阿彌神社(阿見町阿見)

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 国道125号線阿見美浦バイパス中郷交差点のすぐ北側に阿彌神社の社号標石と由緒書きが設置されている。
 参道は長く、200m程続いている。
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『阿彌神社
祭 神
 豊城入彦命・経津主命
由 緒
 崇神天皇十八年、豊城入彦命、東国に荏み曽て此地に到り昔建御雷経津主二大武神平国の功を憶い、其の上天地なるを偲びて慨然としていわく「皇祖の天下を経営せらるるや、阿彌普都実に能く天業を輔弼せり両神功成りて天に還りしは、蓋し是の地なるか」とこれより阿彌郷と名づけ、この地に命を祭る。明治六年八月郷社に列す。
明治三十九年十二月当村内の熊野神社・香取神社・天照大神宮・皇産霊神社を、明治四十一年四月 鹿島神社・愛宕神社・八坂神社・八幡神社・稲荷神社を 同年五月十握神社を合併す 旧阿見村の鎮守の社として崇拝され 岡崎、中郷、西郷、立之越の四地区より総代が選出され八名の氏子代表が阿彌神社の祭祀行事等を司り慣習の伝承に務め先代より今日迄引継がれている。
境内社
 青麻神社、道祖神社、八幡神社、稲荷神社、日枝神社、諏訪神社』
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 鳥居。
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 金毘羅大権現。
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 道祖神社。
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 拝殿前には四体の狛犬が並んでいる。
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 狛犬(小)
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 狛犬(大)
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 拝殿。
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 参道左手側に神明造りの社殿。
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 本殿左側に末社群。
 左から不明、大神宮、愛宕神社、不明、聖徳太子、不明、不明、香取大神宮。奥の三社は全て不明。
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 稲荷神社鳥居。
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 稲荷神社社殿。
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『常陸貳十八社
 信太郡木原邨鎮座 楯縫神社
 仝郡阿見邨鎮座 阿彌神社
 久慈郡静邨鎮座 静神社
 筑波郡筑波山鎮座 筑波山男體神社
 筑波山女體神社
 鹿島大神宮
 那珂郡大井邨鎮座 大井神社
 仝郡青山邨鎮座 青山神社
 久慈郡今幡邨鎮座 長幡部神社
 仝郡黒宮邨鎮座 薩都神社
 鹿島郡磯邨鎮座 大洗磯前薬師菩薩明神社
 那珂郡吉田邨鎮座 吉田神社
 新治郡稲田邨鎮座 稻田神社
 仝郡加茂部邨鎮座 鴨太神御子神王神社
 茨城郡泉邨鎮座 夷針神社
 久慈郡白羽邨鎮座 天志良浪神社
 仝郡水木邨鎮座 天速王姫神社
 仝郡天神林邨鎮座 稻村神社
 仝郡小瀬邨鎮座 立野神社
 那珂郡大山邨鎮座 阿波山上神社
 仝郡藤井邨鎮座 藤内神社
 仝郡石舩邨鎮座 石舩神社
 眞壁郡大國王邨鎮座 大國王神社
 那珂郡平磯邨鎮座 酒烈磯前薬師菩薩神社
 茨城郡岩間邨鎮座 羽梨山神社
 仝郡大和田邨鎮座 主石神社
 新治郡笠間城中鎮座 佐志能神社
 多珂郡津田邨鎮座 佐波波地祇神社』


 以上で10月24日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA18-55mm WRとSIGMA 50-150mm II。
 初めての土地で、どこに行くかも決めていなかったので行き先は友人任せだったのだが、後で地図を見たらこの辺りは結構神社が多い地域だったのだね。足利からだと車で片道三時間近くかかるのでほいほい出かけて行く気にはなれないけど、でもいずれはこちらの神社巡りもしたいものだ。
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鹿島古女子神社(阿見町掛馬)

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 陸上自衛隊舟島射撃場の北西に鎮座する鹿島古女子神社。
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 鳥居をくぐると参道右手側に石祠。
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 少し先の左手側にも石祠。
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 更に進むとこちらは金毘羅大権現。
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 拝殿手前にも石祠。
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 拝殿左側には他のものより立派な祠。
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 拝殿。
 こちらには由緒書き等は見当らないが、ググってみると創建時期は大同年間(806-810)と言われ、主祭神は鹿島御子神(天足別命)で、配祀神として建御雷之男命、経津主命、天児屋根命、宇賀之魂命、水波能売命、大日霊命を祀っているらしい。また、境内社として琴平神社と道祖神社があるそうだが、どれがなにやらさっぱりだ。
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 本殿。
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 こちらにも石祠二つ。
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 本殿裏には蛙の置物を従えた石祠。
 神社裏がこんもりとしていたので古墳かなと思ったら、やはり古墳だった。

楯縫神社(美浦村木原)

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 美浦村役場から北へ向かって行くと、楯縫神社が鎮座している。
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『村指定文化財狛犬一対
 狛犬(高麗犬)は唐獅子ともよばれ霊力をそなえた異国の動物で、寺社の守護神として、供えられている。
 一対のうち一方は口を開き「阿」、他方は口を閉じて「吽」の形をとる。阿は字音の最初、吽は最後の字で、この二字をもって諸方の原点と帰着点をあらわすものとしている。
 なお狛犬は江戸時代以後屋外に置かれるようになったが、古くは殿舎内に置かれることが多かった。

 当楯縫神社(祭神フツヌシノミコト)は推古天皇一六年(608)創建で、フツヌシノミコトが兜楯を脱いでこの地に残された故事にちなんで、楯脱ぎ──楯縫の称がでた。古来信太郡一の宮(元県社)である。境内北の方には、杉の巨木の根幹(径六メートル余)があり「木原」の地名の起りといわれている』
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 二の鳥居と長い参道。
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 歌碑と琴平神社。
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 木を挟んで琴平神社の裏にも石祠。
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 拝殿。
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『延喜式内小社
 一の宮  楯縫神社 元県社
 祭神   普都主命
 盤筒男・盤筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら斎主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るのが例となった。昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古は鹿島神事と申して氏子中、吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた。往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(1340)高師冬以賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人屋代信経と云う者を響導として信太の荘を侵し此の時神領不残掠椋奪され無禄となる。
 勤請年歴 人皇参捨四代推古天皇の十六年宮造り六〇七大同二年再建八〇七 文明八年再建一四七六 天正十七年藤原利勝拝殿寄進一五八九 嘉永七年再建一八五四
 例大祭 五月十五日 神幸祭(旧)六月二十一日~二十三日
 新嘗祭 十二月一日 祈年祭 二月二十五日』

 こちらには書かれていないが、ググってみると、大己貴命と宇賀魂命、市杵嶋姫命、須佐之男命、皇産靈命、熊野加夫呂岐命、彦狹知命が配祀神として祀られているそうだ。また、境内社として高龗命を祀る御龍社と大物主命を祀る琴平神社があるそうなので、先程の琴平神社の裏にあった石祠が御龍社なのだろう。
 しかし、いきなり同年七月に村名を改称したとか言われても、その前に何年か書かれていないのだから判らんわな。
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 社殿裏に…なんだかよく判らないけど石仏。如意輪観音かな?
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 一の鳥居の横には忠魂碑。

大宮神社(美浦村土浦)

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 茨城県稲敷郡美浦村で行われた陸平縄文ムラまつりに行って来たと言うことは先日のエントリーでも書いたけれど、その会場である陸平貝塚の奥へと歩いて行くと、大宮神社がひっそりと鎮座ましましている。
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 鳥居。
 さすがに祭の日にこちらの方へ来る人はいないのか、会場から然程離れていないのに静かなものだ。
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 拝殿。
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『大宮神社
 大宮神社は、旧信太庄安中二十四ヶ村の総鎮守で、御祭神は天照皇大神、日本武尊、天太玉命の三柱が祀られています。
 伝承としては白雉元(650)年の創立を伝え、生田長者満盛が氏神として創建し、伊勢大社の分霊を奉斎したこと、その後奈良時代に、その姓名が安中という地名の由来になったとも言われる安倍仲成が、朝廷の勅許を得て正式に勧請し、安中二十四ヶ村の総鎮守になったことなどが伝えられています。
 記録によると、天承二(1575)年と、元禄四(1691)年に社殿の再建が行なわれています。その後、大正九(1920)年の台風により社殿が倒壊したため、翌十年に再建されていますが、現在でも古材を含め再建前の旧状をよく留めているといわれます。現存の本殿は桁行三間、梁間三間の本体に回縁が設けられた規模の大きなもので、村内最大を誇ります。特に本殿の妻飾りは独創的なもので虹梁の唐草分文や頭貫木鼻・組物の拳鼻などの彫刻は、元禄時代特有のものです。このような建築細部の様式から、江戸時代に常陸国を中心に活動し、成田山新勝寺の三重塔などをつくった我が国を代表する宮大工・桜井氏一門の作事によると考えられています。
 平成十三年三月』
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 左端は松尾大神。
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そろそろ秋季例祭か

 そろそろ織姫神社の秋季例祭の時期だなと思い、調べてみたら来月の3日。なるほど、文化の日だから祭日か。
 ひめたまの方でも何か告知されてるかなと思って見てみたら……え゛? 「足利痛車ふぇすた」だの「ひめたまショップ限定オープン」だのと言った告知はされているが、織姫神社の秋季例祭については全く無しか。twetterの方を見てもグッズの価格や痛車のエントリー状況しかツィートされてないとか、本当は織姫神社のことなんてどうでもいいとか思ってねぇ?
 痛車ふぇすたなんて、こんな地方でどんな需要があるんだとも思ったが、同じ日に佐野市役所周辺でも痛車ふぇすたが行われるようなので、意外と需要はあるようだ。
 あぁ、あと来月は西宮神社と二柱神社で恵比寿講があるのか。西宮神社の方は11月19日と20日。二柱神社の方は27日かな。去年は二柱神社の恵比寿講の写真を撮ろうと思ったのだが、思った以上に人出が多くて境内に入る前に早々に撤退した記憶が(苦笑

菅原神社(前小屋町)

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 稲荷神社から少し北東へ戻ると菅原神社への案内標識が設置されているので、それを目印に東へ走って行くと、菅原神社前に到着。
 しかし駐車場は無いので、隣の道端に駐車するしかない。
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 百邑百庚申塔。
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 鳥居に掛けられた額は、珍しいことに丸型。天満宮と彫られているので、古くはそう称していたのだろう。
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 狛犬と獅子形留蓋。
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 拝殿。
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 裏手に末社殿。
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 左から稲荷神社、蚕影神社、保食神・青木昆陽命、天照皇大神宮、六社神社、大杉神社、三峯神社。

 以上で10月23日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA10-17mm Fish Eye、SIGMA 50-150mm II。K10DにDA18-55mm WR。

稲荷神社(二ツ小屋町)

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 二柱神社から東へ向かい、県道275号線に出たら南へ走って行くと、上武道路の脇、武蔵島町と二ツ小屋町の境に稲荷神社が鎮座している。
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 鳥居の額には正一位稲荷五社大明神と彫られており、こちらも源徳純謹書とある。
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 拝殿。
 稲荷五社大明神と言うくらいだから、稲荷神社の他に五社が合祀されているのだろうと思うけれど、由緒書き等が見当らないのでよく判らない。
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 右の祠は大杉神社。左側の石祠二つは不明。
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 神社の裏手、商店前には地蔵堂。

二柱神社(武蔵島町)

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 花見塚公園から南東へ向って行くと、二柱神社が見えて来る。
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 拝殿。
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 左から不明、天満宮、不明、庚申塔、湯殿山大権現、弁才天。

花見塚神社(武蔵島町)

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 阿久津荒久稲荷神社の南東、早川の畔に花見塚公園がある。
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『花見塚公園
 江戸時代初期の頃まで、この地には、名木のつつじが一面に咲き乱れていた。
 建武の中興に功績のあった新田義貞は、後醍醐天皇のおそばに仕えた匂当内侍を、その恩賞として賜った。当代一の美人と言われた内侍のために、義貞はこの地に新しい館を構え、その庭に各地から集めたつつじの名木を植えたと言う。義貞の没後、内侍は尼となってここで義貞の菩提を弔ったと伝えられ、柊塚とか花見塚と呼ばれていた。
 寛永四年(1627)、当時の領主榊原(松平)忠次は、ここのつつじ数百株を城下の館林に移したと伝えられ、今のつつじが岡公園の古木がそれで、樹齢八百余年を経ているのもあると言う。公園は、世界一のつつじの名所となっている。
 その後の当地は、義貞と内侍の墓と伝えられる墓石のある墳丘と、当花見塚に至る道筋に、小字「花見道」の地名が残るのみで、わずかに往時を偲ばせていたが、全町史跡公園化整備計画の一環として、ゆかりの地館林から若木のつつじを求め、公園として整備したものである』
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 公園の奥へ歩いて行くと、花見塚神社がひっそりと鎮座している。
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 本殿。
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『花見塚神社由来
 隠岐島から京都に還幸せられた第九十六代後醍醐天皇は元弘三年六月(1332)新田左中将義貞に匂當内侍(従二位少納言経尹三女)を盃に付けて、宿の妻として賜りました。左中将義貞は大いに喜び、建武元年(1334)匂當内侍を伴い本国である上野国に帰って来ました。
 左中将義貞はこの地、上野国勢多郡南田島郷又太郎の旧城跡に、東西百間、南北三百間の中に奥殿を新築し各所より躑躅を取り集め、これを植え、ここを花見塚と稱しました。
 建武二年七月十七日後醍醐天皇の第三皇子征東将軍宗良親王はここ花見塚御別家にご逗留され、美しい四季の草花咲きほこる花見塚を愛でられ一首を詠じられました。
  色におき野辺の千草の中々に
   たかくちなしといふや山吹
 正平元年八月十六日(1346)宗良親王は南朝の忠臣の多くが戦死し、その勢いが衰えるさまを心配され、御父後醍醐天皇と皇祖神武天皇を合祀した花見塚神社を建てられ、南朝の皇運を祈られました。
 然し宝暦元年四月(1751)火災によって焼失して今日に至りました。
 このゆかりを以て昭和四十五年十一月三日(1970)下野入道南順の後裔宮下氏一族相集まって花見塚神社を再建するに至りました。
 下野入道南順の女は宗良親王の第一子国良親王(母は匂當内侍の女山吹媛)の室となり宮の一字を賜り下野の下と併せて宮下となり国良親王の第一子正治の時初めて宮下を名乗りました』

『須賀神社由来
 祭神 宮下筑後守正繁
     横瀬信濃守泰繁
 南朝の忠臣、宮下野守正世入道南順公八代の孫父系は宗良親王の皇子国良親王の七大の裔孫である。宮下筑後守正繁は天正?年四月小田原の城主北條氏康の旗下武蔵国忍の城主成田下総守氏持の軍勢が当新田領へ侵攻して来たことを岩松の住森隼人、古海住小島三郎両人より注進を受けた、依って直に幕僚長尾新大郎渕名上野介、白石豊後守等を横瀬信濃守泰繁と?之堰宮に出陣し大いに努むと雖も敵勢剛強にして激闘遂に利なき堰宮の陣を退き払い植生より新田庄南田島郷の東南武蔵村の飛地、須賀山村に退いた。然るに遽に前後より伏勢起り善戦遂に空しく正繁、泰繁の両将共に此處に自刃して果てられた。
 正繁公の嗣子又左衛門繁貞同年十月父正繁公並に泰繁公の両霊を祀りて須賀大明神と号して社殿を討死の地須賀山に建立した。又泰繁公の嗣子由良成繁社領を寄進せられた。
 其の文に曰く「新田堀口郷領分の内大石式斗を祭祀料として奉献す云々」とある。
 爾来須賀神社は同郷鎮守の如くに祭祀されて来たが嘉永三年の利根川大洪水の為め社殿も神域も荒廃に帰したので、二柱神社の境内に遷座されたが幾星霜を経るに従い社稷損壊して形を止めぬようになった。依って茲に花見神社再建に当り?面合祀し奉るところである。
 昭和四十五年十一月三日』

 花見塚神社の御祭神は匂当内侍かと思っていたが、後醍醐天皇と神武天皇だったのか。道理で鳥居の額に十六菊花紋が描かれている筈だ。
 須賀神社の由緒書きの方は、ちょっとよく判らんな。横瀬泰繁が戦死したのは天正ではなく天文十四年(1545)だし、この時の忍城城主は成田長泰の筈。て言うか、成田氏持って誰よ。
 尾島町にも須賀神社はあったけど、あちらは素盞嗚尊を祀る祇園系の神社だから、こちらとは関係無さそうだ。
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 花見塚神社より右奥に進んで行くと、五輪塔が並んでいる。
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 五輪塔の後ろには義貞公首塚と匂当内侍の墓が並んでいる。
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『匂当内侍の墓
 匂当内侍は一条行房の娘とも妹とも伝えられ、十六歳の時内裏に召されて天皇のおそばに仕えることになったが、生れながらの美貌の持主で、数多い后妃や女官の中でも、特に天皇の御寵愛が深かった。
 義貞は内裏に召されて警護の任に当っていたが、秋の一夜、内侍の弾く琴の音にさそわれて、遂にその美貌の虜になった。
 恋慕の思いを歌に託して内侍におくった。
   我が袖の涙に宿るかげとたに
     しらで雲居の月やすむらむ
 内侍は、ひどく心をうごかされたが、このことが天皇のお耳に入ることをはばかった。
 義貞の恋慕がなみたいていのことではないことを天皇のお耳に入れる者があったので、天皇は、関東武士の一徹から分別もなく思いそめたのも無理はないと、哀れに思召され、酒席の盃に添えて匂当内侍を義貞に取らせた。
 義貞と内侍の愛は、美女ひとたび笑めばよく国を傾くいわれる通りの溺愛であったと伝えられている。
 義貞没後の内侍は嵯峨野の奥、往生院の近くに庵を結び義貞の菩提を弔ったとも伝えられるが、ここ義貞ゆかりの地に来て儀源比丘尼と称し同じく義貞の菩提を弔ったと伝えられる。
 内侍の墓を花見塚(柊塚)といいつつじの群生がみられたという。後ちに館林城主榊原忠次が寛永四年にここのつつじを城沼の畔に移したのが、匂当内侍遺愛のつつじとして、つつじが丘公園に発展した』

阿久津荒久稲荷神社(阿久津町)

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 大舘八幡宮から群馬県道298号線を東へ向って行くと、尾島中学校の南側、阿久津荒久集会所の前に稲荷神社が鎮座している。
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 拝殿裏。
 ちなみに中はからっぽ。
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 本殿。

 先日参拝した小島町の雷電神社やこの後に参拝した二柱神社の掲示板に貼られていた「あくつしし舞」のポスターには「11月20日(土)阿久津荒久稲荷神社 13時~、阿久津稲荷神社 17時~」と書かれていたので、こちらの神社でも獅子舞が奉納されるようだ。阿久津稲荷神社の獅子舞と同じものかな。
 なお、翌日の21日には阿久津稲荷神社東側にある正光寺で13時から獅子舞が奉納され、23日には岩松八幡宮でも19時から奉納されるとのことだ。

大舘八幡宮(大舘町)

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 298号線まで戻り、東揚寺から南へ向かって行くと早川の畔に大舘八幡宮が鎮座している。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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『大舘八幡宮
 大舘字吹上に鎮座、創建年代は不明であるが、大舘は平安時代末期からの文書に出てくる古い地名であり、新田義貞の曾祖父、政氏の弟にあたる、大舘家氏がこの地に勧請したと伝えられる。
 祭神は誉田別命(応神天皇)で、源氏の守護神とされ、新田荘各地に勧請されたが、現在は地名などとしてのこるものが多く社として現存するのは郡内でも数社である。
 瓦葺の覆屋がかけてあり、本殿は軒唐破風檜皮葺の荘重なものである。
 文禄三年(1594)から大舘村外七ヶ村、二千石の上州の飛地を領した弘前藩の記録によると、弘前より分家した黒石二代、津軽信敏が天和二年(1682)に、上州大舘に八幡の祠を建つとある。また村内には、八幡の神像を軸装としたものが伝えられており、その記銘に「天和三歴(1683)癸亥八月十五日、領主津軽藤原朝臣信敏、上州新田荘大舘八幡宮奉再興」とあることからして、三百年の星霜をたどることができるとすれば、本殿は信敏再建のものと思われる』
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 手前、奥共に弁才天。
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 社殿の横に小高い塚があり、その頂に石尊大権現・大天狗・小天狗と御嶽山・八海山・三笠山、そして倒れているけど湯殿山・月山・羽黒山が並んでいる。
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 本殿裏には大小合わせて十五もの祠が並んでいる。
 琴平神社と秋葉山神社、大黒天があるのは判ったが、殆どは不明。
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 境内端に道祖神。
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諏訪神社(大舘町)

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 群馬県道298号線を東へ向かい、東揚寺から北へ向うと大舘氏館跡があるのだが、車で入って行くのは少々しんどそうなので、館跡の北西にある大舘新田集会所に車を置いて館跡へ。
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『大舘氏館跡
 おおたち、の地名の初見は仁安三年(1168)新田義重置文(国重文・長楽寺所蔵)であり、義重がその子、らいおうごぜん(徳川義季)とその母に、所領を譲り渡す約束をした文書である。それによると、おおたちは空閑の郷(新しく開墾された土地)で、他の十八郷とともに、らいおうごぜんやその母に譲渡される予定であった。がしかしその後の事情で新田宗家に伝えられることになったものと思はれる。義重四世の孫、家氏がここに住んで大舘氏の祖となった。
 館跡は耕地整理などによって、その遺構は失われたが、古くから竈跡であったと伝えられる、この地を中心に、御堀、御蔵、鍛冶屋、馬場などの小字名が残り、往時を偲ばせる。家氏の子宗氏、その子幸氏、氏明は新田義貞にに従い活躍した。太平記によれば、生品明神での挙兵にあたり義貞に従軍した一族の筆頭は大舘宗氏父子であり。宗氏は鎌倉攻略にさいし極楽寺坂に向った寄手の大将として奮戦、突破口を開いたがそこで惜しくも戦死を遂げた。宗氏主従慰霊のための十一人塚では現在も地元の人々によって供養が続けられている。
 その後各地に転戦した大舘一族の中にあって氏明は吉野に御所を定めた後醍醐天皇により伊予の国の守護と任じられ、脇屋義助とともに四国全土を南朝の手に統一する働きをみせたが、義助は病没、氏明も世田城に戦死を遂げた』

「らいおうごぜん」とは漢字では「頼王御前」と書くようだ。
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『諏訪神社改築記念碑
 鎌倉時代に新田政義の次男家氏が当地に居を定めて大舘を氏とした。其の子宗氏、孫氏明は天皇親政という大理想を貫くために新田義貞に従い大いに奮戦しその功顕著であったので、大正四年宗氏に従四位氏明は正四位とをそれぞれ贈られたのである。
 橋本一族は新田の子孫であるといわれ昔から諏訪神社を氏神として祀り其の加護の下に親睦と繁栄を図っている。御堀御蔵馬場等の地名や付近に埋れる石垣などは大舘氏居館の跡を偲ばせる。
 斯く古老の説によると祠の建つ此処がその竈跡であるという。この由緒ある祠の改築を記念してこれらの史実を刻み後の世に傳えるものである。
 昭和四十七年七月』
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 諏訪神社拝殿。
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 末社。
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大和神社(出塚町)

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 飯霊神社から南下して群馬県道298号線に出たら、西へ向うとすぐに大和神社が見えて来る。
 こちらは拝殿と神楽殿を兼用しているのかとも思ったが、ただ単に戸板が取り払われているだけなのかも。
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『大和神社(行者堂)案内
 所在地 新田郡尾島町大字出塚字本村六四番地ノ一
 祭神   役行者 疫病除け・子育ての神
 もと長福寺の境内にあったもので、役行者の像を安置する。役行者は役君小角・役小角・役の優婆塞・神変大菩薩などとも呼ばれ、奈良時代初期の山岳呪術者で、修験道の祖とされる。僧衣をまとい、頭巾をかぶり、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、足には一本歯の高下駄をはき、左右には、前鬼・後鬼という二体の鬼を従者として伴う。
 寛平年間、大和から来た僧が、この像を背負って長福寺に入ったという。其の後文化十二年(1815)、徳川から発した大火災で長福寺は全焼し、この像も半焼となったものを家中から搬出した。そこで村民相談の結果、新たに同じ像一体を彫刻させ、半焼の古い像は御隠居様と呼んで、別に厨子に保存し、現在にいたっている。
 行者堂は、もと現在地より南西役五十メートルの地にあり、萱葺の東向き建物だったが、明治二十九年(1896)いまの堂が南向きに建てかえられ、さらに昭和十四年(1939)もと揚伝寺敷地である現在地に移築された。この際、大和から運ばれた像に由来するところから、大和神社と呼ばれるようになったが、村民の間では古くから行者堂、行者様の名で通っている。
 祭日 七月一日   八丁〆
     八月六~七日 夏祭り
 八丁〆は珍しい祭りで、竹縄(若竹を薄く割り、より合わせた縄)を輪にして、中央に修験者が坐り、般若心経を唱えながら太鼓を打つ。村人はそれを囲んで竹縄の輪を左に回しながら「ナイダー、ナイダー」と唱えて三まわりし、一同総立ちになる。つぎに竹縄を柱の角で、「ナイダー、ナイダー」と唱えながら交互に引き合い、摩擦して短く切る。その切れはしを各戸に一片ずつ持帰り、それを輪にして入り口や床の間に書け、疫病除けのお守りとする。疫病にかかって高熱が出た時、これを煎じて飲むとふしぎに熱が下がるという。竹は本来、漢方の解熱剤でもある。
 八月六日の宵祭りは、かつては大変な人出でにぎわい、七日には神輿が各戸を巡って、疫病除けを願ったものである。
 平成三年三月吉日』
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 庚申塔や二十二夜塔、馬頭観音、青面金剛などが並んでいる。
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飯霊神社(出塚町)

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 粕川交差点から一本西側の道を南下して行くと、群馬県道298号平塚亀岡線に合流する少し手前に飯霊神社が鎮座している。
 社号標石の側面には「鎭座地 上野國新田郡世良田村大字出塚字飯靈壹貳貳番」と彫られていた。
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 狛犬。
 また面白くないタイプ…と思ったが、よく見たら舌まであるのは少し珍しいかな? 白目を剝いているように見えるのが少し怖いかも。
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 社殿。
 こちらも詳細不明だが、社号から見て稲荷系のような気がする。
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 拝殿右手側に稲荷大明神。
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 末社群。
 左から二番目の石祠の額には赤城山と彫られていた。その右はおそらく秋葉山神社。
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 境内の隅っこにも末社があるが、詳細は不明。

一本松稲荷神社(出塚町)

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 藤川屋前から西へ向かい、粕川交差点を越えるとすぐに一本松稲荷神社が見えて来る。
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 なんだか微妙に嫌な表情のお狐さま。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当らず、ググってみても情報無し。
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 社殿裏に末社二つ。右手前側は疱瘡神。

秋葉神社(粕川町)

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 亀岡神社西側の道を北西へと進み、藤川屋の脇を北へ入って行くと粕川会館の脇に秋葉神社が鎮座している。正直なところ、こんなにちんまいとは思っていなかった。
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 天照皇大神も祀られている。右の石碑は日露戦役記念碑。

亀岡神社(亀岡町)

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 須賀神社から国道354号線を西へ少し向った所に亀岡神社が鎮座している。
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 狛犬と庚申塔。
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『亀岡神社改修整備記念碑
 社傳曰く、往昔七百年、伏見天皇の御宇、正應年間。大炊介新田義重朝臣の玄孫又太郎政氏朝臣一門の武運の旺盛を祈念する為、信濃國諏訪に鎮座まします上諏訪下諏訪両大社の御分霊を勧請し給い、当地軽浜台に健御名方尊妃八坂刀賣姫命を祭祀したることに肇る。当時軽浜台は羊申に大舘村を望み辰巳に堀口村の影を落す利根川清流に接する弓型北涯の高台であった。
 爾来諏訪神社は霊験あらたかな武勇開運福徳の神として諏訪大明神御諏訪様と愛称をうけ遠近の武人郷衆に尊崇され開創以来神燈連綿亀岡住民に護持されて今日に至ったものである。その間元弘三年五月政氏朝臣の曽孫小太郎義貞公鎌倉幕府征討の砌社前に額づき利生を仰ぐため祈願されたと謂れている。
 降って明治四十二年三月亀岡村内にあった各小社を将来の維持の為境内末社と共に孫社諏訪神社に合祀し社号を亀岡神社と改称した。その際合祀した各社は次の通りである。字軽浜、諏訪神社祭神健御名方神后八坂刀賣姫神。琴平神社祭神大物主神。菅原神社祭神菅原道真公。字裏地、愛宕神社祭神火産霊神。浅間神社祭神木花咲耶姫神。琴平神社祭神大物主神。厩戸神社祭神聖徳太子。字本村、厳島神社祭神市杵島姫神。三峯神社祭神伊弉冉神。
 而して本殿は明治四十二年合祀の折、上堀口の天神社の立派な神殿を移築したもので同年秋上屋をたて永久保全の策を施した。拝殿は明和四年改築されたが明治以来幾度か修理修復を重ねたが荒廃甚だしく、昭和五十二年大改修に着手。本体修復と共に近隣稀な秀麗なる銅板葺屋根が完成した。加えて水屋を改築し、翌年玉垣の一部を構築した。更に昭和五十七年秋境内地の荒地六百餘坪、整備事業を起工。半歳を要して工事は完了した。整地に土止を施し植樹を行い玉垣を増築住民憩いの場も設置した。昭和五十二年以来この一連の改修整備事業により従来と全く面目を一新した社殿並びに清浄なる聖域が成就した。将に近年稀にみる快挙である。
 これ偏に氏子各位の深い理解と和衷協力の賜で衷心より喜びに堪えない。仍て茲に神社の彌栄と氏子一同の限りない繁栄を祈念すると共にその由来と事業の梗慨を記して後世に傳える。
 昭和五十九年一月』
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 拝殿。
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 末社殿。

須賀神社(尾島町)

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 再び尾島一丁目交差点に戻り、国道354号線を西へ向うと太田警察署尾島交番の東側に須賀神社が鎮座している。
 車止めがあるので、乗車したままでは表からは入れないが、社務所兼上町会館の南側に一台分のスペースがあるのでそちらに置くか、或いは神社の裏から回り込んで入るかのどちらかになるだろう。
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 鳥居。正面からでは松の枝に遮られてよく見えない。
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 額には祇園社とあり、新田大炊介義重二十三世源徳純(岩松徳純)によるものであるようだ。岩松徳純は江戸時代後期に上野国新田郡下田島領主であった人物で、書画に優れていたらしい。
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 拝殿。
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 合社記念碑。
 大正八年八月十九日に琴平神社・稲荷神社・八幡宮・雷電神社・浅間神社・宗像神社・菅原神社・御嶽神社・古峯神社・秋葉神社の十社が合祀され、大正十三年一月十五日にこの碑が建てられたようだ。
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 庚申塔と道祖神。
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 社殿右側に金御臺稲荷大明神の一の鳥居。
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 二の鳥居と祠。

日吉神社(下田島町)

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 尾島一丁目交差点から群馬県道275号由良深谷線を北上し、石田川を渡って左に曲がると東田島会館の脇に日吉神社が鎮座している。
 予定では皇祖八幡宮の次に参拝する筈だったのだが、うっかり通り過ぎてしまった為、稲荷神社を参拝してから戻って来ることに(苦笑)
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 二の鳥居。
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 社殿。
 由緒書き等は見当らなかったが、日吉神社と言うことは御祭神は大山咋命と大己貴命なのだろう。
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 社殿左奥には神輿殿や末社など。
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 何神社かは判らないが、石祠の手前に双体道祖神らしきものが見える。また、鳥居の脇には道祖神も祀られていた。
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 富士塚。
 中腹には駒嶽馬頭尊、麓辺りには猿田彦大神が祀られている。
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 塚頂に冨士浅間大神・身禄霊神・磐長姫命。その左下には大日本扶桑國蚕女郎・大日如来・薬師如来。
 大日本扶桑國蚕女郎と言うのがなんなのか判らないが、蚕の神様と言うと稚産霊神だろうか。

稲荷神社(阿久津町)

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 先週は尾島町の雷電神社に参拝したが、地図を見直したらすぐ近くに稲荷神社があった。どれくらい近くかと言うと、尾島一丁目交差点の西30m程の位置に雷電神社の鳥居、東35m程の位置に稲荷神社ってくらいの距離。しかも帰宅する際に神社の前を通っているのに気付いていなかったのだから節穴すぎる○刀乙
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 社号標石の右側には村社記念碑、大国主神、庚申塔、庚申塔、青面金剛。右奥には正光寺の山門が見える。
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 村社記念碑は隷書体っぽい文字で彫られていたり異体字が使われていたりで読み取り難いが、御祭神は稲倉魂命と八意思兼命の二柱であるようだ。
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『鳥居等奉納由来碑
 昭和五十五年三月、尾島町立統合中学校が亀岡地先に新築され、輪奐の美を誇っておりますが、旧阿久津村共有地七七三㎡が、その校地の一部として脚光を浴びることにあんりました。
 そもそも、この共有地は葦などの生い茂っていた沼地でありましたが、曽っての共有者が明治十年代より維持管理して来た意義ある土地であります。
 そこで、碑陰の人々等が相咨り、この土地の譲渡金を以って郷土の交流の場である稲荷神社の境内に、御影石の鳥居を建立且秋葉神社を再建、奉納することにいたしました。
 これはまさに、先人の遺志を顕揚し、地区の人々の親交融和を図り、その発展を祈念しての事業であります。
 茲に、いささかその経緯を誌し、後世に長く伝える所以であります。
 昭和五十六年三月吉日』
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 お狐さま。
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 拝殿。
 棟の中央には宝珠紋、その左右に見覚えの無い神紋が配置されているが、何紋なのだろう。バクテリオファージのようにも見えるが、そんな訳は無い。他にも、本殿の屋根には左三つ巴紋と九曜紋が見受けられた。
 また、拝殿脇には獅子舞の案内板が設置されている。
『太田市重要無形文化財 阿久津の獅子舞
 指定年月日 昭和五十年十月八日
 所在地    太田市阿久津町一○二番地一
 阿久津の獅子舞の起源は不明であるが、江戸時代初期より伝承されているといわれる。
 獅子頭は「牡獅子」「牝獅子」「ほうがん」の三頭があり、一人が一頭を被って舞う「一人立ち三人舞」の形式である。
 獅子舞は毎年、十一月十八・十九日の両日村の稲荷神社(子守大明神)の祭に奉納される。夜、社殿の前にかがり火を焚き、三頭の獅子が笛と歌に合わせて胸につけた太鼓を打ちながら五穀豊穣、悪疫退散を祈り勇壮に舞う。
 現在伝えられている舞には「ひらにわ」「ぼんでん」「牝獅子がくし」等があり、舞の歌は十首ほど伝わっている。
 獅子舞を演ずる少年は、昔は氏子の長男だけに限られていたが、最近はそうした制約はゆるめられた。「獅子っ子」に選ばれた少年は祭りの前になると村内の獅子宿(現在は社務所)に集まりきびしい練習を重ねる。
 阿久津においては地区住民全員でこの芸能を永く後世に伝えようと、獅子舞保存会を結成して保存につとめている。
 なお、「道化」といって獅子舞の合間に「おかめ」「ひょっとこ」などの面を付けて、こっけいな仕草を演じた。それに使用された面が現在十数面保存されている。いずれも民俗資料として貴重なものである』
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 拝殿の左手前に石祠。
 名を示すものは無いが、こちらが奉納由来碑に記されている秋葉神社なのだろうか。
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 末社群。
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 鳥居左側には石を積んで造られた塚がある。
 ちなみに、奥に見える交差点が尾島一丁目交差点。
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 左に湯殿山・月山・羽黒山、右に御嶽山坐王大権現・八海山神王・五社御神天神七代地神五代人皇三代御神・清瀧大日大聖不動明王・三笠山刀利天。
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 塚の麓辺りに不動明王。
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皇祖八幡宮(下田島町)

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 米澤神社裏、と言うか北側の道を西へまっすぐ走って行くと、道端に鳥居と石祠が見えて来る。
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 皇祖八幡宮、と書かれている。
 地図で見た時は偉そうな名前だと思ったものだが、まさかこんなにもちんまりとした神社であるとは思いもしなかった。
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 石祠の脇には神宮と彫られた板碑があるが、こちらはお伊勢様だろうか。

米澤神社(米沢町)

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 米沢町と西新町の境に鎮座する米澤神社。
 鳥居の額には「塞神」と陽刻されている。
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『米澤神社移転改築記念碑
 今を去る二百五十年前、私達の祖先が当地に村人の平安を祈願する為、米澤神社を勧請しました。
 平成十五年四月河川改修の為、神社は移転の止むなきに至り関係者一同にて計り改築移転の運びとなりました。
 我等祖先が農作業の疲れも厭わず境内に相集い相励んだ歴史を振り返る時、神社創建は祖先のみならず子孫に至るまでの繁栄と隆盛を願う愛郷心からの一念発起に外ならないものだったと改めて思い知らされます。
 この度の移転改築にあたり、この地に佇むと、おのずと深い感慨を覚えずにはいられません。
 ここに、祖先の御霊に報告申し上げ、地域住民の無事息災の神佑を祈念し、建碑の辞を。謹書致しました。
 平成十七年三月吉日』

 平成十七年と言うことは2005年。そこから約250年前とすると1755年(宝暦五年)前後なので江戸時代中期か。勧請元がどこの米澤神社なのかは書かれていないが、額に塞神と記されていたところから見て、長野県松本市の米澤神社だろうか。あちらの御祭神は猿田彦神で、瀬黒の庚申様と呼ばれているのだと言う。
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 狛犬はおらず、鏡餅のような物が置かれている。
 東長岡町の神明宮沖之郷町の碓神社にも似たような物はあったが、それらはどちらかと言えば石臼のような形であって、ここまで丸くはなかった。
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 拝殿。
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 社殿右手側の祠には「おおほり様」と記された額が掛けられていたが、おおほり様ってなんだろう?
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 中には石祠が納められており、大黒様の小さな像があるところを見ると、大黒天或いは大己貴命を祀っているのだろうか。
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 末社群と庚申塔。

 先に10月24日の日記が入ってしまっているが、ここからしばらくは23日に参拝した分を記し、24日に参拝した茨城県の神社はその後に記すことにする。

陸平縄文ムラまつり

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 友人に誘われて、茨城県稲敷郡美浦村で行われた陸平縄文ムラまつりに行って来たのだが…
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 鬼太郎やらムックやら
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 朝青龍やらなんやらの案山子コンテストがあったり
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 山羊がいたり
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 屋台が並んでいたりと、縄文時代殆ど関係ねぇ!
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 縄文時代を感じさせるのは復元竪穴住居くらい?
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 竪穴住居内部では、
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 なぜか燻製を作っていた。
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 発掘された遺構。
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 帰宅の際には霞ヶ浦の脇を通って行ったのだが、遠くに筑波山が霞んで見えていた。
 他には近隣の神社にも数箇所立寄ったのだが、それらはまた後ほどに。

雷電神社(尾島町)

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 尾島一丁目交差点から北へ向かうと、すぐ西側に雷電神社が鎮座している。
 こちらの一の鳥居は交差点の西側30m程に位置し、国道354号線に面している為交通量がそれなりにあるので車の切れ目を狙って撮影。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 塚の裾に猿田彦大神×2。
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 拝殿。
 こちらは由緒書きが無く、ググってみてもあまり情報が出て来ない。
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 末社殿。と思いきや、
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 石祠がひとつ、ぽつんとあるだけだった。
 雷電神社の境内に出雲神社があり、十一月の十九日と二十日に恵比寿講が行われるということだが、こちらが出雲神社なのだろうか?
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 以上で10月16日参拝分終了。太田市内の神社巡りをするのは一年四ヶ月ぶりか。
 使用機材はK-7にDA21mmとSIGMA 50-150mm II。K10DにDA15mmとDA35mm Macro。50-150mm IIの描写性能は良好で不満はないが、この個体はやや前ピン気味なので、AF微調整機能で補正しておく必要がありそうだ。

厩戸神社(亀岡町)

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 群馬県道276号を北上し、尾島一丁目交差点の300m程手前で西へ向かい、250m程走ると厩戸神社が見えて来る。
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 厩戸神社と言う名前から見て、御祭神は聖徳太子だろう。
 また、厩戸神社の南東200m程の位置に太子町会館があり、その敷地内に太子神社が鎮座しているのだが、太子町会館に駐車場は無く、太子神社も会館脇の隙間に押し込められているような状態なので、パスすることにした。鳥居もちゃんとあったりするのだけど、魚眼レンズでもないと収め切れないかも。

賀茂神社(堀口町)

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 三柱神社から西へ向かうと、群馬県道276号新堀尾島線のそばに賀茂神社が鎮座している。
 隣には集会所もあったのだが、チェーンが張られていて車を置くことができず、道幅もそう広くはないので鳥居と庚申塔の間に捻じ込むことに。
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 鳥居の横には道路に面して庚申塔、御嶽山岩戸神社・八海山神社・三笠山神社、詳細不明の石祠、二十二夜塔が並んでいる。
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 社殿。
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『太田市指定重要無形文化財 堀口の獅子舞
 指定年月日 昭和五十三年十二月七日
 所在地    太田市堀口町甲一一一番地
 賀茂神社の祭神は別雷命で、新田義重が久安年中(1150年頃)京都の賀茂大神を勧請したものと伝えられている。堀口の獅子舞の起源は不明であるが、太鼓の胴内部の墨書銘に、「元禄七年(1694)獅子舞がしばらく中断されていたが再興する」という意味のことが記されていることから、江戸時代初期の頃より伝承されていたものと考えられる。
 近年に至っては、昭和二十一年秋の奉納舞を最後に三十年間とだえていたが、昭和五十二年秋関係者によって復活された。村では、永くこれを伝承するために獅子舞保存会をつくり、町指定重要文化財として後世に伝えることになった。
 獅子舞は、「牡獅子」「牝獅子」「ほうがん」の三頭であり、三頭が一組になって舞う。舞の種目は、「ひらにわ」「ぼんでん」「牝獅子がくし」である。
 舞の奉納は、毎年十一月十四日夜、賀茂神社の社前で行われる。赤々と庭燎(にわび)がたかれ、多数の観衆に囲まれ、笛の音に合わせ、紺地白ぬきの三角ちらし模様のたっつけ袴、白足袋姿の獅子っ子が、腰太鼓を打ちながら五穀豊穣、悪疫退散など、村人の願いをこめて舞う姿は勇壮で神秘的であり、村祭りの伝統を守る貴重な民族遺産である』
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 本殿裏に並ぶ末社群。
 殆どは判らなかったが、右端と右から四番目は道祖神。右から三番目は大杉大明神と水神宮。
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 少し離れて、こちらにも末社が並んでいる。
 右側三つは陶製の小さなお狐様が納められていたが、他にも達磨や招き猫が奉納されていて、なんだかよく判らない。が、左から二番目は祠に宝珠紋があったので稲荷神社で間違いないだろう。

三柱神社(押切町)

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 岩松八幡宮から南下して行くと、真言宗高野派大悲山徳性寺の西側に三柱神社が鎮座している。鳥居の額には三社宮と彫られているので、古くはそう称していたのだろう。
 神社の前には広い敷地があるのだが、それが神社のものなのか向かい側の工場のものなのか判らなかったので、徳性寺前の押切集会所の駐車場に停めることにした。
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 拝殿前。ここから左へ向かうと、
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 阿夫利神社。
 祠の扉には天狗扇を模った飾りが付いていた。
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 拝殿。斜めから。
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『三柱神社の由緒
 抑村社三柱神社の由来は豊受姫神、稚産霊神、大雷神の御参體を奉祀して三柱神社と稱す。元亀二年(1571)利根川の大洪水のため岩松村より分離して押切村となり、村の氏神として奉斎し、廣く村民の信仰を集め幸福の守護神となる。
 本殿はその昔、社祠の腐朽の度激しく、先人いたくその式微を憂え嘉永四年(1851)村民相謀り、當時の武蔵國幡羅郡妻沼村の名工林兵庫之守をして宮造りの粋を極めて造らしめ再建を期したるものなり。
 拝殿は明暦二年(1655)の建造になるも星霜を經ること三百有餘年、その腐朽甚だしく神威を穢すに至り、拝殿改築の議しばしば起りたるも之の機を得ず、漸くに崇敬深き村民の總意に依り各位の協讃と計画に基き、昭和五十三年四月(1978)完成を見るに至り春季の大祭に併せてその竣工の式典を擧げるはこびとなる。
 阿夫利神社は明治元年(1868)神佛分離令布告により相模國大山寺より學信和尚が徳性寺第十四世住職として晋山入堂の際奉持したるも、廃佛毀釋の情勢が嚴しく、止むを得ず、暫く東の庫にひそかに奉祀し、後に小高き丘を築き、ここを神域と定めて遷座せるものである。その由緒ある社祠を將來末永く奉祀するため上屋を架けて維持保存するものとする。
 これらの事は我國古來の敬神崇祖の念を興し今后の神社興隆に寄興し、惟神の大道宣布に大きく貢献するもので、茲に神社の由來と芳名を誌して永く後世に傳えるものとする』
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 拝殿前に石祠が並んでいる。
 左は大杉大明神、右は水神宮。中央にも祠があったのかも知れないが、今では名残があるだけ。
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 本殿裏に末社群。いずれも詳細不明。

岩松八幡宮(岩松町)

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 金剛寺前から農道を南へ進み、突き当たったら西へ向かうと岩松八幡宮が鎮座している。
 農道を南下する途中、朱塗りの鳥居がある祠を見かけたので、八幡宮に参拝するついでにそちらにも寄ってみようと思っていたのだが…すっかり忘れてしまった○刀乙
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 狛犬。
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 鮮やかな朱塗りの鳥居。
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 社殿。
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『岩松八幡宮
 所在地 太田市岩松町二五一番地一
 誉田別命(応神天皇)を祭神とするこの社は、市野井(新田町)の生品神社、鹿田(笠懸村)の赤城神社と共に新田の三社といわれ、明治五年栃木県(当時この地は栃木県に属した)において郷社に列せられた。
 創建は仁安年中(1166-1169)新田義重が京都大番のおり山城国男山より小松を持ち帰り、この地に植えて岩清水八幡を勧請し岩松八幡宮と称した。以来犬間(猪沼)郷を岩松郷に改めたという。
 八幡宮は源氏の守護神として崇敬され、新田の庄各地に分霊が奉祀された。岩松八幡宮が新田の総鎮守といわれるようになったのは、南北朝以来新田の庄の実権が岩松氏に移ったことによると考えられる。
 正木文書「新田庄田畠在家注文 嘉応二年(1170)目録」の中で「八幡のミやに二町五反」の除地の記載があり、これが一社のものであるかどうかについてはつまびらかでないが、応永十一年(1404)の村田郷地検目録には八幡神田が筆頭に記され、応永十七年(1410)の上今居郷地検目録八幡天神に起請(誓いをたてる)して作成されていることは、当時両郷とも岩松氏の支配地であったことから岩松八幡宮と見られる。また、世良田長楽寺の住僧松陰西堂の「松陰私語」に金山城主岩松尚純の一子夜叉王丸が七歳の時当家代々の慣例により当八幡宮において元服し昌純と名乗ったとの記述も見られ、往昔この社の隆盛と庄内での崇敬のほどがうかがわれる。なお境内には新田義貞を祭神とする摂社新田神社がある』
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 社号を記したものは見当らなかったが、おそらくはこちらが新田神社なのだろう。
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 衢立岐大神。左右に八衢比賣命と八衢比許命の名が刻まれている。
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 本殿裏にも祠。
 石祠の表には嘉永六丑年十一月十八日と刻まれているが、こちらが何神社なのかは不明。木造の祠の瓦には左三つ巴紋があったが、それだけではやはり何神社なのかは判らない。

 11月7日追記。2015年6月11日修正。
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 岩松八幡宮北東の祠
 どなたを祀ったものなのか判らなかったので、個別にエントリーは立てず、こちらに追記。
 Google mapのEarthビューを見ると、下段に表示される写真に飯玉様とあるので、こちらは飯玉神社なのだろう。

義国神社(岩松町)

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 国道354号線を西へ向かい、エネオス脇の道を北上…しようとすると、舗装されていない農道になるのでロードスターで入って行くのはちょっと無理。幸いにもエネオスの西側に南岩松区民会館があるのでのちらに駐車してそこから徒歩で義国神社へ。
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『義国神社
 所在地 太田市岩松町甲五○三番地
 源義国を祭神とするこの祠は、久しく義国天神と称され、村人によって崇敬されてきた。元文四年(1739)正月八代将軍徳川吉宗は、義国院祭祀料として、白銀五枚を奉納し遠祖の霊を追祀したという。明治十年群馬県より神社号を公称することを許された。
 義国は八幡太郎源義家の三男として生れた。新田氏の祖義重並に足利氏の祖義康の父であり平安時代の武将であった。帯刀長(皇太子を警護する役人の長)となり式部大夫従五位下加賀介に叙任された。右大臣実能の屋敷を義国の郎等が焼打したことにより天皇のおとがめをこうむり下野国足利に引きこもったが、のち出家して荒加賀入道と称し新田に居住し、久寿二年(1155)六月二十六日に没したという。
 義国の孫矢田判官足利義清が備中(現岡山県)水島の戦いを前に、寿永二年(1183)十月朔日、祖父義国等の供養の為納経した大般若経の奥書に「為供養、上野国新田住式部大夫加賀介従五位下義国…」とあり、義国は新田の地で没したのではないかと推測される。祠の裏手には、義国の供養塔と称せられる五輪塔の残欠があり、その没年が記されている。なお祠前には観応二年(1351)の板碑がある』

 足利義清って水島の戦いで平氏軍に大敗して戦死しとるのよね。少なくとも、武運での御加護は期待できそうにないか。
 それにしても、なんで足利でもなければ新田でもないこんな処に祠を作ったのだろうとかどうして天神なんだろうと言う疑問が出て来るが、そのあたりのことは書かれてないのね。
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 額には義国天神の他、不動明王と聖徳太子の名が刻まれている。
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 板碑。
 中央には観應二年十二月十五日…かな。薄くなっていて読み取り難い。その周囲に彫られている文字は梵字なのでそもそも読めない。
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 祠の裏には石祠と五輪塔。
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 遠景。

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 南岩松区民会館の前に建てられた子安地蔵尊堂。
 地図を見るとお堂の脇にあるのは区民会館ではなく金剛寺と書かれているのだが…と思い、よく見てみると区民会館に金剛精舎と書かれた額が掛けられていた。どうやらお寺が区民会館としても使われているようだ。
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 太田市指定重要文化財である「圓仏および妙蓮の板碑」の案内板も設置されているが、それらは見当らない。堂内に納められているのだろう。

寅稲荷神社(備前島町)

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 国道354号線を西へ走って行くと、石田川を越えた先に尾島健康福祉増進センターがあり、その東側の公園南に寅稲荷神社が鎮座している。
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 本殿。
 こちらも由緒書き等が無いので詳細は不明だが、棟には宝珠紋の他に梅鉢紋があり、また軒下には十六菊花紋もあるので天満宮や神明宮も合祀されているのかも知れない。
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 本殿裏の石祠。
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 青面金剛と三猿。
 正徳五乙未天十一月吉日、とあるので、1715年に作られたもののようだ。
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