雷電神社氷川神社(北区今羽町)

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 今羽駅の400m程北、大正製薬の隣に鎮座する雷電神社氷川神社(さいたま市北区今羽町573)。
 鳥居の柱には平成十八年九月十九日再建、幟枠には明治七甲戌年十一月吉日昭和六十二年十二月吉日再建と刻まれている。
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 拝殿。
 側面には赤文字で落書きされていたが、神社に落書きをする感覚は理解できないなぁ。
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 本殿。
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 諏訪社と琴平社。
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 この写真ではわかり難いが、ここだけこんもりと盛り上がっていた。以前はこの上に何か建てられていたのだろうか。
 奥に見える白い石碑には高松長傅之碑とあり、安政から明治にかけて生きた高松長傅と言う陸軍軍人のことが記されている。他には忠魂碑や伊勢太々御神楽碑、昭和五十四年十月に建てられた雷電神社拝殿新築記念碑などがある。

 以上で4月25日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、FA31mm、FA50mm、FA77mm。X30。
 この日の歩数は24,825歩。
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八雲社(北区今羽町)

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 浄土宗自在山実相院真福寺の参道入口脇に鎮座する八雲社(さいたま市北区今羽町105)。

庚申社(北区今羽町)

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 熊野社の北90m程、十字路脇に鎮座する庚申社(さいたま市北区今羽町)。
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 側面には寶暦六己丑十月吉日と刻まれているので1709年の造立。

熊野社(北区今羽町)

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 今羽駅の東180m程、今羽町自治会集会所の南側に鎮座する熊野社(さいたま市北区今羽町41)。
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 祠に掛けられた額には熊野社と稲荷社の名が並んで記されている。

吉野神社(北区吉野町一丁目)

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 埼玉新都市交通伊奈線今羽駅の西南150m程の位置、加茂神社通りに面して鎮座する吉野神社(さいたま市北区吉野町1-21-8)。
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『吉野神社
御祭神
 一、鹿島社 武甕槌大神
      必勝祈願、地震除け、疫霊退散の神
 一、金山社 金山彦神
      物造りの神、金運上昇の神、子授け、夫婦円満の神
 一、天神社 菅原道真公
      学問の神様
      特に文字・詩歌・書道の神として尊信されている
摂社
 一、浅間社 木花開耶姫命
      お子様の健やかな成長を見守っていただく神
 一、稲荷社 宇迦之御魂神
      商売繁盛、五穀豊穣の神
 一、八幡社 応神天皇
      家内安全、必勝祈願、交通安全、合格祈願、お宮参り、厄除け
 一、八雲社 牛頭天王
      疫病を司る神、厄除け
 一、庚申様 猿田彦大神
      身体健康、延命長寿、病難除去、生業豊作の守り神』
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 拝殿正面。
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 狛犬。
 台座には平成二十四壬辰年十月吉日と刻まれている。鳥居なども同年同月の建立とあるので、境内全域を二年半前に整え直したようだ。
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 社殿斜めから。
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 稲荷社。
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 左から牛頭天王、不明、八幡宮、浅間大明神。
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 庚申社。
 額には猿田彦大神とある。青面金剛には元禄十三庚申天八月二十五日と刻まれているので、1700年の造立。

八幡宮天神宮(北区吉野町一丁目)

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 加茂神社通りの一本南側、ジャパンミート卸売市場脇の道端に鎮座する八幡宮天満宮(さいたま市北区吉野町1-334-3)。

加茂神社(北区宮原町四丁目)

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 JR高崎線宮原駅の500m程北、埼玉県道164号線脇に鎮座する加茂神社(さいたま市北区宮原町4-8-1)。
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『鎮守 加茂神社
鎮座地 大宮市宮原町四丁目八番地の一
御祭神 別雷命、倉稲魂命、伊弉諾命
    伊弉冉命、菅原道真公
    境内に別に伊弉諾命、伊弉冉命を祀る三峯神社があり、素盞嗚尊(俗に天王さま)
   を祀る神輿殿があり御神輿が納められてゐます
祭典日 元旦祭         一月一日
    春祭(祈年祭并初午祭) 三月初午日
    夏祭(祇園祭、天王様) 七月十五日
    例大祭         十月五日
    秋祭(新嘗祭、感謝祭) 十一月二十八日
御由緒 当神社の御創立は文化七年徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加
   茂社、加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請
   の年代詳かならず」と記されてゐるが社前に寶暦三年四月、弘化二年十二月と刻ま
   れたもの又、文政十年八月御迁宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎮座であ
   ることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷
   神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて来ました。
   幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌りその妻女が遽かに
   産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰
   着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御礼の為奉納したという幣帛は現
   存しています。昔から生産、安産守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮
   村、鍛冶村を始め近郷からの参詣も多い。明治四十一年附近数社を合祀して翌四十
   二年神饌、幣帛供進の神社として改めて村社に指定されました。祭神の合祀により
   衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増え
   ました。大正八年不幸拝殿を焼失しましたが本殿は御神威により御安泰であったの
   で当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以
   来六十年、神楽殿も古びて危險となり、そのうえ社務所も時代の進展につれ手狭で
   不便となったため此の度氏子総代人等相謀り氏子一同の賛意を得てこゝに昭和の大
   造営が遂行された次第であります。
 昭和五十五年四月』
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『加茂神社 御由緒
 さいたま市北区宮原町四‐八‐一
□歴史
 当地は「風土記稿」によると、「昔より加茂社の建る地なれば、ただちに村名とす」とあり、また天正十年(1582)の「成田分限帳」に「三十六貫文武州加茂宮多門兵衛」と記されている。
 当社は、加茂宮村を縦貫する中山道の側に鎮座する。江戸期の浮世絵師、渓斎英泉の描いた「木曾街道上尾宿」の図には、緑深い森の中から「加茂大明神」の幟旗が掲げられている。
 創建年代は不詳であるが、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請したものと伝える。「風土記稿」は、当社を「延喜式」神名帳記載の足立神社とする説があるが正しき証左なしと否定している。
 別当は、真言宗吉祥院で、雙樹山大恵寺と号す。本尊は薬師如来像を奉安する。
 「明細帳」によると、明治六年四月に村社となり、同四十年五月、大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内末社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、同四十一年七月、字原殿の無格社稲荷社を合祀した。
 大正八年十月、拝殿は焼失したが本殿の類焼はまぬがれた。本殿は一間社流造り、壁面には賀茂別雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている。なお、境内にある文政十年(1827)八月の石灯籠には、「御遷宮本社再建立」とある。
□祭神
・別雷神
□祭祀
・歳旦祭(一月一日)・初午祭(三月初午)・夏祭り(七月十四日、十五日)
・例祭・お日待(十月四・五日)・新嘗祭(十一月二十八日)』
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 一の鳥居と小さな狛犬。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 本殿。
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 本殿脇の狛犬。
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 本殿背面の彫刻。
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 本殿側面の彫刻。
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 三峯神社。
 脇の石灯籠には「奉納稲荷大明神」「文化九申十一月吉日」と刻まれている。文化九年は1812年。
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 神輿殿。
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 神楽殿。
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 改築記念碑、戦利兵器奉納碑、神社合祀碑。
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 裏手から。

南方神社(北区吉野町二丁目)

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 埼玉県道164号鴻巣桶川さいたま線吉野町交差点の北側に鎮座する南方神社(さいたま市北区吉野町2-25-4)。
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『南方神社
 鎮座地  さいたま市北区吉野町
 御祭神  建御名方命 軻遇突智命
      大雷命   倉稲魂命
      素盞嗚命  天照大御神
      手力雄命  金山彦命
      火産霊命  木花咲耶姫命
 年中行事 元旦祭   一月一日
      春祈祷祭  三月二十七日
      例祭    八月二十七日
      お日待祭  十月九日
 御神紋  梶の葉』
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『南方神社由緒
 当社は往古、信濃国一之宮諏訪大社の大神を吉野原の村人が村の鎮守として勧請したものであると伝える。鎮座地の地名「鈴木」は中山道の側にあり樫が鬱蒼と生い茂ることから、夏も爽やかな風の通る涼木に由来する。主祭神は「明細帳」に「建御名方命」と載る。社名「南方」は主祭神建御名方命にちなむものであるとともに諏訪湖を現わす「水潟」にゆかりがある。
 境内にある手水鉢の銘文には「武州足立郡吉野原村字鈴木惣氏子中文政十三寅年(1830)七月吉日」とある。これは寅と申の年、すなわち七年目ごとの寅と申の年に行われる諏訪大社式年造営の御柱祭に合せて造ったものである。
 別当は「風土記稿」に「不動院持ち」とある。不動院は、村内の真言宗清浄院門徒で、同寺住職の隠居寺であった。
 造営は、文久年間(1861~1864)に社殿の改修が行われた。このとき本殿・拝殿の形式を整えるために、覆屋を拝殿とし、更に、参拝者の便に供するために唐破風屋根を付けた。
 明治四十年五月二十二日、「明細帳」によると、大字吉野原神山無格社の愛宕雷電稲荷合社と境内社八雲社・明神社・女神社、大字大谷別所字山王前の無格社八雲社、字神明無格社の神明社、字稲荷村社の稲荷社と境内社雷電・金山・竃神合社・浅間社を当社に合祀し南方神社とした。平成三年三月には、御大典を記念し、氏子の浄財をもって当時の拝殿を残し、新たに幣殿と本殿、平成二十一年伊勢式遷宮に合わせ鳥居・境内整備の造営を加える』
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 拝殿。
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 本殿。
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 神輿庫かな?
 奥の方でなにやら作業をしていたが、山車でも造っていたのだろうか。

武国神社(北区奈良町)

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 大宮奈良郵便局の西100m程の位置に鎮座する武国神社(さいたま市北区奈良町158-1)。
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 狛犬。
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 拝殿。
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『武国神社 御由緒
 さいたま市北区奈良町一五八‐一
御縁起(歴史)
 奈良瀬戸は、江戸時代には大谷領、更に古くは吉野領に属したと伝えられる。その地内には、大宮市内における縄文時代の代表的な遺跡の一つである奈良瀬戸遺跡があり、昭和三十六年以降三度にわたる発掘で、土器や石器など膨大な遺物が出土している。
 通称を「氷川様」というように、当社は元来は氷川神社と称し、奈良瀬戸村の鎮守として祀られてきた社である。「風土記稿」奈良瀬戸村の項に「氷川社 村内の鎮守なり、宝性寺持」と記されているのがこの氷川神社で、由緒については詳らかではないが、村の開発に伴い、武蔵国一宮の氷川神社を勧請して祀ったものと推測される。一方、別当の宝姓寺は普門山満蔵院と号し、阿弥陀如来を本尊とする真言宗の寺院で、壮麗な堂宇や風致ある庭園があったという。しかし、神仏分離の後、明治五年の「維持困難な寺院仏堂は廃すべし」との太政官布告によって廃寺となった。現在の観音堂は、その跡地に建立されたものである。また当社境内の稲荷社は宝姓寺で祀っていた社である。
 氷川神社は明治六年に村社になり、政府の合祀政策によって明治四十年に大字吉野原(現吉野町)の金山社・天神八幡社・鹿島社を合祀し、これを機に武国神社と改称した。社名については、特に伝えはないが、前身の氷川神社が武蔵国一宮の分霊であることに由来すると思われる。なお、金山社と鹿島社は太平洋戦争後に吉野原に戻された。
御祭神と御神徳
・素戔嗚尊・・・武運長久、厄除け、商売繁盛
御祭日
・元旦祭(一月一日) ・夏祭り(三月二十八日)』
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 本殿。
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 稲荷社。

稲荷神社(北区別所町)

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 八雲神社の西400m程の位置に鎮座する稲荷神社(さいたま市北区別所町94)。
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 境内。
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 拝殿。
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 お狐さま。台座には昭和四年二月六日と刻まれている。
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 八幡社。
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 三神社。
 三社を祀っているから三神社なのはわかるが、それぞれは何神社なのだろう? いずれも陶器の狐が置かれていたし、全て稲荷社なのだろうか。
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 富士塚。
 鳥居脇の祠は下浅間社。
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 小御嶽石尊大権現。
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 塚の頂には富士仙元宮。

八雲神社(北区別所町)

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 庚申公園の北側、別所町自治会館横に鎮座する八雲神社(さいたま市北区別所町69)。
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『八雲神社再建の由来
 當神社は嘉永五壬子年二月吉辰別所邑と称された頃山王耕地弐百六拾五番地に境内地として弐畝五歩を定め鎮座せられ尚山林壱畝弐拾七歩を所有せる氏子の悪疫防除の神として尊崇されたのである。
 然るところ昭和二十年八月十五日終戦、次いで昭和二十一年神社佛閣の宗教法人の登記をなすべき命令があったがその措置のないまま昭和三十九年大宮市別所奈良団地の宅地造成の埋立用として社殿敷地の土地売却の際実測の結果増歩を発見、その登記を申請した処、別所八雲神社は廃社で土地は国有地となっているため国の許可なく処理できないので、已むなく浦和地方裁判所の指示を受くることとなり、その手続中昭和四十一年九月二十五日の台風により社殿倒壊、取壊しの外なきに至り氏子一同協議の結果再建のことに意見一致し、種々方途を講じた。その間大宮市の宅地造成に協力するため八雲神社の御神体並びに神輿は當町鎮守稲荷神社に仮遷宮し、社殿の竣工を待った。
 なお自然廃社により国に帰属した神社敷地は宗教法人の觧散と見做し清算人によって処理するよう裁判所より指示があったのでその手続として清算人の選任申請を宮司今井博夫氏に委嘱、同氏より當町須賀大作氏を申請、浦和地方裁判所長の認定指示を受けた。
 氏子一同、清算人とともに境内地並びに山林を売却し、北部土地区画整理地(七○○・九㎡)を買収し、この地を八雲神社の境内地と定めここに再建遷宮することとなった次第である。
 昭和四十五年七月七日』

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 八雲神社の目の前、庚申公園の端には庚申社(さいたま市北区別所町67)。
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 中を覗くと、仕切の左側に青面金剛。右には迦具土命、月■■と書かれた木札。そして猿の置物と絵馬が見える。月云々は月読命だろうか。
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浅間大神(北区吉野町二丁目)

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 つつじケ丘公園内に鎮座する浅間大神(さいたま市北区吉野町2-2-213)。
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 鈴原神社と……うぅん? なんて読むんだこれ。亀般? とか、なんとか。
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 こちらは読める。奥から宍野半霊神、阿夫利祠、食行霊神。
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 浅間大神。
 背面には「明治十八秊乙酉六月一日 講長訓導 清水儀三郎建之」とある。明治十八年は1885年。

八雲神社(大谷本郷)

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 上尾市立大谷小学校の北側に鎮座する八雲神社(上尾市大谷本郷)。
 こちらの詳細は不明。
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 末社。
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 幟竿枠の側面に貼られた紙には「この熊野社は大谷本郷地区住民の大切な由緒ある鎮守様です」と書かれているのだが、あれ? 熊野社? 八雲神社じゃないのか、ここ。もしかしたら八雲神社と熊野神社が合祀されているのかも。

白雲神社(大谷本郷)

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 埼玉県道165号大谷本郷さいたま線の脇、大谷本郷自治会館横に鎮座する白雲神社(上尾市大谷本郷)。
 由緒書きは見当たらず、ググってみても情報無し。京都の白雲神社と同じであれば御祭神は市杵島姫命になるのだが、どうなのだろう。
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 観音堂。
 左の碑には「大谷小学校開校跡地」と刻まれており、昭和六十三年(1988)十一月六日に建てられたものである。
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 青面金剛。
 左の石燈籠には「奉納観世音」「安政五戊午七月十九日」と刻まれているので1858年の造立。
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 元禄二己巳天十月吉日とあるので1689年の造立。

百草八幡宮(百草)

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 京王百草園のすぐ南に鎮座する百草八幡宮(日野市百草867)。
 川崎街道から京王百草園までは緩い坂道が続いており、分倍河原駅から百草まで歩いて来てややヘロヘロになりかけていた身には少しばかりしんどいものの、のんびり上っていたのだが、百草園まであと130mと書かれた看板のある場所から急激に勾配が強くなり、途中何度か休みつつ上ってようやく到着。マジ体力無いわー○刀乙
 でも実は下りの方が膝に負担が掛かったりするので上りはまだマシだったりする。
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 神門と言う訳でもないのだろうが、雨覆屋根の付いたゲートがある。
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 拝殿と狛犬。
 由緒書きが見当たらないので日野市観光協会のサイトを見ると、創建時期は不明だが、少なくとも天平年間(729~749)には存在していたようだ。御祭神は誉田別命、気長足姫命、武内宿禰、源義家の四柱。
 康平五年(1062)、奥州征伐の折に当地に立ち寄った源頼義が再建したと伝えられているそうだが、しかし御祭神の一柱として祀られているのは頼義ではなく子の義家……。
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 拝殿前に小さな狛犬。
 台座には昭和五十三年十一月吉日とある。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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 末社。
『秋葉山大権現 稲荷神社 御嶽神社 遷宮記念碑
 秋葉山大権現、稲荷神社、御嶽神社ハ古来ヨリ農村デ五穀豊穣、作柄ノ占ノ祈願等農家ノ神様トシテ祀ラレ、神社行事ガ行ハレタモノデ此ノ三社ハ明治六年ニ百草ノ農家四十八名ヲ以ツテ譲与ヲ受ケタ共有地ノ中ニ古クカラ祀ラレテアリマシタガ、明治三十六年ニ倉沢、百草、河内、後原ノ小字ニ分割サレタモノデスガ從来ヨリノ社地ハ其ノマゝ社有地トシテ四十八名ガ管理ヲ行ツテ来タモノデス。然ルニ時代ノ変化ト共ニ土地開発ノ波ガ迫リ、古イ歴史ヲ持ツ此ノ地域ハ、美シイ自然ノ姿ヲ存続スル事ハ出来ナクナツタ、依ツテ八幡神社現在地ヘ御遷座シ奉リ永久ニ記念スル為茲ニ之ヲ建テタルモノナリ。
 秋葉山大権現 遷宮前所在地 百草七七九番地 三畝十五歩
        昭和四十一年十一月一日 東電学園学校敷地ヘ
 御嶽神社   遷宮前所在地 百草九四九番地 七畝歩
        昭和四十四年七月 日本信販建設会社へ
 稲荷神社   遷宮前所在地 百草一○七八番地 一畝歩
        昭和四十四年十一月 帝京大学学校敷地ヘ
  昭和四十七年二月吉日建之』
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 どの祠が何神社なのかわからないが、
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 こちらは側面に大きく「秋葉山大権現」「明和六巳丑天九月大吉日 倉澤講中」と刻まれている。ちなみに明和六年は1769年。
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 阿弥陀堂。
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 銅造阿弥陀如来坐像案内板。
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 松連禅寺の碑。
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 松連禅寺の碑解説板。
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 八幡宮の社殿南側からぐるりと裏手に回って行くと、
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 松連寺詩碑が建てられている。
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 松連寺詩碑解説板。

 以上で4月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。X30。
 この後は高幡不動駅まで歩き、そこからモノレールで多摩動物公園へ。京王れーるランドで鉄道むすめ巡り2015のスタンプを押し、グッズを買ってから帰宅。
 この日の歩数は31,448歩。大体15kmくらいは歩いたのかな。

武蔵一之宮小野神社(一ノ宮一丁目)

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 聖蹟桜ヶ丘駅の北西500m程の位置に鎮座する小野神社(多摩市一ノ宮1-18-8)。
 こちらの神社は大宮の氷川神社と共に武蔵国一宮を称している。公式サイトはこちら
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 随神門と狛犬。
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 随神。
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 随神門のあちこちに彫刻が施されている。
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 西面の彫刻。
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 南面の彫刻と北面の彫刻。
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 門に入ると左右に雷神と風神の彫刻。
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 玄武。
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 東面には虎の彫刻と龍の彫刻。
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 随神門を抜けると広い境内。
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『東京都指定有形文化財(彫刻) 木造随身倚像
 所在地 多摩市一ノ宮一丁目18番地8
 指定  昭和五十年二月六日
 小野神社の起こりは古く八世紀中頃とも言われ、中世には武蔵国衙に近在する筆頭の神社、武蔵一宮であった。
 武蔵一宮小野神社については現存する史料が極めて乏しい中で、昭和四十九年にこの随身倚像に墨書銘があることが発見された。
 墨書銘によれば、この二軀にうち古い方の随身像は、元応元年(1319)因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永五年(1628)に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えている。
 どちらも檜材、寄木造、胡粉地に彩色が施され、頭部は挿首、玉眼。
 都内では、室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財である。
 平成十三年三月三十一日』
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『延喜式内 武蔵国一之宮 小野神社
御祭神
 天乃下春命
 瀬織津比咩ノ大神
 伊弉冉尊
 素戔嗚尊
 大己貴大神
 瓊々杵尊
 彦火火出見尊
 倉稲魂命
末社
 伊勢神宮内宮
 伊勢神宮外宮
 三嶋神宮
 八坂神社
 愛宕神社
 安津神社
 日代神社
 鹿島神社
 子安神社
 嚴嶋神社
 方便神社
 秋葉神社
 稲荷神社
 堰宮神社
例祭
 元旦祭    一月一日
 節分祭    二月節分
 初午祭    二月初午
 祈年祭    二月第二日曜日
 末社祭    四月第一日曜日
 六所宮神幸祭 五月五日
 例大祭    九月第二日曜日
 新嘗祭    十一月第二日曜日
 除夜祭    十二月大晦日』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 本殿。
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 少し引いて。
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 稲荷大神宮。
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 末社殿。
 左から八坂神社、愛宕神社、日代大神、方便神社、子安神社、安津神社、厳島神社、三嶋神社、鹿島神宮、天照皇大御神・豊受姫大神が祀られており、末社殿の右に見える赤い小祠は秋葉大権現。
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 末社殿の中に堰宮神社の名は見当たらなかったが、こちらが堰宮神社なのだろうか。
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 絵馬掛所の脇に注連縄を巻かれた石があるが、こちらはなんなのだろう?
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 南門。
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 南の鳥居。
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 川崎街道に面して建てられた参道入口の標石。

神明社(四谷二丁目)

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 府中市立四谷文化センターの北隣に鎮座する神明社(府中市四谷2-44-4)。
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 拝殿。
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 斜めから。
 幣殿や鞘殿は無いので、本殿は拝殿の中に納められているのだろうか。
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『神社名  神明社
 主祭神名 天照皇大御神
 由緒
 当社は三社宮神明社ともいいますように、三柱の神様をお祀りしております。主祭神は右にもあげてありますように日本人の総祖神であられる天照皇大御神(通称お伊勢様)、合殿には農耕神であられ、また食物の神でもあられる宇迦之御魂神(通称お稲荷様)、天孫ニニギノ命が高天原から降臨された折に道案内をされ、後に外からの悪神や凶事を防ぐ神になられた猿田彦命(通称塞の神、道祖神とも。)の三柱の神々をお祀りしております。
 例祭は、天照皇大御神が毎年九月十五日の午前十時から、宇迦之御魂神様が毎年二月初午の日の午前十時から執り行っております』
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 末社。
 大きい建物は神輿庫か祭具殿だろうか。
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 末社。

間嶋神社(住吉町三丁目)

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 住吉町第三広場に鎮座する間嶋神社(府中市住吉町3-71-2)。
 左端の石柱には権現橋と刻まれている。
『ごんげんばし
この橋は、四谷用水の一流路、下モ河原(しもがわら)大堀に架かる権現橋です。橋の名は、昔、間島(あいじま)神社が「子の権現」とよばれており、橋が神社の入口に架かることに由来します』
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 鳥居。
 台石に嵌められたプレートには昭和六拾貳年四月建立とある。
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 拝殿。
 古くは子の権現と呼ばれていたと言うことは、御祭神は大己貴命なのだろうと思ったのだが、ググってみたら間嶋大神と書かれていた。秩父の子権現を勧請したものであるそうなので、つまりは大己貴命なのだろうけれど。
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 末社。
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 石橋供養塔。
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 間嶋神社西側の道端に青面金剛。
 享保二十乙卯天九月とあるので1735年の造立。
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 西から。

御嶽神社(住吉町四丁目)

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 中河原駅の北西200m程の位置に鎮座する御嶽神社(府中市住吉町4-6)。
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 拝殿。
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『御嶽神社由緒
 御嶽神社は、江戸後期文政年間の記録には、山王御嶽合社とあり、山王神社のご祭神である大山咋神と、火災・盗難除けで名高い東国の霊場西多摩の御嶽山より勧請した大阿奈牟知命をご祭神とし、合せ祀っている。
 明治三年十月村社に列せられ御嶽大神と称したが、同二十九年四月に御嶽神社と改称した。その後同じ中河原の八幡神社を合祀、ご祭神は応神天皇である。
 古来より中河原村の鎮守であり、福の神、縁結びの神として崇敬された産土神である。
 また武蔵国の護り神である大国魂神社と同じご祭神であるとも伝えられている。
 例祭日は九月十五日である。
 平成十三年三月吉日』

小野神社(住吉町三丁目)

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 JR南部線西府駅と京王線中河原駅の中間辺り、中央自動車道南側に鎮座する小野神社(府中市住吉町3-19-33)。
 社号標石には「延熹式内 郷社小野神社 多摩郡八座内」と刻まれている。多摩市の小野神社と共に「武蔵国多磨郡 小野神社」の論社とされており、どちらかが本社でもう一方が分社であるそうなのだが、どちらがそうであるのかはわかっていないとのこと。
 御祭神は天下春命と瀬織津比賣命の二柱。
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 社殿。
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 狛犬。
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 本殿。
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 末社。たぶん稲荷社。
 右側の石燈籠は宝暦七丁丑年九月とあるので1757年のものだ。
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 破損した鳥居の残骸。
 明和二乙酉■正月吉日の文字が刻まれているので1765年のもの。
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 小埜宮廟碑。
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 秋葉山と刻まれた石燈籠。

御嶽大権現(西府町一丁目)

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 西府駅南口に位置する御嶽塚古墳頂に鎮座する御嶽大権現(府中市西府町1-60)。
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『府中市指定文化財(史跡) 御嶽塚
 平成16年3月31日指定
 御嶽塚は、もともとは古墳時代に築造された古墳で、直径約25mの墳丘と、その周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。その後、中世になると屋敷を濠で囲む約200m四方の区画の中心に位置することとなり、さらに、江戸時代には信仰の対象として祀られることになったと考えられます。
 現在、塚上に祀られている石祠には「御嶽大権現 安政五午年 十一月吉日 小野宮 願主 内藤伊助」の銘があります。御嶽信仰は、山岳信仰のひとつで、中世以降さかんになり、江戸時代に各地に広まりました。小野宮は、現在の住吉町3丁目に所在する小野神社周辺の集落で、本宿村に属していました。
 西府文化センター周辺では、御嶽塚の他にも、古墳時代後期の6~7世紀はじめ頃に築かれた13基の古墳が確認されています。墳丘に配された円筒埴輪や石室に納められた圭頭大刀、金銅製の耳飾などが出土しています。これらの古墳は、この塚の名に因んで御嶽塚古墳群と呼ばれています。その範囲は、東側の新鎌倉街道から西側の国立市境付近にまでおよんでいます。
 御嶽塚の北方約500mの位置には、国史跡武蔵府中熊野神社古墳が所在しています。御嶽塚古墳群よりも後の時代に築かれたもので、上円下方墳という国内でも数少ない墳形の古墳です。発掘調査の成果をもとにして、当時の姿に復元されています』
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稲荷神社(本宿町一丁目)

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 JR南武線西府駅の東300m程の位置に鎮座する稲荷神社(府中市本宿町1-4-1)。
 こちらも由緒書きが無いのでググってみると、詳細は不明だが、織田信長によって滅ぼされた朝倉義景の一族が当地に逃れ、その氏神をこちらに祀ったものであるとの言い伝えがあるのだそうだ。

『稲荷道(いなりみち)の名は、この道が稲荷神社の前を通ることに由来します。この道は奇秀学校(現五小)の通学路で、「学校道」に対する下の道として「下(しも)の学校道」とも呼ばれます』
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 鳥居の柱には昭和二十八年四月建之と刻まれているが、62年も経っているのに随分と汚れが少ないように見える。
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浅間神社(美好町三丁目)

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 分梅通りを八雲神社から150m程北上すると、浅間神社前交差点そばに浅間神社(府中市美好町3-42-2 )が鎮座している。
 鳥居の柱には嘉永七甲寅年二月吉日と刻まれているので、1854年の造立。また鳥居の手前右側には庚申塔が祀られている。
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 こちらの青面金剛と三猿が彫られた庚申塔は延宝二年(1684)二月に造立されたもので、市内では最も古いものであるのだそうだ。また昭和四十六年と昭和六十二年に移転し、平成十三年五月に元地である現在地に戻って来たのだとか。
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 拝殿。
 由緒書き等が見当たらないのでググってみると、明治四十一年(1908)に稲荷神社と合祀して現在地に遷座して来たもので、旧社地は現在の多摩総合医療センターの辺りになるそうだ。
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 狛犬。
 台座には昭和二年四月吉日と刻まれている。
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 末社二社。

八雲神社(分梅町一丁目)

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 分梅通りに面して鎮座する八雲神社(府中市分梅町1-18-5)。
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 鳥居の柱には安永七戊戌歳三月吉日と刻まれているので1778年の造立。
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『天王宮八雲神社「天王さま」の歴史
 当天王宮八雲神社は、古くは天王宮と称され祀られて居ました。
 明治初期の神仏分離令により当祭神は、神仏習合とみなされて八雲神社と改号されましたが、今日も分梅(分陪、分倍、分配)地域の鎮守様として多くの方達の心の拠り所として慕われ祀られてきております。
 天王宮の祭神は牛頭天王、八雲神社の祭神は素盞嗚尊でありますが合祀されております。
 当社の創設年は未詳であるものの、分梅通り(陣街道、古鎌倉街道)に面した境内の東北角(社地)には、元応元年(1319年)の木に抱かれた石板碑、享保九年九月(1723年)に祭神像、安永七年(1778年)に石造の鳥居等が現存しております。
 今より遡る事約七○○年以前には、社は存在していたと思われています。
 現本殿は、安政四年三月(1857年)鎮守御宮請負書に依りますと、但し三尺五寸社、大流れ造り、腰四手先組、柱上三手先組、巨細絵図面の通、引渡しは万延元年十二月(1860年)と記されておりますが、今回の修復(2007年)で文久三年三月(1867年)に完成したことが新に判明しました。
 造りの概略は、腰に組物が付き屋根は、千鳥破風と唐破風の付いた一間社流れ造りで壁面全てに彫り物が刻まれた総欅造りです。神社の配置は、本殿を覆屋で囲い前面に、拝殿を置き、間に瑞垣で仕切られた幣の間を配置した形式となっています。例年の祭祀「天王祭」は、かつては春(旧暦五月二十五日に斉行されて居ました)が近年では、七月十四、十五日に近い土、日曜日に神輿、太鼓の巡行と共に斉行されています。
 神社祈願は、疫病除け、縁結び、安産、子孫繁栄、無病息災、家内安全
等に願いを朝夕礼ともに尽くされて来たと伝えられております。
 この様に歴史を刻み先人達により残された貴重な遺産を守り多くの崇敬者の信仰心とも相俟って先人の遺徳を子々孫々に亘り引き継ぎ、末永く祭祀を斉行しこれからも多くの人々の拠り所として皆様と共に崇敬の誠を尽くしてまいりたいと思います。
 また同境内にある稲荷神社も天王宮と同じく古くより祀られております。
 祭神は稲荷神(宇迦之御魂神)この祭神は、農業、穀物の神様で当分梅もほとんどの家が農業を中心とした地域であった事から祀られて来たと思われております。
 当社の創設年は未詳でありますが、覆屋は、平成四年九月に改築しました。
 神社祈願は、五穀豊穣であります。
 例年の祭祀は、かつては二月最初の午の日に斉行されて居ました、近年ではその日に近い土、日の何れかの日に斉行されています。
 又、九月一日には台風の風害から作物を守る為「風祭」と呼ばれる祭りが斉行されて居ましたが、近年では専業農家も少なくなり現在、斉行は中断されております。
 さらに、神社境内の奥には、高倉古墳群の一つ天王塚古墳(六世紀後期)が未調査のまま唯一現存の古墳として残されております』
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社殿斜めから。
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 稲荷神社。
 この裏手が天王塚古墳なのだが、撮影しておくのを忘れた○刀乙
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 元応元年の板碑(レプリカ)。
『府中市指定有形文化財 八雲神社脇の元応の板碑
 指定 平成元年八月二十三日
 鎌倉時代の中頃から室町時代の末までのおよそ三百年の間、府中では埼玉県秩父地方や比企地方で産する緑泥片岩を板状に加工した供養塔婆が盛んに造立されました。このような石造の供養塔婆を板碑と呼んでいます。
 市内からは大小様々の六百基を超える板碑がみつかっていますが、この板碑は市内では最大級であり、加えて古道の傍らにあって造立当時に面影を残しているとみられる貴重なものです。
 この板碑は元応元(1319)年十一月八日に、大蔵近之という人物が亡き父親道仏の十七年忌追善供養のために建てたものと考えられています。
 八雲神社境内のこの板碑は、風化が著しくなり現状での保存が困難になったため、現在は複製を設置しています。
 平成二十四年三月』

浅間神社(美好町三丁目)

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 日枝神社から西へ180m程向かうと浅間神社(府中市美好町3-56)が鎮座している。
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 本殿。
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日枝神社(美好町三丁目)

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 JR南武線分倍河原駅と西府駅の中間辺りに鎮座する日枝神社(府中市美好町3-61-1)。
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浅間神社(宮代町山崎)

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 宮代町立図書館の南150m程の位置に鎮座する浅間神社(南埼玉郡宮代町山崎744)。
浅間神社  ──宮代町山崎七四四(百間村字山崎)
歴史

 当社が鎮座する山崎は、江戸時代における百間村の南部に相当し、笠原沼落の右岸に位置する農業地域である。その村落の北端に鎮座する当社の境内は、かつては大人でも一人では抱えきれないほどの太い赤松が十数本も生い茂り、参道の脇には三○坪ほどの池があり、水田に囲まれた当社は浮き島のようであった。しかし、赤松は神社の賄いに充てるために昭和五十六年ごろまでに順次伐採され、池も昭和五十七年に埋め立てられてしまったため、現在は往時の面影はない。ちなみに、「赤松浅間」の通称は、この境内の赤松にちなんだものである。
 当社には建物がなく、塚の上に建立された「浅間大菩薩」の石碑が社である。この石碑建立の年代は定かでないが、「山重島村同行」と刻まれていることから、富士講の先達であった地元の島村家が建立したものと思われる。この山重講が、いつごろから当地で活動していたかは不明であるが、境内に文化十一年(1814)建立の「小御嶽再建同行中」碑があり、当時既に富士講が行われていたと推測される。
 一方、氏子の間では、境内にあった池は、当社が祀られている塚を作るために土を掘った跡であると伝えられている。このことと、「風土記稿」百間村の項に当社についての記述がないことを考え合わせると、当社が現在のような姿を整えたのは、文化年間(1804-18)以降のことと思われる』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 二十三夜塔と小室仙元宮。「埼玉の神社」には小宝仙元宮と書かれているが、塚の上にある浅間社に対してこちらは下宮になるので、小室仙元宮なのではないかなぁ。
『浅間神社
 所在地 宮代町山崎七四四
 浅間神社は、山崎の北東部のはずれ、笠原落を眼下に見る築山の頂上に祀られている。以前、赤松の大木が多数あった所から赤松浅間社と呼ばれており、江戸時代後半に造られたものである。
 祭神は木花開耶姫命で、仏教の大日如来と一体とされ、それを浅間大菩薩と呼んで富士山の神霊としたことにより始まると言われ、富士信仰の神社として建立されたものである。
 富士信仰は、古代より始まり、ことに江戸時代絶頂に達した。いわゆる「富士講」がそれである。天保十四年(1843)の将軍日光参詣不二道奉仕者国郡村数控によると信者の分布の中に「百間、西粂原、東粂原、和戸」等の町内の地名が見られ、この付近の布教の様子を知ることが出来る。
 毎年七月一日、当社では初山の子供たちでにぎわいを見せている。
 また、当社の西方には山崎の村社である重殿社(権現社)があり、周囲には町内では数少ない雑木林が広がっており、武蔵野の面影を残している。さらに、その北方には県選定重要遺跡でる山崎遺跡があり、先土器時代から古墳時代までの人々が住んでいたことが知られている。
 昭和六十二年三月』
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 赤松浅間池生類供養碑。
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 石段。
 右側に見える注連縄の付いた石碑が小御嶽再建同行中碑。
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 石段右側に小御岳石尊大権現。
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 石段を上ると塚の頂に浅間大菩薩。
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 以上で3月28日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA70mm。K10Dに50-150mm II。X30。
 この後は宮代町立図書館で資料を探してみたり、栗橋の井上酒店で全国鉄道むすめ2015限定グッズと純米吟醸みなみを買ったりしてから帰宅。
 帰宅後、宮代町立図書館のすぐ近くに稲荷神社が二社あったことに気付いて○刀乙

重殿社(宮代町山崎)

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 東武動物公園の南東、山崎集会所の隣に鎮座する重殿社(南埼玉郡宮代町山崎243)。
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『重殿社
 重殿社は山崎地区の鎮守で、地元では「権現様」とも称されている。金山彦命を祭神としており、祭礼は毎年七月二十四日に行われている。また、拝殿に多数のぞうりが見られるが、足の病に対する信仰のため奉納されたものという。
 覆屋の中にある本殿は、小規模で簡素ではあるが町内でも数少ない江戸時代の「見世棚造り」と呼ばれる造りの建物である。「見世棚造り」とは神社建築の一種で、店の棚のような形をしているのでその名がある。
 境内には、明和二年(1765)二月に建てられた稲荷社の祠や、文政十二年(1829)十月に建立された高さ約二メートルほどの大きな二十三夜塔がある。二十三夜塔とは、二十三夜に講の人々が集まり飲食をともにして、月の出を待ち拝んだりして夜を過ごすという行司で、そうした行事の記念として建てられたものである。
 また、当社には明治八年に作られた市川節堂の筆による幟旗がある。市川節堂は、群馬県に生まれ、清地村(現杉戸町)に招かれて付近の子弟の教育にあたった。
 重殿社のある山崎地区では、旧石器時代約一万数千年前から人々が住んでいた事が近年の発掘調査によって明らかになっている。以降、縄文時代後期約三千五百年前の集落や古墳時代四世紀後半の鍛冶工房跡なども発掘されており、古い歴史と文化を持っていることが知られている。
 一方、重殿社の周辺は「山崎山」と呼ばれる雑木林が広がっており、平成十三年度にさいたま緑のトラスト保全第五号地として取得され、管理。保存されている。現在、雑木林にはイヌシデやクヌギ、コナラなどがあるが、以前は赤松も多く見られた。こうした雑木林の北側には、かつては笠原沼の堀上田が広がっており、現在その一部が残されている』
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 拝殿。
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 本殿。
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 拝殿西側から。
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 稲荷社。
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 二十三夜塔。

神明神社(宮代町山崎)

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 宿集会所の西100m程の位置に鎮座する神明神社(南埼玉郡宮代町山崎64)。
神明神社  ──宮代町山崎六四(百間村字山崎)
歴史

 当社は「郡村誌」百間村の項に「相伝ふ元和中(1615-24)松永弾正落来たりて本村に居住を定め」とあり、土地の口碑にも「落武者の松永源太左衛門一族と家来が京都から来てこの辺りに住み付いたことに始まる」という。
 当社は、この松永源太左衛門が祀ったと伝えられている。「風土記稿」百間村の項に「神明社 松永坊持」とあり、当社は往時、松永坊という黄檗宗の僧坊の管理するところであった。この坊も松永坊という名が示す通り、寛永年中(1624-44)に松永氏の墓守として建てたといわれるもので、松永坊と称するようになったのは元禄年中(1688-1704)のようである。明治初期には「松永庵」又は「寮」と呼ばれていたが、昭和四十年代初めに宿集会所として建て替えられた。この集会所の辺りは、今も「源太山」と呼ばれて、かつての源太左衛門の屋敷があったと伝えられている。なお、松永坊の本尊であった阿弥陀如来は、集会所になってからも一隅に安置されていたが、近年、青林寺に移された。
 昭和十五年には、皇紀二千六百年に際し、伊勢神宮参拝記念として参道の敷石が奉納された。また、同五十年には、木造の鳥居が老朽化したことから、コンクリート造りのものに再建され、併せて本殿の修理が行われ、現在に至っている。
信仰
 祭神は大日孁貴命である。古くから五穀豊穣・無病息災・商売繁盛の神として崇められている。氏子は、願いがかなうと、紅白の鈴縄に奉納者氏名を記して社頭の鈴に下げたり、お神酒を上げてその奉賽としている。
 祭りは七月二十六日の年一回で「神明様の祭礼」と呼ばれている。この日が祭日と定められたのは、ちょうど農閑期に当たっているためであるという。また、古くからこの祭りは必ず晴天になるといわれている。かつては早朝に幟が立てられていた。祭典は午後一時から宮司の奉仕により氏子全員の参集で執り行われる。神前には、お饌米・お神酒のほか、海の物・山の物が供えられる。当社には拝殿がないため、祭典後の直会は境内に筵を敷き、その上に座って酒宴を行うのが古くからの形であった。しかし、昭和四十年代初めに当社の一五○メートルほど東方にあった「松永庵」を建て替えて宿集会所と称するようになってからは、そちらを直会の会場として利用するようになった。
 当社が神明神社であることもあり、かつては氏子の間で伊勢講が盛んに行われていた。各自で年々収穫した米の一部を換金して積み立て、ある程度貯えができると、伊勢講を結成して伊勢神宮に参拝し、太々神楽を奉納していたが、昭和三十年の参宮を最後に途絶えてしまった』
(「埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉」より抜粋)
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 宿集会所脇の道端に不動明王と青面金剛。
 青面金剛は宝暦二壬申年(1752)の造立。
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