感應稲荷神社(西浅草三丁目)

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 浅草寺の西、東京都道462号蔵前三ノ輪線に東面して鎮座する感應稲荷神社(台東区西浅草3-16-13)。
 「台東区の神社と祭り」の記述によると、創建年代は不詳ながら古くから柴崎村に鎮座していたと言い、天正十九年(1591)に本銀町に遷座し、この頃より感應稲荷と呼ばれるようになったとのこと。その後文禄元年(1592)と明暦三年(1657)にも移転したが、ついには元地に戻って来たのだそうだ。
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 鳥居をくぐってすぐ右手側に末社。何神社なのかは不明。
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 拝殿。
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 お狐様。
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 以上で10月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、DA70mm。X30。
 この後は秋葉原まで歩き、新刊を購入してから帰宅。ウォーキングカウンターは22,523歩。
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箭弓稲荷神社(浅草三丁目)

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 浅草寺の北西、言問通りから少し北に入った所に鎮座する箭弓稲荷神社(台東区浅草3-19-4)。
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 「台東区の神社と祭り」にはこちらの神社の記述が無く、東松山市の箭弓稲荷神社からの分霊と推測されるものの詳細は不明。

待乳山聖天(浅草七丁目)

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 今戸神社の南200m程の位置に鎮座する、待乳山聖天こと聖観音宗待乳山本龍院(台東区浅草7-4-1)。
 公式サイトはこちら
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 池波正太郎生誕地碑。
 ちなみに自分は「仕掛人・藤枝梅安」シリーズしか読んだことが無い。
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『待乳山聖天
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇九年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀ったといわれる。
 ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東部随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、
  哀れとは夕越えて行く人も見よ
        待乳の山に残す言の葉
の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和三十年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡来の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根。巾着の意匠は、当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。一月七日大般若講大根祭には多くの信者で賑う。
 なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和三十六年に再建されたものである。
 平成十一年三月』

『トーキー渡来記
リー・デ・フオーレスト博士は明治六年米國アイオワ州に生れ無線電信電話の開拓者として三百有余の特許権を得ラジオの父と仰がる、大正十二年更にトーキーを発明、紐育市に於て上映世人を驚かせたり。大正十三年故高峰讓吉博士令息エヴエン氏來朝の際、余親しくその詳細を聴きて将來に着目す、翌年渡米、博士の好意により東洋におけるトーキーの製作及び配給権を獲得したり。依て米人技師を帯同帰國、大正十四年七月九日宮中に於て天皇皇后兩陛下の天覧に供し各宮殿下の御覧を仰ぎたる後一般に公開せり。トーキーの我が國に招來されたる之を以て初めとす。以來余、我國におけるトーキーの製作を企図し、日本人技師をフオーレスト博士の許に派して技術を習得せしめ余の渡米もまた前後九回に及べり。大正十五年大森撮影所において撮影を開始し、ミナトーキーの名を冠して黎明、素襖落、大尉の娘等の劇映画を完成す。これ我國におけるトーキー製作の濫觴なり。爾来トーキーは日進月歩、昭和三年の衆議院議員普通選挙には時の田中首相及び三土、山本、小川の各閣僚が自ら画中の人となりて政見を発表する等の普及発達をみたる外ミナトーキーは上海を始め東洋各地にも大いに進出するに至れり。
今やトーキー我國に渡來してより三十年を閲するもフオーレスト博士の発明形式は依然として世界各國に踏襲さる。博士の業蹟偉大なりというべし。加うるに我國テレビジヨンの発足もまた実に博士の力に依れり。昭和二十三年、フオーレスト博士は極東軍総司令官マツカーサー元帥を介して余に日本におけるテレビジヨンの創設を慫慂したり。余正力松太郎氏にその意を伝う。正力氏夙にテレビジヨンの創設に意あり、フオーレスト博士の勧奨を機とし、氏独自の構想の下にテレビジヨンの実現に努力し遂に昭和二十七年テレビジヨン電波許可第一号を受け、日本テレビ放送網株式会社を創立し余もまた役員に加わる。翌二十八年八月三十日日本における最初の電波を出せり。これ偏に正力氏の業蹟に依ると雖もまたフオーレスト博士の日本への友情に基くものというべく吾人の感謝措く能わざるところなり
今日トーキーの普及発達は実に目覚しく、テレビジヨンの普及もまた瞠目に値す。フオーレスト博士の文化に貢献する処絶大なりというべし、茲に余の旧縁の地待乳山の名蹟を卜して碑を建てトーキー渡来の由來とテレビジヨン創成の縁由を刻して博士の功績を讃え併せて報恩の微意を表す。
 昭和三十一年五月吉日  建碑者 皆川芳造』
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 庚申塔と青面金剛と聖観世音菩薩。
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 参道。
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 腰壁には大根と巾着のレリーフが施されている。
 そして左上で観音様がみてる。
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『出世観音像
 昭和十一年境内整地のおり御頭のみが出土され足利末期(1,600年頃)の作と鑑定された。学業・芸道に志す者の尊信をあつめている』
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『歓喜地蔵尊
 数度の火災に遭い、その尊容とどめていないが古来より子育地蔵として伝承され、霊顕あらたかな尊として信仰されている』
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『築地塀
 江戸時代の名残をとどめる唯一のもので貴重な文化財である。全長二十五間(45.5m)
 広重の錦絵にも描かれている』
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 神楽殿。
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 狛犬。
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 本堂。
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『銅造宝篋印塔(台東区有形文化財)
 台東区浅草七丁目四番一号 本龍院
 宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔である。本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもつ宝篋印塔で、時代性をよく表している。基礎に刻まれた銘文から、天明元年(1781)に鋳物師西村和泉守が制作し、蔵前の札差等十六名が奉納したものであることが分かる。西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて、十一代にわたり鋳物師を務めた家で、本塔の作者は五代西村政平にあたると考えられる。
 銅造の宝篋印塔は全国的にも類例が少なく、とくに区内では造立当初からほぼ完全な形で遺された唯一の事例である。各部の装飾は優れており、鋳物師の高い技能を知ることができる。また、蔵前の札差の奉納物としても貴重な歴史資料である。
 平成十四年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。
 平成十九年三月』
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 稲荷尊。
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『糸塚
 十一世杵屋六左衛門(後に三世杵屋勘五郎)建立
 この糸塚は元治元年(1864)十一世杵屋六左衛門が父十世杵屋六左衛門の遺志に依り供養の為建立せるものにして
 十世六左衛門 三世勘五郎共に長唄三絃の名人と云われた人である
 昭和六十三年四月 六世杵屋勘五郎記』
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『戸田茂睡歌碑
 茂睡は元禄の頃(1688~1704)活躍した歌人で、歌道の革新を唱えた。江戸最古の歌碑と称されたが、戦火に遭い昭和三十年拓本をもとに再建された』
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『天狗坂
 昔時は大木がうっそうと生い茂り、坂を下りたところに竹屋の渡しがあった
    天狗坂 夕木枯の
       おもいでに
           久保田万太郎』
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 天狗坂の階段は通行禁止になっているので、回り込むとここ、東の通用門側に繋がっている。
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 狛犬。
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 浪曲双輪塔。
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 浪曲双輪塔のそばにも狛犬。

今戸神社(今戸一丁目)

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 都立浅草高等学校の東側に鎮座する今戸神社(台東区今戸1-5-22)。
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『今戸神社
御祭神 應神天皇
    伊弉諾尊・伊弉冉尊
    福禄寿
 当社は元今戸八幡宮と称し、後冷泉天皇の時代康平六年(1063)源頼義、義家父子は勅命に依り奥州の夷賊安太夫安倍貞任、宗任を討伐の折今戸の地に到り、京都の岩清水八幡を鎌倉鶴ヶ岡八幡と浅草今津村(現今戸)に勧請しました。
 應神天皇の母君神功皇后は新羅を始め三韓親征の際、時恰も天皇を宿されその帰路天皇を九州筑紫で誕生されました。
従って應神天皇を別名胎中天皇・聖母天皇とも称し、安産子育ての神と崇敬されております。
 伊弉諾尊・伊弉冉尊御夫婦の神は加賀の白山比咩神社の御祭神にして、嘉吉元年(1441)千葉介胤直が自分の城内に勧請しました。
諾冉二神は子孫の繁栄を与えられると共に縁結びの神と崇敬されております。
 昭和十二年今戸八幡と合祀され今戸神社と改称されました。
 今戸の地名は古くは武州豊島郡今津村と称し、その後今戸(別字今都)となりました』
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 狛犬……金網でよく見えぬ。
 今戸神社公式サイトの記述によると、こちらは宝暦二年(1752)に今戸焼の職人によって寄進され、その後、文政五年(1822)に再興されたとのこと。また台東区有形文化財に指定されているそうだ。
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 千成瓢箪の如く、ずらりと掛けられた円い絵馬。
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 狛犬二号。
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 拝殿正面。
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 招き猫と福禄寿。
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 社殿斜めから。
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 なで猫。
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『今戸焼
 台東区今戸一丁目五番二十二号 今戸神社
 今戸焼とは現在の台東区今戸の地で焼かれてきた日用品の土器類・土人形類のことで、かつては江戸を代表する焼き物として繁栄していた。地元の今戸神社にある狛犬台座には宝暦二年(1752)に奉納した四十二名の陶工らの名が刻まれており、数多く軒を並べていたことが伺える。
 今戸焼の起源は定かではないが、伝承では天正年間(1573~91)に千葉氏の家臣が今戸辺りで焼き物を始めたとか、徳川家康入府後三河の陶工が今戸に移って来たともいわれる。「今戸焼」の名としては十八世紀末頃から明らかに見られ、十八世紀前半頃に本格的な土器生産が始まったと思われる。隅田川沿岸はかつて瓦を含めた土製品の生産が盛んであったようで、瓦町の名や瓦焼が早くから知られていた。江戸時代の文献である「江戸名所図会」には瓦作りの挿絵がみられ、「隅田川長流図巻」(大英博物館所蔵)には今戸焼の窯が描かれている。
 近年の江戸遺跡の調査によって施釉土器、土人形や瓦等が多く出土し、そのなかには今戸焼職人の名が刻印されている土器・土人形、今戸の地名を印した瓦も見られ、隅田川沿岸の窯業との関連が注目されている。
 関東大震災や東京大空襲により職人が次々に区外へ移り、現在今戸には一軒のみが残り、伝統を伝える「口入れ狐」や「招き猫」などの人形が今でも製作されている。
 平成十三年三月』
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 授与所。

浅間神社(浅草五丁目)

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 浅草警察署の斜め向かいに鎮座する浅間神社(台東区浅草5-3-2)。
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『浅間神社(浅草のお富士さん・台東区有形民俗文化財)
 台東区浅草五丁目三番二号
 浅間神社は、富士山への信仰に基き勧請された神社で、神体として「木造木花咲耶姫命坐像」を安置する。
 創建年代は不明だが、「浅草寺志」所収「寛文十一年江戸絵図」に表記があり、江戸時代初期の寛文十一年(1671)までには鎮座していたようである。現在の鎮座地は、約二メートル程の高みを成しているが、中世から江戸初期にかけて、関東地方では人工の塚、あるいは自然の高みに浅間神社を勧請する習俗があったとされており、当神社の立地もそうした習俗に基くものと思われる。
 江戸時代には浅草寺子院修善院の管理のもと、修験道による祭祀が行われ、江戸を代表する富士信仰の聖地として、各所の富士講講員たちの尊崇を集めた。明治維新後は浅草寺の管理を離れ、明治六年には浅草神社が社務を兼ねることとなり、現在に至っている。
 本殿は、平成九・十年の改修工事によって外観のみ新たに漆喰塗がほどこされたが、内部には明治十一年建築の土蔵造り本殿が遺されている。さらに、この改修工事に伴う所蔵品調査により、江戸時代以来の神像・祭祀用具・古文書などが大量に確認された。
 これら、本殿・諸資料群・境内地は、江戸時代以後の江戸・東京における富士信仰のありさまを知る上で貴重であり、平成十一年三月、台東区有形民俗文化財に指定された。
 祭礼は、毎年七月一日の「富士山開き」が著名で、また、五・六月の最終土・日曜日には植木市が開催されている。
 平成十二年三月』
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 拝殿。
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袖摺稲荷神社(浅草五丁目)

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 合力稲荷神社の北西160m程、紙洗橋交差点そばに鎮座する袖摺稲荷神社(台東区浅草5-48-9)。
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『袖摺稲荷神社
御祭神
 素盞嗚尊 稲蒼魂命
縁起
 今より約八百年前、源頼朝卿が伊豆に蟄居のときのこと、兵糧でもある米穀が乏しくならないよう稲荷の神体を彫刻し、豆州北条に一社を建立したのが当社のおこりと云われています。後に伊勢新九郎(後の北条早雲)が小田原に移った際に、その神体を城内へ遷座したところ多くの奇瑞が顕れたといいます。このことから開運稲荷と尊称されました。
 小田原城落城に至り、この稲荷に信心あつい小西半右衛門という者の夢に稲荷の神があらわれ「我を供奉して隅田の辺に下るべし」と御告げがあり、天正十八年、小西は神体と鈴とをもって当所に仮殿を設けることにしました。仮殿を建てんとしたところ土中より一仏が出現し、洗い清め見ると十一面観音であり、実に稲荷の本地仏なりと喜び本社へ移し奉りました。
 のちに奇瑞あらたなることから、徳川四代将軍家綱公より町屋御免を賜り、当地へ遷座しました。霊験あらたかにして諸穀の豊穣を司り、願望を成就せしめ一切の災を除く故に、参拝の輩は群集をなし、神籬にそですり通うことから「袖摺里稲荷」が神号となり、「袖摺稲荷」と変化しました。
 平成二十年』
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 お狐様。

合力稲荷神社(浅草六丁目)

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 熱田神社の南西200m程、浅草馬三町会事務所隣に鎮座する合力稲荷神社(台東区浅草6-42-8)。
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『合力稲荷神社
御祭神 保食命
御社殿 神明造
御創建 永禄年間(1558~70)
縁 起 当社は永禄年中山谷村百姓一同にて郷中鎮守と奉斎す有り御祭神は生活の基をな
   す食を司る神として御神威を発揚され約四百数十年郷民の尊崇を集めている』
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『三ノ宮卯之助の力石
 三ノ宮卯之助(1807~1854) 埼玉県越谷市出身
 江戸一番の見世物興行の力持ちで各地の神社や寺院で勧進興行をした。又江戸方の代表として大阪方の代表を破り日本一にもなった
 力石は持ち上げて力自慢を競う為の石で各地で卯之助の名を刻んだ石が発見されている
 当社には【足持石】と刻んである為、他に類を見ない足で持ち上げた石であろうと推測される』
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 本殿。
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 「当社奉仕以來秋葉徳右衛門満二十年」記念碑。
 背面には大正十二年四月建之と刻まれている。
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熱田神社(今戸二丁目)

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 東浅草一丁目交差点の北東に鎮座する熱田神社(台東区今戸2-13-6)。
 「台東区の神社と祭り」によると、当社は元亀二年(1571)六月の創建と伝えられるが、「御府内寺社帳」には元鳥越と同年なりと記されているとのこと。その後正保二年(1645)に幕府御用地とされた為、替地となった豊島郡三谷村に遷座。
 御祭神は日本武尊と橘姫命。
 境内社として厳島神社と稲荷神社、疫神、麻疹神、霊神を祀るとあり、厳島神社と稲荷神社は元々当地で祀られていたが、熱田神社が移転して来た際に合祀されたのだそうだ。厳島神社の祭神は素盞嗚尊、田霧姫命、湍津姫命、市杵島姫命。稲荷神社の御祭神は大物主命と豊受姫命であるとのこと。しかしググってみると、末社は弁財天社、八幡社、青木稲荷社、庚申金毘羅合殿、天満宮疱瘡神福寿稲荷合殿、霊神社であるそうだ。んー、そんなに末社あったかなぁ?
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 拝殿。
 賽銭箱には八雲紋が刻まれている。
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 狛犬。
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 池の畔にあり、神紋は波に三つ鱗紋となれば、こちらは厳島神社であろう。
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 豊川出世稲荷神社。
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 その脇には小さな鳥居が建てられている。
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 溶岩に開いた小さな穴の前にお狐様。
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弁財天(清川一丁目)

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 清川分室通りに面して建つ真言宗金智山宝蔵院妙音寺の境内に鎮座する弁財天(台東区清川1-3-5)。

玉姫稲荷神社(清川二丁目)

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 寶珠稲荷神社の東100m程の位置に鎮座する玉姫稲荷神社(台東区清川2-13-20)。

『玉姫稲荷神社社歴
創 建   天平宝字四庚子年(760)
祭 神   宇迦之御魂命
勧 請   創建の時、京都伏見稲荷神社の御分霊を祀る
社号の由来 正慶二年(1333)新田義貞鎌倉の北条高時を追討の際当社に参拝し、戦勝を祈
     願せし時、稲荷大神の像を瑠璃の宝塔に納めせしより玉秘(たまひめ)の名起る
列 格   明治五年十一月十七日の村社に列格せられる
氏 子   日本堤二丁目西町会・東清南町会・浅草東清南町会・清南町会
      東浅草二丁目中町会・日本堤一丁目中央町会・日本堤二丁目東町会
大祭日   六月の第一土曜・日曜
縁 日   毎月一日、十日、二十日
末 社   八神殿には、白山・金刀比羅・八幡・松尾・八坂・天祖・春日・王子の八神
     を祀る
初宮詣   男児は三十一日に、女児は三十三日目に氏神に詣ず』
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 拝殿。
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 狛犬。
 台座には昭和十五年十一月と刻まれている。
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 拝殿前に小さな祠があるが、これはなんだろう。
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 矢吹丈と白木葉子の立て看板。
 ちばてつやか梶原一騎のどちらかが当地の出身だったのかな? と思ったら、あしたのジョーの舞台が泪橋だからということらしい。なるほど、ここから300m程北西にある、吉野通りと明治通りの交わる交差点の名前が泪橋交差点だ。
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 摂社である口入稲荷神社の鳥居。
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『口入稲荷神社の由来
 抑も当社は江戸新吉原に高田屋と云う口入宿(現在の職業安定所)の庭内に年久しく鎮座してありましたが安永年間(1772~81)の頃、此の高田屋の主人が或夜夢に口入稲荷大明神が現れまして吾を玉姫稲荷神社の境内に遷し祭れば参詣する信徒の人々に尚一層利益を授け、又、諸々の願い事を速に叶えさせるとのお告げに依りまして、其の年の十一月二十日に此の玉姫稲荷神社境内に御遷座致したので御座います』
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 扁額には口入稲荷神社の名が刻まれ、八代目松本幸四郎謹書とある。
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 宝珠型燭台には口入稲荷狐人形がずらりと並んでいる。
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 左の石祠は不明。右は若宮八幡大明神・水神宮。
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 こちらの石祠も不明。

 さて、玉姫稲荷神社の拝殿脇に末社である八神殿があるそうなのだが、うっかり見落としてしまったようだ。

寶珠稲荷神社(清川二丁目)

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 東京都道464号言問橋南千住線東浅草二丁目交差点北側に鎮座する寶珠稲荷神社(台東区清川2-15-1)。
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『寶珠稲荷神社社歴
一、祭神 倉稲魂命
  浅草寺志によると、文化十癸酉年頃(1813)の當神社の御神躰は「大日命」とあります
 が、明治維新政府の神仏分離政策によって、現祭神に合祀されたものと拝察されます。
  奥の院には京都伏見稲荷大社より當祭神の御使として勧請した「白狐稲荷」をお祀り
 しております。
  京都伏見稲荷大社の稲荷山に「寶珠稲荷大善神」の石神を御祀りいたしております。
一、例祭 初午祭 二月十一日執行
一、功徳 火伏、商売繁昌
一、祭禮 町が浅草神社(三社)の氏子であるので、三社祭禮と同時に行っております。
一、宮司 浅草神社(三社)宮司が兼務しております。
一、由緒 旧社格 無格社、明治六年 列格
     昭和二十一年 六月 終戦後GHQの要請により「神社の社歴」を申請。
     昭和二十八年十二月 宗教法人成立、登記
     昭和四十一年 七月 神社本庁の承認を得て、「寶珠稲荷神社」と社名を変更
一、起源 當神社の起立に付ては、明確な資料がなく、その創建年代を確立することは不
    可能でありますが、古文書によると、戦国時代の開幕を嚆矢された戦國大名北條
    早雲の五代目小田原城主後北條氏直が、室町時代末期、天正十七己丑年(1589)九
    月、浅草寺門前町の「浅草町」に於て、初めて「観音市」を開かれ、その市を取
    り締まる為めに、町に後北條氏の虎朱印の「禁制」が出されました。
     その當時、浅草町に寶珠稲荷神社が鎮座し、町民が守護して居ったのでありま
    す。其後、神社は町と共に、数回移動し、浅草智楽院(伝法院前身)の内、駒形
    廣小路小あけ衆屋敷跡に在った時、その土地が幕府の用地となり萬治元戊戌年
    (1658)に本所亀戸村に替地を給されました。又その地にあった本所御旗本衆御扶
    持持人衆が屋敷替になった為め、附近に殆ど居住しているものがなくなり、又場
    末でもあり、町民が渡世が出来なくなったので、天和二壬戍年(1682)十月に名主
    と町民が奉行所に替地請願の「訴訟状」を提出し、町は山谷町と小塚原町の中間
    の現在地(旧浅草町全域)に替地を給されました。
     神社は町とは別に奉行所よりの特別の指示により、浅草寺除地(現在地)間口
    九尺、奥行二十間の土地を賜はったのであります。
     明治三十五年八月十日、隣接地の氏子より土地八十一坪六合を売買によって所
    有権を取得しました。
     大正十二年九月関東大震災には、境内地の各社殿及種々様々多数の樹木を全焼
    いたしましたが、「御神霊」は社守によって無事守護され、仝年十二月南千住大
    西由蔵氏の絶大なる御篤信によって「拝殿」が新規造営寄進され、「御神霊」を
    奉安いたしました。
     昭和二、三年頃當地区に、特別都市計画に基く、区画整理が施行され、地積は
    大幅に減じられましたが、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和二戍
    年十月奉行所よりの特別指示で賜った大半の土地が現在も氏子の絶大なる協力に
    よって引続き維持されております。
     昭和二十年三月大東亜戦争末期の東京大空襲の際、神社の灼なる御神徳の御加
    護と氏子の必死の消火活動により、境内地の全建物は消失の難を免れたのであり
    ます。總代、氏子、崇敬者の絶大なる御協賛により、左記の事業を行う。
     土地 六十二坪三合六勺 (区画整理後五十六坪二合九勺と大幅に減じられま
    したが、昭和四十四年五月 台東区より土地六坪七勺を減額譲渡にて購入、併し
    たものであります)
     昭和四十五年 十月 旧社務所に会館を増設し寶珠会館と總称す。
     昭和五十一年十一月 拝殿屋根大改修及境内地周囲の御影石の玉垣及参道両側
    に御影石の旗立新設。
 昭和五十四年二月』
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 拝殿。
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 お狐様。
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八坂神社(小川町上横田)

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 上横田会館脇に鎮座する八坂神社(比企郡小川町上横田1212)。
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 以上で10月18日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA50mm、50-150mm II。X30。

雲龍寺(小川町靭負)

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 熊野神社の南隣に曹洞宗竹沢山雲龍寺(比企郡小川町靭負637)。

『雲龍寺は、竹沢山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代には、大塚村大梅寺の末であった。本尊は釈迦牟尼仏で、寺宝として釈迦八相の図が伝えられている。
 寺伝によれば、雲龍寺は、嘉元二年(1304)に、後深草天皇に仕えていた竹沢左近将監が、この地に草庵を設けて開創したものであるという。また、口碑によれば、雲龍寺は天正十八年(1590)に大火によって焼失し、その後長い間村内に寺のない状態が続いていたが、享保四年(1719)に再興されたという。これを雲龍寺の中興とし、中興開山の邦秀は「新編武蔵風土記稿」によれば享保七年(1722)の没となっている。ちなみに、この中興開山の邦秀という僧は、本山である大梅寺の三世である。
 なお、靭負は、この地を本拠とした武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が館を置いたところであり、雲龍寺の裏山に祀られている熊野神社の境内には竹沢氏の祖である竹沢二郎行高のものといわれる五輪塔があり、社殿の背後にはその館跡とされる平場がある。この熊野神社は、神仏分離まで雲龍寺持ちであった』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 薬師堂。

熊野神社(小川町靭負)

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 東武東上線東武竹沢駅の東300m程、曹洞宗竹沢山雲龍寺の裏に鎮座する熊野神社(比企郡小川町靭負343)。
 雲龍寺の標石があるけど、こちらは熊野神社の参道入口。そして左手側には雲龍寺の駐車場。

『竹沢郷一帯は、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて活躍した武蔵七党児玉党の一支族である竹沢氏が開発し、本拠地とした所である。竹沢姓を初めて名乗ったのは、児玉保義の子二郎行高であり、その子孫の右京亮は、足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られる。当社の北側の山にある平場跡は、この竹沢氏の居館跡と伝えられており、境内には竹沢氏の供養塔といわれる苔生した五輪塔がある。
 靭負の鎮守として祀られてきた当社の南側には、神仏分離まで別当であった雲竜寺がある。寺伝によれば、同寺は、後深草天皇に仕えた竹沢靭負が嘉元年間(1303~06)にこの地に草庵を設けたことに始まるとされる曹洞宗の古刹である。当社の創建の年代は明らかではないが、この寺伝から推察して鎌倉時代のことといわれている。ちなみに、靭負(ゆげい)とは、宮城の警護に当たる官人のことで、一族の中からは、江戸時代に靭負として出世した人物も出ているという。
 昭和三十八年、境内の大杉が町から天然記念物の指定を受けた。この杉は、樹高三三メートル、目通り三・四メートルという大きなものである。昔はもっと大きな杉が鳥居の脇にあり、指定木となっている杉と共に大切にされていたが、残念なことに太平洋戦争後間もなく落雷に遭い、枯死してしまった』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 靭負は官職名としては「ゆげい」と読むが、地名や人名の場合は「ゆきえ」と読む。
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 一の鳥居。
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『郷土史案内 平成二十三年(2011)記述
 この記念碑は大正八年(1919)に当熊野神社々殿が改築されたのを記念して設置されたもので、碑の正面には「閲額」(武蔵一の宮氷川神社宮司額賀大直氏)と経過を綴った碑文(撰文社掌根岸学丸氏)を掲げ、裏面にはこの事業に賛画された方々に加え、明治二十三年(1890)宿願の社殿新築がなされた折に尽力された人達をも刻するなど、万事にぬかりが見られず、そしていま……先人達が鎮守の社に掛けた思い・願いを伝えるこんも碑も時を経て百歳を迎えようとしています』
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 狛犬。
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 拝殿内部と本殿。
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 大山神社、天満宮。
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 竹沢二郎行高を供養する為のものと伝えられる五輪塔。
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 町指定天然記念物の大杉。

白鳥神社(小川町勝呂)

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 兜川の源流の一つである西浦川の畔に鎮座する白鳥神社(比企郡小川町勝呂316-2)。

『当社南方一キロメートルほどにある地を小名神出(じんで)と呼んでいる。ここは古くからマンガン・黄銅鉱などを産出する所である。
 当社の創祀伝説は、この鉱脈とかかわりが深い。
 村内の谷津(現在の字神出)で夜ごと光るものがあり、村人は恐れおののき近付く者もいなかった。ある時、当地を通りかかった一人の落武者がその話を耳にし、光の発する場所を掘り起こしてみると、十一面観音像が現れた。ときあたかも上空を二羽の白鳥が舞い、掘り終わると同時に白鳥は向かい側の山の中腹に舞い下りた。武士と村人らはこの白鳥を神の使いと崇め、白鳥のとまった場所に十一面観音を安置した。以来、白鳥大明神として祀られるようになった。その創祀は暦応三年(1340)とも明徳年間(1390~94)とも伝えられている。更に「郡村誌」には「天文三年壬辰(1534)二月勧請す」と記されている。祭神は「明細帳」に「日本武尊」とある。
 十一面観音像が掘り出された光の発する場所とは鉱脈を示すと考えられる。おそらく発光伝説は、別当であった西福寺の法印により、日本武尊の霊が白鳥と化して飛び去ったとする白鳥伝説と結び付けて語られたものであろう。西福寺は当社
東側にあった天台宗の寺院で、明治六年に廃寺となった。「風土記稿」に当社は「白鳥神社 村の鎮守なり、本地仏十一面観音を安ず」とある』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 拝殿。
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 狛犬。
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 社務所兼炊事場。
 社務所・拝殿修復建設記念碑によれば、平成五年(1993)に拝殿の修復と社務所兼炊事場の建設が行われたのだそうだ。
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 境内無償譲渡並外宇改築記念碑の前を通って本殿へ。
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 鳥居。
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 本殿及び末社等の覆屋。
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 左から三光大神社、十一面観音、白鳥神社本殿。
 その後ろには天手長男神社、国枝神社、疱瘡神社、琴平神社、白山神社、稲荷神社、天満社の七社が並んでいる。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の見取図を見ると、国枝・疱瘡・白山の三社は無く、代わりに淡島神社が記されている。この本は23年前の発行なので、その間に入れ替わりがあったのだろうか。
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 三峯神社。
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慈恩禅寺(小川町木部)

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 臨済宗妙心寺派華谷山慈恩禅寺(比企郡小川町木部218)。
 車用の参道は狭く急斜面だが、本堂脇には三~四台分程の駐車スペースがある。

『慈恩寺は、花谷山(「華谷山」と記しているものもある)と号し、臨済宗妙心寺派に属する寺院である。江戸時代には、甘粕村(現寄居町)泉福寺の末であった。本尊は阿弥陀如来であるが、「新編武蔵風土記稿」は「本尊十一面観音を安ず」と記している。これは同書の編者の誤記であろうか。境内周辺は、かつては田畑の広がるのどかな農業地域であったが、近年開発が進み、現代的な住宅地へと大きく変貌しつつあるところで、慈恩寺とその裏山を取り囲むように宅地化が進んでいる。
 開山は、面宗大和尚で、長寛元年(1163)十月十二日の没と伝えられる。その後、十一世の竹巌貞和和尚の代に中興がなされ、このころ泉福寺の末寺になったという。ちなみに、「旧竹沢村誌」によれば中興を行った竹巌貞和は在住七二年ののち、貞享二十年二月二十日に行年九四歳で没したとされている』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 ちなみに貞享は1684年から1688年までの五年間。
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 本堂。
 左奥に向かうと墓地になっている。
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 本堂脇には石祠と板碑。
 左の板碑には建武元年甲戌十一月日と刻まれているので、1334年の造立。
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 本堂前から南を見ると、石尊山と官ノ倉山が見える。
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 本堂の東側に奥へと続く小道がある。
 今回慈恩禅寺にお参りしたのは、この奥にあると言う北向不動尊が目当てだったりする。「小川町の歴史 別編 民俗編」には木部と笠原の北向不動尊に関する記述があり、小川町内にはいくつか北向不動尊があるが、最も著名なものが木部の不動尊であると言う。しかし具体的にどこにあるのか書かれていないのでグーグル先生に尋ねてみたところ、小川町マップの19号に「木部の慈恩寺の奥にある」との記述を見つけたので、では行ってみようと。
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 道は細いが歩き難いと言う事も無い。
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 小さな橋があり、ここで下り道は終了。ここまで二分程。
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 左を向くと木の間に紐が張られているので、こちらかと思って行ってみると、すぐに行き止まり。石を積み上げた壁が金属の柵で補強されており、登れそうな所も無いので反対側へ。
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 こちらは開けているが、足を踏み入れようとするとずぶずぶと沈んで行く。あ、これ駄目だと思い、引き返すことに。

 小川町マップに載っている写真のような道は無いし、さてどうしたものかと思い、近所の方に尋ねてみたら、お不動様なんて知らないとの答えが。あっれぇ~?
 仕方が無いので調べ直そう。

津島神社(小川町木部)

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 天王池の畔に鎮座する津島神社(比企郡小川町木部)。
 前回、石尊山には登ったから天王池方面に向かう必要は無いので帰宅などと書いたが、「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の三光神社の項を読んでいたら、天王池の傍らに津島神社があると記されていた○刀乙 くぅ、わざわざ二度手間を……。

『地内には天王池と呼ばれる貯水池がある。この池は昭和二年に石川岩五郎が私財を投げうって造ったもので、以後地内の水利は向上した。それ以前は干ばつに雨乞いは欠かせない行事で、群馬県の榛名神社からお水をもらい、地内の沼に撒いて降雨を祈ったものであった。
 天王池の傍らに祀られている津島神社は天王様と呼ばれて信仰を集めている。氏子は「天王様は女の神様なので祭りは静かに行うのだ」と言い伝えており、七月十五日(近年は七月第二日曜日)の祭りには神賑わいなどを行わないのが習わしである』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 牛頭天王にしても素盞嗚尊にしても、女性神ではないのだが、はて? 稲作の為に天王池を造成したそうであるから、こちらの御祭神は奇稲田姫命だったりするのだろうか。
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 津島神社の傍らから見る天王池。
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 四阿の近くには天王池建設碑が建てられており、その裏面には以下の文が刻まれている。
『この地方の稲作は天水により豊作が左右された。
 大正十五年石川岩五郎、吉田弘、清水清作氏等を始め受益者同志相計り約四千平方米の敷地に豊作の願いをこめ溜池を造成することを決定した。総工費金壱万弐千円(当時玄米六十瓩拾円参拾銭)をもって昭和二年一月着工。人夫八千二百八十七人により同年六月この天王池を完成し約七千立方米の貯水により安定した稲作が期せられた。
 当時の行程は全部人力でありその労苦は筆舌に尽し難く、こうした先人の功績を讃え碑を建立し後世に残すものである。
 昭和六十一年九月吉日』
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 奥に見えるのは官ノ倉山。
 自分は登らなかったが、津島神社を撮影している間に数人が登って行くのを見かけた。

三光神社(小川町木部)

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 東武東上線東武竹沢駅の南西1.6km程の位置に鎮座する三光神社(比企郡小川町木部458)。
 駐車場は無いが、東側の道端に退避エリアがあるのでそちらに駐めることにした。
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『三光神社
 所在地 比企郡小川町大字木部
 三光神社は、建久年間(1190~)奥州大河兼任の乱に際して活躍し、その後も武蔵荘園の武士として鎌倉幕府の基礎となってきた、児玉党(武蔵七党の一つ)の一族竹沢氏の子孫が建立したと伝えられている。
 江戸時代までは、妙見社といわれ北辰妙見大菩薩を祀っていたが、明治初年の神仏分離により、日・月・星を祀る三光神社と改称している。
 古くは、うろこぶきの神明造りの神殿であったが、明治二年に再建された。また、本堂上屋並びに拝殿は、昭和二十六年に建てられたものである。
 昭和五十九年三月』

『社伝によると、当社の創建は児玉党の竹沢氏の子孫により行われたという。竹沢氏は大字靱負を本拠とした中世の豪族で、正平十三年(1358)に竹沢右京亮が足利基氏と謀って新田義興を矢口の渡しで謀殺したことで知られている。
 一方、同じく妙見社(現身形神社)を鎮守とする東秩父村安戸には「妙見様は三姉妹で、長女は小川町木部の三光神社、次女は安戸の身形神社、三女は秩父神社である」との伝承が残されている。この伝えは、妙見信仰の系譜を物語るものとして重要である。秩父地方の妙見信仰は、秩父神社を中心として盛んで、俗に妙見七社といわれ、秩父神社の分社を郡境の交通の要所七か所に祀り、攘災の守り神とした。そのうちの一社が東秩父村安戸の妙見社である。当社の境内に接して走る道は安戸方面に抜ける古い道筋で、安戸から更に粥新田峠・定峰峠を経て秩父に至っており、この道を伝って妙見信仰が当地に伝播したことは想像に難くない。
 「風土記稿」には「妙見社 村の鎮守なり、村持」とある。

 当社は神仏分離により三光神社に改称した。その社号は「明細帳」に見える大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱の祭神にちなんでいる。しかし今も氏子からは妙見様の通称で呼ばれることが多い。
(中略)
 末社に手長男神社・聖天社・稲荷神社がある。手長男社は、天保八年(1837)に神主相馬播磨藤原知祇により勧請された。火防の神といわれ、十二月十日の祭事に配られる神札を家の台所に貼る。聖天社は、氏子の根岸銀蔵家(既に絶家)の氏神であったと伝え、当社の春祭り(四月第一日曜日)に合わせて祭事を行っている。稲荷社は当社の例祭に合わせて祭りを行っている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 元が妙見社であるなら、神仏判然令後は天之御中主神を御祭神としていても良さそうな気がするのだが、どういった理由で大日孁貴命・月夜見命・国常立尊の三柱になったのだろう。まぁ、身形神社の御祭神は多紀理毘売命・市杵島姫命・湍津姫命のいわゆる宗像三女神だそうだから更にわからないのだけど。
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 狛犬。
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 御神木の杉。
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『三光神社の大スギ
 平成8年4月19日 町指定天然記念物
 三光神社は、一般に「妙見様」として知られていますが、元来は妙見社と称し、明治維新の神仏分離によって三光神社と改称されました。東秩父村の安戸に鎮座する身方神社も、神仏分離までは妙見社と称しており、同社には、「妙見様は三姉妹で、長女は木部の三光神社、次女は安戸の身方神社、三女は秩父神社である」との伝えがあります。
 神社本殿を囲む社叢の中でひときわ目立つ大スギは、目通り4.6m、樹高35.1mを測り、御神木として、地元の信仰を集め愛護されています。
 スギは比較的湿潤な土地を生育の好適地とし、神社の社叢は小さな沢に接する山裾にあることから、スギの生育に適した立地であるといえます。また、本殿左後方のスギ林の中にスダジイ・アラカシの高木が各一本ずつあります』
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社殿。
 稲荷神社・手長男神社・聖天社が祀られている。右端に石祠が一基あるが、何神社なのかは不明。

 神社前の道を南下し、天王池方面に向かうと官ノ倉山の入口へと到達するが、石尊山へは既に登っているので敢えて行く必要は無く、故に今回はここで終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA FISH-EYE 10-17mm、DA15mm、50-150mm II。X30。

吉野神社(小川町木呂子)

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 木呂子区民センターの400m程南西に鎮座する吉野神社(比企郡小川町木呂子303)。

『竹沢六村の最も西に当たる木呂子は、兜川の上流に位置する静かな山村である。この地は、古くは「吉野の里」と呼ばれ、中世には松山城主上田氏の有力な家臣であった木呂子氏の居館があった。
 木呂子には、古くから天神社があり、武藤家が氏神としてそれを祀ってきた。「風土記稿」に「天神社 村民持」とあるのは同社のことで、武藤家にある薬師如来像が鎌倉時代の作であることから、当社の内陣に安置される天満天神座像も鎌倉時代の作と伝えられている。明治八年、武藤又兵衛が社地と大杉を地内の松本吉兵衛に売却したのを機に、当社は近隣八戸を氏子とするようになり、翌九年には村社になった。更に、明治四十一年(「明細帳」では四十二年二月)には地内にあった無格社山神社・八王子神社・稲荷神社が当社に合祀され、大正十五年には、木呂子が古くは「吉野の里」と呼ばれていたことにちなんで、社名が吉野神社と改められた。
 当社には、摂社として天手長男神社と梅之宮神社が祀られている。前者は、天保の初め、当地に大火災があり、以後、火災を恐れた村人が天保十五年(1844)に寄居町小園にある天手長男神社の分霊を奉斎したものであるという。後者は、養蚕を奨励し、村に繁栄をもたらした領主小野朝右衛門を讃えるために、安政二年(1855)に領主から賜った鏑矢と矢じりを神体として祀った社である。

 当社の主祭神は、学問の神様として広く知られている菅原道真公で、十月十五日にはその祭りである秋例祭が行われる。
 天手長男神社の祭神は、櫛明玉命とされているが、氏子・崇敬者の間では「お手長様」と呼ばれている。「お手長様」は火防の神として御利益があるといわれ、木呂子ではこの社を祀って以来火災もなく、安心して暮らせるようになったという。
 梅之宮神社は、通称を「こかげ様」といい、木花咲耶姫命がその祭神といわれる。この社は、養蚕の神として木呂子だけでなく、隣接する勝呂の人々からも崇敬され、四月二十三日に行われる例祭では養蚕倍盛が祈願される。太平洋戦争後、養蚕は不振の傾向にあるが、同社は、養蚕に限らず諸産業繁栄の神として信仰が厚い。
 このほか、当社に合祀された山神社の例祭が一月十七日、稲荷神社の例祭(初午祭)が三月初午日、八王子神社の例祭が祭神が同じであるという理由から梅之宮神社の例祭に併せて行われている』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 寄居町小園の天手長男神社は天忍穂耳尊・天手力男命・天鈿女命が御祭神の筈だが、なぜそちらからの分霊を祀った神社の御祭神が櫛明玉命になるのだろうか。
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 拝殿。
 額には「光被六合」と彫られ、その下には橘紋が彫られている。
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 斜めから。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図には社殿の隣に天手長男神社と梅之宮神社が記されているが、そのようなものは見当たらない。覆屋の中に一緒に納められているのだろうか。

 吉野神社の南西にある丘陵部(ここ)に祠があったのだが、あれはなんだろう?
 この後は白鳥神社へ向かったのだが、こちらは祭りの最中であったようで、これまた撤退して次の神社へ。

熊野神社(小川町笠原)

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 ハイキングコース入口前の休憩所に車を置いたまま、すぐ北側に鎮座する熊野神社(比企郡小川町笠原333)へ。すぐ北側と言っても、一旦東へ100m程向かってから回り込むことになるのだが。

『笠原の熊野神社は、信州方面からやってきて笠原の地に土着した柑名桜井氏が氏神として文禄年間(1592~96)に創建したものといわれている。創建に当たっては、修験の行者が紀州(現和歌山県)の熊野三社から分霊を受けてきたと伝えられ、その時熊野本宮から持ち帰ったという白い石が神宝となっている。また、石段の脇にある行者社と称する小祠は、この行者を祀った社であるという。
 江戸時代には諏訪神社と共に村の鎮守とされ、明治維新後は諏訪神社が村社になったために、熊野神社は無格社ではあったが笠原に住む桜井姓の人々の氏神として厚く信仰されてきた。社殿内には、天保十三年(1842)に「宮再建」をした時の棟札があり、それに飯田村長福寺の法印春乗の名が記されていることから、江戸時代は長福寺が祭祀に関与していたことがうかがえる。
 なお、かつては熊野神社では女人禁止とされ、女性は鳥居のところから上に登ることは禁じられていた。この禁制は、明治三十年代ごろまで厳しく守られていたらしく、当時の女性は鳥居の脇あたりから社殿の方を見上げて遥拝したものであったという』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

 御祭神は伊弉冉命・速玉男命・事解男命の三柱神と倉稲魂命であり、創建以来、桜井一族の氏神として祀られてきたとのこと。
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 参拝したのは十日だが、その翌日の十一日が例祭であったようだ。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」には秋祭りは十月十九日と書かれていたが、多少の変動はあるのだろう。
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 天神社。
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 石段の脇にはよくわからないけど板碑のようなもの、と思ったら社号標であるそうだ。
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 石段。
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 石段の途中右手側に行者社。
 当熊野神社の創建にかかわった行者を祀ったものであるそうだ。
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 石段を上った先にはまた石段。ほんの数段だが。
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 拝殿を斜めから。
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 末社。
 「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図を見ると山王・稲荷と書かれているのだが、祠は一つしか見当たらない。相殿にされたのか、或いは左の石柱が山王社で右の祠が稲荷社なのだろうか。
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 御嶽社。
 翌日が例祭の為、境内は掃き清められているのであまり歩き回るのもアレかなと思い、少し離れたところから。

 この後は靭負の熊野神社へ向かったのだが、そちらは秋祭りの準備の真っ最中だったので、また後にしようと思い撤退。次の神社へ。

阿夫利神社(小川町笠原)

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 北向不動尊を後にし、石尊山へ。
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 ここまで来れば石尊山の頂上は目前なのだが、ここからがきつくなり始める。官ノ倉山は外秩父七峰の中でも初心者向けと言うか一番低い山なのだが、普段山歩きなんてしていない身にはこの程度でも少々きつい。いや、ここまでは楽なんだけど。
 ちなみにこの辺り……の筈。
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 鎖場。
 この日一番危なかった場所。少々歩き難いものの、登りはまあいい。問題は下りだ。二回ほど滑りそうになったが、鎖を掴んでいなかったらやばかったかも。慣れた人なら大したことないのだろうけど。
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 山頂に到着。この辺り
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 中央の石祠は阿夫利神社。左の石祠は何神社なのか不明だが、背面には「昭和五十年一月吉日建 納主 小川コンクリート 笠原昭夫」と刻まれている。
『奉修行武蔵國神ノ倉石尊山入峯天下泰平如意祈攸
 平成二十五年四月吉祥日 
 熊野修験那智山青岸渡寺』
 と書かれた木札が二枚、阿夫利神社の脇に立て掛けられている。

『山の神様(笠原)
 笠原の山の神様は、官ノ倉山の上にあり、「石尊様」とも呼んでいる。祭日は、旧暦の六月二十八日(現在はその近くの日曜日)で、笠原の人々が二人ずつ組になって毎日夕方灯籠に灯明を上げに行った。全戸がこれを済ませると、その年の行事は終わりとなる。
 この行事に先立って、神職からオシメ・ヘイソク・ボンゼンを作ってもらい、当番が灯籠を飾り付ける。こうした行事は大山講の名残のように思われるが、現在話を聴いた限りでは、笠原では講を作って代参を大山に送るようなことはなかったという。代参を送っていたとしても、昭和以前にことと思われる』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 左手前が官ノ倉山。
 このまま官ノ倉山まで行き、そちらから石尊山を撮影しようかとも思ったのだが、少し歩いたらすぐに急斜面になったのでなんとなく面倒臭くなってそのまま引き返し、スタート地点まで戻ることにした。
 降りながら、明日は筋肉痛かもなぁなどと思っていたら、やっぱりなった○刀乙~~

北向不動尊(小川町笠原)

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 笠原熊野神社のすぐ南側にある休憩所に車を駐め、ハイキンゴコース入口へ。と言っても別にハイキングが目的ではなく、石尊山々頂に鎮座する阿夫利神社とその途中にある北向不動尊が今回の目的。
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 巳待供養塔・二十二夜供養塔・庚申塔の前を通り、
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 ハイキングコース入口へ。
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 この辺りはとても歩き易い。
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 三十六童子供養塔。
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 北向不動尊。
 位置はこの辺り……の筈。携帯電話でGPS情報を二回取っておいたのだが、片方は2km程ずれていたのでこちらの位置情報も正確ではないかも知れないが、大体この辺りで合っている筈。
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『北向不動と三十六童子
 所在地 比企郡小川町大字笠原
 北向不動は笠原の里を、見おろすように北向きに建っている。
 祀られている不動明王は、五大明王の一つで密教の中心的仏像であり、大日如来が悪魔を降伏させるために化身したものである。特に修験道の本尊として山伏とともに広まり、庶民の信仰の中に浸透した。
 また、三十六童子については次のような伝説が残っている。
 昔、笠原の里は、水利も悪く不自由な土地であったそうであり、土地の庄屋は里人から年貢を取り立てず、庄屋持ちの不動様の山の財産で立て替えていた。ところがとうとう年貢が納められなくなり、村から逃げ出そうとし村を去るにあたって何か記念を残したいと思い、居住していた三十六戸の戸数を童子にみたて、三十六童子を建立したそうである。
 不動様、三十六童子、雨乞いが行われたといわれる不動の滝などがあるこの地は、里人にとって信仰のよりどころであったことがうかがえる。
 昭和五十九年三月』
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 石段の左右に建てられた石塔には制吒迦童子と矜迦羅童子の名が刻まれている。
 石段は傾斜が強く、石の張り出しも小さいので手摺を掴んで行かないと危険だ。特に下りは怖いヨ。
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 西を向いた不動尊。その脇の石塔には法守護童子・計子儞童子・智慧幢童子・召請光童子・利車毘童子などの名が見える。
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 台座には女人講中の文字が刻まれている。こちらは女性が拝む為のお不動様であるのだろうか。
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 石段を上り切ると、北向不動尊の前に金剛護童子・普香王童子・虚空護童子・波利迦童子・虚空蔵童子の名を刻んだ石塔が並んでいる。
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 北向不動尊。
 北を向いている仏尊は一際霊験が強いと言われることから、より強い加護を求めて北向不動尊を建てたものと思われると「小川町の歴史 別編 民俗編」に記されている。
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 祠の脇にもお不動様。
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 不動の瀧。
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 不動尊線刻碑。

駒形神社(小川町原川)

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 諏訪神社の北西100m程の位置に鎮座する駒形神社(比企郡小川町原川74)。

『当地は、兜川上流の山間地にある。古くは玉川領に属したというが、正保から元禄年間(1644~1704)にかけて、竹沢村が六村に分かれた際に原川村として独立した。
 これより先、天正十八年(1590)の松山城陥落の際、落武者の一部は大河原村(現東秩父村)に逃れたといわれており、城主上田安独斎朝直の墓も同村内の浄蓮寺に現存する。同寺の過去帳によると、松山城にいた三人の家老の一人、原川丹波守が落ち延びて隠れ住んだのが当地であったという。このころ当社も創建されたと伝わるが、「明細帳」には慶長四年(1599)に再建とあることから、当初は恐らく小さな祠であったのだろう。その後、次第に村民の信仰を集め、当村独立の際に村の鎮守として位置づけられたと思われる。境内にある「たもと石」と呼ばれる高さ五○センチメートルほどの円柱状の石は、丹波守が松山城から落ち延びた時に袂に入れて持ち出したものといわれ、例祭には注連縄を張って祭典を行っている。
 参道北側の斜面一角に平地があり、地蔵尊、法印墓石等が建つことから、かつての別当があったことが推察される。丹波守の後裔に当たる原川健家で現在祀られている雌雄の木彫りの馬は、この当時の神体であり、神仏分離により原川家に預けられた。左甚五郎の作と伝え、夜毎作物を食い荒らすので、古くは鎖に繋がれていたという』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 参道と社号標石。
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 拝殿。
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 参宮記念参道改修之碑と改築記念碑。その間に「袂石」があるのだが、木に隠されてしまって見え難い。
『夫レ敬神崇祖ハ往年ヨリ美風トシテ世々傳フル處
 ナリ茲ニ氏子有志相圖リ伊勢皇太神宮参拝ニ同志
 ヲ募リ昭和十三年四月参宮團ヲ組織尓来団員醵出
 貯金ヲ励行セリ折リシモ事変ハ廣大ノ一途ニ有リ
 其ノ貯蓄ニ且ツハ増産ニ挺身協力遂ニ兩々ノ蓄積
 相俟ツテ軈テ其ノ機至リ昭和十九年二月八日出廢
 同十日太々神樂ヲ奏セリ此ニ於テ参道ノ改修ヲ行
 ヒ神徳ノ無邊ヲ記念センカ為メ石ニ識ス』
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 袂石。
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 末社。
 左の石碑には仙元大神宮と刻まれている。「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」の境内見取図には末社として仙元と稲荷の名が記されているが、残り三社の名は無い。四基の石祠は全て稲荷社なのだろうか。
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 地蔵堂。
 その隣には如意輪観音や庚申塔、無縫塔などが並んでいる。

諏訪神社(小川町笠原)

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 小川町駅から竹沢辺りまでは国道254号線と東武東上線、八高線が並走しており、それを東西に貫く笠原踏切から西へ向かって行くとやがて正面に駒形神社の鳥居が見えて来るが、その手前で南西に折れると諏訪会館の隣に諏訪神社(比企郡小川町笠原229-4)が鎮座している。
 鳥居は昭和十五年十二月の建立。

『当社は、創祀年代を慶長年間(1596~1615)と伝えられている。信州諏訪から落ち延びて来た武者、小笠原内膳が当地に住み着き、守護神として奉持して来た建御名方命の神体を祀ったことに由来するという。もともと笠原氏は、古代の名族の一つで、全国の各地に進出して活躍した一族であったが、その中心地が信州であり、諏訪大社の神官家の中にも笠原一族が活躍していたことが明らかにされている。したがって、この時の武者が、その流れを汲むものであることは十分に推定できよう。更には、当社の社紋が諏訪大社と同一の「穀(かじ)」であるのもそのことを証する。また、「風土記稿」に「諏訪社 村の鎮守なり、村民持」とあるのは、小笠原氏の末裔が奉祀していたことをうかがわせるものであろう。
 明治四年に村社となり、同四十五年四月、陣家の愛宕神社、栃本の神明社の二社を合祀した。
 なお、当社はかつて寄居町白岩の諏訪神社と小川町奈良梨の諏訪神社と共に「兄弟三社」と称され、近郷に聞こえた名高い神社の一つであった。

 「白蛇は神の使いである」と当地の氏子たちは信じている。古来白蛇は、水神として崇められ、氏子の間では雨乞いが行われ、五穀豊穣が祈願されている。したがって当社では、白蛇がとりわけ大切にされ、粗相があってはならないと、蛇をついばむ鶏は飼わないという習いがあり、今なお守られ続けている。
 当社の祭典は、元旦祭、二月二十五日の祈年祭、十月五日の例大祭である。
(中略)
 当地では、笠原家や桜井家などをはじめとして、正月に門松を飾らないという習いがある。代わりに、家の中の土間に一本の松を立てて正月を祝うのである。これは一説に笠原一族が元は落武者なので、追手の発見を恐れたことに由来するといわれている。しかし、もう一説には、当地が元来製鉄業に関連があり、製鉄に大切な松炭の原木を伐らないことに起因するともいわれる。
 また笠原家では、氏神として宅地内にもお諏訪さまを祀っているが、道路の拡張工事のために社を移したところ、土台から青石塔婆とみられる板碑が出てきている。一般に青石塔婆の造立は中世に始まり中世に終わったとされる。当家が土地に定着した時代の古さをうかがわせるものといえよう』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)

 この辺りは古くは竹沢村と称していたが、正保から元禄年間(1644~1704)の頃に六つの村に分かれ、当地の地名である笠原は小笠原内膳の姓に因んでいるのだそうだ。
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 社号標石と二の鳥居。
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 拝殿と狛犬。
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 普通は神社名を記した額が掛けられているものだが、こちらでは鏡が掛けられている。なにか謂われがあるのだろうか。
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 斜めから。
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 神日本磐余彦尊、大国主命、弥勒大菩薩。
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 天満天神宮、三峯神社、愛宕神社、天手長男神社。
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 末社殿の脇には注連縄を巻かれた石があるが、これはなんだろう?

諏訪神社奉祀遺跡(小川町奈良梨)

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 天台宗多宝山普賢寺の西に位置する諏訪神社奉祀遺跡(比企郡小川町奈良梨)。
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『諏訪神社奉祀跡
 天正18年(1590)の後北条氏の滅亡後、徳川家康は関東の支配体制の整備に着手しました。その中で家臣団の知行割が行われ、奈良梨は諏訪頼水の領地となりました。諏訪氏は奈良梨に入り、ここに旧領の諏訪(長野県)から諏訪社を勧請しました。この地は今でも「天王原」と呼ばれています。
 諏訪社の跡地とされるこの場所には小さな石宮が建てられています。現在でも毎年10月の八和田神社の祭礼では、この地に神輿が渡御します。この祭りには、長い竹の先に取り付けた鎌を「カマカツギ」と呼ばれる子どもたちが持ち歩くという、この地域には見られない特徴があります。諏訪大社をはじめ永野県内の祭りでは「薙鎌」という特殊な鎌が使用されており、諏訪氏がもたらした祭礼の伝統がこの地に生き続けているのかもしれません。
 昭和36年9月1日 県指定旧跡』
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 石祠の背面には「昭和拾年■月■■日 根岸耕作」と刻まれている。
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 埼玉県道296号菅谷寄居線から入り、正面に見えて来る奈良梨二区集落センターで左に向かって行くと、墓地の先に諏訪神社奉祀遺跡。

 以上で10月3日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mm、DA15mm、FA77mm。X30。
 この後は10月3日封切りの「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza」を見て、さらに11日にはもう一度見に行ったりなんかしてみたり。
 来場者特典のミニ色紙は毎週変わるのだが、その週毎に三種類、それが四週で計十二種類あり、しかもランダム封入なのでさすがに揃える気力も無く、一週目はコンゴウ・ヒエイを引けるといいなと思っていたらそれが来て、二週目はイ401クルーを引けるといいなと思っていたらそれが来た。うん、なんだか微妙に運がいいぞ。

稲荷神社(小川町大塚)

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 晴雲酒造の駐車場脇に鎮座する稲荷神社(比企郡小川町大塚183)。
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 お狐様。
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 社殿。
 額には宝珠紋が描かれている。
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 裏から。
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稲荷神社(小川町大塚)

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 栃本観音堂の南西、晴雲酒造の裏手に鎮座する稲荷神社(比企郡小川町大塚177)。
 額に「正一位稲荷大明神」と書かれているので稲荷神社だとわかるが、詳細は不明。

白山神社(小川町増尾)

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 小川消防団第二分団第一部の北側に鎮座する白山神社(比企郡小川町増尾32)。隣には曹洞宗増尾山長昌寺(比企郡小川町増尾26)。
 鳥居は昭和四十六年十月の建立。

『増尾の白山神社は、穴八幡古墳などのある八幡台の麓に鎮座しており、増尾の鎮守として信仰されてきた。境内には推定樹齢四○○年という樫の大樹があり、特に信仰や神木としての伝えはないが、昭和五十七年ごろから注連縄を張るようになった。
 社伝によれば、白山神社は大梅寺の開山である円了禅師が勧請した社で、加賀国(現石川県)の白山権現を禅家擁護の霊神として建治二年(1276)二月に遷座し、大梅寺の末寺で神社に隣接する増尾山長昌寺が神社の管理を行ってきたという。「新編武蔵風土記稿」には「今も大梅寺にて社務を司どれり」とあるが、白山神社は大梅寺と関わりの深い神社であることから、形式上は本山である大梅寺の管理下に置かれていたものと推測される。
 神仏分離によって、白山神社は明治三年に長昌寺と分離され、同四年に村社となった。氏子からは「白山様」の通称で親しまれており、所願成就の御利益があるという。また、境内にある八坂神社は、元は白山神社と合殿であったが、昭和五十四年に社殿を新たに造営して別に祀るようになったもので、健康を祈願する参詣者が多い』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)

『祭神の菊理媛命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱神を総称して白山権現という。本社は石川県の白山比咩神社で、平安期に天台密僧を中心とする修験により有力寺社勢力に成長していたが、鎌倉末期に神主方と寺家型との祭神論争があり、双方の主張を併せて現在にみる祭神構成が採用された。
 末社は八坂神社と天神社であるが、氏子の記憶によれば、元は本殿の覆屋内に三つの社殿が並んで鎮座していたという。その内の八坂神社は昭和五十四年に、当社の西側に新たに社殿が建立されて移ったが、天神社のお宮の方は本殿から移された後、忘れられてしまった』
(「埼玉の神社 大里 北葛飾 比企」より抜粋)
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 左の石碑は文字が薄くなっており、殆ど読み取れない。
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 狛犬。
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 町指定天然記念物の大樫。
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 拝殿。左には八坂神社。
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 庚申塔と道祖神。
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 勢至堂。

『長昌寺は、猿尾山と号し、曹洞宗に属する寺院である。江戸時代は、大塚村大梅寺の末寺であった。本尊は阿弥陀如来で、境内にある仏堂には行基の作という阿弥陀如来像が安置されている。
 正中年間(1324~26)の創立で、開山は暾嶺邦秀和尚と伝えられているが寂年など詳細は不明である。境内は、本山である大梅寺の開山円了が勧請したと伝えられる白山神社があり、神仏分離が行われる前は、長昌寺が大梅寺に成り代わって白山神社の社務を行っていたと思われる。増尾公会堂ができる前は、白山神社の祭典後の直会は長昌寺で行っていたのも、その名残といえよう。
 長昌寺の境内にある仏堂は「新編武蔵風土記稿」に「阿弥陀堂」と記されているが、現在は勢至堂もしくは「三夜様」と呼ばれている。天保十四年(1843)奉納の灯籠の台座に「献勢至弥陀薬師三尊」とあるため、元来は阿弥陀三尊像を祀っていたと思われるが、薬師如来像は失われている。この勢至菩薩は、商売繁昌などの御利益があるとして広く信仰されており、十月二十三日の縁日にはかつては深谷や行田などからも商人が参詣に訪れたものであったという』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 成田山不動明王。

栄広庵(小川町増尾)

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 槻川の支流である兜川の畔に位置する栄広庵(比企郡小川町増尾)。

『増尾の槻川の畔にあり、「せんじん坊」(千尋坊、仙尋坊、千人坊などと漢字表記は定かでない)の通称で知られているこの庵は、文治二年(1186)に大夫坊覚明という僧が東国巡錫の折、当地に至り、大塚の中城に設けた草庵に始まるといわれる。その後、享保年間(1716~36)に至り、中城の庵が朽ちたため、栄広という僧がこれを増尾に移して再建したことから栄広庵と呼ばれるようになったと伝えられる。
 特別な信仰はないが、天台宗の仙覚という僧が比企郡摩師宇郷において「万葉集註釈」を完成させたといわれる場所は、この栄広庵であったとの伝承がある。
 現在の建物は、酒井要五郎という人物が昭和九年三月に建立したもので、腰越にある自性院の境外地として管理されている』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 馬頭尊や大乗妙典日本廻国供養塔などが並んでいる。
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熊野神社(小川町腰越)

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 真言宗智山派医王山自性院西照寺の裏に聳える北山の中腹に鎮座する熊野神社(比企郡小川町腰越2353)。
 鳥居の右には「默翁先生碑」が建てられているが、熊野神社には特に関係無いようだ。

『腰越で一・二区で祀る熊野神社は、通称を「おくまん様」といい、神仏分離までは熊野大権現と称していた。祭神は伊弉冉命・速玉男命・事解男命の三柱で、社殿は氏子区域を一望できる北山の中腹にある。伝えによれば、熊野神社は安永七年(1778)十二月の創立であるという。また、「新編武蔵風土記稿」に「熊野社 自性院持」と記されているように、山麓にある自性院の管理下にあった。
 特別な信仰はないが、腰越一・二区の鎮守として信仰が厚い。山麓から社殿の前まで一直線に伸びる長い石段は、神社前庭拡張工事として昭和九年から同十一年まで三年をかけて建設されたものであるが、この工事に際し、当時の氏子一三五世帯は進んで各々三日間の勤労奉仕を行った。これも、氏子の信仰の厚さを示す一例である。
 境内には、いくつかの末社があるが、中でも北山稲荷は、開運や商売繁昌に御利益があることで知られている。この社については、「おくまん様が祀られたのと同じころ、どこからか稲荷様の分霊を受けてきて祀ったもの」と伝えられており、とりわけ小川の町場の料理屋や芸者たちによって厚く信仰されてきた』
(「小川町の歴史 別編 民俗編」より抜粋)
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 狛犬。
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 緩やかで歩き易い参道石段。
 手前には「峯岸四朗翁顕彰之碑」や忠魂碑もある。峯岸四朗なる人物は信仰心が篤く、熊野神社氏子総代と自性院檀徒総代を務め、参道石段改修事業の中心として尽力したのだそうだ。
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 二の鳥居。
 ここから石段の角度が強くなるが、それほどきついわけでもない。
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 北山稲荷神社の鳥居。
 草茫々な為、こちらから上るのは断念。上で繋がっているから無理する必要も無いし。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 本殿。
 神幕には八咫烏が描かれている。
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 八坂神社。
 元は田端家の氏神であった社を昭和十年(1935)に当境内に移したもので、七月十五日近くの日曜日には祭りが行なわれるのだそうだ。
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 八坂神社の前から西に参道が伸びており、大黒天と天満宮の石祠が見える。
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 振り返ってみる。
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 大黒天と天満宮。
 どちらも側面に昭和十二年一月二日と刻まれている。
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 更に参道を西へ。山頂へ続くと思われる分岐もあったが、スルーで。
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 北山開運稲荷神社。
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 本殿。
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 稲荷神社前から少し降りてみるが、やはりすぐに草茫々になってしまう。
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 更に参道を西へ向かうと観音堂。
 御堂の前はすぐに斜面になっており、うっかりすると滑り落ちてしまいそうだが、しかし道らしきものもあるので、麓の自性院まで歩いて行けるのかもしれない。
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 御堂の中には聖観世音菩薩座像。
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 自性院本堂。
『自性院(腰越323)
 自性院は、医王院西照寺と号し、真言宗智山派に属する寺院である。江戸時代は児玉郡栗崎村(元本庄市)宥勝寺の末であった。境内は、北山と呼ばれる山の麓にあり、この山の中腹に祀られている熊野神社は江戸時代には自性院の持ちであった。
 寺伝によれば開山は栄性阿闍梨で、栄性は永享十年(1438)四月に寺を開き、文明元年(1469)三月に没している。院号の自性院の「性」の文字は、おそらくは開山の栄性の名にちなんだものであろう。
 その後、十四世の快栄法印の代に中興がなされ、この時新たに客殿などが建立された。快栄は貞享五年(1688)に没しており、また十三世の宗栄は万治元年(1658)に没していることから、自性院の中興はその間の三○年ほどのうちに行われたものではないかと思われる。
 なお、本尊は医王院の山号にふさわしく病気平癒の御利益があるとして信仰の厚い薬師如来である。この薬師如来は宝暦八年(1758)に宮殿と共に造立されたもので、寺伝に「願主増尾村右岸是空近村勧化助力ニ而成就仕候」と記されている』
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