神明神社(妻沼小島)

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 小島公民館の隣に鎮座する神明神社(熊谷市妻沼小島2358)。
 社号標石は利根川の北を走る群馬・埼玉県道301号妻沼小島太田線に面して建てられている。小島公民館は道路から引っ込んだ位置にある為、301号線からはわかり難く、参道入口脇に建てられた熊谷市消防団小島分団の建物がいい目印になる。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 昭和三十六年(1961)三月造立の狛犬。
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『神明本社改造拝殿建築趣意書
村社神明社は天照大御神春日大神の御二柱を始め數社を合祀し奉りたる鎮守に
して該春日大神は元弘三年新田義貞公鎌倉北條氏討伐に際し脇屋義助當小島に
本陣を構へ祭りて以て戰勝を祈願したりと傳ふ爾来郷人の崇敬最も篤く神威四
方に赫赫たり明治四十二年本社拜殿等建築の工を起し略竣成したりしか翌年未曾
有の大洪水の為拜殿其他の設備は倒潰流失の惨害に罹りたり蓋し當所の地形其
前後に河川を控へ濁流奔騰の激甚中に在りしを以てなり然かも一人の死傷無く
又民家の流失するものなかりしは是偏へに神明社の御加護に依るものとして感
銘措く能はさる所郷人語つて曰く社殿の復興一日も忽諸にすへからすと然れと
も連年水禍の至れるあり區民の疲弊困憊甚しく再興の計畫容易に成らす神靈に
對し奉りて恐懼の極なりとせり現時社會の状勢は國體觀念の明微國民精神の作
興を緊急要務とするに至り之か實現を期するには敬神崇祖の根本觀念を培養す
るを以て最も捷徑なりとす是に於て社掌氏子一體となり本社改造並拝殿建築の
計畫を樹立して昭和十年四月工事に著手し年を閲すること三回今茲十五年四月
に至り甫めて其工を終へたり殿宇清明にして尊嚴神徳愈高く氏子の崇敬益深し
真に郷土の盛事にして國體の明微民心の作興に資する大なるものあるへきを信
す茲に聖圖を石に勒むに當り齋戒して敬仰の情を舒へ神威の餘徳を永く後昆に
傳へんとす乃ち誠恐誠惶して誌す
    紀元二千六百年聖戰第四年四月
                 衆議院議員石坂養平篆額撰並書』
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 祠の中には御神輿が収められている。
 神輿の屋根部分に「水」の文字があるので、もしかしたら水神社なのかも知れない。
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 末社。
 何神社なのかはわからないが、側面には安政六己未年の文字が見えるので1859年の造立。右奥の石碑には猿田彦大神と刻まれている。
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 以上で6月13日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm、50-150mm II。X30。
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八坂神社(高林南町)

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 高林四区梁場公民館脇に鎮座する八坂神社(太田市高林南町269)……の筈なのだが、どうやら公民館に附随した倉庫の中に収められているようで、神社の姿は見えない。
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 冨士浅間大菩薩。
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 他には元久三年(1206)十二月造立の馬頭観世音や寛政十二年(1800)十一月造立の庚申塔、天保四年(1833)造立の如意輪観音などが並んでいる。

長良神社(大泉町寄木戸)

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 およそ六年半ぶりに参拝した寄木戸の長良神社(邑楽郡大泉町寄木戸1099)。
 前回はこちら
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 道祖神。
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 拝殿。
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 開田記念碑と石祠。
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 左手前に万延元年(1860)の猿田彦神。中央奥の石祠は木花開耶姫命と刻まれているので浅間社だろう。他は不明。
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 本殿裏に末社殿。
 菅原神社、八坂神社、厳島神社、諏訪神社、鷲宮神社、春日神社、疱疫神社、大山祇神社の八社が祀られているのは前回記した通り。
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 日枝神社。

源中稲荷神社(大泉町寄木戸)

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 寄木戸長良神社から南西に400m程、庚申堂の北西330m程にある円墳の頂に鎮座する源中稲荷神社(邑楽郡大泉町寄木戸397)。
『源中稲荷神社
鎮座地 大泉町大字寄木戸字稲荷林三九七番地
 寄木戸南部の坂本稔康の西に、古くから信仰をあつめている稲荷神社がある。古墳状の塚のいただきに宅相よろしく鎮座している状は、境内の森と調和して、祠こそ小さいが霊験を感じさせる。その昔、この辺に白狐が住んでいて、信者に御利益を授けたという。
 神社南の参道は旧の古海より尾島に通ずる街道で、稲荷様近くは花見街道といって、北側には桜並木が南側には松並木が植えられて桜の名所でもあった。この道を境に南が植松、北が稲荷林と今に名が残る。
 社元の話では、古くは三尺四方の祠だったが、明治二十五年、伏見稲荷より源中稲荷の称号をもらって分祀した社だという。村人はその年に、村中で九尺四方の神社を建ててお祝いし、その後、毎年旧二午の日には多くの信者が四方から参拝にくる様になり、社頭がにぎわったという。
 明治二十五年(1892)より昭和四十七年(1972)まで村中でお祭りしたが、現在は坂本稔康の私祭社である。
 この塚の周りから、正和二年(1313)の板碑が二つ出ているので、創立年代は詳らかでないが正和二年前後と思われる』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 畑の中を通る参道。
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 鳥居三基。
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 円墳の東斜面に設けられた石段を上った先に社殿。
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 大泉町誌に掲載されている写真を見ると、社殿前に石燈籠は無く、二基の鳥居が建てられている。大泉町誌の発行は昭和五十二年(1977)なので、その後に鳥居が移動されたりしたのだろう。
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 末社…かな? いずれも陶器や素焼きの狐が大量に納められている。
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庚申堂(大泉町寄木戸)

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 寄木戸長良神社から南西に350m程、源中稲荷神社の南東330m程に位置する庚申堂(邑楽郡大泉町寄木戸433)。
 こちらのお堂は寄木戸長良神社の北200m程に位置する曹洞宗天徳山宝寿院に属する仏堂であるそうで、宝寿院のサイトに詳しく記されている。
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『寄木戸庚申堂縁起
 この庚申堂は、明治三十一(1898)年に建立されたもので、狭いながらも徹夜のためのお堂を備え、全国的にもめずらしい存在です。
 この庚申堂に祀られている青面金剛尊(通称庚申さま)は、江戸時代の享保三(1718)年造立の立派な石像で大変貴重なものです。
 また、ここの庚申さまは、昔から願をかけるとイボが取れるご利益があることでも知られています』
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 安永五丙申年(1776)九月の庚申塔。
 隣のプランターには砂が入っており、この砂で患部を擦ると疣が治ると伝えられているのだそうだ。
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 青面金剛尊。 
 「享保三戊戌年 十月吉祥日 下寄木戸村」の文字が見えるので1718年の造立。
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 お堂西側から。

白山神社(大泉町吉田)

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 休泊川のそば、吉田西公民館の隣に鎮座する白山神社(邑楽郡大泉町吉田1838-1)。
『白山神社
鎮座地 大泉町大字吉田字西原一八三八番地
祭 神 菊理姫命、伊邪那岐命、伊邪那美命
由 緒 明治十年神社取調表には由緒不詳とあり、もと無格社である。
    昭和二十八年宗教法人法による宗教法人となる。
祭 日 四月十五日、十月十九日
末 社 八坂社、二柱社(摩利支天社)』
(「大泉町誌」より抜粋)
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『大泉町指定重要無形文化財 吉田西里神楽
所 在 地 大泉町大字吉田地内
保 持 者 吉田西神楽保存会
指定年月日 昭和五十九年十月十二日
 この里神楽は、伝えによると江戸末期から明治初期ごろに始められたと云われ、出雲流神楽に演劇性の高い江戸神楽や神話的要素を混入した東毛地方に分布する神楽の系統に入るものとされている。
 特に、会話を交える特徴を有し、古くから春秋の祭りには上演され、庶民の楽しみとされていた。
 演目には、三番叟、岩戸開き、にんば(種まき)、えびすさま、刀鍛冶屋、ひょっとこおかめ、狐つりの七つがある』
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 拝殿。
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 左は摩利支天社、右は八坂社。
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 裏手に回ると壊れた祠がいくつか転がっていた。

羽黒神社(龍舞町)

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 群馬県道2号前橋館林線と県道38号足利千代田線が交わる竜舞十字路交差点の北西150m程の位置に鎮座する羽黒神社(太田市龍舞町甲2189)。
 前回こちらに参詣したのは2008年7月12日なので、七年ぶりか。
『羽黒神社
 五月六日(旧三月二十五日)が祭典である。
 廃仏毀釈のとき、無格社であったため、神明宮(村社)に合祀されたが、昭和二十二年(1947)、神明宮より現在地へ移し、コウチの氏神として祀っている。
 この羽黒神社は、いつの頃かはっきりしないが、出羽国羽黒山から、御分霊場として、宝林寺へ祀られたという。現在のお宮が、宝暦年間に造られたものなので、それ以前であることは間違いないという。
 羽黒神社は、五穀豊穣・生業繁栄のため祀られており、霊験があらたかであるという。
 むかしは、春の祭典が旧暦三月二十五日(現在新暦になおして行う)で、このときは苗代の祈願をした。夏が七月上旬(新暦)で、このときは田植の祈願をした。秋が十一月二十五日で、感謝祭であった。
 春の祭典のときは、神楽などが行われ、大変盛大である。春の祭典の日(旧三月二十五日)を変えると、災難があるとか、体にわざわいがあるとかいって、羽黒様の祭典や行事について、反対する人はだれ一人いないという』
(「太田市史 通史編 民俗 下巻」より抜粋)
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 七年前は祠の隣に神楽殿があったのだが、現在は無くなっている。境内の手入れをなさっている方がいたので尋ねてみたら、壊れてしまったとのこと。
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 以前、正運寺の南に御霊神社があるというコメントを頂いたことがあるのを思い出したので、こちらの前に立ち寄ってみたのだが……民家の庭先だなぁ。コメントにもそう書かれてはいたからわかってはいたのだが、ふむ、どーしよこれ。数秒考え、とりあえず確認できたから良しとしようと結論。太田市史に記述は見当たらなかったし、ストリートビューでも見られるしね、うん。座標的にはここ
 以上で5月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA20-40mm。X30。
 次の土曜は渋谷duo MUSIC EXCHANGEで行われるAsrielのファイナルライブに行って来るので、神社巡りはお休み。……嗚呼、なんで解散しちゃうんだよぅ。

雷電神社(大泉町北小泉四丁目)

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 国道354号線大泉邑楽バイパスと群馬県道313号太田大泉線が交わる交差点のやや南西に鎮座する雷電神社(邑楽郡大泉町北小泉4-17)。
『雷電神社
鎮座地 大泉町大字上小泉字間之原一六八一番地
祭 神 別雷神
由 緒 慶応年間の地図に、西原雷の社里人これを祭るとあり、明治十年神社明細取調書には由緒不詳、社地は官有地で三六三坪とある。明治四十年、内務省の神社合併令により、その神霊は小泉神社へ合祀し、社地は共有地となったが、その後西原中の氏子により、旧社地へ再び雷電神社としてまつられた。
 昭和三十年に杉山久太郎に聞いた話では、大昔洪水があって、雷電様のお宮が板倉まで流され、板倉へまつられたという言い伝えがある。だから西原の雷電様は板倉の雷電神社より古いし、霊験あらたかなんだよと聞いたことがある。その真偽はともかく、祭日には上小泉・竜舞地区よりの参拝者でにぎわう。
祭 日 五月一日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 大泉邑楽バイパスに面した入口は狭く、見落とし易い。自動車では駐車スペースの確保に困るだろう。今回はそれを見越して自転車で移動していたから問題無かったのだけど。しかし自転車は長時間乗っていると尻が痛くなって困るω

小泉大神宮(大泉町西小泉三丁目)

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 浅間神社から北西に670m程、松原幼稚園前の駐車場脇に鎮座する小泉大神宮(邑楽郡大泉町西小泉3-5)。
『小泉大神宮
鎮座地 大泉町大字下小泉字松原二一二一番地
祭 神 大日孁命、豊受大神
由 緒 明治の神社明細帳には由緒不詳とあるが、往昔より明治四年まで天照山正善院がこれを管理し奉仕した。神仏分離令により神明宮をなのる。明治十年一月富士之越の無格社浅間神社の境内へ移転し、境内跡地は共有地にした。当時移転した社殿は間口三尺、奥行四尺と記録されている。その後の神社合祀令により、その神霊は小泉神社本殿に祀られている。なお、旧境内地へ松原中の氏子により社殿が再建され、小泉大神宮と改称し、松原の守護神として再びまつられた。
祭 日 春祭四月十日、秋祭十月十五日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 瑞垣の内側に打ち付けられたプレートには小泉大神宮新神殿完成記念とあり、平成二十三年十月十六日に完成したものであるようだ。

浅間神社(大泉町富士二丁目)

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 休泊川に架かる鹿島橋のすぐ南側に鎮座する浅間神社(邑楽郡大泉町富士2-23)。
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『浅間神社のいわれ
鎮座地 大泉町字下小泉富士之越一七七七番地
祭 神 木花咲耶姫命
由 緒 承平元年(931)六月一日(今の七月一日)、この地方一帯に雪が降ったと伝えられる。これは浅間明神の怒りにふれたというので、佐貫荘の荘官であった佐貫弾正良綱は、鹿島に浅間明神を祀った。浅間様は富士山の信仰であり、御本社は富士山本宮浅間神社である。しかし、富士山は周辺の国々から望まれるので、駿河国一宮としてまつられ、そのほか、関東・中部地方などにも浅間神社がある。この富士浅間明神にちなんで、富士之越の地名がつけられたと思われる。
 富士の霊峰は雄大荘厳、神秘静寂、揺るぎなく美しい国土の象徴ともなっている。日本各地の山々には、それぞれの国の神様をお祭りしている例が多くあるが。富士山はその筆頭であろう。
 御祭神は木花咲耶姫命といい、大山祇神という山の神の御子神で、天孫瓊瓊杵尊の后神である。木の花(桜)の咲くように美しい神様が、秀麗な富士山の神様であることは、人々の信仰をよくあらわしている。
 浅間は古くアサマと呼んだ。アサマは、山中の湧水の起源をたたえた名称だということである。古事記には、木花咲耶姫命が火をかけた産屋の中で、お産をしたと書き伝えられている。このため、安産の神として、子育の神として、今に至るまで人々の信仰を広くあつめている。六月一日は初山といって、近郷近在の人が赤ん坊をつれ、初山をして子どもの健康を祈願する。
 明治維新以前には、上下総祈願所小泉山成就院が兼務して、奉幣祈祷などを行った。
 平成十年一月吉日』
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 昭和四年六月十六日造立の狛犬。
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 馬頭観音。
 安永四年未天九月吉日と刻まれているので1775年の造立。
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 拝殿。
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西宮神社(大泉町中央二丁目)

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 休泊川の東、中部公民館脇に鎮座する西宮神社(邑楽郡大泉町中央2-21)。
『西宮神社
鎮座地 大泉町上小泉字上丁二三七七番地
祭 神 蛭子命
由 緒 昭和二十三年(1948)小泉町商工会の総意により、当町に西宮神社を創建することとなる。本殿は昭和十七年(1942)、中島飛行機製作所の産業報国会館の一隅に建設された神殿を、当時の商工会長久保田与一郎が富士重工からもらいうけて現在地へ移転した。
 御分霊は小泉神社あてで送られ、吉日を選んで、小泉神社から西宮神社まで遷座式を挙行した。夜間撮影した記念写真が、紙屋商店に現存する。写真には御分霊を守護して宮司井上東一・久保田意一郎・大塚嘉吉・内田伝次郎などの神職のほか、会長・役員多数がお供で続いている。
 その後、久保田宮司のとき拝殿が建設され、以後、西宮大神の御神徳と大泉町商工会の運営の妙をえて、恵比須祭は年々そのにぎわいをましている。
祭 日 十一月十九日、二十日』
(「大泉町誌」より抜粋)
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 宝暦十庚辰(1760)十一月造立の庚申塔。
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 鳥居。
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 拝殿。
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 横から。
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勢光寺(大泉町東小泉三丁目)

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 厳島神社の西350m程に位置する浄土宗勢光寺(邑楽郡大泉町東小泉3-10-5)。
 こちらにお参りする予定は無かったのだが、先の厳島神社と縁が深いようなので、ついでに立ち寄ってみることに。
 上の写真の左端に見えるプレートには、ここが大泉町立北小学校発祥の地であると記されている。
『明治五年、学校制度が定められたのに伴い、翌明治六年一二月一五日には石打、篠塚、藤川、秋妻、下小泉、上小泉の六ヶ村結社により創設された「求道館」が、久保田茂平、白石貞衛らの尽力により下小泉村の勢光寺に開校された。これが現在の「大泉町立北小学校」の前身である。
 明治七年以降、各寺院等を仮校舎とする分校が設置された後、勢光寺からの流れをくむ求道学校との統合がはかられ、明治一二年一月には常光寺を仮校舎とする「小泉学校」となった。明治二二年一一月二三日、現在の城之内の地に校舎を新築し「小泉尋常小学校」となり、明治四三年には高等科を併置して「小泉尋常高等小学校」となった。
 昭和一六年に「小泉町国民学校」となり、昭和三二年には大川村と小泉町の町村合併に伴い大泉町が誕生し「大泉町立小泉小学校」と改名した。
 現在の校名「大泉町立北小学校」となったのは、翌年の昭和三三年のことである』
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 山門の下で見上げてみると天井絵が。
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 正面に本堂。
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 こちらの線刻碑は聖徳太子かな。
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 普門品供養塔に青面金剛、庚申塔など。
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 勢光寺の境内端に建てられたこの祠はなんだろう?
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 祠の前の長椅子には「病の治る椅子」とあるが、どんな曰くがあるのやら。

厳島神社(大泉町東小泉二丁目)

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 東部小泉線東小泉駅の西280m程の位置に鎮座する厳島神社(大泉町東小泉2-13)。
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『厳島神社由緒
 当社は古く弁天堂と呼びました。本尊の弁天尊は弘法大師作で、天正七年(1579)に勢光寺を開いた観誉了海上人が堂内に安置し、三代敬誉了信が寛永六年(1629)に横根原の現在地に竹堂を建てて勢光寺から弁天尊を移しました。
 六代廓誉住把の弟子、方誉休心が弁天堂のかたわらに竹庵を結び、初代の庵主となりました。その後、代々の庵主が弁天堂を守って来ましたが明治維新の神仏分離令により勢光寺から分かれて、弁天尊を御神体とする厳島神社になりました。明治四十一年(1908)に村社菅原神社に合併し、ついで同四十五年には上・下小泉村社合併により現在の小泉神社に管轄されました。しかし、地元の人々はこぞって氏子となり、従来通り、弁天様を福徳・智慧・財宝の神として信仰し、毎年五月第二日曜日に例祭を行っています。(細谷清吉記)
 昭和六十一年五月』
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 本殿。
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『弁天さまのいわれ
 天正七年に普照山勢光寺を開いた観誉了海上人が、弘法大師御作の弁天尊像を得て堂内に安置。
 三代住持敬誉了信は寛永六年横根原の現在地に竹堂を造って弁天尊像を移す。
 元禄四年、六代廓誉住把の弟子方誉休心は竹堂のかたわらに竹庵を結び、初代弁天堂庵主となる。
 九代巍誉諦心は弁天尊像の前立を造る。
 弁天堂庵主は、七代剃誉好善法子が文化八年七月二十七日に寂すまでつづく。
 以上は文政三年三月勢光寺より御本山へ提出した「普照山并末寺庵の創建起立書」による。
 明治元年神仏分離令により弁天堂は、厳島神社となる。社殿は六坪。別殿が八坪。境内二百九十六坪に山林など千坪。
 明治四十一年、下小泉村社の菅原神社に合併、ついで四十五年、上小泉の長良神社と菅原神社の合祀により小泉神社となる。
 地元の横根宿・久保宿の氏子たちは引きつづき福徳・知恵・音楽の大吉神として、毎年旧四月の巳の日に祭礼をつづける。
 戦後の農地解放、昭和三十一年の社日神社改築、四十五年の社日会館建設資金として売却、境内三十坪を残すのみとなる。
 弁天尊の本像は何時しかなくなり、人々は空しくおまいりすることとなったので、弁天尊像建立の運びとなった。
 平成十七年三月吉日』
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 弁天尊像。
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 道祖神。

春日神社(龍舞町)

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 群馬県道38号足利千代田線脇の公園内に鎮座する春日神社(太田市龍舞町)。
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「太田市史 通史編 民俗 下巻」には龍舞に賀茂神社、神明宮、白山社、熊野社、赤城社、羽黒社有りと記されているが、春日社の名は見当たらない。春日神社と言うことは御祭神は天児屋根命だと思われるが、詳細は不明。
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