K-3体感&トークライブ

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 ベルサール秋葉原B1ホールで行なわれたK-3体感&トークライブに行って来たのよさ。先に神社を五社程参拝していたので開場時間の10時には間に合わなかったけど、別に急がないので問題無し。
 まずはタッチ&トライコーナーに行き、PRIMEIIIでどれくらい処理速度が上がったのかをチェック。HDR合成ではやはり時間がかかるものの、各種レンズ補正を入れた上にRAW+で3枚ブラケット撮影をしてみたところではK-5IIsとは格段の違いが感じられた。UHS-Iに対応しているのも大きいのだろうけど、とにかく早いのは良いことだ。
 連写速度はK-5IIsの秒間7コマとK-3の秒間8.3コマで数字だけ見ると大差無さそうに思えるのだが、実際に連写してみるとまるで違う。K-5IIsのカシャカシャカシャ…に対しK-3はカシカシカシカシ…と、まるでマシンガンのようだ。そう言えば、秒間8コマのD2Hもマシンガンの異名を持っていたっけ。ちなみにトークライブの方で出た話なのだが、絞っていくと8.3コマは出なくなるそうだ。尤も、F16以上とかまで絞らなければ連写速度が落ちることは無いそうなので、実用上問題は無いだろう。
 AF体験コーナーではNゲージでおもちゃの電車がぐるぐる回っているのをAFで追うのだが……おや? AF-Sではさっと合うが、AF-C・セレクトエリア拡大・追尾AFを入れてみたところでは手前や奥にAFがふらふらしていてまるで追い付いていない。目標対象が小さすぎるせいなのかな。ある程度の大きさがあればふらつかずに食いつきは良さそうにも思えるけど。
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 カットモデル。
 その後ろには各種センサーや基盤が並べられていた。
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 スケルトンモデルの隣にはシャッターユニットやマグネシウム外装、メタルシャーシ、プリズムなどが並んで展示。
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 GR Limited Editionも展示されていた。
 GRD一周年モデルなんかはえーーって感じだったけど、これはわりと良い感じ。
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 青部分は新機能。
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 ローパスセレクターの効果。実にわかりやすい。
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 今は色合いを見てAWBやCTE、太陽光などとホワイトバランスを切り替えているけど、このマルチパターンAWBなら頻繁に切り替えずに任せっ放しに出来るかなぁ。
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 測光切り替えがボタン+ダイヤル方式になったのは地味に喜ばしい。K-7やK-5IIsでは測光切り替えレバーにストラップが引っ掛かって測光モードが変わっていたなんてことも珍しくなかったし。
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 社名がリコーイメージングに変わったからか、添付現像ソフトからPENTAXの名前が消えてDigital Camera Utilityだけになってしまっているのが微妙に寂しいが、機能的には正に待っていた仕様だ。Lightroom 5を導入しようかと思い、今回はLightroomの体験版で現像していたりするのだが、これならDCU5でも良さそうだなぁ。

 うむ、K-3いいなぁ。でもK-5IIsでなにも困らんと言うか充分すぎるくらいだし、なによりまだ買ったばかりで大して使ってもいない。そしてDCU5がかなり良さそうな感じになってもいるし、後継機待ちでもいいかな。どうせPremium Silverはもう手に入らんし。
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須賀神社(野木町友沼)

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 上羽毛田自治会館前に鎮座する須賀神社(下都賀郡野木町友沼943)。
 須賀神社と言うことは御祭神は素戔嗚尊なのだろう。由緒等は不明。
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 栃の木。

 以上で10月19日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、DA70mm、50-150mm II。Coolpix P7100。

水神宮(野木町友沼)

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 思川左岸に鎮座する水神宮(下都賀郡野木町友沼)。
 対岸にも水神宮が鎮座しているが、そちらとは違い、こちらは石祠だけ。
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 稲荷神社のある乙女寒沢古墳の位置確認の為にGoogleストリートビューを見ていたら偶々発見。そしてその肝心の乙女寒沢古墳なのだが、個人所有である為に事前に見学許可を取る必要があるようだ。
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 水神宮のすぐ西側を流れる思川。
 左奥の青い橋は友沼橋。更にその向こうのアーチの付いた橋は松原大橋。

星宮神社(野木町潤島)

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 JR東北本線No.80星の宮踏切のすぐ東側に鎮座する星宮神社(下都賀郡野木町潤島610)。
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 参道左手側に沿革碑と力石。
『星宮神社沿革碑
當星宮神社は掛けまくも恐き磐裂神根裂神を齋き祀る御社なり古記録の傳る所に依れは天正十一年(1583)閏島村開基の時勧請し其後享保十九年(1734)二月十五日通稱星宮家と稱する新井助太郎氏の祖と時の自性院大雲寺住職と共に京に上り正一位の宗源宣旨を奉戴したるものと傳ひ爾來大祭日には今尚星宮家にて幣帛を奉るを例とす大祭は九月十八十九日の兩日なり明治維新の際太政官布達により神佛混合を禁せられ野木神社社司海老沼友喜同社掌熊倉多作の兩氏兼務せしが大正六年(1917)熊倉氏辞任大正十一年海老沼氏歿後子息忠雄氏代りて兼務せしが昭和十二年(1937)同氏歿後間々田八幡宮社掌栗原政次氏現に兼務社掌たり明治五年(1872)村社に列せらる明治四十年(1907)八幡宮雷電神社嚴島神社愛宕神社天満宮須賀神社を合祀し奉る現在境内四百六十五坪不動産は田三反一畝十三歩畑二町五反三畝歩内田七畝十一歩は元官有溜地なりしを明治二十三年(1890)時の氏子總代針谷徳左エ門須田鎌三郎新井覺之進の諸氏隣地主新井藤吉氏の名義を以て拂下け爾來祭田と称し年々其耕作米にて神酒を醸し大祭に神饌に供す同氏歿後神社名義に更め社地となす畑二反三畝歩は八幡宮跡地畑三反八畝十二歩は雷電神社跡地なり時の社掌海老沼熊倉兩氏氏子総代新井鐵次郎須田奥次青木三七蔵諸氏の是に関する努力少からす畑一町一畝十歩は大正三年(1914)官有地を拂下く社掌兩氏と氏子総代須田営重郎針谷音藏須田清右エ門諸氏の想像以上の努力の結果無償社地となりたるものなり田二反四畝二歩は元官有溜地なりしを大正十年(1921)耕地整理施行の際時の區長新井助太郎村會議員須田栄藏委員青木吉右エ門諸氏の奔走努力により無償社地となる畑銃八歩は須田義氏の献地なり茲に皇紀二千六百年奉祝記念事業として社号標建設に當り當社の沿革の大畧を記し後世に傳へんとす
 瀬端三樂謹書』
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 拝殿。
 神仏判然令施行以前は虚空蔵菩薩を本尊として祀っていたことから、この辺りでは鰻を食べないと言う風習が残っているのだそうだ。これは鰻が虚空蔵菩薩の眷属であるからなのだが、このような地域はあちこちに見受けられる。
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 文化二乙丑年(1805)九月造立の狛犬。
 吽像の方は頭頂部にモヒカンと言うかトサカのような突起が、阿像の頭頂部には小さな突起ある。また、どちらもドリルのような尻尾が特徴的だ。
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 別角度で。
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 社殿斜めから。
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 稲荷神社。
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 末社殿。
 天満宮、愛宕神社、須賀神社、八幡宮、厳島神社、雷電神社の六社が合祀されている。
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 御神木……かな?
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 庚申塔と青面金剛。
 左の青面金剛は享保元丙申年(1716)九月、右は延宝八庚申年(1680)霜月の造立。右端の庚申塔は萬延元年(1860)庚申十一月の造立。
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 遠景。

龍神社(野木町若林)

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 根渡神社から東北新幹線の橋梁沿いに北上して行くと上原接骨院の看板が見えて来るので、その手前で西へ向かうと龍神社入口の案内板が見えて来る。後は狭い道を進んで行けば龍神社(下都賀郡野木町若林387)に到着。
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 社号標石そばの石祠。
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 鳥居。
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 拝殿。
 大正八年十一月二十八日奉納の額には八龍神社、大正四年奉納の額には龍神社と書かれている。鳥居前の石造旗柱にも八龍神社と刻まれているが、龍神社の名前に固定されたのはいつなのだろう。
『主祭神 高龗神
 創立は建久二(1191)年。若林村の総鎮守である。元禄年間(1688~1704)に社殿を改築。安政三(1856)年八月暴風で境内の大木が社殿の上に倒れて大破したため、近隣村の応援を得て、万延元(1860)年に社殿を新築。昭和五(1930)年に村社に列せられた。同一○年本殿を新築し、拝殿を改築した』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 昭和十年十一月造立の狛犬。
 龍神社だけあってか、狛犬の顔付きもどことなく龍っぽい雰囲気がある。
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 別角度で。
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 更に別角度で。この角度では狛犬の尻と言うか後脚の辺りが人の顔っぽく見えるが、まぁシミュラクラ現象。
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 本殿後ろから。
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 末社殿。
 左から稲荷神社、雷電神社、愛宕神社。
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 末社。
 何神社なのかは不明だが、台座には「平成五年建立上原家氏神」と刻まれている。

稲荷神社(野木町南赤塚)

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 大塚古墳々頂に鎮座する稲荷神社(下都賀郡野木町南赤塚)。
『県指定史跡 大塚古墳
 昭和三十二年六月三十日指定
 大塚古墳は、地元で「五界塚」と呼ばれる御門古墳群の1つです。五基の古墳が存在したとされていますが、現在では四基しか確認できません。大塚古墳は方墳で、その規模は一辺の長さ約二十三メートル、高さ約三・五メートル。墳丘は明確な方形状をなしていますが、北西コーナーで少し崩れています。墳頂部は長辺約九メートル、短辺約八メートルの長方形状をした平坦地です』
 案内板の左に立つ標石の側面には「昭和三十二年八月二十七日指定」「昭和五十六年三月二十五日建之」と刻まれている。指定日におよそ二ヶ月のズレがあるが、どう言うことだろう。
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 墳丘。
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 稲荷神社……だよね?
『栃木県指定史跡 大塚古墳 1基
 所有者 木本タネ
 昭和32年8月27日指定
 茨城県との境界付近に位置しており、現存する墳形から判断すれば、方墳であると推定される。
 現存墳丘は、方形を示し、一辺は約23メートルであり、高さは約3.5メートルである。
 墳頂部は長方形状を示しており、長辺は約9.2メートル、短辺は約8.2メートルである。周湟部は不明』
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 左端の石祠には「月天・日天」と刻まれ、その下に「疱瘡神水善■・男體三社権■・天照大皇神・根渡赤■■」と刻まれている。その右には粟島大明神と上岡島馬頭観世音。
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 西国坂東秩父観世音巡拝塔と元祖身録線刻碑。
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 身録線刻碑があると言うことは、こちらには浅間神社があったのだろうか?
 画面左端では馬頭観世音が倒れめり込んでいる。

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 稲荷神社のある墳丘の北側にある低い墳丘二つ。
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 片や墳頂に小さなお狐さま。
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 片や墳頂に湯殿山・月山・羽黒山、山川不動尊。

北野天満宮(野木町南赤塚)

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 栃木県道294号東野田古河線に面して鎮座する北野天満宮(下都賀郡野木町南赤塚)。
 この脇の道を250m程北上すると根渡神社の一の鳥居前に到着する。位置的に見て境外末社だったりするのかなと言う気もするが、石碑などには特に記されていなかったので違うかも。

根渡神社(野木町南赤塚)

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 東北新幹線橋梁西側に鎮座する根渡神社(下都賀郡野木町南赤塚844)。
 参道は長く、二の鳥居まで凡そ200m程。
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 参道。途中には堀の跡なども見える。こちらは小山氏の家臣であった針谷河内守の館跡であるのだそうだ。
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 二の鳥居。
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『根渡神社改築記念之碑
当根渡神社は大己貴命を齋奉する所にして其の創立年代詳らかならずと雖も文禄年間(1592~96)再建し更に寛延元年(1748)改築を行いし社殿にして爾来三百有余年の星霜を経神殿は天明三年(1783)十一月吉日奉造遷宮されたるものなりしが社殿の腐朽破損著しく追次修理を施し来りし時恰も昭和二十四年(1949)四月國家より境内一千二百三十六坪余の無償譲与を受け続いて法人法の改定講和発効を機とし天下泰平國土安寧を祈願し茲に本殿拝殿幣殿瑞垣等一切の改築動機成立し建築材の大半は境内の立木を當て不足材にありては氏子全般より多大の資材と労力の援助を得昭和二十七年四月工を起し本年二月二十日上棟本日茲に全く崇嚴清美なる社殿の完成を見るに至りぬ是偏に神明加護の賜物たるは勿論敬神の念篤厚なる氏子崇敬者の盡力と工事担当委員の熱烈なる誠意に■れるを記念し亊■の大略を刻して後世に伝へんとするものなり
 昭和二十八年四月十日 野木神社宮司海老沼秀雄撰文』
 ■の部分は略字になっていて判り難い。
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 天満宮と修改築記念碑。
『根渡神社並末社修改築記念碑
 当根渡神社末社赤木神社・佐室神社・伊津嶋神社参社の合祀は其の年代不詳なるも鞘堂棟札及び納額等によれば享和年間(1801~4)に改築を行いし社殿と推定せられ爾後百八拾余年の星霜を経又旗竿御舎は大正十一年(1922)改築以来約六十年を経過し遂次修復を施し来りしが近年更らに腐朽著しくいづれも老朽化した爲に氏子一同相謀らい末社々殿鞘殿及び旗竿御舎の改築並に根渡神社玉垣拝殿屋根等修復動機成立し氏子全般に亘り多大の資材労力の援助を得て昭和五十五年(1980)十月工を起し堂縁十一月茲に崇嚴清美なる社殿の完成を見たものなり
 是偏に御神徳の発揚と産土神の加護によるは勿論敬神の念篤き氏子崇敬者の誠意盡力によるものにして各位の長久発展を祈願し石文とし後世に伝えるものとす
 昭和五十五年庚申十一月吉日 根渡神社宮司 海老沼雅夫撰文』
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 狛犬。
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 拝殿。
『主祭神 大己貴命
 創立年代は不詳だが、承平年間(931~38)、平将門の時代にこの地方の豪族の守り神であったという。文六年間い社殿を再建。寛延年間に改築。天明三年に奉遷。その後修理を重ね、昭和二八年に現存の社殿を建造した。平成一四年(2002)火災で焼損したため、再建を図り、平成一六年一一月新社殿の完成をみた』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 近くに居たお爺さんが言うには三年程前に悪戯で放火され、一部造り直したのだそうだ。向拝柱や虹梁の色が違うのはそのためなのだと。また賽銭泥棒も現れるとのことで、なんとも嘆かわしい話だ。
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 社殿斜めから。
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 末社殿。
 こちらには愛宕神社、佐室神社、赤城神社、厳島神社、稲荷神社が祀られている。修改築記念碑に記されている伊津嶋神社が見当たらないが、もしかしたら伊津嶋神社=厳島神社なのだろうか。
 手前には井戸。こちらの神社を参拝中に何組もの人達がこの水を汲みに来ていたので何か謂れのある水なのかと思い尋ねてみたら、ただ単に美味しい水だから皆汲みに来るのだとのことだった。

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 根渡神社の一の鳥居の西、十字路脇に鎮座する青面金剛と庚申塔。
 青面金剛は享保元丙申年(1716)十一月の造立。中央の庚申塔は側面に寛政十二庚申龍集霜月吉良辰とあるので1800年の造立。右の庚申塔は不明。

神明宮(野木町中谷)

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 南赤塚の日枝神社から少し南西に向かった所に鎮座している神明宮(下都賀郡野木町中谷391)。
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 狛犬。
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 参道の両脇に並ぶ石燈籠と拝殿。
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『神明宮境内無償譲與記念碑
當神明宮は大日孁命を齋祀り軻具土命を配祀せる社にして寛文六丙午年(1666)十一月の創建と傳ふ其後二百七拾年の歳月を経て去る昭和十一年(1936)本殿拝殿瑞垣等全部を改築し実に崇嚴清美なる社殿を見るに至りしが昭和二十年(1945)八月十五日大東亜戰爭の終結に伴ひ國政上にも多大の変動を耒し神社の如きも一の宗教として全く國家と分離せられ社格も消滅するに至りぬ從つて数百年來鎮座したりし是の境内も國有地として返還の止むなきに至れるを七十数戸の氏子深く憂ひ幾多の擧証傍証を添へて是れが譲與を申請したるに昭和二十五年六月二十一日指令社第七八一八号を以て大字中谷字小屋前三九一のイ及びロの二筆を合せ境内地一三五七坪九二勺を立木共神明宮に無償譲與する旨関東財務局より許可せらるゝに至り茲に全く神明宮として前記境内地を確保するを得永久不動の基を作りぬるを喜び茲に碑石に刻して是を後世に傳へんとす
 宮司 海老沼秀雄 撰文』
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 大正十四年(1925)二月造立の狛犬。
 この角度では羽根が生えているようにも見える。
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 まぁ尻尾なんですけど。
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 本殿脇の狛犬。
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 末社殿。こちらは旧社殿であるそうだ。
 疱瘡神社、朏神社、稲荷神社、加波山神社、大杉神社、愛宕神社の六社が合祀されている。栃木県神社誌には朏神社ではなく月出神社と書かれているが、まぁ同じだろう。

日枝神社(野木町南赤塚)

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 野木町立南赤塚小学校の南西に鎮座する日枝神社(下都賀郡野木町南赤塚1323)。
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 拝殿。
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 末社があったのかな?

星宮神社(野木町丸林)

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 野木町役場の東側に鎮座する星宮神社(下都賀郡野木町丸林572)。
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 鳥居脇に道祖神。
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『星宮神社沿革
 当神社は大字丸林六百三十二番地に在り磐裂根裂の二神を祀れる所にして其創立詳かならずと雖宝永三年(1706)并宝暦九年(1759)領主への書上帳に「星宮神社境内七田二反歩畑三反歩御代々御除地被下候」とあるに依れば其以前の鎮座たるや必せり 其後明治五年(1872)村社に列せられ同四十年(1907)二月雷電神社愛宕神社嚴島神社日野大神社を合祀し其の跡地雷電神社分四畝六歩愛宕神社分五畝十二歩嚴島神社分二畝二十四歩日野大神社分七畝三分は明治四十年二月二十五日無償譲與を受く同四十一年三月氏子一同より石鳥居を又真瀬八郎治氏より旗竿を奉納同四十二年五月更に嚴島神社を合祀し其の跡地二十四歩を無償譲與せらる同四十三年六月許可を得て元國有林四反三畝三歩二反一畝十歩三反二畝四歩の三筆を立木共購入越へて大正に入り拝殿の改築を企畫し同三年(1914)五月より氏子の寄附を募りて一千○八十三円を集め更に許可を得て社木の伐採をなし代金八十一円五十銭を得合計金一千百六十六円五十銭を以て同五年九月工事に着手し翌六年七月に竣工を見るに至りぬ 次いで昭和二十一年(1946)十一月野木中学校へ當時の村長柿沼延次氏より寄贈せられたる元奉安殿を村より譲受け工費八万餘円を費して之を本殿に改装し更に社木を伐採して玉垣の新築をなし全く崇嚴清美なる社殿の完成を見るに至りぬ 其後法令の改革により証憑書類として宝永三年八月并に宝暦九年五月領主への書上帳等を添えて出願同二十四年境内地千百九十二坪の無償譲與を受け茲に宗教法人法による星宮神社の設立を遂げぬ而して同十二年四月眞瀬要之進氏より狛犬を同二十四年十一月岡村栄次郎氏より灯篭の奉納あり又同三十年一月社有地の内畑四反三畝三歩を本村中学校敷地として贈與し以て今日に至りぬ
不肖吾等祖先の崇高なる神の遺業を継承して神徳を永く子孫に傳へんと其由緒并に沿革の大要を記してこの碑を建立し氏子六十一戸一致団結して神社の尊嚴を保持し益々長隆盛を図らんと志す者也
 昭和三十年八月一日   宮司 海老沼秀雄 撰文』
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 拝殿。
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 社殿斜めから。
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 昭和十二年(1937)四月造立の狛犬。
 奉納者に眞瀬要之進、同きよと刻まれているので、沿革碑に記されている狛犬がこれなのだろう。
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 愛宕神社。
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 須賀神社。
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 末社群。
 左から大杉大明神、須賀神社、厳島神社、日野大神、雷電宮。

愛宕神社(野木町友沼)

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 国道4号線小山バイパス役場入口交差点の南、4号線脇の観音堂から少し東に入った畑の中に鎮座する愛宕神社(下都賀郡野木町友沼848)。
『主祭神 火結神
 創立は詳らかではない。天保一二(1841)年に友沼村大火のおり、社殿、旧記をすべて焼失した。その後、社殿は天保一五年に再建された。明治三八年には、社殿が破損したため修理を行なった』(「栃木県神社誌」より抜粋)
 栃木県神社誌に載っている写真では流造の立派な社殿なのだが、はてさて。ググってみると2011年12月末頃まではここに塚があり、その頂に愛宕神社が鎮座していたことが確認できるのだが、それ以後どうなったのかはわからないものの、現在はこの通り。鳥居も以前は石造りの明神鳥居であったようだが、うーん? 塚まで無くなっているところを見ると、単に焼失したと言うわけでもないのかな。

鷲神社(外城)

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 小山総合公園の北東、鷲城跡に鎮座する鷲神社(小山市外城272)。
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『史跡 鷲城跡
 康暦二年(1380)から永徳元年(1382)にかけて小山氏十代の義政は、三次にわたって関東公方(足利将軍家の分家)足利氏満の軍勢と戦いました。「小山義政の乱」と言います。
 この乱の原因は、勢力を拡大した小山義政を抑圧しようとする氏満の策謀があったとされ、その指令を受けた関東各地の武士たちが、小山に攻め寄せました。最初の蜂起で館(神鳥谷の曲輪か)を攻められた義政は、二度目の蜂起となる康暦三年には鷲城に立て籠もって戦います。しかし義政は結局破れ、その翌年粕尾(粟野町)で自殺しました。
 鷲城は思川や谷地・低湿地に囲まれた要害で、東西約400m、南北約600mで、中城と外城の二つの郭からなり、当時としては広大な城郭でした。中城の空堀・土塁が明瞭に残存し、鷲城の名の由来となった鷲神社が鎮座しています。南北朝時代の城郭がこれほどよく遺存し、関連する文献資料が多数伝来しているのはきわめて稀な例で、貴重な史跡と言えるでしょう。
 平成三年三月十二日 国指定』
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 参道入口脇に並ぶ祠二つ。
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 参道は長く、200m程はあろうか。
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 拝殿。
『主祭神 大己貴命
 天慶年間(938~47)の創立。藤原秀郷が東国下向の折、武蔵国鷲宮明神に将門討伐を祈願し、その後、下野に下向し、下野国小山に鷲宮明神を勧請したのが、当社の創建であると伝えられている。その後、近郷近在の人々より子児の風邪・百日咳を治すなど、病気平癒の御神徳から信仰され、例祭日には卵の授与と奉納があって、殊に賑わっている。明治五年村社となる』(「栃木県神社誌」より抜粋)

 栃木県神社誌には上のように記されているが、ググってみると武蔵国太田荘の鷲宮神社から小山義政がこの城に勧請し、それにちなんで鷲城と名付けたともあるので、早くとも小山義政が父氏政の後を継ぎ下野守護職となった文和四年(1335。南朝の元号では正平十年)以降。応安五年(1372。南朝の元号で文中元年)頃の築城であろうと書かれているところもあったので、こちらの鷲神社の創立もそのあたりになるのではないだろうか。
 ちなみに武蔵国太田荘は藤原秀郷の後裔である太田氏の本拠地で、小山氏はその太田氏から派生した一族であることから、鷲宮神社との縁があったのだろう。
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 斜めから。
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 狛犬。
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 境内社建立記念碑。
 これを見ると、熊野神社と八幡宮、愛宕神社、水神社、雷電神社、三峯神社、耳治神社の計七社が祀られているようだ。ところで耳治神社と言う名は初めて目にしたのだが、どなたを祀っているのだろう?
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 末社。
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 鷲神社から土塁側へ向かうと、こちらにも末社。
 横矢と書かれた看板があるので、この辺りから矢を射掛けていたのだろうか。
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 虎口と書かれた看板を横目に歩いて行くと、堀跡を経て小山総合公園へ続いている。
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 堀跡。この先はまた土塁。

 以上で10月12日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA21mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm。Coolpix P7100。

稲荷神社(石ノ上)

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 国道50号岩舟小山バイパスに架かるすがた橋歩道橋の南250m程の位置に鎮座する稲荷神社(小山市石ノ上598)。
『主祭神 稲倉魂命
 創立年月日不詳。江戸時代に鎮座したものと思われる。御祭神は、五穀豊穣・商売繁盛・家内安全の御神徳をもつ。境内に、雷電神社がある』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 拝殿横から。
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 雷電神社。
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 神輿庫。
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 庚申塔と青面金剛。

水神社(塩沢)

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 間中稲荷神社の北330m程の位置に鎮座する水神社(小山市塩沢960)。
 駐車場は無いが、80m程北東に塩沢集落センターがあるので、そちらに駐車。
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 拝殿。
『主祭神 水速玉命
 創立年月日不詳だが、江戸期と思われる。御祭神は、五穀豊穣および水防の御神徳をもつ。鳥居は杉材の両部鳥居である』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 南側から。
 左側の小屋は神輿庫。
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 塩沢集落センター脇に鎮座する薬師堂。
 南宮山と書かれた額が掛けられている。南宮大社は金山彦命を主祭神とするが、明治以前はその境内に薬師堂があったそうなので、そちらから勧請したものなのかも知れない。

稲荷神社(間中)

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 間中集落センターの東隣に鎮座する稲荷神社(小山市間中1369)。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
『主祭神 稲倉魂命
 創立年月日不詳。宝永五(1708)年一二月一三日、京都神祇官より正一位稲荷大明神の贈位状を賜わる。明治初年、稲荷神社と改め、同五(1872)年郷社、同一○(1877)年村社となる。明治四○(1907)年、愛宕神社と浅間神社を合祀した。本殿は、正徳五(1715)年の完成で、木鼻に唐獅子、家の丸彫などの装飾が施された貴重なものである』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 拝殿斜めから。
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『間中稲荷神社本殿
 一間流造の本殿で、屋根はこけら葺き、身舎の正面と側面に高欄付きの縁をまわして背後に脇障子を立て、前面に向拝を設ける。近世の本殿としては最も一般的な造りであり、その特徴となる装飾彫刻に関しても、木鼻に唐獅子や象の丸彫、脇障子や蟇股に透し彫、胴羽目や縁下小壁に素朴な浮彫が施され、いずれも彩色されている。県内各地の本殿がより精巧な彫刻で覆い尽くされるようになるのは江戸時代中期以降のことであり、この本殿はその直前の状態を示している。
 本殿の完成は正徳五年(1715)、大工は旧真弓村の人見又兵衛であったことが、現存する棟札によって知られる。この他、銅板の高欄擬宝珠にも「正徳四年」の刻銘が残されている。
 小規模ながら神社建築の装飾が彫刻化していく過程を知りうる好例であり、市内に現存する最も古い本殿の一つでもある。
 指定年月日 平成五年十二月一日
 所 在 地 小山市間中一三六九番地』
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 本殿南面の彫刻。
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 本殿東面(背面)の彫刻。
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 本殿北面の彫刻。
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 愛宕神社鳥居。
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 愛宕神社。
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 左の石祠二基はどちらも天神社。その右に浅間神社。それから天満宮・八龍神社・大杉神社・湯殿山神社・須賀神社・神明宮の末社殿。その奥には日露戦役軍馬徴発記念碑と石祠。

浅間神社(網戸)

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 藤塚古墳頂に鎮座する……否、鎮座していた浅間神社(小山市網戸2729)。
 毘沙門山古墳前の案内板には消滅した古墳として田辺遺跡古墳(藤塚古墳)の名が記されていたが、それがここ。墳丘は残っているが、前方後円墳であるのかどうかは見た感じではわからない。
 駐車場は無いので、200m程南西にある藤塚公民館前に駐車。
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 靖国鳥居と狛犬。
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 狛犬。
 頭部の破損が激しい。
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 上から見るとすさまじい抉れっぷり。
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 それ以外の場所はきれいに残っているのにねぇ。
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 そして鳥居をくぐると、社殿が……無い!
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 端の方には崩れた石などが置かれているから、なんらかの理由で倒壊してしまったのだろう。やはり東日本大震災の影響だろうか。
 隣の神殿改築之碑には「大平山ノ東思川ノ西呼子ノ池ニ臨ミテ鎮座マシマス網戸淺間大神ハ古ヨリ其ノ名高ク靈験殊ニ顯著ニシテ廣ク万衆ヲ救ヒ給ヒ境内ノ靈泉ハ洽ク病症ヲ治シ今ニ及ンデ神威赫々タリ(以下略)」などとは記されているが、由緒等は記されていないので創建時期などは不明。また、栃木県神社誌にもこちらの神社の記述は無い。
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 小御岳石尊大権現と青面金剛。

毘沙門山古墳(中里)

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 JAおやま西部共乾センター(小山市中里528-1)のすぐ南側に位置する毘沙門山古墳(小山市中里)。
 この前の道を西へ1km程向かうと中里神社がある。
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『栃木県指定 史跡 毘沙門山古墳
 所有者 増山徹
 昭和32年8月27日指定
 この古墳は帆立貝式の前方後円墳で、墳丘は南東に面している。前方部と後円部の南側から南西部の裾部が削平されているが他の部分は原形をほぼ保っている。古墳の正確な規模は不明であるが、周湟確認調査によると推定全長41.2m、後円部径34m、高さ5.18mで周湟幅は約1.2mである。この時の調査で周湟内から壺形、甕形、高杯形の土師器や円筒埴輪片が出土しており、これらの出土遺物から築造時期は5世紀後半と考えられる』
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『小山市の南西部、巴波川と与良川との間に広がる中里・鏡の地区には、方約1キロメートルの範囲にかつては5基の前方後円墳と7基の円墳が、5世紀末から6世紀に造営され群在し、寒川古墳群とよばれた。
 いずれも標高20メートル程の沖積地に立地している為、農耕適地として開墾や圃場整備が進められる
中でつぎつぎと削平され、現在は県指定史跡毘沙門山古墳(全長41メートルの前方後円墳)を残すだけとなっている。
 5世紀代にはすでにこの地域を握った首長層が居住し、この勢力は後期古墳にも持続したと考えられる、この旺盛な力があればこそ大化の改新の後、この地を中心に「寒川郡」が下野国の一部として成立したことが理解されています』
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 東側から。
 墳頂に祠があるのが見えるが、何を祀っているのかは不明。毘沙門山古墳と言うくらいなのだから、毘沙門天なのかな。

白山神社(網戸)

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 網戸中坪集会所の南側に鎮座する白山神社(小山市網戸)。

愛宕神社(網戸)

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 栃木県道173号萩島白鳥線と県道160号和泉間々田線が交差する網戸大橋西交差点の南、追切公民館脇に鎮座する愛宕神社(小山市網戸)。
 手前の赤い祠は観音堂。
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 八坂神社御祭礼と書かれた火袋が置かれているが、八坂神社が合祀されているのだろうか。
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『愛宕神社由緒
 本社の祭神、火産霊神をいつ創祀したか■■■不詳であるがかつて当社は、東流する思川■■■にあって、西に氏子の屋並を睥睨し、これ■■■して鎮座していたが、大正五年四月、現地■■■した。
 そもそも愛宕神社はその性格としては「火の神」であるが、これはまた村境にあって、村落を守る社でもあった。
 佛教伝来後、神道と佛教とが習合し、仏(本地)が衆生を救うために、権に神の姿となって現われた(垂迹)とする考えが広まった。これによって、愛宕神社の本地仏は勝軍地蔵とされ、愛宕権現とも称されるようになった。
 この習合は、愛宕神社と地蔵尊が元来境界や大地に関係していると云う相似性によるものであるが、更に勝軍を冠するに到ったのは境の神、塞の神を塞地と呼ぶところからの転訛であるという。
 しかもこの勝軍という名によって中世武人の大なる崇敬の的ともなったのである。
 さて当愛宕神社は村境に鎮り良民の安寧を守って幾星霜、明治三十九年四月十日社殿は一新され遷宮にもよく耐えたが、この度老朽化を嘆く氏子一同の総意は、ここに新築の美を更に■わった。
 古来、当社の例祭は、十月二十四日である。
 昭和六十二年丁卯十月吉日』

 火袋の位置がもう少しずれていれば全文読み取れたのだけどなぁ。

網戸神社(網戸)

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 曹洞宗長慶寺の東に鎮座する網戸神社(小山市網戸2025)。ちなみに「あみど」ではなく「あじと」と読む。
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『網戸城跡
 網戸城は思川と巴波川を自然の砦とする面積約十・八ヘクタールの平城でした。
 築城は鎌倉時代(1185~1333)の初めで、初代城主は網戸十郎朝村です。結城家出身で、父は結城朝光、寒河尼(小山政光の妻・頼朝の乳母・地頭職)を祖母とし、結城家領の網戸郷を治めました。
 網戸氏は代々の城主を継承しましたが、南北朝(1336~92)の争乱で、重朝が奥州で討死にし、子の村重は結城合戦(1440~4)で敗れ、会津の葦名氏の家臣となり遂に廃城となりました。
 城址は大字網戸字追切・折本の両字にわたり、西城・中城・外城・御古座・陣屋、その他御城沼・しらじ沼と称する城囲堀などの地名が残っています。城址には網戸神社・旧網戸小学校跡・称念寺(寒河尼と朝村の墓所)があります』
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『網戸神社由緒
 当社の主祭神、田心姫命(水運の神)をいつ頃勧請したか未だ明らかではないが社殿の再建は、平城天皇の御代、大同元年(806)十月二十八日である。
 醍醐天皇の御代に、延喜式内に列したともいわれたが詳らかではない。
 天慶二年(939)、藤原秀郷卿は、平将門追討に際し当社に祈願し、戦勝の砌、金百貫文を奉納した。
 源頼朝も、文治三年(1187)、小山政光の妻、寒河尼を当地方の地頭職に任じ、当社に領地を寄進した。以来、尼公をはじめ、歴代の網戸城主の崇敬も篤く、小山家の定紋「左二ツ巴」を、当社の神紋としている。
 この頃、藤原一族の祖神、天児屋根命(人神の間をとりもつ神)を併せて祀った。
 江戸時代、後光明天皇の頃より、寛政、文政にかけて社格問題その他で揺動し、かつ曲折した。
 かくてその後、古河藩の治下にあっては、在郷の篤志家等が、神官を輔翼して、当社を護持し、維新を迎えた。
 明治新政府は、国家神道の観点から、神社の再編成をなしたが、当地方は大幅に遅れた。
 大正三年(1914)五月二十日、渡良瀬川改修工事の一環として堤防拡幅がなされ、当社は、本宿二四四八番地千古の社より、旧城内に遷宮した。
 この年の八月十九日、沼ノ台の浅間神社、庚申塚の皇宮神社、高場の熊野神社、折本の奥瀬神社、本宿の八坂神社、大境の神明宮を合祀し、既存の水神宮、天満宮、千形神社、権兵衛稲荷神社、三峯神社等を共に境内神社とした。
 神事は、陰暦二月十五日(湯立)、六月十五日(八坂神社の祇園祭)、九月十三日(十三夜)及び陽暦十一月二十七日(八郷廻りの御出)、十二月二十三日(稲荷神社の冬至祭)である。
 神職は、天正以降、小山家譜代久楽持家の世襲である。
  天地のつきることなく緑なす
   このふるさとの神をしそおもう
 昭和五十九年甲子秋』

 栃木県神社誌には皇宮神社ではなく星宮神社と記載されているが、はて、どちらが正しいのだろう。皇と星は文字の形が似ているから、どちらかが読み間違えているのだろうと思うが、この辺りには星宮神社が少なくないので皇宮神社より星宮神社の方が有り得るように思える。しかし本殿脇の境内社には皇宮神社の名が記されているので、やはり皇宮神社なのかなぁ。小山市には橿原神社があるから、御祭神を同じく神日本磐余彦命とする皇宮神社があってもおかしくはないけれど。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 狛犬。
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 狛犬。
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 北向天満宮。
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 左側の石祠は不明、天満宮。
 覆屋の中の石祠は左から三峯神社、千形神社、水神社、熊野神社。
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 稲荷神社鳥居。
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 稲荷神社。
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 八坂神社と奥瀬神社・皇宮神社。
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 冨士浅間大神。

琴平神社(間々田)

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 龍昌寺の南東、国道4号線小山バイパス脇に鎮座する琴平神社(小山市間々田1137)。
『主祭神 大物主命
 創立年月不詳。合社した浅間神社社殿に大同二(807)年鋳造の鰐口があったが、神仏分離により神鈴に掛け換えたとあえう。当社の西の思川は乙女河岸に続く川端で、荷上げするのにするのに適していたし、間々田宿の南にあたり、ここに当社を祀り、河川交通の安全を願ったのではないかと伝えられている』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 三峯神社。
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 4号線側から。
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 歩道橋上から。

寝起不動尊(間々田)

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 曹洞宗天恵山龍昌寺の境内に鎮座する寝起不動尊(小山市間々田1320)。
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『寝起不動尊縁起
 当山の寝起不動明王は、むかし水戸場内龍江院に祀られてありましたが、元亀(1570~72)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に立たれた。然し和尚は老弱であり日毎に衰弱がひどく、当地に辿りつくと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには「この地こそ我が済度化縁の地なり、人々の秒難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と和尚は寝起され、思わず尊像をお拝すると疲労と病が一時に消えて杖も使わずに立ち上がれたという。そこで人々は寝起不動尊と呼んで、万難消滅、万福生来を祈願してお堂を建てて尊像をお祀りしたといわれる。それ以後三十三年を一期として御開帳祈願が行われている。現在のお堂は延享二年(1745)に建てられたものです』
 前回の御開帳は2007年9月29,30日だったそうで、とすると次の御開帳は2040年か。まだまだ先だねぇ。栃木県曹洞宗青年会公式サイトにその時の様子の記事があり、そちらから寝起不動尊の御姿を見ることができる。
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 不動堂の南面破風の虹梁に黒鬼、北面に赤鬼の面が付いている。
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 山門。
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 内側から。
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 鐘楼と宝篋印塔。
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 不動尊立像と十九夜塔。
 十九夜塔には几号(「不」のマーク)が付いており、以前は几号水準点を兼ねていたのだろう。
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 青面金剛。
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 龍昌寺本堂。
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 中央右側の石柱には「大猷院殿贈正一位大相國公尊儀 徳川三代将軍家光公 霊棺御一泊之碑」と刻まれている。
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『徳川三代将軍家光公(大猷院)は、慶安四年(1651)四月二十日示寂、上野寛永寺より同年四月二十四日、御霊棺奉行酒井讃岐守源忠勝以下数百名の行列により、御尊骸を日光山へ送葬途中四月二十六日等山に一夜御宿棺、四月二十八日日光山へ御到着になる。是故に御朱印七石を賜る』
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 境内。

乙女不動尊(乙女一丁目)

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 乙女かわらの里公園の北隣、真言宗豊山派御瀧山明王院泉龍寺境内に鎮座する乙女不動尊(小山市乙女1-25)。
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 参道。
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 不動堂。
 こちらの御本尊である不動明王像は秘仏であり、二十五年に一度御開帳されるとのことで、次回は2026年の予定であるそうだ。
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 何故かいる狛犬。
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『乙女不動尊再建記念碑
 正徳四年(1714)泉龍寺中興の祖、淳元大和尚により不動堂は建立され近郷近在に多くの信仰を集めておりました。
 大聖不動明王(伝説によれば、日光中善寺湖中より発見されたと伝えられ、又は正慶二年(1333)の作か、南北朝時代北朝の年号)をおまつりしておりました由緒ある不動堂は平成七年(1995)八月十日落雷による火災にあいました。
 幸いにも住職により御本尊不動明王は無事搬出され、建物の貴重な文化的遺産である彫刻及び柱等は消失を免れることができました。
 再建に当たっては建設委員会を結成し、泉龍寺総代、世話人が当たり、町内会の協力を得ました。
 建築費の財源については、火災保険金及び壇信徒の浄財を勧募して充当致しました。
 建築は檀家の山中建築が請負、宮大工の生井建設と共同で施工され近郷にない立派な不動堂を再建することが出来ました』
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 水掛不動尊。
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『北関東三十六不動尊霊場第十三番札所
通称水掛け乙女不動尊
御水行場不動池に本尊秘宝大聖不動明王の御分身像を遷座し、旧跡文化の発祥地不動塚の岩清水の霊泉にて、水掛け不動尊のご身体を清めれば、家内安全・厄除災難・無病息災・ボケ防止一切の病苦を除去して招福を授かる功徳の霊験さり。只だ一心に念誦じ来れ必らず無明暗黒の中より大光明を発揮して心願成就す』
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 西側から。
 ぐぬぬ、ハレ切りしてもゴーストが…・・・。
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 泉龍寺本堂。
 泉龍寺の由緒などは公式サイトやWikipediaに書かれているのでそちらを参照。
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 本堂の裏手に回ると雷電神社が鎮座している。
 こちらについては泉龍寺のサイトにも何も書かれていないのでググってみると、泉龍寺が移転して来る以前、当地には古墳があり、その墳頂に祀られていたのがこちらの雷電神社であるのだそうだ。
 しかし雷電神社があるのに落雷による火災をうけてしまうとは、なんとも皮肉な話だ。

愛宕神社(生良)

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 先月参拝した水神社の北東に位置する田圃の中に鎮座する愛宕神社(小山市生良)。
 こちらは栃木県神社誌に記述が無く、詳細不明。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 末社。

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 愛宕神社南西の道路脇に鎮座する青面金剛と庚申塔。
 青面金剛は延宝八年(1680)霜月、庚申塔は万延元庚申年(1860)十一月の造立。庚申塔は下部に「左 はさまだ 向 へや 右 あじと」と刻まれている。道標でもあったようだ。

神明宮(下生井)

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 旧思川の北側、栃木県道174号南小林松原線の脇に位置する小谷城址に鎮座する神明宮(小山市下生井小谷1188)。
 駐車スペースはあると言えばあるが、狭い。なのでここから150m程北東に位置する、先月参拝した神明社前に駐車して、そこから徒歩で。
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『小谷城址 小山市下生井
種 別   平城(館)
所在地   小山市下生井小谷一一八八
立地・形状 平地・楕円形
      東西四町五○間
      南北三町二○間
築城年代  十二世紀末(平安時代末期~鎌倉時代初期)

 小谷城は小山市の西南端標高十六メートルに位置し、西の赤麻草原、旧巴波川や旧思川を天然の塞とし、堀・土塁をめぐらした平城でした。西北面に、円形の緩やかな流れを持った高さ約三メートル、幅約一○メートルの土塁は整地後消滅し、郭内は田畑となっています。
 築城者は小谷三郎俊景で、後に小山政光が城主となり、居住したと伝えられています。南北朝時代(1336~92)には、小山一族網戸村重が生井八郎と称し、小山の支城の役割を担っていましたが、結城合戦(1440~41)に破れ、奥州に逃れました。
 その後、小山秀綱が再興し、大橋左京亮を城代としましたが、天正十八年(1590)小山城落城とともに廃城となりました』
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 神明宮の社号標石の裏面には「小山秀綱公 小谷城 再興の砌 御祭神として伊勢皇大神宮より 勧請奉りました 神明宮である」と刻まれている。
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中里神社(中里)

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 栃木県道174号南小林松原線と栃木県道160号和泉間々田線が合流する中里交差点の北西、小山市立寒川小学校の南隣に鎮座する中里神社(小山市中里868)。
 三年前の参拝記録はこちら。先月28日にこちらにも参拝するつもりだったのだけど、小学校で運動会だかなんだかわからないけど何かやっていたようで、そのせいか境内にまで駐車されていたのでその時はパスしていた。
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 案内板。三年前には設置されていなかったなコレ。
『中里神社 小山市中里
 主祭神は菟道稚郎子命で、野木神社(野木町野渡)を総社とし、旧寒川郡七郷巡りの神社の一つです。「明神様」と呼ばれ、親しまれています。
 本殿は一間社流れ造りで、ケヤキ材を素木のまま用い、屋根は板葺きです。
 向拝の正面に千鳥破風と軒唐破風が設けてあります。
 とくに、本社の特徴は装飾彫刻です。《壁面》には、昇り龍・下り龍・浦島太郎・養老の滝、魚採りの透かし彫・柱上部《木鼻》には唐獅子・獏の丸彫りが施されています。製作年代は嘉永二年(1849)で、作者は磯部儀兵衛隆信(栃木市大平町冨田)と伝えられ、昭和五十五年(1980)市の有形文化財に指定されました』

『天暦一○(956)年一一月子の日、菟道稚郎子命を勧請したという。明治四四(1911)年一月二六日、同所字雷電無格社雷電神社・同所字下番場無格社愛宕神社を合祀、許可。野木神社の御神霊が氏子地域を巡回した七郷巡りの一社である。本殿は嘉永二(1849)年の造営で、小山市指定有形文化財である』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 社殿。

K-3

 PENTAX K-3発表キター!
 今まで*ist DS→(*ist DS2)→K10D→(K20D)→K-7→(K-5)→K-5IIsと一代置きに買って来てたから、K-3はスルーするつもりだったのだけど、K-3 Premium Silver Editionも発売だとぉ? ……あ、全世界で2,000台限定なのね。こりゃすぐに注文出さないと入手できないでしょ。そしてそんなすぐに予約を入れられる余裕などが自分にあるだろうか。いいや無い。
 それにしても、画像処理エンジンがPRIME IIからPRIME IIIに変更ってことは、処理速度とか上がってるんだろうなぁ。収差補正とかHDR合成とかも早いんだろうなぁ。K-3では周辺減光やフリンジの補正もできるようになっているし。K-5IIsで数少ない不満点の一つは処理が遅いことだから、これはすごく気になる。UHS-Iにも対応したからSDへの書き込みも早くなるだろうしなぁ。K-5IIsではSDHC UHS-I使っててもCLASS 10速度しか出てなかったわけだし。
 AFセンサーもSAFOX XからSAFOX 11になり、測距点が11点(内クロス9点)から27点(内クロス25点)に増えたり、F2.8光束センサーも中央1点から3点に増えたりと、従来のものから大きく変化している。尤も、個人的にはK-5IIsでも特に不満は無い。不満は無いが、良くなっているのならそれにこしたことはない。
 ファインダーは視野率は変わりないが、倍率が0.92倍から0.95倍になったのは素敵。K-7とK-5IIsで0.92倍に慣れてしまってはいるけど、これは大きい方がいいに決まっている。O-ME53を装着していたこともあるけど、あれちょっと見づらいのだよね。
 SRを利用してローパスフィルターと同様の効果を得られる機能も面白い。神社の屋根とかで偽色やモアレが出る時もあるし、使い分けできるのはいいよね。自動水平補正や構図微調整、O-GPS1と組み合わせたアストロトレ-サーなど、センサーシフト式手振れ補正をここまで活用してるメーカーは他に無いわな。
 あと、付属ソフトもPDCU4から5にバージョンアップしてるのね。PDCU4はそれなりに重宝してはいるけど、ちょっとアレだから改良されているのはありがたい。でも今までのが今までのだけに、あまり期待は出来そうにないかも。
 で、新センサーは約2,400万画素ですかー。そんなにいらないんだけどなぁ。K-5IIsの1,600万画素でも充分過ぎるくらいなのに。
 うーむ、スルーする気満々だったのに、いいなぁコレ。ついぞこないだはHD DA Limitedとかも出て、いいなぁ欲しいなぁとか思っていたのに、今度はK-3かよっ。
 で、フルサイズはいつですか?
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