藜稲荷神社(文京町一丁目)

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 文治稲荷神社から直線距離で400m程南に鎮座する藜稲荷神社(前橋市文京町1-39)。
 敷地に対して小さな祠がちょこんとあるだけの、どこか寂しげな光景ではあるが、ググってみると、寛延二年(1749)に播磨姫路藩より国替えで上野前橋藩主となった松平朝矩が伏見稲荷大社より分霊を勧請して川越の赤沢に奉斎したのが始まりであり、その後、松平朝矩の孫で武蔵川越藩第四代藩主松平斉典が天保三年(1832)に神社を再建。後、慶応三年(1867)に川越藩第七代藩主松平直克が前橋城を修復して前橋藩主となった時に赤沢からこの稲荷神社を城内に移し、その際に赤沢が転訛して藜(あかざ)稲荷神社と改称し奉ったと伝えられる神社であったりするようだ。
 詳しいことは藜稲荷神社公式サイトで。
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 現在は御神体を修復したりなど神社の再建に向けて活動中であるそうだ。

 以上で9月27日参拝分終了。
 藜稲荷神社の北東にあるフレッセイ朝日町店の端に稲荷神社があったけど、あれ、あの店舗の守り神なのかな。入口にチェーンが張られていたので参拝はしなかったけど。幟には江原本家と書かれていたり江原本家の碑が建てられていたりするので江原本家グループに縁のある神社ではあるのだろう。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。
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文治稲荷神社(三河町二丁目)

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 国道50号線三河町二丁目交差点のすぐ北、三河町二丁目公民館の敷地内に鎮座する文治稲荷神社(前橋市三河町2-16-1)。
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 鳥居と拝殿。手水舎には由緒書きが掛けられている。
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『文治稲荷神社
所在地 前橋市三河町二丁目十六
本 社 京都市伏見稲荷大社
祭 神 宇迦之御魂命
例 祭 春 四月十四日、十五日
    秋 十月十四日、十五日
願い事 お願い事すべてによし
由来 江戸時代後期の晩秋の頃、仙人風の老人が当地に来たり。「当郷に鎮守なし、これ
  を基にして稲荷神社の祠を建てて鎮守すべし」と金子二朱を包みて置いて立ち去る。
   包み紙に文治と記名があったので、文治稲荷神社と呼んで鎮守とした。
   「昭和四十八年神社要覧より」
   前期時代に当町内の住人で萩原文治なる者の屋敷稲荷であったが、近所の青木源六
  の妻の夢枕に立って、もっと地上げして中川町の鎮守にせよとお告げがあり。
   以来、町内で祀るようになったと言われている。
   「前橋市新風土記より」』
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 お狐さま。
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 拝殿の扉にこのような紙が貼られていたので見てみると、
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 庚申尊と二十三夜塔、少し離れて文政九丙戌年(1826)十二月造立の摩多利神が並んでいる。摩多利神の隣には首のもげたお狐さまが置かれているが、先代だろうか。

八幡宮(本町二丁目)

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 前橋市役所の東600m程の位置に鎮座する八幡宮(前橋市本町2-9-18)。
 貞観元年(859)に在原業平の子孫である長野業重が京都の石清水八幡宮から勧請したのがこちらの八幡宮であると伝えられているそうだが、「前橋市史」には国府八幡宮であるとも言われていると記されていた。
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 参道と拝殿。
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 狛犬。
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『市指定重要文化財 伯牙弾琴鏡・八幡宮文書一巻九通
所在地 前橋市本町二丁目7-2 八幡宮
所有者 八幡宮
管理者 八幡宮
伯牙弾琴鏡
 伯牙弾琴鏡は、八幡宮境内の古墳から出土した直径17.2cmの唐製鏡であり、背面には中国古代の琴の名手伯牙の故事を題材とした文様が鋳出されている。外縁には銘文帯があり41字の文字があるが、摩滅して判読できない。伯牙を題材にとしたこの鏡は、奈良時代のものとしては現在国内で12面を数えるが、県内では、この鏡と貫前神社所蔵の2面が現存しており、貴重な文化財である。

八幡宮文書一巻九通
 社家であった広幡家に伝存されてきた書状九通を巻子にした古文書である。その内容は、北条高定、北条高廣、北条氏直家臣松田兵衛太夫、平岩親吉、酒井重忠、酒井忠清らの寄進状、年貢・諸役免許状、安堵状等からなっている。社領について各時代の領主と八幡宮・神宮寺との経済的な関係を知ることができ、重要な資料である』
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 拝殿横から。
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 美保大國神社。
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 百度石。そのそばに秋葉宮と彫られた石灯籠。台座には「緫講中寛政四壬子歳六月吉日」とあるので1792年のもの。
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 大獅子御蔵と書かれているので獅子舞の道具でも収められているのかと思ったら、窓から大達磨の顔が覗いていた。
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 額部分には三峯山とあるので、三峯神社だろう。
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豊川稲荷(三河町一丁目)

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 曹洞宗普門山隆興寺の境内に鎮座する豊川稲荷(前橋市三河町1-17)。
 幟には豊川吒枳尼眞天と書かれている。
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『隆興寺の信仰あつい豊川稲荷
 隆興寺は江戸初期の寛永十三年(1636)に前橋城主酒井忠世により、龍海院九世角雲全虎和尚を招請し開山としました。
 明治十八年(1885)に十八世洞光禅山和尚により愛知県豊川妙厳寺から勧請して建立された境内の豊川稲荷は今でも信徒が多く、祭りはとてもにぎやかです』
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 お狐さま。
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 裏手に回ると、こちらにも稲荷社。鳥居の額には吒枳尼天とある。
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 お狐さま。
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 その隣にも。
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 更にずらりと。
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 三峰神社の名も見える。
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 正一位太郎坊稲荷。
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 隆興寺。
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 多宝塔。
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 隆興寺の山門を境内から。

尾曳稲荷神社(朝日町一丁目)

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 朝日町公民館前に鎮座する尾曳稲荷神社(前橋市朝日町1-5-16)。
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 拝殿。
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 昭和二十四年(1949)四月十五日造立のお狐さま。
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 大正十四年(1925)十二月造立のお狐さま。
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 庚申塔。
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『太田道灌の 築城伝説 稲荷神社
 厩橋城は太田道灌が築いたという「なわ張り」伝説があります。ある日、城をつくる場所に立って思案しているとき、突然一匹の赤い尾をもった亀が現れ、亀の行方を追っているうち、歩いた後が城のなわ張りになっていたのに気が付きました。こうして厩橋城ができたのです。やがてこの亀は、城の守護神として稲荷神社にまつられました。これが朝日町一丁目の尾曳稲荷神社です』
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 尾曳稲荷神社の南西、端気川に架かる赤亀橋の欄干。

 この後は、NAVITIMEによれば十六本橋の北東にある筈の鼻顔稲荷へと向かってみたのだが、ぽっかりと空き地があるだけで祠らしき物は見当たらなかった。MapionやGoogle Mapには鼻顔稲荷の名は無いので元々期待はしていなかったから、まぁいいか。

若一王子神社(下沖町)

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 桃ノ木川の南岸、下沖町公民館に隣接して鎮座する若一王子神社(前橋市下沖町71-2)。
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『建設記念碑
町の東方民家より二百米桃木河畔にあって長年に亙って幾多の風雪天露に耐えて下沖町町民の幸せを守護して来た吾吾の若一王子神社も遂に崩壊の危機に至り町内皆様方に於いても改築したいとの意向が強まって参りました時恰も土地改良河川改修に伴い其候補地も設定されて機の熟するを待つばかりとなり別件公民館の建設もと昭和四十六年八月町民総会開催建設の議が決定され総工費壹阡百万圓にて落札。四十七年七月十三日竣工落成式の運びとなり発展する下沖町の氏神様として又町民の話し合いの場として面目を一新して発足した次第であります。町民皆様の活用を心から念願いたします』
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『若一王子神社由緒書
前橋市下沖町七一番地 鎮座
御祭神 櫛御気野神(神秘的な霊力を持つ食物の神)
    豊受姫命 (穀物の神、農耕の神)
    市杵島姫命(農耕の神、交通安全の神)
    大己貴命 (大国主命の別称、国造りの神)
    大日孁命 (天照皇大神の別称)
    菅原道真公(学問の神)
    建南方命 (風雨神、竜神、農業神、商業神、武神)
    天鈿女命 (神楽、芸能の神)
    猿田彦命 (道祖神)
由緒 不詳、古くより下沖之郷の東端大宝地に鎮座、住民の鎮守として崇拝された。
   社殿は、本殿、拝殿、廊下ともに萱葺。明治期、下沖には、小崎に無格社赤城神社
  同境内末社三社(稲荷神社・伊勢神社・諏訪神社)金井に無格社赤城神社同境内末社
  厳島神社同所無格社菅原神社が鎮座。明治四十一年(1908)一月二十九日当社に合
  併。戦後社殿の荒廃が著しく危険となったため、昭和四十七年(1972)七月十三日、公
  民館と共に社殿を改築し現在地に移転。
社殿  本殿・拝殿・幣殿(瓦葺)
例大祭 春季  四月第二日曜日
    秋季  十月十五日
    歳旦祭 一月一日』

『若一王子神社
 神社の位置は桃の木川の左岸で、字大法寺と呼ばれ、上泉と下沖にまたがる場であった。古くは大法寺があった。戦乱や河川の氾濫等で消滅し再興されることはなかったが、地元では大寺院であったという。祭神である若一王子は前橋市でも大変珍しい。古利根川の七里ヶ堤に祀られていた十三仏の一つと考えられている。大日如来の祀られていた場所という。
大正十年(1921)三月四日神饌幣帛料供進神社となった。昭和四十一年(1966)字小崎の赤城神社と菅原道神社を合併した。
 東部土地改良事業により現在地に移転した』(「桂萱村誌」より抜粋)
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 狛犬。
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 拝殿。
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 秋葉山、三峯神社、古峯神社、菅原神社。

三俣神社(三俣町)

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 三俣町二丁目公民館に隣接して鎮座する三俣神社(前橋市三俣町2-30)。
『三俣神社の由来
 当地三俣は十四世紀の頃、大胡郷三俣村と古い記録にあります。三俣には古くから村社赤城神社(祭神 大国主命)と天満宮(祭神 菅原道真公)を祀る二社があり村の氏神として崇拝されていました。明治四十五年(1912)神社合併制度が布かれ前橋市小石神社に合祀したのでした。併し村民別離に忍びず天満宮の本像を遺祠に安置し代拝所としてきました。
 大東亜戦争のとき住民の熱意により社殿御造営の議起り、昭和十八年(1943)十月工を起し十九年四月社殿を建立し二社を合祀して三俣神社としたのでした。以来三十七年有余三俣町の鎮守として崇敬されてきました。昭和四十二年(1967)この地に区画整理があり換地により神社も移転することになりました。社殿の老朽破損が甚しいので昭和五十三年(1978)行政区画後の三俣全町に再建の声高まり、新生三俣町として大きく発展した町内の人々並びに町にゆかりのある大勢の人々の協賛を得て昭和五十五年二月四日町に相応する立派な新社殿の建立をみるに至ったものです。
 赤城神社は商売繁昌。家運隆昌。縁結びの神様であり、天満宮は学問の神様であります。
 三俣神社へ祈願すれば家内安全、商売繁昌、身体健全、交通安全な勿論進学勉学は向上し教養を高め人格完成する事必定です。つとめて御信仰下さい』

『三俣には番城と呼ばれる城があった。この城は上泉城、大胡城との関係を持つ城といわれ、城内の鬼門の位置に菅原神社と村東の字宮下に赤城神社が祀られていた。一村二社であったが、神社基本財産の不足によりその後、明治四十一年(1908)八月八日前橋市横山町の小石神社に合祀となった。二つの神社の境内地は整理され、青年団が畑地として管理した。昭和十八年になり住民の間で社殿を造営し、昔の神様を再び祀ろうとの話が起こり、大字三俣の二十一名の共有する現在地に建てられることとなった。昭和十八年起工、翌十九年四月十五日に社殿が完成、小石神社から遷宮した。この時赤城神社と菅原神社を合祀して、三俣神社と改称した。そしてこの日を祭日と定めた』(「桂萱村誌」より抜粋)
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 拝殿。
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 薬師如来祠。
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 末社。
 左は三峯神社。右は不明。
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 嘉永元年戊申(1848)四月十七日造立の庚申塔と文政五壬午年(1822)二月造立の如意輪観音、天明元丑年(1781)五月造立の道祖神。

玉泉寺(上泉町)

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 上泉城出丸址に位置する真言宗豊山派赤城山阿弥陀院玉泉寺(前橋市上泉町952-1)。
 裏手に土塁址が残っているとのことだが、見落とした。
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 山門の内側には何故かおみくじのガチャガチャが。
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 本堂前。
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 斜めから。
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 閻魔堂。

 以上で9月6日参拝分終了。
 この後にも何箇所か巡る予定だったのだけど、あまりの暑さに気力と体力がガリガリ削られてアウトー。諏訪神社を参拝した後に市立図書館桂萱分館で郷土誌などを読んだり、コピーサービスが無かったので携帯のメモ機能を使って要所をちまちま書き写しているうちに身体が冷えていたのもより暑さを感じた理由かも。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA15mm、50-150mm II。IXY Digital 400。IXY400はしばらく使っていなかったが、ROWAのバッテリー買ったので持ち出してみた。11年前のカメラだけど、充分現役でイケるなぁ。
 さて、およそ一ヶ月半ぶりに神社巡りを再開したわけだけど、次の週末、つまり13日はAsrielのライブに行って来るので神社巡りはお休みー。

上泉郷蔵(上泉町)

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 上泉町自治会館(前橋市上泉町1168-1)の北隣に位置する上泉郷蔵
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『群馬県指定史跡 上泉郷蔵附上泉古文書
 指定年月日 昭和二十六年六月十九日
 所在地   前橋市上泉町1168-1
 所有者   前橋市上泉町自治会
 この郷蔵は、天災や飢饉などの非常時に備えて麦などの穀物を貯えることを目的として江戸時代の寛政八(1796)年に、前橋藩の貯穀令により建てられた土蔵である。
 上野国内の郷蔵は、明治以降他の目的に利用され、本来の姿を失うものが多かったが、上泉郷蔵は本来の目的を貫き、明治四十二(1909)年まで使われていた。この間の郷蔵維持関係古文書が保存されており、その経過を知ることができる。
 創建後修理が度々行われたが、永年の風雨のため老朽化が進み、倒壊の恐れがでてきたため、上泉町では、平成三年から群馬県、前橋市の補助と地域住民及び関係者の協賛により、全面解体修理を行った。
 平成五年十一月吉日』
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『剣聖 上泉伊勢守 生誕五百年記念碑
 剣聖と呼ばれる上泉伊勢守秀綱(後に上泉武蔵守信綱)は、永正五年(1508)に大胡城の支城である上泉城で生まれました。
 平成二十年(2008)生誕五百年を記念して、剣聖上泉伊勢守之像を建立しました。この立ち姿は、新陰流の基本である「無形の位」という代表的な構えで、手には袋竹刀を持っています。
 骨格雄偉で品格があり、教養が高く、文字通り文武両道に優れていた人であると伝えられています。
 幼少のころから剣の修行を重ね、松本備前守や愛洲移香斎ほかに剣の指導を受け、新陰流を創始しました。
 現在の竹刀の原型となった袋竹刀を自ら考案して、剣術の継承や稽古に改革をもたらし、斬りあいを理論的・体系的にしたことで、剣術の祖と云われています。
 上泉城四代目城主として、領地・領民を守りながら、箕輪城主長野業正とともに武田信玄軍と壮絶な戦いを繰り広げ、「上野国一本槍」と呼ばれました。
 京にのぼり、将軍足利義輝の前で上覧試合を行い、「上泉伊勢守兵法天下一」と感状を受けました。
 また、正親町天皇の御前で天覧演舞を行い、従五位下から従四位下へ昇叙され、天皇御愛用の御前机を拝領しました。
 さらに、公卿の山科言継卿との親しい交友も知られています。
 柳生宗厳(後に柳生石舟斎)や宝蔵院胤栄や丸目蔵人佐ほか大勢の弟子に剣を指導して、新陰流は全国に広まりました。
 そして、一国一人とした新陰流の後継者には柳生宗厳を選び新陰流のすべてを印可相伝しました。
 こうして新陰流は、柳生家により受け継がれています。
 上泉伊勢守の精神は「活人剣」であり、人を生かす精神として徳川三百年の礎を築き、明治・大正・昭和の時代を経て脈々と伝わり、そしてこれからも末永く、広く人々の生活や仕事など多方面に活かされていくことを願ってやみません。
 平成二十年五月十日』
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 上泉伊勢守の像。
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 上泉城跡案内板。

諏訪神社(上泉町)

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 上毛電鉄上毛線上泉駅から北東80m程の位置に鎮座する諏訪神社(前橋市上泉町)。
 桂萱村誌によると、こちらの諏訪神社は古くは日枝神社と呼ばれ、また祀られている御祭神の数から七社神社とも呼ばれていたが、明治四十一年(1908)に境内三社と浪花の赤城神社及び末社二社、神明宮及び境内一社、八幡宮及び境内一社、稲荷社及び境内三社、琴平宮を合祀して上泉神社と改称。その後、昭和四年(1929)五月十八日に付近の小字名を採用して諏訪神社に改称したとのこと。
 御祭神は大山咋命、建御名方命、火産霊命、大海津美命、日本武尊、誉田別命、大山売命の七柱。大山売命と言うのがよくわからないが、大山祇命のことなのだろうか。
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 田村平衛翁像。
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『市指定重要有形文化財 上泉の獅子舞
 指定年月日 昭和45年2月10日
 所在地   前橋市上泉町935 諏訪神社
 管理者   上泉の獅子舞保存会
 毎年10月17日、諏訪神社の祭の時に奉納される。一人立ち(一頭の獅子を一人で演じる)の三人獅子で、他に笛二人と花笠をかぶった「ビンザサラ」二人からなる。獅子頭は、黒と朱の漆塗りで眉間に鏡を付けた独特のものである。舞には、本調子の曲目による神事舞と興舞といって神と氏子が楽しく舞う「レイザサラ」とがある。
 悠長な舞いかたと体を大きく振るしぐさや足さばきは、他にはみられない特色があり、歌舞伎や雅楽のふりつけがみられるという。
 この舞の始まりは、遠く承和年間(834~848)といわれている』
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 二の鳥居。
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 大正六年(1917)二月二十日造立の狛犬。
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 拝殿。
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 幣殿。
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 本殿。
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 獅子山。
 埋め込まれた石版には「参宮記念」「太々御神楽奉奏大正十三年三月十六日」とあり、その横に上泉伊勢太々講中の連名が刻まれている。
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 境内社。
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 末社群。

絹笠神社(石関町)

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 桃ノ木川に架かる石関橋の東側、石関町公民館そばに鎮座する絹笠神社(前橋市石関町)。
 桂萱村誌には絹笠神社の名は記されていないが、桂萱地区の地域づくり通信9号には稲荷神社の名でこちらの記述がある。もしかして、桂萱村誌にも稲荷神社として記されていたのだろうか。
 地域づくり通信9号によれば、古くは村の南に位置する杉の巨木の根元に祀られ雁堀稲荷と呼ばれていたが、後にこちらの神社と縁の深い生品屋敷に移され、明治には上泉の諏訪神社に合祀されたが後に再び生品屋敷に遷座。後、現在地に移されたとのこと。
 絹笠の名から見て、養蚕の神として信仰されていたのだろう。
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 板碑と末社。

 9月28日追記。
『稲荷神社(石関)
由緒
 古くは村の南に位置する田圃の中(字雁堀)の直径二メートル以上もある杉の根元の所に祀られていた。神社の名はこの地名から地元では雁堀稲荷と呼ばれた。その後、建物は昔、神社と関係深いといわれる生品屋敷に移した。新田氏の家臣、田部井、栗原等が氏子の中心となって祀っている神社である。この神社も明治に上泉の七社神社(現在の諏訪神社)に合祀をした。村内は全戸が神道で祭りごとが行なわれているところから、再び七社神社から分神して生品屋敷に遷宮した。なお、神社前の低地に大正十二年(1923)堀越幸太郎が二間四方の小屋を建て、ここで子供達が祭りのときに灯籠をつけ泊った。その後、この建物は増築され、後に石関の公民館となった。神社は高台にあったため、鞘宮が台風で壊され、上泉の佐藤大工が修理した。公民館は昭和五十四年(1979)八月建て替えた。この時付近一帯を整地し、神社は東南の一角、現在地に移転。本殿は小規模な一間社流造で木造瓦葺間口二・八メートル、奥行三・六メートルの覆屋の中に鎮座している。
境内
 東側に入口があり、入ってすぐに赤鳥居が建つ。また、社殿の南側には付近から出土した板碑(高さ五十五センチ、横二十三センチ、厚さ三センチ)、大正八年(1919)五月地元の田部井氏が養蚕の収穫を願い自然石に刻んだ絹笠大神、この他二基の石碑が並ぶ。
 祭日は四月十五日』(「桂萱村誌」より抜粋)

 えーと、つまり、こちらの神社は稲荷神社で、上の写真にある石のいずれかが絹笠大神である、と。郷土誌などには稲荷神社の名で記されているのに、地図上では絹笠神社とされているのは何故だろう。

片貝神社(東片貝町)

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 市道陸運南通り運輸支局入口信号交差点の南側に鎮座する片貝神社(前橋市東片貝町)。
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『虚空蔵尊鰻池の由来
 片貝虚空蔵尊は遠く桃山時代に上野国南勢多の郡片貝の郷に鎮座し全国から其の霊験に浴する信仰者が数多かった。
 鰻は虚空蔵尊の化身として信仰者から特別の保護を受けた。勿論片貝の住民は鰻は虚空蔵菩薩の化身なるが故に絶対に食する者はなかった。なお、片貝の水を三日間飲用した者は向う三年間は鰻を食用しなかったとの云い伝えも有った程である。特に眼病治癒に霊験あらたかな事から、当時の医学の進歩しなかった時代の為、難病や眼病の治癒祈願の為、鰻を奉献する事を誓い、大願成就して鰻を此の池に放流したものです。其の為か此の池の鰻は祈願奉納した患者の身代りとなって眼を患い、片目の鰻となっていたと伝えられています。
 此の様な霊験を知って永年も過ぎた現在でも、沢山の信仰者から此の池に鰻を奉納されています。
 虚空蔵尊の霊験を一層深めたいとの為に此処に虚空蔵尊鰻池の改修に当り、古くから伝えられた由来の一部を記述した次第であります』
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 拝殿。
 桂萱村誌によると、弘仁二年(811)に伝教大師の弟子宥海上人がこの地に庵を結び、自ら彫った虚空蔵菩薩の像を安置したのが創始であり、古くは星宮とも称していたが神仏判然令により天之御中主神を御祭神とし、虚空蔵菩薩は分離して隣の虚空蔵堂に祀られるようになったのだそうだ。また、初めは桂萱大塚古墳の頂に祀られていたが神仏判然令によって分離された際に古墳の前方部を切り崩して本殿を造営したとも記されている。
 ここから赤城山を見ると丑寅の方角に赤城山の小沼があり、赤城信仰においては小沼の神である高野辺大明神の本地物は虚空蔵菩薩とされることから、里宮として創建されたのではないかとの考察もあった。
 現在の主祭神は天之御中主神であり、他に大日霊命、倉稲魂命、誉田別尊、菅原道真公、大国主命、市杵島姫命、素戔嗚尊、そして不詳一柱の神が祀られている。
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 能満虚空蔵菩薩堂。
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 狛犬ではなく、虎と牛。つまり丑寅。
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 神楽殿と収蔵庫。
『所在地 前橋市西片貝町1460
 所有者 片貝神社太々神楽保存会
 管理者 片貝神社太々神楽保存会
 祭礼日 一月十三日・四月十三日
 明治のはじめ総社神社から伝えられた里神楽で、祭礼日には、五穀豊穣、疫病退散を祈願して舞が奉納される。その際「太幣」「神招」「伊佐奈岐・伊佐奈美命の舞」「天の岩戸の舞」「猿田彦大神御供」の五座は必ず舞われ、二十一座が演出される。
 愛嬌舞である「釣場の舞」では観衆が盛り上がる。昔は、この神楽を舞える舞子連は片貝に生まれた長男だけであり、五年間は舞子連から抜けられないきまりになっていた。しかし現在はこのしきたりはなくなり、保存会により神楽を後世に伝承するための努力がなされ、中断されることなくその格式を保ち続けている』
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 天神宮と神明大神、山神、大黒天、その他末社群。
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 八坂社、子権現、秋葉宮。
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 早虎稲荷神社参道入口。
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 早虎稲荷神社の脇に金刀比羅宮。
 桂萱村誌によれば、松平朝矩が藩主として前橋城に入った折、城の丑寅に虚空蔵尊があることから鬼門除けとして早虎稲荷を造営したと伝えられているようだ。
 また、北条氏照の家臣である師岡山城守が当地の領主である設楽備前守を伴なって領地件分を行った際、一行が萩生の原を通り掛かると一匹の狐が現れ、頭を下げなにかを訴えようとしているので、その後に付いて行くと狐はそこに座り再びなにかを伝えようとして来るので、その地に祠を建てたとの言い伝えもあるようだ。尤も、こちらの言い伝えでは萩の宮稲荷と言う名で伝えられており、早虎稲荷と顕徳稲荷が混同されて伝えられているようだと郷土誌に記されていた。
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 お狐さま2号。
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 お狐さま3号。
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 参道左手側に伊勢両大神と征清記念碑。右手側に猿田彦命。
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 湯殿山大神・月山大神・出羽大神、天照皇大神x3、羽黒山・湯殿山・月山。
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 裏手には桂萱大塚古墳後円部。石室の入口も見える。
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 猿田彦大神x2。
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 墳頂に湯殿山大神・月山大神・出羽大神x2と三笠大神・御嶽大神・八海大神。
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 墳頂から見た片貝神社本殿。
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 古墳後円部と早虎稲荷神社裏参道入口。

 ……蚊が多い。とにかく蚊が多い。嫌になるくらい蚊が多い。

顕徳稲荷神社(西片貝町三丁目)

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 曹洞宗高顕山龍澤寺の境内端に鎮座する顕徳稲荷大明神(群馬県前橋市西片貝町3)。
 古くは萩の宮稲荷と呼ばれており、養蚕の守護神として信仰されていたようだ。
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 二の鳥居。
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 昭和四十六年(1971)五月造立のお狐さま。
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 龍澤寺。
 天正年間(1573~93)に片貝城主設楽備前守が開基し、菩提寺としたと伝えられており、古くはこの辺りに片貝城があったのだそうだ。
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八幡宮(野中町)

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 野中町公民館の隣に鎮座する八幡宮(前橋市野中町256-1)。
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 二の鳥居。
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 昭和九年(1934)十月十七日造立の狛犬。
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 拝殿。
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 社殿再建百周年記念碑。
『野中町八幡宮は遠く建長(1249~56)の頃より七百有余年の長い間私達多くの祖先より産土の神として祭り仕へこの町の発展と幸福を願い祈り乍ら村人のよりどころとして今日に至りました。今年は明治二十一年(1888)一月十一日の大火により焼失再建百年の歳月を過ぎ記念すべき年に当ります。
 昭和四十八年(1973)には公民館の建設、六十一年(1986)には農村公園の設置等、八幡宮の恩恵は多大なる事に感謝し、今後も故郷のよりどころとして氏子の弥栄を願いここに碑を建立いたしました』
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 左から昭和九年十月造立の天神宮、文化七庚午年(1810)八月造立の天王宮、天保年間造立の山神宮。
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 稲荷神社。
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 昭和十一年(1936)五月造立の水神宮。
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