白山神社(上泉)

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 西に永野川が流れ、北に国道50号岩舟小山バイパスが通る、堀ノ内集会所の西隣に鎮座する白山神社(小山市上泉792-2)。
 以前参拝した時は鳥居は赤かったのだが、この三年半の間に塗り直されたようだ。ちなみに前回はこちら
『主祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命
 創立は不詳である。当社は、上泉八四六に鎮座していたが、県営永野川改修工事のための用地となって、昭和八年(1933)四月一○日、同所八一六に遷徒した。しかし、その後また河川改修用地となり、昭和一七年(1942)七月、現在地に移した』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 本殿。
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 稲荷神社。

 以上で9月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。K10DにFA50mm。Coolpix P7100。
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宇治神社(小袋)

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 獅子神社の少し西に鎮座する宇治神社(小山市小袋1059)。
 前回はこちら
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『主祭神 菟道稚郎子命
 創立年月日不詳。野木神社の七郷巡りの一社である。建仁年間(1201~03)に始まったといわれる七郷巡りから推察し、同じ七郷巡りの鏡神社・中里神社・河原田神社・古御門神社が天暦一○~一一(956~57)年に創立されていることを考えれば、同時期ではないかと推察される。明治四○(1907)年五月三日熊野神社・愛宕神社・稲荷神社合祀許可』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 昭和三年(1928)造立の狛犬。
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 神輿庫。

獅子神社(井岡)

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 井岡集落センター西側に隣接して鎮座する獅子神社(小山市井岡448)。
 前回はこちら
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『主祭神 菟道稚郎子命
 創立年月日不詳。明治四一年(1908)一月二一日、星宮神社・愛宕神社・獅子神社を合祀の上、石尊神社の社名を獅子神社と改称した。野木神社の御神霊が氏子地域を巡回する七郷巡りの一社であり、戦前まで行なわれていたが、その後は行なわれていない。御神体の鏡は、四神四獣鏡で、小山市の文化財にしていされている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 末社。
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 不動堂。

鏡神社(鏡)

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 巴波川に架かる新泉橋の東側、ヤマザキショップのそばに鎮座する鏡神社(小山市鏡1045)。
 前回はこちら
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 青面金剛。
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 二の鳥居。
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 鏡神社。瓦には「丸に隅立て四つ目紋」が付いている。
『主祭神 菟道稚郎子命
 天暦一○(956)年一一月子日の勧請。古来、石凝姥命の作である鏡を納めてある社で、のちに菟道稚郎子命を合祀し、日鏡明神といった。神社の南に鏡が池という池があって、この地の水を汲み出すと必ず雨が降ると信じられている。日照りが続くと、村人は総出で池の水を汲み出し降雨を祈った。小山七郷の一つである』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 雷電神社とその左右にも境内社。
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『御祭神 素盞嗚尊
 御神体 竜神
 当社ハ建久二年二月下郷地方ノ豊作ヤ除災ノ守護神トシテ藤原秀郷公ニヨリ勧請建立サレタト伝イラレ部落東南六○○米ノ大木ノ繁ル広イ境内ニ祀ラレ人々ニ崇拝サレ以後政令ニヨリ慶応二年建立ノ石ノ鳥居御仮屋ト共ニ明治四十五年六月境内社トシテ鏡ケ池オ前ニシテ祀ラレ以後老杭ノタメ当所日高盛雄氏夫妻ニヨリ平成十四年午七月吉日新築奉納サレマシタ』
 前回参拝した時はこれが鏡神社の由緒かと思ったのだが、どうやらこれは雷電神社の方であるようだ。建久二年(1191)は天慶二年(939)の間違いかなー。そうじゃないと藤原秀郷と繋がらないし。
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 瓦に太陽と波が彫られているが、何神社なのだろう。イメージ的には住吉神社とか八幡神社あたりなのだが。
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白山神社(押切)

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 星宮神社の北東に鎮座する白山神社(小山市押切)。
 駐車場が無いのは前回でわかっているので、押切集会所に車を置いたまま徒歩で。
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星宮神社(押切)

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 永野川の堤防北側、押切集会所裏に鎮座する星宮神社(小山市押切87)。前回はこちら
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 拝殿。
『主祭神 香々背男命
 創立は不詳だが、元文三(1738)年四月六日、京都神祇官より正一位星宮大明神の称号を賜わる。明治初年、星宮神社と改め、同一○年村社に列せられた。河川改修のため、神社南の敷地が買収され、それに伴う入金で平成一一年一四年に神社鳥居・石垣・拝殿内の大修理などが行なわれた。境内には虚空蔵様が祀られている建物もある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 末社。
 左の石祠は■麻神社と刻まれている。一文字目が読み取り難いが、おそらく青麻神社だろう。青麻神社ならば祭神は天照大神・月読尊・天之御中主神であり、明治以前は大日如来・不動明王・虚空蔵菩薩であったのだから、星宮神社の境内にあるのも納得できる。尤も、この石祠の背面には「大正十五年旧三月廿一日」と刻まれているので神仏分離後のものであるようだ。ちなみに大正十五年は1926年。
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 末社殿。
 HDR誇張モードなどで撮る時は考えて撮らないとなんだか気持ちの悪い画になるなぁ。いっそCASIOのHDRアートくらいふっきれた絵作りにしてしまえばそれはそれで面白いのだが。ちなみに上の拝殿や下の虚空蔵菩薩堂などもHDR誇張で撮っている。
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 虚空蔵菩薩堂。
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 末社。

胸形神社(寒川)

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 巴波川決壊口祈念公園の北に鎮座する胸形神社(小山市寒川1730)。
 こちらもまた三年半ぶりの参拝。前回はこちら
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『主祭神  田心姫命  市杵島姫命  多岐津比売命
 配 神  菅原道真公 菟道稚郎子命
 創立は不詳だが、延喜式神名帳に寒川郡二座阿房神社・胸形神社とあり、式内小社に列し、寒川郡の惣社となったが、中世以降衰微した。仁孝天皇の弘化元(1844)年九月、社殿が再建され、近郷三八ヶ村の総鎮守と崇められ、明治五年、郷社に列せられた。明治一四年(1881)九月、本殿を改造し、同四五年(1912)一月一二日、神饌幣帛料供進社になった。大正一二年(1923)、拝殿は火災に遭い、大正一三年再建され、現在に至っている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
 んー、境内にある再建記念碑には「再建八月剏工越十四年十月竣成」とあるから、大正十三年八月に着工、越えて大正十四年十月竣工ってことかな。
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『胸形神社 小山市寒川一三七○番地
 当社は創建古く、九州の宗像大社より当地に勧請されたものといわれ、延喜式(927年制定)内の一社で格式の高い神社といわれています。祭神は田心姫命・市杵島姫命・多岐津姫命の三女神です。
 当社は古くから寒川郡の総社として住民の尊崇あつく、かつては神田も多く、社殿も宏荘でしたが、中世以降は衰微しました。風水害の被害も多く、その後再建され、弘化元年・明治一四年・大正一三年・昭和一六年と改築修復を重ね現在に至っています。
 合社されている天満宮の年初の縁日は「初天神」と称し、毎年一月の第四土曜日に華やかな祭りの行事があります。「花桶かつぎ」と称し、神輿の先導者として着飾った七歳の稚児が造花で飾った花桶をかつぎ奉仕するもので、多数の見物人に囲まれて村内をねり歩きます。(昭和四八年小山市指定民俗文化財)』
 この案内板は前回の時には設置されていなかったなぁ。しかし境内に設置されている案内板が所在地を間違っているのはどうしたものか。ここ寒川1370じゃなくて1730なのよね。
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 巴波川堤防側から。

沖宮神社(迫間田)

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 古御門神社から少し南東に向かうと沖宮神社(小山市迫間田555)が鎮座している。
 地図には沖神社と記されているが、栃木県神社誌には沖宮神社と記載されているので、こちらが正式な名称なのかも。そしてこれまたおよそ三年半ぶり。前回はこちら
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『主祭神 天経津主命
 神亀元(724)年九月一九日、鎮座。寒川の胸形神社とも関係があり、境内には通称弁天様と呼ばれている厳島神社(市杵島姫命)が祀られている。地名を「沖」ということから九州の宗像神社の形態をまねて、奥の宮というとする伝承がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 厳島神社。

古御門神社(迫間田)

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 栃木県道174号南小林松原線を挟んで巴波川決壊口祈念公園の東側に鎮座する古御門神社(小山市迫間田78)。
 こちらに参拝するのはおよそ三年半ぶりか。前回はこちら
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 拝殿。
『主祭神 菟道稚郎子命
 天暦一一(957)年一一月子の日創立。鎌倉時代、野木神社の神領であった迫間田・寒川・中里・鏡・井岡・小袋・下河原田は、野木神社を親神として菟道稚郎子命を奉斎していた。建仁年間(1201~04)の創始という七郷巡りは、親神である野木神社の神が年に一度、娘神達の住む七郷を巡るものとする伝承がある。当社は末娘であり、オイデとオカエリの両方立ち寄るという』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 斜めから。
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 後ろから。
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 不動堂と庚申塔。

浅間神社(野木町友沼)

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 友沼川西コミュニティセンターに隣接するお堂の前に鎮座する浅間神社(下都賀郡野木町友沼字川西
 額の部分は崩れていて社名は確認できないが、両脇に小御嶽磐長姫大神と藤原角行霊神・伊藤食行霊神があるので浅間神社と見て間違いないだろう。
 背面には明治廿四年第十一月と刻まれているので1891年の造立。
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 お堂の方はどの仏様を祀った堂宇なのか不明。

水神宮(野木町友沼)

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 下生井八幡宮からまっすぐ北東に向かって行くと道の突き当たり、川西配水場のすぐ北側に水神宮(下都賀郡野木町友沼)が鎮座している。
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 拝殿。
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 昭和七年(1932)十月造立の狛犬。
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 正徳三癸巳天(1713)造立の青面金剛。
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 神輿庫…かな。
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 薬師堂。
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 川西配水場南側の変形十字路脇に鎮座する道祖神と馬頭観音
 道祖神は昭和三十一年(1956)正月の造立。

八幡宮(下生井)

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 下生井の八幡宮(小山市下生井581)。
 栃木県神社誌には妙見八幡という名前も記されており、妙見社との合祀社なのかとも思ったが、単にこちらの小字名が妙見だからであるようだ。
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 参道。
『主祭神 誉田別命
 藤原秀郷が平将門を討つにあたり、山城国男山八幡宮へ祈願し、鎮定の功をなしたため、天慶四(941)年三月一五日に勧請した。その後、徳川幕府から社領二石の朱印、五反一三歩の除地を賜わった。明治四一年村社となり神饌幣帛料を供進された。八月一日に神幸祭が行なわれる。文政一一(1828)年奉納の力石がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 拝殿。
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 神輿庫と末社。
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 末社。
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神明社(上生井)

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 上生井郵便局の南東300m程の位置に鎮座する神明社(小山市上生井1202)。
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 恵比寿神像が置かれているが、何神社なのかは不明。
 台座には「別當大乗院建立施主想村中享保十六辛亥九月」と刻まれているので1731年の造立だとわかる。大乗院はすでに無く、現在の上生井公民館がその跡地であるようだ。
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 狛犬。
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 稲荷神社。
 その左には金毘羅山大権現。側面に享和三癸亥年十一月と刻まれているので1803年の造立。
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 拝殿。
『主祭神 大日孁貴命
 大同元(806)年一一月一五日、伊勢国より天照皇大神(大日孁貴命)を遷座したと伝えられる。その後の詳細は不明だが、正保年間(1644~48)に海老沼織部が住民にはかり、再び祠殿を造り、旧慣に復したといわれている。例祭は氏子四組の当番組が、準備から祭典・直会まで一切を行なう。通称、日の出祭りという』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 ぐぬぬぅ、すぐ近くに小谷城跡があり、そちらにも神社があったとは……。このエントリーを書きながら地図を見ていて気付いたわ○刀乙

愛宕神社(下生井)

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 小山市立下生井小学校の西に鎮座する愛宕神社(小山市下生井1320)。
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 拝殿。
『主祭神 軻遇突智命
 天慶四(941)年三月二四日、軻遇突智命を祀ると伝えるが、詳細不明。現在、氏子総代を中心として常に清浄が保たれている。近年、地域氏子の老人会、子供会にも祭礼への参加を促し、神社を中心にさまざまな行事を行っている。境内末社に津島神社(建速須佐之男命)・厳島神社(市杵島姫命 田心姫命 瑞津姫命)を祀る』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 末社と狛犬。
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 狛犬。
 台座には天保六年乙未(1835)三月と刻まれている。
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 こちらが津島神社かな。
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 厳島神社の鳥居。
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 厳島神社左側の石祠には「■■生秋徳辨天」と刻まれている。
 厳島神社は大正六年(1917)三月、辨財天は昭和三年(1923)十一月一日。また鳥居は昭和四十二年(1967)十一月の建立。
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 北側から。
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 ふと空を見たら、気球が二つ飛んでいた。

白鳥八幡宮(白鳥)

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 白鳥集落センター西隣に鎮座する白鳥八幡宮(小山市白鳥1274)。
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『白鳥八幡宮古式祭礼(無形民俗文化財)
 毎年旧暦一月十一日に行われる古式豊かな祭礼で、地区の六つの組が一年交代でその執行に当っている。また県内でも数少ない頭屋制の名残りがうかがえる祭りでもある。
 祭りは、近くを流れる巴波川の通称アカップチでの深夜の若水汲みから始まる。その水で赤飯を炊き、神への供物とする。その後、日の出を合図に、供物を持った行列が、祭りの当番組の宿(頭屋)から八幡宮へ向けて出発するので「日の出祭り」とも呼ばれている。
 行列では、組の代表が神へ供える三つの膳をささげ持つが、このうちの一の膳、二の膳には赤飯と豆腐・鮒二匹、三の膳には甘酒と清酒が各一升と決まれられている。
 一行が神社に到着し、神事が行われた後、鳥居につるされた鬼の面を的に、ウツギの木で作った弓矢を用いて射弓(鬼面射弓)が行われる。これは鬼、すなわち悪霊を年の初めにあらかじめ神前で追い払うことによって、その年の悪霊の村への侵入をはばもうとする行事であるといわれている。
 指定年月日 昭和四十八年八月三十日
 所在地   小山市大字白鳥一二七四
 保存団体  白鳥八幡宮古式祭礼保存会』
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 参道右手側に末社。何神社なのかは不明。
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 拝殿。
『主祭神 誉田別命
 天文三(1534)年一月一一日創立。山城国男山八幡宮から勧請した。一説には、藤岡町部屋の八幡様の神像を村人達が巴波川に流したのを、アゲ(カ)ップチから引き上げて祀ったとも伝える。例祭を日の出祭りといい、氏子を六つの祭組に分け、当屋を中心に宵祭り・若水取り・三献の儀・練行列・鬼面射弓の神事・頭屋引き継ぎ式などの儀を行なう』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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『白鳥八幡宮と日の出祭り
 白鳥の八幡宮は部屋村と白鳥村の境を流れる巴波川その川に千五百三十四年寒い冬の深夜ホカイに入った御神体が流れついたそうです。当時、この神社のお祭りは三月の春祭、十月十五日の例祭、そして十一月二十三日の秋祭り、旧暦六月には神輿祭りがありました。
 八幡宮のお祭りでは、小山市の無形文化財に指定されている「日の出祭り」が特に有名で白鳥の誇れる伝統的なお祀りです。今からおよそ四百五十年前の十六世紀中頃から行われていたと言われている、古式ゆかしいお祭りです。
 その後、お祭りは毎年旧暦の一月十一日、今の暦では二月二十日頃に行われます。御神体を川岸から上げ神社に祭ったと言われている祭礼の当日の丑の刻(午前二時頃)ちょうちんと真新しい手桶を持って旧巴波川のアゲップチと呼ばれている場所に若水を汲みに行くのである。この若水を用いて男たちが赤飯を炊き神様にお供えしたといわれています。白鳥祭り組(祭り組は六組あります)の一の膳の祭主頭屋、二の膳(六年目に頭屋宿主になる人)三の膳(十二年目に頭屋宿主になる人)をささげもった人がウツギで作った弓で、大きな鬼面の的に矢を射ります。
 氏子総代三人祭り組一の膳、二の膳、三の膳の三人、白鳥区長及び協議員七人が清酒、甘酒、赤飯、キンピラゴボウ、エビ大根、ネギヌタ、いも汁を神様にお供えして一年の豊作と白鳥の皆様の健康をお祈り申し上げます』
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 狛犬。
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 末社殿。
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 青面金剛。

正観世音堂(乙女)

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 水神宮のすぐ北側、下川岸公民館脇に鎮座する正観世音堂(小山市乙女字下川岸)。
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『一 御堂幕  一 御内陣幕  一 打敷  一 鏧布圑
抑も當観世音菩薩は今を距る四百二十余年の昔御奈良天皇御宇の工匠原佛子の作にかゝると稱し元友沼川岸に安置せられ靈験著く諸人の崇敬頗る厚かりしが大正二年思川改修の為大悲閣を當間々田下川岸に奉遷のことありしより茲に廿一周年を迎へたり依りて記念奉献品の事を発願し當所念佛講員一同昭和八年十二月より同九年四月に至る迄晴雨を論ぜず風雪を厭はず一心に托鉢を行ひ十方篤志の喜捨を仰ぎ茲に上記品目の奉献を行ひ併せて今月今日を以て記念の法會を執行し所願の成就するを得た
乃ち事の由を記して十方有縁善男善女と共に観世音菩薩の靈徳を賛仰し奉り子々孫々に至る迄永く勝益に浴せんことを祷り発願者一同に代り謹みて啓白す
昭和九年四月廿三日 下野國野木村満願寺第丗八世住職中原俊盛謹識』
 後奈良天皇の御世は大永六年(1526)~弘治三年(1557)だから、観世音菩薩像が造られたのは戦国時代か。
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 斜めから。
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 左から馬頭観音、青面金剛、十九夜念仏供養塔。
 馬頭観音は文化…何年だ? 干支が巳か酉なので、六年(1809)か十年(1813)。青面金剛は延宝八年庚申拾月とあるので1680年。十九夜塔は安永七戊戌年十月十九日とあるので1778年。
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 青面金剛。
 宝永…何年だろう?
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 二十三夜塔。と言うことは上の石仏は勢至菩薩か。
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 十九夜塔。なので上の仏様は如意輪観音……って、ちょっと待て。なんだこれは。
 なぜ如意輪観音が刀を持っているのかとか、頭のぐにゃぐにゃっとしたものはなにかとか、スペインはボルハ市にある教会の例のあの壁画を思い出してしまったとかまぁ色々あるけど、なんだろうねコレ。
 側面には明治十七年甲申二月と刻まれているので1884年に造られたものであるようだが、こういうタイプの如意輪観音を見たのは初めてだ。キリシタン禁教令は明治六年に解かれているから、隠れ切支丹ということでもないだろうしなぁ。

 以上で9月21日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、50-150mm II。Coolpix P7100。

水神宮(乙女)

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 御嶽神社の北東80m程、下川岸公民館のすぐ南側に鎮座する水神宮(小山市乙女字下川岸)。
 台輪鳥居の柱には二○一二年一月建立と刻まれている。
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 拝殿。
 左奥は末社なのか神輿庫なのか。その間の石祠は浅間神社。「大日如来 光明真言 阿弥陀如来 弘法大師 大願成就」と刻まれた石碑や小御嶽磐長姫大神なども見える。
 それにしてもこの辺り一帯には水神宮だの大杉神社だの網戸神社だのとやたら水神が多いのだが、そんなに洪水が多かったのだろうかと思いググってみたら……あぁ、江戸時代になるまでは氾濫原だったのね。余談だけど、思川の名前の由来が面白いなぁ。胸形神社の主祭神である田心媛命にちなみ田心川と書かれたのが、いつしか思川となったと伝えられているとのことだが、田心媛の田と心が合体して思になったのか。

御嶽神社(乙女)

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 小山市消防団第十分団三部前に鎮座する御嶽神社(小山市乙女字下川岸)。
『寺内萬吉翁謝恩碑
抑も我が日本は國常立尊初めて國土を開らき給ひしより天神七代地神五代を経て人皇神武天皇に至り爾来皇統連綿として二千五百八十餘年渝ることなく富士の高嶺のいや高く大瀛の水洋々八洲を環り常盤に堅磐に苔むすまても榮え行くこそ目出度き極みなれされは敬神尊祖の精神は千早振る神代の時より培かはれし處▲して世界に誇るへき我が國民性なり寺内萬吉翁は誠によく此國民性を發輝せる人なり翁は文久元年六月三日を以て下都賀郡野木村友沼河岸に生る考榮助妣志■翁は實に其長男▼り幼にして頴悟十三歳に至るまて漢學を修行し博覧強記にして往々世人を巻舌せしめたりき十五六歳の頃に至りて両眼眊み視力次第に衰ふ一兩年を經て一層甚だし茲に於て翁は平常持する處の信仰心を振ひ起し神の靈験に依り自己の悩みを脱せんと欲し上都賀郡永野村御嶽山に上りて修行すること數年常人のよく成し能はさる七瀬の川▲水垢離を執り更らに木曽御嶽の本山に至り殉教的忍苦奮闘をなしたる結果遂に靈験を得て御嶽行者となる歸来翁は友進講を開らき祖先の遺産を守りつつ東奔西走能く其靈験を説き孜々●して社會を教導す地方の信徒本縣を初め茨城埼玉群馬の諸縣に及び一千餘人に達すと昭和三年十一月官は翁▲中司典を授く翁斯道に身を奉してより實に五十年其世を善化せしめ民を救濟せるの功績は誠に偉大なりと云ふへし恰も好し今秋聖上陛下御即位の大禮を擧げさせらるるに當り謹んでこれを記念し奉ると共に信徒一同は翁の為めに謝恩碑を建立せんとし文を余に嘱す即ち翁か経歴を記して後卋に傳ふと云爾
昭和三年十一月十日』
 記号部分はなんと読むのかわからない部分。
 ▲は「ふ」のようにも「子」のようにも「み」の左半分だけのようにも見えるのだが、それでは文として繋がらない。「に」なら繋がるのだが、きちんとした文字で「に」と記されている部分は他にもあるのでどうにもわからない。
 ■は「胞」のようにも「肜」のようにも見えるが、ここだけ妙に崩した感じの字になっているのが不可解。
 ▼は▲と似ているようにも見えるが、むしろ「ろ」の左右に「丶」が付いているような感じだ。
 ●は妙に崩れた「そ」のようにも見えるが、文の流れとしては「と」なんだろうなぁ。でもきちんとした文字で記されている「と」もあるしなぁ。
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 末社。
 石祠は不明。右の石碑には「蛙息圴御主神 大正五年五月吉日」と刻まれているのだが、蛙息圴御主神ってなによ?

満福寺(乙女)

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 寒沢公民館の隣に位置する真言宗豊山派医王山満福寺(小山市乙女916)。
 かつては若宮八幡宮の別当寺だったようだ。
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 薬師堂。
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 境内端に石祠が三基祀られているが、何神社なのかは不明。
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 満福寺の南西に乙女寒沢古墳があり、その墳頂に稲荷社が祀られているそうなので、後で行ってみることにしよう。

若宮八幡宮(乙女)

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 国道4号線に面して立つ若宮八幡宮(小山市乙女1032)の鳥居。
 駐車場は無いようなので、少し西に向かった所にある寒沢公民館前に駐車し、そこから歩いてこちらへ。
 鳥居右側の祠は大杉神社。左側には大日如来坐像の案内板。
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『大日如来坐像
 宝永六年(1709)に鋳造されたもので、武州江戸湯島渡部九兵衛が施主となり、その父母の供養のため、その生国である下野国都賀郡寒沢の地に安置したと伝えられる。
 かつては背面に光背があったと思われるが現存しない。尊容が整っており当時の人々の信仰がよくうかがえる。
 また、戸外に安置されていることから「濡れ仏様」と呼ばれ、親しまれている。
 指定年月日 昭和四十六年十月三日
 所在地 小山市大字乙女九一三番地
 所有者 満福寺』
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 参道左手側に見えて来る大日如来坐像覆屋。
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 覆屋建立記念碑。
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 大日如来。
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 寄ってみたり、後ろに回ってみたり。
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 拝殿。
『主祭神 誉田別命
 創立は不詳であるが、満福寺内の八幡社であり、安永三年(1774)三月の記録にはすでに鎮座していたことがわかる。境内社の大杉様では、毎年八月一日に近い日曜日に神輿の渡御が続いている。氏子・若連のお囃子は、地域の安寧を願って行なわれる』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。台座には明治十六癸未年(1883)九月十五日と刻まれている。
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 三峯社と稲荷社。

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 若宮八幡宮から国道4号線を200m程南下すると、ヰセキ関東栃木支社小山営業所(小山市乙女858-10)の向かい側に石祠が二基鎮座している。
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 左の石祠の額には「■稲神」と刻まれており、一文字目は崩れていてよくわからないが草冠の部分は残っているので、蒼稲神か蔵稲神ではないかと思われる。
 右の石祠の額には「■神」とあり、これも一文字目がわからないが、道の脇に祀られていることから見て道祖神、つまり塞神ではないかと推測。側面には大正五年十一月十五日と刻まれており、1916年のものであることがわかる。
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 こちらは日本橋から数えて十八番目の一里塚になるそうだが、成程、石祠の前には「東京から69km」と書かれた標柱が立てられている。一里は約3.9kmなので、確かに凡そ十八里だ。

雷電神社(野木町友沼)

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 野木町立友沼小学校の南に鎮座する雷電神社(下都賀郡野木町友沼164)。
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 由緒等は不詳だが、社殿と狛犬は平成十五年十二月、鳥居は同年十一月に新たに建立されている。

八幡神社(野木町友沼)

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 真言宗豊山派地蔵山法音寺と野木町立友沼小学校の間に鎮座する八幡神社(下都賀郡野木町友沼912)。鳥居の額には「正八幡宮」とある。
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『友沼八幡神社「将軍御休所跡」
 元和二年(1616)、徳川家康が没すると、これを駿河の久能山にいったん葬ったが、翌三年の一周忌に久能山から日光へと改葬した。
 東照大権現社が完成すると、将軍秀忠は日光参詣(社参)のため、四月十二日に江戸を出発している。さらに寛永十三年(1636)に東照宮が完成すると、徳川家最大の廟所として将軍はじめ諸大名、武家や公家、さらに庶民にいたるまで参詣するようになった。
 将軍の社参は、秀忠の第一回社参をはじめとして、天保十四年(1843)の十二代将軍家慶の社参まで一九回に及んだ。寛永十三年四月、遷宮後の第十一回社参行列の規模も拡大された。
 社参の行程は四月十三日に江戸を出発し、岩槻・古河・宇都宮で各一泊、十六日に日光に入り、十八日には帰途につく。復路もやはり三泊四日で帰るのが恒例となった。それとともに昼食・休憩の宿や寺社なども決まり、大沢宿(現今市市)のようにそのための御殿が建てられた例もあった。
 友沼の将軍御休所は、将軍が江戸を出発し、二泊めになる古河城を朝出て、最初に小休止をした場所で、八幡神社の境内にあった。次は小金井の慈眼寺で昼食をとり、石橋へという道順をとった。
 ところで、近世における八幡神社は「日光道中略記」によると、別当法音寺の支配下にあった。野木村の野木神社の場合、元和二年に別当満願寺の支配がはじまるから、八幡神社も早くはほぼこの時期かと思われるが、小祠から拝殿・本殿をそなえた神社に整備されたのは、社参の規模が拡大する寛永十三年以降のようである。将軍御休所の建物は境内にあり、西運庵と呼ばれた。日光社参と八幡神社の整備が深くかかわっているとすれば西運庵の成立もこの時期かもしれない。なお文化期(1804~17)の宿駅のようすを描いたといわれる「日光道中分間延絵図」では、はるかに丸林村、潤島村の林が、さらに遠方には若林村の森が見え、正面には筑波山を眺望できる景勝の地と記されている。
 肥前国平戸藩主松浦静山は寛政十一年(1799)八月、四十才のとき、日光参詣の途中、友沼の「石の神門建てたる八幡の神祠のまえにしばし輿をとめ」、休憩している。
 天保十四年四月、「続徳川実紀」によると、一二代将軍家慶の社参では、享保(第十七回)、安永(十八回)の社参では設けなかった幕張りが小休止の場所でまで行われた。友沼の御休所でも幕が張られ、一行は疲れをいやしたとある。
 平成三年三月二十五日』
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『八幡神社由緒沿革
當社ハ第十五代應神天皇ヲ奉齋セル社ニシテ創立ノ年紀邈焉トシテ詳カナラザルモ口碑ニ天喜年中源賴義奥羽征伐ノ時之ヲ再建セシモノナリト傳フ社ノ南字松原ニ高良社アリ該社ハ天皇ノ重臣武内宿禰ヲ祀レルモノニシテ本村ノ鎮守八幡社ナレバ其臣ヲ此所ニ祀リシモノナラン云々ト古河誌ニ見ユ 明治五年村社ニ列セラレ仝四十年二月無格社稲荷神社 日御前神社 春日神社 鹿島神社 鷲神社 神明宮 愛宕神社 稲荷神社 住吉神社ヲ合祀シ仝年五月三日神饌幣帛料供進指定セラル其後社殿ノ破損朽腐甚シキタメ皇紀二千六百年ヲ記念シ昭和十五年工ヲ起シテ拝殿一部ノ修理社號標建設土垣ノ改築神庫ノ新設等ヲ完成シ今ヤ高嵩端麗ナル社殿ト老欅列立セル廣濶ナル境内トヲ具備スルニ至レリ
 昭和十七年十一月建之』
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 昭和五年(1930)二月二十八日造立の狛犬。
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 拝殿。
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 拝殿と本殿。
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 末社群。
 左の石祠は天満神社・稲荷神社・地荒神社の合祀社。
『合祀の由緒
 稲荷神社  字新城
 日御前神社 仝
 春日神社  字西浦
 鹿島神社  字羽ヶ田
 鷲神社   仝
 住吉神社  字新城
 神明宮   字松原
 愛宕神社  仝
 稲荷神社  卯の木狐塚

 上段九社は明治四十年二月二十五日法令の改正により大字総鎮守の八幡神社境内に合祀した
 其の後昭和四十年三月松原高良神社氏子総代の申入れにより当八幡神社総代会及大字友沼部落長会議で協議の上其の申入れに応ずる事となり 県神社庁に手続きを済まし高良神社境内に左の三社を遷した
 一、神明宮 一、愛宕神社 一、稲荷神社
 残り六社は破損甚だしき為に昭和四十年九月に改築した』
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 大欅。
『町指定文化財 友沼八幡神社ケヤキ
指定年月日 平成二十二年三月二十五日
所 在 地 野木町大字友沼九一二
 友沼八幡神社は将軍が江戸を出発して三日目に、「将軍御休所」として最初に小休止をした場所であったという。小祠から拝殿、本殿をそなえた神社であり、将軍御休所の建物は境内にあったとされている。当時はケヤキ、スギ、イチョウなどの大木が境内を囲むようにあったといわれる。
 明治十一年頃の友沼村の地誌には、スギ、ケヤキの「大木あり」と記されており、昭和三十~四十年頃もこの木の他に太いケヤキもあったが、樹勢の衰えにより伐採されている。現在、推定樹齢五五○年のこのケヤキは、向き合うようにあるイチョウとともに、神社を代表する巨木として、その勇壮な美しい姿で立っている』

水神宮(野木町友沼)

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 思川に架かる友沼橋の北東、下影公民館脇に鎮座する水神宮(下都賀郡野木町友沼)。
 鳥居には二○十二年三月と刻まれているので、昨年建立されたばかりのようだ。
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 ぽってりとした狛犬。
 台座には昭和十年九月と刻まれているので、1935年の造立となる。
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 別角度で。
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 浅間神社。側面には明治十四辛巳年(1881)十一月十七日と刻まれている。
 左手前には小御嶽磐長姫大神。右手前は食行霊神・角行霊神。その間の石は力石だろうか。
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 拝殿。
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 稲荷神社……かな。
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 庚申塔と青面金剛。

水神宮(野木町友沼)

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 八雲神社のすぐ裏手に鎮座する水神宮(下都賀郡野木町友沼 ‎)。
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 参道の脇には青面金剛や二十三夜塔などが並んでいる。両脇の石祠は門守神だろうか。どちらも側面に昭和五十七年(1982)十一月十九日と刻まれている。
 社殿の向拝には鈴ではなく鰐口が二つかけられていたが、この辺りに寺はあっただろうか。地図上では見当たらないが、明治期に廃寺になってしまったのかな。
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 青面金剛。
 左は正徳三癸巳年(1713)十月、右は延宝八庚申年(1680)十一月の造立。

八雲神社(野木町友沼)

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 楢木水神宮の南東200m程の位置、角新田部落公民館脇に鎮座する八雲神社(下都賀郡野木町友沼)。
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『八雲神社由緒之碑
抑モ本社ハ明治七年九月廿七日宣託ニ依リ東京府下今井八雲神社分体トシテ野木村大字友沼角新田耕地へ鎮座了リテヨリ茲ニ五十年其神徳感應ノ洪大ナル一郷共ニ仰ク所ニシテ歳ノ豊歉人ノ禍福等吉祥必ズ之ヲ賽シ凶厄必ズ之ヲ禳フ是ヲ以テ諸人ノ敬畏日ニ厚ク月ニ深シ謂ツ可シ盛矣ト今茲癸亥十一月廿三日五十年大祭ヲ舉行シ以テ敬神報謝ノ意ヲ表シ且ツ其由緒ヲ奌石ニ詳勒シテ後人ニ傳フト云爾
大正十二年十一月廿三日建之』

 明治七年(1874)に東京の下金井八雲神社から分霊したようだが、現在の江戸川区東葛西にある中割八雲神社がそれなのかな? 江戸川区には江戸川の上今井八雲神社と北葛西の八雲神社、そして東葛西の中割八雲神社の三社があるようだが、旧下金井村にあたるのは江戸川から東葛西にかけてのようなので、中割八雲神社が下今井八雲神社である可能性は高いように思える。他にも東葛西の茂呂香取神社の境内社にも八雲神社があるようだが、これも昭和二十六年までは独立した神社であったそうなので、可能性が無いわけではないか。ちなみに中割八雲神社は元々は水神社(祭神は豊玉比古命)であったが安政年間に八雲神社(祭神は須佐之男命)を合祀したものなのだそうで、こちらの友沼八雲神社の鎮座している場所を考えると、やはり中割八雲神社からと考えた方がしっくり来るなぁ。すぐ北側には水神宮もあるし。

水神宮(楢木)

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 思川の西岸に鎮座する水神宮(小山市楢木4)。
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 拝殿。
『主祭神 水速売命
 創立年月日不詳。旧思川の岸に鎮座し、水害等からのご守護と、五穀豊穣の神として祀られている。楢木地区に隣接する生良にも水神社が祀られており、これも旧思川の川辺である。配神に今宮神社・大杉神社・国蔵尊が祀られている』(栃木県神社誌」より抜粋)
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 浅間神社(昭和十三年(1938)五月)と青面金剛(享保二丁酉年(1717))、二十三夜塔、庚申塔、庚申塔。

水神社(生良)

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 生良(きら)公民館の南東、栃木県道50号藤岡乙女線のそばに鎮座する水神社(小山市生良1030)。
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 拝殿。
『祭神 水速姫命
 創立年月日不詳。旧思川の岸辺に祭祀されており、水害からの守護と五穀豊穣の神として鎮座している。楢木地区に隣接する地であり、旧堤の上にある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 末社。
 左奥は雷電社。右手前は不明。
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 末社と青面金剛。
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 青面金剛。
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大杉神社(乙女)

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 思川に架かる乙女大橋の南詰から少し南西に向かった辺りに鎮座する大杉神社(小山市乙女字川岸)。

神明宮(乙女)

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 小山市立乙女小学校そばの交差点脇、町谷公民館隣の塚頂に鎮座する神明宮(小山市乙女1183)。
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 拝殿。こちらは平成二十四年二月、つまり昨年新築されたばかりであるようだ。
『主祭神 大日孁貴命、外三柱神
 創立年代不詳であるが、江戸時代から乙女河岸の高台に祀られ、人々の信仰を集めた。現在は、小山市大字乙女字町谷自治会で清掃奉仕、運営諸費は各自治会費でまかなわれている。御祭神大日孁貴命は天照皇大神の別名で、神道信仰の中心的な神である』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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『神明宮境内擴張記念碑
當神明宮は天照大神を齋祀れる社で其由緒は詳でないが老杉等の聳ゆるを見ても相當古い創立を察し得らるるのである然るに社殿は境内の片隅に建立され一部は隣地にまで跨り居る有樣故氏子の人々も常に之を憂ひ如何にもして境内地の擴張をと協議の上氏子総代其衝に當り隣地の所有者間々田町龍昌寺に計りしに主管者東條朝夫氏の理解ある快諾を得て接續山林五畝八歩を寄附せられ去る一月十一日それが登記も濟んで今や境内實に四百九十七坪二合八勺を有し町谷の北方高台の全部を領するに至った
茲に境内擴張の由因を略記して記念のためこの碑を建て併せて裏面に集會所建設費寄附者の芳名を刻して永く後世に傳ふる事とした
昭和二十四年二月』
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 左から馬頭観世音(明治十八年(1885)九月)、十九夜塔、庚申供養塔(明和九壬辰年(1772)十二月)、青面金剛(元禄十五壬午天(1702)十一月)。
 これらは平成二年(1990)五月にこちらに移転されたものであるようだ。
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 Google Mapを見ると神明宮の南側に書跡小山庄乙女村検地帳類とあり、その脇に稲荷神社があるようなので参拝しようと思ったら、あれ、門の前に表札があるぞ。これってもしかして屋敷神? と言うことでそちらはパス。

乙女八幡宮(乙女)

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 国道4号線乙女交差点の南西、真言宗豊山派繪唐山佛光寺の向い側に乙女八幡宮(小山市乙女1249)の参道が延びている。
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『小山市指定文化財(有形文化財─建造物)乙女八幡宮鳥居
 乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられる。
 元禄十六年(1703)に当宮別当寺だった光明寺の住僧舜誉が願主となって建立したこの鳥居には、施主として乙女村の青木主水尉照朝と下館大町(茨城県)の有力商人高嶋忠左衛門勝広、栃木町の石屋三左右衛門らの名が銘文に刻まれている。このことから当宮は、西方の思川沿いに開けた、乙女河岸で活動する商人からも崇敬されていたことがうかがわれる。
 鳥居は、神社の参道に建てられて神域や境内の入口を示すもので、元来は木造であるが、平安時代頃からは石造も現れる。
 この鳥居は、島木をもつ明神鳥居形式で、規模も比較的大きく、現存するものとしては小山市で五番目に古い石造鳥居である。建立当時の位置を保っていると考えられ、目立った損傷もなく、近世前期の貴重な鳥居である。
 柱間 三・二六m、中心高三・九二m
 指定年月日 平成十二年十二月二十日』
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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『乙女八幡宮
 主祭神は誉田別命。本殿は流造柿板葺、拝殿は入母屋造瓦葺で、鎌倉時代創建と伝えられます。例祭は十月一日。
 例祭に、かつては江戸の本相撲が勧進されましたが、現在は子供相撲が行われます。
 一の鳥居(市指定有形文化財)の柱銘に、元禄十六年に別当寺光明寺が願主、下館の高嶋忠左衛門・乙女川岸の船問屋青木主水尉が施主となって建立したと刻まれています。
 同じく船問屋山中隼人奉納の太刀(銘正宗)が、太平洋戦争直後に盗み出されて付近の畑で発見され、逮捕された賊は、これだけは怖くなって捨てたと供述したといいます。無事にもどった太刀は、現在市立博物館に展示されています。思川水運の繁栄との深い関わりが伺われます。
 明治の神仏分離により光明寺は廃され、その跡には青いシートに覆われた土俵が、子供たちの元気な取り組みを持っています』
 土俵は拝殿のすぐ北隣にあり、現在乙女八幡公園となっている一帯が嘗ての光明寺境内だったのだろう。
 栃木県神社誌には、明治五年に村社に列し、明治四十年に神饌幣帛料供進社の指定を受けたとも記されている。
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 文化十癸酉歳(1813)五月造立の狛犬。
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 天水槽の縁には蛙が置かれている。
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 八龍神社と神庫。
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