飯有神社 初午(福居町)

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 三年半程前に参拝した飯有神社(福居町1237-1)で先日の日曜日(2月19日)に初午があると聞き、ちょっと足を運んでみた。
 前回のエントリーでこちらは主祭神に伊弉諾尊と伊弉冉尊、配祀神に五十猛命と大雷命と書いたが、稲荷系にしては御祭神が珍しいし、稲荷系ではないとしたらいかにも稲荷の転訛っぽい社名だしと以前から気になっていたので、なにか知っている人がいるのではないかと思ったのだが、幸いにも役員の中に地元の歴史研究会に参加しておられる方がいらしたので、その方から神社の沿革を記したコピーをいただくことができた。

『飯有神社の沿革
 大宝律令、養老律令が作られ、地方の統治組織が出来、梁田郡衙(郡司の庁)が置かれたと見られる字 大宮上に、郡衙の守護神として奉祀されたと考えられる。
 祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命が祭られ、創立は天平九年(737)七月二日と考えられる。
 土地区画整理のため、明治三十八年(1905)二月十一日、諏訪神社の境内(現在位置)に移転された。
 享保十二年(1727)正一位の神位を授けられた。
 神道裁許状 左の如し
 下野国梁田郡中里村正一位飯有大明ノ神子丹後恒ノ神事神楽等勤仕之時着舞衣者
 神道裁許之状如件
           享保十二丁未年十一月十一日 神祇管領長上従二位卜部朝臣』

 んー、創建時期は判ったけれど、元々こちらにあった諏訪神社はどこへ行ってしまったのだろう? 主祭神はおろか配祀神としても建御名方命の名が出て来ないのはどういうことだろうか。おそらく境内社のいずれかが諏訪神社なのであろうが…。そしてやっぱり稲荷っぽい名前の理由もわからないままだ。
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一之神社(田中)

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 田中市営住宅団地東側に位置する真言宗智山派蓮臺山醫王寺(本庄市田中209)の入口脇に鎮座する一之神社(本庄市田中134)と稲荷神社。
 医王寺の北側に駐車場。
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 拝殿。
 瓦に三つ葉葵の紋があるように見えるのだが、徳川家に所縁のある神社なのだろうか。ググってみても御祭神、由緒等は不明。
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 一之神社の隣に稲荷神社。
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 稲荷神社鞘殿。
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 壁際に並ぶ境内社群。右端の石祠は戸隠神社のようだ。
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 石の上に鎮座する石祠。
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 庚申塔と道祖神。
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 石祠が二基並んでおり、左側は箱根神社であるようだ。
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 一之神社社殿脇に石祠と地神碑。
 石祠の額には「市長」と彫られていたが、市長神社と言うのは聞いた覚えが無い。手長とか岩長ならわかるのだが、しかしどうみても市長。うむぅ。
 側面には安政三丙辰年二月吉日とあるので1856年のもの。また、地神碑には天保六乙未年二月吉祥日とあるので1835年のもの。
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 一之神社の向い側には御嶽塚。
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 不動明王。
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 庚申塔。
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 医王寺。
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 弘法大師像。

 以上で2月18日参拝分終了。
 金鑚神社や御嶽教普寛霊場、久々宇の稲荷神社なども巡るつもりだったのだが、時間が無くて今回はスルー。あまりの風の冷たさに、智方神社のあたりでもう帰りたくもなったが、なんとか予定の大半はクリアできたからまぁいいや。
 使用機材はK-7にDA15mmとDA21mm、FA31mm、FA77mm。K10Dに50-150mm II。

八坂神社(本庄三丁目)

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 城山稲荷神社から少し東へ歩くと八坂神社(本庄市本庄3丁目7-11)。
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 鳥居。
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『八坂神社
 所在地 本庄市本庄三‐七
 八坂神社の祭神は、健速須佐之男命である。社伝によると創立は、弘治二年(1556)で、城下町の疫病除けの社として本庄宮内少輔実忠が勧請したと伝えられている。現在の本殿は、明暦二年(1656)再興されたものである。
 この神社の祭礼は毎年七月十四日、十五日に行われ、この両日台町の氏子の人々によって獅子舞が奉納されている。この獅子舞は、寛文三年(1663)榛沢郡元榛沢(現岡部町)で開かれていた六斎市を本庄宿に移した折に、天王祭(市神祭)のとき、台町有志によって始められたと伝えられている。歌人三、笛四、裃着用ほか手古舞姿で拍子木二、金棒引二、舞い三(法眼一、雌獅子一、老獅子一)で演舞されている。昔より旱魃時に当社の獅子舞を奉納すると必ず霊験あらたかに雨が降ると伝えられ、雨乞獅子といわれている。
 なお、この獅子舞は、昭和三十五年本庄市指定の無形文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 ほんじょうかるたの「や」
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『八坂神社
祭神 健速須佐之男命  例祭 七月十四日、十五日
由緒 
 弘治二年(1556)本庄宮内少輔信明が本庄城築城の折鬼門に当る当所に領内一町十七ヶ村の住民の疫病除けの守護神として勧請された社で児玉郡並びに本庄市内に於いても八坂神社は当神社が唯一の社です。社殿は昭和四十八年に再建したものである。

本庄市無形文化財八坂神社獅子舞の由来
 寛文三年(1663.)の時代に本庄宿に絹糸市場開設の折八坂神社氏子有志が舞いや唄を習い伝え八坂神社に奉納したのが始まりで爾来今日に及んで居る。
 この獅子は龍頭と云い寛文三年に沼和田の雷電社の社木を以って作製したものでその龍頭の顎下に年号の彫刻がある。
 この獅子舞、唄は頗る古雅なもので疫病や雨乞に霊験あらたかにて雨乞獅子の名もあり戦火の中にも毎年休む事なく奉納され現在に至って居る。
 獅子は法眼・女獅子・老獅子と呼び舞人は身を清め八坂神社宮司のお祓いを受け御幣を腰に差して舞う。

 伝統ある獅子舞(橋渡り)の数十年来の再現奉納を記念し之を建立。
 昭和五十一年七月十五日竣工』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 雷電宮。
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 扁額には「燿龍殿」と書かれているが、なにこれ? 獅子舞の龍頭が納められているのだろうか。

城山稲荷神社(本庄三丁目)

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 本庄市役所の東側に鎮座する城山稲荷神社(本庄市本庄三丁目5)。
 入口左側に駐車場。
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『本庄城跡
 所在地 本庄市本庄三‐五
 本庄城は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。
 本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄十年(1567)に後北条氏に攻められて落城し、後北条氏に服したが、実忠の子隼人正の代に至って天正十八年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。
 徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が一万石を賜って新城主となったが、慶長十七年(1612)その嗣子信之の代に古河城へ移封され、本庄城は廃された。
 元禄十三年(1700)の城跡検地表には三町四反五畝二九歩(約三・四ヘクタール)と記されている。その区域は、現在の本庄簡易裁判所から八坂神社にかけての地域で、北側は元小山川が流れ、南東は久城堀で切断された自然の要害であった。
 なお、小笠原信嶺夫妻の墓は、開善寺にあり、本庄城跡は昭和三十三年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 ほんじょうかるたの「け」
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『城山稲荷神社創建四百五十年記念碑
 城山稲荷神社が当地に鎮座されて四百五十年を迎える。
 今を去る弘治二年(1556)、児玉党の後裔本庄宮内少輔実忠は、上杉氏を破り関東の覇者となった後北条氏に従い、新たな戦局に備えて東本庄の館を引き払い本庄台地の北端、字天神林に城を築き、守護神として稲荷神社を勧請した。本庄城の築城を機に本城村も誕生した。
 天正十八年(1590)、後北条氏が豊臣秀吉に敗れると本庄城も秀吉勢前田利家軍の前に戦う事無く開城した。
 新たに本庄領一万石の城主となった小笠原信嶺は、天神林の城を廃して当所に新城を築き、旧城内より稲荷神社をここに遷座した。
 その後、本庄城は徳川幕府により廃されるが、城山稲荷神社は五穀豊穣、商売繁盛の神として中山道最大の宿場町である本庄庶民の崇信を集めて来た。
 また、町が全国有数の繭の集散地となった明治から昭和初期にかけては、養蚕倍盛の神として周辺町村に講も組織され、例大祭には参拝者が列をなし、芝居や踊り、サーカス等の小屋掛けも行われ、賑わった。
 現在、社殿及び境内には国の神社合祀令に従って、明治四五年(1912)、本町地内にあった八幡神社、八坂神社、天手長男神社、琴平神社が共に祀られている。
 平成十八年(2006)、本庄の歴史とともに歩んだ城山稲荷神社の創建四百五十年を祝して、ここに石製大鳥居奉納、階段修復、記念誌発刊、記念碑建立を行うものである。
 平成十八年四月吉日』
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 社殿の周囲を一望。左側の建物は神楽殿。
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 お狐さま。
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『城山稲荷神社
 所在地 本庄市本庄三‐五
 城山稲荷神社の祭神は、宇加之御魂神である。
 当社は、弘治二年(1556)本庄宮内少輔実忠が、本庄城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斎したといわれている。天正十八年(1590)小笠原氏が社殿を再興し、慶長三年九月(1598)上州赤城山麓より松樹百本を取り寄せて社内に植え、深く尊崇したと言われる。現在の社殿は天保十五年(1844)六月再建したものである。
 社殿近くにあるケヤキは、本庄城築城のおり献木されたと伝えられる。現在、目通り周囲六・三五メートル、高さ約三十メートルで県指定の天然記念物となっている。
 また、境内に祀られている八幡神社は、応永年間(1394~1428)村民が勧請したのを、慶長十年(1605)小笠原家の家老脇屋金座衛門が信仰して社殿を再興したものであるといわれており、その後、明治四十一年この地に移転された。
 昭和六十一年三月』

 八幡神社ってどこにあったっけかなぁ。見覚えないなぁ…。
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『埼玉県指定天然記念物 城山稲荷神社のケヤキ
 昭和四十四年三月三十一日指定
 このケヤキは目通り六・三メートル、根回り十三・三メートル、枝張りは三十メートル四方にも及び、姿態もみごとな樹木で、この一本で神社の森をつくっているくらいである。
 樹齢およそ四百年と推定される、ケヤキは戦時中特別なものを除きほとんど強制的に供出され、このような大木は、県下でも数少ない貴重なものである、弘治二年(1556)本庄実忠によって本庄城築城のとき献木されたと伝えられている』
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 旧社殿鬼瓦。
 天保十五年(1844)造営、平成十一年(1999)解体。
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 社殿。
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 琴平神社と天手長男神社。
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 磐座かな?

戸谷八稲荷神社(中央一丁目)

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 北原愛宕山古墳の東側、と言うか愛宕神社の裏に鎮座する稲荷神社
 鳥居の額には正一位稲荷大明神としか刻まれていないが、Mapionには戸谷八稲荷と記載されている。
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 こちらの神社は承応元年(1652)の創建であるようだ。
 裏面には「平成十七年春三月 中興十四代戸谷八郎左衛門尉藤原博之 通称 戸谷全克 妻 澄子」とある。ここの南側、県道392号線に面して戸谷八商店があり、そちらの代表取締役の方であるようだ。戸谷八稲荷と言う名前から察するに、こちらのお稲荷様はそちらの守り神であるのかも知れない。
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 参道右側には手水舎らしきものもあるが、水盤はそれより手前にずれているし、なにより大木の切り跡がある。御神木の跡なのだろうか。
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 祠の石段にはやたらとにこやかな顔つきのお狐さま。
 瓦には三宝珠紋の他に釘抜紋も見える。釘抜紋は小笠原氏の家紋でもあるようなので、こちらの神社は小笠原氏とも所縁があるのだろう。

愛宕神社(中央一丁目)

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 北原愛宕山古墳の墳頂に鎮座する愛宕神社(本庄市中央1丁目5)。
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 石段左側に聳える御神木の欅は、本庄市指定文化財に登録されているそうだ。
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 庚申塔。
 右の庚申塔の側面には「萬延元庚申歳十二月建立 文久辛酉元歳十月再建」とあるが、万延元年は1860年で文久元年は1861年。僅か一年で壊れるようなことがあったのだろうか。
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『愛宕神社
 所在地 本庄市中央一‐五
 愛宕神社は、旧開善寺境内の南東にある古墳上に祀られている。
 天正十九年(1591)本庄城主小笠原信嶺が勧請したと言われている。祭神は火之迦具土命で、天手長男命、若宇迦能売命が合祀されている。
 神殿に至る石段の左手にあるケヤキは神木とされており、根本から南北二樹に分れている。南樹は目通り周囲三・七メートル、枝張り東西約二十メートル、北樹は目通り周囲四メートル、枝張り東西約二十メートル、一本で社叢を形成している、このケヤキは、昭和四十三年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』

 小笠原信嶺が本庄に赴任したのは天正十八年頃なので、こちらの愛宕神社が勧請されたのはそれから程無くということになるのだろう。
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 狛犬と祠。
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 南側から。

阿夫利天神社(中央三丁目)

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 本庄西中学校の東側に鎮座する阿夫利天神社(本庄市中央3丁目4)。
 本庄西中学校北側の若泉第二公園入口車止めの前に駐車したのだが、西中学校東側から普寛霊場の脇を通って境内まで入れたかも知れない。
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 石段左側に並ぶ庚申塔。
 中央の庚申塔の台座には宝暦十庚辰歳正月中とあるので1760年のもの。
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 右側に見える赤い屋根の建物は神楽殿。その脇から公園へと石段が続いている。
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『阿夫利天神社
 所在地 本庄市中央三‐四
 阿夫利天神社の祭神は大山祇命、大雷命、高龗神、菅原道真、天手長男命の五神である。
 社伝によると、寿永年間(1182~85)に本庄太郎家長が城を当地に築いた時、厚く信仰していた相州大山(神奈川県伊勢市)の石尊大権現をこの地に勧請したのが始まりと伝えられ、戦国時代の本庄宮内少輔も深く崇敬したという。
 その後、天明三年(1783)七月の大旱魃の時、石尊社を池上に遷して降雨を祈ったところ、たちどころに霊験を得たといわれる。
 寛政三年(1791)に社殿を再建、大正二年(1913)に天神社ほかを合祀し、社号を阿夫利天神社と改称した。
 昭和六十年三月』
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 ほんじょうかるた碑の「ち」
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 拝殿。
 賽銭箱には梅鉢紋と羽団扇紋のレリーフが施されている。
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 南西から。
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 社務所。
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 阿夫利天神社と社務所の間を少し西へ向かうと出世稲荷神社。
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 素焼きの狐がずらり。

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 若泉第一公園東口に設置された案内板。
『子育ての像建立の由来
本庄市が管理する若泉公園の北端を流れる旧元小山川を清流にもどすべく埼玉県本庄土木事務所が環境整備の河川維持工事を行うに当り、たまたま株式会社堀越組が工事請負施行したところ、二月二十四日夕刻、川底の泥中より一体の石造りの佛像が出現せり、これ佛縁によるものと地元関係者と協議し、環境浄化と、すこやかな子供の育成を願って、当公園内に建立せるものなち。
 昭和五十五年五月五日』
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 子育ての像。
 碑文は上記の案内板のものと同じ。
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 若泉第一公園西口そばに不動明王と二童子。

二柱神社(下野堂一丁目)

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 ケーズデンキ本庄店の南側に鎮座する二柱神社(本庄市下野堂1丁目21-2)。
 駐車場は無い。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
 由緒等を記した案内板などは見当たらなかったが、Wikipediaの塩原勘解由の項目にこちらの神社のことが記されている。
 それによると、塩原勘解由信重は天正元年(1573)に武田信玄が没すると信玄の正室である三条陽雲院に子弟を率いて随従し、武蔵国児玉郡の本庄台地末端の杉山村に移り住み、そこに四門造りの堂宇を建てて信玄から賜った聖天像を安置した。以後この地の人々はこれを四門堂聖天と称し、やがて堂宇の周囲一帯は四門堂と呼ばれたが、正保二年(1645)頃にこの地区は四門堂から下野堂と改称して杉山村から分かれ、四門堂聖天宮は下野堂村と杉山村の鎮守となった。明治に入ると神仏判然令により四門堂聖天宮は伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神を祀る二柱神社と改称したとのこと。また、児玉郡上里町金久保にある陽雲寺には三条陽雲院の墓があるそうだ。
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 二股の違い大根紋が聖天宮であった名残か。
 余談ではあるが、本庄氏も替紋として大根紋を使用していたそうだ。
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 左から蚕影大神、八坂神社、天満天神宮、稲荷大明神、御手長宮。
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 遙拝所。
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 塞の神。
 碑文が長々と記されているが、中央上部に大きく記されている久那斗神・八衢彦神・八衢姫神の名はわかるものの、所々薄くなっていたり草書だったりで殆ど読み取れない。
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 若宮八幡宮と塩原勘解由信重の墓。
『追遠碑
丈慎終追遠即民徳歸厚矣是古之教人法也蓋我開蕀祖者小笠原
長清末孫而世居甲斐有故更氏鹽原仕武田家信玄當爭覇一族皆
在文武職就中勘解由信重歴仕信玄勝頼屢有功晩爲上州長根組
部将劃策中遭於宗家瓦解竟不果噫時哉既来子當地偃武帰農開
拓土地耕芸躬努諸族相頼一致協力斯業漸成焉時領主小笠原信
嶺待勘解由以同族禮故聾望自隆焉慶長十八年五月十六日卒爾
後襲其遺業者滋加殆作村相矣今也村民相謀建碑而奉祀事以致
追遠之虔素是亶非闔村故而巳所以使隣里郷黨馴致醇厚之風也
仍作銘々曰 兵農出一 偃武躬耕 創業遺徳 諸族共榮
 信玄十三世裔武田正樹篆額』

『奉献敷地二十一平米 当所塩原範之殿
 若宮八幡宮 勘解由墓追追碑は寛延年中(1748~1750)より塩原総本家の屋敷西南隅に祭られていたが今時区画整理事業により遷座し奉る。
 平成二年十一月』
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 庚申塔群。右から二番目は大山祇命。

諏訪神社(小島四丁目)

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 諏訪大明神古墳の頂に鎮座する諏訪神社(小島4丁目4-14)。
 唐鈴神社から近いので歩いて来たが、駐車場は無いので徒歩で正解だったようだ。
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 御手長大明神。
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 両部鳥居。
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 石段。
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 拝殿。
 由緒等は不明だが、諏訪神社なら御祭神は建御名方命だろう。
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 拝殿左手側に稲荷社。
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 拝殿前に五重石塔。
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 北西から。
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 西から遠景。

唐鈴神社(小島五丁目)

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 本庄市小島交差点南東脇に鎮座する唐鈴神社(本庄市小島5丁目4-4)。
 社殿自体は本庄市小島交差点のすぐ脇にあるのだが、そこから参道が南へ200m程延びている。駐車場は無いので東隣にある長松寺の駐車場に置かせてもらう。
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 参道入口右側に、僅かに残った稲荷の文字。
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 右側の石柱は鳥居跡のようだ。嘗てはこれが二の鳥居だったのだろうか。
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 二の鳥居。
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 首と手足を失い、胴体だけが残ったお狐さま。
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『唐鈴神社
 所在地 本庄市小島五‐四
 唐鈴神社の祭神は、大国主命・素盞鳴尊・倉稲魂命である。
 社伝によれば、遣唐使として唐国に渡った大伴宿根古麿が、天平勝宝年間(749~757)に帰国の折、唐国の玄宗皇帝より渡海安全のため金鈴を授けられた。
 その後、古麿は武蔵野国武州小島郷皇坂(現在の長松寺境内)に館を築く。その子古佐美、さらにその子良麿三代がこの地に住んだ。この時、良麿は五穀豊穣のため秘蔵の唐鈴と、出雲国氷川の杵築大社(現出雲大社)を分霊し二柱を祀り社を創立した、後に、良麿は帰京を任ぜられたが、その際に神宝の盗難を恐れ石函に入れ、社の下に埋めた。
 そして幾歳月がすぎ、戦乱の世に社も破壊された。これを嘆いた近在の人々が再興のため社跡を掘ると石函が出土し、中に五つの金鈴があったと言う。石函には、大伴宿根古麿が玄宗皇帝から賜った唐鈴であることが記されていたと伝えられる。これが唐鈴神社の由来である。
 なお、社殿裏の交差点一帯は、小島本伝遺跡で、古墳時代の住居跡が発掘されている。また、西方には、県選定重要遺跡の旭・小島古墳群があり、その中の八幡山古墳など数基は、本庄市の文化財にも指定されている。
 昭和六十一年三月』

 こちらも玉村町の火雷神社に残る伝承とは違っているようだが、玉村八幡宮のサイトを見ると、こちらは長松寺の境内に唐鈴明神社の名で鎮座すると新編武蔵風土記稿に書かれ、古くは鬼頬(きつらき)明神と称されていたが、金鈴が掘り出され、それが御神体とされた後に現在の社号である唐鈴神社に改称されたとある。鬼の首を祀ったとされる伝説自体はこちらにもあったようだ。
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 地神碑。
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 拝殿。
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 拝殿手前左手側に天王宮。
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 国常立神・国狭槌神・豊斟渟神。これも御嶽塚になるのかな。
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 社殿裏手にずらりと並ぶ末社群。
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 交差点上に架かる歩道橋から。

長松寺(小島五丁目)

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 国道17号線本庄市小島交差点そばに鎮座する唐鈴神社の東側に位置する長松寺(本庄市小島5丁目4-12)。
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『長松寺
 所在地 本庄市小島五‐四‐十二
 長松寺は弘法大師空海を宗祖とする真言宗の寺で、唐鈴山薬師院と称し、本尊は十一面観世音菩薩で、開山は佑海法印である。
 佑海法印は正保四年(1647)入寂したと伝えられることから、創建年代は江戸時代初期と思われる。
 なお、本堂の西側、および北側の山林の中に土塁、空堀が残っている。これは館址の遺構で、武蔵武士の一つ丹党の一族小島氏の居館址と伝えられている。
 昔は、この周辺に百余基の古墳があったので、旭・小島古墳群と命名され、県選定の重要遺跡になっている。
 昭和六十一年三月』
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 本堂。
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 鐘楼。

智方神社(小島)

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 国道17号線万年寺交差点の北側に鎮座する智方神社(本庄市小島179)。
 駐車場は無いので路肩に置くしかない。
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 狛犬と御神木の欅。
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『智方神社新築記念碑
 当社の由緒については、「智方大明神」の御神名により、定かではないが、平将門の乱を鎮定した鎮守府将軍藤原秀郷の六男である千方修理大夫を祀った社と考えられる。また藤原の祖、天児屋根命を御祭神として奉斎し境内には樹齢七、八百年と伝えられるケヤキの御神木を有するところから、その創建の古さをうかがい知られる。
 当社は昔より安産の神として信仰され、氏子中ではお産で死する者無しと伝えられさらには、重病者がでると近隣者が快癒祈願のお百度を踏んだともいう。此様に氏子の心の支えとなり、親密な交流の場として慕われてきた鎮守の杜「おちかた様」の社殿を、昨年十月に斎行された伊勢神宮第六十一回式年遷宮を奉祝記念して建替えることとなり、氏子一同の協力のもとに無事竣工なったことは、祠職の身として無上の慶びと感ずるところであり、新築記念碑を刻し神人一和の悦びを後世に伝えるものである。
 平成六年五月吉日』
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 拝殿。
 新築記念碑によれば御祭神は天児屋根命と藤原修理大夫千方と言うことになるのだろうが、藤原秀郷の子は五男までしかいないようなので、はて? と思い更にググってみると、尊卑分脈という書物には秀郷の五男である藤原千常の実弟と書かれているが、千方は千常の養子となったので系図上は秀郷の孫ということになってしまうのだとか。まぁ、いたならいいや。
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『御嶽山遷座記念碑
 六根清浄を願って信州は木曽御嶽の霊山登拝を行とする御嶽信仰は、江戸中期の天明・寛政の頃に盛んに信仰された。創建は定かではないが、ここ本庄、萬年寺の地においても、木曽御嶽山へ登拝できぬ人々の遙拝所として御嶽神社が奉斎され、毎年三月二十七日には氏子のみなが集り参拝するのを恒例としてきた。
 しかし、平成の新しき年を迎え、本庄市の進める都市計画に従って大字小島字林一三九の一番地の奉斎地を離れ、この地の鎮守神である智方神社の境内地に遷座奉斎することとなった。
 ここにその経緯と共に氏子名を記し、記念碑として後世に残す。
 平成二年九月吉日』
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 御嶽塚。
 塚頂には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が祀られ、その右に不動明王。
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 末社。
 何神社なのかは不明。
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 末社。
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 末社。

稲荷神社(新井)

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 角折神社から北上して行くと西側に株式会社境野鉄工が見えて来るが、その南側に稲荷神社(本庄市新井2)が鎮座している。
 神社左側に駐車スペース充分にあり。
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 由緒等は不明。
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 社殿裏に並ぶ境内社。
 天照皇大神・春日大神・八幡大神、蔵王大権現、大江神社、御嶽山神社、八海山神社、天野御中主神などの名が見える。
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 祠の中には二基の石祠が納められている。左側は不動明王、右はさっぱりわからない。

角折神社(都島)

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 県道351号線本庄旭小前交差点から道なりに北上して行くと、旭公民館西側に角折神社(本庄市都島235)が鎮座している。入口右脇には庚申塔と道祖神。
 このまま境内に入ろうとすると、出る時に難儀するので旭公民館に駐車。
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 参道右手側に両部鳥居があるが、これは八郎神社の鳥居。
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 その横に案内板。
『角折神社
 所在地 本庄市都島二三五
 角折神社の由来は、清和天皇の貞観年間(859~877)京都から公卿某が東国に下向した折に、勅使河原(現上里町内)に至りさらに上州那波郡茂木郷に移ったところ、この地に魔鬼が現われ民衆を苦しめているのを見て、魔鬼の角を折って退治したと伝えられる。以来、都島の里人はこの剛勇の公卿を崇拝して角折明神と称し、後世に伝えるため神祠を建てて祀ったと伝えられている。
 社殿は享保年間(1716~1736)の建築で、徳川時代には正観寺がその別当職であった。
 なお、境内には、九頭竜神社と八郎神社も祀られている。
 九頭竜神社は、昔、正観寺の北側にあったが、後にこの地に神殿を移したものである。この都島の辺は利根川と烏川が合流し、水域の移り変わりが激しい所で、たびたび洪水にみまわれたが、当社に瀬引の祈願をしたところ川の流れが北に変り洪水がなくなったという伝説がある。
 八郎神社は疱瘡除けの神として、鎮西八郎を祀ったものである。明治時代には近隣町村からの参詣者が多く、同社の「鎮西八郎子孫」の御札を住居の入口に貼っておけば疱瘡の疫病神が舞い込まないと言われている。
 昭和六十一年三月』

 創建時期や魔物退治と言う部分は同じだが、玉村町の火雷神社に残る伝承とは少し違うようだ。あちらでは魔物を退治したのは那波八郎だが、こちらでは名もはっきりとしない公卿であり、また、こちらに祀られている八郎も那波八郎ではなく鎮西八郎こと源為朝だ。ただ、魔物や竜、八郎などというキーワードは大蛇と化して生贄を要求した那波八郎(群馬八郎)を連想させる。
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 案内板の隣に石祠。
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 こちらが角折神社の鳥居。
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 鳥居をくぐるとすぐ左手側に九頭竜神社。
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 角折神社拝殿。
 御祭神は角折神。
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 左手側に廻ると境内社が数社並んでいる。
 何神社なのかはわからないが、梅鉢紋らしきもののついた石祠があったので、それは天神社であるように思われる。
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 角折神社と八郎神社の間に石祠が二基。
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 東側から。
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 遠景。

日枝神社(山王堂)

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 利根川の堤防南側に鎮座する日枝神社(本庄市山王堂228-1)。
 駐車場があるかどうかわからなかったので、大した距離でもないこともあり沼和田センターに車を置いたまま歩いて来たのだが、日枝神社裏にある墓地の脇なら置けないこともなさそうだ。
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『日枝神社
 所在地 本庄市山王堂二二八‐一
 日枝神社の祭神は、大山咋命で、慶長年間(1596~1615)の創建と伝えられる。
 その後、元禄十五年(1702)に京都吉田家より正一位大明神の神号を授けられている。
 社殿は利根川南岸、堤防に接し、明治四十三年(1910)の大洪水で本殿を破壊され拝殿を流失したが、同四十五年に再建された。
 社殿の横にあるケヤキの大樹は、神社創建当時に植えられたものと思われ、樹齢四百年以上と推定される。目通り周囲五・一メートル、高さ二十六メートルで、先の大洪水でも残り、樹勢は今なお旺盛である。昭和五十一年本庄市指定の文化財となっている。
 昭和六十一年三月』
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 二の鳥居と狛犬。
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 石祠。
 何神社なのかは不明。
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 拝殿。
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 大杉神社。
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 その脇に並ぶ石祠と庚申塔。
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 こちらにも。
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 水準点。
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 本庄市指定天然記念物の欅。
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 その隣に石祠と庚申塔。
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 社殿裏手にもぐるりと並ぶ庚申塔。
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 稲荷神社。
 平成十四年(2002)一月に改修されたようだ。
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 末社群。
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飯玉神社(沼和田)

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 本庄市立旭小学校前を走る県道351号線を少し東へ向かうと飯玉神社(本庄市沼和田926)が鎮座している。
 鳥居のそばには沼和田センターがあるので、そちらに駐車。
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 二の鳥居と狛犬。
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 拝殿。
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『飯玉神社由来記 
当社創立は未詳なれども往古室町時代には上野国那波郡那波城主の崇敬ありし社にして神徳遠近に輝きしと云う。
祭神は倉稲魂命を祀る。五穀の祖神なり。?社地は村の東方字飯玉の地にありしを天正十八年に今の地に遷す。旧境内には周囲参拾餘尺の欅の老樹ありしが明治二十年十月二?日焼失せり。建物は本殿幣殿拝殿社務所等の施設を完???明治四十二年に無格社雷電神社稲荷神社八幡神社諏訪神社を境内社に移転し大正十年二月二日神饌幣帛料寄進社となる。神域の樹木欝蒼として神威赫々たり。茲に由来を調査して?記し?世に伝うと云爾』
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 遙拝所と境内社二社。
 左側は額が掛けられているも文字が消えてしまっている為わからないが、上記の雷電・稲荷・八幡・諏訪のうち諏訪神社以外は他にあったので、こちらは諏訪神社ではないかと思われる。なお、右側は雷電神社。
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 その裏側に石祠が二基。
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 富士塚。
 冨士浅間大神の手前に小御嶽大神。
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 赤い石祠は三峯神社。その左奥の石祠は不明。
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 中央の石には左の石祠が天手長男神社、右が菜種八幡神社と刻まれている。
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 稲荷神社。
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 社殿斜めから。
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 沼和田センターの向い側に並ぶ庚申塔群。

倭文神社(東上之宮町)

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 群馬県道24号線から本多外科医院西側の道を南下して行くと、上之宮町区会議所の西側に倭文神社(伊勢崎市東上之宮町380)が鎮座している。
 火雷神社とは直線距離で1km程しか離れていないが、その間を流れる利根川には橋が架かっていないので大きく回り込まなければならない。
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 鳥居。
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 右側に倭文会館。
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『倭文神社略由緒
鎮座地  伊勢崎市東上之宮町三八○番地
延喜式内 上野十二社 九之宮
主祭神  天羽槌雄命
配祀神  倉稲魂命   木花咲耶姫命 誉田別命
     菅原道真命  大己貴命   素盞鳴命
     豊受姫命   大山祇命   菊理姫命

 当社の御祭神は、天羽槌雄命で、その歴史は古く機織の祖神として、また農耕、養蚕の神として尊崇されてきた。その創建は、人皇第十一代垂仁天皇の御宇三年(紀元前27年)と伝えられているが、これを明らかにする証跡は、現在不明となっている。
 貞観元年(859)に官社に列せられ、従五位下を授けられた。(三代実録) その後、延長五年(927)に撰集された「延喜式」神明帳の中に倭文神社の名が載せられ、上野神明帳には、「従一位倭文大明神」とあって、上野国の九之宮とも称された。
 その後、戦国時代の争乱にまきこまれ、一時荒廃したが 徳川氏の江戸入部以来 関東地方も次第に平和をとりもどし、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)に入る頃は、社殿も再建され、別当寺として、新義真言宗宮川山慈眼寺が定められ、住持実秀が別当となった。以後近世を通じ倭文神社は慈眼寺の管理下におかれた。三代将軍家光の慶安元年(1648)九月には、御朱印地十石を賜わり、漸く安定した神社経営が行われ、祭事も復興し、神威もいよいよ加わるに至った。その後約八十年を経て、享保十二年(1727)八月には、八代将軍吉宗から社殿再建勧進の許可を得て上野国はもとより、江戸府内からも浄財の寄進を仰ぎ、旧にまさる荘厳な社殿鳥居などが再建され、大いに隆盛をきわめた。しかし、この社殿も慶応二年(1866)十一月九日再度火災に会い、悉く灰燼に帰してしまった。
 現在の社殿はその後、明治十三年十月二十四日(上棟)に再建されたものである。なおさきの御朱印地十石の斎田は、明治維新の際上納され、また明治元年の神仏分離令により、別当寺や社僧の制も廃止され、神職によって祭祀される現在の姿となった。その後区内の小社祠の整理合祀も行われ、この間郷社に列せられた。また大正十四年には、神饌幣帛料供進社に指定された。
 今次大戦後は、国家神道や社格もなくなり、純粋な上之宮町の鎮守として今日に至っている。

祭典
 正月元日  歳旦祭
 正月十四日 田遊祭
 二月十八日 祈念祭
 四月十六日 服飾初祭・例大祭
 十月十七日 秋祭』

『伊勢崎市指定重要無形民俗文化財 倭文神社の田遊び
 平成十九年八月十七日指定
 倭文神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年一月十四日に行なわれる田植えの予祝行事です。
 笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌を奉唱しながら鳥居と拝殿を三往復した後、町内を巡行します。戻ると再び鳥居に整列し、鳥居と拝殿の間を三往復します。
 昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で蚕箸を作ると蚕が当たるとされていました。
 この田遊びの、ご神歌は中世期まで遡り、貴重です。

御神歌
 エートゥ、エートゥ
 まえだの鷺が御代田にぎろり
 きろぎろめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 エートゥ、エートゥ
 乾のすまの掃部の長者
 つじゅう十石ざらり
 ざらざらめくのは なんだんぼ
 一本植えれば千本になる
 とうとうぼうしの種

 平成二十年三月一日』

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 拝殿。
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 明治二十年九月に奉納された、上野国式内十二社の位置を描いた大絵馬。
 ちなみに上野国式内十二社と言うのは、
 一之宮  貫前神社    (富岡市一ノ宮)
 二之宮  赤城神社    (前橋市三夜沢町)
 三之宮  伊香保神社   (渋川市伊香保町伊香保)
 四之宮  甲波宿祢神社  (渋川市川島)
 五之宮  大国神社    (伊勢崎市境下淵名)
 六之宮  榛名神社    (高崎市榛名山町)
 七之宮  小祝神社    (高崎市石原町)
 八之宮  火雷神社    (佐波郡玉村町下之宮)
 九之宮  倭文神社    (伊勢崎市東上之宮町)
 十之宮  美和神社    (桐生市宮本町)
 十一之宮 賀茂神社    (桐生市広沢町)
 十二之宮 宇芸神社    (富岡市神成)

の十二社。
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 社殿斜めから。
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 社殿左側に磐座。
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 八坂神社他四社。…いや、奥の一際大きな祠には何も入っていなかったので三社か。
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 霊符神他四社。
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 左から熊野神社、市杵嶋神社、八幡神社、天満神社、天神社、三社神社。
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 神楽殿。
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 その南側に浅い堀と小島があり、
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 辨財天神社が鎮座している。
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 東の鳥居。
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 そのそばに社日社。
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 左から少彦名神、道祖神、双体道祖神、道祖神。
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 蚕霊神社。

 以上で2月11日参拝分終了。
 使用機材はK-7にDA15mm、DA21mm、FA28mm、FA43mm。K10DにDA70mm。

火雷神社(玉村町下之宮)

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 利根川西岸に鎮座する火雷神社(玉村町下之宮甲524)。
 神社西側に駐車スペース有り。
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 参道右側に石祠。
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 鳥居。
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 由緒書きと道標。
『火雷神社
 この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をかつってある。景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦一五年(796)官社となり、延喜の制では小社の列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大明神とかかれている。
 鎌倉時代の初め、建久二年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
 天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治五年(1872)郷社となった。
 現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。
 また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)──火雷神社に伝わる祭りで、貞観四年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦十月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面に注連縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、注連縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴も外した)であり、注連縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる』


 玉村町役場のサイトと玉村八幡宮のサイトでは微妙にの記述の違いがあるが、大筋では同じか。
 貞観四年十月から十一月にかけて天災や怪異が続き、人々の生活を脅かしたので、時の国司は神官に怪異の鎮圧を命じ、その際に武士那波八郎廣純が同行。神官が四方に注連縄を張り、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていたところ十七日目(亦は七日目)の夜に怪物が現われ神鏡を奪おうとしたので八郎はそれを捕らえて首を斬り、折れた角を川へ投じたところ、後にそこが渕となって角渕村(現玉村町角渕)となり、斬り落とした手を捨てた所が神の手村(現玉村町上之手)となった。人々が祟りを恐れてこれを祀ったのが都島(現埼玉県本庄市都島)の角折明神であり、その首を祀ったのが小島村の鬼頬明神(現本庄市小島の唐鈴神社)と伝えられる。村は平穏になり、五穀豊穣となったところから、土地の人々は麦を蒔く頃の御神事=麦蒔御神事と称え語り伝えてきたという。
 那波八郎は八郎神社(伊勢崎市福島町鎮座)に祀られていると記されていたが、そちらの御祭神の名は群馬八郎満胤であり、光仁天皇の御代(770~781)の人なので862年とは少々隔たりがある。しかも七人の兄によって殺された後に伊香保沼や赤城沼の龍神と親しくなり、大蛇と化して七人の兄とその一族郎党まで皆殺しにしたと伝えられているのでなにか違うだろう、これは。
 尤も、玉村八幡宮の記述によると那波廣純は嘉応年間(1169~71)に当郡を領し、元暦元年(1184)木曽次郎源義仲の党与として義仲と共に近江粟津の戦いで討ち死にし子孫も絶えたとあるので、これまた時代が合わない。那波八郎はこの怪物退治の功績により那波郡を賜り、治めることとなったそうなので、那波廣純の先祖にあたる人物なのだろうか。しかし那波氏は藤原秀郷の末裔であり、当初は下野に住していたが後に上野国那波郡に移り住んで名を那波太郎と称していたとも記されているので、天慶三年(940)に平将門を討伐した藤原秀郷の末裔が貞観四年(862)にここにいる筈が無い。もう訳が分からないよ。
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 水舎。
『記
当社は火雷神を主祭神とし配祀神として学問の神様である菅原道真命を御祭りしてあり、昔より多くの人々の信仰を集めている社であります。
この水盤は道真公が特に好んでいたと云われる梅の花の形を基礎として造られたものです。
鬼瓦にも梅花を配し道真公をしのんでいます。
享保十二年(1727に)造られたものであります。水屋は平成十二年三月改築を行い現在に至っています』

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 神橋…かな。下は埋まってるけど。
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 末社。
 何神社かはわからないが、台座に文政二歳己卯六月吉日とあるので1819年に建てられたようだ。
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 神楽殿と蚕霊神社。
 蚕霊神社は弘化二年(1845)正月に村民により常陸国豊浦(茨城県神栖町日川)から那波郡下之宮村字屋敷間に勧請されたが、明治四十一年(1908)七月十三日に合祀。御祭神は保食命。
 神楽殿の場所には江戸時代まで観音堂があり、十一面観音像が祀られていたそうだ。
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 拝殿。
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 本殿側から。
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『延喜式内上野十二社火雷神社略記
鎮座地 群馬県佐波郡玉村町大字下之宮五二四番地
社名  火雷神社
祭神  火雷神(主祭神)
配祀神 保食命   菅原道真命 那波八郎命
    火産霊命  大物主命  建御名方命
    誉田別命  素盞鳴命  高淤賀美命
    宇迦御魂命 大日孁貴命 少彦名命

由緒
 当社は第十代崇神天皇元年創立東国大都督御諸別王の尊信あり。
 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列させられ官幣に預る。村上天皇天暦二年(948)五月、三条天皇長和年中(1012~1016)又国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く広大な社殿を造営奉り四季の祭典を興し寶作無窮国家安泰を祈らる。後、現在に改む。新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
 後村上天皇康永二年(1343)神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり。明治五年(1872)七月郷社に列せさる。
 当社に古式神事あり。清和天皇貞観四年(862)より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行ふ。燈火を用いず微声を以って祝詞を奉す。
 翌十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入を厳禁。過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起すと云う。
 而して此の神事中は村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。古より傳へて那波の御神事と云う。

祭日
 四月三日  例祭(年一回大祭)
 十月十七日 小祭』


 崇神天皇元年は紀元前97年(崇神天皇は3世紀から4世紀初め頃の人とする説もある)。参道脇の由緒書きには景行天皇の御代(70~130)に創建と書かれているが、どちらにしてもかなり古い神社であることに違いは無い。
 玄松子の記憶というサイトの記述によると、「神名帳考證」という式内社を考証した書物にはこちらの御祭神は火産霊命と香々背男の名が記されているのだそうだ。香々背男と言えば、亦の名を天津甕星。経津主神や武甕槌命さえ退けたが、倭文神建葉槌命によって斃された星神だ。そしてこの火雷神社のほぼ真北1km程の位置には天羽槌雄命(建葉槌命)を祭神とする倭文神社が鎮座している。
 天香々背男を抑えられる神がすぐそばにあり、しかも上の略記には火産霊命の名はあっても天香々背男の名は無いなどと言うと、まるで隠されているかのようで、厨二心をくすぐられてニヤリとしてしまうではないか(苦笑)
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 拝殿左側にずらりと並ぶ末社群。
 神社名は記されていなかったが、
 貫前神社(経津主命)、伊加保神社(少彦名命)、加茂神社(加茂別雷神)、
 宇芸神社(宇賀御魂命)、倭文神社(建羽槌命)、甲波宿弥神社(瀬織津姫命)、
 榛名神社(埴山姫命)、小祝神社(少彦名命)、大国神社(大国主命)、
 美倭神社(大物主命)、赤城神社(大己貴命)
 兒持神社(木花咲耶姫命)、日枝神社(大山咋命)、琴平神社(大物主命)、
 稲荷神社(倉稲魂命)、大杉神社(舩玉命)、諏訪神社(建御名方命)、
 菅原神社(菅原道真公)、阿夫利神社(高游加美命)、丹生神社(垣山姫命)
 であるそうだ。
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 本殿裏の末社群。
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 火雷神社の裏手に高野山真言宗観音院東林寺。
 嘗て観音堂(現在は神楽殿)に祀られていた十一面観音像は現在はこちらに祀られているのだそうだ。
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 東林寺霊廟。
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 辯才天。

普門寺(玉村町南玉)

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  南玉公民館の東に隣接する天台宗普門寺(玉村町南玉933)。
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 切妻破風にはユーモラスな龍の姿が見える。
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 普門寺境内端に天満宮。
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 南玉公民館から西を望むと…榛名山かな、これ。

 Mapionを見ると、普門寺から南に下って行くと白田稲荷大明神と記載されているのだが、これ、どうやって行くんだろう? 側溝脇に位置しているようだが、柵があって入れないし、白田稲荷南側の民家の表札が白田さんなので、もしかしたら屋敷神か個人管理の神社だったりするのかも。

住吉神社(玉村町南玉)

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 新義真言宗金蔵寺の西隣に鎮座する住吉神社(玉村町南玉760)。尤も、鳥居が建てられているのはマーガレット幼稚園の隣だが。
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 鳥居の左隣に大黒天と道祖神。
 右隣には青面尊と庚申塔。そう言えば、今回神社巡りした中では青面金剛はあまり見かけなかったな。
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 拝殿。
 境内社に神明神社、八坂神社、菅原神社、稲荷神社、石神神社、疱瘡神社があると言うことなのだが…見かけた覚えが無い。どこにあったのだろう。
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 狛犬。
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『社殿改修記念碑
 南玉地区の鎮守さまとして親しまれている「住吉神社」の創建は不詳だが、往古の昔に村民が協議して社殿を建立し、摂津国(大阪府)の住吉大明神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)の御分霊を迎えたのが起源と伝えられている。爾来村民の篤き崇敬を受けて現在に至るも、社殿の老朽化は如何ともし難き状況となり、此度氏子・崇敬者の浄財をもとに、本殿一部の改修・拝殿の畳替え・社殿外壁等の改修が行なわれた。そしてこの工事の無事竣工を祝って行われた奉祝祭には「本殿御開帳」も執行され、改めてその歴史の深さを再認識することとなった。願わくは、創建以来の先人達の心を思い、南玉の鎮守社「住吉さま」が新旧住民融和の要とならんことを…。
 平成十一年十月吉日』

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 大田神に庚申塔。大田神(または太田神)は猿田彦命の御裔。
 境内の周囲はぐるりと庚申塔に囲まれており、境界線を成している。
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 住吉堰由来碑。

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 金蔵寺。
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 金蔵寺前の道を東へ向かうと民家の前に双体道祖神。

稲荷神社(玉村町上飯島)

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 とりせん玉村店(玉村町上飯島280)の南に鎮座する稲荷神社。
 駐車場は無いので、とりせんの駐車場をお借りした。それだけでは申し訳ないので、丁度昼時でもあったのでとりせんで昼食を確保。
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 拝殿。
 御祭神は倉稲魂命。
 創建時期等は不詳だが、旧社殿には享保七年(1722)の棟札があったそうなので、それよりは古いのだろう。現社殿は平成五年(1993)に改築されたものであるそうだ。
 神社合祀政策により明治四十一年(1908)一月十四日に廃社となったが、その後も当地にあって祀られ、現在に至っているとのこと。
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 社殿裏に道祖神と庚申塔。
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 末社群。
 菅原神社と琴平神社があるとのことだが、どれがそうなのだろう。

若王子神社(玉村町上之手)

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 玉村町立南小学校西側の田圃の中に玉村町第33号古墳があり、その墳頂に若王子神社が鎮座している。
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 ま新しい鳥居と石祠。2008年頃までは木造の祠があったようだが、2009年頃に新しくされて現在のものになったようだ。
 玉村八幡宮のサイトの記述によれば、こちらの御祭神は熊野久須毘命。創建時期等は不詳だが、熊野久須毘命は記紀に末子神と記述されていることから、若王子神社という社名が与えられたとのこと。
 明治四十一年(1908)一月三十一日に玉村八幡宮へ合祀されたが、現在でも尚この地に祀られている。
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 疱瘡神社、菅原神社、八坂神社。
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 上之手村霜害記念碑と石祠。
 何神社なのかはわからないが、碑文には大正五年(1916)五月九日に桑園が霜害を被り、飼育中の蚕児を悉く放棄してこの地に埋め記念碑を建てたと記されているので、蚕供養の為の蚕影神社であろうか。
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 古墳西側斜面に並ぶ庚申塔。
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 古墳南東側斜面より。

赤城神社(玉村町宇貫)

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 宇貫公民館から北へ歩いて行くと、大通りに面して赤城神社(玉村町宇貫585)が鎮座している。また、ここは玉村町No.225遺跡とも呼ばれているようだ。
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 鳥居の脇に道祖神。
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 拝殿。
 その左手前には石祠が一基と庚申塔。
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 拝殿の中には大己貴命を祭神とする赤城神社本殿があり、他に二つの木祠と布袋尊像がある。
 境内社には大杉神社と菅原神社、八幡宮、八坂神社があるそうなのだが、外の石祠と合わせても数が合わないな。

聖天山古墳(玉村町宇貫)

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 宇貫公民館(玉村町宇貫435-1)の北側に隣接するショウデンヤマ古墳。
 ググってみると厩橋どんぶり塚古墳と言うブログにこちらの記事があり、妻沼聖天を勧請したことから聖天山と称し、現在はショウデンヤマと呼ばれているのだそうだ。
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 立ち並ぶ庚申塔。
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 こちらが聖天様になるのだろうか。
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 観音様と石祠。

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 宇貫公民館前を北へ歩いて行くと、突き当りの丁字路脇に石祠が一基鎮座している。道祖神だろうか。
 側面には天保十亥年六月吉日とあるようなので、1840年のものだろう。

稲荷神社(玉村町角渕)

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 王子稲荷神社から北西に向かうと、株式会社ウシキランバー(玉村町角渕4632-1)の西側に玉村20号墳があり、その墳頂に稲荷神社が鎮座している。
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 由緒等は不詳。
 そう言えば、こちらの稲荷神社は玉村八幡宮のサイトにも書かれていなかったな。
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王子稲荷神社(玉村町角渕)

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 角渕八幡宮から東へ向かうと、玉村ゴルフ場西端に玉村19号墳があり、その墳頂に王子稲荷神社が鎮座している。
 駐車場は無いが、西側の十字路脇にコミュニティー消防センター(玉村町角渕4697)があるので、そちらの端っこに置かせてもらった。
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 創建時期や由緒等は不詳だが、祠の脇に改築記念碑が建てられており、昭和十六年(1941)二月十一日と記されている。
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 梨本宮守正王殿下観戦所。
 大正三年(1914)十月二十七日に建てられたようだ。
 梨本宮守正王は久邇宮朝彦親王の第四王子であるから、これが王子稲荷の名前の由来なのだろうか? それとも東京都北区の王子稲荷神社から勧請したものであるのだろうか。
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 東側から。

角渕八幡宮(玉村町角渕)

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 群馬県道40号線角渕交差点から東に入るとすぐに見えて来る角渕八幡宮(玉村町角渕2075)。
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『角渕八幡宮
 鎌倉時代の初め、建久四年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
 その後に建てられた社殿は、応永十八年(1411)に関東管領畠山満家、永正四年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
 後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長十五(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
 現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である』

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 拝殿。
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 大神宮。
 その隣には事勝神や猿田彦大神、庚申塔が並んでいる。
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 参道左手側、大神宮の裏に石祠二基。
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 拝殿脇の御神木(かな?)の根本に八坂神社。
 台座に文政十三庚寅六月吉日と刻まれているので1830年のもの。
 七月十四・十五日に近い土・日曜日には江戸時代から続く角渕祇園祭が行なわれているのだそうだ。
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 明治三十九年に建てられた忠魂碑。
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 奥までずらりと並ぶ庚申塔。
 中には水神や猿田彦大神、太田神、道祖神なども混ざっている。
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 拝殿と本殿。
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 石仏。
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 山車庫。
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『角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑
 当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
 八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
 現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
 玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
 平成二十三年十月吉日』

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 左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)。
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 石祠。
 後ろの石碑は昭和五十六年に建てられた顕彰碑。題字は第67代内閣総理大臣である福田赳夫氏の書であるそうだ。
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 倉庫かな? その手前にも石祠。
 横に立ち並ぶ石塔は事勝神や猿田彦大神、庚申塔など。

神明宮(玉村町下茂木)

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 滝川を渡ると、下茂木農業者研修所の東側に隣接して神明宮(玉村町下茂木244)が鎮座している。駐車スペースとしては農業者研修所の方がまだ広くて良いのだろうが、神明宮東側にも一台分くらいならかろうじてスペースがある。
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 社号標石右手側に道祖神と愛宕山権現。
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 庚申塔と猿田彦大神。
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 拝殿。
 こちらも由緒書きが無いので例によって玉村八幡宮のサイトを参照すると、御祭神は大日孁貴命と豊受姫命で、清和天皇の御陵と称される皇院塚の傍らに住していた左近衛府将監正六位上檜前公綱(ひのくまのきみつな)が、正和年間(1312~16)に伊勢両大神宮の御分霊を勧請して創建し、後に郷民の鎮守神となったが、大正三年(1914)四月二十八日に下茂木字神明から現在地に遷座して現在に至るとのこと。元地にも神明宮が祀られているとも記されているが、字神明がどの辺りになるのかわからない。元地はこちら
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 末社群。
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 末社と庚申塔。
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 こちらが皇院様であるのだそうだ。
 阿夫利神社と石神神社も祀られているそうなのだが、どれがそうだったのだろう。

八千矛神社(玉村町川井)

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 西八幡宮の一の鳥居から西へ歩いて行くと、八千矛神社(玉村町川井1092)が鎮座している。
 川井城の本郭の櫓台跡であるそうだ。
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 瓦には輪宝紋。
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 鳥居の額には「摩利支天宮」と浮き彫りにされている。

『川井城跡 八千矛神社
  玉村町大字川井字守理忍巡一一九二番地
 烏川対岸の金窪城主斉藤定盛の支城で、弟石見守基盛が在城し、北条麾下であったが天正十年(1582)神流川合戦で滝川一益に攻め落とされた。(堀の内の小字名が残る)
 箕輪城麾下の和田山城主時重の四代目清水内記邦正が定盛の長女を妻として此の地を譲り受けた。
 子孫代々城郭の楼台跡に摩利支天(陽炎の神格化した武神)を祀り、慶応四年(1868)神仏判然令で八千矛神社(祭神大己貴命)となったが、一般には摩利支天様として信仰されている。
 平成元年十一月』

『改築記念碑
 当社は、江戸時代末期の弘化年間(1844~47)に、烏川対岸の金窪城の支城であった川井城の城跡に「摩利支天」を祭って創建されたが、明治維新の神仏分離令に従って大己貴命を祭神とする「八千矛神社」と改称された。摩利支天は、古代インドの神で、敵から身を隠し障害を除いて利益を施す神として信仰されてきたが、我国では武運長久の神として武士の崇敬を集め、後世は勝負運の神・災難除けの神として庶民に信仰されるようになった。その開運守護神としての信仰は根強く、今なお「川井のまるしてん」として親しまれている。
 この霊験あらたかなる当社の神威をますます発揚すべく、年頭より老朽化した社殿の屋根瓦葺替え工事に執りかかり、此度予定通りに無事竣工を迎えた。これは工事関係者はもとより、氏子・崇敬者各位の一つ心の協力によるものであい、この喜びとともに後世に伝えるべき偉業として、ここに記念碑を残すものである。
 平成十二年 六月吉日』

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 羽衣と犬…?
 うっすらと文字の跡も見えるのだが、薄すぎて読み取れない。
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『箕輪没城以後和田山之地家従松本金左衛門吉勝譲 慶長十二丁未春 那波郡川井城移住也』
 慶長十二年と言うと1607年。松本金左衛門吉勝なる人物については不明だが、和田山城主の家臣であるようなので、箕輪城が廃城(慶長三年=1598年)になった後に移住して来たのだろう。
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 猿田彦大神。
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 社殿真裏に祠。
 こちらが本殿なのかな? 或いは旧本殿か。
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 秦氏神祭所と刻まれた石祠。

川井西八幡宮(玉村町川井)

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 川井八幡宮前バス停留所の北側に鎮座する八幡宮
 一の鳥居はそこより少し南の道路に建てられている。
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 こちらの八幡宮も先程の八幡宮と同様、天正年間(1573~92)に斎藤定盛が石清水八幡宮から勧請して創建したもので、区別する為にこちらは西八幡宮、先程の八幡宮は東八幡宮、亦は下の八幡宮と呼ばれているのだそうだ。
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 神楽殿…かな?
 ガードレールが無いのは二の鳥居前とこちらの脇だけで、しかも鳥居は車が通れる程広くないので駐車可能なスペースは一台分程度。
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 読めない…なんだろうこれ。
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 末社。
 右奥は秋葉社。稲荷社もあるそうだが、左から二番目の石祠がそれっぽい。
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Author:梁瀬
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