高崎城址(高松町)

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 群馬音楽センター東隣に位置する高崎城址(高崎市高松町)。
『高崎城東門の由来
 高崎城十六の城門中、本丸門(萑門)刎橋門、東門は平屋根であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。
 この門は寛政十年正月(1798)と天保十四年十二月(1844)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払い下げられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。
 高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏より譲り受け復元移築し、昭和五十五年(1980)二月、市に寄贈したものである』
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 高崎城の図。
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『高崎城乾櫓の由来
 この櫓は、高崎城本丸乾(西北)の土囲上にあった。南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。
 高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。先の城主安藤重博が今のように改築したとある。従って、重博在城の元禄八年(1695)より以前から存在したことが明らかである。多分、安藤重長が城主であった寛永(1624~45)の頃の建築であろう。城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
 幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和四十九年(1974)で以来二年を経て漸くこの位置に復元することができた。元位置はここから西方三○○mの地点に当る。
 屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎氏宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。
 高崎城には石垣はほとんどなかった。この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に一m足らずの高石台があったに過ぎない』

 ちなみに安藤重長が高崎城主だったのは元和五年(1619)~明暦三年(1657)の間。
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 しゃちほこ。
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『群馬県指定重要文化財 高崎城乾櫓
 高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。
 二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰屋根をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(十二尺=約3.64m)、桁行三間(十八尺=約5.46m)の規模である。外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。現状は、初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二カ所ずつあけている。ところが、明治六(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(十五連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一カ所が認められる。妻飾りは狐格子で、破風板に懸魚をかけている。
 高崎城の築城は、慶長三(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和五(1619)年に安藤重信が入部して、元禄八(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。享保(1716~36)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的に見ても矛盾はなく、十七世紀末の建築と推定されている。
 その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和五十四年(1979)この位置に移築復元された。初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲しており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。
 指定年月日 昭和四十九年九月六日』
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 西側から。
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 飛龍の松。
『飛龍松之記
明治二十六年秋於高崎近郊有近衛師團小機動演習之舉
天皇陛下親臨閲之後行觀兵式於此地于時十月二十二日也於是植一松樹以標駐驛之跡傳之永遠號曰飛龍松
 歩兵第十五聨隊長
  河野通好撰併書』
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 歩兵第十五連隊址碑。
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『高崎城記
 高崎は王朝時代赤坂の荘と称し、東山道に属していたが、この地方の中心地とまでにはいっていなかった。
 十三世紀、鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり、十六世紀の末期天正十八年、小田原の北條氏と運命をともにするに至るまで、和田城は三百数十年の歴史を誇った。
 慶長三年、井伊直政が箕輪城十二万石の城主から移って、城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた。成功高大の義である。この時代、城地の規模を拡張し、中仙道第一の壮大さは、交通の要衝たることと相伴って、要害の名をうたわれた。中仙道はのち中山道と改称された。
 後、酒井、安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり、明治維新王政復古により廃城となった。大河内氏は初代城主輝貞かた第十代輝聲に至るまで、幕政時代ではあるが文治の城主だった。
 明治六年、東京鎮台高崎分営が置かれ。旧城内は兵営となった。ついで明治十七年歩兵第十五聨隊が創設され、以来昭和廿年八月太平洋戦争の終結まで、高崎は六十余年間、軍部の観を呈した。その間、大小の戦役に従い、特に太平洋戦争には東部第三十八部隊となり、歩兵第百十五聨隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした。滅私奉公、国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に五万。兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる。
 昭和二十年八月十五日、戦い終り、平和はよみがえった。われらは永遠に戦争放棄の民として更正し、城内は市の行政、教育、文化の中心機関所在地となり、市民生活の中枢となった。
 ここに明治百周年を迎え高崎城回顧の記を録する。
 昭和四十三年十月二十三日』
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 音楽センター側にコントラバス型の公衆電話ボックス。
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 高崎城址公園南端に設置された案内板。以前はこの辺りに富士浅間神社があったようだが、現在は残っていない。
『高崎市指定史跡 高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)
 箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長三年(1598)のことであった。築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松カ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。白菴は、諸木には栄枯があることを説き「成功高大」の意味から高崎と名づけるように進言し、これが採用された。「高崎」の地名はこうして誕生したといわれる(川野辺寛「高崎志」)。
 この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたといわれており、坪数五万一六一三坪にも及ぶ広大な城郭となった(土屋老平「更正高崎旧事記」)。築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。
 明治四年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払い下げとなった。さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整地された。このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の堀と土塁がわずかに昔の面影を止めている。
 所在地   高崎市高松町5-8ほか
 指定年月日 昭和五七年二月一七日』

 以上で6月14日分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。Coolpix P7100。
 翌15日は高崎城址の東側にあるclub FLEEZで行なわれたangelaのライブを堪能して来たのでありますよ。やっぱりライブはええなぁ。腕振り過ぎて月曜日は筋肉痛になってたけど(笑)
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稲荷神社(鞘町)

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 さやもーる内に鎮座する稲荷神社(高崎市鞘町10)。
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『鞘町稲荷神社の由来
 安政年間(1854~60)鞘町の守り神として稲荷を信仰する町内有志が「現在地」横町路地奥に勧請し、その名の通り「鞘町のお稲荷さん」として、火防、盗難除け、家内安全、商売繁盛、開運出世などに信仰を集めてきた。明治、大正、昭和にわたり、信仰する鞘町住民の有志に守られ、毎年、初午には、町内あげてお稲荷祭りが行なわれ、町内有志や、子供たちの手づくりの万灯が取りつけられ、笛、太鼓のお囃子で、夜間まで盛大な祭りが開かれ、大人には酒肴、子供にはお菓子などが振る舞われた。
 昭和二十年(1945)八月の空襲により焼失したが昭和六十二年(1987)駐車場ビル建設者の厚意により、現在地を鞘町稲荷神社再建用地として確保出来、町内稲荷信仰者有志により堂宇が再建された』
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 中央辺りに見える赤い自販機の隣に稲荷神社。

諏訪神社(あら町)

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 高崎駅西口から少し西へ向かうと、あら町交差点そばに諏訪神社(高崎市あら町232)が鎮座している。
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 本殿と狛犬。
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『高崎市指定重要文化財
新町諏訪神社本殿及び御宝石
 新町諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地誌「高崎志」によれば、慶長四年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことにはじまるという。本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造で、しばしば大火に見舞われた高崎の町にあって、大切な社を火災から守るための工夫だったとも考えられる。平入り・入母屋造の建物は一見すると二層のように見えるが、実は裳腰をつけた平屋建で、外壁の下半は海鼠壁となっている。本屋根と裳腰の間には手の込んだ七賢人の漆喰彫刻が施されている他、波しぶき、飛龍、四隅の牡丹、正面の鳥居に付けられた躍動感あふれる昇り龍・下り龍など、随所に見事な漆喰彫刻を見ることができる。
 この神社は享保十四年(1729)、文化四年(1807)の二度に渡って火災に遭っており、近年の修復工事の際にも屋根材や彫刻の骨木の一部に、その痕跡が確認されている。礎石背面には文化十一年(1814)の刻銘があり、建築的な特徴などを考え合わせ、この建物が元の社殿の部材を利用して再建が行なわれたことが推測される。高崎城下の名所のひとつでもあったらしく、太田蜀山人の「壬戌紀行」の中でも紹介されるなど、当時から町の人々、往還を行く旅人たちの目を和ませていたことがわかる。
 信州諏訪にゆかりのある御宝石は、重さ約八キロの鶏卵型の石で、宝篋印塔の屋蓋を裏返しにしたものを使った台座に安置されている。
 所在地 高崎市あら町85-1番地
 指 定 平成二年二月二十六日』

 御宝石なんてあったかなぁ? と思いググってみたら、右側の狛犬と石燈籠の間にあったようだ。てっきり水盤だと思って気に留めていなかった○刀乙
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 正面の鳥居と漆喰彫刻。
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 西面の漆喰彫刻。
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頼政神社(宮元町)

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 高崎公園の南隣に鎮座する頼政神社(高崎市宮元町143)。右奥に見える高層建築物は高崎市役所。
 茨城県古河市錦町にも頼政神社があるが、あちらは元禄九年(1696)に古河藩主松平信輝が修築したもので、こちらはその弟である高崎藩主松平輝貞が元禄十一年(1698)に創建したもの。
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『頼政神社
 元禄八年(1695)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同十一年(1698)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。宝永七年(1710)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保二年(1717)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。
 頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。
 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180)宇治平等院で自刃した。家集「源三位頼政卿集」がある。又、宮中で鵺を退治した話は有名である。
 当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、五月二十六日に行われ旧藩時代は上野随一の祭であったと云われる』
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 大正十一年壬戌十一月建立の鳥居。
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 狛犬。
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 別角度から。
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『頼政神社保存會記念碑     從三位勲四等子爵大河内輝耕篆額
大正十三年頼政神社修築工竣ル頼政公ハ舊藩主大河内家ノ祖ナリ元禄十一年輝貞公ノ
初メテ此地ニ封ゼラルルヤ尊祖ノ念深ク社殿ヲ城東ニ建テテ奉祀セラレシガ寳永七秊
村上ニ轉ジ社モ其地ニ移サレ享保二年再ビ此地ニ移封セラルルニ及ビ城南烏川ノ畔ヲ
相シテ造營セラレシヲ當社ノ創始トス市民ノ崇敬厚ク毎歳三回祭典ヲ行ヒ神輿渡御流
鏑馬等ノ儀アリキ爾来二百餘秊殿宇稍ク頽廢セシカバ大正八年氏子總代温故會扇光會
ノ有志相圖リテ修築ヲ企テシニ市内及各地ノ人士爭ヒテ資ヲ獻ジ金巨萬ヲ得タリ經營
全ク成リ輪奐ノ美舊ニ復シ神庫社務所等ニ至ルマデ觀ヲ改メザルナシ神徳ノ人心ニ感
孚スルニ非レバイカデ斯ク子来ノ誠ヲ致スベキ恭シク惟フニ公源家ノ正統ニ生レ文武
ノ譽高ク名ヲバ雲居ニ揚ゲシカド平家暴横ノ世ニ遭ヒ木隠レテ月ヲ見椎ヲ拾ヒテ卋ヲ
度リ隠忍自重歌詠ニ託シテ時ノ到ルヲ待チ給ヘリ不幸宇治ノ一戰ニ埋木ノ花咲ク事モ
無クテ扇芝ノ露ト消エ給ヒヌレド源家ノ再造ハ専ラ公ガ義ヲ唱ヘシ功ニ由ルサレバ餘
慶ハ延イテ後胤ニ及ビ華冑ニ列シ榮爵ヲ享クルニ至ル烏川ノ流ハ洋々トシテ盡キズ公
ノ裔孫亦益々繁延窮リ無カルベシ庶幾ハ神靈長ヘニ此ノ山紫水明ノ地ニ鎮リ座シテ上
ハ皇室ヲ護リ下ハ民■ヲ憐ミ給ハシコトヲ
茲ニ修築ノ次第ヲ敍シ并セテ獻金者中正會員以上ノ氏名ヲ碑陰ニ勒シテ永遠ニ傳ヘン
トス
昭和三年九月          従四位勲三等文學博士松井簡治撰
                    湖舟僊史  加部雅司書
                                藤澤群黄刻』
 ■の部分は广炗。ユニコードでU+22259。
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 拝殿正面。
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 本殿。
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 ■光稲荷神社と八幡宮。
 ■の部分は「方三」のように見えるが、「於」か「放」なのかも。放であるなら、ここから烏川沿いに南東に向かった所に放光神社というのがあるが、なにか関係あるのかな?
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 八幡宮に施された彫刻と鬼瓦。鳩や波があるのは実に八幡宮らしい。
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 内村鑑三記念碑。
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 頼政神社から見た高崎白衣大観音。
 トリミングでズーム倍率を稼いでみたり。たまに望遠レンズが欲しくなるなぁ。あまり使わないので優先度低いけど。
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愛宕神社(南町)

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 明日は友人に誘われてangelaのライブに行くことになっているので、会場周辺の下見を兼ねて高崎市へ。
 こちらは高崎駅西口から出て南西に向かうと割とすぐに見えて来る愛宕神社(高崎市南町1-3)。
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 靖国鳥居の貫の上には鳩の像が置かれている。鳩は八幡宮の神使で、愛宕神社の神使は猪の筈なのだが、はて?
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 二の鳥居。
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 参道右手側、社務所脇に厳島弁財天。
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『愛宕神社御由緒
御鎮座地 高崎市南町1-3
御祭神  伊弉諾命
     伊弉冉命
     軻遇突智命
御祭典  例大祭 六月二十四日
     秋 祭 九月二十四日
     縁 日 毎月二十四日
 当社は、江戸時代・和田城(後の高崎城)の鎮護神として和田六郎兵衛義信氏が京都市嵯峨の北、愛宕山に鎮座する愛宕神社の御分霊を祭祀創建されたと伝う(年月不詳)。
 後に、元和三年(1617)に高崎城主松平安房守信吉氏が再建されたと伝う。軻遇突智命は別名火産霊神に坐して火の元霊なり故に、火防の神として広く崇敬せらる。
境内末社 水天宮  天之御中主神
     稲荷神社 倉稲魂命
     猿田彦社 猿田彦命
     厳島神社 市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命』

 和田六郎兵衛義信とは和田義盛の子(六男または七男と伝えられる)である和田義信のことだろうか。ググってみると和田六郎兵衛尉義信とか和田六郎左衛門尉義信などとも出て来るので、六郎兵衛(ろくろべえ)ではなく六郎兵衛(ろくろうひょうえ)なのだろう。和田義盛も官位は左衛門尉だったようだし。和田義信は鎌倉時代の人で、和田合戦において討死にした時十八歳、または二十八歳であったと伝えられるので、和田義信が勧請したとするならば、和田合戦の起きた建暦三年(1213)五月以前と言うことになるのだろうか。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 水天宮と千裁稲荷大神。
 水天宮の裏には五基の石祠が鎮座していたが、何神社なのかは不明。
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 猿田彦神。
 大小様々だが、ざっと数えたところでは十二基。他には大山祇命が一基と馬頭観音が一基。
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 線刻碑。
 猿田彦神の姿が刻まれており、その上には「南無妙法蓮華経 武政神社」、裏面には「猿田彦大神 昭和十二年七月十八日 信者一同」と刻まれている。
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