可謂善聚善散也
君娶山中氏舉三子男半藏類父好義有令名女二
人倶孝順一家輯睦靄靄如春君今茲六十七歳郷
人念平生功徳胥謀欲建壽碑記事使余撰文余嘗
聞君名及見其状益服爲人即作之銘曰
 載聚載散 克柔克剛 義聲振衆
 徳化遍郷 絹川之湄 結城之陽
 有屹貞石 侠名長香
明治三十六年四月
    栗原亮一撰
    野口勝一書 宮田九鶴刻

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 結城市指定文化財(天然記念物)の欅の脇に……なんだったかなこれ。末社などではなかったと思うが、神庫かな。
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 境外の道端に馬頭尊。
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八幡神社(久保田)

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 鬼怒川に架かる栄橋の結城市側に一里塚があり、そこから170m程南西に鎮座する八幡神社(結城市久保田40)。
 鳥居の柱には「昭和十八年十一月竣工」と刻まれている。
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には「昭和十二年八月吉日」と刻まれている。
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 斜めから。
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 本殿。
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 庚申塔や青面金剛、十九夜塔など。
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十二天宮(久保田)

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 田川に架かる十二天橋の傍に鎮座する十二天宮(結城市久保田)。
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十二天宮の由来と祭神
十二天宮は十二人の天部神にして、伊舎那天 火天 羅刹天 風天 帝釋天 炎魔天 水天 毘沙門天の八方天に、梵天 地天 日天 月天の四天部を加いた尊なる祭神と云う。此の十二天宮は結城城主十一代氏朝の子窪田太郎が当地の地頭として任ぜられし昔に城に祀られてあった八幡宮と共に此処に鎮座し更に久保田の地名も窪田氏より起りしものと思料される
 昭和五拾八年拾二月吉日
 結城氏朝の子は持朝(結城氏十二代当主)、朝兼、長朝、成朝(十三代当主)の四人であるそうだが、窪田太郎って誰さ。御落胤なのかな。
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十二天宮社の再造営のあしあとの記
大正二年四月当字主神八幡神社に慶福の諏訪神社並びに天満宮、水神社とこの十二天宮が明治三十九年八月勅令によって合祀され十二天宮は関城町分中の地に譲與されて以来廃社となりしが戦後此の荒屋敷坪を始めとして十件以上の火災あり、当字古老の話しに十二天宮を粗略にした、ための神罰であるとの事で昭和四十四年九月に祠堂宇を建築せるも今回旧神地の造成を地元工野建設に宮城県北上郡珂北町■榊工務店に神殿の発注を依頼して今回その再建造営をみた次第である。米とお酒と木綿の布を、久保田河岸からお江戸の町に運ぶ白帆の高瀬舟と、唱われた鬼怒川の舟運によって開かれた久保田河岸の隆盛はその面影をとどめ得ないが温故知新古きよき時代を偲んで永く久保田の歴史を■と後世に伝いるためにも十二天宮の再建立は喜ばしきものである。
 大字久保田区長 古嶋通三郎
 「加いた」とか「伝いる」とか、「え」が「い」になっているのはこの辺りの特徴なのかなと思いググってみたら、やはり茨城弁の特徴であるようだ。
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 本殿覆屋。
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 本殿。
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白山大権現(久保田)

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 田川と鬼怒川の合流地点の近く、久保田児童会館の北東100m程の位置に鎮座する白山大権現(結城市久保田102)。
 額には「白山大権現 乙亥年夏日 剣山併刻」と記されている。平成七年(1995)、昭和十年(1935)、明治八年(1875)などが乙亥年に当たるが、割と新しい感じのものなので平成七年だろう。
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 本殿。
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赤城神社(小森)

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 結城市立絹川小学校の脇に鎮座する赤城神社(結城市小森364)。
 鳥居の額には「正一位赤城大明神」と記されている。
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 拝殿。
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 向拝蟇股には象の彫刻が施されている。
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 木鼻。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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 左から青麻神社、庚申塔、二十三夜供養塔、庚申供養塔、石祠、馬頭尊。
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青麻神社縁起
奥州宮城郡岩切村に鎮座まします中風根切■霊験あらたかな守護神なり永く無病息災壽命延命子孫長久の神徳を仰ぎ度く明治十二年初冬一月吉辰社主発起人永井■■赤城神社社頭周■■■下総国結城群小森村■■赤城神社に借地し遥拝のため間社として勧請の上祠を建立し萬世■昂の亀鑑に備えたるものなり
平成四年四月吉日
  神社総代 福■■■

香取神社(鹿窪)

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 結城市生きがいふれあいセンターの北側に鎮座する香取神社(結城市鹿窪513)。
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 南の鳥居。
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 参道左手側に七社宮。
香取神社境内社改築の碑
 明治四十一年に明治天皇より「一字一社」の勅令が発令された。それまで大字鹿窪地内に数社が祀られていた。勅令後大正二年四月に疱瘡除神社、浅間神社、弁天社、白山神社、他不明神社三社、合計七社を鹿窪鎮守香取神社へ合祀し、境内末社七宇を置き手厚く祀られていたが平成二十三年三月十一日に東日本大震災(マグニチュード九・〇)が発生し、境内鳥居、灯籠、狛犬、末社悉く倒壊損傷し、此の度氏子の総意を以って復興修復奉賛金を募り、被害工作物の修復と末社を建設し、七宇を一宇に合祀し、七社宮とし本社香取神社と合わせて四季折々の祭祀怠る事なく未来永劫に伝えるものである。
 平成二十五癸巳年三月吉日
   3・11震災復興委員会委員長(区長) 小林光一
    撰文   鹿窪香取神社 宮司 小貫隆嗣

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 参道。
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鹿窪香取神社社殿造営記念之碑
鹿窪香取神社由来記
 当鹿窪鎮守香取神社の創建は古く詳らかでないが、我が遠祖がこの鹿窪の村を拓かんとする時、下総国一の宮香取神宮の大神「経津主大神」を勧請し、政を行い、社殿を建立したものと思われる。
 明治六年には村社に列格し、今日まで鹿窪に住む人の心の拠り所として祭祀されている。香取大神は鹿島大神と共に出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、国内の平定、東国の開発を導かれた神である。即ち、鹿窪の開発、発展に大恩恵を賜った神であり、初詣、桜の花咲く春祭りの太々御神楽、夏祭りの神輿渡御、神恩に感謝する秋祭り等々、文字通り鹿窪の鎮守であり住民の心の安らぎを与えてくれる聖域でもある。
 今回、社殿の朽廃著しく、氏子二百十数戸、一念発起致すと共に、皇孫敬宮愛子内親王殿下御誕生を慶祝し、拝殿の建設、御本殿の大修復、神楽殿、神輿庫の建設を致し、神威無窮に輝き、未来永劫に亘り、鹿窪の安寧と更なる発展を茲に祈念するものである。
    平成十五年四月吉日
       結城市鹿窪鎮守
        撰文 香取神社宮司 小貫隆嗣

(神社概要)
 鎮座地  結城市鹿窪五一三番地
 祭 神  経津主大神
 祭 礼  元旦祭    一月一日
      春季例祭   四月吉日
      夏季例祭   七月吉日
      秋季例大祭 十一月吉日
 境 内  四九五二、六六平方米
 氏 子  二百十数戸

(社殿造営建設概要)
 本 殿  手水舎       造営工期 着手 平成十四年六月一日
 拝 殿  玉 垣            竣工 平成十五年三月二十日
 神楽殿  境内参道敷石工事  費用総額 一金 四千八百万円  也
 神輿庫

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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には昭和十二年四月吉日と刻まれている。
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 後ろから。
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 拝殿前の狛犬。
 台座には平成十五年四月吉日と刻まれている。
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 本殿。
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 東面の彫刻。
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 西面の彫刻。
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 北面の彫刻。
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 西の鳥居。柱には「昭和十二年四月吉日」と刻まれている。
 こちらの香取神社もまた結城百選の一つ。

子育観世音(鹿窪)

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 子育観世音堂(結城市鹿窪)。
 扁額には「奉納 子育観世音 昭和十年九月吉日 當村民謡大會紀念」と記されている。
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 観音堂の裏の石塔には「青龍■ 明治四十五年四月三十日建立 鹿窪中」と刻まれている。

宗七神社(鹿窪)

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 宮田家前の四つ角脇に鎮座する宗七神社(茨城県結城市鹿窪405)。
 鳥居の柱には「昭和十六年十一月」と刻まれている。右側の石祠は何神社なのか不明。
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 祠の中には「嗚呼 義勇哉宗七之霊」と刻まれた石塔が納められている。
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 こちらも結城百選の一つであり、説明を見ると、こちらの神社は寛政年間の年貢増強令に反発して起された農民一揆の指導者であった宮田宗七を祭神としているようだ。
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宮田翁の碑   農林大臣森幸太郎題額
宮田氏名は國三郎茨城縣結城郡鹿窪村の人先考五兵衛の二男天保九年十
一月その地に生れた 人と為り明敏謹儉にして公共の志に篤く夙に地方
農蠺業開發の為に盡瘁せられた 即ち安政五年率先上毛より多数の枽苗
を購入して居村に植付けこれら生産増殖の技術を村民に傳授しこれより
近郷枽苗の業大いに振興した 氏はなお蠺種の改良秋蠺飼育の創案桑摘
器の發明等幾多當業者を裨益する所多かった 氏は又測量製圖等の技術
に長じ傍見習生を養成志その益を受けたるもの百餘名の多きに達した
氏はかくの如く終始一貫尊き全生涯を地方蠺枽發展のために捧げられ以
て今日當地方蠺業者悉く發達し桑苗の名聲を博するに至った事は全く氏
の偉大なる功績であって洵に敬仰に堪えぬものである 乃ち有志茲に相
議り頌徳碑を祥地に建て永く後世に傳うるものである
昭和廿四年五月  茨城縣知事友末洋治撰文  長塚緑堂書

 ……宗七神社の由来や宮田宗七に関する碑かと思ったらまるで関係無かった。
 崩し字もちらほらと使われていて判読に困るが、電子くずし字字典データベース検索サービスという便利なサイトのおかげでなんとか読めた。
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愛宕神社(鹿窪)

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 浅間大神から70m程南下した道端に鎮座する愛宕神社(結城市鹿窪)。

浅間大神(鹿窪)

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 道路脇に鎮座する浅間大神と小御嶽神社(結城市鹿窪22)。

正一位稲荷大明神(結城)

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 民家の敷地の端に鎮座する稲荷大明神(結城市結城6488)。
 屋敷神っぽいかなー、でもこの建て方ならお参りしてもいいんだろーなーと言うことで参拝。
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 社号標石の後ろには浅間大神の石塔が二基建てられており、左は明治三十六年四月、右は明治三十年五月のものである。

 ストリートビューを見ると、西側の民家敷地端にも道路側を向いた石祠が鎮座しているが、現在は撤去されて無くなっていた。

香取神社(結城)

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 鹿窪運動公園の東300m程、有限会社茨城食品ガーリック工業傍に鎮座する香取神社(結城市結城6491)。
 鳥居の柱には「平成三年四月吉日氏子一同建之」と刻まれている。
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 拝殿。
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 馬頭観音や如意輪観音、庚申塔など。
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 香取神社の南側、鹿窪運動公園前から東へ走る道から見た結城筑波。

健田神社跡地(結城)

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 国道50号結城バイパス健田交差点の傍に位置する健田神社跡地(結城市結城)。
 延喜式内健田神社は現在は浦町の健田須賀神社に合祀されているが、明治三年まではこちらに鎮座していたのだろう。
 右奥には筑波山が見えており、結城筑波と呼ばれているのだそうだ。
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 こちらも結城百選の一つ。
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 延喜式内健田神社舊址の碑。
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 以上で3月11日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA16-85mm、DA FISH-EYE 10-17mm。X30。
 ウォーキングカウンターは15,362歩。

雪光稲荷神社(結城)

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 稲荷通りと国府町通りの交差する脇に鎮座する雪光稲荷神社(結城市結城562
 鳥居の柱には「平成二十三年十月吉日 氏子中」と刻まれている。
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 拝殿。
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『雪光稲荷神社由緒
御祭神 宇迦之御魂神(倉稲魂)
御由緒
正式の社名は稲荷神社。永正年間(一五〇四~一五二一)に稲作に蝗旱(害虫、日照り)の災いおこり近郷の農民驚嘆し孝顕寺住職に懇願する。稲荷大神を勧請、祈誓した甲斐あり収穫を得たり。
この明徳に感激し此の地に稲荷神社を創建したといわれる。明治までの神仏習合時、孝顕寺の境外仏として、いわゆる雪光稲荷と呼ばれ親しく祀られていた。その後神仏分離により無格社稲荷神社となり、戦後、神社本庁包括宗教法人稲荷神社となり、白銀町守り神の内、その一社として、町民十人に清掃輪番等を設け、手厚く崇敬されている。白銀町の町名に雪光稲荷に由来するものと思われる。
平成十七年春雪の暁、不審火により社殿焼失、その後町内氏子一丸となり茲に社殿を創建する。稲荷の大神は生命の根源を司る「いのち」の根の神として、商業、工業、農業の殖産興業神、人々の生活生命すべての守護神であり、広大無辺の御神徳を町内住民、忘れることなく子々孫々未来永劫に伝えるものである。
           撰文 稲荷神社 宮司 小貫隆嗣 謹撰』
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 末社。
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 南側から。
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健田須賀神社(結城)

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 結城七社の内の一之宮とされる健田須賀神社(結城市結城195)。
 公式サイト有り。
 孝顕寺の次は雷稲荷神社の前にこちらにお参りするつもりだったのだが、丁度神前式をしていたので先に雷稲荷神社と釈迦堂にお参りしてからこちらへ。
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『健田須賀神社
御祭神 武渟川別命 タケヌナカワワケノミコト
    須佐之男命 スサノオノミコト
健田須賀神社は明治三年(一八七〇)に健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
健田神社は、古代より市内健田の地に建てられ我が国の最古公式記録集「延喜式」に勅撰され東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
須賀神社は牛頭天王ともいい、疫病を祓う神、須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により仁治三年(一二四二)に創建されたと伝えられ、結城家第一の氏神として歴代の城主の崇敬篤く、七代直朝公が結城七社を定め、結城一〇八郷の総社として社地の寄進がありました。また当神社に伝わる古文書によると牛頭天王宮を中心とした中世都市結城の街を知る事ができます。結城家福井移封後も家臣を遣わし崇敬されました。
その後も連綿と市中氏子により結城の氏神、産土神として信仰され今日まで「心のふるさと」として祭祀され、夏季大祭は結城夏祭りとして、市中挙げての祭礼に大御輿が渡御され、氏子の健康、発展が祈願されます。厄除け、方位除け、健康を祈願する氏戸崇敬者は全国から訪れています。
御神徳
 家内安全 厄除 方位除 身体健全 交通安全 病気平癒 合格必勝
宝物
 結城家と当神社に係わる中世古文書(県指定文化財)
 獅子頭、木彫狛犬(市指定文化財)徳川歴代将軍朱印状
年間行事
 一月一日   歳旦祭  七月第三日曜日~第四日曜日 夏季大祭
 一月三日   元始祭
 二月三日   節分祭  七月三十一日  夏越祭
 二月十一日  紀元祭  十一月中    七五三成長祈願祭
 四月十五日 春季大祭  十一月十五日  例大祭(健田祭)
   (太々神楽奉納)  十二月三十一日 大祓式
 月次祭 毎月一日 十五日』
 そして当然結城百選の一つ。
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 参道右手側に戦没者慰霊殿。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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 拝殿。
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『健田須賀神社
 健田須賀神社は、明治三(一八七〇)年に、健田神社と現在地にある須賀神社が合祀されました。
 健田神社は、古代より市内健田の地に建てられた延喜式内社で「日本書紀」において東国地方を平定したとされる竹田臣の祖、武渟川別命を祀っています。
 須賀神社は、牛頭天王ともいい、疫病を払う神・須佐之男命を祀り、結城家初代朝光公により創建されたと伝えられ、歴代城主の崇敬篤く、七代直朝公が定めた結城七社では、中心的神社として社地等の寄進がありました。

県指定文化財
 健田須賀神社文書(古文書・室町時代)
 平成八年一月二五日指定
 この文書は、須賀神社に伝えられていたもので、鎌倉時代末から安土桃山時代まで、二巻・一九点あり、なかでも文和元(一三二五)年の「結城直光田地安堵状」は、旧結城郡内に現存する最古の文書です。また、文書の内容は、城下の商人の経済活動や結城氏の領地支配に関することまで含まれており、中世東国結城の神社や十人の様子を究明するうえで貴重な資料です。

市指定文化財
 狛犬 (彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五八センチメートル、吽形が高さ五四センチメートルで、江戸時代前期に奉納されたものと伝えられています。
 獅子頭(彫刻・江戸時代) 昭和五二年三月四日指定
 一対が指定され、阿形が高さ五四・四センチメートル、頭上に一本の角を有し、もう一方は高さ五〇センチメートルで、頭上に宝冠をいただいています。
平成一五年一一月』
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 神楽殿と県社昇格記念碑。
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 十二社殿と甲子稲荷神社。
 十二社殿は左から香取神社、白峰神社、三峰神社、足尾神社、羽黒神社、大神宮、鷲神社、八幡神社、松尾神社、大桑神社、高椅神社、住吉神社。甲子稲荷神社には甲子大黒天と倉稲魂命が祀られている。
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『十二社縁起
牛頭天王(浦町現須賀神社)住吉大明神(西の宮)
大桑大明神(小森村)高椅大明神(高橋村)
八幡宮(上簗村)大神宮(中河原村)鷲宮大明神(萱橋村)
この結城七社は結城家七代直朝が関城々主攻略の為北極星を中心にして回る北斗七星に願をかけ破軍星を求め七社に必勝を祈願した。その甲斐あって、関城を攻略し、康永二年(一三四三)七社制を定め篤く信仰し、社地の寄進、社殿の造営をおこなった。また同時にこの須賀神社に六社を合祀したともいわれている。
この七社をお参りすると願い事が叶えられると昔より
伝えられている。殊に七社から破軍星を求め、この破軍星を常に背負い勝負すると必勝が得られるという秘法である。
 他 香取神社(下総国一の宮)松尾神社(酒造の神)
   羽黒神社・三峯神社(火伏盗賊除の神)
   白峯神社(祭神 淳仁天皇・崇徳天皇)
   足尾神社(足腰の悪い方 健脚にご利益あり)
以上十二社を月ごとに十二か月参詣すると必ず霊験あり
 平成十二庚辰年十二月吉祥 撰文 宮司 小貫隆嗣
        社祠奉納 氏子総代  菊池孝一郎』
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『須賀神社之由来
 結城朝光公が仁治三年(一二四二)六月十一日尾張ノ津島ヨリ祇園天王社(祭神・素戔嗚尊)ヲ結城本郷(結城市浦町)ニ遷座シテ祀ッタ「須賀神社」デ以後住民ノ氏神トシテ仰ギ・祇園祭ニ御神輿ノ渡御・阿吽ノ天狗ガ巡回スル神事ハ・全国ニモ珍シク・茲ニ俳句ト俳詩ヲ献詠』
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 祭器具殿。
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釈迦堂(結城)

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 新義真言宗慶福山結城院満福寺釈迦堂(結城市結城312)。
 参道左手側には雷稲荷神社。
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『釈迦堂
 慶福山結城院満福寺釈迦堂という新義真言宗の寺院です。
 十世紀に創建され、十五世紀の永享年間に、久保田村字慶福に中興、間もなく結城城内の西館に移り慶長年間に今の地に移されたと伝わります。
 当寺に伝わる文化財のうち「銅造・虚空蔵菩薩像」「絹本・不動明王像」が市指定を受けています。
 天空のように、広大無量の智恵と功徳を人々に分け与え、諸願を叶えてくれるという虚空蔵菩薩像は、結城家十六代政勝の念持仏と伝わります。
 不動明王像は、足元に二童子を従え、罷索を持つ左手を腰に、右手の利剣を肩に、身を乗り出し、今にも走りだしそうな姿に描かれています。
 また、境内入口の碑(市指定)は、増田遷晁が建立したもので、表に芭蕉の句「八九間 空で雨ふる柳かな」、裏には遷晁が師と仰ぐ人物が、一堂に会し交遊するという、彼の夢が描かれています。
 彼は、谷文晁の流れを汲み、各地を歴訪、日本画を学び、明治二十年六十五歳で永眠しました』

 こちらも結城百選の一つ。
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 市指定文化財である「増田遷晁の文人碑」。
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 本堂。

雷稲荷神社(結城)

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 新義真言宗満福寺釈迦堂の参道南側、茨城県道264号線に面して鎮座する雷稲荷神社(結城市結城306)。
 鳥居の柱には「皇紀二千六百年」「五ケ町實業青年團」と刻まれている。皇紀二千六百年と言うと、昭和十五年(1940)か。
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 こちらも結城百選の一つで、「宮造りの素晴らしい雷さん」の名で登録されている。
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 由緒書きが設置されていないので詳しいことはわからないが、結城百選のサイトには「渇水時には雷神社に雨乞いをした」と言うことが記されているので、元来は雷神社で後から稲荷社を合祀したものなのだろうか。
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 北側から。
 切目縁などは大きく破損しており、大分傷んで来ているようだ。
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 昭和九年三月に奉納された絵馬が掛けられている。

孝顕寺(結城)

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 曹洞宗天女山永正禅林泰陽院孝顕寺(結城市結城461)。
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『孝顕寺
 孝顕寺は、天女山永正禅林泰陽院孝顕寺と称する曹洞宗の寺院です。永正十二(一五一五)年、結城城西側の玉岡の地に、結城家十五代政朝によって、独峰曇聚を開山として建立され、当初は永正寺と称しました。その後、十七代晴朝が弁天島(立町)の地を寄進し、十八代秀康(徳川家康の二男)によって現在の孝顕寺が建立され、政朝の法名が「永正寺殿宗明孝顕大居士」であることから孝顕寺と改称されました。
 また、元禄十三(一七〇〇)年に結城藩主となった水野氏も、本寺を菩提寺とし、境内には幕末の藩主、水野勝知の墓があります。
 なお、境内の西側には、秀康が城の西側に新たに新城下町を建設した際に、周囲にめぐらせた御朱印堀の一部が残されています。

県指定文化財
 紙本着色武者肖像画(結城政朝肖像画)
   絵画・安土桃山時代・昭和三十二年一月十五日指定
 紙本着色結城政朝夫人肖像画
   絵画・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
 紙本着色結城晴朝肖像画
   絵画・江戸時代・昭和三十二年六月二日指定
 結城御朱印掘
   史跡・安土桃山時代・昭和三十三年三月十二日指定
市指定文化財
 孝顕寺三門
   建造物・江戸時代・昭和五十二年三月四日指定
平成二十二年三月』

 こちらもまた結城百選の一つ。結城百選のサイトの解説に依ると福井県にも曹洞宗天女山孝顕寺があるそうだが、さすがに気楽に行ける距離ではないなぁ。
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 泰陽稲荷社。
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『当寺は永正年間 結城家十五代政朝公創建永正寺 慶長年間■■■秀康公移転改行孝顕寺■■■■年間徳川家康公生母■■■■の生家水野氏移封な■■■■その菩提寺となる
三百年來伽藍守護の三稲荷社■■■で永正稲荷を西町へ 雪光稲荷を白銀町へ 初穂料田土地付で差上ぐ このたび境内の泰陽稲荷社を復元建築御真体として笠間稲荷■改新御分霊を奉祀す 当寺内に千年白狐の秘宝 雪光 と名付くる宝珠之玉あるに依りて稲荷大明神を祀り鎮守とす 神徳は五穀豊穣万民富楽家業清栄商売繁昌 身体健全災難消滅 心願成就諸縁如意吉祥ならんことを授くる者也
泰陽院 永正禅林 天女山 孝顕寺
昭和五十七年十月吉日 三十七世室 えつ子 建之
  大工 出山 指首兄弟 鳥居並掲示板寄進』
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 本堂。
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『げだつじぞう(おさとり地蔵尊)
延宝五年(一六七七)代官所武士添野家子息の夭折(早世)を惜しみ佛心を起し解心恵脱禅定門を供養し広く世の愛児の寿命延長を祷り後世に伝う
 昭和六十一年 初春
  発願主 寺族 松浦喜代子
 堂宇建立寄進者
  大工 北南茂呂 指首茂男
          指首 功』
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 昭和十七年十一月十五日に建てられた、結城藩家老小場兵馬自刃之處の碑。
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 御朱印堀。
 こちらは県指定文化財の史跡であり、また結城百選の一つでもある。

一言薬師堂(結城)

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 孝顕寺の参道入口から120m程南に位置する一言薬師堂(結城市結城492-3)。
 御堂の脇の石柱には「薬師堂 天女山飛地境内」と刻まれているので、こちらは孝顕寺の境外仏堂なのだろう。
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 こちらも結城百選の一つ。
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市杵島神社(結城)

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 曹洞宗孝顕寺の西側に鎮座する市杵島神社(結城市結城483-1)。
 こちらも結城百選の一つ。鳥居の柱には「昭和六十一年十一月吉日」と刻まれているが、神社の創建は天正十九年(1591)であるとのこと。
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 拝殿。
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 なんだろう? 神庫かな。
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 左から先亡精霊供養塔、庚申供養塔、如意輪観音、如意輪観音。右端は「奉献上辯才天御寶」と刻まれた石柱。石燈籠だったものの一部だろうか。
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永正稲荷神社(結城)

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 西町児童会館の隣に鎮座する永正稲荷神社(結城市結城1647)。
 孝顕寺の境内に鎮座する泰陽稲荷社の由緒書きを見ると、かつてはこの永正稲荷も孝顕寺の境内に祀られていたようだ。
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 拝殿。
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 本殿。
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 南側から。
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 十九夜観音堂。

神明神社(結城)

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 浅間神社の裏手に鎮座する神明神社(結城市結城138)。
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 拝殿。
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 裏から。
 末社等は見当たらない。
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 神明神社の40m程西に位置する地蔵堂

毘沙門天(結城)

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 茨城県道264号線木町交差点脇に鎮座する毘沙門天(結城市結城1632-2)。
 こちらは真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の境外仏堂であり、本尊の「毘沙門天立像」は結城市の文化財(彫刻)に指定されている。
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 門前の追分道標石燈籠も結城市の文化財(工芸品)に指定されており、また結城百選の一つにも選ばれている。
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 本堂。
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 石仏や庚申塔。

浅間神社(結城)

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 木町交差点のそば、茨城県道264号線に北面して鎮座する浅間神社(結城市結城50)。
 鳥居の柱には「昭和八年四月吉日」と刻まれている。
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 一見変わった形の燈籠かとも思ったが、末社なんでしょうかね? 背面には「平成十年十一月吉日 島田建設(株)」と刻まれている。
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『浅間神社
御祭神 木花開耶姫命
由緒、沿革
創建は詳らかでないが霊峰富士山は大和民族の心のよりどころとして古来より信仰され、江戸時代頃行者、先達等の影響によって富士講が組織され次第に神社の形体が整ったものと思われる。この地より富士山を拝し、富士山の御神体を模し富士塚を形成し、富士浅間神社を祀り、遥拝所(社殿)を造営して、火難消除、安産、機織りの守護神として崇められた。また大町の守護神として今日まで信仰を集め、今回町内挙げて奉賛会を組織して、大改修工事を着工し、無事竣工の秋を見、未来永劫その御神徳を忘れることなく子々孫々に伝えるものである。
 平成十戊寅年十一月吉日
     撰文 浅間神社宮司小貫隆嗣』
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 拝殿。
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 中には三基の石祠が納められている。
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愛宕神社(結城)

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 真言宗豊山派日高山円蔵院光福寺の東隣に鎮座する愛宕神社(結城市結城1395)。
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 拝殿。
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 ちょっと斜め。
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 本殿。
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 狛犬。
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 猿田彦大神。
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精譱會員富澤冏碑
君氏富澤通稱宗伯常陸小塙人世業醫
寓結城丙戌年都鄙惡疫流行勢甚猛結
城傍有村曰小田林患者兩三官命君療
之君則百方盡術忽為所自感病而死實
明治十九年八月九日也嗚呼毉之臨病
猶兵之臨敵兵之沮撓無以制■醫而恇
怯何能奏效若君之死可謂不忝毉道者
也於是官特賜金若干充祭資惠遺族我
等亦以為同會員不堪哀悼相謀立碑記
其由以傳不朽云爾 根本信撰文并書
           宮田九鶴鐫
 ■部分は文字の形自体ははっきりしているのだが、現代の文字で当てはまるものがわからない。
DSCF8876s.jpg
 歌碑。表面の文字は崩し字の為よくわからないが、裏面の碑文はしっかりしているので読み取れる。
關町大人名彛儀字叔威號雙阜一號茶六稱玄尺
常陸國真壁郡黒子邨人家世業醫大人常陸下館
藩儒醫大隝玄瑜門生也使男玄丈継箕裘焉明治
紀元之冬十二月卜居于下野國都賀郡福良邨纔
三年同四年春三月徒于結城町施醫術殆二十年
兵大人為人簡雅慕蕉翁遺風花晨月夕吟咏未甞
置又學千居士茶道業餘焚香煮泉愛書畫玩骨董
以爲樂也今茲建小碑于結城印遊寓鴻爪訣別東
西好友歸故郷草廬對筑波孱顔谷神保壽亦豈非
有煙霞未了因哉
  明治廿三年秋十月 男關町玄丈謹誌
             宮田九鶴鐫
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