高台院(田谷)

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 深谷市役所の北側に位置する曹洞宗高台院永明寺。
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『高臺院
 当院の宗派は曹洞宗で、上杉氏の家臣高橋永明の創建と伝えられ、永禄年間(1558~1570)寺が衰退した時、深谷城主上杉憲賢の内室高泰姫が再興開基し、姫の法号をとって高臺院永明寺と称せられています。姫は元亀四年(1573)亡くなり、憲賢と高泰姫の墓が本堂左奥に建てられています。また裏には深谷城築城のとき城の鎮守として城内にまつった永明稲荷社と土塁が残っています。
 文化財として高麗から伝わった螺鈿香台、狐開帳絵馬、北亭爲直筆鎮西八郎爲朝の図、銅鐘(寛政年代・深谷宿住人佐野屋茂右衛門作)、北亭爲直の墓などが市指定となっています。
 昭和五十七年三月』

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 高台院の文化財目録。
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 六地蔵と地蔵堂。
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 本堂。

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 高台院の山門左手側に永明稲荷神社へ続く参道が延びている。
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 永明稲荷神社。
 参道の脇には鳥居の台座がいくつか残されており、嘗ては他に四基の鳥居が建てられていたものと思われる。
 こちらの御祭神は倉稲魂命で、康正年間(1455~56)に深谷城主上杉氏により、福徳をもたらす方位とされる戌亥の方角(北西)に守護神として祀られたものであると伝えられているそうだ。ちなみに城内の守護には智方明神(現冨士浅間神社)、丑寅の方位(北東)には鬼門封じの為に末広稲荷を置き、裏鬼門である未申(南西)に位置する瀧宮大明神も尊崇していたとのこと。
 明治四十五年(1912)に稲荷町の稲荷神社に合祀されたが社殿はそのまま残り、現在は田谷地域の鎮守として祀られているとのことだが、それって合祀じゃなくて分祀になるんじゃないのかなと思ってみたり。
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 明治四十三年八月廿二日 大水害・大正十二年九月一日 大震災記念碑。
 明治四十三年(1910)は五月に利根川洪水、八月に利根川流域大洪水。あと、八月二十二日は日韓併合条約が調印された日でもあるか。大正十二年(1923)九月一日は言わずと知れた関東大震災。


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 以上で5月21日参拝分終了。
 この後は原郷方面へ向かい愛宕神社、荒神社、御嶽神社、熊野大神社を参拝しようかと思っていたのだが、ロードスターのエンジンの調子が少々怪しいので早々に帰宅して自動車整備工場へGo。
 今回の使用機材はK-7にDA15mmとFA31mm、K10Dに50-150mm II。
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伊勢之宮神社(西大沼)

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 中山道を東へ向かい、ファミリーブック前の深谷市田所交差点から北へ向かって行くと、デイリーストアの北側に伊勢之宮神社が鎮座している。
 ところで、この鉄骨が一の鳥居を成していると見ていいのだろうか。
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『伊勢之宮神社
 当社の創建は明らかではない。
「風土記」に「伊勢内宮 村民持、伊勢外宮 西福院持」と、あることから、かつては二社であったと考えられる。今日のように一社となったのは、明治時代初期のことと思われる。
 明治四十五年、萱場の稲荷神社、東大沼の神明社、御嶽神社、曲田の神明社、稲荷神社、八幡神社、及び西大沼の大電八社等を合祀し、社名を神明社から伊勢之宮神社と改めた。
 西大沼村以外にも、上敷免村・東大沼村・曲田村・山川村・それに田谷村などには、一様に伊勢内宮・同外宮・大神宮・神明社などと称して伊勢神宮が勧請されている。これらはすべて伊勢の御師の影響と思われる。
 なお、田谷村の名の起こりは、この御師がお祓大麻を檀那に配るために構えた宿舎に由来するともいわれている。
 平成十四年十二月』

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『紀元二千六百年記念伊勢之宮神社合祀碑
神祇崇敬は肇國に基址にして之か祭祀は臣道の根幹なり。當社は元無格社神明社と稱したりしが明治四十五年一月二十四日當町大字萱場字池頭村社稲荷神社、大字東大沼字北村社御嶽神社、字新屋敷無格社神明社、大字曲田字六反田耕地村社稲荷神社、字下耕地無格社八幡神社、字櫻町耕地無格社神明社、大字西大沼字花小路村社八電八社の七社を合祀し又當大字緑小路無格社八坂神社を當境内に移轉し、同時に大字東大沼字北村社御嶽神社境内社岩戸神社、八坂神社、塞神社、字明間田無格社藏王者を合祀し村社に昇格して社號を伊勢之宮神社と改稱す。同日民有地七百五十七坪を官有地に組換え境内に編入の上境内施設を整備し大正五年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。斯して神社祭事の歸一及び民心の統一を期せり。然るに昭和十二年七月支那事變勃發するや皇軍連戰連勝偉大なる戦果を収むること茲に四星霜時恰も紀元二千六百年に遭う。乃ち當社氏子崇敬者胥謀り悠久たる皇紀を慶祝し之を記念するに、當社合祀の縁由を鐫して後昆に傳えんとす文を予に囑せらるるに及び筆を執りて梗概を叙すと云爾。
 昭和十五年十二月十日』

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『神社改修記念碑
 当社は大里郡神社誌によれば大里郡深谷町大字西大沼字伊勢之宮三百一番地ノ二に在り、明治四十五年一月廿四日八柱を合祀して村社に昇格の上村社伊勢之宮神社と改称した。
 伊勢之宮神社の祭神は大日霊貴命、豊受毘賣命、天照大御神、譽田別命、稲倉魂命、日本武命、大山祇命、別電命の八柱で当地の鎮守として御神徳高く氏子の崇敬日に篤きを加えたが、第二次大戦後は国民の敬神の念うすれ年と共に境内地は荒廃し合祀当時の建築と思われる社殿も亦幾星霜を経過して腐朽の著しいものがあった。奉賛会長中島宗市氏は氏子の安泰と国家の隆盛発展は先ず敬神観念の昂揚からとの信念で奉賛会役員と鳩首会議の上、境内整備と社屋の修理を発起し奉賛金六百八拾八万円を以って拝殿の修理をはじめ社号額の奉納、水屋の新築、更に社務所を移転改装し物置の新設ブロック塀の構築及び神域の整備等に着手し、昭和五十四年三月起工し昭和五十四年十二月二十五日めでたく竣工した。
 ここに氏子並びに関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せて其の大要を記し後世に伝える。
 昭和五十五年一月吉日』

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 鳥居。
 …二の鳥居になるのかなぁ?
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 狛犬。
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 社殿。
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 庚申塔や大黒天。
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 八坂神社。


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瀧宮神社(宿根)

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 萱場稲荷神社から北西に向かって歩いて行くと、中山道宿根交差点の北側に瀧宮神社が鎮座している。
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 拝殿。
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 八坂神社。
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 左手側の富士塚頂には冨士浅間神社が鎮座し、右側の祠には天手長男神社と三峯神社が祀られている。
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『宿根瀧宮神社の池の由来
深谷上杉氏四宿老の一人、岡谷加賀野守源香丹が、皿沼城から曲田城へ移り住んだ明応五年(1496)六月の大旱魃の時、貯水池を掘ったところ現在のこの場所よりまさに滝のごとく水が湧き出てきたので、この不思議な様を見て神様のお恵みお導きとして、社殿を建て瀧宮神社と奉称しておまつりしました。
 尚、古文書によれば当時の池の大きさは百坪余り(330平方m)深さ丈余り(3m3cm)と記されています。以上の事から名の由来の池を保護し、先人の遺徳を残すものです。
 二○○七年 七月』

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 菅原神社と稲荷神社。


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萱場稲荷神社(萱場)

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 天手長男神社から県道265号線に戻り、そのまままっすぐ西へ歩いて行くと萱場稲荷神社に到着。
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 水天宮。
 天御中主神を祀っているのかと思ったが、碑文を見ると雨をもたらし水難を防ぐ神のようであるので、普通に水神様なのかも知れない。
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 八坂神社。
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 水神宮。
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 お狐様。
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 拝殿。
 由緒等は不明。
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 倉庫と境内社。


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天手長男神社(萱場)

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 諏訪神社から北に向かい、県道265号線に出たら北川自転車店脇の道に入って行くと、やがて天手長男神社の正面に出る。
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『天手長男神社由来
 当河原天手長男神社は大里郡寄居町小園に鎮座する壱岐天手長男神社より、当地のここ鎌倉街道筋に勧したことに肇まる。
 祭神は天手長男命と尊し、埼玉県神社史に「手長」とは「異国征伐の御旗竿也」とある。「手長」とは、治国の先陣を司る大いなる力を意味する。後に戸隠修験道と習合し「火伏せ之神」として崇敬されるに至っている。
 当社創建は、口伝によると江戸嘉永期(1850)前後で、当地では夕刻になると度々火柱(失火)が上がったという。これを憂えた人々は火伏せの神を小園より「天手長男大神」を祭祀奉りて末永き火難盗難の御守護を願ったのであるという。また、弘化三年(1864)本庄宿大火の折、岡部深谷と延焼の後、勧請したともいう。
 大神の広大無辺の長き手の御加護が子々孫々、垂れ賜わんことを庶い願い、茲に謹んで誌す。
 平成十七年秋季大祭日』


 寄居町小園の壹岐天手長男神社に参拝したのは大体一年と二ヶ月程前になるが、勧請元がそちらと言うことは、御祭神は天忍穂耳尊と天手力男命、天鈿女命の三柱か。


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諏訪神社(田所町)

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 西島稲荷神社から北西に歩いて行くと、岡本製麺の隣に諏訪神社が鎮座している。
 社号標石には新世界氏神とも刻まれているが、なんのことやら。

西島稲荷神社(田所町)

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 瀧宮神社前から上唐沢川沿いに西へ歩いて行くと、元宮橋のそばに西島稲荷神社が鎮座している。
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『稲荷神社誌
 當社は深谷町西島元西に鎮座し祭神は畏くも倉稲魂命であらせられ、神體は唐櫃入神鏡一面と金幣一體とである。其の創立の年代は詳でないが、大里郡神社誌に依れば舊來氏子に岸井友衛門といえる武士ありて壽永年間岡部六彌太忠澄に随身し一の谷に戦死したといい、當社はこの岸井氏の祖先の勧請にかかり山城国伏見稲荷の御分祀であると傳えられている。尚、社側に聳ゆる御神木の欅に徴し又町内随一の形勝ともいうべき臺地の杉林中に建てられたことや、古来村鎮守とか西島稲荷大明神などと稱え來ったことから推して、其の創造が如何に久しきかを知ることが出来る。恒例の祭日は例祭十一月三日、祈念祭二月初午日、新嘗祭十一月二十八日、小祭は四月三日である。當社の社殿より階段に連なる鳥居や御神燈は霊験のあらたかさと信者の赤誠とを物語っている。又昭和七年唐澤堤から設けられ、ついで氏子の奉仕による境内の新装成り。何人も遥に赤城の霊峯を仰ぎつつ、春は長堤の櫻花に英気を養い、夏は由緒深き聖境に心身を浄化し、普く神徳に浴することを得るに至った。殊に昭和九年より開かれた参道は、昭和八年竣功を遂げた元宮橋と相俟って参詣者にこよなき利便を與えている。實に神威は無窮である。
 昭和十四年四月二日』

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 お狐様と狛犬。狛犬の方はかなりボロボロになっている。
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 参道と拝殿。
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 北側から。


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瀧宮神社(西島五丁目)

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 深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。
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 橋東側から。
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『滝宮神社
古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しました。西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
 御嶽神社
旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
 八坂神社
旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日、深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています』

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 二の鳥居。
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 池の畔に豊受神社。
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 その隣に八幡神社。
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 狛犬。
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 狛犬その二。
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 拝殿。
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 裏手から。
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 末社群。
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 演舞台。
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 演舞台左手側から裏に向かうと朱塗りの鳥居。
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 八坂神社。
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 冨士浅間大神社鳥居。
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 角行霊神・食行霊神。
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 大黒天。
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 冨士浅間大神。
 右手側に大山阿夫利大神、左手側に八意思兼命・手置帆負命・彦狭知命。
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 御嶽神社。
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『御嶽神社完成記念碑
 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日』

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 英霊塔。


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天手長男神社(原郷)

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 城西会議所の裏手にある火の見塚古墳墳頂に鎮座する石祠。古墳自体は崩れかかり、危険防止の為か登れないように侵入防止柵が設置されている。
 先月17日のエントリーで火の見塚古墳を探しても見つからなかったと書いたが、実はこのすぐ前を歩いて通り過ぎていたことが判明 ○刀乙 県道127号線側からでは見えないのよね。
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 石祠の中に納められた板には天手長の文字が見えるので、こちらは天手長男神社であると推測される。ただ、少々気になるのは楡山神社境内社の手長神社は原郷西部・字城西より移転したものであると言うことなので、その城西にあるこの祠は神様の出て行かれたもぬけの殻なのか、それともまた別の神社なのか、どちらだろう?
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 月待塔か庚申塔だろうか。


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神明宮(矢島)

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 県道355号線を北上し、矢島交差点を越えてしばらくすると左手側に神明社が見えて来る。尤も、355号線側から見えるのは稲荷神社の鳥居であって、この神明社の鳥居は見えないのだが。
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 遙拝所。
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『神明社造営記念碑
 神明社は郷土の産土神として、永く氏子の信仰の拠りどころであります。
 この度、県道中瀬普済寺線の拡幅工事に伴い、平成十四年一月十一日境内土地四一四二平方メートル中七二八平方メートル並びに稲荷神社、鳥居、社務所、玉垣等の移転保障として埼玉県熊谷市土木事務所より、七二○○萬円を受領いたしました。
 氏子役員協議の上、同額にて歳月を経て老朽化しておりました、神明社本殿、拝殿、稲荷神社、鳥居、社務所を新築し併せて、幟旗、旗竿を新調し、富士嶽大神、十二祖大神、御嶽山をはじめ十余の末社を新たに合祀し玉垣ならびに外柵を設置したしました。
 誠に氏子の敬神の念篤く、郷土の発展と子々孫々の繁栄を守護されんことを願い、工事完成を記念して當碑を建立するものであります。
 平成十五年十月十九日』

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 拝殿。
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 末社。
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 磨二天稲荷神社鳥居。左手前の末社は辨天のようだ。
 しかし、磨二天稲荷とはまた珍しい社号だなぁ。摩尼なら如意宝珠の意味になるので稲荷っぽくはあるけれど、仏教色を匂わせる社号だ。
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 稲荷神社参道脇にお狐様と石燈籠。石燈籠にも狐の彫刻が施されている。
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 お狐様。
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 磨二天稲荷神社本殿。
 神幕には丸に三つ柏紋と左三つ巴が描かれている。稲荷神社の神紋と言うと宝珠紋か稲紋を想像するが、柏は古くは食物を盛る器とされていたそうなので、稲荷神社で使われていても然程違和感は無いか。
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 稲荷神社の裏に末社群。
 十二祖大神、富士嶽大神、三笠山大神など。
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 八海山大神、大黒天、青面金剛、庚申塔など。
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 御嶽山大神。
 左側手前には一心霊神・弘徳霊神。右側手前は不動明王。
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 不動明王を正面から。


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 以上で5月14日参拝分終了。
 仕様機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。K10Dに50-150mm II。
 先月28日にディスプレイを買い換えたのだが、以前の物と見え具合が違いすぎてどうにも慣れないなぁ。視野角で色が違って見えるし目も疲れるし…NT液晶じゃなくて、多少高くなってもSPI液晶にしておけば良かったかな。尤も、以前はCRTを使っていたので液晶のことなんて全く調べていなかったからこんなに違うなんて知らなかったのだけど(苦笑

岡部六弥太忠澄之墓(普済寺)

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 菅原神社前から西へ向かい、県道355号線を越えるとすぐに岡部六弥太忠澄の墓がある。
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『岡部六弥太忠澄の墓
 岡部六弥太忠澄は、武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で、猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。
 忠澄は忠綱の孫にあたる。源義朝の家人として、保元・平治の乱に活躍した。六弥太の武勇については、保元・平治物語、源平盛衰記に書かれており、特に待賢門の戦いでは、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛、猪俣小平六等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。その後、源氏の没落により岡部にいたが治承四(1180)年、頼朝の挙兵とともに出陣し、はじめ木曽義仲を追討し、その後平氏を討った。特に一の谷の合戦では平氏の名将平忠度を討ち、一躍名を挙げた。恩賞として、荘園五ヶ所及び伊勢国の地頭職が与えられた。その後、奥州の藤原氏征討軍や頼朝上洛の際の譜代の家人三一三人の中にも六弥太の名が見える。忠澄は武勇に優れているだけでなく、情深く、自分の領地のうち一番景色のよい清心寺(現深谷市萱場)に平忠度の墓を建てた。
 現在地には鎌倉時代の典型的な五輪塔が六基並んで建っているが(県指定史跡)、北側の三基のうち中央の最も大きいものが岡部六弥太忠澄の墓(高さ一・八メートル)、向かって右側が父行忠の墓、左側が夫人玉の井の墓といわれている。
 六弥太の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子は乳が出るようになるという迷信が伝わっており、このため現在、六弥太の五輪塔は削られ変形している。
 平成三年三月』

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 正面の五輪塔が岡部六弥太忠澄の墓で、その右が父行忠の墓、左が夫人の墓と言うことなのだろう。
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 聖徳太子報恩碑。

菅原神社(普済寺)

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 菅原稲荷塚古墳の目と鼻の先に菅原神社が鎮座している。
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『狛犬奉納記念碑
 敬神崇祖は我が国本来の大道なり。世は平成の御世となり先に天皇陛下御即位御大典平成五年皇太子殿下の御結婚と皇室の御発展弥栄の極であります。この度岡部町大字普済寺に鎮座する菅原、愛宕両神社の大前に皇太子殿下、雅子様の御婚礼の御盛儀と平成五年十月五日第六十一回伊勢神宮式年遷宮の御慶事を記念して狛犬を奉納し遍く普済寺の発展と氏子中の弥栄を祈りここに狛犬の奉納を寄贈せる氏子の御芳名を列記して後世に伝えんとす
 平成五年十一月三日』

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『大鳥居移転記念碑
 菅原神社の大鳥居は昭和天皇御大典記念として昭和三年十一月十日岡部六弥太公墓所の西北に建立されました。この位置は県道普済寺中瀬線に面してはいましたが、神社には遠距離にありました。
 たまたま平成元年県道普済寺中瀬線が新設されることになり参道の分断を余儀なくされることにいたりました。この報に接するや、氏子より神社境内南側への移転の要望が俄かに高まりました。依って平成元年二月県議会議員持田謙一先生にこの旨役員にて陳情致し、移転費を熊谷土木事務所より助成願うべく請願致しました。
 この結果平成元年十一月末に移転費交付が決定し用地は斉藤澄雄氏の理解ある好意により現在地に六十七・六五平方米の土地の協力を受け、平成二年二月より工事を開始し三月に完工致しました。
 茲に、氏子の宿願が叶えられた大鳥居、社標、旗杭、燈籠等と神社が一体化し、その景観も一層美化され品格も高揚されるに至りました。
 之を永く記念すべく、この碑を建立致しました』

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 二の鳥居。
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『菅原神社再建奉納記念碑
 深谷市普済寺に古くから学問の神様、地域住民の鎮守として崇敬されてきた菅原神社は、永く氏子の信仰の拠りどころである。當社は、元来當地の総鎮守にして、往時は天満宮又は天神社と称し、元和年間(1620年頃)には神領があるとの記録がある。平成十七年八月十八日夜、不審火により當社の本殿・幣殿・拝殿が全焼となり焼失され、洵に悲痛の思いながらも、此度氏子中協議の上社殿を再建し、平成十八年三月三十一日社殿竣工奉祝祭が厳粛のうちに斎行された。茲に概要を記し、又社殿再建並びに境内整備費を寄贈される氏子及び関係各位の御芳名を石碑に刻し、後世に伝う。
 平成十八年三月三十一日』

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 拝殿。
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 遙拝所。
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 末社群。
 左から二番目は諏訪社。右端は石尊大権現・大天狗・小天狗。他は不明。
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 境内社。詳細は不明。
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 厳島神社。
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『厳島神社改修建設記念碑
 古より、水の神を祀る社として伝え継がれ、さらには、女性の守り神弁天様と崇められ、永く氏子の信仰の拠り所として普済寺地域住人に守り継がれてきた。
 この度、由緒ある「イツクシマヒメノミコト」を崇めようとする社殿の改修建設事業は極めて意義深いものがあり、郷土の弥栄と子々孫々の繁栄を念じ奉賛氏子のご芳名を記し後世に伝える。
 平成十六年十一月吉日』

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 厳島神社本殿。

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 菅原神社の西側を南北に走る埼玉県道355号中瀬普済寺線より一本西側の道端に、馬頭観音や猿田彦大神が鎮座している。おそらく、この辺りが嘗ての参道の一部だったのだろう。

稲荷神社(普済寺)

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 岡部神社から北上して行くと岡部東グラウンドの西側に菅原神社が鎮座しているのだが、その少し南側に菅原稲荷塚古墳、或いは堂山古墳と呼ばれる直径約31m、高さ約4m程の円墳があり、その墳頂に稲荷神社が鎮座している。
 また、ググってみると岡部六弥太忠澄の館跡の一部でもあるようだ。
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 本殿。
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 末社。
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 左奥に菅原神社の鳥居が見える。


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源勝院(岡部)

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 岡部神社に隣接する曹洞宗玉鳳山源勝院。
『当山門は室町時代の建築様式を残す江戸時代初期の建立と伝えられています。
建築形態は薬医門と言い古来赤門として檀信徒より親しまれまた度々の火災にも焼失を免れたと伝えられ今日に至りました。
本柱控柱とも礎盤(石造)上に立てたものですが本柱礎盤上の老朽により傾斜したため修復には現状に近くとの強い要望により昔日の面影をとどめ修理できましたことは真に喜びに堪えません。(以下略)
 昭和五十二年五月』

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『源勝院
 源勝院(曹洞宗)は、岡部の地を領地とした阿部家の菩提寺としてつくられた寺で、境内墓地の一角に二代信盛から十三代信寶まで十二基の屋根付位牌形の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。
 天正十八(1590)年、徳川家康の関東入国とともに、初代安部弥一郎信勝に岡部領が与えられた。信勝は、亡父大蔵元真追福のため、人見村(現深谷市)昌福寺八世賢達和尚を招き、源勝院の開基とした。初代の信勝は、当時徳川家康と石田三成との対立が激しくなったので、家康に従い大阪城に詰めていた。慶長五(1600)年に、大阪城詰所で死亡し、大阪の鳳林寺に葬られた。安部家は、初代以降岡部の地を領し、大字岡部の一角に陣屋を置いた。
 源勝院表門を入ってすぐ左手に安部家の祖、安部大蔵元真(信勝の父)の碑がある。安部家は信州諏訪の出で、駿河国(静岡県)安部川の上流、安部谷に移り住み、元真の時はじめて安部氏を名乗った。元真は、はじめ今川義元に仕えたが、後に徳川家康に仕え、甲斐の武田信玄、勝頼父子と戦い、おおいに戦功をあげた。
 安部家歴代の墓及び、安部大蔵元真の碑は、町指定文化財となっている。
 平成三年三月』

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 本堂。
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 安部大蔵君碑。

 法事が行われていたようなので、邪魔にならないようにさっさと撤退。

岡部神社(岡部)

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 伊勢方の八幡神社から南西に向かって行くと、岡部北交差点のそばに岡部神社の鳥居がある。
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 しかしこの鳥居、額を見ると「八坂大」らしき文字が見える。はて、こちらは八坂大神でも祀っているのかいな?
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 一の鳥居のすぐ後ろに二の鳥居。
 こちらは額の部分をアップで撮っておくのを忘れてしまった。
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 参道途中で左手側に見えて来る圓通院。こちらは真言宗智山派の寺院であるようだ。
 ちなみに、圓通院にピントを合わせると奥の民家にまでピントが合ってしまって面白みに欠けるので、手前の車止めに合わせてみた。まぁ、ちょっとズレてるけど(苦笑
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 神輿庫と神楽殿。現在、神楽殿の周囲は立入禁止になっているようだ。
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『岡部神社沿革
 従来は聖天宮と称されており、本殿には歓喜天の木像が安置されている。明治十二(1879)年、岡部神社と改称し、現在に至る。祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊という。
 岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間(1182-1183)、忠澄は一の谷の戦功を感謝し、記念に杉を植栽したと伝えられている。
 後に、徳川家康の関東入国とともに、岡部の地を領地とした岡部藩主安部氏は、当社を崇拝し、代々祈願所として、毎年三月十七日の例祭には参拝した。
 祈願者は近郷より集まり、縁結び、家内安全、五穀豊穣、夜盗除等を祈願した。昭和二十年代以前の夏祭りには、神輿が出てたいへん賑やかなものであったと言う。
 この神輿は、町指定文化財となっており、現在は、神社境内の倉庫(神輿やどり)に保管されている。神輿は、大中小と三種類あり、いずれも四角形、木製無地で、鉄の金具がつき、屋根は銅板ぶきとなっている。このうち最も大きなものは、屋根の中央に鳳凰がつき、屋根下の欄間四方に、鶴、ひばり、昇り龍等の彫刻が繊細に施され、四隅に獅子二頭ずつが彫刻されており、たいへん豪華なつくりとなっている。
 平成三年三月』

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 拝殿。
 元聖天宮だけあってか、棟木には違い大根紋があり、石燈籠の窓も丸の他に違い大根の形に開いている。
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 神輿庫の隣に、やっぱりあった八坂神社。
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 左から諏訪稲荷神社、不明、額部分に「富士」と彫られた石祠、五柱の神の名を刻んだ五角柱。
 諏訪稲荷神社には案内板が打ち付けられており、以下の文が記されている。
『諏訪稲荷大明神
 神社は昔安部藩主陣屋内現在中山栄太郎様屋敷内東郵便局西方に鎮座ましせり。藩主代々二万参千石の安泰と領民の健康、五穀豊穣を祈願?氏神稲荷様なり時の流れにより大正年間当社に合祀。現在に至る。
 昭和四十九年壱月吉日』
 富士と彫られた石祠の側面には寛政二庚戌初春とも刻まれているので、1790年のもの。
 五角柱は正面に天照皇大神とあり、右回りに埴安媛命、大己貴命、少彦名命、倉稲魂命の五柱。
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 中には「氏神稲荷」と刻まれた石碑が納められており、側面には「修復 昭和四十八年春祭」「御造営 平成四年十二月吉日 岡部神社氏子中」と書かれている。
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 遙拝所。
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 馬頭観世音菩薩、三申、二十二夜待塔、庚申供養塔など。
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 末社。詳細不明。
 右の石碑は五柱五成大霊魂。よく判らないが、富士講関連であるようだ。
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 両皇大神宮。つまり、天照大神と豊受媛命か。


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八幡神社(伊勢方)

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 鹿嶋大神社の次は内ヶ島の熊野大神社を参拝しようと思っていたのだが、折悪しく境内の改修工事の最中だったのでスルーし、南下して伊勢方の八幡神社へ。
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『八幡神社(伊勢方)
 社記によると、当社の壮健は文治二年(1186)、岡部六弥太忠澄が平家追討の戦を終え、領内の西谷(後の伊勢方村)に八幡大菩薩を勧請。以後伊勢方村の鎮守として村人から信仰された。
 当地は、室町時代には、深谷上杉氏が領し深谷城を築城するとき、一時ここに仮城を築いて居住したと伝えられる。この仮城は字田中あたりで、今でもその地は「元屋敷」と呼ばれている。この仮城に、守り神として千形神社が祀られている。
 伊勢方の地名は、伊勢神宮の御師との関連からともいわれる。江戸時代は岡部藩の安部氏の領地、八幡大明神像を安置し、武神としても信仰された。また、春秋の祭りは灯籠を飾り、境内の入口のは「たちががり」と称する門(花万灯て飾り付けた門)を建てて参詣者を迎え、かつては大変にぎわった。
 平成十六年十一月』

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 拝殿。
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 末社。
 左は天神社、右は鹿島神社。中には茨城県の鹿島神宮より勧請したと記された板が納められていた。
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 末社。
 何神社なのかは不明だが、側面に天保八丁酉六月吉辰日と刻まれているので、1837年のものであることだけは判明。
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 浅間神社。
 中には木花開耶姫命と思われる女神の姿が描かれた掛け軸が掛けられている。
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鹿嶋大神社(大塚島)

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 中山療院前を西へ向かい、一つ目の信号から北西に入って行くと鹿嶋大神社が鎮座している。
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『神社改修記念碑
 当鹿島大神社は武甕槌命誉田別命様が奉祀せられております。天慶四年(941)春三月字石畑と称する所に鎮座されその後明暦年間(1655-1657)に現在の地に遷祀されたと伝えられております。現在の御本殿ならびに上屋は享保元年(1716)に再建せられその後上屋は明治九年(1876)に改築されたと示されております。その後幾度の修理を行ってまいりましたがここに至り尚また老朽化が著しくなり社殿保存のために改修が必要となりました。この改修工事にあたり氏子各位の敬神の念篤き基に氏子総代ならびに各字役員の合議がなされ本殿上屋屋根ならびに境内社の屋根葺替をはじめ社殿修理境内ブロック塀の摂築神域の整備等に着手し昭和五十六年(1981)五月吉日起工し昭和五十六年九月十五日めでたく竣工した。ここに氏子並に関係各位の絶大な御援助御協力に対して衷心から感謝の意を表し併せてその大要を記し後世に伝える。
 昭和五十六年十月吉日』

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 拝殿。
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 末社殿…かな? 或いは八幡神社か。
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雷電神社(起会)

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 戸森の雷電神社前の交差点を西へ走って行くと、中山療院の北東に雷電神社が鎮座している。
 隣に生えている大きな樫の木は深谷市の保存樹木に指定されているようだ。
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雷電寺(戸森)

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 ついでなので、隣の雷電寺にも立ち寄ってみた。
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 本堂。
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 萬霊塔と尊海地蔵堂。
 奥に見えるのは雷電神社。
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 本堂落慶記念碑。
 これによると、こちらの寺院は真言宗智山派総本山智積院の末寺で、正式名称は雲龍山観音院雷電寺。不動明王を本尊として祀っているそうだ。創建は正慶二年(1333)に雷?(遷からしんにょうを外した文字)房長傅と伝えられているが、新編武蔵風土記には慶長年間(1596-1615)に僧印山とあり、また同風土記には延宝七己未年(1679)僧慶算中興とも記されているとあるが、要するに本当のところは判らない、と。
 残念ながら、お隣の雷電神社については全く記されてはいなかった。

雷電神社(戸森)

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 国道17号線と埼玉県道14号線の交差する大寄交差点から南へ少し下ると、すぐ左手側に雷電神社が見えて来る。
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 狛犬と二の鳥居。
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 御嶽塚。
 頂に御嶽山国常立尊・三笠山豊斟渟尊・八海山国狭槌尊。他に天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神、猿田彦大神、清瀧日本武尊、十二大神、光徳霊神、神武天皇、大国主神・少彦那神、戸隠大神・武尊山大神、三笠山三才太神、長崎大神の名前が見える。
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 拝殿。
 由緒等は不明だが、隣接する雷電寺の創建が慶長年間(1596-1615)、或いは正慶二年(1333)であるようなので、こちらの雷電神社もその頃であろうか。
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 本殿。
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 参道左手側に置かれた大きな石。白い部分が「宮」のようにも見える。
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 ずらりと並ぶ境内社。
 左から琴平神社、天手長雄神社、八坂神社、稲荷神社。少し離れて摩多羅神、摩利支天。
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 石祠には特に記されてはいなかったが、手前に身禄霊神と小御嶽大神があるので、こちらの石祠は浅間神社ではないかと推測。
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 石祠三基。
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 三峯神社。


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鷲宮神社(高畑)

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 埼玉県道45号線新戒交差点から南下して行くと、小山川の南に鷲宮神社が鎮座している。
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 備前渠に架けられた宮橋を渡ると二の鳥居。
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 拝殿。
 由緒等は不明。
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 狛犬。
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 本殿。
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 境内社。中には木造の祠が二つ納められているが、何神社なのかは不明。
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 甲子大黒天。奥に見えるものは庚申塔。
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 右側の石祠は三峯神社。
 左側の建物には神輿と小さな木造の祠が納められている。
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 御嶽塚。この辺りは古墳であるのだそうだ。
 塚には頂に御嶽山座王大権現・三笠山刀利天・八海山大頭羅神王があり、その他に大国主神、日御崎神、清瀧不動尊、天御中主尊、武尊山大神、岩戸大神、十二尊神、蚕影山、一心霊神、普寛霊神などが祀られている。
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 左手前はおそらく稲荷神社。右奥は不明。


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石敢當(神田神保町二丁目)

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 友人が六一書房で資料漁りをしている間、暇なので周辺をうろついていたら、六一書房そばの十字路脇にある明治屋の角に石敢當と刻まれた石があることに気づいたので一枚ぱしゃりとな。
 聞き覚えの無い言葉なのでググってみたら、中国発祥の魔除けだそうだ。道祖神のようなものなのだろう。日本では沖縄や鹿児島でよく見られるが、それ以外の場所では珍しいものであるらしい。また、昨年五月には足利市県町において江戸時代につくられたと思われる石敢當が確認されたそうだが、知らなかったなぁ。
 しかし、石敢當は丁字路や三叉路の突き当たりに設けられるものなのだそうで、十字路の角にあるこちらの石敢當はどこからか移されて来たものなのだろうか。


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