小百合神社(間野谷町)

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 間野谷町交差点そばに間野谷公民館(伊勢崎市間野谷町606-1)があり、そこから西へ向かって行くとグラウンドの北側に小百合神社が鎮座している……筈なんだけどなぁ。
 確かに建物はあるのだが、なにか違うような気がするなぁ、コレは。
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 或いはこの草叢の中に埋もれてしまっているのだろうか?
 なんにしても、周囲にはロープが張られており、個人か企業かはわからないがいずこかの所有地であるように思われるので勝手に入って行くわけにもいかない。
 と言うわけで、小百合神社は見つけられなかった。

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 間野谷公民館。
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 その敷地の端に石祠が二基。
 左側の石祠の側面には慶應四戊辰年二月二十五日と刻まれているので1868年、幕末…と言うか明治元年じゃないか。明治ではなく慶應の年号が使われていると言うことは、幕府側の人に縁のある社なのだろうか。明治に改元したのは旧暦の九月八日だから、この石祠が造立された時はまだ慶應か。
 これが移転した小百合神社だったりしないかなぁ、しないだろうなぁ。仮に小百合神社であるにしろそうでないにしろ、由緒などはさっぱりわからないのだけれどね。

 以上で1月28日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mm、FA28mm、DA40mm、FA77mm、DA10-17mm Fish Eye、50-150mm II。K10DにDA21mm。
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稲荷神社(間野谷町)

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 国道50号線間野谷町交差点から北上して行くと、アルミテック(伊勢崎市間野谷町311-9)の東側に稲荷神社が鎮座している。
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 お狐さま。
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 拝殿とお堂。
 こちらもまた由緒書きが見当たらないのでググってみると、創建年代は不詳ながら上野介景秀が山城の国の伏見稲荷神社の分霊を迎えて創建したとのこと。赤堀上野介景秀は戦国時代の人で、城を奪われたのが1590年だから、それより前なのかな。
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 末社。
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 末社。

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 稲荷神社西側の変形十字路(X字路?)脇に鎮座する石祠群。
 左端は地神宮、中央二つの石祠は天王宮と愛宕山神社。

火雷神社(香林町二丁目)

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 樺神社から県道293号線を北上し、北海道ホリー工業伊勢崎支店(伊勢崎市香林町2丁目1291-13)前の交差点から西へ向かって行くと火雷神社に到着。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『火雷神社
 神社の由来
この地(群馬県)は地形上から山と雷に対する風格化が多い。
大雷、火雷神社等に雷の通り道というのがあって、その道筋に神社を建てて、その怒りを鎮めようとした。神社は政治と祭り事と称した様に、人間と切っても切り離せない生活の中の同居人であった。雷は災害も、もたらすが、雨を伴う恵みの雨は作物の生育を助け、農耕民族にとって不可欠なものでありました。創建年代は不詳なれども古老の傳える所によれば、今から七○○年前頃、この地に鎮守の杜があり、室町時代より続く境野家(土手屋敷)の氏神として「太郎宮」が建立されました。
その後領主上野介景秀公神明の尊崇厚く神殿を修理し、奉幣の儀を行う後、累世崇敬せられしも、何時、郷民の持ちとなりました。
以後、郷民の手により守られ祭祀が絶えることなく行われて来ました。
現在の拝殿は元禄時代(1690年頃)に、本殿は宝暦八年(1758)に再建された建物である。
明治十二年、火雷神社と改称し村社に列す。
明治四十二年大字天神久保に祭祀してあった菅原神社、稲荷神社と火雷神社に祭祀してある八幡神社、春日神社、山神社、樺神社、鹿島神社、菅原神社、秋葉神社、八郎神社、神明神社を合祀して今日に至る。
大正三年四月十五日、神饌幣帛料供進神社に指定される。

 神社の改修
新生日本講和獨立記念に神社の改修が行われました。
時役氏子総代、高柳四七八様を委員長として、副委員長、村会議員、委員と総勢二十一名の役員を中心として村中総出の大事業であった。
改修する費用を捻出するために、神社裏山の杉と松を売却して四十五万円を確保しました。
雨漏りのあった古い茅葺屋根の神社が、今の姿の立派な形に生まれ変わりましたのは、昭和二十七年四月でした。
神社の広場も整理、整頓され、氏子総出にて落成式が盛大に行われました。

 香林の由来
旧石器が大正用水開発時と千鳥遺跡と二ヶ所発見されている。
赤堀文書には次の様にある。
香林太郎時秀
香林郷 下賜安堵御判間事、正平六年(1351)足利尊氏 花押(印)
中野境野家墓地に香了上人供養塔があり延徳四年(1492)の銘文がある。
香林の七屋敷
 町田の西側におせんだて屋敷、下組斉藤家前方に左太夫屋敷、
 そして曦観音堂西方に勘平屋敷、藤三屋敷、せいさ屋敷、他、
 そして中組の土手屋敷があり、土手屋敷は四囲を土手と堀を
 めぐらした室町時代の屋敷といわれている。
「香りとはかおりであり、松の大樹が多かった地方であり、松の香り高く林をなしたことが、香林の由来とされています」
 平成二十一年十月吉日』

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 摩利支天尊。
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『摩利支天尊の由来
開運の神、摩利支天尊は、元は火雷神社の裏にあったが、勝負に負けず嫌いの強い神として信仰され、参拝者が多いので、火雷神社境内の西方、社前の現在地へ遷した。
昔、柔道の先生高柳伝四郎氏は東京へ試合に行く時、丑の刻参りを行ったと伝えられる。
現在では進学、就学、選挙、又は勝負に関する事が非常に多彩なので、特に参拝者が多く、願が成就した時は木の木刀を作って御礼参りに行くのである。
現在でも年中新しい木の木刀が奉納してある。
摩利支天は梵名マリーチの音訳で訳すと、威光とか陽焔となるこれは陽炎の事を考えればよい。かげろうの神格化されたもので、日天の前にいつも疾走して阿修羅の軍を調伏する神とされている。
 平成四年四月吉日』

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 秋葉神社と八坂神社。
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 末社。こちらには神社名を記した看板が設置されていない。
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 末社群。
 左から八幡神社、菅原神社、山神社、神明神社、稲荷神社。

樺神社(香林町一丁目)

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 香林下公民館脇に鎮座する樺神社。
 由緒等を記した案内板も無ければ、ググってみても情報が出て来ない。むぅ…。
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 本殿。
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 少し引いて撮る。
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 山車庫。
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 曦観音堂。
 地図を見るとこちらに樺神社と書かれているが、こちらは観音堂。堂内の修理かなにかが行われていたようだ。
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 曦観音堂正面。
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 宝篋印塔。
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 木造の如意輪観音坐像と石造の観音菩薩坐像が市の重要文化財に指定されているそうだ。

天神宮(野町)

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 野町区公民館脇に鎮座する天神宮。
 しかし公民館の敷地への入口が伸縮門扉で閉じられていた為、門扉の外から撮影。幸いにも西側を流れる鏑木川に架かる橋の脇に退避できるエリアがあったので、車はそちらに。
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 山車庫。

今井神社(赤堀今井町二丁目)

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 寶珠寺西隣の幼稚園前から南下して行くと、程無く今井神社に到着する。
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 拝殿。
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『今井神社
鎮座地  佐波郡赤堀町今井甲一三○四番地
    (現伊勢崎市赤堀今井町2丁目1304番地)
祭神   主祭神 大国主命
     配祀神 火産霊命 誉田別命 保食命
         大山祇命 素盞鳴命 大物主命
         菅原道真命
由緒   当社はもと近戸神社と称され、藤原秀郷五世の孫、二郎泰綱四
    世の孫、教綱が領主の時に社殿を造営し、藤原氏滅亡後に氏子持
    ちとなったと伝えられている。明治十年に村社に列せられ、同四
    十一年に近傍の七社を合祀すると共に、今井神社と改称した。
祭日   例祭日 四月三日
境内坪数 約四七二坪』

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 本殿。
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 末社群。
 左から蚕影山神社、金毘羅神社、秋葉山神社、琴平太神、金毘羅山神社、稲荷神社、山神宮、不明。裏側に猿田彦大神。
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 聖徳皇太子。
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 末社。何神社なのかは不明。
 そしてその傍らに諏訪大明神。
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 南の鳥居。
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 北西の鳥居。
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 東から遠景。

寶珠寺(赤堀今井町二丁目)

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 久保橋を渡り、粕川沿いに南下して行くと県道76号線に出るので、そうしたら西へ向かうとすぐに曹洞宗如意山寶珠寺に到着する。ほたるの里公園から鏑木川沿いに南下しても76号線に出るけど。
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 寶珠寺入口。
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 山門。
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 山門をくぐるとすぐ右側に天満宮。
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 菅原道真公だけではなく機織神も祀られている。それとお地蔵様と…なんだろう? 真ん中分けの髪型や襟元のせいで土方歳三に見えてしまったが、そんな訳は無い。
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 えーっと…狛犬?
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 本堂。
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 本堂裏の墓地へ入って行くと、田原藤太秀郷の供養塔とされる五輪塔。
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『五輪塔
指定番号 赤堀文化財4号
指定日  平成6年4月1日
 五輪塔の建立は、地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて平安末期に始まったものとされる。五大の集合離散により宇宙の万物が形成され、人間の死も離合集散の結果であり、五大に帰したことを象徴する塔が五輪塔である。
 初期の五輪塔は大型のものが多く、時代が下がるとともに簡略化、小型化し、江戸時代初期まで中世墓標の主流となる。
 この五輪塔は西暦940年に平将門の反乱を平定した田原藤太秀郷の子孫が、秀郷を供養するために建立したものと伝えられている。
 石材は凝灰岩が使用され、地輪は方形に近く、水輪は球形を呈することから、鎌倉時代の所産と推定される。
 また、この五輪塔には昔白蛇がいたが、火輪が落ちて割れた後、白蛇はいなくなってしまった。しかし、五輪塔の苔を煎じて飲めば熱病は完治し、祈願すれば成就する霊験あらたかな五輪塔として宝珠寺に伝えられている』

稲荷神社(赤堀今井町二丁目)

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 八坂神社から西へ向かい、鏑木川に架かる道元橋を渡ると赤堀ほたるの里公園があり、その西側の民家脇に稲荷神社が鎮座している。
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 左側の祠には正一位稲荷大明神と書かれた木札が納められている。右側の石祠の額には確かに文字が刻まれているのだが、よく読み取れない。
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『道元三屋敷由来
 道元の名のおこりは、赤堀家の伝承では「道元といふものあり、道完を誤りたるなるべし」とあります。
 赤堀氏は、天慶三年(940)平将門を討った功績により、武蔵守鎮守府将軍になった田原藤太藤原秀郷の末裔、田原藤原泰綱が、この地に移り住みました。
 戦国の頃、赤堀上野介赤堀景秀は北条氏に従って沼田城攻めの最中、天正十八年(1590)小菅摂津守信久に赤堀城を奪われたと伝えられています。
 元和年間(1615~1624)、赤堀上野介赤堀入道綱歳が、この地に館を定め、後道元屋敷といわれるようになりました。
 赤堀家二十八代源八は、中島家に生れましたが赤堀家の跡目を継ぎ酒造業を始め、その後二百年程続き道元の繁栄の基となりました。
 中島氏は戦国時代、武田氏に臣従していましたが、江戸時代の初め、信晴伴七がこの地に移り住み、五代文左衛門の時、資産家となりましたが、事業に失敗しました。
 弘化四年(1847)祐八が南隣に分家して、「関根屋」の屋号で雑貨店を開業し繁昌しました。この三軒の店を「道元三軒」と呼び、人々の往来が多く、昭和初期まで田宿は繁栄しました』

八坂神社(西久保町一丁目)

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 県道73号線を北上し、伊勢崎市役所支所から西へ歩いて行くと八坂神社が鎮座している。民家の間の細い道を入って行く必要があるので、通りからではちょっと見え難い。
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 御神輿…本殿?

大雷神社(西久保町三丁目)

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 八坂神社から少し北へ歩いて行くと、すぐに大雷神社に到着。
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 一の鳥居をくぐるとブロック塀の内側に道標。北方 ??・山上、東方 桐生・太田の文字が見える。
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 二の鳥居。
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 三の鳥居。
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 拝殿。
 ここで撮影をしていたら、近所の方らしき人がやって来て賽銭箱の周りを調べ始めた。なんでも、最近は賽銭泥棒が増えているそうなのだ。そんなに胡散臭い格好をしているつもりは無かったのだが、まぁそんなことがあったら近所の方がピリピリしていても仕方がないよね。
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 裏手南側から。
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 拝殿脇に、末社群へと続く鳥居。
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 ずらりと並ぶ末社群。全部で何基あるんだったかな…。
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 拝殿前から境内を見下ろしてみると、左側に土俵が二つ見える。
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 土俵の脇には宇気母智神。
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 宇気母智神から真正面に向かって行くと北の鳥居。
 もしかしたら、こちらの鳥居は大雷神社ではなく宇気母智神の鳥居なのかな。違うかも。

 比較的大きめな神社なのに由緒書きが見当たらない。なのでプチ神楽殿さんの記事を参照すると、こちらの御祭神は大雷命と高龗命、大山祇命の三柱。
 足利兼行が淵名の庄を領した時に鎮斎したと言うことなので、創建時期は平安時代後期か。足利姓ではあるが、こちらは藤原秀郷の末裔である藤姓足利氏で、兼行は藤姓足利氏の祖である足利(藤原)成行の父。なので足利兼行ではなく淵名兼行と呼ぶのが正しいのかな。淵名兼行は藤原秀郷の五世孫で、源義家の奥州征伐に従って功績を立てた人であるらしい。
 後に由良氏が社殿の修理を行なったり新田義貞が戦勝の祈願をしたり、元亀二年(1571)に時の領主が市場に鎮座していたのを現在地に遷座して神領の寄進を行ったり、寛政十一年(1799)に領主である加納氏が本殿と拝殿を改築して毎年例祭に供米二斗を奉献したり、明治六年(1873)に十二カ村の郷社となったりして現在に至っているようだ。

八坂神社(市場町一丁目)

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 先程のお堂から東へ向かって歩いて行くと、市場町一丁目交差点のやや北側、県道73号線に面して八坂神社が鎮座している。
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 拝殿と鞘殿。
 由緒書きが見当たらないのでいつもの如くググってみると、郷民が市場の守護神として祀ったことに始まると伝えられているのだそうだ。んー、市場の守護神と言うと素盞鳴尊よりもその妻である神大市比売命って感じがするのだけれど、こちらで祀られているのは素盞鳴尊だけなのかな。
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 本殿。
 脇に獅子頭が見えるけど、獅子舞とかやってるのかな?
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 西側から。
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 末社。
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 大平宮と御嶽山・八海山・三笠山神社。

三峯神社(市場町一丁目)

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 市場町一丁目区民センター(伊勢崎市市場町1丁目109-1)の東側に鎮座するお堂。三界萬霊と書かれているが、供養堂ってことかな? 外には三界萬霊塔は見当たらないので、中にあるのか。
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 庚申塔。
 寛保三癸亥暦霜月吉日とあるので1743年のもの。
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 三峯神社。
 お堂の方がよくわからないので、このエントリーはこちらの方メインってことで。
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 お堂東側の山車庫。
 区民センター脇にもあるので、この地区は山車が二つあるのだろう。

金毘羅宮・富士嶽神社・天王宮・秋葉宮(市場町一丁目)

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 せせらぎ公園から東へ向かって行くと、ヘアーサロンモテギ(伊勢崎市市場町1丁目250-6)の裏に鎮座する石祠群。
 左から金毘羅宮、富士嶽神社、天王宮、秋葉宮。

飯玉神社(堀下町)

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 赤堀せせらぎ公園の南東に鎮座する飯玉神社。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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『飯玉神社
鎮座地 伊勢崎市赤堀堀下九五番地
祭神  主祭神 保食命
    配祀神 素盞鳴命
由緒  当社は後奈良天皇の御代の弘治二年(1556)の創建で、那波郡
   堀口村飯玉明神の分霊を奉遷鎮座したもので、代々の領主の崇敬厚
   く明治十八年村社に列す。同四十四年、大字堀下字柳田の無格社稲
   荷神社及び境内末社稲荷神社、鷲神社、八坂神社を合祀する。
祭日  四月十五日……例大祭
境内社 菅原神社 山神社  白山神社
    赤城神社 八幡神社 愛宕神社
境内地 約三○○坪』


 鷲神社も合祀されているわりには、配祀神のところに日本武尊の名前が書かれていないのは何故だろう?
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 境内社。
 左奥四社のうち山神宮と金毘羅宮は確認できたが、残り二つは不明。その手前に猿田彦大神。少し離れて右側のものは金毘羅社。
 遠くに見える山は、方角的に見て赤城山かな。
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 御神木。
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『地域を守ったご神木
 この切り株は、今から半世紀余り前の昭和28年、当時の旧赤堀村赤南上・下地区で地元の消防団で使うポンプ車を購入する際、その費用を捻出するために切り出した、当飯玉神社のご神木のものです。今では、消防車は市町村で購入してもらえますが、当時は全額地元で負担しなければなりませんでした。より高性能の機材で地元の安全を守ろうと、地域の人たちが知恵を絞った証ともいえる切り株です。ご神木にあらためて感謝するとともに、当時の消防活動の苦労を考えてみてください。
 昭和20年代当時、ほとんどの消防機材は、今のような自ら走る消防車ではなく、人力で火災現場まで引っ張っていく可搬式でした。しかもポンプも手動のため、懸命に走って火災現場にたどり着いた後、さらに力いっぱい、ポンプをこがなければならず、消防団員にとって大変な作業でした。しかも、放水の勢いは弱く、火災の鎮圧には大変な苦労がかかりました。
 そうした中で、赤南の消防ポンプは本間家から寄贈されたもので、可搬式ではありながらイギリス製のエンジンで噴き出す、当時としては最新鋭でした。そのため、火災現場では、他の地区の消防団から「赤南のポンプは水の勢いが違う」とうらやましがられたそうです。
 そこで、28年に買い換えることになった際も「伝統を守って最新式の機材を入れよう」と考え、自動車にポンプを積んだ現在の消防ポンプ車に近いものを購入することになりました。しかし農地が一反(1,000平方メートル)4万円くらいの時代に希望するポンプ車は約160万円もしました。当然、地元の寄付だけで賄うことは難しいため、関係者が知恵を絞った末、飯玉神社のご神木を売って、費用に充てようということになったのです。
 大切なご神木を切るには、神社の許可が必要で交渉などに手間取りましたが、何とか了解をいただき、入札の末60万円を確保することができ、無事希望通りの消防車の購入が実現しました。
 伐採後、切り株は五十年余りにわたってそのままになっていましたが、神社の参道整備の工事のため、掘り出したところ、切り株の表面は傷んでいましたが、根はまだ生きていました。きっと伐採後も地元の安全を見守っていてくれたのでしょう』

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 水盤。
 さすがにこの寒さで水盤の水が凍りついていた。
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 絵馬掛所。
 見た感じ子供のものが多いかな。兎の絵がちらほら見えるので去年よりも前のものばかりか。
 初音ミクが混ざっているのは御愛嬌。

八幡宮(下触町)

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 下触集落センター(伊勢崎市下触町1223)の北側に鎮座する八幡宮。
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 拝殿。
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『八幡宮
鎮座地 下触四○四番地

八幡宮は鎌倉時代、藤原二郎泰綱公の孫宗綱霜降藤次郎が、此の地に定住するに当たり此の地の平安と武運祈願の為、創建したと伝えられる。以後、領主の崇敬厚く、神領の寄進があった。村人は土地の氏神と尊び、祭事を怠りなくつとめ、現在に至った。

主祭神  誉田別命
境内神社 八坂神社 山神社  愛宕神社
     稲荷神社 琴平神社 菅原神社
     塞神社  白山神社(向井より合祀)
  「伊勢崎、佐波神社誌」「赤堀村誌」による』

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 狛犬。
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 本殿。
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 末社群。
 左奥から塞神社、琴平神社、愛宕神社、菅原神社、不明、稲荷神社、稲荷宮、白山神社、山神社、天王宮、八坂神社。

飯福神社(境中島)

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 境公園から南下して行くと、白十字株式会社群馬工場の南西200m程の位置に飯福神社が鎮座している。
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 引き締まった体躯とユーモラスな表情が特徴的な狛犬。
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 手水舎の脇には庚申塚。
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 塚の頂には石祠と狛犬。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当たらなかったのでいつもの如くググってみると、神護景雲元年(767)に上野国々司従五位下林連雑物が郷民の安穏を祈願して創建。その後、元亨年間(1312~1324)に小此木盛光がこの地に封ぜられた時に社殿を修理し、天文二年(1533)に小此木長光が社殿を修理して神領を寄進。明治十年には村社に列せられ、明治四十年に字稲荷木の無格社稲荷神社・境内末社菅原神社を合祀し、現在に至っているとのこと。
 主祭神は保食命で配祀神に倉稲魂命と菅原道真公。
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 石燈籠には龍が彫られている。あぁ今年の干支と同じだなぁ。
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 富士塚かと思ったら、頂に鎮座するのは秋葉宮だった。他にも八幡宮や大黒天なども。
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 半ば埋もれるような形になっている青面金剛。享保元の文字も見える。1716年のものだ。
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 大大明神と庚申塔。
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 祠の中には大黒天や布袋尊、達磨、狐などの像があるが、何神社なのかは不明。
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 西の鳥居。

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 飯福神社の南側、鳥居のすぐ前に富士塚。
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 水神宮・大杉社。
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 小御嶽石尊大権現。
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 浅間神社。額には富士山と刻まれている。

 以上で1月14日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mm、DA21mm、FA31mm。K10Dに50-150mm II。

瑳珂比弁天宮(境)

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 群馬県立前橋高等養護学校伊勢崎分校を挟んで瑳珂比神社の南東に境公園があり、その南側の池の中に瑳珂比弁天宮が鎮座している。
 由緒などを記したものは見当たらない。
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 鍵が掛けられていて、橋を渡ることはできなかった。
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 なので池越しに。
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 正面、東側から。
 扉部分には梵字が三つ書かれているのだが、んー…辨財天、毘沙門天、文殊菩薩かな? 或いは文殊菩薩ではなく大黒天か摩利支天かも。
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 背面、西側から。

瑳珂比神社(境)

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 境萩原交差点から国道354号線を東へ向かい、境町駅入口交差点で南へ下って行くと突き当たりに瑳珂比神社が鎮座している。
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『瑳珂比神社
所在地 佐波郡境町大字境四九三番地(現伊勢崎市境493)
祭神
 主祭神 倉稲魂命
 配祀神 火産霊命  建御名方命
     素盞鳴命  大物主命
     菅原道真命 鎮西八郎為朝
     誉田別命  大日孁命
     猿田彦大神
由緒
 当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(1521~1527)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正八年(1590)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町になると次第に町並みも形成され慶安年間(1648~1651)には境町となった。
桃園天皇の宝暦十一年(1761)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年(1766)には石鳥居が建立された。後桃園天皇の安永二年(1773)社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(1801)には氏子の発起により現在の社殿が建設されている。その後も神域は整備され明治七年(1874)には村社に列された。明治四十年(1907)九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在の瑳珂比神社と改称し今に至る』


 由緒書きには猿田彦大神の名は記されていないが、瑳珂比神社の公式サイトには記されているので書き足し。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 向拝の下にお狐さま。
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 社殿脇に立ち並ぶ鳥居。その先にあるのは…やっぱり稲荷神社なのかね。
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 その隣にも境内社。
 狐と大黒天の像がいくつも置かれていたが、社名は不明。
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 庚申塔や末社群。
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 一際大きな境内社。なんだろう?
 左側の石祠の額には天王宮の文字あり。
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『例幣使道と六斉市
 境宿は、柴宿と木崎宿の間の宿でした。文久三年(1863)幕府から日光例幣使道の宿場に取り上げられました。
 当時の町並みは、四百六十三メートル余り、道幅は十四メートル余りあったようです。
 境宿では、二と七の付く日の月六回糸市が開かれ「六斉市」と呼ばれていました。この市では、「さかいさげ」と賞された生糸の取引が盛んでした。その様子は、境島村の画家金井研香の「境街糸市繁昌図」(市指定重要文化財)に描かれています。江戸の学者寺門静軒は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」と讃しています。
 高札場には、この市の守護神として天王宮が祀られていました。この宮の祭りは盛大で、近郊の村々から見物客が多く訪れたということです。祭りは、現在の「境ふるさとまつり」に引き継がれています。
 平成二十年三月』

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 招魂殿鳥居。
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 招魂殿。その横に戦没者記念碑。

諏訪神社(境萩原)

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 国道354号線境萩原交差点から北西に向かって行くと諏訪神社が鎮座している。
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『諏訪神社縁起
鎮座地 群馬県佐波郡境町大字萩原千七百八十四番地
   (現群馬県伊勢崎市境萩原1784)
祭神  建御名方命
神事  一月一日  歳旦祭    四月三日     春季例祭
    一月七日  発祭祀    八月第一土・日曜 夏祭り
    二月三日  節分祭    十一月三日    秋季例祭
    三月十五日 豊川稲荷祭
由緒
 祭神建御名方命は古事記に依るに大国主命の第二子にして出雲国を天照大神に立奉りたる後信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるに依り近隣の諸民その徳を偲び五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、開運招福の神とし諏訪大社にその霊を祀る。

 当社は天正年間(1573~1591)諏訪大社の分霊を奉遷し剛志村下武士に鎮祭せしを天保九年(1838)萩原の有志相計り住民五十余戸の賛助を得てこれを譲り受け現在地に鎮座せられる。
 明治の代になり神厳維持の為の一村一社主義に則り住民の協賛を得て金銭及び土地を拠出し定められた資格を具備し先に掲げたる御利益と共に永久の平和と文化の発展を祈念し今日まで年々独自の祭祀を怠ることなし。
 近年社屋の老朽著しきため区民並に近隣の崇敬者の奉賛に依り現在の社殿の建て替え並に豊川稲荷神社及び水舎の屋根の葺き替え等完成す。

境内社
 稲荷神社 秋葉神社 八坂神社
 大国神社 春日神社 八幡宮

 平成三年一月吉日』

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 拝殿。
 左側の鳥居には豊川社と記された額が掛けられている。
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 末社。
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 庚申塔。
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 豊川稲荷社。
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 お狐さま。
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 豊川社の裏に並ぶ石祠。
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『萩原諏訪神社の道標
 この道標は刻まれている文面から、文久元年(1861)に建て直されたものです。
 元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道354号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されました。丸い台石には、十二支と東西南北の方向が刻まれ、その上に台形の塔身が載っています。正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満やむし道」(前橋)とあることから、元あった場所では、東側に向いていたと考えられます。
 この分岐点は、当時の交通の要衝であり、正面と左面は日光例幣使道を示し、右面は伊勢崎から前橋に通じる道を示していました。
 平成十九年三月』

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 こちらがその道標。三つに割れて、その内の一片は行方不明になっているようだ。

一本松稲荷大明神(境下武士)

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 国道354号線沿いにあるJA佐波伊勢崎ごうし支所の北側に鎮座する一本松稲荷大明神。しかし御嶽大神の方が前面に出ていて目立っている。
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 稲荷神社鳥居。
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 拝殿とお狐さま。
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『御嶽山(八海山)の由来
 高さ六メートル程のこの築山は、地元の人々から「御嶽山」あるいは「八海山」と呼ばれ親しまれています。それは庶民の山岳信仰が盛んになった江戸時代の終わりころ、地元の信者が「講」を作りかつて能円寺(明治時代の終わりに現在の法光寺と合寺)があったこの地に、信仰の聖地であった御嶽山・八海山を招請し、山を築いて祀ったことからそのように呼称されています。
 それらの礼状は、いずれもここ下武士の地からはるか遠隔の地─木曽・越後にあって現地へお参りするには大変な困難を伴いました。そこで近い所でも参詣が出来るようにとの願から、地元をはじめ近郷近在の多くの信者が浄財を集めてここに信仰の山=霊山を築いたのです。
 築山の左側には、京都神祇官領長上家公文所から「一本松稲荷大明神」も招請され祀られています。以前は二月に稲荷様の例祭八月に御嶽山の例祭が行われ大勢の参拝客で賑わったそうです。
 この築山の前には江戸時代に開かれた日光例幣使街道(正確には例幣使道)が通り、この場所が柴宿から一里(約四キロメートル)程の所にあることから「一里塚」と呼ばれることもありましたがその確かな証拠はありません。しかし例幣使街道を通る旅人が安全を祈り、旅の疲れを癒した場所であったことは確かなようです。
 築山が築かれてから一七○年程を経て、山の崩れが目立ち、鳥居も老朽化したため多くの有志の方の温かいご理解とご協力をいただき、ここに長年の念願でもあった史蹟の保存と整備の事業を執り行いました。
 平成十九年一月吉日』

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『八海山
 この場所は、江戸幕府の公式記録である「中山道例幣使道分間延絵図」に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷祠も記されていることから、稲荷社はその頃からありました。
 また、遠方まで出かけなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。
 その築山に松が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かではありません。
 現在、この場所は、稲荷社もあることから通称を一本松稲荷とも言われています。
 平成十九年三月』


 ここの撮影をしていた時、後ろを子供が「ここで写真撮ると幽霊が写るんだぜー」「じゃあ夜撮りに来るかー」などと言いながら通り過ぎて行った。おぃおぃ…。
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秋葉神社(境下武士)

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 三社神社から北上して行くと、有限会社栄和(境下武士1523)の西隣に秋葉神社が鎮座している。
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 祠の後ろに火の見櫓があるのは、火伏せの神だからだろうか。

三社神社(境下武士)

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 境剛志小学校の東側、下武士西区会館脇に三社神社が鎮座している。
 駐車場は無く、境内に停めると罰金との看板もある。…鳥居の前なら境外だろう、うん。道路の一部だったりするような気がしないでもないが。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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『三社神社
鎮座地 伊勢崎市境下武士一○五五番地
    旧上野国佐位郡下武士村大神一○五五

主祭神 天児屋根命
    誉田別命
    大日孁命
配祀神 須佐之男命 菅原道眞命 倉稲魂命 火産霊命
境内社 八坂神社  菅原神社  稲荷神社 秋葉神社

社殿新築にあたり
 当社が鎮座する地域は、かつて比刀禰川(古利根川)と渡良瀬川が合流し形成された内陸砂堆の小丘が累々としていた。
このような場所ではあるが、縄文時代には、石器加工の場など、人の営為の痕跡が僅か見るかっている。その後、五世紀終末から六世紀には、前方後円墳五基を含む八十数基もの古墳群が築造された。一方、境剛志小学校から来たにかけては、その集落跡が発見されている。当社が鎮座する「三社神社古墳」は、本殿下の墳丘の一部を旧境町教育委員会が発掘調査を行ない、大型の円筒埴輪などが出土していることから、六世紀後半にこの地域を治めた豪族が葬られた前方後円墳である。このように、この地域は古墳時代には伊勢崎地域でも有数な地域であったと考えられる。
 社伝によると、武士は古代から栄えた土地であった。当社が鎮座する高台は、かつて通称五郎助峠と呼ばれ、後鳥羽天皇の御代、文治二年(1186)鎌倉幕府を樹立した源頼朝の有力御家人である安達藤九老盛長の子、景盛が上野国守護人として、この地で武を練ったことから「武士」と呼ばれ始めたという。その際、領地の安全を神明に祈願し、神社を奉祀したのが三社神社の始まりであると云う。また村を縦貫する「日光例幣使道から三丁ほど引っ込んだ字大神に村中が見渡せる高台に三社宮が鎮守している」と古い記録にある。
このように、当社は、古くから下武士村の鎮守として位置し、永く村民から尊崇されてきた。
 明治維新後、社寺併合により、明治十年(1877)下武士村の村社に格付けられた。同四十年に、近傍の四社を合祀した際、村民によって本殿が大改築された。
 それから九十有余年、建立から二百五十年を経過し、本殿、拝殿ともに老朽化が著しいため、境下武士の氏子が神社改修を図り、平成十五年(2003)に「三社神社奉賛会建設委員会」を設立した。
以来、氏子と区民が一丸となり、平成十六年十一月二十五日に地鎮祭を執行し、同三月二十六日に上棟式、平成十七年六月二十五日に竣工式典を挙行した。
 新たな社殿は荘厳なうえ、ここに祀られる神々の神威により、氏子や区民に幸福と繁栄をもたらすことは勿論、世界平和の発揚を促すだろう。新しい社殿を前に、氏子、区民はさらなる奉仕を怠ることなく努め、地域の一層の発展に寄与することを誓うものである。
 平成十七年六月二十五日』

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 社殿裏に並ぶ石祠。
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 その隣に双体道祖神と思われる石像。
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 八坂神社神輿殿。
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 境内社。
 赤い祠は稲荷神社。その左の石祠は秋葉神社。
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 猿田彦大神。
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 庇が大きく張り出した、一風変わった様式の石祠。
 その左の石は千勝社。
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勝山神社(境保泉)

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 粕川に架けられた粕川橋を渡って西へ向かうとすぐに勝山神社に到着。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 拝殿の両脇から鞘殿が張り出して見えるが、左側は正一位保泉稲荷大明神と書かれた板が打ち付けられていたので稲荷神社だとわかる。右側は不明。
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 勝山神社の由緒が書かれているようなのだが、文字が薄すぎて読めない。なんとか読める範囲を書き出すと、こちらの神社の御祭神は速須佐之男命。配祀神に大日孁命、誉田別命、倉稲魂命、大物主命、菊理姫命。他に二つくらい書かれているようなのだが、殆ど見えない。その他には元明天皇の御宇和銅年間(708~715)に穂積王の軍が此の地に駐留したので、その跡に穂積王の尊崇する?大神と素盞男命の二神を祀る社を創建。上野国神名帳に佐位郡従四位上穂積明神と記されているのはこの神社のことである。この地は元は穂積と書いたが後に保泉の字を用いるに至った。明治十年に村社に列せられ、明治四十年に字宮前256番地に祭祀されていた八幡宮と白山神社を合祀。……ほかは読み取れない。ググってみても、わかったのは?大神が天照大神であると言うことくらいか。
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 末社。右端は天王宮。
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 裏手に回ると天手長男大神。
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 その隣に末社群。
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 更にその隣に末社群。右端の祠には石仏らしきものが納められている。
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 庚申塔群。
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 豊受大神と青面金剛。
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 金井烏洲天井絵と書かれた案内柱。金井烏洲は江戸末期の南宋画家で、その人の描いた「赤壁夜遊図」は伊勢崎市の重要文化財に指定されているそうだが、こちらの天井絵はそうではないのだろう。拝殿前で犬の散歩をされていた人が言うには、春と秋の例祭の時には開放されるので天井絵を見ることができるのだそうだ。
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 東の鳥居。
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武士神社(境上武士)

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 県道14号線を渡り、東武伊勢崎線と佐波新田用水路を越えると上武士体育館の横に武士神社が鎮座している。と言うか武士神社の中に体育館があると言うべきか。
 ちなみに上の写真左側の建物が体育館。社号標石の右側には上武士会議所があり、その前に駐車可能。
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 青面金剛と庚申塔。
 青面金剛には元禄十三庚辰十月日とあるので1700年のもの。
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 拝殿。
 武士神社(ぶしじんじゃ、ではなくたけしじんじゃ)と言う名前のせいか、拝殿の壁には「鹿島神傳直心影流男谷下総守高弟正田嘉七郎門人 徳川十五代将軍慶喜公師南甲源一刀流比留間利衆随身 門倉壽平」だの「来島流柔術戸田越後守十六代祖傳 池田捨五郎」だのと言った名の書かれた額が掛けられている。かつては社前で奉納試合などが行われていたのだろう。
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 西の鳥居。
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 祠の中には小泉稲荷神社と書かれた木札が納められていたので、こちらは小泉稲荷神社なのだろう。
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 庚申塔。
 寛政十二年十一月吉日とあるので1800年のもの。
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 庚申供養塔、猿田彦大神、大杉大明神。
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 御嶽山・八海山・三笠山と境内社。
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 庚申塔、甲子大国神。
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 弁財天、観音様、子大権現。
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 庚申塔。

春日神社(境木島)

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 境木島三差路交差点から県道291号線を北上して行くと右手側に春日神社の社号標石が見えて来るのでそこで右折するとすぐに春日神社に到着。しかし駐車場が無いので神社裏に駐車。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社殿裏手に末社群。

飯玉神社(境百々)

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 こちらには駐車場が無いので、経蔵寺に車を置いたまま国道354号線を西へ歩いて行くと飯玉神社に到着。位置的には境上矢島交差点から南へ100m程。
 鳥居前には庚申塔と地神。
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 神橋。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当たらないので、いつもの如くGoogle先生に訊いてみると、かつてこの地を領有していた那波氏が上野国那波郡堀口村(現伊勢崎市堀口町)に鎮座する飯玉大明神(御祭神は保食命)の御分霊を奉遷して領内の安泰を祈請したのを起源とするとのこと。詳しい創建時期はわからないが、応仁の乱以来荒れ果ててしまった領内の有様を憂いた那波氏が上野・武蔵の両国に、堀口の飯玉神社を本社として末社九十九社を分祀したと伝えられているそうなので、それくらいの時期なのかも知れない。また、天正十九年(1591)に那波駿河守顕宗が嫡子である元俊と共に奥州は九戸政実の乱において戦死(天正十八年に仙北一揆で戦死したとする説もあり)したことにより那波氏は断絶(ただし次男の俊広は上杉氏家臣である安田能元の養子となり安田上総介俊広を名乗り、後に上杉氏の重臣となる)。その後は鎮守神として民の尊崇を受け、春秋の祭祀が絶えることなく行われ、今もなお旧例に従い九月十三日の夜に例大祭が執り行われているのだそうだ。
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 お狐さま。
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 高尾神社。
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 丘頂に鎮座するこちらは高尾山神社の本殿だろう。
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 境内を見下ろしてみる。
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 御神輿が納められている。
 こちらの飯玉神社には境内社として高尾神社と八坂神社があるようなので、こちらは八坂神社であろうか。
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 末社。何神社なのかは不明。
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 神社北西側から。
 古墳か城跡なのかとも思ったのだが、どちらも違ったようだ。

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 飯玉神社前から国道354号線を東へ向かうと、宝屋と言う焼肉屋の入口脇に石祠がぽつんと鎮座している。
 石祠の右に小さな白い石があり、それには秋葉山と刻まれているのでそちらは秋葉社なのだろう。
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 大島食品脇に鎮座する祠。屋敷神かとも思ったが、国道側を向いているので違うのかも。
 中に貼られたお札には古王大神と書かれていたが、どんな神様だろう? 蚕安全悪鼠除とも書かれていたので御利益の方はわかりやすい。
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 松沢輪店前の庚申供養塔。
 側面には享保八癸卯天正月吉日と刻まれているので1723年のものだ。

石動稲荷神社(境百々)

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 新義真言宗医王山経蔵寺の南西、道路端に鎮座する石動稲荷神社。
 道端では車を停めるスペースも無いので、車は経蔵寺前に置いてそこから徒歩で。
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 本殿。
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『石動稲荷神社
上野国佐位郡百々邑鎮座
由緒
 當神社は天文十五年(1546)新田左衛門佐義貞の一族光明二男(長男長光)小此木左衛門次郎由良国重に仕小此木家祖先の生国能登国石動山に鎮座の石動稲荷大明神の御分霊を当国佐位郡百々邑に奉建立し信仰崇敬せり。
 今石川県小松市大川町葭島神社旧郷社祭神倉稲魂命大田神大宮女神例祭九月十八日氏子四八○戸由緒。
 天正の頃能州石動山の行臧坊が正保元年(1645)前田利常公から稲荷の神体を頂きし後茲に社殿を建てて祀り一郡一域の守護神とした。明治十四年(1881)郷社に列するとある。此の宮と思われる。
 当石動神社は古来より運の神として諸人頗る多く村人を初め境町より其の範囲頗る廣く参拝者神社宗敬成儀を発揮し毎月一日十五日参拝者来る。
 例祭は春執り行われる。羽鳥家に於て総代世話人十数名にて行われる。
 新田金山城主新田義宗嫡流貞氏三男掃部亮能登国(石川県)石動邑の人小此木権之太夫宗吉候の養子となる。明徳四年(1393)午七月二日死とある。室は小此木権之太夫宗吉の娘なり小此木氏此れより初る。
 掃部亮長男義純(新田貞氏孫)子義光(天文四年十九歳にて死す)義光二男光宗?光宗三男光信能登国石動邑を出て信濃国井上下綱入道正秀に仕え此の方を浪人して文亀正月元旦正秀館を出て上野国飯宿(今境町)瑳珂比神社南面に城を立住む。此の時より小此木氏境町地方に住む小此木越前と云う。永正七年(1510)玄三月二日死すとある。
 其の子光明長田右衛門尉假宿領に住み法名長光寺との深山圓理大居士と号す。大永六年(1526)六月二日死す。室綿打刑部義氏娘家中は井上正道中沢安元返見長秀ありと傳う。
 光明長男長光二男光親と云口長光(小此木左衛門長光)二男光親(小此木右衛門次郎光親)天文二十一年(1552)八月二日死亡す。
 小此木光忠嫡女武膳ヶ島邑羽島弾正改寛二男主水を当家養子と成り此の時より小此木氏羽鳥主水と姓を変ず。天正十年(1582)六月八日卒すとある。今より三八八年前羽鳥の祖先なり。
 昭和四十六年四月』


 瑳珂比神社は古くは石剱稲荷大明神と称していたそうだが、石動も石剱も読みは同じ。こちらの神社は瑳珂比神社と関係が深いのだろう。

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 経蔵寺新本堂。
 ググってみると、天正年間(1573~1592)に新田氏の末裔である小柴明光が晩年仏門に入り、明光坊という草庵を立て、寛永七年(1630)に経蔵寺と改称したとのこと。
 御本尊は虚空蔵菩薩。
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 薬師堂。
 こちらは旧本堂であるそうだ。文化九年(1812)に本堂を建て直した後にその本堂が崩壊したため、 再建されたのがこちらであるとのこと。ちなみに新本堂は平成十八年に建てられたのだそうだ。

境よしの記念公園内の祠(境萩原)

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 境図書館の西側にある境よしの記念公園内に鎮座する祠。
 名を記したものが見当たらないので何神社なのか不明。ググってみてもやっぱり不明。
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 元々こちらは参拝の予定に入っておらず、経蔵寺近くの稲荷神社に向かうつもりでうっかり通り過ぎてしまい、境図書館の周りを回って戻ろうと思ったら偶然視界に入って来たので急遽参拝。

勝手大明神(境上矢島)

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 境西今井交差点から北西に向かって行くと、徳蔵寺のざっと200mくらい南に勝手大明神が鎮座している。ちなみに境百々交差点から北上した方がわかりやすいかも知れない。
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 陣没軍馬精霊観音塔と案内板。
 案内板には「群馬歴史散歩」の一部コピーが貼られているが、こちらの神社に関する記述のみを以下に抜粋。

『上矢島の勝手神社
 上矢島の勝手神社は、いつ頃誰に依って斉祀されたのであろうかこの関係は不明であるが、一つの手掛かりになる事実がある。「秘密伝」所載の吉野曼荼羅は一山に祀られた諸神が蔵王権現を守護する関係を示しているが、弘治三年(1557)に書写された「両峯間答秘鈔」に勝手明神は元釈迦が常住し、説法をした霊鷲山の辰巳の護法で、金峯山が中国から飛来したとき随神したとの説を載せている。吉野山の勝手神社は、蔵王堂の辰巳に、上矢島の勝手神社は徳蔵寺の辰巳すなわち東南に鎮座している。徳蔵寺の地を新田一族谷島(矢島)氏の館跡と伝え今も土塁と堀の一部が残り宝塔の塔身二基が出土している。徳蔵寺は太田金山城主由良氏に仕えた南氏が建立したもので、大日如来、不動明王図が大切に保存されている。勝手明神が辰巳の護法、軍将神であるところから徳蔵寺の地と関係あろうか。いずれにしても、上矢島の勝手神社は全国各地を股にかけて歩く山伏によってこの地にもたらされたと考えられる。
 なお明治四十年の神社合併に依って境内にあった八王子社・熊野社・山神社などの諸社も、東照宮に合祀されている。

勝手大明神
 吉野八社明神の一つで、下宮ともいわれた。古くは金峰山の山の神、水源を養う風雨の神、のち山伏の本尊、金剛蔵王権現の眷属神となる。弓矢の守護神として名高く、辰巳の護法神でもある。
 農民の間では農業用の水源を養う神として、大塔宮の吉野挙兵を助けた。金峰山の吉野大衆からは軍神として、山伏からは吉野金峰山に入峰修行する守護神として、それぞれ信仰された。
 この特殊な神社を上矢島(旧世良田村)に勧請したのは、蔵王権現を中心とする金峰山信仰を説いて廻った吉野の僧や山伏であった。そして、谷島(矢島)氏の館の辰巳に祭られ、矢島氏からは弓矢の守護神として、農民からは農業用の水源を養う風雨の神として信仰されたのであろう。しかし、勝手神社は明治四十年の神社合併のために世良田東照宮に合祀されて、この関係を示す資料がないのが残念である。
 矢島氏は新田政義の三男、三郎信氏を祖とし、矢島次郎は義貞に従って干潟になった稲村ヶ崎から鎌倉に突入、葛西ヶ谷では最後の抵抗を続ける北条勢を戦っている』

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 末社群。
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 こちらはなんだろう?
 石碑は富士講関係のようであるが。

女塚稲荷神社(境女塚)

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 女塚橋を渡ってすぐ西に折れると東武伊勢崎線脇に真言宗豊山派薬王山法楽寺があり、その入口脇に女塚稲荷神社が鎮座している。
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 お狐さま。
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『女塚稲荷
祭神 宇迦之御魂命
當初鎮座地 新田郡世良田村大字女塚字道西四四六番
現在鎮座地 佐波郡境町大字女塚三七七番
     (現在は伊勢崎市境女塚377-1)

 明治四十年十二月二十八日県令第一○八九号を以って明治四十一年十月二十日郷社八坂神社に合祀された。
 その後昭和十五年現在の内宮となった社を小林段次氏が当所の鎮座地に建社し、八坂神社より御分霊をいただき敬拝していたが参拝不便地のため昭和四十二年五月田部井浩二氏の所有地である県道西側に六・六平方米を借り受け移社し祭日を十一月三日と定め女塚区代表者による祭典が挙行されて来た。
 しかし鎮座地が県道沿にあるため祭典時或いは一般参拝者の交通安全を考慮し新築移社の意見が提案され数年間検討が進められて来たが、昭和五十五年九月有志の会合により新築方針が具体化された。
 建設委員が発足し敷地の確保建築費の徴収方法等について再三協議を重ねた結果現在地に決まり浄財も区の方々を始め多数賛意者の御芳志を仰ぎ建社の運びとなった。
 地鎮祭 三月三日  上棟式 四月十九日  遷宮祭 六月十四日

 この材は元氏子関口重内氏が保存していたもので社の御神木として敬われていたものでおよそ二六○年前の享保年間(1716~1735)のものと推定されます。
 昭和五十六年六月吉日』

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 拝殿横に石祠。
 側面に狐の姿が陽刻されているので、こちらも稲荷神社かも。
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 法楽寺。
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 庚申塔と青面金剛。
 青面金剛の側面には延宝八庚申年十月吉日とあるので1680年のもの。

 ここから北東に向かった所にある真福寺の境内にも稲荷神社があったらしい…○刀乙
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