飯福神社から西へ向かうと、わりとすぐに真言宗豊山派石岡山不動院退魔寺(
伊勢崎市美茂呂町3612)に到着。
退魔と言う言葉は豊田有恒による造語だと聞いていたが、こちらの寺が香華院から退魔寺に改称したのは江戸時代初期であるようなので、一般的に使われていたかどうかはともかく、古くからありはしたのだろう。
『第二十三番 石岡山不動院退魔寺、子安観音
応安四年(1371)城主茂呂勘解由左衛門尉源義輝、城内の光円坊を改め、香華院を創立。弘法大師御自作の不動明王を本尊とし、小俣鶏足寺より道照禅師を開山の師と仰ぎ、帰依したことに始まり、その後、宥秀和尚の時に退魔寺と改称したと伝えられる。
また所伝によると石田三成当地を通過した折、当時、土橋(光円橋)付近に毎夜妖怪が現れ、庶民このために難渋すると聞き、退治したので石田氏の徳をたたえ寺号を改め、寺紋を石田氏の紋にしたともいう。寛文二年(1662)火災に罹り、同十年再建。大日如来(胎蔵界)を安置、延宝五年(1677)不動堂を再建、昭和十六年(1941)再度不動堂を二十三世慶隆和尚によって再建し、今日に至る。
悪魔をば皆退けし 茂呂の寺
大慈大悲の誓いなりけり
第二十四番、赤城山龍昌院、聖観音』 不動堂。
堤守護神十三仏内第一不動様、と書かれた杭がそばに立っていた。
不動堂と本堂の間に聖観世音堂があり、その手前左側に聖観世音菩薩と十一面観世音菩薩。
本堂。
そばには茂呂城址本丸跡と書かれた杭がある。茂呂城は永禄年間(1558~70)に那波城主那波氏によって築かれた城で、那波氏の勢力が後退すると金山城方が占拠し、由良氏家臣の根岸三河守が城主となったが、天正十八年(1590)に小田原北条氏が滅亡すると廃城となったとのこと。
大悲観世音菩薩・弘法大師・興教大師、毘沙門天。
ぱっと見、不動明王のようにも見えたが、確かに左手に宝塔を持っている。