半僧坊大権現(小川町大塚)

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 小川町立図書館の西北200m程、仙覚律師遺跡内に鎮座する半僧坊大権現(比企郡小川町大塚351)。
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 権現堂前には四十六体の羅漢が並んでいる。数えてないけど。
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 海の守護神との文字が見える。四十六体の羅漢は全て違う形をしていて面白いが、なにぶん蚊が多くて長居したくなかった為、殆ど撮影していない。虫除けスプレーをかけておいたのだがなぁ。
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 石段右側一番下の羅漢が持つ標石に半僧坊大権現と刻まれている。
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 仙覚律師遺跡は中城跡とも呼ばれ、鎌倉時代は猿尾太郎種直、室町時代初期には斎藤六左衛門重範の居城であったと伝えられているのだそうだ。そして半僧坊大権現が鎮座するこの場所は櫓台であったと推定されているのだとか。
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 権現堂脇から土塁の下を見ると、堀を挟んで二重土塁がぐるりと巡っている。
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 堀跡。右側の土塁を越えると郭内。
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『仙覚律師遺跡
 所在地 比企郡小川町大字大塚
 仙覚は、鎌倉時代の僧侶(天台宗)で、建仁三年(1203)常陸国(茨城県)に生まれたが、没年は不明である。
 万葉学者としてしられる仙覚は、万葉集解読に半生を捧げた人で、彼の著作した「万葉集註釈」は、以後の万葉集研究の基礎をなしたといわれている。この奥書には「武蔵邦比企郡北方の麻師宇郷の政所」と記されており、当地に仮宿し、まとめたものと推定されている。
 この地域は、付近をとりまく土塁、空堀跡、櫓の跡から、中世の土豪、猿尾(ましお)氏の居城で中城跡といわれている。
 なお、この記念碑は、昭和三年に仙覚律師遺跡保存会により建てられたものである。
 昭和五十九年三月』

 ここから600m程南西にある栄広庵は、文治二年(1186)に大夫坊覚明という僧が中城に設けた庵が始まりだが、享保年間(1716~36)には朽ちてしまった為、栄広という僧がこれを増尾に移して再建したものであり、仙覚が「万葉集註釈」を完成させたといわれる場所こそがこの庵であったとの伝承があると「小川町の歴史 別編 民俗編」に記されている。
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 権現堂の東、春日会館脇に聖徳太子碑。
『移転記念碑
 大東亜戦争が終わり、日本国には正常な衣食住が失われ特に人の心のすさみかたはひどく、たとえようがありませんでした。
 時の日本政府の要人は、国民の心をなごませるには、どのようにしたらよいかと心を痛めており、それには子供の心を和やかにするのが一番だと気付きました。
 そして、国内一町村に、一ヶ所は子供遊園地を設置するということになり、小川町においても町としてどのようにすべきかが区長会議にこのことが提案されました。
 その席で緑町区長田口一男氏より申込があり、現地調査が行われましたが、二百坪を確保するためには「聖徳太子碑」を移転することが必要になり、移転するにあたり、碑の設置責任者である職工組合に相談され代表者の頭山口五郎丸、海野金重で検討された後、組合全員の承諾をもって決定されました。
 陣屋台に移転するために、八幡神社総代大塚董氏、片岡松三氏の許可を得るとともに、運搬にあたっては、車輌通交のため大塚精市氏の私道を広げ多大な協力を得ることとなりました。
また、移転にかかわる費用については、区長田口一男氏が緑町有志と談合す全額支出する運となり、この地に立派に建立されました。
 大黒天のお宮を富田裕夫棟梁が優雅に製作しました』
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 御嶽神社。
 石祠の額の部分には神紋があり、背面には「大正十二年八月建 祭主 浅見稲■」と刻まれている。
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 隣のこれはなんだろう。不動明王……には見えないから、摩利支天かな。摩利支天も形が様々でよくわからないけど。

 以上で9月19日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA77mm。X30。
 この後は白山神社と八幡神社、穴八幡古墳に向かうつもりだったのだが、ちょっと時間が足りなくなりそうだったので今回はここまで。次の土曜(つまり今日)に行けば良いかと思っていたら、天気予報では土日が雨とのこと。それじゃあと9時過ぎまで寝ていたら、雨が降るどころか次第に晴れ間が見えて来る始末orz 来週晴れたら行こう。
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八坂神社(小川町大塚)

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 国道254号線脇、大関町会館に隣接して鎮座する八坂神社(比企郡小川町大塚94)。
 玉垣の親柱正面に八坂神社、側面に稲荷神社と刻まれており、扁額にも八坂神社稲荷神社合殿とある。
 鳥居の柱には「大正三年六月吉日建之」「東京日本橋區室町一丁目 山本徳治郎」と刻まれている。大正三年は1914年。

『大塚の八坂神社は、秩父街道の宿場の一角を成していた大関町の町中にある。そのため周囲に商店や民家が建て込む狭い立地を有効に使った独特な境内配置がなされている。現在の社殿は、社務所と共に平成三年四月に竣工したもので、独特な造りである。
 この八坂神社は、境内にある頌徳碑によれば、元は「梅皇山牛頭天王」と称し、天保八年(1837)に疫病の流行によって多くの人が亡くなった時、住民がこの牛頭天王に祈願したところ、霊験著しく病魔が退散したので、大関町の大塚佐右衛門という人が率先して私有地を提供し、町衆と共に社殿を建設の上、梅皇山から牛頭天王を遷祠したことに始まるという。以来、疫病除けの神として信仰厚く、この社を祀っているおかげで大関町では現在に至るまで二度と疫病が流行することはなかった。
 また、社殿内には、伏見稲荷の分霊と伝えられる稲荷神社が併せ祀られており、地元の商家の人々から商売繁昌の神として信仰されている。このほか、かつて境内には七夕神社が祀ってあったが、老朽化が進んだため、平成三年の再建時に八坂神社に合祀された』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 梅皇山とはどこだろうとググってみたら、梅岑寺の山号であるようだ。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、当八坂神社は延宝七年(1679)九月と嘉永二年(1849)六月、明治元年(1868)九月の三回再建されたと記されている。上記の平成三年(1991)を加えると四回か。それはさておき、延宝の時は蓮蔵院、嘉永の時は梅岑寺、明治の時は大教院が別当を務めていたとのことであり、蓮蔵院と梅岑寺は同じ寺であるのだそうだ。とすると、梅皇山蓮蔵院梅岑寺と言う寺の境内に祀られていた牛頭天王をこちらに遷祠したと言うことになるのだろうか。しかし、普通は山号ではなく寺院名で書きそうなものだから、梅皇山と言う山があったと考えるべきかな。鎌倉幕府九代将軍である守邦親王が当地に逃れ落ち、猿尾氏に迎えられて梅香岡に仮寓したとの言い伝えもあるようだし。その辺りは調べてないのでよくわからない。ちなみに現在梅岑寺は存在しないが、本山派修験男衾郡板井村長命寺の末寺であり、ここから800m程西に位置する八幡神社の別当でもあったのだそうだ。
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『頌徳碑
此處の八阪神社は去る天保八年吾地悪疫流行し死する者その数を知らず凶氣月を経て上ず
郷人哀痛して梅皇山牛頭天王に此悪疫退散を祈願す霊験いちぢるしく病魔たちまち滅して
患を免かる茲に於て吾町の大塚佐右衛門氏率先私有地を提供し衆とともに社殿を建設し梅
皇山より遷祠以て神徳に奉謝す盍し郷民一般の信念なりき其後明治の間小川村も町に発展
するにつれて吾大関町も益々増家繁榮するに到るや旧道の曲折狭隘を感じ當時の有志等道
路の改修を大塚氏に謀るや氏また進んで其幹部となり私財を投じて盡力大いに務む而して
曩きに納たる本社境内地は當時村社々掌片岡鼎氏の假所有名なりしを大塚佐右衛門の子恭
次郎氏と社掌の孫片岡二郎氏より贈與を得て昭和五年四月十九日付を以て登記完了せり是
まことに大塚佐右衛門氏の敬神感念と燃えるが如き愛郷心の事蹟にして本社の歴史なり盍
しこの徳行を不朽にせむ爲に刻して以て碑を建る者なり
 昭和六年四月』
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 左は大黒天。右は文久三年癸亥(1863)六月に建てられた天王社の頌徳碑。文字は大分薄くなっており、読み取り難い。

栃本観音堂(小川町大塚)

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 小川図書館の西側、緑会館脇に鎮座する栃本観音堂(比企郡小川町大塚212)…と言うか不動堂。

『大塚の緑町は、古くは小川宿栃本といい、その地内に祀られている観音堂は、正徳二年(1712)に記された縁起によれば、奈良時代に行基が秩父に向かう途中でこの地に立ち寄って観音像を刻み、小庵に安置したことに始まるという。その後、平安時代には坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、承和年間(834~48)には吉志福正が堂を修復したとされる。鎌倉時代には地元の豪族の猿尾氏や斎藤氏に庇護されて栄えたが、戦国時代に大梅寺と同様に焼き討ちにあって焼失したものの、江戸時代に入ると慈光寺に詣でる途中にこの地に立ち寄った徳川家康の命によって再建されたと伝える。しかし、元禄年間の初め、雷火によって再度焼失し、その後再建されたものが現在の堂である。
 さらに、慶応三年(1867)になると、観音堂の近くに地元の成田不動尊の講中である立身講の人々が千葉県の成田山から不動尊を勧請して祀るようになった。これが「緑町成田不動尊」の始まりで、その後年を追うごとにこの不動尊の信仰が盛んになり、節分には町内の名士を年男に招いて盛大に豆撒きが行われるようになった。また、大正の初期には十二月六日に酉の市も立つようになった。こうした経緯によって、現在のように境内の中央の堂には不動尊が祀られるようになり、観音像は脇の小堂に祀られるようになった』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 由緒書き。
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 滑り台の上から。
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 こちらが観音堂なのだろうか。
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 閻魔堂。
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 堂内には閻魔王像以外にもいくつかの仏像が見える。

上小川神社(小川町小川)

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 小川警察署前から西へ70m程、国道254号線に面して鎮座する上小川神社(比企郡小川町小川68)。

『上小川神社は、市神すなわち小川の市の守り神として勧請された八雲神社(江戸時代には「天王社」と称した)に、大正四年九月十日に神明町の神明大神社と稲荷町の稲荷神社を合祀したことにより、社号を上小川神社と改めたものである。ちなみに、この社号は、小川の総鎮守である下小川の八宮神社に対し、八雲神社が上手に位置することから付けられたものであるという。
 上小川神社の母体となった八雲神社の由緒については、東秩父村の身形神社の分霊を勧請して祀ったとか、大塚から小川に市が移ってきた際に、八雲大神の掛軸を市神として祀ったのが始まりであるなど諸説あるが、応永年間(1392~1428)には現在の本町二丁目に石祠が建立されている。当初は往還の中央にあったこの石祠は、のちに新井屋瀬戸物店脇の道端に移して祀られていた。
 それが、大正四年に、神明大神社・稲荷神社との合併によって現在の境内に移ったのであった。現在の境内は、西光寺持ちの寺子屋があったところで、その後小川小学校の校舎が建てられていたが、同校が移転した跡地を利用して、神社の用地としたものである』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 拝殿。
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 幣殿と本殿。
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 三峯神社。
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 左は八意思兼命・手置帆負命・比古佐自命。右は澤泉舎喜古碑とあるが、なんだろうこれ。

八宮神社(小川町小川)

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 国道254号線と埼玉県道11号熊谷小川秩父線が交差する小川小学校(東)交差点の東北400m程の位置に鎮座する八宮神社(比企郡小川町小川990-1)。

『創建については、「風土記稿」に「勧請の年暦は詳ならざれど、元和三年(1617)再建の棟札あれば、それより前の鎮座なりしことしらる」とあるのが、最も詳しい記録である。ただし、この記事に見える「元和三年再建の棟札」は現存していない。また、当社は、元来は地内北部の日向山(愛染山とも称す)に鎮座していたが、享保二年(1717)に現社地に遷座したと伝えられる。日向山とは、現在日赤病院がある辺りで、旧社地とされる場所は山林になっており、往時の面影は全く残っていない。この遷座の理由は明らかではないが天保四年(1833)に建立された現在の社殿は、日光東照宮全棟の工事を担当した棟梁頭平内大膳守正清の七代目に当たる林兵庫正尊を大棟梁に、上州花輪の彫工石原常八主信を彫物棟梁にして再建された立派で大きなものであることから考えると、境内の拡張が目的であったものかと思われる。ちなみに、当社の本殿は、昭和五十三年に町から有形文化財の指定を受けており、棟札も残っている。
 近世の別当は、本山派修験の休蔵院が務めた。休蔵院は、幸手不動院の配下で、愛染山と号し、法印墓地の墓碑銘によれば初代の権大僧都長秀法印は延宝二年(1674)に没している。神仏分離後も院主が復飾して千島姓を名乗り、神職として祭祀を継承し、秀儀・秀巳・宮治・幹茂・三郎と務め、一時絶えた後、縁者の荻野孝一郎が神職を継ぎ、現在に至っている。
 当社の祭神は、「五男三女神の八柱の神」と伝えられ、一般に"八宮"の名は八柱の神を祀ることを意味すると説かれる。しかし、「五男三女神」の具体的な神名については諸説あり、「明細帳」では「天照大御神御子神五柱・月読尊御子神三柱命」、「風土記稿」では「国狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煑尊・砂土煑尊・大戸道尊・大戸辺尊・面足尊・惶根尊」、「比企郡神社誌」では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命・天之菩卑能命・活津日子根命・多紀理毘賣命・多岐津比賣命・天津日子根命・熊野久須毘命・市来嶋比賣命」とされている。また、当社の本地仏は愛染明王で、現在も内陣に安置されている像高三三センチメートルのの愛染明王座像については「風土記稿」にも「今本地愛染を置り」との記述がある。内陣には、この座像と共に貞享元年(1684)銘の棟札も納められており、その表側には「本地金剛界大日如来」裏側には「奉灌頂愛染明王天長地久国土安全攸(脩)」の文字が見える。
 八宮神社は、現在、小川町に四社、嵐山町に四社、滑川町に一社と、比企郡に限って存在し、しかもほぼ鎌倉街道上道に沿って集中的に分布している。また、八宮神社の分布している地域の東側には淡洲神社、南側には黒石神社がいずれも集中的に分布しており、この付近は神社の奉斎とその祭祀圏の関係について極めて興味のある地域である。しかし、これらの神社の分布の持つ意味は未だに解明されておらず、八宮神社の分布についても、郷土史家の大塚仲太郎が昭和五年に神社の分布は「和名抄」所載の郷名と関係があり淡洲神社の分布地は醎瀬郷、八宮神社の分布地は多笛郷に比定されるという説を、昭和十三年には八宮神社の分布は奈良梨から下小川に居住する千野氏や諏訪氏といった一族と関係があるという説を「埼玉史談」に発表している程度であり、この二説もまだ定説とは言い難い。
 「八宮」の文字は、現在どの神社でも「やみや」と読んでいるが、「風土記稿」にはすべて「ヤキウ」と振り仮名を付しているところから、元来は「やきゅう」と読んでいたことが推定される。このことは、福島東雄の「武蔵志」で、当社の社名が「八弓明神社」となっていることからも裏付けられ、寄居町鷹巣の矢弓神社や東松山市の箭弓稲荷神社との関連も考えられる。なお、「八宮」を「やみや」と読むようになった時期は明治維新後と推定されるが、読みを変更した理由は定かではない。このように、八宮神社の祭祀については不明な点が多くあり、その解明は今後の研究に期したいところである。
(中略)
 境内にある青麻大神社は、古くは「青麻三光宮」と称し、少毘古那命を祀る社である。同社は、足の神様として信仰されており、足が痛む時祈願し、治ると御礼に草鞋を一足奉納する習いがある。
(中略)
 当社の末社になっている諏訪神社は元来千野一家(一族)が氏神として祀っていた社であった。また、千野家には他にも一家で祀る稲荷神社があり、平素は「祈願すると失せ物がよく出て来る」と言われて信仰され、毎年初午には団子を供えて祭りを行っている。しかし、大塚仲太郎が推定した当社との関係については伝えられていない』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 由緒書き。
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 参道右側に芭蕉句碑。
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『芭蕉の句碑
    八宮神社境内、往時、椎の大木あり
    小川町大字小川九九一番地
    先堂能む椎の木も安里夏木立
                 者世越
        出典 猿蓑
        年代 元禄三年(一六九○)
        年齢 四十七歳
碑陰
       丁未之仲夏立之
          (弘化四年・一八四七)
句の大意
     奥の細道などの長旅で辛苦をなめた
    末に、しばしの安住を求めて、この幻
    住庵に入ってみると、傍らの夏木立の
    中にひときわ高い椎の木もあり、当分
    身を寄せるに足り、まことに頼もしく、
    まずはほっとする心持である。
   平成三年三月』
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 拝殿。
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 狛犬。
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『埼玉県指定有形文化財・建造物 八宮神社社殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社社殿は、本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿です。本殿は棟札によると天保四年(1833)に建てられました。大棟梁は林兵庫正尊、彫物棟梁は石原常八主信で、妻沼歓喜院聖天堂を手掛けた大工や彫物師の系譜を引いています。埼玉県内に特徴的な精巧な彫刻をもつ寺社の中でも、年代を特定できる好例として貴重な建造物です』
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 本殿西面。
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 中段が「三顧の礼」のシーンであるのはわかるが、下段の童子はなんだろう。なにかゲームのようなものをしているようにも見えるけど。
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 本殿北面。
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 これまた「三顧の礼」のシーン。西面には諸葛亮と諸葛均、北面には張飛・関羽・劉備の彫刻が施されている。そして下段は棒馬で遊ぶ童子達。
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 これらもなにかのワンシーンなのかな。わからん。
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 本殿東面。
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 こちらの面は「三顧の礼」と繋がってはいないようだが、はて、なんだろう。下段は亀で遊ぶ童子。
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 諏訪神社。
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 御嶽神社。
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 青麻三光宮。
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『埼玉県指定有形文化財・建造物 青麻三光宮本殿
 所在地 小川町大字小川九九一‐一
 平成二十四年三月十六日指定
 八宮神社境内に末社として建つ青麻三光宮本殿は、棟札によると天保十三年(1842)に八宮神社本殿と同じく林兵庫正尊を棟梁として建てられました。八宮神社に比べ規模は小さいですが、本殿全体に施された彫刻は見劣りしません』
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 八宮神社の拝殿と青麻三光宮の間に建つ鳥居。
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 額はあるのだが、文字は消えてしまっていてわからない。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」に記された境内見取図を見ると、先ほどの鳥居の先には大黒天があり、現在は見取図よりも境内が広くなっている為見取図に記された位置に大黒天は無いが、平成大改修の内容を記した案内板には平成十二年八月五日に大黒天社殿を移築したとあるので、こちらは大黒天であると思われる。
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 神池に神橋が架けられ、その先に祠が二つ並んでいる。
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 池があるのでてっきり厳島神社だろうと思っていたら、案内板に「平成九年十二月一日 天神社・稲荷社の社殿奉献」と記されているので、稲荷社と天神社なのだろう。
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 改修整備事業案内板。

 さて、これで八宮神社九社全てを巡ったわけだが、どうにもよくわからない神社だ。
 小川町下里の八宮神社を総本社として、小川町は小川、中爪、能増。嵐山町は越畑、志賀、杉山、廣野。滑川町は和泉。しかし下里の本社からの分霊は越畑・志賀・杉山・廣野・下小川・中爪・能増と記されているので、和泉の八宮神社は下里からの分霊には含まれず、ではどこから来たものなのかと言うとそれを記したものがないのでわからない。そして八和田神社の石碑には下横田の八宮神社を合祀したと記されており、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には、風土記稿には志賀村に八宮神社が二社あると記されているとある。これらについては資料が無い為わからない。
 そして、下里の八宮神社の御祭神は高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神であるのに、そこからの分霊を勧請した先では同じ神を祀っているところが一社もないと言うのはどういった訳だろう。
下里  高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神
小川  五男三女神あるいは国狭槌尊・豊斟渟尊・泥土煑尊・砂土煑尊・大戸道尊・
    大戸辺尊・面足尊・惶根尊
中爪  素盞嗚尊
能増  当地を治めた豪族と日本武尊
越畑  「明細帳」では応神天皇、「比企郡神社誌」では素盞嗚尊
志賀  下照姫命
杉山  建速須佐之男命・大己貴命・稲田比賣命
廣野  建速須佐之雄命・大己貴命・稲田姫命
和泉  素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命
 ほぼ半数が素盞嗚尊を主神としているのはどういう訳だろう。そして八柱の神を祀っているのは下里と小川のみで、他の八宮神社の主祭神の数は八柱に届いていない。小川八宮神社の南西2km程には八王子神社と氷川神社があり、更にそこから南西3km程に氷川神社が二社ある。八王子神社の御祭神は五男三女神であり、氷川神社の御祭神は素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命の三柱神である。御祭神だけを見れば、むしろこれらの方が近いのではないかとさえ思えてくる。
 本当に、よくわからん神社だなぁ。

八宮神社(小川町下里)

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 槻川に架かる柳町橋の南西に鎮座する八宮神社(比企郡小川町下里911)。

『下里の鎮守である八宮神社の由緒は、「神社明細帳」に「往古ハ村ノ東方志賀村々境ニ鎮座アリテ近郷七ヶ村ノ総鎮守タリシカ年月事由不詳現場ノ所ヘ移転スト云コト古老ノ口碑ニ残レリ」と記されている。このことは、氏子の間にも、「初めは村の東方の志賀村との境に鎮座していたが、貞観十年(868)に現在の社地に移り、近郷七か所に分霊を配祀し、八宮神社の総社と称せられた」との口碑が残る。本殿の裏に祀ってある祠は、口碑に伝えられる七体の分霊の神璽で、古くは幣殿の両側に祀られていた。
 文書等の記録を欠くため、創建の年代や、現在地への遷座の時期などは不明であるが、口碑に「八宮神社の現在の境内地には、元は大きな寺があったという。そこに八宮神社を遷宮したと聞いている」との伝えがあることから、遷座には境内を拡張することや、鎮守の社を村の中央部へ移そうとの意図があったものと推察される。江戸時代には、正理山宝寿院という真言宗の寺院が別当として祭祀を行っていたが、神仏分離によって廃寺になった。明治四十一年十二月に愛宕神社、天神社を合祀した』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 こちらの御祭神は、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると高龗神・伊豆能賣神・墨江三筒神・海見三柱神である。
 筒の部分は「止」冠の下に「冉」と書かれているが、異体字の検索を掛けても出てこない。墨江三神は住吉三神のことなので、まあ筒なのだろうなと。
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 参道は涼やかで、とても気持ちが良い。八宮神社の大半を巡って来たが、ここだけ格が違うと言うか最も清浄な雰囲気を感じたのは、ここが総本社であるとの意識があるからと言うばかりではないだろう。
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 日露戦争の戦勝記念に奉納されたものだろう。
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 狛犬。
 台座には「住宅建築記念 昭和六年十一月吉日 當所 田中伊助 社掌 梅沢亮之助」と刻まれている。昭和六年は1931年。
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 本殿裏には分霊した七社の神璽を納めた祠が設置されている。
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 稲荷社と天神社。
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 三峰社と八坂社。
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 一の鳥居の脇に設置された梅沢亮之助翁の像と頌徳碑。
 大正七年から昭和十八年まで25年間社掌を務めていた人物のようだ。

八坂神社(小川町下里)

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 国道254号線脇、遠ノ平山の中腹に鎮座する八坂神社(比企郡小川町下里2348)。
 参道入口左側には馬頭観音がずらりと並んでいる。

『当社は、小川町の東端にそびえる遠ノ平山の中腹に南面して位置し国道二五四号線に面して建つ鳥居をくぐり、百余段の石段の参道を登り詰めた所に鎮座する。地元の人は、参道入口の辺りを神南沢と呼んでいる。また、国道の走る南側には観音山があり、西斜面には暦応三年(1340)の開山と伝わる天台宗大聖寺が建つ。
 社伝によると、当社は宇多天皇の寛平年間(889~98)に素盞嗚尊を奉斎したとあり、当時上郷地区に疫病が流行し、その猛威に怯えた郷人が創建したという。そして、いつのころからか大聖寺の守護神として祀られるようになった。江戸期の同寺との関係も「風土記稿」に当社のことが載らず詳らかではない。文化七年(1810)に社殿を改築したと伝わるのみである。そして、明治初年の神仏分離により大聖寺の手を離れた当社は、無格社となった。その後、明治四十三年には現在の石段が組まれている。
 なお、遠ノ平山は通称御嶽山と呼ばれ、頂上にはかつて御嶽神社が祀られて、大正以前には橋本姓を名乗る神職が籠って祈祷をしていたという。その後、後継者もなく、社殿の荒廃に伴い、当社の末社である三峰・金毘羅の相殿に合祀した。朽ちた社殿は昭和二十年代まで残っていたが、現在では嵐山方面から登る参道と旧社地を伝える碑が建つのみとなっている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 緑泥片岩で組まれた石段は割りと傾斜があるがしっかりとしているため上り易い。ただ張り出しは少ないので下りはちょっとつらい。この日は前日の雨で湿っていたので滑り易くもあった。
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 石段を上り切ると八坂神社が鎮座している。
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 斜めから。
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 三峰神社・金比羅神社・御嶽神社合殿。
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八宮神社(嵐山町志賀)

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 東武東上線を挟んでベイシア嵐山店の北にある山の中腹に鎮座する八宮神社(比企郡嵐山町志賀1512)。
 地図上では志賀神社五柱大神となっているが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には八宮神社の名で記されているので、当ブログもそれにあわせて八宮神社とする。
 鳥居の東側に境内へと続く坂道があるが、境内は切り返しをできるほどの広さも無い上に坂の傾斜がやや強い為、車では戻る際に面倒臭いことになるので上らない方が良い。それよりも手前、あるいは鳥居の前を少し越えた先に少し広くなっている所があるので、そちらに駐める方が楽だ。

『志賀の西端部に当たる山の中腹にある当社の境内は、時折そのすぐ南側を走る東武東上線の電車の通過する音が聞こえるものの、集落から離れているために極めて閑静である。社記によれば、当社は貞観年間(859~77)に、小川町下里の八宮神社を総社として中爪・杉山・能増・越畑・広野・志賀・下小川・下里の八か所に建立された八社の一つで、元久元年(1204)九月十九日に畠山重忠の命により嵐山町菅谷の菅谷神社に合祀されたが、寛文元年(1661)に菅谷神社から分離し、現在の地に祀られるようになったという。
 また、拝殿と鳥居に「志賀神社 五柱大神」と彫った社号額が掛かっているように、当社は「五柱神社」もしくは「五社明神」とも呼ばれているが、その由来については、「明細帳」に「従前五社明神ト唱ヒ五ケ所ニ鎮座ス明治五年八月旧入間県庁ニ出願許可ノ上合併明治四年中村社届済」とあるだけで、具体的なことはよくわからない。しかし「風土記稿」志賀村の項を見ると「八宮明神二社 何れも村の鎮守にて、村持、稲荷社 保食稲荷と号す、保食神は稲荷の祭神なれば、たまたま此唱を得しなるべし、諏訪社 太神宮 以上三社共に村持」とあることから考えると、「風土記稿」に見える五社を統合したものが当社であると考えられる。ただし、この統合は書類上のことにとどまり、実際は五社の祭祀に変化はなかった。

 当社の祭神は「明細帳」によると「天照大神御子神五柱命・月読命御子神三柱命・下照姫命・天照大御神・建御名方命・保食命・素盞嗚尊」となっており、素盞嗚尊は明治四十五年に宇北町裏から合祀された無格社八雲神社の祭神である。下照姫は「郡村誌」に「八宮社」の祭神として記されているところから、八宮神社本来の祭神、天照大御神は太神宮の祭神、建御名方命は諏訪神社の祭神、保食命は稲荷社の祭神と考えられるから、祭神の構成からも、この八宮神社は「風土記稿」記載の五社が合併したものであることがわかる。天照大神御子神五柱命と月読命御子神三柱命は、恐らくは八宮神社が村社になった時に近隣の八宮神社祭神の例に倣って付加されたものと考えられる』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 鳥居の右側に猿田彦大神。
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 石段途中右側に祠があるが、社名を記したものが無く、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の見取り図にも記されていない。ただ、石段右側に「大鳥居天神様改築記念碑」と刻まれた石碑が建てられていたので、もしかしたら天神社なのかもしれない。
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 拝殿。
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 社殿横から。
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 大国主大神。
 その右側から石段が延びている。
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 石段を上り、社殿を上から。
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 旧鎌倉街道を歩く。
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 天手長男神社と愛宕神社。
 愛宕神社の脇には小さな移転記念碑があり、それによると、かつては宝城寺にあったが氏子一同がこの地に移して奉祀したとある。碑が建てられたのは平成三年二月なので、比較的最近というところか。宝城寺と言うのは、八宮神社の北東500m程に位置する曹洞宗大谷山宝城寺のことだろう。
 旧鎌倉街道はこれより先にも続いていたが、山越えをする気はないので、少し奥まで歩いてから戻って来た。
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 八宮神社の東100m程の道端に庚申塔。

普光寺(小川町中爪)

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 八宮神社に隣接する天台宗薬王山瑠璃光院普光寺(比企郡小川町中爪1042)。
 山門前の標石には「厄除元三大師」と彫られている。その右側には毘沙門天の像も建てられている。こちらの境内には小川七福神の内、毘沙門天・辨財天・福禄寿・恵比寿・大黒天の五つの像が置かれており、残りの布袋尊と寿老人は300m程南に位置する観音堂にある。
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 山門の茅の輪をくぐり抜けると、参道の両脇には庚申塔や地蔵尊が並んでいる。
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 本堂。
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『絹本着色徳川家康画像
 この画像は、中爪村を治めていた旗本高木甚左衛門正則が、三代将軍徳川家光に懇願し拝領したものです。
 正保二年(1645)、正則はこの画像を安置するため、中爪村の鎮守である八宮明神の近くに、普光寺を中興開基しました。開山には、もともと村内にあった毘沙門堂に隠居していた男衾郡赤浜村塚田(寄居町)の普光寺の僧尊栄を迎え、普光寺の寺号を襲用しました。
 像はやや右を向き、衣冠束帯で敷畳の上に座り、右手に笏を持ち、左手は太刀に添えています。頭上の御簾に葵巴文、背障に山水画、手前の板敷に一対の狛犬が描かれており、神格化された家康像として典型的なものです。軸木の銘から慶安四年(1651)に奉納されたことが分ります。
 この画像は、毎年四月十七日に普光寺で公開されています。
 昭和五十三年三月十七日 町指定』
 この公開は、「小川町の歴史 別編 民俗編」によると近年は十八日に行われているのだそうだ。

八宮神社(小川町中爪)

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 天台宗薬王山瑠璃光院普光寺の南隣に鎮座する八宮神社(比企郡小川町中爪1039)。

『中爪の八宮神社の創建の年代については、不明である。しかし、神社の東側にあり、「中爪の大師様」として知られ、江戸時代は八宮神社も管理していた普光寺が元和二年(1616)の創建と伝えられていることから、八宮神社は戦国期ごろの創建ではないかといわれている。
 また、「神社明細帳」には、「元毘沙門天と唱へ来りしも御維新以来素盞嗚尊と改称」と記されており、かつて村内にあった毘沙門堂と関係が深かったことがうかがえる。毘沙門堂は、地内の毘沙門谷津と呼ばれているあたりにあったといわれ、この堂を普光寺の隣に移した際、改称して神社としたものとの説もある。
 境内に祀られている東照宮は、徳川家康公を祀る社で、幕臣であった高木甚左衛門正則が寛永年間(1624~44)に家康公の御真影(絹本着色の画像)を普光寺に奉納した際に、これを安置するため建立されたものである。元は寺持ちであったが、明治以降、神仏分離によって一社となった。この御真影は普光寺に保管されており、毎年四月十七日(近年は十八日)にはこれを掛けて祭典を行う』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

『当社は、中爪の鎮守として祀られてきた社で、江戸時代には普光寺が別当であった。創建の時期は明らかではないが、普光寺の創建が元和二年と伝えられることから、当社もその前後に勧請されたものではないかと考えられている。また、中爪村の名主を務めた本多家に残る古文書には「寛保三年(1743)鎮守八宮大明神建立、五月ヨリ始メ九月八日成就」とあるが、これは再建を意味するものであろう』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 参道。
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 拝殿と狛犬。
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 斜めから。
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 蚕影山神社。
 台座には「■■十二年四月十八日 中爪養蚕實行組合建之」と刻まれている。■■の部分ははっきりしないが、うっすらと残る感じでは昭和のように見える。
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 天神社。
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 八宮神社社殿の隣に東照宮。
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 境内には遊具やベンチも設置されている。

八宮神社(嵐山町廣野)

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 杉山八宮神社の南東700m程の位置に鎮座する八宮神社(比企郡嵐山町廣野927)。

『桑畑に囲まれた参道を進んでいくと、目の前に「百庚申」と呼ばれる庚申塔群があり、そこを過ぎると「八宮明神社」の額の掛かった鳥居がある。鳥居から社殿までの参道は緩い坂になっており、その東側には、元は泉覚院と呼ばれる修験で八宮神社の祭祀に深くかかわってきた宮本家がある。
 当社の由緒は「比企郡神社誌」に「本社は清和天皇の貞観十年(868)本郡小川町下里の八宮神社を総社とし近郷七ヶ所に分霊を祀るといふ。当社は其の一社として鎮祭し、爾後、承平年中(931~38)源経基工東征の際当社に戦勝を祈願せしと伝ふ」とあるのが最も詳しく、「明細帳」では「由緒 不詳」としか記されていない。また「風土記稿」には「八宮社 村の鎮守なり、泉覚院持」「泉覚院 本山修験、男衾郡板井村長命寺配下、本尊不動を安ず」と載る。
 旧泉覚院の宮本家は、当社の氏子総代を務める当主の敬彦で三八代目という旧家で、英長の時に神仏分離に遭い、復飾して神職となり、広野(敬彦の祖父)の代まで神職を務めていたという。同家の邸内には鬼神神社が祀られているが、この鬼神神社は、同町川島にある鬼鎮神社の奥宮であるといわれ、同家が神職を務めていたころには悪魔祓いの神として多くの人から信仰され、ことに戦時中は朝敵平定の御利益を求めて祈願者が多かったとのことである。

 「明細帳」による祭神は、建速須佐之雄命・大己貴命・稲田姫命の三柱で、拝殿兼覆屋の中には本殿が三座ある。中央にある本殿はひときわ大きく、両脇にある本殿(左右とも同型)はかなり小さい。恐らく、中央の本殿には主祭神として建速須佐之雄命を祀り、左右の小さい本殿に大己貴命と稲田姫命を配祀する形になっているものと思われる。ただし、現在使われているのは中央の本殿だけで、その内陣には、本地仏の摩利支天像と、古風な幣束(年紀はないが江戸時代のものと思われる)と共に三柱の神を表した三連の幣束が祀られている。摩利支天像は年紀はないが、神仏分離以前から安置されているもので、拝殿内にはこの像を描いたと思われる額(昭和七年と十一年の二枚)も奉納されている。
 摩利支天は、日月の光を意味し、陽炎を神格化したものといわれ、しばしば猪の上の三日月に立つ姿が描かれる。その信仰としては武士の枕本尊とされたり、護身・隠身・遠行・得財・勝利が祈願されることが多い。しかし、八宮神社の信仰はあくまで村の鎮守としてのものであり、直接摩利支天に結び付くような信仰は見られない。
 年間の行事は、新年手打ち式(一月一日)、春季祭典(四月三日)、秋季祭典(十月十九日)、神嘗祭並びに竈注連切り(十二月十一日ごろ)で、新年手打ち式は区長主催の行事で、神職は関与しない』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 当社は平成七年に全焼してしまったそうなので、現在では摩利支天像などは失われてしまったのだろう。
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 鳥居と参道。
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 参道右側に鬼神神社。
 参道に背を向けていたり監視カメラが付いていたりするから、八宮神社とは関係の無い神社なのかと思ったのだが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の見取図を見ると鬼神神社が記されている。本文中には神職を務めていた宮本家の邸内と記されているから、八宮神社とは切り離されてはいるのだろう。 こちらは川島町にある鬼鎮神社比企郡嵐山町川島1898)の奥宮であるとされるそうだが、その距離はおよそ2km程も離れている。
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 拝殿。
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『社誌
広野八宮神社の御祭神は建速須佐之男命、稲田姫命、大己貴命、その縁起は平将門の乱にさかのぼる。江戸時代よりの社殿は平成七年二月十九日不審火により全焼す。氏子崇敬者の熱意と浄財により平成九年三月吉日再建を果たす。
総工費 二千八百万円
平成七年二月十九日午後四時不審火出火』
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 琴平神社と榛名神社。
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 斜めから。
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 百庚申。
 花壇の囲いのようにも見えるが、なぜこのような配置にしたのだろう。

 以上で9月12日参拝分終了。そしてこれから昨日巡って来た寺社の写真整理やらなにやら。ふひー。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm 、DA15mm、50-150mm II。*ist DSにFA43mm。X30。

八宮神社(嵐山町杉山)

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 嵐山町立玉ノ岡中学校北の丘陵部に鎮座する八宮神社(比企郡嵐山町杉山671)。

『当社は小高い山の頂に鎮まる。その西方にはかつて鎌倉街道上道が走り、南西方向約一キロメートルの所には、鎌倉期の武将金子十郎家忠の居城と伝え、戦国期には松山城主上田案独斎の家臣杉山主水が居城したという杉山城址がある。
 社伝によると、当社は第四十五代聖武天皇の御代(724~48)の勧請である。天慶二年(939)には、平将門の乱の沈静のため当地の旧城に出陣した経基王が、朝敵征討・疫病消除を当社に祈願したところ霊験あらたかであったので、社殿を修繕し、四方四種の村落に分祀して八宮神社と号し、法施として仁王会六万部を行った。当社南西の六万部塚・六万部坂の地名は、これにちなむものであるという。
 最も古い資料としては明和四年(1762)の本殿造営棟札がある。これには「大蔵院法印春応代 村中氏子中」「大里郡川原明戸村棟梁飯田甚八郎清忠 弟子新分一平八」の墨書が見える。次いで文政二年(1819)の覆屋再建棟札があり、「当村領主森川氏家運長久」「別当杉山大蔵院法印春応代」と見える。両棟札に見える「大蔵院」は本山派の修験で、境内にその裔の杉山宝斎による寺子屋指南の業績をたたえて建立された頌徳碑がある。一方、「風土記稿」は「八宮社 村の鎮守なり、相伝ふ古は八王子権現を勧請せし社なりしが、何の頃にや八宮神社と改称ありしと云」と載せる。

 覆屋の壁に打ち付けてある江戸期の木札には「八宮大明神本地毘沙門天・吉祥天女」と記されている。内陣にはそれにかかわると思われる木像が安置されているが、傷みが激しく、また氏子の間にもその名称が伝わっていないことから明らかにできない。「明細帳」には、建速須佐之男命・大己貴命・稲田比賣命の三柱の祭神が載せられている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 鳥居の柱には文化十一甲戌年秋九月吉祥日と刻まれているので、1814年に建てられたものだ。
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 参道。
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 拝殿。
 屋根の上に鬼瓦があったり扉の格子に籠目紋があったりするのは魔除けかな。
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 斜めから。
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『杉山寶齋退筆塚銘
枯茟成堆敗帋満屋是臨池家之所以成業也既資焉而成
業枯是瘞而表之示不忘其勞也寶齋杉山翁好臨池技積
功數十年頗極蘊奥不居所用之筆不啻數千百頃者其門
人請翁卜地八宮神祠側埋瘞之求余記余曰善昔者僧智
永善學書埋禿筆十甕號退筆塚賈浪仙除曰祭周歳所得
詩曰雖拙我精神也今寶齋用力如智永愛精神類浪仙瘞
而塚之祭而神之不親為之門人代為之是㝡可嘉也囙係
以銘銘曰
 褚䈥顔骨 躍躍逼神 我心既得 汝形當珎
 蔵諸山阿 永勒貞䂥
明治十六年六月 埼玉縣教諭中邨鼎五撰文
   修史館監事従五位勛五等巖谷 修書
   宮内大輔従四位勛三等杉孫七郎題額』
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 石祠。何神社なのかは不明。

八宮神社(嵐山町越畑)

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 嵐山町立七郷小学校の西側に鎮座する八宮神社(比企郡嵐山町越畑1445)。

『県指定無形文化財の獅子舞で知られる当社の由緒は、「明細帳」に「勧請人皇四十七代聖武天皇ノ御宇ト申ス其後承平年中経基公関東征討ノ節此ニ祈願シ遂ニ八ヶ所ニ是ヲ祭ルト云フ」と記されている。祭神は「明細帳」や「郡村誌」では応神天皇とされているが、それは当社の由緒に源経基が出てくるところから、源氏の氏神である八幡神社の祭神を祀ったものと推測される。八宮神社は比企郡に九社鎮座し素盞嗚尊や天照大神御子神五柱命・月読命御子神三柱命などを祭神とするところが多い。「比企郡神社誌」で当社の祭神が素盞嗚尊とされているのは、そうした他社の例に倣ったものであろうか。なお、源経基が八宮神社を祀ったのは、越畑・広野・杉山・能増・中爪・志賀・下小川・下里の八か所で、下里に八宮神社の本社があるという。
 越畑の地内には、当社のほかに字富士山の浅間神社、字立山の雷電社、字柳原の神明社、字社宮司の社宮司社、字後谷の山神社、字下串の大天獏社、字大堂の八大社、字清水の八幡社があったが、いずれも明治四十年四月に合祀された。ただし、社宮司社と大天獏社は書類の上での合祀にとどまったもので、現在も旧知に社殿が残っており、祭りも行われている。現在の当社の拝殿は、この合祀を契機として大正八年に再建されたものであるが、境内の「合祀改築記念碑」によれば、その苦労は大変なものであったことがわかる。

 「風土記稿」越畑村の項には「八宮社 村の鎮守なり、別当 観音寺 天台宗、中爪村普光寺の門徒なり、八宮山多門院と云、本尊聖観音は慈覚大師の作なり、長二尺許、開山憲延宝方六年(1678)十月七日寂す」とある。観音寺は、神仏分離によって廃寺となったが、同寺が「中爪村普光寺の門徒」であることは注目できる。というのは、中爪にも八宮神社が鎮座しており、当社と同様に本地仏として毘沙門天が祀られていたからである。また、毘沙門天は、多聞天の別称で、多門院の号はそれにちなんだものと思われる。
 当社の毘沙門天像の底部には、「元文元年丙辰(1736)九月十七日 越畑 観音寺 第四世阿闍梨翁慶法印代」の墨書があり、本殿の壁には「寛政元歳己酉(1789)龍集四月大吉祥日 奉修本地毘沙門天王八宮大明神維新作造立之有也 敬白」と記した棟札が打ちつけてある。棟札と像の墨書では年紀が異なっているが、一方は修理銘であろうか。このほか、やはり本殿内に「寛政六甲寅歳(1794)二月大吉日 奉建立八宮大明神一宇 大願村中氏子成就處」と記した棟札もある。
 祭事は、春の祭り(四月三日)・夏の祭り(七月二十四・二十五日)・秋の祭り(十月十七日)・冬の祭り(十二月十日)の年四回である。このうち、獅子舞が奉納されるのは、夏の祭りだけである』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 ちなみに聖武天皇は第四十五代である。
 和泉の八宮神社のエントリーを書いた時にも疑問を感じたのだが、天照大神御子神五柱命・月読命御子神三柱命とはどういうことだろう。五男三女神は天照大神と素盞嗚尊の宇気比で生まれた神だったと記憶しているのだが、天照大神と月読命の間に生まれたとする説もあるのだろうか。そう言えば、久喜市吉羽にある千勝神社境内社の八王子神社も天照大神御子五柱命・月読尊御女三柱命としていたか。
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『重修八宮神社及合祀碑
埼玉縣知事従四位勲三等齋藤守圀題額
八宮神社ト稱シ比企郡中ニ鎮坐スルモノ八ヲ以テ數フ
而シテ夲社ハ即チ其一ナリ謹ミテ舊記ヲ按スルニ聖武
天皇御宇ノ創立ニ係リ其後承平中武藏介源経基東征ノ
途次親ク戰勝ヲ祈リシト云明治四十年四月無格社浅間
神社雷電社神明社社宮司社山神社大天貘社八大社八幡
社ヲ合祀スルニ及ヒ其拜殿頽朽シテ敬虔ノ誠ヲ缺シコ
トヲ恐レ大正八年一月氏子胥謀リ拜殿ノ改造及神楽殿
社務所ノ増築ニ決シ直チニ起工旧年四月竣成工費九千
四百圓課役一千百餘人然リ而シテ其資實ニ越畑氏子一
同ノ獻進ニシテ不足額ハ夲字共有地ノ一分ヲ賣テ補充
セリ社殿輪奐ノ美無シト雖モ結構ノ荘ヲ極メ穆々乎ト
シテ神在スカ如シ尋テ十一年三月神饌幣帛料供進社ニ
指定セラル今茲氏子總代等重修及合祀ノ碑ヲ樹ントシ
來テ余ノ文ヲ徴ス因テ其梗概ヲ録シ以テ不朽ニ載ル
大正十四年十月
官幣中社金鑚神社宮司従五位勲六等 金鑚宮守拜撰
                 石川 巌謹書』
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 「県指定無形民俗文化財 越畑の獅子舞」の案内板。
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 庚申塔と馬頭観音。
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 拝殿と狛犬。
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 斜めから。
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八和田神社(小川町奈良梨)

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 埼玉県道11号熊谷小川秩父線と県道296号菅谷寄居線が交差する奈良梨交差点脇に建てられた八和田神社(比企郡小川町奈良梨930)の一の鳥居と社号標石。参道は北に向かって300m程伸びている。

『当社は明治四十年に上横田・下横田・奈良梨・伊勢根・高谷の五つの大字内にあった一一社を奈良梨の諏訪神社に合祀し、当時の村名を採って社名を八和田神社と改めて設立した。
 この合祀の中心となった諏訪神社の由来について「風土記稿」は次のように載せている。
  相伝ふ当社は何の頃にや、知野鈴木など氏とせるもの、信州より
  来りて勧請せしと云、思ふに村民仙右衛門が先祖は、熊野より出
  で鈴木兵庫助と号し、伊豆国に下り、延徳年中より北条家の旗下
  に属せり、其後子孫世々当所に住したれば、恐くは此人の子孫な
  ど勧請せしなるべし、されど系図に載る処、信州より移りしこと
  は見えず、古は此辺十五ヶ村の鎮守と崇めし大社にて、一の鳥居
  は須賀谷村にありて、二の鳥居は中爪村に立りし由いへど、其村
  々にてしか云伝ふることなければ覚束なし、社内に延徳及弘治の
  銘を彫たる鰐口を掛たり(以下略)
 氏子の間では古くから「千野の諏訪、鈴木の春日」と言い習わし、千野氏が諏訪神社の勧請者で、鈴木氏は春日神社(現在、当社の末社)の勧請者であると伝えている。千野備後の娘が鈴木隼人佐重親の妻となった縁から、「風土記稿」では筋木氏をも諏訪神社の勧請者としたものと考えられ、本来その勧請者は千野氏であろう。
 千野氏については、同家所蔵の「由緒書」(年欠)に次のように記されている。
   茅野備後
  信濃国諏訪郡茅野村茅野信武孫茅野一統年代不知、武州比企郡奈
  良梨村に引越住居仕り候事其節大沢氏と備後両人彼の地江罷越、
  諏訪御社奉守護候由、然処大沢氏者当所之神職に相成茅野氏は郷
  士に而罷在候。
 この茅野備後なる者は天正元年(1573)に没している。奈良梨から伊勢根にかけては「千野」姓の家が何軒かあり、元は「茅野」とその姓を称し、諏訪氏とともに信濃より移り住んだものと伝えられている。また、付近には諏訪大社系の神社が多数あり、一帯が信濃諏訪とのつながりの強かったことをうかがわせている。
 諏訪氏とは、諏訪大社の祠官、諏訪の領主として、古代から明治初年に至る氏族で、戦国大名であった諏訪頼重が天文十一年(1542)に武田氏に滅ぼされ、その従弟頼忠は流浪したが、同十六年(1547)に諏訪大社の大祝職に就き、天正十年に本能寺の変後に旧臣千野氏らに擁立されて本領を回復した。更に小田原攻略に功績のあったことから、長子頼水に武蔵国奈良梨・羽生・蛭川の地一万二千石を賜り、頼水と共に奈良梨の天王原の地に陣屋を構えた。この時に信州一の宮諏訪神社を勧請したが、わずか二年後に頼水は上野国惣社に転封となった。この諏訪社の跡は当社の西北五○○メートルほどの所で、現在「諏訪神社奉祀遺跡」として県指定文化財になっている。
 恐らく、当社の創建は、諏訪氏が千野氏を伴って流浪したとされる天文十一年から同十六年にかけてのことであろう。
 最も古い資料としては、「風土記稿」にも載る鰐口がある。これには「奉諏訪大明神寄進施主武州男衾郡鉢形綿入新井土佐守・弘治三年丁巳(1557)七月廿六日敬白」の刻銘がある。
 また、当社の内陣に奉安されている木像三体の内の一体は、欠損が甚だしく確定はできないもののその外観から普賢菩薩と推測され、地内の天台宗普賢寺とのかかわりもうかがわせる。ちなみに、普賢寺は慶長八年(1603)に草創した天台宗の寺院で、開基は鈴木隼人佐重親である』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 八和田(やわた)神社と言う名から、てっきり八幡神社が元になっているのかと思っていたら、まるで関係なかった。
 上横田の稲荷神社、下横田の八宮神社、高谷の八幡神社と舳取神社、伊勢根の神明社、各大字内に散在する無格社浅間神社、八幡神社、雷電社、神明社などが合祀されているが、十一社には足りない。同名の神社が合祀されているのだろうか。
 そして少々気になるのが舳取神社。これの読みは「へとり」でいいのかな。であるとすれば、兵執と辺取と舳取でいずれも字が違うのは何故なのだろう。「へとり」と言う音が重要なのだとすれば、なんらかの意味があるのだろうが、皆目見当もつかない。
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 交差点の南脇に設置された八和田村道路元標。
『道路元標とは、大正八年(1919)の道路法・道路法施行令により各市町村に一個設置されたもので、同十一年の内務省令で材質や大きさなどの様式が定められました。道路の起点・終点を表示するもので、これを基に近代的な道路網の整備が行われました。
 戦後は法的・機能的な意味を失い、多くが忘れられた存在となっています。
 八和田村道路元標は当所から奈良梨の交差点(字鳥居前九○番地)に設置されました。国の道路行政の歴史を伝える資料としてここに移設して保存することにしました』
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 社号標石のそばに鎮座する石祠。何神社なのかは不明だが、交差点脇と言うことを考えると、道祖神かなにかであろうか。
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 一の鳥居の北200m程の地点から石燈籠が立ち並び、左側の一際大きな灯籠の前にはお諏訪様の歌をプレートに刻んだ石碑が設置されている。
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 お諏訪様の歌。
 鉄道唱歌の節で歌うそうなのだが、鉄道唱歌わかんねーや。てことで検索をかけてYoutubeで確認。あー、こういう節なのね。
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 二の鳥居。
 こちらの鳥居前が駐車場になっている。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 斜めから。
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 大杉と鰐口の案内板。
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『合祀記念
八和田神社之碑  官幣大社氷川神社宮司正六位足立達篆額
我ガ日本ハ神國ナリ故ニ神社ヲ荘厳ニシ報夲崇祖ノ實ヲ舉ゲ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼シ奉リ金甌無缼ノ國體ヲ擁護シ敬神愛國ノ誠ヲ輸サザル可カラズ是ヲ以テ明治四十年三月勅令ノ趣旨ニ基キ各大字ニ鎮座セル村社則上横田稲荷神社下横田八宮神社髙谷八幡神社舳取神社伊勢根神明社及各大字内ニ散在セシ無格社淺間神社八幡神社雷電社神明社等ヲ當所諏訪神社ニ合祀シ社號ヲ八和田神社ト改稱ス此ニ於テ氏子戸數三百四十有餘ヲ算ス仝年九月上地官林五百二十八坪ヲ境内ニ編入シ面積千三百三十六坪トナル仝四十一年十一月舊神社ノ敷地及境外所有地ノ無量譲渡ヲ受ケ若干ノ財産ヲ得翌四十二年大字髙谷元八幡神社ノ社殿ヲ移シテ本殿ト為ス仝四十四年四月社務所ヲ建設ス大正六年十一月國有林壹段五畝歩縁故特賣ノ恩典ヲ蒙リ后開墾シテ畑トナス是ヨリ先大正元年九月暴風雨ノタメ樹木倒伏シ神楽殿ヲ破壊ス故ヲ以テ仝十二年再建イ経費千四百圓ヲ要ス是歳九月一日関東大震災アリ時宛モ建築中ナリシガ毫モ灾害ヲ蒙ラサリシハ神靈ノ冥助無極ヲ感セシメタリ昭和三年境外所有地處分ノ許可ヲ得テ基本財産ノ整理ヲナシタルハ其裨益大ナルヲ認ム仝四年向拜幣殿及夲殿ノ覆舎建築ト併セテ合祀記念碑建設ヲ謀リ氏子一統ノ協賛ヲ求メ二千五百余金ノ醵出ヲ得テ工事竣成ヲ告ゲシハ實ニ是歳十月也是ニ於テ社殿ノ結搆設備略其要ヲ得タリ顧ミルニ屢斯カル大工事ヲ爲シ巨額ノ費用負擔シ進テ勞役ニ服スル等誠ニ敬神ノ念深ク醇厚ノ俗ヲ表明シテ餘アリ  謂フ可キ也尓今益崇高ナル神徳ヲ景仰シ去筆就實ノ美風ヲ涵養センコトヲ期ス尚明治三十九年日露戦役ノ終了スルヤ時ノ陸軍大臣寺内正毅閣下ヨリ戰利品ノ内砲彈及鋤ノ奉納アリ今蔵シテ重寳タリ此儀典誠ニ敬神ノ範ヲ衆庶ニ示サルルモノト信ス聊合祀以来ノ概要ヲ摘勒シ以テ不朽ニ傳フト云爾
                       琴城僊史關口廣壽謹撰并書』
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 住吉神社。
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 春日神社。
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 天神社。
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 聖徳皇太子。
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 招魂社。
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 御神木の大杉。
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 二の鳥居前に厳島神社。
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『町指定史跡 奈良梨陣屋跡
 平成8年4月19日指定
 八和田神社東側に残る堀と土塁の一部は、戦国時代から江戸時代にかけて築かれたものと思われます。当時、鎌倉街道上道の宿駅として栄えた奈良梨において、現在の八和田神社の境内地になんらかの施設がおかれていた可能性があります。
 平成8年に実施した試掘調査の結果、この堀と土塁は並行してほぼ一直線に走っていることがわかりました。堀の断面形は「箱薬研」と呼ばれる中世の城や館を取り巻く溝に非常によく似ていました。土塁には、幾層にも丁寧に積み上げた状況が確認されました。あいにく時代を決定する遺物は出土しませんでしたが、以上のことから、周辺文化財・史跡等の総合的な見地で、広義の陣屋跡として指定されたものです』

八宮神社(小川町能増)

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 埼玉県道296号菅谷寄居線と県道184号本田小川線が接続する能増交差点の東300m程、市野川の畔に鎮座する八宮神社(比企郡小川町能増282

『当社は、市野川沿いに鎮座している。周辺は地勢的に耕地に恵まれていることから、古くから開けており、平安期の集落跡である岡原遺跡がある。また、交通の要所でもあり、当社の西脇に旧鎌倉街道が通る。付近の小名の「町場」が、往時の繁栄を偲ばせる。当社の創建年代は明らかではないが、当地を治めた豪族を祀った社であると伝える。鎮座立地から推して当地一帯の開拓者であったと考えられ、北殿・南殿という小名の地が周辺にあることから、有力者が存在したことは間違いない。中世には、かなり信仰を集めており、「風土記稿」によれば、万治元年(1658)の縁起に、戦国時代の松山城主、上田安独斎も当社を崇敬し、社殿の再建や神領の寄進を行ったことが記されていたと見える。また、社号は同書に「八宮明神社」と記載があり、別当は本山派修験の南光院である。
 当社は、元来は氏神であったと伝えるが、いつしか村の鎮守として崇敬されるようになったという。祭神は日本武尊で、当地と由縁が深く、当社の東にある市野川の「精進場」は、武尊が修祓を行って祭儀や参詣のために心身を清めた場と語り継がれる旧跡となっている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 拝殿。
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 斜めから。
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 本殿。
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 拝殿前に天神社・金刀比羅社。
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 本殿西側に末社。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には琴平・神明・浅間神社と記されているが、琴平社はおそらく拝殿前の末社に移されているので、神明社と浅間社であろう。
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 こちらの石祠二基についての記述は無いため、不明。

水神大権現(小川町高見)

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 県道184号本田小川線と四津山神社を結ぶ道の途中、ふと祠が視界に入ったので路肩に車を停めて素早く参拝。
 石祠の後ろにある石碑には「南無 火伏神 水神大権現」と刻まれている。また、石祠の背面には平成七年十月吉日建立とあり、石碑の背面には平成十年十月吉日とある。

四津山神社(小川町高見)

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 四津山神社の頂に鎮座する四津山神社(比企郡小川町高見1125)。
 埼玉県道184号本田小川線脇に四津山神社入口と刻まれた標石が建てられているので、そこから1km程西へ走って行くと、ふれあい四津山デイサービスセンターの先に四津山神社の入口がある。駐車場は無いが、退避エリアがあるのでそこに駐車。
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『四津山神社再建記念碑
 秀峰四ツ山山頂に鎮座する四津山神社神社は、火遇突智命を始め十七神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵なり。古来より火防の神としてその信仰厚く信者は関八州に及ぶ。
 四ツ山はかつて鎌倉街道上道を押さうる軍事上の要所にして、戦国の世には城築かれ、長享二年(1488)の高見原合戦を始め数度にわたり戦場となる。天正十八年(1590)豊臣秀吉関東平定の際近隣諸城とともに、城としての役割を終え徳川家康の関東入国によりて泰平の世となる。降って宝暦九年(1759)山麓の古刹真言宗高見山明王寺第七世住職権大僧都法印祐慶師の代に古来より境内に祀られし寺の氏神愛宕神社を三月二十四日山頂に遷座す。以来重誉師を始め時の住職は御神体を奉じて登頂し神事を執行せられたといえり。
 明治の世となりて、三十九年(1906)神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する勅令により、翌四十年四月三十日山麓高見の村社邊取神社及び能増の村社八幡神社を始め小社十一社を合祀し、山容地名に因み四津山神社と改称す。時に氏子数高見六十五戸・能増西地区十九戸なり。翌四十一年十一月神殿竣工以来益々氏子信者の崇敬の念厚く、事あるごとに神前に額づき、苦楽を分かちあいつつ、由緒ある郷土の歴史の中に多くの人材を育み来たれり。合祀以来大正八年(1919)神楽殿の竣工、同十四年峻険なりし参道を整然たる磴道に整備。昭和二十四年(1949)石鳥居の竣工。同五十八年参道の舗装等、氏子先人は一致協力して神域の保全に努め来たれり。しかるに、神殿は合祀以来九十年にも及ぶ星霜を経て、近年特に老朽化著しく、氏子一同は神霊の安らけきを願い、平成四年(1994)元旦祭に神殿改築を発願。同年五月九日氏子(百三名)総常会において再建を決議、建設委員会を設立せり。
 以来五年広く信者に奉賛を願いつつ、建立に関する討議を重ね、平成八年四月二十八日宮司より御神々の遷座の儀を執り行う後県重要遺跡たる城址の発掘調査を経、十一月三十日初冬の紺碧の天空に三本の幟を立てめでたく上棟祭。翌九年(1997)三月三十日山麓に在りし神々の神霊を宮司祭主のもと関係各位列席し、荘厳の内にも盛大に遷御の儀を挙行す。氏子の慶事ここに極まれり。
 これ偏に神々の御神徳と三百数十名にも及ぶ奉賛者及び関係各位氏子一同の努力の賜なり。この崇神の念に心より敬意と感謝を表すると共に奉賛者名簿を神前に献じ、神々に幾久しき御加護を願い、爰に御芳名を刻し其の徳行を後世に伝えんとす。
 維持平成九丁丑年十一月吉日』

 鳥居脇の石碑にも記されているが、愛宕神社に合祀されたのは高見村社辺取神社と無格社阿夫利神社、疱瘡神社、尺司社、六所社、浅間神社、天神社、八雲神社、熊野神社に能増村社八幡神社と無格社菅原神社の十一社。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、辺取神社の祭神は武甕槌命であり、鉄剣を御神体とする。古代の製鉄技術者集団から信仰されていたと考えられるのだそうだ。
 同じ「へとり」の名を持つ神社として、ここから東北東3.4km程の位置に兵執神社比企郡嵐山町古里766)がある。辺取と兵執はどちらも「へとり」と読み、また御祭神も武甕槌命である。なんらかの関係があるのだろうか。
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『四津山神社之碑  正四位勲二等男爵澁澤榮一題額
明治四十年四月三十日武蔵國比企郡八和田邨大字高見六十
五戸大字能増西組十九戸胥謀合祀高見邨社邊取神社無格社
阿夫利神社同疱瘡神社同尺司社同六処社同浅間神社同天神
社同八雲神社同熊野神社能増邨社八幡神社無格社菅原神社
之十一社於高見四津山々頂無格社愛宕神社為兩字之鎮因地
名改稱四津山神社葢奉明治三十九年勅令二百二十號之旨以
表敬神之意也按口碑此山増田四郎重富之居趾云然其詳今不
得而可考愛宕神社之創始亦然而山勢嵯峨高拔群山遠望之則
峯頭四方所以有四津山之稱也明治四十一年改修神殿至十一
月竣工仍爰勒其顛末於石以傳不朽云
明治四十二年四月
                 戸田宇八撰
                 石川 巌書』
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 ここから石段。左に行けば犬走り跡だが、とりあえず今回はのんびり城跡巡りをしている余裕はないのでそちらはパス。
『四津山神社磴道記
      埼玉縣知事従四位勲三等齋藤守圀題額
明治四十年四月移邨社邊取神社同八幡神社於此地与愛
宕神社合祀其氏子九十有餘戸是以月之三日及祭日之參
拜者頗多然參道險峻以不易登攀如老幼殊恐缺賽禮氏子
亦憂之謀磴道之築造久矣雖然工費多大造營不容易大正
四年會御即位大禮乗歡意大揚為其記念事業議決磴道之
築造積資十年的成千餘圓也於是大正十五年十月起工直
築造五階百五十餘級之磴道矣其工費實一千八百圓課役
參百餘人以十一月告成十二月行奉告祭在天之神靈應以
頷氏子等之欣抃不俟言也乃勒其顛末於石以垂不朽
                石川巌撰并書』
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 腰郭跡。
 四津山公園と書かれた看板があるが……公園?
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 不動明王と大黒天。
 不動明王は享和三癸亥年(1803)三月二十四日の造立。大黒天には八十八翁愚禅の名が刻まれているので、文政四年(1821)の造立になるのだろうか。
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 山頂に四津山神社。
 麓からここまでおよそ20分程。写真を撮ったりせずに登るだけならもっと短い時間で来られるだろう。
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 社殿脇の土塁から。
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『県指定史跡 四ツ山城跡
 小川町大字高見字四ツ山一一二五ほか
 平成十五年三月十八日県指定
 四ツ山城跡は、周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域一帯、南は市野川流域を一望できる要害の地に築かれています。市野川筋にはいわゆる鎌倉街道上道が走り、戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあって、交通路を押さえる重要な役割を果たしていたと考えられます。
 城跡は細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本廓と北に連なる三つの主要な廓によって構成され、それぞれ土塁と堀切によって画されています。
 文明十二年(1480)の太田道灌書状写に「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころに城が整備された可能性があります。長享二年(1488)に山内・扇谷両上杉氏の対立により激戦が繰り広げられた高見山合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられています。
 また、江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えています。「関八州古戦録」によると、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による関東平定の際に鉢形城主北条氏邦の家人が籠ったものの、戦わずして鉢形城へ逃げたといいます』
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八阪浅間神社(寄居町今市)

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 兒泉神社の北150m程の道路際に鎮座する八阪浅間神社(大里郡寄居町今市)。
 中央の石祠には「浅間大菩薩」「明和六年巳丑歳六月再建立」と刻まれている。明和六年は1769年。
 左右にも石祠があるが、どちらが八坂神社なのだろう。そしてもう一基は何神社なのだろう。

兒泉神社(寄居町今市)

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 天台宗寶珠山高蔵寺の西100m程、市野川の畔に鎮座する兒泉神社(大里郡寄居町今市690)。
『社伝によると、当社は、物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば、鎮座地は、初め明神台という地であったが、江戸期、別当を努める天台宗高蔵寺住職が、祭祀及び氏子の参拝の便を図り、寺の西一○○メートルほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については、現在、どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことから、この辺りにあったことが考えられる。
 当社には、児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政期(1804~30)に高蔵寺に移されている。現在、本殿には、白幣を奉安している。
 「明細帳」によると、明治四十年五月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。
(中略)
 明治四十年の合祀以前までは、地内の浅間山に鎮座する浅間神社の神体を半年ごとに麓の冬住神社に遷座するという興味深い祭りが行なわれていた。冬の間、浅間山は寒いので、浅間様が里の冬住神社に降りて来て、半年間宿り、夏になるとまた浅間山に戻るのだと語られていた。冬住という社名も、冬の間神が住み給うことに由来しているのだろう』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 参道脇には石燈籠が立ち並んでいる。
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 拝殿と狛犬。
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 斜めから。
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 末社殿。
 左から手長神社、冬住神社、天満神社、稲荷神社、浅間神社、天照大御神。
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 山神社。
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 神林取得記念碑。
 平仮名らしき部分がわかり難いので書き写すのは難しいが、要約すると、浅間神社旧境内の引裂上地林を大正六年(1917)十二月十四日に払い下げる手続きを行い農商務省より買受け、翌七年一月七日に兒泉神社の基本財産として登録したと記されている。
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 鳥居のそばから南を見ると、四津山が見える。
 ぴょこんと飛び出した妙な形の木があるが、それの少し右側に四津山神社が鎮座している。また、かつては四津山城という山城が建てられており、その城跡が残っている。

小被神社(寄居町富田)

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 出雲乃伊波比神社の南東300m程の位置に鎮座する小被神社(大里郡寄居町富田1508)。
 五年前は神社周辺が工事中だった為参拝できなかったが、今回は大丈夫。
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 二の鳥居。
 一の鳥居からは120m程の距離。以前は正中を直進するのは不敬であると言うことから、鳥居の前に石垣が築かれていたそうなのだが、現在はむしろ直進しろと言わんばかりの様子である。検索をかければその頃の写真などは見られるのだが、やはり実際に自分の目で見てみたかった。と言っても詮無きことではあるが。
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『小被神社 略誌
鎮座地 埼玉県大里郡寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神 主神 瓊々杵尊
    相殿 木花開耶姫命
    相殿 彦火火出見尊
由 緒 富田邑は、第二十七代安閑天皇の朝、千四百七十年前郡家郷富田鹿、塚越に居住
   せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
    延喜式内社 第六十代醍醐天皇延長五年平安中期に編纂された有名な書物に登録
   されて居ると云事。本年より数えて、一○八一年前。
    男衾郡総鎮守
    旧村社』

『当社は、「延喜式」神名帳に登載される男衾郡三座の一つで、古代から郡の惣鎮守として崇敬されている。
 社伝によると、古代当社を奉斎した氏族は、安閑天皇の時代、当地の豪族であった富田鹿で、これが郡の地主神である小被神を祀り、一社を建立したとある。富田鹿の事跡は、現在明らかではない。これについては。地内にある古墳時代後期の伊勢原古墳群の発掘調査の成果を待ちたい。
 また、この富田鹿のほかに古代当社に関与した氏族は、男衾郡に置かれた壬生部の管掌者として入植した渡来系氏族「壬生吉志」氏であると考えられる。この氏族の関連資料は「類聚三代格」と「続日本後紀」にある。これによると、男衾郡大領(郡の長官)の壬生吉志福正は、承和八年(841)自らの子供の生涯の調庸を全納し、承和十二年(845)には焼失した武蔵国分寺七層塔を独力で再建した有力者であった。おそらく壬生吉志福正は、男衾郡惣鎮守である当社に対し、大領としての政治的配慮から関与したものであろう。
 鎌倉期に入ると、当社は武蔵七党の猪俣党に属する男衾氏の崇敬を受けたといわれる。「武蔵七党系図」によると、猪俣時範の子、重任が当郡富田に移任し、男衾五郎と称した。また、その子の太郎もやはり富田に居住して无動寺氏と名乗った。両氏の館跡については、男衾氏が字堀の内、无動寺氏が字前塚越の現在の不動寺境内であると伝える。ちなみに、この不動寺境内の「大明神御下屋敷」と呼ばれる地は、当社の旧鎮座地であった。
 鎮座地の移転については、「武州男衾郡上下富田村与赤浜村境論之事」に次のようにある。天正年間(1573~92)、荒川の洪水により右岸にあった赤浜村は疲弊した。このため、当時この辺りを領していた鉢形城主北条安房守の臣、大久保氏が、赤浜村民に対岸の富田村馬草場を耕作地として与えた。ところは、その後、赤浜村民が富田村の村境を越えて土地を領有してきたので、富田村民は、江戸初期、当社を村境に移転し、境界を明らかにしたという。
 「風土記稿」によると、別当は京都智積院の末寺である大聖山真言院不動寺が務めた。
 明治期に入ると、神仏分離により不動寺は当社の祭祀から手を引くことになった。この時の「議定書」によると、明治二年、不動寺住僧弟子恵隆が還俗し、大富主殿と改名して当社の神職となっている。
 「明細帳」によると、明治四十年、堂ノ入と叺ヶ谷戸の山神社二社、大久保の愛宕社・原の内宮社・塚越の稲荷社・鳥羽の白山社・鷲丸の浅間社を合祀した。現在、当社内陣には狼の頭骨が納められているが、これは合祀した山神社の信仰にかかわった奉納品であろう。
(中略)
 当地の文化財として、明治維新に活躍した山岡鉄舟揮毫の社号額と軸が社務所にある。いずれも肉太で豪胆な筆勢をもって書かれたものである。このうち、社号額は、当時、鉄舟に誤って「男衾」と依頼してしまったとの逸話を持つもので、このためにいまだに拝殿に掛けられず、社務所内に掛けてある』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 拝殿。
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 斜めから。
 裏に回ると、白いスプレーでなんと書かれているのかも定かでない文字が落書きされていた。
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 狛犬。
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 伊勢原神明神社。
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 左から中郷愛宕神社、谷津白山神社、塚越稲荷神社、下郷内の宮社、牛頭天王宮。
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 石祠二基と冨士浅間大神。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」に描かれた境内見取図には天照皇大神、山神、山神、富士浅間と記されているのだが、一基足りない。天照皇大神は神明社の方にまとめられたのだろうか。

稲荷神社(寄居町赤浜)

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 寄居上水道男衾配水場の西脇に鎮座する稲荷社(大里郡寄居町赤浜)。
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 稲荷社の石祠背面には「昭和六十一年十二月吉日再建  祭主 坂本紋次」と刻まれたプレートが埋め込まれている。
 右側の小祠は不明。

柏田稲荷大明神(寄居町赤浜)

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 寄居上水道男衾配水場の東側に鎮座する柏田稲荷大明神(大里郡寄居町赤浜)。
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 石祠とお狐様。
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『御朱印柏田稲荷大明神について
 そもそも柏田稲荷大明神は文久二年(1862)、伏見稲荷大社の宮司様からご神体とともにその特許状(お墨付)をいただき、御朱印地の柏田に正一位以内大明神の祠を建立した。
 ところが、明治維新以後社会の変化につれて寺院は活力を失い、地域住民の意識や関心も薄れ、更に行政の無理解と無責任により無視され続けて今日に至った。寺院としても、そうして無為無策のまま放置していたのか。
 平成十八年、町営水道の新設に至り、壇信徒と地域住民の有志が協力して、柏田稲荷大明神復興のために東奔西走、全国各地に有名稲荷神社を訪ね、なかでも東松山市の箭弓稲荷神社、笠間市の笠間稲荷神社等、各社の宮司様から懇切なご教示を仰いで、その結果として京都伏見稲荷大社の宮司様に面会の栄を得、特許状の意味と価値の重みを改めて認識したのである。
 柏田稲荷大明神の平成鎮座に当たり、石沢区長会長、大久保町議、石渡県議の各位には一方ならぬ協力や助言をいただいたことに感謝の心を表したい。
 ここに五穀豊穣、万民豊楽、子孫繁栄、世界平和を祈願しつつ、壇信徒の皆さんや地域住民の方々からのご厚意に報いるものである。
 平成十八年五月吉日
      曹洞宗赤龍山昌国寺 二十一世住職 保坂達司 撰文』
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三嶋神社(寄居町赤浜)

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 塚田集落センターの隣に鎮座する三嶋神社(大里郡寄居町赤浜1973)。
『荒川右岸に位置する塚田の地は、「風土記稿」に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋神社応永二年(1395)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
 当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋神社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳三年(1392)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径一九・九センチメートル)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。

 大山祇命・木花開耶姫命・少彦名命の三柱を祀る当社は、氏子からは「女の神様なので、安産の御利益がある」と語られている。
 祭りは、元旦祭、二月の初午祭、三月二十七日の例祭、七月二十五日の八坂祭、十月十七日の秋祭りの七つである。
 例祭は、鰐口の「応永二年乙亥三月廿七日」銘からもわかるように、鰐口を作った日を祝う由緒ある祭りと伝えている。このため祭日を変更せずに現在に至っていると伝える。
(中略)
 かつて塚田千軒町と呼ばれて栄えた当地は、「風土記稿」に「三島社 小名塚田にあり、民戸十八軒の鎮守にて、其氏子のものの持とす」と記されるように、江戸期には既に小さな村落となっていた模様である。その時代は不明であるが、塚田の地は一度焼き払われたとの口碑があり、そのとき衰微したものであろうか。
(中略)
 氏子の間には、鰻を食べてはいけないとの禁忌がある。このため、土用の丑の日でも当地の人々は鰻を食べることは希であるという。また、古くはどこの田にも鰻が棲んでおり、氏子が農作業などの際にこれをつかまえると「神様のお使いだから」と言って、当社の境内の神池に放したものであった。
 このほかに、地内できゅうりを作ってはならないとの禁忌がある。しかし太平洋戦争中の食料不足からやむなく栽培することになり、当社で神職に禁忌の解除祈願を行ってもらい、以後、きゅうりが出来ると、その初物を神社に供えてから食べるようになっている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 虚空蔵菩薩を祀る地域では鰻を食べないと言う話はよく聞くが、三嶋神社でも神使は鰻だったかなと思いググってみたら、三嶋大神の本地仏は大通智勝仏であり、大通智勝仏は虚空蔵菩薩の威力を表す仏様であるそうなので、まぁそういう関連なのだろうね。
 きゅうりを作らないと言うのは八坂神社を祀る地域でたまに聞く話であるが、こちらの末社の一つにやはり八坂神社がある。
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 鳥居の手前右側に浅間神社。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 稲荷神社。
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 神明神社・琴平神社・八坂神社・天満天神社合殿。
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 県指定文化財である鰐口の案内板。
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 町指定天然記念物である藪椿の案内板。

伊古乃速御玉比売神社(滑川町伊古)

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 奥宮に参拝したのだから、ついでに里宮の方にもお参りして行こうかと思い、奥宮の東700m程の位置に鎮座する伊古乃速御玉比売神社(比企郡滑川町伊古1242)へ。
 こちらには以前にも一度参拝したことがある。前回は2009年7月だったので、6年ぶりになるか。
『伊古乃速御玉比売神社
 滑川町大字伊古
 昔は二ノ宮山上にあったが文明元(1469)年当地に遷座したと伝える。
 第六十代醍醐天皇は藤原忠平に命じて延喜式を編さん、武蔵国で四四座を数えた。その中の一社で県内でも古社の一つで、比企総社となっている。
 境内全域に自生する樹木は、南半部にアラガシを主とする暖帯常緑樹、北半部はアカシデ、ソロを主とする温帯落葉樹で両帯樹が相生していて学術上きわめて重要なため、県指定天然記念物である。
 段を登りきったところにそびえ立つ御神木「ハラミ松」は箭弓安産の祭神と相まって近年でも広く信仰がなされている。
 平成三年 月 敬白』

『当社は「和名抄」に載る比企郡渭後郷に比定される。読みは、水辺を表す「沼乃之利(ぬのしり)」とされる。この名残として、式内社である当社は、社名に伊古(渭後)を冠している。渭後は滑川に沿う細長い谷間の土地で、山あいに数多くの溜池が設けられ農業用水に利用されている。現在の溜池を古代にまで遡ることはできないが、古代においても溜池から水を引く方式は認められてよく、このことから渭後の地名も付けられたのであろう。
 なお、この渭後郷の地名については、渡来系氏族壬生吉志(みぶきし)と関連があったとする仮説が「東松山市と周辺の古代」(原島礼二)「古代東国史の研究」(金井塚良一)に載る。七世紀初頭前後に、比企及び男衾方面に横渟屯倉(よこぬみやけ)の管掌者として摂津国難波から入植した壬生吉志は、本拠地である難波の地名を比企の渭後、都家、高生、さらに男衾の榎津にもたらしたとする。葬制においても、これらの地は、従前の横穴式石室の腹部に膨みをもたせて胴張型に変化し、渡来系氏族の墓地として想定し得る。渭後郷を難波にある地名と関連づける理由は、渭後が「いかしり」とも読めるので、摂津国西成郡に鎮座する式内社座摩(いかすり)神社とかかわりがあるという。また、座摩の御巫が祀る神は、「延喜式」神名帳の宮中神に見える生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五座を示す。いずれも、井水や敷地を守護する神である。
(中略)
 当社は「延喜式」神名帳の「比企郡一座 小 伊古乃速御玉比売神社」に比定される。
 由緒は「明細帳」に、「人皇二十四代、仁賢天皇ノ御宇、蘇我石川宿弥ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ字二ノ宮ノ山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ、延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ」とある。
 祭神は、元来、渭後の地に坐す「速御玉比売神」である。これについては、「古代祭祀と文学」の「武蔵国式内社考」で、西角井正慶氏は、速御玉は渭後に坐す姫神の霊威を讃えたものであろうと述べている。「明細帳」には、当社祭神を、大靹和気命、気長足姫命、武内宿禰の三柱を載せる。
 また、別に当社の神を「淡洲明神」といい、これは「風土記稿」にも記録がある。「神社覈録」に当社の速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后神である天比理乃咩(あめのひりのめ)神の異名であると記される。「比企郡神社誌」の一説には、淡洲明神の洲は「しま」と読むことから紀伊国海草郡加太之浦に鎮座する淡島明神、つまり加太神社の神を当社に分霊したと思われる、とする。縁起によると、淡島明神は、住吉明神の妃で、帯下の病により淡島に流されている。以来、女人の下の病を守る神として、更に安産の神として信仰される。なお、当社付近には、分社であると考えられる淡洲神社が、滑川町水房、山田(二社)、福田、土塩、嵐山町勝田、太郎丸に鎮座する。
 「風土記稿」によると、別当は天台宗東叡山寛永寺末の岩曜山明星院円光寺である。三世秀海は貞享三年(1686)に示寂する。円光寺には、薬師堂があり、ここに安置する薬師如来像は、当社の本地仏である。社蔵の金幣にも「御垂迹速御玉比売神社」「武州比企郡伊古村本地薬師如来と刻まれる。当社の神は、本地薬師との関係か、諸病快癒、安産の信仰を伝える。ちなみに同寺は、中武蔵七十二薬師のうち、七十一番札所となっている。
(中略)
 滑川町一帯では、農業用水として数多くの溜池が造られているが、日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行う。雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ五メートル余りの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り、大いに揉む。次いで二ノ宮山頂に登り、山上の松の古木に蛇を縛りつける。蛇は、天に昇って竜となり雨を降らせる』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

『祭神は気長足姫命・大靹和気命・武内宿弥命で、御神体は、以前は金杯だったが、戦時中に供出され、現在は幣束であるという。
 「新編武蔵風土記稿」には、此の神社について次のように記されている。「一ニ淡洲明神ト云フ。今ハ専ラ伊古乃速御玉比売神社ト唱ヘリ。コノ社地元ハ村ノ坤ノ方、小名二ノ宮ニアリシヲ、天正四年東北ノ今ノ地ニ移シ祀レリ、祭神詳ナラズ。左右ニ稲荷・愛宕ヲ相殿トス。当社郡中ノ総社ニシテ、「延喜式神名帳」ニ比企郡伊古乃速御玉比売神社トアルハ即チ此社ノコトナリ。往古ハ殊ニ大社ニテ、一ノ鳥居ハ近村石橋村ノ小名青鳥ト云フ所ニ立リシト云フ。按ズルニ此内青鳥ト云フ所ハ「小田原役帳」ニ青鳥居トアリ。サレバ古ヘ鳥居ノアリシヨリ地名ニモオヒシナリト云フハサモアルベケレド、当社ノ鳥居ナリシコトハ疑フベシ。コトニ其間二里余ヲ隔テタリ。又此社式内ノ神社ト云フコト正キ証ハ得ザレド、村名モ伊古トイヒ、且此郡中総社トモ崇メルコトナレバ、社伝ニ伝ヘル如ク式社ナルモシルベカラズト。トニカク旧記モナケレバ詳ナラズ。(以下略)」、一方「埼玉県神社明細帳」には、「人皇二十四代仁賢天皇ノ御宇蘇我石川宿弥生ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ、字二ノ宮山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ。文明元年当地ニ遷座スト伝フ(以下略)」と記されている。
 なお、この神社は、明治六年に郷社に列格している。その時に、伊古の氏子だけでは人数が少なく、水房の鎮守の阿和須神社の祭神がこの神社と同じだったので、水房の人にも氏子になってもらって郷社の社格をもらったという。
(中略)
 境内社として八幡神社・琴平神社・天神社があり、また。「はらみ松」と呼ばれる松の大木があって、安産祈願のために人が訪れる。
 なお、「埼玉県神社明細帳」によると、境内社の愛宕神社が、字郷社前の八幡神社を合祀して八幡神社と改称したことが記されている。この八幡神社のかつての社殿は残っていないようである』
(「滑川村史 民俗編」より抜粋)

 石橋村は現在の東松山市大字石橋であり、青鳥の地名も残っている。以前参拝した石橋の弁天堂東松山市石橋)は青鳥城の三の丸跡になるが、あの辺りは字城山であるそうなので、もう少し東側になるのかな。伊古乃速御玉比売神社から青鳥交差点までは直線距離でおよそ5.6kmなので二里(約7.9km)には足りないけれど。いや、それでもかつては一の鳥居からの距離がそれだけあったと言うのは凄い。まぁ、疑わしいとも書いてあるのだけれど。
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 二の鳥居。
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 拝殿正面。
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 ふと足元を見たら、礎石に石臼が使われていた。
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 社殿斜めから。
 本殿覆屋周囲のコンクリートにも石臼がいくつか埋め込まれていた。
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 雨乞いの碑と天満天神宮。
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 金刀比羅神社。
 その周辺にも石臼が見える。
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 八幡神社。
 「滑川村史 民俗編」によると、古くは愛宕神社であり八口神社と稲荷神社を相殿としていたが、後に八幡神社を合祀して改称したと言うことである。
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 こちらも礎石には石臼を使っているのが見える。

 以上で9月5日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm 、DA15mm、DA35mm Macro、50-150mm II。*ist DSにFA43mm。X30。

伊古乃速御玉比売神社奥宮(滑川町伊古)

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 二宮山々頂に鎮座する伊古乃速御玉比売神社奥宮(比企郡滑川町伊古)。
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『二ノ宮山は、その昔武内宿禰が東国を巡察した折り、この山に登り里の状況を視察したと伝えられています。その後子孫が宿禰、神功と応神の三神を祀ったのが比企郡の総社といわれる伊古乃速御玉比売神社です。
 山頂の神社は、伊古乃速御玉比売神社の奥社として祀られており古くは二ノ宮山自体が信仰の対象となっていました』
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『改築記念
  宮司七十八翁能見武一先生篆額
鎮守伊古乃速御玉比賣神社はこの二宮の山上に祭祀されていた仁賢天皇の御代の草創といわれ延喜式神社帳にも明記されており昔は阿州大明神とよばれた大社で比企郡の総社でもあった
文明年間当時の伊子村の中央現在地に移し祀られたと伝えられているそして里人は二宮山上の跡地には小さな祠を建て奥の院と称して崇敬してきた豊作の神として名高い群馬県の榛名神社を合祀し毎年四月十五日に例祭を行っている
現在の祠はいつの頃建てられたものかつまびらかでないがながい風雪のため老朽化したので今回氏子総代等相謀り建築委員会を組織して大字内及び郷土出身の人々知名人などの協賛を仰ぎここに社殿の改築をしたのである
   昭和四十八年四月吉辰
              早川文泉撰文
              木村倉之助書
              武藤次郎施工』
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 八大龍神。
 昭和四十八年八月一日建とあるので、1973年の造立。
『八大龍神がいつ頃から二宮山上に祀られたかは詳らかでないが榛名神社を伊古神社の奥の院に合祀した頃ではないかと推測される
 旱魃の時里人がこの龍神に雨乞祈願をすると必ず雨が降るという霊験から雨乞の碑と呼ばれ崇敬されてきた
 近年碑が朽ちたので地元の篤志者大沢福次氏の寄進によって今日再建されたのである
               早 歳雄 謹記
       伊古神社宮司  能見武一先生代
       奉納      大沢福次』

 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、雨乞いを行う時は生きたヤマカガシを入れた長さ五メートル余りの藁蛇を作リ、よく揉んでから松の古木に蛇を縛りつけるという儀式を行うのだそうだ。そうすることで蛇が天に昇って龍となり、雨を降らせてくれると言うことらしい。
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 弥勒菩薩。
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 二宮山の中腹、伊古乃速御玉比売神社奥宮への石段右側にある御嶽塚。
 下から天満宮、覺明霊神・普寛霊神・一心霊神、清流祓戸神、十二大神、大口大神、日本武命、竃三柱大神、大己貴命、天御中主命、御嶽神社・八海神社・三笠神社。
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 展望台。
 高さ  全高23.7m   展望台21.0m   中間展望台7.3m
 面積  展望台41.0㎡  中間展望台82.4㎡
 この日はあまり天気が良くなかったので、望遠鏡を覗いても左程遠くまでは見えなかったのは少し残念だ。

八宮神社(滑川町和泉)

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 真言宗智山派泉福寺の北東350m程の位置に鎮座する八宮神社(比企郡滑川町和泉1573)。
 「はちみや」ではなく「やみや」と読む。古くは「やきゅう」とも呼んでいたそうだ。
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 石段を上り、鳥居とは逆方向に向かうと鎌足大権現と羽黒山が祀られている。
 石祠の側面には嘉永六丑年四月吉日と刻まれているので、1853年のものだ。
『鎌足権現(藤原鎌足)
 ごんげん様は足にご利益のある神様といわれて、古くから人々に親しまれてきました。いつの頃からか草履を供える習慣ができました』
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 改めて鳥居へ。
 鳥居から右側へ向かうと城郭の遺構が残っているそうなのだが、よくわからん。
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 広い境内。
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 拝殿。
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『八宮神社
滑川町和泉
祭神 素盞嗚尊 大己貴命
   火産霊命 倉稲魂命
   大山祇命 稲田姫命
由緒
 当社は素盞嗚尊の広徳を仰ぎ奉りて、里民此の地に祭神として奉祀したと云う。
 創立年代は不詳であるが、社地を含む小字の地名を八垣と云うのは命の詠歌の中の「八重垣」より選んだものと伝承され、当社の古社たるを知ることができる。神社前方には中世の城址や、建久二年に開山の泉福寺が在って往古より早く開けた地域と推察される。
 寛永二(西暦一六二五)年に村の鎮守となり、明治四年三月、村社の格に列した。
祭事
 新年祭 一月一日     例 祭 四月十九日
 夏 祭 七月二十五日   秋 祭 十月十七日
 新嘗祭 十一月二十七日  大 祓 十二月二十九日
平成二十五年十二月吉日』

『当社の祭神は、「郡村誌」や「比企郡神社誌」では素盞嗚尊とされているが、「明細帳」では、天照大神御子五柱命・月読命姫御子三柱命とされている。このように、出典によって祭神が異なる理由は不明であるが、「明細帳」では八宮神社の大半で祭神が天照大神御子五柱命・月読命姫御子三柱命とされていることから考えると、他社の例に倣ったもので、本来は素盞嗚尊が祭神であったと思われる。
 祭事は年七回あり、新年祭・祈念祭・大祭・夏祭り・秋祭り・新嘗祭・大祓の順で行われる。夏祭りは、通称を「灯籠祭り」といい、本来は旧暦六月十六日が祭日で、当番が灯籠を境内に飾るが、そのほかは祭典のみである。それは、泉福寺が幕末のころ、夏祭りの時に落雷に遭って焼失してしまったためで、以後、和泉では「ここの神様はにぎやかなことが嫌いだから」といって祭事を簡素にしているという』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

『境内社には、天神・稲荷・八幡・コンピラ様・コンセイ様などがある。天神は像の浮き彫りされた石祠、稲荷は石祠、コンセイ様は男根石である。これらは、もと泉福寺の裏にあったが、神仏分離の時に移されたものであるという。
 「埼玉県神社明細帳」によると、八宮神社は、明治四○年に字曲本の稲荷愛宕神社・字後谷の八雲神社・字船川の権両神社・字陳場の稲荷神社二社・字後台の稲荷神社・字後谷の山神社・字向の稲荷神社・字向船川の稲荷神社・字畑中の熊野神社、さらに大正三年に菅田村社の厳島神社を合祀したことになっている。「明細帳」には記載がないが、このほかに柴山の八幡神社も合祀されたらしい。なお、合祀された稲荷神社の中には田端稲荷とか市川稲荷、マンヤツの稲荷と呼ばれる稲荷も含まれているので、和泉では、ムラや部落で祀る神社だけでなく、イッケや個人で祀る稲荷などの小祠も神社合祀の対象となったらしい。菅田村社の厳島神社は、現在小さな祠があるが、祭は行われない』
(「滑川村史 民俗編」より抜粋)
 菅田の厳島神社と言うのは、もしかして6年前に参拝した弁天宮滑川町菅田)のことなのだろうか。
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 末社。
 左から八幡社、琴平社、稲荷社、天満宮、金精宮。
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 石祠に陽刻された天神様。
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 金精様。


八幡神社(塩)

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 埼玉県道11号熊谷小川秩父線の脇、塩集会所西側に鎮座する八幡神社(熊谷市塩142-1)。
「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によると、当初は八幡沢に鎮座しており、大永二年(1522)に本殿を再建し、慶長十三年(1608)に現在地に遷座。その後天明二年(1782)に本殿を再建し覆屋を新築した。八幡沢は現在地の南700m程の位置であるそうだ。
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 狛犬。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 大黒天。
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 末社殿。
 額等は無いので何神社が祀られているのかはわからなかったが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」によれば大黒天、三峰神社二社、山王神社、八坂神社、大歯神社、稲荷神社二社、琴平神社、天之手長男神社、山之神社、天満社が祀られているようだ。
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弁天神社(須賀広)

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 大沼の中に浮ぶ弁天島に鎮座する弁天神社(熊谷市須賀広)。
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 対岸から鳥居。
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 大沼の北側に弁天橋が架かり、弁天島と繋がっている。
 駐車禁止の看板が設置されているが、道端には車が何台も並んでいた。ちなみに駐車場は大沼の南側にある。
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 鳥居。
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 弁天神社。
 大棟にはとぐろを巻いた蛇のレリーフが見える。
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『埼玉県指定文化財 嘉禄三年銘板石塔婆(復元品)
 この板石塔婆はその創建当所の姿を新たに復元したもので、原資料は日本最古の遺例です。復元には原資料の計測値を参考にし、高さ一六○cm・上幅六○cm・下幅六三cm・厚さ十二cmとしました。これは、当時の尺度で五三寸・二○寸・四寸に相当します。
 画像は阿弥陀三尊像を宝珠状の光背に彫凹めて中央に主尊を陽刻し、左右対称の位置に脇時を主尊同様陽刻しました。三尊像は、浄土信仰に基づく来迎像を表わします。主尊は頭光と身光を彫凹め、その中央蓮座上に結跏趺坐する阿弥陀如来をふくよかな半肉彫に仕上げ、両手は胸の位置で転法輪印の印相を結びます。
 両脇に並ぶ仏は、左手に合掌した勢至菩薩・右に蓮実を抱いた観音菩薩で如来と同様半肉彫です。両菩薩とも礼拝者に対面するように中心寄に体を傾け蓮座上に膝を屈めた来迎姿勢で立ます。光背は三尊とも独立した三光背式で、脇時の光背は正しく左右対称となっています。

 銘文は、陰刻で偈頌と紀年銘からなり次のような意味をもっています。
  諸教諸讃(もろもろの経典のたたえる仏は)
  多在弥陀(ほとんど阿弥陀如来のことです。)
  故以西方(ゆえに如来のおられる西方浄土を)
  而為一准(礼拝のめやすとするのです。)
 紀年銘は風化が進み、不鮮明ですが次のように判読できます。
          太歳 二十
  嘉禄三年 六月       (一二二七年 六月二十二日 亥歳)
          丁亥 二日

 嘉禄時代までの半世紀は、源氏平氏の戦いに始じまり畠山重忠を筆頭に武蔵武士の興亡がめまぐるしく、鎌倉幕府は源氏三代の将軍から北条氏の支配へ固められた激動の時期でした。兵乱や政情不安定による国内不安に加え、嘉禄前後は全国的な飢饉が度々起こりました。わずか十年程の間に「貞応・元仁・嘉禄・安貞・寛喜・貞永」と次々と元号が改められています。
 当時、江南町は武蔵国男衾郡に当たり畠山氏父祖以来の本拠地と考えられています。元久二年(一二○五)畠山重忠が謀殺され、畠山氏の一族郎党達はことごとく滅ぼされました。領地は重忠夫人の領地を除きすべて没収されましたが畠山の家名は残されました。一説に、嘉禄三年は重忠の二十三回忌に当ることから、畠山氏ゆかりの者達が重忠と一族の供養のためこの板石塔婆を建てたとする推測があります。しかし、なお多くの謎を秘めたままです。
 平成 二年 六月』
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 嘉禄三年銘板石塔婆のレプリカ。
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九頭龍権現(押切)

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 持田稲荷神社の西北330m程、墓地の端に鎮座する九頭龍権現(熊谷市押切)。
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 右側面には天保十己亥年二月吉日建之と刻まれているので、1839年のもの。
 ここから250m程も北上すれば荒川が流れている。洪水除けの祈願の為に建てられたものなのだろうか。
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 墓地の入口手前に鎮座する稲荷大明神。

持田稲荷神社(押切)

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 下押切公園の南側、下押切集会所の隣に鎮座する持田稲荷神社(熊谷市押切313-3)。
 ググってみると、押切村の名主の一つである持田家の祀る稲荷社であったが、明治四十三年(1910)の荒川の洪水によって流失し、現在地へと遷座したのだそうだ。
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 お狐さまと社殿。
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 参道右側には安永七戊戌年正月(1778)造立の庚申塔。左側には……なんだろうこれ。
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