高山稲荷神社(高輪四丁目)

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 品川駅高輪口のすぐ西側、第一京浜に面して鎮座する高山稲荷神社(港区高輪4-10-23)。
『高山稲荷神社
御祭神 宇迦之御魂神(食物主宰産業神)
例祭日 九月十五日
高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の御分霊・正一位福聚稲荷大明神の御神霊を祭祀しております。
往時の文献によれば今から凡そ五百年前当地域に神社の建立を御勧請し神社を建立したと記されております。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置し山上の神社故高山神社と称されたと伝えられております。
現在の社殿前方品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつゞき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されております。
                         (寛政年間の江戸名所絵図参照)
明治初期毛利公爵が当地に邸宅を構えるに及び同家より広大な敷地の寄進があり境内からの眺望は目を見張るものがあったと思はれ明治天皇が京都より江戸への遷都に際して当所で御休息・御野立をなされたと伝えられて居ります。     (毛利家所蔵文献参照)
大正十二年関東大震災後国道の拡張に伴い約十五米の境内を失い参道も(旧参道は現在地北側約三十二米先の石畳道路に面しており南方へ向って石段を昇った)現在の方位に移りましたが歴史の流れと共に社殿の損傷も著しく昭和の初期諸先輩の努力により高山神社奉賛会を設立し氏子一同の熱心な御協力により昭和六年九月吉日社殿の御造営を落成し現在の荘厳な新社殿を仰ぎ見るに至った。当社は古来高輪南町・下高輪町(旧中町)の鎮守の神として氏子町民の信望を集め毎年九月十五日を期し賑やかに大祭の行事を執行致しております。
昭和六十三年に至り約六十年間風雪に耐えた神社大鳥居並社殿内外の大改修の必要にせまられ茲に奉賛会会員並氏子一同の絶大なる御協力・御奉納により改修の完成を見るに至った。
当神社は数百年来鎮守の神として氏子町民の守護神として信望を集め強いては全人類の平和と幸福を祈り国家の隆昌と子孫の繁栄に御加護下さる由緒ある神社です。
昭和六十三年九月吉日建之』
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 慶応元年(1865)造立の狛犬。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 港区指定有形民俗文化財の石燈籠。「おしゃもじさま」とも呼ばれているようだ。
 縁結びの神とされているそうだが、由来は不明とのこと。
 現在の品川税務署付近にあった石神社(別名を釈神社)がこちらに合祀された際に移転されたもので、元は切支丹燈籠であったのだそうだ。高輪海岸で処刑された外国人宣教師を供養する為に建てられたとも、また海中より出土したとも言われているとのこと。
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 以上で11月16日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA FISH-EYE 10-17mmとDA15mm、DA21mm、DA35mm Macro、DA70mm。Coolpix P7100。
 他にも何箇所か参詣するつもりだったのだけど、時間が足りなかった。
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寄木神社(東品川一丁目)

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 州崎公園の西側に鎮座する寄木神社(品川区東品川1-35-8)。
 日本武尊東征の折、荒海を鎮めるために入水した弟橘媛の船の残木を拾い上げ、これを祀ったのが始まりであるとのこと。主祭神は日本武尊と弟橘媛の二柱。
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 石段の左側には栄亀大明神。
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 石段脇の狛犬。
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 拝殿。
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 昭和六十三年(1988)三月造立の狛犬。
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 文政十一戊子年(1828)五月造立の狛犬。
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 大正二年(1913)三月造立の狛犬。
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 稲荷神社鳥居。
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 稲荷神社とお狐さま。
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 品川区指定有形文化財「鏝絵天鈿女命功績図」案内板。
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 品川区指定有形文化財「添浦高札(一)」案内板。
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 社殿斜めから。

北浜三社稲荷神社(北品川二丁目)

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 北浜公園の南東側に鎮座する北浜三社稲荷神社(品川区北品川2-28-9)。
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 社殿の脇に双体道祖神。
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稼穡稲荷神社(北品川二丁目)

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 品川区立品川図書館の脇に鎮座する稼穡稲荷神社(品川区北品川2-32-3)。
 銀杏の案内板はあれども神社の案内板は見当たらないのでググってみると、鹿児島藩島津家の抱屋敷(安永九年(1780)に分家である日向国佐土原藩八代藩主島津淡路守久柄に譲渡され、後、嘉永六年(1853)に豊後国森藩々主久留嶋家の家臣である有冨玄説の所有となるが、その二年後の安政二年(1855)には売却されている)に祀られていた稲荷社であるとのこと。
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 二の鳥居と社殿。
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『品川区指定天然記念物 稼穡稲荷のイチョウ
所在 北品川二丁目三十二番地三号 稼穡稲荷社
指定 昭和五十三年二月十四日(第四号)
 イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さ三十メートルにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄それぞれ別の木となる。
 本樹は雄樹で、幹の囲りは四・一メートル、高さは二十三メートルもあり、推定の樹齢は五百年から六百年である。木の勢いも盛んで、姿も整っており、本区内のイチョウの中でも屈指の巨木である。
 本樹は、長い間稼穡稲荷社の神木として保護されてきた古木で、遠くからの景観も大変美しい木である。
 平成七年三月三十一日』
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荏原神社(北品川二丁目)

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 目黒川に架かる鎮守橋のすぐ北側に鎮座する荏原神社(品川区北品川2-30-28)。
 七五三の時期だけあってか、この橋の上で記念撮影をしている親子連れもちらほらと見受けられた。
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 鳥居。
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『明治天皇と荏原神社 内侍所御奉安所史跡
 明治元年七月二十七日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年九月二十日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輦諸官三千三百人を従えて陸路東海道を東京へ向われた。下って十月十二日朝神奈川駅御発輦川崎梅屋敷にて御小憩の後午後三時頃当荏原神社に御着輦本社幣殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治二年三月二十七日明治天皇御再幸の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安所に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当社に御下賜せられ今日に至るまで用いられている次第である。明治五年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の際明治天皇は御出迎えのため御通輦の途次当社をもって御休殿に充てられし事は重なる光栄とするところである』
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 恵比寿様。
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 拝殿。
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『祭神 高龗神 須佐之男命 天照皇大神 豊受姫命 天手力男命
 郷社荏原神社は元明天皇御代和銅二年(709)九月九日の創立にして明治元年(1868)十月十二日明治天皇御遷都の際畏くも内侍所御鎮座あらせられし所なり
 例祭は毎年六月六日より九日迄小祭は毎月九日』
 詳しいことは荏原神社公式サイトで。
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 狛犬。
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 屋根の上からは龍の頭が下を覗き込んでいる。これ、胴体の部分とかどうなってるんだろ。
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 末社の鳥居。
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 左から八幡宮、稲荷神社、熊野神社。

三岳神社(南品川二丁目)

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 京急本線新馬場駅南口のやや南東に鎮座する三岳神社(品川区南品川2-12-10)。
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 扁額には三岳神社とあり、その左右に大山祇命と倉稲魂命の名が記されている。
 三岳(みたけ)は御嶽(みたけ)の文字が変わったものだろう。こちらの神社はGoogle Mapには阿那稲荷神社とも御嶽稲荷神社とも記されているので、御嶽・稲荷共に品川神社境内にある御嶽神社と阿那稲荷神社からの分霊であるのだろうか?
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 お狐さま。
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 稲荷神社と御嶽神社の名が刻まれた石碑と、その脇に狛犬らしきものがある。

寶藏稲荷神社(南品川四丁目)

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 時宗深広山無涯院海蔵寺の境内に鎮座する寶藏稲荷神社(品川区南品川4-4-2)。
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『寶藏稲荷神社縁起
 當稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神の吒枳尊天を本尊とする明治二十三年(1890)九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火防の稲荷として霊験あらたかで土地の人々の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる』
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 小さなお狐さま。
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 少し角度を変えて。
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 先代のお狐さまかな。
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 海蔵寺境内。
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『品川区指定史跡 海蔵寺無縁塔群(首塚)
 所在 南品川四丁目四番二号 海蔵寺
 指定 昭和五十三年十一月二十二日(第十四号)
 山門を入って右手奥の塚は江戸時代、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺品を集めて、宝永五年(1708)に築かれたものです。鈴ヶ森刑場で処刑された人の遺骨の一部も埋葬され、「首塚」と呼ばれるようになりました。また、この塚にお参りすると頭痛が治るということから、古くより「頭痛塚」とも呼ばれています。この塚には天保の大飢饉(1833~39)で亡くなった二百十五人を祀る「二百十五人塚」も合葬されています。
 このほか、当寺院には慶応元年(1865)に建立された「津波溺死者供養塔」や、大正四年(1915)の「京浜鉄道轢死者供養塔」などがあります。いずれも引き取り手のない死者や不慮の死をとげた者の霊を供養してきたため、本寺は俗に品川の「投込寺」と言われました。
 平成六年十月三十日』

東關森稲荷神社(南品川四丁目)

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 松下稲荷神社の北西に鎮座する東關森稲荷神社(品川区南品川4-17-8)。
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 由緒等を記したものは見当たらなかったのでググってみると、元々こちらには熊野神社があり、後に稲荷神社を合祀して宇迦之御魂神・伊邪那岐命・伊邪那美命の三柱を御祭神としているとのこと。また、古くは稲荷森稲荷と称しており、稲荷森(とうかもり)が東関森(とうかんもり)に転訛して現在の社名になったようだ。大井町駅と西大井町駅の中間辺りにも東関森稲荷神社があるが、そちらから分霊したものであるのだろうか。

松下稲荷神社(南品川五丁目)

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 品川第二地域センターの西隣に鎮座する松下稲荷神社(品川区南品川5-3)。
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 アーケード付きの神社と言うのも珍しいような気がする。
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諏方神社(南品川二丁目)

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 青物横丁駅の北東に鎮座する諏方神社(品川区南品川2-7)。
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 鳥居。
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 拝殿。
 案内板等は見当たらないのでググってみると、諏方神社の北西側すぐの場所にある顕本法華宗鳳凰山天妙国寺の開基である天目が、自身の生国である信州から諏訪神社を勧請して弘安年中(1278~87)に創建されたと伝えられているのだそうだ。ちなみに天妙国寺の創建は弘安八年(1285)であるのだとか。
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 天保二辛卯年(1831)六月造立の狛犬。
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 いつ頃造られたものなのかはわからないが、獅子や龍の彫刻が施された石燈籠。
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 稲荷神社。

千躰荒神堂(南品川三丁目)

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 青物横丁駅の東側に鎮座する曹洞宗龍吟山海雲寺(品川区南品川3-5-21)。
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 千躰荒神堂。
 Lightroom5のUpright機能を使ったら右端が切れちゃったけど、んー、まぁいいや。
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 品川区指定有形民俗文化財である千躰荒神堂奉納扁額の案内板。
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 烏瑟沙摩明王堂。
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 明王堂の裏に海雲寺鎮守稲荷所在地跡碑。
 先の幸稲荷が古くはここにあったのかな? とも思ったが、考えてみれば幸稲荷のある場所は海晏寺へ向かう道の途中だった。とすると、違うのか。
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 役小角像。
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 その左下には元文二巳年十二月(1738)造立の三寶大荒神。

幸稲荷神社(南品川三丁目)

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 京急本線青物横丁駅の南側に鎮座する幸稲荷神社(品川区南品川3-3)。
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 ストリートビューを見ると、2009年とは周囲が少し変っているのがわかる。
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 お狐さま。

Nikon Df 体験会

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 SHINAGAWA GOOS一階のTKPガーデンシティ品川で行われたNikon Df 体験イベントに行って来たのよさ。
 やー、おっさんやおじーさんばっかりだったなー。やはりFMやFEを思い起こさせるデザインに反応するのは年配者に多いのか。まぁ自分もその一人なんだけど。
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 Dfのロゴの脇に設置された絞りダイヤルは結構固く、P7100の絞りダイヤルのようにグリグリと簡単に回ったりはしなかった。いやまぁP7100のダイヤルも軽く触ったくらいじゃ回りはしないけど。
 操作系は分かり易く、グリップも掴み易かった。ファインダーはAPS-C機よりも大きく割りと見易いけれど、自分の所有しているPENTAX KXやRICOH XR-Pが0.88倍なので、0.7倍と言うのは少々物足りなくもある。まぁMF機とAF機を比べても仕方ないけど。あぁ、ファインダーと言えば、Dfは合焦するとスーパーインポーズでファインダー内が真っ赤になるのがちょっといただけないなぁ。以前使っていたD100やD2Hではこんな風ではなかったような気がするけど、どうだったかな。
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 シャッター速度、ISO感度、露出補正などはいずれもロックピンを押してロックを解除しながらダイヤルを回して数値の切り替えをするので、なにかの拍子に動いてしまっていたりする心配が無いのは良いのだけれど、ものぐさな人にはちょっと煩わしいかも。
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 ずらりと並ぶ現行機とレンズ群。
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 レンズ購入キャンペーン中に対象レンズを買うと、抽選で当たるレンズクロックも展示されていた。
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 阿部秀之氏によるトークコーナー。
 椅子に座り切れず、立ち見の人でぎっしり。
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 河田一規氏と三浦康晶氏のトークコーナー。
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 茂手木秀行氏によるトークコーナー。

 触って来た感じではなかなか好感触のDf。でもボディ+AF-S 50mm F1.8G Special Editionのキットで約27万円と言うことで、まぁ買えませんけどー。資金貯めるかな。でもK-3とかDA20-40mm Limited Zoomとかもあるし、あぁぁぁぁ……。

熊野神社(野木町野渡)

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 曹洞宗満福寺と浄土宗光明寺の間に鎮座する熊野神社(下都賀郡野木町野渡752)。
 鳥居の柱には明治二十三庚寅歳十二月吉日と刻まれてるので、1890年の建立。
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『御祭神   伊弉諾尊
 創立年月日 大宝三年(703)と伝う
 紀州熊野の人川島對馬、故ありて諸国を歴遊、当地に至りて住居を定め開墾して一村落を起し次第に人口を増やしたるも土地を鎮むる神社なきを以って生国紀州なる熊野神社を分霊奉戴して此所に祀れるなりと』

『熊野神社祭典日程
 三月十五日  事始めの祭
 四月八日   出社祭
 四月十四日  歸社祭
 四月十五日  例祭
 四月十六日  雹祈祷祭
 四月二十五日 後祭
 十一月十五日 小祭
 十二月十五日 神嘗祭』

『四月八日(出社祭) 早朝から氏子が神社に集まり、協力し合って野渡コミュニティセンター前にオカリヤ(お仮屋)を建てたり、神輿や山車の飾り付けをしたりします。これを「花葺き」と言います。また、あらかじめ受けてきておいた榛名神社や妙義神社や古峰神社のお札を道の辻々に立てるのもこの時です。準備が終わると、熊野神社の御神霊がオカリヤに移される、いわゆる出社の神事が行われます。引き続いて当番耕地の中でこの一年の間に新築した家を宿に祝宴が催され、ここで初めてササラ獅子舞が披露されます。三月十五日から続けられてきた厳しい練習の成果が問われる時でもあるので誰もが真剣です。また、当番耕地ではこの日から十四日まで当番でオカリヤの番をします。
 四月十四日(大祭) 神事の後、ササラ獅子舞が宿とオカリヤで一シバずつ舞われ、続いて祭りのハイライトである神輿渡御が行われます。当番耕地の山車を先頭に、他耕地の四台の山車、露払い、区長、氏子総代、金棒引き(道案内役の女の子二人)、棒使い(三人)、獅子、笛吹きと続き、更に五年後再び当番が回ってきた時に獅子舞や棒使いをやる予定の子供たちがそれぞれ三方にのせた供え餅や菓子を持って列に加わり、神輿が最後に渡御してきます。二時間ほどかかって全耕地を回って神社に帰ってくると社前でまたササラ獅子舞が一シバ舞われます。かつては「宮こもり」といって、当番耕地の人々はこの日神社で一夜を明かしたそうです。
 四月十五日(大祭) 八日から続いてきた祭典も、この日の神事で一応の区切りとなります。この日もササラ獅子舞が、宿、神社、区長、さらにまた神社で一シバ舞われます。
 四月十六日(オヒマチ) 八日同様神社に氏子が集まり、オカリヤを取り壊したり、祭りに使ったものを片付けたりします。この日神社では祈念式典が行われますが、これに先立ち当番耕地では板倉の雷電様に代参を出します。昔は代参者が帰って来てから式典を行っていたそうですが、現在は雷電様の参拝を午前九時と定め、熊野神社の式典もこの時刻に行うようになっています。またかつては、この後男女それぞれ宿を決め盛大な祝宴が催されたそうです。酔いが回ると、若衆がおしろいをつけ赤い長襦袢を着て村中を走り回り、みんなを笑わせたということもあったそうです。
 なお、十七日も何かしら理由をつけてオヒマチにしてしまうことがあったようです』(「野木町史」より抜粋)
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 二の鳥居。
 天保四癸巳歳(1833)二月九日の建立。
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 三の鳥居。
 平成二十年(2008)十一月の建立。
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 鳥居の脇に石神。
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 飛越獅子。
 昭和二十四年(1949)四月の造立。
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 ちょっとだけアップ。
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 日露戦争記念碑と大東亞戦記念碑の間に弘化二乙巳年(1845)正月建立の三峯山神社。写真には写っていないが左端には一旦有緩急義勇奉公碑もある。
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 参道左手側に浅間神社。こちらは浅間神社と愛宕神社、馬力神社が合祀されている。
 鳥居と旗柱台は平成九年(1997)二月の建立。
『浅間神社由来之碑
抑是に鎮まり給ふ淺間大神は元新田の巽古河町に通ずる道路に接し二丈餘の盛土に三十餘の石段あり其の上に西に向ひて鎮座し右に冨士守稲荷神社左に小御嶽神社を末社として奉齋し境内三反三畝十九歩に■老樹鬱蒼として生立ち中にも丈餘の杉と樅は遠き昔戊物語るの如く矗然として天空に聳えたり爾来新田耕地の人々この大神を氏神として崇敬すること厚く毎年舊六月一日を以て祭典を執行し來たりしが時茲に明治三十九年法規の改正にあひ止■く字内の無格社稲荷神社神明宮と共に村社熊野神社に合併するに至り從來所屬の境内地全部を戊同社の財産に合併せも而して其の後趾地の盛土を切り崩せしに埴輪曲玉及太刀等戊發掘せしかむ一部は其の筋の手を經て東京博物舘に又一部は野木尋常高等小學校第一分教場に寄贈し今尚保管せらる以上沿革の大要を記して後世に傳ふるものなり』
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 左から御嶽山神社、白龍神(明治三十八年(1905)三月)、冨士守稲荷神社(明治二十四年(1891)二月)、参明藤開山。
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 小御嶽神社と狛犬。
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 参道右手側に神明宮。
 明治四十二年(1909)九月の建立、鳥居は昭和五十五年(1980)十一月建立。
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 参道右手側に大杉神社。
 正面にあるのは鳥居寄附名碑。その左側で南側を向いているのが大杉神社。亦、鳥居寄附名碑には大正十一年四月とあるので、この鳥居は1922年に建立されたのだろう。
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 大正九年(1920)十一月造立の狛犬。
 台座もなかなかに凝っている。
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 アップで。
 片やイケメン、片や疲れたオジサンと言った風情がある。
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 子狛犬。
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 昭和三年(1928)十一月造立の狛犬。なんか怪獣っぽい。
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 背中に乗った子狛犬。
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 拝殿。
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 本殿脇の狛犬。
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 目付きがちょっと怖いかも。
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 倉庫かな。神輿や山車が納められているのだろう。
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 二宮尊徳像。
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 末社。
 左から湯殿山・月山・羽黒山神社(慶應二丙寅年(1866)九月)、不明、秋葉山・愛宕山神社(明治二十四年(1891)十一月)、帯屋塚・神明塚稲荷神社(明治三十九年(1906)九月)。

 以上で11月2日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA21mm、DA35mm Macro、DA40mm。Coolpix P7100。
 Lightroom5の使い方も少しはわかってきたような気がしないこともないが、どうもしっくり来ないなぁ。まぁまだ試用期間は残っているし、もう少し使ってみようかな。

水神宮(野木町野渡)

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 栃木県下都賀郡野木町と茨城県古河市の県境に位置する野渡二の二自治会館の隣に鎮座する薬師堂(下都賀郡野木町野渡)。
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 薬師堂。
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 絵馬。
 右端の辺りに「明治亠」の文字が見える。亠は六なのか十なのかわからないが、いずれにせよ明治初期の薬師堂を描いたものであろう。
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 薬師堂の裏に、渡良瀬川の方を向いて水神宮が鎮座している。右の石碑は築堤記念碑。
 野木町史には「野渡の水神社は船頭たちの信仰が篤かった神社であると言う」と書かれているが、それがこちらの水神宮であるのだろうか。
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 ずらりと並ぶ地蔵菩薩や如意輪観音、薬師如来。
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 水死霊神。

妙福辨財天(野木町野木)

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 浄土宗浄明寺と真言宗豊山派満願寺の中間辺り、交差点そばに鎮座する妙福辨財天(下都賀郡野木町野木)。
 看板には野木唯一の弁財天と書かれているが、野木町史を見ると野渡の寺山に辨財天が祀られていると書かれている。そちらの辨財天は動かすと祟るとの言い伝えがあるそうなので、こちらに移転して来たと言うことではないのだろう。
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 西側から。
 鳥居の柱には平成十四年三月吉日建立と刻まれている。
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 辨財天の東側、道路に面して不動明王が鎮座している。
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 側面には文化五戊辰年十月と刻まれているので1808年の造立となる。

野木神社(野木町野木)

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 野木町立野木小学校の北西に鎮座する野木神社(下都賀郡野木町野木2404)。
 一の鳥居は国道4号古河バイパスと栃木県道261号野木古河線の合流する野木交差点のすぐ南側、261号線に面して建てられている。
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 野木小学校前に二の鳥居跡。
 ここから南西に向かうと割とすぐに雷電神社があるのだが、境内の清掃作業中だったので今回はパス。
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 二の鳥居になるのか三の鳥居になるのかわからないが、一の鳥居からここまでおよそ500m。参道マジ長い。
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『野木神社由緒沿革
 仁徳天皇の時代(313~99)、下野国造奈良別命が当国赴任の折、莵道稚郎子命の遺骨を奉じ、下野国笠懸野台手函の地に斎奉る。その後、延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂が蝦夷平定し都へ凱旋の途中、当社に鎮撫の功を奏し、その報賽として現在の地に社殿を造り遷座したと伝えられる。
 鎌倉時代には、幕府より社領として旧寒川郡八ヶ村の寄進、及び神馬の奉納が有り、又元寇の際、北条時宗公より攘夷祈願の命を受けて、右殿左殿に息長足比売命を始め、あらたに五祭神を合わせ祀った。
 文化三年(1806)火災により社殿悉く焼失したが、時の古河城主、土井利厚公は領民の協力を得、現在の社殿を再建した。
 明治時代には乃木大将も当社を厚く崇敬し、度々参拝に訪れ、所縁の品々を御神宝として奉納した。

御祭神
 主祭神 菟道稚郎子命
 右 殿 息長足比売命、誉田別命
 左 殿 田心比売命、瑞津比売命、市杵嶋比売命
境内社
 王子稲荷神社、厳島神社、雷電神社
 合祀社(天満宮、猿田彦神社、星宮神社、稲荷神社)
主祭日
 三月二十二日    春渡祭(お討鬼)
 四月第二日曜日   春の神楽祭
 八月三、四日    例大祭
 十二月二、三、四日 冬季例祭(三日夜、提灯もち、神楽祭)
 他、諸例祭』
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 拝殿。
 先の震災で破損したようで、現在修繕作業中。拝殿周囲にバリケードが廻らされていた為、境内社の殆どは近付けず。来年辺りにまた来てみよう。
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 野木町指定文化財黒馬繋馬図絵馬と算額の案内板。
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 数学は嫌いなので、考えること自体を脳が拒否します(苦笑)
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 神楽殿。
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 厳島神社。

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 東洋精工脇に位置する野木宿入口の案内板。
 嘗てはこの場所に木戸が設置されていたのだそうだ。
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 そしてその向いに野木神社の社号標石と馬頭観音。
 社号標石には明治二十年十一月と刻まれている。
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 野木宿の案内板。

大杉神社(野木町野木)

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 杏林製薬開発研究所の南隣に鎮座する大杉神社(下都賀郡野木町野木1853)。
 栃木県神社誌と野木町史のどちらにも記述無し。
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 青面金剛と如意輪観音。
 青面金剛の方は文字が薄くなっていてわかり難いが、正徳元辛卯天…かな? 正徳元年なら1711年。如意輪観音は寛政十一未天十一月とあるので1799年。
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松原区不動堂(野木町友沼)

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 高良神社の北西、松原コミュニティセンターから少し西へ向かった所に鎮座する不動堂(下都賀郡野木町友沼)。
 地図には釈迦堂と記載されているが、実際お堂には不動堂と書かれているのだから、不動堂なのだろう。
 野木町史を見ると、松原のお不動様は災難があった時にお願いすると必ず願いが叶ったと伝えられ、成就するとお礼に提灯を奉納する習わしがあったが、昭和十七年(1942)に焼失してしまったと記されている。とすると、現在の不動堂はその後に再建されたものであるのだろう。
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高良神社(野木町友沼)

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 野木町立新橋小学校の西側に鎮座する高良神社(下都賀郡野木町友沼5232)。
 鳥居の柱には「文政十三年庚寅六月 別當 法音寺朝源」と刻まれている。1830年の建立だ。
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 二の鳥居。こちらは昭和四十六年(1971)八月の建立。
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 改築記念碑。
『當高良神社は景行天皇から五代の帝に仕へて忠誠を盡した武内宿禰を祀り奉った社で其由緒は詳でないが神木の老杉等より見ても相當古い創立と察し得らるゝのである然るに社殿は建立以来多くの年月を經て破損甚しく且つ狭小なるため氏子の人々も常に之を憂ひ去る昭和十四年改築の議を決し直ちに寄附を募り資材を集めて工を起したるに時恰も東亞の戦乱勃發し次第に擴大して遂には國を擧げての大戦争と成りし為め資材も人手も意の如く成らず茲に止むを得ず工事を中止する事八年同二十二年に至って漸く干戈斂まりし故再び工を始め同年十一月茲に全く本殿拜殿玉垣に至るまで完備した壯麗なる社殿の竣工を見るに至ったのである
 因て其由來を略記してこの碑を建て併せて寄附者の芳名を裏面に刻して永く後世に傳ふる事とした
 昭和二十三年十一月十九日』
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 拝殿。
『主祭神 武内宿禰命
 創立年代は不詳だが、伝えによれば、天喜年間(1053~58)源頼義が野木町友沼に八幡神社を再建する際、八幡神社の祭神誉田別命(応神天皇)に最も関係深い武内宿禰をこの地に祀ったのが始まりだという。九州久留米の高良神社から勧請したともいわれ、生活守護・五穀豊穣・延命長寿の神として奉斎したという』(「栃木県神社誌」より抜粋)
 このことは友沼八幡神社境内の石碑にも記されている。
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 狛犬。
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 社殿側面から。
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 須賀神社。
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 末社。
 左端の石祠は不明。右奥の石祠は左から神明宮、愛宕神社、稲荷神社。友沼八幡神社境内の石碑に記されていた、八幡神社から高良神社境内に遷された三社がこちらの三社なのだろう。
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 遠景。

八幡宮(野木町佐川野)

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 栃木県道190号境間々田線を挟んで野木町立佐川野小学校の東側に鎮座する八幡宮(下都賀郡野木町佐川野1318)。
 一の鳥居は県道190号線に面して建てられている。
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 二の鳥居。
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 大正五年(1916)十月造立の狛犬。
 中谷神明宮の狛犬と似ているが、こちらの方が引き締まっている。まぁ、あちらの方が愛嬌があるとも言えるが。
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 拝殿。
『主祭神 誉田別命
 創立は不詳。正保二(1645)年の記録によれば、本宮は柿沼将監・岩崎数馬・岩崎蔵人・岩崎修繕・知久大膳・大森数馬・三橋加茂・坪井専右衛門・坪井藍物・舘野治部・舘野数馬・宝示戸修理・鈴木某の一三軒の氏神であったという。後に佐川野村の鎮守となった。先の一三軒は十三頭と呼ばれて祭祀に奉仕する』(「栃木県神社誌」より抜粋)
 野木町史にも同様の事が記されているが、岩崎数馬は岩崎但馬、坪井専右衛門は坪井團右衛門、坪井藍物は坪井監物と、僅かに名前が違っている。また、十三軒が交代で毎月一日・十五日・二十八日の三回境内の清掃を行いお神酒を上げているとも記されている。
 また、野木町史には当八幡宮境内に星宮神社が祀られているとも記されている。言い伝えでは宝示戸家の祖先が平将門征伐の際に藤原秀郷に随行して東国にやって来たと言われ、初めは芳賀の芳志戸に住んでいたが後にこの地に移り住むようになり、その際に芳志戸の星宮神社から分社したものをこちらに祀ったとある。この星宮明神は宝示戸家の氏神であったのだそうだ。
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 社殿斜めから。
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『社殿改築之碑
栃木縣知事従四位勲三等山縣三郎篆額
    社寺兵事課長 木村金吾撰文
當社八幡宮ハ人皇第十五代應神天皇ヲ奉齋シタルモノニシテ其ノ創建詳カナラザルモ正保
年間以前ナルコトハ記録ニ依ツテ明ナリ而シテ神殿ハ天保年間ノ造營ニシテ拜殿ハ明治二
十二年ノ建築ナリ幾多星霜ヲ閲シタル為神殿拜殿共ニ腐朽セルヲ以テ氏子一同恐懼シ是ガ
改築ヲ企圖セシガ時恰モ財界ノ不況ニテ實現スルニ至ラザリシニ光輝アル歴史的祝歳紀元
二千六百年ニ際會シ此ノ慶祝ヲ紀念スルト共ニ平常ノ神恩感謝ノ一ツトシテ社殿改築ノ議
起ルヤ氏子一同進ンテ此レニ協賛ス偶々在京ノ崇敬者寶示戸政次郎柿沼與三郎両氏ハ首唱
者ニテ切實ナル現村長柿沼延次氏及ビ有志宝示戸實賀氏ノ熱心ナル勸説斡旋ニヨリ神徳報
賽トシテ改築資金中ヘ巨額ノ寄進アリタリ於是造営工事爲ニ一段ノ光明ト進捗ヲ見ルニ至
ル依テ更ニ氏子一同ト慎重ニ協議ヲ遂ゲ委員ヲ選任造營ニ着手シ茲ニ結構壮麗ナル神殿拜
殿ノ改築ヲ見タリ之レ畢竟スルニ皆神徳の著シキ故ト氏子一同只管感激措カサル処ナリ
今ヤ我國ハ古今未曾有ノ事變ニ際會シ東亞建設ニ國ヲ擧ゲテ邁進ス此レ惟神ノ大道八紘一
宇ノ精神ヲ中外ニ宣揚スルモノニシテ益々神祇ヲ尊崇シ神徳發揚ニ努力ヲ要スルノトキ茲
ニ醇風風美擧工費寄進者ノ美徳ノ一端ヲ記シ永遠ニ之レヲ傳フ
紀元二千六百年
 昭和十五年十一月十五日』
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 改築記念碑の隣に……小さなお狐さまがあるから稲荷神社かな?
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 御神輿殿。左の石祠は不明。
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 末社。日月紋と逆卍があるが、何神社なのかは不明。もしかしたらこちらが星宮神社なのだろうか。
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 庚申塔と青面金剛。
 左から大正九庚申年(1920)十一月、寛政十二庚申年(1800)、萬延元年庚申(1860)十一月、元文五庚申年(1740)十二月、宝永元甲申年(1704)十一月。右端の青面金剛は元号部分が破損していてわからないが、元丙申十一月の部分ははっきりと残っている。おそらく享保元年(1716)ではないだろうか。それ以前だと最短でも慶長元年(1596)まで遡らないと丙申にならない。
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 青面金剛正面。
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 三峯神社。

八幡宮(野木町川田)

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 宮戸川に架かる川田橋の北東に鎮座する八幡宮(下都賀郡野木町川田420-1
 脇の鳥居建設記念碑には「旧鳥居は文政十一年(1828)三月建設成りしも其の後昭和十八年(1943)に至り事故のため倒伏せり。依而茲に氏子相計り新たに建設す。昭和二十七年十一月十五日建」と刻まれている。
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 拝殿。
『主祭神 誉田別命
 当宮は承久元(1219)年六月一六日の創立。その後正保五(1648)年正月吉日に本社を建立し、元禄四(1691)年一○月七日に本殿・拝殿を再建。享保四(1719)年四月一三日、神階正一位を授けられる。明治四(1871)年に雷電神社ほか三社を合祀する。同五年には村社に列せされた』(「栃木県神社誌」より抜粋)
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 斜めから。
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 大正十年(1921)十一月十五日造立の狛犬。
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 八坂神社と社殿改築記念碑。
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 末社。
 左から愛宕神社、不明、■現神社、天満宮・■龍権現、稲荷神社、雷電神社、山神宮。山神宮は天保五年(1834)午二月、その他は明治四十四年(1911)十一月十五日の造立。
 ■現神社は示現神社、■龍権現は八龍権現かな?

小野照崎神社(下谷二丁目)

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 東京メトロ日比谷線入谷駅西側に鎮座する小野照崎神社(台東区下谷2-13-14)。
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 西の鳥居。
 左側の小さな鳥居は末社稲荷神社の鳥居。
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 拝殿。
 主祭神に小野篁命、配祀神に菅原道真命を祀っている。
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 狛犬。
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『小野照崎神社
台東区下谷二丁目十三番地十四号
 小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿二年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永二年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄四年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
 現在の社殿は慶応二年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
 例大祭は五月十九日で、三年に一度、本社の神輿渡御が行われる。
 平成十一年三月』
 また、拝殿前に置かれたリーフレットには次のように記されている。
『当社は今から凡そ千百餘年前の仁寿二年に上野照崎の地に創建されました。御祭神小野篁命が御東下の際、照崎の地に御遺跡を留められ、篁命が御逝去されると地元の人々が篁命を渇仰して、上野殿(諌議亭)と尊称し、地名を採り小野照崎大明神と祀り尊崇したのであります。その後上野寛永寺の建立に際し、坂本村の長左衛門稲荷神社の境内(現在の鎮座地)に遷祀されました。回向院より御配神である菅原道眞命御手刻の尊像を遷祀し、江戸二十五社天神の一つとして尊崇されました』
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 浅間神社と富士塚。御祭神は木花開耶姫命・大山祇命・磐長姫命・天津彦火瓊々岐命。
 以前は門の脇に石猿が控えていたそうなのだが、現在その姿は見当たらない。
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 門の左脇に浅間神社。
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『下谷坂本の富士塚
 この塚は模造の富士山で、文政十一年(1828)の築造と考えられている。『武江年表』同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。境内の"富士山建設之誌碑"によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大阪屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。
 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一。富士山信仰は室町末期頃に起り、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。
 ここの富士塚は高さ約五メートル、直径約十六メートル。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和五十四年五月二十一日、国の重要有形民俗文化財に指定された。
 平成六年三月』
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 稲荷神社・織姫神社。
『稲荷神社 御祭神 宇迦之御魂神
 織姫神社 御祭神 栲幡千々姫命
 稲荷神社は長左衛門稲荷と称し小野照崎神社遷座前より当地の地主神として尊祀されてきた古い社であります。昭和二九年に織物組合庭内に奉齋されていた織姫神社を合祀しました』
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 お狐さま。
 以前は一対揃っていたのだが、今はこちらのみ。
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 庚申塚。
 力石も三つ並んで置かれている。それはそれとして、小野照崎神社の境内には猫が多い。
『御祭神 猿田彦命
 日本三大庚申の一つとして、現在十一基の塔が祀られており、最古のものは正保二年(1647)の作であり、青面金剛の塔は大阪四天王寺と同作の霊像と云われ、聖徳太子作と伝えられています。』
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 不動明王と……智拳印だから大日如来かな? その後ろに三猿や青面金剛。
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 御嶽神社・三峰神社・琴平神社。
『御嶽神社 御祭神 国常立命・国狭槌命・豊斟命
 三峰神社 御祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命
 琴平神社 御祭神 素戔雄命
 当地の御嶽信者に依り古く創建された御嶽神社に、江戸末期に琴平神社が、又、大正九年に三峰神社も合祀された。現在御嶽神社は大神講社・三峰神社は入谷講社に依り祭典が執行されている』
 …琴平神社の祭神が素戔雄命? なんで?
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 狛犬……いや、台座に入谷講社とあるので三峰神社の方だろうから、これは狼か。
 これまた対になる相方の姿は無し。台座は残っているのだけどね。
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 南の鳥居。
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 狛犬。
 阿形の方はなんとなく神聖モテモテ王国のファーザーを思い出す。

 以上で10月27日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA18-55mm WR。Coolopix P7100。やっぱりK-5IIsにDA18-55mm WRでは力不足なので、この焦点域のズームレンズが欲しくなる。SIGMAの17-50mm F2.8がかなり安くなって来ているのだけど、HA DA 20-40mm F2.8-4 ED Limited DC WRの噂も出て来ているので、そちらの方がとても気になる。

石稲荷神社(根岸四丁目)

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 台東区立金曽木小学校の西隣に鎮座する石稲荷神社(台東区根岸4-16-17)。
『(宗)稲荷神社 趣意書
 日頃、私たちの崇敬しております下根岸の【石稲荷神社】は、遠く東山天皇の貞享四年(1687)にこの地に創建され、以来三百有余年、数々の歴史を経て今日に至ったものと、伝えられています。
 当地の産土の神様(倉稲魂命)で農家の豊作、子供の夜泣き、疫病、火難などあらゆる災難除けとして霊験あらたかとの言い伝えに、信心する土地の人も多く火難除けの新年の初辰水揚げ式の儀、また二月の初午祭などの行事も現代に至るまで延々と引き継がれています。
 現在の拝殿は、江戸時代に焼失し、その後、文久元年(1861)に再建されましたが、年代を経て、破損もはなはだしく、昭和四十二年(1967)現在のコンクリート建築造りに、崇敬者の皆様のご協力により以前の様式のままに建て替えられました。
 今日までの永い年月をお守り出来ましたのは歴代の講元をはじめ役員、崇敬者の皆様のご尽力があればこそ出来えたことと思い、感慨深いものがあります。
 このような由緒ある【石稲荷神社を地元の鎮守の杜】として、子々孫々へと、継いでいきたく、皆様方のご援助ご尽力を切にお願い申し上げます。
 地元・地域の皆様方のますますの発展の基となりますことを祈念いたし、趣意書を以てお願い申し上げます。
 平成二十四年二月吉日』
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『石稲荷神社
通称石稲荷神社と称し、遠く東山天皇の貞享四年(1687)丁卯二月吉祥日、豊島郡金杉村大塚(下根岸)に創建、御祭神は倉稲魂命であります。石稲荷は子供の夜泣きに霊験ありと、また出世稲荷・厄難消除として崇敬篤く、神威輝々として遠近より参詣多く神徳宏大であります。今を去る徳川十一代将軍家斎時代に下根岸に画室雨華庵を結び、雄頸採筆に一代を風靡した姫路城主の二男酒井抱一が、文化十年(1813)二月初午に奉納された墨痕淋漓幾十春秋を経た旗幟が宝物として蔵している』
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 拝殿。

三島神社(下谷三丁目)

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 臨済宗妙心寺派覚法山了源院の北隣に鎮座する三島神社(台東区下谷3-7-5)。
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 昭和二十九年(1954)五月造立の狛犬。
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 拝殿。
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『三島神社
御祭神 大山積命
配 祀 身島姫命「木花開耶姫命」
    和足彦命「石長姫命」
    上津姫命「雷神」
    下津姫命「龍神」
御由緒
 当神社は凡六百七十年前弘安の役(1281)勇将河野通有の發願により其の一族が伊豫國越知郡に鎮座する日本總鎮守大山積命を武藏國豊島郡に勧請して金杉村上野山内の自邸に奉齋し此の地方一帯の守護神と定め社殿を建立したのに始まると謂ふ其の後歳月を經て此の地方が段々と開けて土地の人々も此の神の御神徳を尊び現に氏神産土神として崇敬し彌高き靈驗を拜して居ります
御祭日 六月十四日、十五日』
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『三島様の石橋跡
この横の道路は往昔より吉原土手に通ずる本通りで小高い土手であった頃三島神社に参詣するには石橋を渡ったのである。街が発展して土手がなくなった明治の末期よりその石橋を境内に敷き人々から親しまれた「三島様の石橋」を永く保存するものであります。
(注)樋口一葉の「たけくらべ」に三島様の角をまがりてよりこれぞと見ゆる家もなく……はこの道路で土手と小川が有った頃』
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 火除稲荷社。
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『火除稲荷社
御祭神 保食命
例祭日 三月六日(御縁日 毎月六日)
御由緒
往昔奥州街道に沿う町並みとして発達せる武蔵国豊島郡金杉村のこの地に御先稲荷を感情したるあり後 正保三年(1646)東叡山寛永寺の建立に当り この地をその日除地として定められて以来火除稲荷と称し奉り三島神社の地主神であります。
家内安全、商売繁盛、火災守護の大神として町人から崇敬されています』
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 雷井戸。
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『三島神社の雷井戸
昔武蔵国の原野は雷が多く里人は常におそれていた。時たまたま神社の境内に雷が落ちたので神主が雷を井戸にとじ込めた処雷は「井戸から出して呉れ」と哀願するので「二度と此地に落ちない」と約束のもとに許してやったと云う
爾来此地に雷が落ちないと伝えられている。この井戸の発掘年代は不詳なるも相当な古井戸で危険防止の為に蓋をしてあるが現在も満満と水をたたえて雷除の井戸として信仰されている』
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『三島神社華表之碑
孝靈帝時歳荐旱雨天皇肅禱三神穀禾穰熟億兆和煦天皇
感禎祥詔祠于伊豫三島裏神帝命皇孫越智命世為祭主爾
来毎内賊外冦神威赫奕歴朝敬意淳厚圓融帝特賜■日本
總鎮守弘安之役河野通有憑籍靈威殲元虜為勲首凱旋夜
夢神告祠武之野乃相地安於豐島郡東叡山徳川氏剏覇府
于乢亦寄祀田後有故遷根岸寛永年間信徒萬千其最篤為
金杉邨甞撫禮賽路遠更築殿社于市闤禋祀矜式神亦享安
囘禄弗瀰祲癘弗漫異時則寒村僻落今則櫛比稠繁頃■議
獻■華表且勒貞石永弗諼恩銘曰
  石門矗峙 與神威祟 不朽欽仰 有志繄功
朙治三十七年五月
       東京市長長尾﨑行雄書並題額』
 一つ目の■は「号」偏に「乕」。つまり「号乕」。これは號の異体字であるようなので、現代では号。
 二つ目の■は「口」「乚」「月」が縦に並んでいる。
 三つ目の■は「石」偏に「岡」。つまり「石岡」。

朝日辨財尊天(竜泉一丁目)

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 昭和通り下谷三丁目交差点の南側、弁天院公園内に鎮座する辨天院(台東区竜泉1-15-9)。
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 弁天池に架けられた神橋と鳥居。
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『弁天池の記
昔の弁天池は約八千平方米の広さを持ち常に蒼々とした底深い水を湛え琵琶形に造られた約百六十平方米の中の島との間に長い木橋が架けられて風情を添え島には松柏の大樹がうっ蒼と茂る中に由緒深い本堂を仰ぎ見る景観は誠に荘厳を極めていた
然るに大正十二年関東大震災の直後当局はこの池を始め隣接数区の焼土により埋めたてられ細やかながらその名残を留めているのが現在の池である
文豪久保田万太郎はこの池の変貌を惜しみ「水の谷の池埋められつ空に凧」と詠んでいる誠に今昔の感に堪えない所である』
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 本堂。
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 狛犬。
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『由来記
辨財天の信仰篤かった備中松山城主水谷伊勢守勝隆は東叡山寛永寺を創建した天海の勧奨もあって寛永初年不忍池に辨財天社を建立すると同時にその下屋敷であった当水の谷の邸内の池にも辨財天祠を祀りいわゆる姉妹辨天とし西方の不忍を夕日東方の水の谷を朝日辨財天と称した この下屋敷は面積約二万坪であったがその後勝隆の子孫旗本水谷主水の下屋敷となり次いで北海道の田村富三郎の所有と変り更に新潟県豪農市島徳次郎の所有に転じ大東亜戦争後の大改革に遭遇し昭和二十二年当主市島徳厚は辨財天を永久祭祀の条件でこの地を借地人に分譲すると共に境内二百十七坪余をこれら関係者に寄付した 人々市島家の厚情に痛く感激し直ちに奉賛会を設立し昭和二十八年宗教法人法の施行と共に曹洞宗辨天院と改称し本尊釈迦牟尼佛をも安置した 本堂は大正十二年関東大震災に罹災したので昭和四年市島家に於て再建したが同二十年大東亜戦争のため烏有に帰した 然る所同二十三年奉賛会が中心となりこれを復興し同三十六年庫裏も落慶今亦壮麗な玉垣を完成し輪奐の美を添えた 往昔は琵琶形に造られた中島に常に松柏の大樹が鬱蒼と茂り二千四百坪の池には蒼々とした底深い水を湛え菱や蒪菜蓮など美しく浮び池畔には有名な料亭松源や廓の寮を始め瀟洒な別荘が点在し文人墨客の往来も激しかった 然るに関東大震災直後東京市の要請もありこの池を焼土の処分場に提供尓来二年有半宅地と化し昔日の面影を没するに至った 思うに町会の興隆は人心の融和に因る団結が基本であるがそのためにはこの辨財天を我らの守護神として日々崇敬し永く子々孫々に至るまで義理を重んする下町人情に徹し町会の発展社会の福祉国家の繁栄に寄与するよう祈念するものである
 昭和四十年九月吉日』
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 聖観世音菩薩。
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『聖観世音菩薩勧請の由来
昔の弁天池は大変広く且つその深さは底知れずと云われていた。これがためこの池にて命を落された方が尠なくなかったと伝へられている。関東大震災では東京市の要請により災害の焼土を以って埋めたてられられた為ここに棲息していた多くの魚類などが悉く生埋めとなり又焼土運搬の馬までも犠牲となるなど人々から憐憫の情を寄せられていた。当時の地主はいち早く境内に卒塔婆を建て施餓鬼供養を行って来たが境内移譲後は埋立地居住の有志がこれを継承昭和三十一年供養塔に改建し更に熱意を傾けつつ今日に至った。偶々本年は己巳年という好機に当りここに聖観世音菩薩を勧請し広大無辺なる御功徳により旧弁天池に絡る多くの諸精霊の菩提を祈念し併せて信徒並びに有縁諸氏の平安と隆昌を祈願すべく大方有志のご寄進を仰ぎてこれを完成し平成元年九月十三日開眼供養を執行したものである』
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千束稲荷神社(竜泉二丁目)

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 東京メトロ日比谷線三ノ輪駅1b口から少し南に歩くと、国道4号昭和通りと東京都道462号蔵前三ノ輪線の間に千束稲荷神社(台東区竜泉2-19-3 )が鎮座している。
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 昭和三十三年(1958)五月造立のお狐さま。
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 拝殿。
 由緒書き等は見当たらなかったのでググってみると、寛文年間(1661~72)千束郷に上下二社の稲荷神社が建立され、こちらはその下社であり千束郷北側の氏神として祀られて来たが明治五年(1872)に村社に列格したとのこと。また末社に疱瘡神を祀っているそうなのだが、それは見当たらなかった。
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 樋口一葉の胸像。
『正面碑文
 明日ハ鎮守なう千束神社の大祭なり今歳は殊に
 にぎはしく山車なども引出るとて人々さわぐ
                   樋口夏
 樋口一葉「塵中日記」明治二十六年八月十九日
 一葉の自筆(樋口陽氏所蔵)
 一葉は明治二十六年七月に龍泉寺町に転居し十ヶ月余りを過ごしました。
 そして生活や町の様子を日記に書き、名作「たけくらべ」に描きました』

『樋口一葉は名作たけくらべに千束神社と龍泉寺町を描きました
 此度文学碑が奉納建立され一葉女史と千束神社の縁が永く語られていきます
 平成二十年五月吉日』
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