八柱神社(滝窪町)

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 滝窪公民館の北西200m程の位置に鎮座する八柱神社(前橋市滝窪町)。
 駐車場は無いので、神社北西に伸びる裏参道入口に駐車。
『群馬縣管下上野國南勢多郡瀧久保村字宮久保
 村社 八柱神社
 明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大胡神社ト改称
一、祭神 多紀理毘賣命 狭依毘賣命 多岐都毘賣命 天之忍穂耳之命
     天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 天之穂日命
一、由緒 不詳
一、境内末社 拾四社
 冨士神社    祭神 木花咲耶姫命
 稲荷神社    祭神 保食命
 神明宮     祭神 大日孁命
 秋葉神社    祭神 火産霊命
 社日神社    祭神 天照皇大神 大己貴命 少彦名命 保食神 埴山姫命
 八坂神社    祭神 素盞嗚尊
 大山祇神社   祭神 大山祇命
 八幡宮     祭神 誉田別命
 赤城神社    祭神 大己貴命
 琴平宮     祭神 大物主命
 愛宕神社    祭神 火産霊命
 絹笠神社    祭神 和久産巣日命
 木花咲耶姫神社 祭神 木花咲耶姫命
 疱瘡神社    祭神 素盞嗚尊』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
 御祭神が五男三女神と言うことは、八王子神社の系統なのかな。鳥居も両部鳥居だし、両部神道に由来する神社なのかも。
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 両部鳥居。
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 拝殿。屋根の突起はなんだろう?
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 本殿。
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 虹梁には龍の彫刻。
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 裏から。
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 開姫神社の鳥居。
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 不明、猿田彦大神。猿田彦命、道祖神。
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 不明、不明、十二山神。十二宮、秋葉山。
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 不明。
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 開姫神社。
『開姫様
 明治七年にむらの若い衆が赤城山の大洞へ行くとき、荒山から登った。荒山のタナウエというところに、珍しいかたちの石があった。そのとき、若い衆は、下にころがりおとして欠けていなかったら、帰りにむらへもって行こうと相談した。帰りにみると、あまりきずがついていなかったので、むらの若い衆が大勢行ってむらへもってきて神様にした。はじめは寺沢川のほとりの高橋にまつったが、のちに現在地にまつっている。
 いろいろご利益があり、むらの人たちがおまつりしてきた。ところが戦争中、淫祠邪教撲滅の運動のために、警察官立合いの下で穴を掘って埋めてしまった。そのあと、ある人が馬にけられ、入院後になくなった。石は、いつ誰が出したということなく、外に出ていたという。
 むらの人はお宮をつくっておまいりするようになった。祭典は十月十七日のオクンチ。
 女の人の下の病にご利益があるといい、病気がなおれば、五色の旗をあげますといってお願生をかけた。なおると旗をあげた。かなり遠くからおまいりにきた。
 開姫様のことは、田植唄にもうたわれている。
 荒山の ただ石こそは イヤハーノ 里に出て 里に出て開姫様にまつられる』
(「大胡町誌」より抜粋)
 木花開耶姫命を連想する名前だが、由来を見ると関係無さそうかな。でも上野国神社明細帳には境内社として木花咲耶姫神社の名が記されているし、それなのかなぁ。ググってみると、貝姫様やさね石様などとも呼ばれるようだ。
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 御神体。
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 裏参道入口から40m程西北に庚申塔と石燈籠。
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 八柱神社の北東およそ420mの位置に田之上公民館があり、その脇に水神宮が祀られている。
 大胡町誌には「滝窪の田の上にお十二様がまつってある」と記されているので十二山社があるのかと思ったのだが、そちらは見当たらなかった。

 以上で12月23日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、DA70mm、50-150mm II。K-7にDA20-40mm。
 今年の神社巡りはこれにて終了。
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神明宮(堀越町)

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 足軽町公民館の東隣、群馬県道3号前橋大間々桐生線に面して鎮座する神明宮(前橋市堀越町)。前回参拝した八幡神社とは僅か250m程の距離。
『群馬縣管下上野國南勢多郡堀越村字勝山
 無格社 神明宮
 明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大胡神社ト改称セリ
一、祭神 大日孁尊
一、由緒 不詳
一、境内末社 六社
 古峯神社  祭神 日本武命
 三峯神社  祭神 大山祇命
 八坂神社  祭神 素盞嗚尊
 大山祇神社 祭神 大山祇命
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 稲荷神社  祭神 保食命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『神明宮は勝山に鎮座している。この神社はもとは養林寺の境内にまつられていたものという。祭日はオクンチ(十月十九日)。以前は祭日には灯籠っ子が灯籠をつけた。
 このときには子どもたちは神社に泊った。村の人たちは赤飯をたいて早朝に神社へおまいりに行った。一番まいりをすれば蚕があたるといわれた。子どもたちは供えた赤飯を食べた。神明様の境内には上野十二社(石宮が十二社ある)がまつられているが、この祭日は一月十二日』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 拝殿正面。
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 拝殿横から。
 拝殿裏に石段があり、その上に本殿。
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 本殿。額部分には大神宮と刻まれている。
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 その両脇に三基ずつ石祠が並んでいるが、右端の三峰神社・古峯神社以外は不明。
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 石段左側に八坂神社。
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 石段右側には疱瘡神社と石碑。その奥に末社群。
 石碑に刻まれた碑文は以下の通り。
『上野十二社詣者居多矣然所在隔絶一周消数日其所
 不便也依議有志合祀于茲芝偏在祈土地之平安供信
 者之便宜也
 明治卅年九月十六日』
 末社群は左から不明、大国主神社、甲波宿祢神社、伊香保神社、宇藝神社、火雷神社、賀茂神社、赤城神社、倭文神社、小祝神社、不明、貫前神社、猿田彦大神x2。上野十二社と言うことは、文字が薄くなっていて読み取り難い二社は榛名神社と美和神社だろう。
『疱瘡神
 神明様の境内に疱瘡神様がまつってある。子どもに疱瘡をうえさして、一週間目にウツギの木で疱瘡棚をつくって、それから毎日赤飯をあげたり、おさい銭をあげたりしておまつりをして、十二日たってから疱瘡神さまのところへ疱瘡だなをもっていって疱瘡おくりをした』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 大胡神社境内に設置された太々神楽の案内板には、明治四十二年の神社合祀により、足軽町神明宮の神楽殿は大正元年に大胡神社へ移転されたと記されている。古くはこの境内のどこかに神楽殿があったのだろう。
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 神明宮から東へ130m程、本間建設の脇に青面金剛

愛宕神社(堀越町)

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 大胡神社の北西600m程、堀越公民館脇に鎮座する愛宕神社(前橋市堀越町1442)。
 社名を記したものが見当たらなかったので、近くにいた人に尋ねてみたら、愛宕様であるともお蚕様であるとも教えて頂いた。しっかりとした石組みの土台の上に建てられているが、嘗てはここにも城のようなものがあったのだろうか。
『群馬縣管下上野國南勢多郡堀越村字関皆戸
 無格社 愛宕神社
 明治四十二年六月五日、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大胡神社ト改称セリ
一、祭神 火産霊神
一、由緒 不詳
一、境内末社 五社
 琴平宮   祭神 大物主命
 秋葉神社  祭神 火産霊神
 神明宮   祭神 大日孁命
 稲荷神社  祭神 保食命
 大山祇神社 祭神 大山祇命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 本殿。
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 左から天照皇大神、山神宮(寛政十戊午年)、十二神(安政七庚申年)、稲含神社。
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 稲含神社の奥に見える二つの石祠は、奥が秋葉宮、手前が金毘羅宮。
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 東側の斜面に半ば埋もれかけている石祠二基と石仏。
 石仏は……なんだろう? 青面金剛には見えないし、剣のような物を持っているけど不動明王にも見えない。剣と宝珠を持った仏様と言うと、虚空蔵菩薩だろうか。冠が付いて無いけど。
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 境内の入口そばに建てられた三基の石燈籠には、左から愛宕山、象頭山、秋葉山と刻まれている。
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荻窪神社(荻窪町)

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 桂萱57号墳と呼ばれる円墳の上に鎮座する荻窪神社(前橋市荻窪町187-1)。神社を建立する際に削平されたとのことで、古墳としての形はあまり留めていない。まぁよくあることだ。
 また600m程東には荻窪城址があるが、今回そちらへは行っていない。
『群馬縣管下上野國南勢多郡荻窪村字宮本
 無格社 神明宮 村社 荻窪神社
一、祭神 大日孁尊
     多紀理毘賣命 菅原道眞公 多紀都比賣命 火霊命 狭依毘賣命 大山祇命
     天之忍穂耳命 譽田別尊 天之穂日命 大物主命 活津日子根命 宇賀魂命
     熊野久須毘命 石長姫命 火産霊命 建御名方命
一、由緒 不詳
     明治四十一年二月四日許可、本社境内末社菅原神社、鳴神神社、大山祇社、八
    幡神社、琴平神社及字宮裏村社八柱神社、仝境内末社四社、并字本屋敷無格社諏
    訪神社、仝所無格社菅原神社及字神明前無格社神明宮、字宮本無格社秋葉神社ヲ
    合併、仝時ニ村社荻窪神社ト改称、氏子六十三戸ト更正セリ
     大正三年十月九日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
    テ指定セラル
一、境内末社 五社
 菅原神社  明治四十一年二月四日許可本社へ合併
  祭神 菅原道眞公  由緒 不詳
 鳴神神社  明治四十一年二月四日許可本社へ合併
  祭神 火雷命    由緒 不詳
 大山祇社  明治四十一年二月四日許可本社へ合併
  祭神 大山祇命   由緒 不詳
 八幡神社  仝上
  祭神 譽田別尊   由緒 不詳
 琴平神社  仝上
  祭神 大物主命   由緒 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『由緒 荻窪神社は、西南に位置し、荻窪城の西鬼門の方位にある。元和年中より八柱、神明の二社をもって東西荻窪村の氏神として祀られていた。明治五年に両村が合併し荻窪村となり八柱社を村社とした。明治四十一年に村内に散在していた八柱・諏訪・菅原・秋葉神社・神明宮を合併し、村名を以て荻窪神社とした。秋葉神社は、その後、太田林平家の氏神様として祀られている。
祭事 祭神:大日霊尊(天照大神)他境内末社十七社の祭事。八坂神社は七月二十五日独自に開催。
 祭日:春祭 四月十五日・秋祭 十月十六日』
(「桂萱地区地域づくり通信9号」より抜粋)
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 入口傍の街灯には荻窪神社の他に秋葉神社とも書かれているが、どこにあったのだろう。明治四十一年(1908)に合祀した十四社の中に秋葉神社の名があるが、はてさて。
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 庚申塔群。
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 伊勢鳥居。
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 参道。
 その辺りの石が古墳の名残りなのだろうか。
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 猿田比古命。
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 八坂神社。
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 昭和九年(1934)十二月造立の狛犬。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 本殿。
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 末社。
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 愛宕神社。その隣には十一面観音。
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 末社。
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 神社東側から。
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 遠く北方に鍋割山が見える。

 以上で12月13日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、DA35mm Macro、FA50mm F1.4。
 帰宅後にいくつか見落としていた神社があったことに気付いたので、後でそれらも巡っておきたいところだが、予報では今週末の天気は良くないようだし、来週末は友人と遊びに行く予定があるので、年内には難しいところかな。

雷電神社(横沢町)

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 群馬県道34号渋川大胡線脇にあるセブンイレブン前橋横沢町店とミニストップ大胡横沢店の間の道を北へ向かって行くと、横沢多目的集会センターの敷地の隅に雷電神社(前橋市横沢町368)が鎮座している。
『群馬縣管下上野國南勢多郡横沢村字向山
 無格社 雷電神社
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 大雷命
一、由緒 不明
一、境内末社 二社
 大山祇神社  祭神 大山祇命
 菅原神社   祭神 菅原道真公』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『オライレンさま(雷電様)
 横沢の鎮守様は赤城神社であったが、明治の末年頃に大胡の近戸神社に合併したので、そのあとは、オライレンさまが信仰の中心となっている。このおまつりは、もとは旧の七月二十五日、現在は八月三十、三十一日である。この日は赤飯をふかして祝い、親類のものを招待した。横沢のオライレンさまのおまつりのときは、まるでお振舞のようだといわれるほどにぎやかであった。
 日でりのときには、オライレンさまのご神体(赤い顔をしたオライレンさまが、太鼓を腹にまいている。山犬かキツネのようなものをつれている)を出して、川へもって行って水をかけて雨乞いをした。
 オライレンさまのまわりには、馬のわらぐつがあがっていた』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 境内末社は見当たらなかったが、雷電神社から40m程南側の十字路脇に庚申塔があった。
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 庚申塔から少し東に向かうと、頂に石祠の置かれた塚がある。大胡町第39号墳と呼ばれる古墳であるのだそうだ。ここからすぐ南東に第40号墳もあるが、そちらには祠は見当たらない。なんとなく私有地ぽい感じがしたので近寄っていないが、なにを祀っているのだろう。

八幡神社(茂木町)

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 足軽町第11区公民館の脇、群馬県道3号線に面して鎮座する八幡神社(前橋市茂木町1207)。
『群馬縣管下上野國南勢多郡茂木村字大道上
 無格社 八幡宮
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 品陀和氣命
一、由緒 不詳
一、境内末社 三社
 琴平宮   祭神 大物主命
 厳島神社  祭神 市杵島姫命
 八坂神社  祭神 素盞嗚命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 拝殿。
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 斜めから。
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 衣笠神社。
『絹笠様
 宿原の八幡様の境内に絹笠様(衣笠様)の石宮がある(明治三十一年四月吉祥日、宿原、氏子中とある)。
 毎年四月十五日に絹笠様のおまつりをしている。かいこをする人が、まゆだま(米の粉でつくった)をもっておまいりにきた。一粒を十貫匁のまゆにたとえて、自分の望むだけのまゆだまをかりていって、翌年おまいりにくるときにかりていったまゆ玉を倍してかえした(倍かえしをした)。
 この世話人は隣保班長(ここでは神社関係の世話人のもとじめは区長がしている)。
 なお、おまつりの日には、わきのむらからもお参りに来た。この日世話人が出ていて、お参りにきた人にくじをひかせた』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 御嶽山蔵王大権現。
『あ組講社の由来
講祖木食一心行者は御嶽山の行法修行の為全国各地の社寺に於ける修行の旅路文化七年上野国赤城山に登拝鎮座の神々を詣で特に瀧澤不動尊に於いての修行は心血を捧げ三年余りの厳しい修行に精進多年に渡る修行に不動明王より神勅を賜り野に下り布教活動に精進大胡足軽にて永井伝次郎外数名の者と遭遇永の逗留にて御嶽山の行法を伝授一心行者は伝次郎等数名の者達と各地を布教にあるき東嶺の地新里村粕川村南嶺の地荒砥村木瀬村宮郷村西嶺の地桂萱村芳賀村富士見村北嶺の地横野村敷島村渋川市子持村利根郡白沢村と秀峰赤城山麓に御嶽山の行法布教により難病奇病の民衆を助け神と仰ぐ赤城山のあの字を取りあ組講社を組織初代先達一心行者のあと伝次郎二代目先達講元となる一心行者は御嶽山三柱大神を尊神と仰ぎ毎年登拝一心行者は全国各地を布教の為行脚信民を助け修行の旅数十年信仰に生涯を捧げ逝去の後御嶽山中腹と埼玉県深谷市国斎寺に霊神として祀り信者毎年一心霊神を参拝明治の初期になるとあ組講社も多勢となり講社を三講に分け元講社中講社上講社となるその数百部落近くとなる八幡宮境内に碑を建立した講社乃由来です』
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 左の石祠は三峰神社・古峰神社。右の石祠は辨財天。
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 左端の小さな石祠は金毘羅宮。右二つは不明。
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 八幡神社社殿の真裏に八坂神社。

大胡神社(河原浜町)

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 大胡城跡の北部、近戸廓跡に鎮座する大胡神社(前橋市河原浜町615)。
 神社北側の道から社殿西側の車止めまでは車で乗り入れることもできるが、大胡城跡からなら歩いた方が早いので、車を二の丸跡に置いたまま徒歩でこちらへ。
『群馬縣管下上野國南勢多郡河原濱村字根古屋
 村社 近戸神社 郷社 大胡神社
一、祭神 大己貴命 豊城入彦命 八綱田命
  相殿 少彦名命 天照皇大神 大山津見命 日本武命
     級津比古命 級津比女命 磐筒男命 磐筒女命
  追加 菅原道真公 大雷命 市杵島姫命 保食命 大物主命 大日孁命
     道之長乳歯命 建御名方命 久那戸神 八衢彦命 八衢姫命 八十枉律日神
     譽田別命 火産靈命 罔象女命 多紀理毘賣命 狭依毘賣命 多岐那毘賣命
     天之忍穂耳之命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 天之穂日命
     木花咲耶姫命 埴山姫命 和久産巣日命 賀夜奈流美命 手力雄命 大地主命
     大山咋命 和久産靈命 櫛御気野命 大屋津姫命 枛津姫命 経津主命
     火雷命 速佐須良雄命 速秋津姫命 天羽槌姫命 加茂別雷命 宇賀魂命
     素戔嗚命 不詳一座
一、由緒 同郡三夜沢ヨリ勧請ニテ其年月日ハ不詳、往古ヨリ領主地頭崇敬ニテ、天正度
    ニ至リ大胡城主大胡常陸介社頭之営繕御供米等例年現米ニテ五石宛御奉納有之、
    其後牧野駿河守、同上前橋城主酒井雅樂頭、同上松平大和守、同上舊幕府代官岩
    鼻林部善太衛門、同上武蔵國岩槻大岡主膳正、同上小笠原豊後守迠先例ニ依テ奉
    納有之
     明治四二年六月五日許可、本社境内末社十四社、仝町字町屋敷村社菅原神社、
    仝境内末社四社、仝所無格社神明宮、仝境内末社二社、仝所無格社八坂神社、仝
    町大字茂木村字西小路村社熱田神社、仝境内末社三社、字天神無格社稲荷神社、
    仝境内末社一社、字大道上無格社八幡宮、仝境内末社三社、仝町大字堀越村字諏
    訪村社諏訪神社、仝境内末社六社、字関皆戸無格社愛宕神社、仝境内末社五社、
    字勝山無格社神明宮、仝境内末社六社、仝町大字瀧窪村字宮久保村社八柱神社、
    仝境内末社十四社、字東天神無格社菅原神社、字西瀧無格社稲荷神社、仝町大字
    横沢村字新屋敷赤城神社、仝境内末社五社、字西ノ原無格社八幡宮、仝境内末社
    一社、字向山無格社雷電神社、仝境内末社二社、仝町大字樋越村字天王山村社八
    坂神社、仝境内末社五社、字西前沖無格社菅原神社、仝町大字上大屋村字天王山
    村社八坂神社、仝境内末社三社、字八ヶ峯無格社稲荷神社ヲ合併、同時ニ村社大
    胡神社ト改称、氏子五百四十四戸ト更正、明治四十三年八月十二日許可、仝郡桂
    萱村大字堀ノ下村東女堀村社熊野神社、仝境内末社八社、字二子山無格社赤城神
    社、仝境内末社四社ヲ合併、並氏子五百七十二戸ト更正ス
     大正二年九月十二日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
    シテ指定セラル
一、境内末社 拾四社
 天津日神社 明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 大日孁命   由緒 不詳
 琴平神社  仝上
  祭神 大物主命   由緒 不詳
 厳嶋神社  仝上
  祭神 市杵島姫命  由緒 不詳
 菅原神社  明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 菅原道真公  由緒 不詳
 八幡神社  仝上
  祭神 譽田別命   由緒 不詳
 水神社   仝上
  祭神 罔象女神   由緒 不詳
 稲荷神社  仝上
  祭神 保食命    由緒 不詳
 秋葉神社  仝上
  祭神 火産霊命   由緒 不詳
 雷電神社  仝上
  祭神 大雷命    由緒 不詳
 八坂神社  仝上
  祭神 須佐之雄命  由緒 不詳
 日枝神社  明治四十二年六月五日許可本社へ合併
  祭神 大山咋神   由緒 不詳
 三峯神社  仝上
  祭神 大山祇命   由緒 不詳
 大山祇神社 仝上
  祭神 大山祇命   由緒 不詳
 諏訪神社  仝上
  祭神 建御名方命  由緒 不詳』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『大胡神社の由緒を示す一つの古文書があるのでこれを示すことにしよう。
  一筆啓上候
  御堅固之段珍重
  奉存候然者其地
  赤城大明神当城之
  鎮守ニ近戸大明神と
  奉祭度候間其元
  父子之中 此方江
  引越神祭奉
  頼候萬事家来
  口上申入候謹言
        常陸介
  天正十七
   十一月九日
  奈良原紀伊守殿
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城のまもり神として赤城神社を近戸大明神として祭り度いので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらい度いというのである。
 天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻ってあらためて赤城信仰を考える時に三夜沢赤城神社ということになったのだろう。
 祭神は大己貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらには前橋市堀之下町の熊野神社その他まで併せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
 祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神になり農耕の豊作であることを祈念したのである。
 太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)の産泰神社にも指導し、同社の神楽復興に助力した。
 明治四十二年六月に近戸大明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神の近いところに勧請したことを意味する。参道も東からの道を昭和十八年南参道に附け替えた。

 明治四十三年発行の「大胡町誌」から大胡神社沿革をみると次の通りである。
一、当社ハ祭祀ノ始メ神殿ノ御造営年月日ハ不詳ト雖も天正年間御炎焼次テ御新築成ル
一、天正五丁丑年大胡城主常陸介高繁公ヨリ御供米五石宛御奉納賜ハル爾後累代ノ城主ヨリ明治三庚午年迄テ通計二百九十四年間奉納有之
一、天正十七年十一月九日前大胡城主常陸介公ヨリ赤城神社神主奈良原紀伊守ニ宛テ元赤城神社ヲ大胡城ノ鎮守ニ近戸大明神ト改称シ分家シテ当社ノ斎主トナラレタリキ依頼書ヲ贈ラル同月分家シテ斎主トナル(依頼書本家ニ蔵ス)
一、寛永年間本殿拝殿御炎焼同時神主奈良原家共焼失シ古記録実物悉ク焼滅ス次テ同十年三月吉日大胡城主牧野大和守忠虎公神殿ノ御造営賜ハル同年同月同公御庭前ノ奇石五個神前ニ御奉納有之寛文丁未年七月九日神祇管領長上侍従卜部兼連殿ヨリ奈良原紀伊掾定直ヘ神主申付ラル元禄十四年辛己年二月二十一日神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣為家(家ノ字蝕ヒテ慥ナラス)殿ヨリ奈良原大隅守藤原重正ニ神主申付ラル正徳四年十一月嘉辰宮関村(今大字大胡町)大塚氏包紿木鳥居奉納享保十三戍申年四月石階新調奉納氏子中元文四年十二月吉日石鳥居奉納永井氏外数名寛保元年九月五日神祇管領長上正三位行右兵衛督兼神祇権大副侍従卜部朝臣兼雄殿ヨリ奈良原大隅守藤原忠茂ニ神主仰付ラル明和元年閏十二月二日神祇管領長上従二位卜部朝臣兼雄殿ヨリ奈良原山城守藤原成重ニ神主仰付ケラル文化元年十二月十七日神祇管領長上正三位侍従卜部朝臣良連殿ヨリ奈良原紀伊藤原成紀ニ神主仰付ケラル文化十三年四月二十三日神祇管領長上侍従卜部朝臣良長殿ヨリ奈良原紀伊正藤原成壽ニ神主仰付ケラル天保三年三月六日六ツ時神殿全部焼炎同時奈良原家焼失記録焼滅同乙未年十一月七日神殿新築成ル氏子中天保七年常夜燈一対奉納鵜飼氏弘化三年十一月十一日神祇管領長上卜部朝臣良芳殿ヨリ奈良原紀伊正藤原暁清ニ神主仰付ケラル安政六巳未年四月朔日錦御柱掛奉納堀越村氏子中同年同月日拝殿用大幕一張奉納大胡町沢田仙吉外九名文久元年三月大太鼓一個奉納堀越村氏子中文久二年四月手洗水屋奉納鵜飼氏(永代修繕付)元治元年九月十九日石玉垣新築奉納三ヶ村氏子中明治六年三月三十日群馬県ヨリ奈良原茂樹ニ祠掌申付ケラル同十八年五月本殿用大幕一張奉納横浜相生町四丁目田村清治郎同十九年四月太々神楽用神器装束一式新調氏子中同二十年十月十九日大旗一対再調河原浜村氏子中同二十二年五月一日鉄製玉垣新調奉納総氏子中同二十五年一月七日木鳥居建築奉納総氏子中同二十六年十月十九日近戸神社境内接続引裂上地官林ノ払下認可ヲ得タリ同二十八年三月四日社掌奈良原茂樹病卒滅職同二十八年八月三十一日付群馬県ヨリ近戸神社社掌ニ奈良原喜久太補任セラル同二十八年神嘗祭之日二十七八年日清戦役凱旋紀念之奉額有之大胡町八ヶ町村中同二十八年明治二十七八年日清戦役分捕品ケベル銃奉納群馬県同三十四年一月二十五日付本殿幣殿ヲ銅板葺ニ拝殿ヲ瓦葺ニ屋根改修ノ件並ニ用材トシテ境内立木伐採ノ件出願同年五月九日許可セラル同年八月二十二日付寄附金募集ノ件出願即日許可セラル同月二十五日同工事ニ着手ス同九月三十日仮宮成ル同十月一日午前二時仮遷宮式執行同十二月二十二日社殿工事全部終了同十一月二十三日石畳十六間三尺奉納鵜飼長平同裏坂工事費金六十円也奉納堀越村氏子中同家屋一棟奉納河原浜村青年中同家屋移転料金四十円也奉納河原浜村氏子中同石垣工事費金二十九円五十銭也大胡町大組講社以下有志二十一人同賽銭箱奉納氏子総代工事委員一同同年十二月二十四日午后二時上棟式執行同二十五日午前二時正遷宮執行同日臨時大祭執行同年十二月二十六日屋根改修工事費決算終了同三十九年十二月十九日明治三十七八年日露戦役報賽記念天水鉢一対奉納大胡町出征軍士一同同三十九年天長節之日日露戦役紀念碑並ニ軍馬応徴紀念碑建設除幕式執行同四十二年五月七日訓令甲第九号及訓令乙第五十五号ニ則リ河原浜村々社大胡町堀越村三ヶ字総鎮守近戸神社ヘ大字大胡町村社菅原神社並ニ七個字村社無格社合計二十社及境内末社全部合併ノ上社号ヲ大胡神社ト改称ノ件出願同年六月五日付群馬県ヨリ認可セラル同年六月九日合併社号改称認可報告祭執行同四十三年一月二十日合併神社跡地譲与ノ件出願同年三月三十日勢多郡桂萱村大字堀ノ下村村社熊野神社無格社赤城神社及境内末社ヲ大胡神社ヘ合併ノ件出願同年八月四日付大字大胡町大字堀越村大字滝窪村大字樋越村合併跡官有地譲与願ノ件認可セラル同年八月十二日付勢多郡桂萱村大字堀之下村村社熊野神社以下大胡神社ヘ合併ノ件認可セラル

 大胡神社はむかしは近戸神社という社名であった。祭典はむかしは五月一日、現在は四月十日である。
 ここは大胡町の中の八ヵ村の神社を合併してあるので、祭典は八ヵ村(八大字)でおこなっている。各大字の神社を合併する前には、二日二晩大祝いをしたという。このときには八ヵ村の青年たちが出て祝ったということである。
 近戸神社は馬をまつった神社というが、たしかでない。ここの神主は三夜沢から来たというが、赤城との関係についてはなにもいっていない。
 この神社は河原浜の根古屋にあり赤城様をまつっている。牧様(大胡の殿様牧野氏のこと)が、三夜沢の赤城神社へ行くかわりに、近戸神社へおまいりをしてすませたものという。そのために、天正年間に三夜沢から分社したものと伝えられている。
 祭日は、春が四月十日、秋が十月十七日(もとは十九日、オクンチという)。春祭は祈願祭で、この日には大神楽をした。秋は感謝祭で、このときも神楽をした。現在は春祭のときだけ神楽をしている。なお、オクンチには、カキを焼いて食べたという。また、境内で、子どもたちが木をあつめて、それをもやしたということである』
(「大胡町誌」より抜粋)
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 石段昇り口脇には猿田毘古大神と……なんだろう、道祖神かな。
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 石段を昇った先に狛犬。
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 鳥居。
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『前橋市指定天然記念物 大胡神社のムクロジ(無患子)
指 定 年 月 日  平成20年3月19日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  大胡神社
 このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根周りは非常に大きく周50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
 ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。
 ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。

前橋市指定文化財 大胡神社の算額
指 定 年 月 日  平成6年4月5日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  大胡神社
 算額とは、和算家が自分で研究した問題と解答を社寺の軒下に奉納掲揚したものです。この額は、大正4年に船津伝次平を師とする、和算家である大原福太郎(茂木町)が奉納したもので、3つの問題が載せられています。和算は江戸時代に盛んでしたが、明治以降衰えたため、大正期の算額としては珍しく、県内唯一のものです。

前橋市指定重要無形文化財 太々神楽の舞
指 定 年 月 日  昭和44年7月7日
所 在 地      前橋市河原浜町615 大胡神社
所有者および管理者  足軽町太々神楽保存会
 この舞は、往古より徳川時代までの神慰の行事として、足軽町に伝えられてきました。
 明治42年の神社合祀により、足軽町神明宮の神楽殿は大正元年に大胡神社へ移転されました。以後、河原浜と足軽町の人たちが毎年交互に舞ってきましたが、現在は、5月3日の例大祭に足軽町太々神楽保存会が奉納しています』
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 拝殿。
 正面右側に掛けられている大きな額が前橋市指定文化財の算額。
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 無患子の木。
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 神楽殿。
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 末社群。
 下段左から四番目は秋葉宮。六番目と九番目は山神宮。その右隣は少し読み取り難いが、十七夜宮かな。十四番目は金毘羅宮。右端は大国主尊文字塔。一つ挟んでその左に水天宮。
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 水天宮と大国主尊に挟まれた石祠は何神社なのかわからなかったが、正面部分になにかが浮き彫りにされている。上は鳥のようだが、下のはなんだこれ。
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 石祠二基と神庫。左の石祠は弁才天。
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 社務所裏に金毘羅大権現。
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 大胡神社北側の濠址。この辺りが大胡城跡の北端になるようだ。
 ガードレールの間から下りられるようになっているが、こちらの奥にはお墓らしきものがあったので進まずに引き返し。

城山稲荷神社(河原浜町)

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 大胡城本丸跡に鎮座する城山稲荷神社(前橋市河原浜町660-1)。
 大胡城の守り神は近戸大明神だった筈だが、こちらの神社はどんな由来があるのだろうか。案内板の想像図には本丸端に鳥居と神社が描かれているので、廃城になる前からこちらにあったものなのだろうけれど。
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 覆屋の中には昭和二十三年十二月二十八日の奉納額や平成二十五年三月二十四日の修繕記念棟札などがある。
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 城山稲荷社のすぐ裏手は土塁になっており、上ってみると……
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 おぉう、結構高い。うっかり滑り落ちたりしたら酷いことになりそうだ。
 川の北側は北城跡だが、現在は幼稚園になっているので見に行くことはできない。
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 別角度から。
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 北東から。
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 本丸跡には慰霊碑や水害記念碑なども設置されている。
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 本丸南側の土塁上から。魚眼レンズを持って行けば良かったなぁ。
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 二の丸跡から見た本丸南側の土塁。
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『群馬県指定史跡 大胡城跡
指定年月日  昭和42年2月24日
所 在 地  前橋市河原浜町660番地1
 城跡は、南北に走る丘陵上にある平山城で、本丸を中心に二の丸を囲部的に配し、北に北城(越中屋敷)、近戸曲輪、南に三、四ノ曲輪があり、東は荒砥川が流れ、その間に根小屋、西には西曲輪の平坦部が附加され、南北670メートル、東西最大幅310メートルの規模を持つ枡形門、水ノ手門虎口、空濠、土塁等の跡が良く残っている。中世上野の名族である「大胡氏」が拠ったと言われている。
 天正18年(1590)徳川家康の関東入部により牧野氏が大胡領2万石に封ぜられ、康成、忠成二代の居城となった。
 牧野氏は元和2年(1616)に越後(新潟県)長嶺へ、そして長岡へと転封された。以後、大胡城は前橋藩領となり、酒井氏時代には城代が置かれたが、寛延2年(1749)酒井氏が姫路へ転封に際し、廃城となった』
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 本丸と二の丸の間の濠。やはり魚眼レンズを持って行けば……。
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 枡形門跡。
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 水の手門跡。
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 水の手門跡の傍に置かれた石柱と大きな石。石柱には「昭和十二年十二月竣工」「ねごやはし」「距赤城山大洞十五、九粁」と刻まれたプレートが嵌め込まれている。
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 大胡城跡入口。

八坂神社(大胡町)

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 前橋市民文化会館大胡分館の東隣に鎮座する八坂神社(前橋市大胡町21)。
 社殿の扉はガラス張りになっており、御神輿が収められているのが見える。
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『八坂神社座宮沿革
 大胡町字上町二十一番地ニ安置
 昭和六年六月上町十六番地ニ間口七尺奥行二間トタン葺平家木造新築遷宮
 昭和三十五年五月上町十四番地ニ遷宮
 昭和四十二年十二月右場所ニ鉄筋コンクリートニテ新築
 昭和四十三年一月八日竣功』

『大胡の天王様は、もとは勝山家のものであったという。また、古い天王様は男天王様で、現在ある天王様は女天王様だという。
 天王様のオカリヤは、むかしは各町内をまわったものという。
 大胡の天王様は、七月二十七日が宵まつりで、二十八日が本まつり。この日はよそへ嫁に行っているものもお客に来た。また、近郷近在からも見物客が来た。大胡の天王様は、おどり屋台というので有名であった。
 以前は、祇園の時には天王番というのがあって、各町内で順番で天王町になった。これは一年交代であった。祇園のときには天王町の町の世話人がまつりの世話をした。
 区長は代理人(各町内に一人ずついた。全体で五人)と相談をして祭りを行なうのだが、実際の仕事は班長にまかせた。各班には町内のおもだった人が祭世話人として一人ずついて、その人が祭りの世話をした』
(「大胡町誌」より抜粋)
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稲荷神社(上大屋町)

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 馬県道3号前橋大間々桐生線大胡バイパスのそば、稲荷塚古墳の墳頂に鎮座する稲荷神社(前橋市上大屋町8)。
 駐車スペースは無いので、古墳前の道(道幅は車一台分程)に置いたままささっと。
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『前橋市指定史跡 稲荷塚古墳
指定年月日  昭和五十年七月七日
所 在 地  前橋市上大屋町八番地
 昭和十年に群馬県下所在の古墳の一斉調査が実施され、その際に大胡地区では四十二基の古墳が数え上げられている。古墳の分布が特に多かったのは横沢、茂木、堀越地区だったが、これらの古墳は現在そのほとんどが壊され、形をとどめているものはごくわずかである。その中にあって、この古墳はその原形を良く残している唯一のものであり、貴重である。
 古墳の形は円形(円墳)で、直径25m以上のものである。墳丘のまわりには周堀がめぐらされていると考えられるので、それを入れると直径30mは超えるものと推測される。遺体を納めた墳丘内部の様子は未調査のため明らかではないが、横穴式石室と思われる』
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 二の鳥居。
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 一の鳥居には牛頭天王宮、二の鳥居には正一位稲荷大明神と刻まれた石の額が掛けられている。
『上大屋上組には、木のお宮の稲荷神社がある。もとは伊藤一家の稲荷様であったが、先代のときにむらへ寄付したという。その後大胡神社へ合併したが、内緒でこちらでもまつっているものである。祭日は二月二日。子どもが燈籠をつけている。

 上大屋の上組では牛頭天王(天王様)をまつっている。もとは上大屋の鎮守様であった。木のお宮がある(合併してご神体はない)。
 祭りは大胡の祇園と同じ七月二十七、八日。四月一日には神主におがんでもらって、幣束をきってもらう。
 上大屋では天王様をまつっているのでキュウリがつくれなかった(戦争が終ってからは、戦争に負けたのだから、そんなことはないだろうというのでキュウリをつくりはじめた。それまではどこの家でもつくらなかった。親類などからもらって食べていた)。キュウリをつくれない理由としては、むかし天王様がキュウリが食べたくなったのでキュウリばたけへ入ったところ、棒で目をついたためともいうし、また、殿様が戦争のときにキュウリばたけへ逃げこんだところ、キュウリのて(支え棒)で目をついたためともいっている。
 なお、下組には観音様がまつってある。ご縁日は七夕のときで、むら中でまつった。このとき子どもが燈籠をつけた』
(「大胡町誌」より抜粋)

『群馬縣管下上野國南勢多郡上大屋村字八ヶ峯
 無格社 稲荷神社
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 保食命
一、由緒 不詳

 群馬縣管下上野國南勢多郡上大屋村字天王山
 村社 八坂神社
  明治四十二年六月五日許可、同村大字河原濱村字根古屋村社近戸神社ヘ合併、村社大
 胡神社ト改称セリ
一、祭神 素盞嗚尊
一、由緒 不詳
一、境内末社 三社
 八幡宮   祭神 譽田別尊
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 菅原神社  祭神 菅原道真公』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

 上記の内容がこちらのことであるのか確証は無いが、上大屋の稲荷社と八坂社に関する記述はこれくらいだろうか。
 それはそれとして、樋越町にも牛頭天王が胡瓜の支え棒で目を突いてしまったことから胡瓜を作らなくなったという言い伝えがあると言うことなのだが、同様の言い伝えは以前参拝した文京町の八坂神社にも残っている。ググってみると、内容に多少の差異はあれど牛頭天王を祀る地域では胡瓜を作らないという話は割とメジャーであるようだ。
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 稲荷社。
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 末社。
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 これも末社……かな? 祠の残骸らしきものはあるが。
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泉澤神社(泉沢町)

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 天台宗円明寺の西隣に鎮座する泉澤神社(前橋市泉沢町41)。
 神社前のゲートボール場脇に駐車したが、西側の道から境内に乗り入れることもできる。
『群馬縣管下上野國南勢多郡泉澤村字山崎
 村社 泉澤神社
一、祭神 大日孁命
     須佐之男命 和久産巣日命 倉稲魂命 大物主命
一、由緒 當社ノ義往古ハ本村内ノ東南隅ニアリシヲ中昔今之地ニ移ス、故ニ元ノ地ヲ村
    主ト云フ、彼地ヨリ冷泉少シク湧出ル、此水ヲ以テ眼病ノ者眼中ヲ洗ヒハ眼病自
    然ニ治ス、亦服藥スルモノハ此水ヲ以テ服藥スレハ病速ニ愈ルト古ヨリ言傳リ、
    里人彼ノ水ヲ称シテ御神水ト云フ、今モ病者服藥ニハ尊ヒ用ユ
     明治四十三年八月四日許可、字丸山無格社稲荷神社、仝境内末社三社、字寺東
    無格社稲荷神社、仝境内末社一社、字新井無格社稲荷神社、字谷津無格社稲荷神
    社ヲ合併セリ
     大正六年十一月十六日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社
    トシテ指定セラル
一、境内末社 四社
 雷電神社  祭神 大雷命
 山神社   祭神 大山祇命
 天神社   祭神 菅原道眞公
       明治四十三年八月四日許可、字谷津無格社稲荷神社、境内末社菅原神社ヲ
      合併セリ
 秋葉神社  祭神 火産霊命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居。
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 拝殿。
 変わった形の屋根をしている。まるで耳当ての付いた帽子のようだ。
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 社殿裏に末社群。
 左奥の二基は不明。左から三つ目の石祠は天神宮。享保二十乙卯年(1735)正月の造立。右端は猿田彦大神。その左の石祠は村主大明神。享保十乙巳年(1725)十一月の造立。
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 大黒天。
 奥の石祠は不明。
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 東の鳥居。
 鳥居のそば、円明寺山門脇には薬師如来祠がある。

筑波山神社(二之宮町)

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 真言宗豊山派筑波山来迎院無量壽寺(前橋市二之宮町甲764)入口脇にある塚の頂に鎮座する筑波山神社
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 階段が設置されており、上るのは楽。
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 階段の上り口のそばに庚申塔と石祠一基。石祠の中には石仏が納められているのが見えた。
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 左側の大きな石祠の額には富士山、右の小さな石祠の額には筑波山と刻まれている。
 また、筑波山神社の側面には明治九子年と刻まれているので1876年のものとわかる。ところで、筑波山神社と言うことは御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊になるのかな。
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 筑波山社の右側にはよくわからん石像と御嶽蔵王大権現。
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 平和観音。
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 平和観音の台座に設置された供養塔建立文。
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 以上で12月6日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA FISH-EYE 10-17mm、FA31mm、FA43mm、FA77mm。X30。
 こちらの前に二之宮赤城神社にも参拝しようと思い立ち寄ってみたのだが、鳥居の低い場所や随神門に細い注連縄が張り渡されており、またよく見てみると拝殿前にも細い注連縄が張られ、十二月十日まで御神事中と書かれた看板も置かれていたので、これはもしかしたら玉村町の火雷神社の麦蒔御神事のように、一定期間中は境内への立ち入りが禁止される御神事かと思い今回は参拝せずに引き上げ。帰宅後に調べてみたら、四月と十二月の二回、三夜沢赤城神社まで御神幸する神事があるそうなので、丁度その期間に当ってしまったのだろう。まぁ、また後で行ってみることにしよう。

駒形神社(駒形町)

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 群馬県道104号駒形柴町線に面して建てられた、駒形神社(前橋市駒形町758)の一の鳥居。
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 二の鳥居。
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 狛犬。
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 三の鳥居。
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 手水舎。
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 拝殿。
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『駒形神社略記
鎮座地 前橋市駒形町七一○番地
御祭神 保食命
    大己貴命 大物主命 菅原道真公 伊弉那岐命
    伊弉那美命 火雷命 武御名方命 須佐之男命
由緒 本社の鎮座するこの地は、古くは利根川本流の西岸に位置し、広漠たる原野の中に
  駒形社一社のみあり、駒形大明神と称し、祭神は保食命で、食物、農耕守護の神とし
  て信仰された。上野名跡考では「駒形とは野の神、山の神、水の神、土の神の社地よ
  り浄き土を採り、駒形を造り、野馬守護のためこの四神を祀る」と誌す。境内は馬蹄
  形をなし源頼朝の愛馬「磨墨」の蹄と伝えられるものが御神体の一部にある。
   勧請年月は、元亀元年(一五七○年)と伝えられる。「上野国郡村誌」
   神仏混淆時代は小屋原町の天台宗泉蔵寺に属していたが、慶安年間(一六五○年)
  頃東善養寺村(現前橋市東善町)より数戸、この地へ移転して以来、漸次戸数の増加
  により社殿を改築し、別当「山伏修験本明院」を設け駒形の氏神とした。
   社殿は宝暦七年(一七五二年)に改築したが、現在のものは明治三十八年十月の新
  築である。明治四十年十二月、本社境内末社三社(八坂社、稲荷社、秋葉社)並びに
  町内字東高島鎮座琴平神と、その境内末社四社(八坂社、稲荷社、秋葉社、菅原社)
  及び町内字桃井鎮座の雷電神社と、その境内末社三社(八坂社、三峯社、諏訪社)を
  駒形神社本社に合併した。
   大正三年十月九日、群馬県より神饌幣帛料供進神社に指定され村社となる。
   昭和二十年神社官制廃止に伴い、同年十二月「宗教法人駒形神社」となる。
年中行事
 歳旦祭      一月一日
 勧学厄除等祈願祭 一月二十五日
 春季例祭     四月五日
 八十八夜祭    五月二日
 祇園祭      七月二十四日・二十五日
 秋季例祭     十月十七日
 七五三祭     十一月十五日
 大祓祭      十二月三十一日
境内社   伏見稲荷社、水天宮社、山神社、八幡社
社 殿
 本 殿  木造一間社流造三方高欄付銅版葺  三、○六平方米
 幣 殿  木造平屋建切妻瓦葺        八、七七平方米
 拝 殿  木造入母屋瓦葺正面唐破風向拝柱付 三○、五二平方米
 神楽殿  木造平屋建瓦葺          三七、八三平方米
宝 物   牛頭天王獅子頭一対(前橋市指定有形民俗重要文化財)
境 内   二一四○平方米(前橋市指定保存樹林)
氏子崇敬者 九○○戸
平成六年五月吉日』

『群馬縣管下上野國南勢多郡駒形町字東宮
 村社 駒形神社
一、祭神 保食神 須佐之男命
     大己貴命 大物主命 菅原道眞公 伊邪那岐命 
     伊邪那美命 大雷命 武御名方命
一、由緒 當地開墾之前原野ニ一社宇アリト、因テ地名ヲ駒形ト云ウ、旧社ニシテ勧請年
    月不詳
     明治四十年十二月二十五日許可、本社境内末社八坂神社、稲荷神社、秋葉社及
    仝村字東高嶋無格社琴平神社、仝境内末社四社、仝村字桃井無格社雷電神社、仝
    境内末社三社ヲ合祀セリ
     大正三年十月九日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
    テ指定セラル
一、境内末社 六社
 八坂神社 明治四十年十二月廿五日本社へ合併
  祭神 須佐之男命  由緒 不詳  石祠 間口壱尺六寸五分 奥行弐尺壱寸五分
 稲荷社  明治四十年十二月廿五日本社へ合併
  祭神 保食神    由緒 不詳  石祠 間口壱尺 奥行壱尺三寸五分
 八幡社
  祭神 譽田別命   由緒 不詳  石祠 間口壱尺 奥行壱尺四寸
 山神社
  祭神 大山祇命   由緒 不詳  石祠 間口壱尺 奥行壱尺四寸
 秋葉社  明治四十年十二月廿五日本社へ合併
  祭神 大己貴命   由緒 不詳  石祠 間口壱尺 奥行壱尺四寸
 水天宮社
  祭神 豊玉姫命   由緒 不詳  石祠 間口壱尺六寸 奥行弐尺三寸五分』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『駒形町の駒形神社については、駒形新田の成立と関連して、その由来が語られている。承応元年(1652)の「駒形新田由来」や宝永七年(1710)の「駒形大明神之覚」などに、駒形神社の成り立ちが記されている。それによると、駒形の町は慶安元年(1648)に東善養寺村の四名の者が、今の駒形の地に移り住んで新田を開発し、その後、慶安四年(1651)に至って家数が十四軒になり、村としての体裁をなしたので、村役を選び、村の守護神としての氏神を祀るようになった。はじめ東善養寺村の鎮守山王様を祀っていたが後に駒形大明神を祀ることにした。
 この駒形大明神は小屋原の泉蔵寺持の神社であったが、駒形新田には氏神様がないというので、駒形新田の名主(三郎右衛門)が泉蔵寺と相談して、この神を駒形新田の氏神としてもらい受けたという。時に宝永七年のことであった。明治四年の「神社明細帳」によると、祭神は保食神とある。また、明治十年の「村誌」には豊受姫命とある。稲荷神社の祭神である保食神と豊受姫命は同神であるというから、駒形神社は稲荷神社ということになろう。
 なお、駒形神社の別当所として、駒形新田にあった本山山伏天台宗本明院があてられている(駒木神官はもと本山修験)。

 駒形神社の境内には天王様が祀られている。天王様のご神体を安置する神輿は、毎年当番町に安置されていたが、交通事情の変化により現在では駒形神社に安置されている。祭礼は毎年七月二十四・五日の両日に行なわれていたが、町民の事情によって、現在では七月二十五日に近い月末の日曜日に変更されている。天王様は別項に記すように古い由来をもっている。
 駒形町には駒形神社、雷電神社、琴平神社の三社がある。別項の明治十二年の「神社明細帳」によると、雷電神社は桃井にあった。祭神は大雷命、「明細帳」に由緒として「当地開墾ノ前原野ニ社宇アリト云、勧請ノ年月不詳」とある。明治四十年十二月二十五日駒形神社に合併』
(「木瀬村誌」より抜粋)
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『祓詞
掛介麻久母畏伎伊邪那岐大神筑紫乃曰日向乃橘乃小戸乃阿波岐原尓御禊祓閉給比志時尓生里坐世留祓戸乃大神等諸乃禍事罪穢有良牟乎婆祓閉給比清米給閉登白須事乎聞食世登恐美恐美母白須』
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『前橋市指定有形民俗重要文化財 牛頭天王の獅子頭一対
1.指定年月日  昭和57年4月26日
1.所 在 地  前橋市駒形町710
1.管 理 者  駒形神社
 この獅子頭は、厚さ4cmの桧材5枚で作られ朱の漆が塗られている。駒形町は、江戸時代、藩主酒井氏の命により町づくりがはじまったといわれる。しかし、大勢の人を寄せて町づくりを行うことは、決して容易なことではなかった。そこで、駒形住民統合の象徴としてこの牛頭天王をまつり、住民の団結をはかったのである。祭りは住民合議の上、6月14日を例祭日と定め駒形宿を下から上まで巡行し、そこで獅子頭を韮川に流し、下へ行って拾い上げ、これを何回もくり返した。こうした行事が1812年頃より明治末年まで約100年間続けられた。勇壮闊達な行事と共に歩んだこの町の歴史をしのばせる貴重な文化財である』
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 八坂神社、天神社、三峰神社、大国主命。
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 末社群。
 左の三つと双体道祖神左の文字碑には猿田彦大神と刻まれている。
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 双体道祖神。
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 末社。
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 駒形伏見稲荷神社。
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 御嶽山三柱大神と石祠。
 これらの前には塀が建てられているので、塀越しにライブビュー撮影。やはりチルト液晶があると便利だ。
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 神楽殿。

日枝神社(山王町)

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 山王町交差点から西へ向かうと、突き当たりに日枝神社(前橋市山王町14-2)が鎮座している。
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『日枝神社略記
一、鎮座地  前橋市山王町十四-二番地
一、祭 神  大山咋命
       大年神の御子、近江国(滋賀県)比叡山を主宰し古代西近江山城地方の北
      部を開拓し王城鎮護の神として、又酒造の守護神としても多くの酒造家の信
      仰を得る。
一、境内神社
 神明神社  祭神 大日孁貴命
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 菅原神社  祭神 菅原道真公
 厳島神社  祭神 市杵島姫命
 赤城神社  祭神 大己貴命
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
 愛宕神社  祭神 火産霊命
 石司神社  祭神 天思兼命
 熊野神社  祭神 櫛御毛野命
 八坂神社  祭神 素盞嗚命
一、由緒 貞観二年(清和天皇の御宇858年)嵯峨天皇の皇子、二品親王忠長郷が上野国
 大守に任ぜられたのを祝して九ヶ村の郡民相議り、社殿を造り近江国に鎮座の日吉山王
 大権現を遷祀して産土の神と仰ぎ安心立命と天下泰平五穀豊穣を祈ったのが本神社の興
 りである。
  当時この社地周囲の稲の収穫凡そ二百万把を山王と称し貞観七年(865年)阿部真行
 が上野介に任命されて水田数町歩を献じて神田としたと言われ現に神田の小字名を残し
 ている。
  文治二年(1186年)足立盛長が参詣して鰐口一ヶを奉献し建久七年(1196年)には
 源頼朝が参詣して三百余町歩を寄進、国家安全の祈祷をしたと言われる。その後は応仁
 の乱に当地も戦場と化し天文年中に至って兵火に罹って社殿僧房旧記の殆どを焼失した
 が永禄年間に漸く社殿を再造して僅かに旧態を保った、現存の本殿は実にこの時の建築
 である。
  近世に下っては慶安二年(1649年)徳川家光は朱印を以って神田五十四石を献じ又歴
 代の前橋藩主は祭祀料を献じ度々社殿、玉垣等の修復を行った。
  近代に至っては明治元年(1868年)神佛分離の令によって社僧、別当は廃止され神田
 は国へ返還し国家の管理の下に置かれ社名も村社日枝神社と改称された。
  明治四十二年国の方針により神社の合祀が行われ当時の佐波郡上陽村大字中内鎮座村
 社稲荷神社仝村大字東善鎮座無格社菅原神社、仝村大字西善鎮座村社稲荷神社並びに無
 格社菅原神社、神明神社及びその境内社を当神社の境内神社として移転合祀した。
  昭和二十一年十一月三日、日本国憲法の公布により神社は国家の管理を離れ宗教法人
 として発足し現在に至る。
一、社殿
 本殿 木造桧材二重椽木三間社造銅版葺 面積13.0㎡(3.9坪)
 幣殿 木造平屋建銅版葺 面積17.5㎡(5.3坪)
 拝殿 木造二重椽木入母屋造銅版葺 面積34.6㎡(10.5坪)
一、境内 二、四三二㎡(二反四畝一四歩)
一、年中行事
 元旦祭  一月一日
 春季例祭 四月十四日(現在は四月第二日曜日)
 秋季例祭 十月十七日
一、特殊神事
  陰暦四月中の申の日に行った就農神事と秋九月九日を中心に行った大捷還城楽擬式と
 いう勇壮な神事が有ったが昭和初期を最後に絶えた。
  今は秋季例祭に注連切りの神事を行い僅かに昔日の俤を残す。
一、修復工事
 平成三年社殿塗装修復工事完了
 平成十七年社殿(拝殿、幣殿)屋根銅版葺き替え修復工事完了
一、氏子戸数 約3,000戸』
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 拝殿。
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 拝殿の彫刻。
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 社殿裏に設置された金属製の祠とそれに納められた御幣。
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 神楽殿……なのかな? 右のものは間違いなく神楽殿なのだが、左のこれは、うーむむ、旧神楽殿なのか、大捷還城楽擬式で使われた神楽殿なのか。
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 山王天満宮。
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 その隣に厳島神社。
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 山王天満宮と厳島神社の間に石祠二基。
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 日枝神社々殿裏の末社。
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琴平神社(駒形町)

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 広瀬川に架かる琴平橋の南西100m程の位置に鎮座する琴平神社(前橋市駒形町11)。
 駐車スペースは無いので、北側の農道脇に駐車して素早く参拝。
『琴平神社は「明細帳」によると、東高島にあった。祭神は大物主命で、由緒としては、「元禄元辰年勧請スト云フ」とある。明治四十年に駒形神社に合併したが、のちに駒形神社と分離して、八坂神と一緒に現在地に移った。その理由として、次のように伝えられている。もともと他の社のないところに祀られていた琴平様が、社のあるところ(駒形神社)へ祀られるのは「気があわない」というので、現在地(旧社地は処分された)へうつったものという。
 現在では、琴平様は、駒形町一・二丁目と桃井町の人たち(十一、二十一、二十二、二十三組)によって祀られている。地域の守護神としての役割を果たしているという。祭日は琴平様が一月九・十日、八月九・十日。八坂様は七月二十四・二十五日(現在では七月の最終の日曜日)、駒形町の祇園と一緒に屋台をくりだして祀っている』
(「木瀬村誌」より抜粋)
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 参道左手側に道祖神。
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 中央に琴平神社。琴平神社には大天狗・小天狗の文字も刻まれている。
 左には庚申塔と八坂神社。琴平神社脇の石祠は何神社なのかわからないが、もしかしたら稲荷社かも。
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 猿田彦大神。
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 琴平神社の裏に天満天神社と石祠三基。
 駒形神社の由緒書きには、こちらの琴平神社の境内社として八坂社、稲荷社、秋葉社、菅原社の四社があったと記されているので、そのいずれかなのかも知れない。
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今井神社(今井町)

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 荒砥川の東岸、御蔵橋の南東350m程に位置する前方後円墳々頂に鎮座する今井神社(前橋市今井町818-3)。
 川岸から西側に回り込めば境内に乗り入れられるのだが、生憎そちらに通じる道が工事の為通行止めされていたので、神社前のスペースに駐車。
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『今井神社
一、所在地  前橋市今井町白山東八一八
一、御祭神  菅原道真公 他五柱
一、例 祭  祈年祭 四月八日  感謝祭 十二月八日
一、由緒・沿革
 本社(天満宮)御祭神菅原道真公を嘉禄元年(皇紀一八八五年)七月二十五日勧請
 明治四十年八月二十九日字三木堂の赤城神社を合併し今井神社と改称す
 境内社 稲荷神社 熊野神社 琴平神社 愛宕神社
 境内敷地 五一○○㎡
 当社は古代日本の七街道の一つ東山道に面して高い古墳の上から村を守ってくれて居る北向の神社としても知られている。
 学問の神様として学生さんや子供さんの厚い崇敬を集めています
 神社の裏の古墳上に利根左岸十三仏の内の観世音菩薩が祀られて居ます』

『群馬縣管下上野國南勢多郡今井村字白山東
 無格社 菅原神社 村社 今井神社
一、祭神 菅原道真公
     大穴牟遅神、宇迦之御魂神、奇御氣沼命、大屋津姫命、枛津比賣命、
     大物主命、櫛御氣野命
一、由緒 嘉禄元乙酉年七月廿五日勧請
     當社元菅原神社ニ明治四十一年八月二十九日許可ヲ得テ荒砥村大字今井村字北
    三木堂ニ奉祀ノ村社赤城神社、琴平神社及境内末社稲荷神社、熊野神社、琴平神
    社、愛宕神社、菅原神社ヲ合祀シ、村社今井神社ト改称シタリ
     大正七年二月十五日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
    シテ指定セラル』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
 村社に無格社を合祀するのではなく、無格社に村社を合祀して村社に格上げするのって珍しいような気がするけど、どうなのかな。
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『市指定史跡 今井神社古墳
指定年月日  昭和56年4月27日
所 在 地  前橋市今井町818
管 理 者  今井神社
 この古墳は、全長71mの前方後円墳で、前方部幅50m後円部直径44mである。かつてこの古墳の周辺には、15基の古墳が築造され、本古墳は荒砥地区にあった大古墳群の西端にあたる。昭和55年に実施した範囲確認調査によると墳丘周囲には馬蹄形の周堀がめぐり、これを含めると全長は約90mになる。また多数の円筒埴輪も出土しており、墳丘上に配列されていたことがうかがえる。主体部は、社殿建立の際掘り出され「組合せ式石棺」と思われる石棺の一部が残存している。こうしたことから、本古墳は荒砥地区にあって古い古墳に属し5世紀代の築造と考えられる』
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 大土御祖神。
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 石段左側に石祠一基と征清紀念碑。右側に大圀主神。
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 石段を上り、墳丘の中腹へ。
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 石段左側に…えーと? 脇侍がいるから阿弥陀三尊か釈迦三尊かな。よく見ると印の形が禅定印のようだし、多分阿弥陀三尊だろう。
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 右側には天満宮の額と石祠一基。
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 石祠の中に納められた石仏らしきものは、はて、なんだろう。馬頭観音かな?
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 後円部墳頂の拝殿。
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 社殿裏から。
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 裏に回ると、前方部の墳頂に北向観音の祠が見える。
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 北向観音。
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 北向観音裏から下りて行くと、南を向いた祠が鎮座している。何神社なのかはわからなかったが、中には陶製の小さな狐が置かれていたので、稲荷社なのかも知れない。
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 その祠のすぐ脇、石柱が半ば土と草に埋もれているが、よく見ると「子育観音」「嘉永四亥歳」の文字が刻まれているのがわかる。嘉永四年と言うことは1851年だ。
 上の方に見えるのは北向観音。
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 墳丘の周囲には石祠がいくつか鎮座しているが、社名が確認できたのは金比羅宮のみ。
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 石仏も半ば埋もれかけている。お地蔵様かな。
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