松田町八坂神社

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 218号線を北上し、藤坂峠を越えた先の十字路を南に折れるとすぐ左側に八坂神社がある。ちなみに北へ向かうと松田川ダムがあり、西へ向かうと猪子トンネルを経て小俣町へ入ることになる。
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 拝殿。

 今日はいつものK-7、K10Dに加えてひさしぶりに*ist DSも引っ張り出してみたが、動作がトロいことにさえ目をつぶればまだまだ充分使えるなぁ。
 そして今日は福居町の二柱神社で恵比寿講が行われているので行って見…ようと思ったのだが、参拝どころか鳥居すら拝まないうちに回れ右して撤退。人多すぎじゃー! どうも昔から人の多い所は気分が悪くなり易くて駄目だ。神田明神のように広いところならそうでもないのだが、二柱神社とその周辺のような狭い所に人が密集していると、見ただけで行く気が失せる。せめて夜中あたりにでも行けば良かったかなぁ。
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日光神社

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 県道208号飛駒足利線を北上すると、先日参拝した金蔵院の先で218号線と208号線に分かれるが、そのまま道に沿って218号名草小俣線を北上すると、間もなく左側に村社日光神社と彫られた社号標石が見えて来る。
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 名草川の上に架けられた日光神社橋。
 正面に一の鳥居、右側の木々の隙間に見える屋根は、確かトイレだったかな。
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 一の鳥居。鳥居の右側の石碑は碑文がよく読み取れなかったが、神社の由来を記した物ではなく、戦勝記念碑かなにかのような感じだった。
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 参道右側には末社やら庚申塔やらが並んでいる。
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 たぶん、稲荷神社。
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 庚申塔と大青面金剛。
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 足尾神。
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 愛宕神社。
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 階段を上った先に二の鳥居が見える。
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 階段を上りきったところで左を向くと天然記念物のスギが聳えている。
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『足利市重要文化財(天然記念物)
 日光神社のスギ 一本
 目通り 六メートル六十センチ
 高 さ  三十三メートル
 日光神社境内の南端に位置し、御神木としてしめ縄が張られている。
 幹は地上五メートルのところで一本分分かれ、さらに七メートルのところで四本に分かれ、五本になって高くそびえている。その中の北側の一本は、根元からずっと高い他の四本とは皮目が異なっている。幹の南側の根元に径四十センチほどの穴があるが、まだ奥の方までは進んでいない。樹勢旺盛で葉の色も鮮やかである。氏子の人々は御神木として大切にしている。
  昭和五十五年三月二十二日 指定』
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 二の鳥居。
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 拝殿と、その手前に狛犬。
 こちらの御祭神は大己貴命と田心姫命、味耜高彦根命の日光三神。富田駅周辺の日光神は大己貴命・事代主命・須勢理姫命の三柱だったが、この違いはどこから来るのだろう。大己貴命とその妻子と言う点では一緒だが、でも事代主命の母親って須勢理姫命じゃなく神屋楯比売命なんだよなぁ。
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 右側に回り込んで、本殿。
 中央下辺りにぼやっと見える石碑には「戦利兵器奉納ノ記」と刻まれており、明治三十七八年役とあるので、1904~1905年の戦争と言えば日露戦争だ。最後には明治四十年三月 陸軍大臣寺内正毅とあるので、終戦の二年後に奉納されたのだろうが、なぜこちらに?
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 拝殿左側に回って、神楽殿。
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 末社。
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 若宮八幡宮。

名草厳島神社

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 小さな川に沿って走る道を進んで行くと、やがて朱塗りの大鳥居が見えて来る。鳥居前には売店や駐車場があるので、そちらに車を置くことができる。こちらに来るのは二年ぶりくらいだろうか。
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 大鳥居の左側にも鳥居があり、その脇に石碑らしき物がある。
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 日光神社基本財産造・・・? よく判らないが、とりあえず日光神社があるようだ。
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 草茫々の階段を上ると、わりとすぐに木造の祠がある。幣束が一つしか無いのが気になるが、こちらが日光神社なのだろう。
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 大鳥居から歩いて程無く左側に標識が。ここから左に歩いて行けば行道山浄因寺まで8.3km、まっすぐ進めば巨石群まで0.2km。たかが200m、されど200m。運動不足の身にはその200mですら結構しんどいのだ。
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 巨石群の案内板があるが、巨石群自体はまだまだ先。
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 弁慶の割り石。
 はてさて、どこから弁慶の名前が出て来たのやら。
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『足利七福神 弁財天 名草弁天
 名草弁天は、弘仁年間(810-824年)空海上人(後の弘法大師)が、水源農耕の守護として弁財天を祀ったのが始まりと伝えられている。白い大蛇の道案内により、清水の流れる大きな岩の前に出た大師は、岩の前にすわり、経文を唱えて弁財天を勧請し、前に祠を建てられたという。元禄六年(1693年)金蔵院住職が、領地検分の家老に、弁財天宮の再建を願い出て、下附金三両でお舟石上に石宮を建立したのが本宮である。明治の神仏分離令により厳島神社となった。天然記念物名草の巨石に鎮座し、多くの参拝者が訪れる』
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 二の鳥居。
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 御供石。
『胎内くぐり
 このお供石の下に洞穴があります。この洞穴をくぐり抜ける事を胎内くぐりと言います。そして胎内くぐりを致しますと、子供の無い方は子宝にめぐまれ、妊娠している方は、お産がたいへん軽くすむと言われております。どうぞお参りの後で胎内くぐりをして下さい』
 お参りの後で胎内くぐりをして下さい、と。だが断る。先にくぐる。
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 狭いヨー。
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 大きな石の上に厳島社。
 身を屈めながら胎内くぐりを抜けると、左の石灯篭の辺りに出て来る。
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 拝殿右側の石の上にも石祠が見える。
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 拝殿前から御供石の上へ橋が架けられている。距離は短いが高さはあるのでなかなかスリリング。
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 御供石から更に奥へ。
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 巨石群に到着。
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『名草の厳島神社境内からその奥にかけての一帯に花崗岩の巨大奇岩礫が並んでいます。
 花崗岩は非常に大きな固まりであったが、節理(割れやすい石)に沿って風化し、水に洗われてついにいくつかの大きい石の累積となって残りました。
 名草の巨石群は粗粒の花崗岩特有の風化状態を示す代表的なものとして昭和十四年に国の天然記念物に指定されました』
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 大きな石が並び、その上に鎮座しているのが名草弁天の本宮。
 滑り落ちそうにも見えるが、そんなことも無いのだろう。
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 さぁ、帰ろう。

名草阿夫利神社

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 218号名草小俣線を名草上町方面へと北上して行くと、やがて右手側に名草巨石群の看板が見えて来るのでそこを右折。するとすぐ右側にあるのがこの阿夫利神社。石尊山からは少々離れているが、そちらとは関係無く、単に山の神様としてお祀りしているだけなのかも。それにしては、随分と変な所にあるが。
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 『奉納阿夫利神社 旹明治廿八乙未年八月吉日』
 とあるが、明治二十八年と言うと1895年。日清戦争の最中だ。
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 幣束はさほど汚れてもおらず、意外と新しそうだ。今でもきちんとお祀りされているということだろう。

金蔵院

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 名草中町にある名龍山金蔵院観音寺。
 かつて名草厳島神社にあった弁才天像がこちらに安置されていると聞いていたので、以前からこちらには興味を持っていたのだが、文化財一斉公開で五大明王像も公開されているということなので、これは良い機会と思って行ってみた。・・・が、山門前で渡された資料を見ると、弁才天像は10月24日から12月13日まで足利市立美術館に出展されていて、現在はこちらに無い模様○刀乙
 また、資料によるとこの山門は長屋門と呼ばれる形式の門で、江戸時代に建立されたとのこと。その後昭和十一年(1936)に屋根を瓦葺、土間をコンクリートに改修し、昭和四十一年(1966)に西へ5m曳き屋され、平成十七年(2005)に瓦の葺き替えと外板の張替えを行ったとのこと。
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 山門前には八坂神社。
 石祠の額には牛頭天王とあるが、こちらは末社だろうか?
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 山門をくぐってすぐ右手側に五輪塔や庚申塔、六地蔵、日限地蔵などが並んでいる。五輪塔と庚申塔はどちらも市の重要文化財に指定されている。
『足利市重要文化財(考古資料)
 南宗氏の五輪塔 一基
 空・風輪が一石で火輪は比較的小形で軒反りがつよく、水輪は上下から圧し、すこしつぶれたような形状に四仏の種字を刻み、地輪には左記の銘を陰刻します。
  永興寺殿法名性雨
  永和元年十二月二十三日
 この塔は、 南宗氏(宗継の直孫)の墓塔であり保存もよく、反花座の上に建てた五輪塔で永和元年(1375)銘を有する優品である。
  昭和五十八年二月二十三日 指定』
『足利市重要文化財(民俗文化財)
 金蔵院の庚申塔 二基
 江戸時代
 左側の塔は、光背型の塔で中央に青面金剛像が邪魅を踏まえ立ち、邪魅の下には雲を配して下から像を支えるが如く三猿が並び彫刻が重厚である。塔には次の紀年銘がある。「奉造立庚申供養二世安楽 宝永四(一、七○七年)丁亥九月吉日」
 右側の塔は、笠塔婆形の塔で笠の前面は唐破風になっており、三つの花式の懸魚がついている。塔は角柱で上部が僅かに丸味を呈する。塔身の前面に日月、青面金剛、邪魅、童子二体、三猿、夜叉四体が刻されている。塔には次の紀年銘がある。「千元禄第十(一、六九七年)丁戌天十月吉祥日」
  昭和五十八年二月二十三日 指定』

 ちなみに南宗継とは高氏の一族で、足利尊氏に仕えて侍所頭人、三河国守護、備中国守護などの職につき、高師直亡き後は尊氏の執事として活躍した人物であるという。また、名草で生姜作りを始めた人物でもあるらしい。が、宗氏についてはこれと言った事跡は無いようだ。
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 本堂。
 資料によると、金蔵院はおよそ600年前の永享元年(1429年)に真言宗醍醐寺の俊海法印によって開山され、境内は南遠江守宗継の居館跡であるという。また、江戸時代は南宝寺・宝珠院・金剛院・実相院・不動院・能満寺・千蔵院・成就院・神宮寺を末寺とする中本寺であり、名草弁才天の別当寺でもあったそうだ。明治に入ってからは神仏判然令により名草弁才天は支配下より離れ、明治二十八年(1895年)には真言宗醍醐寺末から真言宗豊山派長谷寺末に変わったとも書かれている。
 御本尊は聖観世音菩薩であるとのこと。
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 本堂に入ってすぐ正面。奥には観音様が。
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 入って左側の窓には仏像の写真が貼られていた。
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 左は金剛夜叉明王像。17世紀前半の作と思われ、像高は40.6cm。
 右は大威徳明王像。こちらも17世紀前半の作と思われ、像高は34cm。
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 こちらは中央に不動明王像。左右に制多迦童子像と矜羯羅童子像。
 両童子は江戸時代のもので、像高は14cm。不動明王だけは江戸時代以前の作であるらしい。像高は23.5cmで、岩座も含めた総高は56cm。不動明王と言うと座っているイメージがあるが、こちらは立像。
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 左は降三世明王像。17世紀前半の作と見られ、像高は40.7cm。
 右は軍荼利明王像。こちらも17世紀前半の作と見られ、像高は40.5cm。
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 その他の展示物。板碑。縦46cm、横19.5cm。
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 如来像。像高16.5cm、総高22.7cm。逆光になって如来像が真っ黒に。レフ板の代わりになるような物を用意しておけば良かったか○刀乙
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 地蔵菩薩像。江戸時代の作、像高20.2cm、総高31.1cm。
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 不動明王像。江戸時代末期の作、像高は22.8cm、総高41.9cm。
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 十一面観音菩薩像。江戸時代末期の作、像高は23.9cm、総高43.5cm。これまた逆光で(以下略)
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 誕生仏像。幕末から近代にかけての作、像高12.6cm、総高16.4cm。幼稚園の頃に花祭りで仏様に甘茶をかけたような記憶がちらほらと。
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 地蔵菩薩像。江戸時代末期の作、像高30.5cm、総高40.7cm。左の輪はチャクラムかと思ったら、軸が破損して取り付けられなくなった光背だった。
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 毘沙門天像。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。像高26cm。
 太田甚左衛門尉藤原秀次の作った唯一の仏像で、貴重なものであることから、こちらは市指定文化財に登録されているそうだ。
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 半鐘。享保十年(1725年)、太田甚左衛門尉藤原秀次作。口径30.7cm、鐘身38cm。戦争中に供出されたが、昭和三十九年(1964年)に戻って来たとのこと。
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 西本堂。
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 西本堂内にも仏像が並んでいる。
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 左上は勝軍地蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高37.5cm、総高74cm。
 左下は興教大師像。こちらも江戸時代のもので、像高は21cm。
 右上は虚空蔵菩薩像。江戸時代のもので、像高53.7cm。
 右下は弘法大師像。江戸時代のもので、像高22.3cm。
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 左から十一面観音像、大日如来像、薬師如来像。いずれも江戸時代のもので、十一面観音像が像高40.2cm、総高57cm、薬師如来像が像高20.4cm、総高57cm。大日如来はプレートを撮影するのを忘れていたので、像高・総高とも判らない。
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 左は地蔵菩薩像。像高27cm、総高51cm。右は弁才天像。像高20cm。どちらも江戸時代の作。
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 西本堂裏に地蔵菩薩像。
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 弁才天堂。
『江戸中期、元禄六年(1693年)、時の領主本庄因幡守が、家老猪俣・丸山両名を領地検分のために名草に派遣した折、弁才天の別当を勤めていた当院第十三世範宜が、弁才天宮の再建を願い出て、金三両を下付され、石宮を建立しました。これが国指定天然記念物「お船石」の上に現存する弁才天の本宮です。
 その後、正徳三年(1713年)弁才天大祭の年、当院と名草中町南宝寺が願主となり、新たに弁才天の尊像を造立し、別当寺であ当院にお祀りし、祭典の際には、入山の拝殿まで運び、祭礼を行っていました。この尊像は、現在も当院の弁才天堂(昭和四十七年建立、第二十五代教詮代)にお祀りされています。また入山の拝殿も、享保十二年(1727年)に、当院第十三世範宜が願主となり建立(昭和四十年に改築)しています。
 明治維新(1868年)の神仏分離により、入山弁才天は厳島神社となり当院の支配を離れました。
 平成元年、名草入山の厳島神社は、新たに弁才天像を造立しました。』
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『足利市重要文化財(工芸品)
 金蔵院梵鐘 一口
 銅造 総高一メートル二十一センチ 江戸時代
 乳の間に金剛界、撞座に胎蔵界の五仏の種子、池の間の四面に金剛頂経の一説である百字の梵字を陽刻し、一面に鐘銘を記す。これは真言宗の教義を巧みに折り込んだ構図である。また駒の爪には寄進者名等を陰刻する。
 享保十年(1725)、法印範宜の代、五十名余の浄財を得て佐野天明の治工太田甚左衛門尉によって作られたものである。形姿、作技ともよく、銘も貴重で、江戸時代梵鐘の名品である。太平洋戦争中も供出を免れ、いまも鐘楼にかかる。保存状態も良好である。
  昭和五十八年二月二十三日 指定』

 境内案内図によれば本堂の西側に鎧地蔵尊石宮があるのだが、こちらの鎧地蔵尊(勝軍地蔵)像も現在足利市立美術館にて展示とのこと。

緑町配水場水道山記念館

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 足利市の文化財一斉公開に伴い、こちらも公開されていたので立ち寄ってみた。緑町配水場は普段は閉鎖されて立入禁止になっている上に、他の文化財公開が21日~23日の三日間であるのに対して22日だけと極めて短い期間なので、なかなかレアな感じだ。そう言えば、ハリストス正教会の文化財公開も今日一日のみだったっけ。
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 元は事務室だったが、現在はたまに会議室として使われるか、或いはドラマの撮影に使われることがあるくらいだそうだ。今週末にも撮影があると案内してくれた方が言っていたが、はて、なんの撮影なのだろう。
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 大きな改修などはできない為、廊下の電燈一つにしてもふさわしい物を探さなければならないので大変だ、とのこと。
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 こちらの部屋は、昭和九年に昭和天皇が巡幸された折にお使いになられた部屋なのだそうだ。
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 敷地は広く、散歩するには丁度良い感じなだけに、普段は閉鎖されているのが少し惜しいかも。
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 案内係の方に、配水場裏の神社について訊いてみたのだが、そちらについては存在すら知らないようだった。

足利ハリストス正教会

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 神社ではないけれど、キリスト教の神も日本に入れば八百万の神々の一柱…とか言うとキリスト教徒から怒られるのかなぁ。英語圏では日本の神々はKamiであってGodではないそうだし。
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『足利ハリストス正教会は、キリスト教の中で最古の歴史をもつ正教(東方正教会)の教会である。東方正教会は初代教会からの伝統、祈祷、教義を忠実に継承し、発祥地エルサレムを含む中近東、バルカン半島地域、スラブ諸国を中心に全世界で二億四千万人程の信徒を擁する。日本には、ロシアの修道士聖ニコライによって1861年に初めて伝えられた。
 足利における正教の信仰は、明治11年に始まる。現聖堂は昭和58年に成聖され、同年の「足利市建築文化賞」を受賞。「イリナ山下りん」作になる11枚の聖像画は、市の重要文化財に指定されている。
 ※ハリストス=キリストのギリシャ語発音』
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『足利市重要文化財(絵画)
 聖画像  十一枚
 足利ハリストス正教会は、山下りんの描くイコン(聖画像)によって飾られている。安政四年笠間に生まれた山下りんは明治十年、工部美術学校に入学、やがてペテルブルグにイコン修行のため留学し、帰国後もイコンの製作を続けた。イコンは「聖三位一体」図の大作を中心にすべてビザンチン様式のなかに西欧風を加味した美しい画面となっている。
 昭和五十八年十二月二十一日 指定』
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 聖堂の中に入ると啓蒙所となっており、手前に並ぶ三つのイコン(聖像画)は左からテオトコス(生神女)マリア、主の升天、イイスス・ハリストス。
 その奥に至聖所があり、イコノスタシス(聖障)によって区切られている。聖三位一体図は至聖所に飾られているのだが、そこに入ることを許されているのは聖職者とその補助者だけである為、拝観はできなかった。なお、女性は聖職者であっても入ることは許されていないそうだ。
 イコノスタシスにもイコンが飾られているが、左から神使首ガウリイル(大天使ガブリエル)、神の母マリアと幼子のイイスス、機密制定の晩餐(最後の晩餐)、審判者イイスス・ハリストス、神使首ミハイル(大天使ミカエル)。
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 イコノスタシスの中央は天門と呼ばれ、天国の門を象っているのだそうだ。
 左上:福音記者イオアン(ヨハネ)  右上:福音記者マトフェイ(マタイ)
 中段:生神女福音(受胎告知)
 左下:福音記者ルカ          右下:福音記者マルコ
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 聖ゲオルギウスと聖ニコラオス。
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 その他の壁に掛けられたイコン。
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下羽田町八幡宮

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 曲がる所を間違えて、うっかり佐野市まで入ってしまい、適当に走っていたら見つけたこちらは八幡宮。
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 神社合祀碑。
 八坂神社と天満宮、稲荷神社、熊野神社が合祀されているようだ。
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 拝殿。
 鞘殿の隙間から八幡宮の本殿と八坂神社の本殿を見ることができる。その他三社は見えなかったが、境内には他に末社なども見当たらなかったので、一緒に鞘殿の中に収められているのだろう。

 これで21日参拝分終了。
 まだPhotoshop Elements 8を購入していないのでPENTAX Digital Camera Utility 4.11でレタッチを行ったのだが、K10Dで撮影した画像をこれで扱うと、かなり色が変わってしまうのはどうしたことだろう。K-7に近い色合いになるのは喜ばしい…とは思えんなぁ。

 2010年9月11日追記。
 慶長八年(1600)に洪水で足利から流れ着いた八雲神社の神輿に社を建てて祀ったのがこちらの神社の創始であるのだそうだが、するといつの間にか主祭神が変わってしまったと言うことか。
 また、上で八坂神社と天満宮、稲荷神社、熊野神社が合祀されていると書いたが、他にも浅間神社も祀られているらしい。しかし、流れ着いたのは八雲神社の神輿なのに、なんで合祀されてるのは八坂神社なんだろう。

本町一丁目稲荷神社

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 青梅天満宮の裏から北へ向かい、大塚医院前を通り過ぎた辺りにある稲荷神社。
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 かなり劣化してしまっており、特に右側はもはや狐だかなんだかよく判らない状態に。
 左側の台座には宝珠紋が彫刻されているが、右側のものはどうも宝珠とは違うようだ。
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青梅天満宮

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 館林駅入口交差点から北へ向かって歩いて行くと、左手側に青梅天満宮の標石と鳥居が見えて来る。
 こちらの神社は当然菅原道真公を祀ったものだが、道真公が左遷されたときに投げた四つの梅の実の一つがこの地へ飛び、青梅天満宮となったという言い伝えが残っているそうだ。しかし、京都から飛んで来るってどんだけだ。
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 何故か山門らしきものが。
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 大きな絵馬が掛けられているが、かなり劣化してしまっている。
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 参堂の両脇には狛犬が控え、奥に拝殿。
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 狛犬。
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 御神木…かな? なぜ梅でなく松なのかは判らないけど。
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 拝殿。手持ちHDR撮影はしんどい。
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 本殿。

本町二丁目出世稲荷神社

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 青梅天満宮に向かう途中で見かけた出世稲荷神社。
 民家に隣接していたので屋敷神かとも思ったが、どうやら違うようだ。

宵稲荷神社

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 清龍神社前の交差点を渡り、南へと歩いて行くとすぐ右手側に宵稲荷神社が見えて来る。こちらの神社はGoogleマップでもMAPPLEでも初引稲荷神社と記載されているが、群馬県神社庁のサイトには宵稲荷神社と記載されており、また神社の由緒書きにも宵稲荷神社(初曳稲荷)と書かれているので、宵稲荷神社とするのが正しいのだろう。でも一の鳥居の額には初引稲荷神社と刻まれているのだよね。
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 二の鳥居。中山鳥居かな。
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 参堂脇にはお狐さまが控え、突き当たりに拝殿。
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 子連れのお狐さま。対になるべき相手は壊れてしまったのか、撤去されていた。
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 こちらは一対揃っているが、先のお狐さまに比べて造形的にいまいち面白みが無い。
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 拝殿の扉上には由緒を記した額が掛けられている。
『宵稲荷神社(初曳稲荷)の由緒
 今から四百二十餘年前享禄年間大袋城主赤井照光近藤林で仔狐の難を救えるに大袋稲荷その厚志に感激し報恩の為神属たる老狐を案内者とし館林に築城せしめた傳説は人のよく知る所である。
 照光移城後守護神として此の稲荷勧請し尾曳夜明の両稲荷と共に本社を奉祀した本社は昔から宵稲荷一名初曳稲荷と称し老狐の尾を曳き初めた所から宵は夜明に對する宵でその時刻から名つけられたのである。
 而して此の社は慶長年間には城主榊原氏社殿を造営し其の後歴代の城主より祭祀料として年々蔵米五俵を献ぜられた廃藩後は附近の氏神として祀られ明治四十三年には青龍神社を合祀した。
 想えば創祀以来約四百餘年神威赫々郷土の繁栄と幸福を護り給えること誠に敬仰に堪えない依て茲にその由緒を叙して社運の益々隆昌ならんことをお祈りする次第である。
 昭和二十七年二月吉日』

清龍神社

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 竹生島神社より57号線に沿って西へ歩いて行くと、日本生命の隣に清龍神社がある。
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『青龍の井戸(青龍神社)
 この井戸は、江戸時代に福寿院(現在は廃寺)の境内にあり、伝説によると、延宝年間(1673~1681)に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の「青龍権現」が姿をあらわしたことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったといわれています。
 当時は、徳川綱吉が館林の城主となった頃で、城下では、御三家の一つである水戸家に並ぶほどのこれまでにない例を見ない隆盛を誇っていたことから、ますます良い兆しであるとして、人々の大変な噂となりました。
 この話を聞いた綱吉の生母「桂昌院」は井戸のかたわらに「青龍権現社」を再建したといわれ、綱吉も五代将軍になると10石の朱印地を寄進したと伝えられており、神社の入口には、現在でも「葵の御紋」が見られます。
 また、この井戸と善導寺(現在は楠町に移転)境内の「竜の井」と「城沼」とが一つにつながっていたという伝説もあり、こうしたことから、7月10日の縁日には、延命長寿の霊験あるこの井戸の水を参拝者に与える習わしがありました。
 平成10年に、井戸の調査がおこなわれましたが、井戸の深さは7メートル程、井戸の断面は、深さ約3メートルのところで大きく膨らみ、集水のための工夫が施されていることがわかりました。
 現在でも、冷たくてきれいな水がこんこんと湧き出しています。』

 地図にも額にも清龍神社と記されているが、青龍神社が本来の名称なのだろうか。青に水であるさんずいをつけたら清になる、とかそんな感じなのかな。
 ちなみに、竜の井は館林駅前のロータリーにあるそうだ。
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 本殿。
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 青龍の口から水が流れ出している。

竹生島神社

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 市役所前交差点から57号線を西へ歩いて行くと、左手側に竹生島神社が見えて来る。
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 鳥居の脇に小さな社号標石。
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 参堂途中右手側に建営碑。
『竹生島神社建営碑
 天正十八年(1590)榊原康政公は十万石の領主として館林に入城すると間もなく、城下町の南に接する今の本町三丁目付近の開拓、さらにその南方新宿方面に連絡する大通りの新設などを検断職青山出雲、小寺丹後両氏に命じた。その結果慶長二年(1597)には城下町を縦貫する大通りが完成。両名はこれらの功によって、江戸口門外に給田地を与えられ附近はたちまちのうちに商家軒を並べるという活況を呈した。そこで両検断は協議の末、古くから住民が信仰していた弁才天を鶴生田川北岸の大通り付近に建立した。ところが年月を経ると人家が増え、境内も手狭になったので、東北に当たる城沼つづきの池水に囲まれた現在地に移し、浮島弁天と称した。弘化三年(1846)城主秋元家の位牌所が城内鷹匠町に建てられると、同寺住職が別当となった。それから三年後の嘉永二年(1849)堂宇を再建。そのときの棟札に別当泰安寺、検断青山素右衛門ほか地守、世話人ら地元関係者の名がある。明治元年(1868)神仏混交の禁令によって、弁才天は仏であるため、鎮守とすることができなくなり、やむなく検断青山四郎二は戎屋が近江国の商人で、毎年業務見回りに来館する同店主人に依頼、翌二年同国琵琶湖北岸に鎮座する竹生島神社(市杵島姫命)を勧請した。明治六年十一月谷越村(俗称田町・荒宿)鎮守として村社に列せられ崇敬された。大正四年(1915)下町区長坂田百次郎、氏子総代正田卯平、森尻太吉、小暮兵吉、鈴木金五郎、渡辺松次郎、飯島惣次郎、世話人篠原与三郎、小曽根民十郎、石崎総一、大津喜三郎らは社務所修理を機に増築し社運の隆盛を図った。また昭和五年四月(1930)神饌幣帛料供進神社に指定された。同十一年(1945)十二月三日夜社務所から出火全社殿を焼いたが、幸い御神体は消失を免れた。太平洋戦争勃発、敗戦により、昭和二十年(1945)十二月十五日神道指令の大変革に依り苦境に追いこまれたが、地域住人の信仰厚く現社屋は昭和六十一年(1986)氏子関係者、一般崇敬者の協力を得て神職総代の尽力により新築落成した。
 昭和六十一年五月一日』
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 狛犬。この形は瑞穂野町の神明宮や大泉町の小泉神社にあるものとよく似ている。
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 拝殿。
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 拝殿脇にこちらは三峯神社だろうか。

城町八幡宮

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 向井千秋記念子ども科学館の脇に鎮座する八幡宮。
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 八幡宮の前、子ども科学館の脇に設置された案内板。
『館林市指定史跡 館林城本丸土塁および八幡宮
 指定年月日 昭和六十二年(1987)八月七日
 所在    館林市城町一番地の三他
 時代    江戸時代
 館林城本丸土塁
 館林城は、館林・邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地を巧みに利用して造られた平城で、別名を尾曳城と言います。
 城の中心は、現在の文化会館敷地の二の丸・その東に本丸・南に南郭・本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を土塁と塀とで区画して造られていました。
 ここは本丸にあたり、この土塁は本丸の南側土塁の一部です。
 徳川綱吉が城主であった時代の絵図には、ここに三重の櫓(天守)が描かれており、二五万石の城主にふさわしい荘厳な城であったことが見て取れます。その後綱吉の子・徳松の夭折により、館林城は一時廃城となりますが、次の城主、松平(越智)家時代の「館林城地目録」によれば、延享年間(江戸時代中期)の本丸は、東西約七五間(約136m)、南北約二五間(約45m)の長方形の郭で、周囲を長さ役二二四間(約407m)、高さ約二間(約3.6m)の土塁が囲んでおり、その上には瓦を載せた塀が走り、北東隅には天守閣にあたる二重の櫓があったと伝えられています。
 館林城に関わる遺構として、大変貴重なものです。』
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 鳥居の左側に設置された由緒書き。
『館林市指定史跡 館林城本丸土塁および八幡宮
 指定年月日 昭和六十二年(1987)八月七日
 所在    館林市城町一番地の三他
 時代    江戸時代
 ここは「館林城」の中心、本丸があった場所です。
「八幡神」は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に「八幡宮」として勧進されています。
 この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として、館林城の「八幡郭」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたものです。
 明治になって、廃藩とともに。尾曳稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた、「上毛モスリン株式会社」によって現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎されました。
 館林市教育委員会』
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 拝殿は無く、本殿が覆い屋で守られている。
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 狛犬。
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 本殿。

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 八幡宮の裏手には旧秋元別邸があり、その庭の隅に祠が鎮座している。
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 旧秋元別邸北側の道を渡ればすぐに尾曳稲荷神社があるのだが、今日は生憎骨董市が開催されていたため社殿の前にも古着などが並んでおり、参拝のみならともかく、撮影をするには不向きであったので、また後日に。
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