吉岡家大神宮(血洗島)

IMGK5277s.jpg
 埼玉県道45号線血洗島交差点よりやや西側の道端に鎮座する大神宮。
 社号を記した物が全く見当たらなかったので何神社なのか判らなかったのだが、ググってみたら深谷市議である吉岡信彦氏のブログにこちらの記述を発見。そちらには吉岡家大神宮と書かれており、また常夜燈に「吉岡小兵衛 建之」と記されていたので、吉岡氏の御先祖様が建立された神社であるようだ。祠と鳥居には「大正八年九月建之」とあるのでおよそ92年ほど前か。
IMGK5250s.jpg
 少し離れて。
 右奥に見える森は諏訪神社

IMGK5244s.jpg
 諏訪神社前の道を県道45号線に向かって南下して行くと、道端に猿田彦大神碑と庚申塔(三申)。
 吉岡家大神宮とは関係無い上に諏訪神社の方が近いのだが、態々エントリーを立てるほどでもないので一緒に記録しておこう。


大きな地図で見る

 以上で6月19日参拝分終了。
 今回使用したのはK-7にDA18-55mm WRとIXY Digital 400。DA18-55mm WRは便利なレンズだけど、やっぱりいろいろなー、うーん…。
スポンサーサイト

地神碑(堀田)

IMGK5230s_20110621202446.jpg
 堀田交差点から南東に向かって行くと堀田集落センターがあり、その敷地の端に地神碑が建てられている。
 今まで見たものは天照皇大神、大己貴命、倉稲魂命、埴安媛命、少彦名命の名が刻まれていたが、こちらの地神碑では倉稲魂命の名が無く、代わりに保食姫命とある。どちらも稲荷神とされる神だから、いいのかな。
IMG_3146s.jpg

諏訪神社(堀田)

IMGK5143s.jpg
 埼玉県道45号線堀田交差点の脇に鎮座する諏訪神社。
 こちらも詳細不明。
IMGK5203s.jpg
 拝殿と鞘殿。
IMGK5170s_20110621201035.jpg
 境内端に末社。やはり詳細不明。
IMGK5175s.jpg
 その隣に庚申塔、如意輪観音、青面金剛、如意輪観音。
IMGK5152s.jpg
 拝殿脇の末社。
 瓦に梅鉢紋があるので天神社であると思われる。
IMGK5137s.jpg


大きな地図で見る

稲荷神社(堀田)

IMGK5235s_20110621195635.jpg
 諏訪神社のすぐ西側に鎮座する稲荷神社。
 民家の庭と繋がっていると言うか敷地内にあるようにしか見えないので屋敷神かとも思ったのだが、地図にも記載されているし道路側を向いてもいるのでおそらく屋敷神ではないのだろうと判断して参拝。
IMGK5241s.jpgIMGK5238s_20110621195634.jpg
 末社。

諏訪神社(堀田)

IMGK5077s_20110621193730.jpg
 小山川に架かる滝岡橋の北に鎮座する諏訪神社。
 ググってみても詳細不明。
IMGK5086s_20110621193729.jpg
 拝殿。
IMGK5091s.jpg
 拝殿右手側に二十二夜塔と廾三夜供養塔。廾三夜とあるけど、これ廿三夜が正しいのかな?
IMGK5101s_20110621193726.jpg
 その隣に石祠が一基。
IMGK5119s.jpg
 御神木の根元付近に神宮遙拝所。
IMGK5113s_20110621193727.jpg
 末社。
 中には菅原道真朝臣・倉稲魂命・素盞鳴尊・火之迦具土神と書かれた板が納められている。
IMGK5122s.jpg
 西の鳥居。


大きな地図で見る

山崎天神社(山崎)

IMGK4949s_20110620225229.jpg
 宮西公園からまっすぐ南下し、大通りに出たら東へ向かって和倉橋を越えたらしばらくすると右手側に山崎天神社が見えて来る。が、駐車場が無いので路肩に駐車。
IMGK4954s.jpg
 真言宗智山派天神山薬王寺地蔵院。
 御本尊は薬師如来だが、地蔵菩薩と観世音菩薩もお祀りしているようだ。
IMGK4976s.jpg
 鳥居。
IMGK4962s_20110620225226.jpg
 振り返ると遙拝所。
IMGK5059s_20110620225225.jpg
 拝殿右手側に地神碑。
IMGK4982s.jpg
 拝殿。
 由緒等は不明。
IMGK5047s.jpg
 富士塚…かな。
IMGK4990s_20110620231257.jpg
 塚の頂には仙元大日神。
IMGK4995s.jpg
 その隣に石祠二基。
IMGK5006s_20110620231256.jpgIMGK4997s_20110620231255.jpg
 庚申塔。右奥に見えるのは青面金剛。
IMGK5021s_20110620231254.jpg
 末社殿。
 天照皇大神と稲荷神社、諏訪神社、三社権現社が祀られている。ググってみた結果、この三社権現とは伊弉諾尊・事解男命・速玉男命のことであるそうだ。
 また、他に雷電社と辨天社も合祀されているそうなので、奥に見える石祠二基がそれであるのかも知れない。


大きな地図で見る

佐類田彦大神(榛沢)

IMGK4889s_20110620222435.jpg
 宮西公園の端に佐類田彦大神を祀る祠が鎮座している。公園の案内図には庚申様と書かれており、佐類田彦大神とは猿田彦大神のことだろう。
 左側には湯殿山・月山・羽黒山供養塔と道路改修記念碑、揚水池設置記念碑。
IMGK4904s_20110620222434.jpg
 岡部町西部工業団地造成に伴い、平成九年三月にこちらに移転してきたものであるようだ。
IMGK4934s.jpg
 県道352号線を見つめる蛙の石像。…で、これなにか意味あるのかな?


大きな地図で見る

舟附稲荷神社(榛沢)

IMGK4868s_20110620220717.jpg
 大寄八幡大神社東側の道を北へ向かって歩いて行くと、やがて東側に舟附稲荷神社が見えて来る。
 検索をかけても詳細は出て来なかったが、舟附稲荷と言う名前であり、北に小山川、東に志戸川が流れていることから、舟運の守り神として建てられたのではないかと推測。もしかしたら近くに舟附場があったのかも知れない。
IMGK4880s.jpg


大きな地図で見る

大寄八幡大神社(榛沢)

IMGK4646s.jpg
 東光寺から北へ向かい、埼玉県道352号線を北東へ走って行くとやがて左手側に大寄八幡大神社が見えて来るのだが、こちらは駐車場が無いので、大寄八幡大神社の西にある宮西公園に駐車。
IMGK4655s_20110620202202.jpg
 手水舎。
IMGK4678s_20110620202201.jpg
 手水舎の天井には龍の彫刻が施されている。また、これ以外にも龍や亀などの彫刻が施されているが、保護の為なのか金属ネットに覆われている。
IMGK4694s_20110620202200.jpg
 拝殿。
IMGK4706s.jpg
 拝殿正面の扉には亀と鳳凰の彫刻が施され、その上には龍の絵が描かれている。
IMGK4829s_20110620202159.jpg
 改良区設立碑と外宇新築拝殿吹替記念碑、石燈籠。
『外宇新築拝殿吹替記念
 大寄八幡大神社の社殿は奥院及び拝殿とによって成り御神体に應神天皇を奉る。
 今より凡そ二百五十四年前江戸時代享保十三年第百十四代中御門天皇の御代に建築されたと推定される。武州榛沢郡時代別名五領の宮とも稱ばれ、地元近隣領民の武運を守り崇拝の神として氏子によって尊厳が保たれ現代に及ぶ。
 しかるに近年に到り社屋の老化はげしく高度技術の粋を集めた建物が風雨に打たれ文化財に損傷のきざし有り。特に彫刻天上絵等無類の宝物保護の必要を感じ総氏子協議の結果奥の院全部に上屋をめぐらし更に観賞の立場から下見はガラス張りとなす。亦拝殿屋根は総吹替をなしいぶし銀の瓦瞳にまぶしく神殿の尊厳益々盛んなり。亦右工事に要した費用は神社の営繕費をこれに当て総工費壱阡壱百五拾参万七百拾五円にして昭和五十八年九月その工事の完成を看る。
 特に総氏子これを祝し祭詞奏上の九月二十五日御遷宮となす。
 昭和五十八年九月二十五日』

IMGK4820s.jpg
『大寄八幡大神社
 当社の祭神(誉田別命)は、社名に幾度かの変遷があった。江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」では、榛沢六郎成清の勧請により、十一面観音を安置すると記載されている。また昭和五年に編纂された大里郡神社誌では、祭神は、誉田別命(応神天皇)とされている。神社名称もはじめ、児玉宮、御霊宮と呼ばれ、次いで大寄大神社となり、現在の大寄八幡大神社と呼称されるようになったのは戦後のことである。
 本殿は、木造銅板葺で、回廊より上部は、内外とも総彫刻で彩色されている。礎石には、享保十三(1728)年八月施主武政郷助の刻銘がある。
 本殿は、破損が著しいため、昭和五八年に三方ガラス張りの覆屋をつくり、保存につとめている。この他に拝殿、水舎等は、江戸時代後期(文久年間頃)の建立と考えられている。
 また、当社は、祭礼の日には、武道の試合が行われ、遠近の武道者が集まったと伝えられている。拝殿内外に掲げられている奉納額は、これを物語っている。特に角力は、さかんに行われ、御霊宮(大寄八幡大神社の旧名)の角力と言えば、遠く秩父地方にまで鳴響いていたという』


 先の記念碑には五領の宮と書かれていたが、五領宮と御霊宮はどちらも読みは一緒だ。疫病の沈静化を願って建立されたものであるのだから、この疫病は平氏の怨霊の祟りによるものと考えたのであれば、それを鎮めて御霊となす為に御霊の宮を建てたと推測するのはアリかな? 児玉宮は…なんだろ。ここからずいっと南西へ向かうと県道75号線そばに児玉神社があるが、うーむ、どうだろ。
 また、十一面観音が勧請されたとも書かれているが、これは東光寺にあった十一面観音と何か関係あるのだろうか。神仏判然令によりここから東光寺へ移されたとも考えられるが、ググってみても判らないなぁ。
IMGK4808s.jpg
 境内社。左側は三峰神社。
IMGK4802s.jpg
 大寄大神社と称していた頃の社号標石なのだろう。
IMGK4778s_20110620204631.jpg
 中を覗きこんでみたら祭具殿…かと思いきや、天満天神、二柱大神、別雷大神、稲荷大神が祀られていた。
IMGK4769s.jpgIMGK4763s.jpg
 遙拝所と流造の境内社。神紋は左三つ巴紋だが…これあんまり手掛かりにならん。
IMGK4739s.jpgIMGK4745s.jpg
 末社。どちらも詳細不明。
IMGK4730s.jpg
 塚の上に石祠。富士塚なのかな?
IMGK4721s.jpg
 末社。詳細不明。
IMGK4724s.jpg
 神楽殿。


大きな地図で見る

稲荷神社(後榛沢)

IMGK4598s_20110620194350.jpg
 東光寺から西へ歩いて行くと、民家の隣に朱塗りの鳥居が連なっており、この鳥居をくぐって行くと奥に稲荷神社が鎮座している。ちなみに鳥居は十四基あった。
IMGK4631s.jpg
 塚の頂に稲荷神社。
 なんとなく古墳ぽい感じ。
IMGK4613s.jpg
 参道左手側に石祠。


大きな地図で見る

東光寺(後榛沢)

IMGK4532s.jpg

 榛沢六郎成清供養塔より北西に向かって行くと、上越新幹線高架橋の手前に真言宗豊山派甘王山自性院東光寺がある。
 仁王門には立派な仁王が立っていたが、生憎手持ちのレンズでは全身を写すのは無理だった。魚眼ズームも持って行けば良かったかなぁ。
IMGK4547s.jpgIMGK4550s.jpg
 仁王は撮れなかったが、仁王門には木造の狛犬も控えていた。
IMGK4537s.jpg
『東光寺
所在地 岡部町大字後榛沢三七六番地の一(現 深谷市後榛沢376-1)
宗 派 真言宗豊山派
本 尊 薬師如来
沿 革 寺伝によれば、武蔵武士榛沢六郎成清が、文治五(1189)年、領
   民の疫病平癒祈願のため、源頼朝より寺号を拝領し、薬師仏を得、
   当寺を創建したとされる。その後、法印祐宗により至徳三(1386)
   年再興された。この頃、当寺は、針ヶ谷弘光寺の第一末寺となっ
   ており、全盛時には、七堂伽藍を備え、末寺百二十ヶ所を有した
   と伝えられている。以後、僧侶修行の学山として栄えたが、明治
   六(1873)年に出火、本堂、寺宝等はことごとく消失した。この中
   で、本尊薬師如来は、当時薬師堂にあり、消失をまぬがれたとい
   われている。現存する本堂は、平成二年に再建されたものである。
   住職墓地中央には、初代祐宗より、二九代明遍まで歴代住職の名
   が刻まれている石碑が建っている』

IMGK4586s.jpgIMGK4589s.jpg
 仁王門手前左側に薬師堂。
 こちらの薬師如来の写仏が、榛沢新田に鎮座する二柱大神社そばの薬師堂に納められている。
IMGK4583s_20110620191215.jpg
 薬師堂の隣には「軍馬南垣號之墓」と刻まれた石塔。
IMGK4553s.jpg
 仁王門をくぐると、またも狛犬のお出迎え。
IMG_3132s.jpg
 香炉を支える足は、何故か鬼面の口から生えている。
IMGK4565s.jpg
 東光寺の由来を記した石碑。
IMGK4634s_20110620191211.jpg
 観音堂。こちらは十一面観世音菩薩をお祀りしているようだ。
IMGK4637s.jpg
 観音堂の向かい側に二十三夜塔と大日本回國供養塔。

榛沢六郎成清公神社(後榛沢)

IMGK4457s.jpg
 八幡大神社前の道を南西へ向かって行くと、榛沢六郎成清供養塔がある。
 こちらは古くは榛沢六郎成清の館があった場所であるのだそうだ。また、右側の小さな塚の頂には慰霊碑が建てられている。
IMGK4481s.jpg
 中に供養塔が納められている。また、「平成八年二月六日 榛澤六郎成清公神社 社殿改築修理」と書かれた板が打ち付けられていた。
IMGK4490s_20110620065922.jpg
 供養塔。
IMGK4469s.jpg
『榛沢六郎成清供養塔
 榛沢六郎成清は、鎌倉時代の武士で、武蔵七党の一つ丹党に属し、父成房の時榛沢の地に移ったといわれる。
 成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつながりが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。
 はじめ重忠は、平氏に味方し、頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後、重忠は頼朝の先陣をつとめたが、成清は、いつも思忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥の役でおおいに活躍した。頼朝の信頼も厚く、成清に対し"汝をもって亜父となす"といったという。畠山重忠も深く信頼し、たびたび榛沢の館を訪れた。
 帰途、荒川の洪水のため、川が渡れない時、うぐいすの鳴き声で渡ったと伝えらており、荒川の岸辺には、うぐいすの瀬の碑が建っている。
 また成清は神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社東光寺を開いたと伝えられている。元久二(1205)年、重忠は、北条氏の策略により、二俣川において三万騎の大軍にとりかこまれた。その時、重忠の手勢は、わずか一三○騎で、その中に成清も加わっており、おおいに奮戦したが、力つき重忠と共に討死した。成清は重忠に菅谷館にもどって陣をたて直すことを進言したという話が残っている。
 この供養塔は旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保八年(1723)に建立されたという』

IMGK4507s_20110620065921.jpg
 社殿の隣に五輪塔。


大きな地図で見る

八幡大神社(後榛沢)

IMGK4316s.jpg
 榛の森公園南西に位置する八幡大神社。
 社号標石の側面には「明治四十五年三月廿二日 神饌幣帛料供進指定」と刻まれている。
IMGK4325s.jpg
 境内に入るとすぐ右手側に八坂神社。
IMGK4337s_20110620002342.jpg
 一の鳥居。
IMGK4349s.jpg
 二の鳥居。
 六基の石祠と遙拝所もあるが、石祠はいずれもどなたを祀ったものか不明。
IMGK4367s.jpg
 拝殿。
 こちらの八幡神社は、榛沢成清が疫病に苦しむ領民の平癒を祈願して建立したものと伝えられている。
IMGK4433s.jpg
 手水舎と神楽殿。
IMGK4379s_20110620003810.jpg
 石で囲まれた空池の中に鎮座する石祠。おそらく厳島社か弁天社と思われる。
IMGK4409s.jpgIMGK4397s_20110620003809.jpg
 仙元大日神。その脇に小御嶽石尊大権現と食行身禄霊神。
 登山記念碑を挟んで右側に倉稲魂命。
IMGK4439s.jpg
 仙元大日神の裏側に妙見大神と月読尊など。
IMGK4424s_20110620003808.jpg
 六基の石祠が並んでいるが、こちらもまた不明。
IMGK4384s_20110620003806.jpg
 庚申塔。


大きな地図で見る

二柱大神社(榛沢新田)

IMGK4148s.jpg
 埼玉県道86号線の南、榛の森公園の東側に鎮座する二柱大神社。
IMGK4162s.jpg
『二柱神社由緒
 新編武蔵風土記稿に「聖天社・村の鎮守なり、慶長十年勧請す云々…」とある。
今から(平成元年)三百六十八年前のことである。
旧神社名は「聖天宮」と云った。
明治元年の「神仏分離復飾の令」により社名を「二柱大神社」と改称す。
祭神は「伊邪那岐命」男「伊邪那美命」女の二柱の神を祀る。
この神は誘い合われる男女の祖神を意味する。
この二柱の神は結合と協力及び和の大道を教えている。そして万物を生成化育する神である。
よって昔古より五穀豊穣・家内安全の守護神として氏子の崇敬が篤かった。
明治二十九年一月四日の火災により、本殿・拝殿・幣殿等の建物を全部焼失した。
現在の拝殿は明治二十九年三月十七日再建す。
本殿は明治四十年三月三十一日再建す。
右拝殿及び幣殿の屋根朽敗甚だしく、氏子相謀り一致協力して浄財を募り、平成元年十月十七日営繕修復を成し、御神威、御神徳を宣揚して氏子の弥栄を祈念する。
 平成元年十月十七日』

IMGK4172s.jpg
 拝殿。
IMGK4307s.jpg
 拝殿と本殿。
IMGK4288s.jpg
 遙拝所。
IMGK4283s.jpg
 神楽殿。
IMGK4304s.jpg
 神楽殿の裏手に小さな塚があり、その頂に石祠。
IMGK4237s_20110619224811.jpg
 八坂神社。
IMGK4310s.jpg
 八坂神社の後ろ、神社北口脇に建てられた倉庫…かと思いきや、瓦には「琴平」の文字が。すると、琴平神社なのだろうか。
IMGK4208s.jpg
 末社殿。現在は瓦の葺き替え工事中であるようだ。
 中には左から八王子神社、熊野神社、稲荷神社、琴平神社・明見山神社、天満宮が祀られている。その隣には天手長男神社、右端の祠は不明。
 左端は古札納所と思われる。
IMGK4193s_20110619231258.jpg
 奉献稲荷大明神と刻まれた石柱は文政四年(1821)二月のもの。その左側の石柱には享和三年(1803)とある。祠は見当たらなかったが、先の末社殿の中に納められているのがそれなのかも知れない。
IMGK4180s.jpg
 大神宮。
 側面には平成六年(1994)二月二十二日、突風により社屋が倒壊したために修復されたと記されている。

IMGK4247s.jpg
 二柱神社の北西に薬師如来堂。
「正保元年(1644)四月、後榛澤東光寺本尊薬師如来の御写体を此の屋形に安置し、遠祖成清公守本尊薬師如来を索め子孫繁栄を祈る」と記された板が掛けられている。その文の前にも色々記されていたようなのだが、半分ほどは文字が薄くなっていて判読は難しい。
IMGK4250s.jpg
 石祠の正面に正一位蚕守稲荷大明神と刻まれている。


大きな地図で見る

稲荷神社(人見)

IMGK4080s_20110614190146.jpg
 仙元山公園まで戻り、ビッグタートル前交差点から少し南東へ歩いて行くと交差点の脇に稲荷神社が鎮座している。
IMGP2226s.jpg
 瓦には狐の姿が。
IMGK4066s.jpg
 稲荷神社遷宮記念碑。
『当社は釈地稲荷大明神にして祭神は稲蒼魂命なり。
 文政七年(1824)九月遷宮。明治五年(1872)八月鳥居再建。明治十六年(1883)二月大正十二年(1923)十月覆堂は二面修繕す。右の如く解体せし覆堂に記されて有りしが恐らく文政七年以前に私達祖先が遠く京都の伏見稲荷神社より御神体を拝受して現在地より東南方約三百米に当る元積地三百三十番地百四十四坪を神域として当所は石の祠のみで分社せしものと思わる。以来向在家の守護神として鎮座し給う。大正の初期までは樹木欝蒼として神々しさを呈しており神域は前後数度に亘り氏子諸氏より隣接地の寄進ありて合計二百六十五坪となる。此の度東地区土地改良事業に依り移転を余儀なくされ現在地に神域を定め本殿を移転。覆堂及び鳥居は神域の木を伐採、建材にし新築せり。是に要せし資金の一切を土地改良事業関係者にて捻出し氏子一同一致協力工事を完成せしものなり。
 昭和四十九年四月竣功』

IMGK4092s.jpg
 社殿裏に並ぶ末社。
 右端には大國主命とあり、明治二十七年(1894)三月建立。中央の石祠はよく判らないが、天保八年(1837)六月建立。左は稲荷社ではないかと思われるが詳細不明。
IMGK4105s_20110614190143.jpg
 お地蔵様。


大きな地図で見る

 以上で6月12日参拝分終了。
 帰宅してから仙元山公園北東にある大台道祖神社を参拝し忘れていたことに気付いたが、もはや後の祭り○刀乙
 使用機材はK-7にDA21mmとDA35mm Macro、FA50mm。K10Dに50-150mm II。IXY Digital 400。

横村稲荷神社(樫合)

IMGK4020s.jpg
 常世岐姫神社から県道75号線を東へ向かって行くと、焼八と言う焼肉屋の南側に横村稲荷神社が鎮座している。
IMGK4033s.jpg
 由緒等は不明。
IMGK4042s.jpgIMGK4045s_20110614185059.jpg
 お狐様。


大きな地図で見る

常世岐姫神社(樫合)

IMGK3855s_20110613234415.jpg
 八王子神社から南下して行くと、埼玉県道75号線の脇に常世岐姫神社が鎮座している。
IMGK3873s.jpgIMGK3868s.jpg
 狛犬。
IMGK3876s_20110613234412.jpg
 鳥居。
IMGK3883s_20110613234411.jpg
 拝殿。
IMGP2219s.jpgIMGP2218s.jpg
 狛犬。
IMGK4006s.jpg
『修復之記
 敬神崇祖はわが国古来の伝統美俗である。惟うに当社は天文四年(1535)に創祀するところと伝えられ、はじめ八王子権現社として本地佛無盡意菩薩を安置した。
 爾来幾星霜村民崇仰の的として栄えるところがあったが、徳川幕府の政事衰え明治維新となるや神佛分離の掟によって八王子権現社を常世岐姫神社と改め今日に及んでいる。
 一方顧みるに社殿は草創以来茅葺のままであったが、元治元年(1864)奥宮を流造り鱗葺きとし拝殿を入母屋造り瓦葺に改めてその面目を一新し、更に昭和六年(1931)には外宇を造って奥宮を安置し以ってその社容を整えるところがあった。
 然るに昭和四十一年(1966)九月二十五日、台風二十六号襲来。風速四十米に樹齢三百有余年に及ぶ境内の大木三十数本倒木し、為に奥宮外宇は倒壊し拝殿は損傷し昔日の面影を失うに至った。
 よってここに奉賛会は大字の協賛により改修築をなすに当り、伊勢参宮者より金拾七万六千円の浄財の寄贈あり。其の芳名をここに記す。
 昭和四十二年四月吉日』


 柏合の八王子神社と関連がありそうな気がするが、微妙に噛み合わないような。こちらの常世岐姫神社は1535年で八王子神社は1688年頃だから、およそ153年程こちらが早いことになるか。八王子神社の現在の御祭神が五男三女神であることを見ると、古くは牛頭天王の八将神を祀ってたのだろうが、こちらは八王子権現と言いつつ無尽意菩薩…か。或いは、どちらも同じ無尽意菩薩を祀っていたのだが、八王子権現と称していたことから八王子神社の方は祭神が八将神と思われ、現在の五男三女神になってしまったのではないか、とも考えられるだろうか? う、うぅ~ん、無理あるなぁ。
 そもそも無尽意菩薩或いは八王子権現から何故常世岐姫と言う名前になるのかが判らない。なのでいつものようにGoogle先生にお伺いしてみると、常世岐姫神社は三国時代に燕王を称した公孫淵の子孫、或いは新羅系渡来人とされる赤染氏(宝亀八年に常世姓を賜り、以後常世氏)が信仰する神を祀った神社であり、本社は大阪府八尾市神宮寺の常世岐姫神社だが地元では八王子神社とも呼ばれているとのこと。江戸時代には神宮寺村は恩智神社の氏地に属し、この恩智神社に牛頭天王が勧請されていたことから常世岐姫神社は牛頭天王の八将神を祀る八王子社と言われたことが由来しているようだが、はて、無尽意菩薩は全然関係無いのでは? 常世岐姫と言う名前から想像されるのは幽世と常世の境にいる菊理媛命だが、白山妙理大権現の本地仏は十一面観音菩薩なのでこれまた関係無し。ググってみると、岐神は幽世と常世の境にある黄泉比良坂で伊弉諾尊が投げた杖から生まれた神であり、疫神や悪霊を防ぐ塞の神であるとのことなので、常世氏の岐神なので常世岐姫なのかななどと考えてもみたり。でもやっぱり無尽意菩薩がどこで繋がるのかがさっぱり判らない。常世岐姫命の本地仏が無尽意菩薩であるとか?…なんか違うような気がする。
IMGK3937s.jpg
 末社長屋。
 左から豊受大神宮、天照大御神、八幡大明神、天満天神宮、琴平神宮、稲荷大明神。
IMGP2214s.jpg
 末社群。
 左は不明だが、中には大黒天と恵比寿神の小さな像が置かれていた。その右は駒形神社。その右もよく判らないが、中には「阿曾美原口平馬翁霊」と刻まれた石塔。その右には「本社掌 故原口彦三郎大人霊位」と刻まれた石塔、そして石祠。
IMGK3997s_20110614020655.jpg
 左から八坂神社、天手長男神社、浅間宮。右二つは神輿殿。
IMGK3985s_20110614020840.jpg
 建築中の…なんだろう。
IMGK4014s.jpg
 拝殿と本殿覆屋。
IMGP2208s.jpg
 北東側から。


大きな地図で見る

八王子神社(柏合)

IMGK3754s.jpg
 八王子神社社号標石。
IMGP2181s.jpg
 一の鳥居。
IMGK3769s.jpg
 二の鳥居。
IMGP2197s.jpgIMGP2195s.jpg
 狛犬。
IMGP2188s.jpg
 拝殿。
IMGP2198s.jpg
『八王子神社本殿再建記念碑
 当地は古くは武蔵国藤田庄柏合村字島の上と言う地名にあり、この神社の創建は元禄時代(1688)頃である。当時は八王子明神社として祀られたと言う。現在の本殿は寛政十二年(1800)の建立である。
御祭神は
天照大御神(日、又は太陽の神様)
月読命(月、又は夜の神様)
男五神(正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
     天之菩卑能命
     天津日子根命
     活津日子根命
     熊野久須毘命
女三神(奥津島比売命
     市寸島比売命
     多岐津比売命
 当神社の由来は天照大御神と須佐之男之命に結ばれた「誓約(うけい)」に依る男五神と女三神を合わせ祀り八王子を社号とした。
その他に境内地には八坂神社・塞神社・天手長男神社・浅間神社・種痘神社が祀られている。五穀豊穣・家内安全・身体壮健等の神様として信仰が厚い。大祭は春四月十九日と秋十月十九日の年二回行われ、当地の氏子衆により「ささら獅子舞」が奉納される。
 このような歴史のある社殿も近年老朽化が甚だしく、敬神愛郷の念厚い氏子崇敬者は社殿の護持に心を砕いていた。平成十七年本殿を建て替える気運が盛り上がり、氏子の総意で建設委員会を立ち上げた。三年後の完成を目標に計画を進めた。貴重な浄財を多大に寄進して戴いたので、社殿・末社・水屋を新築。玉垣・参道を改修し境内の整備を行った。
 ここに八王子神社竣功奉祝祭の斎行をもって完成をみた。依って記念碑を建て関係者一同の芳名を刻んで永く記念とする。
 平成二十一年十月吉日』


 これを見ると八王子神以外に天照大神と月読尊も祀られているようだが、しかしこの書き方だと天照大神から生まれたのが男神五柱で月読尊から生まれたのが女神三柱であるようにも見える。と言うか、なんで素盞鳴尊ではなく月読尊なんだ。
IMGK3796s.jpg
 左は八坂神社。右の末社殿には浅間神社・天手長男神社・塞神社・種痘神社の四社が祀られている。


大きな地図で見る

天鳳神丸稲荷大神(柏合)

IMGK3718s.jpg
 地神社から南下し、居酒屋さんの前で東に折れると畑の中に稲荷神社が鎮座している。
 天鳳神丸って、なんて読むんだろう。てんほーじんまる、でいいのかな?
IMGP2175s.jpgIMGP2178s.jpg
 お狐様。
IMGK3736s.jpg
 拝殿。
IMGK3748s.jpg
 北側から。


大きな地図で見る

地神社(柏合)

IMGK3646s.jpg
 白山神社から東へ向かい、パティオ北交差点から南へ向かうと上越新幹線高架橋に差し掛かる手前に地神社が鎮座している。
IMGK3658s_20110613222621.jpgIMGK3661s.jpg
 お狐様。
IMGP2172s.jpg
 左から地神社、天神社、稲荷大明神。

『そもそも、この地に稲荷様、天神様、地神様及び弁天様が祀られた年号は不詳なるも、明治初期の土地の登録の際、既に表示せられるをみれば、この?人たちは、古く祖先よりこれら神々を祀り、この地域の守護神として崇拝せるを推察するものなり。
 爾来、子々孫々崇拝敬神の念厚く、平素の礼拝はもとより、地神様にあっては、春秋、例祭を催し、崇め奉るを以って人の道とす。
 近年に至って昭和三十年頃、土地改良事業により従来の?造三尺四方を石造とし、今日に至るも、今回土地の形態?異なることから神殿の移築をすることとなり、祭主一同相はかって、ここに木造の神殿を建立するものなり。更に、これに協賛するもの字の内外を問わず、其の数は百余名に達す。
 その祭神は稲荷様は倉稲魂尊、天神様は菅原道真公、地神様は宝登山神社、弁天様は弁財天のしてその霊験は、まことに確かなり。
 子々孫々よく心して崇拝敬神の念、怠らざるを願うものなり。
 なお、この建造に係った経費は神殿及擁壁工事等参百五拾萬円余也。
 昭和五十七年十二月二十七日』

IMGK3690s_20110613222618.jpg
 弁財天。
IMGK3703s.jpg
 石祠三基。
IMGK3639s.jpg
 北側から。

 現在、これを書くのに地図を見直していたら、地神社からおよそ100m程南東に稲荷神社があったことに気付いた。出かける前に気付いていたら……○刀乙


大きな地図で見る

白山神社(岡部)

IMGK3613s_20110613215632.jpg
 県道265号線に沿って南西に向かって行くと、白山神社が鎮座している。
 案内板等は見当たらなかったので詳細は不明。
IMGK3625s_20110613215631.jpg
 末社。
IMGK3634s.jpg
 八阪神社。


大きな地図で見る

山神社(宿根)

IMGK3568s_20110613213554.jpg
 八幡神社から北西に向かって行くと、高野山真言宗松林山正應寺の西側に山神社が鎮座している。
IMGK3574s.jpg
 拝殿。
IMGK3586s_20110613213553.jpg
『山神社改築記念碑
当社の創立は享保十四年(1729)に山の神(大山祇神)を祀る社として崇られた。当時の社地は現在地より西南方に二.五キロメートル程離れた畑地の一画にあり、明治十四年に従来の社地から当所に遷座された。
その後社殿は長い歳月を経て破損甚だしく今度伊勢皇大神宮御遷座二千年を記念し敬神の念厚い氏子崇敬者多数の寄進により大改修を行なう。
平成八年十月二十七日復元竣功遷座祭が厳かに斎行された。茲に山神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。
平成八年十月二十七日』

IMGK3580s_20110613213552.jpg
 末社と遙拝所。
IMG_3102s.jpg


大きな地図で見る

八幡神社(上野台)

IMGK3394s.jpg
 浅間神社北参道口から県道62号線を北東へ向かって行くと、交差点傍のセブンイレブン北側に八幡神社が鎮座している。
IMGK3412s_20110613200644.jpg
『神霊遷座
今ここに八幡神社御神体を御社の奥深きところに斎き奉るにあたり、衆知せるもそのあらましをしるす。八幡神社は天文十九年旧深谷城主上杉憲盛の三宿老の一人、岡谷加賀守清英公山城国石清水八幡宮を勧請し、應神天皇束帯塗金銅像を御神体と奉斎し、今の深谷市萱場清心寺の処に鎮座せしと言う。天正十八年豊臣秀吉小田原城を攻め北條氏亡ぶるに及び、関八州悉く軍門に降りて岡谷氏一族當国を退去し、徳川家康公領する所となる。幕臣大久保九郎兵衛及び遠山半左衛門の知行となりて、貞享年中鼡新田の分村により全上野台村大久保氏の所領とする所にて是より先相つぐ戦乱の為社殿甚だしく荒廃せしによりて、村民こぞりて地頭大久保九郎兵衛忠元氏に社殿復旧を嘆願せしを忠元其の実情を察知し社殿に程近き今の森下の地に社殿を営み、總鎮守として歴代領主の崇敬せしものなり。以後明治大正昭和の二十年終戦に至る間、神と共に大和民族の美風をつちかいて長き歴史を築き上げて来た我々祖先に深く感謝の意を表すものである。戦後宗教自由の立場におかれて世の状いまだ常ならぬ折、去る年三月御神体不慮の禍によりてこのたび創始時の御尊像にかたよせて氏子崇敬者奉賛のもとここに新しく神霊を遷座し、長く後世に傳うるものなり。
昭和四十年三月二十五日』

IMGP2148s.jpg
『八幡神社
 当社は深谷市上杉三宿老の一人、皿沼城主岡谷加賀守清英が榛沢郡茅場村に清心寺を開基しましたが、その鎮守として境内に八幡神社をまつりました。清英は文武両道に秀でた良将で、上杉謙信は清英の武略に感じて、後奈良天皇から賜った仏工春日作の箱根権現の像を清英に贈りました。当社は天文十九年(1550)山城国石清水八幡宮より分祀したもので、御神体は応神天皇束帯塗金銅像です。天正十八年(1590)皿沼城落城と共に当社は衰退しましたが、正徳年中(一八世紀初期)上野台村の地頭大久保家が、この地を寄進し移しました。高蒔絵定紋入り岡谷加賀守清英使用の鞍、安部摂津守鉄砲隊の種ヶ島銃が市指定文化財です』

IMGK3424s_20110613200644.jpg
 関口良隆壽蔵…とあるので、生前墓か。尤も、明治十八年に建てられたものであるようなので現在も生存されているとは考え難いが。
 寿蔵の左には摩利支尊天、右には武甕槌命。
IMGK3430s.jpg
 鳥居。
IMGK3454s_20110613203920.jpg
 二の鳥居と狛犬。
IMGK3444s.jpg
 狛犬の傍らに岡谷加賀守清英公を祀った祠。
 石祠の横の石柱には「當八幡宮創始 岡谷加賀守清英公偲祠」「加賀守十二世孫 従五位岡谷繁實大人奉配」と刻まれている。
IMGK3469s.jpg
 神楽殿。
IMGK3463s.jpg
 拝殿。
 賽銭箱と額に付けられた紋は二羽の鳩が向かい合って八の字を形作っている。他にも高波を描いた紋も使用されていた。
IMGK3475s.jpg
 稲荷社。
 横に設置されているのは八幡神社の案内板。書かれていることは先の物と殆ど同じ。
IMGK3493s.jpgIMGK3495s.jpg
 お狐さま。
IMGK3505s_20110613205328.jpg
 末社。左奥から台天白神社、天王宮、如幻庵東山稲荷。
 如幻庵東山稲荷は台座のプレートに「旧鼡下宿氏子一同 昭和五十八年三月吉日再建」と記されている。
IMGK3529s_20110613205327.jpg
 本殿裏に末社群。しかしいずれも何神社なのか不明。
IMGK3532s.jpg
 石祠の中にお地蔵様。
IMGK3553s.jpg
 左手前は天神宮。奥は不明。
IMGP2170s.jpgIMGP2167s.jpg
 浅間大神と…ナニ山?

浅間神社(人見)

IMGK3268s.jpg
 仙元山公園西口に浅間神社への入口がある。
IMGP2127s.jpg
『浅間神社
 仙元山の頂上にまつられ、祭神は木花開耶姫命ほか六神である。古来より安産守護神として遠近の人々の信仰をあつめてきた。
 この社の創立は不詳だが、この地の豪族、大夫四郎家守が境内に建てた宝篋印塔の延文二年(1357)の彫銘により、南北朝時代にはすでに存立していたと思われる。
 室町時代、この神社は人見館(上杉館)の鬼門に位置していたので、館鎮護としてまつられた。深谷城を築造した上杉房憲は、南麓に昌福寺を開基したが、四代後の氏憲もこの社を崇敬し寄進状の中の富士山とは当社のことである。
 江戸時代、元和元年徳川秀忠の近臣岡田太郎右衛門利永がこの地を領し代々この社を崇拝し、社殿などを寄進した』

IMGK3282s_20110613190146.jpg
 一の鳥居。
 額には「富士山」と彫られている。
IMGK3298s_20110613190145.jpg
 石段を上って行くと狛犬。
IMGP2137s.jpg
 二の鳥居。
 こちらの額にも「富士山」の文字が。
IMGK3319s.jpg
 参道左手側に御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神。
IMGK3325s_20110613191417.jpg
 右手側に神楽殿。
IMGK3328s_20110613190144.jpg
 拝殿。
 狛犬の台座と思われる場所に、その姿は無し。
IMGK3334s_20110613192251.jpg
 遙拝所。
IMGK3337s.jpg
 二柱神社。
『二柱神社由緒
「聖天様」の名で親しまれている二柱神社は、もと字瀧ヶ谷戸ほか大字人見内の各所に祀られていたいくつかの同名の小社を合祀して、明治四十年にこの地に遷座したものです。社名の由来は、御祭神に伊弉諾命・伊弉冉命の夫婦二柱の神を祀ったことによるもので、夫婦和睦また縁結びの神様として信仰されて来ました。二柱の神は、浅間神社の御祭神の木花開耶姫命から見て、祖父母の神様になります。
 ここに伊勢の神宮御鎮座二千年の吉き年に当り、安産等の神として長い歴史を持つ本社の浅間神社と並び、末永くこの地に栄え、氏子崇敬者の子々孫々までに御加護と御恵みを蒙りますように、社殿を新たに造り替え、由緒の概略を記すものです。
 平成八年二月十九日』

IMGK3348s.jpg
 末社。
IMGK3355s.jpg
『富士浅間神社
 当神社は仙元山の頂上にあり、木花開耶姫命ほかを祀っている。創立年代は不詳であるが。上杉氏が勧請したものといわれ、深谷上杉氏第五代房憲から第九代氏憲まで、代々の深谷城主が深く崇拝していた。
 また、当神社は古くから安産の神として近在の人々の信仰を集め、安産講の組織があった。
 安永六年(1777)に奉納された上椙藤原憲輔筆富士浅間宮扁額と、境内にある延文二年(1357)銘の珍しい宝篋印塔の塔身が、深谷市の文化財に指定されている』


 そう言えば宝篋印塔には気づかなかったな。工事中のエリアにあったのかな?
IMGK3358s.jpg
 拝殿と本殿。
IMGP2141s.jpg
 神社裏へと回ると、ビッグタートル側からのルートとの合流点辺りに石祠がぽつんと。
 なんだろう、これ。
IMGK3376s.jpg
 神社裏に回り、北へ歩いて行くと埼玉県道62号線へ続いている。ゆるやかな道であるせいか、散歩をしている人の姿が多く見られる。
IMGK3391s_20110613194406.jpg
 県道62号線に面した仙元山公園北口。

IMGK3247s.jpg
 仙元山の南麓には昌福寺が鎮座し、
IMGK3193s_20110613195111.jpg
 昌福寺の東に位置するビッグタートルとわんぱくランドの間には蒸気機関車が展示されていた。

高林神社(高林)

IMGK3190s_20110605215328.jpg
 国道354号線高林西交差点南西に位置する高林神社。
IMGK3159s_20110605215326.jpg
『祭神 豊宇気毘売神
    倉稲魂命・誉田別命・素盞鳴命・姫三柱命・市寸島姫命・豊城入彦命
    伊弉岐命・伊弉再命・入彦名命・速進雄命・菅原道真公・日本武尊命
    大名字持命・熊野忍蹈命・建御名方命・国常立命
 由来  勧請・縁起は不詳。
     伝説によれば、昔、三入稲荷の西に祠があり僻地のため後、西原稲
    荷山に遷座した。後世、浮屠汎漫、両部を唱えるに至り明暦年間に長
    勝寺境内に遷祀し、延宝八年庚申(1680)に当社を再建。暫次、拝殿
    神楽殿その他建物を設立した。王政復古(明治初期)に於ける神仏混
    合廃止に依って同寺より分離した。
     明治五年壬申(1872)に栃木県庁より村社に列せられた。
     明治六年癸酉(1873)二月、祠掌一口を置かせられた。
     明治八年乙亥(1875)四月に同県庁に請い、現在社地に、ご賦与相
    成り同年九月に至って全てを遷社した。
     従来当社は、村社稲荷神社と称したが、明治四十四年(1911)八月
    五日、管轄庁の許可を得て境内の末社、厳島姫社・稲荷社・八坂社・
    宗像社・園韓社・赤城社・榛名社・簗場の熊野社・天神の菅原社・鶴巻
    の諏訪社・西原の八幡社と向野の御嶽神社・三入の八幡宮を合祀し、
    村社高林神社と改称した。
     大正二年(1913)一月四日勅令神饌帛料指定神社と成った。
    (以下略)』
IMGK3178s.jpg
 拝殿とお狐さま。
IMGK3180s.jpg
 本殿。
IMGK3171s.jpg
 社殿南側から。
IMGK3163s_20110605215324.jpg
 八坂神社。


大きな地図で見る

 以上で6月4日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、FA50mm。K10Dに50-150mm II。

蛇喰古墳(岡)

IMGK3049s_20110605211428.jpg
 国道17号線と旧中山道の合流地点北側に位置する蛇喰古墳を南から。
IMGP2103s_20110605211426.jpg
 西から。
IMGK3070s.jpg
 直径約25m、高さ約2m程の円墳で、白山26号墳とも呼ばれているそうなのだが、名前の由来は判らないようだ。
 墳頂には一基の石祠が鎮座している。
IMGP2100s.jpg
 変わった形の石祠。放射能標識に似た図柄が刻まれているが、これが神紋なのだろうか。
 祠の中に線香が納められているのが見えるが、墓…なのかな? いや、古墳なのだから墓には違いないのだけれど。よく判らないな。
IMGK3091s_20110605211425.jpg
 北西から。
IMGK3046s_20110605211425.jpg
 古墳の近くに建てられた芭蕉句碑。17号線側を向いている。


大きな地図で見る

愛宕神社(普済寺)

IMGK2989s.jpg
 岡部小学校の南西に位置する愛宕神社古墳の墳頂に、愛宕神社が鎮座している。
IMGK2975s.jpg
『愛宕神社
 創立年代は不明であるが、岡部六弥太忠澄の信仰厚く、火防の神として崇敬されたと伝えられている。当社周辺は、往古より火難が多く、住民はこれに苦しみ、広大な山林中唯一の大塚上に愛宕明神を勧請し、火産霊命を祀ったと伝えられている。
 江戸時代にはいると、岡部藩主安部氏は当社を火防の守護神として崇敬し、陰暦七月二十四日は家来に至るまで、肉食・魚食を禁じ、氏子中においても、この日精進祭という神事を行った。
 また、当社が祀られている大塚は、愛宕神社古墳と呼ばれ、町指定文化財となっている。本古墳は、一辺三七メートルの方形をなし、高さ五メートル五○センチを測る。葺石、埴輪の有無は不明であるが、形態からして、古墳時代末期(七世紀末頃)の築造と考えられる。本古墳は、方墳という特殊な形態を有しているが、この形態の古墳は関東地方においても数少ないものである』

IMGP2085s.jpgIMGP2087s.jpg
 狛犬。
 こちらの狛犬は岡部小学校の北東に鎮座する菅原神社の狛犬と対になっている。
IMGK2967s.jpg
 如意輪観音、地蔵菩薩、青面金剛、二十二夜待塔、庚申塔。
IMGK2970s_20110605203914.jpg
 二の鳥居と石段。
IMGK3019s.jpg
 境内社。右の石祠は水神社。
IMGK3037s_20110605205647.jpg
 墳頂の拝殿。
 そばに崩れかけた石祠が見えるが、何神社なのかは不明。
IMGK3028s_20110605205645.jpg
 本殿。
IMGK2962s.jpg
 古墳西側から。
IMGK3043s.jpg
 北側から。


大きな地図で見る

熊野神社(岡)

IMGK2868s.jpg
 岡部西小学校の南側に鎮座する熊野神社。
IMGK2871s.jpg
 埼玉県道352号線から鳥居までの参道はおよそ200mほど。
IMGK2880s.jpg
『当熊野神社は速玉男尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊の三柱を祭神と仰ぎ氏子の信仰篤く古来より國造りの神と伝え継がれており神威郷土を護り殖産興業の守り神として伝えらる現世安穏・家内安全・業務繁栄・願望成就の守り神として延壽万福をお授けになりその高き御神徳を普く氏子に垂れ給い厚い信仰が今日も続いておる。
 境内には倉稲魂命を祀る荒滝稲荷神社、豊川稲荷本尊荼枳尼天尊を祀る正一位丸山稲荷宮、天満宮、秋葉神社、雷電神社、八坂神社、機織神社、地神宮、金刀比羅宮を配祀す。
 当社の創立年代不詳なるも往古より此の区鎮守として信仰古くは熊野権現社と称したるも明治七年改正により社号を熊野神社と改め氏子崇敬者の寄進により社殿改築社領購入等漸く整備し現在に至る。その後風雪百余年の歳月に社殿の損壊甚だしくこのたび氏子崇敬者多数の寄進により大改修ここに復元竣功を見る。この機にあたり崇敬者熊野大社本宮に詣で玉串を奉り神威益々昂揚に努め郷土発展を祈願す。
 昭和五十五年十一月三日』

IMGP2070s_20110605191125.jpgIMGP2071s.jpg
 狛犬。
IMGK2906s.jpg
 左奥から八坂神社、正一位丸山稲荷宮、荒滝稲荷宮、金刀比羅宮。
IMGK2888s.jpg
 拝殿。
IMGK2897s.jpg
 左から天満宮、秋葉神社、機織神社、雷電宮。
IMGK2944s.jpg
 神楽殿。
IMGK2932s.jpg
 遙拝所と地神宮。
 地神宮には天照大神、大己貴命、倉稲魂命、埴安媛命、少彦名命の名が刻まれている。


大きな地図で見る

天手長男神社(岡)

IMGK2808s.jpg
 白鬚神社から東へ向かって行くと、岡部西小学校の北側にお手長山古墳があり、その墳頂に天手長男神社が鎮座している。
IMGP2064s.jpg
『深谷市指定文化財 お手長山古墳
 指定年月日 昭和五四年四月一日
 お手長山古墳は、深谷市岡に所在する。所在地の標高は、約五四メートルであり、櫛挽台地北西部にあたる。古墳の頂部には、天手長男神社が鎮座し、古墳名称の由来ともなっている。現存する墳丘は、長軸四三・五メートル、短軸二二・五メートル、高さ三・五メートルを測る。
 後の時代の耕作等により原形は失われているが、昭和五○年の本庄高校考古学部による墳丘測量調査、昭和六三年及び平成二年の岡部町教育委員会(当時)による発掘調査等により、古墳築造当時の姿が判明した。
 調査結果によれば、古墳の規模・墳形は、後円部径三七メートル、前方部長一二・五メートル、全長四九・五メートルの帆立貝式古墳である。主軸方位はN-一一六度-Eを示す。周溝からは、土師器・須恵器等が検出されたが、古墳の時期を示す明確な遺物は少ない。ただし、古墳周辺に散乱する石室の石材(角閃石安山岩)が六世紀後半以降、頻繁に使用されるものであること、周溝等の理由から六世紀末を前後する年代が想定される。
 当古墳の北西には四十塚古墳群があり、古墳群中には、横矧板鋲留短甲・五鈴付鏡板などが出土した四十塚古墳(五世紀末)、当地域最大級の前方後円墳(全長五一メートル)である寅稲荷塚古墳が存在する。
 お手長山古墳は、これらの古墳と同様に、櫛挽台地北西部を代表する首長墓と言う事ができる。このような有力古墳の集中地帯に、七世紀後半以後は、中宿・熊野遺跡をはじめとする律令期の重要遺跡群が分布することから、古代榛沢群衙(群役所)は、古墳時代首長層の伝統的勢力基盤を継承した形で成立すると考えられる』

IMGK2845s_20110605184849.jpg
 拝殿。
 この辺りは天手長男神社が多いなぁ。
IMGK2832s_20110605184848.jpgIMGK2826s_20110605184848.jpg
 拝殿の南側と西側に石祠。しかし何神社なのかは不明。
IMGP2061s.jpg
 南西から。
IMGK2856s.jpg
 北東から。


大きな地図で見る

熊野大神社(沓掛)

IMGK2681s_20110605181323.jpg
 高崎線の踏切を越えて南西へ向かうと、熊野大神社が鎮座している。気多神社から浅間山古墳まで戻って白鬚神社を経由して来るよりそのまま南下した方が早かったんじゃないのかと気づいたのは後の祭り。
IMGK2778s.jpg
 庚申塔。右端はおそらく青面金剛。
IMGK2769s.jpg
 折れて埋もれた仙元大日神。
IMGK2775s.jpg
 車停めの脇に石祠。
IMGK2692s_20110605181320.jpg
 広い参道。
IMGP2057s.jpg
 拝殿。
 手水舎の横に沓掛熊野大神社再建記念碑が建てられている。

『幾星霜を地域住民の心の支柱として此処に崇められて来たる熊野大神社は、伊弉諾命、伊弉丹命、速国男命、事別男命の四柱を祭神として祀られてある由、新編武蔵風土記稿に記述されてある。
 遥か上代には現妙権寺の寺領として維持管理されていたが、その後、明治五年(1872)の神仏分離令に依り、同寺領を離れ、沓掛の鎮守氏神として崇拝され、往時の先人達が四季折々の祭事を司ってきた。其の祭りを通し集落社会の連帯感を深め、一つの精神文化を築いて来たのである。
 時は明治八年(1875)二月、志戸川のほとりの車屋より発生した火災の類焼を被り、神殿、拝殿悉く消失し、更に妙権寺の本堂、庫裡をも延焼し、他に民家二戸を焼き尽くした。当時、沓掛の大火と言われた痛ましき歴史を此処に残したのである。
 其の後、明治中期に先代氏子中の努力により再建復興された社殿も、悠久百余年の歳月と風雪に耐えて来たりしが、其の老朽化著しく、今や倒壊寸前の様相であった。斯かる姿を前にして敬神崇祖の念に燃え、沓掛氏子中此処に神殿建設の積立基金を成して来た。此れと共に当熊野神社保有せる基本財産等を併せ、総工費金阡参百有余万円を投じ、此処に社殿再建建設委員会を設立発足させた次第である。
 建設に当りては其の技術卓越した名工と言われる、深谷市吉田建設有限会社と、全ての建築契約を取り交わし、当年三月に着工した。
 工事進行と共に氏子の皆様には神域の環境整備その他に御協力頂き、建設委員より厚く御礼申し上げます。其れと相俟って、当社宮崎神官に依る本殿遷座式の儀式も恭しく執り行われ、沓掛氏子中永年の夢であった熊野大神社社殿の落成竣工が此処に成りたる事を区民挙げてお慶び申し上げる次第です。此れからも氏子中の前途に穏やかな至福あらん事を願うと共に、郷土沓掛の永久の繁栄を祈念し、此処にこの碑を建立する次第である。
 平成十五年十月吉日』

IMGK2714s_20110605183145.jpg
 末社群。
 左から南閣神社、稲荷神社、三峰神社、天照皇大神宮、天手長男神社、天(以下判読不能)、蚕影神社。
IMGK2740s_20110605183144.jpg
 末社群。
 疱瘡神社、雷電神社、不明。
IMGP2054s.jpg
 権現弁財天。
 側面には文政十二己丑年三月吉日とあるので1829年のもの。


大きな地図で見る
カレンダー
05 | 2011/06 | 07
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
ブログ内検索
カテゴリー
最近の記事
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
FC2カウンター
プロフィール

梁瀬

Author:梁瀬
無駄な徘徊でCO2を増やす、
方向感覚に不案内なヒト

リンク
RSSフィード