アート大黒天(神田佐久間河岸)

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 清洲橋通りと昭和通りの中間辺りに位置する柴田ビル前に大黒天。
 どうやらアート七福神と言うものの一つのようだ。神社仏閣のカテゴリーに入れて良いものかどうか少し悩んだが、ま、いいか。アート七福神の一つには神田明神の恵比寿神も含まれているみたいだし。
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 以上で7月16日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA10-17mm Fish-Eye、DA15mm、DA35mm Macro、FA50mm、FA77mm。
 この日歩いた歩数は大体3万歩ちょい。…なんだ、30箇所以上参拝した割には大して歩いてないな。
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篠塚稲荷神社(柳橋一丁目)

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 神田川に架かった浅草橋を渡り、浅草橋一丁目交差点から東へ向かって行くと十字路脇に篠塚稲荷神社が鎮座している。
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『篠塚稲荷神社社歴
御祭神 倉稲魂命
例祭日 六月初旬
御由緒
 当社の創起年代は詳らかでないが古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉りあり。
 正平年間新田義貞の家臣篠塚伊賀守重廣主家再興の祈請をなし来国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結びて出家し日夜参篭怠らず為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至った。
 延宝九年三月神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り元禄六年二月本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められたが明治初年神佛分離の際玉蔵院は廃せられた。
 古来より商売繁昌火防神として厚く尊崇奉る』

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 拝殿に貼られた紙にはもう少し詳しく書かれてはいるが、そう大きな差は無い。
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 こちらには新田義貞の前に控える栗生左衛門と篠塚伊賀守が描かれている。
 栗生左衛門を祭神とする栗生神社には参拝したことがあるが、篠塚伊賀守を祭神とする神社はあるのかな…と思ってググってみたら、群馬県藤岡市篠塚にある伊賀神社がそうであるようだ。

初音森神社(東日本橋二丁目)

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 両国郵便局の隣に建てられた初音森ビル、その前に鳥居が建てられており、階段を上って行くと初音森神社があるのだが、鳥居脇の稲荷社は末社かな?
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 昭和三十六年の総武線快速工事の際に両国郵便局横の緑地帯の土中から発掘されたと言う浅草御門の門柱。
 ちなみに浅草御門とは江戸城の北東に位置し、奥州街道口を守る要衝として浅草橋の北側に設置されていた門のこと。また、この木は浅草御門の門柱として使用されていた時で既に樹齢五百年を数えていたとされているそうだ。
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『初音森神社由緒
当神社は元弘年間(1330年頃)に創祠され、豊受比売命(宇迦之御魂神)を祀る。文明年中太田道灌公により大社殿が建てられた。当時初音之里と呼ばれ奥州街道添い樟木等の生い茂った森、すなわち後の初音の森が現在の馬喰町靖国通り交差点の辺りであった。尚この処を初音の里と稱え日本橋四之部、馬喰町、横山町はその中心に位置し、社殿建立によって付近の産土神として信仰をあつめた。天文二○年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行われ、天正日記に初音の馬場を当時の博労(馬喰)高木源兵衛預りの記録がある。徳川幕府の入府後、この所が見附番所(浅草見附門)建設にあたり境内地の半分程が削られ、更に明暦三年の大火後、その別当地(神社をお守りする寺)も関東郡代屋敷用地となり、現在本社のある墨田区千歳に替え地を拝領し遷宮。今日に及ぶ。昭和二三年旧蹟の一部であるこの所(現地)に神社を建立し、昭和四八年一二月神殿及び儀式殿を近代建築とした』

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 階段を上ると奥に鳥居と拝所。
 右側は儀式殿であるようだ。
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『名井三日月の井戸由緒
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦起るや徳川家康は下野国の小山にいたが急遽引返し初音の馬場に勢揃いし木村常陸之介を代参として初音森神社に戦勝祈願。神井の水にて一息、乗馬にもその水を呑ませて出発、大勝してかえった。後その縁故を以て神井に三日月と命名したと伝えられている。明暦三年(1657)の大火後、神社寺院の境内が幕府の用地に指定され移転する事となり初音森神社も当時下総国葛飾郡たる現在本社のある墨田区に遷宮した。旧跡は一部郡代屋敷、他は町家となり三日月の井戸も町家の庭内となった。江戸時代飲料水は順次水道になったが勿論充分ではなく、用水として井戸を掘っても飲料には不適であるため良水の井戸は有名となり、古老の話には三日月の井戸の水は水売り商人が諸々に運んで売ったものだと云う。
 此の井戸のあった家に、浮世絵師喜多川歌麿が紫廼家と名乗り住んでいたが、ある問題で歌麿が罰せられ遂に病死した。その後住んだ染物屋が有名な歌麿の屋号をつけてむらさきやとした。むらさきやは三日月の井戸を使用するにあたり、側に神祠を建て初水を供えて使用したと云う。明治にいたり水道の発達により仝二十年頃井戸は埋められたが井桁に組まれた石の井戸枠は昭和三年の区割整理迄保存され、むらさきやが移転に際し先祖よりの伝承を説明し、神祠の神鏡を当社に納めた。その神鏡は今も初音森神社に祀られている』

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 平成十五年十月に、敬宮愛子内親王殿下御誕生を奉祝して納められた名馬 三日月の像。

初音森神社(千歳二丁目)

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 TMビルの南側、西光寺の東隣に初音森神社が鎮座している。
 この時は丁度伐採作業をしていたので邪魔にならないように参拝&撮影。
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『初音森神社
 鎌倉中期に建立された神社で、江戸初期までは馬喰町初音ノ森(現在の中央区日本橋馬喰町)の鎮守でした。明暦の大火後に郡代屋敷を建設するため、この地に移されました。
 三百年以上、氏子がお参りやお祭りのために隅田川を渡って来ていました。
 昭和二十三年(1948)に、この本社とは別に、東日本橋に社が建てられました。日本一の繊維問屋街にあるため、商売繁盛の神様として信仰されていますが、長い間の習慣で、今でも本社に多くの氏子が参詣にきます』


 ところでここに描かれた地図、よく見ると初音森神社と西光寺に隣接した部分に八幡宮御旅所と書かれているのだが、現在この場所に八幡宮はない。御旅所だから、取り壊されてそれきりになっているのかな。
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 社号標石には寳録稲荷神社とあるが……あれ? 初音森神社は?
 ググってみると、どうやら初音森神社の社殿は東日本橋にあるもう一つの初音森神社の方に移されているのだそうで、こちらには境内社が残されているだけのようだ。でも本社はこちら、と。…本社なのに社殿が無いと言うのは珍しい気がするなぁ。
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 阿像のみ残った狛犬。文化九年(1812)のものであるそうだ。
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『富福稲荷神社
 當神社は舊称日本橋區通塩町の鎮守也。同町は昭和九年町名変更に依り横山町と改稱せらる。
 依て関係淺からざる當初音森神社に合祀奉る』

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 難波稲荷大明神…の、台座だけ。

稲荷神社(千歳二丁目)

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 江島杉山神社の南東に位置するTMビルの角に鎮座する祠。結び抱き稲紋があるので稲荷神社だろう。
 由緒はおろか神社の名前すら判らないのは残念だ。

江島杉山神社(千歳一丁目)

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 首都高速7号小松川線下を流れる竪川に架けられた、一之橋手前に鎮座する江島杉山神社西の鳥居。
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『江島杉山神社
 鍼術の神様・杉山和一(1610-94)が五代将軍綱吉から、ここ本所一ツ目に約一万二千平方メートルの土地を拝領し総録屋敷を建て、その西隣に弁才天の一社を建立したのが、江島杉山神社の始まりです、神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天と、杉山和一総検校が祀られています。
 和一は、現在の三重県津市の出身で幼いころに失明しましたが、江戸に出て鍼術を学び、江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。その後、京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として活躍しました。この和一の名声を聞いた綱吉は、和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました』

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 二の鳥居と拝殿。
 案内板には弁財天と杉山和一検校が祀られているとしか書かれていなかったが、公式サイトを見ると市杵島比売命と杉山和一検校の他に倉稲魂命と大国主命もお祀りされている。元々は相模から勧請した江島神社だったが、それに境内社として祭祀されてきた杉山神社を合祀したから江島杉山神社なのか、なるほど。
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 賽銭箱には波を模った円の中に三つ葉葵の御神紋。徳川家と弁天様に縁があると言うことがよく判る紋だ。
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 杉山検校頌徳碑。
 大正十三年二月十一日に正五位が追贈されたのを記念して建てられたもので、碑文が点字で記されている。
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『杉山和一と総禄屋敷跡
 所在 墨田区千歳一丁目八番二号江島杉山神社内
 ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を総括していた総禄屋敷の跡です。
 杉山和一は慶長十年(1610)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校を師事しましたが、後に京都のの鍼師入江豊明に弟子入りしました。
 厳しい修行の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい鍼管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文十年(1670)、検校に任じられました。
 さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋隣の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄六年(1693)六月のことでした。
 一町四方(約一万二千平方メートル)の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。
 平成十八年八月』

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 神橋。
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 弁天池と弁天窟。
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『岩屋重修記
當社は相州江之島江島神社の御分社にして元禄六年六月十八日五代将軍徳川綱吉公の台命にて總検校杉山和一大人創建せり。御本社に於ける信仰の根源は御霊窟なる奥宮にあり當社亦之に模して岩屋を築き寛政五年十月修理し安政大正両大震災にも被害なく昭和に至れり。然るに同二十年三月戦災の劫火には天井の石に亀裂を生じ遂に壊れ落つ。茲に於て旧牀を損せず鉄筋コンクリートにて保強し山を高く植樹を選びて風致を増し古蹟を復元す。又池は堅川より隅田川に通じ江之島の海邊に連りてゆかり深く魚鱗閃きしが今は川水汚染してその面影なく是亦昔に返さんと改修せり。依ってその由來を傳うべく之を撰す。
 昭和三十九甲辰年十一月十八日』

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 岩屋に入ると正面突き当りに杉山和一検校像。
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 杉山検校像の右側に宗像三神像。
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『宗像三姉妹像
 右、多紀理毘売命
 中、市寸嶋比売命
 左、多岐都比売命
 弁才天が主尊として祀られるようになったのは平安時代頃からと推定され、本地垂迹説による神仏混淆で日本古来の神と習合してからのようである。
 本来宇宙神ではなく水と土地の神という観念が強いから、民衆との親しみは深く希いを託し易い存在の神として人気がある。特に農業神・海上神・施福・学問・音楽・弁舌等に霊験あり。又土地の鎮主とし地主神として祀られている』

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 岩屋の奥には宇賀神が祀られている。
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『宇賀御魂神(倉稲魂命)は弁才天である。
 この功徳は五穀豊穣ばかりでなく如意宝珠の力によって希うことはことごとく叶い又福を得ることとなり、あわせて弁才天本来の能力である音楽・学問・除災までの力を授けてくださるという。即ち人の希いとしての万能の神として認めたのであるから、広く信仰されたのは当然である。
 又、宇賀御魂神は、梵語のウガヤであい、ウガヤは白蛇を意味するから弁才天が蛇に縁があるのと共通し、弁才天を龍女とみる説からも蛇で表現される。
〝人頭蛇身〟はまさに宇賀神を表す』

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 杉多稲荷神社。
 位置としては丁度岩屋の真上辺りになるのかな。
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 相方さんのいない狛犬。
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 杉多稲荷社の隣に即明庵。
 即明庵の由来を記した石碑は杉山検校頌徳碑のそばに置かれている。
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 力石。
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 南の鳥居と神輿庫。

深川神明宮(森下一丁目)

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 八名川公園前を東へ向かって行くと、深川神明宮が鎮座している。
『由来記
 今から凡そ四百年余の昔深川の地は、葦の茂る三角州で住む人も無かった。その頃深川八郎右衛門と云う人が一族を引連れこの一帯を開拓した。八郎右衛門は敬神の念篤く、崇敬する伊勢皇大神宮の御分霊を奉斎して、開拓民の福祉と当地の発展を祈願したのが深川神明宮の初めである、やがて徳川家康公が江戸に入府、慶長元年当地を巡視し八郎右衛門を召して地名を尋ねた。未だ住む人も少なく地名も無き由答えると、家康公は八郎右衛門の姓「深川」を以って地名とせよと命じた。深川の地名の起こりは、神明宮の鎮座する実に此の地なのである。
 爾来深川の地は江戸の繁栄と共に発展し、当宮も「深川総鎮守神明宮」と称えられ、多くの崇敬を集めることとなった。その間には震災戦火の大きな災禍があったが、氏子万民の赤誠を以て昭和四十三年に御社殿御造営も成り、衆庶の崇敬益々旺んである。
 今般、郷土和楽万民繁栄を祈念して御鎮座四百年祭を斎行するに当たり、今日の繁栄の礎を築いた郷土の先人に感謝し、当宮の由緒を茲に記す。
 平成九年八月吉日』

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 寿老神社と和合稲荷神社。
 和合稲荷神社には和合大神・稲荷大神・浅間大神・厳島大神・疱瘡大神・鹿嶋大神・大国大神・御嶽大神・金刀比羅大神・道祖大神・北野大神の計十一柱の神が合祀されている。
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 力石。
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 天祖神社。
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 注連柱とその奥に拝殿。
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 狛犬。

八名川稲荷神社(新大橋三丁目)

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 八名川小学校の南側に鎮座する八名川稲荷神社。
 道中、萬年橋北交差点のすぐ南に位置する神明開発の隣に箭弓稲荷神社があったのだが、屋敷神かどうか判らなかったので参拝しなかったのだが、ググってみたところではどうやら屋敷神ではなかったようだ。ちぇー、それなら参拝してくれば良かった。
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 鳥居。境内側から。
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 社殿。

正木稲荷神社(常盤一丁目)

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 芭蕉稲荷神社からおよそ30m程西側に鎮座する正木稲荷神社。
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 お狐さま。
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 社号標石と由来碑。
『正木稲荷の由来
 かつて深川元町万年橋北側に柾木の大樹あり。この樹にほど近い隅田川の中州上に当社「正一位稲荷大明神」存す。
 時の移る中、大樹朽ち、当社も幾多の変遷を経るが、当社古くから「腫物に効くおできの神様」との名高く、寛政十年、明和六年の文記にも当社の名が見られ、文政十年六月十六日には曲亭馬琴の妻女お百も「腫物平癒」の願かけに参詣の記録あり。昭和初期の祭礼には下町情緒豊かに、花柳界の「キレイドコロ」が人力車を連ね大変賑わっていた。
  ぴいぴいも売れる柾木の御縁日
  陸奥米の籾の間に稲の神
  柾木のぴいぴい吹きながら野掛也
 と当社を読む句も残っている。
 戦災後、先代三木常正宮司はじめ地元秋田勝三郎、飯田源次郎、塙善之助各氏世話人となり社殿復興す。そして平成二年の今日玉垣御社殿改修に際し、崇敬者の賛同を得て現状の整備を成す。
 平成二年五月吉日建之』

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『正木稲荷由来
 近年柾木稲荷が正木稲荷に改められ、祭神は宇迦魂命と応神天皇を祭り、例祭は毎年二月初午の日である。
 創立は年代不詳、江戸時代古くより当社はあったようである。為永春水著「梅暦」の挿絵に当社が描かれ、奉納の幟に「柾木稲荷大明神 天宝五年(1834)二月初午等」と書かれ名の知れた稲荷社であった。
 当社は江戸切絵図「本所深川絵図」に「マサキイナリ」と記載されている。この絵図は文久二年(1862)版である。また江戸名所図絵では「真先稲荷明神社」とも称されている。江戸には稲荷社もっとも多く、この絵図には著名な稲荷社だけが記されている。当社はその一つであった。
 昔は柾木の大木があったので、この社名がつけられた。隅田川から小名木川へ入る目標として尊重されていた。また子供が柾木の葉を丸めてピーピー鳴らしていたのである。またその葉が腫れ物によくきいたともいわれている。その祈願には全快迄「ソバ」を断ち、全快すれば「そば」を献じて奉賽する信仰があった。
 柾木(柾)はニシキギ科の常緑低木で、高さ三メートル、海岸近くに多く育ち庭木生垣用になり、葉は厚く滑らか、長楕円形、六月頃淡緑色の円弁花をたくさんつける。実は球形、開いて赤色の種子をだす。
 小名木川の水路は行徳(千葉)の塩を直線コースで江戸に運ぶため天正十八年(1590)水路が開かれ、江戸が世界一の人口になるにつれ重要な河川となり、寛永六年(1629)現在の河幅に開削され、船舶取り締りのため当社の隣に船番所が設置された。寛文元年(1661)船番所は大島九丁目の小名木川と中山の交査する場所に明治維新まで置かれた。
 また当所の近くに芭蕉庵があって大正十年十一月東京府が芭蕉翁古池の跡とし旧跡に指定した。しかし昭和五十六年この旧跡は芭蕉記念館に移転した。
 江東区の地図にも当社は記載されており、昔より町内持(維持経営)である』

芭蕉稲荷神社(常盤一丁目)

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 小名木川に架かった萬年橋を渡ると、左手側に芭蕉稲荷神社が鎮座している。
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 お狐さま。
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『深川芭蕉庵旧地の由来
 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて消滅してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺跡保存会が昭和三十年復旧に尽した。
 しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
 昭和五十六年三月吉日』

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 社殿。
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 芭蕉庵跡碑。
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 遠景。

三穂道別稲荷神社(清澄三丁目)

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 深川稲荷神社から東へ向かうと清澄内科医院の北側に三穂道別(みつほみちわけ)稲荷神社が鎮座している。
 詳細不明につきググってみるも、さっぱりだ。社号標石の側面には「昭和四十年四月吉日 昭和五十三年八月吉日再建」と刻まれているが、これは昭和四十年創建と言うことなのかな。それとも社号標石の建てられたのがその年なのだろうか。
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 神明鳥居。額の側面には昭和四十三年八月吉日と記されている。
 それにしても、参道めっさ狭い。
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 覆い屋と祠。
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 お狐さま。

深川稲荷神社(清澄二丁目)

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 エーデルワイス・ミュージアム前から東へ向かって行くと、十字路脇に深川稲荷神社が鎮座している。
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『深川稲荷神社(布袋尊)
由来
 深川稲荷神社は、寛永七年(1630)の創建と伝えられています。
 以前は、旧町名の西大工町にちなんで俗に西大稲荷と呼ばれていました。関東大震災(1923)の後の区画整理により町名が変更し、昭和二十七年頃から深川稲荷神社となりました。
 深川七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています』

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 二の鳥居と社殿。
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『明治百年記念
 深川稲荷神社は祭神宇賀魂命にて。寛永七年の創立にして当町会の地域が古い町であることを示している。大正十二年の大震災後の区画整理により町名が一変した。清住町西大工町伊勢崎町の各一部を合併して清澄町二丁目が出来た。清住町は寛永六年弥兵衛という人が開発し弥兵衛町と称したが、元禄八年清住町と改めた。西大工町は慶長のころ海辺新田といい、小名木川の河港として栄えたところで舟大工が多く住んでいたので深川海辺大工町とも称されたが明治六年西大工町と改められた。伊勢崎町は元木場の一部で神田京橋の材木商の貯木場であり又川舟組の住居もあった。当町の半分は幕末まで久世大和守の屋敷であった。明治初年頃には近代郵便制度の創始者前島密が住んでいた。明治十三年岩崎弥太郎がこの地を入手して深川親睦園を造り名園とした。之が現在の清澄庭園である。大震災後当町に属する所は埋立られ市街地となった。現在三野村合名会社の附近は幕末から明治初年三井家の代表として財界に活躍した三野村利左ヱ門が住んだ邸宅の跡である。中村学園は中村清蔵が明治三十八年小名木川畔に開校し明治時代深川に於ける女子教育の唯一の学校で大震災後当地に移転した。ここに明治百年を記念して当町の沿革を記し早くから発展してきた由緒ある町であることを伝えるものである。
 昭和四十三年十一月』

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 お狐さま。
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 布袋尊。
 …なんだろう、このミョーにむかつく表情は。

大黒稲荷大明神(清澄一丁目)

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 清洲橋を渡り、エーデルワイス・ミュージアム脇…と言うかここ駐輪場か? ともあれそこに鎮座する大黒稲荷大明神。
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 祠の隣の石には昭和二十三年四月吉日とある。
 ググってみても詳細不明。
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 お狐さま。

金刀比羅宮(日本橋中洲)

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 清洲橋通りを南下し、首都高速6号向島線下をくぐると交差点脇に金刀比羅宮が鎮座している。
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『記念碑
 中洲は江戸時代隅田川の浮洲なりしを明治初年に埋立て此の地に船玉琴平宮が祀られ産業振興の神として広く崇められたり。しかし惜しくも大正十二年関東大震災の為に烏有に帰し再建の機運に至らざりし所、湯浅勘次郎氏の夢枕が機縁となり同志相諮り此の地を卜して四国琴平宮の御霊を遷座奉祀し広く繁栄の守護神として茲に建立し奉る。
 昭和二十九年十二月吉日』

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 祠。
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 狛犬。
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 慈愛地蔵尊。
 こちらのお地蔵様の説明は無かったので、どういった由来があるのかは不明。

大廣神社(日本橋浜町三丁目)

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 水天宮は人が多そうなのでスルーして、日本橋浜町郵便局の北東に位置する大廣神社へ。
 近くには松島神社に元徳稲荷神社、浜町神社があったのだが、事前チェックの際に気付かず、参拝コースから漏れていた○刀乙
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 社号標石兼合祀記念碑。
 大橋稲荷神社と末廣稲荷神社を合祀して、昭和四十二年十月に大廣神社と改称したようだ。が、背面には昭和二十七年五月吉日再建とも刻まれている。
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 二の鳥居と祠。
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 お狐さま。

茶ノ木神社(日本橋人形町一丁目)

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 水天宮前交差点よりやや北西に位置する茶ノ木神社。
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『茶ノ木神社(布袋尊)
「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
 昔この土地は徳川時代約三千坪に及ぶ下総佐倉の城主大老堀田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。
 社の周囲に巡らされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、芝と茶の木の緑が見事であったと伝えられている。
 その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年一回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
 また、新たに昭和六○年布袋尊を御遷座合祀申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
 布袋尊は実在した中国唐代の禅僧で、阿弥陀菩薩の化身といわれている。福徳円満の相が喜ばれ、世の清濁を併せ呑む大きな腹をして袋の中にいっぱいの宝物を入れ、人々に福運大願を成就させる和合成就の神様として崇められている』

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 お狐さま。

銀杏八幡宮(日本橋蛎殻町一丁目)

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 新大橋通りの蛎殻町交差点傍に鎮座する銀杏八幡宮と銀杏稲荷神社。
 こちらも由緒書きが無いのでググってみると、旧福井藩常盤橋松平氏の屋敷神として祀られ、松平氏は無論のこと家臣らの崇敬もきわめて篤く、武運長久・家運繁栄を祈願されその霊験あらたかであったが明治維新を迎え、松平家の領地に居住する蛎殻町民の熱心な信仰から、いつとなくこの地の鎮守産土神となったのだと言う。また、八幡宮を祀る神社は中央区ではこちらが唯一の存在であるとのことなのだが…鐵砲洲稲荷神社に八幡宮あったよなぁ、摂社だけど。
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 八幡宮正面。
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 八幡宮と稲荷社。
 鳥居から見れば正面に稲荷社があり、八幡宮があるのは参道脇の上に境内の端と言う不思議な配置。どうやら稲荷社の方が八幡宮より古いそうなので、もしかしたら古くは稲荷社が本宮で八幡宮が摂社だった…? いやいや、関東大震災後に再建されたのだから、そうとは限らないか。
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 前列のお狐さま。
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 後列のお狐さま。

小網神社(日本橋小網町)

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 住生日本橋小網町ビルの西側に鎮座する小網神社。
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『小網神社
 所在地 中央区日本橋小網町16-23
 社伝によれば、当社は小網山万福時を別当時として、室町時代中期、当地に祀られた稲荷社に起源するという。稲荷社は、明治時代初めの神仏分離令により、小網神社と称し、東堀留の河岸地の一画であった現在地を社地と定めた。そして現在、小網町及び人形町の一部の氏神として、また東京下町に広く信仰を集めている。
 境内には、昭和四年(1929)の造営による社殿及び神楽殿が残っている。社殿は伝統的な神社建築の形式を備え、向拝には優れた技法による昇り龍・降り龍・獅子・ばく・鳳凰等の彫刻がほどこされている。また道路際に建つ神楽殿は、五角形という特殊な平面形態を持つ。この社殿及び神楽殿は、中央区に現存する数少ない木造の神社建築として、棟札の造営に関係する史料とともに中央区民文化財に登録されている。
 平成三年四月』

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『武蔵国古社 小網神社の概要
由緒
 当神社は、伊勢神宮を本宗として、文正元年(1466)今より約五五○年ほど前に、商売繁盛、疫病鎮静の神として鎮座した。
 初めは、小網山稲荷院万福寿寺を別当寺とした稲荷神社であった。その後昭和初期までは、小網稲荷神社と号し、江戸時代から稲荷堀稲荷(とうかんぼりいなり)とも称されていた。その後太田道灌は、当社への崇敬篤く、時折参拝し、社地を奉じ、社殿を造営したといわれる。社名も公の命名によると伝えられる。
 さて、戦時下では、当社の「強運厄除守」を奉戴した者の多くが、戦地より無事帰還したことから、都内は勿論、各地より強運厄除の御神徳を戴き、自らの運を強め、豊かで明るい生活を求める参拝者で賑わう。
主な御祭神と御神徳
 倉稲魂命(稲荷大神) 商売繁盛・招福開運・強運厄除
 市杵島姫命(辨財天) 商売繁盛・招福開運・学芸成就
 福禄寿          商売繁盛・招福開運・延命長寿』

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 銭洗いの水。
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 狛犬。
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 拝殿。

 山王日枝神社から小網神社に向かう途中、証券取引所前を通るのだが、東京証券取引所の傍北西側に兜神社があったのね。チェック漏れしていたわ…○刀乙

山王日枝神社(日本橋茅場町一丁目)

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 茅場町交差点北東に鎮座する山王日枝神社。
 こちらは千代田区永田町にある日枝神社の摂社・御旅所であり、天正十八年(1590)に徳川家康が江戸入府し、日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを始まりとして、寛永年間に現社地が御旅所に定められたのだそうだ。
 御祭神は大山咋神・国常立神・伊弉冉神・足仲彦神で、昭和三年(1928)に境内末社の北野神社・稲荷神社・浅間神社を本殿に合祀したとのこと。
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 鳥居。
 奥には「摂社 日枝神社」と刻まれた社号標石が建てられているが、これは大正四年(1945)に本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされたことによるのだそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 明徳稲荷神社。
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 明徳稲荷神社正面鳥居。
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 明徳稲荷神社由来碑と大部芳之助氏顕彰碑。
『宗教法人明徳稲荷神社由来
 元禄の頃より南茅場町(現茅場町一丁目)の稲荷社として現六番地附近に鎮座し、明治十八年回禄の災後は社殿神楽殿再築せられ、町内睦組方々により日枝摂社、薬師堂と共に江戸の御縁日の情緒豊かに霊験崇かなり。大正十二年関東大震災後小宇再建間もなく区画整理にて十四番地(十四坪六合)の換地に社宇再建せられたるも昭和二十年三月戦火に依り烏有に帰せしにより、当時の責任役員、岡本保之助、遠藤金之助、深澤常蔵、近藤喜代二、遠藤正喜の五氏に依り審議の結果再建する事となり昭和二十四年社殿も復興し益々社運の御隆盛を見るに至れり。然るに偶々東京証券会館建設に当り神社御遷座の懇請を受けたるも、将来神社の繁栄並に町発展を考慮して数ヵ年に亘り、之を広く相諮り御遷座地の選定に慎重を期したるところ、責任役員代表町会長大部芳之助氏が知人小澤猛氏の熟知大阪精糖株式会社所有地(二十九坪五合三勺)が日枝摂社の神域に連らなり代替地として最適地と大部氏之れを認め、責任役員、総代並に町会員全員の賛成を得て、早速東京証券取引所に交渉開始再三協議の結果、昭和三十八年六月再建を完了し荘厳なる遷座式典等滞りなく挙行せられ今日の厳粛なる神苑の完成を見るに至れり。
 尚翁稲荷神社は摂社境内に鎮座しあり一時喜可久氏庭内に預りしも後明徳社に合祀鎮座申し上く。
 祇園稲荷神社は震災前に町内に鎮座せられるのに依り、責任役員、総代会に諮り翁社共々合祀申し上げ現在に至る』

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 明徳稲荷神社社殿。
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 お狐さま。
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 山王日枝神社裏手に位置する智泉院の地蔵尊。
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 智泉院境内に置かれた猿のような石像。猿は山王権現の使いとされているのでおかしくはないが、何故山王日枝神社境内ではなくこちらなのだろう。
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大原稲荷神社(日本橋兜町)

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 警視庁中央警察署前に鎮座する大原稲荷神社。
 これまた詳細不明につきググってみると…御祭神が倉稲魂命であると言うことと兜町の鎮守神であると言うこと以外は不明のまま。
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 社殿の裏に百度石と…お狐さま?
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 溶岩らしき塚の頂には「天一位大原稲荷神社」と刻まれた社号標石が。

新川大神宮(新川一丁目)

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 湊橋を渡り、新川一丁目交差点から南へ向かうと新川大神宮が鎮座している。
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 狛犬はいないが、どっしりとした石燈籠がある。
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『新川大神宮再建由来誌
 新川大神宮の由来は、伊勢内宮の社僧慶光院所蔵古文書「慶光院由緒」並に江戸名所図絵に詳しい。
 当宮は慶光院周清上人が寛永二年(1625)徳川二代将軍から江戸代官町に屋敷を賜り、邸内に伊勢両宮の遙拝所を設けられたのに始まり、其後明暦三年(1657)江戸の大火で類焼したので、この年替地を霊岸島に賜り社殿を造営、以来実に三百年を経た。
 爾来当地は河村瑞軒が隅田川に通ずる水路を開いて舟揖の便に利するに至って新川と称し、当宮を中心として酒問屋櫛比し殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となった。
 当宮は夙に当地産土神として庶民の崇敬を聚め、特に酒問屋の信仰篤く、毎年新酒が着くとこれが初穂を神前に献じ、然る後初めて販売に供した。
 明治維新により幕府の庇護が絶えてからは専ら酒問屋の守護神として崇敬厚く奉齋し来ったが、昭和二十年(1945)三月九日の戦災に罹り社殿を烏有に帰した。
 その後、新川も戦災焦土で埋め旧態を失ったが、再び往時の繁栄を恢復しつつあるのは全く当宮御神威の賜ものである。
 偶々昭和二十七年(1952)が講和条約発効独立恢復の年に当る故を以って、酒問屋有志は深く当宮の御神徳を景仰し感激措く能わず、即ち社殿の再建を発起し、洽く協賛を全国同業者に求めて同年五月七日地鎮祭、九月五日上棟祭、十月十七日竣功遷宮並に例大祭を執行、聊か神慮に応え奉り、敬神崇祖の微衷を捧げた次第である。
 茲に当宮再建の由来を記し、同業協賛の美挙を乗せて後世に伝えるものである。
 昭和二十七年十月十七日』

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 天祖神社と刻まれているが、形的には注連柱のようにも見える。
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 拝殿。
 伊勢両宮の遙拝所が始まりということだから、御祭神は天照大神と豊受大神だろう。
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 境内端に何故か置かれている狸の置物。

高尾稲荷神社(日本橋箱崎町)

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 永代橋西交差点の北、日本橋川に架けられた豊海橋を渡って道なりに歩くとリバー&タワーマンションの西側に高尾稲荷神社が鎮座している。
 そして何故か朱塗りの神明鳥居。
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『高尾稲荷社の由来
 万治二年十二月(1659)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない全盛をほこったといわれる。
 生国は野州塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。
 その高尾が仙台藩主伊達綱宗侯に寵愛され大金をつんで身請けされたが、彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを買って隅田川の三又(現在の中洲)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に捨てられた。
 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え居合わせた僧が引揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊高尾大明神を祀り高尾稲荷にしたのが当社の起縁である。
 現在この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
 江戸時代より引きつづき、昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、縁日には露天なども出て栄えていた。

懸願と御神徳
 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
 懸願にあたり、この社より櫛一枚借りうけ、朝夕高尾稲荷大明神と祈り、懸願成就ののち他に櫛一枚そえて奉納する習しが昔から伝わっております。

 高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
  「君は今 駒形あたり 時鳥」
 辞世の句
  「寒風に もろくも朽つる 紅葉かな」
 昭和五十一年三月』

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 覆い屋の中に本殿。

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 高尾稲荷より200m程北西に位置する湊橋傍に立てられた案内板。
『高尾稲荷社について
今より約三百二十一年の昔、万治二年十二月皇紀二阡三百十九年(1659)隅田川三又、現在の中洲あたりにおいて仙台侯伊達綱宗により遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の遊女高尾太夫(二代目高尾野州塩原の出)の遺体がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川岸旧東神倉庫、今の三井倉庫敷地内に稲荷社として祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象となりかなり栄えておりましたが明治維新 明治五年当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ、最初の日本銀行開拓庁永代税務署等が建設により高尾稲荷社は只今の所に移動しおとづれる人もおおかったが、昭和二十年三月二十日戦災により社殿は焼失いたし時代と共に一般よりわすれられ年々と御参詣人も少なくなってしまいました。時折町名変更につき当町会名保存と郷土を見なをそうとの意思より高尾稲荷社を昭和五十年三月再建工事の折り、旧社殿下より高尾太夫の実物の頭骸骨壺が発掘せられ、江戸時代初期の重要な史跡史料として見直されることになり数少ない郷土史の史料を守るため今後共皆様のご協力をお願い申し上げます』

渡海稲荷神社(新川一丁目)

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 金刀比羅神社から東へ向かい、隅田川沿いに北上して行くと、区立新川公園北側に渡海稲荷神社が鎮座して……あぇ?
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 どうやらこの建物の中に納められているようだ。ところで渡海稲荷って「とかいいなり」と読むのか「わたるみいなり」と読むのか、どうなんだろう。
 ググってみたところ、宝永元年(1704)明治初年上地、一部共有地となり改めて二十二坪を無料借地。戦後米軍に接収されるも後に再建されたとのことだが、詳しいことは判らなかった。
 名前から察するに、何処からか漂着した稲荷社を祀っているのか、或いは渡来人の建立した稲荷社なのかと言ったところだろうか? 他にも海運守護の稲荷社と言う可能性もあるか。平安時代には渡海船と呼ばれる小型の木造船に僧侶が乗り込み、南方海上にあるとされた補陀洛浄土を目指して船出する補陀落渡海と言う宗教的実践行…と言うか捨身行(身を捨てることで神仏となる修行法)があり、これは江戸時代には僧侶の遺体を渡海船に乗せて海に流す水葬式になったとされているが、補陀落渡海が行われたのは主に南方で、この辺りではそう言うことは無かったようなので、これは関係無いかも。

金刀比羅神社(新川二丁目)

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 於岩稲荷田宮神社の裏手と言うか北東側に鎮座する金刀比羅神社。
 こちらもまた由緒書きが見当たらないのでググってみると、天保年間(1830-44)に香川県の本宮より武蔵国山岡吉右衛門邸に勧請され、明治八年(1875)十月に松平越前守下屋敷跡である当地へ遷座。東京大空襲により社殿を焼失したが、昭和二十三年(1948)に社殿を再建、その後昭和四十一年(1966)に鳥居と玉垣が新設されたとのこと。
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於岩稲荷田宮神社(新川二丁目)

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 徳船稲荷神社から北東へ向かって行くと、中央新川二郵便局の西側に於岩稲荷田宮神社が鎮座している。
 元々は、先週参拝した新宿区左門町にあったものが明治十二年(1879)にこちらに遷座し、昭和二十年(1945)の戦災で焼失した後に新川二丁目と左門町の両方に再建されたのでどちらが本社なのか少々判り難いが、こちらが本社で合っていた筈。
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 鳥居前にお狐さま。
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 鳥居と拝殿。
 左門町の於岩稲荷田宮神社は明神鳥居だったが、こちらは神明鳥居だ。また、こちらの神幕にも田宮家の家紋とされる陰陽勾玉巴紋が描かれていた。
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 お狐さま。
 左は普通だが、右の表情はなんと言うか、その……うぬぅ。
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 右手側に進むと、こちらにも神明鳥居。
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『於岩稲荷田宮神社の鳥居・百度石
 所在地 中央区新川2-25-11
 於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、文政八年(1825)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、お岩の伝承を持つ神社です。社地は歌舞伎俳優の初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係の人々の参詣で賑わいました。
 境内の本殿横にある石造の鳥居は明治三十年(1897)一月に造立されました。花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では二番目に古い鳥居です。鳥居の形式は「神明鳥居」に属し、柱下部には断面が花形の根巻と四角い台座が付いています。
 鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石塔です。中央区内に現存する百度石のうちでは最古のものです。左側面には「大阪浪花座興行記念 四代目市川左団次」と刻しており、市川左団次がお岩の上演を記念して奉納したものです。戦前・戦後を経て、現在もこの百度石でお百度参りを祈願する人も少なくなく、庶民の信仰とともに生きています。
 鳥居・百度石は共に中央区民有形文化財に登録されています。
 平成十一年三月』

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 百度石。
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 百度石から右手側奥にお岩稲荷。
 とすると、先程の拝殿は於岩さんが信仰していたと言う稲荷神社の方になるのかな。

徳船稲荷神社(新川二丁目)

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 湊一丁目交差点から東へ向かい、南高橋を渡るとすぐに徳船稲荷神社が鎮座している。
 背後には隅田川から分かれた亀島川が流れており、周囲の木陰もあってか涼しい風が気持ち良い。
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『徳船稲荷神社縁起
 徳川期この地新川は、越前松平家の下屋敷が三方掘割に囲われ、広大に構えていた(旧町名越前堀はこれに由来する)。その中に小さな稲荷が祀られていたと言う。御神体は徳川家の遊船の舳を切って彫られたものと伝えられる。
 明暦三年(1657)、世に云う振袖火事はこの地にも及んだが御神体はあわや類焼の寸前難を免れ、大正十一年に至るまで土地の恵比須稲荷に安置された。関東大震災では再度救出され、昭和六年隅田川畔(現中央大橋北詰辺り)に社を復活し町の守護神として鎮座したが、戦災で全焼。昭和二十九年同処に再現のあと平成三年中央大橋架橋工事のため、この地に遷座となる。
 例祭は、十一月十五日である』

鐵砲洲稲荷神社(湊一丁目)

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 日比谷稲荷神社から南へ下って行くと、湊一丁目交差点そばに鐵砲洲稲荷神社が鎮座している。
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 狛犬。
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『鐵砲洲稲荷神社
 所在地 中央区湊1-6-7
 鐵砲洲稲荷神社は、江戸湊の入口に鎮座する神社として、地域の人々の信仰を集めてきました。
 神社は、寛永元年(1624)頃、稲荷橋南東詰に遷りましたが、明治元年(1868)現在地に移転し、今日に至っています。
 関東大震災より被害を受けた境内は昭和十年(1935)より復興、整備され、正面中央奥に社殿、左手に神楽殿と摂社八幡宮、右手に社務所と手水舎が向い合うように配置され、境内西南隅には神輿庫が設けられています。また、西北隅には富士山の溶岩で築いた富士塚があり、そこを富士信仰の場としていました。むかしの富士塚は「江戸名所図会」にも描かれた有名なものでした。
 境内は昭和初期の神社建築とその配置の有様をよく伝えており、また、富士塚も区内唯一の富士信仰の名残をよくとどめている点から、共に中央区民文化財に登録されています。
 平成五年三月』

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『京橋地区の生成並に鐵砲洲稲荷神社御由緒
 鐵砲洲の地は、徳川家康入府の頃は、既に鐵砲の形をした南北凡そ八丁の細長い川口の島であり、今の湊町や東部明石町の部分が之に相当します。寛永の頃は此処で大砲の射撃演習をしていたので、此の名が生まれたとも伝えられています。昔の海岸線は現在のものより遥かに奥まったものであて、八町堀の掘られたのが慶長十七年であり、京橋あたりの土地形成が、天文の頃、足利義輝の治世になっていますが、之等京橋地区一帯の土地生成の産土の神こそ、現在の鐵砲洲稲荷神社の「生成大神」であります。
 遠く平安時代初期の人皇第五十四代仁明天皇の承和八年(皇紀千五百一年・西暦八百四十一年)に年来打続く凶作に教えられる所あって、此の土地の住民達が、自らの産土の国魂神を祀り万有の生命を生かし成し給う大御親生成の大神として、仰いでその神恩を感謝し奉り、日常の御守護を祈願致しました。所が此の御鎮座の地が、当時の東京湾の最も奥に位置していました為に、港として諸船舶の出入繁く、霊験のあらたかなる神徳と相まって当然の結果として船乗人の崇敬が頗る厚くなりました。その後埋立が進行して、現在の京橋のあたりへ御遷座となり、更に室町末期の大永年中に氏子崇敬者達の願望によって、又新しい海岸へ遷座し奉って、八町堀稲荷神社と称しました。今の新京橋の近くであります。所が更にその後年にも埋立が進行して海岸が東方へ移りましたので、寛永元年には南八町堀地続きとなった鐵砲洲に生成大神を御遷座申し上げ、従来から鐵砲洲御鎮座の八幡神社を摂社とし、以って今日の鐵砲洲稲荷神社の基礎を築かれました。此の時代を通じて江戸で消費する米、塩、薪炭を始め、大抵の物資は悉く此の鐵砲洲の湊へ入って来ました為に、大江戸の海の玄関に位置する此の鐵砲洲に御鎮座のいなり大神は、船員達の海上守護の神としても崇敬されました。港が横浜や芝浦に移転してしまった現在でもなお、特殊神事冬至開運祈願祭に授与する「金銀富貴」の神札等は、全国的に篤く崇敬されて、諸々方々の人々から拝戴されています。抑も此の神札は、此の土地の氏子達は勿論のこと、全人類をして悉く、「富み且つ貴からしめたい」との御神慮に基くものであります。
 さて、我等は如何にして富み且つ貴くなる事が出来るかと言うに、それには各自悉くが自分の親を大切にして先祖を供養し、子孫の為に善根を培って行けば、人も自分も、先祖も子孫も、此の世にも彼の世にもみんな救われて永遠の生命に生きることが出来ます。また天地生成の恵みに感謝し、人のお蔭様に報恩の誠を捧げて行けば、必ず富み且つ貴い運命を開く事が出来ます。此の運命開拓の御催促と共に、力の不足に対する、力の本源である大御親神から愛子への愛の御力添えが、此の金銀富貴の神札であります』

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 拝殿。
 公式サイトを見ると、こちらの御祭神は稚産霊神と豊受比売神、宇迦之御魂神となっているので、この三柱の神々で生成大神なのだろう。
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 鳥居脇ののへ~んとした狛犬とは対照的に、マッシヴな狛犬。
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 百度石。
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 神楽殿。
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 二宮尊徳像。
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 摂社八幡宮。
 中には八幡神社・豊玉稲荷社・五社稲荷社、他に天満社・恵比壽社・大國社、浅間社・三輪社・御嶽社・小御嶽社・鹿島社・粟島社・香取社、琴平神社・宮比社・大鳥社、住吉社・水神社・熊野社・春日社・船玉社・厳嶋社が合祀されている。
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 針塚。
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 力石。
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 富士塚の頂に鐵砲洲浅間神社。
 塚の周囲を工事中なのか、参道に設けられた柵が閉じられており、近付く事はできなかった。
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 塚の中腹にも祠があるが、こちらはなんだろう?
 狛犬の他に狐らしきものも見えるが、稲荷社なのだろうか。

日比谷稲荷神社(八丁堀三丁目)

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 八丁堀駅の北東、亀島川畔に鎮座する日比谷稲荷神社。
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 お狐さま。
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『日比谷稲荷神社御由緒
 日比谷は、元々江戸海岸の入江であって、ヒビを立てて海苔を採っていたので「ヒビ谷」と称しました。長禄元年に、太田道灌が江戸城を築いた時、天地の恵みに感謝して、生命の根である稲霊神を祭るため、城外日比谷の海岸(現在の日比谷公園の土地)に、御社殿を建てたのが、此の日比谷稲荷神社の始まりであります。
 天正十八年(1590)より慶長七年(1602)に至る十三年間は、徳川家康が、江戸城の主として、関東太守でありましたが、慶長八年二月十二日、天皇より征夷大将軍に任ぜられると、江戸城は、一躍天下の主城としての大拡張工事を始めることになりました。
 慶長十一年(1606)に、日比谷稲荷神社の所に、江戸城日比谷御門が建設されることになった為に、代替地を芝口に賜って移転したのが、現在の新橋四丁目十三番地(更に平成二十一年に東新橋二丁目一番地一号に移転)の日比谷神社であります。
 然し、どうしても海岸に祀られないと困る崇敬者の人々は、日比谷稲荷大神を戴いて、八丁堀先の干潟を埋築し、そこに御社殿を造営して、御神霊を御遷座申し上げたのが、当神社、日比谷稲荷神社であります。
 日比谷稲荷神社は、此の新しい土地の地主神として、丁寧に祭祀されていたので、此の一角は、永い間に亘って、日比谷町と公称されていました。
 東京都公文書館所蔵の、「明治十二年神社明細帳」には、──無格社日比谷稲荷神社は、明治六年(1873)一月七日の日付で、所在地は、武蔵国豊島郡京橋区日比谷町一番地河岸境内二十五坪三合除地──となっています。
 大正十二年九月一日の大震災後の区劃整理で、日比谷町は、隣接の幸町、長沢町等と合併の上、八丁堀三丁目と呼ばれました。また、大東亜戦争終戦後は、住居表示改正で、西八丁堀三丁目を合併した。今日の八丁堀三丁目の一部となりました。然し、旧日比谷町に当る一区劃の地主の神は、変ることなく、今も昔も、此の日比谷稲荷神社であります。
 往古、日比谷の海岸に在った頃、旅人御守護に霊験が篤かったので、江戸へ来た人々が、多く当日比谷稲荷神社に泊って、お参りしたので、これを「旅泊稲荷」とも唱え、「さばいなり」と読んでいました。
 後に、虫歯に苦しむ人は、鯖絶ちをして、日比谷神社に祈って、よく助かったというので、鯖を供えてお礼詣りする人が頗る多くなりました。そこで、此の意味からも「さばいなり」と通称され、鯖の絵馬、扁額が社殿に多く掲げられるようになりました。
 然し、最初の御鎮座の時の精神が、天の光、地の恵みに対する感謝の誠心をあらわすことにありましたように、今でも、此の旧日比谷町に住み且つ事業を営む人達が、御守護を受けている地主神としての日比谷稲荷神社を拝んで、天地の御恵みに感謝し、家庭では、各自の親先祖を大切にして、暴飲暴食を戒めてゆけば、必ず必ず、天地の御守護に感激する。開運の人となることが出来るのであります。
 平成十八年十二月吉日』


 ちなみに東新橋の日比谷神社はこちら

鳥居稲荷神社(日本橋兜町)

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 天祖神社から北東へ歩いて行くと、八洲器材北東側に鳥居稲荷神社が鎮座している。
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『鳥居稲荷神社の由来
 当神社の祭神は倉稲魂命を主神に豊受姫神が合祀されていますが鎮座の年代は不詳です。
 東京市史稿によれば享保二年(1717)この地に鳥居丹波守忠瞭(下野壬生藩主)の上屋敷があり神社はその庭中に祀られ代々厚く信仰されていました。
 享保六年(1721)の大火により類焼し跡地は神田塗師町・新銀町・松下町の代地として町屋街となりました。この三ヶ町から引き移った人々も当社の奇瑞多く、かつ神徳顕著なことを聞き共に力を合せ社殿を造営し、鳥居家の邸内に鎮座されていたことに因って鳥居稲荷神社と崇め維持、営繕、祭典などに力をつくしました。
 昭和二十年三月十日の空襲で社殿を焼失、昭和二十八年八月(1953)宗教法人として登記、昭和四十四年三月(1969)町内有志の盡力により鳥居稲荷神社崇敬会を発足し、昭和五十二年(1977)社殿を改築、現在に至っております。
 なお隔月に月次祭、毎年一月一日に元旦祭、五月十五日頃には例大祭が行われています。
 平成十三年五月』

天祖神社(八丁堀三丁目)

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 中央八丁堀郵便局の南西に位置する天祖神社。
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 社殿。
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『伊雜大神宮御縁起
御祭神 伊佐波登美命
      玉柱屋姫命
志摩國答志郡伊雜村に鎮座せる天照大神宮の別宮を伊勢長官出口市正と云者近衛公の御内命を蒙り寛永元甲子年五月上旬東へ下り寺社奉行へ願出
武藏國豊島郡江戸日本橋通三丁目へ間口拾間奥行拾弐間社地を賜り間口三間奥行五間の御社建立して御祀り申上候。其後寛永拾癸酉年六月下旬公儀より社地御入用の趣き寺社奉行より被仰渡八丁堀松屋町を代地として社地参百坪賜り舊社を取崩し松屋町へ再建して御遷宮申上候
氏子は松屋町岡崎町長澤町元島町仲町の五ヶ町とす
右御縁起如此御座候恐惶謹言
寶暦元辛未年二月吉日』

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