熊野神社(日の出三丁目)

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 国道17号線日の出交差点の東、日の出公民館脇に鎮座する熊野神社(上尾市日の出3-4-31)。
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 本殿。
 大棟に卍が見えるが、これがこちらの御神紋なのだろうか。
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 社号標石の前に大日如来。
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「大日如來弥陀一躰  寛文四年
 一間者号変定成佛辰 四月十日
             敬白」
 蓮座には賢明圓海法師と刻まれている。寛文四年と言うことは1664年、江戸時代初期の造立か。

 以上で5月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA20-40mm、DA70mm。

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春日神社(柏座二丁目)

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 上尾駅西口から市民体育館通りを西へ向かうと、上尾市立富士見小学校東側の交差点そばに春日神社(上尾市柏座2-14)が鎮座している。
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『春日神社
 上尾市柏座二-一四-二
 祭神・・・天児屋根命、素戔嗚尊、大山祇命、建御名方命
 創建は、戦国末期、忍城主成田下総守の家人であった曾我兵庫助祐昌が当地に住していたことから、主君成田氏の氏神として祀っていた行田市谷郷の春日神社を勧請したものであると考えられている。
 「風土記稿」柏座村の項には、村の北方の丘にあった曾我氏の居館跡について、歌舞伎で知られる曾我十郎・五郎兄弟に付会して伝承された様子を載せている。
 また、同書には「芝宮明神社 村の鎮守なり、日乗院の持、末社神明社」「春日社 当村および春日、谷津村の鎮守なり、持前に同じ、末社諏訪社」と二社が見え、当社は江戸期に柏座及び春日、谷津村の鎮守であったことがわかる。ちなみに、春日、谷津村はもと柏座村の内にあり、元禄期ごろに分村したとの経緯がある。
 別当の日乗院は、真言宗の寺院で、西光山長福寺と号する。かつては一○石の朱印地を有し、元暦二年(1185)道法上人の草創、あるいは永正元年(1504)弘尊の開基とも伝えられる。
 明治初年、当社は村社となり、同四十年(1907)八月、芝宮社と合祀した。更に翌四十一年三月、谷津の鎮守氷川社を合祀したのを機に、柏座のほぼ中央に当たる芝宮社の旧境内へ鎮座地を移した。この時、氏子が春日社の旧社殿を神輿のように担いで運んだという。春日社の跡地は今も「宝前前」という地名が残る。
 昭和十八年(1943)に現本殿を造営し、同四十六年(1971)には、拝殿及び幣殿を新築した。
 境内社に「稲荷社」、「八雲社」、「第六天社」、「神明社」、「諏訪社」を祀る』
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『春日神社
 所在地 上尾市柏座二丁目
 春日神社は、明治四十一年(1908)五月に、上尾町のうち柏座、谷津、春日谷津にあった芝宮社、春日社、氷川社の三社が合祀されたもので祭神は天児屋根命、素盞嗚命、大山祇命、建御名方命である。本殿は昭和十八年に、拝殿と幣殿は同四十六年に造営した。
 「新編武蔵風土記稿」の柏座の項には「芝宮明神社、村の鎮守なり」とあり、谷津村の氷川社の項に「当社は谷津、宮下、別所、向山、本郷等の鎮守なり」と記されている。
 また、明治九年(1876)刊の「武蔵国郡村誌」によると氷川社は、谷津村の中の「宮下村飛地」内にあったという。なお、宮下村の村名については、「新編武蔵風土記稿」に「いま谷津村にて司れる氷川社、もと当村の持にして近村の総鎮守なれば、その宮ありしをもって名とせりという」と記されている。
 昭和六十二年三月』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社。
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 延享元甲子年(1744)十月造立の青面金剛庚申塔と正徳二壬辰(1712)十月造立の青面金剛。
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 青面金剛の右には石仮面……じゃなくて、なんだろうこれ。石祠の側面には太歳神と大将軍の名が刻まれているから、八将神を祀っているのかな。下の方には「遷宮導師當村 日乗院現住法印光■ 別當當寺現住」の文字も見える。

胡桃下稲荷神社(柏座一丁目)

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 上尾駅東口から少し北に向かった所に鎮座している胡桃下稲荷神社(上尾市柏座1丁目)。
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『胡桃下稲荷御由緒
 御祭神 宇迦之御魂神(殖産の神)
 当神社の御本社常陸国(現在の茨城県)笠間に鎮座致します笠間稲荷神社を本社と致します商業農業等の繁栄を司る御神を御祠りする御本社の古来からの別名胡桃下稲荷(紋三郎稲荷)で御座居ます。
 御本社の御由緒、社伝には第三十六代孝徳天皇の御代 白雉年間(650-54)に御創建せられ寛保三年(1743)には時の城主井上正賢氏が御社殿を整備、代々の祈願所と定め以後日本全国の武将、農、商人の多くの崇敬を受け日本三大稲荷とし尊崇せられて居ます。
 この社は明治時代の始め頃、此の地に住まいした新井亀次郎翁若かりし頃遠くにその御名を伝え聞き勧請を受け徒歩して御祭神を御運びし 御祠りすべき場所を此の地と定め自身此の土地を差し出しその後地域の尊崇の同志七人と共にその御社殿建設に奔走、多勢の御賛同を戴き寄進を頂戴し 御本殿、神楽殿、その他付帯施設を整備、現在に至って地域の尊崇を集めて居ります。
 現在の御社殿は当時の御本殿の一部の御神体を御祠した部分です』
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 本殿。
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 お狐さま。

氷川鍬神社(宮本町一丁目)

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 上尾駅東口のそば、埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線に面して鎮座する氷川鍬神社(上尾市宮本町1-14)。
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 神明鳥居。
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『氷川鍬神社縁起
 氷川鍬神社は「武蔵国足立郡御鍬太神宮畧来」によると百九代明正天皇の御代、寛永九年(1632)の御創立と伝えられます。
 御祭神は豊鍬入姫命・稲田姫命・菅原道實公・木之花咲耶姫命・應神天皇の神で豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人のため救いの手をさしのべて下さる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であります。
 稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、菅原道實公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間さまの神さまで、大山祇神という尊い神さまの御子神さまです。應神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
 氷川鍬神社は上尾宿総鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通稱「お鍬さま」と呼ばれております。
 氷川鍬神社の名稱になったのは明治四十一年(1908)の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった』

 上尾市教育委員会のサイトを見ると、三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざし踊り歩きながら上尾宿に現われたが童子たちは何処かに消え失せ、残された鍬を林宮内が祀ったのが鍬神社の始まりであり、万治(1658-60)の頃の事と伝えられると記されている。
 ところで主祭神の豊鍬入姫命は崇神天皇の娘であり豊城入彦命の妹姫だが、天照大神を祀るために笠縫邑や篠幡宮、伊勢飯野などを放浪し斎王の祖となった人物であるそうだ。が、なにゆえその豊鍬入姫命がこちらの御祭神になっているのだろう。どこからともなく現われ去って行った童子らと、放浪する姫はイメージ的に似通った部分があるのは確かだとは思うが。
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 神楽殿。
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 拝殿。
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 本殿裏から。
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 浅間大神。
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『上尾市指定史跡 上尾郷ニ賢堂跡
 上尾市宮本町一-一四 氷川鍬神社 
 昭和三十四年一月一日指定
「ニ賢堂」(通称「じけんどう」)は、天明八年(1788)、学僧の雲室上人が上尾宿(現在の氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎の名称です。雲室が、当時親交のあった林大学頭信敬らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と、わが国の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人の賢人を祀る意味から、「ニ賢堂」と名付けたものです。
 雲室は、信濃国飯山(長野県飯山市)出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも交流がありました。雲室が上尾宿で開塾したのは、学友の石井永貞と、その弟子に当る上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
 聚正義塾の学舎は、山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、その意味では、私塾とは異なる郷学の性格を持っていました。雲室は、四年ほどで上尾を去りますが、その後山崎碩茂が引き継いでいます。塾は、文政九年(1826)に碩茂が亡くなった後も続けられたといわれています。
 現在も氷川鍬神社に残る、林大学頭信敬筆の「二賢堂」の扁額、そして境内の「上尾郷ニ賢堂碑記」、「雲室上人生祠碑頌」とあわせて三件が、上尾郷ニ賢堂跡を物語っています。
 平成十一年六月十八日 上尾教育委員会』
IMGS9261s.jpg(クリックで1200x1800)
『上尾郷二賢堂碑記
    林皝撰 市河三亥書 松平定常題額
浮屠鴻漸頗通儒術甞游上尾郷與里人山﨑碩茂謀創建義學
以教郷子弟廼又就菅公祠以文公朱子並祀焉名曰二賢堂吾
正良君為書其匾而春秋祭祀之典一皆取正於市河子靜實係
天明八年事也属者介子靜之子孔陽請曰并祀之舉今己■三
紀而講學日以滋盛願賜一言以記之余乃為之言曰自學之不
講而為士者皆汲汲乎功利之競名譽之求而仁義遜讓之風幾
乎泯焉然其間名賢碩儒往往崛起使斯道賴以明於天下在我
則贈相國菅公乃其人而在彼則文公朱子繼往開来之功固不
待賛也蓋其東西相望先後同揆徳澤之所覃被遐壤絶郷莫不
顒然向風於戯盛矣■詩曰高山仰止景行行止使郷之子弟敬
瞻二公之在是祠也必将竦然興起相與勸勉晨夕講磨以従事
乎此則去功利而就仁義謝名譽而尚遜讓在家則孝悌之行興
居郷則長幼之禮成其風聲氣習之所曁雖委巷細民亦将視傚
而知勸畏威而寡罪安知一郷之俗不靡然而變乎抑鴻漸非有
斯道之責者碩茂亦力田自給之民乃能慨然留意於此自非志
尚超乎流輩者盖不能也故予樂為之記以諗其郷人使益脩而
勿廢云
文政五年歳次壬午冬十一月朔 山﨑碩茂等建』
IMGS9265s.jpg(クリックで1200x1800)
『雲室上人生祠碑頌
雲室上人名鴻漸字元儀信之飯山人也寶暦三年癸酉三月五日誕于
一向門徒光蓮寺是則武田信豐之子正善所創而上人其第十一生上
人欲以剛堅之質徧窮諸典也年十七出于江都學于宇子迪翁之門三
年翁没矣退而以為吾   邦天正以来伊洛之流日滋盛行則昇平
之化不得■關乎斯也然則今之讀書者誰不従事於斯其或非之者可
謂妨化之民耳遂游于林祭酒正良公之塾云天明八年游于上尾令郷
生山﨑碩茂為同學而後與碩茂及郷人林豐峰友老石應白石素碩山
口其道細井義跖井上常章美濃部美貫小松木奴小川呉来山﨑既年
林篤小川士慎山﨑興清水清英清水直正高橋茂之僧壽海大﨑八及
山﨑守禮等謀建義學以教子弟事見於去年所建二賢堂碑記當寛政
中住於江都西窪光明寺改名了軌字公範過年七旬託教肆乎法嗣證
存遂隠居焉去年壬午再游于上尾而大喜此郷益興於學矣於是郷人
謀報其徳為建生祠而請余為之頌夫上人余父執而又喜其崇儒術之
徳及於物故不辭其需乃為頌曰
祁祁郷子向斈無貳上人之篤永錫爾類
文政癸未四月望 江都 和氣行蔵撰并書及篆額
  昭和四十五年庚戌四月上浣 光苑市川芳雄疏募
              石工  大塚 裕康』

 碑文はもしかしたら読み取り間違えている部分があるかも知れないけど、大方は間違っていない筈。
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 聖徳太子像碑。

愛宕神社(愛宕一丁目)

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 上尾運動公園の西、埼玉県道51号川越上尾線と県道164号鴻巣桶川さいたま線の交わる上尾陸橋交差点から少し北へ向かうと愛宕神社(上尾市愛宕1-18)が鎮座している。
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 社殿。
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『愛宕神社御由緒
 当所の愛宕神社はその昔、現在の上尾運動公園北門の西方二、三○○米先(現在の愛宕二丁目)の所に本殿があって、周辺一面はうっそうとした広い愛宕山で、その南側が甚兵衛山、北側に山王山で日の詰神社の山林もあったと古老の言伝えにあります。明治初年に神仏分離令の発布があり、その後分離、廃合、合祀などが行われ、愛宕神社も合祀されることになりましたが、下町町民(当時の戸数、五~六十軒)がこれを拒み、旧原市新道、南角の所を借り受け、ここに一時お祀りしました。
 その後、明治四十二年(1909)七月二十日に現在のこの所に再び神社をお遷しして明治四十二年七月二十四日に大祭を行い、その日から下町を愛宕町と改名することになりました。
 昔、愛宕神社の本社が鎮座せられたのは、今から一二五○数年前、和気清麿公が勅を奉じて王城の火災防火、開運勝利、諸病厄除等、鎮護祈願の神として、山城と丹波の国境旭ヶ峯の頂上(今は京都市)にお祀りしたのが始まりであると言伝えられております。
 ご神体は勝軍地蔵菩薩様で、本殿に伊邪那美命、外二十柱の神様をお祀りしてあります。現在全国に愛宕神社は八百余分社があり、その内本県に三十数社(神社庁調べ)あります。
これ等の分社はおおかた大同元年(806)および仁寿三年(853)頃全国にわたり、とりわけ関東・武蔵の国に非常に火災と悪病が流行した時に当地にも分社鎮座がおこなわれたと考えられます。当社は古くから火防、諸病厄除、無病息災、開運等にご利益があると言われ参拝者が絶えません。
 例大祭 七月二十四日』
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 愛宕神社新築記念碑。
 「明治四十四年辛亥二月建 温故堂敬書」とあるので1911年に建てられたのだとわかる。二ツ宮氷川神社の案内板に、明治四十二年に氷川女体社と鍬神社が合祀すると、女体社の空宮が愛宕神社の本殿として譲られたと書かれていたので、その愛宕神社とはこちらのことだろうと思っていたのだが、どうやら違うようだ。
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 猿田彦大神。
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 享保七壬寅年(1722)二月造立の青面金剛だが、額には猿田彦大神と刻まれている。
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 側面にも陽刻が施されている。

牛頭天王社(上尾下)

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 金剛庚申から少し南下すると陣屋公民館(上尾市上尾下910)があり、その脇に石祠が鎮座している。
 かつて丸山沼(原市沼)を挟んで東に伊奈氏の陣屋、西に西尾氏の陣屋があったとのことなのだが、伊奈氏陣屋跡におど神社と思われる頭殿権現社があるのなら、西尾氏陣屋跡にめど神社の手懸りがあるのではないかと思い西尾氏陣屋跡である陣屋公民館に足を運んでみたのだが……うん、まぁ、祠はあった。でも、牛頭天王って刻まれてるんだよなぁ、これ。そもそも沼からここまでわりと離れているし、めど神社とは関係無さそうだ。
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 側面には文政五午(1822)六月吉日と刻まれている。西尾吉次が徳川家康から原市に五千石の所領を賜わったのは天正十八年(1590)のことであるそうだから、こちらの牛頭天王が屋敷の守り神として祀られていたと言うわけでもなさそうだ。
 牛頭天王と言うことは祇園系だろうから、現在では八坂社か八雲社になるのだろうか。同じ素盞嗚尊を祀ってはいても氷川社はまた系統が違うそうだし。とは言え、原市氷川神社も古くは牛頭天王を祀っていたのだから、信仰の系統とかはあまり考えなくてもいいのかな。わからないから、とりあえず牛頭天王社ということにしておこう。
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金剛庚申(上尾下)

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 県立武道館の東、芝川に架かる新橋を渡って少し歩くと庚申坂下の四つ角脇に青面金剛(上尾市上尾下989-1)。
 水盤には文化元甲子(1804)十一月、鳥居の柱には平成十四年(2002)十一月と刻まれている。
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氷川神社(平塚)

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 平塚公園の北端に鎮座する氷川神社(上尾市平塚1514)。
 由緒書きには境内地の一部が平塚公園となっていると書かれているので、公園の中に神社があると言うのは正しくないのかも知れないが、面積的には圧倒的に公園部分の方が広い。参道北側、つまり向かって左側に車用参道があり、突き当たりに駐車場。
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 社殿。
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 横から。
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『氷川神社 御由緒
 上尾市平塚一五一四
御縁起(歴史)
 当社は雑木林に覆われた広い境内地を有し、現在その一部は平塚公園となって市民の憩いの場として親しまれている。
 創立は、社伝によると、承応年間(1652-55)のことであるという。平塚村は弘化二年(1845)の「下平塚村記録之書出し覚写」(神田家文書)によると、承応二年に上・中・下三村に分かれたとあることから、分村と相前後して祀られたとみている。
 「風土記稿」中平塚村の項には「氷川社 上中下平塚村の鎮守なり末社稲荷社 疱瘡神社 旗神社 別当 宝寿院」と載り、当社は、分村して以降も中平塚村一村のみの鎮守ではなく、三村の総鎮守として信仰されていたことがわかる。
 また、天明二年(1782)の宗源祝詞があり、神祇管領家卜部良延から「正一位氷川大明神」の社号額の揮毫を受けた旨が記されている。現在鳥居に掛かる社号額がこの時のものであろう。別当の宝寿院については、真言宗の寺院で、当社の本殿のすぐ北側にあったが、明治六年(1873)に廃寺となった。
 明治六年四月に当社は村社となった。同四十年、大字中平塚にあった石神社など八社と大字上平塚の神明社、大字下平塚の稲荷社を合祀した。しかし、上下平塚の両社の合祀は書類上のもので、実際には現在も元のまま祀り続けられている。

御祭神と御神徳
 素戔嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

御祭日
 禦(三月二十七日) 例祭(四月四日) 天王様(七月十四日)』
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 末社。
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 浅間大神。
 明治二十七年甲午(1894)四月建立。鳥居は平成三年(1991)七月の建立。
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 神楽殿。
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 不動明王。
 右に「法印権大僧都長恵 不生位」、」左に「正徳三癸巳年(1713)正月十三日」と刻まれている。
 横の無縫塔には「元禄九丙子天(1696) 爲大阿闍梨尊■■■ 九月十一日」。

氷川神社(菅谷四丁目)

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 菅谷四丁目の氷川神社(上尾市菅谷4-25)。
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 拝殿。
 詳細は不明だが、水盤には享保拾四己酉天(1729)三月、石燈籠には安永六丁酉(1777)九月と刻まれているので、江戸中期には既にあったことになるのだろう。
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 末社。社名らしきものはうっすらと見えるのだが、なんと刻まれているのかはわからない。他には卍と宝永二乙酉天(1705)四月十日の文字が刻まれている。

 ここから少し南に下ると八雲社があるのだが、見落としていた○刀乙

氷川神社(二ツ宮)

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 三井住友金属鉱山伸銅の北西、ひかわ幼稚園の隣に鎮座する氷川神社(上尾市二ツ宮865)。
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 拝殿。
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 狛犬。
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『氷川神社 御由緒
御縁起(歴史)
 上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(1570-92)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社文書)に「足立郡あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。
 その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、「風土記稿」上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道をへだてならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字二ツ宮の由来ともなった。
 明治初年の神仏分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年(1873)に村社に列した。しかし、明治四十二年(1909)に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。
 当社の「明細帳」によると、いつのころか字二ツ宮の神明社と末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。

御祭神と御神徳
 素戔嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

御祭日
 元旦祭(一月一日) ふせぎ(三月十五日) 春の例祭(四月十五日)
 天王祭(七月七日-十五日に近い日曜)   灯籠建て(七月二十七日)
 二百十日(九月一日)秋の例祭(十月十五日)新嘗祭(十二月二十三日)』
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『上尾市指定有形文化財 氷川神社本殿彫刻
 上尾市二ツ宮(旧上尾村)八六六
 昭和三十五年五月一日指定
 この氷川神社は旧上尾村字二ツ宮に所在する。この小字名の起こりは、氷川神社に男体社と女体社の二つの宮があったことによる。かつては上尾の名をもつ三つの宿村(上尾宿・上尾村・上尾下村)の鎮守であった。明治四一、二年の神社合祀の時、女体社は上尾宿の鍬社を合祀し(このため氷川鍬神社と称されるようになった)、現在は男体社が本殿として残っている(合祀したあとの女体社のあき宮は、後に愛宕神社の本殿として譲られた)。
 現在の氷川神社の本殿には四面にすぐれた彫刻がなされている。図がらは中国の故事を現わしたもので、最近の修理によって整ったものとなった。軒下の組子(枓栱)の間にも彫刻が施され、本殿を支える下部の肘木はすべて透かし彫りされりっぱである。製作の時期・作者は不詳である。
 昭和五十九年十月十五日』
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『氷川神社
 主神      素戔嗚尊
         稲田姫命
         大國主命
 合祀ノ神
  天神社    菅原道真朝臣命
  神明社    天照皇大神
  山王社    大山咋神
  稲荷社    保食神
  古峰神社   日本武尊
  金毘羅大観之 大物主命
  牛頭天王社  牛頭天王
 攝社
  豊稔社    豊受大神 大年神 御年神』
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 本殿。
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 本殿北面の彫刻。
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『王方平と麻姑
 彫刻は、老松に満開の桜を配し、下段に老翁の王方平が、仙果を持った玉女(仙人の次女)と如意を持った童仙を連れて立っている構図です。上段には、若々しい美女の麻姑が、珊瑚の壷を持つ童仙と玉女を従えて現われた姿が彫られています。麻姑の背面には、宮殿風の建物がありますが、この建物が蔡経の家です。
 仙界の逸材といわれる王方平は、五匹の竜にひかせた羽車に乗り、多くの人々を従えて、蔡経の家に着くと、王方平は麻姑の許へ使者を遣わせました。やがて、十八、九に見える若くて美しい麻姑が、多くの侍女とともに到着しました。麻姑が持ってきた御馳走を金の大皿に盛って、酒席が開かれました。この日、蔡経は、人を救い病を治すことのできる法を伝授されました。宴が終ると、王方平と麻姑は、乗り物を命じ、行列の支度ができると昇天したといわれています』
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 本殿西面の彫刻案内。
『黄鶴仙人(左側の彫刻)
 彫刻は、善根を積む業績が認められた黄鶴仙人が、仙界の帝王の宮殿に伺候し、黄帝より仙薬の秘伝を書いた巻物を伝授されて、鶴に乗って下界に下ろうとする構図です。
 黄鶴仙人とは費長房のことです。費長房の仙術の師は壺公です。壺公は、町に出ては薬を売り、その収入を困っている人々に施していました。費長房は、壺公が凡人でないことを知り、無償で壺公に尽くしました。壺公は、費長房の誠実さを認めて仙術を伝授して、地上で病を治し諸々の災難を消すことに専念するように申し渡したといわれています。

 応夫人(右側の彫刻)
 彫刻は、堂々たる応夫人と竜です。応夫人は、和楽器を扱う人々の祖神として崇拝されることがありますが、この本殿では、応夫人の琴によって祭神をなぐさめたいという願いがこめられているのでしょう。
 応夫人は、仙界の女王といわれる西王母の侍女で、一絃の琴の名手といわれ、白竜に乗って飛行した仙人です。応夫人の彫刻は彫工の間で人気があったとみえ、県内の社寺にも点在しています』
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 本殿東面の彫刻案内。
『精衛公主(左側の彫刻)
 彫刻は、頭に鳥の宝冠を載せたあでやかな精衛公主と、仙人の輿車に乗った気品のある仙界の女王といわれる西王母との対面の光景です。
 精衛公主は、神農民(古い時代の仙人)の娘で、容姿端麗にして絶世の美女でした。ある日、散る花を見て無常を感じ、天に向かって嘆いたところ、西王母が仙人の輿車に乗って多くの侍女とともに姿を現わし、「精衛公主よ、里心を断ち切り、仙宮に来なさい」と告げて姿を隠したといわれています。

 嫦娥公主(右側の彫刻)
 彫刻は、老松に雲を配し、渓流沿いに牡丹を彫り、その上に薬籠を持った玉女(仙人の侍女)と符を持つ童仙とともに、嫦娥公主が昇天しようとしている構図です。
 嫦娥公主は、亭主が西王母(仙界の女王)から授かって隠し持っていた不老不死の仙薬を密かに盗みだしては服用し、いつの間にか仙人となり、そのまま月の世界へ飛んで月宮殿の女王となった、幸運の美女といわれています』
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 豊稔神社。
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 狛犬。
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 左から牛頭天王(天明八申稔(1788)六月)、金毘羅大権現(文化七庚午年(1810)正月)、古峯神社・水神・明神(昭和三十年(1955)一月十九日)、稲荷社。
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 左から山王社、神明社、天神社。
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 甘藷先生頌徳碑。
 甘藷先生と言えば青木昆陽のことだろうと思うが、何故ここに?

 以上で5月17日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとFA43mm。Coolpix P7100。

稲荷神社(平塚)

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 上尾市内循環バスぐるっとくんの稲荷神社停留所前に鎮座する稲荷神社(上尾市平塚)。
 案内板が設置されていないので詳細は不明だが、上尾市役所のサイトを見ると、「明治四十三年(1910)の大洪水の時は南方の綾瀬川と原市沼川の合流口より大水が押し寄せ、たちまち原市沼川の谷は水面下になったという。その時、稲荷社の鳥居の先端が少々見えるほどの水位であったという」と記載されている。
 また境内には昭和四十二年(1967)七月に建てられた改築記念碑があり、鳥居前の旗竿柱には「明治参拾九丙午歳建之 平成十戊寅年五月吉日再建」と刻まれている。
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 拝殿。
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 お狐さま。
 台座に刻まれた文字は読み取り難いが、大正六年(1917)十月四日かな。
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 第六天社と石祠。
 第六天社は大正九年(1920)十月四日建立、石祠は社名建立年共に不明。

氷川神社(原市)

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 天台宗天王山自性院長久寺の西隣に鎮座する氷川神社(上尾市原市1520)。
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『氷川神社
 一、所在 上尾市大字原市一五二○番地
 一、祭神~ご本殿にお祭りしている祭神
    素戔嗚尊 疫病退治の神、牛頭天王ともいわれる 農業の神
 境内神社~攝社といい もともとは別に社があったが 現在全ての神社は一社に合祀
     されている
 一、秋葉社 火難・水難・剣難の守護神
    祭神 火産靈神(火之迦具土命) 火の神
       河菜姫命         水の神
 一、天神社 受験・学問の守護神
    祭神 天神
       菅原道真公
 一、厳島社 市の神 富貴をもたらす神
    祭神 市杵島姫命
 一、八幡社 武神・軍神
    祭神 誉陀和気命
 祭典
  例祭 四月四日
  夏祭 七月十四日』
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 鳥居脇には火の見櫓。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『氷川神社御由緒
 上尾市原市一五二○
御縁起(歴史)
 近世における市場集落の面影を残す原市には、上町・中町・下町・上新町・下新町の五つの町内がある。当社は、その内の上町・中町・上新町の三町内の守り神として祀られれきた神社である。その境内はかつて道の両側に市の立った原市の本通りのすぐ脇にあり、現在は樹木はほとんどないが、昭和五十年代の中ごろまでは参道の敷石を挟むように木々が茂っていた。
 当社の創建についての経緯は不明であるが、「風土記稿」原市村の項に「氷川社 本地仏正観音の像を安ず、勧請の年代詳ならず、寛保二年(1742)に再興ありと云」と載るところから、少なくとも江戸中期までにはこの地に勧請されていたことがうかがわれる。本殿は古風な趣を持った一間社流造りで、正面の御扉のほかに、左右の側面にも扉の付いた珍しい構造を特徴としている。寛保二年の再興後、再建や大きな修復についての記録はないため、現存する社殿は、恐らくその際に建設されたものと思われる。
 内陣には、「風土記稿」の記事にある正観音像と地蔵菩薩立像・秋葉大権現立像・天満天神座像の四体が筥に納められ安置されている。当社は、江戸時代には境内の東に隣接する長久寺の持ちであり、神仏分離後も。無格社であったことが幸いして強い統制が及ばなかったため、本地仏がそのまま残され、祀られ続けてきたのだろう。

御祭神と御神徳
 素盞嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛

御祭日
 初参り(一月一日) 例祭(四月四日)』
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『原市氷川神社縁起
 当氷川神社の創建は、とても古く、崇神天皇の時代(紀元前五十年頃)まで遡ると考えられます。これは武笠家(三室氷川女体社宮司家)に伝えられる武笠文書の記述からも類推されます。
 当時の日本は疫病が大流行して日本中が大混乱していたそうです。大宮氷川神社の奥社として創建された当社も、こうした疫病調伏祈願の神社として建てられたと思われます。当時、疫病の流行は蛇神様のたたりと恐れられていました。伊奈の丸山に祭られた”おど神社”(雄蛇を祭っている)そして原市に祭られた”めど神社”(雌蛇を祭っている)など、なにか関係がありそうな気がいたします。見沼も現在は田んぼですが、昔は沼であり原市辺りまで入り込んでいたようです。古文献には御沼とも巳沼とも書かれており、ここでも蛇の祟りすなわち疫病を恐れていた古代の人々の信仰が伺えます。見沼の周辺にはたくさんの神社、寺院がありますが、崇神天皇の時代に創建されたとする神社がいくつか見受けられます。これらの神社もあわせて疫病調伏祈願をおこなっていたのではないでしょうか。
 創建当初、牛頭天王を祭神とし、天王社として親しまれていましたが、明治維新政府の神仏分離令によりスサノオノミコトを祭神とする氷川神社に変更されたようです。尚、牛頭天王とスサノオノミコトは同身異名の神様であるといわれています。
 一般的に神主が司祭する場合にはスサノオノミコト、僧侶が司祭する場合には牛頭天王としていますから明治維新前は背後の長久寺がこれを祀っていたものと推察できます。
 ちなみに長久寺の山号は天王山、寺格は別当寺という記述が”新編武蔵風土記”にみられます』

 ググってみたところ、伊奈町史に「丸山沼の対岸の原市には雌堂様があり、丸ノ内の権現様を雄堂様と言った。この間を蛇が行き来したと言われている」と記されているそうで、これがめど神社とおど神社なのだろう。この雄堂様とは伊奈氏館跡に鎮座する頭殿権現社のことであるそうなので、後で行ってみることにしよう。
 余談ではあるが、伊奈町役場のサイトを見ると、丸山沼の辺りには大蛇や龍の伝説がいくつかあるようだ。
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 山車倉庫。
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『上尾市指定有形文化財 原市山車彫刻五基(其の二)
 上尾市大字原市(原市二区)
 昭和四十四年十一月十五日指定
 原市の旧上新町・上町・中町・下町・下新町(現、一・二・三・四・五区)の各町内にりっぱな彫刻をもった山車がそろっている。
 五基ともに、江戸時代の末期から明治時代の中ごろの作と見られ、手のこんだ透かし彫りはみごとである。
 二区の山車彫刻はやや違うが、他の四つの区のものは、非常に似ており、同人の作であると思われる。伝承としては、市内の旧大谷本郷村の大工山田弥吉こと浅右衛門の作と言われ、その親類宅に現在も残っている山車彫刻の下絵が、三区の山車彫刻のものであることが確認されたので、同人作と断定することができる。
 山田弥吉は、鴻巣市勝願寺向拝・川越市蓮馨寺水舎にも彫刻を残しており、原市の山車彫刻に最も近似したものは、同じく市の文化財に指定されている「向山不動堂の彫刻」である。すべて明治十年代の作であり、後に東京に移っているので、これら原市の山車彫刻も同時代のものと見てよかろう。
 昭和五十八年九月三十日』
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 石仏?と八幡大菩薩。
 石仏らしきものは狐の上に乗っているので、飯縄権現か秋葉権現、或いは荼枳尼天だろうか。……って、あぁ、こちらの氷川神社には秋葉社が合祀されているのだから、秋葉権現と見るのが妥当か。右側面には「文化十一戌(1814)六月吉日」、左側面には「願主齊藤■■■寛明」と刻まれている。
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 氷川神社のすぐ裏手に天王山自性院長久寺原市不動尊。
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佐四郎稲荷神社(原市中一丁目)

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 原市小学校前交差点そばに鎮座する佐四郎稲荷神社(上尾市原市中1-5)。
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 斜めから。
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『稲荷神社 御由緒
 上尾市原市二三一四
御縁起(歴史)
 原市は、江戸時代から明治時代にかけて穀物を中心とした物資の集散地として発展し、蔵造りの建物が立ち並ぶ独特な町並みが形成された。この町並みは、主要県道大宮菖蒲線に沿って南北に連なっており北から上新町・上町・中町・下町・下新町の五つの町内に分けられている。当社はそのうちの下町に鎮座する社で、慶長年間(1596-1615)と伝えられる創建以来、下町の氏神として、また「商売繁盛の神様」として近在の商家からも広く信仰されてきた。
 当社は、通称を「佐四郎稲荷」というが、これは江戸時代に地元の下町に住んでいた「佐七」と「四郎」(四郎兵衛ともいう)の両人が京都の伏見稲荷の分霊を勧請して祀ったことにちなむものである。この話に出て来る四郎の末裔が坂巻家で、当主の博で一二代になるという。また、江戸時代には天台宗の長久寺の持ちであり、神仏分離まで同寺によって管理されてきた。更に、時期は不明であるが、当社には蔵王権現社・第六天社・日枝社の三社が合祀されている。
 なお、当社は元来は小さな祠であったが、老朽化が進んだため、昭和十一年(1936)に一間社流造りの立派な社殿が造営された。現在の本殿がそれで、昭和五十六年(1981)に行われた上越新幹線の敷設に伴う境内の再整備に際し、その一部が修復されると同時に、拝殿・幣殿などが新築された。こうした経緯により、当社は今日見られる姿になった。

御祭神と御神徳
 保食命・・・商売繁盛、五穀豊穣

御祭日
 初参り(一月一日) 初午祭(三月初午)』

 案内板には上尾市原市2314と書かれているが、地図を見る限り現在地は原市中1丁目5である。これが書かれた当時はもう少し西にあったと言うことだろうか。
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 東の鳥居。
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『社殿移転改築記念
当佐四郎稲荷神社は地域の人々に鎮守の神として尊ばれ親しまれてきましたが東北上越新幹線建設に伴い移転を余儀なくされることになりました 当原市下町々内にはその対応について種々の議論がありましたが町内全員による辛抱強い協議を重さねた結果全員一致で社殿を移転改築することに決しました 社殿は本殿をそのまま移転し附随部分を新たに改築することとして昭和五十六年一月に着工同年五月に完成することができました
この社殿移転改築にあたり当町内の人々を始め国鉄当局など各方面の絶大な御支援御協力を賜わり立派に完成することができましたよって ここに碑を建立して永く記念するものであります』
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『上尾市指定有形文化財 原市山車彫刻五基(其の四)
 上尾市大字原市(原市四区)
 昭和四十四年十一月十五日指定
 原市の旧上新町・上町・中町・下町・下新町(現、一・二・三・四・五区)の各町内にりっぱな彫刻をもった山車がそろっている。
 五基ともに、江戸時代の末期から明治時代の中ごろの作と見られ、手のこんだ透かし彫りはみごとである。
 二区の山車彫刻はやや違うが、他の四つの区のものは、非常に似ており、同人の作であると思われる。伝承としては、市内の旧大谷本郷村の大工山田弥吉こと浅右衛門の作と言われ、その親類宅に現在も残っている山車彫刻の下絵が、三区の山車彫刻のものであることが確認されたので、同人作と断定することができる。
 山田弥吉は、鴻巣市勝願寺向拝・川越市蓮馨寺水舎にも彫刻を残しており、原市の山車彫刻に最も近似したものは、同じく市の文化財に指定されている「向山不動堂の彫刻」である。すべて明治十年代の作であり、後に東京に移っているので、これら原市の山車彫刻も同時代のものと見てよかろう。
 昭和五十八年九月三十日』
 ちなみに、原市の氷川神社に其の二、日枝神社に其の五がある。
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 本殿と山車倉庫の間に鳥居二基。なぜこんな場所にあるのかわからない。
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 正徳二壬辰年(1712)十月造立の青面金剛。
 右側面に「これよりいわつきみち」、左側面に「これよりさってみち」と刻まれている。上尾市教育委員会のサイトに記載されている「原市の正徳二年銘庚申塔」の項目を見ると、元の位置は原市3313-34の道路脇(大体この辺り?)で、道路拡幅工事の際に投棄されてしまったものをこちらに移したのだそうだ。
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愛宕神社(原市)

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 上尾市役所原市支所と上尾市立原市小学校に挟まれた位置に鎮座する愛宕神社(上尾市原市3532)。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 力石と案内板。
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『愛宕神社の力石
 力石とは、力試しに用いられた大きな石のことである。
江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として、力石を用いた「力比べ」が盛んに行われていた。労働を人力に頼っていた時代は「力」は重要なものであり、米一俵(約六十キロ)を持ち上げられるようになって、はじめて一人前とされた。
 また、占い石ともいわれ、持ち上げた時に重いと感じるか、軽いと感じるかによって、吉凶や願い事の成就を占うことがあった』
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『愛宕神社の御神紋 二圓内右廻り三つ巴の圖
 外圓はイザナギ神様を 内圓はイザナミ神様を現はす

 当神社は、慶長三年(1598年江戸時代初期)の創建となっています。
全国に御分社八○○余社を有し、防火・火伏せの神として強い信仰を集め崇敬されている。
「愛宕さん」の総本宮は、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山の山頂に鎮座し、京都に都があった明治以前には、東は比叡山、西は愛宕山が王城守護の神とされていた。
江戸城の場合は、東が東叡山寛永寺であり、西は京都の愛宕山を勧請した愛宕山が幕府守護の神とされた。
 原市は、古くは吉野領原村に属し、地内の通り(県道大宮菖蒲線)に市が立ったことにより町並が形成され、この地名が生じた。
 当社は、この古い町並から東へ二○○メートルほどの「観音山」と称する小高い丘の上に鎮座している。かつて観音山には、牛馬に疫病が流行した際、当地の人々によって祀られた観音寺があった。同寺は現在の当社の境内辺りにあったといい、「観音山」の名称も、同寺に由来するという。神仏分離後、観音寺は宝蔵寺境内に移され、当社は、明治六年(1873)四月に愛宕神社となる。
 当社の本殿内には、厨子に文政二年(1819)銘のある勝軍地蔵像が安置されている。

愛宕神社の御祭神
 本社  雅産日命(ワクムスビノミコト)生産水の神
     埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)土の神
     伊邪那美尊(イザナミノミコト)
     天熊人命(アメノクマヒトノミコト)稲司の神
     豊受姫命(トヨウケヒメノミコト)五穀の神
 当神社 阿遇突智神(カグヅチノカミ)火の神
     勝軍地蔵(ショウグンジゾウ)

 愛宕山は勝軍地蔵を本尊としていた。
勝軍地蔵は地蔵信仰のひとつで、幽冥界と現世との境界に立って人々を守り外部から都へ侵入する疫神・疫病を防いでくれるという菩薩である』
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 本殿裏から。

日枝神社(原市)

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 原市駅交差点そばに鎮座する日枝神社(埼玉県上尾市原市3705-1)。
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 拝殿。
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 秋葉神社。

『日枝神社
 当神社は、寛文八年(1668年江戸時代初期)の創建となっています。
 全国に三八○○社を超える日枝神社は、滋賀県大津市の比叡山登山口に鎮座する日吉大社の「枝」に当たる神社として祀られています。山王権現もしくは山王社ともいわれています。
 縁起によれば、猿は日吉大社の神使(みさぎがみ)であり、この神猿を「マサル」と呼び「魔が去る・何にでも勝てる」として信仰されています。この神猿は、庚申塔の下部に「三猿」(見まい・聞くまい・話すまい)としても祀られています。
 当社は、「山王様」とも称し、お産の守り神であるという。古くから、女性からの信仰が厚く、本殿に安置されている高さ一メートルほどもある大きな石祠には、二○名ほどの奉納者の女性の名が連名で刻まれています。

 主神 大山咋神  山の神、産業発展の神
    大己貴大神
    大国主命  国土経営・農耕・医術・縁結び・貯蓄の守護神

 日枝神社は、神代の昔から地主神としても称えられている。大山咋神・日吉大黒(大黒様=福の神)をお祀りし、日常生活すべての「魔を除け・魔が去る」神として信仰され、お参りする人々を守り導いてくだされます。
 請願すなわち全ての祈りの成就の根本となるのが「魔」を払い去ることであります。魔が払い去られて初めて「いろいろな願い」が成就いたします』

『移転改築記念碑
 日枝神社は大山咋神を祀り山王様と呼ばれ地域の鎮守の神として崇拝され心のよりどころとなっておりましたが昭和四十六年(1971)十一月東北上越新幹線建設計画発表に伴い土地買収により移転のやむなきに至りました。
 この計画は種々の難問をかかえ議論百出でありましたが町内全員の協議を重ねた結果後世に傳える為に社殿殿堂公民館庚申塔山車の納庫秋葉様社殿鳥居等を新改築することに決まり昭和五十六年(1981)十一月着工、昭和五十七年三月に完成をみることが出来ました。
 この移転改築にあたり当町内の方々をはじめ関係各方面の絶大なる御支援御協力を賜わり立派に落成することが出来ました。よってここに碑を建立し地域の繁栄を願い永く記念するものであります。
 昭和六十年四月十五日建立』
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大六天神社(原市)

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 さいたま水上公園の東、埼玉県道5号さいたま菖蒲線側道脇に鎮座する大六天神社(上尾市原市字六番耕地1032)。
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 大六天神社と言うことは、現在の御祭神は面足尊と惶根尊になるのかな。由緒書き等は見当たらなかったので詳細は不明。
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 注連柱には大正六年一月十五日と刻まれていた。

 この後、すぐ南側にある(筈の)金毘羅神社に参拝するつもりだったのだが……あれあれ、無いよ? ストリートビューを見ると、少なくとも2012年7月まではあったことが確認できるのだが、現在は住宅が建てられており、神社の痕跡は見当たらない。上尾市役所のサイトの2013年10月28日更新分には「以前金毘羅神社と呼ばれる神社があった。かつては、祭日は2月11日の初金毘羅で、この日にはだるま市が立った(『上尾市史』)」と書かれているので、2012年から2013年の間には既に無くなっていたのだろう。
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