細井神社(上細井町)

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 上細井公民館の隣に鎮座する細井神社(前橋市上細井町884)。

『細井神社
一、所在地 南橘村大字上細井字宿
二、祭神  豊城入彦命
      素盞嗚尊、迦具土命、建御名方命、保食命、大雷命、大国主命、埴山姫命、
      大年命、八衢彦命、八衢姫命、市杵島姫命、火産霊命、久那斗命、若年神、
      御年神、速玉之男命、事解之男命、誉田別命、大山祇命、高龗神、
      菅原道真、天御中主命、大日孁命、大物主命、水分神、不詳一座
六、祭日  四月十五日、十月十九日
七、境内末社
 抜鉾神社(経津主命)、猿田彦神社(猿田彦命)、八王子神社(大屋彦命)
八、由緒沿革その他
 由緒はあまり明らかではないが神鳳抄に「細井御厨、七十丁六段三十五歩」と見えてい
る細井御厨は上細井附近の地と考えられる。
 依って御厨関係の神明宮が存在したであろうことは想像出来るが明らかでない。
 細井神社は以前は豊城入彦命を祭神とする赤城神社であったが明治四拾年四月に許可を
得て本社の境内末社四社(八坂神社、秋葉神社、三峰神社、諏訪神社)及び字西堀の無格
社西堀神社、同境内末社六社(八坂神社、諏訪神社、阿夫利神社、大国神社、津馬神社、
埴山姫神社)字北新田の無格社新殿神社、同境内末社四社(歳神社、塞神社、疱瘡神社、
厳島神社)字天王の無格社熊野神社、同境内末社火男神社、字灰俵の無格社三柱神社、同
境内末社二社(秋葉神社、阿夫利神社)字薬師の無格社菅原神社を本社赤城神社に合併し
て細井神社と改称し次いで明治四十二年五月に許可を得て本社の境内末社稲荷神社及び大
字下細井字官前の村社星宮神社、同境内末社十三社(神明宮、諏訪神社、稲荷神社、雷電
神社、埴山姫神社、大山祇神社、厳島神社、琴平神社、福森神社、八坂神社、菅原神社、
八千矛神社、疱瘡神社)を合併して今日に至っている』
(「南橘村誌」より抜粋)
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 鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 狛犬。
 台座には「昭和十五年三月建立」と刻まれている。
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 本殿。
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 神輿庫と末社群。
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 社殿西側の末社群。
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 湯殿山・月山・羽黒山。

 以上で5月21日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mmとDA35mm Macro、DA70mm、DA20-40mm。X30。
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時沢神社(富士見町時沢)

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 群馬県道4号線と県道101号線が交差する時沢神社前交差点脇に鎮座する時沢神社(前橋市富士見町時沢1694)。
 鳥居の柱には「安永六丁酉年十一月吉日」と刻まれている。安永六年は1777年。

『群馬縣管下上野國南勢多郡時沢村字愛宕甲一六九四、乙一六九四 村社 時澤神社
祭神 御穂須々美命 菅原道真公
   大山咋命 建御名方命 豊城入彦命 大物主命 素盞嗚尊
   大山祇命 市杵島姫命 猿田彦命 譽田別命
由緒 元来諏訪神社ナリ、明治十一年一月中當村字スハ鎮坐菅原神社ヲ合併シ時沢神社ト
  改称シ村社トス
   明治四十年八月二十九日許可ヲ得テ、本社境内末社トシテ祭祀セル琴平宮、八坂神
  社、大山祇神社及同村字東諏訪ニ祭祀セル無格社東神社、仝境内末社琴平宮、八坂神
  社、大山祇神社、厳島神社、日枝神社ヲ合祀セリ、明治四十一年七月三十日許可ヲ得
  テ本社境内末社トシテ祭祀セル八幡宮、及同村字横堀ニ祭祀セル無格社琴平宮、及仝
  境内末社八坂神社、猿田彦神社、八幡宮、大山祇神社ヲ合祀シタリ
   大正六年九月二十一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社トシ
  テ指定セラル
境内末社 四社
 埴山姫神社  祭神 埴山姫命
 塞神社    祭神 八衢彦命 八衢姫命 久那斗神
 愛宕神社   祭神 火産靈命
 熊野神社   祭神 伊弉冉尊』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 道祖神。
 下の方に「新道供養」、背面には「道雖近不行不到 事雖小不爲不成 遠曲直進助旅人 隣村和談開新道」と刻まれている。
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 二の鳥居。
 柱には「于時明治二己巳歳七月吉祥日」と刻まれている。明治二年は1869年。
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 拝殿。
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 本殿。
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 双体道祖神×3。
 左から宝暦五年(1755)六月、たぶん延享二年(1745)、明和六年(1769)十月の造立。
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 末社群と巳待塔。
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 末社かと思ったけれど、どうも古札納所のようだ。
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 天満宮。
 石祠の胴体部に刻まれた天満宮の文字が逆さまになっているので、どうやら組み立てる際に上下逆にしてしまったようだ。
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 末社。

白河神社(富士見町時沢)

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 群馬県道101号線脇にある徳澤会館東側の交差点から1km程北上した所に鎮座する白河神社(前橋市富士見町時沢2715)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡時沢村字諏訪 村社 白河神社
祭神 水分神 大日霎命 素盞嗚命 大山祇神
相殿 建御名方神
由緒 不詳、當社モト白河ノ渓ニ鎮坐アリシヲ天正年間武田氏所領ノ際今ノ社地ニ移轉シ
  テ諏訪神社ヲ合祭スト云、上野國神名帳ニ正五位上白川明神ト載タルハ是ナリ
   明治四十年十二月二十七日許可、本社境内末社八坂神社、大山祇神社、及字甚太夫
  無格社神明宮、仝境内末社三社ヲ合併セリ
   昭和二十年五月一日村社ニ列ス
境内末社 六社
 琴平宮   祭神 大物主命
       由緒 元来當村字白河鎮坐、明治十年七月中当社境内ニ移轉
 八幡宮   祭神 譽田別命
 埴山姫神社 祭神 埴山姫神
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
 猿田彦神社 祭神 猿田彦神
 三峯神社  祭神 伊弉冉尊』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居の柱には「昭和二年十月十五日」と刻まれている。昭和二年は1927年。
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 草茫々。
 手前の石灯籠には「天保五甲午年九月吉日 當曲輪中」と刻まれている。天保五年は1834年。
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 拝殿。
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 本殿覆屋。
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 末社群。
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 猿田彦大神、道祖神、双体道祖神、湯殿山・月山・羽黒山。
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冨士原神社(富士見町原之郷)

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 原之郷交差点の北350m程、群馬県道151号線脇に鎮座する冨士原神社(前橋市富士見町原之郷1756)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡原之郷字中 村社冨士原神社
祭神 大日孁尊、相殿 天児屋命 譽田別命
   菅原道真公 保食命 火産靈命 豊城入彦命 日本武尊
   大山祇命 建御名方命 速玉男命 伊弉冊命 事解男命
   大國主命 市杵島姫命 埴山姫命 八衢彦命 大物主命
   素盞嗚命 不詳一座
由緒 不詳 大正六年九月一日明治三十九年勅令第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
  シテ指定セラル
境内末社 弐社
 秋葉社  祭神 迦具土命
 草薙神社 祭神 萱野姫命』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)

『富士見村大字原之郷中に鎮座し、祭神は大日孁命、火産霊命、市杵島姫命、豊城入彦命、日本武尊、埴山姫命、建御名方命、菅原道眞、八衢彦命、保食命、大山祇命、速玉男命、事解男命、素盞嗚命、伊弉冊命、大国主命、不詳一座である。相殿には天兒屋根命、誉田別命を祀っている。例祭は九月十五日、宮司は塩原行雄である。由緒は詳かでないが、明治四十年四月廿四日に許可を得て本社境内末社三社(菅原神社、稲荷神社、愛宕神社)字九十九山の無格社赤城神社、同境内末社四社(愛宕神社、座王社、大山祇神社、稲荷社)字三六寺の無格社赤城神社、同境内末社二社(菅原神社、大山祇社)同所の無格社八幡宮、境内末社二社(神明宮、諏訪社)字樋ノ口の無格社熊野神社、字鎌塚の無格社大山祇神社を本社(神明宮)に合併し、同時に村社富士原神社と改称したものである。又、同年十月二十八日に許可を得て本社の境内末社二社(琴平社、八坂神社)及び同村大字小沢新田字八幡の八幡宮、同境内末社十三社(埴山姫神社、大山祇神社、八千矛神社、疱瘡神社、八衢神社、神明宮、八坂神社、菅原神社、諏訪神社、琴平宮、厳島神社、赤城神社、大国主神社)を合併して現在に至っている』
(「富士見村誌」より抜粋)
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 参道には四基の鳥居が建てられている。
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 二の鳥居。
 額には「八幡宮」。柱には「寶暦十歳次庚辰三月吉祥日」とあるので1760年の造立。
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 三の鳥居。
 額には「天満宮」。柱には「安政六年己未春三月」とあるので1859年の造立。
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 四の鳥居。
 額には「冨士原神社」。柱には「日露戦争紀念」「明治四十年十二月」とあるので1907年の造立。
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 拝殿と狛犬。
 狛犬の台座には「平成十二年十一月吉日」と刻まれており、また、手前の水盤には「慶應二年歳次丙寅三月吉日」と刻まれている。平成十二年は2000年、慶応二年は1866年。
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 本殿裏に末社群。
 前列の石祠は八基と七基で計十五基。後列には七基。
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 八百萬神宮。
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『御神木夫婦杉由来
この大杉は正親町天皇の御代五穀の豊穣と国家の安泰併せて家庭の円満を祈願して二本の杉を植た示来杉は四百年の星霜を相倚り相たすけて風雪に堪え旱魃を克服して成長し相抱きて一体となり村を育て家庭を守って来た 星うつり卋は変って老齢遂いに枯死するに至った氏子一同はこれを悲しみ神木のご功徳を後世に伝える様あづまやを建てて保存する事にした 口伝によれば神木を撫することによって家庭は円満に繁栄すると云う』
 どれですかね、夫婦杉。
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 猿田彦大神。
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 境内の端に「原幼稚園跡」と刻まれた石碑が建てられている。

虚空蔵尊堂(富士見町原之郷)

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 九十九山の北側に鎮座する虚空蔵尊堂(前橋市富士見町原之郷)。
 ここも金山城跡の一部であり、虚空蔵曲輪と呼ばれていた辺りであるようだ。
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 青面金剛明王、一國三部百八拾八番供養塔、庚申塔、如意輪観音。
 その他青面金剛や馬頭観音など。

座王宮(富士見町原之郷)

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 九十九山の頂に鎮座する座王宮(前橋市富士見町原之郷270)。
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 鳥居の額には「八幡宮」とあり、額束の側面には「寛政五癸」「■月十五日」と刻まれている。■部分は月鼡。これは臘の略字であるそうなので、寛政五癸年臘月十五日は1793年12月15日(旧暦)と言う事になる。

『八幡宮
 大字原之郷の字名に八幡がある。村の南方に位地する九十九山の西方、横室との境界近くにある小丘陵の末端の地を通称「八幡山」と云う。現在は鎮守富士原神社に合併され、その跡も不明であるが、武神としての八幡神の存在を物語る事実として八幡山の北に通稱「金山」と呼ぶ城跡があり、新田氏関係の古城と伝えられ、太田の金山城と関係ある伝説が残っている、依って新田源氏の一族が此処に據ったことが考えられ、守護神として近くの八幡山に八幡宮を祀ったことが想像されるのである』
(「富士見村誌」より抜粋)
 金山城の本丸は九十九山の150m程北側にあったようで、この金山城の南西に八幡宮、東に虚空蔵菩薩を祀っていたのだそうだ。虚空蔵菩薩堂は現在でも九十九山の北160m程の位置に祀られているが、八幡宮は冨士原神社に合祀されている。鳥居だけをこちらに移設したのであろう。
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 猿田彦大神と道祖神。
 猿田彦大神の側面には萬延元庚申歳(1860)霜月吉日、道祖神の側面には寛政元己酉(1789)四月と刻まれている。
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 北側の参道を登って行くと、祠を囲う瑞垣が見えて来る。
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 九十九山の頂に鎮座する石祠四基。
 てっきり中央の石祠が八幡宮だとばかり思っていたのだが、額部分を見ると座王宮とある。他はわからなかったが、富士見村誌を見ると、かつては九十九山に赤城神社があり、その境内末社として愛宕社、座王社、大山祇社、稲荷社の四社が祀られていたとのことであるから、これらがそうであるのかも知れない。赤城神社とその境内社四社はいずれも冨士原神社に合祀されたとのことだが、名前だけ合祀して祠はこちらに残されたのだろうか。
 本来ならエントリー名は赤城神社にするべきなのかなとも思うが、社名を確認できたのが座王宮だけであり、またセンターポジションにあるので座王宮でいいかなと。
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 少し下がった所にも境内社。
 何神社なのかはわからなかったが、火防盗賊除けの札が収められていた。
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 安政六己未年(1859)三月造立の石燈籠。
 その前には鳥居跡らしきものも見える。
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 石段を下りた所にも境内社。城峯神社眷属守護と書かれた札が収められている。城峯神社の御祭神は大山祇命だが、これはその御眷属である大口真神を祀っているのかな。
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 道祖神。
 「安政三辰歳正月吉祥日 願主子供中」と刻まれている。安政三年は1856年。
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『九十九山古墳
 本古墳は、通称九十九山の丘陵に構築された、全長約六〇mの前方後円墳である。
 自然石積、横穴式石室の規模は、長さ八・三m(右壁)、幅一・九五m(奥壁)〇・九m(前部)、高さ一・四六m(奥)〇・七九m(前)である、
 円筒埴輪列の存在、馬形埴輪や金環の出土が伝えられている』

『富士見かるためぐり16
歴史を語る九十九山古墳
村内の各所から、土器、石器等が出土して、古代の文化が開けていたことがわかりますが、古墳も多数残されていました。村内の古墳はほとんど円墳ですが、九十九山古墳は唯一の前方後円墳です。墳丘には円筒埴輪列がめぐり、耳輪が出土したと伝えられています』
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 石室の開口部があると言うことだが、どこにあったのだろうかとググってみたら……案内板隣の金網の中にあるらしい。すぐ隣にあったのにまったく気付かなかったと言うか目を向けてもいなかったよ○刀乙
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 木の根元にひっそりと鎮座する境内社。何神社なのかはわからないけど。
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 北側から見た九十九山。

 6月9日追記。
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 石室開口部。
 周囲をフェンスで囲われている為、これよりは近付けないので石室内部は見えない。

神明宮(竜蔵寺町)

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 竜蔵寺町公民館の隣に鎮座する神明宮(前橋市竜蔵寺町171)。
 境内への車の乗り入れ禁止との看板があるので、車は青柳の神明宮に置いたまま、徒歩でこちらへ。5~600m程しか離れていないので、歩いたところで大した距離でもない。

『神明宮
一、所在地  南橘村大字竜蔵寺字天神
二、祭神   大日霎命
六、祭日   四月十六日、十月十六日
七、境内末社
 八幡宮(誉田別命)、厳島神社(市杵島姫命)、近戸神社(豊城入彦命)、
 埴山神社(埴山姫命)、菅原神社(菅原道真)
八、由緒沿革その他
 この神社の由緒は不明である』
(「南橘村誌」より抜粋)
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 鳥居。
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『早起會記
人生ノ幸運ハ剛健ナル精神ガ活動シアレバ何ノ事業ニ向クモ成
シ得ザルコトナシサレバ堅實ナル精神アリ真面目ニ事ニ當ルハ
身ノ為スベキ務メナリ早起モ勤勉モ習慣ナリ善癖ハツキ難ク惡
癖ハ去リ難シト其意ヲ一朝児童ヲ集メテ語リ茲ニ於テヤ早起會
ヲ開クコトニナリタリ大正十三年八月ヨリ毎朝五時ニ起床神社
ニ参集大鼓ヲ打チ鳴ラシ殆ンド軍隊起床喇叭ノ如シ一同集合社
前ニ向ヒ拜シテ一齊ニ掃除ヲ行ヒ了リテ更ニ社前ニ集リ一拝シ
テ皇家ノ弥榮ヲ祈ル而シテ箒ヲ肩ニ歸家ニ就ク雨雪ヲ除ク外常
ニ怠ラズ大正十五年今日迠實行シ來リシハ誠ニ感賞スベキ事ト
思フ依テ該畧ヲ記シ一小碑ヲ建設シ将來ニ於テ益児童等ノ奮励
努力ヲ希フ
             正八位勲六等  鈴木又吉郎書
             指導并建設者  加々美助次郎』
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 拝殿。
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 本殿。
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 末社群。
 左側の石祠群の内、左端は八幡宮。左から三基目は何神社かはわからないが「丸に立ち沢瀉」紋が刻まれていた。
 右側の石祠群の内、右端の石祠は台座に秋葉祠と大きく刻まれているので、秋葉宮であるのだろう。他は不明。
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 道祖神と双体道祖神。
 双体道祖神には宝暦十四年申歳二月大吉祥日と刻まれているので、1764年の造立。

神明宮雀大神(青柳町)

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 赤城白川に架かる雀橋の北東に鎮座する神明宮雀大神(前橋市青柳町975-2)。
 川縁の遊歩道から鳥居までの距離は150m程とやや長めの参道だが、社殿東側の駐車場からだとあっと言う間。

『神明宮
一、所在地 南橘村大字青柳字神明
二、祭神  大日霎命
      武甕槌命、誉田別命、少彦名命、菅原道真、吉備彦命、素盞嗚尊
六、祭日  四月十六日、十月十六日
七、境内末社
 秋葉社(賀都知命)、厳島神社(市杵島姫命)、富士社(木花咲耶姫命)、
 日枝神社(大山咋命)、大宮社(大宮姫命)
八、由緒沿革その他
 神鳳抄によれば「上野国内宮青柳御厨、布三十段百二十丁、建永符八十丁」とあるのはこの青柳であり、神明宮は青柳御厨の庤跡であろう。この神社は明治四十四年四月に許可を得て、本社の境内末社二社(春日社、八幡社)及び字宿西の無格社雀神社、同境内末社四社(菅原神社、春日神社、竜神社、八幡宮)、字宿東の無格社八坂神社を合併して現在に至っている』

『雀神社
一、所在地 南橘村大字青柳字宿西
二、祭神  少彦名命
四、境内末社
 菅原神社(菅原道真)、春日神社(武甕槌命)、
 竜神社(吉備彦命)、八幡宮(誉田別命)
五、由緒沿革その他
 この神社の由緒は明らかでないが、古来、はしかや疱瘡の神として崇拝され、明治四十四年四月に鎮守神明宮に合併された後も、「青柳の雀様」として近隣に信仰篤い神社である。

 八坂神社
一、所在地 南橘村大字青柳字宿東
二、祭神  素盞嗚尊
四、由緒沿革その他
 この神社は文化十年三月に勧請され、特に七月十四日の祭礼には「青柳の祇園祭」として近隣に知られた神社である。明治四十四年四月に鎮守神明宮に合併されたが、今もなお天王祭りは盛大に行われている』

『雀神社(青柳)
 青柳の雀様として有名な雀神社は青柳字宿西に在り藁葺きの間口三間、奥行四間の建物であったが明治四十年に鎮守神明宮に合祀の節、石の鳥居も移された。祭神は少彦名命であり古代神話で知られている諸病平癒の霊験著しい神である。特に小児の麻疹、疱瘡の神として往昔より崇敬多く四月二十五日には盛大な例祭が行われるが、この雀様にも一つの伝説が伝えられている。
 昔この村を一人の旅人が「ハシカ」にかかった子供を抱いて通りかかった。旅人はあまり子供が泣くので近くの山に行って休んだ。この山には小さな御堂が崩れかかっていたが、信心深い旅人はそれを修繕し、何も供えるものがないので携えていた僅かばかりのいり豆を捧げて子供の麻疹がなおるようお願いした。しかし子供はなかなか良くならなかった。旅人は自分の疲れ果てた身体のことも忘れて熱心に信心し、その子供が全快した時には既に死んでしまっていたという話が残っている。
 この旅人の死んだ所へ雀大神という神社を建て「ハシカ」の神として旅人の捧げたと同じいり豆を上げて麻疹の難から免れるといわれている。現在でも人々の信仰篤く四月の例祭には近郷の参詣人で非常に賑っている。

 大宮様(青柳)
 青柳の大宮様は夜泣きの神様である。子供が夜、泣きつづけて寝られない家では大宮様に御灯明をあげて祈願すると夜泣きをなおしてくれると云われている。この大宮様にも伝説が残っている。
 昔、この部落に親切な信心深い夫婦が住んでいた。家は貧乏であったが何等不満もいわず真面目に働いていたが、在る時、子供が夜になると泣いてばかり居て家の人々も非常に困っていた。医者に見せるにも近くに医者はなく、弱りきっていると、在る夜、どこからともなく一人の神様が現われて、泣いている子供の頭をなでてくれた。すると今まで火のついたように泣いていた子供が急に泣き止んでしまった。親達は非常に喜んでその神様に灯明を上げて御礼を述べた。
 それ以来、子供の泣いている家には屹度、この神様が現われて子供の泣くのをだましてくれたという。
 後の人々が最初に神様の現われた家の所にお宮を建てて大宮様と名付けて崇拝し、以来夜泣きの神様として信仰されている』
(「南橘村誌」より抜粋)
 この大宮様とは、こちらの神明宮の境内社にある大宮社のことであろうか。それにしても、大宮様の言い伝えは霊験灼かと言った感じがあるが、雀様の方はどうなんだコレ。この話だけ見るとあまりありがたく無さそうな気がしないでもない。
 ところで神明宮に雀神社と八坂神社が合祀された年だが、南橘村誌には明治四十年と四十四年の二つの記述があり、上野国神社明細帳には明治四十年と記されている。どちらが正しいのだろうか?
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 二の鳥居。
 柱には天明二壬寅年季秋吉日と刻まれているので1782年の造立。
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 三の鳥居。
 平成四年十二月吉日建立と刻まれている。大体二十四年前か。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 本殿。
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 雷電宮。
 南橘村誌や上野国神社明細帳には境内社に雷電宮の名は見当たらなかったが、しかし実際にあるのだから、それらが発行された後に合祀されたのだろう。
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 末社群。
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 天王宮と辨財天女。と言う事は八坂神社と厳島神社か。
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 末社。
 文政二己卯稔三月吉祥日建立と刻まれているので1819年の造立であることはわかるのだが、何神社なのかはわからない。

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 神明宮南東の橋の傍には忌竹に挟まれた塞神三神真璽。禦神事と言うものだったかなこれ。

八幡宮(北代田町)

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 群馬県道151号線北代田町交差点の100m程南に鎮座する八幡宮(前橋市北代田町323)。

『八幡宮
一、所在地 南橘村大字北代田字八幡
二、祭神  誉田別命
六、祭日  四月十五日、十月十五日
七、境内末社
 琴平宮(大物主命)、秋葉神社(火産霊命)、菅原神社(菅原道真)、
 神明宮(大日孁命)、市杵島神社(市杵島姫命)、罔象女神社(罔象女神)、
 八坂神社(素盞嗚尊)、稲荷神社(豊受姫命、大宮能女命、猿田彦命)
八、由緒沿革その他
 この神社の由緒は詳かでないが、伝説によれば、平安時代の末、後三年の役に清原氏を討って大勝した源義家が守護神たる八幡神を京都の石清水から勧請して祀ったものであると伝えられている』
(「南橘村誌」より抜粋)
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 鳥居の柱には「弘化二乙巳 大正二年十月建之」と刻まれている。始めは弘化二年(1845)に建てられたが、その後、大正二年(1913)に再建されたものであろうか。
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 道祖神と末社。
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 拝殿。
 石燈籠には文久三癸亥年(1863)四月吉日と刻まれている。
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 斜めから。
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『八幡宮じげん堂の由緒
八幡様は武神特に源氏と関係の深い神である各地に多く祀られているが北代田の八幡
宮にも古い伝説が残平安時代の末期奥州征伐に成功して朝廷に勢力を得た源氏の名将
八幡太郎義家が後三年の役に清原氏と戦つて大勝の後各国々に八幡を勧請した当国で
本社がそれに当るというその後平氏が盛んになるに及んで源は四方に散じ賴朝義経の
兄弟も伊豆奥州と離れて機をうかゞつていたが兄弟の母常磐御前が今の荒牧に居つた
時に八幡宮の由緒を聞かれ祖先の武勇にあやかり源氏再興の祈願をこめた処果せる哉
頼朝が伊豆国に於て北条時政の援助を得て源家再興の旗を挙げ続いて義経も奥羽より
戦に参加して之と協力し遂に天下を平定したその後大願成就の礼拝の際御鎧と金の鍔
口とを献納したというが後に神仏分離の時に寺に移されたが盗難に遇つて現在では皆
無となつた又一説に常磐御前が義経を尋ねて奥羽へ行く折に北代田のあるお堂で衣を
着替えて八幡宮に参拝し源家興隆を祈願されたともいう現在は衣の着替堂を訛つて
じげん堂と呼んでいる
  昭和五十七年七月吉日』
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『八幡宮の祭神
 当八幡宮の祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)応神天皇である。祭神は「武神」で護国の神として祀られた。年代は御手洗(みたらし)の石碑によると、享保九年(一七二四年)と刻まれている。
 現在の様な社殿の築造は、凡そ八〇年後の享和二年(一八一二年)である。以来北代田の氏神として敬われてきた。時代の変遷と共に邑(むら)を天変地異から護り五穀豊穣と弥栄(いやさか)を祈願する神として祀られている。
 平成二十四年三月八日』
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 神楽殿。
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 境内末社。
 右端の祠は金刀比羅宮。

神明神社(川二丁目)

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 上尾市民体育館の北東およそ300m程、川神明会館の傍に鎮座する神明神社(上尾市川2-3-2)。
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『神明神社 上尾市川二‐三‐二
 祭神・・・大日霊貴命(天照大御神)
 「風土記稿」によれば、当地はもと今泉・壱丁目の各村と共に大谷村と称していたという。寛永二年(一六二五)九月に「河村」一五〇石が旗本柴田筑後守にあてがわれていうことから、江戸初期には既に一村となっていたことがわかる。
 当社の創建については伝わっていないが、隣村の向山の鎮守である神明社ではその縁起の中に、宝永五年(一七〇八)上総国から柴田氏陣屋跡に降った真鍮の御幣を祀った旨が記されており、当社の創建とのかかわりをうかがわせる。
 当社は、元来は現在の境内から南西におよそ一五〇〇メートルの所に祀られていた。その辺りは村の中でも低地で、一度大雨ともなれば、一面水浸しとなってしまい、氏子の悩みの種であった。そこで、昭和四十七年に現在の地に移転し、社殿・鳥居・社務所を新築することとなった。
 今の境内は、もともとは江戸期における当社の別当十福寺の跡地で、この寺は神明山地蔵院と号し、今泉村の浄土宗十連寺の末寺であった。大正九年に火災で全焼し、その後は本寺の十連寺に合併され、境内も同寺の所有となっていた。
 氏子たちは、この土地を十連寺から買収して、当社を移転し、悲願を達成したのである。この経緯を後世に伝えるため「神明神社造営記念碑」を建立した。なお、当社の旧境内地は市に売却し、現在は市民体育館の敷地の一部となっている。
 当地には「川の大じめ」と呼ばれる魔除けの行事がある。毎年五月十五日に大きな注連縄を作り、西方の村境まで運び常設の柱に下げ、村の悪霊災難除けとして祀る行事で、上尾市指定民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」、「厳島社」、そして「庚申塔(青面金剛)」を祀る』

 川の大じめの注連縄は西松屋上尾西店の傍にある。神明神社から西南に200mと離れていない場所であるが、この時は場所を知らず、帰宅後に調べてから知ったので、撮影はできていない。大じめの概要については上尾市教育委員会のサイトに記されている。 
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 拝殿。
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 社名は記されていないが、右三つ巴紋があるのでおそらくこちらは愛宕社だろう。
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 とすると、こちらが厳島社だろうか。
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 青面金剛。

 以上で4月30日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA20-40mmとDA35mm Macro、FA77mm。X30。
 川神明神社から西南に約1.3km、今泉氷川神社からなら南西約800m程の場所、壱丁目北交差点の傍に愛宕神社があるのだが……うん、まぁ、見落としていた○刀乙 最近うっかりが多いなぁ。

稲荷神社(向山一丁目)

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 神明神社の南西200m程、もみじ公園の隣に鎮座する稲荷神社(上尾市向山1-21-1)。
 こちらには案内板が設置されていないので、詳細不明。
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 本殿……は、この中かな。
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 北側から。
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 愛宕大権現と琴平社。
 愛宕大権現の石祠の側面には寛延元辰九月吉祥日と刻まれているので、1748年の造立。

神明神社(向山三丁目)

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 上尾市立鴨川小学校の西200m程の位地に鎮座する神明神社(上尾市向山3-2-6)。
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『神明神社 上尾市向山三‐二‐六
 祭神・・・大日霎貴命(天照大御神)
 当社は、旧中山道から西に約一キロメートル離れて鎮座している。
 創建については、当村の庄屋の書き記した草稿を基に、正徳元年(一七一一)に竜谷山知足院(桶川市下日出谷)の密乗沙門盛典が著した「向山神明御縁起」に詳述されている。
 それによると、元禄八年(一六九五)地頭の暴政に困窮していた村民は、地内の祈願所の金蔵院から伊勢神宮を遥拝し、神明の加護を祈願したところ、元禄十一年(一六九八)に地頭の陣屋は召し上げとなった。村民は神恩に感謝し、下賜された旧陣屋御用地の一角に社を建立し、金蔵院に申し入れて、天照大御神を勧請した。
 その後、宝永五年(一七〇八)四月六日の夕刻に雷鳴と共に真鍮の幣束が当地へ飛来し、当社の前の畑に突き刺さった。
 幣束には「貞享三年丙寅(一六八六)廻啓蟄吉祥日江戸堀江町三町目河村多兵衛」の銘があり、その銘に従って尋ねたところ、上総国市原郡牛久村(現千葉県市原市牛久)の神明社に奉納されていたもので、その後、神託があり、当社に飛来したものであることがわかったため、河村多兵衛により奉納された白木の厨子に入れ、本殿に納められた。この幣束は現在も本殿内に納められ、御神体として崇められている。
 別当の金蔵院は、神仏分離後、廃寺となり、当社は明治六年四月に村社に列した。創建当初から数々の霊験を示した当社は「大神宮様」と呼ばれて篤い崇敬を集めている。
 祭礼は正月の歳旦祭、四月六日の例大祭、九月一日の風鎮祭、十月十四日のお日待ちの年四回である。境内社に「春日社」「稲荷社」「八幡社」「石尊社」「白山社」「三峯社」「榛名社」「天王社」を祀る。
 平成二十年(二〇〇八)、幣束飛来三百年を記念して内陣を新調し、飛来した幣束を納め祀っている』
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 拝殿。
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 本殿。
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 力石。
『この力石は、向山地蔵堂近くの路傍にあった。近年土地区画整理が進み墓地整理が施行されるにより、本来の地、神明神社境内へ移動して保存する
 平成12年7月吉日』
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 祇園牛頭天王。
 側面には寛延元戊辰九月吉祥日と刻まれているので、1748年の造立。
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 右側の石祠は文化四卯年(1807)八月造立の榛名社。左側の石祠は何神社なのかはわからないが、文化六巳年(1809)三月の造立。
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 末社群。
 左から春日大明神(文化元子九月吉日)、稲荷大明神(文化二丑二月吉日)、八幡大菩薩(文化元子九月吉日)、石尊大権現(平成五年七月吉日再建)、月山社(文化二丑二月吉日)、不動明王(享和三癸亥年)、三峯社。
 石祠の側面には「願主 了心」とあるのは、当時の金蔵院の住職であろうか。
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 不動明王の台座には三峯山や牛頭天王の文字が刻まれており、崩れてしまってはいるが他にもいくつかの名が刻まれていた痕跡が見える。
 享和三年ということは1803年なので、これらの末社とほぼ同時期に造られたようだ。
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 馬頭観音と青面金剛。
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 馬頭観音は享和元辛酉年(1801)、青面金剛は宝暦三癸酉年(1753)十一月の造立。

天神社(西宮下一丁目)

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 埼玉県道51号川越上尾線の脇、西宮下歩道橋傍に鎮座する天神社(上尾市西宮下1-225)。
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 鳥居の横には案内板が立てられているが、非常に読み難くなっている。
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 境内。
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『天神社 上尾市西宮下一‐二二五
 祭神・・・菅原道真朝臣
 「風土記稿」によれば、宮下の地名は、江戸期まで当村を含む五か村の鎮守であった谷津村の氷川神社が、もと当村に鎮座していたことによるという。ただし、この氷川神社が谷津村に移転した理由については明らかではない。
 当社は旧宮下村の中央にある高台に鎮座している。古老によれば、かつて、この高台には梅や松が生い茂り、木々の枝に子供たちが書き初めの作品を下げたり、花の季節には、大勢の人々が花見に訪れるなど、地元の人々の憩いの場所であった。また、高台の北端からは清水が湧き出し、小川となって、西に三〇〇メートルほど離れた鴨川に注いでいた。この清水は、当地の人々に農業用水や生活用水として用いられたという。
 当社は明治六年四月に村社に列した。昭和十六年に太平洋戦争が始まると、高台の東半分が軍需工場建設のため買収され、多くの木々が伐採された。そのため高台の景観は一変し、北端から湧き出していた清水も枯渇してしまったという。
 その後、県道川越上尾線建設に際して境内地の南半分が切り通しとなり、残された北側に社殿を新築し、境内社なども移転して昭和三十九年に遷座祭を執り行った。
 祭神の菅原道真公は学問の神として崇敬され、親しみを込めて「天神さま」と呼ばれている。
 年間の祭典は正月の歳旦祭、二月の祈念祭、七月の祇園祭、八月の縁日、十月のお日待ちの五回である。
 境内に「稲荷社」「雷電社」「八雲社」「金比羅社」「浅間社」を祀る』
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 左の祠は金比羅社。右は八雲社・雷電社・稲荷社。
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 記念碑。その横には半鐘の付いた火の見櫓。
『埼玉縣武藏國北足立郡大谷村大字西宮下鎮守天神社は徃昔よ里境内三段一歩所有せり然尓明治九年土地改正により其内一段九畝十七歩到裂上地となり國有林尓編入せられたりしか明治四十一年四月九日縁故特賣法令尓據り氏子一同協議の上曩尓國有林尓編入せられたる一段九畝十七歩拂下を出願し金一百二十四圓六十八銭の代償尓て拂下の許可を得たり茲尓於て明治三十一年三月氏子一同にて吉澤金五郎より金九圓尓て買受たる境外地十八歩を併て奉献し以て永也社有地と為し其紀念登志て建碑する毛の也
 大正六丁巳年一月廿五日』
 変体仮名が使われていて少し読み難いが、里=り、尓=に、登=と、志=し、毛=も、である。普通にり、に、と、し、を使っている部分もあるので、どういう基準で使い分けていたのだろうか。
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「明治十五年六月一日許可ヲ得テ創立後自然的破壊セシヲ以テ大正二年六月一日再建ス
  建設主 西宮下 岡田藤五郎」
と刻まれているのだが、なんだろうこれ。案内板には浅間社の名前が記されているのに祠が見当たらないことを考えると、こちらが浅間社なのかもしれない。もしかしたら裏側に回れば浅間社の名が刻まれていたりするのだろうか。うっかりしていたなぁ。
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 辨財天、如意輪観音、青面金剛。
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 不動堂。
 その前に辨財天と如意輪観音。道路に面して青面金剛。

稲荷神社(今泉)

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 氷川神社の北西250m程、交差点脇に鎮座する稲荷神社(上尾市今泉365)。
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 道祖神。
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氷川神社(今泉)

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 今泉公民館の隣に鎮座する氷川神社(上尾市今泉148)。
 鳥居の柱には昭和五十一年六月吉日建立と刻まれている。
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『氷川神社
 所在地 上尾市今泉一四八
 埼玉県大宮市にある氷川神社を本社とする同一名の神社分布として「氷川祭祀圏」があり、その多くは元荒川から多摩川地域に分布している。埼玉県一六二社、東京都五九社、茨城・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一の計二二八社がある。氷川神社の祭神は素盞嗚命・稲田姫命・大己貴命の三神である。いずれも出雲系の神で、古代武蔵の出雲系の首長が祀ったためといわれている。
 今泉の氷川神社は緩やかな鴨川低地の右岸台地上に位置し、祭神は素盞嗚命である。本殿は一間社流造で、境内には末社が八坐祀られている。今泉の氷川神社について、「新編武蔵風土記稿」では「村の鎮守にして、本地正観音を安置でり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守(中略)古は西福寺といへる別当あり(中略)この別当廃してより後村内修験、本行院の持」とある。明治のころまで、ここにあった「本行院」と称する金子家が氷川神社を守っていたという。
 毎年四月二日の祭礼には神楽を奉納し、五穀豊穣を祈っている。
 昭和六十二年三月』
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 二の鳥居。
 柱には昭和十一年九月吉日と刻まれている。
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 拝殿。
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『氷川神社 上尾市今泉一四八
 祭神・・・素戔嗚尊
 今泉の地名は、当社の南方二〇〇メートルほどの所にあった湧水に由来する。この湧水は古くからこの辺り一帯の耕地を潤していた。古くは、当地は川村・向山村・壱丁目村と一村で大谷村と称したという。永禄八年(一五六五)六月二十一日の太田道誉書状写(史籍雑纂)に「今泉分」とあるのが当社の初見となる。
 当社は『風土記稿』今泉村の項に「氷川社 村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守なりしが、其後川村及び当村のみの鎮守とす、西は西福寺といへる別当あり、是も今は廃絶せり、貞治年中(一三六二‐六八)の起立にして、古跡とのみ伝ふれど、さして證とすべきことなし、この別当廃してより後、村内修験、本行院の持、末社、愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社」と載せる。その創建については、もと当村を含む三か村の鎮守であった可能性が高く、また別当であった西福寺の開基年代から推して、中世にまでさかのぼるであろう。この西福寺の跡地は当社の東南五〇〇メートルほどの所であると伝える。また、後の別当本行院の跡地は当社の北東二五〇メートルほどの所で、金子隆治家がその裔である。
 明治政府の神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。昭和五十一年には、本殿の屋根を草葺きから銅板葺きに替え、その折覆屋を新築した。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、十月のお日待ちの年四回であるが、九月には別宮の琴平神社で例祭が行われている。
 境内社に「八雲社」「三峯社」「稲荷社」「疱瘡社」「山王社」「神明社」「駒形荒脛日皇社」を祀る』
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 斜めから。
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 八雲神社。
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 三峯神社。
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 左の石祠の側面には「太郎坊」「今泉村氏子中 寛延四年辛未十一月吉日」と刻まれている。寛延四年は十月二十七日に宝暦へと改元しているので、十一月の時点では宝暦元年になっている筈だが、まぁ先に日付を入れてしまったのだろうと考えればそうおかしくもないか。ちなみに寛延四年は1751年である。太郎坊と言う事は、上の案内板に記されている愛宕社がこちらになるのだろうか。
 中央の石祠に側面には「日皇子 荒脛大明神 駒形大明神」「明和二乙酉天六月吉祥日  氏子 今泉村 川村  別当 本行院」と刻まれている。明和二年は1765年。
 右の石祠の側面には「願主 誠誉囜從」「安永元壬辰十二月吉日」と刻まれている。安永元年は1772年。社名はわからないが、神明社か山王社のどちらかになるのだろう。
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 左の小祠は不明。右は疱瘡神社と稲荷神社。
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氷川神社(浅間台二丁目)

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 JR高崎線北上尾駅西口から南西およそ700m程の位置に鎮座する氷川神社(上尾市浅間台2-27)。
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 拝殿。
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 浅間台氷川神社年中行事。
 大山祭の燈籠行事は上尾市登録無形民俗文化財になっているそうで、上尾市教育委員会のサイトにその概要が記されている。
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『氷川神社竣工記念碑
抑々当神社は素戔嗚尊を祭神とし通称元氷川(此地の北方約七〇〇米)の地に鎮座なし古くから近郷の崇敬をあつめ古老の言によればその氏子も沖ノ上を始め、中妻、井戸木、町谷の地域に及んでいたと伝えられる。
其の後
 明治三十七年 本殿、鳥居を移設、拝殿を造営、池を作り此の地に遷座
 大正八年   春彼岸火災により本殿及び拝殿を焼失
 大正十年   石宮を建立
 昭和三十八年 石宮に雨屋を設け、拝殿を新築
然るに昭和四十七年都市計画による浅間台土地区画整理事業の完成を契機として人口の急増と都市化現象著しき折、当神社の境内雑然とし社殿の狭小を憂うる声強く茲に協議の結果別記三十四名所有の共有地の一部を売却し、その資金により神域を整備し拝殿の新築、本殿、水屋、鳥居の改築及び石垣の築造を計りこの完成を見る。広大なる神徳を敬仰し住民の安全息災を請願う先人の祈願を継承しこの事績を後世に残す為茲に記念の碑を建つ。
昭和五十一年十一月』
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熊野神社(小泉)

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 八合神社の150m程東南に鎮座する熊野神社(上尾市小泉)。
 鳥居の柱には平成十五年三月吉日と刻まれている。
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 稲荷社。
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八合神社(小泉)

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 小泉集会所の北隣に鎮座する八合神社(上尾市小泉443)。
 撮影をしている間にも何人もの人がお参りしており、篤く信仰されている事がわかる。
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『八合神社 上尾市小泉四四三
 祭神・・・素戔嗚尊、大雷命、菅原道真朝臣
 当社は、古来「氷川社」と称し、『明細帳』には「往古ハ字宮山ニ鎮座アリシカ慶応三丁卯(一八六七)十一月移転ス、其際当国一ノ宮氷川社ヲ分祭勧請ス」とある。これに見える旧地の字宮山は、現在地の南西五〇〇メートルほどの「宮山」あるいは「元氷川」と呼ばれた所で、三井団地の敷地内に当たり、元は一帯が山林であった。
 慶応三年(一八六七)十一月に現在地に遷座移転し、明治六年(一八七三)に村社に列せられた。
 その後、明治四十年に大石村の内の小泉・中分・井戸木・中妻・沖之上(浅間台)・弁財・小敷谷・領家の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、社名を「八合神社」と号して成立した。合祀の中心に小泉の氷川社が選ばれた理由としては、小泉が八大字の中央に位置していたことや、小泉に大石村の役場が置かれていたことが挙げられる。また、社名については、八大字の各社の総代が協議して決したとの話が伝えられている。現在、境内にある幟立ては、合祀の際に小敷谷から移されたものである。
 小泉の地は寛文年間(一六六一‐七三)に藤波村から分村したといわれ、藤波村の鎮守が天神氷川八幡合社であることから、このうちの「氷川社」を分村の前後に勧請したものと考えられる。その後現在地に遷座するにあたり、正式に武蔵一宮の大宮氷川神社から分霊を請うたのである。
 鎮座地は「氷川山」と呼ばれ、氏子区内でも一番の高台にある。その社叢は”鎮守の杜”と呼ぶにふさわしい景観をなし、社地を含む一帯は上尾市指定保存樹林として保護されている。また、昭和六十一年には「八合神社と周辺林」が『二十一世紀に残したい埼玉の自然一〇〇選』の一つに選定された』
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 拝殿。
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 末社とか。
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 狛犬。
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 本殿。
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住吉神社(市之関町)

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 市之関町集落センター傍に鎮座する住吉神社(前橋市市之関町665)。
 公式サイト有り。

『村社 住吉神社 宮城村大字市之関村字住吉鎮座
祭 神 大綿津見命、大物主命、火産霊命、豊受比売命、倉稲魂命、大日孁貴命、菅原道
   真公、息長足比売命、大己貴命、石長姫命、少彦名命
由 緒 不詳、明治四十三年十二月六日許可本社境内末社七社(稲荷神社、大山祇神社、
   秋葉神社、琴平神社、菅原神社、愛宕神社、伊勢大神社)字住吉無格社下之森神社
  字十二山無格社大山祇神社字吉沢無格社菅原神社同境内末社二社(琴平宮、大山祇命
  神社)字住吉無格社稲荷神社同境内末社五社(神明宮、菅原神社、大洗磯前神社、酒
  列磯前神社、石長姫神社)を合併せり
境内神社 五社
    八幡神社、熊野神社、疱瘡神社、八坂神社、厳島神社』
(「宮城村誌」より抜粋)

 宮城村誌や上野国神社明細帳を見ると主祭神は大綿津見命となっているが、公式サイトを見ると底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后の四柱となっている。まぁ普通は底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱を指して住吉大神と呼ぶのでこちらの方が違和感は無いが、古くは大綿津見命を主祭神としていた時期があったのかもしれない。
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 鳥居。
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 石段右手側には道祖神と猿田彦大神。
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 狛犬。
 台座には昭和十三年一月吉日を刻まれている。
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 拝殿正面。
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 斜めから。
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 参議院議員中曽根弘文の揮毫による扁額が掛けられている。
 公式サイトを見ると、平成27年12月11日に除幕式が行われたと言うことなので、まだ掛けられてから半年も経っていない。
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 住吉神社の文化財案内板と前橋市指定重要文化財である宮城流算額。
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 末社群。
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 蚕影山大神。
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 御神庫。
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 以上で4月24日参拝分終了。
 使用機材はK-5IIsにDA15mm、DA35mm Macro、DA70mm、DA20-40mm、50-150mm II。X30。
 苗島神社の南700m程の位置に稲荷神社があったのだが、地図に名前が記されていないので見落としてしまっていた○刀乙 後でまた行って来ることにしよう。

諏訪神社(柏倉町)

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 柏倉公会堂の西側に鎮座する諏訪神社(前橋市柏倉町甲諏訪1023)。

『村社 諏訪神社 宮城村大字柏倉村字甲諏訪鎮座
祭神 建御名方命、大己貴命、倉稲魂命、火産霊命、菅原道真公、誉田別命、大物主命、
  大日孁命、天児屋根命、罔象女命、大雷命、大山祇命
由緒 不詳、明治四十年八月十三日許可本社境内末社五社(愛宕神社、稲荷神社、大山祇
  神社、菅原神社、八幡神社)字近戸無格社近戸神社同境内末社十社(愛宕神社、菅原
  神社、春日神社、琴平神社、神明神社、大山祇神社、八幡神社、水神社、赤城神社、
  火神社)同所無格社稲荷神社同境内末社雷神社を合併せり
境内神社 七社
   八坂神社、赤城神社、水神社、埴山姫神社、地主神社、熊野神社、石神社
神饌幣帛料供進指定 大正五年三月十日
例祭 九月二十七日
事由 創立明応二癸丑年(西暦一四九三)七月信濃国上下諏訪神社ヨリ分社勧請建御名方
 命ヲ始テ爰ニ祀リタト云、同年七月廿七日大祭典ヲ執行シタル例トシ毎年其日ヲ以テ祭
 日ト定メ年ニ二回トシ三月廿七日、七月廿七日両日トシ、示後今ニ至ルマデ祭祀セリ。
 本村氏子等古伝ノ説ニ拠レバ中興、寛永元甲子年(西暦一六二四)十二月廿七日本社再
 興ヲナシ尚延宝八申年(西暦一六八〇)月廿一日再々興ヲナシ其侭今ニ存セリ。祭日ノ
 典例ハ本村ト大字市之関トノ境界ニ赤城山ヨリ下流スル金丸川ニ古来ヨリ字御漁ト唱フ
 ル処アリテ常ニ漁業ヲ為ス事ヲ禁止シ置キテ更ニ漁スル者一人トシテ無之シテ祭典前日
 村内氏子一同シテ「カジカ」ト唱フル魚七拾五尾ヲ漁シテ社前ニ饌ス。是信濃国一之宮
 諏訪神社ニ於テハ猪鹿ノ頭ヲ社前ニ奉リシ例規ニ依リテ変転シタルモノト云ヒ伝フ』
(「宮城村誌」より抜粋)
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 鳥居。
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 神額には諏訪神社の他に近戸神社と稲荷神社の名も刻まれている。
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 参道と拝殿。
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 享保二十年四月(1735)四月造立の水盤。
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 拝殿斜めから。
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 本殿。
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『諏訪神社由緒記
 柏倉の諏訪神社は群馬県勢多郡宮城村大字柏倉字甲諏訪一〇二三番地に鎮座し 柏倉の地域の総鎮守である 祭神は建御名方命 長野県諏訪市の諏訪神社から明應二年(西暦一四九三)に分祀したと伝えられている
 もと本社地には諏訪神社勸請の時に 地主神として祀られた神の社があって そこに諏訪神社が建てられたのである 「今でも本社境内に地主神を祀る社があり 諏訪神とか関係のない鎌倉時代の御正体が秘蔵されている
 永禄九年(西暦一五六六)厩橋(現前橋)城主北條丹後守高廣が柏倉村内の諏訪免壱貫文の地等を 三夜沢の赤城神社に寄進している この諏訪免の地は本社に関係あるものと見られるので その頃には既に諏訪神社は鎮座していたのである
 中世には本地垂迹説による信仰が流行した 平安時代の始頃(九世紀)に起り 明治元年(西暦一八六八)に神佛分離の命令が出るまで続き 其間寺院が神社を支配していた そこで神社に佛像を神体として祀るようになり それを御正体と言った 慶長二年七月十九日の奉納で 「上野国勢多郡柏倉諏訪大明神御正躰也」 と記されたものが二面現存している 尚 この御正体には「各百姓中」とあって 村人達の奉納であることが注目される 又 本社の別當寺は天台宗東昌寺であった
 明治維新以後 神佛分離によって神社は寺院から独立し 宗教から脱し 祭政一致という政治政策によって國家に統制された 明治十年(西暦一八七七)八月四日には 柏倉村地内の二十二の社を本社境内に移転した 當時氏子数一〇九戸 明治四十年(西暦一九〇七)八月十三日には 柏倉村近戸神社(祭神大己貴命)を合祀した 當時氏子数一三四戸
 大正六年(西暦一九一七)には村社の社格の指定を受けた 終戰後 神社は宗教であるとして國家統制からはずされた したがって社格の制度も廃止されて現在に至っている
 本社殿は寛永元年(西暦一六二四) 延宝八年(西暦一六八〇)の再興を経て 文政八年(西暦一八二五)に再建された これに慶應元年(西暦一八六五)に御饌舎 明治二年(西暦一八六九)に神楽殿が加えられた 大正三年(西暦一九一四)には本殿を改築 幣殿を新築し 旧本殿の上屋を拜殿とした 昭和三十七年(西暦一九六二)社殿改築の議が起り 終戰以來既に二十年 大正三年の修築より半世紀を經ているので 本殿に上屋をかけ 拜殿及幣殿を改築することになり 四十年十一月二十七日落成した 氏子三百八十七戸の寄進によったものである まことに敬神崇祖 報本反始の美挙と言ふべきである
 和のあるところに生産があり 教育がある 自ら道徳が行なわれる 神の嘉し給う地である 神は永遠に柏倉に住む人々の生活の中心にあるであろう
紀元二千六百二十六年
昭和四十一年七月二十七日      羣馬大学教授文学博士 尾崎喜左雄 撰文
                          麗軒 金子潤象  謹書』

『御社殿改築誌
昭和の初期老朽により改築の議が起きたが第二次卋界大戰のため立消えとなり昭和二十年八月十五日終戰により人心が動揺して敬神の念も薄らいだ観があつたが其の後次第に我が國本來の精神をとり戻して昭和三十七年十一月長寿会員と一部の有志とによる大幟旗が奉献せられ改築の議が再燃し昭和三十九年四月氏子総会で満場一致で之が可決せられた同年十一月御用杙の伐採を始め同四十年四月一日地鎮祭並に起工奉告祭八月二十八日上棟祭同年十一月二十七日竣工奉告祭を執行したものである
御用杙の内桁下一切は境内地のものを用い字共有林よりわ小屋組杙一切と経費の一部を献納し氏子三百八十七戸の寄進総額壱百四十三万四千五百円及び一戸一名の勤労奉仕と村外の熱烈な崇敬者六十一名より二十七万四千五百円の尊い寄進があり別に改築委員延二千五百人の奉仕によつて改築寛政したものである』

 上記の碑文は一枚の石に刻まれており、表面が諏訪神社由緒記、裏面が御社殿改築誌となっている。
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 前橋市指定重要有形文化財である歌舞伎舞台。
 明治二年(1869)に建てられたもので、宮城村に現存する唯一の歌舞伎舞台であるのだそうだ。宮城村は鼻毛石・市之関・柏倉・三夜沢・苗ヶ島・馬場・大前田の七村が明治二十二年(1889)に合併して出来た村で、平成十六年(2004)に前橋市に吸収合併されて宮城村の地名は消滅、現在に至っている。ちなみに宮城村の名の由来は「県社赤城神社ノ下ニ駢列スルヲ以テ宮城ト名ヅク」と言うものであるとのこと。
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 諏訪神社の文化財案内板。
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 本殿裏の末社群と石塔。
 左奥から赤城社、左口大明神、十二山神、不明(額部分に三の文字が浮き彫りにされているので、三峰社だろうか?)、不明。また、末社の奥の覆い屋の下には切り株がある。御神木だったのだろうか。
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 末社。
 左は天照皇大神。右は不明。わりと立派な石祠だし、地主神だろうか?
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 末社。
 何神社なのかはわからないが、左右の石塔は全て猿田彦大神なので、この石祠も猿田彦命を祀ったものであるのかも知れない。或いは、塞の神に関連して石神社か。
 側面には文久元辛酉年三月吉日と刻まれているので、1861年の造立。
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 砲弾。
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 享和三癸亥年(1803)十一月造立の石仏と文化十三丙子年(1816)四月造立の石燈籠。
 なんだろうこれ。虚空蔵菩薩かな? 違うか。辨財天のようにも思えるけど、うーん、どうだろうなぁ。
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 延享三丙寅年(1746)造立の馬頭観音。

八幡神社(鼻毛石町)

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 宮城総合運動場の南西400m程の位置に鎮座する八幡神社(前橋市鼻毛石町)。

『村社 八幡神社 宮城村大字鼻毛石村字鼻石鎮座
祭 神 誉田別命、菅原道真公、建御名方命、火産霊命、早良親王、伊予親王、藤原夫人
   吉子、橘逸勢朝臣、藤原広嗣朝臣、吉備真備公、文室宮田麿朝臣
由 緒 不詳、明治三十五年六月十四日許可境内末社四社(菅原神社、諏訪神社、愛宕神
   社、御霊神社)
境内神社 七社
    秋葉神社、住吉神社、伊勢神社、熊野神社、厳島神社、稲荷神社、石神社』
(「宮城村誌」より抜粋)

『鼻毛石鎮守八幡神社は、応仁の昔、今より五百年以前、山城国南山の一角、現在の京都府の男山、岩清水八幡宮よりの分社である。
(中略)
 鼻毛石鎮守八幡神社は、清和天皇の六代目に当る孫の源義家公の御威徳により、御遷宮されたといわれる。
 応仁元年(1467)春、立派な御宮を造営して御遷宮を終り、以後毎年八月十五日例祭を行い信仰してきた。
 寛保元年(1741)に、大祭を行ったところ、その夜、残火より火災にあい、本殿、拝殿、末社、古器物とも全焼という難儀をうけた。
 その後は、仮造りの祠で、なかなか再建する事ができなかった。
(中略)
 寛保元年より一〇〇年目、寛永三年(1850)に至って、ようやく再建御造営となり、大祭典を行い、余興に歌舞伎芝居を催し幟等新調した。
 当時当村には、十二社あり(伊勢社、御霊社、天神社、愛宕社、稲荷社(三社)、熊野社、御嶽社、琴平社、諏訪社、そして八幡社)、各社いづれも、その修繕を要する状態であっても、氏子の数が少なく資金不足のため修理が出来ないので、八幡宮を造営して、これを鼻毛石村の総鎮守とし、逐次ここへ合祀する事としたのである。
 このような事情のため、京都まで参祠して再度の御分霊を願うこともかなわず、御幣、御神鏡は型ばかりの粗品を奉祭した』
(「鼻毛石のあゆみ」より抜粋)
 「鼻毛石のあゆみ」には昭和五十九年までの沿革が記されているが、長いので一部分のみ抜粋。
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 末社。何神社なのかは不明。
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 二の鳥居。
 「鼻毛石のあゆみ」によると、元は御霊宮の鳥居であったものであるとのこと。
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 拝殿。
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 硯石。
『寛治元年(1087)出羽の清原武則の孫実衡は、異兄弟、家衡と叔父武衡との戦となったため、義家公は実衡に加勢するため出羽に出陣し、その途中当地を通られ、現在の御宮のところで暫しの憩をした。
 当時名高い八幡太郎義家公のおいでのこと、村人集まり、群がり歓迎をしたという。
 この時義家公の徳を慕って、従軍を希う者が多かったので、義家公は従軍者の名簿を記そうと硯を取り出した時、干抜で何処にも水がなかったが、休んでいた南の大石の祇凹にたまっていた水を硯にとり、名簿を記したと伝えられている。
 その後は村人は、この石に七五三縄を張り、硯石と称し、大切に保存し、現存している』
(「鼻毛石のあゆみ」より抜粋)
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 日露戦役記念碑。
『明治四十二年九月、先の日露戦役に戦捷したための記念として、建碑する事となり、本社西側に鎮座する御霊宮、また、東側に鎮座する天神宮の社殿を廃して、その御神体は、本殿に合祀し、その跡へ、西側に日露戦役記念碑を、東側に社務所を建立した。
 記念碑工事費一〇二円七五銭也
 碑の表揮毫は陸軍大将乃木希典閣下附言で談揮毫をお願した時に、特に官等勲位揮毫を願ったが、直筆で送付された事は幸であったので、今なお宝物として神社に秘蔵保管は区長帳箱に保管依頼して、年々例祭には神社に掲揚している』
(「鼻毛石のあゆみ」より抜粋)
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 末社。
 一際立派な石祠は天満宮。他は不明。
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 末社。
 右端は猿田彦大神。その左側の小さな石祠は天満宮。他は不明。
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 秋葉山宮。

 八幡神社から150m程南下すると、群馬県道101号四ツ塚原之郷前橋線のそばに鼻毛石町の名の由来となった鼻石(前橋市鼻毛石町144)があるのだが、こちらに参拝した時は鼻石の存在を知らなかったので写真は無し。
 また後でこちらの近くに行った時にでも撮影して来よう。

 7月21日追記。
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 鼻石。
 右奥の石塔は御嶽山大神。

金剛寺(苗ヶ島町)

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 苗島神社の東側に位置する真言宗豊山派霊松山歓喜院金剛寺(前橋市苗ヶ島町1147)の表大門。
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 金剛寺の表大門南側の交差点脇には前橋市指定重要文化財の石燈籠が建てられている。
 五年前の東日本大震災でこれと神社の石燈籠十二基が倒壊したが、自治会と神社によって修復されたと台座に刻まれている。
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 表大門傍におびんづる様
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 台石の背面側には石のプレートが嵌め込まれ、以下の碑文が刻まれている。
『苗ヶ島のお賓頭廬様は約四百年前からこの地に在り地域の人達の心の拠り所として深く信仰されていたが明治初年の政令により金剛寺本堂裏に移された後忘れられていた
 平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災を契機に地域の安泰と住民の無病息災を願い併せて被災地の鎮魂と復興を祈り多くの方々の賛同を得てここに再建する
  平成二十四年三月十一日』
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 前橋市指定重要文化財の石殿(おびんづる様)。
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『金剛寺興隆碑
我金剛寺在群馬縣勢多郡苗嶋邑山號靈松院號歓喜傳曰承安
中相地赤城山大通龍創建此寺隷京都府醍醐寺派報恩院慶長
元和之際有圓義上人移寺今地上人曽欲刻施無畏尊像安置之
伐大通龍廢址之古松見其根生靈芝形似尊像長四寸三分因採
而藏之所刻尊像之胎内靈松之號實由之也其後有寛海阿闍梨
學深徳高寺格以進此爲第七世寶暦中智海師住此亦有令聞遐
邇仰其徳會堂宇罹回禄之災盡屬烏有獨存本尊像及靈芝乃焦
心苦慮遂恢復之此爲第十世明治之初世運一變佛法大衰紺園
袛林鋤爲田者甚多矣我寺亦大損舊觀有志者憂之時寛運師有
今譽被薦任持此爲第十八世師夙夜勵精弘教傳道卅餘年如一
日其化被四方弟子寛榮師亦與有力遂代爲住持實今山主也卄
九年轉隷奈良縣豊山派長谷寺二師協力計興隆遂謀諸衆衆皆
欣然諾之爭納浄財卅四年起工卅七年落成於是乎輪奐之美復
昔日之觀足以令佛日復明矣嗚呼偉哉乃有志者相謀建碑記其
梗漑傳于不朽係以銘曰
 誰開浄域 圓義上人 靈芝示瑞 四方仰神 俄遭世變
 業風捲塵 時有寛公 丹誠絶倫 赤城之巓 聳于九旻
 高掲法燈 佛徳維新
明治歳次甲辰夏五月
      東京護國寺住職權中僧正 高城義海篆額弁書
      東京豊山中學校教諭   平野市十郎撰』
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 参道を歩いて行くと、右手側に「苗ヶ島町の七つ石 蚕種石(石仏の台石)」と書かれた案内板と明和六年(1769)九月造立の青面金剛。
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 そのすぐ先にも青面金剛があるが、こちらの台石は蚕種石とは関係無いのかな。
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 中大門。
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 句碑。
「芋畑の 大きな月が 椀の中   丒之助」
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 本堂。
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『本堂改修記念碑
当山の開山は承安年間(約八二五年前)赤城山大通龍に創建し
院号を歓喜院と称しました。現在地には、慶長・元和の頃(約
四〇〇年前)第四世円義上人により建立されたと伝えられてお
ります。宝暦年間火災の為に灰燼に帰しましたが、七世智海上
人により再建、現本堂は当時のものです。再建当時は、茅葺き
でありましたが大正十年に瓦葺きに屋根替え及び鐘楼堂を建立
し、盛大に祝典を開催した事が記されております。爾来既に七
十五年、風雪に耐え柱組に比し極度に加重が増大し、老朽化も
進み雨漏りが進んで参りました。
再建以来二百七十年歴代住職・総代及び寺世話人の方々や檀信
徒の皆様方のご先祖様、当山有縁の先人達が、その信仰の中心
的建造物として護持されてきました。その先徳の方々の御意思
を後世に伝える為に、本堂改修を講じざるを得なくなり、平成
七年十月一日檀信徒総会を開催し多数のご賛同を頂き、平成八
年九月、六百人以上の方々の浄財を結集して改修工事着手、平
成九年七月改修工事完成。
平成九年十一月十六日、落成慶讃法要「大般若転讀会」を厳修。
茲に記念碑を建立し改修の趣旨と経緯を記し且つ、檀信徒及び
有縁の方々の篤信の心と改修事業を永く後世に伝えるものであ
る。
 平成九年十一月十六日』

『中国青龍寺参拝記念碑
当山本堂改修記念事業として、平成十年三月宗祖弘法大師(空海)ゆかり
の地、中国陜西省「青龍寺」・「法門寺」を参拝し本堂改修工事完成を奉
告し、その偉業を後世に伝えるものである。
  佛法興隆 恵果和上 弘法大師 当山隆昌 伽藍安静
  世界平和 国内泰平 護持檀越 乃至法界 平等利益』
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 金剛寺の文化財案内板。
 双体道祖神はどこにあるのかわからなかった。
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 前橋市指定重要文化財の欄間彫刻。
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 前橋市指定重要文化財の石造五層塔と宝篋印塔。
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 前橋市指定重要文化財の赤城塔。
 右の石祠はなんだかわからないが、中に石仏らしきものが見えた。
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 金剛寺の文化財案内板。
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 前橋市指定重要文化財である円義上人の墓と石幢。

 金剛寺は東宮鐵男陸軍大佐と侠客大前田英五郎の菩提寺であるそうなのだが、お墓はどこにあったのだろう。地図を見ると本堂の北東に霊苑があるから、そっちかな。

苗島神社(苗ヶ島町)

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 苗ヶ島集落センター北側に鎮座する苗島神社(前橋市苗ヶ島町1088)。
 鳥居の額束の裏には「明治十一戊寅年」と刻まれており、幟枠には「文久元辛酉年三月十六日」「願主 東宮平左衛門治大」と刻まれている。明治十一年は1878年で、文久元年は1861年。

『村社 苗島神社 宮城村大字苗ヶ島村
祭神 瓊々杵命、大山祇命、菊理姫命、伊弉諾命、伊弉冊命、火雷神
由緒 不詳、明治四十一年九月十六日許可本社境内末社三峰神社字杉ノ下無格社火雷神社
  同雷電神社を合併せり
境内神社 拾八社
   八幡神社、大山祇神社、高龗神社、稲荷神社、菅原神社、疱瘡神社、水神社、赤城
  神社、浅間神社、琴平神社、磯前神社、道神社、社日神社、金山彦神社、御歳神社、
  熊野神社、秋葉神社、疫神社
神饌幣帛料供進指定 大正四年十一月五日
例祭 十月十九日』
(「宮城村誌」より抜粋)

『群馬縣管下上野國南勢多郡苗ヶ嶋村字杉ノ下 村社 苗㠀神社
祭 神  瓊々杵尊、大山咋命、伊弉諾命、伊弉冊命、菊理姫命、火雷神
境内末社 貮拾貮社
 八幡神社  祭神 譽田別命
 大山祇神社 祭神 大山津見命
 高龗神社  祭神 高龗命
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
       明治四十一年九月十六日許可社日神社祭神中倉稲魂命ヲ本社ヘ合祀セリ
 菅原神社  祭神 菅原道眞公
 疱瘡神社  祭神 素盞嗚命
       八坂神社ヲ合併明治四十一年九月十六日許可
 三峯神社  祭神 伊弉諾命、伊弉冊命
       明治四十一年九月十六日許可本社ニ合併
 水神社   祭神 罔象女命
 赤城神社  祭神 大己貴命
 浅間神社  祭神 木花開夜比賣命
 琴平神社  祭神 大物主命
       明治四十一年九月十六日許可大物主社ヲ合併
 磯前神社  祭神 大己貴命、少彦名命
 道神社   祭神 猿田彦命
 社日神社  祭神 天照大御神、埴山姫命、大己貴命、倉稲魂命、少彦名命
 金山彦神社 祭神 金山彦命
 御年神社  祭神 御年神
 熊野神社  祭神 伊佐那美命、速玉之男命、事解之男命
 八坂神社  祭神 素盞嗚尊
       明治四十一年九月十六日許可疱瘡神社ヘ合併
 秋葉神社  祭神 火産霊命
       明治四十一年九月十六日許可愛宕神社ヲ合併
 愛宕神社  祭神 火産靈命
       明治四十一年九月十六日許可秋葉神社ヘ合併
 疫神社   祭神 煩之宇斯神
 大物主社  祭神 大物主命
       明治四十一年九月十六日許可琴平神社ヘ合併』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 二の鳥居。
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 拝殿。
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 斜めから。
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『碑誌
 明治の初期に三社を合祀して苗島神社と社号が改められた際、本殿は改築され
たが、拜殿は文政十二年に建てられた白山大権現の社殿が其のまゝ使用されて來
た。
 現今は氏子数も三倍となり、狭いのみならず腐朽も甚しかったため、明治百年
に當り、これを記念して改築することゝなり、近代的な設計並びに監督を、前橋
市杉本一級建築士に委嘱し、施工は、當村宮城建設株式会社との随意契約により
昭和四十三年五月二十三日起工、同年十月十七日完工した。此の間各所團体役員
の協力と氏子崇敬者の労力奉仕等は、大いに稱えられべきことてある。
 資金の大半は、氏子に應分の目標額を示し浄財を募ったところ、敬神の念篤く
喜んで寄進せられたものゝ外、内外からの篤志寄附及び神社の基金等を充てた。
 茲にこれ等寄進者に感謝の意を表するとともに、碑を建て、後世に伝えるもの
である。
皇紀二千六百二十九年
昭和四十四年十月十七日
                  拜殿建築委員長  前原盤根 謹撰
                      麗 軒  金子潤象 謹書』
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 東の鳥居。
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 狛犬。
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 天満天神宮。
 右の石祠の側面には「天明七丁未歳正月卄五日」と刻まれている。天明七年は1787年。
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 末社群。右奥の石祠の額部分には蠶大神と刻まれている。
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 拝殿西側の末社群。
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 稲荷大明神と社日碑。木で見え難いがその右隣に社日宮。
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 合祀記念碑と野見宿禰命。合祀記念碑は崩し字が多く判読し難い。
 八坂神社の後ろには大国主神や三峯山社、その他。
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 左の石祠は金毘羅宮。右の二つは不明。
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 天照皇大神。
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 堀田正頌公徳澤碑。
 堀田正頌公は幕末から明治にかけて活躍した人で、下野国佐野藩最後の藩主であるそうだが、なぜ関わりの無さそうなこちらに頌徳碑が建てられているのだろう。

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 苗島神社の北側、群馬県道102号三夜沢国定停車場線に鎮座する秋葉山宮
 秋葉山修復記念碑には「平成十四年十一月吉日 秋葉講一同 金剛寺」と刻まれているが、金剛寺に何か縁があるのだろうか。
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赤城神社(新里町板橋)

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 群馬県道333号上神梅大胡線のそば、板橋区民会館の隣に鎮座する赤城神社(桐生市新里町板橋175)。
 こちらの神社は事前に資料に当たっていなかったので詳細不明。
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 二の鳥居の石額には「天神宮」と刻まれている。
 ちなみに一の鳥居は平成四年十月の建立で、二の鳥居は平成三年十月の建立。
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 拝殿。
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 拝殿裏の石祠。おそらくこちらが本殿なのだろう。
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 末社群。
 宕大権と言う文字が見えるので、愛宕神社もあるのだろう。
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八雲神社(粕川町室沢)

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 曹洞宗全徳寺の北150m程の位置に鎮座する八雲神社(前橋市粕川町室沢209)。

『群馬縣管下上野國南勢多郡室澤村字安通 村社 八雲神社
祭神 須佐之男命
由緒 不詳、大正六年十一月十六日明治三十九年第九十六號ニ依リ神饌幣帛料供進神社ト
  シテ指定セラル
境内末社 拾三社
 大山祇神社 祭神 大山津見命
 秋葉神社  祭神 火産靈命
 神明神社  祭神 大日孁命
 鹿嶋神社  祭神 健御雷命
 稲荷神社  祭神 倉稲魂命
 琴平神社  祭神 大物主命
 諏訪神社  祭神 建御名方命
 菅原神社  祭神 菅原道眞公
 妙見神社  祭神 天兒屋根命
 八幡神社  祭神 誉田別命
 伊勢神社  祭神 天照大御神、豊受姫命
 八坂神社  祭神 須佐之男命
 疱瘡神社  祭神 素盞嗚尊、蘇民将来』
(「上野国神社明細帳」より抜粋)
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 鳥居に掛けられた石額には「八王子」とある。由緒は不詳であるとのことだが、古くは八王子神社だったのだろうか。
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 拝殿前に手水鉢があるが、どうやってこの竹筒から水を出すのだろう。センサーとかは無かったし。
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 拝殿。
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 斜めから。
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 末社三社。左は不明だが、後の二基は共に金毘羅宮。
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 社殿裏手に末社群。
 左の鳥居には天満宮と刻まれた石額が掛けられている。
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 ずらりと並ぶ末社群。
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 鳥居の額には「愛宕宮」とあるので、愛宕神社なのだろう。上野国神社明細帳では境内社の中に愛宕神社の名は見当たらないが、粕川村誌では境内社の数が十四とあり、愛宕神社の名が記されている。
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 大國主大神と猿田彦大神×2。
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 三峰神社。
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 境内には土俵があるが、奉納相撲が行われるのだろうか。
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