稲荷神社(大間々町小平)

IMGK9374s.jpg
 帰宅する為に334号線を戻っている途中、鳥居の姿が視界に入ったのでこれまた立寄ってみた。
「キンケン石産株式会社 小平砕石工場入口」と書かれた看板から北に入るとすぐなのだが、駐車スペースは無いので路肩に駐車。ここはトラックの出入りが多いので注意が必要だ。
IMGK9385s.jpg
 参道から左、334号線の方に目を向けると薬師如来を祀る瑠璃堂。
IMGK9352s_20101129214014.jpg
 鳥居をくぐり、少し歩くとすぐに稲荷神社。
 祠はぼろぼろで、壁のあちこちに穴が開いていた。
IMGK9355s.jpg
 何故か三つ巴紋の描かれた本殿。
IMGK9358s.jpg
 四基の石祠と水盤。

 以上で11月27日参拝分終了。
 当初の予定より参拝した神社の数が増えてしまったが、いくつか地図に記載されていない神社に遭遇してしまったのだから仕方が無い。別に困りもしないしね。
 使用した機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm、DA70mm、DA10-17mm Fisheye。K10DにSIGMA 50-150mm II。IXY Digital 400。
スポンサーサイト

十二山神社(大間々町小平)

IMGP6224s.jpg
 木之宮神社に向かう途中、鳥居らしきものがちらりと視界に入ったので、木之宮神社から戻り際に立寄ってみた。
IMGK9336s_20101129210906.jpg
 祠の中には「昭和廿四年八月二日 奉再建十二山神村内安全祈所 廿三世大阿闍梨竪者邦信」と書かれた木簡が納められていたので、こちらは十二山神社の遥拝所のようなものなのかな。
IMGK9347s.jpg
 祠の後ろの岩の上には石仏が鎮座していた。

木之宮神社(大間々町小平)

IMGK9303s.jpg
 県道334号線を北上して行くと、334号線に背を向ける形で小平川の畔に木之宮神社が鎮座している。
IMGK9311s.jpg
 本殿。
 由緒等は不明だが、こちらには寛政五年(1793)と文化四年(1807)の二枚の棟札が残されているそうだ。
IMGP6212s.jpg
 末社。
 石祠の中には小さなお狐さまの置物が納められているが、稲荷神社なのかな?

伏見稲荷神社(大間々町小平)

IMGK9284s.jpg
 第六分団詰所左側の坂を上って行くと、左手側に鳥居が見えて来る。
 額には伏見稲荷大神とあるが、京都の伏見稲荷から勧請したものなのだろうか。
IMGK9294s.jpg

嵯峨神社(大間々町小平)

IMGK9301s_20101129010132.jpg
 県道334号線を更に東へ走って行くと、右手側に小平の里鍾乳洞公園、左手側に嵯峨神社の鳥居が見えて来る。
 鳥居のすぐ左側に充分なスペースがあるのだが、そこは大間々消防団第六分団詰所前なので駐車するのは気が引ける為、鳥居右側にある小平公民館に駐車させてもらった。実際、大して距離変わらんし。
IMGK9217s.jpg
 鳥居と公民館の間にある庚申塔。
IMGK9228s_20101129010130.jpg
『嵯峨宮
 ここの嵯峨宮は、嵯峨天皇によって弘仁十四年(823)最澄の願により大乗戒壇の設立が許された。
 小平の里は嵯峨天皇と最澄(天台宗開祖)の里でもある』

IMGK9277s_20101129012213.jpg
 鳥居をくぐり、まっすぐ歩いて行くと嵯峨神社。
 戒壇と言うことは神様や仏様を祀る為の場所ではないと思うのだが、はてさて、どなたが祀られているのだろう。天台宗は特定の本尊がないそうだし…じゃあ、嵯峨天皇?
IMGP6191s.jpg
 石段の右側に石祠二基。
IMGK9271s.jpg
 拝殿。仏教色が強いだけあって、鈴ではなく鰐口が下げられている。
IMGK9251s_20101129012210.jpg
 境内社。
 中の祠には幣束が三本立てられていたが、こちらもどなたが祀られているのか判らない。
IMGK9263s.jpg
 先程の境内社から少し上った所にも石祠。
 奥の院でもありそうな気がしたが、土が軟らかくて崩れやすい為、上っていくのは断念した。

菅原神社(大間々町浅原)

IMGK9139s_20101129003430.jpg
 県道334号線まで戻り、そこから北上して行くと左手側に菅原神社が見えて来る。
 左手側に見える大きな建物は神楽殿。その前を通って社殿の裏まで回るとかろうじて駐車スペースがある。
IMGK9147s.jpg
 拝殿。
 こちらも由緒等は不明。
IMGP6175s_20101129003429.jpgIMGP6174s.jpg
 狛犬。
IMGK9151s.jpgIMGK9154s.jpg
 正面から。
IMGK9164s.jpg
 拝殿右手側に末社。
IMGK9157s.jpg
 末社群。
 左から不明、牛頭天王、御室社、大?(ネ人)、不明、石尊、赤城宮、妙儀、秋葉、不明。
IMGK9207s.jpg
 拝殿左手側にも末社群。
IMGK9215s.jpg
 本殿裏の末社。

十二山神社(大間々町長尾根)

IMG_3019s.jpg
 長尾根公民館から北東へうねうね車を走らせると、やがて十二山神社に到着。地図には十二神社と記載されているが、拝殿の壁に掛けられた寄付金者芳名額には十二山神社と書かれていた。
 この辺りまで入って来る人は少ないと思うが、神社の周りは綺麗に刈り払われていて清々しさを感じた。
IMGK9127s.jpg
 拝殿左手側に石祠。
IMGK9115s.jpg
 拝殿右手側にも石祠二基。
 右側の石祠には寛延己巳九月と刻まれていたので1749年のものだ。
IMGK9136s.jpg

 ところで、十二山神社と言うことは十二山を崇敬の対象としているものと思われるが、その十二山はみどり市と佐野市の境にある十二山のことでいいのかな。

熊野神社(大間々町長尾根)

IMGP6159s.jpg
 群馬県道334号小平塩原線を東へ進み、浅原田中団地前で南へ下って行くとしばらくして左手側に長尾根公民館が見えて来るので、公民館脇の十字路から北へ向かうと十二山神社、南へ向かうと熊野神社に到達できる。まずは熊野神社へ。
 枝が伸びていて背を屈めないと引っかかって上れないわ、石段に落葉が積もっていて滑り易いわとちょっとしんどい。
IMGK9086s.jpg
 鳥居。
IMGK9088s.jpg
 二の鳥居らしきもの。
 寶暦十二壬午十一月吉日と刻まれているので、1762年のものだ。
IMGK9099s.jpg
 熊野神社拝殿。
IMGK9102s.jpg
 幸いにも拝殿から鳥居の横まで続いている坂道があったおかげで石段を下りずに済んだ。鳥居から拝殿までの石段は落葉のせいで滑り易く、上るのはまだしも下るのはかなり慎重にしないと滑り落ちかねないと思っていたので、楽ができて良かった。

十二神社(大間々町浅原)

IMGP6151s_20101128220656.jpg
 上桐原交差点から福岡大橋を渡り、道なりに東へ進んで行くとその内左手側に十二神社が見えて来る。とは言え、駐車スペースが無いのが困る。
IMGK9066s.jpg
 拝殿内部。
 天井の梁に昭和参拾壹年参月弐拾五日上棟と書かれていた。と言うことは1956年だ。
IMGP6154s.jpg
 大黒天。
IMGK9075s.jpg

神明宮(大間々町桐原)

IMGK8989s.jpg
 国道122号線に戻り、大間々警察署の手前で東へ向かうと新田山田水道事務所の南側に神明宮が鎮座している。第十二区集会所に隣接しているので駐車スペースは充分にある。
IMGP6139s.jpg
 二の鳥居。
 万治元戊戌と刻まれているので、1658年に建てられたものなのだろう。
IMGP6148s_20101128212845.jpgIMGP6142s.jpg
 馬頭観世音と根生大明神。根生は金精と同じだろう。
IMGK9058s_20101128212904.jpg
 社殿。
 由緒等は不明。
IMGK9013s_20101128214620.jpg
 末社群。
 秋葉山神社と天王宮だけは判ったが、他は不明。
IMGK9028s.jpg
 庚申塔群。
IMGK9035s.jpgIMGK9021s_20101128214619.jpg
 末社群その二と天満宮。
 末社群は左端が熊野宮、奥から二つ目が大黒天なのは判ったが、他は不明。

八宮神社(大間々町桐原)

IMGK8956s.jpg
 遠ノ久保稲荷神社から南回りに西へ歩いて行くと第十区公民館の手前に八宮神社の社号標石があるので、そこから北へ向かうと八宮神社が鎮座している。
IMGK8980s.jpg
 二の鳥居には「享×庚子十一月」と記されていたが、×の部分が金属で補強されて見えなくなっている。とは言え、享で始まる元号はいくつかあっても庚子があるのは享保だけなので、これは享保五年(1720)に建てられたもののようだ。
 道を挟んで鳥居の西側に白線で区切られた駐車場のようなものがあったが、あれは八宮神社の駐車場なのかな。
IMGK8962s.jpg
 拝殿。
 由緒書きは見当らない。ググってみたらプチ神楽殿さんのところに由緒が記されていた。
 それによると、こちらは赤城神社の八番目の分社なので八宮と名付けられたのだそうだ。また、御祭神は品陀和気命と大穴牟遅神で、八幡宮と赤城神社が合祀されているのだとか。ふむ、てっきり八つの神社が合祀されて八宮なのかと思っていたが、全く違ったようだ。
IMGK8969s.jpg
 社殿の裏には八つの末社が並び、奇しくも八宮となっている。

遠ノ久保稲荷神社(大間々町桐原)

IMGK8947s.jpg
 琴平神社から西へ向かうと、大間々北小学校の西側に遠ノ久保稲荷神社が鎮座している。
IMGP6083s.jpg
 平成七年(1995)十月一日に此処に遷座したと記されているが、それ以前のことは判らない。
IMGK8926s.jpg
 拝殿。
IMGP6095s.jpgIMGP6087s.jpg
 お狐さま。
IMGP6103s.jpg
 社殿裏に雷電宮。
IMGK8931s.jpg
 雷電宮の隣に並ぶ末社群。いずれも稲荷神社であるようだ。
IMGK8953s.jpg

琴平神社(大間々町大間々)

IMGK8866s.jpg
 大間々三丁目交差点から国道122号線を北上して行くと、やがて左手側に琴平神社が見えて来る。
IMGK8869s_20101128194732.jpg
 古墳ぽい感じがしたのだが、検索しても出て来ない。そうか、違ったか。
 ともあれ、頂には琴平神社が鎮座している。
IMGK8878s.jpgIMGP6053s.jpg
 石段左側の赤い鳥居をくぐると秋葉山神社があり、石段右側には熊野宮。
IMGK8884s.jpg
 石垣の下には庚申塔がずらりと並んでいる。
IMGK8910s.jpg
 末社群。
 左端は地神宮。一つおいて八幡宮。他は不明。

要害神社(大間々町高津戸)

IMGK8785s.jpg
 高津戸橋を渡って群馬県道338号線を東へ向かうと左手側に第十四区公民館が見えて来るので、そこから北へ入って行くと要害山の展望台まで上って行くことができる。
 展望台の駐車場に車を置き、展望台の脇を抜けて奥へ向かうと、すぐに要害神社の一の鳥居。ついでに要害山ハイキングコースのスタート地点でもある。
IMGP5999s.jpg
 二の鳥居。
 ここで数人のハイカーに追い抜かれた。御年配の方が多かったが、元気だなぁ。
IMGP6004s.jpg
 三の鳥居。
 手前の石には穴が開いており、嘗てはここに鳥居があったのではないだろうか。そう言えば、二の鳥居のそばにも同じようなのがあったな。
IMGP6008s.jpg
 四の鳥居。
 鳥居をくぐらずに右へ向かうとハイキングコース。一周するのに一時間弱程度であるそうだが、ハイキングが目的ではないのでパス。
IMGK8809s.jpg
 木々もかなり紅くなって来ている。
IMGK8823s_20101128163602.jpg
 高津戸城の本丸跡地に建てられた要害神社拝殿。
IMGP6018s_20101128185336.jpgIMGP6015s_20101128185337.jpg
 狛犬。
IMGP6019s.jpg
 手水舎。
IMGP6011s.jpg
『要害神社と高津戸城の由来
 高津戸城は、堀河天皇の御代、寛治年中(1087-1094)頃山田七郎平吉之が創立した。その後、十代目の則之は桐生国綱によって滅ぼされた。正平六年(1351)六月のことである。
 里見家の七代、義連の三男氏連が仁田山八郷(高津戸、須永、東・西小倉、上・中・下仁田山、名久木をいう)に入ったのは建徳二年(1371)で国綱の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。
 仁田山城は以前は山田氏の居城であった。また、氏連より四代後の宗連は越後の上杉謙信に攻められ自刃した。天正二年(1574)九月のことである。
 房州の里見実堯(勝広)は仁田山に住む一族の宗連の許に身を寄せていたが宗連の歿後桐生に移って桐生氏の客分となるが、実堯は二子、勝政と勝安を上杉謙信に託した。ところがこれが桐生親綱に誤解され、元亀元年(1570)三月二十日に詰め腹を切らされた。
 越後の上杉謙信の元にいた兄弟は親の仇を討ちたいと天正四年十月(1576)に高津戸城に隠れ、その翌年五月二日、用明の砦を襲ったが念願果たせず由良国繁の怒りを受けて天正六年九月十八日無念の涙を流して討死にした。里見随見勝政二十八才、弟の勝安二十五才の若さであった。兄弟の墓や山田氏の墓は要害山のふもと阿弥陀堂に静かに眠っている。
 要害神社はその昔金比羅宮と呼ばれ、自音寺第七世の住職高海上人が四国の金比羅宮に参籠していた時、不思議にも夢中で金比羅神王の尊容を拝した。
 また、要害山の山姿が象頭山に似ていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。
 この金比羅宮(現在要害神社)は霊験あらたかで、近郷近在の老若男女の参拝者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録にのこされている。
 昭和五十六年四月十九日』


 ちなみに、毛武游記には寛治二年(1088)に山田七郎平吉之が築城し、観応二年(北朝暦で正平六年)に桐生国綱によって滅ぼされたと記されているそうだ。
IMGP6023s.jpg
 末社。
IMGK8833s.jpg
 社殿裏に並ぶ末社群。手前から三つ目は天王宮。奥から二つ目と三つ目は天満宮と辨天宮。
IMGK8847s.jpg
 社殿横にも末社。
IMGK8857s.jpg
『舎祀坐碑
上毛山田郡川内村赤城前之里祀赤城神社川面之里赤
城神社要害之里琴平宮久?1曩者官令社宇修理不完者
等合神祠里民奉其?2明治四十年十月九日得官允合祀
二社于琴平宮改稱曰要害神社於是乎永久維持之基礎
全備焉既而里民恐事跡歸煙滅欲建碑記其事請文併書
於余余宰此郡美其擧故不辤而叙之銘曰
    三社合一  神威維揚
    建碑之處  山高水長
大正四年孟秋


 よく判らんが、明治四十年に琴平宮と赤城神社を合祀して要害神社と改称したと言うことだろうか。しかし三社合一ともあるし、はて?
 ?1は「ム」の下に「朱」、?2は「上」の下に「日」或いは「曰」なのだが、告の異体字なのかな。IMEパッドを使っても出てこない。
IMGK8863s.jpg
 拝殿を斜めから。
IMGP6036s.jpg
 これは…なんだろ。椿の類だと思うけど。

 …そう言えば、足利の要害山にはまだ登ってないなぁ。

はね瀧道了尊(大間々町大間々)

IMGK8713s_20101128155329.jpg
 はね瀧橋西側からわたらせ渓谷線沿いに南へ向かうと、すぐにはね瀧道了尊が見えて来る。
IMGK8716s.jpg
 境内。
IMGP5896s_20101128155327.jpg
『道了尊縁起
「どうりゅうさん」の呼び名で親しまれております『はね瀧道了尊』は、諸願成就、子育ての仏様として江戸時代から現在に至るまで、時代を越えてたくさんの信仰を集めてまいりました。
 道了尊は、宝暦二年(1752)五月、光栄寺第十世寿賢の代、神奈川県足柄市大権現最乗寺より、ここ大間々の渡良瀬川沿岸にお迎えされたと、記録に残されています。以前は、現在地よりも北側およそ一○○米の斜面を下がった所にありました。当時、縁日は毎月二十七日、二十八日の二日日間で、道了堂参道には『滝の湯』という湯屋や茶店が並び、たいへん賑わっていたそうです。また、天保二年(1831)には、かの渡辺崋山も当地を訪れ、要害山から高津戸一帯を描いたことが『毛武游記』に記されています。しかし、昭和二十二年(1947)のキャサリン台風による水害で、渡良瀬川沿岸にあった道了堂は、周辺の滝の湯、茶店もろとも一瞬のうちに濁流に飲まれ、跡形も無く流されてしまいました。その後、災害復旧は果したものの、道了堂の再建が叶わなかったこともあり、残念ながら道了尊信仰は衰微して行きましたが、参拝は、数少ない篤信者の方方により続けられてきました。しかし、落石、崩落の危険は絶えず、参詣が困難となり、また、再建に対する地元民の強い要望もあり、平成十五年(2003)十一月一日、光栄寺開山四○○年を記念して、道了尊をこの地に移転、勧請いたしました。
 はね瀧道了尊のこのお姿は、烏天狗のお顔をしており、子どもの心に宿ろうとする悪鬼を睨みつけ、さらに悪鬼を懲らしめる為に右手にねじり木を、左手に網を持ち、煩悩を焼き尽くす火焔を背負い、疾風より早く駆ける白狐に乗っていらっしゃいます。往昔、心のねじれた子どもを立ち直らせる為に道了尊に詣で、ねじり木一本を持ち帰り、『拗ねた心の子どもはすなほなれかし』と朝夕お唱えし、大願成就のあかつきには、ねじり木を二本にしてお礼参りをしたということが古い記録にあります。近時、不登校や引きこもりなどの心の悩み、万引きや麻薬などの非行が、大きな社会問題となっていることは周知の通りです。未来を担う子どもらがすなおに育って欲しいという親の願い、人々の様々な願いを叶えてくださる道了様をここに改めてお祀りいたしました。道了様の霊験は、その昔には、養蚕守護・水難除・盗賊除・火災除・鼡口止などにその功徳を発揮されてきました。時代が変わった今も、開運・家内安全・身体健全・交通安全・所縁吉祥・五穀豊穣。災厄消除、特に、非行防止など、心願成就を願う方々に多くの御利益が享受されますよう期待いたします。
 平成十五年十一月一日』

IMGP5888s.jpg
 道了尊像。
 飯縄権現によく似ている。
IMGP5902s.jpg
 庚申塔。
IMGP5909s.jpg
 不動明王。

鱍瀧橋

IMGK8683s.jpg
 散策道を通って神明宮の裏手へ出ると、渡良瀬川の上に鱍(魚發)瀧橋が架けられている。
IMGP5878s_20101128151438.jpg
『渡良瀬川が関東平野に流れ出る所が高津戸峡です。
 この峡谷のランドマークとしてのデザインに鱍瀧橋の特徴があります。
 名の由来は、この橋の下では岩が狭まり水の勢いが急で岩に当たって大波がおどり、鱍瀧といはれたことからこの橋の名前がつきました』

IMGK8702s.jpg
 鱍瀧橋北側の峡谷。
IMGK8705s.jpg
 鱍瀧橋南側。
IMGK8675s.jpg
『はね瀧(この崖下)
 渡辺崋山は毛武游記に天保二年(1831)十月一六日この処に訪れ「社の後、巌をとり木の瀑に下れば「はね瀧」と云う。
 渡良瀬川の上流にて水石せかれて瀑をなすよりかく呼ばるなるべし。
 夏の程は、香魚(アユ)下流より登り、この瀧を越えんと跳び歩き、岩に座して網をさし出せば、誤りてその中に落つるを獲る。一時で数百尾まことに愉快なる事ぞ」と記しまた、幕府巡見使は、天保九年(1838)四月二十日、はね瀧を検分したと大泉院日記(神明宮宮司家)に記されている』

IMGP5975s.jpg

神明宮(大間々町大間々)

IMGP5857s.jpg
 群馬県道338号駒形大間々線に面して、大間々駅の北東に鎮座する神明宮。
IMGK8633s.jpg
 拝殿。
IMGK8626s.jpgIMGK8630s.jpg
 狛犬。
IMGK8615s.jpg
『神明宮の由緒
祭 神  大日孁命(天照皇大神)
     豊受毘売神
例祭日  四月十日(四月第二日曜日)
     十月十五日
社 殿  神明造
     本殿六坪 幣殿九坪 拝殿十五坪
 神明宮は渡良瀬川が足尾山地より流れ出て平野となる大間々扇状地の高津戸峡を眺望する所に位置する。境内地からは多くの縄文式土器や弥生式土器、蹈鞴の鉱滓が出土し、周囲の土地は古代からの谷地を利用した田畑があり、伊勢神宮の御厨か大蔵保と思われる。
 南北朝時代の貞和三年(1347)境内地の伊勢ヶ渕岩頭に天照皇大神の神社を文袋坊(ぶんたいぼう)により、黒川郷(渡良瀬川流域の里)一の社としてまつられる。
 慶長二年(1597)大間々町の鎮守様として現在のところに仮宮をたて、慶長四年(1599)中興遷座する。以来、明治十二年に至るまで二十一年目毎に社殿の建て替え、又は、修復工事をなし式年遷宮を行っていた。この間、正徳五年(1715)外宮豊受大神の分霊を合祀し、天保七年(1836)酒井石見守(二万五千石)は上州領分五千石の祈願所となし勢多郡下の勧化をゆるされる。明治五年十一月、一町十八ヶ村の惣鎮守として郷社に列する。
 明治二十年大間々町の大火により社殿を消失し、氏子達は焦土のなか再建するが、同二十三年再び火災に遭い、氏子の経済的負担が大きいため社殿を縮小し建立する。その後、郷社神明宮にふさわしい社殿の建て替え計画は昭和の大恐慌や、終戦の混乱と物価の高騰により断念する。
 鎮座六百五十年、中興遷座四百年の記念事業として、多くの氏子崇敬者に神社建設資金の御寄進を賜り、平成十二年五月二十日、国内産桧を用い御社殿の完成をみる。
 尚、向拝に掲げてある御神号の額「皇大神宮」は、十三代将軍徳川家定の御台所である篤姫の養父従一位近衛忠熙が揮毫したものである。
 境内末社には大間々町の絹市の神である、八坂神社がまつられている。五穀豊穣、産業発展、疫病予防を願う大間々祇園祭りは、毎年八月一、二、三日に行われ、沼田、世良田とともに上州三大祇園祭りといわれてる』


IMGK8642s.jpg
 内宮を斜めから。
IMGP5863s.jpg
 内宮の右手側に外宮。
IMGP5966s.jpg
 神楽殿。
IMGP5969s.jpg
 御社殿建設記念碑。
 由緒も刻まれているが、記されているのは先の由緒書きと大差ないので省略。
IMGP5930s.jpg
 八幡宮。
IMGP5948s_20101128144801.jpgIMGP5951s.jpg
 狛犬。
IMGK8746s.jpg
 伊勢ヶ渕弁天宮。
IMGP5961s.jpg
『伊勢ヶ渕弁天宮の由緒
 往古、黒川郷(渡良瀬川流域の里)一の社として、この崖下、伊勢ヶ渕の岩頭に祀られた伊勢皇大神宮(神明宮)を慶長四年、現在の処に遷座した時に境内地の守護と黒川郷の人達の繁栄の福神として祀られたのです。
 古来より弁天宮の縁起は、己巳の日に拝めば、神の使いの巳によって、必ず大願成就するといわれ、この弁天宮の御神徳は、商売繁盛の神、近年には、病気の平癒、交通安全、入学祈願、縁結びの神として、とくに御婦人の信仰が篤く霊験あらたかです。伊勢ヶ渕の名称は、この崖下の岩頭に伊勢皇大神宮が祀られていたのでこの名がついたのです。
 一説に、天正六年九月(四百年前)太田市金山城主由良成繁が、高津戸城(対岸の山頂)里見氏兄弟を攻め亡した時、兄、里見勝政の妻、伊勢の方が殿に殉じて、腰元と入水自害したのでこの名がついたとも云われている。
 昭和五十二年三月 再建遷座』

IMGP5964s_20101128145558.jpg
 弁天宮の左奥に市杵嶋神社。
IMGK8650s.jpg
 内宮の左手側に八坂神社と稲荷神社。
IMGK8658s.jpg
 愛宕神社。
IMGK8662s.jpg
 貞和三年に天照皇大神を初めにお祀りした石宮、つまり旧神明宮。ご隠居様と呼ばれているようだ。
IMGK8671s.jpg
 八坂神社の脇から、はね瀧橋方面散策道が伸びている。

杉森稲荷神社(大間々町桐原)

IMGK8554s.jpg
 大間々中学校と大間々高校の間を西へ歩いて行くと、世音寺の横に杉森稲荷神社が道路に面して鎮座している。
 由緒等は不明だが、こちらの神社は古墳の上に建てられているそうで、石室への入り口は現在は塞がれているのだそうだ。
IMGP5827s.jpgIMGP5834s.jpg
 拝殿の左手側には日枝神社(祭神は大山咋神)、右手側には八坂神社(祭神は素盞嗚命)。
IMGK8548s_20101128140620.jpg
 東側の鳥居。
IMGP5837s.jpg
 道陸神と熊野神社(祭神は伊邪那美命)。
IMGK8565s.jpg

福恵稲荷神社(大間々町大間々)

IMGK8529s.jpg
 みどり市役所大間々庁舎西側の駐車場に車を置き、駐車場西側の細い道を北へ歩いて行くと左手側に福恵稲荷神社が見えて来る。
IMGP5810s.jpgIMGP5814s.jpg
 お狐さま。
IMGK8539s_20101128133046.jpg
 福恵稲荷神社の由緒ではなく、石鳥居の由緒書き。
 要約すると、天田ハナさんと言う方が支那事変で出征した息子の生還を願い、成就の折には鳥居を奉納すると約束したが、建立する前に死去してしまったので、その息子さんが母の意志を次ぎ、生還から50年程後に石鳥居を奉納したと言うことらしい。
 それと、こちらの神社は岡直三郎商店の屋敷神にあたるようだ。
IMGP5819s_20101128133045.jpg
 石段の下には石の蛙が置かれているが、これは「無事かえる」と言うやつだろうか。

神明宮(大間々町大間々)

IMGK8492s.jpg
 群馬県道78号太田大間々線諸町から一つ北の信号で西へ入って行くと第八区集会所があり、その隣に神明宮が鎮座している。
 由緒書き等は見当らないので詳細は不明。GoogleマップやMapionには遥拝殿神明宮と記載されているので、大間々三丁目の神明宮からの分霊なのかも。
IMGP5782s.jpgIMGP5778s.jpg
 狛犬。
IMGP5788s.jpg
 拝殿左手側に末社群。
IMGP5791s_20101128130941.jpg
 拝殿右手側に庚申塔。

大山祇神社(山之神町)

IMGK8389s.jpg
 八坂神社から西へ走って行くと、右手側に大山祇神社の鳥居が見えて来る。
 駐車場は無いので、社号標石の右側の細い道から境内まで入って行くしかない。
IMGK8392s.jpg
 神額には新田徳純謹書と彫られている。
IMGK8399s_20101121192527.jpg
 なぜか参道にずらりと並ぶ大根…は、いいとして、二の鳥居。
IMGK8402s_20101121192526.jpg
 三の鳥居。
IMGK8477s.jpg
 拝殿。
 棟には立梶の葉紋に似た神紋があり、その左右に新田氏の家紋である一つ引両紋がある。立梶の葉紋は諏訪神社系に多く、大山祇神の神紋は折敷に波三文字紋だと聞くが、はて? 大山祇神社を勧請した岡上景能に由来するものなのだろうか?
IMGP5741s.jpgIMGP5732s_20101121201449.jpg
 狛犬。
IMGP5751s.jpg
『大山祇神社改修記念
 山之神村の氏神として祭られてきた大山祇神社の祭神は古代神話の天照大神の兄神大山積神でありその御子木花咲耶姫命は天孫瓊々杵命の妃となられたと伝えられる。
 古くより四国大三島に祭られ大山祇神社の本社として知られているがその神徳を崇敬し地神海神として全国各地に祭られ末社一万余といわれる。
 大山祇神社はまた山の神として信仰を集め山国の群馬県にも四百余社祭られている。
 古く笠懸野とよばれた当地方は八百年の昔平安時代の末に八幡太郎義家の孫新田義重が開拓した新田の庄の一部で当時すでに人びとが住みついていたと思われるが文治三年源義経が奥州平泉へ下るときこの地を通過し休息された義経腰掛の松の古木が源氏とのゆかりを伝承しているが惜しくも枯れて今は見ることができない。
 また一の鳥居の神額は義重二十三代の子孫新田徳純の筆になるのも源氏との関係を偲ぶよすがとなっている。
 江戸時代五代将軍徳川綱吉のとき代官岡上治郎兵衛景能は笠懸野開拓の大事業を成し遂げ山之神村もその一環として整然たる区画の村落をなすに至った。その折岡上代官は大山祇神社を勧請し村名と神社名を一致させたと伝えられている。それ以降村民は氏神を中心に団結し今日の繁栄と幸せを受けられたのも一に神霊の加護というべきである。
 しかるに星霜茲に三百年往年の社殿も朽損し神威を汚すおそれが出て来たため全区民総意のもとに本殿改築の議を決しここに無事竣工を見た。
 その改築を記念し本社よりあらたに神霊の下付を願うため氏子有志十六名が愛媛県越智郡大三島に鎮座まします本社に参拝、恭しく神霊を奉遷した。
 山之神村の大山祇神社は明治五年村社に列し大正十一年には薮塚本町村社の指定を受け町長の幣帛を受けた名社でもある。
 いまここに本殿の改築御造営の成るを記念し神威のいよいよあらたかなることを祈念し併せて子孫に告ぐためこの碑を建つ。願わくは冥助の更にあらんことを。
 昭和五十二年十月十五日』

IMGP5772s.jpg
 拝殿右手側に「史跡 源義経公腰掛の松」と彫られた石碑があるが、松自体は既に無い。
IMGP5766s_20101121203511.jpg
 社殿裏に並ぶ末社群。
IMGP5760s.jpg
 左から秋葉山、疱瘡神、稲荷宮。
IMGP5757s.jpg
 一際奥にも石祠があるが、何神社なのか判らない。

 以上で11月20日参拝分終了。
 今回使用したのはK-7にDA15mmとDA21mm、FA31mm、FA43mm。K10DにSIGMA 50-150mm II。
 20日と21日は足利の文化財一斉公開をしていたのだけれど、神社関係は去年と一昨年で大体回ってあるからまぁいいか、ということで今年はそちらはパス。…あ、そう言えば19日と20日って西宮神社で恵比寿講だったんじゃないか。今年も忘れてしまっていた。でも、人混みって苦手なのよね。

八坂神社(山之神町)

IMGK8359s.jpg
 群馬県道332号桐生新田木崎線の山ノ神交差点から北西に向かって行くと、山之神公民館の隣に八坂神社が鎮座している。
IMGK8365s.jpg
 中には御神輿が二つ納められている。
 そしてやはり詳細不明。
IMGK8368s.jpg
 八坂神社の裏に石祠。右側は稲荷神社。
IMGK8380s.jpg
 地図を見ると太子堂と記載されているので、聖徳太子を祀っているのかも。
IMGK8377s.jpg
 庚申塔やら二十二夜塔等々。

母衣輪神社(薮塚町)

IMGP5679s_20101121180444.jpg
 群馬県道78号線を南下して行くと、曹洞宗西福寺の西側に母衣輪神社が鎮座している。
IMGP5693s.jpg
 拝殿。
 由緒書き等は見当らないが、ググってみたら御祭神は宇気母智神と書かれていたので稲荷系の神社のようだ。足利の母衣輪神社は日本武尊が母衣を奉納して武運長久を祈願したとの伝説が残っているが、こちらの神社はどのような由緒があるのだろう。
IMGK8353s.jpg
 社殿裏には七基の石祠があるが、どれが何神社なのかはさっぱりだ。

白山神社(薮塚町)

IMGP5660s.jpg
 配水場の南西に鎮座する白山神社。
IMGK8308s.jpg
 拝殿。
 やはり詳細不明。
IMGP5657s.jpg
 庚申塔と二十二夜塔、石祠。

愛宕神社(薮塚町)

IMGK8299s.jpg
 浅間神社から北上して行くと配水場があるので、そこから西へ向かうと白山神社、南東へ向かうと愛宕神社がある。
 こちらも詳細は不明。
IMGK8303s.jpg
 本殿。
IMGP5634s.jpg
 拝殿右側に石祠。
 慶應二丙寅年二月吉日と刻まれているので、1866年のものだ。しかし、どなたを祀っているものなのかは判らない。
IMGP5646s.jpg
 歌碑。
IMGK8290s.jpg

浅間神社(薮塚町)

IMGK8197s_20101121161620.jpg
 荒神山駐車場から南下して行くと、先週参拝した薮塚町の生品神社のそばに出るのでそちらの駐車場に車を置かせてもらって、そこから徒歩で東へ歩いて行くと道端に浅間神社が鎮座している。
 去年の春頃にもこの脇を通ったのだが、その時はもっと草茫々で廃屋にしか見えなかった為スルーしたのだが、今は随分とすっきりしている。
IMGK8284s.jpg
 社殿裏。
IMGK8204s.jpg
 本殿には天女像のようなものが置かれているが、木花之開耶姫命だろうか。
IMGK8218s_20101121161617.jpgIMGK8216s.jpg
 拝殿の前には食行身禄霊神と小御岳石尊大権現。
IMGK8221s_20101121161616.jpg
 拝殿左側に西宮大神宮。
IMGK8269s.jpg
 少し下がって石祠三つ。
IMGK8254s.jpg
 下まで下りると不動尊像を納めた石の厨子が並んでいる。
IMGP5629s.jpgIMGP5632s_20101121171031.jpg
 不動尊。
IMGK8241s.jpg
『不動尊之碑
 江戸幕府四代将軍徳川家綱の代官岡上景能が用水堀を開いたのは三百年も昔の寛文年間の事であった。その用水を最も有効に使うために大きな貯水溜を造って滝から導入した。そして側の巨岩の上に不動尊をお祀りして住民連は家内安全と五穀豊穣の守護神として日々崇拝した。それから不動山、不動の滝、不動沼と呼ばれるようになった。又更に立派な不動三尊像が寄進された。風化を防ぐために石造りの厨子で保護されて来たが永い歳月を経たので特に屋根の破損甚だしく、昭和五十年の春、地元台の有志者相謀って修理をされて四月十五日には盛大なる法養祭典が営まれた。偶々百五十年前の文政九年四月には一対の石灯篭と大香炉などが奉献された。奇しくも昭和四十九年十二月三日には景能公三百年遠忌大祭祝典が岡上神社々殿の新築と岡上児童公園の開設を記念して施行されたのである。往時満々と水を湛えた沼や滝の美観を追憶し先人達が学んだ不動の精神や不動の姿勢などを偲び遺業に感謝し改めて不動尊の御加護と御利益とを希い茲に由来の小碑を建立して永く後世に伝えんとす。
 昭和五十一丙辰年 四月十五日』

IMGK8248s_20101121171029.jpg
 少し離れて石燈籠と石祠。
IMGK8260s_20101121171805.jpg

荒神社(笠懸町阿左美)

IMGK8075s_20101121151540.jpg
 先週参拝した阿左美の生品神社から東へ向うと荒神山が聳え、西登山口には鳥居が建てられている。鳥居の側には案内板が設置されており、それによると、ここから山頂まではおよそ500m程であるらしい。
 この鳥居は平成十九年十二月に寄贈されたもので、道路脇にある登山者用の駐車場の辺りからでも見える。
IMGK8090s.jpg
 道は拓かれていて歩き易い。途中までは緩やかと言うか殆ど傾斜が無く、やや傾斜が強くなって来たかなと思う頃には山頂まで200mと書かれた案内板が見えて来る。
IMGK8119s.jpg
 合流点。ここから奥へ歩いて行くと山頂まではすぐ。
IMGP5605s.jpg
 山頂には荒神様を祀った石祠があり、その脇に由緒を記した小さな石碑が建てられている。
IMGK8142s.jpg
『古くより、この地に荒神様あり、明治十年故あって阿左美生品神社へ遷座百二十余年を経て、地上の安寧を願い当地に再建す。
  平成十五年十月吉日 荒神山友の会』
IMGK8174s_20101121151536.jpg
 自生している木を利用した四阿。
 四阿の脇には「荒神山山頂 海抜218m」と書かれた案内板があり、更に茶臼山まで約1時間15分とも書かれていたが、さすがにパス。茶臼山の山頂にも祠があるようだが、後で機会があれば登ることにしよう。
IMGK8189s.jpg
 山頂では鎌を持った四人の男性と遭ったが、彼らが荒神山友の会の方々だったのかな。
IMGK8194s.jpg
 荒神山。左下の方に鳥居の見える場所が西登山口。

善正稲荷神社(笠懸町阿左美)

IMGK8042s_20101121141519.jpg
 秋葉神社から西へ向かい、斉藤歯車製作所の脇を北西へ歩いて行くと、突き当たりに善正稲荷神社が鎮座している。
 詳細は不明。
IMGK8051s.jpg
 末社。

秋葉神社(笠懸町阿左美)

IMGP5565s.jpg
 上原八坂神社から南西に向かって行くと、第二笠懸東学童クラブ(旧笠懸二区公民館)の隣に秋葉神社が鎮座している。
 由緒書きは見当らないが、ググってみたら御祭神は火保見之命だそうだ。聞き覚えの無い名前だが、軻遇突智命の別名だろうか。或いは彦火火出見命(火遠理命)の別名だろうか。
 また、こちらにおよそ百年ほど前から奉納されてきた横町太々神楽は、みどり市の重要無形民俗文化財に指定されているのだとか。
IMGK8036s.jpg
 中央に秋葉神社の額があり、天照大神と書かれた木簡と赤城神社の神璽も納められている。
 左側の祠には猿田毘古大神・大宇受賣大神と書かれた木簡が納められており、右の祠には宇迦之御魂神・大名牟遅神と書かれた木簡が納められている。大宇受賣大神とは豊受媛神のことかな。どう見ても「オオウズメノオオカミ」って読めるよね、うん。

上原八坂神社(笠懸町阿左美)

IMGK8023s.jpg
 岩宿交差点の一つ南の信号からヤマダ電機とガソリンスタンドの間の道に入り、しばらく進むと上原八坂神社が見えて来る。
 駐車場は無いが、隣の酒屋さんの脇に自動販売機コーナーがあるのでそちらに駐車。ついでに水分補給。
IMGK8010s.jpg
『上原八坂神社(天王宮)
 御祭神 素戔嗚命
 御神徳 疫病除けの神
 御創立 勧請年月不詳
     寛政十二年(1800)の古文書に、修験持正院の地所の寄付に
     よって、間口二間半奥行三間の社を建立、別当職を南光寺に
     依頼したとある。
 祭 日 八月一日  天王祭り
     十月十七日 秋季例祭

 御由緒 笠懸町には、「八坂神社」「津島天」「天王宮」などとして
    信仰されている社が一社、石祠が十二基ある。
     これらは地元では天王様と呼ばれている。
     天王様は、疫病を追い払う神として、広く信仰されている。
    祭神は素戔嗚尊、本地仏は薬師如来で牛頭天王が模されている。
     上原の八坂神社では、毎年夏の天王祭りには水神輿をかつぐ』

カレンダー
10 | 2010/11 | 12
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード