氷川神社(緑区上野田)

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 正八幡宮の北西、県道105号線に面して建てられた氷川神社(さいたま市緑区上野田78)の明神鳥居。この鳥居は平成三年(1991)七月の建立。
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 上野田自治会の掲示板脇に青面金剛。
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 拝殿。
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『氷川社 御由緒
 さいたま市緑区上野田78
□御縁起(歴史)
 見沼代用水東縁の流域の農業地域の一角にある上野田は、江戸中期から将軍家の保護のもと「野田の鷺山」として知られ、鷺の一大繁殖地であった。昭和四十年代以降、環境の変化などのため、鷺の飛来は絶えてしまった。
 当社は、この上野田の鎮守として祀られてきた神社で、「風土記稿」上野田村の項にも「氷川社 村の鎮守なり、照光寺持 末社雷電社」と載る。当社の創建の年代は不明であるが、村民の菩提寺となってきた曹洞宗の照光寺の創立が寺伝に承応年間(1652-55)とあるところから、当社もまた村の発展に伴って照光寺と同時期に勧請されたものと思われる。ちなみに、照光寺は、元来は当社の裏手にあったが、神仏分離の後、現在地(さいたま市緑区上野田134)に移転した。
 一方、「明細帳」記載の由緒を見ると、「創立不詳、明治六年(1873)四月村社に列せられる、往古は諏訪社一柱ありしがいつの頃か合祭したりと云伝ふ」とある。ここに載る諏訪社は、「風土記稿」に当社の末社として記されているもので、当社に合祀された形になっているが、実際は現在も旧地(自治会館のある所)に社殿が残り、祭りも行われている。当社の本殿は明治二十五年(1892)十二月、拝殿は同四十一年(1908)九月に改築され、同じく四十一年の十一月には、同大字東台の村社天神社とその境内社の稲荷社・琴平社・疱瘡社の三社を合祀した。
□御祭神と御神徳
 素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
□御祭日
 お元日(一月一日) 禦(五月中旬) 宮薙(七月中旬)
 祭礼(九月中旬)  大祓(十二月下旬)』

 上野田の自治会館ってどこだろう。地図を見てもわからず、ググっても出て来ない。
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 本殿。
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 雷電神社。
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 左の石祠はたぶん稲荷社。右は秋葉神社。
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 秋葉神社の木祠。
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 以上で4月26日参拝分終了。
 今回は見沼自然公園に車を置いてスタート。ぐるっと巡って来るのに大体八時間程かかり、ウォーキングカウンターは23,667歩。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、FA50mm F1.4、50-150mm II。Coolpix P7100。
 今週末からゴールデンウィークになるけど、いくつか積んでいるラノベを読んだりゲームをやったりと、インドアライフを満喫することにしよう。あぁ、でも友人と遊びにでかける約束も入ってたっけ。
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正八幡宮(緑区代山)

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 代山自治会館の隣、埼玉県道105号線に面して鎮座する正八幡宮(さいたま市緑区代山115)。
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『八幡社 御由緒
 さいたま市緑区代山115-1
□御縁起(歴史)
 当地は芝川と綾瀬川に挟まれた大宮台地上に位置する。永禄六年(1563)「太田資正書状」に「たい山の内、てら山・たい野は」と載り、この地の開発が戦国時代までさかのぼることが知られる。地内には岩槻太田氏の家臣小久保縫殿助又は山田大隅が居住し、天正十八年(1590)の岩槻落城と共に滅びたと伝わる代山城跡がある。
 当社は日光御成街道に面して鎮座している。口碑によれば、いつのころか綾瀬川の氾濫により、北東隣の高畑村から御神体が流れ着きそれを村人が見付けて祀ったのが当社で、そのために高畑の人は今でも当社を参拝しているという。あるいは、代山城跡のすぐ西に位置することから、城の守護神として祀られていた八幡神が落城した後に村の鎮守となったとも考えられる。
 「風土記稿」代山邑の項には「八幡社 村の鎮守なり、末社、稲荷社二宇、別当、光福寺 新義真言宗、大門宿大興寺の門徒、八幡山と号す、本尊阿弥陀を安ぜり」と記され、江戸後期の状況が知られる。
 別当の光福寺は当社の東に隣接して建っていたが、明治初年の神仏分離により当社の管理を離れ、寺子屋を営んだという。その後、焼失して廃寺となった跡地に野田小学校が建設された。
 「明細帳」によれば、当社は明治六年(1873)に村社となり、同四十一年(1908)に字後谷津に鎮座する無格社厳島社を合祀した。
□御祭神と御神徳
 応神天皇・市杵嶋姫命・・・交通安全、厄除開運、家内安全
□御祭日
 元旦祭  大祓(六月二十九日・十二月二十九日)
 例大祭(九月中旬)』
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 拝殿。
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 末社。
 社名は記されていないが、稲荷社だろう。
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 覆屋の中には大絵馬が二枚掛けられている。

不動堂(緑区中野田)

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 明照寺の少し北、中野田自治会館隣に鎮座する不動堂(さいたま市緑区中野田)。
 こちらにもまた真言宗輪宝紋が見える。水盤の側面には嘉永七甲寅歳(1854)正月の文字あり。
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『中野田不動堂 一棟
 付 棟札 天明六年丙午三月四日建立銘
 指定年月日 昭和五十七年四月二十七日
 桁行・梁間ともに六・三メートルの三間仏堂で、奥行二・五メートルの向拝が付いています。柱は円柱ですが、建具取付部は平らになっています。切目縁が背面を除く三面に付けられ、軒は二重繁棰です。本堂内は前二間を外陣、後一間を内陣とし、天井は格天井となっています。
 不動明王の凡字が欄間にあり、はじめから不動堂として建立されたことが知られます。
 天明六年(1786)の建立を示す棟札があり、言い伝えでは浅間山の噴火で逃れてきた大工が建てたといわれています。
 小仏堂ですが、江戸時代後期の三間仏堂の優れた建物として、また建立年代の明らかな建築として貴重です。
 昭和五十九年十月』

重殿社(緑区中野田)

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 国道122号岩槻街道脇、曹洞宗明照寺の南側に隣接して鎮座する重殿社(さいたま市緑区中野田1671)。
 こちらの前に木傘神社を参詣しようと思っていたのだが、どうやら区画整理に伴い移転してしまっていたようで、発見できなかった。ストリートビューで位置の確認をして安心していたら、まさか地図と変わってしまっていたとは。帰宅後に調べ直してみたら、旧地と浦和美園駅との中間辺りに移転したようだ。うぅ、木笠神社を探して周辺をうろついていた時に近くまで行っていたのに……ナンタルコトダー ○刀乙
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『重殿社 御由緒
 さいたま市緑区中野田1671
□御縁起(歴史)
 中野田の地名は湿地を意味するヌタに由来するという。
 当社は「風土記稿」中野田村の項に、曹洞宗明照寺の境内に「重殿権現社」と載り、「村の鎮守なり、当社は古くよりありて重殿山と唱へしが、当寺中興の時今の如く構の内となし、これをも山号となせり、(以下略)」とある。明照寺については、当地を領していた春日八郎景定が、側室の月宮院慶誉明正の追福のために中興したと伝わることから、当社は、景定が没したという元和元年(1615)以前には、既に祀られていたことがわかる。
 創建の由来については重殿が蔵王殿の転訛とされることから、明照寺にかかわった修験との結び付きがあったと考えられる。また、重殿は「水殿」(スウドノ)に通ずるともいわれており、低地に開かれた耕地が度々綾瀬川からの出水を被っていたため、川を鎮める神として祀られたことが推測される。
 主祭神は日本武尊であるものの、本殿には、その経緯は明らかではないが、厨子に納めた騎乗の八幡大明神像が安置されている。その厨子の底部と裏面には、各々「御縁日十五日正常奉込弥陀如来守護所 遷宮勧請松翠欽白」「奉造立神体当寺五世翠岩桂造 享保十四年(1729)己酉五月十五日造工江戸白銀町佛師徳水」と記されている。これに見える阿弥陀如来は八幡大明神の本地仏である。
□御祭神と御神徳
 日本武尊・・・武運長久、厄除け、縁結び
□御祭日
 元旦祭(一月一日)  春の祭礼(四月二十四日)  祇園祭(七月十三日)
 大祓(七月二十四日) 秋の大祭(十月十五日)   大祓(十二月二十四日)』
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 参道。
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 拝殿と末社。
 末社は何神社なのかわからなかったが、ググってみたら稲荷社であるとのこと。
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 斜めから。
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 境内社の鳥居でありながら、重殿社の鳥居と同じくらいの大きさの両部鳥居。
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 社名を記したものは無く、大棟や扉に真言宗輪宝紋があるので何神社なのか見当も付かなかったのだが、ググってみたら愛宕神社であるとのこと。修験者から神官へとなった者などが輪宝紋を使っていたそうなので、愛宕神社なら納得。案内板にも明照寺は修験との結び付きがあったと書かれていることだし。ただ不思議なのは、両部鳥居だの真言宗輪宝紋だのと真言宗との関わりが見て取れるのに、明照寺は曹洞宗であると言うこと。
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 北辰妙見社と大六天社。
 大六天社は天保十五甲辰年(1844)三月の造立。
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 庚申塔と青面金剛。
 青面金剛は宝永三丙戌天(1706)霜月六日の造立。台座に逆卍と輪宝紋。

正一位稲荷大明神(緑区中野田)

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 東北自動車道を挟んで埼玉スタジアム2002の西側、ホテルWill前に鎮座する正一位稲荷大明神(さいたま市緑区中野田1081)。
 旗竿柱には嘉永五年子(1852)二月と刻まれている。
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 拝殿。
 右手前の水盤には天保四巳(1833)九月と刻まれているので、少なくともそれ以前の創建になるのだろうが、詳細は不明。

厳島神社(緑区代山)

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 浦和学院高校第三グラウンド脇に鎮座する厳島神社(さいたま市緑区代山)。
 こちらの明神鳥居は平成十年(1998)一月の造立。
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 二の鳥居。
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 本殿覆屋。
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 厳島神社らしく、周囲には浅い堀が廻らされている。また、左奥に天神社が見える。


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 厳島神社から少し南下した道端に庚申塔と青面金剛。
 大体この辺り
 庚申塔は寛政十戊午年(1798)三月、青面金剛は元禄十六癸未年(1703)十月の造立。また、庚申塔の側面には以下の文が刻まれている。
『庚申従来弄利生
 権威忽折慢心幢
 宣哉三目睨三毒
 一切邪神目縛降
  安養峯役實珉 誌』
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 馬頭観音他。
 馬頭観音は安政元甲寅年十二月(1855)、左側の石塔は慶應二丙寅年(1866)七月二十七日の造立。

足立神社(緑区寺山)

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 天神社から少し東へ向かうと、足立神社(さいたま市緑区寺山1137)が鎮座している。
 こちらは案内板が無く、詳細不明。埼玉県神社庁のサイトに天神社は載っていたが、こちらの足立神社は無いので、神社庁の管轄にないのかな。
 ググってみたところでは、日本武尊が立ち寄り剣を残して行っただとか、足の病を治したと言う伝説が残っているのだそうだ。
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 額には「■蔵国二宮 式内■■ 足立神社」とある。武蔵国二宮は二宮神社亦は金鑚神社と言われているので、こちらとは関係無いと思うのだが、うーん?
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 鳥居をくぐってすぎ左側に境内社。何神社なのかわからないが、大棟部分に米粒のような水滴のような宝珠のような、神紋なのかなこれ。とすると稲荷社なのかなぁ。
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 拝殿。
 左手前の本社殿改築記念碑は昭和二十九年(1954)十二月に建てられたもの。
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 瓦に宝珠紋がついている。足立神社の御祭神は猿田彦神だったり日本武尊だったりするようだが、こちらは稲荷系なのだろうか。
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 拝殿内部と本殿。
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 水盤には「武蔵藏國二宮式内」「天保七丙申歳(1836) 神田須田町講中」と刻まれている。
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 嘉永二年己酉(1849)三月造立の狛犬。
 右の狛犬は水盤が邪魔で寄れなかった。…あぁ、そうか、望遠で撮れば良かったんだ。なにやってんだ自分。
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 狛犬。
 先の狛犬もそうだったが、足に紐が結ばれている。なんでも、こちらの神社の狛犬の足に紐を結ぶと家出人の足が止まり、行方不明者が見つかるようになるとの言い伝えがあるのだそうだ。
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 狛犬の隣に末社。何神社なのかは不明。

天神社(緑区寺山)

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 浦和学院高校第三グラウンドの北側に鎮座する天神社(さいたま市緑区寺山1112)。
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 明和七庚寅年(1770)九月二十五日造立の明神鳥居。
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『天神社 御由緒
 さいたま市緑区寺山1112
□御縁起(歴史)
 寺山の地名は、かつてそこに極楽寺という伽藍があったことにちなむものといわれている。この辺りには太田氏の領地であったため、極楽寺は天正十八年(1590)の岩槻城の落城の際、兵火のために灰燼に帰し、現在の村落はその後開発されたものである。したがって、寺山の鎮守である当社は、岩槻落城後の村の開発に伴い、江戸時代の初期に創建されたものと推測される。
 創建時の様子は、残念ながら記録がないために明らかではないが、江戸時代には本山派修験の覚蓮寺が別当であった。この覚蓮寺は、中尾村玉林院の配下で、長徳元年(995)の草創と伝える古刹であったが、修験道の禁止によって明治初年に廃寺となった。当社の入口に建つ石鳥居の柱には、「奉新建立天満宮村中大小氏子一同成就 別当覚蓮寺」という銘があるが、これは、そうした神仏混淆当時の唯一の名残である。なお、覚蓮寺の跡地は、当社の西方約六○○メートルの所である。
 神仏分離後は、明治六年(1873)に村社となり、同三十二年(1899)に本殿の改築と拝殿の新築を行った。内陣には、黒漆塗りの厨子に納められた像高二一センチメートルの天満天神座像が安置されており、その台座の底部にある墨書から、この像は天明六年(1786)に江戸浅草の仏師の三柳清八郎によって作られたものであることがわかる。
□御祭神と御神徳
 菅原道真公・・・学問成就、家内安全、五穀豊穣
□御祭日
 歳旦祭(一月一日)  禦(四月二十五日)   大祓(六月二十六日)
 宮薙(七月十四日)  例大祭(九月二十五日) 大祓(十二月二十六日)』
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 拝殿。
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 本殿。
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 伊勢太々記念碑と力石、末社。
 末社は何神社なのかわからなかったが、ググってみると新編武蔵風土記稿に末社疱瘡神社と記されているそうなので、それなのかも知れない。

猿田彦大神(緑区寺山)

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 浦和東高校の南西に鎮座する猿田彦大神(さいたま市緑区寺山)と言うか青面金剛。
 鳥居の柱には「昭和四十五年 春庚申日建立」「大願成就 新党修成派 権大教正 鈴木俊一 六十九歳」と刻まれている。
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 以前、藤岡町の猿田彦神社を参拝した時も思ったのだが、青面金剛を祀って猿田彦大神と称するのはどうにも違和感がある。
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 元禄十六癸未年(1703)十月造立。

天満宮(岩槻区笹久保新田)

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 セブンイレブン岩槻笹久保新田店のそば、埼玉県道214号新方須賀さいたま線脇に鎮座する天満宮(さいたま市岩槻区笹久保新田786-1)。
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 本殿。
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 力石。
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『知恵の神様として名高く、別名「いぼ天神様」といわれております』

駒田崎稲荷社(緑区寺山)

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 埼玉県立浦和東高校の北西に鎮座する駒田崎稲荷社(さいたま市緑区寺山)。
 こちらの前に上野田交差点近くの御嶽山大神を参拝して行こうと思っていたのだが……無ーい。ストリートビューを見ると少なくとも2011年10月までは存在していたことが確認できるのだが、現在では跡地があるのみで祠などは見当たらなかった。
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 鳥居は平成七年(1995)二月の造立。
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 新築記念碑には平成七年二月建立と刻まれているが、由緒等は記されていないので詳細不明。
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 駒田崎稲荷社の西側、畑の端に馬頭観音
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天神宮(緑区上野田)

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 浦和競馬組合野田トレーニングセンターの北西に鎮座する天神宮(さいたま市緑区上野田)。
 旗竿柱には嘉永三庚戌年十二月(1851)、拝殿前の水盤には文化十三丙子年(1816)九月と刻まれている。こちらの神社の由緒などは不明だが、少なくとも文化十三年より前には建てられていたようだ。
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 拝殿。
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 後ろから。
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 末社。何神社なのかは不明。

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 埼玉県道105号さいたま鳩ヶ谷線から天神宮に向かう途中の三叉路脇に青面金剛。
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 側面には明和五戊子歳(1768)十月と刻まれている。
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 青面金剛より少し南西、つまり105号線寄りの道端にも祠があるが、何神社なのかは不明。

三崎稲荷大明神(見沼区片柳)

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 大宮共立病院の南東に位置する森の端に鎮座する三崎稲荷大明神(さいたま市見沼区片柳)。
 鳥居の額には「正一位三崎稲荷大明神」、柱には「文政十三庚寅(1830)二月吉辰建焉」とある。
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 水盤は文政十二年己丑(1829)六月の造立で、三つ盛り火焔宝珠紋と「雨露順凮潤萬作 蒼天静■仰黎民」と言う文字が刻まれている。■の部分は「气」の中に「日」。
 片柳の稲荷大明神でググってみても二つほどしか引っ掛からないが、そのうちの一つに「坂東家の稲荷社」とある。共立病院の北側に旧坂東家住宅見沼くらしっく館があり、そちらは入江新田(後の加田屋新田)を開発し、その後も代々名主や村長を務めた坂東家の旧宅を復元したものだそうである。入江新田を開発した坂東助右衛門尚重は江戸の北新堀(現在の日本橋箱崎町)で商人(屋号は加田屋)をしていたが、延宝三年(1675)に見沼入江を開発したとのことなので、その頃にこちらに移り住んだのだろう。さて、こちらは千代田区三崎町にある三崎稲荷神社からの分霊であると思われるが、三崎稲荷神社の鎮座地は北新堀からそう遠くは無い。ではこちらの神社は坂東助右衛門が勧請したものなのだろうか。
 ……と思ったが、元記事の写真をよく見ると、祠の形が違う。八年前の記事だし、その後で建て替えたのかも知れないが、しかし現在のこの祠は築八年以上は経っているようにも見える。もしかして違う神社だったりするのだろうか?
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 天明二壬寅年(1782)造立の天王宮と天保三壬辰年(1832)正月造立の疱瘡神。

山邑神社(見沼区山)

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 山自治会館脇に鎮座する山邑神社(さいたま市見沼区山172)。
 中山神社の案内板には、明治末頃にこちらの山邑神社を合祀したと書かれていたのだが、その後に再祀したのか、それとも合祀は書類上だけのもので、ずっとこちらで祀られていたのか、そのあたりはわからなかった。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 拝殿内に掛けられた絵馬には天磐戸の絵が描かれている。こちらの御祭神は天照大御神であるそうなので、納得。
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 稲荷社。
 背面には昭和五十八年(1983)十月と書かれている。

 以上で4月19日参拝分終了。
 今回は大して動いていないのになぜか時間ばかりが過ぎて行く。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、FA50mm、50-150mm II。Coolpix P7100。

熊野神社(見沼区片柳)

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 見沼田圃の中に鎮座する熊野神社(さいたま市見沼区片柳771)。
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 鳥居。
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 参道と拝殿。
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 狛犬。
 台座には「木曽御嶽神社 出雲大社 金刀比羅宮 伊勢皇大神宮 昭和十二年 二月廿一日 三月二日」と刻まれている。参宮記念に奉納されたものだろうか。
 また狛犬や石灯籠の周囲には力石がいくつか埋まっている。
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 社殿斜めから。
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 不明、荒神宮、神明宮と稲荷社。
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 天満宮(明治二十九年(1896)十月十五日改築)と三峯山神社(弘化三丙午年(1846)四月)。
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 由緒が刻まれているのだが、これまた崩し字が多くて悩む。
 とりあえずわかったのは、嘉吉二年(1442)に勧請し、御祭神は熊野奇御氣野命と家津御子命、熊野夫須毘命の三柱。元十二所権現と称したが明治維新により社号改正の令が出され、熊野神社と改めた。同五年(1872)に村社に列し、三十二年(1899)五月に社殿の改築その他設備を整え、字内の氷川神明荒神稲荷の四社の社殿の修理を行う。また四十五年(1912)にこれらを合祀。
 この碑は大正九年(1920)九月に建てられたものなので、天満宮や三峯神社はそれより後に合祀されたのだろうか。元々こちらの末社だったのかも知れないけれど。
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伊勢山神明宮(緑区三室)

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 三室中学校の西側に鎮座する伊勢山神明宮(さいたま市緑区三室2112)。
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 鳥居。
 笠木は五角形で反り増しが無く、貫は板状で柱から出ず、また柱は円柱。と言う形状から見て伊勢鳥居だ。柱には平成五年(1993)十一月吉日と刻まれている。
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 拝殿。
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 由緒を刻んだ石碑。
 しかし後ろの木が邪魔をして碑文の撮影が困難な上に崩し字が多くて判読は極めて困難。と言うか自分では無理。かろうじて初めの方は読めたので簡単に書いてみると、「此の地の伊勢山神明宮の舊址なり神明宮は文禄二年(1593)當所の地頭荒川次郎九郎康隆が本村氷川女體神社の神主武笠右衛門をして伊勢神宮の分霊を祀られしところ、慶安二年(1649)に徳川幕府より社領十石の地を賜る」と言うところか。
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 稲荷霊神。背面には「大正十四年(1925)三月初午建之 東宿一同」と刻まれている。

小室神社(緑区三室)

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 馬場小室山古墳の南面に鎮座する小室神社(さいたま市緑区三室2014)。
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 案内板等は無いのでググってみると、御祭神は奇稲田姫命であるようだ。
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 昭和四年(1929)二月造立の狛犬。
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 明治四十三年(1910)四月造立の辨財天と石祠。
 この辺りに池などは見当たらないが、明治の頃にはあったのだろうか。

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 さいたま市立三室中学校の南に位置する馬場小室山古墳。
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 案内板。
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 遺跡及び周辺図。薄いピンクのマスクをかけた部分が小室神社。
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 小さな案内板。
 P7100はチルト液晶なので、手を伸ばして撮影するのも楽だ。
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鷲神社(緑区南部領辻)

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 真言宗智山派阿日山宝袋寺総持院の北側に鎮座する鷲神社(さいたま市緑区南部領辻2914)。
 自分は総持院橋から総持院の横を通って行ったのだが、道幅が狭いので、鷲神社の北にある五斗蒔橋から向かった方が楽かも知れない。道が狭いのは変わらないが、大通りからの距離が短くて済む。駐車場と言うほどのものは無いが、駐車できるスペースは神社裏と鳥居の傍にある。
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『南部領辻の獅子舞
「南部領辻の獅子舞」は、別名「竜頭の舞」とも言われている。今から900年ほど前、武将で笛の名手である新羅三郎義光(源義光)が、兄の八幡太郎義家(源義家)を助けるために奥州に下向した際、軍兵の士気を鼓舞するために行われ、鷲神社に奉納したものを土地の者が習い覚えて、今日に伝えたとされています。
 獅子舞の一行は、鉾を持つ天狗を先導に、弓持ち、御幣(御守り)を持つ世話人と続き、花笠を付けた笛方の二人とささらを受けもつ二人、その後ろに太夫獅子、女獅子、中獅子の三頭の獅子の一団で、計10人で成り立っています。
 舞は、鷲神社の拝殿の前、二間四方の四隅の竹に注連縄を張った中で行われます。女獅子、中獅子、太夫獅子の順に舞うが、それは「竜頭の舞」の名のとおり、竜が天を舞うように、また地を這うように、華麗で激しい勇壮な舞です。
 一時は県の無形民俗文化財に指定されたものの、昭和44年5月が最後の舞になってしまいましたが、平成11年に改めて「辻の獅子舞保存会」が組織され、翌年の平成12年10月15日、鷲神社への奉納の舞が行われました。平成15年4月には、古い歴史と勇壮な舞が認められて、さいたま市の無形民俗文化財に指定されました』

 掲示板に貼られたポスターを見ると、来月の11日日曜日午前10時から獅子舞が奉納されるようだ。その後午後1時から村回りとも書かれている。
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『さいたま市指定有形民俗文化財 南部領辻の獅子舞獅子頭、衣裳及び道具類
 平成四年三月二十五日指定
 天狗、弓持ち、お守り持ち、笛(二人)、簓(二人)、太夫、中獅子、女獅子の十人分の衣裳及び道具類からなります。笛方、簓方が被る花笠(オゼン)の一つには、明和五年(1768)に岩槻の林藤町で作ったことが墨書されています。獅子頭をはじめ弓や天狗面に至るまで、制作は優れており、激しい舞にもかかわらず、良好な保存状態を保っています。
 なお、これらの衣裳及び道具類を納める長持及び長持覆い一式が付けたり指定となっています。

 さいたま市指定無形民俗文化財 南部領辻の獅子舞
 平成十五年四月三十日指定
 この獅子舞は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が奥州へ兄を助けに向かう途中、兵士の士気を鼓舞するために舞ったものを、土地の人たちが習って伝えたものと言われます。
 いわゆる「三頭一人立ち」の獅子舞で、毎年五月と十月に鷲神社に奉納されるほか、五月の奉納後には地域を回り、氏子の庭先でも舞われます。地域の「厄払い」のために舞われるという本来の姿をよく伝える獅子舞で、太夫(大獅子)を中心にした三頭の獅子が勇壮に舞います。
 平成十五年十二月』
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 参道。
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 参道の両脇に手水舎。
 おそらくは左の手水舎が鷲神社元来のもので、右の手水舎は稲荷神社が合祀された際に移されたものではないだろうかと推測。
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 右の手水舎の水盤には狐の彫刻が施されており、また側面には「明治三庚午年(1870)清明元辰」と刻まれている。ちなみに左の手水舎の水盤は元治元甲子年(1864)十一月の造立。
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 拝殿。
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『鷲神社 御由緒
 さいたま市緑区南部領辻2914
□御縁起(歴史)
 当社は奥州街道(後の日光御成街道)の西、やや奥まった所に鎮座している。その社叢は市から「ふるさとの森」に指定されており、市民の憩いの場として親しまれている。
 社伝によると、平安期、兄八幡太郎義家を援けんと、新羅三郎義光が奥州街道を下向する途次、当地において奇瑞を感じた。そこで神楽を奏上し、跡地に祠を建てて鷲明神を奉斎したという。
 本殿には、翼を広げた鷲の背に立つ鷲大明神像と鏡が安置されている。神像の底面には「明和八辛卯歳(1771)霜月 □□□□四郎 別当惣持院法印恵快代」と記され、また、神鏡の台座の底面部には「嘉永六丑年(1853)三月 別当阿日山惣持院十四世現住職法印覚□謹誌」と記されており、江戸期、別当惣持院が当社の祭祀を司ってきた様子の一端を伝えている。ちなみに、当社の南方二○○メートルほどの所にある惣持院は真言宗の寺院で、寺伝では天正五年(1577)五月に開山良秀が入寂したとされる。
 「風土記稿」は辻村の神社について「鷲大明神社 村の鎮守なり、惣持院持なり、稲荷社二宇 雷電社 以上三社村民持」と載せる。
 当社は、明治六年(1873)四月に村社となり、同四十一年(1908)十月に字西原の雷電社と字原山の稲荷社を合祀し、更に同年十一月には字辻の稲荷社を合祀した。
□御祭神と御神徳
 日本武尊・・・武運長久、厄除け、縁結び
□御祭日
 村祈祷(現在五月中旬) お日待(現在十月中旬)』
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 本殿。
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『鷲神社碑銘
鷲神社舊南部領辻村之鎮守也地勢爽塏西南田野
遠開遥對冨岳西北望秩父連山風光頗佳社殿広壮
老樹蒻欝使人深起敬虔之念神苑廣寛千有六十九
坪明治四十二年三月陸軍大臣寺内正毅献日露後
戦利品以為紀念其四十二年改造拜殿■瑞垣合祀
神社賜其地壹段貮畝拾■歩其四十五年準指定神
社神饌幣帛祭之大正三年十月献金賜國有林六段
五畝拾歩社財益加神徳赫々凢水旱疾疫有祷必■
爲信徒敬神之厚真可感也因録貞珉以傳■昆銘曰
 辻村庶民 至誠敬神 神徳益顕 霊域維新
大正六年歳次丁巳二月十一日』

 基本的にはきちんとした文字で刻まれているのに、所々で崩し字になったりするのは何故なんだろう。読めないじゃないか。
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『合祀記念碑
我辻郷往時属南部氏領域分立原山及辻廓之二部各祀稲
荷社神人自不相和識者憂之久矣明治四十一年十二月合
祀兩稲荷社鷲神社境内原山稲荷社出金三百三十四圓辻
稲荷社出金百八拾六圓以充其費殘餘金百七十圓編入本
社基本財産仝年四月改築拜殿及瑞垣其工費金千八百圓
至同年九月竣工甍字嚴然神徳如高於是乎闔郷驩虞弊習
頓革焉大正十二年四月以當合祀十五週年氏子胥謀醵金
百五十圓購花剛石敷稲荷社庭前以表尊信之意乃建一小
碑叙其梗概以告後昆
大正十二年五月十五日』
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 合社殿。
 左から不明、大六天、稲荷社、水神宮、空、大黒天・布袋尊像、大黒天・布袋尊像。
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 稲荷合祀社。
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 二つの稲荷社が収められているが、その祠の中に仏像らしきものが見える。左のものはさっぱりわからないが、右のものは荼枳尼天だろうか。
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 鳥居の傍にも建物があるが、中はからっぽだった。おそらくこちらが由緒書きに記されていた雷電社なのだろうと思うのだが、どうなのだろう。
 雷電社(?)の前に踏石があるが、これはなんと力石。
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 踏石にされている力石。「奉納力石三十二■ 辻村」の文字が読み取れる。この二つの他にも傍らの木の根元に半ば埋まるように置かれている力石もあった。
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 以上で4月12日参拝分終了。
 この日はそれ程歩いた気はしなかったのだが、ウォーキングカウンターの表示は18,855歩。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとFA50mm F1.4、DA20-40mm。Coolpix P7100。

氷川女體神社(緑区宮本二丁目)

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 見沼氷川公園の北側に鎮座する氷川女體神社(さいたま市緑区宮本2-17-1)。
 見沼代用水に架かる神橋には氷川女體橋と刻まれている。神社に駐車場は無く、また神社前の通りには駐車禁止の看板もあるので氷川公園の駐車場に駐車。
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 鳥居。
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 拝殿。
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『三室氷川女體神社 さいたま市緑区宮本鎮座
 当社は崇神天皇の御代に、出雲杵築の大社を勧請した古社で、武蔵国一宮として見沼のほとりに鎮座している。
 主祭神は奇稲田姫命で、大己貴命と三穂津姫命を配祀している。
 当社の御手洗瀬である見沼を囲み、大宮氷川神社(男体社)大宮中川の中山神社(簸王子社)とともに、三社深い関係にあり、「三室」を伝えてきた。
 古代。女神を祀るところや、社殿が東方を向いているなど、その創立の深さと由緒を忍ばせている。
 中世以来。武門の崇敬を集めており、これらにゆかりある宝物も多い。徳川家康からは社領五十石を寄進され、また徳川家綱によって現存する社殿も建てられた。
 古来からの御船遊神事は、見沼干拓後、磐船祭として行われ、その遺跡が現存している。
 また、暖地性植物の繁茂する社叢は天然記念物であり、ふるさとの森にも指定されている』
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『埼玉県指定有形文化財(建造物) 氷川女體神社社殿 一棟
 付 寛文七年銘棟札 一枚
 平成一九年三月一六日指定
 氷川女體神社は、武蔵国一宮と称され、また、古来より御船祭を行う神社として知られています。中世以降は、武家の崇敬が厚く、当社所蔵の三鱗文兵庫鎖太刀(県指定有形文化財)は鎌倉幕府執権北条泰時の奉納と伝えられ、戦国時代には岩付太田氏や小田原北条氏の庇護を受けていました。江戸時代になると、徳川幕府から社領として五○石の地を寄進されました。また、当社に残る寛文七年(1667)銘の棟札等により、本殿は江戸幕府四代将軍徳川家綱が再興したものであることが明らかとなっています。
 社殿は本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿で、権現造の形式となっています。本殿は三間社流造で、正面三間(3.56m)、側面二間(2.11m)、さらに向拝がついています。幣殿は両下造で、正面一間(3.56m)、側面二間(3.63m)です。拝殿は入母屋造で、正面五間(9.46m)、側面二間(4.57m)です。さらに向拝がつき、その向拝には千鳥破風及び唐破風がついています。
 平成二三年・二四年に社殿修理が行われ、屋根が柿葺きの時期があったことがわかりました。
 この社殿は、埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物であるとして、平成一九年に埼玉県の有形文化財に指定されました』

 棟札には「武蔵国一宮簸河女躰大明神社、征夷大将軍源朝臣家綱公御再興阿部朝臣忠秋 奉寛文七丁未六月十二日御遷座」と書かれており、また徳川吉宗公の時代には、大岡越前守忠相が寺社奉行に昇格するや直ちに当社々殿を修復したとの記録も残っているのだそうだ。ちなみに大岡忠相が寺社奉行になったのは元文元年(1736)八月である。
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 拝殿・幣殿・本殿。
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『氷川女體神社の道標
 もともと、赤山街道沿いの大間木水深(浦和)の地にあった、この石碑には、「武蔵国一宮」「女體宮道」とあって、幕末の弘化二年(1845)に当社への道しるべとして赤山街道に面して建立されたものです。
 また、当社から北西約四百メートルの住宅地の中には石造の鳥居がありますが、これは安政二年(1855)に、馬場方面から参詣する人たちの便を考えて、大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものです。
 幕末の頃に相次いで建てられたこの石碑や鳥居は、建立する必要に迫られるほど、当社への参詣客は非常に多く、篤い信仰を得ていたことを物語る貴重な資料となっています』

 ググってみたら確かに石鳥居の写真が出て来るのだが、正確な場所は不明。とは言え大まかには見当がつけられそうなので、後で探してみようかな。……ストリートビュー見てたら見つけちゃった。てへ。
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 氷川女體神社所蔵文化財の案内板。書き写すのは長くてめどいからパス。
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 竜神社。
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『この竜神社には、さいたま市の竜伝説に因んだ竜神様が御座します。
 かつて広大な沼であった見沼の辺のここ武蔵一宮氷川女體神社には、長年に亘り、神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、沼の主である竜神様を祭る祭祀「御船祭」を執り行ってまいりました。享保十二年(1727)八代将軍吉宗公の政策で見沼は干拓され、「見沼田んぼ」となってからこのお祭りは「磐船祭」として今尚続けられております。遺跡によれば御船祭は十四世紀から行われていたとも推定されます。
 世界最古の閘門式運河ともいわれる見沼通船堀など、見沼には数々の歴史財産が秘められております。見沼を中心としてさいたま市内に点在する数多くの竜神伝説もその一つと言えます。
 見沼代用水と見沼代用水から西へと引いた高沼用水、その二つの灌漑用水で田畑を耕す地域と見沼に関わる地域はほぼさいたま市全域に及んでいます。
 さいたま竜神まつり会は「文化と歴史を活かした誇りのもてるまちづくり」を目的として平成十三年(2001)五月に約五十mの巨大な昇天竜を制作し「竜神まつり」を開催致しました』
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 竜神社向かい側のこちらはなんだろう。祭具庫かな。
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 竜神社裏手に並ぶ末社群。何神社なのかは不明。
 多くの神社ではこういうのはわりと普通なのだが、しかし氷川神社や中山神社では末社は合社殿にまとめて社名も記されていたので、氷川三社の一つとしては少し残念。
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 左は榛名山・三峯山大権現。側面には「一天平定 日月清輝」、「文久二壬戌(1862)八月上浣」と刻まれている。
 右は越立山・富士山・湯殿山嶽々坂東秩父西国神社仏閣拝礼供養塔。側面に「大山石尊大権現五拾度参 天下泰平 郷中安全」、背面に「文政十三竜集庚寅(1830)十一月穀旦 願主 大熊友治郎」と刻まれている。
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 末社。
 左の写真の木祠は本殿のほぼ真裏に位置し、中には天照皇大神と書かれた神宮大麻が収められている。神明宮だろうか。
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 本殿西側の末社。
 どちらも社名は記されていないが、左の祠には竜の彫刻があった。また右の祠のそばには一山霊社・覚明霊社と刻まれた石碑があったので、富士講と関係があるのかも。とすると浅間社なのかな?
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 末社。おそらく稲荷社。
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 神社側から見た氷川女體橋と磐船祭祭祀遺跡入口。
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 見沼代用水。一週間早ければ桜も満開だっただろうか。
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 磐船祭祭祀遺跡入口。
『さいたま市指定史跡 氷川女體神社磐船祭祭祀遺跡
 昭和五四年三月二九日指定
 氷川女體神社では、かつて御船祭と呼ばれる祭礼がおこなわれていました。これは、毎年あるいは隔年の九月八日に御座船に載せられた神輿が見沼を渡って下山口新田の御旅所に渡御するもので、見沼の中に設けられた祭礼場跡では、何度も繰り返し竹を立てた跡や祭礼に伴うとみられる銭などがおびただしく出土しました(四本竹遺跡)。この御船祭は、見沼と深い関わりをもった氷川女體神社の根本祭礼でした。
 しかし、享保一二年(1727)に見沼の干拓が行われると、御船祭は行えなくなりました。そこで、新たに祭礼場を造成して、御船祭の代わりの祭礼が行われることとなりました。これが磐船祭です。
 新たな祭礼場は、氷川女體神社境内の前にある見沼の干拓地に柄鏡形に池を掘り、その中に山を盛って造られました。高台にある境内から、参詣路の石段を降り、見沼代用水を渡ったところから、陸橋(御幸道)が設けられ、祭礼場へと通じていました。
 祭礼場は直径三○メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲んだ斎域が設けられていました。ここに神輿が渡御し、御船祭にかわる祭礼としての磐船祭が行われていました。
 磐船祭は享保一四年九月八日に初めて行われ、幕末から明治の初期頃まで行われました。その後、磐船祭は途絶えましたが、祭礼場の跡はそのままに残されてきました。
 見沼と関係の深い関わりを持った氷川女體神社の祭礼を物語る遺跡として、極めて重要なものです。なお、昭和五七年度に氷川女體神社と旧浦和市教育委員会によって、復元整備事業が行われました』
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 祭祀遺跡に向かう途中にある祠。他の場所であれば辨財天であろうかとも思うのだが、こちらだと竜神を祀っているのかも。しかし磐船祭と言う言葉からは天磐船(鳥之石楠船神)も想像してしまうし、天磐船は三穂津姫命を祀る美保神社とも縁があると言う。うーん、なんだろうなぁ、これ。
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 橋の向こうが祭祀場。
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 祭祀場。
 手前の石碑は明治三拾七八年戦役紀念碑。
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『御船祭の竜神伝説(残された見沼)
 とおいむかしから、見沼の一番深い所に神輿を乗せた舟を繰り出し、沼の主の竜神を祀るために「御船祭」というお祭りが行われていました。
 ところが、見沼を干拓して田んぼにするということになると、永年つづいていた「御船祭」が出来なくなってしまいます。
 田畑に水を与え、人々を見守ってくれる竜神を大切にするお祭りが出来なくなっては、人々が感謝の気持ちをあらわすこともできません。
 そのお祭りを行なっていたのは、この氷川女體神社です。そこで神社は、幕府にそのことを告げたのです。
 すると幕府は、神社の前にまるで手鏡のように見沼の水を残し、中央に土壇場という出島をつくりお祭りの場を残してくれたのです。
 見沼の竜神は干拓と同時に天に昇り、今でもこの辺りを見守ってくれているといいますが、それだけではありません。この残された見沼に時折来ては泳いでいるのです。もしかすると、コイに姿をかえて泳いでいるのかも知れません。
※「御船祭」は干拓後「磐船祭」となり、その後、「祇園磐船竜神祭」として毎年5月4日に行なわれています』
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 4月20日追記。
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 石鳥居(緑区宮本1-5)。
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 柱西面に「奉献 氏子中 當御宮廣前」、柱東面に「安政二年乙卯秋八月上浣建之」と刻まれている。

八幡神社(緑区大牧)

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 浅間神社から少し北西に向かった先に鎮座する八幡神社(さいたま市緑区大牧1469)。
 鳥居の小柱には「平成十九年(2007)二月吉日建立」と書かれたプレートが設置されている。また、石段途中の水盤には「大正十年(1921)四月吉日」と刻まれている。
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 覆屋。
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『八幡神社 御由緒
 さいたま市緑区大牧1469
 当社は、江戸期より村の鎮守として祀られ、代々名主を務めていた岡村家の鬼門に当たる場所に鎮座している。
 この岡村家は、同じく当地の有泉家と共に甲斐武田家の家臣と伝えている。当地と武田一門とのかかわりは、武田信玄の娘で、重臣穴山梅雪の夫人見性院が、夫梅雪が徳川家康に下った後に、本能寺の変で堺より帰国の途次に一揆によって殺されたものの、家康によって保護を受け、家康の関東移封に従って江戸に来て、当村内に三百石の領地を賜ったという。岡村家は恐らく穴山梅雪の家臣で、主人亡き後も見性院に従い、その所領を治めるために当地に任ぜられた後、土着したものと思われる。また、八幡神社を当初に祀ったのは、主人梅雪が武田の属城であった駿河国江尻城主であった時に、江戸城の鎮守として崇敬の厚かった八幡宮(静岡県静岡市)を勧請したものと思われる。
 更に、当社周辺の字名を梅所と呼ぶのも、穴山梅雪の名前にちなんで付けられた地名であると伝えられている。
 なお、見性院は、秀忠の子幸松君(保科正之)の養育に当たるなどしたが、元和八年(1622)に没し、領地として縁のあった当地の天台宗清泰寺に葬られている。
 明治六年(1873)四月に、当社は村社となり、昭和四十一年(1966)九月には牛子の協力によって、本殿及び覆屋の修築が行われた。
□御祭神と御神徳
 応神天皇・・・交通安全、厄除開運、家内安全
□御祭日
 祭礼(九月十五日)』
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 稲荷社。

浅間神社(緑区大牧)

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 セブンイレブンさいたま大牧店の西隣に鎮座する浅間神社(さいたま市緑区大牧1485)。
 鳥居の左側に一台分の駐車スペースがある。
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『浅間神社 御由緒
 さいたま市緑区大牧1485
□御縁起(歴史)
 大牧は、武田信玄の娘で、二代将軍秀忠の子幸松丸(のちの保科正之)を養育したことで知られる見性院が、慶長年間(1596-1615)ごろに徳川家康から領地として賜った所であり、地内の清泰寺にはその墓所(県指定旧跡)がある。この見性院は、武田一族である穴山梅雪の後室となった人物であるため、当社の鎮座する梅所という字の名は、梅雪にちなんだものではないかと思われる。
 この大牧の地に当社が祀られた背景には、こうした甲斐武田氏との関係の深さが第一に挙げられる。浅間神社は、甲斐国(現山梨県)一宮で、武田信玄の奉賽を受け、徳川家康からも社領安堵されたことで知られている。見性院は元和八年(1622)に没し、「明細帳」に当社はその二年後の寛永元年(1624)六月一日の創立とあることから、亡き見性院の墓所を護るため、縁のある甲斐国一宮を往時清泰寺の地所であったとされる高台の現在地に勧請したものではないかと考えられる。したがって、清泰寺とのつながりも深く、昭和三十年(1955)ごろまでは七月一日の祭典終了後には神饌の鏡餅の上供を清泰寺に持参するのが習いとなっていた。また、清泰寺境内にある三五○基もの庚申塔の内三○○基は万延元庚申年(1860)銘で、この年は富士山の御縁年に当たることから、当時御縁年と庚申待とが結び付いて建てられたものだろう。ちなみに、当社は富士山の方角を向いている。
□御祭神
 木花咲耶姫命・・・安産、子育て
□御祭日
 元旦祭(一月一日) 例祭(六月三十日)』
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 左の石碑は社殿修営鳥居石段新築寄附芳名碑。社殿そばの水盤には文化五戊辰年(1808)五月大吉日と刻まれている。しかし、大吉日とはどれだけ良い日だったのやら。
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 拝殿と言うか覆屋。
 裏手には掃除用具と共になぜかパチスロの雑誌が積まれていた。こういう場合はエロ本が置かれているのがお約束ってものじゃないのか、ぐぎぎ(笑)
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 鳥居の柱には「国道463号拡幅に伴う移転工事 平成十七年(2005)三月吉日」と刻まれている。

大牧氷川女体神社(緑区大牧)

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 さいたま市立大牧小学校の北、女躰下公園の隣に鎮座する氷川女体神社(さいたま市東浦和6-23)。
 駐車場が無いのは先にわかっていたので、稲荷~大白天と引き続き徒歩で。Googleストリートビューは便利だなぁ。
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 拝殿と本殿覆屋。
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『埼玉県指定有形文化財(建造物)
 大牧氷川女体神社本殿 一棟
 昭和六十二年三月二十四日指定
 大牧氷川女体神社は、見沼の谷を見下ろす舌状台地上にあり、市内宮本の氷川女体神社祭神の御子姫を祭ったという伝えもあります。
 本殿は一間社流見世棚造で、桁行一・一八メートル、梁間○・九五メートル、向拝の出○・六七メートルです。地覆の上に建ち、身舎柱は円柱で、腰長押と内法長押で緊結し、造り出し舟肘木桁を架してあります。妻は虹梁・いのこ扠首です。向拝柱は面取り方柱で、肘木造り出しの頭貫を通し、柱上三斗組の斗栱を配しています。中備は蟇股です。軒は一軒繁垂木で、屋根は目板葺です。身舎柱間は正面が板唐戸で、他の三面は横羽目板です。なお、正面には木階が付きます。
 寛永十三年(1636)と貞享元年(1684)の棟札が現存していますが、前者がこの本殿の建立を示すものです。ともに付指定となっています。
 この本殿は覆屋の中に収められている小規模なものですが、この地域に顕著な分布を見せる見世棚造神社建築の典型的な例です。さらに、棟札により建立年代が明らかであることも加え、極めて貴重な建築といえます。
 なお、昭和六十三年度から平成元年度にかけて、建立当時の姿に復元されています。
 平成十四年十月』
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 本殿。
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 合社殿なのかな。祠五つ分に仕切られているが、御幣が何本か倒れているだけでなにが祀られているのかはわからない。
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大白天神社(緑区間宮)

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 見沼代用水東縁に架かる大白天橋から少し東へ向かった所に鎮座する大白天神社(さいたま市緑区間宮495)。
 大天白ではなく大白天? Wikipediaの天白信仰の項目を見ると、天白神は天一神(北極星)と太白神(金星)を併せて祀ったものとする説があるので、太白天から丶が取れて大白天になったのかな、などとも思ったのだが、ググってみたらこちらの御祭神は天穂日命であるのだとか。
 天穂日命と言えば、葦原中国平定の為に出雲へと遣わされたものの逆に大国主神の配下になってしまった神様だ。まさか大国主神が大黒天だから、じゃあ天穂日命は大白天ね、とか阿呆な理由じゃ……いやいやいや、無い無いそれは無い。まぁ、普通に考えて八王子と八将神の関係性からだろう。天穂日命は歳殺神に相当するようで、歳殺神は金星(太白星)または火星(熒惑星)であると言う。

 4月20日追記。
『間宮は間宮東・西組と坂山に分かれ、前者で大白天神社、後者で氷川神社を別に祭っている。「風土記稿」その他には、大白天神社が鎮守となっているが、全村で祭るものではない。その大白天神社は、昔は隣村の北原にあったという伝説がある。北原の村鎮守は稲荷社であるが、その稲荷社と一緒に祭ってあったという。それがいつの間にか、間宮に移っている。そこで御幣を北原へ戻しておくと、知らぬうちにまた移っている。何回やっても同じことなので、そのままにしてあるのだという。少し前までは、元旦には、北原の人は、間宮の大白天神社までおまいりしていたそうである』(「浦和市史 民俗偏」より抜粋)
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 拝殿。
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 社殿裏から。
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 社名を記したものは無いが、左の木祠に収められた像の胸には梅鉢紋があり、右の木祠には陶器の狐。そして水盤には宝珠紋があるので、天満宮と稲荷社であると思われる。

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 大白天橋のそばにある祠。はじめはこちらが浅間大神(さいたま市緑区間宮522)かと思ったのだが、どうも変だなと感じ、改めて地図を見てみたら、違うじゃーん。浅間大神はこの藪の向こうじゃーん。はて、どこに浅間大神への入口があったのだろう。いやそもそも、コレなに。
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稲荷神社(緑区北原)

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 大崎公園の東側に鎮座する稲荷神社(さいたま市緑区北原1661)。
 駐車場は無いので、大崎公園から徒歩で。
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 拝殿。
 手前の水盤には文久三亥年(1863)二月初午と刻まれている。
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 天保七丙申(1836)三月造立の石祠と明治二十四年(1891)三月造立の浅間大神。

頭先稲荷大明神(緑区大崎)

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 大崎公園北側に鎮座する頭先稲荷大明神(さいたま市緑区大崎3023)。
 神社自体の駐車場は無いので、大崎公園の駐車場に駐車。
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『頭先稲荷由来
 当社は、頭先稲荷大明神と称し、享保十五年(1730)頃の創建と伝えられます。
 当時、江戸幕府の命により見沼溜井が干拓され、其の面積は千二百町歩に及び、多くの農民が耕地配分の恩恵を受けました。
 此の時期に、村内の有志が其の豊作と子孫の繁栄を祈願して、旧大崎村頭乃台地先に当社を建立いたしました。
 以来、二百七十有余年、村人の信仰は厚く別名夜泣き稲荷とも称され、育児の神として、幼児の夜泣きを直すことでも有名です。
 特に近年は、頭先の神号に因み子供の出世を祈願する親が多く、其の御利益を受けた者は村内はもとより遠方にまで及び、伝え聞き参詣する者が絶えません。
 此処に由来を伝記して、神徳を讃えるものであります。
 平成十三年七月吉日』
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諏訪大明神(緑区大崎)

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 太子堂の南東に鎮座する諏訪大明神(さいたま市緑区大崎)。
 木傘神社の由緒書きに「大崎の地内には、神祇管領吉田家配下の神主で、名主も務めてきた高橋家が祀った諏訪社もあったが、明治末年に木傘神社に合祀された。後に復祀され、現在は高橋家の後裔により再び祀られている」と記されていた諏訪社と言うのはこちらのことなのだろうか。
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 右奥が諏訪社であるのだろうとして、左側の赤い祠はなんだろう。稲荷社かな?

 ちなみに、こちらに車で来るのが無理なのはわかっていたので、木傘神社に置いたまま石尊宮、諏訪社と徒歩で巡っている。

石尊宮(緑区大崎)

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 新見沼大橋有料道路料金所そばに位置する太子堂(さいたま市緑区大崎1724)の脇に鎮座する石尊宮。
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 石段脇左側の石柱には「小天狗 石尊宮 大天狗」、右側の石柱には「皇宮山屴眞■■」と刻まれている。
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 青面金剛と不動明王。
 青面金剛の背面には「宝暦七丁丑天九月吉日 中興戒翁屴眞襌庵 大崎村」と刻まれているので1757年の造立とわかる。屴眞襌庵の部分はもしかしたらビミョーに違うかも知れないけど。不動明王の方はわからなかった。
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 宝暦三癸酉年(1753)五月造立の狛犬。
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 太子堂。
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『太子堂鰐口
 寛文九年南部江大崎村太子堂銘
 指定年月日 昭和54年3月29日
 この鰐口は、ここ大崎太子堂の向拝に懸けられていたものである。太子堂は「新編武蔵風土記稿」に「太子堂、国昌寺の持」とあり古くから国昌寺の境外仏堂であることが知られる。鰐口は、青銅製で整った形をしており、高さ一七・三センチメートル、幅二○・四センチメートル、厚さ八・一七センチメートルほどのやや小型のもので銘帯に次の銘文が毛彫りされている。
  奉 武州足立郡南部江大崎村太子堂
  納 寛文九己酉年二月廿日
 これにより、寛文九年(1669)太子堂に奉納されたことがわかり、江戸時代前期の工芸品として、また南部領という領名が定まるまでの間、南部江(郷)という呼称のあったことを知る、資料として美術的、歴史的に保存価値の高いものと言える。
 昭和六十年九月』
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 鰐口。

木傘神社(緑区大崎)

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 大崎公園の北西に鎮座する木傘神社(さいたま市緑区大崎3065)。
 駐車場は無いが、神社裏に回れば境内端に駐車できる。
『木傘神社(きのかさじんじゃ)
 所在地 さいたま市大字大崎
 木傘神社は、旧大崎村の旧村社である。祭神は日本武尊で、本殿は弘化四年(1847)に建立されたものである。
 「新編武蔵風土記稿」には、村ノ鎮守ナリ、祭神ハ日本武尊ナリトイウ、大泉院持、末社稲荷社と記載されている。
 また、この木傘神社には次のような伝説が伝わっている。
 その昔、景行天皇の皇子日本武尊(本名は小碓皇子)が東征の折、この地についたところ、時ならぬ暴雹にあった。尊は大木の下で雹を凌いでいたが、ますます激しくなった。そこで、木の下で除雹の祈祷をすると、たちまち降雹が止んだので、その跡に神社をつくり、降雹を凌いだ木にちなんで木傘神社と命名したといわれている。
 昭和五十八年三月』
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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『木傘社 御由緒
 さいたま市緑区大崎3065
□御縁起(歴史)
 明治三年(1870)に、時の神職井上正が浦和県役所に提出した文書(「埼玉県伝記集成」所収)には、当社の社名について次のような伝説が記されている。日本武尊が東征の途次、当地で時ならぬ降雹に遭い大木の下でしのいでいたが、雹がいよいよ激しくなった。しこで木の下で雹除けの祈誓をすると、たちまちにして晴れ渡った。後に里人が尊を偲び、その大木の跡に一宇を祀り木傘明神と称したという。
 また、当社の隣地に住み、明治期まで木傘山大泉院と称して、代々別当を務めてきた井上家の口碑では、元々は応永年間(1394-1428)に、合戦で敗れた三兄弟が当地に土着し、そのうちの次男が修験となって大泉院と名乗り、庵の南西に鬼門除けとして当社を創建した。やがて江戸期に入ると、村の開発が進んで村民も増えたことから、当社が村鎮守として祀られるようになったという。
 本殿には「奉納御神前願主六右衛門寛延四年未(1751)三月十六日」と記した鳥居形の台座に、「文化乙丑年(1805)拾五世大泉院」と刻んだ金幣を奉安し、また、境内には文政十年(1827)に氏子中によって奉納された石灯籠と手水鉢がある。
 なお、大崎の地内には、神祇管領吉田家配下の神主で、名主も務めてきた高橋家が祀った諏訪社もあったが、明治末年に当社に合祀された。後に復祀され、現在は高橋家の後裔により再び祀られている。
□御祭神と御神徳
 日本武尊・・・武運長久、厄除け、縁結び
□御祭日
 元旦祭(一月一日)  禦(五月十四日)  大祓(七月十四日)
 例大祭(九月十四日) 大祓(十二月二十五日)』
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 本殿。
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 どちらがどちらなのかわからないが、稲荷社と諏訪社だろうか。しかし諏訪社は合祀された後に復祀されたと書かれていたから、諏訪社は無いのかも?
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『享保十二年(1727)、干拓により生まれた見沼田圃東南部の一角に存する当耕地の区画は、広狭不整で常に水を湛え羊腸の如き畦畔は軟弱で走行儘ならず、僅かに広い農道もあちことに散在する等農作業事情は極めて厳しいものでした。
 戦後の高度成長経済は、農業様式を近代的機械化営農へと急速に変化した為、旧来の圃場形態では若い世代の就農者には馴染まず、由緒と伝統に満ちたこの耕地もいつしか荒廃化の傾斜を深めて参りました。
 この様な事態を憂慮した有志は地権者と協議を重ね、全員の賛同を得て、総面積二八・五ヘクタール、組合員一○七名によって昭和五十四年(1979)七月大崎土地改良区を設立、爾来四年有余の歳月をかけ畑地転換工事を完成し利便にして豊穣な耕地に生まれ変り、昭和五十九年一月三十一日換地処分登記も恙無く完了致しました。
 ここに関係者各位の協力に感謝し、併せてこの喜びを永く後世に伝え当地の限りない繁栄の願いを籠め、地区の鎮守木傘神社に御神燈一対を献納する。
    昭和六十一年九月十四日
                 大崎土地改良区 理事長 高橋健』

神明神社(見沼区南中丸)

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 大宮八幡中学校の北東に鎮座する神明神社(さいたま市見沼区南中丸1388)。
 一台分の駐車場があるが、通りの少ない時でないと出入りはしづらそうだ。
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 靖国鳥居。
 柱には平成十三年(2001)七月十五日建之と刻まれている。
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 拝殿。
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 稲荷社であるそうだ。
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 御嶽塚。
 頂には御嶽山神社・八海山神社・三笠山神社が祀られている。

 以上で4月5日参拝分終了。
 この日は大宮第三公園に車を置き、徒歩でぐるりと巡ってみた。結構歩いたつもりだったのだが、ウォーキングカウンターを見ると20,684歩。それほどでもなかったようだ。公園内も少しぶらついてみたが、のんびりするのには良さそうな感じだ。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、FA43mm、50-150mm II。K-7にDA20-40mm。Coolpix P7100。

八幡神社(見沼区南中丸)

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 さいたま市立大宮八幡中学校の北側に鎮座する八幡神社(さいたま市見沼区南中丸390)。
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 参道。
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 拝殿斜めから。
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 阿夫利神社。
 側面には「七庚午六月吉日」と刻まれている。七の前は崩れてしまっていて読み取れないが、僅かに人偏らしき部分が見えるので、おそらく文化七年(1810)だろう。
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 末社。
 何神社なのかは記されていなかったが、ググってみたところ、八雲社であるのだそうだ。
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 これまた何神社なのかわからなかったのだが、こちらは稲荷社であるのだそうだ。
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