菅原神社(前小屋)

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 小山川橋を渡るとすぐ右手側に菅原神社が鎮座している。
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 拝殿。
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 拝殿脇に鎮座するこちらは何神社なのだろうか。
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 小山川橋側から。


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 以上で3月26日参拝分終了。
 当初はもう少し回る予定だったのだが、やたらと風が強い為落ち着いて参拝する気になれず、ここで撤退。そして帰宅途中に漫画を買い込んだり携帯電話の機種変更をしてみたり。
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天神社(新井)

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 集落センターから南へ向かい、地蔵堂脇の火の見櫓から東へ向かうとすぐに天神社の鳥居が見えて来る。
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 さすがは天神社だけあってか、参道の脇には梅の木が植えられている。
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 小さな神社かと思ったら、他にも四柱の神々が合祀されているようだ。


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諏訪神社(新井)

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 熊野神社から南下し、備前渠を越えると新井東部集落センターの北側に諏訪神社が鎮座している。
 鳥居脇の板には嘗ては由緒等が記されていたのではないかと思うのだが、現在は文字が流れてしまっていてなにも残っていない。なのでググってみたら、永正年間(1504-1520)深谷城主上杉憲盛の創立と言う記録があるらしいのだが…上杉憲盛って享禄三年(1530)生まれなので永正年間に建てるのは無理なんじゃないかなぁ。その父で先代城主の上杉憲賢なら判るけど。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 鞘殿と拝殿を斜めから。
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 鞘殿の南側に末社。文久二年壬戌三月吉日とあるので1862年のものであることは判るのだけど、一体何神社なのだろう。
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 神楽殿。
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 拝殿北側に末社群。
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 石祠の中には恵比寿神と思われる小さな像が納められていたので、西宮神社か恵比寿神社…なのかな?
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 末社二社。左側は不明だが、瓦には野菊のような紋があった。右側の石祠には氷神と刻まれていたが、氷神社なのか氷神(氷上?)神社なのか判らない。
 奥に見えるのは稲荷神社。
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 野菊のような紋。菊花紋の変形なのかな。
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 稲荷神社の鳥居。
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 稲荷神社拝殿と本殿。
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 新井東部集落センターの南に立てられた社号標石。道を右の方へ歩いて行くと写真一枚目の鳥居前に着く。


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熊野神社(沼尻)

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 瘡守稲荷から西へ向かうとカーブ手前に熊野神社。
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 拝殿。
 由緒書きが見当たらないのでググってみると、みくまのねっとというサイトにこちらの記述を発見。それによると、現在の御祭神は伊邪那美命だが、古くは伊邪那岐命・伊邪那美命・速玉男命・事解男命・天照大神を祀っていたのだそうだ。
 天慶三年(940)に平将門討伐の途中、藤原秀郷がこの地を通過する際に祠の前で戦勝を祈願したところ本願を果たせたので、その報恩の為に再びこの地を訪れ、三社の小祠を建てたとのことなのだが、将門の親族が祀られていると伝えられる高島の生品神社とは目と鼻の先と言っても良いくらいに近い。
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 狛犬。
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 鞘殿の横に鎮座する石祠三基。
 先程のサイトの記述によれば秀郷の建てた三社の小祠は熊野三社或いは熊野大神と言い伝えられ、この三社は同型の小さな石宮で現在も本殿北側に残っているということなので、こちらがその三社なのだろう。
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 三社の隣にも境内社。
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 中には木造の祠が二つ納められている。
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 鞘殿の南側にも境内社。
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 やはり中には木造の祠が二つ。
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 その裏に石祠が一基。
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 深谷市指定保存樹木15号の銀杏。こちらも古櫃神社の銀杏と同じ日に指定されている。

 八坂神社と天神社、諏訪神社の三社が境内社として祀られているとのことなのだが、どれがどれだったのだろう。


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瘡守稲荷神社(沼尻)

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 石塚稲荷神社西側の道を南下し、突き当たったら東へ向かうと瘡守稲荷神社が鎮座している。また、先程の突き当たりの角には双体道祖神が置かれていたが撮影するのを忘れていた。
 額には正一位瘡守稲荷大明神とあるので、病除けのお稲荷様なのだろう。
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 祠の内部と本殿。
 額縁の中には東京朝日新聞の切抜きが入れられており、日露戦争などの文字も見える。


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石塚稲荷神社(石塚)

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 新明橋を渡り、上武道路の下をくぐる手前で南へ下るとすぐに稲荷神社。
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 拝殿とお狐さま。
 由緒等は不明だが、注連柱には安政六未歳林鐘吉日(1859年6月)や嘉永六癸丑年(1853)六月吉日と刻まれていたので、少なくとも160年ほど前には既にここにあったようだ。
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『社殿改築之碑
住殿の社に神鎮まります稲荷神社は石塚郷人の鎮守神として世情如何に変われども我民族の道統たる敬神崇祖・神人和合の祭事は綿々と受け継がれて来た。明治の年に郷内の社を此の地に合祀して以来百余年の星霜を経過した本殿覆殿拝殿など積年の風雨により損傷甚だしく之が修理について憂慮するところであった。平成十一年四月二十五日に稲荷神社々殿改築整備奉賛会を発起し浄財の勧募を開始することとなり氏子崇敬者より多大な奉賛を拝受し平成十七年八月九日起工・平成十八年二月竣工することが出来た。茲に長期にわたる奉賛会役員の努力と関係各位の赤誠の結晶に深く敬意を表し又地区の弥栄を祈念するとともに荘厳秀麗な社殿の完成を祝し改築の記念とする。
 平成十八年二月吉日』


 改築記念碑の前の石祠はどなたを祀ったものか不明。
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 石祠のそばの石塚には天神宮。
「武運長久 菊名氏 佐藤氏」とも刻まれており、菊名氏の上には蔦紋、佐藤氏の上には上がり藤が刻まれていた。


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生品神社(高島)

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 埼玉県道45号線を東へ走って行くと、小山川の西側に生品神社が鎮座している。今月五日に通った時には工事中だったのでそろそろ終わったかなと思ったらまだ工事中だった。
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 参道。
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 瑞垣門は閉じられているので、門前から参拝。
 生品神社と言うことはこちらの御祭神は大己貴命だろうと思うのだが、ググってみると平将門の弟である御厨三郎将頼、もしくは将門の子が祀られているとの記述もあれば新田町の生品神社(おそらく現在の太田市新田市野井町の生品神社と思われる。こちらの御祭神は大己貴命)から勧請されたとの記述も見つかる。主祭神が大己貴命で、将門の血縁者が合祀されていると見ればいいだろうか。
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 狛犬。
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 本殿・拝殿・門。本殿と拝殿は幣殿で繋がってはいなかった。拝殿と幣殿を兼ねているのかも知れないけど。
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 稲荷神社。
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 御嶽山国常立命・三笠山豊斟命・八海山国狭槌命と天之御中主大神・神皇産霊神・高御産霊神。
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 不明、不明、水神宮、大杉社。
 水神宮は寛政六年六月のもので、その左側の石祠は大正十四年十二月のもの。
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 末社群。左端は宝珠紋のように見えるレリーフがあるので、稲荷社かも知れない。


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古櫃神社(新戒)

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 三週ぶりの神社参拝。まずは前回時間の都合で行きそびれた古櫃神社。
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『古櫃神社(新戒)
 全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。
創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。
新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。
 永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。
 年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る』

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 参道右手側に力石。最初は刀石かと思ったが、よく見たら力だった。
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 拝殿と銀杏の木。
 左側が深谷市指定保存樹木第13号で右が14号。どちらも平成二年十月二十日に指定されている。今の時期だと落葉してしまっていて寒々しいが、秋頃なら黄色に染まり、青空と銀杏の黄色で美しいコントラストが楽しめるのだろう。
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 狛犬。
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 神輿庫。
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 奥・手前共に猿田彦大神。
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 左端は上記の猿田彦大神。その右側の境内社には社号を記したものは見当たらなかったが、正面に打たれた板にはうっすらと「受験の神」と言う文字が見えたので、もしかしたら天満宮であるのかもしれない。その右側の境内社は八坂神社。そして右端は富士塚。
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 富士塚手前の鳥居の額には浅間大神の文字が刻まれている。
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 鳥居をくぐって正面から。
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 階段左側の列は左下から角行霊神、食行霊神、神武天皇、宝永山日本武尊。
 右側の列は右下から亀岩八大龍神、久須(山)大神、浅間大神廣前永?と刻まれた石柱、小御嶽大神。久須山大神の山を括弧で括ったのは、この文字だけ明らかに小さくなっていたから。そして浅間大神廣前永?の?は氏のようにも民のようにもアムロマークのようにも見える。
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 石祠とその後ろに御嶽山国常立命・三笠山豊斟命・八海山国狭槌命。
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 …なんて読むんじゃろう、コレ。
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 浅間神社本殿。手前には小さな狛犬。
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 塚の上から古櫃神社の本殿と拝殿。
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 左端に浅間神社。そしておそらく稲荷神社。右側は大杉神社。
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御嶽大神社(成塚)

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 蚕影神社前の道を東へまっすぐ進んで行くと、御嶽大神社の前に出る。
 大正四年十一月に建てられた鳥居の脇にある石碑には、こちらの神社の由緒が記されているようなのだが、どうにも読み取り難い。稲荷神社に雷神社、大天狗社・小天狗社があるようだと言う事はなんとか判ったのだけど。
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 参道と拝殿。
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 狛犬。
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 鞘殿。
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 末社五社。右奥には遙拝所。
 左の二つは天満宮と東照宮。他は不明。
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 北側にも末社四社。右端のものは手長神社。
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 稲荷神社。
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 稲荷社の他にももう一社祀られているようだが、何神社なのかまでは判らない。


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 以上で3月5日参拝分終了。すぐ近くに古櫃神社もあるのだが、時間的に余裕が無かったので、また後で参拝することにしよう。
 仕様機材はK-7に50-150mm II。K10DにDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro。Powershot G7。

蚕影神社(新戒)

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 先程の御嶽大神社のエントリーで、大塚交差点から一つ目の信号を北へ向かうと御嶽大神社があると書いたが、この信号から南下して四つ目の十字路で東へ向かって少し進むと十字路の脇に蚕影神社が鎮座している。愛染神社からなら豊里小学校脇を南へ下って行った方が早かったような気もするが、今更そんなことを言っても仕方が無い。
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 本殿。
 蚕影神社と言うことは御祭神は稚産霊命・埴山姫命・木花開耶姫命と思われるが、由緒等は不明。
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 イチジクの葉のようなレリーフが見えるが、これが神紋なのだろうか。


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愛染神社(高島)

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 御嶽大神社から東へ向かうと豊里小学校があるので、その前から北東へ向かって行くと道端に愛染神社が鎮座している。
 名前から推測すると愛染明王が祀られているような気がしないでもないのだが、お堂ではなく神社と言うことは神仏習合したままなのだろうか。
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 庚申塔と…遷宮記念碑かな、これは。
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 石祠が三基。中央が愛染神社であるとして、左右の祠はどなたを祀っているのだろう?


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御嶽大神社(新戒)

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 大塚交差点から埼玉県道45号線を東へ進み、一つ目の信号で北上して行くと右手側に御嶽大神社が見えて来るのだが…駐車場が無い。神社前の道は狭く路駐できるスペースも無いので、境内に乗り入れることに。
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 拝殿。
 由緒等を記したものは見当たらなかったが、御嶽神社なのだから御祭神は国常立尊・大己貴命・少彦名命だろうと推測。また、拝殿前に並んだ石碑のうち、左側のものには「納末社十二神」と刻まれていたのでそれだけ合祀されているのだろう。
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 狛犬。
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 末社。
 左から稲荷神社、三峯神社、子玉大明神・玉大明神、飯玉神社、不明。
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 摂社。
 左から大手長男神社・八坂神社、天満宮・雷電神社、皇太神宮。
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 鞘殿・幣殿・拝殿。
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 社務所。しかし左の方には薬師如来との文字も見える。
『上新戒御嶽大神社社務所再建趣意書
 御嶽大神社社務所は建立以来長きにわたり祭事及び集会所として上新戒の中心的な役割を果たしてきた。しかし逐年老朽化が進みここ十数年来再建が検討されてきた。このたび歴代の正副自治会長、氏子総代神社の役員を始め氏子各位の協力を得て再建の運びに至ったものである。
 平成十二年三月二十五日起工、同年十一月十五日落成

 追記
 氏子及び自治会各位のご協力により社務所再建の浄財の一部をもって本殿、拝殿の内装工事、南の摂社三棟の再建、北の擁壁及びフェンス工事、庭の土盛りと排水工事、外灯工事、玉垣の補修工事、東の道路拡幅工事の土地代、幼児遊び場の整備、ここ多年の念願であった。御嶽大神社の神域の整備をほぼ完了することができた。
 平成十二年十一月十五日』


 社務所のことは石碑に記されているのに、神社のことは記されていない…。


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諏訪神社(大塚)

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 鹿島神社から東に向かい、埼玉県道14号伊勢崎深谷線に出たら南下して、共栄橋手前の割烹楓前を東に入って行くとすぐに諏訪神社。
 こちらは六世紀後半に造られた円墳であるのだそうだ。盛り上がった墳丘の上に諏訪神社が建てられているが、こうして上から見てみると、境内全体が墳丘であることが判る。この古墳は直径が約30mで高さが2.5~3m程になるのだそうだ。
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 拝殿。
 諏訪神社なので御祭神が建御名方命なのは判るのだが、由緒等は判らなかった。
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 稲荷神社。
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 石祠三基。何神社なのかは不明。


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鹿島神社(下手計)

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 社宮司稲荷神社から南東へ向かうと、鹿島神社の社号標石が見えて来る。
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 鳥居。鹿島神社だけあって、鹿島鳥居になっているようだ。
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 狛犬。
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 参道右手側に枯れた御神木の欅。洞の中に神水の湧く井戸があったそうだが、今はそちらも枯れている。
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 これが井戸の跡のようだ。
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『創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀬牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(1810)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
 昭和六十年三月』

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 拝殿。
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 裏手には三峯講社と石祠。
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 本殿裏には香取神社。
 社号を記したものは付いていないので何神社なのか判らなかったのだが、神社の説明をして下さった方から香取様だと教えて頂いた。
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 八坂神社の鳥居。
 大きいので摂社かと思っていたら、末社なのだそうだ。
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 八坂神社拝殿。
 中には神輿が納められており、八坂祭の時に出されるのだそうだ。また、昔は村中を練り歩いたが今では境内の中を回るだけになってしまっているとも教えて頂いた。やはり車の通りなどもあって危ないと言う事なのだろうか。熊谷のうちわ祭りくらいの規模になればある程度は交通規制もできるのかも知れないけれど。
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『下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑の篆額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に沸いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、癩病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある』

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 鹿島神社と八坂神社の間に大黒天。
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 八坂神社の裏に手計不動尊。奥に見えるのは納札所。
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 こちらの木造不動明王立像は深谷市の文化財に指定されており、常学院の念持仏と伝えられているそうだ。
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 神社裏に建てられた北の鳥居。
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 神楽殿。
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 藍香尾高翁頌徳碑。
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『藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(1909)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは役四・五メートル、幅は役一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
 平成十七年十月』


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 神社の説明をして下さった方から頂いた案内書き。
『鹿島神社  所在地 深谷市下手計1145(下手計字宿)
歴史
 当社の創建については、二つの経緯が考えられる。
 まず、第一は、当地に隣接する中瀬の地は、利根川に臨み、かつて鎌倉古道である北越街道の通路に当たる渡船場があり、また利根川の舟運にかかわる河岸場が置かれていたことから、古くから要衝であったことがわかる。このような背景から、利根川の舟運にかかわる村人が、日ごろ航海安全の神として信仰する常陸国一ノ宮鹿島神宮の神を当地に分霊したとする説である。
 第二は、かつて隣村の大塚島に鎮座する鹿島大神社の社領であったと伝える下手計・沖・戸森、内ヶ島・田中(現在、伊勢方の小字)などの村々には、「鹿島社」が祀られている。このことから、当社は往時、この鹿島大神社から分霊を受けたとする説である。
 いずれにせよ、鎌倉公方足利基氏御教書に、貞和二年(1363)に安保信濃入道所領の跡、下手計の地を岩松直国に与えたとあることから、この時期既に上下に分村していたことがわかり、当社の創建もこの時代までさかのぼるのであろうか。
 江戸期、当社が近在の村々に点在する鹿島社に比べて、隆盛を極めたのは、別当常学院の活動によるものである。常学院は「風土記稿」に、埼玉郡酒巻村酒巻寺配下の当山派修験と載る。同院の本尊は不動明王で、後世、手計不動と呼ばれ、庶民に崇敬されるようになった。
 常学院が当社の信仰を広めるため、庶人に配布した文政十二年(1829)の縁起には、次のように載せられている。
 源頼朝が平家追討のため、鹿島神宮に祈願した折、社殿鳴動し、にわかにわき出た黒雲が、すさまじい勢いで西へ飛び去った。驚いた神宮の社人は、その後を追って西進し、ここぞと思う所に神木を植え、この奇瑞を鎌倉へ注進した。更に、源氏は兵乱の際、ここに本陣を置き、井戸を掘って軍勢の飲み水を得、軍神である鹿島・八幡の二神を祀った。
 下って、寛政年間(1789-1801)に至り、かの神木が鳴動し、調べると神木の洞に塵芥蛇蛻で埋まった井戸があった。これは神慮によるものであるとし、井戸を清めて神井とした。このころ、近隣の里人の間に、この神井の水は神の加護がある神水であるから、病に悩めるものは、これを受け、あるいはその神水で身を清め、神に祈願すると霊験があるという信仰が起こった。このため、当社では神水を薬湯とし、境内に浴湯舎を設けて参詣者を招いた。神水で湯浴すれば「人々俗念を脱去し、誠敬を凝し祈念せば、其冥応疑あるべからず」と説いている。
 神仏分離後、常学院は根岸姓を名乗って神職となり、要三・朗良と二代を経て、現在、根岸芳雄と根岸香代美の両名が奉仕している。

信仰
 境内にある欅の老樹は、幹周りが一○メートル余りもある巨木で、古くから神木として崇められている。縁起によると、源氏が平家追討祈願を行った際、鹿島神宮社人により植えられたゆかりある神木である。江戸期、庶人に配布した「武蔵国下手計村鹿嶋神社並神井浴舎之図」には、大きく枝葉を張り出した欅の巨木がそびえ、その威容に参詣者が驚いている光景が描かれている。また、この時期、庶人が当社の井戸水を御利益のある神水として受けたのも、鹿島の神の依り給う神木の根元から湧く水であったからにほかならない。残念なことは、明治四十年に樹木の一部が、枯損したため、幹半ばから切らざるを得なかったことである。しかし、いまだに木魂の宿る神木に変わりなく、幹から根方にかけては、力強い樹皮の瘤が盛り上がり、往時の威容を彷彿とさせる。
 年間の行事は、元旦祭、二月十一日の祈年祭、四月八日の入学児童祈願祭、四月十日の春祭り(例祭)、十一月十五日の秋祭り、十一月二十三日の新嘗祭・大祓式がある。
 元旦祭は、総代と各廓の自治会長が参列して祭典が行われる。この日、自治会長は廓を代表して「年頭」と呼ばれる餅を当社神前と地内の真言宗妙光寺に奉納するのが習いである。
 春祭りと秋祭りは、当社が村社に指定される明治四十年以前は「お九日」と呼ばれ、三月と九月の十九日が祭日であった。古くは甲冑を着した武者数人が、この祭りに参加するのが例であったと伝える。また、昭和初期までは大塚島と岡新田から交替で神楽師を招いていた。

氏子
 氏子区域は大字下手計で、氏子数は三○○戸である。
 総代は、川端・宿・壁谷戸・新田・明戸の五つの廓(村組)から一名ずつ選出され、この中から互選で総代長と会計を決めている。任期は、総代長と会計が四年、他の総代は二年である。また、年番は、廓ごとに二名ずつおり、一年交替で当社の祭りや廓行事の諸準備に当たっている。
 氏子の間で行われている行事に、末社八坂神社の八坂祭がある。八坂神社は享和元年(1801)の創建で、以来、毎年七月二十五日の八坂祭には、悪病除けのため威勢よく神輿渡御が行われている。
 当初、この神輿渡御は川端・壁谷戸の二廓のみであったが、明治二年から下手計全域をくまなく回り、当社を発した神輿は廓ごとに次々と受け継がれた。また、明治四十年ごろまでは、褌一つの若衆が沿道の人々から水を掛けられながら、渡御した。更に、当社に戻り、神輿を守護する四天王と呼ばれる者が社に納めようとすると、必ずこれを奪回、再び担ぎ始める物たちが現れ、夜更けまで歓声が鎮守の杜にこだましていたという。神輿は激しく担がれるためか、文化元年(1804)、天宝十年(1839)、慶応四年(1868)と三度新調されている。なお、壁谷戸廓では、明治三十八年に建造した屋台を曳行し、これに乗る廓の者が囃子を演奏してにぎやかした。
 現在の八坂祭は、大きな餅ときゅうりを神前に供え、村内安全祈願・除病祈願を行った後、神輿は、当番廓の者が神輿を威勢よく担ぎ出し、神威を発揚する。
 平成十一年一月吉日 鹿島神社氏子総代』


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 明治二十年四月に発行された大日本埼玉県武蔵国榛沢郡下手計村鹿島神社神木神井之図のコピー。


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社宮司稲荷神社(上手計)

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 二柱神社の北東、畑の中に社宮司稲荷神社が鎮座している。
 鳥居脇の石碑には正一位社宮司稲荷神社再興記念碑と刻まれ、注連柱と思しき石柱には昭和三十三年五月吉日と刻まれていた。
 町田の八幡神社境内にも社宮司稲荷神社があったが、距離もそう遠くはないし、関係があるのかな。
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 扁額の周りには彫刻が施されており、上と下に狐の姿も彫られている。しかし、上の狐が銜えているものはなんだろう。柄杓かな?
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 拝殿の中には二つの祠が納められていたが、これは二柱の神が祀られていると言う事なのか、或いは新しい祠と古い祠と言うだけなのだろうか。
 そもそも、こちらに祀られている神とはどなたなのだろう。
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 左奥に見える森は二柱神社のもの。


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二柱神社(上手計)

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 諏訪神社から県道355号線を越えて東へ向かって行くと、二柱神社が鎮座している。
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 鳥居の左手側手前には徳大勢至菩薩と大黒天。
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 参道右手側には社務所があり、その瓦には違い大根紋が浮き彫りにされているので、こちらはかつては聖天宮だったのだろうと推察できる。ググってみたところ、現在の御祭神は伊弉諾尊と伊弉冉尊の二柱であるようだ。尚、由緒等は不明。
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 参道脇に手水舎があり、そちらの瓦にも違い大根紋が見られた。
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 拝殿。
 周囲の木々が伐採されたばかりなのかなと思ったら、今正に伐採作業の最中だった。
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 遙拝所と…なんだろう。小さく苗木とかしるされているので、植樹記念碑かなにかかな。
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 社殿裏手に末社。
 中央の祠は文政五年(1822)、右の祠は昭和四十二年(1967)のもの。
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 稲荷神社の鳥居。
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 作業の邪魔にならないよう、少し離れた所から稲荷神社を望遠で。
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稲荷神社(南阿賀野)

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 諏訪神社前から北へ歩いて行くと埼玉県指定旧跡である旧渋沢邸があり、その前を西へ向かうと突き当たりに稲荷神社が鎮座している。
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 隣は墓地になっている。
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 拝殿。
 由緒等は不明だが、古い瓦と新しい瓦が混在しているのが見えるので、補修などはされているようだ。
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 扁額の奥に狐の彫刻が施されているのが見える。
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 末社。
 左から千勝社、寶登山宮、疱瘡神宮。千勝社は天保五年(1834)四月のもので、寶登山宮と疱瘡神宮は嘉永元年(1848)十月のもの。


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諏訪神社(血洗島)

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 葦原大神社前の道を東へ歩いて行くと、すぐに諏訪神社がある。広い駐車スペースがあるので、歩いて来なくても良かったかなとも思ったが、大した距離でもないからいいか。
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 二の鳥居。
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 宮城遙拝所。
 奥に見えるのは一の鳥居。
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『血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれている。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある』

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 拝殿。
 ググってみても渋沢栄一氏のことばかり出て来て、肝心の由緒等が判らなーい。
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 狛犬。青銅製かな。
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 鞘殿と拝殿。
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 天満宮。
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 右は大國社。左は不明。
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 石祠三基。何神社かは不明。
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 渋沢青渕翁喜寿碑。
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『天皇陛下御在位六十年記念植樹
 ここに植えられた「さくら」は日本を代表する花です。
 このしだれさくらは、花形は小ぶりで八重咲き。色は淡桃色で大変美しく、樹齢も三百年位いという。種類はさだかではないので諏訪神社境内でもあり、また青渕渋沢栄一翁の誕生の地ということで「青渕さくら」と命名しました。
 この記念樹「青渕さくら」を大切に育てましょう
 昭和六十年十月十七日』



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葦原大神社(南阿賀野)

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 八幡神社よりやや東に進み、変形十字路を北東に入って行くとほぼ正面に葦原大神社が鎮座している。
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 参道入口脇には庚申塔や大黒天、青面金剛が並んでいる。
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 参道左手側に境内社なのか物置なのか、よく判らない建物。
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 中を覗き込むと…稲荷社かな?
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 拝殿。これは隠岐造だろうか。
 こちらの御祭神は葦原醜男命。つまり大国主神。由緒等は不明だが、長い間子宝に恵まれなかった人が、子供が授かるようにと祈願して妻に獅子舞の獅子頭をかぶせてみたところ、程なく懐妊したことが評判となったことに始まり、その後にも獅子頭を被る為に訪れた多くの夫婦のほとんどが子供に恵まれたことから、子授けと安産の神として尊崇されているのだそうだ。しかし、葦原醜男命は大国主神の武神としての性格を現す名であるそうなので、安産の神とされているのにはいまいち納得しがたいものが。
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 拝殿の中には渋沢栄一氏書の扁額が掛けられ、天井には鳥獣画が描かれている。
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 本殿。
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 左は天神神社、右は手長神社。
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 神社裏手の十字路脇に庚申塔と恵比寿神・大黒天尊。
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 神社に東側に隣接して真言宗智山派蘆原山観音寺大福院。


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八幡神社(町田)

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 瀧瀬神社から埼玉県道45号本庄妻沼線を東へ走って行くと、埼玉直産センター第二集荷場の向かい側に八幡神社が鎮座している。
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 入口脇には大黒天。
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 参道。
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 改築記念碑と鳥居。
 記念碑の前に少しスペースがあるので、そこに車を置くことができた。
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『八幡神社幣殿拝殿改築記念 碑文
 深谷市町田字八幡前に鎮座する村社八幡神社は、旧榛沢郡町田村の総鎮守である。古くは八幡宮と称し、祭神として誉田別命を祀る。昭和五年刊行の大里郡神社誌によれば、創立年代は不詳であるが、社伝及び古老の口碑に、源義家が奥州征伐の帰途にこの地に立ち寄り東方鎮護のために金弊を進奉して祈願し、爾来この地の豪族が鎌倉の八幡宮を信仰していたため、この地に勧請して産土神として深く崇敬したと伝えられる。また、字砂田に岡部六弥太の家老が陣屋を築くに際し、当社を鬼門除けとして崇め現在の社地に移転したとも、現本庄市の滝瀬村字元八幡から現地へ遷祀されたとも伝えられている。
 その後当社は永く近隣住民の厚い尊崇を集め、郷土の先人渋沢栄一翁や尾高惇忠翁との縁も深く、渋沢翁揮毫の扁額や尾高翁揮毫の幟などが残されている。
 幾星霜の風雨に耐えた社殿は、大正三年に修復工事が実施されたが、昭和の後期に入り老朽化が著しく進行し、放置し難い事態となった。そこで氏子一同が協議を重ね、取り合えず本殿のみを修復する事に決し、資金は氏子並びに篤志者の寄付金によって賄われた。
 世は平成となり、残された幣殿拝殿の老朽化が更に進み、事態を憂慮した総代会は協議を重ね、既に修復の段階ではなく新築以外の方法はないことで意見の一致をみた。しかし新築費用の捻出方法が大きな課題となり、議論百出の状態となった。その中で建設委員会の設置が承認され、委員会では近郊の新築された神社の視察を行い、規模と予算を見積もるとともに資金捻出の方法を検討した。その結果、氏子八十七戸から五年間積み立て寄付金として徴収するとともに篤志者を募るという案が総代会で承認され、幣殿拝殿の新築が正式に決定した。
 その後、時の経過とともに当社への崇敬の念が大いに高まり、寄付金の前納者や篤志者も多く現れ、資金問題も杞憂となり、当初の計画を早めて平成十六年一月に旧幣殿拝殿を解体し、十月吉日に新幣殿拝殿の完成をみた。なを、併せて境内に合祀される天満宮並びに天王様社宮司稲荷神社も新築した。
 当社が地域住民の精神的な拠り所として、未来永劫尊崇されることを願うものである。
 平成十八年四月吉日』

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 拝殿。
 こちらの神紋は丸に並び矢紋だった。三つ巴紋じゃないのは珍しいような気もするが、弓矢の神でもあるのだからおかしくはないのか。
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 左から遙拝所、天満宮、八坂神社。
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 社宮司稲荷神社と社日神社。左奥は廿六夜愛染明王塔。その隣の石祠は不明。


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 深谷市町田146って番地が判ってるのに、なんでGoogleではAポジションが来ないんだ?

瀧瀬神社(滝瀬)

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 横瀬神社の西を南北に走る埼玉県道259号新野岡部停車場線を南下し、滝瀬交差点で西へ折れるとすぐに天台宗滝瀬山正法院立岩寺が見えて来るので、その立岩寺の一本西側の道を北に入って行くと瀧瀬神社が鎮座している。
 かつてこの周辺は安保二郎実光の孫である光直を祖とする瀧瀬氏の居館であったのだそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。神紋は左三つ巴紋。
 御祭神や由緒等を記した物は見当たらなかったが、ググってみた結果、滝瀬主水正光直ととその子三郎兵衛尉経氏によって嘉禎二年(1236)に創建され、同氏の遠祖である宣化天皇を祀っているとのこと。が、瀧瀬氏が宣化天皇の裔であると言うのは仮冒であるとも言われているそうな。先程の横瀬氏の祖が新田貞氏と言うのも仮冒であると言われているそうだし、まぁ、箔付けなんだろうなぁ。そう言えば徳川家康も…。
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 社殿横に天満宮。
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 瀧瀬神社神楽殿跡。
 側面には平成二十一年八月吉日とある。
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 末社。
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 正面に天照大神と刻まれており、左回りに倉稲魂命、少彦名命、大己貴命、埴安媛命の名が刻まれている。安政三年(1856)のもののようだ。
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 神宮山陵遙拝所。


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華蔵寺(横瀬)

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 横瀬神社の北側に隣接する真言宗豊山派心王山自心院華蔵寺の山門。
 こちらの寺は新田氏縁の寺の筈なのだが、棟木部分には横瀬氏の家紋である五七の桐が。ググってみると、廃仏毀釈による破壊を避ける為に横瀬神社の一部であると偽装したと言う話があるようなので、もしかしたらその名残なのかも? まぁ、こういう妄想をしている時は大抵外れていたりするのだけれど。
 …って、あぁ、華蔵寺の公式サイトには「正面の梁に足利家の家紋丸に二両引きが彫刻されています。他から移築したものと考えられます」って記されてるわ。丸に二両引き紋には気付かなかったけど。
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 華蔵寺の由緒や文化財のことを記した案内板。
 こちらには建久五年(1194)に新田義重の三男である新田義包に開基され、弘道上人を招いて開山したと記されているが、華蔵寺のサイトでは義包ではなく義兼となっている。どちらも読み方は「よしかね」なので、義包から義兼に改めたのかな。足利尊氏も一時は高氏と名乗っていた(高氏の高は北条高時の偏諱で尊氏の尊は後醍醐天皇の諱である尊治からの偏諱)し、包と兼も誰かからの偏諱だったりするのかも?
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 華蔵寺開創八百年記念事業之碑。
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 山門の手前に毘沙門堂。
 平成三年九月に建立され、明治の初め廃寺となり大正十二年に処分された赤城山多門院福慶寺及び不動堂の本尊であった毘沙門天と不動明王、そして阿弥陀如来と歓喜天を安置しているとのこと。
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 本堂。
 こちらの棟木部分には毘沙門堂と同じように新田氏の家紋である大中黒紋がある。
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 閻魔堂。
 額には十王堂と書かれており、堂の中には十王の像が安置されているそうだ。
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 大日堂。
 天正十一年(1583)に建立され、新田義兼公の守り本尊である胎蔵界大日如来が安置されているとのこと。こちらは大日堂・大日如来像共に深谷市の重要文化財に指定されているそうだ。
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 薬師堂。右奥に見えるのは大日堂。
 石造の薬師如来立像はお堂の裏に聳える榎の木の真下の洞窟に安置されており、洞窟とお堂はトンエルで繋がっているとのこと。また、榎の木の生えている部分は六世紀後半に造られた古墳であるのだそうだ。
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 鐘楼門。
 弘化年間(1844-1847)に建立されたものであるとのこと。
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 心王山華蔵寺案内図。


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横瀬神社(横瀬)

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 伊勢大神社から南下して行くと、華蔵寺の南に隣接して横瀬神社が鎮座している。
 横瀬神社と華蔵寺のある辺りは、新田義貞の孫である貞氏を祖とするとも小野篁の子孫であるとも言われる横瀬氏の館があったと伝えられているそうなのだが、現在遺構などは失われているとのこと。
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 狛犬。
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 鳥居。
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 拝殿。
 こちらの神社の本殿も深谷市の文化財に指定されており、安永七年(1778)の建立当時の棟札が現存するのだそうだ。しかし、御祭神や由緒等は不明。
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 五七の桐が浮き彫りにされているが、これは横瀬氏及びその子孫である由良氏の家紋。
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 後から乗せました感のある狛犬。
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 拝殿と鞘殿。
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 神宮山陵遙拝所と稲荷神社。


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伊勢大神社(横瀬)

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 県道14号線から県道355号線を西へまっすぐ走って行くとそのうちに伊勢大神社前に到着。
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 御祭神は天照大神だろうと言うことは判るが、由緒等は不明。
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 境内入口には庚申塔と二十二夜塔。


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中瀬神社(中瀬)

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 群馬・埼玉県道14号伊勢崎深谷線の上武大橋(南)交差点から東へ向かって行くと、やがて中瀬神社前に出る。
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 一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 鳥居の脇に狛犬。
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 参道左手側に神宮山陵遙拝所。
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 由緒等が記されているようなのだが、少々読み取り難い。
 読めた範囲内で判ったことは、こちらの主祭神は市杵島比賣命で他に十四童子を祀っていたことから古くは十五社大神と称していたが、利根川河川改修工事の為大正二年二月十八日に無格社神明社を合祀して現在地に遷座。同年三月十日に中瀬神社と改称し、また同月十一日に境内社四社及び無格社稲荷大神社・無格社琴平社・無格社天満天神社などを合祀しており、大日孁貴命・大物主櫛甕玉命・素盞鳴命・倉稲魂命・大物主命・菅原道真公も祀られているとのこと。
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 拝殿。
 こちらの神社の本殿は深谷市の文化財に指定されており、木造銅板葺平屋建で「天保十一年(1840)五月一日上棟 宮大工河田主計千豊」の書付が有るそうだ。
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 狛犬。デカイよ。
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 神社改修碑。
 平成十五年十月に拝殿・石垣・参道等の大改修工事に着工し、翌十六年四月に竣工したそうだ。
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 忠魂碑。
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 本殿裏の石祠と石鳥居。


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